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2022.05.10
ロシアのウクライナ侵攻は世界を揺るがせている。駐中国、駐インド両大使を歴任した谷野作太郎氏に日本外交の在り方などについてインタビューした。前編では、ウクライナ危機下の外交の役割、国交正常化50周年の日中関係などを聞いた。外交がなければ戦争は防げない
泉 ウクライナ危機に伴い、米中関係や日中関係と絡んで「台湾有事」などの議論が急浮上しています。
谷野 今、日本では「いずれ台湾有事の事態が来る」、「台湾有事は日本の有事」、はたまた「だから『米国との核の共同保有』について早急に議論を始めよ」と。
中国の習近平国家主席は台湾武力解放の挙に出るほど愚かだと思いたくありませんが、ウクライナをめぐる情況を中国は注意深く観察しているはずです。
いずれにせよ、台湾の将来を決めるのは、台湾住民の意志です。将来、中国と台湾との間の関係をどうするかということについては、あくまでも両者の間の平和的な話し合いによって決めていくべきものです。
「台湾有事」は「日本の有事」という側面があることは否定しませんが、その前に日本の政治の領袖(りょうしゅう)方が対外的に発すべきメッセージは、そうならないように、ここは「外交」の出番だということです。「外交」ですべてを防げるわけではありませんが、「外交」がなければ戦争は防げない。
中国はもっと仲介に動いてほしい
泉 中国語とともにロシア語を勉強され、旧ソ連時代にモスクワ勤務の経験もあります。ウクライナ危機に日本外交はどう向き合うべきでしょうか。
谷野 私は若い身でモスクワの日本大使館に勤務したこともあって、キエフ(キーウ)やクリミアも訪れたことがあります。プーチン大統領の暴挙は許し難いことですが、なぜ、そうなる前に、米国とロシアの間でもっと真剣な外交活動がなされなかったのか、という思いを強くしています。米国はむしろその間、ポーランド経由で最新の武器をウクライナに送り続けたといわれています。そしてウクライナのNATO(北大西洋条約機構)入りをけしかけた。
冷戦崩壊後も、ウクライナは、ここが軍事的に対立するロシアと西欧諸国との間にあって地政学的に軍事的緩衝地帯たることを宿命づけられています。
ゼレンスキー大統領はやっとNATO加盟をあきらめ、ウクライナに適した軍事的「中立」の仕組みを案出したいと言っているようです。ぜひ関係国が知恵を絞って、そこにたどりついてほしいと思っています。EU(欧州連合)加盟はよいと思いますが、他方、バイデン大統領の「プーチン政権を倒してやるんだ」と…。あの発言は本音はともかく、勇み足でしたね。(バイデン氏の)令息についてはかつて、ウクライナ・ビジネスとの関係が取り沙汰されたこともありました。その一方で、パラノイア(偏執病)のうわさが絶えず、核の使用を口にするプーチン大統領も心配。とにかく、政治、外交が機能しないで戦争となった時、その下で犠牲になるのは、いつも責任のない女性たち、いたいけな子供たち、そして老人たち…。今のあの痛々しいウクライナの情況は、中国では全く報道されていないのでしょうね。
中国もこの際、もっと仲介の方向で動いてほしいですね。そうすれば、世界が中国を見る目も少しは変わるでしょう。
日本の今の立場でロシアとウクライナ、その背後の米国との間で「仲介」などという大役はとても無理でしょう。しかし、いつの日か分かりませんが、いったん和平成ったあとのウクライナの復興支援については、日本もいろいろな面で大いに尽力すべきものと思います。
もう一つは今回の事態の下、あらためて露呈した国連の問題です。安全保障理事会の改革、国連総会の権限強化など、いずれも長年の懸案ですが、日本はこの面で志を同じくする国々を糾合して国連の強化に向けて大いに努力してもらいたい。
泉 2022年は日中国交正常化半世紀の節目です。日中関係についての見解をうかがいます。
谷野 最近の日中関係は、本当に残念に思います。50年前、日中国交正常化の時、その後の両国関係を律するガイドラインとして、周恩来首相はよく「求同存異」ということを口にしていました。両国の間の「小異」は残しつつも、そのうえで両国の平和善隣友好関係という「大同」を目指そうと。
ところで、日本では「小異を捨てて、大同に就く」という言い方が定着したようにみえますが、ご存じの通り、本家本元の中国では、「小異を捨てて」という言い方はありませんね。「存異」です。「小異」はどうしても残るし、残すんです。特に激しい外交交渉の決着のあとはそう。大事なのは、その「小異」のところについて意を用いながら、用心深く管理し、手当してゆくということでしょう。
ところが、近年の風潮は、その「小異」を日中双方でことさらに荒立てて、そこに多くの政治家、メディアが参戦して、これを「大異」にまでもって行って盛り上がる。そんな状況を、まま目にします。
私はかねて、今日の両国の経済関係は「共鳴、共創」の関係に入った、そのことを踏まえつつ「共存、共栄」を目ざす時代になったと言ってきました。お互いに良い意味で刺激し合う「共鳴」、長短相補いつつ一段と高いところを目ざす「共創」、そうやって「共栄」の世界を目指すということです。
「共創」のテーマは、環境保全、省エネ、IT(情報技術)の活用、電気自動車(EV)などいろいろありますね。しかし、残念ながらお互いに「政治」が邪魔をする中、ここへの切りかえが十分でないような気がします。
昨年の東京、今年の北京のオリンピック・パラリンピックの開会式、閉会式をテレビで観ました。北京の方はITをふんだんに駆使して、優雅な中にもメッセージ性もあり、日本の関係者には失礼かもしれませんが、今回は北京の方に軍配を上げざるを得ませんでした。総監督として指揮した張芸謀(チャン・イーモウ)さんとは、私が北京在勤時代、若干のおつき合いがありました。
泉 日中国交正常化前に香港に駐在され、1972年9月29日の日中共同声明の前後はモスクワ駐在でした。当時の思い出をお聞かせください。
谷野 私の香港駐在は1963~65年で、当時の香港は日本も欧米諸国も「チャイナ・ウォッチング」(中国情報の入手・分析)の一大拠点でした。
そんな中、私たち日本総領事館は、欧米の総領事館が持っていないユニークな情報ソースを持っていました。新中国の経済建設を手伝って欲しいと中国にとどめ置かれていた日本人の技術者、学校教員といった人たちが当時、やっと中国側も了解する中で、一人ひとり帰国することになりました。
当時はまだ日中間の直行便がないことから、皆さん香港経由で帰っていくわけです。そこで、お世話もかねて、この人たちをアテンド(接待)し、その間、中国の情況をいろいろと聞き出すのです。
こうして、中国では反右派闘争、大躍進、人民公社、そして大飢饉と毛沢東流の独り善がりの治世の下、いかに大変な情況だったかということを話してくれるわけです。当時、日本では大躍進、人民公社などについては真逆の本が出回っていましたから、私たちはびっくりしながら、そのいちいちを東京の方(外務省)に書き送ったものです。
当時、著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で有名なハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル教授も若い身で長期、香港に滞在していました。広東から逃げてきた中国の若い(共産党)党員をつかまえて何日もかけてインタビューし、その結果を本にしました。彼とはその後、私がハーバード大学CFIA(国際問題研究所)に在籍した時も含めて長いつき合いでした。実は(2020年12月20日に米国で)突然亡くなる直前、東京で食事する機会がありました。ですから、びっくりしましたね。
モスクワには自ら志願して、1971年に赴きました。72年9月の日中国交正常化の前、モスクワの中国大使館の人たちとはパーティで顔を合わせることがありましたが、先方は握手しても私としっかり目線を合わせるでもなく……。そんな感じでした。ところが、正常化のあとは大きく変わりました。
私のつき合いの相手は主として銭其琛さん(当時、政務参事官。その後、本国に帰って新聞局長、外相、副総理を歴任)でした。ご夫妻で二度ほど私の小さなモスクワのアパートに食事に来てくれたことを記憶しています。おだやかで、バランスもとれて、模範的な優等生タイプの外交官でしたね。
銭基琛氏(右端)と王毅氏(左端)=2002年4月23日、中国・北京の人民大会堂(撮影・泉宣道)
銭其琛さんとはその後、何度も会う機会がありましたが、日中間でむずかしい問題についても解決に向けて前向きに対応してくれました。例えば、私がアジア局長の時、こんなことがありました。
当時、日本の銀行で台北に支店を出していたのは第一勧銀(第一勧業銀行、現みずほ銀行)だけ。そんな中、東銀(東京銀行、現三菱UFJ銀行)も台北に支店を出したいということで手続きを始めた。これに対して、東銀という著名な銀行が台北に出すということになると、日本の他の銀行がこれに続くということを恐れたのでしょう。
在京中国大使館の唐家璇公使(当時。その後、外相、国務委員など歴任)が私のところにやって来て、「絶対止めて欲しい」と言うんです。私は、そもそも東銀の台湾進出は何が悪いと思っていたし、第一これを止める権限など外務省にはないと答えました。唐家璇さんは最後はプリプリして帰って行きました。これは「日中共同声明違反だ!」という捨てぜりふを残して。
その結果、何が起こったかというと、当時、東銀は他の邦銀と共に、同時並行的に上海支店の開設も申請していたのですが、東銀だけが蹴られました。
私たちは「こんな理不尽なことがあるか!」と思って、日中外相会談の折、銭其琛外交部長(外相)にねじこみました。上海出身の銭さんは「しばらく時間を貸して欲しい」と応じ、その結果、1年くらい経ってからだったでしょうか。東銀の上海支店開設の許可がおりました。
泉 国交正常化から間もない1973年10月、北京の日本大使館に一等書記官として赴任されました。最初の北京駐在の印象は。
谷野 当時は毛沢東時代の末期で、国政のキャッチフレーズは「自力更生」。すなわち「ヒトサマ(西側先進工業諸国)の厄介になどならず、自力で発展してみせる!そしていずれ英国を抜き、さらに米国も!」と。かけ声だけは大変勇ましい。しかし、それはそれで大変独り善がりの中国でした。
ひと頃まで頼りにしていたソ連との関係もイデオロギー論争の末、最悪の状態となり、ソ連の技術者たちも、皆引き揚げるという情況でした。
北京の街中、各所に赤色の小冊子『毛沢東語録』から選んだ毛沢東の「お言葉」が氾濫。中国の映画、演劇といっても観るに耐えるものはなく、京劇も三国志、西遊記などからとった伝統的な演目はすべて江青女史(毛沢東夫人)の指示で追放されました。舞台で演じられるのは「様板戯」(模範劇)といって江青女史がその作成にまで深くかかわったといわれる革命現代京劇、音楽の方も欧米のものは排除され、ベートーベン批判が始まるという情況でした。もちろんカラオケ、ゴルフ場などはとんでもないこと。
モスクワから北京に移り住んで、ソ連との比較で今でも覚えていることがいくつかあります。
その第一は、北京は貧しい中でも新鮮な野菜、果物の類はかなり豊富なこと。モスクワは大きなデパートはあるものの、食料品売場の棚はほとんど空っぽでした。他方、電化製品、家具などは使えるに耐えるものがない。日本大使館はちょうど立ち上げの時期でしたので、私は命を受け買い付け部隊長として香港、東京に行き、それこそ航空便のカーゴ・ルームがいっぱいになるような大量の買い物をしました。
第二は、北京には泥棒がいないということ。当時、ホテルの部屋に小銭を忘れても、従業員が「お忘れもの!」と追いかけてくるといった情況でした。
日本との関係で言えば、国交正常化直後ということもあって、「中日友好」の教育が人民たちの間に徹底されていました。当時、日本人学校はないため、私の長男は外国人子弟を受けいれている芳草地小学校(北京芳草地国際学校)に通っていました。一学期が終わって成績表をもらってきたら、何とオール「優」。まだ中国語もできないのに、こんなはずはないと家内と担任の先生を訪ねたところ、「中日両国は世世代代友好で行かなくてはなりません」、「これ(成績表)は、そんな私たちの気持ちを表したものです」と(笑)。家内と二人で苦笑しました。
泉 「竹のカーテン」の中で、中国共産党の内部では権力闘争も起きていたようですね。
谷野 当時、党の中央では大変醜悪な闘争が進行中でした。毛沢東、林彪、江青、張春橋らが入り乱れて。その後、情況が逐一明らかになっていくのですが、中国は昔から、そして共産党になってからも王朝国家の域を出ていない。中南海(党中枢)に皇帝がおり、その下で佞臣(ねいしん)、奸臣(かんしん)らが入り乱れて、策を弄し……。当時、私たちは、その情況を知る由もなかったのですが。
その間にあって、常に毛沢東を立てつつ苦労したのが周恩来総理です。ある中国人曰く。「毛沢東は革命の人。鄧小平は国造りの人。周恩来は、その両方だった」と。
大躍進、人民公社、これに続く大飢饉、そして文化大革命……。中国の歴史のこの部分を振り返ると、毛沢東の犯した罪は決して小さくないと思います。
(2022年4月19日、都内の日中友好会館でインタビュー)
〈(後編)「日中韓で東アジア版エリゼ条約を」はこちら〉
バナー写真:谷野作太郎氏=2022年4月撮影
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2022.05.11
泉 宣道 【Profile】
駐中国、駐インド両大使を歴任した谷野作太郎氏へのインタビュー。後編では、1998年秋の中国の江沢民国家主席の訪日延期で幻になった日本の国連安全保障理事会常任理事国入り問題、「村山談話」、日中韓“和解”条約構想などを聞いた。
泉 1998年4月に駐中国大使に就任されました。その年の9月に江沢民国家主席の訪日が予定されていて、「日中共同宣言」が焦点となっていました。8月21日午後、北京の日本大使館で差し向かいで話していた時、突然連絡が入り、大使は退出されました。その日の夕方、中国当局は大洪水を理由に江沢民主席の訪日延期を発表しました。もし、当初予定通り9月訪日が実現していたら、日中関係は大きく変わっていたのではないでしょうか。
谷野 あの時、急に唐家璇外交部長(外相)から呼び出しを受け、大洪水のため9月に予定されていた江沢民国家主席の訪日を延期せざるを得ない、と告げられました。それはいたし方ないこととして、その結果、次のような事態となってしまったんです。
すなわち、もともとはそのあとに予定されていた韓国の金大中(キム・デジュン)大統領の方が先(10月)になり、江沢民主席の訪日はあと(11月)になってしまいました。
小渕恵三首相と金大中大統領が10月8日に合意した「日韓共同宣言-21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」で、日本側は韓国に対する公式の反省と謝罪を初めて文書に明記しました。日韓両国は「過去」の問題に一つの区切りをつけ、これからは未来志向でいこうと。
ちなみに、この金大中大統領の訪日は、当時、日韓それぞれの側で高く評価され、韓国側でも映画など日本文化の解禁などの措置を取りました。そんなことで、あの時、日韓両国の関係が戦後最高の高みに達した時期として、今なお特に日本側で記憶に残るところです。
金大中氏については、前にお話したハーバード大学のCFIA(国際問題研究所)時代、彼もそこにフェローとして夫人とともに来ていたものですから、爾来、夫婦ぐるみの付き合いがありました。懐かしい人です。今やお二人とも亡くなってしまいましたが。話は横にそれますが、その金大中氏が大統領時代、北京に国賓としてやって来たことがありました。その折、「これから、タニノのところに行くか」という話になったらしいのですが、中国政府との関係で、そんな乱暴なこともできない、ということになったとか。あとで、在北京の韓国大使館から聞きました。私はその折、韓国大使館を通じ、「日韓関係はこれからも折々の大波、小波をかぶることもあるだろう。その時に試されるのが、貴兄の政治家としての勇気とリーダーシップだ」という趣旨の書簡を送ったことを覚えています。
江沢民主席の訪日が結局、金大中大統領訪日のあとになった結果、中国側は来るべき「日中共同宣言」では、日中間の「歴史」の問題について、あの小渕・金大中宣言(小渕首相が「痛切な反省と心からのお詫びを述べた」と明記)を、そっくりそのまま採用してくれなければ、中国国内がもたない、と言い出したわけです。
泉 江沢民主席の訪日が延期になる前、中国側は日本との歴史問題に一つの区切りをつけようとしていたのではないですか。
谷野 中国外交部の王毅部長助理(現国務委員兼外相)は私に「大使、“歴史”の問題については、もうわれわれは日本側に迷惑は掛けません。“謝罪”も求めません。来るべき江沢民主席訪日の際の共同宣言では、“歴史”の問題については『村山談話』をなぞる形で良いから、日本としてのあの時代の認識について、さらっと言っていただいて、“歴史”の問題は今回を最後として、日中共に21世紀に向けて新しい中日、日中関係をつくりましょう」と言っていました。
王毅さんのレベルで勝手にそんなことを言えるはずがない。おそらくこれは「中南海」(中国共産党中枢)の考えでもあろう。中国も変わったものよ、と新鮮な気持ちで受けとめたことを覚えています。
ところが、中韓首脳の訪日時期が逆転したことで、がらりと変わった。江沢民主席の訪日は、小渕・金大中宣言の直後(約1カ月後)、しかも日本の首相は同じ小渕さん。その小渕・江沢民宣言(日中共同宣言)で、あの文言(「痛切な反省と心からのお詫びを述べた」)が踏襲されないとなれば、中国の国内がもたない、と言い出したのです。
こうなると、中国側はてこでも動かない。11月に発出予定の宣言は北京で、中国側と詰めていたのですが、「日本側が中国側の要望を入れてくれない限り……」と中国側の担当者は日本側の担当者(泉裕泰参事官=当時、現日本台湾交流協会台北事務所代表)と会うことすら拒否するという日々が続きました。
そんな時、たまたま橋本龍太郎さん(前首相)が訪中されました。橋本さんは私に「そりゃ君、中国側がそう言うのは当然だよ」とおっしゃっていました。
ところが、肝心の小渕首相がなぜか大変固かった。いずれにせよ、この問題については、詳細は省略しますが、その後の両国の外相会談などがあって、結局、本番の両国首脳会談の冒頭、テータ・テート(二人だけの差し向かいの会談)の形とし、その場で小渕首相より“口頭”で、「村山談話」を若干、中国向けに修正したものを述べ、やっと収まった次第でした。
日中首脳会談を前に握手する小渕恵三首相(左)と江沢民中国国家主席(東京・元赤坂の迎賓館)[代表撮影] (時事)
泉 1998年11月の「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」には結局、小渕・金大中宣言に盛り込まれたような公式の反省と謝罪の文言は明記されなかったわけですが、後日談はありますか。
谷野 王毅さんは私に「大使、本当に惜しいことをした。日本側があの時、中国側の要求を受け入れてくれたならば、中国側は日本の国連安保理常任理事国入りを支持することになっていた。結果は、日本側の固い姿勢の下、相討ちになった」と言いました。
にわかに信じ難い話ですが、当時、中国の社会科学院の日本研究者の間では、日本の常任理事国入りを主張する向きが大勢を占めていましたので、まんざらうそでもないのかなと思ったりしました。ちなみに、中国は首脳が外国訪問に出かける前に、こういった学者、研究者たちの意見を聴取することがあるようです。
私は常々、中国側の関係者に「もし中国側が日本の常任理事国入りへの支持を表明してくれたら、もやもやした日中関係を覆う日本側の空気は大きく変わるよ」と言い続けたものです。
泉 「日中共同宣言」をまとめるまで曲折はありましたが、中国の国家主席が国賓として公式訪問したのは初めてでしたし、「世界の中の『日中関係』」という概念を国際社会に発信できたのは有意義でした。
谷野 日中共同宣言の「双方は、日中両国がアジア地域及び世界に影響力を有する国家として、平和を守り、発展を促していく上で重要な責任を負っていると考える。双方は、日中両国が国際政治・経済、地球規模の問題等の分野における協調と協力を強化し、世界の平和と発展ひいては人類の進歩という事業のために積極的な貢献を行っていく」との部分が、世界の中の「日中関係」、「中日関係」です。
ちなみに、このくだりは中国側の主張で入れたんです。中国もやっとその気になってくれたか、と感激したことを覚えています。
私はよく、中国外交部(外務省)のジャパン・スクールの若手の人たちに「あなた方はいつも狭い中日関係の世界に閉じこもっていないで、“世界の中の中日関係”という視点を取り込むべし。そのためには長いキャリアの中で、一、二度は欧米など日本以外の国に勤務する機会があったらよいね。日本の外務省の場合はとっくにそうしているよ」と言ったものです。その後、王毅さんがアメリカへ短期留学の機会が与えられました。また、東京の中国大使館にも、日本との関係がなかった、日本語がしゃべれない外交官が来るようになりました。よいことです。
泉 内閣外政審議室長でいらした1995年7月、村山富市首相から戦後50年の「談話」案を作成するよう指示を受けましたね。いわゆる「村山談話」ですが、8月15日の閣議決定に持ち込むまでどのように調整されましたか。
谷野 ある日突然、村山総理からお呼び出しがあり、「君が一案、書いてくれ。それを官房長官と自分のところに持って来てほしい」と。
私は内閣参事官室の方で(談話案づくりの)作業が進行中であることは承知していましたので、若干ちゅうちょしたのですが、外ならぬ総理から直接のご指示だったので、内々私なりの一案を作るべく筆をとり始めた次第でした。その間、計3人の学者と内々ご相談しました。もっとも私の方で用意したものについて、大きな修正はなかったと記憶します。
そうして出来上がったものを官房長官と総理のところにお持ちし、「よし、これで行こう」と。内閣参事官室の方では、「ある日、突然、上の方(官房長官)から、全く別のテキストが降って来たので、驚いたって何のって」と、これは当時、内閣参事官室に通産省から出向していた松井孝治さん(その後、政界に転出し、民主党政権時代の内閣官房副長官)が、その後、いろいろなところで述べていらっしゃいます。
「村山談話」については、いくつかのことが思い出されます。8月15日の発表直前になって、内閣改造(8月8日)があり、官房長官が五十嵐広三さんから野坂浩賢さんに代わりました。その野坂さんが突然、「談話に重みを持たせるため、閣議決定としたい」とおっしゃった。これには事務方は大変あわてました。
閣議決定は、ご承知の通り、全員一致でなければならない。他方、閣僚の中には、この種の「歴史」にからむ問題については、良くも悪くも一家言をお持ちのおっかない方も少なからずいらっしゃる。そこで急きょ、内閣参事官室が手分けして閣僚方のところに根回しに赴いたわけです。その過程で橋本龍太郎通産大臣(当時、副総理格として入閣。遺族会会長)からは、談話原案に「敗戦」と「終戦」と両様の書き方が混在しているところを「この際、“敗戦”という表現に統一しては如何(いかが)」とのご示唆を得ました。
自民党への根回しについては当時、副総理・外相として入閣しておられた河野洋平・自民党総裁のもとに足を運びました。2回ほどご説明に上がったのですが、大臣は案文を懐に収めたまま、何らのご返事もありませんでした。
河野先生は、リベラルな方ゆえ、内容をご覧になって、これにご異存はないものの、これをそのまま党に諮ったならば、議論が沸騰してまとまるものもまとまらない、と心配されたのではないかと思います。従って文字通り、懐にしまったままだったのでしょう。
泉 フィリピンのラモス元大統領はかつて日中韓を中心とした「北東アジア諸国連合(ANEAN)」こそ、必要だと提唱しました。東アジアの和解に向けて「エリゼ条約(仏独協力条約)」はモデルとなりますか。
谷野 1963年1月に調印された有名なエリゼ条約では、独仏間の和解、協力推進に向けて①両国の首脳、外相、国防相間の会談の定期化②ホーム・ステイを含む大規模な青少年交流③大学教育の単位、学位等の相互同等性の実現――など幅広い分野での協力が定められています。
この条約の署名者は、フランス側がドゴール大統領と関係閣僚、西ドイツ(当時)側がアデナウアー首相と関係閣僚でした。そこに両国の最高首脳らがかけた強い政治の意志をみる思いです。その後、青少年交流に参加した人たちから、独仏それぞれの側で閣僚になった人も少なくないと聞きました。
日本の場合も、中国、韓国、東南アジアとの間で、同じような青少年交流プログラムはあるものの、残念ながら、質、量、それを支える仕組み面において雲泥の差があります。そこで、東アジア版エリゼ条約のようなものを考えてはどうだろう、という話になるわけです。また、その下で東アジアと日本との間の青少年交流を統一的に担当する「東アジア青少年交流財団」のようなものを立ち上げられないものだろうか、と思ったりしています。
泉 東アジア版エリゼ条約の具体的な構想をお聞かせください。
谷野 参加国はとりあえず、今日最もこのような仕掛けが必要とされる日本、中国、韓国の3カ国です。幸い、この3カ国の間には首脳が一堂に会する「日中韓サミット」の場があります。
もっとも、現下の厳しい政治情況の下、2019年12月の第8回日中韓サミット(中国・成都で開催)以来、しばらく開かれていません。しかし、韓国で近く、新しい政権が誕生(5月10日に尹錫悦=ユン・ソンニョル=氏が新大統領に就任)することになりました。一つのチャンスかもしれません。
私はかつて関西方面に出張する機会が少なくなかったものですから、奈良県知事、京都市長といった方にお会いするたびに「どうでしょう。奈良条約、京都条約のようなものを考えられないでしょうか。奈良、京都は昔、日本で中国大陸、朝鮮半島との交流の中心だったのですから」などと提案してきました。
もちろん、日中韓サミットが中国や韓国で開かれる場合は、西安条約、慶州条約など開催地の名前でよいのです。これも、ひとえに関係国の政治のトップの方々の大きな覚悟と強いリーダーシップを必要とする話ですが、私はそんな夢を捨てきれないでいます。
(2022年4月19日、都内の日中友好会館でインタビュー)
【谷野作太郎氏のインタビュー後の寄稿】
日本はもっと「中国研究」を
コロナとウクライナをめぐる情況、これが終わったあと、世界はどうなるのか。私は今、世界がひとつの大きな転機にさしかかっている気がしてなりません。
アメリカ、中国、ロシア、また世界中、問題だらけの情況ですが、私は日本の将来についても心配しています。改革が一番遅れている政治(国会)の情況、その下にあってブラック企業化してしまったといわれる霞が関(役人村)、このことは本インタビューのテーマではありませんので、ここでは述べることを差し控えますが、そんな中、私が年かさのいった老人として心配しているのが、日本の次世代を担う若者たちの「教育」の問題です。
とくに、理工系の分野での人材の層の薄いこと。よく、中国、欧米との比較で話題になるところです。ドクターレベルの人材の少ないこと。世界的に注目される論文も少ない。中国や韓国に比べて、良い意味での産官連携がまだまだ未熟。そして、この分野への国の予算の注入は、中国などに比べると、雲泥の差です。
中国から日本に留学に来た若者たちが、日本の教育のレベル(とくに理数)にびっくりして、「どうやら、留学先を間違えたらしい」と。
インドでは、とくにIIT(インド工科大学)が世界的に有名ですが、インドの若者たちはIITに不合格だった場合にそなえて、すべり止めにボストンのハーバード大学、MIT(マサチューセッツ工科大学)を受けておくか、ということが話題になるそうです。これは昔、少しでも優秀なインドの若者に東京大学に来てもらおうと、インドのバンガロールに東大の事務所を構えていた所長さんの話です。IT(情報技術)を目ざすインドの若者たちに東京大学のことを話すと、「University of Tokyo? 聞いたことがないなあ」と。
中国との関係では、日本における「中国研究」が先細りになってきているのではないか、と心配しています。東京大学の著名な某教授(中国政治)が「自分のゼミに来ている学生は、ほとんどが中国人、そして若干名の韓国人、日本の学生は一人もいない」と以前、話していました。
他方、中国における「日本研究」は、こういう中日関係にあっても、その質、量、広がりとも半端ではありません。中国社会科学院はもとより、著名な大学には必ず「日本研究センター」があります。その点、日本の情況はお寒いかぎりです。
そして、欧米にあっては、つとに若い学生たちは、日本研究から、中国研究の方にくら替えしてゆくとか。こんな状況では、「他ならぬ隣国の中国については、日本は研究も人脈も欧米よりは上」とたかをくくっていると、気がついた頃に、この点でも欧米に抜かれてしまった、ということにもなりかねないと思っています。
要は、いま一度、オールジャパンでがんばって、世界から一目おかれ、そして徳の面でも――ここは私のような者が言えたことではありませんが――世界の尊崇の念を集める日本を取り戻すことです。がんばりましょう。
世の中(国際情勢)が乱れゆく中、やはりできるだけ早い機会に日中首脳会談を、と思います。もちろん、それに向けて一定の準備、なかんずく米国との間で「中国」について十分な意見交換、すり合わせ(すべて米国の言いなりになるということでなく)をしておくことが大切ではありますが。
