谷野 作太郎
谷野 作太郎
佐藤純子 元諮問委員に聞く(聞き手 谷野作太郎 元駐中国大使)
日中友好会館 2024・01・31 発行
当会館の佐藤純子文化事業諮問委員は、1957年に日本中国文化交流協会に入職され、爾来現在まで日中文化交流の最前線で活躍されておられます。私ども会館の役職員は、折に触れて佐藤元諮問委員から、同氏が敬愛する周恩来元総理の思い出、日中国交正常化のために両国文化人が果たした役割、同氏が北京訪問中に起こった天安門事件の体験などについて大変に興味深いお話を伺ってきました。
これらは、現場の当事者しか知り得ない生々しい体験談であると同時に、日中双方の多くの先人達が如何に両国関係の改善のために努力したかを示す記録でもあると考えます。
このため、当会館の谷野作太郎顧問の発議により、佐藤元諮問委員より改めてお話を伺ったうえで、これをインタビュー形式の記録として後世に残すこととしました。現在と今後の日中関係に従事する方々が、先人達の思いと貢献を知り、これからの仕事の参考として頂ければ幸いです。
話者の紹介:
1934年、山形県鶴岡市生まれ。現在、日本中国文化交流協会理事。2011年より 2023年まで日中友好会館「文化事業」諮問委員。
1957年から日本中国文化交流協会に入職し、事務局長、常任理事、専務理事を歴任。70年にわたり、日本と中国の文化交流の促進に尽力。
1936年、東京都生まれ。現在、目中友好会館顧問。
1960年、外務省入省。第10代日本国駐中華人民共和国特命全権大使(1998年5月~2001年3月)。日中国交正常化、平和友好条約締結、平成時代の天皇皇后御陛下のご訪中など、外交の舞台裏に精通。
第1回(2023年5月24日)
谷野:今日は日中文化交流協会の創設直後から、長年お勤めの佐藤さんにお越しいただいて、お話を伺おうと思っています。
日中文化交流協会は、日中友好団体、そのうちの一つです。歴史的には、国貿促や日中友協のように大変古い歴史を持っています。56年に中島健蔵さんと千田是也さん等が設立されたと伺っています。
お仕事としては日中文化交流全般、文学、映画、演劇、舞踊、美術、写真、書道等、いろいろと幅広い多くのところに日々関わってこられたわけです。
まず、この交流協会にお勤めになるに至った経緯、その中で佐藤さんの周恩来総理への熱い思い、そのあたりの話から、よろしくお願いします。
佐藤:私が日中文化交流協会という団体に勤めることになった経緯ということですね。
実は私の生まれは東北の山形県です。私は1934年の生まれですけれども、その時代はまさに戦争の時代で、大体、親や兄弟が兵隊に行くという時代でした。ですから、私の少女時代には、中国という国は日本の人が兵隊に行く国というような印象でした。けれども、幸いなことに、私の父も、私の周辺にいた人も、誰も兵隊に取られなかった。そういう状況が一つあります。ですが、中国というのは身近なものではないけれども日本の兵隊が行くところだと。兵隊を送るために、駅で「万歳、万歳」という時代でした。みんな中国へ行って、戦争が終わる頃には白いお骨になって帰ってきて、それを迎えに行く。そういう時代でした。だから、中国という国は日本と戦争した国だということしか知らない少女でした。
そのまま成長してしまって、中国はあまり身近に感じていなかったのですが、ちようど大学に入って2年生の時に、1954年だと思います。渋谷の映画館に映画を見に行きました。それは外国映画で、題は忘れましたがラブロマンスのような映画を見に行ったのだと思います。その当時、本編、劇映画をやる前に、必ずニュースというものをやっていたのです。
谷野:ありましたね。
佐藤:ご存じでしょう。国際ニュースや日本ニュースというものです。
その時に、1954年の何月か忘れましたが、文献を見れば分かると思いますが、ジュネープ会議というものが開かれたということが国際ニュースで出たのです。当時の国連の事務総長のハマーショルドという人が、ジュネーブ会議のことについて談話を発表するというニュースでした。
ジュネーブ会議の一番大きな問題は、第2次世界大戦の戦後処理ですよね。インドシナなどが次々に独立して、つまり第三世界というものが独立していくという節目の会議だったわけです。
ハマーショルドが、ジュネーブ会議は成功裏に終わったと。成功裏に終わることができた大きな力になった人は周恩来だという話をしたのです。周恩来の外交的な手腕というものが、そのジュネーブ会議が成功することに非常に大きく寄与したという話をなさって、その上に、周恩来に自分は昨日会ったけれども、周恩来にもし会ったなら、何人も自分がいかに野蛮人であるかということを感じないわけにはいかないと。それほど周恩来という人は外観だけではなくて、いわゆるスマートという言葉があるでしょう。スマートというのは日本ではとても格好いいというようなことだけにしか取られないけれども、英語そのものの Smart には、もっと深い意味があります。そういう意味で、ハマーショルドがこの言葉を使ったのです。非常にスマートな人であると。周恩来のことをものすごく評価する演説をなさったのです。
それで、そのニュース映画に周恩来の姿が映ったのです。グレーの人民服を着て、若い時に馬から落ちたということで、そのために左手がいつもこういうふうになっていて、それがまた何とも格好いい。この人が周恩来なのかと。その時、私はまだ2年生だから19歳です。こういう人がいるのかと、一挙に周恩来という人に魅せられたのです。
その時代というのは、谷野先生もご存じのように、エジプトにはナセルがいるし、インドネシアはスカルノでしょう。まだインドのネルーも生きていると思います。
54年というのは、ヨーロッパにしても政治家のド・ゴールやチャーチルがまだ生きていたのではないでしょうか。そういう時代でした。
私なんかは、政治家といえばチャーチルやトルーマンしか分からない。それが、中国という国があって、しかもそこに周恩来という人がいるということに、ものすごく強くインパクトを私は感じました。それと同時に、周恩来という人を見たために、中国というものがすごく身近に感じられたのです。それが私の中国との出会いです。
周恩来という人に、その後、自分がこういう仕事をして、5回もお会いするというとても幸せな人生だったと思います。
谷野:スマートというのは、恐らくおっしゃるように、佐藤さんは英文科だから、格好いいというだけではなくて、品格とかそういうことですね。
周恩来さんの話では、私は73年から75年まで、若い身で北京に、大使館に勤務していましたけれども、その頃の私の仕事というのは、大使館ができたばかりで、大使館の立ち上げ、運営全般を事務方で任されていたので、日中の外交の場面はほとんど同席することもなく、周恩来さんを遠くからお見かけすることはありましたけれども、彼の近くで観察するという機会はありませんでした。
ご存じのように、あの方は天津の南開学校を出て、日本に留学されて、しかし、志を遂げることもないまま京都に遊んで、帰国してすぐにフランスに渡った。そこで鄧小平さんとの出会いなどもあったわけです。
外交面では、確かにおっしゃるようにジュネーブ会議等がありましたけれども、ジュネーブ会議で反共の闘士、ダレス国務長官が周恩来氏との握手を拒否した話は有名です。その後も米中の国交正常化に向けてのお仕事、日本との関係でも田中総理の訪中を取り仕切った。文化大革命の最中では、どろどろした権力闘争の中で、いろいろ苦渋、苦労された方ですけれども、何とか目中正常化実現の後、もう一回日本にお迎えしたかったと思いますが、それがかなわなかったのは非常に残念です。
話は戻って、中島健蔵さんのことを少し。
日中文化交流、あるいはその中でも文化交流協会の話をする時に、この中島健蔵さんの存在は欠くべからずかと思うのですが、どういうことを思い出されますか。
まずは、中島健蔵さんというのはフランス文学者であり、翻訳家であり評論家、中国にはあまりご縁がなかった方ですが、設立以来、この日中文化交流協会の最高責任者になられたことは、どういう経緯があったのでしょうか。
佐藤:そのことをお話しするためには、千田是也という人の存在がとても大きいのです。
千田是也は 1955年に中国に行きます。その頃、憲法擁護国民連合という組織があって、片山哲という人がその憲法擁護国民連合の会長だったのですが、俗に護憲連合と言っていました。その団体が中国に行くということで、千田さんがそのメンバーの一人として1955年に中国に行ったのです。
そこで劇的なことが起きるのです。千田是也と廖承志との再会です。再会というのは、1930年代に廖承志も千田是也もドイツで勉強していたのです。その頃ドイツに行った人はたくさんいて、例えば後に中国の対外友協の会長になる王炳南や章文晋、みんなその時代にドイツで勉強していました。しかも、千田さんと慶承志は、ただ同じ時期にドイツにいただけではなく、ドイツ共産党に2人とも参加するのです。ドイツ共産党アジア部というところに2人とも属していたらしいです。
その当時の話は千田さんからよく聞いたのですが、共産党でも身分があると。共産党はみんな平等と言っているけれども、ドイツの共産党でも、アジア人の僕や廖承志は差別されたという話を聞いたことあります。だから、ドイツ共産党のアジア部の人たちは、ものすごく辛い仕事をさせられたと言っていました。ですから、その当時からの同志なわけです。
ご存じのように、廖承志は大変良家の息子です。廖仲愷の息子ですし、お母さんは有名な画家の何香凝です。その当時にドイツに留学するというのは大変なことで、財政的にも格式が高い家だったわけです。千田さんもやはりそうで、長くなるからあまり話しませんけれども、その時にドイツで一緒だったわけです。
それが30年代ですから、55年に北京で再会したのは二十何年ぶりになるわけです。2人はお互いに抱き合って、しかも、その間に戦争を挟むわけでしょう。2国間で戦争をやって再び相まみえるわけですから、どれだけの思いで再会したかということは、もう想像しても胸が熱くなります。
千田是也の本名は伊藤圀夫というのですが、水戸光圀の圀です。だからみんな昔の人は、例えば中島先生も千田さんのことは「圀ちゃん」と言っていました。私はなぜかなと思っていたら、本名の圀夫のことを言っている。だから、承志も「圀ちゃん」と言って2人で抱き合った。そこで、周恩来の命を受けた廖承志が、日本と中国との文化交流を専門にやる団体を立ち上げたいという話をしたそうです。
1949年に中華人民共和国が成立されて、翌年の1950年に日中友好協会が成立します。日中友好協会の初代の会長は社会党の松本治一郎という人です。日中友好協会しかないわけですから、中国との交流は日中友好協会がやっていたわけです。それから 1954年に今度は国貿促ができる。
日中文化交流協会は56年ですから、その間、49年に中国が成立されてから、ご存じのように初めて中国の土を踏む日本人は1952年、帆足計、宮腰喜助、高良とみという3人です。貿易の話で、戦後、新中国ができて最初に足を踏み入れた3人です。
それを契機にして、やはり中国とはものすごく長い歴史があるわけですから、中国というものが、みんな近い感じになったわけです。中国に行きたいという文化界の人がものすごく増えたわけです。
その頃、50年代というのは、ジュネーブやカイロ、タシケントなどいろいろなところで国際会議があった時代です。その国際会議に、日本からも、例えば杉村春子、武田泰淳、木下順二、堀田善衛、そういう人が随分会議に参加しました。その会議に、たまたま中国の人も参加している。そこでものすごく久しぶりに再会するということも起きるのです。
例えば謝冰心は、ご存じのように児童文学者ですけれども、若い時にアメリカに留学して、ものすごく英語が上手で、戦争中は日本に住んでいたこともあって、東京大学の講師もやっていました。だから、日本とものすごく密接です。謝冰心と堀田善衛や武田泰淳は何年ぶりかでカイロで会って、ものすごく親密になるのです。
それで、帰りに中国に寄らないかと言われて、みんな国際会議の帰りに中国に寄るということがものすごく増えたのです。
例えばそういう形で行っている人は、音楽家の芥川也寸志、文学者では堀田善衛や武田泰淳、木下順二、映画の木下恵介、杉村春子もそうです。そうすると、帰つてきて旅券法違反ということになりますよね。
谷野:まだそういう時代ですよね。
佐藤:旅券については、その頃は中国とは国交がありませんから行き先国とすることはできません。どこかの国の中国機関から、ビザをもらって、中国に行ったことは旅券法違反になる。けれども、日本の外務省はものすごく柔軟で、できている始末書があって、始末書のフォームに「今後いたしません」と書けばよかったそうです。杉村さんがいつも言っていました。簡単なの、旅券法違反というとものすごく大きな罪のようだけど、何でもないのよと。「もう二度といたしません」と書いて、また行ってしまうと大笑いしていました。そういうとてもいい時代。鳩山内閣の時です。56年まではね。
谷野:分かりますね。
佐藤:鳩山さんが体を悪くして、石橋さんになるでしょう。石橋さんの時代もいい時代でした。それが岸さんになってガーッとなってしまう。
ですから、国際会議の帰りということで、中国は随分多くの人を迎えていると。やはり日本と早期に国交を回復したいという気持ちは、周恩来には猛烈にあったと思います。中国という国自体が。
脱線しますけれども、あれだけ多くの人口を抱えた国が、1949年に独立を勝ち取ったわけですけれども、いろいろな意味で大変なわけでしょう。唯一の同盟国であるソ連は、そういう意味では頼りにならない。やはり日中というのは、いろいろな意味でものすごく重要だと考えたと思います。
