確か3年生の時出来た班で、それまでは無かったと思う。映写フイルムなどは高くて手に入らない時代だったので、映画班とは名ばかりで実質は写真班だった。ではなぜ映画班と名付けたのかと言うと、映画の割引券を班の費用で30枚くらい購入し、校内で売っていたからではないかと思う。
映画班
その頃は娯楽も少なく、映画は大人気であった。ことに洋画で見る外国の生活は我々の憧れの的であって、猫も杓子も三種の神器といわれる冷蔵庫、洗濯機、自動車を手に入れることを自分の夢としていた。私は映画班の班長だったので、渋谷の映画館まで良く割引券を買いに行った。入口で「割引入場券を買いたい」というとすぐに支配人室まで案内された。そして券を買い終わると「せっかく来たのだから、観て行きなさい」といつでも只で映画を見てもらった。大変ありがたい映画班長の役得だった。
写真は「イースターパレード」(初めてみた総天然色映画)
GHQ
映画の割引券販売以外のもう一つの映画班の活動は、カメラを担いで都内を撮影して廻ることだった。当時の日本はアメリカ軍に占領されていて、その総司令部は日比谷の第一生命ビルに有った。
誰と一緒に行ったか忘れたが、「マッカーサーの写真を撮ろう」と第一生命ビルの前のお堀の石垣の上まで登り、占領軍の総司令官が来るのを待ち受けていた。
やがて車が到着し、マッカーサーがビルの玄関に差し掛かったので、我々もカメラを取り出し撮影しようと身構えた。その時すぐ後ろに憲兵が2名近寄って来て、我々を睨んだ。カメラを銃と間違えて撃たれやしないかと恐怖にかられ、結局写真は撮らず逃げ帰った。
写真は第一生命ビル
勝鬨橋
これも誰と一緒だったか忘れたが、当時の名所である勝鬨橋まで撮影に行った。
その頃はまだ1日に5回20分くらい跳開していたので、我々も橋の月島側の固定部分でカメラを構え、開くのを待っていた。
やがて時間が来て勝鬨橋の可動部分がゆっくり持ち上がりだした。先端が徐々に開いて行き1Mほど間隔が開いたとき、一人の若いサラリーマンがひらりと飛び越えた。もう股の下には隅田川が見えたはずで、その蛮勇にびっくりした。
勝鬨橋が全開したのでその雄姿をカメラに収め、さて帰ろうとしたが今度は中々閉まらない。結局1時間くらい橋の固定部分で待たされ、やっと築地まで帰った。
フイルム詰め替え
何せ中学3年ともなると腹が減ってしょうがない。3時ごろにはどうしても何か食べたくなる。そこで映画班員は交代で校門の外に出掛け、焼き芋を買ってきた。でも迂闊な所では食べられないので理科室の暗幕を下ろし、入口に「フイルムの詰め替え中、入室厳禁」と張り紙をして皆で食べた。
しかし匂いが残ったはずなので、たぶん映画班顧問の小松先生はご存じだったのではないかと思う。
(20200421)
進駐軍専用車
4年で編入入学した僕は、毎日千駄ヶ谷駅から第一師範駅まで中央線・山手線・東横線と乗り継いて学校へ通っていた。戦後間もなくのことで電車の本数が少なく、特に山手線は大変混んでいた。屋根と連結器には乗らなかったが、座席の上に土足で立って通うなどは毎日のことであった。 流石に占領軍もこの混雑には参ったらしく、二等車車両の半分に白線を塗って中を仕切り、進駐軍専用車として使っていた。帰りには僕は良くH君と連れ立って帰ったが、ある時米兵が彼に向かって「カモン」と言って乗せてくれた。多分H君が小さくて可愛いかったせいだと思う。で私も連れだと分かり、ちょっと考えていたが渋々乗せてくれた。なにせ私は当時から大人なみの身体だったので! でも進駐軍専用車に乗った後は、私にもH君にも平等にチョコレートとチューインガムを2つづつ配ってくれた。それ以来僕は進駐軍に好意を抱いた。
力不足
東横線の車両は戦争であらかた焼けてしまったので、あちこちの私鉄から借りた電車を走らせていた。ある日乗った電車は井の頭線からの払い下げで、台形の車両だった。しかしその電車は力がなく、中目黒駅を発車して祐天寺駅に差し掛かる登り坂で止まってしまった。
暫く運転士が色々操作していたがどうにも動かず、ついにバックして中目黒の駅まで戻り、勢いを付けて再度坂を登り何とか祐天寺駅までたどり着いた。
代官山のトンネル
昔の東横線の電車は大体2両編成で、写真に有るような電車を2両連結して走っていた。各車両の前と後ろの部分の左半分は運転台が付いていて、右側は乗客が座れるようになっていた。勿論1両目と2両目の間には通路などなかった。 幌のついた通路が出来たのは、中学1年の頃の桜木町事件以後のことである 1両目と2両目の運転台は乗務員が乗らないので、僕ら小学生にとっては天国のような場所だった。運転室に入れば仕切ってあるので、満員でもぎゅうぎゅう押されることがないからだ。
