小学校2年生の時に長野県に学童集団疎開をしました。最初の疎開先は浅間温泉でしたがその後戦局が厳しくなり下伊那郡の上久方村に再疎開しました。玉泉寺というお寺の本堂で寝泊まりしました。
主食は水っぽいジャガイモと炒めた蚕 (かいこ) の蛹でした。山の上の小学校で上半身裸で体操をしているとき、お腹が膨らんでいることが見つかって飯田の病院に連れてゆかれました。栄養失調と診断されました。栄養補給のすべもなく,田舎の子に教わって蛇を捕まえて食べたりしました。栄養失調なのに何故お腹が膨らんだのか疑問に思っていましたが,長ずるに及んでアフリカの栄養失調の子供たちのお腹が膨らんでいる写真を見て合点がゆきました。
終戦の日に 校庭で「玉音放送」 を聞いて戦争に負けたことを知りました。その意味もわからず,工作に使う小さな木鞘のナイフを握りしめ米兵が来たら戦う決意をしていました。当時は「鬼畜米英」風の軍国主義教育が行われていました。しかし担任の饗場先生はそのような言動は一切されませんでした。
終戦の翌日でしたか,短歌を作る授業がありました。そのとき饗場先生の作られた短歌は、「戦いに敗れた日にも太陽は東より出で西に沈みぬ」 というものでした。なにか拍子抜けするような気持になりました。しかし今では、それが,軍国主義に対する先生の痛烈な批判の一首だった,と考えています。(了)
Document 集団疎開 に収録
(20170320)