ですから、周恩来としては、国と国の正常化を図るためには、政治家同士だけでは駄目だと。世論というものを喚起するためには、文化交流は非常に重要だという考えだったと思います。それはとても正しい考え方だったと思います。
それで、廖承志は千田さんに二十数年ぶりに会って、実はこういう構想があるということで、民間の文化交流を専門にやる団体を立ち上げたいと思っているという話をする。それで千田さんも大賛成だと。北京に滞在中に、そういう団体を立ち上げるという協定を結ぼうとまで言われました。
千田さんはそこで、そういう団体を立ち上げるのは自分としても大賛成だけれども、誰がそのトップをやるのかはものすごく大切なことでしょう。自分は俳優座で仕事がいっぱいでそういうことはできないと。でも、そういう団体をつくろうという周恩来や廖承志の構想を聞くと、決して幅の狭い人では駄目だと。ものすごく幅の広い、求心力のある、つまり統一戦線という概念が非常に強い文化人でなければ駄目だということを考えて、千田さんは北京にいる間に、これはもう中島健蔵をおいて他にはないと思ったわけです。
そこで、千田さんは北京から中島先生に電報を打ったらしいです。こういう団体をつくろうという話が出て、自分は署名するけれども、あなたがこの団体の長になってもらえないかと。中島さんは断ったらしいです。もうそのことはよく言っていましたが、自分は中国と何の関わりもないと。人も知らないし行ったこともないと固辞したらしいです。でも、とにかく千田さんは諦めない。署名して帰ってきて、中島さんに猛攻するわけです。
中島さんと千田さんは普段からものすごく仲がよくて、中島先生が俳優座の理事をやっていて。中島先生は付属で、千田先生は一中です。谷野先生は日比谷高校、一中ですよね。この間おっしゃっていましたよね。
谷野:私は日比谷高校になってからの卒業生ですけれども。千田是也さんといっても、今の人たちは既になじみがないかもしれませんが、今のお話を伺うと、やはり協会の立ち上げの中で、まずは千田さんの役割が非常に大きかったのですね。
佐藤:ものすごく大きかったのです。
谷野:当時の一中、私たちは鼻高々だったのは、演劇界の千田是也さん、噺家の徳川夢声、或は尾崎紅葉、土岐善麿、横山大観、夏目漱石、谷崎潤一郎、大佛次郎・・この人たちは皆一中生。
佐藤:そうですね。みんな日比谷一中でしょう。
谷野:ああいう多彩な人たちを輩出した学校だったのですね。
その千田さんが日中文化交流協会立ち上げに際し、非常に大きな役割を果された。そこで、中島健蔵さんの話になると、確か戦時中、旧日本軍によるシンガポール華僑の虐殺の件を現地で知るに及び、大変心を動かされたことがあったのですね。
佐藤:そうですね。それが中島健蔵の中国というものに対する原点というか。
谷野:シンガポールを訪問されて。
佐藤:訪問というよりは、陸軍の報道班員という一種の招集です。戦時中、昭和18年かな。中島健蔵は年齢も高かったし、戦時中でも招集、いわゆる兵隊には取られないわけです。けれども、私もよく分からないですが、文化人を専門に、徴用と称してシンガポールに行かされたのです。作家の井伏鱒二、海音寺潮五郎という人たちと一緒にシンガポールにやらされた。それは陸軍報道班員ということで、仕事は翻訳というようなことをやらされたらしいです。
シンガポールに中島さんがいる時に、シンガポールで華僑の大虐殺ということがあったわけです。中島先生が、夜、シンガポールの街を散歩している時に、ある母親が自分の息子の写真を持って、この息子を知らないかと何度も何度も尋ねられたそうです。日本の陸軍は華僑の大虐殺はやっていないとしらを切っていたらしいですが、あったのは事実らしいです。
その華僑の母親の顔が、中島健蔵にとってはずっと忘れられないことだったわけでしょう。だから、戦争中も中国には行っていない、シンガポールしか行っていないわけですから。中島先生の戦争体験はシンガポールしかないわけです。そこで会った華僑の母親の顔が、後年、中国との仕事をする時の原点だと、ご自分でもいつもそうおっしゃっていました。千田先生にいくら駄目だと言っても、とにかくあなたがやってくれなければこの団体はつくれないと千田さんに言われて仕方がなく、やろうと思った原点は、その華僑の女性の顔だという話です。
それで、引き受けて、1956年の3月23日に創立総会をするのです。これがその創立総会の写真です。日本中国文化交流協会創立。
谷野:シンガポールには、ご存じだと思うけれども、虐殺の慰霊のための大きな祈念碑がありますね。私は、たまたま両陛下にお供して、当時の陛下、上皇様と上皇后様がお花をささげられて。
それで、文化大革命になる。その間にあっての周思来、一方に毛沢東、なかんずく毛沢東の夫人の江青ら四人組に対するに、劉少奇とか鄧小平、その間で非常に苦労されたわけですけれども。
今、私は時間もあって、当時の記録や、四人組の裁判の記録などを読んでいるのですが、それから江青の秘書の備忘録、回想録、すさまじい歴史だったなと思います。
佐藤:そうですね。
谷野:その中にあっての周恩来のご苦労というのは、時には文革の犠牲者になった賀竜将軍などをひそかにかくまって。
佐藤:賀竜や彭徳懐などね。
谷野:しかし、最後は米中を成し遂げ、日中を成し遂げ、しかし、その周恩来は、晩年は毛沢東に散々いじめ抜かれ、ご存じのように毛沢東は葬儀にも出てこなかったわけですから。
佐藤:本当にそう思いました。
谷野:しかし、最後の病床で、彼は、その毛沢東をたたえる歌を口ずさみながら亡くなっていったという。何と言うか、心が痛む以上に凄惨な話ですね。
そういう中で、文革で巴金や老舎など吹々と犠牲になっていく。とにかく佐藤さんの協会が、先ほど来お話しの交流の相手だった人がどんどん文革で消えていく、犠牲になっていく。それに対して、日中文化交流協会はどういう対応をされたのですか。
佐藤:ご存じのように、日本と中国は長い友好の歴史があるとはいえ、今の中国は社会主義の国ですし、文革の前もいろいろな意味での政治の時節があります。例えば58年の長崎国旗事件の時には全部交流が途絶するなど、いわゆる政治の時節というか風波というものは常にあります。けれども、文革というのは、そういうものとは比較できないほどの大きなことでした。だから、四人組というのも後から言われたことですし、文化大革命という言葉もまだないないわけです。
先ほども言いましたけれども、協会は1956年にできたわけですけれども、ものすごく文化交流は順調でした。長崎の国旗事件が58年に起きまして、貿易は全面的にストップしましたけれども、文化交流はずっと続けられました。日中文化交流協会も最初は会員が80人ぐらいしかいなくて、私は喜び勇んで、日中文化交流協会の事務所が丸の内にあるのがうれしくて入ったのですが、入っても月給がもらえないような時代が続きました。けれども、だんだん会員も増えて、とても順調に発展してきました。61年、62年、63年、65年は、これを見れば分かりますけれども、ものすごく多彩な交流ができた時代でした。
老舎も来る、巴金も来る、もう大物がどしどし来る。日本からも左派の人達だけでなく、井上靖、山本健吉などが行く。谷崎潤一郎は体が悪くて行けなかったのですが、谷崎もものすごく中国に対して熱心でした。そういうすごくいい時代でした。
けれども、65年の末頃から何となく変な感じがして、私たちと親しい中国の人が、だんだん表に出てこないようなことが起きて、でも、何事が起きているか分からないという時代、状況でした。文革が始まったのは66年からです。もう何事が起きたか分からないぐらい。日中文化交流協会と親しかった人が全部やり玉に挙がるわけです。どういうことなのか。
文化界の悪い4人という言葉がはやったのです。四条漢子(スーティアオハンズ)というのです。4人の悪者という意味らしいです。まず、周揚、有名な文芸評論家です。田漢、国歌の作詞家です。それから夏衍(脚本家)、陽翰笙(劇作家)、この4人が一番やり玉に挙がりました。
彼らも4人ですけれども、王洪文、張春橋、姚文元、江青、これは向こうの四人組ですよね。
先に述べた4人がスーティアオハンズという言い方で、最も強く非難されました。そして、この4人こそ協会と一番親しい人です。この人たちを悪人と呼ぶ、どういうことでこの人たちが悪人なのか理解できません。
これは代表的な人ですけれども、その他に老舎や巴金、映画関係の趙丹、張瑞芳、日中文化交流協会と親しい人が次々とやり玉に挙がっていく。『人民日報』を読むとものすごいけれども、どういうことなのか分からない。そういう時期でした。
今度は翻って日本の日中社会はというと、日中友好協会という団体は、こちらを支持したわけです。いろいろな論調、機関誌などを見ても。
日中文化交流協会はとてもそんなものは支持できない。けれども、今、四人組が権力を握っているわけですから、反論もできないのです。協会を解散するというならできます。でも、どういうふうに立ち回ったらいいか。周恩来は、76年に亡くなるわけですけれども、文革が始まった時にはまだ健在です。だから、周恩来がいるから良い。周恩来が倒れたらうちの協会は解散する。けれども周恩来がいる。廖承志は途中からもう消えてしまいました。そういう時代です。
谷野:解散はしない。
佐藤:解散、ということは随分話題に出ました。相手がみんな倒れてしまっていないし、この人たちと一緒に文化交流なんてできない。だから、もう解散しかないという論調も随分ありましたけれども、解散するということに一番反対したのは千田さんです。それともちろん中島健蔵です。
中島さんは自分が長ですからやはり動揺するわけです。役員会に来ても、今の中国は一体どうなのかということで、こんな国と交流をやる必要があるのかというような論調の人もいるわけです。でも、千田先生や、当時、土岐善磨という人もいい役割を果たしました。その時代に中島さんを守った、協会の中島さんを決して孤立させなかったという人たちの筆頭が文芸評論家の亀井勝一郎、それから土岐善麿。
谷野:皆さん、相当なお年でしょう。
佐藤:そう。もう最長老です。土岐先生は98歳ぐらいで亡くなりました。
土岐善麿、武田泰淳、写真家の木村伊兵衛も中島さんを支えました。もっとたくさんいますが、代表的にはこのような人たちです。協会の理事会の時に、とにかく今の中国は混乱していると。でも、千田さんがいつも言っていましたが、必ず終わると。こんなキチガイみたいな時代はそう長くは続かないと。だから根気よく待とうと。その時期を待とうと。そのためには、協会が分裂したら元も子もなくなってしまうと。
自分たちは協会がこんなにいい団体に育つとは思わなかったけれども、いい団体という一番の大きな意味は、すごくたくさんの文化人が結集しているということです。会員にいるということです。財産も何もないわけですから、人が財産なわけです。いい人が会員になって、これだけの協会ができたのだから解散するのはもったいない。まず、深く静かに、あまり目立たないようにやっていこうと。中国には反論もせず、賛成もせずという。
そういう態度に対して、やはり日中友好協会などからは、「何だ」と随分言われました。
谷野:他方、日中友好協会は確かにそういうこともあったのでしょうけれども、それに異をえる人たちもいて、協会は分裂しましたね。共産党系の人たちが反旗を翻した。
佐藤:そうです。今でも2つあります。
谷野:日本共産党は私としては、正直いろいろと違和感がある政党ではありますけれども、文化大革命にきちんとした立場を取ったのは日本共産党でしたね。日本共産党と中国共産党の和解が成立したのは、私が大使をやっていた時でした。
佐藤:そう。だいぶ後になってからですよね。不破哲三になってからでしょう。
谷野:この時、もう一つの和解、妥協が成立した。産経新聞です。この時それまで北京に支局が認められなかったのが認められるようになった。産経との和解、日本共産党との和解、二つのことが相前後してありました。いずれにせよ、千田是也さんの役割は非常に大きかったのですね。
佐藤:大きいですね。
千田さん自身が随分中国から批判されました。千田是也は、ドイツのブレヒトという偉大な劇作家の作品を集中的に日本に広めた人です。中国は、ブレヒトを文革で認めないわけです。
それと千田是也は日本の新劇を開いた人ですけれども、新劇というものの先生はやはりソ連です。モスクワ芸術座がやはり世界のメッカです。ソ連の新劇の一種のスタンダード、骨子というのは、スタニスラフスキーという人がつくり上げたシステムが新劇の教科書なわけです。そのスタニスラフスキーシステムというものを、日本にきちんと紹介したのは千田是也です。
だから、ソ連のスタニスラフスキーシステムを広めた千田さんイコール敵というふうに、もう千田是也批判がものすごくて、それが『人民日報』や『北京週報』に載るのです。私たちはまた載ったと思っても、いちいち千田先生には報告しませんでした。言ったらまた嫌な思いをさせるだけでしょう。『北京週報』なんていうのは千田先生のおうちは取っていないから、事務所しか取っていないから、言わないのです。
そうすると、そういうことをご注進で届ける人がいるらしくて、逆に千田さんから電話がかかってきて、また俺がやられているらしいと。事務局に言うには、絶対に反論を書くなと。僕自身も反論は書かないし、協会としても千田是也を批判したというような反論は絶対に書くなと。こういう時代は今に終わるから気長に待てと。
もう一人やられたのは杉村春子です。それももうばかみたいなことでした。山本薩夫という映画監督がいるでしょう。あの人は日本共産党員です。日本共産党イコール悪、共産党員である山本薩夫も悪、山本薩夫がつくった映画は駄目、こういうことです。
谷野:『戦争と人間』もそうですか。
佐藤:そう。『戦争と人間』という映画です。
佐藤:その山本薩夫のつくっている映画に出演しているのは駄目と。「戦争と人間』に杉村春子は出ていないのですが、文学座の若い俳優が出ているわけです。杉村さんはそれでやられるの。もうおかしいでしょう。今は笑ってしまうけれども。