帰りの電車に乗り、4~5人で運転台に入ってワイワイ言っていたら代官山のトンネルに差し掛かった。当時トンネルに入っても電灯など点かず、辺りは真っ暗闇だった。すると突然乗っていた運転台の床下から“ボー”と警笛が鳴り出した。誰かが床にあった警笛のボタンを踏んだらしい。「早くどけ」と騒いだが暗闇の中のことで中々鳴りやまない。トンネルを抜けてやっと鳴りやんだが運転士に怒られるのを恐れ、渋谷駅でドアが開くと同時に皆で一斉に駆け出した。
(20200416)
加藤嘉男先生は1937年(昭和12年)に東京府青山師範附属小学校の教導に任命された。1942年(昭和17年)3月卒業の男子1組の担任となった。これは戦前のこのクラスの担任のときの話である。
いつも音楽では困らされる。当時は、附属といえども教員数が少なく、首席訓導(今の教頭)を除いては、全部の教員が学級担任をしていて授業を持っていた。
音楽も専科がいなくて、堪能者との学課交換であった。しかも、音楽の二時間あるうち、一時間は自分で持てという。
自分で一時間持ったところが、子供が、
「先生のピアノの音少ないね。」
という。当たり前である。専門に音楽をやっている先生と、伴奏を左オクターブ打ちしているのとでは違いがはっきりする。それにしても音が少ないとはうまく言ったものだと感心する程であった。よし、もうそれならピアノは弾くまい、何か変わった方法はないかと器楽をやることにした。
音楽の専門家ではないので、新しく楽器を買わせるわけにもいかない。家にある楽器、音が出るものならなんでもよい、学校に持って来るように、と言うわけで、いろいろな音の出る物が集った。ハーモニカは昔吹いたことがあるので、多少自信があったが、子供に吹かせてみると、音が違う。確かにハ調とト調のハーモニカがあるに違いない。ハーモニカを持ってきた者に音階を吹かせ、何かしるしがないか調べさせた。すると、C、L、Gというしるしが付いていることがわかり、Cは確かにハ
調のハーモニカであることが分かった。
それで、これからはCのハーモニカを持って来るように、買うならCを買うようにと、それとなく暗示を与え、Cを揃えるようにした。
ところが問題は演奏する曲である。今のように、歌唱曲を吹く事は冒涜であると考えられるので、何かよい行進曲はないものかと考えていた時、丁度その頃流行していた「国民行進」という曲があったのでレコードを何時となくかけ、遂におたまじゃくしに写しかえることができた。ピアノで弾いてみると、どうも音階が違う。そこで音楽の専門家である勝田先生にお聞きすると、
「原譜はへ調で、君のはハ調だから違うのだ。」という。
「へ調だのハ調だのどうして違うものを作るのか。」
とお聞きすると、言下に
「これはむずかしいことなので、君に説明しても解るまい。」
と、はねつけられてしまった。
ハーモニカがハ調なので、曲趣は違うがハ調のもので押し通すことにした。
ピアノは子供の伴奏ではオクターブ届かないので、五度とした。大太鼓は初め、やりたいと言う希望者が多かったが、わずかな時間のずれでいつも叱られるので、だんだん子供の中で専門化されていった。
青山外苑にある日本青年館で学校の音楽会が開かれ、堂々と国民行進と、校歌、歌唱をアレンジした接続曲を演奏して大喝采をあおいだ。それにしても、ガリ版でおたまじゃくしを並べ、印刷するのは大変だった。
この子供たちが
「先生ラジオの音楽はきれいだね」
と、音楽に耳を傾ける様子を見て、私の音楽教育は成功したと思った。なおこの子供たちは卒業してもなにがしかの楽器を持って楽しんでいた。
終戦後担任した子供達にも器楽合奏を指導し、今日程上等ではなかったが、戦後の新しい音楽教育の走りとして、演奏の情景が文部省から出版された器楽という本(主としてクラブ活動用)の一ページを飾るまでになった。もうこのときは、バイオリン、フルート、たて笛、木琴、鉄琴、大太鼓、小太鼓頭を使っていた。協力一致と言う精神も地についたものとなっていった。
器楽合奏は共鳴を呼び、専門家ではない学級担任が次々と踏襲して一時期を画したものであった。
加藤嘉男 「わが道を行く」1985年私家出版 第四部「教員熟期」より抜粋
