1.名古屋の新設ボード工場で働く
私は、昭和35年4月、東大農学部林産学科木材材料学第一教室を卒業、名古屋にある㈱日本ハードボード工業(現ニチハ㈱))に就職し、港湾地区に新設されたハードボード工場へ着任しました。東京を離れること、就職先が世の中に知れ渡った大企業ではないこと、等々、私は大変ブルーな気持ちで名古屋の生活を始めたのです。
今考えると、これらの新工場は東大の材料教室の研究成果をもとに設立されたもので、我々卒業者はその技術の実行者として送り込まれていたようです。確かに独身寮の同室者お二人とも教室の先輩でありました。毎夜、お酒を飲んで楽しく過ごさせていただきました。
しかし、仕事は、昼夜3交代制で高温、高湿で騒音轟く工場ラインの中で機械を見守り、調整することであり、季節は夏に向かいハードな毎日でした。
それでも仕事以外は、楽しく独身生活を過ごさせてもらいました。野球部を作り、高校出の若い人たちと練習をし、日曜日の対外試合では工場長の目の前で本塁打を打ち、ファインプレイもして最高殊勲選手になって賞品として福助の下着一組を貰ったのを覚えています。また、名古屋のグリーンエコーという少しレベルの高い男性合唱団に入り、一度、蝶ネクタイをして演奏会に出たのも良い経験でした。私は歌を歌うことも得意で大好きです。
しかし、同期大卒入社7人で集まって将来を悲観する話をしあったのを覚えています。大学で学んだこと、研究したことをこの生産現場で生かすことは不可能ではないか、との思いを皆で言い合ったものです。
2.会社を離れて文部教官助手に転身
このように将来を悲観しながらも楽しく会社勤めを続けていたのですが、8月のある日、私は丸山工場長から電話で呼び出されました。
工場長室に入ってゆくとそこに東大の北原覚一先生が居られました。そして会社を辞めて木材材料学第一教室の助手になるように、と言われました。私はまず東京へ帰るな、との思いが頭に閃きました。そして「この会社とは関係が無くなるのですか」という変な質問をしたことを思い出します。教室の鈴木寧助手先生が林業試験場へ転出されることになり、その後任人事でした。
私は昭和35年9月15日付けで文部教官助手に採用されたのです。私は大学院を出ていない、学位を保持していない助手になったのです。現在では学位なし、論文を1報も書いていない新卒者では文部教官助手に採用されることはありません。当時はこのようなことが出来たのですね。
私はそこそこ勉強が好きで、学術研究に取り組むことも嫌いでは無かったのですが、この時点で研究者、教育者になることに不安も感じていました。北原先生にこの気持ちを打ち明けたのですが、君なら大丈夫、出来ないことはやらせない、とのお言葉をいただきました。
全てが終わった現時点で思いを巡らせると、私は大学人として生きたことを大変幸せに思います。生きがいのある毎日を過ごさせていただきました。我が人生に悔いはありません。私を教室へ呼び戻していただいた北原先生に心から感謝申し上げます。
3.講義は苦手、でも本当は
大学教官は、学生に講義をしなければなりません。私は学生に対する講義が苦手でした。普通、先生方は時間をかけて講義のためのノートを作り、それに基ずいて繰り返して講義を行うのであるから(もちろんノートの作り替え、追加を行う)、年度を重ねるとともに講義の完成度は高って行きます。しかし、私は応用数学や材料力学のような基礎科目は仕方なくこのようなノート作りを少しはしたが、木質材学のような講座の主要科目(九州大学では木質構造学も)については毎学期同じことを繰り返すのは苦痛であり、また準備をする律義さに欠けていたので、行き当たりばったりで気の向くままに進めました。
ただしそこには、大学教育で最も大切なことは、学生に自分で物事を考える素地を与えることだという思いがありました。講義はモデルとしての教官自身の生き方、考え方、行動、体験を述べる機会として重要です。毎回の講義を学生さんがのめり込むような魅力のあるものに出来れば別ですが、小心者で自分の講義に自信がない私は、彼らの反応を知るのが恐ろしく、真正面から彼らの顔を見て話をする勇気がなかなか出てきませんでした。学生は喜んで私の話を聞いているわけではなく、単位を取るために仕方なく授業に出ているのであろう、との気持ちが先に出てきてしまう。
そういう中でごくたまに、自分で凄く良いことを言っているな、との感を強く抱き、背中がゾクゾクして涙が出そうになることがあります。自分で感動しているのです。他の世界でもこのようなことがあると思いますが、気心の知れた少人数の学生に、気兼ねなく、自由に思うことが述べられ、しかもたまには感動まで得られる大学教官という仕事は良い職業だと思います。
