確か3年生の時出来た班で、それまでは無かったと思う。映写フイルムなどは高くて手に入らない時代だったので、映画班とは名ばかりで実質は写真班だった。ではなぜ映画班と名付けたのかと言うと、映画の割引券を班の費用で30枚くらい購入し、校内で売っていたからではないかと思う。
映画班
その頃は娯楽も少なく、映画は大人気であった。ことに洋画で見る外国の生活は我々の憧れの的であって、猫も杓子も三種の神器といわれる冷蔵庫、洗濯機、自動車を手に入れることを自分の夢としていた。私は映画班の班長だったので、渋谷の映画館まで良く割引券を買いに行った。入口で「割引入場券を買いたい」というとすぐに支配人室まで案内された。そして券を買い終わると「せっかく来たのだから、観て行きなさい」といつでも只で映画を見てもらった。大変ありがたい映画班長の役得だった。
写真は「イースターパレード」(初めてみた総天然色映画)
GHQ
映画の割引券販売以外のもう一つの映画班の活動は、カメラを担いで都内を撮影して廻ることだった。当時の日本はアメリカ軍に占領されていて、その総司令部は日比谷の第一生命ビルに有った。
写真は第一生命ビル
誰と一緒に行ったか忘れたが、「マッカーサーの写真を撮ろう」と第一生命ビルの前のお堀の石垣の上まで登り、占領軍の総司令官が来るのを待ち受けていた。
やがて車が到着し、マッカーサーがビルの玄関に差し掛かったので、我々もカメラを取り出し撮影しようと身構えた。その時すぐ後ろに憲兵が2名近寄って来て、我々を睨んだ。カメラを銃と間違えて撃たれやしないかと恐怖にかられ、結局写真は撮らず逃げ帰った。
勝鬨橋
これも誰と一緒だったか忘れたが、当時の名所である勝鬨橋まで撮影に行った。
その頃はまだ1日に5回20分くらい跳開していたので、我々も橋の月島側の固定部分でカメラを構え、開くのを待っていた。
やがて時間が来て勝鬨橋の可動部分がゆっくり持ち上がりだした。先端が徐々に開いて行き1Mほど間隔が開いたとき、一人の若いサラリーマンがひらりと飛び越えた。もう股の下には隅田川が見えたはずで、その蛮勇にびっくりした。
勝鬨橋が全開したのでその雄姿をカメラに収め、さて帰ろうとしたが今度は中々閉まらない。結局1時間くらい橋の固定部分で待たされ、やっと築地まで帰った。
フイルム詰め替え
何せ中学3年ともなると腹が減ってしょうがない。3時ごろにはどうしても何か食べたくなる。そこで映画班員は交代で校門の外に出掛け、焼き芋を買ってきた。でも迂闊な所では食べられないので理科室の暗幕を下ろし、入口に「フイルムの詰め替え中、入室厳禁」と張り紙をして皆で食べた。
しかし匂いが残ったはずなので、たぶん映画班顧問の小松先生はご存じだったのではないかと思う。
Essay あの頃 に収録
(20200421)
進駐軍専用車
4年で編入入学した僕は、毎日千駄ヶ谷駅から第一師範駅まで中央線・山手線・東横線と乗り継いて学校へ通っていた。
戦後間もなくのことで電車の本数が少なく、特に山手線は大変混んでいた。屋根と連結器には乗らなかったが、座席の上に土足で立って通うなどは毎日のことであった。流石に占領軍もこの混雑には参ったらしく、二等車車両の半分に白線を塗って中を仕切り、進駐軍専用車として使っていた。帰りには僕は良くH君と連れ立って帰ったが、ある時米兵が彼に向かって「カモン」と言って乗せてくれた。多分H君が小さくて可愛いかったせいだと思う。で私も連れだと分かり、ちょっと考えていたが渋々乗せてくれた。なにせ私は当時から大人なみの身体だったので! でも進駐軍専用車に乗った後は、私にもH君にも平等にチョコレートとチューインガムを2つづつ配ってくれた。それ以来僕は進駐軍に好意を抱いた。
力不足
東横線の車両は戦争であらかた焼けてしまったので、あちこちの私鉄から借りた電車を走らせていた。ある日乗った電車は井の頭線からの払い下げで、台形の車両だった。しかしその電車は力がなく、中目黒駅を発車して祐天寺駅に差し掛かる登り坂で止まってしまった。
暫く運転士が色々操作していたがどうにも動かず、ついにバックして中目黒の駅まで戻り、勢いを付けて再度坂を登り何とか祐天寺駅までたどり着いた。
代官山のトンネル