ぼくはずっと研究者を職業として生きてきた。その研究者としての大事な芯の一つを加藤嘉男先生の教育から得ている。その教訓が骨身にしみて、「怠けたい、手抜きをしたい、ずるいことをしたい、誤魔化したい、嘘を付きたい」という誘惑からぼくを厳しく遠ざけていたことを、ここに書いたことがある。
(心の傷がぼくの原点 https://sites.google.com/view/s24fushou/essay/agora2#7)
ぼくは研究者としてもう一つの大事な教訓を、同じく附小時代に、そのクラスでの発表会で得たのだった。
なんと、同級生の山本修(おさむ)のおかげである、あのヤントだ。クラス随一のいじめっ子で、2組のころ、ヤント、野村、そして須賀次郎(ははは、ゴメンね、貴兄とのわだかまりは今では氷解しているよね)からぼくは散々いじめられたものだ。今でも恐怖を感じるそのヤントのお蔭だなんて認めたくないし、言いたくもないが、実はこの一件がぼくの研究者としての精神の通奏低音となっている。
加藤先生のクラスは毎年夏休みのあと、生徒による発表会があった。発表の内容は何でもよく、自由研究として研究発表をする人がいたし、自作の詩や作文を読み上げる人もいた。話す人は希望者だったような気がするが、ぼく自身は積極的に人前で話すタイプではなかったから、保護者である親が申し込んだか、あるいは加藤先生が指名するシステムだったのかも知れない。
今では当たり前のクラス風景だろうが、これは昭和22年、戦後二年目のことである。このクラスは今から思うと、戦後教育改革の先頭を切って走っていた。
この発表会でぼくが覚えているのは、ある日夜中に起きていて観察した皆既月食のスケッチを絵にして、人前で話したことである。なんでこんなことが発表に値するのか不思議だが、むかしの小学生のことだから許してもらいたい。
ネットで月食の写真を見つけたのでここに借用して載せる。ぼくの描いた絵も本質的はこんな感じだった。左上が始まりの時間で、時間は右に流れていく。
この発表会でぼくが覚えているのは、ある日夜中に起きていて観察した皆既月食のスケッチを絵にして、人前で話したことである。なんでこんなことが発表に値するのか不思議だが、むかしの小学生のことだから許してもらいたい。
ネットで月食の写真を見つけたのでここに借用して載せる。ぼくの描いた絵も本質的はこんな感じだった。左上が始まりの時間で、時間は右に流れていく。
満月に丸い地球が影を落として、そしてそれが移行していく。地球の暗い蔭(ここでは暗い赤色)は丸い。それは平面で描かれている月面の上ではっきり見えるし、もちろんぼくの絵にも再現している。 しかし発表した中に、おかしな絵が一つあったのだ。月食の終わるころの時間だ。図でいうと、最下段の真ん中あたりである。地球の影は丸い地球を反映して丸い弧になっている。
ところがぼくの絵では、それが内側に凹の円弧だった(いわゆる三日月の形である、この図の丸い月の右肩に暗赤色の三日月が書かれていると思ってほしい)。発表のときには、もとのスケッチから書き写しているが、そのとき元の図は持っていなかった。 発表の後は、質問の時間である、ヤントが手を挙げて言うには、「最後のところでおかしな絵があります。地球は丸いから、地球の影は丸いはずなのに、終わりの方の山形くんの絵では、それが逆になっています。本当にそのように見たのですか、それとも、書き写すときに間違えたのですか?」 ぼくは質問を受けた途端に、自分の見せた絵の間違いに気づいた。この絵は正しくない、ヤントの指摘が正しい。もとのスケッチから写し間違えたか、最初のスケッチの段階から間違って観察していたかのどちらかだ。
写し間違えたといえばいいけれど、肝心の元のスケッチをそこに持っていないので証拠を示せない。しかもそう言うと、自分が不注意だったことを認めてしまうことになる。或いは、もともとの観察が違っていたかも知れないが、それを認めたら、自分の顔に泥を塗ってしまう。満座の前で発表してどうして自分の犯した間違いが認められようか。
「地球は丸いから、月に映る地球の影も丸いはずだけど、月が球形だから円周に近いところは影も向こうに伸びるからこのように見えたのにちがいない」とぼくは言い張った。
ヤントは、「映る面が球形でも平面でも関係ないでしょ。丸いものは同じように丸い影を与えるはずです」とぼくを追求した。その通りだ。どんな言い訳を考えても、ぼくに分がないのは当然である。