大学の外で行われる種々の講演会等に呼ばれてお話をさせていただくことも多かったが、この場合には大いに気が入り、楽しく立ち向かう気持ちが出てきたものです。聴講者の方が学生に比べてはるかに熱心に耳を傾けてくれることが私を勇気付け、奮い立たせるのです。この基本には、大学人という行政や企業の方々に比べてはるかに自由にものが言える立場を十分に生かすことが自分の役割である、との意識がありました。そしてそのことを楽しく思ったのであります。
4.大熊先生のお手紙
私は性格的に昔の先生のように学生に(学生以外の人にも)面と向かって小言を言ったり、大声を上げることが出来ません。熱血教師にはなれなかったということです。卒論実験で全くやる気のない学生も出てくる。学生、院生ばかりではなく、助手、卒業生等に注意を促したいとき、私はよく文章を書いて渡しました。東大の一部の人には「大熊先生のお手紙」と言われていたようです。
文章にすると時間的にズレは生じるが、冷静によく考えて筋道立てて、ものごとを指摘でき、こちらの思考を正しく伝えられます。例えば、学生や助手が外国に留学し、留学期間が過ぎても帰国しないことが度々ありました。本人は軽く考えているのですが、後で本人はもとより教室や学科に大きな支障を生み出すことになります。カナダに大学院留学生として行っていたN君、オーストラリアに行っていたI助手などへ必死になって手紙を書いたことを思い出します。
そのうち、この文章を送ることが学生に小言を言うことから、自分の意見を世の中に主張することに展開して行き、大胆にも学外の方々、企業、行政、学会の方々に提案書の形で文章を送付することが試みられるようになりました。小沢普照林野庁長官(当時)宛てにCO2問題の重要性、環境保全と木材利用の整合性等について意見をお送りしたことを思い出します。突如届いた、名前もよく知らない大学助教授からの手紙に長官も驚かれたのではないでしょうか。
木材関連企業のトップの方々にも種々このお手紙を書きました。手紙を送付する時、失礼ではないか、読んでいただけるか、対処していただけるか、ということが頭にないわけではないのですが、自分の考えをその課題に最も的確で重要な方にぶっつけたことで自分が納得して、心が平静になるのです。私は自分を小心者だと思っているのですが、その一方、変に大胆であることに気が付いています。
5.留学生のことなど
私の研究室には比較的多くの留学生、外国大学スタッフ等が集まり、国際色豊かな雰囲気が作り出され良かったと思います。研究の国際化、国際交流の活性化は時代の要請であり、留学生、外国スタッフの役割は大きい。北原先生の時代は、台湾からの留学生が多かったですが多くの方が卒業後、主にアメリカ、カナダで活躍されました。この時代の方は私が助手になりたての頃の勉強仲間です。その後、中国、韓国からの留学生が増え、私の時代にはそれに加えてインドネシア、フィリピン、タイ、アメリカ、ロシアなどアジアを中心に多くの人が集まりました。
留学生を通して、その国の生の情報が得られること、どの国に行っても世話をしてくれる懐かしい留学生がいることは大学教官の特権でありましょう。現在では、留学生の数が研究室、そして大学の評価基準にもなっています。
しかし、留学生のために被る苦労も小さくはないようです。フィリピンからのL嬢には、帰国寸前になって帰りたくない、日本で就職したいと言われて企業にお願いしました。そんな留学生が何人かいます。皆、今どうしているかな。本人が禁止されていることを知らない抗精神剤の運び役を務めたことになり成田空港で1月も留め置かれたタイからの留学生がいます。1っか月何をしていたか聞いたら一言、meditation”と言っていました。日曜日に乾燥実験をやり、乾燥機が燃え出し、指導教官の私は始末書を書かされました。当局は日曜日に実験をすることを全く理解できないことを知りました。中国と台湾の留学生がゼミの討論の中で政治的な論争を始め、どのようにして収めたか記憶にありません。
多くの外国人を抱え込んだ教室をうまく運営してゆくのは骨の折れることでありました。助手の人たち、邦人大学院生の力が頼みの綱でありました。
(続く)
(20251017投稿)
林産学科に籍を置く私は、学生さんに木材利用の高度化と利用促進を教示することが求められています。そして今、木材利用を推進する上で、地球環境保全と木材利用促進の整合性を明示することは避けて通れません。