習近平国家主席はこのところ「共同富裕(ともに豊かになる)」ということを言い出していますね。他方、岸田文雄総理も「新しい資本主義」をと。そこには、通底するものがあります。なれば、首脳会談で、お互いに事務方の用意したペイパーを語り合うだけでなく、そういったテーマについて余人を交えず、お二人でお互いの思い、悩みを語り合ったらよい。よく言われる「首脳間の信頼関係」は、そうやってこそ生まれるものだと思います。
【谷野作太郎・元中国大使インタビューを終えて】
歴史的外交文書にも関与した「リベラル保守」の論客
「歴史にIF(もしも)はない」ものの、1998年の夏に中国で大洪水が起きていなかったら、21世紀の日中関係はもっと違ったものになっていたかもしれない。谷野作太郎氏へのインタビューを通じて、そんな感を強くした。
ひょっとしたら、中国は日本の国連安全保障理事会常任理事国入りを支持していたかもしれなかったのだ。もっとも、1998年11月の「日中共同宣言」には、双方は「安全保障理事会を含めた改革を行うことに賛成する」(下線、泉)と明記されている。中国側はこの立場に今も変更はないのか、一度、中国外交部に尋ねてみたいものだ。
谷野氏は「村山談話」をはじめ歴史的な外交文書にも、事実上の“執筆者”として関与してきた。今年は南東アジア第二課長としてかかわった「福田ドクトリン」から45周年。福田赳夫首相が1977年8月、マニラでスピーチした東南アジア外交三原則で、「心と心」の関係がキーワードとなったことで有名だ。ちなみに福田氏の長男、康夫氏(元首相)と谷野氏は幼なじみである。
「アジア太平洋」と「インド太平洋」の双方を主舞台として、戦後の日本外交の最前線に立ってきた。「リベラル保守」を自負し、戦前の不幸な「歴史」にも真摯に向き合ってきた。こうした経験を踏まえ、今でも積極的に発言している。
北京駐在経験者が集う「燕京会」で挨拶する谷野氏=2019年1月、都内のホテル(撮影・泉宣道)
4月19日に都内の日中友好会館で開かれたオンラインの「日中メディア対話会」では、ロシアのウクライナ侵攻に対して「ぜひ止めてください。その役割を果たせるのは中国とインドしかない」と訴えた。
筆者は政治部の駆け出し記者だった1981年10月、当時内閣総理大臣秘書官を務めていた谷野氏の面識を得た。以来、取材を続け、98~99年はともに北京に駐在していた。眼光の鋭さ、時折見せるチャーミングな笑顔、ダンディな着こなしは今も変わらない。
なお、谷野氏にはオーラルヒストリーとして『外交証言録 アジア外交 回顧と考察』(2015年、岩波書店)、『中国・アジア外交秘話 あるチャイナハンドの回想』(2017年、東洋経済新報社)がある。
バナー写真:筆者の泉宣道氏(左)と谷野作太郎氏=2022年4月19日、日中友好会館(東京)で
「ローズルーム」という名のついた食堂に入ると、1枚の古い写真が目に留まった。6月初めに、神奈川県大磯町の旧吉田茂邸を訪ねたときだ。
大きな長テーブルを囲んで、緊張した面持ちの若者たちが食事をしている。それを見つめる吉田茂元首相は好々鈴(こうこうや)のようでほほえましい。
写真には次の説明がある。「吉田茂は毎年外務省に新しく赴任した外交官補たちを大磯の家に招待していました」。ワンマン宰相と恐れられた吉田氏の知られざる一面だろう。
1960年に外務省に入った元駐中国大使の谷野作太郎氏も、大磯に招かれた一人だ。「黄色いスイカをみんなで食べた。吉田さんはずっとニコニコ笑っていましたよ」
戦後日本の針路を決めた大政治家であり、外交官の先輩でもある吉田氏からじかに話を聞ける貴重な機会だった。次代の日本外交を担う若者たちにとって、忘れられない経験となったにちがいない。
谷野氏から、外務省で語り継がれる吉田氏の逸話を教えてもらった。
60年代前半のことだ。東京都文京区の若荷谷にあった外務省の研修所に、吉田氏がステッキをつきながら現れた。入省したばかりの新人たちに、外交の最前線に立つ心構えを講義するためだった。
どんな話が聞けるのか。外交官の卵たちが胸を躍らせていると、吉田氏の話はあっけなく終わった。
「これからの日本外交の中心は中国との関係をどうするかだ。君ら中国のことをしっかり勉強しなさい。以上、終わり!」。吉田氏はそれだけ言うと、その場を去ったという。
東西冷戦のさなかで、米国は中国を封じ込めようとしていた。反共主義者として知られた吉田氏も、米国に追随すべきだと考えていたのだろうか。
「そうではない。吉田氏は米国の封じ込め政策に批判的で、むしろ中国に関与し続けるべきだと訴えていた」と話すのは、日本外交史が専門の井上正也・慶大教授である。
吉田氏が好んで使ったのが「逆浸透」という言葉だ。中国を封じ込めるのでなく、逆に貿易などを通じ交流を活発にする。それによって共産中国を内側から変え、ソ連から引き離す。そんな考え方だった。
いま思えば、時代を先取りしすぎていたのかもしれない。
←吉田茂元首相は米国の中国封じ込め政策に批判的だった
72年に当時のニクソン米大統領が訪中し、対中政策を封じ込めから「関与」に転換した。電撃的な米中和解に道筋をつけたのは、キッシンジャー米大統領補佐官だった。
日本も田中角栄首相が中国との国交正常化に突き進んだ。中国に深くかかわり、経済の力で内側からこの国を変える。まさに、吉田氏がめざした方向にカジを切ったのだ。
それから50年がたち、関与政策は潡しい批判にさらされている。
グローバル化の恩恵を受けて巨大になった中国は変わるどころか、強権的な習近平(シー・ジンピン) 国家主席のもとで力による現状変更を試みる。
バイデン米政権はキッシンジャー路線との決別を急いでいる。半導体の輸出規制などを強化し、中国の封じ込めに動く。
習政権は台湾問題でも米国と足並みをそろえる日本に、とりわけ厳しい態度で臨むようになった。東京電力福島第1原子力発電所の処理水放出に対する理不尽な嫌がらせは、その象徴だ。
もはや関与だけで変えられる相手ではない。これまで以上に厄介な存在になった中国と、日本はどう向き合えばいいのか。吉田氏に聞いてみたかった。
(編集委員 高橋哲史)
第3回 経済安全保障研究会 2023年6月23日
司会 ただ今より、第3回経済安全保障研究会を開催させていただきます。本日は谷野作太郎大使をお迎えして、お話をお聞きします。
谷野大便は日比谷高校をご卒業の後、東大の文科一類に進学され、59年に外交官上級試験、それから卒業、入省された後にアジア局の南東アジアの第2課長、アジア局の中国課長、鈴木総理の秘書官、その後に韓国公使、アジア局審議官、アジア局長、内閣官房外政審議室長、インド大使、中国大使などを歴任されました。日中関係では第一人者の谷野大使をお迎えしまして、今日は谷野大使からは「最近の内外情勢万華鏡」という題目でお話をいただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
ー、はじめに
谷野 ご紹介いただきました外務省のOB、谷野作太郎です。大切な勉強会に、私のような超老人にお声がけいただき恐縮に存じます。
拓殖大学の富坂先生から、最近の米中関係について話を聞きたい、ということでしたが、何分、高齢ということもあって、今の米中関係の細かいことについては、勉強が不十分です。
他方、ウクライナ戦争など、最近の内外の諸情勢については、ウツウツたる心境の下、いろいろ考えないわけでもない。「そんな話でも良いですか?」とおたずねしたところ「結構です」とのこと。そこで、勇を鼓して、のこのことやって参りました。
従って、話題は、私の長い外務省、内閣官房生活の中で、ウクライナ戦争、そして縁のあった中国問題、日韓関係、インド.....と多岐にわたります。以下お話することについて、すべてにつき、「お前の言っていることは、もっともだ」ということにはならないでしょう。それは、それで結構。それぞれのテーマからご関心のあるところを捨っていただいて、これを契機にお一人、おひとり、関係の資料を渉猟し、探索を進め、いい加滅なSNSなどに惑わされることなく、ご自分の考え、意見を持っていただければと思います。それこそ、民主主義の根幹だと思います。そういうことで、私の方も皆さんをいろいろと挑発しながら、話を進めたいと思います。
以下、題して「最近の内外情勢万華鏡・ 一老人の繰り言」。一時間ほど、皆さんのお耳を汚したいと思います。
二、最近の内外情勢
混沌、分断、対立・・・・アメリカの調落
先ずは、世の中内外の情勢です。そして、その中にあってアメリカの凋落ぶりについてです。
正直言って、明るいニュースはほとんどありませんね。
世界は、混池、紛争、対立、分断、そして戦争…..。私はウクライナ以外の地、例えばアジアやアフリカなどで、あまり報道されないだけで、実は多くの問題が起きているのではないかと心配しています。ひとつの例としてロヒンギャ(ミャンマーのイスラム系少数民族)の惨状、或いはタリバン統治下の人々の生活…..。そんな中、問題の根源は、アメリカの凋落(社会の分断、政治の劣化、内向き志向…..)、国際秩序の守り神であるはずの国連が機能していない(ウクライナ戦争)。そして WTO(世界貿易機構)も機能していない(米国の邪魔立て一一裁定役の上級委員の選出をプロック)。日本の情況は最後のところでお話しましょう。
アメリカの情況
私の友人にアメリカなど世界中を飛び廻って自分で立ち上げたファンドを運営しているつわものが居るのですが、最近アメリカ、ヨーロッパを廻って来て、
・アメリカの大都市が本当に汚くなった。
・ニューヨークの五番街を歩く人たちの服装と銀座通りを歩く人たちと、服装など後者の方が断然 良い。
・街なかでは、アジア人を狙った暴力沙汰も少なくない。
・アメリカのカリフォルニア州の都市では、900ドル以下の万引きは犯罪とみなさない。警祭はなにもしてくれない(とてもそこ迄、警察の手がまわらないから)。そしてこの動きが米国の他の大都市に広がりつつある。
と言っていました。そういえば、あの森の都ワシントンも今や、ホームレスたちの一大拠点とか。もっとも、以上は大都市の話で地方に行けば昔ながらの瀟洒な佇まいの一軒家があるというアメリカらしい風景が残っているのでしょうけれど。
60年代初頭、輝くようなアメリカ
私は、若い頃(1962年、ケネディ大統領暗殺の直前)、ニューヨークとカリフォルニアに住んだことがあります。あの頃は輝くアメリカ、私たちは皆、そのようなアメリカに憧れ、日本も早くこのような国になりたいものだ、と思ったものです。もっとも、そのようなアメリカにあっても黒人等、有色人種に対する差別は、色濃く存在していましたが。
私は、コロンビア大学(プロードウェイ 116丁目) の近くに住んでいたのですが、若かったこともあり深夜、あそこからプロードウェイをぷらぷらと徒歩で、南の方角のタイムズ・スクエア(プロードウェイ 42丁目)まで何時間もかけて、歩いて行ったことを思い出します。でも、当時はそうした深夜の散歩も全く身の危険を感じることはありませんでした。
しかし、その後ベトナム報争最中の頃、仕事でニューヨークに出張することがありましたが、若い身とて、総領事館がとってくれたのは安宿。総領事館からは、ホテルの部屋の鍵は必ず二重にかけよ、夜遅くの外出は厳禁と言われたものです。大義なき戦争を闘う中、アメリカの社会、人心が大変すさんだ時期でした。タイムズ・スクエアはエロ・グロの世界。もっとも、そんなニューヨークもその後、剛腕の市長を迎え、随分きれいになり、治安も大きく改善されたのでしたが、また逆の方向に戻ってしまったのでしょうか。
とにかく、国際秩序がこわれてゆく中、本当にアメリカには、しっかりしてもらわなければ困る。
ところが、来年の大統領選挙は今のところ、あのトランプ氏と、これも高齢でいろいろと問題をかかえているバイデン氏の間で闘われることになるだろう、と。ウツウツとした気持ちがつのります。
そんな中で、国際社会でいやが上にも存在感を増しつつある中国。アメリカの現状を見て、「自由とか民主主義と言うけれど、(強権的な)中国流の国の統治のやり方も悪くないだろう」と勘違いし、世界に喧伝する。これに同じる国が出てくる。そういう事態になることをおそれます。東南アジアでも、カンボジアなどは、すでに中国流統治になびく気配が濃厚ですね。
アメリカよ、早くかって世界があこがれたアメリカを取戻せ!ということです。
三、ウクライナ戦争を止めよ
何を仕出かすか分からないとされるプーチン大統領と思いつめが募るゼレンスキー大統領
次は、ウクライナ戦争についてです。以下述べるところについては、「いや、ボクは、ワタクシは違う意見だ」とおっしゃる向きも少なくないのではないかと思いますが。
プーチン大統領の暴挙、他方、ゼレンスキー大統領の思いつめ一一今や、ゼレンスキー大統領は、クリミア半島を取り戻すと言い出しています。国際条約(オスロー条約:日本もふくめ多数の国が加盟。但し、米国・ロシア・ウクライナは加盟していない)で禁止されているクラスター爆弾を寄こせとも。どうやらアメリカはこれに応じるらしい。そんな中、今日のような情況に立ち至ったことについて、全く責任のないウクライナの老人たち、女性やいたいけない子供たちが家を焼かれ、命を落としてゆく......そんな修状を日々テレビで見せつけられるにつけ、「とにかく、先ずは職争を止めよ!」という思いがつのります。今日のような情況に立ち至ったについて責任がない、ということについては、プーチン大統領に戦場に駆り立てられ命を落としてゆくロシアの兵士たちとて同じことでしょう。ウクライナについては、昔からの宿痾と言われる腐敗・汚職も相変わらず。バイデン大統領からこのことを厳しく指摘され、ゼレンスキー大統領も頭を抱えているらしい。
ウクライナの今日の情況について、シカゴ大学のジョン・ミアシャイマーという国際政治学の教授は、「ウクライナ戦争の責任は、米国とNATOにある」と主張しています(注1)。(NATOがロシアの国境まで拡大することはロシアにとっては、生存に関わる死活問題であり)ロシアは、ウクライナのNATO 入りは絶対に許さないと明確に警告を発してきたにもかかわらず、アメリカと NATOはこれを無視し続けた。そしてロシアの侵攻が始まる前から、アメリカとイギリスはウクライナに高性能の兵器を大量に送り、軍事顧問団を派遣し、ウクライナを「武装化」していたというのです。冷戦終結当時、アメリカのベーカー国務長官は「NATO を東方へ1インチたりとも拡大しないことを保証する」と言っていたことを思い出します。最近、バイデン大統領もウクライナの NATO 加盟は時期尚早と言い始めているようですね。しかし、そのバイデン氏は副大統領時代、ウクライナに何回も足を運んでいますし、当時、令息とウクライナ(と中国)の利権にからんだ人ということで、共和党が問題にしはじめています。
昨年2月のロシアによるウクライナ侵攻で、1週間でキーウ(キエフ)を制圧するというプーチン大統領の目論見がウクライナ側の抵抗ですっかり狂ったということが言われたものですが、以上のことを考えれば、ウクライナ側が容易に手を上げなかったのは当たり前ですね。アメリカ、イギリスによるウクライナに対するかねてからの手厚い軍事支援があったわけですから。プーチン大統領がこのことを知らないはずはなかったと思うのですが。
「とにかく、戦争を止めよ!」。しかし、このような主張に対しては、特に、これを担当する日本の政府関係者からも「何を、非現実なことを!」「そんなことをすれば弱体化しつつあるロシア軍に建て直しの時間を与えるだけ!」とお叱りを受けます。ロシア軍が弱って来ている今こそチャンス!だから「必勝しゃもじ」だ、それゆけ、やれゆけということなのでしょうか?
ウクライナの安全を米国、NATO、ロシアなどで保証する国際的枠組みを
私は若い頃、1970年代初頭、モスクワの日本大使館に勤務していたことがあります。ですから、キエフ (キーウ)やクリミア半島も訪れたことがあり、あの国については、若干の土地勘は持っているつもりです。その後、冷戦が終了、ウクライナも独立を果した。しかし、そのウクライナは、やはり地政学的にロシアと NATO 諸国との間の軍事的な緩衝地帯として運命づけられているような気がしておりました。
昨年、ロシアのウクライナ侵攻直後(3月)、ゼレンスキー大統領は「ウクライナのNATO入りは断念する」「そのかわり、ウクライナの安全を保障する国際的枠組みを米国等で構築してほしい」と言っておりました。当時、キッシンジャー氏もそれしか道はないと言っていたと記憶します。事実、当時はトルコが停戦仲介に動く中、国際的にもウクライナをどうやって「中立化」にもってゆくか、ということが議論され、日本の新聞でも「中立化」一ーといってもスイス、オーストリアなど国際約束で承認された「中立」(neutral country)や、スウェーデン、フィンランドの如き国が外交方針としてとる「中立」(declare neutrality)というやり方などーーという方法があるといって議論が盛んに行われていました。
しかし、それが今や「クリミア半島も含め、東部の領士すべてを取り戻す!」と。しかし、そうなれば、狂ったプーチン大統領は「戦術核」の使用を検討の俎上にのせるかもしれない。「戦術核」をもってウクライナのインフラ(発電所、飛行場、ダム.....)をピンポイントでたたく。恐ろしいことで、ぞっとします。
要は先に述べたように、①ウクライナが平和で繁栄できる国際環境を如何に構築できるか、他方、その上で②ロシアが安全を脅かされず、国際環境に利益を得て規範を遊守する状態(山添博史・防衛研究所主任研究官)を作るか、ということだと思います。
それを目指すにおいても一一何度もくり返しますが、何よりも、先ずは今の暴力沙汰、戦争を止めるということです。
この点に関して、過日、アメリカの米外交問題評議会会長のリチャード・ハース氏の論考を目にしました(6月4日付読売新聞)。同会長は、25年前の北アイルランド紛争の和平合意について次のように述べています。
①先ずは、暴力の停止。参加する勢力に武器を捨てろとは求めなかった。
②武器の廃棄という作業は、和平合意のあと、取り組む課題として残された。
③北アイルランドの「最終的地位」(北アイルランドが英国にとどまるのか、或いは、いずれ、南のアイルランド共和国に統一されるのか)という点も、ほとんど避けた。
そして、リチャード・ハース会長はウクライナ戦争について、
①ウクライナは、1991年の独立時に遡る領士の全面回復を主張する権利がある。一方で、ロシアのプーチン大統領は、彼が不法にも併合したウクライナ領土はロシアの一部だとの主張を必ずや行うだろう。
②しかし、現時点でも、将来においても無理だとわかっていることを交渉開始の前提条件とすべきでない。
と述べています。
そういえば、あの朝鮮戦争も、米軍、韓国軍、これに対するに北朝鮮軍、中国の軍(人民志願軍)が消耗戦をくりひろげる中、1953年10月休戦協定が成立、戦火は止みました。その後のことは、「平和協定」に委ねられたのですが、こちらの方は未だに結ばれていません。しかし、戦火が止んだあと、轑国は平和な環境の下、国際社会の支援も得ながら、今日のようなすばらしい「躍進韓国」をなしとげました。
いずれにせよ、私は、一日も早くウクライナでの戦火が収まることを祈っています。
(注1)「第三次世界大戦はもう始まっている」(エマニュエル・トッド著、文春新書)
四、中国、日中関係
往時と様変わりした中国、そして日中関係
次は、これも最近、何かと話題の多い中国についてです。
個人ごとになりますが、私は外務省時代、二度北京の日本大使館に勤務する機会を得ました。第1回目は若い身で日中国交正常化直後、1973年から75年まで。あの時は、モスクワから家内、長男、次男ともども東京を経由して(当時は東京一北京間の直行航空路も開けていませんでしたから)、香港、広州を経由して2日がかりで北京入りしたことを覚えています。
到着は夜でしたが、搭乗機から見る北京の街は今と違って真っ暗でした。えらい田舎に来たな、と。
当時の中国は、毛沢東時代の末期、国政のスローガンは「自力更生」(ヅーリーガンシャン)、すなわちヒトサマ(西側先進工業国)の厄介などならずに、自力で発展してみせる、そしていずれ英国を抜いでみせる、と。何ともひとりよがりの中国でした。そんな強がりを言いつつも、経済技術支援という面では、唯一ソ連に頼るところが少なくなかったのですが、この方も中ソ関係が急速に悪化してゆく中、ソ連からの技術者もどんどん引揚げてしまい、文字通り「自力更生」という道を歩まざるを得なくなってしまった。
でも、あの頃の中国、私のように老世代には、今もなお、なつかしく思うことも少なくありません。大気汚染などの公害もなく(北京の秋の突き抜けるような青空は「北京秋天」として有名です)。人々は皆貧しい中、その後の中国と違って幹部たちの大がかりな汚職もなく、日本との関係では国交正常化直後ということもあって人民の間には「中日友好」の精神がたたきこまれていました。「中日両国、世世代代友好下去」(世々代々、友好、で行こう)と、この辺のことについては、別途、拓殖大学発行の「海外事情」7〜8月号において、拓殖大学の富坂先生のインタビューを受けた中でお話したところが掲載されていますので、本日は時間の関係もあり、そちらの方にゆずることといたします。
そして、その後、本省でいろいろな役目の下、中国関係でいろいろと関わりましたが(中国に対するODA 供与の開始、第二次天安門事件への対応、平成時代、両陛下のご訪中などなど)、その間、日本の総理、外務大臣などにお伴して中国を訪問、政いは先方から国家主席、国務総理らを日本に迎
えるなどのこともあり、中国の党、政府の要人方(黄必武、鄧小平、趙紫陽、胡耀邦、李鵬、江沢民、そうして台湾においては蒋介石・・・・・)のお国なまの強い中国語のしゃべり口が今でもなつかしく私の耳朶に残っています。
そして、私の中国での第2回目の勤めは、1988年から2001年まで。これを最後に同年4月退官いたしました。
中国「改革・開放」政策の始動、そして WTO 加盟
この時期は1978年末、鄧小平氏の主導した「改革・開放」政策が花開き、まさにそれが真っ盛りの頃でした。そして中国は2001年にWTO 加盟を果たし、これによって国際社会の信任を得て、外国からの投資もどんどん増える。かくして中国は、新たな経済発展の道をつかんだわけです。もっとも、あの頃はすでに、「改革・開放」が始まってから 20年、「改革・閉放政策の負の側面(自然環境の破壊、貧富の格差、幹部たちの腐敗…..」も色こく中国社会を色彩っているという状況でした。
いずれにせよ、このようにして私は、「自力更生」下の中国と「改革・開放」下の中国という、全く異なる二つの中国を現場で体験した次第でした。
鄧小平氏の始めた「改革・開放」の中国、すなわち「自力更生」(ひとさまの厄介になどなるものか)などとひとりよがりに強がっていても中国の発展に期待できない、そこは助けてくれるという向きがあれば、大いに 介になろうではないか、ということです。こうして、日本との関係で言えば、日本から中国へのODA(政府開発援助)の提供が開始されたということでした。しかし、この対中 ODAの提供は第1回北京オリンピック(2008年)を期に基本的に終了ということになりました。それはそうでしょう。今や月面着陸を目指すということころまで力をつけた国に ODA はなじみません。
ところで、この日本の対中 ODA をめぐって、昨年、「計3・6兆円の援助を注ぎこんだ日本政府が、中国を排外的なモンスターに変えた」という帯をかけた本が出版されました。もっとも著者の名誉のために一言付言すると、肝心の書籍の方には、一言もそのようなことは書いていない。おそらく近年の日本の反中・嫌中感情が高まる中で、これに媚びる出版社の商業主義がそうさせたのでしょう。
日本の対中 ODA は一番多い年でも、中国の巨大な財政収支(国、地方)総額のせいぜい2%強。しかも、対中 ODA のほとんどは借款 (もちろん、条件は当時の市中銀行の融資にくらべれば余程良い)、そして中国はアフリカの一部の国と違い、ちゃんと返済して来ています(この点についても、日本政府はお人好しで、中国に対しては、多額のODA をただで差し出していると主張する著名な某評論家が日本にはいらっしゃいます)。
往時、宮崎勇さん(故人、経企庁出身エコノミスト、村山内閣で経金庁長官)は、よくこれっぽっちの援助について日本政府は中国側に「感謝」の表明を強要し、病院などに寄贈した顕微鏡一台一台に至る迄 JICA(国際協力機構)のマークを張り付けている、あまりにも大人気ない、とおっしゃっていました。もっとも、そこは私は、宮崎さんと若干考えを異にし、頭微鏡の件はともかくとして、例えば、中国当局に話して北京の国際空港に「この空港(の一部)は、日本政府の援助によるもの」という大きな表示を掲げてもらったのですが、これもしばらくして取り外されてしまいました。
毛沢東政治に先祖返りした習近平の中国共産党
そこで、今日の習近平氏の下での中国ですが、昨年秋の第20 回党大会を機に中国は、すっかり毛沢東政治に先祖帰りした観があります。習近平思想なるものを喧伝し、党の中枢(党政治局常務委員)も気心の知れた福建省、浙江省、上海市時代輩下にあったイエスマンたちで固めた。この陣容をみてこれからの中国の持続的発展の肝である「経済」のことが分かっている人材が見当たらないな、と指摘する向きがありました。リコノミックスの名で知られる李克強総理は、一時は全人代の委員長として残るのではないかと言われていましたが、予想に反して引退に追い込まれて?しまいましたし、もう1人劉鶴という副総理(ハーバード大学に学び、副総理の座にあっては厳しい中米経済交渉を中国側の主席代表として取り仕切った経済通)も引退してしまいました。
他方、私が党中枢の陣容をみて感じたのは「日本に強い人脈を持った人が一人も居ないな」ということでした。そんな中、ただ一人、王滬寧という人が居ますが、(政治局常務委員ナンバー4。その後政治協商会議主席に)、この人は若い頃(上海の復旦大学に在籍)、中国政治の学者として令名の高かった国分良成先生がいらっしゃった慶應大学に出没していたことがあるらしいのですが、何故か長続きせず、プツンと凧の糸が切れてしまったようです。
日中(中日)間の政治レベルの太いパイプということで思い出されるのは、朱鎔基さん(上海市長、国務院副総理を経て、一九九八年に国務総理に)と、その輩下の経済官僚たち、これに対するに日本側の宮崎勇さん(経企庁出身のエコノミスト、村山内閣の経済企画庁長官)や大来佐武郎さん(国際的なエコノミスト、経済企画庁などを経て、第一次大平内閣の時、外相に)といった人たちの間の濃密な関係です。当時、中国では「改革・開放」政策の中で、例えばこれと逆行するようにどんどん頭体が大きくなってゆく国営企業をどうするかということが、改革派の経済官僚たちの間で問題意識としてあった。そんな中、日本の国鉄など「三公社五現業」の民営化の経験などを中国側と存分に分かち合っておられました。宮崎勇さんが亡くなられた時、長い弔文をこれだけは人手に委ねないで、総理自ら書き起こし、宮崎家に送ったといわれています。
私の大使時代の曾慶紅(党中央組織部長、国家副主席をつとめた。政治局常務委員ナンバー 5)と野中広務さん(自民党幹事長、官房長官などを歴任)との間の関係も、大変濃密なものがありました。彼我の往来の中で、到着地の飛行場には必ず、そのどちらかが出迎えるという。そんなことで、私自身も曾慶紅さんとはいろいろおつき合いいただき、北京を離れる時は、閣僚の何人かを呼んで、中南海で送別の宴を張ってくれました。
もう一人は、これは私が官を群したあとのことですが、福田康夫氏と習近平氏との関係。福田君は、当時、日中間の政治・外交関係がどんどん冷えこみ、首脳会談もままならない中、秘かに何回か北京に赴き、安倍・習近平会談への道を拓いたのでした。彼と私は小学校時代机を並べ、お互いにベースボールに興じた仲。今のような日中(中日)関係の下、「君がもう少し若かったら、日中関係のためいま一度、ひと働きしてもらいたいところだが.....」と話しています。彼は、ちょうど今、天皇陛下、皇后陛下のお伴(首席随員)としてインドネシアから帰国の途上にある。そろそろ日本の上空にさしかかるところではないでしょうか。
ところで、習近平氏、実は、今日のような中国の国内情勢の下、中国社会の「安定」が頭から離れず、懊悩の日々なのではないでしょうか。そんな習近平氏はかって、中国共産党は「党政軍民学」を、そして地理的には中国の「東西南北中(北京)」のすべてを統治する、と言っていました。そして昨今では、中国国内はおろか、外国の各地でもそこに居住する在留中国人を対象に警察活動のようなことを始めているとか。かっての金大中事件を思い出しますね。
今、NHKの大河ドラマで徳川家康のことをやっていますが、家康はかって国の統治のあり方について次のようなことを言っています。
「天下ノ政ハ、重箱ヲスリ粉木ニテ洗ヒ候ガヨロシキ」
どういうことかというと、四角の重箱にゴマを入れてすりつぶしても、四隅に必ずすき切れないゴマが残る。それが統治の極意だというのです。すき切れないゴマ、今の中国について言えば、例えば、チベット、ウイグルなどの少数民族、政いは、人権弁護士たちなどでしょうか。ところが、今の習近平氏のやり方は、国内の情況が不安でたまらない中、大きなすり鉢にゴマを放り込み、大きなすり粉木でことごとくこれをすり潰すやり方、これではかえって社会を不安定なものにしてしまう、ということでしょう。