この先の展開は記憶に残っていない。「ヤントの指摘は正しい。しかし、ここにもとのスケッチを持っていないのでなんとも言えないが、写し間違えたかも知れない」と言ってお終いになって欲しかったと思うが、実際は覚えていない。少なくとも「ヤントの指摘は正しい」と言ったという記憶がない。おそらくその時は頑張り続けて自分の誤りを認めなかったので、それを恥じて恥ずかしい記憶が消されたのだろうと、今は思う。
ぼくはこの日(おそらく附小5年の夏)、研究者としてあるまじき間違いを犯したわけだ。自分の話、主張に間違いがあって、それを他の参加者から指摘され、その間違っていることがわかっても、間違いを認めるどころか、なんとか言いくるめて、ごまかして逃げようとしたのである。
これはその後ぼくの心に深く沈殿して、いつも絶えずぼくに警告を与えてきた。「間違った主張をするな。誰でも間違えるのだ。ぼくだって間違える。人から受ける疑問、質問は貴重である。それを材料にして改めて自分の主張を検討せよ。そしてもし間違いの指摘が正しいことに気づいたら、謙虚に間違いを認めよ」
だから、ぼくはその後の研究者人生で、人との議論には常に謙虚に取り組んだ。いつも自分の主張は丁寧に検証した。実際その後も、自分の研究者の道を歩みながらいろいろの人を見てきた。質問を受けた時に指摘に沿って自分の考え、主張、証拠を検討しようとはせず、ただ居丈高になって相手の言い分を抑えつけようと反論する人をたくさん見てきた。このような人の誰もが研究者としては駄目で、消えていった。
じゃ、ぼくはどうかって?ノーベル賞をもらうほどの革命的、画期的研究ができなかったその他大勢の一人というだけである。
ともかくぼくがうそ偽りのない研究者人生を送ってきた裏には、あの、心底大嫌いな、いじめっ子のヤントがいたのだ。
(20181012)
昨年末、同期会の幹事の集まりがあった。
これは今年幹事をやった人達と来年の同期会を担当する次期幹事の引き継ぎのための集まりで、その帰り道一緒になった女性の同期生NOTさんがぼくに言った。
「小学校ではたくさんのことを教わったと思うけれど、担任の広田先生が教えて下さった中で、一つだけとても強く心に刻み込まれていることがあるのよ」
「それはね、国語で「大意」って習うでしょ」
「これって、ある程度の長さの主張のある文章を短くまとめることよね。そしてこのほかに「文意」ってのも習ったわ。文意は、その文章で何を言いたいのかってことよね。だから、それ以来、ひとの話を聞くと、この人、本当は何を言いたいかをまず探るようになったの。つまりとても分析的に、批判的に人の話を聞くようになったわ」
「これはね、小学校時代に担任の広田先生の教わって身についたことなのよ。でもこれはわたしだけで、他の人に聞くと、誰もそんなことを教わったなんて、覚えていないのね」
「あのね、KOKさんはね、同じく広田先生に教わった中で、客観的に物事を見ることが必要だと教わったというのよ。普通、私たちがなにか書くときは、自分の視点で書くでしょ。自分が何を感じたか、どう思ったかが中心よね。今はインターネットの時代で世の中にブログが溢れているけれど、どれも、みんなそうよね。自分の主張や考えを書いているわよね」
「それを、物事を自分ではなく別の視点から見て書くことを教わったの言うのよ。これだと作家になれるわね。もちろん、私はそんなことを覚えていないわ。でもKOKさんは、それで物書きになったと言っていいみたい」
ぼくは同じように、小学校時代の加藤先生の言葉で影響を受けただろうか。
実は、とても恥ずかしい思い出がある。それが心に残って、ずっと今までぼくの人生を律してきた。6年前になくなった妻(いうまでもなく小学校以来の同期生のさえ)にも話したことのない、心の傷だ。
確か6年生のときだったと思う。当時まだ丸刈りの頭の加藤先生は床屋に行って、自分の刈り取られた髪の毛を新聞紙に貰い受けてきた。一人ひとりの机に座っているぼくたちに髪の毛を少しずつほぼ均等に配って、これを数えて、人の頭の髪の毛の数を知ろうじゃないかと言った。
人の髪の毛の数は人によって違うはずだし、大体、数えて何の意味があるのか、と直ぐにぼくは思ったが、先生から見えるところに座っているので、ともかく数え始めた。
数千本の単位だ。白い紙の上で最初は丹念に1本ずつ動かして数えて、数え終わった毛の束を右端に作っていたが、加藤先生の髪の毛の数を数えることの馬鹿らしさに取り憑かれた。それで、これで十本、十本という具合に目分量で髪の毛の束を作って動かし始めたら、作業は面白いように進み始めた。
