半夏生とは夏至の日から11日目の7月2日。半夏が生える頃である。
ドクダミ・十薬 半夏は山野に生えている、カラスビシャクの根から採れる生薬の名前。身近にある薬草といえばドクダミ、十薬とも呼ばれる昔からの万能薬。毒を矯めてくれるからドクダミだともいわれるが、日陰に咲き控えめながら、何気なく目立つ雑草の中の雑草。白い花に見えるのは実は花を保護する苞、中央の出っ張りが花の房。子供の頃にはよく葉っぱが臭いと言いながら、摘み取って遊んだ。今でもそのときの嗅覚記憶は、しっかり思い出せる新鮮な青臭さ。
ハンゲショウ ハンゲショウは半化粧、半夏生の頃が花の咲くときで、花穂の近くの葉だけがおしろいで化粧したように真っ白に変化する。家の近くにある日当たりのよい遊歩道の水辺を、目立つ白化粧をした葉が、このころになると清楚に彩って、涼しさを演出してくれる。 同窓生はすでに傘寿を祝い終わって、次々と半寿を迎える年。半とは八十と一、長寿の祝いの一つである。「人生わずか五十年、首尾よくいけばあと十年・・・」というセリフは歌舞伎の世界だけ。今や平均寿命が80.75歳、女性は86.99歳の時代。男性の平均寿命は超えているが、次の長寿の祝い米寿まではまだ道半ば、なるほど半寿なのかと納得。
もうすぐ夏がやってくる。4月の後半から既に夏日を何日も体験し、一気に暑くはならず、涼しい日も雨の日もあって、徐々に夏になる半熟期。蒸し暑くなる夏にふさわしい、自然の四季彩だなあと感じ取る感性、和の心のゆとりが懐かしくなる、と半夏生の頃のひとり言。
(20170616)
もう春ですね。確かに、でもまだ冷たい空気が残っている。ヒンヤリとした 肌を刺すような感触。そんな空気に似つかわしい、日本水仙の香りは冷気が 感じられるからこそ、ホッとする爽やかで清楚な香り。花の少ない冬の間中 野原や水辺を彩り、寒さの中でも凛として咲く日本の花。別名を「雪中花」とも「雅客」とも称したという、冬の名残香を伝えてくれる地味な姿の花である。
ニホンスイセン
誰でも知っている水仙だから、其の、花の姿をよく見てくれる人は少ない。 水仙の花は、群れている花々としてしか見てもらえない。よく視ると白い花の中央は、黄色いアクセント、小さなカップ状をしている。地味だが一輪挿しでも十分に存在感があり、爽やかな芳香は部屋の空気に、清潔感を伝え切る。
学名には「小さなコーヒー茶碗」のある、「中国系」の水仙、という意味が加えられており、ニホン水仙が外来種であり、中国の神話「水の仙人」に起源があるのだと気付かされる。水仙はナルシストの語源でもあり、ギリシャ神話の水面に映る、自分の姿を覗き込む姿勢が、花の風情に重なっている。水仙の学名「ナルシス」には、洋の東西の神話が潜んでいたのだ。
ニホン水仙を名乗り、その香りを漂わせているのに、気づいてくれる人は少ない。昔は皆愛でてくれたのに、何故?「其のにほひ 桃より白し 水仙花」と眼の前にある、其の水仙の匂いを愛でたのは芭蕉。馴染みのある桃の花の匂いより、甘さと温かさが少ない、淡白な冬の名残香を感じ取ったのであろう。 色香は移ろいやすいものだからこそ、今、愛でてやらなければという共感か?