私がこの問題に関心を持ったのは、確か平成元年の夏、神戸市で開催された建築学会年次大会で行われたPanelDiscussion“建築と環境”に参加したことがきっかけであったと思います。
このPDでは建物の工法別種類が環境を汚染する程度について議論が進められていましたが、議論が進められる中で、木造(W)、鉄筋コンクリート造(RC)、鉄骨造(S)が比較され、木造建築では先ず最初に山で木材が伐採されることからRC造、S造に比べて環境への負荷が大きい(マーク方式でW造マイナス2点、RC造、S造マイナス1点)とされたのです。
私はこの議論の展開に憤懣やるかたなく、環境保全と木造住宅建設の整合性を強く主張したい気持ちを抑えるのに大変だったことを思い出します。当時、このような感覚的で乱暴な主張を押し返すだけのデータが我々木材サイドで準備が出来てなかったのです。
次の年、木質構造に関する国際会議(1990ITEC東京大会)が私どもの講座の杉山英男教授を中心とする組織委員会の下で開催されましたが、この国際会議で報告されたNew Zealand カンタベリー大学のA.H.ブキャナン教授の論文「地球温暖化防止と木材工学」に私は強く感銘を受けました。
この論文では、製材品を始め種々の建築に使われる材料が資源原料から材料に製造・加工されるときに消費されるエネルギー量を求め、これを大気中に放出される炭素量に換算して材料間で比較して、木材製品、ひては木造住宅建設の環境への低負荷性を指摘したものでした。
私は、これこそ我々が今必要としているデータであると確信しました。それと同時に、このような研究を我々木材サイドではなく、土木建築のプロフェッサーが手がけられていることに驚き、また我々木材研究者の創造性の無さに深く反省させられ
たものです。
図1に住宅1棟(136m 2 )を構成する主要材料の製造時炭素放出量の工法別比較を示します。
木造住宅の地球環境保全性が明確に示されています。
自己紹介のページで書きましたように、私は大学は機械工学科に進学することに決めていました。ところが受験の成り行きから東大理科2類に入学したのです。これが間違えの始めでした。皆様ご承知のように、理2からの進学先は医学部と生物系学科です。2年次の進学振り分けで(私の駒場での成績では)農学部へ進むほかありませんでした。
高度成長時の当時、附中卒の皆さんで農学部へ進学した方が居られるでしょうか。私は農学部で最も農学から遠い学科、林産学科へ進学しました。当学科は紙パルプ、木材加工利用に関する分野の教育、研究を担当しております。機械屋さんになるつもりが木材屋になってしまったのです。卒業後名古屋のボード工場へ就職しました。この工場でこの年入社の大卒7名、将来を悲観し、それでも楽しく仕事に励んでおりました。
入社後4か月経ったある日、私は工場長から電話で呼び出されました。工場長室に入るとそこに東大研究室の北原先生が居られました。この会社を辞めて大学に戻り、助手になれ、とのお話でした。この時、私の頭に浮かんだことはこれで東京へ戻れるのだな、ということだけでした。この日が私の生き様を変えた日でした。私は昭和35年9月15日付けで文部教官助手になりました。現在では学位なし、論文を1報も書いてないものが助手に採用されることはありません。
この時から東大37年、そのあと九大3年、計40年の大学生活を送りました。その後、宮崎県木材利用技術センター、国の森林総合試験場の所長、理事長などの研究所執行部、日本農学会会長を務め80歳で全ての役職から身を引きました。
さて、私は40年間大学教官を務めました。以下、当時のことを思い出して書きます。
大学教官は学生に講義をしなければなりません。私は学生相手の講義が苦手でした。普通、先生方は時間をかけて講議のためのノートを作り、それに基づいて講義を行うのですから年度を重ねるとともに講義の完成度は高まってゆきます。しかし、私は応用数学や材料力学などの基礎科目は仕方なくこのようなノート作りをしましたが、木質材料学のような講座の主要科目については、毎学期同じことを繰り返すのは苦痛であり、また準備する律義さに欠けるので、行き当たりばったりで気の向くままに進めました。
ただしそこには、大学教育で最も大切なことは学生に自分でものごとを考える素地を与えることだ、との思いがありました。講義はモデルとしての教官自身の生き方、考え方、行動、体験を述べる機会として重要です。毎回の講義を学生さんがのめり込むような魅力あるものに出来れば別ですが、小心者で自分の講義に自信が持てない私は彼らの反応を知るのが恐ろしく、真正面から学生の顔を見て話をする勇気がなかなか出てこなかった。学生は私の話を喜んで聞いているわけではなく、単位を取るために仕方なく講義に出ているのであろう、との気持ちが先に立ってしまいます
