矢作直樹著『人は死なない』
ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索 東京大学医学系研究科・医学部救急医学分野教授 医学部付属病院救急部・集中治療部部長 を読んで
2024年9月26日(木)努んちの会 レポート レジメ
鈴木(審)
生と死の交差点で
著者は幼児期に交通事故に遭い死を身近に感じるようになった。登山が好きだったが大学時代に山で滑落してやめてしまって、やりたいことを失い、医学の道に入ったのだったが、たくさんの病院で多様な現場で体験をつんでいろいろなケースに遭遇した。日本では8割以上の人が病院で死を迎える。助からないと思われていた患者を生き返らせた事例、普通の手術が無事終わったと思ったのに原因不明の敗血症で短期間で亡くなってしまった事例も体験したが、「実際の医療現場では実はわからないことだらけだ」という実感を持つ。
→現場第一線の第一級の医師がそういう実感を持っていると知ってショックです。
医師が生命について知っていることは本当に限られたことなのである。治療の結果を左右するのは患者の意欲であることが多い。
→患者を失望させず、病気に立ち向かう意欲と姿勢を保持することが重要であるということは、介護にとりくむ家族やスタッフにとっても大事なポイントだと思いました。
著者が気功術でパーキンソン病患者を歩けるように治療した北京の術師に会った体験や著者自身も飛ばされた体験が記されている。
→実は勉強会の現場に近いところで地元主婦たちに「飛ばされる」体験をさせていた人と付き合っていたが、その人柄や経歴から見て全くの嘘とは思えません。
細菌感染症のかかりやすさには個人差があり、それに関連する遺伝子の一部が明らかになっている。なぜ、そのような個人差があるのか? 生物は天変地異に対して種の中に多様性を存在させることでどれかの固体が生き残る仕組みを内在させている。臨床現場では,個々の患者ごとに手探りの苦戦を強いられている。
→我々一般の患者にとっては医師は治療手段をよく知っている専門家として信頼しているのですが、実は手探り状態だというのが現実だと知ると少し不安を覚えます。
米国の統合医療提唱者アンドルー・ワイルは「人は心で治る」と言っている。
→患者や家族が治る、治す気持ちを持ち続けることが大事だということだが、長い闘病生活では、これは頭ではわかっても現実にはかなりむずかしいことかもしれないと思います。
神は在るか
近代医学の進歩はめざましく、宗教に代って自然科学万能主義のような感覚も広まっているが、科学で解明できていることはごくわずかなもので多くのことがまだ解明されていない。量子力学の発達により、デカルト以来の精神と身体を分ける心身二元論は揺らいできている。万物の一体性と相互関連性が究極のリアリティであるという考え方が出てきた。
精神と物質の一元論的世界観。30億個もの塩基対の組み合わせで、極小のDNAができているという精妙さにsomething greatの力を感じた遺伝子解読者(村上筑波大教授)。
→神なのかどうかはわからないが、something greatが万物の仕組みをつくったのではないかと感じることは、勉強会で山形さんのお話を聞いていても、よくあります。また、人間の死後には何があるかというような問いには科学では答えられないという指摘が印象に残ります。
自然科学は生まれてからまだ300年しかたっていないが、宗教は世界各地に古くからあった。そしてあらゆる宗教が神のようなものの存在を基本としている。→各地で昔から神のようなものを信じてきたことを指摘して神の存在を主張するのは、よく聞くパターンだと思います。古来、日本人は、霊が肉体から離れて他界に行き続けると信じてきた。→生活実感として、多少とも、そういう信仰に基づいた日常生活を送ってきた実感が確かにあります。
宗教における神とは、人智を超えたすべてを司る「全面的であり、かつ想像を絶する大きな力」のことで、著者もそうした力の存在を感じている一人だが、著者はそれを「摂理」とよんでいる。→ここは何を言っているのか分からない感じで、「摂理」を持ち出せばすべて解決ということになってしまわないのかなと思ってしまうが、著者が「神」の存在を信じていることが窺えると思います。
非日常的な現象
