令和元年、大晦日より、正月五日まで、京都、奈良を、一人旅した。妻を亡くしてから、年末は毎年、海外旅行実行。
台湾、ポルトガル、メキシコ、本年はナイル川クルーズを予定していたが、身体の調子が思わしくなく、キャンセルし、国内旅行とした。大晦日、東京を出発、京都のホテルで年越しそばを頂き、周囲の住民と共に、除夜の鐘をつく、始めての貴重な体験ができた。
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元日は,円山神社、公園、北野天神、
二日は上賀茂、下賀茂神社,早明ラグビー全国大学選手権、TV観戦、
三日は、京七福神巡り、万福寺,東寺等タクシーで訪問。奈良ホテル泊。
四日は興福寺、東大寺、国立博物館。
「仏像を観る」冊子を頂戴する。仏像理解のための私には最適、最高の資料である。
五日はタクシーで法隆寺、唐招提寺にお詣りし、京都より帰京した。
タクシーは二日間、一時間五千円、良き縁に恵まれて、高山章運転手である。
唐招提寺にふたつの句、歌碑がある。
芭蕉の「笈の小文」に「招提寺鑑真和尚,来朝の時,船中七〇余度の難をしのぎたまひ、御目のうち、塩風吹き入れて,終に御目しさせ給ふ尊像を拝して」と記している。
「若葉して御目の雫ぬくはばや」 芭蕉
「おおてらのまろきはしらのつきかげを つちにふみつつものをこそおもへ」 会津八一
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芭蕉の句は正に私の感懐に一致した。法隆寺お参りも直後、緑したたたる唐招提寺内である。
東山魁夷氏の「唐招提寺への道」新潮選書に会津八一氏のの歌碑について「一晩のうちに、同じ月の下で、法隆寺で萌した感興ではあっても唐招提寺にいたつて,始めてそれが高調し、渾熟して、一首の歌として纏め上げられている」と会津八一氏が述べていると記している。
敢えて,誤りを恐れず言うと私と同様に芭蕉も会津八一も法隆寺参詣の直後の実体験である。
鈴木大拙の日本的霊性」岩波書店刊を再再読していた。そして「初めての大拙」大熊玄著 DISCOVERを偶然手にし、購入した。大拙の一〇八の文章を軽く纏めてあり、楽しく、短時間で読み通せた。そして、私の心に正に打たれる、二つの文章を見いだした。
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日本人の心の強みは最深の心理を直観的につかみ、表象を借りてこれをまざまざと現実的に表現することにある。
この目的のために俳句は最も妥当な道具である。日本語以外のものをもってしては、俳句は発達できなかったであろう。
それゆえ、日本人を知ることは俳句を理解することは禅宗の「悟り」体験と接蝕することになる。 「禅と日本文化」
「やがて死ぬ気色(けしき)も見えず蝉の声」という芭蕉の句があるですね。
蝉というものは、ジュージュと何も惜しまずあとに残さない。力を半分出すことなんてはない。ちいさな蝉の全部がジューになって出るですな。
蝉はやがて死ぬのだが今日死のうが明日死のうが、そういうことには蝉は頓着しない。持っておる全部を吐き出してジューやるところに、言われぬ妙がある。それを芭蕉が見たに相違ないのです」。「新編東洋的な見方」
大拙師が言われる様に、俳句が「悟り」体験と接触することが出来るといわれている。「悟り」を得るための座禅は厳に戒められるが、私の独断と偏見で、多くの俳句を逍遥していこう。
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良寛が「正法眼蔵」を拝覧したことはその詩偈の「読永平録」に示され、俳句は108首ある。「定本良寛全集」中公
「世の中は桜の花になりにけり」
今真盛りの桜であるが、散るを考える。日本人の生死の手本である。
正岡子規の句は如何であろうか。
「秋の蠅叩き殺せと命じにけり」
死期の近ずいた病人が「叩き殺せと命じるところ。
「俳句の世界」小西甚一講談社学術文庫
日経の朝刊の小説欄に「ミチクサ先生」が掲載されている。本日二月八日、子規が大陸から帰国の船中での喀血の様子が記されている。子規と漱石との親交はご存知のとうり、