「われ感ずる 故にわれあり」とは、感覚論者のコンディヤックの言葉だ。しかし賢くなりすぎた皆様方は「われ思う 故にわれあり」を疑うことなく、 ホモサピエンスに徹しておられる。たまにはホモルーデンスの遊びの世界を楽しんでは如何ですか? 遊びはゆとりです、恥ずべきことではありません。
ジョンギル黄水仙
そろそろ花屋さんの店頭に小ぶりの花、ジョンキル黄水仙が顔を出す季節。別名は「ニオイ水仙」いい香りです。温かみと甘さが感じられる、間違いなく春の先ぶれ香です。誰にでも好かれる芳香であると、保証できる。ぜひ春先の花屋さんの店頭で、探してみてください。そして鼻を花に近づけてください。
アランコルバンは「匂いの歴史」という本で「ジョンキル黄水仙」と「瘴気」を芳香と悪臭(非衛生)のメタファーとして捉え、フランス18世紀の悪臭だらけの生活環境から、悪臭という概念が発明された歴史、悪臭との住み分けと衛生思想の発展を論じている。「瘴気」とは、病原菌が発見される以前の病気の元になる邪気という捉え方。18世紀末までは衛生学者が悪臭を訪ねて、それを排除する活動をして、結果的には病原菌の繁殖を予防していた。病原菌の概念が普及し社会常識になったのは、19世紀になってからのことなのだ。
鼻は悪臭や火事のにおいを嗅ぎ分け、安全を確保する役割を担っているが、すぐに慣れてしまう、感じなくなってしまうという、嗅覚には順応性がある。悪臭が身についても、気付かない危険があるのだ。身ぎれいにする嗜みが、昔から云われてきたが、恐れることはない、悪臭って可愛いところがあるのだ。
人間由来の汚物の匂いには、どこかアフィニティがあるらしい。微量の希薄な悪臭成分は、人間にとって魅惑的らしいのだ。ジョンキル黄水仙には汚物臭の成分が微量含まれている、これがなんとも快い匂いなのだ。
善悪・美醜の世界でも、ちょい悪、ちょい臭は許容されるのだろうか、いや歓迎されているのか? 西洋水仙である、ジョンキルと日本水仙を比較して観て嗅いで、日本の四季の楽しんでください。鼻が利かなければ、美食を楽しむこともできない。食事の楽しみが、単なる食餌になってしまう。
日がな一日、長閑に暮らすにはそれなりの才覚が必要だ。人生の後期高齢者として、老醜を感じさせず、高貴高麗者らしく振る舞うには、鼻こそ大事だ。触覚・味覚・鼻さえ利けば、目がかすんでも、耳が弱くなっても大丈夫。恐竜時代を生き延びた、哺乳類の根源的な感覚が残っているのですから。
ジョンキル黄水仙の香気を、是非楽しんでください。
(20170227)
ツクバネウツギの花
秋になると植え込みや生垣に、白い花を咲かせるツクバネウツギの花です。同窓会で紹介されましたが、改めて写真をみて思い出してください。羽子のような形をした地味な姿で、 静かに咲いていますが、いい匂いがするはずです。道端で見かけたら、花に鼻を近づけクンクンと鼻孔を膨らませて、息を吸い込んで微かな香りに気付いてください。微かな好い香り、微香こそが美香というのが和の美学です。ヤマユリの香りが強すぎると、遺伝子操作をして無香のヤマユリができています。花は色と形だ、見映えさえ好ければいいと、人間は思っているのでしょうか。
花だって、自然人であることを忘れてしまった人間など相手にしていません。昆虫や植物相手に香り通信を発信しているのです。昔、クスノキから採れる樟脳が防虫剤だけでなく、セルロイド樹脂の原料として、大量に輸出されていた時代がありました。その時、樟脳の収量の悪いクスノキは臭樟と呼ばれ蔑まれていました。その後、香水の原料になる成分が多く含まれていることが判ると、今度は芳樟と名付けられ、今では町並木のあちこちにクスノキが植えられています。
5月頃になると、このクスノキに小さな白い花が咲くのですが、高い木の上なので人目にはほとんど気付いてもらえません。匂いとなると完全に無視されています。この空気の芳しさに気付かずに呼吸するのは本当に「もったいない」です。爽やかで軽やかな快い芳香が、空気中に拡散しているのです。花の香りが風の流れを教えてくれる、匂いは風下に伝わっていくという、「花伝風信」という言葉があります。後期高齢者になったのだから、附小時代を思い出しながらもう一度ゆったりと、遊び心を自然に向けてみませんか?