マンションから飛び降りた女性が、長い治療の末、回復して、「他人に自分の中に入り込まれて飛び降りることになってしまった」と語った女性の事例が詳細に記述されている。
次に、兄妹が交通事故に遭い、妹と一緒に空中で事故現場を見下ろす「体外離脱体験」をした妹から「お兄ちゃんは戻りなよ」と言われた瞬間、車中で横たわった状態で目が覚め、妹は息を引き取るところだったという事例、七歳の時にトラックに轢かれて体外離脱体験をした男性の事例が詳細に綴られている。→対外離脱体験は自分にはありませんが、事故で失神して回復した経験はあります。その時は、意識を失ったものの、意識が薄くなって倒れる経緯はおぼろげに覚えています。倒れてからあとは完全に何もありません。だから、死に瀕した体験ではなかったのだと思います。
著書では、さらに、スイスの登山家メスナーの語った遭難時の体外離脱体験や極限状態の時に誰かが出現して助言してくれるサードマン現象の体験、や自分の意思で体外離脱ができるようになった人物などの事例が紹介されている。また、著者自身の山岳遭難体験とその最後に「もう山には来るな」という声が聞こえた体験のあと、専ら医療の道に励むようになったことが記されている。→著者自身が不審な体験をしたことも含めて怪異な現象が実現した事例を記しています。こういう話はよく聞くけれども、たいてい「まゆつば」の話としてやりすごすことが多かったのですが、具体的な事例と著者自身の実話として読んでいると「あり得るのかな」という気持ちになってきました。
このあと、著者の父と母の死の顛末が克明に記されている。さらに降霊術師による霊媒を通じた死後の母との会話が克明に記されている。ここの記述は長くて具体的、詳細である。この後の考察の基礎になっているのではないかと思われる。→母子の情愛がこもった、しかも一回きりの対話として感涙をさそう記述であってきわめて印象的な部分である。
「霊について研究した人々」
心霊主義スピリチュアリズムは超越的、絶対的意思(摂理)とつながることによって高い理想を実現し、人類の救済を理念としている。宗教と重なる部分はあるが、霊魂の存在を科学的に証明しようとする点で既存の宗教とは違う。18世紀以後欧米でひろまってきた動きで、自然科学の飛躍とは別に心霊研究もひろまってきた。生死にかかわらず存在する存在を真体とよび、肉体をまとって生きている真体が魂であり、肉体を失った真体が霊である。魂は自由に動き回ることができ、他の魂や霊とも交感することができるが、肉体をまとうとその交感能力は封じられる。憑依とは他界した霊が他者の身体が不調な時などに勝手に入り込み、元の魂を押しのけて勝手に着ぐるみ(身体)を操作する状態である。→興味深い考え方だと思いますが、これは科学に考察した結果の結論なのでしょうか? そこがわかりません。
近代スピリチュアリズムの系譜として、スウーデンボルグ(1688~1772)(ストックホルム生れのルター派の聖職者、『霊界日記』(霊と霊界に関する体験記)を記述)の紹介。
欧米における近代スピリチュアリズムの展開として、アメリカのニューヨーク州ロチェスターのフォックス家で起こった怪奇現象(異音を感じ、自分の指を鳴らすと指を鳴らす音で応えるなどをきっかけに霊と交信し、それによって、かつてここで殺された行商人の骨と毛髪を発見 1847~48年)この後、米国で交霊会が広まる。リンカーン大統領も霊媒をホワイトハウスに呼んで施政の参考にしたという。
英国のダニエル・ダングラス・ホーム(1833~?)は霊媒として空中浮遊などさまざまな怪異現象を起こしてみせた。ウィリアム・クルック(タリウムの発見者)は心霊現象も研究してケーティ・キングという女性の霊と交流し、その写真をとったり、脈拍まで測ったという。フランスのシャルル・ロベール・リシェ(クラゲのアナフィラキシーの研究でノーベル賞)も霊媒研究を行ない、霊の媒体をエクトプラズムと名づけた。
フランスのギュスターブ・ジュレは臨床医をやめ、国際超心理現象研究所長となり、さまざまな心霊現象の実験を行なった(物質化した霊の鋳型をとるなど)。
英国の古典文学者だったヘンリー・マイヤーズは英国心霊協会会長を設立(1882年)したが、死後6年たった1907年、交霊会に表われて霊界からの通信を予告し、英国とインドの3箇所の霊媒と交信した。
英国国教教会牧師ジョージ・ヴェイル・オーエンは自動書記能力を研究しているうち自身にその能力が発現し、国教牧師を離れて通信内容の記録を1925年に刊行した。