他方、現下の米中対立も困ったものです。最近では、さすがにデカップリング(分断)という言い方を止め、ディリスキング (リスク軽減)という言い方に変わって来ているようですが。すなわち、対中輸出管理も軍事バランスに影響を及ほす技術の分野に限る。中国との交易関係全体を断とうということではない、ということなのでしょうか。
しかし、パイデン大統領やその下の補佐官らのモノの言い方を見ると、アメリカによる対中経済政策の背後には、「米国産業の復権」という思惑があるような気がしてならない。そして、他の諸国に対してもそのようなアメリカの対中政策につき合え、と。かって、日米間にあって、アメリカに半導体協定を押しつけられ、これを境にそれ迄日の出の勢だった日本の半導体産業が一挙に衰退の方向に追い込まれたことを思い出します。米中が角つき合わせる中、当惑の極にあるのが、アセアンの国々。「Don't force us to choose between the U.S. and China!」というのが、彼らの正直な気持ちで、マレーシアのマハティール元首相、シンガポールのリー・シェンロン首相などははっきりそう言っています。
デカップリング、政いはディリスキング、やはりここは、安全保障を念頭に対象を主要防御技術にしぼり込むべきでしょう。それにしても、そのような声が、日本の経済界からしっかり上がって来ないような気がしてなりません。中国との間の対話もあまりない。他方、アメリカの経済界は、昨今のような情況の中でも中国側との対話はしっかり続けているし、経済界の大物たち(アップルやテスラ、JP モルガン・チェースのトップたち)も次から次へと訪中しています。事実、米中の賞易量は増えつつある。そんな中、だれひとり日本の顔が見えない、これは垂駐中国大使のなげき節です。その後やっと経団連会長一行の訪中があったようですが。
中国側と直接の対話を重ねる、そして主張すべきことはどんどん主張する、これがあるべき姿です。この点に関して、最近の中国のやり方についての私なりの大きな懸念は、日本の中国における企業活動と例の「反スパイ法」との関係です。現に今も、日本の某製薬会社の社員が中国側に拘束されたままです。しかし、そんな中、中国からは日本企業の対中投資を勧誘する代表団がひんぱんに日本を訪れています。これに対して日本の企業としては、当然その関係業種の投資環境を調べるため、いろいろと情報の入手に努める。ところが、そのような活動が、場合によっては、「反スパイ法」にひっかかり、手がうしろにまわることになりかねない。一体どうなっているのかということです。
私は、その中国について、今先方から要請が出されている CP-TPP (米国が離脱したあとのTPPの今日版)について、これも加盟を希望している台湾と同時加盟を目ざすという方向で検討してみてはどうかと思っているんです。かって TPP交渉で日本側の事務方のトップだった某君も内々そのような考えを私にもらしていました。
しかし、日本における大方の世論は、台湾の加盟については全く問題ないが、中国についてはとんでもない、ダメだダメだと。たしかに中国については国営企業への補助金の問題、「政府調達」や外資に対する技術移転強要など、問題が多々あることは事実です。ただ、そのような問題について、あらためて中国を鍛え直すメリットは国際経済にとって小さくない。ですから、中国に対しては、「加入に際してハードルを下げることは決してしませんよ。だから、加入に向けて国内の法制をととのえるなど精いっぱい努力して下さい」と。そして交渉の期限を二年、三年と区切って、その間、台湾には待ってもらう。そうすれば、少なくともその間も、加入のあとも中国としては、台湾に対して手荒な所作は控えるでしょう。どうでしょうか。
最後に、日中(中日)関係について私がよくお話していることについて、二点だけ申し上げます。
第一は、故周恩来総理が中日(日中)関係を律するガイドラインとしてよく口にしていた「小異を残して、大同に就く」(「求大同、存小異」、或はつづめて「求同存異」)という言葉です。中国と日本は、国柄、国の統治の仕方、国民性が違う。一時期の不幸な「歴史」の問題もある。しかしそれらは「小異」として横に置いて、お互いにアジアの大国としてより高みの「善隣友好、平和、協力」の関係(「大同」)をこそ目ざそうと。
ところが、その後日本では、「小異を捨てて、大同に就く」という言い方がすっかり定着してしまいました。しかし、そんな言い方は本家、先方の中国にはありません。「小異」はどうしても残るのです。とくに日中、政いは日韓の間でむずかしい外交交渉を経て得られた決着、合意にそのようなものが多々あります。要は、そのあとそうして得られた決着の結果残された「小異」を捨てること、忘れることなく、ひき続きこれに目を向け、しっかりこれを管理してゆく、ということだと思います。ところが、近年、日本でも、そして中国、国でも、そのような「小異」をいたぶり、つつき廻わしてこれを「大異」にまで広げて盛り上がる。そして、そこに双方のメディアが参戦し、国民感情も興番の極に達するという情況を目にします。
私はこのことを例えば、二〇一五年に得られた慰安婦問題についての合意のあとの国内の情況について感じました。あの時、日本では「不可逆的(決着)」という言葉がとびかった。これをタテに、この問題について今後日本側は何を言っても、やっても(やらなくても)よいのだと言わんばかり……。もっとも、この件については、その後、折角得られた合意を一方的に反故にした当時の文在寅政権のやり方こそ、大いに責められるべきことは言うまでもありませんが。
第二は、日中関係についてとくに日本の政治家方が桃言葉としてよく使う「日中間国は、お互いに引越しできない関係なのだから」という言い方です。日中関係の最前線で今の情況を心配し、これを何とかしたいと思っていらっしゃる方でも。今のような情況の両国関係の下、そうおっしゃりたくなる気持は分からぬではありませんが、そう言ってしまっては、そのあと少しは前向き、建設的なことを言ってみても、聞いている側にはすんなりと心に響かない、メッセージとしても萎えたものになってしまう。ちなみに、このことは日朝関係についてもよく聞かれる言い方でしたが、最近は、すっかり姿を消しました。
「日中、中日両国、お互いによい隣人を得たものだ。だから双方力を合わせて……」いつ、また、そのような日が来るのでしょうか。
五、日韓関係、韓国の映画のことなど
急速に改善に向かう日韓関係
次に最近、盛んに話題になる日韓関係についてです。
私は若い頃、一九八四年から八七年までの間、在ソウルの日本大使館の公使として勤めるという貴重な経験をいただきました。当時は全斗煥大統領時代、強権的な偽似軍事政権の時代でしたが、韓日関係の方は一九八三年一月の中曽根総理の電撃的な訪韓(この訪韓を機に懸案だった対韓国借款の問題も解決した)の直後ということもあって、良くも悪くもしっかり管理されていました。約二年余のソウル勤務を経て東京に帰った時、外務省の先輩、同僚たちから「韓国の勤務、いろいろと大変だっただろう」となぐさめられたのに対し「いや、総括すれば二年余のソウル勤務、大いなる「操」とちょっぴりした「うつ」(日本の歴史教科書の記述をめぐって、若干のもめごともありましたから)というところかな。」「大勢の友人もできたし」と応じたものです。
しかし、その全斗煥政権の下、実は舞台裏では、光州事件(一九八〇年五月、韓国の光州市で全斗煥大統領の軍事政権に対する民主化要求の蜂起に対し、全斗煥政権は、軍事力をもって弾圧、多数の死傷者を出した事件)、延世大学学生の拷問致死事件など、いろいろとおそろしい事件が起こっていたことも事実です。
話は横にそれますが、これらの事件については、その後、朝国が民主化を遂げたことを背景に、その情況を活写した映画、テレビドラマが作成されています。「光州5・18」、「タクシー運転手 約束は海を越えて」(光州が舞台、東京在住のドイツのジャーナリストが韓国人へ飛び、同記者を封鎖されを光州まで乗せたタクシー運転手の助けを得、戒厳軍の妨害を受けながら取材を続け、何とか東京に帰ったくだんのドイツ人記者が、東京から光州事件の痛ましい実情を世界に向けて発信するという実話にもとづいた筋立て)、今や、国際的な大スター、ソン・ガンホ(タクシー運転手役)の演技が光ります。
もうひとつの「一九八七 ある問いの真実」は、先に述べた延世大学の学生の拷問致死というこれも実話をテーマにした作品。お忙しい向きが幹国映画、テレビ・ドラマのどれかひとつかニつだけとおっしゃる向きは、私のお薦めは、これと連続テレビ・ドラマ「第五共和国」(全部で二十七巻)の第一巻。一九七九年、朴大統領が遺恨をもった中央情報部(KCIA)部長に暗殺されたあの悲劇的なストーリーが中心です。このニ十七巻の大作。すべて、その後の全斗煥、盧泰愚氏らの法廷における陳述をベースに作成されているので、真実に近いいわばドキュメンタリー映画、全斗煥時代の国を知るには必見の作品です。
ところで、私は日中、日朝関係について、前者の場合は、お互いに国柄、国の統治の仕方も違うし、中国の軍事力も半端ではない。そんな中、これからも各種の摩擦、紛議、はたまた時として対立も避けられないだろう。先に、故周恩来総理の考えをご紹介しましたが、日本からみても中国とは、自由、民主主義、人権、法の支配(中国は“法の支配、ではなく、法による支配)といった基本的価値観のところで、考え方が違う。従って、成織表で言えばお互いに目ざすところはB+ぐらい。しかし、それでもお互いの利益のために、これがB-、C+、C-…....とどんどん悪くなって行かないよう問なき対話を進め共通の利益に視点を定め、お互いに努力しながら何とかこれを B +のレベルに継続してゆく(今は、とくに政治、外交関係はC或はD) ということではないか、そして、そんな中、特に双方の「政治」がとかく移ろい易い「世論」なるものに流され、或はこれに身をまかせるのは良くない、と思って来ました。
他方、これにくらべて日朝関係の方は「世論」云々のくだりは同じですが)、よく言われるように両国は、自由、民主主義、法の支配…....と言った基本的価値観を共有する国柄。従ってお互いの「政治」の意志さえしっかりしていれば、これを A -ぐらいのレベルに持ち上げることは難しいことではないのではないか、と思って来ました。ですから、文在寅政権下の日韓(韓日)関係については、本当に残念に思って眺めていた次第です。
と、そこへ尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の登場。そこで話は一挙に様がわりしつつある今日の日韓(韓日)関係の話になります。
様がわりの日韓(韓日)関係、日本側の対応
私は、ユン大統領の強いリーダーシップの下、急速に改善の方向に向かう日関係を驚嘆の思いで眺めながら、実はそこに若干の危うさを感じておりました。というのも日関係の障害の中心テーマになっていた「徴用工」の問題についてユン大統領が困難な国内の状況の中で汗をかく中、日本側は、葬国側が解決案を持ってこいと言うだけで、ユン大統領の努力に呼応する姿があまり見られず、または日本による朝鮮半島の植民地支配についても、岸田総理は、「歴代の日本の総理が表明して来たところを総体として継承する」という以上を出ず、これで岸田訪韓の時、持つだろうかと秘かに心配していたのですが(注2)、結局訪幹の時、新聞報道によれば、急遽現場での調整で、徴用工の問題で「多数の方々が大変苦しい、悲しい思いをされたことに心が痛む」と発言され、韓国側もこの発言を高く評価すると言うことがありました。
もうひとつ、岸田総理について韓国側が大きく評価したことに、広島における G7サミットの折、広島の公園にある朝鮮半島出身の人たちの原爆犠牲者の慰量碑にユン大統領と一緒に赴き、弔意を捧げられたことがありました。この慰置碑は、実は私の役所現役時代、長く公園の外に放置されたまま、これを公園の中に移すということについては、いろいろな勢力が養否入り乱れて実現に至らなかった経緯があります。たしか、当時、与党、政いは、地方の当局も移動については大変消極的だったと記憶します。
懸案だった半導体部材の対輸出規制の件(日本政府は、徴用工問題への韓国側の対応を不満として、フッ化水素など半導体関連の三品目を突如、対幹輸出時の許可手続を厳格化した。葬国側は、これに対しWTO に提訴するかたわら、これら部材の自製化に舵を切った)も片づきました。あれは、明らかに徴用工問題についての当時の韓国側のやり方に頭にきた日本政府の報復措置(当初、日本の政府当局は、はっきりそう言っていました)。あの時、東京での本件をめぐっての交渉の際の日本側の団長の無礼ないでたち(これ見よがしにエリ巻き姿)、会議の場は倉庫のようなところ…これもいまだに忘れられません。もっともその後さすがに WTO 規約との関係でまずいと思ったのか、韓国側のゆるゆるの輸入政策を糺すための措置だったと説明ぶりを変えていましたが。ところが、最近の日朝関係改善の中で、これもあっという間に何事もなかったかのように元通りに戻されました。これに対し、それまで政府のやり方に拍手喝采していた与党も何も言わない。いい加減ですね。
この半導体の三部材は、例えば、日本企業が韓国で組み立てを依頼し日本に輸入していた4Kテレビに必要な部材だった。それが簡単にできなくなったわけですから、いわば日本にとっては天につばするような情況でした。そして、韓国側は仕方がないから、自製、政いは他からの輸入に切りかえたわけです。
問題なのは、この間日本の経済界が日本政府のやり方にあまり声をあげるということもなかったこと。私は、この情況を眺めながら、昔、経団連会長の石坂泰三氏がある案件(たしか、大阪万博に必要な経費の経済界と政府の分担の問題ではなかったかと記憶します)をめぐって、時の総理大臣、あの長期政権を誇るおっかない佐藤栄作氏のもとをたずね、いろいろと議論の末、最後には石坂氏が「もう、君には頼まん!」と佐藤総理を怒鳴り上げて席を立って帰って来たという話をよく思い出しておりました。このことは、「もうきみには頼まない、石塚泰三の世界」というタイトルで本になっていますし(著者、城山三郎氏)、私自身、石坂さんの秘書でその場に居合わせた人(故人)と昔、大変親しくさせていただいたものですから、この方からよくこの話を聞かされたものです。
アメリカや日本政府のやり方について、日本の経済界はあまり声を上げない。このことは対中関係でのデ・カップリング(デ・リスキング)をめぐっても、感ずるところです。
ユン大統領の対日関係改善のスピード感にうまく乗るべし
韓日(日韓)関係改善に向けてユン大統領のスピード感に日本側はうまく乗る一一少なくとも、その足をひっぱることはしないーーことは勿論ですが、他方、「徴用工」だけが両国の間の障害ではない。大きな問題としては、福島第一原発事故を受けての水処理の問題もあるし、その外にも慰安爆問題、韓国海軍艦艇による海上自衛隊へのレーダー照射問題、福島など八県の水産物輸入禁止の問題など…...そしてその背後には対日政策についてどうしようもない韓国の政治、社会の分断ということがあります。肝心のユン大統領の支持率が下降気味なのも心配ですね。従って、そこは、日本としてひき続き辛抱強く対応してゆくということでしょう。
そして、これからの日韓関係を考える時、やはり肝は経済関係だと思います。例えば、半導体、日韓双方でうまく分楽しながら良質の半導体製品を造り上げてゆく。エネルギー協力というテーマもあります。こうして、日韓経済関係の改善が日本、韓国の国民一人ひとりの生活にプラスとして実感されるようになればしめたものです。今、日の交流の主役は若者たちですが、日本について言えば、彼ら、彼女らのK-POP や幹国の化粧品などへの関心だけに支えられる日韓関係では心もとない気がします。
(注2)岸田総理が訪される前ですが、「徴用工」の問題について「The Forced Labor Solution-The Triumph of Korean Leadership Over Japanese Timidity」という論評を目にしました。筆者はスタンフォード大学のダニエル・シュナイダー教授。父君は往時、沖縄で米軍のトップを勤めて一家あげての親日家。もっとも、父君はその後駐韓大使も経験しており、この論評については、後者の経験の方が優ったのかもしれません。いずれにしても、親日家にしてもこの言ありかと残念に思った次第でした。
六、最近のインドについて一ーインドは一寸、中国に似てきた!?
九十年代後半のインド、「改革・解放」へ
最後に、日本の話に移る前に、最近とかく話題になるインドについて若干、お話ししたいと思います。
私は、一九九五年から九八年までの約二年半の間、インドのニューデリーの日本大使館で仕事をする機会をいただきました。でも、その間、東京へ出張で帰る度に先輩、同僚たちから「インドは暑いし、衛生状態も悪いし、大変だろう」「あの長口舌をふるうおしゃべりインド人は、少しは良くなったかね?」.....と。しかし、実を言うとそのインドに私は家内ともども、すっかりはまってしまいました。とにかく、根明かで社交好きで泣きごとを言わない。「(問題あるように見えても、いつも)ノープロプレム!」と。四十度の炎天下、水筒をひっ下げて、よく、インドの友人たちとゴルフに興じたものです。
当時のインド、中東情勢がゴタゴタする中、この地域に出かけていたインド人たちからの送金も途絶え、「経済」が立ちゆかなくなり、それまでの内向きで規制でがんじがらめの経済運営を改め、経済のかじ取りを一挙に外国企業に優しい対外開放の方向に切った時期に当たりました。インド流の「改革・開放」のはじまりです。
もっとも、中央(デリー)の政治の方は、いまひとつ定まらず、相次いで首相が変わるという時期でしたが、そんな中、メディアの世界では、時々のテーマをめぐって、大変良質な議論が闘わされ、司法の世界も、とくに最高裁は識見、人格にともに優れ、一身に尊敬を集めた人材をそろえていました。そんなインドの最高裁についてよく言われたのは“ACTIVE JUDICIARY”(行動する司法)。どういうことかと言うと、政治、行政の足らざるところ、政いはさぼっていてやらないところを、「世直し」に向けて自分の方から出ばっていって、具体的措置(例えば必要な法令の制定をうながすなど)をとるといったことです。日本の同法の世界では考えられません。
私の友人の一人に外務省で同期の福田博君という人が居ます。彼はその後、最高裁の判事に任ぜられましたが、ある時インドにやって来て、インドの最高裁の判事方との意見交換を通じ彼らの識見の高さにいたく感銘を受けていたので「どうだい。日本の最高裁も、少しはインドを見習っては、日本も、政治、行政がさぼっているところは多々あるのだから」とけしかけたことを覚えています。その後彼は、国会における一票の格差の間題で、厳しく「政治の息慢』を指弾するかなり有名な判決を書き、これを機に政治の方でも、格差是正に向け、少しずつ動きが始まりました。
ところが、私がインドに居た頃のインドの良い面、メディアの世界での良質な言論の自由、時の政権とは明確に一線を画した最高裁の ACTIVE JUDICIARY、政治と宗教の分離(セキュラリズム)といったことが、とくに第二次モディ政権になってからひとつひとつ姿を消してゆく。これが今日、インドについてお話したかった点です。
強権的政策(とくにモスレムへの対応)が目立つモディ政権
第二次モディ政権になってから、とくに目立つのが、ヒンドゥーナショナリズムを背景にしたインド国内のモスレム勢力に対する強圧的な措置です。そもそも、モディさんのBJP (インド人民党)は、過激なヒンドゥー宗教団体 RSS(民族奉仕団)をベースに創設された政党ですし、モディさん自身、そこを活動のベースにしてのし上がって来た人です。
二〇〇二年、モディさんの出身地グジャラート州でヒンドゥー教徒がモスレム勢力を襲撃し大暴動に発展したという事件があった。そして、その背後に当時州の首相だったモディさんの「関与」があったのではないかということがうわさされ、もう今ではすっかり忘れ去られていますが、何と当時、欧州諸国は同人へのビザ発給の停止措置をとったくらいでした。しかし、そのモディさんは、その後、グジャラート州をインドのデトロイトにするのだというかけ声の下、この州の発展に大いに力量を発揮し、それをベースに遂に連邦政府の首相の座を射とめました。そうなると、欧米諸国も現金なもので、直ちに同人に対するビザ発給停止の措置をとり上げました。
ちなみにそのモディさんに常に陰で寄りそって選挙などの場で辣腕を振って来た人にアミットシャーという人が居ますが、この人も前述のグジャラート州の大暴動の件で、黒幕の一人として重い罪に問われています。本人は、遂に陰の存在から仮面を脱ぎすてて、モディ首相の片腕として、今や連邦政府の内務大臣という要職にあります。
モディ政権によるヒンドゥーナショナリズムを背景とした強圧的な所作の象徴的なもののひとつとして、かねてインドの統治の上で悩みの種だった西のジャンム・カシミール地方(モスレム勢力が大多数を占める)を二分割して、一挙に連邦の直轄領とするという挙に出ました(二〇一九年八月)。
他方、最近のインドの最高裁はと言えば、かねてイスラム勢力と所有権をめぐって法廷開争が続いていたウッタル・プラデッシュ州アヨーディアの寺院の跡地について、これをヒンドゥー教徒側に所有権を認める判決を出し、ここにヒンドゥー教徒のラーマ寺院を再建するということでモディ首相もその起工式に出席していました。
やること、なすこと、私は、最近のインドは一寸中国に似て来たなぁと言ってみたりするのですが、「世界最大の民主主義国・インド」というイメージがすっかり定着しているのか、怪げんな顔つきをされるのが落ちです。
「We are the largest democracy!」
私がインドに居る時も、インドの人たちがよくこう言うのを耳にしたものでした。しかし、一寸でもインドで暮らしてみると「でも、この根強い女性ベッ視の風習はどうなの?」「社会の隅々まで張りついたカースト制度は民主主義になじむものかしら?」「人々の間の貧富の格差も半端ではないし…....」など茶茶を入れたくなったものです。しかし、それでもお話したように、私も家内もそんなインドにすっかりとりつかれてしまった次第でした。
インドにおけるスズキ自動車
ところで、昨年秋、スズキ自動車の鈴木修さん(前会長、現在は相談役)のお誘いで約四年ぶりにインド(ニューデリー、グジャラート)を訪問する機会がありました。スズキ自動車がインドに進出してちょうど四十年。それを祝賀して大きな記念行事が閉かれる、モディ首相も出席するから是非ということで、喜んでお伴した次第でした。
インドとスズキ自動車といえば、インド政府からインドで車の製造に向けて日印合弁会社を立ち上げたいという要請に対して、日本の自動車メーカーが全く相手にしなかった中、ただ一社鈴木修社長(当時)の英断の下、スズキ自動車がこれに応じ、それから、インドでのマーケットを広げ、インドで自動車といえば「スズキ」といわれるまでになった(一時は、マーケット占拠率は六〇%を超した)歴史を思い出します。
鈴木修さんは、少なくとも合弁事業の立ち上げ、これを軌道に乗せるまでは、インドというむずかしい環境の中、現地の合弁会社の運用をインド人の責任者に任せておられたことを思い出します。もっとも、その間、定期的にインドに飛来されて、スズキの経営哲学を先方との間で十分シェアしながら、「それじゃ。また三ヶ月後に来るからな」と。そうなると、委せられたインド人もはり切るわけです。細かいことまで、現地の日本人のトップが口を出し差配したがる日本の企業にはなかなか出来ないことです。そういうわけで、今でもインドのスズキ自動車の従業員たちの名刺には日本語で鈴木修さんが書いた「やる気」と書いた文言が刷りこまれています。
もっとも、そのスズキもこのところ、インドに進出した韓国の自動車メーカーに追い上げられ、マーケットのシェアも四O%ぐらいのところまで落ちて来ているようですが。
インドにおけるスズキ・インド進出を記念しての祝賀行事を見ながら、他方、あの時、鈴木修さんの決断なかりせば、今は、インドで語るべき日印協力のシンボル事業は何ひとつないなとの思いを深くしたものです。日本の自物家電、ケータイなどの類はすっかり韓国勢に駆逐されてしまいましたし(ちなみに、このことは中国でも同様)。
伸びしろの大きいインド経済
インド訪問は四年ぶりでしたが、あらためて感じたのが、インドの発展(経済)のスピードと、しかし、そのインドは経済・社会インフラがまだまだ貧しい中にあって、今後ともインド経済の伸びしろは大きいな、ということです。
問題は、そこには日本の企業がどう食らいついて、ビジネスを広げてゆくかということ。先に、「ノープロブレム」をしょっちゅうロにするインド人と細かいことがいちいち気になり、決定のプロセスも課長一部長一取締役一会長と重層になっていて諸事時間がかかる日本の企業文化のことをご紹介しました。私は、とくに外国の地で業を立ち上げる時、肝はやはり現地の情況に通じた(人脈、事業環境……..) 相手国の人をパートナーとして見つけるということに尽きるような気がします。それにあのインド説の強い英語(ヒングリッシュ)。これを色々数字を交えながら弾丸のように発射してくるインドの役人たち相手に対等にやり合う、容易なことではありません。スズキ自動車のことはお話しましたが、その後、中国で勤務した時、中国に進出している欧米の企業の現地のトップは概ね中国人(場合によっては、シンガポール、台湾から人材を調達)であることに気づきました。そのかわり、とくにカネの出入に厳格な日本企業においては、交際費の支出などで勝手なマネはさせないように「財務」だけは、しっかり日本人が握るということでしょう。
なお、最近のインドについては大変良質の本が出版されました(「インドの正体”未来の大国”の虚と実」伊藤融著、中公新書ラクレ)。正体などと、例によっておどろおどろしい書名ですが、者者は(私は、直接は存じ上げませんが、現在は防大教授)かつてインドの日本大使館に勤務された方、今のインド、昔のインドについていろいろと辛口の記述もありますが(その内容はインドで暮した者として、私もほとんど共感するところです)、著書全体に通底するのはインドに対する強い思い、そして、そのようなインドを相手にするには、日本もしたたかさを涵養をする方向に変わらなければという思があるような気がします。
七、いわゆる「歴史認識」と歴史上の「史実」と
最後に、日本のことに話題を移す前に、折角の機会ですから、今もよく話題になるいわゆる「歴史認識」とこれとは違う歴史上の「史実」について少しだけお話したいと思います。
私は、「歴史」について、下世話な言い方ですが、やった方とやられた方との間で、少なくともこれにかかわった人、政いはその次の世代ぐらいまでは、あの時代の「歴史」をどう認識するか、いわゆる「歴史認識」を一致させることはむずかしいと思っています。中曽根総理はよくそうおっしゃっていらした。
他方、その「歴史」について何があったのか、すなわち、近現代史における歴史上の「事実」については、これを彼我の間で共有することは可能ではないかと考えます。ところが、このことを探索しようと資料を渉猟する学究の徒に対し、「つまらぬことは止めておけ!」「自虐史観の輩!」と乱暴に言葉を投げつける向きがある。とんでもないことだと思います。
「史実」を共有するということについては、日本のある大学でこんなことがありました。
先生が生徒たちに対し「昔、日本はアメリカと戦争したことがあるんだよ」と話したのに対し、生徒たちは、「へぇー、知らなかった」と怪訝な顔。そんな中、一人の生徒が、おずおずと手をあげて「先生、それでどちらが勝ったんですか?」と(笑)。これは、外ならぬトウキョウダイガクでの話で、今ではかなり知られた話です。私は、今でも時折、この話をするのですが、一定の年カサより上の方たちは大笑いです。ところが、例えば、大学の入学式、企業の入社式などでこの話をしても会場は皆、シィーンとして……気味が悪いですね。
昔、神戸でこんな経験をしたことがあります。駅前のタクシーに乗って近くの孫文記念館にお願いしますと運転手さん(神戸の人でした)に話したところ、「ソンブン?誰ですか、それ?」と。いささかびっくりして、孫文のことを話したところ、「わしら、そんなことを学校で習わへんかったからなぁー」と。若い人たちは孫文のことをマゴフミと読み、この人一体誰のこと? という向きもあるようです。
私は何も「歴史」の学習で中国や韓国のそれに合わせよと言っているのではありません。あれはあれで、多々一方的なところがあるからです。しかし、基本的な史実だけは身につけておきたい。彼の地の人たちは、ここところをしっかりとたたき込まれて、かかってくるからです。そんな中、私は昔、「大学の入試に近現代史からどんどん出題するようにしては如何」と大学の先生方に申し上げておりました。ところが、ある大学でそうしたところ、おっかない先輩たちから「つまらぬことは止めておけ!」とどなり込まれたということです。どこの大学だったか?ご想像にまかせます。
先にお話した東京大学での話、その後、少しは、高校時代の近現代史の学習も充実したものになったのかと思っていたのですが、最近全くこれと同じ話が別の大学であったとのこと、なかなかに根は深いですね。
八、そしてわが日本
日本、がんばれ!
最後に、わが日本についてです。
近年、とかく暗い話ばかりが横溢する近年の日本ではあります!
・低迷する経済(実質経済成長率はここ30年0.7%/年、企業の国際説争力の低下[世界1位から世界 34位に スイス IMD])
・時価総額でトヨタは世界 39位(1989年には上位 10位の内7社が日本企業だった)
・政治の劣化(ガーシーの件は、びっくりしました)…….
