「学童集団疎開」 CONTENTS
附属の學童疎開の記録とその思い出(その1) 若林 茂
附属の學童疎開の記録とその思い出(その2) 若林 茂
附属の學童疎開の記録とその思い出(その3) 若林 茂
附属の學童疎開の記録とその思い出(その4) 若林 茂
附属の學童疎開の記録とその思い出(その5) 若林 茂
附属の学童疎開の記録とその思い出(その6) 若林 茂
附属の學童疎開の記録とその思い出 (その1)
旧1組 若林 茂
1 学童疎開の記録
学童疎開の思い出を語る前に、私達旧東京第一師範男子部付属国民学校(以下私達の学校を当時の言い方に倣い、「附属」と略称します。)の学童疎開はどのように行われたのか、例えば、いつ誰がどこへ出発し、いつ帰って来たのか等の基礎的な事実をまず整理して置きたいと思いましたが、当時の附属の學童疎開に関する公的な記録は、実は、現在の東京学芸大学付属世田谷小学校には、何も残っていないそうです。
付属の学童疎開については、平成15年から平成23年迄第一師範付属国民学校学童疎開の会として、疎開の同窓会が昭和21年卒の山下さんらが中心となって、各年次を幹事担当として合計10回(25年卒以外の各年次がこの間2回ずつ幹事を担当、25年卒は人数も少なく辞退)開かれています。これは、それ迄浅間温泉菊の湯在籍者を中心として行われていた附属の学童疎開の同窓会を、発展的に解消し、全学年に拡大し開催されるに至ったものです。
私は、この同窓会には、殆ど(多分10回中9回)参加しましました。この同窓会は、各年次が幹事となって、運営されたのですが、私は、その際昭和24年卒の1員として、小泉君、千葉君、笹田さん等と2度にわたり、幹事をやらせて頂きました。平成23年の第10回目の同窓会は、私ども24年卒が幹事で、この同窓会もひとまずこれで終りとなったのです。理由は、参加者の高齢化です。従って、最後の幹事として、当時の資料の段ボール1箱を今でもお預かりし、今後の事は、熱心だった23年卒の野口貞義さん(24年卒谷孝子さんの兄上)と御相談して決めようと言うことになっていました。その後、野口さんがお亡くなりになり今日に至っています。
この間、この同窓会を通じて附属の学童疎開に関する当時の資料の収集が為されています。特に、野口さんらが中心となって、精力的に当時の記録が母校に残されているかどうか調べられましたが、疎開参加の先生や卒業生が持っているもの以外はほとんどなく、結局、現在の学芸大学附属世田谷小学校には当時の附属の学童疎開の記録は、一切残されていないことが判明したのです。現在の附小の先生にとっては、学童疎開は、忘れ去られた過去の歴史になっているようですが、附属の学童疎開の記録が一切残っていないのは、残念なことです。
学童疎開の同窓会を開催しているうちに、学童疎開経験者の間で、学童疎開の評価にについて二つの全く違う見方が有る事が分かったことは、興味深いことです。一つの見方は、学童疎開の経験を肯定的にとらえ、戦時中の苦しい時代の事だったがこれを貴重な体験として振返るとともに、これが自分の幼年期の精神形成にも役立っていると考える人達(これを戦争のもたらした被害ととらえ、反戦の材料と考えるかどうかは、別の問題として)と、もう一つの見解は、個人的にはひもじい思いをし、結果的には敗戦に終わった学童疎開のことなんて思い出すのも忌まわしい、疎開の「疎」の字も思い出したくないと考えている人達とがはっきり分かれることです。私は、どちらかと言えば、前者ですが、前者は必ずしも多数派では有りません。従って、前記の同窓会への参加者は、24年卒でも決して大勢では有りませんでした。ですから、この私の記録も、前者の方々を前提に書いております事を御了承下さい。