ところが、それが加藤先生の目に留まってしまった。加藤先生はぼくのところに来て言った。「おい、やまがた。これは何だ、ちゃんと数えていないじゃないか。初めからか数え直しなさい」
ぼくは自分の不正が暴かれた屈辱感に苛まれながら、髪の毛をまた最初から数え直した、加藤先生の厳しい視線の監視下で。
恥辱にまみれた単調な作業の中で、「加藤先生の髪の毛を数えることに一体何の意味があるのか」という疑問は消えなかったが、この単調でしかも緊張を強いる作業を合理化する唯一の道は、それを自分に納得させることだった。
つまり、他の40人が正確に数えているのに、ぼく一人が不正な数を出せば、最終の合計数字は意味がなくなり、みなの努力がまったく無意味になる。だから、これは無意味な行為であっても、自分が誠実であることで、ぼくはみなを救うのだ。
人を救うのは気持ちの良いことだ。ぼくはそれで、その馬鹿げた、しかしある意味で意味のある行為を続けることができた。
その後、ぼくは科学者になった。実験をしていると、この数字が出なければ結果は綺麗なものになるのにとか、この3回目の実験結果が逆になれば自分の仮説は証明できたのにとか、思うことが何度もあった。それでも、ぼくは実験を繰り返して統計的に意味のある結果を出して自分たちの仮説を証明するか、あるいは仮説が間違っていることを証明して仮説を破棄し、改めて仮説をたてて実験することをやってきた。
実際、研究をやっていると事前に考えた仮説が正しいと証明できるのは3割位で、あとはたいてい間違っているのだ。最初に思いつくアイデアなんてたかが知れている。予想と違った結果が出て初めて、新しい発見があるのだ。
しかし、世の中に発表される膨大な数の科学論文の1〜3割はデータに不正があったり、捏造されたなのだという。人は誘惑に負けるのだ。
ぼくは自分の研究が人を救うことになるかどうか考えたことはなかったが、実験で得られたデータには誠実に向き合い、54年間の研究生活で不正な行為は一度もしなかった。これが、あの加藤先生の髪の毛を数えることから教わったぼくの原点である。
(20170529)
学童疎開から東京に戻ってきたのは1945年の11月頃だったと思う。疎開のあと直ぐには戻ってこない生徒があって生徒数が減少し、ぼくたち3年2組は男女一緒のクラスとなって担任は広田先生だった。
4年生になると疎開から戻ってきた人も増えたし、新しく入ってきた人達もいて元通り学年は3組編成になってぼくたちは加藤先生の4年2組になった。
世の中の食糧事情は最悪だったが、世界は戦争中とはすっかり変わってしまった。何よりも新しい遊びが入ってきた。野球である。
ぼくたちが野球のルールを良く知っていたとは思えないが、それでもみなが家にあるものを持ち寄って、粗悪な印刷の野球ルールブックを片手に、野球遊びが始まった。ボールは軟式テニスのボールだった。ぼくは叔父のグラブをもらってきたが、左利きの叔父だったので、右手にはめるグラブを左手にはめて、とても使い難かった。
それでも、こんなお古でもあれば良い方で、必要な数の半分ぐらいしかなかったと思う。でもその中で、園田が一人だけ新品のダークグレイのグラブを持ってきた。羨ましく思いながら、いいグローブだねと褒めたものだ。
実際に野球をやろうということになってぼくはピッチャーを買って出た。それまでは何時も、何かと場を仕切っていたから当然のことだった。
でも、いくら投げてもストライクが入らない。「4球ボールなら一塁に行っていいんだろ」と、誰かがが抗議したが、ぼくは受け付けずに、「これでいいのだ、ボールは数えないんだ」と投げ続けた。やがてみんなが口々に抗議をして、ついにぼくはマウンドから引きずり降ろされた。
まったく運動神経のないことが友だちの前で如実に示されて、それまでのガキ大将の面目と自信が完全に潰えたという、人生最初の深刻な挫折を味わった瞬間だった。
でも、これだけでは済まなかった。深く傷ついた自尊心を自分でも扱いかねて、それを救うための代償を求めたに違いない。
なんと、新品のグラブを持っている園田のいじめに加わったのだった。4年生のときに入ってきて、たちまち辺りを席巻した悪ガキのヤント(山本修)が園田の新しいグラブを、「何だ、こんなに硬いグラブは。これじゃ硬すぎてボールが取れないね」とけなしたのである。
園田が野球少年の片鱗でも見せていたら、みなから一目置かれただろうけれど、昆虫少年だった園田の運動神経はぼく並みだったから、ヤントから見れば言い易かったに違いない。新しいグラブが羨ましくて、だからこそケチを付けたのだろうが、これはいじめである。ぼくはその尻馬に乗って、いじめに加わるという卑劣な人間となって、自分の心の痛みを補償しようとしたのであった。