他方、日本、良いとこ、住み良いとこ、というのも私の率直な気持ちです。
・メリハリがしっかりした四季の移り変わり
・ 世界一の治安、正確な交通体系の運航
・東京など大都市では世界中の食が
・ 他宗教に寛容
・清潔な公共トイレ……
日本の政治による統治(ガバナンス)などのあり方
前段のことについては、いろいろとお話したいことがあるのですが、今日は、時間の制約もあり、ただ一点だけ。それは日本の政治による統治(ガバナンス)のあり方についてです。
私の手元に昔と今の内閣官房の姿、形を記載した表(国会便覧より)があります。
往時、例えば、鈴木内閣の頃、それはたったの1ページ。当時、副長官だった翁久次郎さん或いはその後の藤森昭一さん(中曽根内閣)らは、「官邸はヒマなのがいいんだ」「議論は各省庁の間、司、司で十分してもらって、どうしても解決できない案件だけを官邸に持って来てもらう」と。
しかし、世の中の仕組みが複維になり、それと共に省庁をまたぐ案件もどんどん増えて行った。また、行政の方はタテ割の弊害も目立つようになって来た。そんな中、官邸機能の強化ということが叫ばれるようになり、中曽根改革 (内閣官房に内政、外政審議室を設置)、橋本改革(財政構造改革など大つの改革を旅印にスタートしたが、尻すぼみに終り“失敗、と言われる。唯一手をつけた中央の省庁の再編も、厚労省など、かえって肥大な役割を生み出し、これも成功、とは言われない)がなされ、福田内閣の時は、内閣人事局の創設が検討され、これは、その後の民主党政権を経て安倍内閣の時に実現しました。
話を内閣官房の姿、形の方に戻すと、これが私が秘書官としてお仕えした鈴木内閣の頃は、これも1ページ。そのような情況が徐々にに改変され、村山富市内閣(一九九五年の阪神淡路大震災への対応の遅れが、厳しく批判された)の時はニページに。そしてその後の民主党政権になるとそれが一挙に六ページに増えた。ところが、これが安倍内閣(第二次)に至り、一挙に十ーページに増えます。xx総合戦路室、△△推進室、〇〇検討室……などなど。もっとも、そこを占拠する方たちは、親元の省庁における役職を保持したままというケースが多いのですが。
そうして、いわゆる官邸官僚といわれる人たちが、人によっては、「総理のご意向!」を錦の御旗にして各省庁をおどし上げる。例えば、外務省で言えば、内輪の大使会議の席にこういった人が乗り込んできて、「総理のご意向!」として、個別の ODA 条件の割りふりを自分の好みに従って迫るということがありました。そんなことを許す外務省も外務省と思ったものでしたが。
前述の「内閣人事局」については、これの設置を検討の俎上に乗せた福田康夫氏が「人事局局長のポストを当初、事務の官房副長官でなく政治家(官房副長官)をもって来たのが大きな誤りだった。
そうなると官庁の事情でなく、特定の政治家がそれぞれの思惑で役所の人事を動かすということになりがち」(事実、具体的な事例についての言及は避けますが、外務省についても、某総領事の酒の席での「官邸批判」の言辞が官邸の副長官(政治家)の耳に達しーーちなみに、これを官邸に「ご注進」したのは、その席に居たメディアの人でしたーー「暴言を許さん」とて、役職を解かれ窓際族に追いやられたケースがありました。)
その後、この内閣人事局の長は、事務の副長官が就くようになりましたが。
私は、官邸生活が長かったということもあり、悲しい性、毎日の新聞の「総理の動静」の欄に目が行ってしまうのですが、近年の役所の官邸への出入りのひん度、姿・形にびっくりしています。例えば、私の古巣の外務省の事務次官、複数の局長たちを従え、多い時には、週に何度も。これでは、官邸からの注文うかがいのための官邸詣でとみられても仕方がない。昔、私が総理秘書官をしていた時は、こんなことはありませんでしたね。それでも、外務省の場合は昔からの官邸側とのとり決めとして、原則として事務次官は週に一度(総務課長を記録係として従え)、官邸に一人でいらっしゃっていました。でも、他省庁の事務次官は、本省にデーンとかまえていらっしゃって、足しげく官邸詣でということは全くありませんでした。こんなことを言うと、外務省の後輩たちに「世の中は、すっかり変わったんですよ!」とお叱りを受けそうですが。
でも、私は、古いかもしれませんが、本来あるべき姿は、個々の政策については、閣議で方針を決める、それをふまえて、各大臣がそれを実行に移すために輩下の役割の部下たちを叱咤激励し汗をかく、その上で足らざるところは、総理の意向を受け、官房長官が各大臣や次官を動かしてゅく、ということではないかと思います。(注3)
昔は昔で、いろいろと問題があったことは認めますが、それでも、国を統治する上において、立法府、官邸、行政府、そして行政の一部である検察、これらの間において良い意味での緊張感があり、とくに昨今と違って、それらの間で自由闊達な議論があったような気がします。生来、気の弱い私のような者でも、例えば橋本龍太郎さんなどに、「総理、それは、とても理屈が通りませんよ!」と言えたものです。橋龍さんは、冗談が好きな人で「タニノという奴は、気のくわぬことを言うと殴るから!」と。勿論、そんなことはないのですが、異論があった時は、「それはダメですよ」と手をかざして横に振ることぐらいはしたのかもしれない。それを「気にくわぬことを言うと殴る」と。閉口したのは、北京在勤中、訪中された橋本龍太郎さんのための胡錦濤副主席主催の晩餐会の席上のこと。「胡錦濤さん。今度のタイシには気をつけなさいよ。気にくわぬことを言うと殴りかかってくるから。」と。またか!と閉口しながら、「いやいや」と手を横に振ると、「ほらね!あの通り」と(笑)。
橋龍センセイ。なかなかむずかしい人で、何日も口をきいてくれなくなったり、途端に仲良くなったり......でもなつかしい人です。
日本の統治のバランスがくずれたということについては、1994年に導入された「小選挙区比例代表並立制」で、自民党総裁を兼ねる総理大臣が立候補者の「公認」を決める段階で、大きな権限を持つことになった結果、自民党の国会議員と行政府の長(総理大臣)との間の力関係も大きくくずれた(総理大臣にはっきりモノを言えなくなった)ということをおっしゃる自民党 OBの方もいらっしゃいます。もっとも、この小選挙区制の導入なかりせば、過去2回あった、国民の期待する与党から野党への政権交代もなかっただろうとの声も。むずかしいものですね。
私は、今の日本が時折、新聞でも報道されるように、国際社会での競争力がどんどんなくなってゆくことが心配です。株価だけは、高値が続いているようですが、私たちの世代のうちは、「日本、良いとこ、住み良いとこ」と浮かれておわるかもしれないけれど孫たちの世代の日本は、今のままでは国際的な競争力をなくし、人口も減り、文言通り極東の小さな一島国ということになりかねない。そんな中、人口が減ってゆくことについては、これに抗っても仕方がない。勿論、結婚したくても経済上の理由でできないという向きには、それなりの手当が必要ですが。
むしろ、人口が小さくなってゆくことを所与のこととして受けとめ(人口が小さくなると交通渋滞も解消。持家も広くなるなど悪いことばかりでない)、今からその前提で新たな国造りに向けて設計図を書いてゆくということではないでしょうか。極東で、ひとり、高い生活水準を保持し、世界に伍して闘えるいくつかの産業を持ったキラリと光る日本。私はそんなことを考える時、よく北欧の国々(フィンランド、デンマーク、スウェーデン) のことを頭に浮かべます。そして、アメリカとの関係も、いま少し一人立ちすることが必要ではないか、とも思っています。
そんな中、かって閣僚をなさった自民党の古川禎久さん(衆議院議員)が、「日本は、いつまでも、政治経済においても、外交安全保障においても、米国一辺倒、で良いのだろうか」、「日本も今少し、自主自立の旗を立て、”王道”を歩むべし」と声をあげていらっしゃいます(『月刊日本』)。
また、最近、国会で「超党派石橋湛山研究会」という議員連盟が発足した由。石橋港山という人は戦前は、植民地を放棄せよ、貿易立国こそ日本の生きる道として「小日本主義」を唱え、戦後、首相の座に就くや、「日本は、米国と提携はするが、向米一辺倒にはならない」と宣言した人です。その後病のため、首相の座を降りましたが。いずれにせよ、そんな石橋湛山について、国会で超党派の議連の研究会が立ち上がった由、注目しています。
以上、拙い話をダラダラと申し上げましたが、時間をオーバーしましたので、この辺でひとまず打ち止め、といたします。どうもありがとうございました。
(注3) このテーマでは「官邸官僚が生み出した”無責任体制”」(牧原出東大教授、『中央公論』五月号)という優れた論考があります。
歴史の歪曲・否定では世界の中で勝てない
司会 ありがとうございました。やはり普段なかなかお話を聞けない、貴重なお話をお聞きいたしました。折角ですから、もし質間がある方がおりましたら、挙手をお願いします。
質問者 貴重なお話をありがとうございました。大使のお話はいずれも非常にその通りだなと思ってお聞きいたしました。最近の中国について2点お伺いします。
1つは、この間のG7広島サミットでも、岸田さんはアメリカとほぼ同じレベルで、中国を念頭にした非常に強い姿勢を示されましたが、岸田政権の今の対中姿勢をどのようにご覧になっているのか、評価しているのか、非常に危うさを感じているのか、ということをお聞きしたい。
もう1つは、この前、アメリカのプリンケン国務長官が訪中して、習近平国家主席と会談しましたが、その時の会談スタイルが外交団の間でも話題になりました。座席はコの字型で、習近平が真ん中に座り、プリンケンとカウンターバートの秦剛がその左右に座った。習近平は2人を助さん格さんのように従える形で、上から講話をするような形で会談をした。これまでアメリカの国務長官が訪中した時に、国家主席が会談すると、いわゆる外交上は横並びのソファの椅子に座って会談をする、というスタイルが記憶に一番多いのですけれども、このコの字型のスタイルというのを、長年外交官として見てこられて、どういう風に我々は中国のメッセージを受け取った方がいいのか。
谷野 あれは、仰るように、これまではアメリカの国務長官も大体1対1の時は隣り合わせで座っていて、ああいう形は初めてですね。誰がああいう形にすることを入れ知恵したのか、習近平氏自身の意図なのか、それともゴマをする外交部の動きとかがあるのか。私は、日中首脳会談はずいぶんと付き合いましたけれども、ああいう形でやったのは、私の現役時代はもちろんなかった。ただひとつ覚えているのは、フィリピンのマルコス大統領です。まさにこないだのように。帝王のように座って、双方に日本(総理もふくめ) とフィリピンの出席者が座る。椅子もマルコス大統領のところだけ玉座。あれを見て独裁者のマルコスを思い出しましたね。バイデン大統領は習近平氏のことを独裁者と言って、中国が反発したけれど。もっとも、トランプ大統領が先にお話した中国の劉鶴副総理以下とホワイトハウスで会談した時は、正に今回、中国がやったのと同じ形でしたね。トランプ大統領が、一人で中央に座り、その両脇に中米双方のメンバーが並ぶという。
外交部というところは、残念ながら力がない。外交政策をとり仕切っているのは、党の「中央外事政策工作委員会」、トップは習近平氏です。だから「戦狼外交」と言って、外交部はその時の「空気」に調子を合わせる。日本でもひどいのは、大阪の中国総領事の件がありました。この人は、私は昔からよく知っていて、ああいう人ではないと思ったのだけれども、大阪の総領事のホームページに、ロシアのウクライナ侵攻の直後に、「強い国に盾を突くとどういうことになるか」、まだ今日のような状況じゃなくて、あの頃はロシアが直ちに席巻をするという予想だったのかな、「強い国に盾を突くとどうなるか、今度のウクライナから日本は教訓を学ぶべきだ」と。これはものすごく評判が悪かった。今度はまた、呉江浩大使、彼も前から知っているから、着任早々意見交換もしたのだけれども、台湾問題を中心に、「日本の対応如何によっては、日本の人民は火の海の中に行く」と。
外交部は人員や規模は、日本の外務省どころではないです。世界中に大きく根を張った。しかし、中国がいかに問題視されているかということが外交部を通じ中南海の中枢に届いているのだろうか。私は、総理秘書官を長くやっていたものですから、外務省から来る電報を精査して、総理にお見せした時々にご意見をいただいた。昔は外務省は、大使から骨太の意見具申が上がってきたものです。私は昔、本当に感動したのは、敗戦直前の佐藤尚武さんという駐ソ大使。その後参院議長になった人ですが、長文の意見具申を送っていた。これはもう敗戦必至だ、とにかくそういう前提で.....と切々たる意見具申だった。あれは色々な在外の意見具申の中でも、歴史に残る意見具申として有名です。前段は何でしたっけ。
質問者 今の日本の岸田政権の、安倍政権からの変節がありましたけれども、対中外交ですね。
谷野 岸田さんのモノの仰り方は、パイデン大統領ほど乱暴ではない。日中ハイレベルの対話もいずれキチっとしなくてはならない。中国といずれは政治対話への道を目指すという事で、「習近平は暴君だ」などという発言は日本からは出てこない。日中首脳会談への道を探っておられるのだと思うのですが、どうやってそこへの道筋をつけるか。林大臣は、あの方の父君は私が目中友好会館にいた頃に会長で、私が副会長。そんなことで、林さんは若い頃から存じ上げていて、最近までは日中議連の会長だった。しかし、それだけでベタベタの親中派だ、と自民党はレッテルを貼ってしまうわけです。先ほど言ったように、王毅外交部長と訪中の話をしただけで、もう国賊のように言われました。
党の外交部会長は、草田さんが訪韓する前に予算委員会で、「総理、韓国に行って謝るなんてとんでもありません」。予算委員会でかなり時間を取ってやっていましたけれども、岸田さんは若干別の対応をされた。
今の日本国内の反中感情はスゴイ。そして一頃の反韓感情。感情的になって、しかも「歴史」を全面否定してしまう。それは駄目ですよ。日本のアジアとの「不幸な歴史」を開き直って歪曲し或いは全否定して、それをもって「日本人の誇り」を取り戻そう、と。しかし、そういう所作が、例えば欧米の有識者、アジア関係をやっている人から見れば、実はこういう人たちの所作は、ーー慰安婦の問題でも有名な右翼の評論家が大きな新聞広告を出して評判になりましたねーーそういう所作が、第三者からみれば、最も深いところで「日本の民族の診り」を傷つけている。「謝る」という事ではないのです、これは散々やってきた。要するに歴史を歪曲する・否定する、今や謝罪はメインテーマではあるべきではない。歴史の歪曲・否定というのでは世界の中で勝てない。ドイツはそこを見事にやった。
ただ日本と違うのは、ドイツはアデナウアーにせよ、ナチスの時には外に出て抵抗した人たちです。それが戦後の西ドイツの国政の中枢に帰って来た。だから、スパッと「過去」を切れた訳ですし、歴史教育の問題もしっかりしている。ベルリンに行かれたことがある方はご存知でしょうが、日本でいえば銀座のど真ん中のようなところに多くの石材がおいてある。それはナチスの機性者の慰霊のためです。プランデンブルクの門から少しのところです。日本はとても無理でしょう。なぜなら戦前、国政の中枢にいた人、満州の経営の最前線にいた人たちが、戦後の国政の中枢に入って来た。だから、ドイツと違って、「歴史」をそのまま引きずってしまっていて、教科書問題などは(中曽根さんは立派にやられたと思うけれども)、いつも問題になった。調べてご覧になるといいと思いますよ、満州で最前線にいた人は、岸信介さんはその最たるものだけれども、彼だけではなくて、戦後間僚になった人が随分いる。文部大臣、大蔵大臣など。だからドイツのようには中々いかない。
外務省もそうです。私はよく分からないですが、外務省も欧米派が居たのでしょうが、なぜか戦後の外交の最前線で活躍した人の何人かは、戦時中ハイル・ヒトラーとやっていた人です。よく分からない。大島浩さんという人がいるでしょう。駐独大使、三国同盟を主導した軍人さんです。一昨日この人のことをNHK でやっていた。私が外務省に入った時は内田さんという人が官房長で、お嬢さんは有名なピアニストのあの内田光子さん。内田さんは大島大使の下で仕えていて、極東裁判の時は大島弁護に回る。難しい司法試験をトライして受けて、だから大島さんというのは、吉田茂さんなどとは対極の人だったらしいけれども、人を引き付けるものがあったのかなとも思います。ハイル・ヒトラーは、例えば、牛場信彦さんです。牛場さんの存在感というのは、戦後の外交で非常に大きかった。対米経済交渉など強腕でとり仕切ったなかなかの人です。外務省はどうしてそうなったのか。私も、国会でしょっちゅう、あの頃は局長答弁などというのも結構ありましたからね。土井たか子さんなんかが元気な頃で、例えば「局長、南京事件、認識を述べよ」というようなことを質問してくる。僕などはどうでもいいのですが、歴代の総理・外務大臣の判で押したような答弁、「あの時代の歴史についての評価は後世の史家に委ねる」、それを絶対に超えてはいけない。リベラルな鈴木善幸さんでさえ、そう言わされていた。
ところが、私がお仕えした中山太郎という大臣、この間亡くなってしまったけれども、外務委員会で「日本の朝鮮半島の植民地について、あれは誤りであって申し訳なかった」とか言って、僕は中山さんが席に帰ってこられたから、「ずいぶん思い切った立派なことを仰られましたね」と言ったら、「いや、谷野くん、俺は昔大阪で医者をやってとったんだ。あの時は大阪には朝鮮の在日の人が多数住んでいて、いかにこの人たちが戦後苦しい思いだったのかを自分で知っていたから、ああいう答弁が自然に出てきた」と言っておられました。しかし、それまでは堅かった。「後世の史家の評価を待つ。」と。
すみません。長い間お付き合いありがとうございました。
司会 もう一度、谷野作太郎先生に盛大な拍手をお願いします。本日は誠にありがとうございました。
※以上は、研発会の当日、時間の制限もあって省したところを、研究会のあと、報告者が補筆したものである。
谷野作太郎(たにの・さくたろう)
1936年生まれ。1960年東京大学法学部卒業後、外務省入省。中国課長、
内閣総理大臣秘書官(鈴木内閣)、アジア局長、内閣外政審議室長を歴任後、駐インド兼駐ブータン王国大使、次いで駐中国大使。2001年退官後は早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授、財団法人日中友好会館副会長などを経て、現在、日中友好会館顧問。著書に「中国・アジア外交秘話』(「中国・アジア外交秘話」東洋経済新報社)、「外交証言録 アジア外交 回顧と考察』(岩波書店)、「アジアの昇龍一外交官のみた躍進藤国」(世界の動き社)など。
FORUM-2 に収録
「緑友」編集委員からの御依頼で、「附中の思い出」を六〇〇字で語ってくれとのこと。困りましたね。附中の思い出、あれやこれやあって、とても六〇〇字で語れるものではない。
でも、今、思い返してみると、あの頃(昭和24年~26年)の附中は、諸事定まらない、いうなれば歴史で言うところの国生み、創世の時代、おそらく、今日と違い、こうるさい学習指導要領の類もなかったのでしょう。
そんな中、例えばコマッちゃん(小松喬生先生)の数学の授業。小学校を出たばかりのボクたち、ワタシたちガキ相手にいきなり、ビブン、セキブンだものね。でも、学内には、「数学班」というものがあって、特にここに巣くう女子たちは、それにしっかりついて行ったようでした。
ボクなんかは、黒板にxやyの字が記されるだけで、頭がクラクラしたものですが。
国語の八木徹夫先生、ファンが多かったですね。そういえば生徒の何人かがお宅に伺ったところ、その超清貧の生活ぶりにびっくり、みんな感動して帰ってきたものです。八木先生、教室に現れるや、大声で「本を仕舞え、紙を出せ!」と。漢字のテストです。
女性の先生の中には、継ぎ接ぎ(つぎはぎ)の当たったセーターをお召しの先生もいらっしゃった。英語の先生。この先生の英語(アメリカンイングリッシュ)の発音はピカイチだった。その後、退職されてかなり経ってから何人かでお目にかかる機会があったのですが、「私、この歳で、一度も外国に行ったことないのよ」と。
そう、コマッちゃん(小石川のあるとある家の屋根裏にお住まいだった)、今でも覚えているのは、私たちの卒業式の当日、式場で、「君たちを手放したくない!」と人目をはばからず号泣。PTAたちが感動したのなんのって。先生方の教育、生徒たちに寄せる情熱だけは確かなものでした。
他方、これに対する生徒の方は、中には猛者もいて、冬のある日、教室には寒風が吹き込む中、教室のベニヤ板をひっぺがして、ストーブにくべ、暖をとった。勿論、バレて大目玉をくらいましたがね。
3回生、コロナの前は、気の合った仲間で旅行に行ったり、飲み会に赴いたり。でも、われ等の仲間、男性の方は、さすが、身体のそこかしこの不調を訴える向きが少なくない。
他方、女性の方は、概ね皆、元気。なかには、何回も、階段から転げ落ちたり、道で大転倒、大怪我をしたりする向きも少なくありませんが、その後の回復力は速い。男性と女性、どこが違うのでしょうかね?皆さんの期はいかがですか?
(「緑友」2022年3月号「附中の思い出」から許可を得て転載しました)
霞関会会報2022 12
No.920, pp.7-10
ー、昨今の世の中は、長期にわたるコロナ禍は言うまでもなく、外にあってはウクライナ戦争、内にあっては安倍元総理への狙撃と落命など誠に多事多端の情況にあります。
一年ほど前のことにはなりますが、私が往時、インドに駐在していた頃の大使館の「戦友」(今、欧州駐在大使の任にあり)が手紙を寄せ、懐かしげにインド時代のことを振り返りつつ、「コロナ禍の下、大使、大使館として期待される活動もほとんど出来ない。このまま、定年、退職を迎えるのかと思うと…...」という切々たる内容でした。恐らくこうしたウツウツとした心情は何もこの人だけでなく、世界中に駐在する多くの大使方、総領事方が共有する思いでしょう。あらためて、この面においても、コロナ禍の罪の深さを思い知った次第です。
そんな中、以下、私が現役時代に深い縁を得た中国と韓国について、両国の日本との関係も含め、これもウツウツとした思いを抱えながら、私の思いの一端を書きつらねてみたいと思います。
二、先ず中国について
(一)外務省現役時代、事務方の一員として長年、「中国」にかかわって来た者として、近年の中国の変容、それに伴う日中関係(とくに政治、外交関係)の悪化、劣化は残念でなりません。
中国の政府関係者(外交部など)によると、「中国の対日政策は全く変わっていない。変わったのは、一方的に中国を悪者に仕立て、官、民、メディアあげて反中を煽る日本の方だ。」と言うのですが、勿論、これはとんでもない一方的な言い草です。
中国の発展自体について、私たちは何ら異存はない。しかし、その道筋は、日本も含め、アジア、世界から支持され、祝福を受けるものであって欲しい。しかし、現状はどうか。南シナ海、東シナ海での立ち振る舞い、香港、台湾への対応、透明性を欠いたまま膨張を続ける軍事費(もっとも、これは今に始まったことではありませんが)、そして、日本周辺での軍事活動の活化、…...。賢明な本会報の読者諸賢には、そのいちいちについて説明の要はないでしょう。世に言う中国の「戦狼外交」、その下での中国の大使館、総領事館のホームページも、中には大変ひどいものがあります。
今年は、日中(中日)国交正常化五十周年。日本では、ここに来てようやく各種の記念行事が開催されつつありますが、これも、今の情況では一過性のものに終わりかねません。
そこで、私たちは(日本も中国も)、ここであらためて、五十年前、両国の国交正常化交渉を通じ、当時の両国の政治の領袖たちは、何を語り、何を約束したのか、ということを思い起してみたいものだと思います。それは、
(イ)日中両国の平和・友好・協力関係は、両国の利益であり、アジア、世界の利益である。
(ロ)日中両国は、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えない(日中共同声明第六項)。
(ハ)日中両国は、アジア・太平洋地域において、覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国、あるいは国の集団の試みにも反対する(日中共同声明第七項)。
(ニ)歴史を鑑として未来を拓く。
というものでした。
これらは今日なお、いや今日のような日中(中日)関係であるからこそ一層の重みを持つ言葉だと思います。「反覇権」ということは、時として、ひとりよがりになりがちな世界の大国を拘束するという上でも、有益なメッセージでしょう。
このこと(「反覇権」)についてはこんなことがありました。かなり前のことになりますが、中国外交部のある高官と面談の折、私の方からこの「反覇権」という考え方は、アジアにおいて今なお有効なのではないか、アメリカに対するアジアからのメッセージにもなると述べたところ、先方から「タニノタイシ。あの時、我々が「反覇権」、「覇権反対」と言い立てたのは、専らあのソ連が念頭にあったということは、あなたもご存知のはず。
そのソ連邦が崩壊した以上…...」と、今や、「反覇権」は用済みと言わんばかり。相手は、外交部で比較的モノ分りの良い人と思っていただけにこれにはびっくりしましたね。
私は、今あらためて、昔、この件で鄧小平氏が述べていたことを思い出しています。
一九七八年、日中平和友好条約交渉の時、「反覇権条項」をめぐってもめていた時に、鄧氏は、「”反覇権条項”は、将来、中国が覇権国家にならないためにも必要なのだ」と渋る日本側の説得に当たっていた、ということ。
その都小平氏は、一九七四年の国連総会でこうも述べていました。
「中国は、覇権国家にはならない。もし、中国が覇権国家になったならば、世界の人民は、中国人民と共に、その覇権国家を打倒すべきである。」
党の指導幹部終身制の改革を実現したのも鄧小平氏でした。今、鄧小平氏は下界の情況をどう見ているのでしょうか。
(二)私は、日中両国の関係について、あらためて二つのことをお話ししたいと思います。
第一は、故周恩来総理が中日(日中)関係のガイドラインとしてよく口にした「小異を残し、大同に就く」(求(大)同、存(小)異)という言葉です。
ちなみに、日本ではよく「小異を捨てて、大同に就く」という言い方がされます。しかし、そのような言い方は、本家、本元の中国にはありません。「小異」は残る、残す(「存小異」)のです。とくにむずかしい外交交渉の末、お互いに七十点、八十点ぐらいのところで妥協して得られた「合意」には、そのようなものが多い。日中、日韓の関係には、そのようなものがいくつもあります。
ところが、近年、その「小異」を日中(或いは日韓)双方でいたぶりこれに双方のメデイアも参戦し、国民感情も盛り上がるという風がある。大切なことは、残った「小異」を双方で用心深く管理しながら、より高みにある「大同」に就くということだと思います。
後段でお話しする日韓関係のうち、二〇一五年に得られた慰安婦問題についての合意(決着)のあと、私は、よくこのことを思ったものです。あの時、「不可逆的」、「最終決着」という言葉が日本側でよくよく使われました。これをタテにとって、今後はこの問題で何を言っても、何をやっても(やらなくても)よいのだという当時の風潮が気になった次第です。
もっとも、この件については、その後、折角得られた合意を一方的に反故にした文在寅政権のやり方こそ、大いに責められるべきなのは言うまでもありませんが。
第二は、日中関係について日本の政治家方が語る時、枕言葉としてよく使う「日中両国はお互いに引っ越しできない関係なのだから」という言い方です。今のような情況の両国関係の下、そうおっしゃりたくなる気持ちも分からぬではありませんが、話の冒頭にそう言ってしまっては、そのあと少しは前向き、建設的なことを言ってみても、聞いている側にはすんなりと心に落ちない、メッセージとしても萎えたものになってしまいます。
「お互いによい隣人を得たものだ。だから双方力を合わせて.....」、今すぐそのように言えなくても「引っ越しできない隣人同士」という言い方をもって日中関係を語ることには、ひっかかるものがあります。ちなみに、
このことは日韓関係についても同様です。
(三)厳しい日中関係ですが、それでも両国の経済関係は少なくとも数字の上では引き続き順調に伸びているようです(このことは、中国と欧米との関係においても同様)。今後、「経済安保」の中でのビジネスパートナーとしての中国の位置づけという難題が控えていますが、そんな中、これまでのところ、日中経済関係は貿易、投資の面で引き続き高い水準を維持しているようですし、日本企業の海外拠点数も中国が一位。日本企業にとって中国は、現在、今後とも依然「稼ぎどころ」としてナンバーワンということのようです。そんな情況の下、過日(九月末)、日本の経済界の首脳方が中国の李克強首相とオンラインで会談し、双方は、日中の政治、外交関係が冷え込む中、日中両国は重要なパートナーであるとの共通認識の下、貿易や投資の促進などで関係を深めて行くという方針で一致したという報道がありました。中国は、この種の経済界との対話は、欧米とはつとに、かなりひんぱんにやっている。そこに、ひとり、日本の経済界の姿だけが見えない(垂駐中国大使の談)と私も聞き及んでおり、今のような日中関係の下、日本の経済界の重鎮方はどうして声をあげないのだろうか?(この点は、韓国との関係でも同様)と思っていたものですから、遅きに失した感はあるものの、ほっとした次第です。
ところで、ある日本の経済人が、「かつては、中国は日本製品を分解して学んでいたものだが、今度は、日本が中国から学ぶ覚悟が必要だ」とおっしゃっていることを、これも新聞報道で目にしました。たしかに、日本にとって中国は上から目線でなく、水平協力、標語的に言えば、「共創(いたずらに競争ばかりでなく)、共鳴(お互いに刺激し合い、メロディを奏で合う)」の時代にとっくに入っていることを我々は認識すべきです。
(四)最後に、最近しきりに話題になる「台湾問題」についてひと言。
五十年前、日中国交正常化の折、当時の大平外務大臣が述べたことは今日なお依然として有効です。それは、「中華人民共和国と台湾との対立問題は平和的に解決されることを希望する」ということ。
なお、大平氏は一九七三年の国会で、「台湾問題の政府統一見解」の中で、前段において、同じ趣旨を述べたうえで、後段では「この問題(中華人民共和国と台湾の対立問題)をめぐっての日米安保条約の運用については、わが国としては、今後の日中両国関係を念頭において慎重に配慮する所存である」とも述べています。
そんな中、今日の情況は、中国側が台湾に対し「嫁に迎えたい」、「早く“中国”という一つの姓で家庭を持とうよ」と迫るのに対し、台湾側は「今のようなあなたではいや!」(約五割の現状維持派、或いはこれに近年増えてきている三割強の独立志向派を加えると計九割弱、これが今の台湾住民の圧倒的民意)ということになります。それを押し切って、強引に事を進めようというやり方は、「力による現状変更に反対する」という黄金律を盾に国際社会は決して許さないでしょう。
日本では連日のように「台湾有事」の字句が新聞紙上踊る昨今です。「台湾有事」は「日本の有事」とも。北朝鮮の情況も含め、日本を取り巻く安全保障の環境が厳しさを増す折から、日本としては、国の守りをしっかりしたものにすることは勿論ですが、それと共に台湾問題については、「有事」という事態を回避するためにはやはり、ここは日本として「外交」の出番です。それは、米中対立の狭間で、"Don't force us to choose between the U.S. and China”と呻吟するアジアの多くの国々、そして「台湾有事」となった場合、その最前線に立たされる沖縄の人たちの願いでもあります。ウクライナ停戦に向けての中国の役割を期待する声も強い。先に(八月)、中国の天津で、秋葉国家安全保障局長と中国の楊潔篪政治局委員(外交担当)の間でじっくり時間をかけた会談が行われたことは(若干、遅きに失した感はありますが)結構なことでした。
ちなみに、ウクライナ戦争を契機として、あらためて、国連の改革、強化の必要性が叫ばれていますが、実は、この点に関して、日本と中国の間で、一九九八年、あと味の悪さを残したあの中国国家主席、江沢民氏の日本公式訪問の際、認められた共同宜言の中に「(日中)双方は安全保障理事会を含めた改革を行うことに賛成する」(傍線、筆者)と明記されています。またあの時は、中国との関係で、日本の国連安保理常任国入りが最も近づいた時でもありました(中国外交部高官の内話によれば、実はあの時、中国側は、日本の国連常任理事国入りを支持するという案を内々、懐に入れていたのだが、「歴史問題」についての日本側の大変固い対応に会い、結局相討ちになった。残念だったと。一寸、じ難い話ですが。)。右の共同宜言の部分、中国側は、この立場を今も変更がないのか、一度問いただしてみたいですね。
いずれ本年中にも日中首脳会談への道が開かれることを期待しています。
令和四年九月二十六日記
(安倍元総理の国葬を翌日に控え)
追記:その後、中国では、第二十回共産党大会が開催され、習近平氏が予想通り引き続き当総書記を続ける中、その下での共産党中央の新しいリーダーたちが選出されました。そこでは、習近平氏の忠臣たちが選ばれ、他方、大方の予想を裏切って、李克強氏(国務総理)、胡春華氏(副総理、改革派のホープ)といった人たちが、引退に追い込まれるなど、正直なところ、「習氏はここまでやるか!」というのが大方の感想でしょう。