まず、『戦争と人間』が一つです。それからもう一つ大問題になったのは文学座の芝居です。もう亡くなってしまったのですが、宮本研という優秀な劇作家がいて、この人が中国の孫文と宮崎滔天との友情を描いたものすごくいい芝居を書いたわけです。それを文学座が初演したのです。こういう芝居です。『夢一桃中軒牛右衛門』。
谷野:浪曲の。
佐藤:桃中軒雲右衛門かな。
谷野:確かそうです。
佐藤:字を忘れてしまって、何かで引けば分かると思います。後で調べます。
宮崎滔天と孫文の友情を描いた感動的なとてもいい芝居なのですが、その芝居の中に、長沙の師範大学の学生として若き日の毛沢東が、すごくいい役として出てくるのです。
その芝居が始まるという前日、杉村春子から協会に電話がかかってきました。その時、杉村さんは旅で名古屋にいたのですが、杉村先生から朝電話があって、中国大使館から文学座で明日からやる芝居を中止しろという連絡があったと。何のことかは分からないと。なぜこの芝居を中止しろといっているのか分からない。杉村春子に対して、すぐに中国大使館に来いと言われたと。でも、私は今名古屋にいてどうしようもないと。だから悪いけれども、文学座に言っても何が何だか分からないから、白土さんが私の代わりに行ってくれないかと。
協会の白土さんはご存じですか。先ほどから白土さんの名前はあまり出ませんが、千田さんや中島さんは最高指導者ですけれども、本当に私たち事務局の指導者はこの白土吾夫という人です。
それで、白土さんが代わりに中国大使館に行きました。そうしたらその参事官が、とにかくこの『夢一桃中軒雲右衛門』を中止しろと。
白土さんと私たちも、劇場で初演する前に舞台稽古を見ました。というのも、この宮本研とも私たちはとても親しかったのです。中国にも一緒に行きました。毛沢東は出てくるけれども非常にいいセリフを言うし、いい出方をしている。なぜこれが悪い芝居なのかと。
しかも、日本で、明日からこの芝居をするというのに、それをやめろという権限があなたたちにあるのか、と白土さんは烈火のごとく怒って大使館から帰ってきて、絶対に延期なんてできないと。もう切符も売っているし、何を寝ぼけたことを言っているのかと白土さんはものすごく怒ったらしいです。お国ではそういうことができるかもしれないけれども、民主主義の我が国ではできないと。
その参事官が、「白土吾夫、あなたを日中友好人士と認めるかどうかは、今後のあなたの行動による」と言ったそうです。白土さんは、「白土吾夫が日中友好人士であるかどうかを決めるのはあなたではない」と言って怒って帰ってきた。あまりにもばかばかしい話でしょう。だから、もしかしたら協会がつぶれるかもしれないと。私たち事務局員は、「良かったじゃない。つぶれたっていいわよ」と。
白土さんは、こういう時は酒でも飲まなければいられないと。やはり上司の中島健蔵に訴えたい。夜、白土さんと私と事務局の2、3人で中島健蔵の家に行きました。
こう言われたので、こう言ってきたと。そうしたら「よくやった」と白土さんほめられて、「お前さん、何て言ってやったんだ。もう一度ここで言ってみな」と。
「ケンチ」というのが中島さんの愛称なのですが、私たちはもちろんケンチなんて面と向かってはいわない。けれども、陰ではケンチと言っていて、「よくやった。白土、もう一度言ってみな。何て言って帰ってきた」と言うから、「白土吾夫が日中友好人士であるかどうかを決めるのはあなたではない」と言ったと。「よく言った、まず飲もう」と。
中島さんのいいところは、とにかく事務局は思いどおりに仕事をしなさいと。思う存分、何でも自分の思うように仕事をしなさい。責任は俺が取ると。いいでしょう。そういう人です。だから、ただのフランス文学者ではないのです。お酒が好きで、お酒を飲むとベロベロに酔う。中国に行ってこれから偉い人と会見といっても、ベロベロに酔ってしまってという型破りの人でした。
今考えれば本当に解散しなくてよかったと思います。
谷野:とにかく文化大革命というのは、先ほどお話があったように、一体何が起こっているのか当時の日本では全く分からなかった。政府、外務省もどこまでつかんでいたのか非常に疑問ですね。
当時、日本の政治家、社会党の方々等、そういう人が書いた訪中記が残っています。人民公社礼賛から始まって、文化大革命の毛沢東の指導による精神革命で教育改革、偉大な毛沢東の指導の下に新しい精神文化をなんてとんでもない。その背後にどろどろとした政治闘争があってね。
佐藤:そうです。だから、文革が始まった時には一つの理念として私たちも理解できました。でも、それはその名に隠れた大変な権力闘争であるということがだんだん分かってきましたね。
谷野:もう一つは、中国は党が一つの立場を取ると下は棒を飲んだように硬直的で、それは出先の大使館、総領事館も含めて、最近も残念ながらそういうところは今もあまり大きく変わっていないと思います。私が覚えているのは、1975年に蒋介石総統が亡くなって、先ほどの話ですと、北京にいらっしゃったのは、政府が派遣した代表団だったのですね。
佐藤:京大の吉川幸次郎という人が団長です。
谷野:代表団の事務方のスポークスマンをやっていたのは東大の衛藤瀋吉さん、中国の近現代の政治の専門家ですね。
佐藤:そうです。
谷野:著名な方。北京駐在のメディアの取材に対して、「蒋介石氏は、中国の歴史に残る英雄だった」と述べた。この一言だけで中国側はカンカンになって、明日にでも荷物を畳んで即刻帰れと言わんばかりでした。
佐藤さんは、その時は北京におられましたか。
佐藤:少しずれたと思います。少しずれましたが割と近い時期に日中文化交流協会から日本作家代表団が行っていて、団長が井上靖で、司馬遼太郎や水上勉、庄野潤三、そういった人たちで北京にいました。衛藤発言というのは、その時にものすごく話題になっていましたね。衛藤さんはよく知っていますけれども、知っていると言っても名前としてで、親しくお付き合いはあまりないです。一つの大きな事件といったら変ですけれども、そういうことがありましたね。
谷野:先ほどお話があった吉川幸次郎さんは大変高名な中国文学の大家で。
佐藤:そうです。立派な方ですよね。
谷野:その吉川先生は私たち若い大使館員に口頭試問をした方です。中国の文学と日本の、先ほど話に出ていた例えば谷崎潤一郎など、追いかけるテーマが中国文学とは違うと。中国の方は『詩』から魯迅の文学に至るまで。日本の方は『万葉集』から『源氏物語』、明治時代の私小説に至るまで、テーマが違う。「分かるかい?」と。
誰も答えられず、教えを請うたら、今でも覚えているのですが、君たちは中国を相手にしてこれから長い間お付き合いが始まるのだから、これは覚えておきなさいと。
それは、中国文学は『詩経』から魯迅の小説に至るまでメインテーマは「政治」だというのです。確かに『詩経』もいろいろなものがあるけれども、例えば皇帝をやっつけるという非常に政治性の高いものです。近代では魯迅もそうでしょう。『紅楼夢』だけが少し違うのかな。
他方、日本はどうなのかというと、日本文学のメインテーマは、『万葉集』から明治時代までラヴ、恋愛だと。確かに『万葉集』は恋歌が多いです。谷崎潤一郎先生の『細雪』もそうです。
その後、中国を相手にいろいろと仕事をさせていただいた中で、確かにとにかくもう「政治」です。「政治」の前には、日本の三権分立もあったものではない。「政治」が決めたら、法律、司法の独立などはないわけです。
1990何年でしたか。漁船が入ってきて捕まえた時にも、とにかく釈放せよと。日本側としては、それは今、検察当局、いずれは司法が処理をする。そこは政府がロを出せない。それが三権分立です。これに対し「いや、これは日中関係を大切にするかどうかの政治の意思、総理官邸の意思にかかっている」と。先ほど吉川幸次郎さんのお話が出たけれども、そんなことを思い出します。
今日は最後の話題として、先ほど来の話は、とにかく骨太の、自分の座標軸をきちんと持ったきら星のような文化人が多数おられたということに感銘を受けながら拝聴しました。今の日本、例えばヘイトスピーチ等がある中で、日本のペンクラブなど、そういう勢力にきちんと意見を言う文化人、言論人がいるのかという気がします。
その延長線上で、今日の話題の最後として、佐藤さんにもいろいろご指導いただいた私どもの日中友好会館の文化事業部は、3~4人の若い職員のもとでやっていますが、それぞれ大変立派な志を持って、ここに居る沼崎さんもそうですが、良くやってくれていると思います。最後に私どもの会館へのご助言、励ましのお言葉をお願いします。
佐藤:そんなことはもう。
けれども、今の谷野先生のお話を伺って、正直言って、今は、あまり日中の交流に輝かしい光というか、そういうものが見えないような気がするのです。でも、そう言ったらおしまいだと思うのですが、一言で日中友好と言いますけれども、やはり端的には中国人が日本人を好きか、日本人が中国人を好きかということでしょう。
それは、今はもうだんだん薄れてきていると思います。中国という国、中国人というものに対する日本人の好感度というか、それがやはり原点なわけでしょう。それはどうしてそうなのかということをあえて詮索しないまでも、それが今はないということは分かりますよね。だから、そういうことが一番これからどうなっていくのだろうという気がします。
それとやはり時代です。私自身が協会で仕事をしていた時代には、中国に対して、中国の文化、何千年来、中国から日本は文化の恩恵を受けたということをきちんと認識している世代でした。例えば、日本にとって中国は文化の母国であるという気持ちを持っている。その母国である中国を日本は侵略したわけでしょう。ですから、戦争に対する贖罪意識というものもきちんと持っている時代だったわけです。
でも、そういうことを今の日本人はほとんど分かっていません。やはり一番大きいのは、日中間の歴史を教えないという国の教科書の問題ということにも行き着くでしょうけれども、それは教科書だけではないと思います。世の中にあふれているでしょう。
国際連帯など、中国だけではなく、今の若者は外国の人と仲良くするということが非常に希薄になっているでしょう。その中でも、やはり中国というものに対しては、どちらかと言えば嫌な国の筆頭になるような雰囲気があるわけでしょう。本当にいろいろな意味で交流しづらい現状ですね。
文化交流というのは、結局、一番の基礎は人間と人間が本音で話し合えるということでしょう。人と人との友好というのは、相手が本音をしゃべれないようなことになったら交流できません。ですから、言論の自由、表現の自由というものは、やはり中国の人民にとってだけではなく、中国を相手に交流をする国にとっても大きな問題だと思います。
谷野:会館に何かご助言を。
佐藤:日中友好会館は、日中文化交流協会と違うと思います。それは、やはりこれだけの空間を持っておられる、ものすごく大きな力です。しかも、それがこの40年ですか、その間に定着しましたよね。それはいつも話に出ることです。
これだけの空間を持っていらっしゃる、そこで自分たちが考えたプログラムをきちんと実施できる、自分たちで決められるわけでしょう。中国に行って、政治的ないろいろなことがあったとしても、この分野のこのことをやってみようと思えば、例えば中国の凧の展覧会は前におやりになりましたね。去年も随分いい空撮写真展、それから影絵の展覧会もやりましたよね。あまり一般に知られていない中国の文化というものに着眼して、しかもそれを日本に招聘して、それをやるという力がおありでしょう。これだけの場所を持っている。だから、それはものすごくうらやましいと思います。
しかし、そういう中でも、やはり皆さまの中でもいろいろな困難はあると思います。いろいろな意味で中国と交渉もしなければいけないでしょう。それでも、持続しているということに対して本当に拍手を贈りたいし、それが本当に続いてほしいと思います。
それと、私がいつも感じるのは、実際にやっていらっしゃるのは、すごく女性が多いですよね。それもものすごく親しみを感じます。というのは、日中文化交流協会の事務局もずっと昔から女性がほとんどだったのです。
だからよく言われました。日中七団体や三団体の会議に行くでしょう。そうするとほとんどが男性ばかりで、うちの協会は結構女性が多いので、日中友好協会の人が「文交はブローチが多いからね」と。ブローチとはどういう意味かと言ったら、つまり女性はブローチだと。女性のことをブローチと言うのかと。そんな言い方はしないでよ、と随分笑ったことがあります。だから、こちらも実働部隊で女性が活躍していらっしゃることもすごく嬉しいことです。
私も、自分が日中文化交流協会の事務局に居たおかげで、諮問委員という形で関わらせていただいたことは本当に光栄なことでした。これからますます新しい企画をここで花開かせていただきたいと思います。
谷野:ありがとうございます。先ほどの話の田漢さんは、姪御さんがずっと日本にいらっしゃる。
佐藤:日本にいらっしゃるでしょう。
谷野:その時の毛沢東の手紙が残っています。師範学校に毛沢東氏がいた時に、彼は確か宮崎滔天を講師に呼ぼうとしたのでは。
佐藤:そうかもしれません。
谷野:確か宮崎滔天、晩年の毛沢東と違って極めて拙筆。
佐藤:非常にロマンチシストというか、毛沢東の若い時の詩などは本当にいいですよね。
谷野:字は下手だった。
佐藤:そうそう。下手というか風変わりな字ですよね。
谷野:あれは晩年の字ですよ。北京でよく見かけるのは。
佐藤:そうですか。すごい。