常に厚く、多くの書簡がある。「漱石書簡集三好行雄編編
「まきを割るかはた祖を割るか秋の空」
書簡集の最終に掲載されている。解説者は「漱石晩年の理想と見做される「則天去私」と通じる言葉と記している。
しかし私は漱石の最晩年の而も「禅について」の副題があり「祖を割るか」の「祖」に注目したい。
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俳句の作句者は多くの先輩、友人おり、師事できる人とは卓を囲んだが、吟じる機会を逸した。
今友人に紹介され、一番心打たれて時折、吟じる句は
「寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいる暖かさ」俵真智
多くの境遇の仲間は皆感動し、メモをとる。多くの私の精神を揺るがす、句を探していこう。また死蔵している大拙師の多くの著書「禅学入門」を始め読み直そう。
令和二年二月八日
良寛師の俳句
師の俳句は「世の中は桜の花になりにけり」を紹介したが、師が病篤の際、口ずまされといわれる
「うらを見せおもてを見せて散るもみじ」を最初に入れるべきであろうか。
紅葉のように私も喜びと悲しみ、長所、短所など、様々な裏と表の人生をさらけ出しながら、死んでいくこと。
更に師の句で私が好きな佳句と思えるのは
「散桜残る桜も散る桜」
桜の花びらが散っている。まだ木の枝にはまだかなりの花が付いているしかし、やがては散る。誠にはかない。
「ゆく秋のあはれを誰に語らまし」
秋の季節が過ぎ去ろうとしているこのものがしい思いをこころから、聴いてくれる人が欲しい
有名な句「盗人に取り残し夜の月」
「新池や蛙とびこむ音もなし」
新しい池には蛙一匹飛び込む音もしない。芭蕉に続く人物
はいないこと。
定本 良寛全集第三巻 句集 中央公論新社刊
漱石の俳句
「まきを割るかはた祖を割るか秋の空」
解説者は漱石晩年の理想とみなされる「則天去私」と通じる言葉と記している。
身を天然自然にゆだねて生きていくこと「即天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。「去私」は私心を捨て去ること。漱石の晩年の理想。
「はた」は「それとも」。「あるいは」。「右せんか左せんか」。
「父を殺し、母を殺し、友人を殺せば仏の前に懺悔する。仏を殺し、祖師を殺せばいったいどこで懺悔するのか」
懺悔は神仏に告白し、その許しを乞う儀式。自分以外に許しを乞う相手はいない。悪行の主体である自己そのものを問う禅の根源的な課題。父母や、友人、神仏よりもさらにその奥にいる、自分自身が問題。自己との徹底虚心の対話の必要。
禅宗の悟りとは平気で死ぬること思っていたが間違いで如何なる場合にも平気で生きていけること。 子規
(20200311)
今年、4月の晩春と5月の連休明けに薬師池公園を散策した。都内でありながら比較的簡単に季節の自然を満喫しながらウォーキングできるスポットだと思う。
小田急線町田駅北口を出て90mほど行くと左手にバス停が見える。西口の大きなバス停とは違うので注意が必要。バスはコンビニの向かい側から、平日の10時台、11時台は各時12分おきに出ている。野津田車庫または鶴川駅行きに乗る。町田の市街地を抜けて鎌倉街道を進む。菅原神社を過ぎ、ひなた村というバス停がある。そのあたりだけ、昔の農村風景をちょっぴり残している。町田から二十分ぐらいの薬師池で下車。左手後方に薬師池公園の裏口がある。正門に回る必要はなく、この入り口から入ったほうが、雰囲気がいい。木の間がくれに薬師池を右手に見下ろしながらゆっくり回るように池面のへりへと降りていく。晩春に来た時は池のほとりの赤いツツジの植栽が青い池とのコントラストとなってきれいだった。途中、小さな滝が道を横切って池の方に流れ落ちていた。晩春に来た時は傾斜地のシャガの群落がよく花をつけていた。