そういう中でごくたまに自分で凄く良いことを言っているな、との感を強く抱き、背中がぞくぞくし涙が出そうになることがあります。自分で感動しているのです。他の世界でもこのようなことがあるかとは思いますが、気心の知れた少人数の学生に、気兼ねなく自由に思うことを述べ、しかもたまには感動まで得られる大学教官は良い職業だと言えましょう。
大学の外で行われる種々の講演会等に呼ばれてお話をさせられる機会も多かったが、確かにこの場合は大いに気が入り、楽しく立ち向かう気持ちが出てきたものです。聴講者の方々が学生に比べてはるかに熱心に耳を傾けてくれることが私を勇気付け、奮い立たせてくれたのです。この基本には、大学人という行政や企業の方々に比べてはるかに自由にモノが言える立場を十分に生かすことが自分の役割である、との意識がありました。そしてそのことを楽しく思ったのです。 (2024.3.13 つづく)
私は浅草橋場で生まれてその後目黒区柿の木坂に移り、八雲小学校を卒業しました。梁瀬さんのおうちの傍に住んでおりましたので、やなせ自動車社長様のその広いお屋敷のお庭で種々遊ばせていただいたのを思い出します。
私は小さい時から機械いじりが大好きで、大学は工学部へ入ることに決めていました。学芸大附属中学から都立大学付属校を卒業して大学は東京工業大学機械工学科を受験し、あっという間に不合格になりました。1年間駿台予備校に通い、次の年は早稲田、慶応の工学部、そして東大理科2類を受けたのです。工学部は理1なのですが理2の方が合格点が低いとのことでこちらを受験しました。これが大失敗でした。
目出度く理2に合格したのですが、2年時の進学振り分けで理2は生物系、工学部へは飛び切り好成績でないと行けません。私の成績では農学部へ行くしか道はありませんでした。仕方なく私は農学部で最も工学的で定員の少ない林産学科に進学しました。この学科は紙パルプ・木材加工・利用の分野です。当時日本は高度成長の時代、成績優秀な附中生で農学部へ進学した方はいないのではないでしょうか。
私は化学は性に合わないので5人の仲間と木材材料学研究室に入室、卒論は木材パネルのせん断性能実験をやりました。新しい試験方法を開発し、まあまあの卒論だったと思います。卒業して名古屋の木材会社に入社しました。工場生産現場に配属され、きつい毎日でした。こんな中小企業で働かざるを得ない現実に同時入社の仲間と嘆きあったものです。
入社後5か月経った8月のある日、私は工場長に呼び出され、出かけてゆくと大学で教えを受けた北原先生が居られ、教室に戻って助手になれ、と厳命されたのです。その瞬間、私は東京へ戻れるなと思い、この会社と縁が切れるのですか、との変な質問をしたことを覚えています。私は1960年9月15日付けで文部教官助手になりました。現在では学位を持たない、論文を1報も書いていないものが助手になることはできません。
この時から私は東大に37年間、そのあと九大に3年間、合計40年間教官、研究者として勤めました。この間、木材材料研究室に木造建築・木構造技術を導入し大きな発展を促し、農学部設立100周年次に寄付金を集めて「弥生講堂」を建設しました。また生物資源である木材を育成・使うことによるSDGs実現の方向を探り、日本農学賞、紫綬褒章をいただきました。農学部進学、大学教授生活、そして我が人生に悔いはありません。
新設された宮崎県木材利用技術センターにて
大熊幹章(オオクマ モトアキ)
1936年8月 東京浅草生まれ、87歳
1960年3月 東京大学農学部林産学科卒業
1960年4月 日本ハードボード工業(株)(現・ニチハ)入社
1960年9月 東京大学農学部助手
1971年9月 CSIRO建築研究所(オーストラリア)客員研究員
1972年7月 東京大学農学部助教授
1986年6月 東京大学農学部教授・木質材料学講座担当
1997年3月 東京大学定年退職、東京大学名誉教授
1997年4月 九州大学教授・木材理学講座担当
2000年3月 九州大学定年退職、
2000年5月 宮崎県林務部顧問、木材加工研究所開設準備室
2001年4月 宮崎県木材利用技術センター所長(初代)
2003年7月 (財)日本住宅・木材技術センター特別研究員
2005年4月(独)森林総合研究所理事長
2007年5月 (財)日本住宅・木材技術センター客員研究員
2009年1月 日本農学会会長
2014年1月 同会長任期終了、現在に至る
2018年11月出版