新しい党中央のリーダーの顔ぶれについては、これからの中国にとって一番大切な「経済」について、この分野を熟知した経験もある人材が一人も見当たらない、ということが早くも日本のチャイナウォッチャーの間でとり沙汰されています。
私が、あらためて思うことは、党中央の新しい顔ぶれ、とくにその中の「七人のサムライ」(党政治局常務委員)の中に日本の政治家が人脈を持っている人が一人もいない、ということです。これから少なくとも、今後五年間、日本は隣国として習近平氏の下の中国とつき合ってゆかなければならないのに、と心配がつのります。
往時の大来佐武郎さん、宮崎勇さんといった方々の朱鎔基さん(国務総理)との濃密な関係、或いは、私が北京で勤務していた頃の野中広務さんと曽慶紅氏(政治局常務委員、ナンバーファイヴ)のこれまた密な信頼関係、これをベースにお二人にいろいろと力になっていただいたことをなつかしく思い出す次第です。
谷野作太郎
元中国大使・駐韓国公使
霞関会会報 2023 01
No.921, pp.10−12
三、日韓関係について
(一)日中関係と日韓関係。私は、日中関係はお互いに国柄、国の統治の仕方も違うし、頭体も大きい。中国の軍事力も半端ではない。そんな中、これからも各種の摩擦、紛議、はたまた時として対立も避けられない。従って成績表で言えば、今後も目指すところは、B+ぐらい。しかし、それでもお互いの利益のため、これがB-、C+、C-…....とどんどん悪くなって行かないように間断なき対話を進め、双方の努力を通じ、共通の利益に視点を定め、これをB+のレベルに維持して行く(今は特に政治、外交関係はC-)ということではないか。特に政治がとかく移ろい易い「世論」なるものに流され、易きに就き、これに身をまかせるのが一番よくない、と成績表のこともふくめ内々思って来ました。
他方、これにくらべ日韓関係の方は(「世論」云々のくだりは同じですが)、よく言われるように日本と韓国は自由、民主主義、法の支配.....といった基本的価値観を共有する間柄、従って、今のようなCレベルの関係に落ち込んでも、お互いの「政治」の意志がしっかりさえしていれば、これをA-くらいのレベルに持ち上げることはそう難しいことではないのではないか、と思って来ました。
今、両国関係が抱える旧朝鮮半島出身の労働者の問題、慰安婦の問題など「歴史」に起因する問題、そして竹島(韓国側は「独島」と言ってますが)のことについてもそのように思います。更に、日韓には共に対応しなければならない北朝鮮の核、ミサイルの脅威という今日的問題もあります。
韓国の新政権、とくに尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の韓日関係改善にかける気持ちには強いものがあるように見受けられます。また、この度着任した新駐日大使の尹徳敏(ユン・ドクミン)氏も、韓国のジャパン・スクールのゴッドファーザー的な存在、日本の各界の人脈にも幅広い友人を持ち、熟達の老外交官、この人の手腕にも期待しています。
しかし、そう述べたうえで、今の韓国の国内情況を考えると事はそう簡単ではない。
第一は韓国の国会のねじれ情況。議席数は与党の一ー五に対して、最大野党は一六九と単独過半数で、この情況は二〇二四年五月まで続きます(解散なし)。
そのような情況の下で、野党は新政権の諸施策に対しことごとく足をひっぱるという挙に出るでしょう。とくに対日政策というセンシティヴな問題について協力の姿勢をとるとは考えにくい。
第二には、韓国特有のこととして、各種の市民団体の存在。慰安婦の問題については正義連(元挺対協)という団体が有名です。そして、その市民団体の多くは、反政府、反権力。「ここに火がつくと、もうお手上げだ」と韓国の外交部の人たちも嘆いています。
そんな中ではありますが、両国の政府当局(とくに外交当局)は対話を重ね、諸々の件案について何とか今の迷路に迷い込んだ日韓(韓日)関係をそこから救い出してほしいと願っています。その意味で、過日ニューヨークで岸田総理とユン大統領が短い時間ではありましたが懇談し、両国は今の苦境を脱する方向で努力するという「政治」の意志を確認したことは結構なことでした。
(二)ところで、この際、折角、韓国についてお話しする機会を頂いたことを利用して、別の話題になりますが、私が長きにわたるコロナ禍の中、すっかりはまっている韓国の映画について、本会報の読者諸賢に対し、私がお薦めする作品を以下にご紹介します。もっとも、日本でも人気の朝鮮の宮廷ものについては、筋立ては面白いものの、面白くするために造り話も多いとのこと。「史実」と「造り話」が混在する中で、混乱させられるのはたまらぬということで、私は全く見ていません。他方、韓国の社会派映画(現代の韓国の政治、経済、社会)は、日本の映画評論家の間でも、社会派映画となれば、今や韓国のものが一番とさえ言われています。以下、順不同ですが.......。
(イ)「第五共和国」
これは、二〇巻に及ぶテレビドラマの大作です。ちなみに“第五共和国”とは、全斗煥大統領時代のことを言います。その後、これを継いだ盧泰愚大統領は韓国の民主化に大きく舵を取り、憲法も大きく変えました。したがって、その後の韓国(大統領としては、盧泰愚、金泳三、金大中、盧武鉉.....)は、憲法は同じ憲法なので第六共和国ということになります。
ちなみに、盧泰愚大統領のことは、この「第五共和国」のドラマにも全斗煥大統領に仕えた軍人盧泰愚として、多くの場面で顔を出します。
話は脇にそれますが、盧泰愚さんについては、すでに次期大統領としてほぼ決まっていたある日、ソウルの大使公邸にお招きしたことがありました。先方は、盧氏お一人。と、宴たけなわに達した時、盧氏は突然、(今夜は愉快だから)高峰三枝子の「湖畔の宿”を歌いたい、と。びっくりしましたね。当時、韓国では、街中のカラオケバーではともかく、表立ったところ、公演などでは、日本の歌曲はご法度、それに盧氏は次期大統領と目される人。そして、場所は日本大使公邸。そこであわてて料理のサーヴに出ていた韓国人のボーイたちに席をはずしてもらい、一同で盧氏の絶唱を拝聴した次第でした。
この人は、大統領となってからは「ノ・テウ」ならぬ「ムル・テウ」(水のようなつまらぬ人)、個性もない人などと陰口をたたかれたものですが、大統領になって、それまでの強権政治を廃止し、民主化をなしとげ、外交面でもソ連、東欧諸国との国交正常化を実現し、南北朝鮮の国連加盟も実現した。「ムル・テウ」などと言わないで、もっと評価されていい人だと思います。もっとも、大統領を辞めたあとは、この「第五共和国」でもそのシーンが実写で出て来ますが、不正で全斗煥氏ともども牢につながれましたが。
(ロ)「一九八七 ある闘いの真実」
これもある実話をベースにした作品。お忙しい向きが韓国映画どれかひとつ、二つだけとおっしゃるのであれば、私のお薦めは、これと「第五共和国」の第一巻。一九七九年、朴大統領が遺恨をもった中央情報部(KCI
A)部長に暗殺されたあの悲劇的話が中心です。秘密の宴席で、二人の女子学生にギターを弾かせながら寂しげに韓国のポピュラーソングを歌う朴大統領の姿が印象的。この悲劇的事件を伝えられた長女の朴槿恵さん(後に大統領に)の発した最初の言葉が「三十八度線は大丈夫ですか?」ということだったことも有名です。
ところで、この「一九八七 ある闘いの真実」は、一九八七年、韓国の警察当局が延世大学の学生を拷問死させた事件が基になっていますが、ちなみにこの事件の場は、何と、ソウルの日本大使館の裏方にあたるところ。
当時、私はソウルの大使館に勤務していたのですが、少なくとも私は、大使館の近くでそんなおぞましい事件が起こったということは、その際は知りませんでした。
今、この警察当局が置かれていた場は、記念博物館(拷問の場もそのまま)になっており、数年前、訪れたのですが、折悪しく休館日に当たり、入ることができませんでした。
この映画にも韓国の著名な政治家、金泳三氏、金大中氏らが出て来ますが、俳優たちは、あまりそっくりさんではありません。
なお、先頃、都内の映画館で上映され、なかなかの作品と評判をとっていた韓国の政治をテーマにした映画に「キングメーカー 大統領を作った男」という金大中氏のことを題材にした映画があります。同氏が大統領の座を射止めるまでの手練手管の数々、もっともこれを弄するのは選挙参謀の人で、金大中氏自身は、これに首をかしげつつ、距離を置き続けたという筋立てになっていますが…...。
私は外務省からハーバード大学(CFIA:Center for International Affairs)で一年間、ゴールデン・イヤアーをいただいた(一九八三~八四年)折、彼とは同じセンターのフェローとして夫婦ぐるみのつき合いでした。その後、韓国へ転勤となったのですが、韓国では彼については、個々人の政治的信条を離れて、その人となりについて良く言う向きは大変少なかった。手練手管を弄する、平気でウソをつく…...と。私はこれに対して「それはそうだろう。日本での誘拐など、あれほどの怒とうの人生を生きのびて来た人なのだから......」とかばったものです。その後本省勤務となり、ソウル出張の折、彼の自宅で夫人(故人)の手料理の焼き肉などをごちそうになったことをなつかしく思い出します。
(ハ)「タクシー運転手 約束は海を越えて」
「光州5・18」
いずれも、あの痛ましい光州事件(一九八〇年五月)を題材にしたものです。前者でタクシー運転手を演ずるのは、先の「ベイビー・ブローカー」(是枝裕和監督)で、カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞した、今や韓国を代表する国際的大スター、ソン・ガンホ。ストーリーは実話で「何か、おとなりの韓国の光州で大変なことが起こっているらしい」と東京駐在のドイツ人ジャーナリストが韓国へ飛び、同記者を光州まで乗せたタクシー運転手(ソン・ガンホ)の助けを得ながら戒厳軍の妨害を受ける中取材を続け、何とか無事ソウルを経て東京に帰ったくだんのドイツ人ジャーナリストが東京から光州事件の痛ましい実情を世界に向けて発信する(映画の最後の方で、まだ存命中のこのドイツ人ジャーナリストが顔を出します)という筋立てです。
「光州5・18」は、まさにその光州事件の一部始終を描いたもの。事件は、のちに大統領になった全斗煥陸軍少将が全土に戒厳令を敷く中、主導した。全斗換氏は、晩年、裁判でこの事件についての責任を厳しく問われることになります。
以上は、韓国映画の話でしたが、韓国の歌の世界もすごい。今こそ、KPOPが世界を席巻していますが、私が韓国に勤務していた八〇年代は、もっぱら韓国版演歌が主流でした。
朗々と歌い上げる韓国演歌、日本でもよく歌われた「釜山港に帰れ」などです。
歌手たちの歌唱力も半端でない。韓国にも、年末「歌合戦」がありましたが、NHKの「紅白歌合戦」と違って舞台造り、歌手たちの派手なふるまいなどは全くなく、地味な舞台で、専ら歌い上げる。聞かせる。NHK
の紅白歌合戦に出演したチョ ヨンピルさんなどは日本でも有名です。日本で著名な歌手の人たち、実はこの人たちの何人かは祖先は韓国半島らしいと言われる所以です。
韓国の人たちは、根明かで(良い意味で)ずぼらで、歌うことが大好き。
韓国は極東のイタリアと言われる所以です。
(三)再び今日の韓国に立ち戻って。日本は、今や一人当たりのGDP、企業の初任給といった面で、韓国に水をあけられつつあります。外国への留学数も半端ではない(日本は澱滅)。しかし、その結果、今日の韓国社会は「競争、競争」と息のつまるような社会になってしまったようです。その辺の両様の韓国社会の現状について道上尚史大使(韓国で五回、計十二年勤務した外務省きっての韓国通。現在、在ミクロネシア連邦大使)は、近著「韓国の変化日本の選択」(ちくま新書二〇二二・八)で思う存分語っています。一読をおすすめします。
令和四年九月二十六日記
(安倍元総理の国葬を翌日に控え)
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佐藤純子 元諮問委員に聞く(聞き手 谷野作太郎 元駐中国大使)
日中友好会館 2024・01・31 発行
当会館の佐藤純子文化事業諮問委員は、1957年に日本中国文化交流協会に入職され、爾来現在まで日中文化交流の最前線で活躍されておられます。私ども会館の役職員は、折に触れて佐藤元諮問委員から、同氏が敬愛する周恩来元総理の思い出、日中国交正常化のために両国文化人が果たした役割、同氏が北京訪問中に起こった天安門事件の体験などについて大変に興味深いお話を伺ってきました。
これらは、現場の当事者しか知り得ない生々しい体験談であると同時に、日中双方の多くの先人達が如何に両国関係の改善のために努力したかを示す記録でもあると考えます。
このため、当会館の谷野作太郎顧問の発議により、佐藤元諮問委員より改めてお話を伺ったうえで、これをインタビュー形式の記録として後世に残すこととしました。現在と今後の日中関係に従事する方々が、先人達の思いと貢献を知り、これからの仕事の参考として頂ければ幸いです。
話者の紹介:
1934年、山形県鶴岡市生まれ。現在、日本中国文化交流協会理事。2011年より 2023年まで日中友好会館「文化事業」諮問委員。
1957年から日本中国文化交流協会に入職し、事務局長、常任理事、専務理事を歴任。70年にわたり、日本と中国の文化交流の促進に尽力。
1936年、東京都生まれ。現在、目中友好会館顧問。
1960年、外務省入省。第10代日本国駐中華人民共和国特命全権大使(1998年5月~2001年3月)。日中国交正常化、平和友好条約締結、平成時代の天皇皇后御陛下のご訪中など、外交の舞台裏に精通。
第1回(2023年5月24日)
谷野:今日は日中文化交流協会の創設直後から、長年お勤めの佐藤さんにお越しいただいて、お話を伺おうと思っています。
日中文化交流協会は、日中友好団体、そのうちの一つです。歴史的には、国貿促や日中友協のように大変古い歴史を持っています。56年に中島健蔵さんと千田是也さん等が設立されたと伺っています。
お仕事としては日中文化交流全般、文学、映画、演劇、舞踊、美術、写真、書道等、いろいろと幅広い多くのところに日々関わってこられたわけです。
まず、この交流協会にお勤めになるに至った経緯、その中で佐藤さんの周恩来総理への熱い思い、そのあたりの話から、よろしくお願いします。
佐藤:私が日中文化交流協会という団体に勤めることになった経緯ということですね。
実は私の生まれは東北の山形県です。私は1934年の生まれですけれども、その時代はまさに戦争の時代で、大体、親や兄弟が兵隊に行くという時代でした。ですから、私の少女時代には、中国という国は日本の人が兵隊に行く国というような印象でした。けれども、幸いなことに、私の父も、私の周辺にいた人も、誰も兵隊に取られなかった。そういう状況が一つあります。ですが、中国というのは身近なものではないけれども日本の兵隊が行くところだと。兵隊を送るために、駅で「万歳、万歳」という時代でした。みんな中国へ行って、戦争が終わる頃には白いお骨になって帰ってきて、それを迎えに行く。そういう時代でした。だから、中国という国は日本と戦争した国だということしか知らない少女でした。
そのまま成長してしまって、中国はあまり身近に感じていなかったのですが、ちようど大学に入って2年生の時に、1954年だと思います。渋谷の映画館に映画を見に行きました。それは外国映画で、題は忘れましたがラブロマンスのような映画を見に行ったのだと思います。その当時、本編、劇映画をやる前に、必ずニュースというものをやっていたのです。
谷野:ありましたね。
佐藤:ご存じでしょう。国際ニュースや日本ニュースというものです。
その時に、1954年の何月か忘れましたが、文献を見れば分かると思いますが、ジュネープ会議というものが開かれたということが国際ニュースで出たのです。当時の国連の事務総長のハマーショルドという人が、ジュネーブ会議のことについて談話を発表するというニュースでした。
ジュネーブ会議の一番大きな問題は、第2次世界大戦の戦後処理ですよね。インドシナなどが次々に独立して、つまり第三世界というものが独立していくという節目の会議だったわけです。
ハマーショルドが、ジュネーブ会議は成功裏に終わったと。成功裏に終わることができた大きな力になった人は周恩来だという話をしたのです。周恩来の外交的な手腕というものが、そのジュネーブ会議が成功することに非常に大きく寄与したという話をなさって、その上に、周恩来に自分は昨日会ったけれども、周恩来にもし会ったなら、何人も自分がいかに野蛮人であるかということを感じないわけにはいかないと。それほど周恩来という人は外観だけではなくて、いわゆるスマートという言葉があるでしょう。スマートというのは日本ではとても格好いいというようなことだけにしか取られないけれども、英語そのものの Smart には、もっと深い意味があります。そういう意味で、ハマーショルドがこの言葉を使ったのです。非常にスマートな人であると。周恩来のことをものすごく評価する演説をなさったのです。
それで、そのニュース映画に周恩来の姿が映ったのです。グレーの人民服を着て、若い時に馬から落ちたということで、そのために左手がいつもこういうふうになっていて、それがまた何とも格好いい。この人が周恩来なのかと。その時、私はまだ2年生だから19歳です。こういう人がいるのかと、一挙に周恩来という人に魅せられたのです。
その時代というのは、谷野先生もご存じのように、エジプトにはナセルがいるし、インドネシアはスカルノでしょう。まだインドのネルーも生きていると思います。
54年というのは、ヨーロッパにしても政治家のド・ゴールやチャーチルがまだ生きていたのではないでしょうか。そういう時代でした。
私なんかは、政治家といえばチャーチルやトルーマンしか分からない。それが、中国という国があって、しかもそこに周恩来という人がいるということに、ものすごく強くインパクトを私は感じました。それと同時に、周恩来という人を見たために、中国というものがすごく身近に感じられたのです。それが私の中国との出会いです。
周恩来という人に、その後、自分がこういう仕事をして、5回もお会いするというとても幸せな人生だったと思います。
谷野:スマートというのは、恐らくおっしゃるように、佐藤さんは英文科だから、格好いいというだけではなくて、品格とかそういうことですね。
周恩来さんの話では、私は73年から75年まで、若い身で北京に、大使館に勤務していましたけれども、その頃の私の仕事というのは、大使館ができたばかりで、大使館の立ち上げ、運営全般を事務方で任されていたので、日中の外交の場面はほとんど同席することもなく、周恩来さんを遠くからお見かけすることはありましたけれども、彼の近くで観察するという機会はありませんでした。
ご存じのように、あの方は天津の南開学校を出て、日本に留学されて、しかし、志を遂げることもないまま京都に遊んで、帰国してすぐにフランスに渡った。そこで鄧小平さんとの出会いなどもあったわけです。
外交面では、確かにおっしゃるようにジュネーブ会議等がありましたけれども、ジュネーブ会議で反共の闘士、ダレス国務長官が周恩来氏との握手を拒否した話は有名です。その後も米中の国交正常化に向けてのお仕事、日本との関係でも田中総理の訪中を取り仕切った。文化大革命の最中では、どろどろした権力闘争の中で、いろいろ苦渋、苦労された方ですけれども、何とか目中正常化実現の後、もう一回日本にお迎えしたかったと思いますが、それがかなわなかったのは非常に残念です。
話は戻って、中島健蔵さんのことを少し。
日中文化交流、あるいはその中でも文化交流協会の話をする時に、この中島健蔵さんの存在は欠くべからずかと思うのですが、どういうことを思い出されますか。
まずは、中島健蔵さんというのはフランス文学者であり、翻訳家であり評論家、中国にはあまりご縁がなかった方ですが、設立以来、この日中文化交流協会の最高責任者になられたことは、どういう経緯があったのでしょうか。
佐藤:そのことをお話しするためには、千田是也という人の存在がとても大きいのです。
千田是也は 1955年に中国に行きます。その頃、憲法擁護国民連合という組織があって、片山哲という人がその憲法擁護国民連合の会長だったのですが、俗に護憲連合と言っていました。その団体が中国に行くということで、千田さんがそのメンバーの一人として1955年に中国に行ったのです。
そこで劇的なことが起きるのです。千田是也と廖承志との再会です。再会というのは、1930年代に廖承志も千田是也もドイツで勉強していたのです。その頃ドイツに行った人はたくさんいて、例えば後に中国の対外友協の会長になる王炳南や章文晋、みんなその時代にドイツで勉強していました。しかも、千田さんと慶承志は、ただ同じ時期にドイツにいただけではなく、ドイツ共産党に2人とも参加するのです。ドイツ共産党アジア部というところに2人とも属していたらしいです。
その当時の話は千田さんからよく聞いたのですが、共産党でも身分があると。共産党はみんな平等と言っているけれども、ドイツの共産党でも、アジア人の僕や廖承志は差別されたという話を聞いたことあります。だから、ドイツ共産党のアジア部の人たちは、ものすごく辛い仕事をさせられたと言っていました。ですから、その当時からの同志なわけです。
ご存じのように、廖承志は大変良家の息子です。廖仲愷の息子ですし、お母さんは有名な画家の何香凝です。その当時にドイツに留学するというのは大変なことで、財政的にも格式が高い家だったわけです。千田さんもやはりそうで、長くなるからあまり話しませんけれども、その時にドイツで一緒だったわけです。
それが30年代ですから、55年に北京で再会したのは二十何年ぶりになるわけです。2人はお互いに抱き合って、しかも、その間に戦争を挟むわけでしょう。2国間で戦争をやって再び相まみえるわけですから、どれだけの思いで再会したかということは、もう想像しても胸が熱くなります。
千田是也の本名は伊藤圀夫というのですが、水戸光圀の圀です。だからみんな昔の人は、例えば中島先生も千田さんのことは「圀ちゃん」と言っていました。私はなぜかなと思っていたら、本名の圀夫のことを言っている。だから、承志も「圀ちゃん」と言って2人で抱き合った。そこで、周恩来の命を受けた廖承志が、日本と中国との文化交流を専門にやる団体を立ち上げたいという話をしたそうです。
1949年に中華人民共和国が成立されて、翌年の1950年に日中友好協会が成立します。日中友好協会の初代の会長は社会党の松本治一郎という人です。日中友好協会しかないわけですから、中国との交流は日中友好協会がやっていたわけです。それから 1954年に今度は国貿促ができる。
日中文化交流協会は56年ですから、その間、49年に中国が成立されてから、ご存じのように初めて中国の土を踏む日本人は1952年、帆足計、宮腰喜助、高良とみという3人です。貿易の話で、戦後、新中国ができて最初に足を踏み入れた3人です。
それを契機にして、やはり中国とはものすごく長い歴史があるわけですから、中国というものが、みんな近い感じになったわけです。中国に行きたいという文化界の人がものすごく増えたわけです。
その頃、50年代というのは、ジュネーブやカイロ、タシケントなどいろいろなところで国際会議があった時代です。その国際会議に、日本からも、例えば杉村春子、武田泰淳、木下順二、堀田善衛、そういう人が随分会議に参加しました。その会議に、たまたま中国の人も参加している。そこでものすごく久しぶりに再会するということも起きるのです。
例えば謝冰心は、ご存じのように児童文学者ですけれども、若い時にアメリカに留学して、ものすごく英語が上手で、戦争中は日本に住んでいたこともあって、東京大学の講師もやっていました。だから、日本とものすごく密接です。謝冰心と堀田善衛や武田泰淳は何年ぶりかでカイロで会って、ものすごく親密になるのです。
それで、帰りに中国に寄らないかと言われて、みんな国際会議の帰りに中国に寄るということがものすごく増えたのです。
例えばそういう形で行っている人は、音楽家の芥川也寸志、文学者では堀田善衛や武田泰淳、木下順二、映画の木下恵介、杉村春子もそうです。そうすると、帰つてきて旅券法違反ということになりますよね。
谷野:まだそういう時代ですよね。
佐藤:旅券については、その頃は中国とは国交がありませんから行き先国とすることはできません。どこかの国の中国機関から、ビザをもらって、中国に行ったことは旅券法違反になる。けれども、日本の外務省はものすごく柔軟で、できている始末書があって、始末書のフォームに「今後いたしません」と書けばよかったそうです。杉村さんがいつも言っていました。簡単なの、旅券法違反というとものすごく大きな罪のようだけど、何でもないのよと。「もう二度といたしません」と書いて、また行ってしまうと大笑いしていました。そういうとてもいい時代。鳩山内閣の時です。56年まではね。
谷野:分かりますね。
佐藤:鳩山さんが体を悪くして、石橋さんになるでしょう。石橋さんの時代もいい時代でした。それが岸さんになってガーッとなってしまう。
ですから、国際会議の帰りということで、中国は随分多くの人を迎えていると。やはり日本と早期に国交を回復したいという気持ちは、周恩来には猛烈にあったと思います。中国という国自体が。
脱線しますけれども、あれだけ多くの人口を抱えた国が、1949年に独立を勝ち取ったわけですけれども、いろいろな意味で大変なわけでしょう。唯一の同盟国であるソ連は、そういう意味では頼りにならない。やはり日中というのは、いろいろな意味でものすごく重要だと考えたと思います。
ですから、周恩来としては、国と国の正常化を図るためには、政治家同士だけでは駄目だと。世論というものを喚起するためには、文化交流は非常に重要だという考えだったと思います。それはとても正しい考え方だったと思います。
それで、廖承志は千田さんに二十数年ぶりに会って、実はこういう構想があるということで、民間の文化交流を専門にやる団体を立ち上げたいと思っているという話をする。それで千田さんも大賛成だと。北京に滞在中に、そういう団体を立ち上げるという協定を結ぼうとまで言われました。
千田さんはそこで、そういう団体を立ち上げるのは自分としても大賛成だけれども、誰がそのトップをやるのかはものすごく大切なことでしょう。自分は俳優座で仕事がいっぱいでそういうことはできないと。でも、そういう団体をつくろうという周恩来や廖承志の構想を聞くと、決して幅の狭い人では駄目だと。ものすごく幅の広い、求心力のある、つまり統一戦線という概念が非常に強い文化人でなければ駄目だということを考えて、千田さんは北京にいる間に、これはもう中島健蔵をおいて他にはないと思ったわけです。
そこで、千田さんは北京から中島先生に電報を打ったらしいです。こういう団体をつくろうという話が出て、自分は署名するけれども、あなたがこの団体の長になってもらえないかと。中島さんは断ったらしいです。もうそのことはよく言っていましたが、自分は中国と何の関わりもないと。人も知らないし行ったこともないと固辞したらしいです。でも、とにかく千田さんは諦めない。署名して帰ってきて、中島さんに猛攻するわけです。
中島さんと千田さんは普段からものすごく仲がよくて、中島先生が俳優座の理事をやっていて。中島先生は付属で、千田先生は一中です。谷野先生は日比谷高校、一中ですよね。この間おっしゃっていましたよね。
谷野:私は日比谷高校になってからの卒業生ですけれども。千田是也さんといっても、今の人たちは既になじみがないかもしれませんが、今のお話を伺うと、やはり協会の立ち上げの中で、まずは千田さんの役割が非常に大きかったのですね。
佐藤:ものすごく大きかったのです。
谷野:当時の一中、私たちは鼻高々だったのは、演劇界の千田是也さん、噺家の徳川夢声、或は尾崎紅葉、土岐善麿、横山大観、夏目漱石、谷崎潤一郎、大佛次郎・・この人たちは皆一中生。
佐藤:そうですね。みんな日比谷一中でしょう。
谷野:ああいう多彩な人たちを輩出した学校だったのですね。
その千田さんが日中文化交流協会立ち上げに際し、非常に大きな役割を果された。そこで、中島健蔵さんの話になると、確か戦時中、旧日本軍によるシンガポール華僑の虐殺の件を現地で知るに及び、大変心を動かされたことがあったのですね。
佐藤:そうですね。それが中島健蔵の中国というものに対する原点というか。
谷野:シンガポールを訪問されて。
佐藤:訪問というよりは、陸軍の報道班員という一種の招集です。戦時中、昭和18年かな。中島健蔵は年齢も高かったし、戦時中でも招集、いわゆる兵隊には取られないわけです。けれども、私もよく分からないですが、文化人を専門に、徴用と称してシンガポールに行かされたのです。作家の井伏鱒二、海音寺潮五郎という人たちと一緒にシンガポールにやらされた。それは陸軍報道班員ということで、仕事は翻訳というようなことをやらされたらしいです。
シンガポールに中島さんがいる時に、シンガポールで華僑の大虐殺ということがあったわけです。中島先生が、夜、シンガポールの街を散歩している時に、ある母親が自分の息子の写真を持って、この息子を知らないかと何度も何度も尋ねられたそうです。日本の陸軍は華僑の大虐殺はやっていないとしらを切っていたらしいですが、あったのは事実らしいです。
その華僑の母親の顔が、中島健蔵にとってはずっと忘れられないことだったわけでしょう。だから、戦争中も中国には行っていない、シンガポールしか行っていないわけですから。中島先生の戦争体験はシンガポールしかないわけです。そこで会った華僑の母親の顔が、後年、中国との仕事をする時の原点だと、ご自分でもいつもそうおっしゃっていました。千田先生にいくら駄目だと言っても、とにかくあなたがやってくれなければこの団体はつくれないと千田さんに言われて仕方がなく、やろうと思った原点は、その華僑の女性の顔だという話です。
それで、引き受けて、1956年の3月23日に創立総会をするのです。これがその創立総会の写真です。日本中国文化交流協会創立。
谷野:シンガポールには、ご存じだと思うけれども、虐殺の慰霊のための大きな祈念碑がありますね。私は、たまたま両陛下にお供して、当時の陛下、上皇様と上皇后様がお花をささげられて。
それで、文化大革命になる。その間にあっての周思来、一方に毛沢東、なかんずく毛沢東の夫人の江青ら四人組に対するに、劉少奇とか鄧小平、その間で非常に苦労されたわけですけれども。
今、私は時間もあって、当時の記録や、四人組の裁判の記録などを読んでいるのですが、それから江青の秘書の備忘録、回想録、すさまじい歴史だったなと思います。
佐藤:そうですね。
谷野:その中にあっての周恩来のご苦労というのは、時には文革の犠牲者になった賀竜将軍などをひそかにかくまって。
佐藤:賀竜や彭徳懐などね。
谷野:しかし、最後は米中を成し遂げ、日中を成し遂げ、しかし、その周恩来は、晩年は毛沢東に散々いじめ抜かれ、ご存じのように毛沢東は葬儀にも出てこなかったわけですから。
佐藤:本当にそう思いました。
谷野:しかし、最後の病床で、彼は、その毛沢東をたたえる歌を口ずさみながら亡くなっていったという。何と言うか、心が痛む以上に凄惨な話ですね。
そういう中で、文革で巴金や老舎など吹々と犠牲になっていく。とにかく佐藤さんの協会が、先ほど来お話しの交流の相手だった人がどんどん文革で消えていく、犠牲になっていく。それに対して、日中文化交流協会はどういう対応をされたのですか。
佐藤:ご存じのように、日本と中国は長い友好の歴史があるとはいえ、今の中国は社会主義の国ですし、文革の前もいろいろな意味での政治の時節があります。例えば58年の長崎国旗事件の時には全部交流が途絶するなど、いわゆる政治の時節というか風波というものは常にあります。けれども、文革というのは、そういうものとは比較できないほどの大きなことでした。だから、四人組というのも後から言われたことですし、文化大革命という言葉もまだないないわけです。
先ほども言いましたけれども、協会は1956年にできたわけですけれども、ものすごく文化交流は順調でした。長崎の国旗事件が58年に起きまして、貿易は全面的にストップしましたけれども、文化交流はずっと続けられました。日中文化交流協会も最初は会員が80人ぐらいしかいなくて、私は喜び勇んで、日中文化交流協会の事務所が丸の内にあるのがうれしくて入ったのですが、入っても月給がもらえないような時代が続きました。けれども、だんだん会員も増えて、とても順調に発展してきました。61年、62年、63年、65年は、これを見れば分かりますけれども、ものすごく多彩な交流ができた時代でした。
老舎も来る、巴金も来る、もう大物がどしどし来る。日本からも左派の人達だけでなく、井上靖、山本健吉などが行く。谷崎潤一郎は体が悪くて行けなかったのですが、谷崎もものすごく中国に対して熱心でした。そういうすごくいい時代でした。
けれども、65年の末頃から何となく変な感じがして、私たちと親しい中国の人が、だんだん表に出てこないようなことが起きて、でも、何事が起きているか分からないという時代、状況でした。文革が始まったのは66年からです。もう何事が起きたか分からないぐらい。日中文化交流協会と親しかった人が全部やり玉に挙がるわけです。どういうことなのか。