鶏小屋のところで道は大きく方向を変えて進み、菖蒲田のほとりを歩く。鴨がさかんに水中の餌をとっている。「三脚を利用した撮影は禁止」との標識がある。右手に水車小屋があり、苔むした木製の水車がゆっくりと回る。それを動かしている水流は、先ほどの小さな滝の水を引いているらしい。この水車は、もともとは別の場所で米搗きに使われていたのを移設したのだそうだ。水音と水車のきしむような音はタイムスリップしたような感覚を呼び起こす。すぐそばに井桁があるが、中は埋められていて水はない。
歩くにつれ池は大きくなってくるが、池のくびれたところに二連につながる太鼓橋がある。池に垂れた新緑がきれいだった。めぐっていくと茶屋があり、晩春に来た時は、茶屋の前のやや大きな藤棚の薄紫色の花が香っていた。5月中旬に再び来た時には、その花はもう衰えていた。今年は咲くのが早かったようだ。
茶店の前で地場の野菜や竹の子を売っている。春には「のらぼう菜」という茎が甘い葉物野菜を1束200円で菜の花つきのまま売っていたが、たまたま直後にテレビ番組で昭島市の「のらぼう菜」が紹介されていた。5月にはもう売っていなかった。池のほとりから上がる斜面を利用した梅林があり、散策路となっているが、階段の間の土に張ってあったはずの芝がはげてタンポポ、スギナ、ヒメジオンなどの野草が好き放題に生えていたり、本来は植えていない路面に勝手に芝が進出して繁茂しているのが、この土地の人工を乗り越えた自然な感じを強めている。手入れをしていないわけではないが、広いので作業が追いつかないのだろう。モグラが土を持ち上げた跡があちこちに走っている。梅林の中はベンチが多い。
起伏のあるところだが、道路がうまく作られていて、ちょっと脚の悪い人でもかなりの部分は歩けるように出来ている。梅林の上にも小さな池が作られていて、静かな水音が心地よい。小松と楓、何種類かの羊歯植物があり、この小池の裏手の道は険しく、竹やぶの中に入っていく。それを抜けたところに大きな三つ葉の化け物のような植物があり、三つ葉に似た葉の先端はとがっていて、葉の巾は40センチぐらいはある。その株元から大きな芽が伸びようとしているが、まるで蛇が鎌首をもたげているように見える。帰って図鑑で調べたらヤマシャクナゲに似ているようだが、確かではない。
外周道路に出て緩やかに下がっていくと、「奉納 秘仏薬師如来」と書かれた赤い旗が何本も並んでいるのが見えてくる。その前を進み、左手の参道の石段を登って野津田薬師堂の境内に入る。「開山 行基菩薩」とある。それが本当なら、奈良時代聖武天皇の頃で、全国に国分寺、国分尼寺が建造されたころである。このお堂自体は何度か建て替えられた物である。行基は大阪の河内出身と言われるが、最初は「僧としての正当な資格もないのに民衆を惑わすような手段で怪しげな布教をする」として、当時の佛教界の本流や政権側から「小僧行基なる者」と名指しで非難されたが、治水土木、医療などの知識や窮民救済活動などによって大衆への人気は高かったという。のちに許されて正式の僧と認められ、東大寺の建設では土木技術の見識や、働き手の動員力などで大きな貢献をして、最後には僧職の最高峰、大僧正になって尊敬を集めるようになったという。佛教は、その本来の宗教の力のほかに、多分、当時の先端技術や情報力が布教の力に大きく寄与し、それによって人々の敬意を集めたのではなかろうか。為政者も宗教の力を活用しようとしたのは理解できるが、当時の天皇、皇后が仏教に帰依して、優しい気持ちで民衆の医療や治水に取り組んだことが大衆の尊敬を集めたとも考えられる。そんなことを妄想のように考えながら境内にしばしたたずむと、鬱積していた心がリフレッシュされてくる。
このお堂は、その後何回か戦火や盗賊による被害を受けて再建されてきた経緯が説明板に出ている。春来た時には、薬師堂には紙風船のような模様のカラー提灯が左右に吊るされ、そのそれぞれに奉納者の氏名が書かれている。堂の前に、提灯五千円、のぼり旗一万円と、奉納料が明記されているのは、いかにも現代的な感じがした。拝殿前の道路の真ん中には立派な大イチョウが道の両側を越えるほどにまで枝を広げている。