私は、このような考え方から、学童疎開の事に色々関係するようになり、学童疎開に興味を持ち、その記録を出来るだけ収集し、残しておこうと思うようになりました。これから詳しく申し上げますが、実は、学童疎開の経験は、昭和19年当時の1年生~6年生までの僅か6世代に限られています。私達は、その中で下から数えて2番目に若い世代に属します。最後の新2年生は、疎開参加者も少なく、実質的には私達当時の3年生がこれを経験した最後の世代でもあると言えます。従って、今次大戦の記録の一部として、学童疎開の記録を後世に残すのは、実は、私達の義務でもあると思っています。
このようなことから、私は、これ迄学童疎開に関する資料収集に努めてきました。学童疎開加者だけではなく、行政の方に何か資料が残されていないかも調べました。世田谷区が編集した世田谷区教育史(区立図書館にあリ。)に当時の学童疎開の行政資料が残されていることが分かりました。これは、区の資料のほかに、各区立の学校(この点、我が母校とは大違い。)が保存していた資料も含まれています。これは、学童疎開が都のイニシアチブの下、各区が実施主体となって、行なわたことに拠ります。世田谷区の資料には、例えば、学童疎開の臨時列車の時間表、浅間温泉旅館の各学校別割り当て人数表、学童用食糧の特配等の興味深い記録が残されています。これらの記録では、母校は、「一師附」として区立の国民学校と共に記録されています。又、東京都の江戸東京博物館の常設展示には学童疎開の展示がありますが、そこでも母校の事がやはり「一師附」として掲示されています。当時、行政では、母校は「一師附」と呼ばれていたのです。
附属の学童疎開を扱った出版物としては、毎日新聞社が昭和52年9月に出した「別冊1億人の昭和史 学童疎開」に付属の山崎幸一郎先生の「絵巻 疎開學園素描」が載っています。先生は、この絵巻に合わせて、附属の学童疎開の概要をその手記の中で記されています。先生は、あとで御紹介しますが浅間温泉東石川旅館、次いで下伊那郡上久堅村興禅寺での疎開生活を絵巻にして残されており、それがこの本で紹介されています。この他に、髙橋利平先生が「おじいちゃんの思い出」という手記の中で学童疎開の頃を「大変だったあの頃」として記録されています。この他、付属の学童疎開に寮母として参加された生徒の母、荒井勝子さんが書いた「アルプスよ今日は」が有ります。なお、荒井勝子さんは、21年卒の松原渚さんのお母様です。
人間の記憶はあいまいです。記憶をもとに他人と話していると、いつの間にか他人の記憶があたかも自分の記憶でもあったかの錯覚に陥ることも有ります。今回は、自分の思い出だけでなく、出来るだけ残された上記の資料にも当たり、疎開参加者の同窓会での発言も参考にして、附属の学童疎開の実態を客観的に整理することとしました。出来得る限り、事実に基づき記すつもりですが、もし、疎開参加者において、何か誤りなどお気づきの点あれば、御知らせ願います。
2 学童疎開開始に至るまで
年初来検討されて来た学童疎開は、昭和19年7月のサイパン島陥落後に予想される東京を始めする内地主要都市への空襲が背景にあります。
具体化は、昭和19年6月30日 学童疎開促進要綱の閣議決定に始まり、これを受けて、東京都は、東京都国民学校児童疎開実施要綱を定めました。その中で、学童疎開の目的を、「帝都の防空体制の強化、及び、帝国将来の国防力培養」と定めています。「帝国将来の国防力培養」とは、何であったのでしょうか興味が有ります。
当初は、昭和19年8月以降国民学校3年以上を学級閉鎖とし、これらの児童の学童疎開、縁故疎開を進めることとしたのです。従って、疎開は、先ず、 当時の3年生~6年生までを対象として始められました。