文化界の悪い4人という言葉がはやったのです。四条漢子(スーティアオハンズ)というのです。4人の悪者という意味らしいです。まず、周揚、有名な文芸評論家です。田漢、国歌の作詞家です。それから夏衍(脚本家)、陽翰笙(劇作家)、この4人が一番やり玉に挙がりました。
彼らも4人ですけれども、王洪文、張春橋、姚文元、江青、これは向こうの四人組ですよね。
先に述べた4人がスーティアオハンズという言い方で、最も強く非難されました。そして、この4人こそ協会と一番親しい人です。この人たちを悪人と呼ぶ、どういうことでこの人たちが悪人なのか理解できません。
これは代表的な人ですけれども、その他に老舎や巴金、映画関係の趙丹、張瑞芳、日中文化交流協会と親しい人が次々とやり玉に挙がっていく。『人民日報』を読むとものすごいけれども、どういうことなのか分からない。そういう時期でした。
今度は翻って日本の日中社会はというと、日中友好協会という団体は、こちらを支持したわけです。いろいろな論調、機関誌などを見ても。
日中文化交流協会はとてもそんなものは支持できない。けれども、今、四人組が権力を握っているわけですから、反論もできないのです。協会を解散するというならできます。でも、どういうふうに立ち回ったらいいか。周恩来は、76年に亡くなるわけですけれども、文革が始まった時にはまだ健在です。だから、周恩来がいるから良い。周恩来が倒れたらうちの協会は解散する。けれども周恩来がいる。廖承志は途中からもう消えてしまいました。そういう時代です。
谷野:解散はしない。
佐藤:解散、ということは随分話題に出ました。相手がみんな倒れてしまっていないし、この人たちと一緒に文化交流なんてできない。だから、もう解散しかないという論調も随分ありましたけれども、解散するということに一番反対したのは千田さんです。それともちろん中島健蔵です。
中島さんは自分が長ですからやはり動揺するわけです。役員会に来ても、今の中国は一体どうなのかということで、こんな国と交流をやる必要があるのかというような論調の人もいるわけです。でも、千田先生や、当時、土岐善磨という人もいい役割を果たしました。その時代に中島さんを守った、協会の中島さんを決して孤立させなかったという人たちの筆頭が文芸評論家の亀井勝一郎、それから土岐善麿。
谷野:皆さん、相当なお年でしょう。
佐藤:そう。もう最長老です。土岐先生は98歳ぐらいで亡くなりました。
土岐善麿、武田泰淳、写真家の木村伊兵衛も中島さんを支えました。もっとたくさんいますが、代表的にはこのような人たちです。協会の理事会の時に、とにかく今の中国は混乱していると。でも、千田さんがいつも言っていましたが、必ず終わると。こんなキチガイみたいな時代はそう長くは続かないと。だから根気よく待とうと。その時期を待とうと。そのためには、協会が分裂したら元も子もなくなってしまうと。
自分たちは協会がこんなにいい団体に育つとは思わなかったけれども、いい団体という一番の大きな意味は、すごくたくさんの文化人が結集しているということです。会員にいるということです。財産も何もないわけですから、人が財産なわけです。いい人が会員になって、これだけの協会ができたのだから解散するのはもったいない。まず、深く静かに、あまり目立たないようにやっていこうと。中国には反論もせず、賛成もせずという。
そういう態度に対して、やはり日中友好協会などからは、「何だ」と随分言われました。
谷野:他方、日中友好協会は確かにそういうこともあったのでしょうけれども、それに異をえる人たちもいて、協会は分裂しましたね。共産党系の人たちが反旗を翻した。
佐藤:そうです。今でも2つあります。
谷野:日本共産党は私としては、正直いろいろと違和感がある政党ではありますけれども、文化大革命にきちんとした立場を取ったのは日本共産党でしたね。日本共産党と中国共産党の和解が成立したのは、私が大使をやっていた時でした。
佐藤:そう。だいぶ後になってからですよね。不破哲三になってからでしょう。
谷野:この時、もう一つの和解、妥協が成立した。産経新聞です。この時それまで北京に支局が認められなかったのが認められるようになった。産経との和解、日本共産党との和解、二つのことが相前後してありました。いずれにせよ、千田是也さんの役割は非常に大きかったのですね。
佐藤:大きいですね。
千田さん自身が随分中国から批判されました。千田是也は、ドイツのブレヒトという偉大な劇作家の作品を集中的に日本に広めた人です。中国は、ブレヒトを文革で認めないわけです。
それと千田是也は日本の新劇を開いた人ですけれども、新劇というものの先生はやはりソ連です。モスクワ芸術座がやはり世界のメッカです。ソ連の新劇の一種のスタンダード、骨子というのは、スタニスラフスキーという人がつくり上げたシステムが新劇の教科書なわけです。そのスタニスラフスキーシステムというものを、日本にきちんと紹介したのは千田是也です。
だから、ソ連のスタニスラフスキーシステムを広めた千田さんイコール敵というふうに、もう千田是也批判がものすごくて、それが『人民日報』や『北京週報』に載るのです。私たちはまた載ったと思っても、いちいち千田先生には報告しませんでした。言ったらまた嫌な思いをさせるだけでしょう。『北京週報』なんていうのは千田先生のおうちは取っていないから、事務所しか取っていないから、言わないのです。
そうすると、そういうことをご注進で届ける人がいるらしくて、逆に千田さんから電話がかかってきて、また俺がやられているらしいと。事務局に言うには、絶対に反論を書くなと。僕自身も反論は書かないし、協会としても千田是也を批判したというような反論は絶対に書くなと。こういう時代は今に終わるから気長に待てと。
もう一人やられたのは杉村春子です。それももうばかみたいなことでした。山本薩夫という映画監督がいるでしょう。あの人は日本共産党員です。日本共産党イコール悪、共産党員である山本薩夫も悪、山本薩夫がつくった映画は駄目、こういうことです。
谷野:『戦争と人間』もそうですか。
佐藤:そう。『戦争と人間』という映画です。
佐藤:その山本薩夫のつくっている映画に出演しているのは駄目と。「戦争と人間』に杉村春子は出ていないのですが、文学座の若い俳優が出ているわけです。杉村さんはそれでやられるの。もうおかしいでしょう。今は笑ってしまうけれども。
まず、『戦争と人間』が一つです。それからもう一つ大問題になったのは文学座の芝居です。もう亡くなってしまったのですが、宮本研という優秀な劇作家がいて、この人が中国の孫文と宮崎滔天との友情を描いたものすごくいい芝居を書いたわけです。それを文学座が初演したのです。こういう芝居です。『夢一桃中軒牛右衛門』。
谷野:浪曲の。
佐藤:桃中軒雲右衛門かな。
谷野:確かそうです。
佐藤:字を忘れてしまって、何かで引けば分かると思います。後で調べます。
宮崎滔天と孫文の友情を描いた感動的なとてもいい芝居なのですが、その芝居の中に、長沙の師範大学の学生として若き日の毛沢東が、すごくいい役として出てくるのです。
その芝居が始まるという前日、杉村春子から協会に電話がかかってきました。その時、杉村さんは旅で名古屋にいたのですが、杉村先生から朝電話があって、中国大使館から文学座で明日からやる芝居を中止しろという連絡があったと。何のことかは分からないと。なぜこの芝居を中止しろといっているのか分からない。杉村春子に対して、すぐに中国大使館に来いと言われたと。でも、私は今名古屋にいてどうしようもないと。だから悪いけれども、文学座に言っても何が何だか分からないから、白土さんが私の代わりに行ってくれないかと。
協会の白土さんはご存じですか。先ほどから白土さんの名前はあまり出ませんが、千田さんや中島さんは最高指導者ですけれども、本当に私たち事務局の指導者はこの白土吾夫という人です。
それで、白土さんが代わりに中国大使館に行きました。そうしたらその参事官が、とにかくこの『夢一桃中軒雲右衛門』を中止しろと。
白土さんと私たちも、劇場で初演する前に舞台稽古を見ました。というのも、この宮本研とも私たちはとても親しかったのです。中国にも一緒に行きました。毛沢東は出てくるけれども非常にいいセリフを言うし、いい出方をしている。なぜこれが悪い芝居なのかと。
しかも、日本で、明日からこの芝居をするというのに、それをやめろという権限があなたたちにあるのか、と白土さんは烈火のごとく怒って大使館から帰ってきて、絶対に延期なんてできないと。もう切符も売っているし、何を寝ぼけたことを言っているのかと白土さんはものすごく怒ったらしいです。お国ではそういうことができるかもしれないけれども、民主主義の我が国ではできないと。
その参事官が、「白土吾夫、あなたを日中友好人士と認めるかどうかは、今後のあなたの行動による」と言ったそうです。白土さんは、「白土吾夫が日中友好人士であるかどうかを決めるのはあなたではない」と言って怒って帰ってきた。あまりにもばかばかしい話でしょう。だから、もしかしたら協会がつぶれるかもしれないと。私たち事務局員は、「良かったじゃない。つぶれたっていいわよ」と。
白土さんは、こういう時は酒でも飲まなければいられないと。やはり上司の中島健蔵に訴えたい。夜、白土さんと私と事務局の2、3人で中島健蔵の家に行きました。
こう言われたので、こう言ってきたと。そうしたら「よくやった」と白土さんほめられて、「お前さん、何て言ってやったんだ。もう一度ここで言ってみな」と。
「ケンチ」というのが中島さんの愛称なのですが、私たちはもちろんケンチなんて面と向かってはいわない。けれども、陰ではケンチと言っていて、「よくやった。白土、もう一度言ってみな。何て言って帰ってきた」と言うから、「白土吾夫が日中友好人士であるかどうかを決めるのはあなたではない」と言ったと。「よく言った、まず飲もう」と。
中島さんのいいところは、とにかく事務局は思いどおりに仕事をしなさいと。思う存分、何でも自分の思うように仕事をしなさい。責任は俺が取ると。いいでしょう。そういう人です。だから、ただのフランス文学者ではないのです。お酒が好きで、お酒を飲むとベロベロに酔う。中国に行ってこれから偉い人と会見といっても、ベロベロに酔ってしまってという型破りの人でした。
今考えれば本当に解散しなくてよかったと思います。
谷野:とにかく文化大革命というのは、先ほどお話があったように、一体何が起こっているのか当時の日本では全く分からなかった。政府、外務省もどこまでつかんでいたのか非常に疑問ですね。
当時、日本の政治家、社会党の方々等、そういう人が書いた訪中記が残っています。人民公社礼賛から始まって、文化大革命の毛沢東の指導による精神革命で教育改革、偉大な毛沢東の指導の下に新しい精神文化をなんてとんでもない。その背後にどろどろとした政治闘争があってね。
佐藤:そうです。だから、文革が始まった時には一つの理念として私たちも理解できました。でも、それはその名に隠れた大変な権力闘争であるということがだんだん分かってきましたね。
谷野:もう一つは、中国は党が一つの立場を取ると下は棒を飲んだように硬直的で、それは出先の大使館、総領事館も含めて、最近も残念ながらそういうところは今もあまり大きく変わっていないと思います。私が覚えているのは、1975年に蒋介石総統が亡くなって、先ほどの話ですと、北京にいらっしゃったのは、政府が派遣した代表団だったのですね。
佐藤:京大の吉川幸次郎という人が団長です。
谷野:代表団の事務方のスポークスマンをやっていたのは東大の衛藤瀋吉さん、中国の近現代の政治の専門家ですね。
佐藤:そうです。
谷野:著名な方。北京駐在のメディアの取材に対して、「蒋介石氏は、中国の歴史に残る英雄だった」と述べた。この一言だけで中国側はカンカンになって、明日にでも荷物を畳んで即刻帰れと言わんばかりでした。
佐藤さんは、その時は北京におられましたか。
佐藤:少しずれたと思います。少しずれましたが割と近い時期に日中文化交流協会から日本作家代表団が行っていて、団長が井上靖で、司馬遼太郎や水上勉、庄野潤三、そういった人たちで北京にいました。衛藤発言というのは、その時にものすごく話題になっていましたね。衛藤さんはよく知っていますけれども、知っていると言っても名前としてで、親しくお付き合いはあまりないです。一つの大きな事件といったら変ですけれども、そういうことがありましたね。
谷野:先ほどお話があった吉川幸次郎さんは大変高名な中国文学の大家で。
佐藤:そうです。立派な方ですよね。
谷野:その吉川先生は私たち若い大使館員に口頭試問をした方です。中国の文学と日本の、先ほど話に出ていた例えば谷崎潤一郎など、追いかけるテーマが中国文学とは違うと。中国の方は『詩』から魯迅の文学に至るまで。日本の方は『万葉集』から『源氏物語』、明治時代の私小説に至るまで、テーマが違う。「分かるかい?」と。
誰も答えられず、教えを請うたら、今でも覚えているのですが、君たちは中国を相手にしてこれから長い間お付き合いが始まるのだから、これは覚えておきなさいと。
それは、中国文学は『詩経』から魯迅の小説に至るまでメインテーマは「政治」だというのです。確かに『詩経』もいろいろなものがあるけれども、例えば皇帝をやっつけるという非常に政治性の高いものです。近代では魯迅もそうでしょう。『紅楼夢』だけが少し違うのかな。
他方、日本はどうなのかというと、日本文学のメインテーマは、『万葉集』から明治時代までラヴ、恋愛だと。確かに『万葉集』は恋歌が多いです。谷崎潤一郎先生の『細雪』もそうです。
その後、中国を相手にいろいろと仕事をさせていただいた中で、確かにとにかくもう「政治」です。「政治」の前には、日本の三権分立もあったものではない。「政治」が決めたら、法律、司法の独立などはないわけです。
1990何年でしたか。漁船が入ってきて捕まえた時にも、とにかく釈放せよと。日本側としては、それは今、検察当局、いずれは司法が処理をする。そこは政府がロを出せない。それが三権分立です。これに対し「いや、これは日中関係を大切にするかどうかの政治の意思、総理官邸の意思にかかっている」と。先ほど吉川幸次郎さんのお話が出たけれども、そんなことを思い出します。
今日は最後の話題として、先ほど来の話は、とにかく骨太の、自分の座標軸をきちんと持ったきら星のような文化人が多数おられたということに感銘を受けながら拝聴しました。今の日本、例えばヘイトスピーチ等がある中で、日本のペンクラブなど、そういう勢力にきちんと意見を言う文化人、言論人がいるのかという気がします。
その延長線上で、今日の話題の最後として、佐藤さんにもいろいろご指導いただいた私どもの日中友好会館の文化事業部は、3~4人の若い職員のもとでやっていますが、それぞれ大変立派な志を持って、ここに居る沼崎さんもそうですが、良くやってくれていると思います。最後に私どもの会館へのご助言、励ましのお言葉をお願いします。
佐藤:そんなことはもう。
けれども、今の谷野先生のお話を伺って、正直言って、今は、あまり日中の交流に輝かしい光というか、そういうものが見えないような気がするのです。でも、そう言ったらおしまいだと思うのですが、一言で日中友好と言いますけれども、やはり端的には中国人が日本人を好きか、日本人が中国人を好きかということでしょう。
それは、今はもうだんだん薄れてきていると思います。中国という国、中国人というものに対する日本人の好感度というか、それがやはり原点なわけでしょう。それはどうしてそうなのかということをあえて詮索しないまでも、それが今はないということは分かりますよね。だから、そういうことが一番これからどうなっていくのだろうという気がします。
それとやはり時代です。私自身が協会で仕事をしていた時代には、中国に対して、中国の文化、何千年来、中国から日本は文化の恩恵を受けたということをきちんと認識している世代でした。例えば、日本にとって中国は文化の母国であるという気持ちを持っている。その母国である中国を日本は侵略したわけでしょう。ですから、戦争に対する贖罪意識というものもきちんと持っている時代だったわけです。
でも、そういうことを今の日本人はほとんど分かっていません。やはり一番大きいのは、日中間の歴史を教えないという国の教科書の問題ということにも行き着くでしょうけれども、それは教科書だけではないと思います。世の中にあふれているでしょう。
国際連帯など、中国だけではなく、今の若者は外国の人と仲良くするということが非常に希薄になっているでしょう。その中でも、やはり中国というものに対しては、どちらかと言えば嫌な国の筆頭になるような雰囲気があるわけでしょう。本当にいろいろな意味で交流しづらい現状ですね。
文化交流というのは、結局、一番の基礎は人間と人間が本音で話し合えるということでしょう。人と人との友好というのは、相手が本音をしゃべれないようなことになったら交流できません。ですから、言論の自由、表現の自由というものは、やはり中国の人民にとってだけではなく、中国を相手に交流をする国にとっても大きな問題だと思います。
谷野:会館に何かご助言を。
佐藤:日中友好会館は、日中文化交流協会と違うと思います。それは、やはりこれだけの空間を持っておられる、ものすごく大きな力です。しかも、それがこの40年ですか、その間に定着しましたよね。それはいつも話に出ることです。
これだけの空間を持っていらっしゃる、そこで自分たちが考えたプログラムをきちんと実施できる、自分たちで決められるわけでしょう。中国に行って、政治的ないろいろなことがあったとしても、この分野のこのことをやってみようと思えば、例えば中国の凧の展覧会は前におやりになりましたね。去年も随分いい空撮写真展、それから影絵の展覧会もやりましたよね。あまり一般に知られていない中国の文化というものに着眼して、しかもそれを日本に招聘して、それをやるという力がおありでしょう。これだけの場所を持っている。だから、それはものすごくうらやましいと思います。
しかし、そういう中でも、やはり皆さまの中でもいろいろな困難はあると思います。いろいろな意味で中国と交渉もしなければいけないでしょう。それでも、持続しているということに対して本当に拍手を贈りたいし、それが本当に続いてほしいと思います。
それと、私がいつも感じるのは、実際にやっていらっしゃるのは、すごく女性が多いですよね。それもものすごく親しみを感じます。というのは、日中文化交流協会の事務局もずっと昔から女性がほとんどだったのです。
だからよく言われました。日中七団体や三団体の会議に行くでしょう。そうするとほとんどが男性ばかりで、うちの協会は結構女性が多いので、日中友好協会の人が「文交はブローチが多いからね」と。ブローチとはどういう意味かと言ったら、つまり女性はブローチだと。女性のことをブローチと言うのかと。そんな言い方はしないでよ、と随分笑ったことがあります。だから、こちらも実働部隊で女性が活躍していらっしゃることもすごく嬉しいことです。
私も、自分が日中文化交流協会の事務局に居たおかげで、諮問委員という形で関わらせていただいたことは本当に光栄なことでした。これからますます新しい企画をここで花開かせていただきたいと思います。
谷野:ありがとうございます。先ほどの話の田漢さんは、姪御さんがずっと日本にいらっしゃる。
佐藤:日本にいらっしゃるでしょう。
谷野:その時の毛沢東の手紙が残っています。師範学校に毛沢東氏がいた時に、彼は確か宮崎滔天を講師に呼ぼうとしたのでは。
佐藤:そうかもしれません。
谷野:確か宮崎滔天、晩年の毛沢東と違って極めて拙筆。
佐藤:非常にロマンチシストというか、毛沢東の若い時の詩などは本当にいいですよね。
谷野:字は下手だった。
佐藤:そうそう。下手というか風変わりな字ですよね。
谷野:あれは晩年の字ですよ。北京でよく見かけるのは。
佐藤:そうですか。すごい。
谷野:それから最後にこれです。先ほどの歴史教育の問題、確かにそこが非常に手薄になっている。日本における近現代史などはよく話題になることですが、私はやはりアジアとの、なかんずく中国、朝鮮半島、大事なことは「負の歴史」から逃げないで、それを学習し、将来に向けての教訓があるとすれば、そこから教訓を学び取る。他方、「謝罪」は今やメインテーマではないし、これを繰り返すべきでもない。
加藤周一さんも私と同じ日比谷高校の先輩で、歴史の歪曲、否定、実はこれほど日本民族の誇りを深いところで傷つける所作はないということをおっしゃっていました。(1)
(1)「歴史の歪曲は、百害あって一利なきものと思う。それは日中友好をもっと深いところで傷つける。それは、また、日本人の誇りを傷つけるだろう。日本人の誇りは、過去の誤りをごまかして言い繕うことにあるのではなく、自らのそれを直視し、批判したじろがぬ勇気にこそある。」(加藤周一)
佐藤:私も3回、中国にご一緒しました。加藤周一さんは、立派な方でしたね。
谷野:日本では近現代史の学習がいまだにおろそかになっているし、他方、少しでもその辺りの真の「歴史の真実」に迫ろうとして資料を探索し始める学徒に対しては「自虐史観」の輩!と言って特定の勢力から非難を浴びせられる。やはり自信がないのでしょうか。特にここ3~4年のコロナでみんな鬱々とした心情の下、言葉が刺々しくなりがちです。
中国も日中関係が良好な善隣関係、これが長続きして欲しいと思っている矢先に、中国が「戦狼外交」か何か知らないけれどもそんな我々の思いを足元からかっさらうような、先ほど来出てきたような言動が出てくる、本当に残念です。
先ほど蒋介石の話が出たけれども、今、中国の書店に、あれほど敵だと言ってっていた蒋介石さんの伝記、宋美齢の写真集が山のように積まれていますよ。
佐藤:そうですか。
谷野:中国は変わりますね。変わるときは、先ほど来の白土さんの話にせよ、中島健蔵さんの話にせよ、こういう人が亡くなり、こちらが基本的にきちんとした軸足を持っていないから、中国の内政が日本に持ち込まれ、分裂や分断を起こす。
今日は本当に長い間ありがとうございました。
佐藤:いえいえ。とんでもないです。文章にならないと思いますよ。漫談です。
谷野:来週もお時間をいただいて、来週は老舎や杉村春子さんの話など、個々の方々のお話をうかがいたいと思います。
第2回(2023年6月2日)
谷野:それでは、今日は佐藤さんのお話を伺う第2回目です。前回は佐藤さんから日中文化交流協会発足の経緯、その中で佐藤さんがこの協会にお勤めになった経緯、その間における周恩来さんへの強い思いについて、お話を伺った次第です。その後、この立ち上げにリーダーシップを取られた、中島健蔵さんのお話も伺いました。その後、しかし、文化大革命がやってきて、協会と深いお付き合いのあった中国側の文化人・文学者が一人一人消えていく中で、協会が火を消さないために前向きの交流を継続する方向で対応されたというお話も伺いました。
そういう中で、今日は佐藤さんをはじめ、協会とお付き合いのあった日本と中国の文化人や舞台芸術家や文学者のお話を特に伺いたいと思います。ただその前に最初の話題として、日中国交正常化の前に、中国側が日本と中国の間の文化交流というところに大きく焦点を当てて、廖承志さんの協力も得ながら、特に周恩来さんのレベルでこれを動かしたという、その辺りの中国側の思惑はどういうところにあったのでしょうか。
佐藤:これは私よりも谷野先生が分析されたほうがよいと思いますが、国際政治、特に日中間の政治というか、当時の中国の政治家にとって、つまり、周恩来にとって、究極は国交正常化というものが最も大きな目的だったのでしょうけれども、政治を前進するために、文化というものに非常に重点を置いていると。私はなぜそうなのかという分析はできませんけれども、政治の中に文化というものを取り入れるという考え方は素晴らしいと思います。
というのは、それはもう50年代から、日中文化交流だけではなくて、中国が成立したのが 1949年でしょ。それで、52~53年ごろからアジア・アフリカ会議などの国際会議が随分とありました。それは決して文化のことではなく、すべて政治レべルの国際会議です。カイロ会議やバンドン会議、ジュネーブ会議もそうですけれども、そういう中国政府の代表団に必ず中国の著名な文化人が参加しています。例えば作家の茅盾や謝冰心などがそうです。そういうすごくスマートというか、おしゃれというか、すごくよい考えというか、感心しますよね。例えば日本の政治家が世界のいろいろな会合に行く時に、日本の総理が団長で行くような会合に、例えば井上靖など、そういう日本の文化人をメンバーの中に入れるということはあまり聞いたことがありません。最近はどうか知りませんけれども。
谷野:私は現役の時、お話していて一つだけ思い出すのは、よいことをやったと思うのは、竹下登さんが訪中されるという段になって、役人をぞろぞろ連れていくのを止めて…。
佐藤:わかった。平山さん。
谷野:平山郁夫さんをお供に連れて行かれてはどうか、と。竹下総理と平山画伯の親しい関係は伺っていたものですから。そして、ぜひ、敦煌にいらっしゃっては如何か、と。これが受け入れられ、おかげで私は事前の調査団として、敦煌に行って、いろいろと宝物を見せていただきましたので。あそこに平山さんが尽力され博物館ができましたね。とにかく日本からのいろいろな文化人、舞台俳優、芸術家、必ず周恩来さんは会っていました。
佐藤:必ずですよね。
谷野:これは今の政権では考えられない。しかし、そういう人たちがペンを執り、思い出を日本で語る、その効果を大切に思ったのでしょう。皆、文筆家ですからね。
佐藤:ですから、すぐ果実を取るという、今すぐ政治的な効果を生むというのではなくて、やはりすごく遠大な考えだと思います。
谷野:最近の日中関係ではそういう面も少し細くなりましたね。第2点は、佐藤さんのところの協会のトップを務められた方々、中島健蔵さんのことはこの間、伺ったけれども、歴代の会長、その次が井上靖さんですか。そして團伊玖磨さん、それから詩人…。
佐藤:辻井喬さん。
谷野:辻井さん等々。今は。
佐藤:今は黒井千次という人です。
谷野:まだ黒井さんですか。その後に栗原小巻さんもいらっしゃって。
佐藤:栗原さんは今、副会長・理事長です。
谷野:そして、事務局長に白土さん。
佐藤:白土さんは亡くなりました。
谷野:そして、佐藤さんは昭和女子大の英文科でしょ。白土さんは確か早稲田の工学部かな。ノン・チャイナというか、逆に中国へのよくも悪くも思い入れが強い人たちではなくて、こういう人たちが協会のトップで協会の活動を支えたというのは、私はよかったのではないかと思います。もちろんその下に武田泰淳さんや、何人かの中国専門の方もいらっしゃったけれども。例えば文革の時に千田是也さんは、いずれ終わるのだから、こちらがいちいち反論して反発するなと、じっと待てばよいとおっしゃっていた。他方、中国を一生の仕事にする人たちは反発も強くて、裏切られた、この野郎と。千田さんはそれからは随分と距離を置いて落ち着いておられたと思いますが、どうでしょうか。
佐藤:本当に先生がおっしゃるとおりです。あの時、本当に日中の社会は混乱に次ぐ混乱ですからね。日中友好協会は2つに割れましたでしょ。それで、武闘まで起きました。この善隣会館、ここがそうでしょ。本当に理事会で殴り合いになるわけです。それで、1が分かれて2になるという理念があったでしょ。必ず実権派、あの頃は脱権という言葉もはやったのですよね。今現在の権力者というか、指導者から脱権せよと。それで、日中友好協会はいわゆる日本共産党系の人たちと、その底流には要するに日中両国の共産党の対立というものがあるわけです。それが全面を覆っているというか。それだけやはり日中国交正常化以前に、日中友好の仕事をする人たちはやはり日本共産党と非常に近い人たちが主流だったわけです。それはある意味、理解できることですよね。中国というものを、いわゆる中国共産党を真に認めている人たちだったわけです。
それで、私が協会に入った頃は日本と中国の共産党が非常に仲のよい時期だったわけですけれども、66年の文革辺りから、またベトナム戦争に対する考え方も、日中共産党の意見が違う一つの大きな軸だったようですけれども。それで、本当に反党分子などと言って、日本共産党の機関紙赤旗は中国派、中国に親しい人たちを批判する。日中友好協会は日本共産党を批判する。とにかくそれで、だから、ほとんどの組織が疲弊してしまっているというか、殺伐としている、そういう時期でした。
ですから、千田先生がおっしゃったように、要するにこういう時にはもう日中文化交流協会という団体を守るというか、今、中国は正常な時期ではない。しかし、こういう状態は長くは続かないから、それをじっと待つと。それで、いろいろな批判をされたことにはいちいち反論するなと。千田さんはものすごく批判の矢面に立たされましたからね。一つはドイツの有名な劇作家であるブレヒト、千田是也はその人の作品の専門家なわけです。ブレヒトに対する批判、そして日本でブレヒトを一生懸命にやっている千田さんに対する批判。
それから、『トラ・トラ・トラ!』という映画に千田さんが端役で出たのです。その『トラ・トラ・トラ!』という映画は決してよい映画ではないですけれども、ただ単に戦争を誇示する映画ではないわけです。ご存じのように、戦争も、描いているけれども、訴えるものは反戦という映画はたくさんあるわけでしょう。ですけれども、それに出ているということで、ものすごく千田是はやられました。
それから、『戦争と人間』という共産党の山本薩夫の映画、それに文学座の俳優がたくさん出ているということで、杉村さんに対する批判という、とにかくそれをいちいち真に受けていたらどうしようもないと。
谷野:中国はそういう時、棒を飲んだように数条主義的になりますからね。それに対して、千田さんではないけれども、こちらの軸がきちんと定まっていればよいけれども、こちらもそれに巻き込まれて血を見るような武闘が、まさにこの会館も含めてあった。少し脱線するかもしれませんが、『戦争と人間』ですか。
佐藤:そうです。山本薩夫のね。
谷野:私はあれを持っています。
佐藤:そうですか。ビデオですか。
谷野:三國連太郎さんや若い頃の栗原小巻さん、それから滝沢修、芦田伸介、加藤剛、浅丘ルリ子、吉永小百合・・・というと超豪華。オールキャストです。なぜそのお話をするかというと、あれは反戦映画です。
佐藤:そうです。反戦映画ですよね。
谷野:これを、軍国主義をあおるものだと言って、山本さんが共産党であるが故に中国はそういう言いがかりをつけてきたわけでしょ。もう情けなくなりますけれども。若千、脱線するけれども、家内の祖父がそこに出てきます。森島守人という外交官。
戦時中は奉天などにいた。関東軍の荒くれ方と闘った人ですけれども、戦後は外務省に愛想を尽かして社会党から出て、4期ほどやりましたかね。その若い頃、奉天の総領事代理のようなことをやっていた時の森島です。ところが、ここからはフィクションなのですが、篠崎という名の書記生となって出てくる。これを演じていたのが石原裕次郎。その若い醤記生が関東軍と丁々発止のせめぎ合いをやるわけです。
それが、別の名前で出てくるのですが、念のため、外務省に問い合わせたところ、篠崎という人は存在しないということでした。森島も少し出てくるのですが、この方はあまり風采の上がらない中年外交官として出てきます。ストーリーがそういうふうに変えられています。森島は当時のことについて回想録を書いています。本にも書いていますからね。石原裕次郎、かっこいいわけです。森島は裕ちゃんのようなかっこいい人ではないからね。
いずれにせよそういうことで、三國連太郎も一生懸命にとっとつの中国語をしゃべっています。栗原さんはかなり若い頃、本当に駆け出しの栗原小巻さんです。懐かしいですね。しかし、これを山本さんが日本共産党だというだけで、軍国主義をあおるものだと言って、中国は言いがかりをつけてきた。
佐藤:ですから、非常に批判のやり方が、底が浅いというか、系統的ではないのです。
谷野:だから、こちらの軸足がしっかりとしていないと。文革の時はいろいろと映画界も大変だったようですね。
佐藤:そうですね。演劇や映画は目に付きやすいわけです。それで、批判もしやすい。それで四人組の人たちは、江青は映画でしょ。そういうわけで、うちの協会では映画・演劇に対する批判が最も直接響きましたね。それから、文学もやはりいろいろとあったのですが。
谷野:そこで、天安門事件のお話を伺いましょうか。1989年かな。6月4日。
佐藤:今日は2日だから、まさに明後日ですよね。もう昨日辺りから私はずっと思い出していました。懐かしい。
谷野:佐藤さんは水上勉さんなどと北京飯店に泊っておられて。
佐藤:そうです。6月1日に北京に着いたのです。
谷野:上から見ておられたのですか。
佐際:そうです。あの時は、ちょうど5月15日ごろにゴルバチョフが中国へ行ったのです。ですから、それを取材する外国の新聞記者がたくさん行っていたでしょ。それで、5月20日ごろから確か戒厳令が敷かれたわけです。しかし、日中文化交流協会代表団は6月に行くということがもう2月ごろから決まっていたわけです。というのは、水上勉や一緒に行く人たちが皆、忙しい人でしょ。ですから、半年ほど前にもう何月何日からということを決めてしまうわけです。それで、6月1日から2週間ということで、団長が水上勉、団員は全部で7名ですけれども、文芸評論家の尾崎秀樹、秀実の弟ですね。それから、京都の陶芸家の鈴木治という人、それから京都の有名な美術出版社の便利堂というところの女性の社長、それに俳優の河原崎長一郎、長十郎の息子です。長一郎も亡くなってしまいましたけれども。それに協会の専務理事だった白土吾夫さんと私と、全部で7人になりますよね。