このあたりは北条氏照の支配地域だったという。大石の姓も名乗った氏照は、八王子あたりの城を守り、小田原城落城のあと北条氏政らと共に切腹した一人で、北条氏の主戦派の重鎮だった。このあたりは武蔵野の薪炭林の面影を残していると書かれた説明を見て、改めてあたりの木々を見上げると、吹いてくる風がさわやかだ。神社の脇から更に階段を登ると公園の外に出るが、公園出口の外のあたりもまだ樹林が続いている。人家が点在するが、自然がまだ十分に残っている。神社を出てダリア園まで11分とあるが、開園期間は7月から11月までということなので、まだ早すぎるので行かなかった。ボタン園も近いようだが、これはもう終ってしまっていた(4月14日から5月8日まで)。えびね苑も近いが、4月19日から5月6日までだから、これは終了していた。周辺にもいろいろな見どころがあるらしい。
拝殿前の右手の建物には大きな白い象の置物があり、その付近に右采女(うねめ)霊神という祠がある。髪結職の創始者だそうで、理髪業界関係者の信仰を集めているようだ。 斜面には多数のツバキが植えられていて、その中のくねくねした、起伏の多い小道を巡ることができ、名前を見るとカタカナ名のものも含めて相当な種類が集められている。でも、五月に訪れた時は、夏ツバキすら一輪も咲いていなかった。その道はアジサイ園につながっている。アジサイもまだ大方が固いつぼみの状態であった。
池を過ぎると、フォトギャラリーがあり、地元の人たちの作品が展示されていた。春行った時にはサクラなどの春の花、夏行った時には鳥や虫などの写真が展示されていたから、展示作品がひんぱんに変るのかもしれない。更に進んで行くと自由民権運動を記念した造作がある。自由民権運動にも種類があるらしいが、ここでの自由民権運動は豪農を中心とした農民の参政権への希求と税制への不満を表現する運動だったらしく、全国的に見ても運動が盛んな地域だったとのことである。
更に、そこを過ぎて正門の方に向かうと、また水辺になり、大賀ハスが植えられているところがあるが、開花は7月中旬から8月中旬らしい。わずかに黄菖蒲の花がところどころに咲いていたが、カルガモや鯉が退屈そうに泳いでいるばかり。ちょうどいろいろな花の端境期に訪問したわけだが、人があまり居らず、特に5月中旬の訪問は水と緑だけの静かな公園であった。そのかわり、まさに万緑、一面の緑だった。
バス停まで戻って、道路を渡ると、リス園がある。老人は300円の入園料。入り口のデザインや飾り方から見ると子供向きの公園かなと思ったが、入ってみたら、結構、大人も老人も多かった。多数のタイワンリスが放し飼いにされている。餌代100円でヒマワリの種が入った小袋を買う。必ず両手に分厚い手袋をはめて餌を与えることになっている。
はっきり場内に警告が出ているわけではないが、ネズミやリスなどに嚙まれると発熱や震えが止まらなくなり、一旦直っても何度も繰り返す厄介な病気にかかることがあるので、多分、それを防止しているのであろう。手にもリスが乗ってくることがあって、可愛いのだが、私は気味が悪いので、柵の柱の上などに餌を置くとリスの方も安心して近づいてくる。巣箱が何十も建てられていて、質問してみたら、だいたい個体ごとに自分の巣が決まっているが、中には数匹が共同利用することもあるのだそうだ。活発なリスは場内をすごい勢いで走り回ったり、時々高くないたりする。スペースがあるだけ、元気に暮らすことができるのだろう。
5月に行った時は、リス園を出てから、まだ時間があったので、来た時と同じバスで、もっと先の野津田公園にまで行くことにした。野津田車庫で降りると、そこは薬師池以上に広い公園で、二つあるうちの右側の入り口を入って行くと、広い敷地の中にスポーツ施設が点在していて、その間が広く空いている。雑草が深々と生えている広いくぼ地や、その周りに樹林や小さな丘があったりする。友人と3人で行ったのだが、一人は樹林の丘を登る木製の荒れた階段を登りかけたところで、「足にもう自信がない」と言う。もう一人は歩き足りないようで、「行こう、行こう」と言う。あまり地理がわからない、こんな広い公園ではぐれたら、探すのが大変だから、妥協して、もっと広い舗装路を迂回して進むこととなり、丘の向こう側に出たが、そこもまたあたりは一面の緑だった。その中で遥かにテニスコートらしいものが見える。バラ園や湿生植物園までまだ遠そうだから、もう帰りたいと一人が言う。