ここで、あまり知られていませんが、学童疎開の経費と学寮の運営について、紹介しておきます。前記の学童疎開実施要綱によると、父兄の負担は、学童一人につき月10円その他は、すべて都の負担とされ、その総額の8割は、国費補助とされていました。なお、当時の10円は、現在の約1万円位、丁度現在の給食代くらいに当たります。費用はさておき、学寮の運営は全て各学校任せとされていました。付属の場合は、浅間温泉にいるときは、人件費は別として、旅館に宿賃を払っていればよかったのですが、下伊那へ行ってからは、食料、燃料等の生活資材の調達や生活場所の整備も全て学校側でする必要があったのです。例えば、上久堅村玉川寺では、餐場先生がこれを担当されていました。戦後、私が玉川寺を訪問したとき、同寺の住職が「あのときは、餐場先生は大変苦労されていた。」と述懐されています。
付属の学童疎開について、ここに当時の1枚のガリ版刷りの紙があります。昭和20年3月17日付けの旧2組(加藤先生御担当)の学級報第6号と題するもので、遂にこの度学級閉鎖に至った旨を皆に伝え、信念を持って強く生きるよう呼びかけています。具体的内容としては、4月に入隊する教生(緊迫する戦局を偲ばせる。)の各生徒に対する教育実習の意見を善用されたい旨述べるほか、疎開による生徒の分散を伝えています。集団疎開参加者としては、次の名前が列記されています。
相良、白井、園田、千葉、中村忠晴、(中川)、牧、木村、(児島)、鈴木、中島、野村、岡本、(縁故先より参加 (上岡)、青木、吉中、村上、 石橋)
これは、後記の学童疎開参加者名簿とは、若干異なっており、疎開直前のあわただしさが偲ばれます。
なお、この学級報は、旧2組の谷君が保存していたもの。貴重な昭和史資料と思われるので、私は学童疎開の写真と共に九段の昭和館にコピーを寄贈しました。
(つづく)
次回は、昭和19年8月以降の附属の学童疎開の実際の流れをたどります。
(20181110)
附属の學童疎開の記録とその思い出(その2)
旧1組 若林 茂
3 附属の学童疎開の主要な流れ
学童疎開の開始から終了までの主要な流れは、次の通りです。
昭和19年8月12日 第1陣(6年生~3年生)出発
13日 長野県松本市外浅間温泉到着
僕は、当時、5年生の姉を自宅から見送った事を記憶しています。
疎開先は、都及び区により決定され、長野県が学童疎開先と定められた世田 谷区では、松本市と相談の上、各校ごとに旅館が割り当てられました。世田谷 区教育史の集団疎開割当表によると、第一師範付属国民学校として、下記の4 軒の旅館がその人数と共の割り当てられた旨記載されています。
第1学寮 東石川 40名
第2学寮 西石川 60名
第3学寮 菊の湯 130名 ここに本部が置かれていた
第4学寮 亀の湯 70名
各学寮への生徒の割り振りは、自宅所在地別に行われました。既に、東京において、空襲時の下校に備えて、通学経路別の班別編成があった。例えば、僕の場合は、自宅が目蒲線(現在の多摩川線)の下丸子駅下車であったので、蒲田班。これは、田園調布駅で目蒲線の蒲田方面に乗り換える者の班で、これがそのまま疎開に持ち込まれました。 当初の疎開参加の児童は、278名(上記の旅館割り当てでは、300名)と記録されています。学寮は、当時の坂本主事(後に応召されている。)により、望楠学寮と命名されていた。望楠の「楠」は、楠正成の「楠」です。戦時中の附属は、楠正成を尊敬、崇拝、忠義の象徴として生徒の鏡とされていたのです。皆様は、学芸会で「桜井の別れ」が演じられた事を覚えていませんか。
又、当初の学校側の体制は、教官12名、寮母13名、作業員9名とあります。
昭和20年2月26日 6年生帰京
これは、6年生の中学校、高等女学校受験のためでした。中学生や高等女生以 上は、当時は大人扱い。帰京して、中学校、高等女学校に入学後は、勤労奉仕等に出ることとなっていたのです。
昭和20年3月24日 第2陣(新3年生、僕達24年卒)43名松本に到着
当初、当時の3年生から6年生迄で始められた学童疎開が、東京空襲の激化などで僕ら新3年生に迄拡大されたのです。