それで、最初はやめたほうがよいのではないかと。戒厳令が敷かれているわけですから、そういう時に行かないほうがよいという人もたくさんいました。ですけれども、水上さんももうその前から何度も中国に行っていますから、戒厳令は敷かれたけれども、どうもテレビを見るととても融和的な、天安門の前に学生がたくさんいて、それに普通の人たちがお菓子を差し入れたりして、独特の雰囲気があったんです。だから、中国のそういうところも見てみたいし、今はかえって行きたいと。それで6月1日に行ったわけです。
それで、確かに到着した日はすごくほほえましかったです。北京飯店に泊まっていました。それで、八宝山のお墓に行ったのです。廖承志が亡くなったのは83年でもっと前なのですが、対外友協の王炳南という方も亡くなられて、亡くなった人たちのお墓に行きたいと水上先生がおっしゃって、行ったのです。それで、帰りも長安街を通るわけでしょ。八宝山はずっと西のほうですから。その時もものすごくほほえましかったです。戯劇学院や北京大学何々というのぼりを立てて生徒が自転車で走っている、それで大衆は拍手する、そういう感じだったのです。
だから、水上さんも感心してしまって、こういうデモもあるのだよねと言って、決して荒々しい感じ、日本の官隊と対するという雰囲気は全くありませんでした。それで、その時は章文晋という人が対外友協の会長時代でしたが、その歓迎会もあって、1日の夜は宴会も北京飯店であったのです。だから、とてもよかったのです。
それが2日の日に、水上さんが団長ですから、中国作家協会が、仿膳という料亭があるでしょ。その仿膳で歓迎の昼食会を開いてくださったのです。それで、われわれは仿膳に行きました。そしたら、中国の作家が集まれなかったのです。要するに自宅からそこに来る途中の道がふさがれてしまって来られないということになって、それで、その宴会がお流れになってしまったのです。何となく、という感じ。
宴会はなかったのですが、水上さんの部屋に入って様子を見ていました。そういうわけで、2日ごろから中国の人たちは自分の家から中央に来られない状況になったのです。ですから、いろいろな日程が組めないわけです。代表団は全部、人に会うのが日程なわけでしょ。ですから、その会のために集まる中国の人たちが北京飯店に来られないという状況になって、それで少し大変でした。ですから、2日の日は何もしないでいました。それで、2日も3日の日も何も日程はないと。ですけれども、黄世明さんや呉瑞鈞さんなど、対外友協の事務局の人たちがどうしているかということでホテルを訪ねてくれて、それでおしゃべりしたりしていました。
それでも、あまりにも退屈だから、水上さんが老舎茶館に行きたいと。やっているかどうか調べてもらったらやっているということで、老舎茶館に行きました。6月3日です。
谷野:前門の辺りですね。
佐藤:そうですね。それで、あっと思ったのはその時です。いわゆる 27軍が市の中心に入ってきて、それに出くわしてしまったのです。というのは、老舎茶館に着いたのが6時ごろでしょ。それで、芸を見て、お酒も飲んで、老舎茶館から北京飯店に帰ろうとした時に、それが27軍なのでしょうけれども、ものすごい数の軍隊がワーッといたのを私たちは目撃したのです。これは大変なことになるのではないかという感じでした。ですけれども、とにかく北京飯店に帰ろうということで、乗用車4台で、私は俳優の河原崎長一郎と2人で最後の車に乗って、とにかく北京飯店へ行ったわけです。ところが、あっという間に道が封鎖されて、私と長一郎さんが乗った車が通れなくなってしまったのです。ものすごい数の軍隊が天安門広場へ行くのに出くわしてしまったわけです。
それで、老舎茶館から北京飯店というのは10分ほどで着くわけでしょ。それで、運転手はものすごく緊張して、窓を開けて軍隊にワーッと罵詈雑言を浴びせているのです。私は中国語を分からないけれども。それで、私の車に乗っている中国の通訳の人に、今、運転手さんが軍隊の人に悪口を言っているでしょと言ったら、そうだと。悪口なんて言いなさんなと言ってよと。その悪口で私たちが変なことをされたら嫌だからと言って。だけれども、その運転手は軍隊に対する反感がすごく高揚しているわけです。それで、とにかく早く北京飯店に連れていってくれと私は言いました。前の3台がきちんと行ったかどうかも分からない。今のように携帯電話もないでしょ。だから、どうなってしまったのかしらと思って。それで、ずっと変な道を迂回して、故宮のほうに行ったりして迂回して、結局、北京飯店に着いたのは1時間半ほどかかってしまいました。それで、やはり皆ばらばらに着いたらしくて、水上さんと白土さんは北京飯店の玄関に仁王立ちで待っていてくれたのです。よく着いたねと言って。別に待っていてくれなくてもよかったのにと言ったら、心配だからねと言って。
それで、水上さんの部屋に行って、またお酒を飲んで、それで休んだわけです。そしたら、夜中にすごい音が聞こえて。水上さんの部屋は、長安街と王府井の見える角部屋のスイートルームで、寝られないでしょ。それで、とにかくこの状況を見るべきだということで、私も起こされてしまいました。私の部屋に団長が来て、純子さん、俺の部屋に来い、これを見ておくべきだということで、代表団は全員、水上さんの部屋に集まって、その様子を見ていました。白土さんは、27軍はどうも田舎の兵隊らしいから北京には慣れていないと。だから、彼ら兵隊だって怖いわけです。
話は前後するのですが、北京飯店の服務員もまたすごいのです。北京飯店のべランダに出て、軍隊に服務員たちが瓶を投げるわけです。小瓶(=小平、シャオピン)と言って。話を聞くと、鄧小平を揶揄している言葉だという人もいましたけれども、それで、瓶にいろいろなものを入れて。ガラスの瓶は武器になるでしょ。それが当たったら、けがするわけです。それを27軍に向けて投げるわけです。だけれども、そういう様子も見ておいたほうがよいということで、白土さんが、見てもよいけれども、白い服は着ないようにしようと。それで全員、黒っぽい服を着て、べランダからずっと見ていました。
それでも徹夜はできないから、私はもうベッドに入ったのですが、翌6月4日の朝、ものすごく早い時間に、北京の西の方で軍と学生の衝突があったという。水上さんの部屋は王府井のほうも見えるわけです。戸板に乗せられた血を流した学生を見た時はやはりショックでした。あの時の総理は李鵬でしょ。
谷野:そうです。しかし、引き金を引いたのは鄧小平だといわれていますね。
佐藤:ですから、何がどうなったのか。
谷野:彼は彼でやはり危機感を持ったのでしょうね。ここの理事長をやっていた佐藤君。
佐藤:嘉恭さんですか。
谷野:いや、もっと若い人です。彼が一等書記官で、当時、北京にいまして、6月3~4日は大使館の仕事として現場に行くと、目の前で学生が犠牲になって倒れていくと。私は本省の局長になる直前でした。審議官で、佐藤重和君から泣いて電話がかかってきて「審議官、私どものこれまでの、例えば中国への 0DA、一体、あれは何だったのでしょうか」と泣きじゃくっているわけです。佐藤君も若くて、元気で、純粋だったのか、それを覚えています。ショックだったのでしょう。しかし、あれはどうしてですか。水上さんの容体は。
佐藤:それで、6月1日に着いて、私たちは北京に4泊して、浙江省の寧波というところに行く予定だったのです。ですけれども、こういう事態になったから、寧波に行くのはやめて東京に帰るということになったのです。だけれども、水上さんは行きたかったのです。中国の人たちも、北京がこういうだけで寧波は大丈夫だから、行くなら大丈夫ですよと言ってくださったのですが、やはりそういう時に代表団7人の中で、帰りたい人は帰りなさい、残る人は残りましょうとは言えないでしょ。それで、水上さんがこういう事態になってどうするかと。それは6月4日の日です。もうすごい状況が見えているわけです。だけれども、招請団体である対外友協は、寧波は別に不穏な状況ではないから、もし代表団が予定どおり寧波に行くなら自分たちもきちんと手配しますと言っていますと。それとも北京がこういう状況になっているから、なるべく早く東京に帰るか、どうしますかと相談したのです。そしたら、京都の便利堂という出版社の女性社長はやはりもう怖くて帰りたいわけです。ほかの人は、尾崎秀樹さんも予定どおり行きましょうと言っていたのですが、一人でもそういう人がいるなら帰ると。
それで、救援機を日本政府で飛ばすという状況もあるから、帰るならということで。その救援機に乗って、6月6日の夜に帰ってきたのです。そしたら、翌日、水上さんが心筋梗塞になって。
谷野:やはりショックだったのですかね。
佐藤:帰ってきて、本当に今でも忘れないのですが、救援機ですから、当時はまだ成田だったのですが、飛行機が成田ではなく羽田に着いたのです。それで、事務局が皆、迎えに来て、私は白土さんのおうちへ皆で行きました。白土さんの奥さまがおいしい豆ご飯、もう6月ですからエンドウマメが出始めでしょ。白土さんの奥さまはものすごくエンドウマメのご飯がお上手で、それを炊いて待っているから寄りなさいと言われて、私たちは白土家に寄ってエンドウマメのご飯をいただいて、お酒も飲んで、とにかく帰ってきてよかったということで、家に帰ったのです。それで、私は寝たのが本当に夜中の3時ごろだったと思います。帰ってきたのは、羽田へ着いたのは夜10時ごろですからね。
そしたら、朝7時ごろ、集英社の水上さん係の編集者、私も親しかったのですが、彼から電話がありました。佐藤さん、水上さんが倒れたと。だから、私は天安門事件より、むしろ水上さんが倒れたほうがずっとショックでした。心筋梗塞は緊張してほっとした時に起こるということをよくいわれるでしょ。だから、北京での数日にわたる緊張、それで東京に帰ってきてほっとしたところで、やはりそうなったわけです。後で聞いたのですが、救急車であちこち行って、やっと関東中央病院というところに入院しました。
天安門事件はものすごく大きなことなわけでしょ。ですから、いろいろな団体が声明を出しました。日中友好協会もそうです。もう中国とは交流をしないというような声明を出す団体がたくさんありました。例えば衛藤瀋吉さんもやっていた、日中社会科学交流協会という団体があったでしょ。その人たちも中国政府を批判する声明をたくさん出したわけです。その時に、井上靖会長にマスコミが談話を求めたわけです。今のこの事件をどう思うか、それから今後、日中文化交流協会はどうやっていくのかということを新聞記者に質問されたらしいのです。白土さんや私や水上さんはまだ北京にいた時です。私たちは6日に帰ってきましたから。6月4日の事件が起きてすぐ、日中関係の各団体の長にいろいろな談話を求めたわけでしょ。
井上靖の談話は、まず人民解放軍が自国の学生に銃を向けたということは、私個人としては許せないと。武器を向けた軍というのは結局、政府とイコールなわけですから、中国の今の政治指導者が大衆、学生を弾圧していることは許せないと。しかし、私たち日中文化交流協会は中国政府と交流しているのではなく、中国の文化人、中国の民間文化芸術界と交流しているのであると。だから、この事件が起きたことによって中国との文化交流をやめるということは全く考えないと。以前にも増して交流を深めていくという談話を出したのです。私たちが北京から帰ってきた時、事務局が天安門事件に対する日中文化交流協会井上靖の談話が、朝日新聞に大きく出ていたのを羽田に持ってきてくれました。それを読んで、とてもうれしかったです。というのは、ほかの団体はほとんど、中国との交流をやめるべきだという論調が多かったのです。だから、その談話が一つの柱になりました。
それで、協会の役員から、例えば東大総長の加藤一郎さんも役員だったのですが、いろいろな人から事務局に、大変な事態なので、早急に日中文化交流協会としても態度を表明したほうがよいのではないかと。会長談話は出たけれども、ほかの団体は全部、次々と声明を出しましたからね。ほとんどはやはりもう中国政府とこれから交流をやらないというものが多かったです。それで、協会としてはもう常任理事会を開くいとまがないからということで、会長と代表理事、その時は井上靖が会長で、代表理事が千田是也、東山魁夷、團伊玖磨という時代でした。
谷野:そうそうたる人たちですね。
佐藤:代表理事が井上先生のおうちに集まったのです。東山さんはその時、ドイツに行っていましたから、ドイツに電話をして、こういう事件が起きたと。東山さんもドイツでテレビを見て分かっていますから、大変なことが起きていると思っていて、協会として談話を出そうと思うけれどもと言ったら、東山さんは井上さんに一任しますと。それで、井上先生のおうちに千田さんとさんと私たち事務局が行って、その事件に対する会長、代表理事の談話というものを出したのです。それで、それは最初、井上さんが言ったように、銃を向けたのは許せない、非常に悲しむべきことだと。しかし、われわれは中国政府と交流しているのではなく、中国の文芸界・文化界と交流していると。中国の人民と交流していると。だから、交流を中断することはないと。むしろ以前よりも増して交流を発展させるという趣旨の談話を出したのです。そしたら、ほかの団体からは最初、何を生ぬるいことを言っているのかと批判されました。だけれども、長い目で見れば、非常によい談話だったと思います。
谷野:今のお話を伺うと、天安門事件が起こる6月4日までの間、初めの部分は非常に穏やかで、その後、事態が急展開したのですね。私はその年の5月の初旬に、亡くなった宇野宗佑外務大臣のソ連訪問があってお伴しました。それからウランバートルに寄って、5月の何日だったか忘れましたが、北京に立ち寄った。しかし、とにか<6月4日にあのようなことが起こるとは夢にも思わなかったです。反政府的な動きがいろいろと出てきているということはありましたけれども、あのような大きな事件が待っているとは夢想だにしませんでした。不明を恥じるのですが、今のお話を聞くと、やはり急展開だったのですね。
佐藤:そうですね。だから、まだまだ真相というか、それは永遠に分からないでしょうね。
谷野:では、小休止して、後半は個々の人たち、老舎の話などをご記憶の範囲内で。高峰三枝子さんの話も。高峰三枝子は、僕は見たこともありません。僕は高峰三枝子と高峰秀子は姉妹だとばかり思っていました(笑)。
佐藤:2人とも日中交流に熱心なのです。
谷野:一つだけ思い出すのは、私はその時、本省にいたのですが、本省の特に中国課は大変で、とにかく徹夜に次ぐ徹夜で特別機を出すということもあったのだけれども、要するに電話がかかってくるわけです。息子が中国に留学していると。
佐藤:谷野先生はその時、東京にいらしたのですか。
谷野:アジア局の審議官です。それで、どちらに留学しておられるのですか、どちらにお住まいですかと尋ねると、そんなことは知らないと。探して、とにかく日本へ送り返せと。息子がどこにいるかも知らない、それを連れ戻せと言われてもね。もう罵詈雑言で。本省は本省で、そういう教出の話がある。それから、もちろん政府としてどう対応するかという声明を出す。それは別の話になりますが、そこで後半は、個々の中国、日本でそれぞれ交流を担った人たちで、主だった人の思い出話ということで、まず中国から言えば、何といっても老舎さんと巴金さん。
佐藤:そうですね。老舎、巴金。
谷野:老舎さんは、最後は確か紅衛兵に痛めつけられて、湖に飛び込んで自殺されたという、中国の文化界・文学界でも文革の最大の犠牲者ですよね。私は、佐藤さんもご覧になったと思いますが、先ほどの茶館、老舎さんの『茶館』という舞台劇のビデオを持っています。昔の清朝の時代のティーハウスの状況を描いた舞台劇です。最後はそういう悲劇的な最期を遂げるわけですけれども、どういう思い出がありますか。
佐藤:老舎は1965年に中国作家代表団の団長でいらしたのです。協会の招請です。文革が始まる1年前です。それで、老舎という人は、今、谷野先生がおっしゃいましたように、『茶館』や『駱駝祥子』など、いろいろな作品が読まれています。何といっても第一級の作家です。イギリスに留学した人です。非常に紳士的な人で、日本では東京だけではなくいろいろなところと、日本のいろいろな文化人と交流して、1カ月間ほど滞在しました。それでお帰りになって、その翌年、亡くなったわけです。
それで、いち早く老合が自殺したらしいという香港情報が66年に入ったのです。だけれども、それは確かめられないわけです。例えば井上さんなど、いろいろな作家の人たちから、老舎が自殺したという報道があるけれども、これが本当なのかどうかを確かめてほしいと協会に連絡があるけれども、確かめようもないわけです。ですけれども、香港情報とはいえ、本当なのではないかと。文革の武闘の様子も見ていますから、あり得る話という感じだったわけです。それで、井上靖が『壺』という作品を書いたのです。それは老舎の追悼です。
谷野:読んでみたいと思っています。
佐藤:ありますよ。私は持っています。
谷野:文庫本に入っていますか。
佐藤:全集にはもちろん入っていますけれども、全集を見るのは大変ですから、今度、お持ちします。
谷野:追悼の作品ですか。
佐藤:そうです。日本で3人の作家が書きました。水上勉も書きました。水上勉は『こおろぎの壺』という題の作品です。
谷野:やはり壺ですか。
佐藤:『こおろぎの壷』です。それは老舎が65年に団長で来た時に、水上さんと会って、コオロギを闘わせる壼のことが話題になりました。それを思い出して、『こおろぎの壺』という題の短編を書きました。それから、開高健は『玉、砕ける』という題で、これも短編です。やはり老舎を悼んで書きました。
井上靖という人はとても慎重な人ですから、それに日中文化交流協会の役員ですから、老舎を追悼する文章を書くということは、その時の中国の指導部にとっては愉快でないことでしょ。だから、そういうことを自分が書くことによって日中文化交流協会に変な災いがあったら困るというふうに思って、それで、白土さんや中島健蔵と相談したのです。どうしたものかと。それに対して中島さんは書くべきだと。
まさか井上靖をそれを書いたからなんだかんだということがあったとしても、それは何でもないと。日中文化交流協会は老舎を追悼したい作家・井上靖の気持ちを尊重するということで、それで発表したのです。70年ごろだったと思います。老舎が亡くなったのは66年でしょ。文革が始まった年ですから。66年の8月です。
谷野:直後ですね。
佐藤:直後です。中国は文革中、映画や演劇はものすごくやり玉に挙げられたでしょ。だけれども、井上靖が『壷』を書いたことの反論は出ない。『こおろぎの壺』も『玉、砕ける』についても何も出ないのです。だから、そこまで目が回らなかったのでしよう。
谷野:気が付かないと。
佐藤:気が付かないのよね。その後日談があります。72年に国交正常化して、74年に航空協定、JALとANAの飛行機が飛びましたよね。その一番機に日中文化交流協会が招待されたのです。それで、中島さんを団長として行くことになりました。そこに、井上靖も誘ったのです。そしたら、自分は『竜』を書いているから、中国に行って協会に迷惑なことがあったら困るから、『壷』を書いた井上靖がなぜ来たのかということを言われたら困るから、僕は遠慮すると。だけれども、しばらく行っていないから本当は行きたいと。それで中島さんが、それなら一緒に行こうということで、行ったのです。行って、文化人とは誰も会えない。どこに行っても、会いたい人は皆、倒れているわけですからね。でも、まだ周恩来は生きていますからね。だけれども、病気だと。9月30日に国宴があったのです。必ず国宴には周恩来が出席するでしょ。私たちもそこに招かれたわけです。私たちを案内している中国の人たちが皆、その会に周恩来が出席するかどうかということを心配して話しているのです。そしたら、最後に周恩来が出席しました。私は、その時が周恩来総理の姿を見た最後です。
谷野:74年。
佐藤:74年9月30日の国宴です。張りのある声で演説をして。76年に四人組が倒れましたよね。76年の10月6日でしょ。その翌年、77年に日中文化交流協会の代表団が新疆ウイグル自治区に初めて招かれたのです。それで、中島健蔵が団長で、井上靖も行きました。一行は東山魁夷や團伊玖磨や司馬遼太郎など、そういうメンバーでした。私もお供しましたけれども、10人ほどの代表団です。それで、北京から新疆ウイグル自治区のイリやトルファン、それからウルムチ、ホータンを回って、帰りに上海に寄ったのです。それは77年ですからね。それで、76年に文革が終わって、巴金が復活したわけです。井上靖も中島健蔵も、どうしても巴金に会いたい。それで、1泊でもよいからというので上海に行ったのです。
そしたら、巴金が空港の機側で出迎えに出ていました。今のような蛇腹ではないでしょ。タラップで一度、下に降りて。だから、本当に懐かしいですよね。出迎えてくれる人が飛行機のそばに並んで待っていてくれるのです。その時は井上靖が巴金と抱き合っていました。中島さんも。その中に演劇の趙丹もいて、彼もこっぴどくやられたでしょ。皆、出迎えてくれました。その時、井上靖が『壺』が収められている『桃李記』という本を巴金に贈ったのです。そうしたら、その翌日巴金は、『壺』を読みましたと。
谷野:そこで巴金の話になりましたけれども。
佐藤:1980年。巴金が日本に来た時に、歓迎パーティーで巴金がその話をしたのです。われわれ中国の作家は老舎の死を悼む文章を誰も発表できなかったと。にもかかわらず、日本では3人の作家が老舎の追悼を書いてくれたと。中国の作家としてとても恥ずかしいという演説をしたのです。そしたら、その時、文芸評論家の山本健吉があいさつに立って、巴金先生、恥ずかしいとおっしゃらないでくださいと。その時期、巴金先生がどういう状況にあったかということを、日本の作家で知らない人はいないと。レセプションでも型どおりではなくて、そういうあいさつが飛び交う時代があったのです。本当に懐かしいです。
谷野:巴金さんも中国の文学界では大変な重鎮ですよね。時々、日本にいらっしゃっていましたね。
佐藤:そうです。
谷野:3人目は、僕はこの人のことを全然知らないのですが、夏衍さん。
佐藤:夏衍ですね。
谷野:彼のおうちは確か上海ですよね。
佐藤:そうです。上海の、もともとは脚本家ですよね。日本で医者の勉強をやった人です。ですけれども、途中から文学に目覚めるというか、映画『早春二月』『林家舗子』などの脚本を。
谷野:確か友協の会長もなさっていたのですよね。
佐藤:廖承志が亡くなった後、中日友好協会の会長になりました。
谷野:日本留学ですし。
佐藤:そうです。それから、中国映画人協会では副会長をずっとやっていた人です。
谷野:この人も、しかし、文革の犠牲者ですよね。
佐藤:4人の悪い男の1人ですからね。周揚、田漢、夏衍、陽翰笙という。四人組も4人でしょ。こちらも四条漢子という、四人組から言われているほうも4人なのです。その4人と最も協会は仲がよかったわけです。やられている4人、周揚、田漢、夏衍、陽翰笙です。
谷野:文学界はそういうことで、スポーツ界は。
佐藤:スポーツはそういう感じはあまり。だけれども、荘則棟はやられたのではないですか。四人組に近いということで、むしろ逆に文革が終わってからね。
谷野:彼はうまく立ち回ったほうですよね。
佐藤:と言われているけれども、あの人は、何度も日中文化交流協会がお招きした中国卓球代表団でいらしていますから、よく知っています。とても真面目な、よい感じの人です。
谷野:ハギワラ、オギワラ?
佐藤:荻村さんですか。荻村伊智朗ね。日本のチャンピオンです。
谷野:彼が教えたのですか。
佐藤:そうです。
谷野:そうですか。江青との仲もうわさされた人でしょ。
佐藤:そういうことが巷にありました。だから、荘則棟は四人組と親しくしたから、文革の時にあまりやられなかったと。だけれども、そういう感じの人ではありません。ピンポン外交と言われている時の立役者です。
谷野:ピンポン外交の時、まずアメリカが突如、選手団が中国に招かれて、そういうことがきっかけになって米中に行くわけだけれども、あの前後の協会の役割、お仕事はどういうことだったのですか。
佐藤:ピンポン外交というか、国際卓球選手権大会、つまり、ワールドカップが1971年3月です。71年ですからまだ文革最中ですよね。まだ周恩来は元気な頃です。それで、中国はご存じのように、66年の文革が始まってからものすごく苦難の中にいたと思います。生産は停滞する、ソ連とのダマンスキーでの衝突もある。いろいろな意味で中国は孤立しているわけです。それを一つ、打開しようという大きな戦略が周恩来の胸にはあったのではないかと思います。それにはやはりアメリカ、中国はソ連と全然よくない時なわけですから、アメリカとの接近というか、そういうことを考える一つの道具として、ピンポンのワールドカップに照準を合わせて、70年の秋に中島健蔵が招かれて中国に行った時に周恩来との会見があって、来年、名古屋で開かれるワールドカップに中国は選手団を派遣したいと思っていると。しかし、大きな問題があるわけです。その問題というのは、日本卓球協会の会長をやっている後藤鉀ニという人が台湾派だといわれていたわけです。それで、ご存じのように、ワールドカップというのはIF、International Federation というのでしょうか、IFが主催するのです。日本で開催するけれども、主催はIFで、主管国が日本になるわけです。その主管国の日本卓球協会の会長の後藤鉀ニという人は台湾を認めている人なのです。そういうことがあって、日本の荻村伊智朗や松崎キミ代など、中国ととても親しい日本の卓球界の人たちは後藤鉀ニを毛嫌いしていました。あの台湾派がいる限り、日本の卓球協会は中国と仲良くできないと。
中島健蔵が団長で行った代表団の中に荻村伊智朗が入っていました。そして、周恩来と会った時に、周恩来が来年の卓球のワールドカップに中国の代表団を久しぶりに。というのは、毎年、卓球の日中交流はやっていたのです。日中文化交流協会と日本卓球協会が、60年代からやっていました。スポーツの中で最も中国と多く交流したのは卓球です。バレーボールもやりました。それから、サッカー、それに水泳、山中という人がいたでしょ。その人も中国に行ったりして。私が協会に入った頃は本当に、文学や演劇や映画の交流もありましたけれどもスポーツの交流はものすごく多かったです。
会見の席で、周恩来が後藤鉀ニ先生は私たちの友人ですという話をしました。荻村さんが驚いてしまって、あの台湾派の後藤鉀二を友人ですと言ったと。中島先生に、中国の卓球代表団が日本に行けるような土壌作りに協力してほしいと。帰ってきて、中島先生は後藤さんと連絡をとりました。中島先生の意を受けて、直接後藤さんと会ったのは白土さんです。中国の周恩来の意を受けて、中国の代表団が参加したいと。アジア卓球連合の会長は後藤鉀ニです。後藤さんは日本卓球協会の会長でもあり、アジア卓球連合の会長でもあるのです。世界卓球連合は台湾を認めていなくて、中華人民共和国を認めている。ところが、アジア卓球連合は台湾を認めていて、中国を認めていない。ねじれているわけです。それで、後藤さんに、あなたが会長をやっているアジア卓球連合を整頓してくれと。
ワールドカップを開く時に、最も強い中国が参加しないワールドカップは、値打ちがないわけでしょ。だから、後康さんとしても、中国を招きたいわけです。だけれども、アジア卓球連合から台湾を追い出すということはできない。いろいろと考えた結果、とにかく後藤さんに周恩来に会ってもらうことだと。日中文化交流協会としては周恩来が後藤さんを中国に招きたいと言っているわけですから、行ってもらうことを交渉したわけです。
その後、後藤さんは訪中して、周総理とお会いし、その後、中国卓球協会、中国人民対外友好協会、日本卓球協会と日中文化交流協会の四団体の会談紀要というものを結んで、中国卓球代表団が日本に来ることになったわけです。
後藤さんは北京から東京に帰らずに、真っすぐアジア卓球連合の組織があったシンガポールに飛んで総会を開き、台湾除名の動議を出すわけです。ところが、それは否決されてしまいました。そこで、日本卓球協会はそこから脱退し、自分自身もアジア卓球連合の会長を辞めますと。そこまでやったわけです。後藤鉀ニをしてそこまで決断させたというのはやはり周恩来の魅力と外交だと思います。
谷野:すごい人ですね。面白い話です。
佐藤:中国卓球代表団が来日し、第 31回世界卓球選手権大会が名古屋で開かれて、大変成功裏に終わりました。それで帰る頃に、宿から卓球の会場に行く中国選手団のバスにアメリカの選手、コーエンという選手が迷い込んできた。迷い込んできたコーエン選手に荘則棟が非常に親密に話をして、仲良くなった。最後にはお互いにプレゼントの交換までやった。中国とアメリカの選手が接触したということで、ものすごいニュースになりました。中国卓球選手団には、副団長として対日問題の王暁雲その他、唐家璇、王効賢、周斌などが入っていました。
谷野:鉄仮面と僕らは言っていました。表情のない人です。その後の展開はよく知られているところですから。
佐藤:それで、アメリカ選手団が北京を訪問し、周恩来が歓迎しました。初めてのアメリカ代表団でしょう。その年の7月が、今度はキッシンジャーの秘密訪中です。71年、同じ年です。パキスタンから入ったわけでしょ。その時にキッシンジャーをパキスタンから北京まで案内した人が章文晋という、対外友協の王炳南の後の会長をやった人です。皆、周恩来のもとで働いた外交官です。
谷野:どうもありがとうございました。さて、最後に、日本側のお話を伺うとすれば、日本側も映画界、舞台をなさっていた方はいろいろとあるけれども、まずは杉村春子さんです。『女の一生』、文学座、中国でもあれは確か上演されましたよね。
佐藤:そうです。『女の一生』は60年にやりました。
谷野:当時は文学座や民芸、俳優座、ぶどうの会というのもありましたね。
佐藤:山本安英が代表者です。
谷野:こういう人たちが中国に行くと、必ず周恩来が会うという時代だったらしいですが、文学座もいろいろとごたごたとした時だったのでしょう。
佐藤:そうです。何度も分裂しました。
谷野:杉村さんはどういう方ですか。
佐藤:名優であることについてはいろいろな雑誌もあり、本もたくさん出ていますよね。
生まれは広島です。彼女はもともと歌手志望で、広島から東京に出てきて、芸大を何回受けても駄目で、築地小劇場の俳優になりました。決して平坦な道ではありません。杉村春子は、いろいろな苦難がありましたが、日本を代表する俳優になりました。
杉村春子という人はどういうことがあっても揺るがない意志の強い人だと思います。四人組で中国が変な時代でも、千田さんと同じです。必ずこういう時代は終わるわよと。私は中国を、つまり、周恩来を信頼するという姿勢です。杉村春子は最初、56年にアジア連帯委員会代表団(谷川徹三団長)の一員として各国を訪れ、帰りに北京を訪問しました。中国の人たち、夏衍や田漢に会って、その人たちに魅了されるわけです。中国はまだ建国7年目、ものすごく大変な時期でしょう。食べるということが大変な時期ですよね。その中で、中国の演劇人は一生懸命に演劇をしている、その情熱というものに杉村春子は非常に打たれるのです。
その時に北京で夏衍に会って、日本の演劇人が来るだけではなく、芝居を持ってきたいと杉村さんが話したのです。それで、夏衍さんがとてもそれはよい案だということで、それで実現したのが1960年、日本の文学座、俳優座、民芸、東京芸術座、ぶどうの会、この5劇団がそろって中国に芝居を持っていったわけです。歌舞伎は随分と海外公演はありますけれども、新劇の海外公演というのはそれが最初のことで、それまでは考えられない時だったのです。だから、大変な準備でした。それで、文学座は『女の一生』がその時の出し物です。ぶどうのは山本安英の『夕鶴」。
ところが、『女の一生』の物語に対して、中国で上演するのは不適当であるということが起きたのです。
谷野:中国が批判したというのは。
佐藤:杉村春子が扮する主人公(布引けい)が、家を守るためにかって愛した共産主義思想を持つ義弟である栄二を官憲に売るような、そういう芝居だということ。そういう時代があって、日本は戦争に負けるわけでしょ。布引けいが支那貿易をやっていた堤家も崩壊する。全部焼けてしまう。その焼け跡に布引けいがたたずんで、一体、私の一生は何だったのでしょうかという有名なセリフがありますよね。自分はこの小さい、貧しい、私がこの家の庭に迷い込んできて、この家に引きとられ、女主人に見初められて、長男と結婚し、この家の女主人になり、一生懸命に支那貿易をやったと。今は、皆、失ってしまったと。一体、私は何のために生きてきたのだろうと。だけれども、「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの」という、例の有名なせりふ。そこに栄二が、自分が官憲に売った人が訪ねてくるのです。栄二も布引けいを好きで、2人は愛し合っていたのです。しかし、布引けいは堤という家を守るために、結局は栄二を売る、官憲に渡すわけです。それで、栄二は国外追放のようになってしまいます。布引けいは、その間、栄二の子どもを一生懸命に面倒見ているのです。
最終幕、焼け跡の堤家に栄二が帰ってくるのです。2人は万感の思いを込めて、ありとあらゆることを捨ててというか、そこで2人でカドリールを踊るのです。そこが問題になったのです。誠に日本的な舞台でしょ。それが終幕なのです。