谷野:それから最後にこれです。先ほどの歴史教育の問題、確かにそこが非常に手薄になっている。日本における近現代史などはよく話題になることですが、私はやはりアジアとの、なかんずく中国、朝鮮半島、大事なことは「負の歴史」から逃げないで、それを学習し、将来に向けての教訓があるとすれば、そこから教訓を学び取る。他方、「謝罪」は今やメインテーマではないし、これを繰り返すべきでもない。
加藤周一さんも私と同じ日比谷高校の先輩で、歴史の歪曲、否定、実はこれほど日本民族の誇りを深いところで傷つける所作はないということをおっしゃっていました。(1)
(1)「歴史の歪曲は、百害あって一利なきものと思う。それは日中友好をもっと深いところで傷つける。それは、また、日本人の誇りを傷つけるだろう。日本人の誇りは、過去の誤りをごまかして言い繕うことにあるのではなく、自らのそれを直視し、批判したじろがぬ勇気にこそある。」(加藤周一)
佐藤:私も3回、中国にご一緒しました。加藤周一さんは、立派な方でしたね。
谷野:日本では近現代史の学習がいまだにおろそかになっているし、他方、少しでもその辺りの真の「歴史の真実」に迫ろうとして資料を探索し始める学徒に対しては「自虐史観」の輩!と言って特定の勢力から非難を浴びせられる。やはり自信がないのでしょうか。特にここ3~4年のコロナでみんな鬱々とした心情の下、言葉が刺々しくなりがちです。
中国も日中関係が良好な善隣関係、これが長続きして欲しいと思っている矢先に、中国が「戦狼外交」か何か知らないけれどもそんな我々の思いを足元からかっさらうような、先ほど来出てきたような言動が出てくる、本当に残念です。
先ほど蒋介石の話が出たけれども、今、中国の書店に、あれほど敵だと言ってっていた蒋介石さんの伝記、宋美齢の写真集が山のように積まれていますよ。
佐藤:そうですか。
谷野:中国は変わりますね。変わるときは、先ほど来の白土さんの話にせよ、中島健蔵さんの話にせよ、こういう人が亡くなり、こちらが基本的にきちんとした軸足を持っていないから、中国の内政が日本に持ち込まれ、分裂や分断を起こす。
今日は本当に長い間ありがとうございました。
佐藤:いえいえ。とんでもないです。文章にならないと思いますよ。漫談です。
谷野:来週もお時間をいただいて、来週は老舎や杉村春子さんの話など、個々の方々のお話をうかがいたいと思います。
第2回(2023年6月2日)
谷野:それでは、今日は佐藤さんのお話を伺う第2回目です。前回は佐藤さんから日中文化交流協会発足の経緯、その中で佐藤さんがこの協会にお勤めになった経緯、その間における周恩来さんへの強い思いについて、お話を伺った次第です。その後、この立ち上げにリーダーシップを取られた、中島健蔵さんのお話も伺いました。その後、しかし、文化大革命がやってきて、協会と深いお付き合いのあった中国側の文化人・文学者が一人一人消えていく中で、協会が火を消さないために前向きの交流を継続する方向で対応されたというお話も伺いました。
そういう中で、今日は佐藤さんをはじめ、協会とお付き合いのあった日本と中国の文化人や舞台芸術家や文学者のお話を特に伺いたいと思います。ただその前に最初の話題として、日中国交正常化の前に、中国側が日本と中国の間の文化交流というところに大きく焦点を当てて、廖承志さんの協力も得ながら、特に周恩来さんのレベルでこれを動かしたという、その辺りの中国側の思惑はどういうところにあったのでしょうか。
佐藤:これは私よりも谷野先生が分析されたほうがよいと思いますが、国際政治、特に日中間の政治というか、当時の中国の政治家にとって、つまり、周恩来にとって、究極は国交正常化というものが最も大きな目的だったのでしょうけれども、政治を前進するために、文化というものに非常に重点を置いていると。私はなぜそうなのかという分析はできませんけれども、政治の中に文化というものを取り入れるという考え方は素晴らしいと思います。
というのは、それはもう50年代から、日中文化交流だけではなくて、中国が成立したのが 1949年でしょ。それで、52~53年ごろからアジア・アフリカ会議などの国際会議が随分とありました。それは決して文化のことではなく、すべて政治レべルの国際会議です。カイロ会議やバンドン会議、ジュネーブ会議もそうですけれども、そういう中国政府の代表団に必ず中国の著名な文化人が参加しています。例えば作家の茅盾や謝冰心などがそうです。そういうすごくスマートというか、おしゃれというか、すごくよい考えというか、感心しますよね。例えば日本の政治家が世界のいろいろな会合に行く時に、日本の総理が団長で行くような会合に、例えば井上靖など、そういう日本の文化人をメンバーの中に入れるということはあまり聞いたことがありません。最近はどうか知りませんけれども。
谷野:私は現役の時、お話していて一つだけ思い出すのは、よいことをやったと思うのは、竹下登さんが訪中されるという段になって、役人をぞろぞろ連れていくのを止めて…。
佐藤:わかった。平山さん。
谷野:平山郁夫さんをお供に連れて行かれてはどうか、と。竹下総理と平山画伯の親しい関係は伺っていたものですから。そして、ぜひ、敦煌にいらっしゃっては如何か、と。これが受け入れられ、おかげで私は事前の調査団として、敦煌に行って、いろいろと宝物を見せていただきましたので。あそこに平山さんが尽力され博物館ができましたね。とにかく日本からのいろいろな文化人、舞台俳優、芸術家、必ず周恩来さんは会っていました。
佐藤:必ずですよね。
谷野:これは今の政権では考えられない。しかし、そういう人たちがペンを執り、思い出を日本で語る、その効果を大切に思ったのでしょう。皆、文筆家ですからね。
佐藤:ですから、すぐ果実を取るという、今すぐ政治的な効果を生むというのではなくて、やはりすごく遠大な考えだと思います。
谷野:最近の日中関係ではそういう面も少し細くなりましたね。第2点は、佐藤さんのところの協会のトップを務められた方々、中島健蔵さんのことはこの間、伺ったけれども、歴代の会長、その次が井上靖さんですか。そして團伊玖磨さん、それから詩人…。
佐藤:辻井喬さん。
谷野:辻井さん等々。今は。
佐藤:今は黒井千次という人です。
谷野:まだ黒井さんですか。その後に栗原小巻さんもいらっしゃって。
佐藤:栗原さんは今、副会長・理事長です。
谷野:そして、事務局長に白土さん。
佐藤:白土さんは亡くなりました。
谷野:そして、佐藤さんは昭和女子大の英文科でしょ。白土さんは確か早稲田の工学部かな。ノン・チャイナというか、逆に中国へのよくも悪くも思い入れが強い人たちではなくて、こういう人たちが協会のトップで協会の活動を支えたというのは、私はよかったのではないかと思います。もちろんその下に武田泰淳さんや、何人かの中国専門の方もいらっしゃったけれども。例えば文革の時に千田是也さんは、いずれ終わるのだから、こちらがいちいち反論して反発するなと、じっと待てばよいとおっしゃっていた。他方、中国を一生の仕事にする人たちは反発も強くて、裏切られた、この野郎と。千田さんはそれからは随分と距離を置いて落ち着いておられたと思いますが、どうでしょうか。
佐藤:本当に先生がおっしゃるとおりです。あの時、本当に日中の社会は混乱に次ぐ混乱ですからね。日中友好協会は2つに割れましたでしょ。それで、武闘まで起きました。この善隣会館、ここがそうでしょ。本当に理事会で殴り合いになるわけです。それで、1が分かれて2になるという理念があったでしょ。必ず実権派、あの頃は脱権という言葉もはやったのですよね。今現在の権力者というか、指導者から脱権せよと。それで、日中友好協会はいわゆる日本共産党系の人たちと、その底流には要するに日中両国の共産党の対立というものがあるわけです。それが全面を覆っているというか。それだけやはり日中国交正常化以前に、日中友好の仕事をする人たちはやはり日本共産党と非常に近い人たちが主流だったわけです。それはある意味、理解できることですよね。中国というものを、いわゆる中国共産党を真に認めている人たちだったわけです。
それで、私が協会に入った頃は日本と中国の共産党が非常に仲のよい時期だったわけですけれども、66年の文革辺りから、またベトナム戦争に対する考え方も、日中共産党の意見が違う一つの大きな軸だったようですけれども。それで、本当に反党分子などと言って、日本共産党の機関紙赤旗は中国派、中国に親しい人たちを批判する。日中友好協会は日本共産党を批判する。とにかくそれで、だから、ほとんどの組織が疲弊してしまっているというか、殺伐としている、そういう時期でした。
ですから、千田先生がおっしゃったように、要するにこういう時にはもう日中文化交流協会という団体を守るというか、今、中国は正常な時期ではない。しかし、こういう状態は長くは続かないから、それをじっと待つと。それで、いろいろな批判をされたことにはいちいち反論するなと。千田さんはものすごく批判の矢面に立たされましたからね。一つはドイツの有名な劇作家であるブレヒト、千田是也はその人の作品の専門家なわけです。ブレヒトに対する批判、そして日本でブレヒトを一生懸命にやっている千田さんに対する批判。
それから、『トラ・トラ・トラ!』という映画に千田さんが端役で出たのです。その『トラ・トラ・トラ!』という映画は決してよい映画ではないですけれども、ただ単に戦争を誇示する映画ではないわけです。ご存じのように、戦争も、描いているけれども、訴えるものは反戦という映画はたくさんあるわけでしょう。ですけれども、それに出ているということで、ものすごく千田是はやられました。
それから、『戦争と人間』という共産党の山本薩夫の映画、それに文学座の俳優がたくさん出ているということで、杉村さんに対する批判という、とにかくそれをいちいち真に受けていたらどうしようもないと。
谷野:中国はそういう時、棒を飲んだように数条主義的になりますからね。それに対して、千田さんではないけれども、こちらの軸がきちんと定まっていればよいけれども、こちらもそれに巻き込まれて血を見るような武闘が、まさにこの会館も含めてあった。少し脱線するかもしれませんが、『戦争と人間』ですか。
佐藤:そうです。山本薩夫のね。
谷野:私はあれを持っています。
佐藤:そうですか。ビデオですか。
谷野:三國連太郎さんや若い頃の栗原小巻さん、それから滝沢修、芦田伸介、加藤剛、浅丘ルリ子、吉永小百合・・・というと超豪華。オールキャストです。なぜそのお話をするかというと、あれは反戦映画です。
佐藤:そうです。反戦映画ですよね。
谷野:これを、軍国主義をあおるものだと言って、山本さんが共産党であるが故に中国はそういう言いがかりをつけてきたわけでしょ。もう情けなくなりますけれども。若千、脱線するけれども、家内の祖父がそこに出てきます。森島守人という外交官。
戦時中は奉天などにいた。関東軍の荒くれ方と闘った人ですけれども、戦後は外務省に愛想を尽かして社会党から出て、4期ほどやりましたかね。その若い頃、奉天の総領事代理のようなことをやっていた時の森島です。ところが、ここからはフィクションなのですが、篠崎という名の書記生となって出てくる。これを演じていたのが石原裕次郎。その若い醤記生が関東軍と丁々発止のせめぎ合いをやるわけです。
それが、別の名前で出てくるのですが、念のため、外務省に問い合わせたところ、篠崎という人は存在しないということでした。森島も少し出てくるのですが、この方はあまり風采の上がらない中年外交官として出てきます。ストーリーがそういうふうに変えられています。森島は当時のことについて回想録を書いています。本にも書いていますからね。石原裕次郎、かっこいいわけです。森島は裕ちゃんのようなかっこいい人ではないからね。
いずれにせよそういうことで、三國連太郎も一生懸命にとっとつの中国語をしゃべっています。栗原さんはかなり若い頃、本当に駆け出しの栗原小巻さんです。懐かしいですね。しかし、これを山本さんが日本共産党だというだけで、軍国主義をあおるものだと言って、中国は言いがかりをつけてきた。
佐藤:ですから、非常に批判のやり方が、底が浅いというか、系統的ではないのです。
谷野:だから、こちらの軸足がしっかりとしていないと。文革の時はいろいろと映画界も大変だったようですね。
佐藤:そうですね。演劇や映画は目に付きやすいわけです。それで、批判もしやすい。それで四人組の人たちは、江青は映画でしょ。そういうわけで、うちの協会では映画・演劇に対する批判が最も直接響きましたね。それから、文学もやはりいろいろとあったのですが。
谷野:そこで、天安門事件のお話を伺いましょうか。1989年かな。6月4日。
佐藤:今日は2日だから、まさに明後日ですよね。もう昨日辺りから私はずっと思い出していました。懐かしい。
谷野:佐藤さんは水上勉さんなどと北京飯店に泊っておられて。
佐藤:そうです。6月1日に北京に着いたのです。
谷野:上から見ておられたのですか。
佐際:そうです。あの時は、ちょうど5月15日ごろにゴルバチョフが中国へ行ったのです。ですから、それを取材する外国の新聞記者がたくさん行っていたでしょ。それで、5月20日ごろから確か戒厳令が敷かれたわけです。しかし、日中文化交流協会代表団は6月に行くということがもう2月ごろから決まっていたわけです。というのは、水上勉や一緒に行く人たちが皆、忙しい人でしょ。ですから、半年ほど前にもう何月何日からということを決めてしまうわけです。それで、6月1日から2週間ということで、団長が水上勉、団員は全部で7名ですけれども、文芸評論家の尾崎秀樹、秀実の弟ですね。それから、京都の陶芸家の鈴木治という人、それから京都の有名な美術出版社の便利堂というところの女性の社長、それに俳優の河原崎長一郎、長十郎の息子です。長一郎も亡くなってしまいましたけれども。それに協会の専務理事だった白土吾夫さんと私と、全部で7人になりますよね。