同時代のオ-ストリアのルドルフ・シュタイナーは「人は死後通常の五感を超えた霊的感覚を得てはじめて事物の本質がわかる。誰でも霊的感覚は瞑想により引き出せる」と説いた。
アイルランドのジェラルディン・ドロシー・カミンズはトランス状態における自動書記によって霊界から送ってきた通信を記録してその内容を出版。
赤十字創立者のJ・アーサー・フィンドレー(英)は1920年にグラスゴー心霊教会を創立。霊言現象の研究。
スピリチュアリズムは第一次世界大戦から1930年の間に物理的心霊現象の研究から、心理的心霊現象や心霊治療の研究へと移行する。心理的心霊現象を持つという人々が出現し、死後存続の証明が試みられる。物理的法則に反する現象や霊界通信を科学的に証明しようとするサイキカルリサーチの条件が厳しくなり、厳重に管理された実験室以外での現象は認めなくなった。1930年代に入ってサイキカルリサーチから超心理学が分かれる。デユーク大のジョセフ・バンクス・ラインは人間の個性の死後存続や霊の証明の存在というテーマを放棄して研究対象を超感覚的知覚と念力に絞った。
→これらの学会の動きや論議は難解で私にはとても理解できませんが、その熱意とエネルギーには圧倒される思いです。
人は死なない
摂理と霊性 科学は人々に大きな恩恵を与えていることは確かだが、まだまだ解明されていないことは多い。現実の臨床現場では普遍性が見出せるまでに至らず個別性が目立つことが少なくない。われわれを取り巻く森羅万象が解明されるほど、すべてが完璧にできていることを思い知り、その完璧さは摂理(神)の業としか思えない。摂理や霊魂の概念は自然科学の領域とは次元を異にする領域の概念であり、その存在の科学的証明をする必要はない。霊的現象の体験や見聞を通じて受ける啓示あるいは導き出される理念,真理こそが本質である。現代人は昔の日本人のような霊的なものに対する感性を徐々に失ってきたが、そのまま消滅していくとは思わない。
→確かに自分自身も霊性にようなものを感じたり、ふれたりした体験があります。私の場合は、それが大岡山とつながる体験だったのも不思議な感じがしています。詳しくは当日お話します。
良心とは人がこの世で生きていくための道標となる摂理の声であり、我々はその声に素直に従って生きていけばいい。
→結びに近いところのこの一文は、それまでの何かおどろおどろしいような印象を与える記述と対比するような、ほっとする印象を残してくれるように感じました。
以上、自分なりにポイントだと感じた点をピックアップしましたが、これは個人個人違うのだろうと思います。「自分はここがポイントだと思う」というかたがいらっしゃったら是非当日、お聞かせいただきたいと思います。
それらについて、勉強会当日話し合いたいと思います。
に関する取り決め)
歴史:
1945 9月連合国連合国による日本占領開始;
1949 4月北大西洋条約機構(NATO)成立 10月中華人民共和国建国;
1950 6月朝鮮戦争勃発;
1951 9月サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約調印(発効1952年4月);
1952 2月日米行政協定調印(発効4月);
1953 1月米アイゼンハワー政権発足・10月行政協定17条改正議定書・公式議事録発効;
1957 1月ジラード事件発生・7月砂川闘争・砂川事件発生;
1959 3月東京地裁米軍の駐留を認めている行政協定を違憲の判決(伊達判決)12月跳
躍上告で最高裁判所が違憲性を判断することなく差戻し判決;
1960 1月に日米新安保協約・日米地位協定調印+
問題点:
①講和条約後の米軍占領体制の継続―国際情勢の背景、
②条約適用範囲の拡大―日本および周辺地域から東南アジア・インド洋地帯まで拡張、
③米軍関係者による犯罪、騒音、環境汚染など公害、飛行体の墜落などの事故ー沖縄の受難、
④日本側の不平等性の受容ー明治期の条約改正の動きとの相違
地位協定問題条文一例:第7条 合衆国軍隊は、日本国政府の各省その他の機関に当該時に適用されている条件よりも不利でない条件で、日本国政府が有し、管理し、または規制するすべての公益事業および公共の役務を利用することができ、並びにその利用における優先権を享有するものとする。
今後の展望:どうしたらよいか?