80代となると、体力にも個人差が出てくるのだろう。人気(ひとけ)のないところで、転んだり、卒倒することになっても困る。もう一人は少し残念そうだったが、バス停にまで戻ることとなった。
本当は、更にバスで先まで行き、綾部入り口という駅で降りて2分のところに西山美術館まで行く手がある。地元出身の事業の成功者が大金をかけて集めたロダンの彫刻とか印象派の絵画などの美術品もあるが、多数の紫水晶がびっしりと内部に生えているのを見せるように切断された大きな岩石とか、赤やピンクや白やブルーや緑の大小の岩石、黒字に白い菊の花が満開に咲いているように見える岩石など、珍しい石や岩の見事なコレクションが豊富に見られる。入場券を買う際、小さな水晶の粒が多数小皿に入れて置いてあって、一粒、持ち帰ってもいいことになっている。それを大切に財布に入れておくとお金が貯まる御利益があるという。3度ほど、この美術館に行ったことがあるが、何だか確かに御利益があるような気がする。そのかわり、その水晶の粒を紛失すると、心なしか懐が寒くなってくるような気がする。
この美術館はバス停から2分で門まではいくが、門を入ってから急坂をかなり登った山の上に、展示場の建物がある。小山の上なので、晴れた日には見晴らしがよい。ここまで来たら、バス停からは町田に戻らずに終点の鶴川駅まで行って帰るのがいい。鶴川は小田急線で、町田よりも普通電車で2駅、東京寄りである。
ちなみに、このバスは神奈川中央交通だが、町田市内での乗降は東京都内だから、上記のコースは東京都のシルバーパスを持っている人は無料で乗れる。5月の時は上記の事情で予定よりも早く終わったので、帰路は町田から小田急で成城学園まで280円、そのあとは渋谷行きのバスでゆっくり帰ったから、交通費は280円×2=560円しか掛からなかった。野津田公園にはもう一度出直して行ってみたいと思っている。
(20180613)
参考:
秀吉が小田原城を攻囲した時に小田原城を見下ろす山上に城を築いたあと周囲の樹林を伐採して突然、北条方に城を見せて士気を砕いたという、一夜城に行ってきた。
小田原からJRで1駅の早川から2.5キロの道のりで、一方的な登りである。藤沢で友人の絵画展を見たついでに行ったので、早川に着いたのはちょうど昼時だった。駅の真ん前の漁港に面した店で散らし寿司を注文した。飯の上にやたらと色々な種類の魚片を無造作に並べてあり、すごく大雑把な感じの店だった。「前のお客様に出し忘れたのですが食べてください」と、からごと煮た大きなつぶ貝を付け足してくれたのには驚いた。
東海道線の線路の下の小さなトンネルを抜けて複雑な小道を抜けるとすぐに舗装された農道になり、これが単調な登り調子が2キロ強、最後まで続く。最初に出てきたのは、ほとんど激しい戦いをせずに持久戦となったこの戦いで、病気を押して参陣していて陣没した堀久太郎秀政を祀った海蔵寺がひっそりと右側に建っていた。海蔵寺の墓地がつきるあたりに堀秀政に関する簡単な説明板があり、振り返ると相模湾が青く大きく広がって見える。小田原城の再建された天守閣と海の風景がよく見えるのはこのあたりだ。もっと登っていくと海の展望はより広く大きく見える風景が展開されるが、小田原城の位置からは遠く離れていくので周囲や背景のビル群や市街に呑みこまれて城は見えにくくなっていく。
夏みかんの畑越しに高速道路がおもちゃのプラレール○Rのように見下ろせる。その先は広い青い海。快晴だったが沖の方に白い雲がいくつかぽっかり浮かんでいた。「猿に餌をやらないでください」という標識を小田原氏野猿対策協議会が出している。
曲がりくねった道なのに、時折だが、すごいスピードで走り下ってくる自動車には注意を要する。老人の農業関係者が多いようだ。ここも「自動車を見たら老人と思え」と言われるような場所だなと思いながら、やや単調な道を登る。右手は早川の谷で、対岸を箱根登山鉄道に湯元でつながる連結車両がゆっくりと走っているのが小さく見えた。