それで、最初はやめたほうがよいのではないかと。戒厳令が敷かれているわけですから、そういう時に行かないほうがよいという人もたくさんいました。ですけれども、水上さんももうその前から何度も中国に行っていますから、戒厳令は敷かれたけれども、どうもテレビを見るととても融和的な、天安門の前に学生がたくさんいて、それに普通の人たちがお菓子を差し入れたりして、独特の雰囲気があったんです。だから、中国のそういうところも見てみたいし、今はかえって行きたいと。それで6月1日に行ったわけです。
それで、確かに到着した日はすごくほほえましかったです。北京飯店に泊まっていました。それで、八宝山のお墓に行ったのです。廖承志が亡くなったのは83年でもっと前なのですが、対外友協の王炳南という方も亡くなられて、亡くなった人たちのお墓に行きたいと水上先生がおっしゃって、行ったのです。それで、帰りも長安街を通るわけでしょ。八宝山はずっと西のほうですから。その時もものすごくほほえましかったです。戯劇学院や北京大学何々というのぼりを立てて生徒が自転車で走っている、それで大衆は拍手する、そういう感じだったのです。
だから、水上さんも感心してしまって、こういうデモもあるのだよねと言って、決して荒々しい感じ、日本の官隊と対するという雰囲気は全くありませんでした。それで、その時は章文晋という人が対外友協の会長時代でしたが、その歓迎会もあって、1日の夜は宴会も北京飯店であったのです。だから、とてもよかったのです。
それが2日の日に、水上さんが団長ですから、中国作家協会が、仿膳という料亭があるでしょ。その仿膳で歓迎の昼食会を開いてくださったのです。それで、われわれは仿膳に行きました。そしたら、中国の作家が集まれなかったのです。要するに自宅からそこに来る途中の道がふさがれてしまって来られないということになって、それで、その宴会がお流れになってしまったのです。何となく、という感じ。
宴会はなかったのですが、水上さんの部屋に入って様子を見ていました。そういうわけで、2日ごろから中国の人たちは自分の家から中央に来られない状況になったのです。ですから、いろいろな日程が組めないわけです。代表団は全部、人に会うのが日程なわけでしょ。ですから、その会のために集まる中国の人たちが北京飯店に来られないという状況になって、それで少し大変でした。ですから、2日の日は何もしないでいました。それで、2日も3日の日も何も日程はないと。ですけれども、黄世明さんや呉瑞鈞さんなど、対外友協の事務局の人たちがどうしているかということでホテルを訪ねてくれて、それでおしゃべりしたりしていました。
それでも、あまりにも退屈だから、水上さんが老舎茶館に行きたいと。やっているかどうか調べてもらったらやっているということで、老舎茶館に行きました。6月3日です。
谷野:前門の辺りですね。
佐藤:そうですね。それで、あっと思ったのはその時です。いわゆる 27軍が市の中心に入ってきて、それに出くわしてしまったのです。というのは、老舎茶館に着いたのが6時ごろでしょ。それで、芸を見て、お酒も飲んで、老舎茶館から北京飯店に帰ろうとした時に、それが27軍なのでしょうけれども、ものすごい数の軍隊がワーッといたのを私たちは目撃したのです。これは大変なことになるのではないかという感じでした。ですけれども、とにかく北京飯店に帰ろうということで、乗用車4台で、私は俳優の河原崎長一郎と2人で最後の車に乗って、とにかく北京飯店へ行ったわけです。ところが、あっという間に道が封鎖されて、私と長一郎さんが乗った車が通れなくなってしまったのです。ものすごい数の軍隊が天安門広場へ行くのに出くわしてしまったわけです。
それで、老舎茶館から北京飯店というのは10分ほどで着くわけでしょ。それで、運転手はものすごく緊張して、窓を開けて軍隊にワーッと罵詈雑言を浴びせているのです。私は中国語を分からないけれども。それで、私の車に乗っている中国の通訳の人に、今、運転手さんが軍隊の人に悪口を言っているでしょと言ったら、そうだと。悪口なんて言いなさんなと言ってよと。その悪口で私たちが変なことをされたら嫌だからと言って。だけれども、その運転手は軍隊に対する反感がすごく高揚しているわけです。それで、とにかく早く北京飯店に連れていってくれと私は言いました。前の3台がきちんと行ったかどうかも分からない。今のように携帯電話もないでしょ。だから、どうなってしまったのかしらと思って。それで、ずっと変な道を迂回して、故宮のほうに行ったりして迂回して、結局、北京飯店に着いたのは1時間半ほどかかってしまいました。それで、やはり皆ばらばらに着いたらしくて、水上さんと白土さんは北京飯店の玄関に仁王立ちで待っていてくれたのです。よく着いたねと言って。別に待っていてくれなくてもよかったのにと言ったら、心配だからねと言って。
それで、水上さんの部屋に行って、またお酒を飲んで、それで休んだわけです。そしたら、夜中にすごい音が聞こえて。水上さんの部屋は、長安街と王府井の見える角部屋のスイートルームで、寝られないでしょ。それで、とにかくこの状況を見るべきだということで、私も起こされてしまいました。私の部屋に団長が来て、純子さん、俺の部屋に来い、これを見ておくべきだということで、代表団は全員、水上さんの部屋に集まって、その様子を見ていました。白土さんは、27軍はどうも田舎の兵隊らしいから北京には慣れていないと。だから、彼ら兵隊だって怖いわけです。
話は前後するのですが、北京飯店の服務員もまたすごいのです。北京飯店のべランダに出て、軍隊に服務員たちが瓶を投げるわけです。小瓶(=小平、シャオピン)と言って。話を聞くと、鄧小平を揶揄している言葉だという人もいましたけれども、それで、瓶にいろいろなものを入れて。ガラスの瓶は武器になるでしょ。それが当たったら、けがするわけです。それを27軍に向けて投げるわけです。だけれども、そういう様子も見ておいたほうがよいということで、白土さんが、見てもよいけれども、白い服は着ないようにしようと。それで全員、黒っぽい服を着て、べランダからずっと見ていました。
それでも徹夜はできないから、私はもうベッドに入ったのですが、翌6月4日の朝、ものすごく早い時間に、北京の西の方で軍と学生の衝突があったという。水上さんの部屋は王府井のほうも見えるわけです。戸板に乗せられた血を流した学生を見た時はやはりショックでした。あの時の総理は李鵬でしょ。
谷野:そうです。しかし、引き金を引いたのは鄧小平だといわれていますね。
佐藤:ですから、何がどうなったのか。
谷野:彼は彼でやはり危機感を持ったのでしょうね。ここの理事長をやっていた佐藤君。
佐藤:嘉恭さんですか。
谷野:いや、もっと若い人です。彼が一等書記官で、当時、北京にいまして、6月3~4日は大使館の仕事として現場に行くと、目の前で学生が犠牲になって倒れていくと。私は本省の局長になる直前でした。審議官で、佐藤重和君から泣いて電話がかかってきて「審議官、私どものこれまでの、例えば中国への 0DA、一体、あれは何だったのでしょうか」と泣きじゃくっているわけです。佐藤君も若くて、元気で、純粋だったのか、それを覚えています。ショックだったのでしょう。しかし、あれはどうしてですか。水上さんの容体は。
佐藤:それで、6月1日に着いて、私たちは北京に4泊して、浙江省の寧波というところに行く予定だったのです。ですけれども、こういう事態になったから、寧波に行くのはやめて東京に帰るということになったのです。だけれども、水上さんは行きたかったのです。中国の人たちも、北京がこういうだけで寧波は大丈夫だから、行くなら大丈夫ですよと言ってくださったのですが、やはりそういう時に代表団7人の中で、帰りたい人は帰りなさい、残る人は残りましょうとは言えないでしょ。それで、水上さんがこういう事態になってどうするかと。それは6月4日の日です。もうすごい状況が見えているわけです。だけれども、招請団体である対外友協は、寧波は別に不穏な状況ではないから、もし代表団が予定どおり寧波に行くなら自分たちもきちんと手配しますと言っていますと。それとも北京がこういう状況になっているから、なるべく早く東京に帰るか、どうしますかと相談したのです。そしたら、京都の便利堂という出版社の女性社長はやはりもう怖くて帰りたいわけです。ほかの人は、尾崎秀樹さんも予定どおり行きましょうと言っていたのですが、一人でもそういう人がいるなら帰ると。
それで、救援機を日本政府で飛ばすという状況もあるから、帰るならということで。その救援機に乗って、6月6日の夜に帰ってきたのです。そしたら、翌日、水上さんが心筋梗塞になって。
谷野:やはりショックだったのですかね。
佐藤:帰ってきて、本当に今でも忘れないのですが、救援機ですから、当時はまだ成田だったのですが、飛行機が成田ではなく羽田に着いたのです。それで、事務局が皆、迎えに来て、私は白土さんのおうちへ皆で行きました。白土さんの奥さまがおいしい豆ご飯、もう6月ですからエンドウマメが出始めでしょ。白土さんの奥さまはものすごくエンドウマメのご飯がお上手で、それを炊いて待っているから寄りなさいと言われて、私たちは白土家に寄ってエンドウマメのご飯をいただいて、お酒も飲んで、とにかく帰ってきてよかったということで、家に帰ったのです。それで、私は寝たのが本当に夜中の3時ごろだったと思います。帰ってきたのは、羽田へ着いたのは夜10時ごろですからね。
そしたら、朝7時ごろ、集英社の水上さん係の編集者、私も親しかったのですが、彼から電話がありました。佐藤さん、水上さんが倒れたと。だから、私は天安門事件より、むしろ水上さんが倒れたほうがずっとショックでした。心筋梗塞は緊張してほっとした時に起こるということをよくいわれるでしょ。だから、北京での数日にわたる緊張、それで東京に帰ってきてほっとしたところで、やはりそうなったわけです。後で聞いたのですが、救急車であちこち行って、やっと関東中央病院というところに入院しました。
天安門事件はものすごく大きなことなわけでしょ。ですから、いろいろな団体が声明を出しました。日中友好協会もそうです。もう中国とは交流をしないというような声明を出す団体がたくさんありました。例えば衛藤瀋吉さんもやっていた、日中社会科学交流協会という団体があったでしょ。その人たちも中国政府を批判する声明をたくさん出したわけです。その時に、井上靖会長にマスコミが談話を求めたわけです。今のこの事件をどう思うか、それから今後、日中文化交流協会はどうやっていくのかということを新聞記者に質問されたらしいのです。白土さんや私や水上さんはまだ北京にいた時です。私たちは6日に帰ってきましたから。6月4日の事件が起きてすぐ、日中関係の各団体の長にいろいろな談話を求めたわけでしょ。
井上靖の談話は、まず人民解放軍が自国の学生に銃を向けたということは、私個人としては許せないと。武器を向けた軍というのは結局、政府とイコールなわけですから、中国の今の政治指導者が大衆、学生を弾圧していることは許せないと。しかし、私たち日中文化交流協会は中国政府と交流しているのではなく、中国の文化人、中国の民間文化芸術界と交流しているのであると。だから、この事件が起きたことによって中国との文化交流をやめるということは全く考えないと。以前にも増して交流を深めていくという談話を出したのです。私たちが北京から帰ってきた時、事務局が天安門事件に対する日中文化交流協会井上靖の談話が、朝日新聞に大きく出ていたのを羽田に持ってきてくれました。それを読んで、とてもうれしかったです。というのは、ほかの団体はほとんど、中国との交流をやめるべきだという論調が多かったのです。だから、その談話が一つの柱になりました。
それで、協会の役員から、例えば東大総長の加藤一郎さんも役員だったのですが、いろいろな人から事務局に、大変な事態なので、早急に日中文化交流協会としても態度を表明したほうがよいのではないかと。会長談話は出たけれども、ほかの団体は全部、次々と声明を出しましたからね。ほとんどはやはりもう中国政府とこれから交流をやらないというものが多かったです。それで、協会としてはもう常任理事会を開くいとまがないからということで、会長と代表理事、その時は井上靖が会長で、代表理事が千田是也、東山魁夷、團伊玖磨という時代でした。
谷野:そうそうたる人たちですね。
佐藤:代表理事が井上先生のおうちに集まったのです。東山さんはその時、ドイツに行っていましたから、ドイツに電話をして、こういう事件が起きたと。東山さんもドイツでテレビを見て分かっていますから、大変なことが起きていると思っていて、協会として談話を出そうと思うけれどもと言ったら、東山さんは井上さんに一任しますと。それで、井上先生のおうちに千田さんとさんと私たち事務局が行って、その事件に対する会長、代表理事の談話というものを出したのです。それで、それは最初、井上さんが言ったように、銃を向けたのは許せない、非常に悲しむべきことだと。しかし、われわれは中国政府と交流しているのではなく、中国の文芸界・文化界と交流していると。中国の人民と交流していると。だから、交流を中断することはないと。むしろ以前よりも増して交流を発展させるという趣旨の談話を出したのです。そしたら、ほかの団体からは最初、何を生ぬるいことを言っているのかと批判されました。だけれども、長い目で見れば、非常によい談話だったと思います。
谷野:今のお話を伺うと、天安門事件が起こる6月4日までの間、初めの部分は非常に穏やかで、その後、事態が急展開したのですね。私はその年の5月の初旬に、亡くなった宇野宗佑外務大臣のソ連訪問があってお伴しました。それからウランバートルに寄って、5月の何日だったか忘れましたが、北京に立ち寄った。しかし、とにか<6月4日にあのようなことが起こるとは夢にも思わなかったです。反政府的な動きがいろいろと出てきているということはありましたけれども、あのような大きな事件が待っているとは夢想だにしませんでした。不明を恥じるのですが、今のお話を聞くと、やはり急展開だったのですね。