参考文献:
山本章子「日米地位協定」中公新書、
松竹伸幸「日米地位協定の真実」集英社新書、
梅林宏道「在日米軍」岩波新書
(はじめに)『日本の電機産業はなぜ凋落したのか』集英社という最近刊行された書籍があります。大手電気機器メーカーの副社長を親に持ち自らも別の電気機器メーカーの海外現法の副社長などを体験された桂幹さんが、実体験を踏まえて書かれたもので、鋭いユニークな指摘が含まれていて、価格も税込1043円と比較的安いけれども内容が豊富で、この問題を話し合う時には一読をお勧めしたい本です。
一読して大いに賛同する点もあれば、部分的には同意するが「それだけかな?」と感じる部分も、ちょっと抵抗を感じるというか引っ掛かる部分もあります。著者は元経営者の視点で書かれていますが、広告、広報、PR、渉外などに関連する対外コミュニケーシン、つまりチンドン屋としての視点から私見とドグマを展開したいと思います。
なお、ご質問などが出そうなのであらかじめお断りしますが、東芝についての問答は今回、一切いたしません。タイミングが微妙な中で、古いことはともかく最近の情勢を私が語ると不正確な問答になって、結果として皆様や関係者にご迷惑をお掛けするおそれがあるからです。個別の企業について話すのではなく、電機産業全体に通じる問題や課題に視点を当てて話し合いたいと思うからです。
チンドン屋としての指摘ですから、主にその分野からの見方に偏ると思いますが、あらかじめご了承ください。
1. 日本の電機産業は時代の流れに乗り遅れたか?
2. 新興国に追い抜かれたのはメーカーに油断があったからか?
3. 経営ビジョンと企業イメージ、企業風土、決断力の点で日本企業に弱みがあったか?
4. 従業員の士気が低下していったか? 社内PRに問題があったか?
5. 企業自身で解決すべき問題と企業だけでは解決できない問題。
6. チンドン屋の世界の変貌。
7. 日本の電機産業は凋落したのか?
8. 社会の醸しだすステロタイプ的観念。エネルギー問題について。
■旅の動機と印象
6月上旬,初めてスペインのアンダルシア地方を旅行してきた.アンダルシア地方は8世紀前半から14世紀後半まで長期間にわたってイスラム教徒・アラブ人の支配下でキリスト教徒とユダヤ教徒が共存したヨーロッパで唯一の地であり.またギリシャ文明を引き継ぎ,発展させ,それをヨーロッパに伝えた中心的な場所の一つでもあったので一度ゆかりの地を見たいと思っていた.さらに,グラナダのアルハンブラ宮殿をはじめとする歴史的建造物をこの目で見たかった.