しかし、この明らかに正義に悖る行為はぼくを惨めにし、それを恥じる気持ちは深くぼくの心の底に沈殿した。ぼくは園田に対する忸怩たる気持ちを抱いたまま、その後の自分の人生を生きてきた。だからその後は一切いじめにかかわらなかった。良くも悪くも人の尻馬に乗るという行為も、厳に戒めてきた。何時も、その時の良心の咎めが蘇ったからである。
先日(2016年)の同期会で久しぶりに会った園田に、やっと事の顛末の一部始終を話して、謝った。
70年ぶりに胸のつかえが降りた。お互い、生きてて、良かった。
(20170101)
加藤学級では5年生になった時、生徒のぼくたちはうちにある楽器を学校に持ってくるように言われた。
今の小学校では低学年からリコーダーやピアニカなどの演奏を習うが、当時は音楽の時間は歌を歌うだけで器楽教育の発想はなかったし、だいたいそんな楽器なんて存在しなかった。もちろん、ヴァイオリンを弾ける生徒もいなかった。当時、結構行き渡っていた楽器はハーモニカで、ハーモニカのあるうちが半分くらいあった。ハーモニカと言ってもハ長調だけでなくイ長調、ト長調などに移調した色々なハーモニカがあった。
ハーモニカのある生徒はそれぞれの調子ごとにグループを作って、ハーモニカ奏者群となった。縦笛を持ってきた人は笛のグループ。なしの人は木琴を割り当てられ、一人は鉄琴だった。あと小太鼓、大太鼓、シンバル、トライアングルにも生徒が割り当てられた。コップに水を入れて小型の笛の先を突っ込んで吹くのを担当した生徒もいる。
加藤先生はハイドンの「おもちゃの交響曲」の第一楽章を、ぼくたちの楽器編成に合わせて各パートを作り(当時のことだから謄写版ーガリ版ーで)印刷して各パートを作った。ハーモニカのためには、調子の違うハーモニカごとに移調した楽譜を作って渡したのである。
そして指揮は加藤先生。格好良かった。
ぼくは、ピアノ担当だった。姉にくっついてピアノを習い始めたばかりだったので、これを弾くのに苦労したのを覚えている。加藤先生の指揮がいくら良くても、ピアノがしっかりしていないと全体が崩れてしまうので、責任重大とばかりに一所懸命練習したのだった。
みなで練習したのは、音楽の時間を勝田先生に分けてもらって音楽室で練習したと思う。ピアノは三階の端の音楽室にしかなかったからである。
5年生の秋の音楽会がぼくたち加藤学級オーケストラの初の出番だった。
この時代に小学生がオーケストラをやったなんて、全国で初めてのことではなかったか。昭和23年の小学校6年生である。今ならマスコミで大評判になって取材が殺到したに違いない。
ぼくたちはこのToy Symphonyを演奏するのが手一杯で、他の新しい曲には手を付けることはなかった。
附中に入った時、加藤学級からは数人が別の学校に進学して人数を欠いていたが、学校側のたっての希望で指揮者なしで、この曲の最後の演奏をした。この時、初めてピアノに譜めくりが要るのではないかと言って、3組の本荘玲子さんにぼくの隣に座ってもらうからという連絡が入った。
その後、第25回音楽コンクールで入賞し、NHK交響楽団のピアニストになって活躍したあの本荘玲子である。とんでもない。あの頃でも雲の上の人だった。恐れ多いだけではなく、あちこちごまかして弾いている手元を本荘さんに見られてしまったら、弾くに弾けないではないか。やっと、お断りを認めてもらった時には冷汗三斗だった。
ぼくはその後大学のオーケストラではクラリネットを吹いたし、アメリカに留学したときはシカゴでアメリカ音楽学校に行ってフレンチホルンを習った。結局、ピアノを含めてどれも物にならなかったが、音楽は大好きで、自分の時間の3分の1くらいは音楽を聴くのに使ってきたような気がする。
(20161211)
福島君、おっしゃる通り附小時代は欠席が多かったと思いますが、「やらせ」の挙手だけではない、立派な存在感がありました。
それは、「簡易楽器」のコンサートの郭公ワルツ、その出だしから間もなく「ピッピピー」或いは「プップクプー」と響く金管の音、福ちゃんの独壇場です。
附小は知育に偏重し感性を伸ばす方では不十分だったとのご感想ですが、それはやや望み過ぎではないか。
加藤先生は、あの物資欠乏の時代に簡易楽器で全員参加のコンサートをやらせようと、ご自分で選曲し、編曲し、更にガリ版で譜面までお作りになった。こんなことをして下さった先生は、他にはちょっと想像が出来ない。