佐藤:そうですね。だから、まだまだ真相というか、それは永遠に分からないでしょうね。
谷野:では、小休止して、後半は個々の人たち、老舎の話などをご記憶の範囲内で。高峰三枝子さんの話も。高峰三枝子は、僕は見たこともありません。僕は高峰三枝子と高峰秀子は姉妹だとばかり思っていました(笑)。
佐藤:2人とも日中交流に熱心なのです。
谷野:一つだけ思い出すのは、私はその時、本省にいたのですが、本省の特に中国課は大変で、とにかく徹夜に次ぐ徹夜で特別機を出すということもあったのだけれども、要するに電話がかかってくるわけです。息子が中国に留学していると。
佐藤:谷野先生はその時、東京にいらしたのですか。
谷野:アジア局の審議官です。それで、どちらに留学しておられるのですか、どちらにお住まいですかと尋ねると、そんなことは知らないと。探して、とにかく日本へ送り返せと。息子がどこにいるかも知らない、それを連れ戻せと言われてもね。もう罵詈雑言で。本省は本省で、そういう教出の話がある。それから、もちろん政府としてどう対応するかという声明を出す。それは別の話になりますが、そこで後半は、個々の中国、日本でそれぞれ交流を担った人たちで、主だった人の思い出話ということで、まず中国から言えば、何といっても老舎さんと巴金さん。
佐藤:そうですね。老舎、巴金。
谷野:老舎さんは、最後は確か紅衛兵に痛めつけられて、湖に飛び込んで自殺されたという、中国の文化界・文学界でも文革の最大の犠牲者ですよね。私は、佐藤さんもご覧になったと思いますが、先ほどの茶館、老舎さんの『茶館』という舞台劇のビデオを持っています。昔の清朝の時代のティーハウスの状況を描いた舞台劇です。最後はそういう悲劇的な最期を遂げるわけですけれども、どういう思い出がありますか。
佐藤:老舎は1965年に中国作家代表団の団長でいらしたのです。協会の招請です。文革が始まる1年前です。それで、老舎という人は、今、谷野先生がおっしゃいましたように、『茶館』や『駱駝祥子』など、いろいろな作品が読まれています。何といっても第一級の作家です。イギリスに留学した人です。非常に紳士的な人で、日本では東京だけではなくいろいろなところと、日本のいろいろな文化人と交流して、1カ月間ほど滞在しました。それでお帰りになって、その翌年、亡くなったわけです。
それで、いち早く老合が自殺したらしいという香港情報が66年に入ったのです。だけれども、それは確かめられないわけです。例えば井上さんなど、いろいろな作家の人たちから、老舎が自殺したという報道があるけれども、これが本当なのかどうかを確かめてほしいと協会に連絡があるけれども、確かめようもないわけです。ですけれども、香港情報とはいえ、本当なのではないかと。文革の武闘の様子も見ていますから、あり得る話という感じだったわけです。それで、井上靖が『壺』という作品を書いたのです。それは老舎の追悼です。
谷野:読んでみたいと思っています。
佐藤:ありますよ。私は持っています。
谷野:文庫本に入っていますか。
佐藤:全集にはもちろん入っていますけれども、全集を見るのは大変ですから、今度、お持ちします。
谷野:追悼の作品ですか。
佐藤:そうです。日本で3人の作家が書きました。水上勉も書きました。水上勉は『こおろぎの壺』という題の作品です。
谷野:やはり壺ですか。
佐藤:『こおろぎの壷』です。それは老舎が65年に団長で来た時に、水上さんと会って、コオロギを闘わせる壼のことが話題になりました。それを思い出して、『こおろぎの壺』という題の短編を書きました。それから、開高健は『玉、砕ける』という題で、これも短編です。やはり老舎を悼んで書きました。
井上靖という人はとても慎重な人ですから、それに日中文化交流協会の役員ですから、老舎を追悼する文章を書くということは、その時の中国の指導部にとっては愉快でないことでしょ。だから、そういうことを自分が書くことによって日中文化交流協会に変な災いがあったら困るというふうに思って、それで、白土さんや中島健蔵と相談したのです。どうしたものかと。それに対して中島さんは書くべきだと。
まさか井上靖をそれを書いたからなんだかんだということがあったとしても、それは何でもないと。日中文化交流協会は老舎を追悼したい作家・井上靖の気持ちを尊重するということで、それで発表したのです。70年ごろだったと思います。老舎が亡くなったのは66年でしょ。文革が始まった年ですから。66年の8月です。
谷野:直後ですね。
佐藤:直後です。中国は文革中、映画や演劇はものすごくやり玉に挙げられたでしょ。だけれども、井上靖が『壷』を書いたことの反論は出ない。『こおろぎの壺』も『玉、砕ける』についても何も出ないのです。だから、そこまで目が回らなかったのでしよう。
谷野:気が付かないと。
佐藤:気が付かないのよね。その後日談があります。72年に国交正常化して、74年に航空協定、JALとANAの飛行機が飛びましたよね。その一番機に日中文化交流協会が招待されたのです。それで、中島さんを団長として行くことになりました。そこに、井上靖も誘ったのです。そしたら、自分は『竜』を書いているから、中国に行って協会に迷惑なことがあったら困るから、『壷』を書いた井上靖がなぜ来たのかということを言われたら困るから、僕は遠慮すると。だけれども、しばらく行っていないから本当は行きたいと。それで中島さんが、それなら一緒に行こうということで、行ったのです。行って、文化人とは誰も会えない。どこに行っても、会いたい人は皆、倒れているわけですからね。でも、まだ周恩来は生きていますからね。だけれども、病気だと。9月30日に国宴があったのです。必ず国宴には周恩来が出席するでしょ。私たちもそこに招かれたわけです。私たちを案内している中国の人たちが皆、その会に周恩来が出席するかどうかということを心配して話しているのです。そしたら、最後に周恩来が出席しました。私は、その時が周恩来総理の姿を見た最後です。
谷野:74年。
佐藤:74年9月30日の国宴です。張りのある声で演説をして。76年に四人組が倒れましたよね。76年の10月6日でしょ。その翌年、77年に日中文化交流協会の代表団が新疆ウイグル自治区に初めて招かれたのです。それで、中島健蔵が団長で、井上靖も行きました。一行は東山魁夷や團伊玖磨や司馬遼太郎など、そういうメンバーでした。私もお供しましたけれども、10人ほどの代表団です。それで、北京から新疆ウイグル自治区のイリやトルファン、それからウルムチ、ホータンを回って、帰りに上海に寄ったのです。それは77年ですからね。それで、76年に文革が終わって、巴金が復活したわけです。井上靖も中島健蔵も、どうしても巴金に会いたい。それで、1泊でもよいからというので上海に行ったのです。
そしたら、巴金が空港の機側で出迎えに出ていました。今のような蛇腹ではないでしょ。タラップで一度、下に降りて。だから、本当に懐かしいですよね。出迎えてくれる人が飛行機のそばに並んで待っていてくれるのです。その時は井上靖が巴金と抱き合っていました。中島さんも。その中に演劇の趙丹もいて、彼もこっぴどくやられたでしょ。皆、出迎えてくれました。その時、井上靖が『壺』が収められている『桃李記』という本を巴金に贈ったのです。そうしたら、その翌日巴金は、『壺』を読みましたと。
谷野:そこで巴金の話になりましたけれども。
佐藤:1980年。巴金が日本に来た時に、歓迎パーティーで巴金がその話をしたのです。われわれ中国の作家は老舎の死を悼む文章を誰も発表できなかったと。にもかかわらず、日本では3人の作家が老舎の追悼を書いてくれたと。中国の作家としてとても恥ずかしいという演説をしたのです。そしたら、その時、文芸評論家の山本健吉があいさつに立って、巴金先生、恥ずかしいとおっしゃらないでくださいと。その時期、巴金先生がどういう状況にあったかということを、日本の作家で知らない人はいないと。レセプションでも型どおりではなくて、そういうあいさつが飛び交う時代があったのです。本当に懐かしいです。
谷野:巴金さんも中国の文学界では大変な重鎮ですよね。時々、日本にいらっしゃっていましたね。
佐藤:そうです。
谷野:3人目は、僕はこの人のことを全然知らないのですが、夏衍さん。
佐藤:夏衍ですね。
谷野:彼のおうちは確か上海ですよね。
佐藤:そうです。上海の、もともとは脚本家ですよね。日本で医者の勉強をやった人です。ですけれども、途中から文学に目覚めるというか、映画『早春二月』『林家舗子』などの脚本を。
谷野:確か友協の会長もなさっていたのですよね。
佐藤:廖承志が亡くなった後、中日友好協会の会長になりました。
谷野:日本留学ですし。
佐藤:そうです。それから、中国映画人協会では副会長をずっとやっていた人です。
谷野:この人も、しかし、文革の犠牲者ですよね。
佐藤:4人の悪い男の1人ですからね。周揚、田漢、夏衍、陽翰笙という。四人組も4人でしょ。こちらも四条漢子という、四人組から言われているほうも4人なのです。その4人と最も協会は仲がよかったわけです。やられている4人、周揚、田漢、夏衍、陽翰笙です。
谷野:文学界はそういうことで、スポーツ界は。
佐藤:スポーツはそういう感じはあまり。だけれども、荘則棟はやられたのではないですか。四人組に近いということで、むしろ逆に文革が終わってからね。
谷野:彼はうまく立ち回ったほうですよね。
佐藤:と言われているけれども、あの人は、何度も日中文化交流協会がお招きした中国卓球代表団でいらしていますから、よく知っています。とても真面目な、よい感じの人です。
谷野:ハギワラ、オギワラ?
佐藤:荻村さんですか。荻村伊智朗ね。日本のチャンピオンです。
谷野:彼が教えたのですか。
佐藤:そうです。
谷野:そうですか。江青との仲もうわさされた人でしょ。
佐藤:そういうことが巷にありました。だから、荘則棟は四人組と親しくしたから、文革の時にあまりやられなかったと。だけれども、そういう感じの人ではありません。ピンポン外交と言われている時の立役者です。
谷野:ピンポン外交の時、まずアメリカが突如、選手団が中国に招かれて、そういうことがきっかけになって米中に行くわけだけれども、あの前後の協会の役割、お仕事はどういうことだったのですか。
佐藤:ピンポン外交というか、国際卓球選手権大会、つまり、ワールドカップが1971年3月です。71年ですからまだ文革最中ですよね。まだ周恩来は元気な頃です。それで、中国はご存じのように、66年の文革が始まってからものすごく苦難の中にいたと思います。生産は停滞する、ソ連とのダマンスキーでの衝突もある。いろいろな意味で中国は孤立しているわけです。それを一つ、打開しようという大きな戦略が周恩来の胸にはあったのではないかと思います。それにはやはりアメリカ、中国はソ連と全然よくない時なわけですから、アメリカとの接近というか、そういうことを考える一つの道具として、ピンポンのワールドカップに照準を合わせて、70年の秋に中島健蔵が招かれて中国に行った時に周恩来との会見があって、来年、名古屋で開かれるワールドカップに中国は選手団を派遣したいと思っていると。しかし、大きな問題があるわけです。その問題というのは、日本卓球協会の会長をやっている後藤鉀ニという人が台湾派だといわれていたわけです。それで、ご存じのように、ワールドカップというのはIF、International Federation というのでしょうか、IFが主催するのです。日本で開催するけれども、主催はIFで、主管国が日本になるわけです。その主管国の日本卓球協会の会長の後藤鉀ニという人は台湾を認めている人なのです。そういうことがあって、日本の荻村伊智朗や松崎キミ代など、中国ととても親しい日本の卓球界の人たちは後藤鉀ニを毛嫌いしていました。あの台湾派がいる限り、日本の卓球協会は中国と仲良くできないと。
中島健蔵が団長で行った代表団の中に荻村伊智朗が入っていました。そして、周恩来と会った時に、周恩来が来年の卓球のワールドカップに中国の代表団を久しぶりに。というのは、毎年、卓球の日中交流はやっていたのです。日中文化交流協会と日本卓球協会が、60年代からやっていました。スポーツの中で最も中国と多く交流したのは卓球です。バレーボールもやりました。それから、サッカー、それに水泳、山中という人がいたでしょ。その人も中国に行ったりして。私が協会に入った頃は本当に、文学や演劇や映画の交流もありましたけれどもスポーツの交流はものすごく多かったです。
会見の席で、周恩来が後藤鉀ニ先生は私たちの友人ですという話をしました。荻村さんが驚いてしまって、あの台湾派の後藤鉀二を友人ですと言ったと。中島先生に、中国の卓球代表団が日本に行けるような土壌作りに協力してほしいと。帰ってきて、中島先生は後藤さんと連絡をとりました。中島先生の意を受けて、直接後藤さんと会ったのは白土さんです。中国の周恩来の意を受けて、中国の代表団が参加したいと。アジア卓球連合の会長は後藤鉀ニです。後藤さんは日本卓球協会の会長でもあり、アジア卓球連合の会長でもあるのです。世界卓球連合は台湾を認めていなくて、中華人民共和国を認めている。ところが、アジア卓球連合は台湾を認めていて、中国を認めていない。ねじれているわけです。それで、後藤さんに、あなたが会長をやっているアジア卓球連合を整頓してくれと。
ワールドカップを開く時に、最も強い中国が参加しないワールドカップは、値打ちがないわけでしょ。だから、後康さんとしても、中国を招きたいわけです。だけれども、アジア卓球連合から台湾を追い出すということはできない。いろいろと考えた結果、とにかく後藤さんに周恩来に会ってもらうことだと。日中文化交流協会としては周恩来が後藤さんを中国に招きたいと言っているわけですから、行ってもらうことを交渉したわけです。