今回の旅行では,パリで飛行機を乗換えてマラガに入り,翌日からセヴィーリャ,コルドバ,グラナダ,ジブラルタル,ミハスなどをバスと電車で訪ねた.田舎を走るバスの窓の外には見渡す限りのオリーブ畑やひまわり畑が広がり,高速道路脇に植えられた夾竹桃の鮮やかな紅色が彩りを添えていた.訪ねた各都市では壮大なモスク,教会,宮殿,それらの建造物の内部にしつらえられた繊細かつ計算しつくされたイスラム文様の装飾や噴水をいたるところにあしらった涼し気な中庭などアラブ・イスラム文明の粋に堪能させられた.街の中心部に隣接したユダヤ人街は当時の面影をそのまま残し,夕刻になると石畳のテラス席で涼をとりながら飲物を楽しむ人々で溢れていた.一週間程の旅行期間中天候に恵まれ,日程の最後近くヨーロッパ最南端のジブラルタルからアフリカ大陸を指呼の間に望んだとき日差しはすでに真夏のようだった.(写真1 ジブラルタルからモロッコを望む)
■イスラム世界の急拡大とイベリア半島支配
イスラム世界が世界史上類をみない急拡大を遂げたのはムハンマド(モハメッド)が没した共通暦(西暦)632年以後である,イスラム軍はまずアラビア半島から地中海東部に進出してシリア,パレスティナ,アレクサンドリア,エジプトを破り,イラク,イランを占領し,さらに東進してウズベキスタン,アフガニスタン,パキスタン,インドのインダス川流域に至った.イスラム勢力は661年にダマスクスを首都としてウマイヤ朝を開いた。その後750年にはウマイヤ朝は内乱に破れアッバース朝が成立した.アッバース朝の首都は776年にバグダッドに移転した.
西方に話を戻すと,ウマイヤ軍が北アフリカを西進してジブラルタル海峡を渡ったのは711年である。北アフリカの西進はベルベル人の頑強な抵抗にあって手間どったたが,海峡を越えた後は快進撃に転じた.ウマイヤ軍は716年までに僅か5年ほどでイベリア半島のほぼ全域を平定した.イベリア半島はもとはローマ帝国の属領だったが,5世紀後半から西ゴート人に支配されるキリスト教国になっていたのでここにこれも世界史上例のないイスラム教徒によるキリスト教徒および同地に住んでいたユダヤ教徒に対する支配が実現することとなった.その後756年にウマイヤ朝の血統を継ぐアブドル・ラフマーンがアンダルシア入りして王位につきコルドバを首都として「後ウマイヤ朝」を開いた。その後カトリック教徒による国土回復運動によって次第に狭まったもののイスラム教徒によるイベリア半島支配は1492年に最後のイスラム王朝がグラナダを去って半島を退くまで780年もの間続いた.(写真2 コルドバのユダヤ人街)
イベリア半島進出に際してのイスラム教徒側の基本方針は軍事力によって強引に征服するのではなく,政治的服従と追加課税を前提に住民の生命,財産,身分,信仰の自由などを保証し,事実上の自治を認めるという寛容度が高いものだった.その背景にはイスラム側の人的資源が限られていたことや,ユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓典の民」(同源の一神教徒)とみなしていたこともあったが, 結果としてこのやり方が,侵入に際してもその後の統治に当たっても奏功した.カトリックの三位一体論に異論を唱えて迫害を受けていたキリスト教徒や西ゴート時代に宗教的弾圧を受けていたユダヤ人の支持があったことも有利な条件だった.イスラム教の教義が単純でわかりやすいものであったことと教会組織が簡素なものだったこともプラスに働いたと思える.社会経済的にみるとイスラム国の大発展はユーラシア大陸の中央部を占め,地中海,インド洋,を結ぶ結節点に位置したことが当時の国際的な商業の利益を最大限に享受しうる立場にあったことと密接に関連していることを否定することはできないだろう.