生徒の感性に訴える、或いは感性を伸ばす素晴らしい教育だったと今でも痛感しています。
(20161130)
奥沢の八幡小学校四年生の末、音楽の大和淳二先生が附小を受けたらどうかと言って来た 。その後体操の鏑木先生が家に来て、「福島君は優しい人だから、附小のような頭の良い子ばかりで厳しい学校は向かない。私学で大学まで行ける穏やかな学校 の方が良い」と言う。 結局附小に転校したが五年生の半分は肋膜炎で休学していたので附小には一年間丈在学した。鏑木先生の云われた通り成績は下がった。ホームページの教室風景の奥の方で小生は手を上げているが「やらせ」である。皆の知的水準には追い付いて行けない。病床でも通学再開で もぼやっと夢を見ていた。内容はグリム童話か真田十勇士などのルビ付きの少年講談の数々だ。 感性はもしかすると知性よりも大切かもしれない。感性が育つには脳が未分化の状態が長いほど良いように思う。料理でも頭で作ったそれと感性(心)で作ったそれとは味が違う。附小は少し頭の育成に偏っていたようだった。(完)
(20161121)
確か五年生の夏だったと思う。園田(エンデン)を師匠格に相棒一人と小生の三人、昆虫採集をしようと高尾山を目指した。相棒が誰だったか、末田のような気もするし亀山だったかもしれない。
師匠の家は戦災に遭わなかったためか捕虫網を含め装備は万全。相棒と小生は加藤先生にお願いして教材用?の捕虫網を拝借して恰好を付けた。戦時中の作らしく、白い網の生地は人絹。何処かへ引っかけたら切れるに違いない。網を振るときは細心の注意が必要と肝に銘じた。
(画像インターネット画像より収録)
省線の浅川(現在の高尾)で降り、甲州街道を西に。やがて 藪の中の脇道に入った。藪を棒で叩くとオオムラサキなどが飛び出して来る、それを捕虫網で捕るという師匠の教えに従ってしきりに藪を叩いたが、オオムラサキはおろか、バッタ一つ飛び出して来ない。そのうち胸突き八丁の急登になり叩くのは断念。そうこうするうち頂上に着いた。
まずまずのお天気だったが、その頃は山登りに出かける余裕も無かったのか我々のほか誰もいない。そして蝶は、子供の眼に捉えられる程には飛んでいない。師匠が小屋の壁に止まって休んでいるヒョウモンらしき蝶を一匹(正しくは一頭と言うそうだ。)見つけ、セミ捕りの要領で上から網をかぶせて捕獲に成功。冴えないへっぴり腰だったが一応昆虫採集の目的は成就した。しかし、その後は蝶の気配はゼロ。日が傾いて来たので琵琶滝口へ下山した。
案内川沿いに浅川に向かっていると、年の頃20歳前後の数人のお兄ちゃんが河原を見下ろして何か騒いでいる。一緒になって覗き込むと、体長70センチ程の中型のマムシがうねうねと移動中。我々に気付いたお兄ちゃんの一人が、「おい、坊や。網を貸せ」と言う。捕虫網でマムシを掬い上げようと考えたらしい。「これは学校から借りた物ですから絶対にダメです。」と叫んで、一目散に浅川まで逃げ帰る羽目になった。
帰宅して夕飯のとき、昆虫採集の成果が大笑いの的。小生の 唯一の「釣果」は角ばったやや大型のカナブン一匹。拙宅から道一つ隔てた林が旧近衛師団の騎兵聯隊の駐屯地だったから、虫は無尽蔵。夜灯火に集まるスズメガ、カナブンの類は数知れない。
しかし、そういう地元のカナブンは皆撫で肩で小型。山で捕まえた奴は図体が大きいし、角張っていて威厳がある。こういうのは山にしかいないと小生が陳弁すると、三歳上の兄貴が「何言ってやがる。そんなのいっくらでもいらぁ」と大声でケリを付けた。今思うと兄貴はなかなか立派な男だったが、少年時代は弟の情熱には殆ど理解が無く、クサしてばかり。それで鍛えられて弟もマトモな稼業に進んだのかもしれない。
(20161121)
小学校を卒業してから70年近く経ちました。それでも、個々の場面は深く心に刻みこまれています。もちろん、心理学でいう記憶の変容で自分の都合の良いように変わっているはずですし、ボケもあるでしょうし、本当にあったことからは離れているかも知れません。
事実は一つしかないのに、歴史は人によって(国によって)様々ですものね。
2004年の第20回参議院議員選挙の投票日が近づいたときに、私は中国にいたので国政選挙では初めて棄権しました。棄権したことで想起して、小学校時代のクラスの討論会のことを当時のブログに書きました。それを多少書き直して、ここに載せます。当時のクラスの討論会風景です。