その後、後藤さんは訪中して、周総理とお会いし、その後、中国卓球協会、中国人民対外友好協会、日本卓球協会と日中文化交流協会の四団体の会談紀要というものを結んで、中国卓球代表団が日本に来ることになったわけです。
後藤さんは北京から東京に帰らずに、真っすぐアジア卓球連合の組織があったシンガポールに飛んで総会を開き、台湾除名の動議を出すわけです。ところが、それは否決されてしまいました。そこで、日本卓球協会はそこから脱退し、自分自身もアジア卓球連合の会長を辞めますと。そこまでやったわけです。後藤鉀ニをしてそこまで決断させたというのはやはり周恩来の魅力と外交だと思います。
谷野:すごい人ですね。面白い話です。
佐藤:中国卓球代表団が来日し、第 31回世界卓球選手権大会が名古屋で開かれて、大変成功裏に終わりました。それで帰る頃に、宿から卓球の会場に行く中国選手団のバスにアメリカの選手、コーエンという選手が迷い込んできた。迷い込んできたコーエン選手に荘則棟が非常に親密に話をして、仲良くなった。最後にはお互いにプレゼントの交換までやった。中国とアメリカの選手が接触したということで、ものすごいニュースになりました。中国卓球選手団には、副団長として対日問題の王暁雲その他、唐家璇、王効賢、周斌などが入っていました。
谷野:鉄仮面と僕らは言っていました。表情のない人です。その後の展開はよく知られているところですから。
佐藤:それで、アメリカ選手団が北京を訪問し、周恩来が歓迎しました。初めてのアメリカ代表団でしょう。その年の7月が、今度はキッシンジャーの秘密訪中です。71年、同じ年です。パキスタンから入ったわけでしょ。その時にキッシンジャーをパキスタンから北京まで案内した人が章文晋という、対外友協の王炳南の後の会長をやった人です。皆、周恩来のもとで働いた外交官です。
谷野:どうもありがとうございました。さて、最後に、日本側のお話を伺うとすれば、日本側も映画界、舞台をなさっていた方はいろいろとあるけれども、まずは杉村春子さんです。『女の一生』、文学座、中国でもあれは確か上演されましたよね。
佐藤:そうです。『女の一生』は60年にやりました。
谷野:当時は文学座や民芸、俳優座、ぶどうの会というのもありましたね。
佐藤:山本安英が代表者です。
谷野:こういう人たちが中国に行くと、必ず周恩来が会うという時代だったらしいですが、文学座もいろいろとごたごたとした時だったのでしょう。
佐藤:そうです。何度も分裂しました。
谷野:杉村さんはどういう方ですか。
佐藤:名優であることについてはいろいろな雑誌もあり、本もたくさん出ていますよね。
生まれは広島です。彼女はもともと歌手志望で、広島から東京に出てきて、芸大を何回受けても駄目で、築地小劇場の俳優になりました。決して平坦な道ではありません。杉村春子は、いろいろな苦難がありましたが、日本を代表する俳優になりました。
杉村春子という人はどういうことがあっても揺るがない意志の強い人だと思います。四人組で中国が変な時代でも、千田さんと同じです。必ずこういう時代は終わるわよと。私は中国を、つまり、周恩来を信頼するという姿勢です。杉村春子は最初、56年にアジア連帯委員会代表団(谷川徹三団長)の一員として各国を訪れ、帰りに北京を訪問しました。中国の人たち、夏衍や田漢に会って、その人たちに魅了されるわけです。中国はまだ建国7年目、ものすごく大変な時期でしょう。食べるということが大変な時期ですよね。その中で、中国の演劇人は一生懸命に演劇をしている、その情熱というものに杉村春子は非常に打たれるのです。
その時に北京で夏衍に会って、日本の演劇人が来るだけではなく、芝居を持ってきたいと杉村さんが話したのです。それで、夏衍さんがとてもそれはよい案だということで、それで実現したのが1960年、日本の文学座、俳優座、民芸、東京芸術座、ぶどうの会、この5劇団がそろって中国に芝居を持っていったわけです。歌舞伎は随分と海外公演はありますけれども、新劇の海外公演というのはそれが最初のことで、それまでは考えられない時だったのです。だから、大変な準備でした。それで、文学座は『女の一生』がその時の出し物です。ぶどうのは山本安英の『夕鶴」。
ところが、『女の一生』の物語に対して、中国で上演するのは不適当であるということが起きたのです。
谷野:中国が批判したというのは。
佐藤:杉村春子が扮する主人公(布引けい)が、家を守るためにかって愛した共産主義思想を持つ義弟である栄二を官憲に売るような、そういう芝居だということ。そういう時代があって、日本は戦争に負けるわけでしょ。布引けいが支那貿易をやっていた堤家も崩壊する。全部焼けてしまう。その焼け跡に布引けいがたたずんで、一体、私の一生は何だったのでしょうかという有名なセリフがありますよね。自分はこの小さい、貧しい、私がこの家の庭に迷い込んできて、この家に引きとられ、女主人に見初められて、長男と結婚し、この家の女主人になり、一生懸命に支那貿易をやったと。今は、皆、失ってしまったと。一体、私は何のために生きてきたのだろうと。だけれども、「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの」という、例の有名なせりふ。そこに栄二が、自分が官憲に売った人が訪ねてくるのです。栄二も布引けいを好きで、2人は愛し合っていたのです。しかし、布引けいは堤という家を守るために、結局は栄二を売る、官憲に渡すわけです。それで、栄二は国外追放のようになってしまいます。布引けいは、その間、栄二の子どもを一生懸命に面倒見ているのです。
最終幕、焼け跡の堤家に栄二が帰ってくるのです。2人は万感の思いを込めて、ありとあらゆることを捨ててというか、そこで2人でカドリールを踊るのです。そこが問題になったのです。誠に日本的な舞台でしょ。それが終幕なのです。
それで、中国としては何だと。栄二は自分を売った女と何十年ぶりに再会するのだから、ぶん殴る、殺してもよいではないかと。それを、カドリールを踊るというのは何だと。だから、中国人の感性というか、感覚が全然違いますよね。それで、そこを改訂しなければ、となったわけです。脚本の改訂というのは大問題ですからね。原作者の森本薫は、杉村春子が愛した人です。書いた森本薫は死んでしまっているわけですから。しかし、そこを改訂しなければ訪中公演はできないと。それで考えて、結局、改訂はしないけれども、最後のカドリールを踊るところをカットしたのです。
それに対して文学座の人たち、芥川比呂志や賀原夏子、中村伸男など、文学座の人たちが皆、何だと。杉村さんが中国、中国と、中国にばかり目を向けてしまって、『女の一生』の最も重要な最後を、改訂というよりも大きな変更ですよね。そこでカドリールを踊らなくしてしまったのだから。文学座が分裂してしまった。それでも杉村さんは分裂に耐えて。その時に、中島さんや日中文化交流協会の副理事長だった亀井勝一郎が杉村さんを慰めて、杉村春子を守る会をつくりました。中島健蔵と亀井勝一郎、物理学者の朝永振一郎。朝永振一郎も協会の役員だったのです。あの人は50年代に日本物理学代表団を率いて中国に行っていますから。
谷野:面白い話です。
佐藤:亀井勝一郎という人も本当に忘れられない人です。1960年に中国に行った時に、有名な陳毅(2)との会談がありますでしょ。
(2)「皆さん、ありがとう。われわれは過去のことは過ぎ去ったものにしようと言い、(あなたたちは、日本人として)過去を忘れてはいけない、と言われる。そうであるなら、両国人民は本当の友好を実現できるでしょう」
「逆にわれわれが日本人をずっと恨み続け、あなた方日本人は中国を傷つけたことをきれいさっぱり忘れてしまうことになったら、日中両国はいつまでたっても友好関係を実現することはできないでしょう」
(1960年、野間、亀井勝一郎氏ら日本作家訪中代表団に対する陳毅副首相兼外相の発言)
谷野:あれは僕が大好きなやりとりで、いろいろなところであの話はしています。それで私のファンの。
佐藤:高峰三枝子ですか。
谷野:三枝子さん。
佐藤:三枝子さんも、あの本を読んでいただければ分かりますけれども、高峰三枝子といえば、往年の大スターです。ですから、中華人民共和国成立以前、昭和15~16年に高峰三枝子は松竹から慰問という形で北京に何回も行っています。その時は陸軍から頼まれて行くわけでしょ。あの頃、皆、慰問に行ったそうです。映画人でも、それから歌手や作家も慰問に行くでしょ。林芙美子、火野葦平なども行っています。
そういう形では行ったけれども、戦後、高峰三枝子はずっと中国に行っていないわけです。高峰秀子は 1963年に行っています。自分の『二十四の瞳』が1950年代に中国で大ヒットしたでしょ。だから、高峰秀子は三枝子よりもずっと前から中国に行っています。高峰三枝子は協会との接点もありませんでした。高峰三枝子さんは藤山愛一郎さんととても親しくて、藤山さんは70年代から中国と親しかったですよね。
谷野:国貿促か何かをやっていましたからね。
佐藤:それで、高峰三枝子が藤山さんに、中国に行ってみたいという話をしました。藤山さんは、ただ遊びに行くこともできるけれども、そうではなくて、日中文化交流協会という団体を僕はよく知っているから、協会が派遣する代表団の一員として行くのがよいと思うと。それで、藤山さんから日中文化交流協会に話があったのです。
高峰三枝子が行きたがっているから、何かよい代表団があったら入れてほしいと。
その時、代表団派遣がちょうど決まっていた。72年です。国交正常化が72年の9月29日ですよね。その10月に、周恩来が民間の人たちを招待したのです。政府と政府の間で国交を正常化したけれども、その陰には長い民間の力が非常に大きいと。
それを感謝するというか、記念するために民間から呼んでくださったのです。それで、協会からは、中島さんは忙しく行けないので、宮川寅雄という人が団長で、そのメンバーに杉村春子も入っていました。それから、團伊玖磨や藤堂明保という中国語の学者、日本相撲協会の武蔵川理事長など、そういう代表団が決まっていたのです。そこに藤山さんから高峰さんをと言われたので、10人ほどの代表団の中に有名な女優が2人が入っているのはどうかと、杉村さんに相談したのです。高峰さんのような人が中国に行けばもっと輪が広がると思うと、私は大賛成よと。それで一緒に行ったのです。高峰さんは、もう本当に大喜びして。
北京に行った時に、面白い話が2つあります。一つは、高峰さんは北京で興奮してしまって、王府井に行きたいと。昔に来た時、王府井という名前を知っていると。
王府井は今でもあるかと言うから、ありますと。それで、王府井に行きました。その頃は「為人民服務」というスローガンが書いてありますよね。人民のために服務せよと。それをずっと見て、買い物をして、ホテルに帰ってきました。宮川団長が、高峰さん、どうでしたか。王府井はきれいだったでしょと言ったら、すごく懐かしかったと。昔はごみごみしていたけれども、きれいになったわねと言って。それにしてもどうして洋服屋さんがあれほど多いのでしょうと言うのです。何を言っているのかと思ったら、高峰さんは「為人民服務」というのを洋服屋さんの看板と思ったらしいのです。それで、宮川先生がそれはスローガンのことだと言って大笑いしました。「あら、私、知らなかった。はずかしいわ」と。高峰さんはそういう、とても、素直な人でした。
それから、メンバーの中に1人、藤井治夫という軍事評論家が居たのです。北京から天津に近い揚村というところに、中国の陸軍196 師団という師団があるのです。その軍事評論家がそこを参観に行ったのです。それで、代表団は10人もいますから私は行きませんでしたけれども、杉村さんは演劇だし、高峰さんは映画でしょ。団先生は音楽でしょ。だから、皆、それぞれ別の日程をこなしているわけです。だから、接待している対外友協としてはとても手間がかかるわけです。いつも言われていたのは、日中友好協会代表団などは、バスも1台でよいし、どこに行くのでも一つの日程だけ立てればよいと。日中文化交流協会はいつも同時に3つか4つの日程を組まないといけないので大変ですと言って。通訳も余計にいるしと。その時も軍事評論家は天津の近くの揚村という場所に行くということになりました。そしたら、高峰三枝子が、藤井さん、私も連れていってくださいと言いだしたのです。映画人とも交流しましたが、その揚村にも行ってみたいと。それで、藤井さんと一緒に行きました。対外友協の金黎さんが案内しました。ご存じでしょ。
谷野:朝鮮族の人ですか。
佐藤:小柄の人で、日本語がとてもうまくて。あの人が高峰さんと藤井治夫を連れていったのです。それで、帰ってきました。そしたら、金黎さんが私の部屋に飛び込んできて、佐藤さん、大変なことがあったのよと言うから、何か変なことをやりましたかと言って驚いてしまったのです。そしたら、高峰さんが大感激して、そこで泣いてしまったと。どういうことがあったのかというと、揚村の陸軍の師団に行った時に、昔、日本軍と戦った時のいろいろな記念品が記念館にたくさん陳列してあるらしいのです。日本兵の服など、そういうものをたくさん陳列してあるらしいのです。そしたら、その中に高峰三枝子のブロマイドがあったと。つまり、日本の兵隊が持っていたわけでしょ。その頃、まさに高峰三枝子が最も華やかに松竹の女優として輝いていた時期でしょ。だから、兵隊に行く人たちはその映画を見て、高峰三枝子のブロマイドを持って、戦場に行ったわけでしょ。それで、たまたまそのブロマイドがあったのだと。
高峰さんはそこでもう泣き崩れたらしいです。高峰三枝子はその時にどういう思いをしたか、もう言葉に出せなかったと。ただ、ワーッと泣いたと。だから、金黎さんはその高峰三枝子の姿というものに非常に心を打たれたらしいです。高峰さんの涙は、金黎さん流に言えば、松竹の女優であった自分は、戦争に行く兵隊たちが最後まで自分のプロマイドをアイドルとして持っていたということは、自分もその戦争に加担したとも言えなくもないわけです。そういう涙でもあるだろうし、どういう涙だったのか分からないと。金黎さんはものすごく感激して、高峰三枝子を大好きになったのです。