■ギリシャ文明の継承と発展およびヨーロッパへの衝撃
ギリシャ文明は第一義的にはビザンツ帝国に引き継がれたとみるのが自然だろう.しかし学問的文献に関する限りそうでもなさそうだ.一部は失われた.古代最大の図書館といわれたアレクサンドリアにあった図書館は4世紀末に教皇テオフィリウスの時代にギリシャ異教の象徴として破壊された可能性が大きい.残された文献も多かったと思われるが温存されるだけで活用された形跡がない.ビザンツ帝国の領土でイスラム教徒が奪ったシリアやエジプトなどの文献をはじめとして多数の文献がギリシャ,ペルシャ,インドなどから収集されたのはアッバース朝時代の首都バグダッドに作られた「知恵の館」である. 「知恵の館は単なる図書館ではなく」翻訳センターでもあり,研究センターでもあったから各地から優秀な人々が集まった.翻訳は主としてギリシャ語からアラビア語への転換であった.内容としては天文学,医学,数学など自然科学的な分野に重点が置かれていたので.「科学の館」のような様相を呈していたともいわれている.有名なフワーリズミもこの館の研究員であり,方程式の解法を案出した.アルゴリズムという言葉は彼の名前に由来している.天体の動きと引力を研究していた研究者の一人はニュートンの万有引力の先駆けとなる研究成果を発表していた.これは天界と地上の法則を厳密に区分していたアリストテレスの自然学とまったく異なるもので,このことだけから見ても,単なる翻訳以上の研究の発展が行われていたことが覗われる.
11世紀の前半から12世紀の前半にかけて最も重要なギリシャ文明の研究センターはコルドバに移った.コルドバではギリシャ語からアラビア語,アラビア語からラテン語への翻訳作業と平行して翻訳者による詳細なコメントが付されたり,別の形で独自の意見が発表されたりした.コルドバには多くの優れた学者が集まったがその中の一人にイブン・ラシュド(ラテン名アヴェロイス,1126-1198年,コルドバ゙生れのユダヤ人)がいた.(写真3: コルドバのユダヤ人街で見つけたイブン・ラシュドの家につけられた碑銘板).彼はアリストテレスの注釈者として著名でありヴァティカン美術館にあるラファエロの「アテネの学堂」という絵画の登場人物のなかにソクラテス,プラトン,アリストテレスらと一緒に描かれている.
イブン・ラシュドはアリストテレスの「アニマ」という作品の注釈で「知性が普遍を構成する」と述べてアリストテレスの考えをいっそう明確にしている.当時の神学が普遍は実在する(だから原罪はだれにでも当てはまる)としていたことと真正面から衝突した。こうした新しい自然哲学はレコンキスタが進む中で1150年代から続々とラテン・キリスト教国に伝えられたが,1250年にはアリストテレスとイブン・ラシュドの学説についてパリ大学の講義で取り上げることを正式に禁じられるなど大騒ぎとなった.当時の進んだ学者(アベラール)や学生はみなアリストテレス,イブン・ラシュド派であり禁止は実効を挙げなかったが,アベラールの場合のように大学から追放されるなどの大きな犠牲も払われた.
ローマ帝国崩壊後のラテン・キリスト教国はアルプスの北に隔離されたまま何百年もアリストテレスの名も聞かぬまま過ごしていた.アラブ・イスラム経由ではじめてギリシャ諸学とその発展型が伝達されたときの衝撃の大きさをこれらのエピソードが雄弁に物語っている.ギリシャ以来の進んだ知見の受け入れを阻んでいたスコラ哲学の崩壊によって,ラテン・キリスト教国はこのときはじめてルネッサンスと17世紀科学革命への糸口をつかんだのだった.(了)
(文献)
ウィキペディア アテナイの学堂
立石博高ほか著,スペインの歴史,昭和堂
メノカル,寛容の文化(The Ornament of the World),名古屋大学出版会
ルーベンスタイン,中世の覚醒(Aristotle's Children),紀伊国屋書店