戦後のまだ食糧の不足していた時代には、すえかかった御飯の匂いや味を誰でも体験していました。現代は賞味期限・消費期限はと匂いを嗅ぐこともなく視覚判断する時代です。今の安全・安心、お客様サービスの社会が、本来の自然人としての感覚を鈍らせています。嗅覚は退化したのではなく、休養しているだけです。潜在能力は保たれているのです。嗅覚も好奇心を持ちさえすれば、目覚めてくれると信じましょう。
物を食べるときに目隠しをして鼻をつまんでみると、匂いがしないだけでなく何を食べているのかわからなくなる。普段気付かないところで、嗅覚は何気なく働いているのです。「われ思う故にわれあり」の前提に「われ感じる故にわれあり」があるのです。感性は磨きをかけなければ、役立たずになってしまうのです。
アスリートを見てください、鍛錬を重ねて体力を作り上げ、自然人の肉体の限界に挑戦しています。感覚の世界にも楽しみ方がいろいろと転がっていることに、気が付いていないだけです。好奇心の的が子供の時のように、自然には向っていないだけなのです。社会文化のなかで立派に生きている、ホモ・サピエンスになりきっているのです。でも、毛皮を脱いだ裸のサルであり、本来遊び好きなホモ・ルーデンスであることも間違いないことです。
匂いで遊ぶ気になったら、まず漢字で嗅覚入門してください。匂は余韻の韻が韵となり、さらに匀から転移して、匂という国字が出来上がり、色香の世界の趣きを表現するようになりました。嗅ぐという字は、口偏になっていますが齅と嗅の二文字があります。クンクンと匂いを嗅ぐのを齅、鼻から息を吸い込みながら匂いを感じるのに対し、モグモグと口の中でものを食べながら、息をはきながら感ずるのが嗅です。
嗅覚が失われてしまったら、風味が感じられなくなり味気ない、ただの栄養補給の食餌になってしまいます。楽しい美味しい食事が嗅覚のおかげだと再認識してください。美食の中には天文学が潜んでいるとも言います。Gastronomy にAstronomyがあるというのです。
ついでに化粧品には宇宙が潜んでいる、Cosmetics はCosmosからの派生語です。
後期高齢者が華麗に加齢を重ねるには、子供の時のように自然に向き合って、あるがままの四季の変化に遊ぶこころ、自然人のゆとりを取り戻すことではないでしょうか。
鈴木大拙は無心の英語訳は、no mind ではなく、childlikeness がふさわしいと言いました。無心とは童心を取り戻すこと。嗅覚を覚醒させて、あるがままの香気を感しとることで高貴高麗者への道が開けるかもしれません。
こんな屁理屈を書いて、本当に「子供の町」の時代が取り戻せるのでしょうか?
(20161023)
山形 達也
附小S24の2組の加藤学級が、小学校4年生の時から5年生のはじめにかけて分団ごとに発行した雑誌から選んだ文章を、加藤嘉男先生がまとめて、技報堂から1947年12月に発行された「子供の町」はれっきとした本です。
先日、スキャナーで取り込んだので、Yahoo Box でその内容を公開しています。(2016年末まで公開)
https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer
加藤嘉男先生のまえがきの最後をここに引用します。
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「このぐらいの文ならぼくにも書ける」
「この位の絵なら私にも画ける」
という方があるでしょう。一つ書いて下さい。もっと良い「子供の町」を作って下さい。そうして新しい希望と、勇気に燃えて、毎日毎日の生活を楽しく送って下さい。「子供の町」が「大人の町」 になる頃の日本は、きっと生まれ変わったような世界の日本となって、世界の人達から、日本人の働きが喜ばれ、世界の人々のために、日本がなくてはならない国となるようにしましょう。
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私たちは加藤先生のまえがきに書かれているように、その通りに、大人になって、「日本は、生まれ変わったような世界の日本となって、世界の人達から、日本人の働きが喜ばれ、世界の人々のために、日本がなくてはならない国」となることに貢献しました。
この本は日本の敗戦後の混乱期に育った私たちの宝です。私たちは、このお陰でその後文章を書くことが日常当たり前にできるようになりました。
いま、この「子供の町」の先にくるものを、2組の人たちだけではなく同期の人達と共有できないかと言う思いで、この同期会HPを立ち上げることを同期会に図って賛同を得ました。
(20161024)
子供の町」の定価は110円でした。昭和22年から物価は大雑把に言って40倍になっているそうです。とすると、「子供の町)は、いまですと4400円の定価となるので、かなり高いという印象ですね。
(20161027)
附小の2組の本「子供の町」の内容をWebで公開しています。2016年の年内いっぱいの公開です。
(20161101)
「子供の町」は、Webcat plusというネットに載っています。
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/117861.html
45014109という書誌番号をもっていて、国立国会図書館に収蔵されているみたいです。
FORUM-1 に収録
(20161102)