左手に伊達政宗の説明板が現れる。この山では秀吉と伊達政宗が主役だ。我々が小学校の4、5年生で、まだ戦後の物資不足のため本も少なかったころ、父の書棚にあった菊池寛の「日本武将譚」を何度も読みふけったが、その中に伊達政宗単独の章があるほか、最後にもう一度、「秀吉と政宗」という章が出てきて、菊池寛がこの二人のしたたかなやり取りを描写している。小田原攻め参陣に遅れた政宗が秀吉になかなか会ってもらえず、箱根底倉温泉に待機を命ぜられ、このまま城が落ちれば切腹を命じる使者が来るかもしれないと従者たちが恐れる中、政宗は悠然としていて、あえてそういう立場にもかかわらず秀吉に仕える茶人、千利休に茶道の教えを請い、狙い通りそれを契機に秀吉に目通りを許されるというような経緯を詳細に綴っている。そしてついに対面を果して、会津は削られたが他の領地は安堵されたのが、この石垣山の上だった。その準備段階で、国許を発つ前から想定問答を家臣に秀吉役を演じさせて練り上げていく政宗のしたたかな姿を描いた菊池寛の文章を思い出しながら、なおも登り続ける。文芸春秋の創立に携わった一人と言われ、「生活第一、文学第二」とまで言い切ったと伝えられる菊池寛のこの著書は、したたかに生きた戦国武将たちの生き方を描いていて興味深い。
学生時代にアルバイトで校正などを手伝った出版社は雑司が谷の菊池寛の屋敷跡にあった。毎晩、遅くまでいた社員に夕飯が供されるのが、この会社の経営上の特徴で、その時には社長からアルバイトまで全員が車座になって一緒に食べるのだが、真ん中にとても大きな蜆汁の鍋があってお代わり何杯でも自由ということだった。その時は家族のような雰囲気があって社長と社員が直接言葉を交わす。社会人になる前に仕事の世界を垣間見たことは後々貴重な体験となった。そんなことも思い出しながら、一本調子の長い坂をなおも登り続けた。
イチジクの新芽が勢いよく吹いているところを過ぎると黄色い実をたわわにつけた夏みかん畑、路傍の赤いツツジ。振り返ると青々とした海は更に大きく、遠くまで見えるようになっている。長く横たわる三浦半島は少し霞んでいる。白い船が悠々と動いていく。
宇喜田秀家の看板が出て来る。攻囲に加わっていた秀家が篭城していた北条氏房に慰安の酒を贈って講和を勧め、氏房からも伊豆の酒を城中から宇喜田へ贈り返したという説明が出ていたが、単調になりがちな上り坂の途中にあるこうした看板は、手短かな説明だが、うまく人の心を捉えると思う。
右手に送電線の鉄塔が現れ、そのあたりは両側コンクリートの壁となり、急に殺風景な光景に変るが、そこを通り過ぎるとがけの両側の上に木立が茂っていて、初夏の日差しから守られる影に入ってちょっとほっとする。次の看板は徳川家康。秀吉と小田原城に向かって小便をしながら、戦後の家康の領地を関東にするということに合意したという、本当かウソか分からないが、いわゆる「関東のつれ小便」の逸話を思い出すが、そんなことは看板には書いてない。
老朽化したトタンの屋根と屋根の農業倉庫を過ぎると左手に大きく海が見える。ここまで登ると駿河湾の幾筋もの潮の流れが駿河湾にうねっているのがよく見え、同じ快晴の海でも高さによって少しずつ表情を変えるのがよくわかる。高速道路のインターチェンジはもう本当に小さくなって足元近くに見える。東海道線の列車が通っていくのも本当におもちゃのように小さく見えるのだが、そのゴットンゴットンというような列車の音が風に乗って以外に大きく聞こえるのが不思議な感じだった。
羽柴秀次の看板が出て来る。のちに秀吉に切腹を命じられて哀れな生涯を閉じた秀次もこの時は元気に参陣していたわけだ。人の運命のはかなさを思いながら、さらみ歩いていくと上の方から走ってきた青いきれいな乗用車が突然停まって、降りてきた人が海に向かって立小便を始めた。考えてみると、このコースは沿道にトイレが見当たらなかった。「でも、歩いているのではなくて車なのだから我慢して下まで降りられないものかなあ」と内心憤慨しながらも、無視して通りすぎた。
