僕の家は自由が丘にあった。第二次世界大戦の末期、空襲は日々に激化し、早朝・深夜を問わず空襲警報のサイレンが鳴りわたった。その為、僕たちはどんなに眠くてもその音で直ちに起床。防空頭巾をかぶり、避難用具を抱えて近所の防空壕に避難しなければならなかった。父は外地で、家には母と小学生の姉二人と僕の4人がいるだけ。近所の人たちも同様で、殆どが女・子供だけの世帯だった。
東横線が空襲で朝から不通になる日も多くなり、僕たち附小の生徒は、登・下校時には隊伍を組み、自由が丘⇔第一師範(学芸大学)駅間を歩いて通学するようになった。途中で度々空襲警報が鳴るので、そのつど僕たちは避難場所を探して右往左往した。ある時は急降下してきた敵機の機銃掃射を受けたことさえある。
そこで、家族ぐるみで田舎に転居する友もいたが、大半は学校が定めた長野県に集団疎開した。1944(昭和19)年夏のこと。僕たちは疎開学童としては最年少の3年生。親離れするのが何とも不安な年頃だった。
それでも、最初の疎開先は浅間温泉の旅館だったから、温泉につかるゆとりもあった。が、程なく下伊那郡上久堅村のお寺に再疎開させられ、事情は一変した。大勢の児童を受け入れたお寺さんも大迷惑だっただろうが、都会からの疎開生も生活の激変に悩み、難儀した。
興禅寺で工作 (右列手前が僕。靴下の底が大きく破けているのを見て、母は涙が止まらなかったそうだ)
今考えれば、客扱いに慣れた温泉旅館と、寒村のお寺の待遇を比較すること自体にムリがある。だが当時は、食事の量と質の急激な劣化に大いに悩み、僕たちは文字通り「餓鬼(ガキ)」と化した。いつも腹ペコだった。たまに「おやつ」が配られることもあったが「煎り豆数粒」だけ!!!皆は先ず皮をむしり、豆は砕き、それ等を少しずつ口に含んで噛みしめた。が、空腹感は増すばかり。そこで皆は、アケビとか桑の実を採って食することを覚えた。そして、ついには蛇、カエル、ネズミ等を捕まえ、殺し、火あぶりにしてガツガツ食したことも一再ではなかった(その風景は、思い出すだにゾッとする)。
宿舎となったお寺では、一番広い部屋をあてがわれたが、そこは何しろお寺の本堂だ。毎日早朝からチン・ポクポクと木魚等が鳴り、読経が始まる。だから僕たちはまだ暗いうちから、毎朝たたき起こされていた。おまけに、そこにはノミやシラミがめっぽう多くいた。だから、いつもノミ・シラミ潰しに躍起となっていたのだが全然効果はなく、全員が頭皮からつま先まで、一日中かきむしる毎日だった。
玉川寺学寮(1945年10月中旬の3~5年・男女全員)
便所にも困った。生徒数に対してあまりに数が少なく、本堂と離れた中庭にポツンと1棟の便所があるだけなので、いつも順番待ちの行列があった。待ちきれない者も、当然、出る。そしてこらえきれなくなると、そのすぐ傍で用を足してしまう。
すると、翌朝先生が朝礼で「便所の外を汚したのは誰か!後で教員室へ来い!名乗り出ないと全員に懲罰を課す!」と怒鳴られた。そこで最年少の3年生が犠牲になった。上級生の命で、その身代わりに教員室へ行かされるのだ。もちろん当時は教師が生徒に体罰を加えるのは、当たり前のことだった。
極めつきが「へ(屁)の歌」。僕はこの歌を80歳になった今も覚えていることに、ひそかな誇りさえ感じる。それは僕たちが、どんなに辛い思いをしていた時でさえ、ユーモア感覚を失わなかったことの証と思えるからだ。
どんな時に歌ったかというと、例えば、勤労奉仕で里山から村役場に薪を運ばされる時。薪束はかなり重い。ことに雨の翌日などはズシリと重い。小学3年生には相当の重荷だ。けれど誰も「いや」とは言えぬ。仕方がないから、思い切り全力でふんばって持ちあげる。するとその弾みでオナラ(屁)が出るのだ。あちこちで断続的にそんな音がした。
そこで誰かが大声で<第一歌「屁の歌!屁にはブースーピーの3種あり!!!>と怒鳴る。するとその後すぐに皆が声をそろえて<ブーは音高けれど匂い無し。スーは音無しけれど匂い濃し。ピーは少々水気あり!!!>と互いを指さし、笑い合いながら応唱した・・・。疎開生活で笑ったのは、こんな時くらいだったろう。
ちなみに、この「歌」の旋律は全く覚えがない。多分そんなものは無く、皆が一緒に大声で唱えただけだったと思う。作詞者も今日現在全く不明。もちろん僕でもない!
Document 集団疎開 に収録
(20161211)