たった一票のことかも知れませんが、ひとりひとりが全体の意見を作るのだという意識は昔から変わっていません。この民主主義の原点は、私たちが1945年の敗戦を小学校の3年生で迎えたところにあると思っています。
私たちは物事の善悪の判断が付く年齢の時に、すべての価値観がひっくり返るのを目の前にした世代で、しかも、戦後の教育が混乱している時期に小学校の高学年だったという、かなり特殊な年齢層に属しているでしょう。
敗戦後の混乱のなかで、クラスの自治会はかなり早く導入されたように記憶しています。学校側が決めた級長はなくなり、その代わり級長(クラス代表)はクラス全員の投票で選ばれるようになりましたし、小さなことでも自分たちで討議して物事を決めるという経験することになりました。
小学校が教育の実験校だったためか、敗戦の直ぐ次の年にはそれまで四十人足らずのクラスが6人単位の班に分けられて、そこが勉強の単位となり、意見を言う単位ともなりました。分団と呼ばれていて、わたしの班の班長は、落ち着いて面倒見の良い、そしてしっかりと自分の意見を持って人を導くことの出来る、いってみればみんなの父親みたいな田宮務でした。実際、彼のあだ名は「おとうさん」でしたね。
その後何年も経ってお互いが青年となって再開したとき、彼の方が背が低いことに大変驚いたことを覚えています。私たちの信頼と尊敬を集めていた田宮は、それほど記憶の中では際だった大きさでした。人の偉大さは、身体まで大きく見せるというのは本当のことですね。
クラスの自治会では身の回りに関わることは皆で議論して決めました。クラスの担任の加藤嘉男先生はよく議題を持ち出して、私たちの発想と議論の訓練をしました。
あるときは「戦勝国が負けた国の指導者を戦争犯罪人として裁いて良いか」という題が出されました。
この時はクラス全員が班とは関係なく、YESかNOの自分の意見に従って実際に教室の右と左に分かれて、意見を戦わせたのです。
私は「日本が負けたのは軍部が独善的に国を支配したからだ」というその時の時流の意見を信じていたので、YESの方に座りました。YESの側には、いまでは行方不明の山本修がいて、頑張って発言していたのを覚えています。
しかしNOの方には兄貴とも頼む田宮も、その後大蔵官僚になった図抜けて頭の良い大須敏生もいて、「連合国は勝ったから負けた日本を裁いているのであって、論拠はそれだけである。日本には戦いを挑む理由があったのだ」という理由で「勝ったからと言ってあのような裁判を行うのは間違っている」と主張しました。
戦犯裁判を是認する側は言い負かされてしまい、結局クラスの総意は、戦勝国が敗戦国を裁くのは間違っているという意見となったのです。
これは戦犯を裁く東京裁判の行われているその頃でも、表だって世の中では言われなかった意見に違いありません。
私は理路整然と裁判是認側を論破する田宮と大須の二人に聞き惚れて、ついぞ彼らへの反対意見が心中に浮かばなかったことを覚えています。「戦勝国の横暴」という言葉も「アメリカ帝国主義」という言葉もまだ使われていなかった時代だったと思いますが、「軍部が悪いという単純な図式」だけで世の中は動いていないことをこの二人は理解していたと思います。一方で人の世の複雑さが分かるには、私は幼すぎたということが、今振り返ってみると良く分かります。
これが何時だったのか、いわゆる東京裁判は1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われたそうです。判決がでてからですと6年生の後半になるので、おそらく裁判の途中の5年生の後半から6年生の前半に掛けてではなかったかと思います。発達心理学では自分自身から離れて物事を抽象的に見る能力は小学校の高学年になって形成されると言っています。
とすると、この時期のこの小学生は凄いですね。と言っても、田宮や大須のことですけれど。
東京裁判の判決が出るよりも、平和憲法公布の方が先でした。憲法の内容をクラスで討議したかどうかの記憶はありませんが、自我の形成期をこのように自由に意見の言える雰囲気で過ごしたので、個人個人が自分の意見を持つと同時に、集団全体のために知恵を出し合うことが全体の利益であり、したがって個人が選挙権を行使するのは当然の義務であるという考え方が、しっかりと身に染みついたのだと思います。
長じては、ほとんど無意味に思える一票ですら、棄権出来なかったのですから。
(20161116)