昔の東横線の電車は大体2両編成で、写真に有るような電車を2両連結して走っていた。各車両の前と後ろの部分の左半分は運転台が付いていて、右側は乗客が座れるようになっていた。勿論1両目と2両目の間には通路などなかった。 幌のついた通路が出来たのは、中学1年の頃の桜木町事件以後のことである 1両目と2両目の運転台は乗務員が乗らないので、僕ら小学生にとっては天国のような場所だった。運転室に入れば仕切ってあるので、満員でもぎゅうぎゅう押されることがないからだ。
帰りの電車に乗り、4~5人で運転台に入ってワイワイ言っていたら代官山のトンネルに差し掛かった。当時トンネルに入っても電灯など点かず、辺りは真っ暗闇だった。すると突然乗っていた運転台の床下から“ボー”と警笛が鳴り出した。誰かが床にあった警笛のボタンを踏んだらしい。「早くどけ」と騒いだが暗闇の中のことで中々鳴りやまない。トンネルを抜けてやっと鳴りやんだが運転士に怒られるのを恐れ、渋谷駅でドアが開くと同時に皆で一斉に駆け出した。
Essay あの頃 に収録
(20200416)
今一番嵌まっているのはジャイブだ。青春時代に良く聴いた「ロックアラウンドクロック」で踊ると、身も心も浮き立ち物凄く楽しくなる。ダンスはフロアに障害物がなく、足に引っかかる心配がない。相手と手を繋いでいるので転倒の恐れもない。リズムに乗るので心が軽くなる。女性と組むので気持ちが浮き立つ、と言うことで良いことだらけだ。
ダンスの世界に導いてくれた篠田雅子さんに大感謝を捧げる。皆さんも80歳の手習いでダンスを始めては如何ですか! お相手は伊藤美代子先生
小峰ダンススクール 篠田雅子さんの門下生
格好いいでしょう!
ちょっと腰が
引けている?
最後は帽子を取られて!
参りました~
(2015/12/13 東京プリンスホテルにて)
平成29年6月7日(水)
登山の前々日に気象庁から発表があり、6月7日から梅雨に入ると宣言てしまった。どうしようかと皆さんに意見を聞いたところ「前回も流れたので、兎に角現地へ行くだけ行こう」との話となった。
当日空を見上げると、どんよりと曇っている。「これは真っ直ぐ温泉行だな」とすっかり安心して家を出た。
しかし勝沼の駅に電車が着くころになると空が次第に明さを増し、周りの山々がはっきり見えるようになってきた。皆何も言わずにタクシーに乗り込んだので、私も温泉直行をあきらめて山に向った。
甲州高尾山は標高1,100m程の高さだが、タクシーは800mくらいにある大滝不動尊まで我々を運んでくた。
滝不動尊の山門は綺麗な朱塗りで、山門をくぐると石段が続き右脇には滝が流れている。200段位の石段を上ると、不動尊を祭ったお堂があり、その右脇の小さなつり橋を渡るといよいよ登山道となった。急な登り坂をあえぎあえぎ登ると大滝林道に出て直ぐに展望台に到着した。展望台と言うけれど藪が生えていて、天気も曇りなのであまり視界が効かない。
展望台を出発し大滝林道を少し下ると、棚横手山と甲州高尾山を結ぶ稜線にでる登山道への入り口があった。危うく見過ごすところだった。登山道をジグザグに登って稜線にでるとやや視界が開けてきた。引き続き稜線をたどると眺めのよいピークにでた。これが甲州高尾山の山頂かと喜んだが、何の標識もない。でも眺めは良いし、おなかも空いたので、お昼を食べることにした。お昼は楽しい。
子供の時の事、最近の友達の消息、孫の話などしているとアッという間に時間が過ぎる。そろそろと腰を上げ、本当の甲州高尾山の山頂に向かう。そこは昼食たべた所の次のピークだった。
そろそろ帰らなくてはと下山に掛かったが、道が乾いていてよく滑る。しかもかなり急な下りである。こけつまろびつどんどん下った。私も3回位転んだ、というか木の切り株に下ろしたつもりが、ずっこけたりした。600mの下りはやはり大変だ。でも道端に綺麗な花が咲いたりしているので、慰めらえる。
結局予定の時間を大幅にオーバーして下山口の大善寺に到着し、タクシーを呼んで勝沼ぶどうの丘温泉まで辿りついた。
お風呂に入ってビールを飲めば今までの辛さはすべて吹き飛ぶ。歳なんだからこれからはもっと易しいところに行こうよと話をしながら帰途についた。
参加:男性)大迫、森、三ツ本、吉村
女性)大窪
行程:勝沼ぶどう郷駅-(タクシー)-0大滝不動尊--大滝林道展望台-甲州高尾山(昼食)-送電鉄塔-
大善寺-(タクシー)-勝沼ぶどうの丘温泉(入浴、休憩)-勝沼ぶどう郷駅