さらに登っていくと、左側の農地が途切れて深い谷となるが、青竹が群生していて谷底は見えない。さらに登ると谷は浅くなり、ふたたび小さい農地になって、いろいろな作物が植えられたごく小さい畑がる。自家用の作物なのかもしれないが、菜の花と赤い豆の花、大根の白い花、ジャガイモの若い葉などに目をやりながら登ると淀君の看板があり、その先に数本の大きな山桜があり、赤い花房の間から葉桜がどんどん伸びていこうとするところだった。看板を見ると、淀君が秀頼と大阪城で自害した時は、彼女はアラフォーが終ってアラフィフになろうとする頃だったのかなと考えるような表示になっている。
その先に、右手に無造作に土塀や石積みの見本が置いてある所があり、小田原庭園業組合が出しているのだとのこと。小田原オリーブモデル園があって、小田原市のオリーブ栽培の試みが推進されていることがわかる。
城址公園に到着だ。公園の前に駐車場があり、その中に公衆トイレがある。宗教法人の施設の門と道路の方が立派で、公園は一見目立たないが、石垣山一夜城歴史公園と書かれた石碑がたっていて、園内の案内図が掲出されている。けばけばしいものは何もなく、きわめて素朴で地味な公園であまり派手な標識などはない。売店などの施設も一切見当たらなかった。
杉木立の下の階段を登っていくと、シャガの群生地帯があるが、シャガが繁茂しすぎたので刈ってあるという表示があった。石垣保存のための工法の説明板があり、二の丸跡,馬屋跡などなどが出てくる。広い芝生があり、その先に白とピンクの遅咲きの桜の木が目立っていた。青々とした芝生を見ていると、菊池寛が描いた政宗と秀吉の対面の場面の描写を思い出す。すでに事前に前田利家や施薬院全宗、和久宗是の詰問にうまく答えていた政宗が秀吉から「遅参の義は許す」と言われ、「会津は取り上げるがその他はその方の心のままにせよ」と伝えられたあと、用意してきた砂金を緞子(どんす)の袋でいくつも無造作に広蓋の上に空けて、こぼれた砂金を拾おうともせぬ豪快な献上ぶりだったとその場面を思い出す。緞子は絹織物の特殊な織り方で当時は唐でしか織れなかったらしいから、いわば舶来で超ハイカラで高級な入れ物だったということになるのだろう。すっかり気に入った秀吉に連れられて二人きりで斜面を登り、小田原城を陸海から囲んで手前の早川口から彼方の酒匂川口にかけて展開する配下の諸部隊を得意げに紹介する秀吉の姿を菊池寛は描いている。陸上に展開する隊の一つを「右府殿のご子息の信雄(のぶかつ)じゃ」と秀吉が言ったと記述しているが、右府殿とはかつての主君、織田信長で、そのご子息と言いながら信雄と呼び捨てにしているあたりが面白いし、陣没した堀正秀が生きていたら会津に入れてそちと取り組ませたいところだったと釘をさしているところも、したたかな両者のやり取りとして見事に描かれている。そういう描写を思い出しながら、このあたりの風景を見ているとそれなりの納得が得られる。
二の丸跡の広場から急坂を上がった本丸の展望台からは、秀吉と政宗当時と同じように手前の早川口から、はるか向こうの酒匂口まで広がる海陸を見晴らすことができ、そこに展開する全国から集まって武将の諸軍の位置を想像することはできるけれども、肝心の小田原城の位置はマンションや大きな建物が無数に建つ周囲の市街地に呑まれてはっきりしない。むしろ、通ってきた道路の途中の方が、お城のよく見える場所があった。
本丸跡そのものは大きな樫の木々が茂っていて展望台以外では展望がほとんどきかない。「まむしに注意」などという標識もある。どちらかというとあまり手をかけずに、自然のままにしてある感じである。
本丸跡とは反対側の展望台もあったが、そこには小田原城跡を指し示す矢印があったが、その方向には、芽を吹いた若木の枝が伸びて来ていて、海も城もあまりよく見えなかった。むしろ、ここからは、二子山、駒ケ岳、神山、早雲山、明星、明神などの箱根の山々や丹沢までが晴天の中ではっきりと見えたのがすばらしかった。
その近くにある淀君の化粧水と言われた井戸跡は「さざゑ井戸」とも呼ばれているが、本当にサザエの殻のような感じのするらせん状の石の道を降りて行くのだから、滑らないように足場に十分気をつける必要がある。山腹にあった泉水を、自然の山腹の崖を利用して下方の二方向を高い長い石積みで遮断して囲って守り、水をためたものだ。当時、大変な工事だったことだろう。その道ですれ違った人が「これだけぜいたくなことをして、この城は結局、使い捨てだったのですよね。もったいないなあ」と語りかけてきた。同感でもあるが、この城で威嚇したおかげで、北条方は氏政、氏照と重臣一人の切腹だけで、その他は軍民共に多くの人命が戦火の犠牲にならずに済んだのだとも考えればそれなりの役割を果したのだとも言えよう。