73年に廖承志が団長で大型の代表団が来たのですけれども、73年は国交正常化翌年でしょ。それで、日本のいろいろな団体が一緒になって、中国から大型の代表団を招待した。廖承志が団長で、金黎さんや金蘇城さんなどがいて、孫平化が秘書長かな。金黎は副秘書長で来たのです。50人ほどの代表団ですから忙しいでしょ。忙しいけれども、佐藤さん、頼みがあると。どうしても高峰さんの家に行きたいと。高峰さんに会いたいと言って。それで、高峰さんの家にご一緒しました。
谷野:あの人は趙丹と随分と交流が。
佐藤:趙丹と伸がよいのは、三枝子ではなくて、高峰秀子です。高峰秀子をまた気骨のある女性です。三枝子さんとはまた違う意味で。
谷野:僕は恥ずかしながら2人はご姉妹かなと思っていた。
佐藤:全然違います。高峰秀子は『二十四の瞳』が中国で公開されているし、協会が62年に中国映画代表団を招待した時も、熱心に協力してくれました。その時、趙丹が来たのです。趙丹が高峰秀子の家を訪問して、非常に仲のよい友達になりました。それで翌年の63年に招かれて、高峰秀子は松山善三と2人で中国に行くのです。趙丹がずっと案内して、ものすごく親しくなるわけです。ところが、文革になって、趙丹は真っ先にやられたでしょ。
谷野:あれは上海にいたから、江青の駆け出しの頃のことを知っているが故に、江青が随分といじめたと言われています。
佐藤:最初にやられた人ですから。
谷野:高峰三枝子で私が覚えているのは、韓国に在勤していた時に、ノテウ(盧泰愚)さんという後に大統領になった人、この人を公邸にお招きしていたのですが、なぜか一人でいらっしゃって、それで高峰三枝子の『湖畔の宿』を歌いたいと言いだしたのです。当時、韓国で日本の歌を歌うというのはご法度でしたから。しかも次に大統領になることが決まっている人が、事もあろうに日本の大使の公邸で『湖畔の宿』という、これはいけないと思って。
佐藤:すごい話ですね。それも面白い。
谷野:それで、サーブに出ていた韓国のボーイたちを全員下がらせて、大使と館員だけにして、じっくりと盧泰愚さんの『湖畔の宿』の絶唱を伺いました。
佐藤:盧泰愚という人は、そういう世代の人なのですね。
谷野:だから、高峰三枝子さんは朝鮮半島でも有名だったのですね。もう一人は、話は少し脱線するけれども、やはり有名なのは李香蘭さんです。私は現役時代、この方は参議院の外交委員長もなさっていたから、随分と親しくさせていただいて、私を見かけると必ず、本当にきれいな北京語で、「最近はどうですか」と。最初の呼びかけは中国語だったのを覚えています。私がよく山口さんに申し上げたのは、先生はいろいろな人生をすみ分けられた。李香蘭の時代、それからイサム・ノグチと短期間夫婦だった。そして次に外交官の奥さまになって、最後は国会議員で、4つの違う人生をすみ分けた方ですねと。3番目の外交官の夫人であった時は、ご主人は大鷹さんでビルマの公使だった。ビルマのネ・ウィンという人がまた香蘭の大変なファンで、そういうこともあって大鷹さんは随分と、李香蘭がご夫人であるが故に、ネ・ウィンとも随分と会えたようです。だから、女性で、高峰さんや李香蘭というのは国際的にも存在感があった人ですね。趙丹は秀子さんのほうですか。
佐藤:そうです。高峰秀子は趙丹が復活するまでは絶対に中国に行かないと言っていました。高峰三枝子も秀子も2人とも亡くなりましたね。
谷野:次の話題で團伊玖磨さん、この方も私はかなり親しくさせていただいて。
佐藤:2001年に亡くなったのですが、2000年に北京で先生とお会いしました。
谷野:そうです。それで、2001年、お出かけになる前にわざわざお電話いただいて、その前に奥さまを亡くしておられるでしょ。
佐藤:前の年に奥さんを亡くされました。
谷野:それで、これから中国に行ってきますという、わざわざお電話をいただいて恐縮したのですが、なんと訪問先の中国で急逝された。
佐藤:蘇州です。
谷野:蘇州ですか。驚きました。
佐藤:私は本当に中国に 100回ほど行きましたけれども、どうしたらよいか分からなくなったのは、團さんが蘇州で亡くなった時です。天安門事件の時などは別に、時を待つ以外に仕方ないわけですから。だけれども、團先生が亡くなった時にはもうどうしょうと。
谷野:演奏中に倒れたのですか。
佐藤:いや、日中文化交流協会の代表団で団長として行った時です。中国には團さんのフアンがたくさんいましたから、團さんを元気づけるために團先生の作品を中央楽団が演奏する、それを團先生が振るという、團伊玖磨作品コンサートという企画を中央楽団が計画したのです。それが2001年の6月、私たち事務局としては、それは大変な仕事でしょ。お遊びではないわけですから。その前に代表団で中国に行くということはしないほうがよいと言ったのですが、どうしてもその前に自分は中国に行きたいと。というのは、歌舞伎の中村芝翫、もう亡くなりましたけど、今の芝翫のお父さんです。その人を中国にお連れしたいから、どうしても行くと言って、5月の10日に東京を立ったのです。それで、北京に4泊して、杭州に2泊、5月17日に蘇州で心筋梗塞、急逝です。
しかも前の日まで何でもなくて、前の晩、対外友協の袁敏道さんとおしゃべりしたり、その夜の蘇州の宴会の主人がすごく感じのよい人だったので、團先生もご機嫌で、明日は上海だねと言って。もう2~3日したら東京に帰るからというので、銀座に「スーリー」という行きつけの小さなバーがあったのですが、マスターが何十年来の友達で、ナオちゃんという人だったのですが、そのナオちゃんに電話して、明後日、東京に帰るからねと。真っすぐ家に帰るのは嫌だから、スーリーに寄るから開けておいてという話をしました。私は部屋に帰って休みました。そしたら、「團です。すぐ来てください」という電話がかかってきて。何があったのかと思って部屋に行ったら、倒れていました。
協会の事務局の斎藤真希子さんと袁敏道さんも部屋に入ってきて 3人で、トイレからやっとベッドに寝かせて、すぐフロントに頼んで救急隊を呼んでもらいました。だけれども、あれよあれよという間に、もう駄目だという感じが私は分かりましたからね。それで、とにかく袁敏道さんとうちの協会の斎藤真希子さんと私と、とにかく死にゆく人の手でも足でも触りましょうと。私たちはそれしかできないのだからと。私と真希子さんと袁敏道さんと3人でこうやってね。私は手に触りました。皆で触って、「先生、長い間、ありがとうございました」と私はその時に言いました。苦しい、苦しいと。それで、もうあれよあれよという間に亡くなってしまいました。そこに救急隊が来たのです。あっという間でした。心筋梗塞です。
谷野:心筋梗塞ですか。
佐藤:それから救急隊は、生きている人は病院に運べるけれども、死人は運べないと。私は、これからどうしたらよいか分からないけれども、死亡診断書のようなものはこれから何をするのでも必要だと思ったのです。そのためには、お医者さんからそういうものをもらないといけないですよね。そのためには病院にとにかく行かないといけないと思ったのです。それで、袁敏道さんに頼んで、今、亡くなったこの人はただの人ではなくて、とても日中友好に尽くした人だと言ってもらいました。それで蘇州市人民病院に運んでもらいました。
佐藤:袁敏道さんは、私の戦友なんです。袁敏道さんが病院のお医者さんに、この人はすごく日中友好に貢献した人だと。だから、遺体ではあるけれども、死亡診断書を書いてくれと頼んで、それで心筋梗塞ということになったのです。それで、病院といっても普通の病室に置けないでしょ。もう亡くなってしまっているわけですから。だから、遺体安置所がやはりあるのですよね。日本の病院にもどこでもあるでしょ。その遺体安置所に團先生を移したのです。
それから、殯儀館という葬儀場に。私は絶対に遺体のままで日本にお連れしようと思ったのです。東京のほうでも、全日空は團先生のお父さんが役員をしていたことがあって、全日空と團家は親しかったので、全日空は遺体をきちんと上海から東京までお連れするという了解を取っていました。ところが、蘇州では、今まで蘇州で亡くなった人がたくさんいるけれども、皆、ここで火葬して、それでお骨にして持ち帰るのが普通であると。遺体のままでなんてとんでもないと。
その時、阿南惟茂さんが大使だったのです。大使になったばかり。阿南さんは先生の後でしょ。園先生は、北京で阿南さんとも会ったのです。阿南さんにしてみれば、2~3日前に会った團さんが蘇州で死んだわけですから。それで、私は阿南大使に電話をして、今、蘇州の焼き場でもめていると。それで阿南さんが、上海にいる総領事に連絡してくれて、上海からすぐ来てくださいました。総領事です。
谷野:市橋君、モンゴル大使をやった人です。
佐藤:そうかもしれません。その人に阿南さんが連絡をしてくれて、今、蘇州で園さんが亡くなったと。日中文化交流協会の佐藤さんがいろいろと苦労しているらしいから、協力してやってくれということで、ものすごく朝早く訪ねてきてくださいました。
それで総領事の人も一生懸命に、蘇州側を説得してくださって、遺体のままで帰ってきたのです。團先生は中国を題材にした曲をたくさん書いています。管弦楽『シルクロード』や交響曲『万里の長城』『敦煌繚乱』など、いろいろと書いています。
谷野:最後に、前進座、河原崎さん、この方は共産党ですよね。
佐藤:そうです。だけれども、長十郎さんはもう共産党を脱しました。
谷野:そうですか。ご苦労もあったのでしょうね。『屈原』や、いろいろな芝居をやった。脱党されたのですか。
佐藤:そうです。除名を受けたのか、自分から脱したのか、どちらが早かったか分かりません。
谷野:あそこも内部は大変だったのですか。
佐藤:前進座は共産党の人たちがほとんどなわけですから、日本共産党と中国共産党の対立をもろに受けるわけです。それで、ほとんどの人はやはり日本共産党の言うことに賛成するわけでしょ。だけれども、長十郎さんは中国に賛意を表明したわけです。
それをもう少し多数派工作など、いろいろとやればよかったのに、長十郎さんはもう旗を揚げてしまったから。それで、結局、少数派になってしまいました。翫右衛門以下、ほとんどは残りました。
谷野:前進座は今でもありますよね。
佐藤:ありますけれども、変わりました。
谷野:中国との関係は。
佐藤:よくもなし、悪くもなしでしょ。
谷野:そうですか。長い間、ありがとうございました。
佐藤:もうとてつもない話だから。だけれども、今、考えると本当に懐かしいですね。
谷野:最後に、いろいろな人の名前が出てきたでしょう。これは難しいのですが、例えば周恩来は、日本の新聞の朝日などはようやくチョウオンライと本来の呼び名を仮名で振ったりしていますね。毛沢東ではなく、マオツオートンと。私はそうあるべきだと思います。北京をペキンと言っているのは今、日本だけで、ベイジンでしょ。
上海はシャンハイでよいのですが、両方ともシャンハイで。地名・人名は本来の呼び名で、その代わり日本人を呼ぶ時も本来の呼び名で呼んでほしい。しかし、ここが難しいのです。私は、これは1回だけだったのですが、谷野というのはグーイエというのです。1回だけセミナーに呼ばれたら名札があって、グーイエ、古野と書いてあるわけです。同じ発音ですから。それで、ここが違うと言ったのですが。日本人を本来の呼び名で呼んでほしいという時にどういう表示の仕方があるのか、そこが悩みなのですが、私は本来、そうあるべきだと強く思っています。
佐藤:韓国の場合はどうですか。
谷野:韓国はタニノです。ハングルでそのまま書き表せる。いわゆる韓国流の、今はむしろそちらが主流になりましたが、だから昔、私は日本のメディアの人に、向こうはそうやっているのだから、日本も金大中(きんだいちゅう)と言わないで、キムデジュンと言ったらどうかと。今はそうなりましたね。
佐藤:台湾はどうですか。
谷野:台湾は同じ悩みを抱えています。ところが、それが定着したのは日本と韓国だけです。先ほども盧泰愚---の話をしましたが、あれを日本流で呼べばロタイグ。朴槿恵はパククネというでしょ。要するに韓国と日本との間では完全にタニノ、ノテウ、パククネで定着しています。それはやはり韓国には表記の仕方があるからです。そういうことをいつも思うのですが、なかなか難しいですね。ありがとうございました。
佐藤:この間も言いましたけれども、周恩来という人は本当に千両役者ですね。先ほどの杉村春子と高峰三枝子と、同じ代表団に入って訪申した時、周総理は、人民大会堂で盛大な日中国交正常化記念祝賀会を開いて下さいました。1972年10月23日です。祝宴が終わりかけた時に、メインテーブルにいた周恩来が二輪の菊の花を持って、歩きだしたのです。周恩来はどこに行くのかと、皆、見守っていました。そうしたら、杉村春子と高峰三枝子のところに持って行って、その菊の花をね。本当に千両役者です。杉村さんはその菊の花をずっと押し花にして、亡くなった時に私のお棺に入れてと言っていたのです。私は、亡くなられた時、文学座に行って、松下砂稚子さんに、周恩来からもらったお花を入れましたかと聞きましたら、入れましたよと。遺言にしていましたからね。杉村さんが亡くなったのは97年です。周恩来は本当にスマートな人でした。
谷野:ありがとうございました。
佐藤:いえいえ。本当に拙い話で。
谷野:いろいろな方に読んでいただきたい。
佐藤:本当に懐かしいです。
谷野:こういう話をしっかりと受け止める年代はまだ存命ですから。
佐藤:これから中国はどうなるのでしょう。日本は嫌中で、中国も日本を好きでない人が増えているのでしょう。どうなるのでしょうか。心配ですね。