それで、中国としては何だと。栄二は自分を売った女と何十年ぶりに再会するのだから、ぶん殴る、殺してもよいではないかと。それを、カドリールを踊るというのは何だと。だから、中国人の感性というか、感覚が全然違いますよね。それで、そこを改訂しなければ、となったわけです。脚本の改訂というのは大問題ですからね。原作者の森本薫は、杉村春子が愛した人です。書いた森本薫は死んでしまっているわけですから。しかし、そこを改訂しなければ訪中公演はできないと。それで考えて、結局、改訂はしないけれども、最後のカドリールを踊るところをカットしたのです。
それに対して文学座の人たち、芥川比呂志や賀原夏子、中村伸男など、文学座の人たちが皆、何だと。杉村さんが中国、中国と、中国にばかり目を向けてしまって、『女の一生』の最も重要な最後を、改訂というよりも大きな変更ですよね。そこでカドリールを踊らなくしてしまったのだから。文学座が分裂してしまった。それでも杉村さんは分裂に耐えて。その時に、中島さんや日中文化交流協会の副理事長だった亀井勝一郎が杉村さんを慰めて、杉村春子を守る会をつくりました。中島健蔵と亀井勝一郎、物理学者の朝永振一郎。朝永振一郎も協会の役員だったのです。あの人は50年代に日本物理学代表団を率いて中国に行っていますから。
谷野:面白い話です。
佐藤:亀井勝一郎という人も本当に忘れられない人です。1960年に中国に行った時に、有名な陳毅(2)との会談がありますでしょ。
(2)「皆さん、ありがとう。われわれは過去のことは過ぎ去ったものにしようと言い、(あなたたちは、日本人として)過去を忘れてはいけない、と言われる。そうであるなら、両国人民は本当の友好を実現できるでしょう」
「逆にわれわれが日本人をずっと恨み続け、あなた方日本人は中国を傷つけたことをきれいさっぱり忘れてしまうことになったら、日中両国はいつまでたっても友好関係を実現することはできないでしょう」
(1960年、野間、亀井勝一郎氏ら日本作家訪中代表団に対する陳毅副首相兼外相の発言)
谷野:あれは僕が大好きなやりとりで、いろいろなところであの話はしています。それで私のファンの。
佐藤:高峰三枝子ですか。
谷野:三枝子さん。
佐藤:三枝子さんも、あの本を読んでいただければ分かりますけれども、高峰三枝子といえば、往年の大スターです。ですから、中華人民共和国成立以前、昭和15~16年に高峰三枝子は松竹から慰問という形で北京に何回も行っています。その時は陸軍から頼まれて行くわけでしょ。あの頃、皆、慰問に行ったそうです。映画人でも、それから歌手や作家も慰問に行くでしょ。林芙美子、火野葦平なども行っています。
そういう形では行ったけれども、戦後、高峰三枝子はずっと中国に行っていないわけです。高峰秀子は 1963年に行っています。自分の『二十四の瞳』が1950年代に中国で大ヒットしたでしょ。だから、高峰秀子は三枝子よりもずっと前から中国に行っています。高峰三枝子は協会との接点もありませんでした。高峰三枝子さんは藤山愛一郎さんととても親しくて、藤山さんは70年代から中国と親しかったですよね。
谷野:国貿促か何かをやっていましたからね。
佐藤:それで、高峰三枝子が藤山さんに、中国に行ってみたいという話をしました。藤山さんは、ただ遊びに行くこともできるけれども、そうではなくて、日中文化交流協会という団体を僕はよく知っているから、協会が派遣する代表団の一員として行くのがよいと思うと。それで、藤山さんから日中文化交流協会に話があったのです。
高峰三枝子が行きたがっているから、何かよい代表団があったら入れてほしいと。
その時、代表団派遣がちょうど決まっていた。72年です。国交正常化が72年の9月29日ですよね。その10月に、周恩来が民間の人たちを招待したのです。政府と政府の間で国交を正常化したけれども、その陰には長い民間の力が非常に大きいと。
それを感謝するというか、記念するために民間から呼んでくださったのです。それで、協会からは、中島さんは忙しく行けないので、宮川寅雄という人が団長で、そのメンバーに杉村春子も入っていました。それから、團伊玖磨や藤堂明保という中国語の学者、日本相撲協会の武蔵川理事長など、そういう代表団が決まっていたのです。そこに藤山さんから高峰さんをと言われたので、10人ほどの代表団の中に有名な女優が2人が入っているのはどうかと、杉村さんに相談したのです。高峰さんのような人が中国に行けばもっと輪が広がると思うと、私は大賛成よと。それで一緒に行ったのです。高峰さんは、もう本当に大喜びして。
北京に行った時に、面白い話が2つあります。一つは、高峰さんは北京で興奮してしまって、王府井に行きたいと。昔に来た時、王府井という名前を知っていると。
王府井は今でもあるかと言うから、ありますと。それで、王府井に行きました。その頃は「為人民服務」というスローガンが書いてありますよね。人民のために服務せよと。それをずっと見て、買い物をして、ホテルに帰ってきました。宮川団長が、高峰さん、どうでしたか。王府井はきれいだったでしょと言ったら、すごく懐かしかったと。昔はごみごみしていたけれども、きれいになったわねと言って。それにしてもどうして洋服屋さんがあれほど多いのでしょうと言うのです。何を言っているのかと思ったら、高峰さんは「為人民服務」というのを洋服屋さんの看板と思ったらしいのです。それで、宮川先生がそれはスローガンのことだと言って大笑いしました。「あら、私、知らなかった。はずかしいわ」と。高峰さんはそういう、とても、素直な人でした。
それから、メンバーの中に1人、藤井治夫という軍事評論家が居たのです。北京から天津に近い揚村というところに、中国の陸軍196 師団という師団があるのです。その軍事評論家がそこを参観に行ったのです。それで、代表団は10人もいますから私は行きませんでしたけれども、杉村さんは演劇だし、高峰さんは映画でしょ。団先生は音楽でしょ。だから、皆、それぞれ別の日程をこなしているわけです。だから、接待している対外友協としてはとても手間がかかるわけです。いつも言われていたのは、日中友好協会代表団などは、バスも1台でよいし、どこに行くのでも一つの日程だけ立てればよいと。日中文化交流協会はいつも同時に3つか4つの日程を組まないといけないので大変ですと言って。通訳も余計にいるしと。その時も軍事評論家は天津の近くの揚村という場所に行くということになりました。そしたら、高峰三枝子が、藤井さん、私も連れていってくださいと言いだしたのです。映画人とも交流しましたが、その揚村にも行ってみたいと。それで、藤井さんと一緒に行きました。対外友協の金黎さんが案内しました。ご存じでしょ。
谷野:朝鮮族の人ですか。
佐藤:小柄の人で、日本語がとてもうまくて。あの人が高峰さんと藤井治夫を連れていったのです。それで、帰ってきました。そしたら、金黎さんが私の部屋に飛び込んできて、佐藤さん、大変なことがあったのよと言うから、何か変なことをやりましたかと言って驚いてしまったのです。そしたら、高峰さんが大感激して、そこで泣いてしまったと。どういうことがあったのかというと、揚村の陸軍の師団に行った時に、昔、日本軍と戦った時のいろいろな記念品が記念館にたくさん陳列してあるらしいのです。日本兵の服など、そういうものをたくさん陳列してあるらしいのです。そしたら、その中に高峰三枝子のブロマイドがあったと。つまり、日本の兵隊が持っていたわけでしょ。その頃、まさに高峰三枝子が最も華やかに松竹の女優として輝いていた時期でしょ。だから、兵隊に行く人たちはその映画を見て、高峰三枝子のブロマイドを持って、戦場に行ったわけでしょ。それで、たまたまそのブロマイドがあったのだと。
高峰さんはそこでもう泣き崩れたらしいです。高峰三枝子はその時にどういう思いをしたか、もう言葉に出せなかったと。ただ、ワーッと泣いたと。だから、金黎さんはその高峰三枝子の姿というものに非常に心を打たれたらしいです。高峰さんの涙は、金黎さん流に言えば、松竹の女優であった自分は、戦争に行く兵隊たちが最後まで自分のプロマイドをアイドルとして持っていたということは、自分もその戦争に加担したとも言えなくもないわけです。そういう涙でもあるだろうし、どういう涙だったのか分からないと。金黎さんはものすごく感激して、高峰三枝子を大好きになったのです。
73年に廖承志が団長で大型の代表団が来たのですけれども、73年は国交正常化翌年でしょ。それで、日本のいろいろな団体が一緒になって、中国から大型の代表団を招待した。廖承志が団長で、金黎さんや金蘇城さんなどがいて、孫平化が秘書長かな。金黎は副秘書長で来たのです。50人ほどの代表団ですから忙しいでしょ。忙しいけれども、佐藤さん、頼みがあると。どうしても高峰さんの家に行きたいと。高峰さんに会いたいと言って。それで、高峰さんの家にご一緒しました。
谷野:あの人は趙丹と随分と交流が。
佐藤:趙丹と伸がよいのは、三枝子ではなくて、高峰秀子です。高峰秀子をまた気骨のある女性です。三枝子さんとはまた違う意味で。
谷野:僕は恥ずかしながら2人はご姉妹かなと思っていた。
佐藤:全然違います。高峰秀子は『二十四の瞳』が中国で公開されているし、協会が62年に中国映画代表団を招待した時も、熱心に協力してくれました。その時、趙丹が来たのです。趙丹が高峰秀子の家を訪問して、非常に仲のよい友達になりました。それで翌年の63年に招かれて、高峰秀子は松山善三と2人で中国に行くのです。趙丹がずっと案内して、ものすごく親しくなるわけです。ところが、文革になって、趙丹は真っ先にやられたでしょ。
谷野:あれは上海にいたから、江青の駆け出しの頃のことを知っているが故に、江青が随分といじめたと言われています。
佐藤:最初にやられた人ですから。
谷野:高峰三枝子で私が覚えているのは、韓国に在勤していた時に、ノテウ(盧泰愚)さんという後に大統領になった人、この人を公邸にお招きしていたのですが、なぜか一人でいらっしゃって、それで高峰三枝子の『湖畔の宿』を歌いたいと言いだしたのです。当時、韓国で日本の歌を歌うというのはご法度でしたから。しかも次に大統領になることが決まっている人が、事もあろうに日本の大使の公邸で『湖畔の宿』という、これはいけないと思って。
佐藤:すごい話ですね。それも面白い。
谷野:それで、サーブに出ていた韓国のボーイたちを全員下がらせて、大使と館員だけにして、じっくりと盧泰愚さんの『湖畔の宿』の絶唱を伺いました。
佐藤:盧泰愚という人は、そういう世代の人なのですね。
谷野:だから、高峰三枝子さんは朝鮮半島でも有名だったのですね。もう一人は、話は少し脱線するけれども、やはり有名なのは李香蘭さんです。私は現役時代、この方は参議院の外交委員長もなさっていたから、随分と親しくさせていただいて、私を見かけると必ず、本当にきれいな北京語で、「最近はどうですか」と。最初の呼びかけは中国語だったのを覚えています。私がよく山口さんに申し上げたのは、先生はいろいろな人生をすみ分けられた。李香蘭の時代、それからイサム・ノグチと短期間夫婦だった。そして次に外交官の奥さまになって、最後は国会議員で、4つの違う人生をすみ分けた方ですねと。3番目の外交官の夫人であった時は、ご主人は大鷹さんでビルマの公使だった。ビルマのネ・ウィンという人がまた香蘭の大変なファンで、そういうこともあって大鷹さんは随分と、李香蘭がご夫人であるが故に、ネ・ウィンとも随分と会えたようです。だから、女性で、高峰さんや李香蘭というのは国際的にも存在感があった人ですね。趙丹は秀子さんのほうですか。
佐藤:そうです。高峰秀子は趙丹が復活するまでは絶対に中国に行かないと言っていました。高峰三枝子も秀子も2人とも亡くなりましたね。
谷野:次の話題で團伊玖磨さん、この方も私はかなり親しくさせていただいて。
佐藤:2001年に亡くなったのですが、2000年に北京で先生とお会いしました。
谷野:そうです。それで、2001年、お出かけになる前にわざわざお電話いただいて、その前に奥さまを亡くしておられるでしょ。
佐藤:前の年に奥さんを亡くされました。
谷野:それで、これから中国に行ってきますという、わざわざお電話をいただいて恐縮したのですが、なんと訪問先の中国で急逝された。
佐藤:蘇州です。
谷野:蘇州ですか。驚きました。
佐藤:私は本当に中国に 100回ほど行きましたけれども、どうしたらよいか分からなくなったのは、團さんが蘇州で亡くなった時です。天安門事件の時などは別に、時を待つ以外に仕方ないわけですから。だけれども、團先生が亡くなった時にはもうどうしょうと。
谷野:演奏中に倒れたのですか。
佐藤:いや、日中文化交流協会の代表団で団長として行った時です。中国には團さんのフアンがたくさんいましたから、團さんを元気づけるために團先生の作品を中央楽団が演奏する、それを團先生が振るという、團伊玖磨作品コンサートという企画を中央楽団が計画したのです。それが2001年の6月、私たち事務局としては、それは大変な仕事でしょ。お遊びではないわけですから。その前に代表団で中国に行くということはしないほうがよいと言ったのですが、どうしてもその前に自分は中国に行きたいと。というのは、歌舞伎の中村芝翫、もう亡くなりましたけど、今の芝翫のお父さんです。その人を中国にお連れしたいから、どうしても行くと言って、5月の10日に東京を立ったのです。それで、北京に4泊して、杭州に2泊、5月17日に蘇州で心筋梗塞、急逝です。
しかも前の日まで何でもなくて、前の晩、対外友協の袁敏道さんとおしゃべりしたり、その夜の蘇州の宴会の主人がすごく感じのよい人だったので、團先生もご機嫌で、明日は上海だねと言って。もう2~3日したら東京に帰るからというので、銀座に「スーリー」という行きつけの小さなバーがあったのですが、マスターが何十年来の友達で、ナオちゃんという人だったのですが、そのナオちゃんに電話して、明後日、東京に帰るからねと。真っすぐ家に帰るのは嫌だから、スーリーに寄るから開けておいてという話をしました。私は部屋に帰って休みました。そしたら、「團です。すぐ来てください」という電話がかかってきて。何があったのかと思って部屋に行ったら、倒れていました。
協会の事務局の斎藤真希子さんと袁敏道さんも部屋に入ってきて 3人で、トイレからやっとベッドに寝かせて、すぐフロントに頼んで救急隊を呼んでもらいました。だけれども、あれよあれよという間に、もう駄目だという感じが私は分かりましたからね。それで、とにかく袁敏道さんとうちの協会の斎藤真希子さんと私と、とにかく死にゆく人の手でも足でも触りましょうと。私たちはそれしかできないのだからと。私と真希子さんと袁敏道さんと3人でこうやってね。私は手に触りました。皆で触って、「先生、長い間、ありがとうございました」と私はその時に言いました。苦しい、苦しいと。それで、もうあれよあれよという間に亡くなってしまいました。そこに救急隊が来たのです。あっという間でした。心筋梗塞です。
谷野:心筋梗塞ですか。
佐藤:それから救急隊は、生きている人は病院に運べるけれども、死人は運べないと。私は、これからどうしたらよいか分からないけれども、死亡診断書のようなものはこれから何をするのでも必要だと思ったのです。そのためには、お医者さんからそういうものをもらないといけないですよね。そのためには病院にとにかく行かないといけないと思ったのです。それで、袁敏道さんに頼んで、今、亡くなったこの人はただの人ではなくて、とても日中友好に尽くした人だと言ってもらいました。それで蘇州市人民病院に運んでもらいました。
佐藤:袁敏道さんは、私の戦友なんです。袁敏道さんが病院のお医者さんに、この人はすごく日中友好に貢献した人だと。だから、遺体ではあるけれども、死亡診断書を書いてくれと頼んで、それで心筋梗塞ということになったのです。それで、病院といっても普通の病室に置けないでしょ。もう亡くなってしまっているわけですから。だから、遺体安置所がやはりあるのですよね。日本の病院にもどこでもあるでしょ。その遺体安置所に團先生を移したのです。
それから、殯儀館という葬儀場に。私は絶対に遺体のままで日本にお連れしようと思ったのです。東京のほうでも、全日空は團先生のお父さんが役員をしていたことがあって、全日空と團家は親しかったので、全日空は遺体をきちんと上海から東京までお連れするという了解を取っていました。ところが、蘇州では、今まで蘇州で亡くなった人がたくさんいるけれども、皆、ここで火葬して、それでお骨にして持ち帰るのが普通であると。遺体のままでなんてとんでもないと。
その時、阿南惟茂さんが大使だったのです。大使になったばかり。阿南さんは先生の後でしょ。園先生は、北京で阿南さんとも会ったのです。阿南さんにしてみれば、2~3日前に会った團さんが蘇州で死んだわけですから。それで、私は阿南大使に電話をして、今、蘇州の焼き場でもめていると。それで阿南さんが、上海にいる総領事に連絡してくれて、上海からすぐ来てくださいました。総領事です。
谷野:市橋君、モンゴル大使をやった人です。
佐藤:そうかもしれません。その人に阿南さんが連絡をしてくれて、今、蘇州で園さんが亡くなったと。日中文化交流協会の佐藤さんがいろいろと苦労しているらしいから、協力してやってくれということで、ものすごく朝早く訪ねてきてくださいました。
それで総領事の人も一生懸命に、蘇州側を説得してくださって、遺体のままで帰ってきたのです。團先生は中国を題材にした曲をたくさん書いています。管弦楽『シルクロード』や交響曲『万里の長城』『敦煌繚乱』など、いろいろと書いています。
谷野:最後に、前進座、河原崎さん、この方は共産党ですよね。
佐藤:そうです。だけれども、長十郎さんはもう共産党を脱しました。
谷野:そうですか。ご苦労もあったのでしょうね。『屈原』や、いろいろな芝居をやった。脱党されたのですか。
佐藤:そうです。除名を受けたのか、自分から脱したのか、どちらが早かったか分かりません。
谷野:あそこも内部は大変だったのですか。
佐藤:前進座は共産党の人たちがほとんどなわけですから、日本共産党と中国共産党の対立をもろに受けるわけです。それで、ほとんどの人はやはり日本共産党の言うことに賛成するわけでしょ。だけれども、長十郎さんは中国に賛意を表明したわけです。
それをもう少し多数派工作など、いろいろとやればよかったのに、長十郎さんはもう旗を揚げてしまったから。それで、結局、少数派になってしまいました。翫右衛門以下、ほとんどは残りました。
谷野:前進座は今でもありますよね。
佐藤:ありますけれども、変わりました。
谷野:中国との関係は。
佐藤:よくもなし、悪くもなしでしょ。
谷野:そうですか。長い間、ありがとうございました。
佐藤:もうとてつもない話だから。だけれども、今、考えると本当に懐かしいですね。
谷野:最後に、いろいろな人の名前が出てきたでしょう。これは難しいのですが、例えば周恩来は、日本の新聞の朝日などはようやくチョウオンライと本来の呼び名を仮名で振ったりしていますね。毛沢東ではなく、マオツオートンと。私はそうあるべきだと思います。北京をペキンと言っているのは今、日本だけで、ベイジンでしょ。
上海はシャンハイでよいのですが、両方ともシャンハイで。地名・人名は本来の呼び名で、その代わり日本人を呼ぶ時も本来の呼び名で呼んでほしい。しかし、ここが難しいのです。私は、これは1回だけだったのですが、谷野というのはグーイエというのです。1回だけセミナーに呼ばれたら名札があって、グーイエ、古野と書いてあるわけです。同じ発音ですから。それで、ここが違うと言ったのですが。日本人を本来の呼び名で呼んでほしいという時にどういう表示の仕方があるのか、そこが悩みなのですが、私は本来、そうあるべきだと強く思っています。
佐藤:韓国の場合はどうですか。
谷野:韓国はタニノです。ハングルでそのまま書き表せる。いわゆる韓国流の、今はむしろそちらが主流になりましたが、だから昔、私は日本のメディアの人に、向こうはそうやっているのだから、日本も金大中(きんだいちゅう)と言わないで、キムデジュンと言ったらどうかと。今はそうなりましたね。
佐藤:台湾はどうですか。
谷野:台湾は同じ悩みを抱えています。ところが、それが定着したのは日本と韓国だけです。先ほども盧泰愚---の話をしましたが、あれを日本流で呼べばロタイグ。朴槿恵はパククネというでしょ。要するに韓国と日本との間では完全にタニノ、ノテウ、パククネで定着しています。それはやはり韓国には表記の仕方があるからです。そういうことをいつも思うのですが、なかなか難しいですね。ありがとうございました。
佐藤:この間も言いましたけれども、周恩来という人は本当に千両役者ですね。先ほどの杉村春子と高峰三枝子と、同じ代表団に入って訪申した時、周総理は、人民大会堂で盛大な日中国交正常化記念祝賀会を開いて下さいました。1972年10月23日です。祝宴が終わりかけた時に、メインテーブルにいた周恩来が二輪の菊の花を持って、歩きだしたのです。周恩来はどこに行くのかと、皆、見守っていました。そうしたら、杉村春子と高峰三枝子のところに持って行って、その菊の花をね。本当に千両役者です。杉村さんはその菊の花をずっと押し花にして、亡くなった時に私のお棺に入れてと言っていたのです。私は、亡くなられた時、文学座に行って、松下砂稚子さんに、周恩来からもらったお花を入れましたかと聞きましたら、入れましたよと。遺言にしていましたからね。杉村さんが亡くなったのは97年です。周恩来は本当にスマートな人でした。
谷野:ありがとうございました。
佐藤:いえいえ。本当に拙い話で。
谷野:いろいろな方に読んでいただきたい。
佐藤:本当に懐かしいです。
谷野:こういう話をしっかりと受け止める年代はまだ存命ですから。
佐藤:これから中国はどうなるのでしょう。日本は嫌中で、中国も日本を好きでない人が増えているのでしょう。どうなるのでしょうか。心配ですね。
Journal of World Affairs (海外事情)
2023年7月
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上記記事の電子版
https://www.tokyo-np.co.jp/article/226676
2023年1月22日
東京新聞 こちら特捜部
台湾や尖閣諸島での有事を念頭にした日米防衛協力の強化が進む一方で、日中間の対話はなかなか進まない。かつて「村山談話」を作成し、中国大使も務めた谷野作太郎氏(86)は現状をどう見ているのだろうか。村山談話を振り返るとともに、日中関係についても聞いた。(大杉はるか)
◆「国策を誤り…」示した戦争責任
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」。戦後50年の節目となる1995年8月15日、自社さ連立政権の村山富市内閣は、談話を閣議決定した。日本の戦争責任を内外に示すとともに、その後の政権にも引き継がれた。
これを手がけたのが、当時、内閣外政審議室長だった谷野氏だ。「侵略戦争というのは間違っている」「アジアを解放するための戦争だった」といった歴史を直視しない閣僚らの発言が相次いでいたこともあり、「こんなものばかりが日本からの発信ではいけない」との思いがあった。
村山談話を振り返り、日中関係について語る谷野作太郎氏=東京都千代田区で
たにの・さくたろう 1936年6月、東京都出身。60年外務省入省、鈴木善幸首相秘書官、米国・韓国公使、アジア局長などを経て、92年内閣外政審議室長。河野談話、村山談話の作成に関わる。95年インド大使、98年中国大使。
閣議決定によって「相当重みのあるものになったが、保守色の強い閣僚もいたため、大変なことになったとも思った」と振り返る。力点を置いたのは「国策を誤り」の言葉。「自然と出てきた」と明かす。一方で後段にある「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫わびの気持ちを表明する」の「お詫び」は原案には入れなかった。「お詫びは何回もやっていた。『謝ったからいいじゃないか』と安易になる。それよりも歴史に向き合う方がよほど大切で勇気がいる」
2015年には、戦後70年の安倍談話も閣議決定された。「歴代内閣の立場は、今後も揺るぎない」としたが、村山談話の3倍近い長さ。谷野氏は「談話というより大演説。国内のいろいろな向きに配慮した結果なのだろう」と指摘し「要はあの時代の不幸な歴史に向き合い、未来に過ちなきよう教訓をくみ取っていくということに尽きる」。
村山談話では、世界の平和のために、近隣諸国との理解と信頼にもとづいた関係を培うことが「不可欠」としたが、谷野氏は「全然そこに至っていない」と見る。日本での近現代史教育を充実することや、独仏両国の活発な交流や協力を内容とするエリゼ条約(1963年)の「東アジア版」締結を提唱する。
昨今叫ばれている台湾危機については「安直な予想屋とは距離を置きたい」としつつ「起こしてはいけない」とひと言。
岸田文雄首相は13日、米国での講演で中国との関係について「対話を重ね、建設的かつ安定的な関係の構築を双方の努力で進めたい」と語ったが、谷野氏は「米中対立の狭間はざまで多くの東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国が当惑している」とし、中国だけでなく、米国にもアジアの代表として発言する重要性を強調。「国際供給網から中国を排除すれば失うものの方が大きい。岸田首相はしっかり主張できているか」と疑問を投げ掛ける。
谷野氏が最後に語ったのは、やはり「対話を続ける外交が大事」だということだ。「不況になり国内が不安定になると、中国は対外的に強く出る」と懸念を示した上で、こう話した。「コロナの影響は大きいが、経済を含め、対話の窓を閉ざさないこと。日本の心配を、気後れせずに中国に伝えていくことだ」
2023年1月22日 12時00分有料会員限定記事
谷野 作太郎
服部 龍二,若月 秀和,昇 亜美子 編
■体裁=A5判・上製・336頁
■定価(本体 6,400円 + 税)
岩波書店
2015年12月4日
日本はそれにどう向き合ってきたのか.
中国,韓国,東南アジア,インドなどアジア政策全般に携わり,河野談話,村山談話の作成にも深く関わった元駐中大使の証言から,政治家や外交官たちの言動を丁寧に描きだし,アジア外交の舞台裏を再現する.
『元大使の矜持にじむ率直な回顧』
ここ数年、第一線を退いた外交官による回顧録、現役の外交官による書物の刊行が相次ぐなか、本書はいくつかの点で異色である。
まず内外の要人の言動に対する著者の誠に率直な(時には率直過ぎる)印象・評価があり、首相・外相経験者に対してもそれは遠慮がない。
そこには、中国政府首脳に関してながら、「権威におもねる」ことを「嫌なんです」と言い切る著者の人柄が投影されていよう。
著者が40年にわたる外交官生活を、海外の関係者とのやりとりはもちろん、時には吹き出さずにはいられない多くのエピソードを交えながら、ざっくばらんに振り返る様も、他の外交官の著作にはない特色である。
著書は駐韓公使、アジア局長、インド大使、中国大使を務めるなど主にアジア畑を歩いた。
福田ドクトリン、天皇訪中、アジア女性基金などに関わった人物として知られているだけに、アジア外交の回顧がやはり興味深い。
対中国・ベトナム政府開発援助、カンボジア和平、天安門事件後の中国政策、対インド円借款などに日本独自の外交戦略を指摘し、欧米とは一線を画すものであったと強調。
実際、本書ではアメリカの影は薄い。
総理秘書官を務めた鈴木内閣の退陣については一般的な理解とは異なる解釈を示すほか、日本を含む六者会議を提案した廬泰愚元韓国大統領は高く評価。
天安門事件後の対中制裁問題を巡っては制裁解除に前向きな日本をほとんど「罵倒」しながら、実は極秘に訪中し、対中関係の打開を図っていたスコウクロフト米大統領補佐官との会談の模様を詳(つまび)らかにする。
1998年の江沢民主席訪日の際、日中共同宣言に日本の謝罪の表記があれば、中国は日本の国連安保理常任理事国入り支持を明記する用意があったという中国政府高官の発言―ただし著者は「にわかに信じがたい」と慎重であるーも明らかにし、いわゆる「価値観外交」は中国「締め上げ」と対外的には受け止められていると批判する。
日中韓間の歴史問題に取り組んだ著者は、内閣外政審議室長として関与した河野談話、村山談話の作成に至る過程も語っている。
「歴史」を乗り越え「和解」に至る上で、関係国の強い政治の意志とリーダーシップが必要であり、謝罪よりも「歴史を曲げず、これに勇気をもって向き合い、そこから未来への教訓を汲み上げること」が大切であると主張する。
日本のアジア外交を長く切り盛りし、奮闘した人物の強烈な自負と矜恃が感じられる回顧録である。
(サイトhttp://style.nikkei.com/article/DGXKZO97253950T10C16A2MY7001?channel=DF130120166021から収録)
(20161108)
(画像はインターネットより収録)
谷野 作太郎(たにの さくたろう、1936年6月6日 - )は、日本の外交官。
東京都出身。駐インド大使兼駐ブータン大使と駐中国大使を歴任した。内閣外政審議室長のとき河野談話と村山談話に関わった。
出典: フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)
人物
駐インドネシア大使などを務めた八木正男は岳父。妻の母方の祖父に森島守人[1]。小学校同級生に福田康夫ら。谷野はピッチャー、福田はキャッチャーとしてバッテリーを組む間柄だった。日比谷高校卒業。東大法学部卒業後、外務省入省。中国語研修を受けチャイナ・スクール外交官となる。
外務省アジア局長として、カンボジア和平プロセスに河野雅治南東アジア一課長(当時)と主導的役割を果たす。
1990年、北朝鮮への自民・社会両党訪朝団が朝鮮労働党と結んだ「南北朝鮮分断後45年間についての補償・償い」を盛り込んだ「三党共同宣言」に反発し金丸信と対立した。
1993年3月の参議院予算委員会で、内閣外政審議室長として慰安婦の「強制連行」問題における強制の定義について「物理的に強制を加えるのみならず、脅かして、畏怖させて本人の自由な意思に反してある種の行為をさせた場合も含む」と答弁[2]。河野談話や村山談話の原案作成に際して、言葉遣いも含めて中心的に関わったとされる[3]。また、談話をめぐって日韓間で文言のすり合わせ等の調整があったのではないかという疑惑については「韓国政府と一言一句文言を詰めたということは絶対になかった。また、そういうことがあったとの根も葉もない噂が出ること自体も大変遺憾なことだ」と強く否定していた[4]が、2014年6月に公表された河野談話の検証結果では、談話作成時に文言のすり合わせが実際におこなわれたとしている(慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話#河野談話の検証)。
学歴
1949年 東京第一師範学校男子部附属小学校卒業
1952年 東京学芸大学附属世田谷中学校卒業
1955年 都立日比谷高校卒業、東京大学文科第一類進学
1959年 外交官試験上級職に合格
1960年 東京大学法学部卒業
職歴
1960年 外務省入省
1961年-1964年 中国語研修
1964年 香港総領事館副領事
1971年 在ソ連大使館一等書記官
1973年 在中華人民共和国大使館一等書記官
1975年 アジア局(のちアジア大洋州局)南東アジア第二課長
1978年 アジア局中国課長
1980年 内閣総理大臣秘書官
1984年 在韓国大使館公使
1987年 アジア局審議官
1989年6月 アジア局長
1992年6月 内閣官房内閣外政審議室長
1995年9月 駐インド大使(兼駐ブータン大使[5])
1998年4月 駐中国大使
2001年4月 同帰任、退官
2002年 早稲田大学アジア太平洋研究科客員教授
その後東芝取締役、日中友好会館副会長、公益財団法人国立京都国際会館理事、公益財団法人日印協会評議員[6]、小泉純一郎首相タスクフォースメンバーなど歴任
栄典
2011年 - 瑞宝重光章[8]
著書
『アジアの昇龍――一外交官のみた躍進韓国』(世界の動き社、1988年)
『日本とアジア――新しい精神の絆を求めて(アジア研究所叢書)』斎藤志郎, 江畑謙介, 小島朋之, 木村哲三郎, 友田錫共著(亜細亜大学アジア研究所、1993年)
『外交証言録 アジア外交――回顧と考察』服部龍二, 若月秀和, 昇亜美子編(岩波書店、2015年)
『中国・アジア外交秘話――あるチャイナハンドの回想』(東洋経済新報社、2017年)
脚注
1 森 島守人のこと 一般社団法人霞関会、2017.11.13
2【阿比留瑠比の極言御免】河野談話は「霞が関文学」(2/4ページ)”. 産経新聞. (2015年8月6日)
3 【阿比留瑠比の極言御免】後輩官僚にさえ嘘、河野談話にこそ潜む「上から目線」+(2/3ページ) MSN産経ニュース 2014年6月19日
4 阿比留瑠比 (2014年6月17日). “河野談話の日韓すり合わせ、引き継ぎもせず全否定…宮沢内閣の真意は(1/2ページ)”. MSN産経ニュース (産経新聞) 2014年7月25日閲覧。
5 ◎食糧増産援助に関する日本国政府とブータン王国政府との間の交換公文 (略称)ブータンとの食糧増産援助取極
6 “日印協会役員等一覧”. 公益財団法人日印協会. 2014年4月4日閲覧。
7 戦後日本外務省内の「政治力学立命館大
8 『官報』号外129号、平成23年6月20日