早雲に始まる後北条五代は概して善政だったと言われる。北条早雲と言えば、我々が小学生の頃は、どちらかというと悪巧みに長けた評判が悪い武将だった。鹿狩りにかこつけて領土を奪ったとか、強いけれども油断のならぬ寧人のように言われていたようだ。
その後、中央公論社の「日本の歴史」(最新のものよりも一つ前の版)には、杉山博さんの「早雲の見方は戦後の研究で随分変わって来るだろうし、これからも変わるだろう」という主旨の記述があった。最近では伊東潤さんの「戦国北条記」は北条氏側にあえて立つと書かれているが、きわめて北条氏に同情的な見方が多数紹介されている。他の領主よりも税や賦役が軽く、善政を布いたから住民の支持が強く、当然、攻められても兵糧の調達や敵方に関する情報提供にも進んで協力するだろうから、守りは堅くなるだろう。
江戸時代から太平洋戦争までの時代の雰囲気の中では、早雲のような油断のならない、したたかなやり方は為政者にとっては不都合なものであっただろうし、天下の大勢に最後まで盾ついたような行為も愚鈍な抵抗と見たほうが為政者にとって都合がよかったのかもしれない。この点についても、伊東潤さんは、北条氏が頑迷だったというよりも、北条氏や各地の北条氏協力者の領地を奪って論功行賞のために使うことを目的とした秀吉の計画の前では仕方がない成り行き、運命だったとしている。
領民の協力があってこそ、強い国が作れる。税金をだらしなく使って、あとで物価が上がれば国の借金も返しやすくなるなどと、万一、考えているような政治だったら国はまとめられないだろう。もっとも、今の税金は、まともなところ、高齢化対策や所得の再配分、インフラなどの必要性に伴って使われている部分が多いから、あまり激越なことは言うつもりはないが、無駄遣いと見られることに国民が怒るのは当然だろう――などと考えまがら、帰路につく。
入生田に抜ける別の道を帰る手もあったが、あえて同じ道を選んだ。それは正解だったようだ。帰りは振り返らなくても下界の海と陸を見下ろして十分楽しみながらの快適な下り坂だ。農道を抜けたところで、本来は白亜の本体だが夕日に頬を赤く染める厄除け魚篭観音を拝み、駅前の土岩という専門店のかまぼこを買って帰宅した。
1.7キロのこのコースは全国ウォーキングコース100選に入っている。自動車で史跡公園に行っただけだったら、「何だ、手入れもしていなくてこれだけか。つまらない」と言うことになるかもしれない。立って歩かず、自動車では見逃してしまうスポットごとの風景がたくさんあるから、ウォーキング向きのコースだと思う。歩けるうちはできるだけ、しかも無理なく歩いた方が肉体的にも精神的にも健康を保てる。きつくなったら、どこで引き返しても、それなりにいいコースだ。トイレがないこと、お弁当を必ず持っていくことが要注意点だ。
北条早雲が81歳のころには、のちに油壺湾を血に染める殺戮戦で三浦義同(よぢあつ)を攻めて三浦半島を平定する戦いに取り組んでいた。我々も、早雲のその元気さにはあやかりつつ、殺戮戦ではない別のことに関わり続けていきたいものである。
(20180418)
{蛇足}
鈴木さんの紀行文「 石垣山一夜城まで歩く」をお読みになって、この城や歴史についてもっと知りたい方は、インターネットで検索されると良いと思います。
中でも、歴史については:
http://www.geocities.jp/qbpbd900/ishigakiyamajo.html
一夜城公園内部については:
https://akiou.wordpress.com/2015/12/14/ishigakiyama-p3/
https://akiou.wordpress.com/2015/12/14/ishigakiyama-p4/
が、お薦めです