昭和20年4月25日 浅間温泉内で学寮再編成
第1学寮 東石川
第2学寮 亀の湯
第3学寮 井筒旅館
第4学寮 目の湯
第5学寮 藤美の湯
既に、3月、4月頃から松本は必ずしも安全ではないということで、他校で再疎開の動きが始まっており、当初は、附属は再疎開を急いではいなかったので、浅間温泉の中での学寮の再編成が為されたとされていますが、本当の所は良く分からない。父兄に対し、再編成の説明も一切なされていないし、これを問いただす人もいなかった。
なお、当時、既に浅間温泉には、陸軍の兵隊が大勢滞在するようになった事と関係があると言われ、松本に陸軍の飛行場があったこと、そこが特攻隊員の訓練基地の一つであった事等が背景にあるともいわれています。僕達の当時の特攻隊員らとの井筒旅館における交流の貴重な体験については、後で詳しくお話しします。
昭和20年4月29日 新2年生ら29名他が到着
戦局益々急を告げるに至り、当初は東京残留とされていた新2年生も疎開参 加となり、この結果、東京の学校は完全閉鎖となりました。
昭和20年6月3日 下伊那郡喬木村、上久堅村へ再疎開
再疎開先については、世田谷区教育史を見ても、「師範付属 下伊那郡内 269名」との記載があるだけです。当初の疎開開始時は、各校別に旅館名迄区において決めてくれたのに対し、今回は、区がそこまで面倒を見てくれなくなり、各校に任されたのではないかと思われ、これに当たられた先生方の大変な御苦労があったと思われます。あわただしい当時の様子が偲ばれます。
再疎開における学童の割り振りは、従来の地区別編成から、学年別編成に変わりました。これは、いじめ問題(最上級生である6年生によるいじめ)への対応が一つの理由であると言われています。僕ら新3年生は、松本には3ヵ月ぐらいしかおらず、幸いなことにいじめを体験してはいないので、その実態については分かりません。ただ、戦後、附属の学童疎開の同窓会をしたときに何故か旧6年生(昭和20年卒)の場合、女子に比べて男子の参加が極めて少なくて不思議に思ったことがある。これについて、昭和20年卒の女子の方が、「男子は同窓会なんて出て来られる筈がないわよ。」と言っているのを聞いたことがあります。
再疎開に当たっては、浅間温泉での経験から最上級生を一か所にまとめ、その他は、4年と2年、5年と3年のようにいじめが起きないように一定の年次間隔をおいた組み合わせとし、6年生は最も環境不備な喬木村公会堂とされ、あわてて公会堂を児童が寝泊まりできるよう改装された由です(同総会での髙橋先生のお話。)。この結果、兄弟も別れ別れになることとなり、例えば、僕の場合6年の姉は、喬木村となった。
再疎開での学年別割り振りは、次の通り。
喬木村 富田学寮 喬木村公会堂 6年生
安養寺 4年生、2年生
上久堅村 玉川寺 5年生 3年生
興禅寺 5年生 3年生
再疎開の背景は、いうまでもなく戦局の悪化にある。主要地方都市の空襲は当時必至とされており、特に、三菱等の軍需工場も密かにその一部の工場を松本に移していた他、陸軍の飛行場のあった地方都市松本には、既に僕ら三年生到着前にも空襲があったのです(同総会での髙橋先生の話)。
昭和20年8月15日 玉音放送
昭和20年11月6日 帰京 附属の学童疎開の解散
4 新3年生の出発と浅間温泉への到着
僕ら新3年生は、昭和20年3月23日夜、新宿から松本に向け夜行で出発した。皆、ランドセルやリュックサックを背負い、腰に防空頭巾と水筒を交互のひもで下げた学童の戦時スタイルで新宿駅に集合した。父兄の見送りは、改札口迄で、ホームには入れない。新宿駅改札口で、父母の見送りを受けたときは、長期間の遠足へ行くような気分で、その後に待ち受ける厳しい食糧不足の学童疎開の生活を予想できた者は、一人もいなかった。
そのときの参加者名は、疎開の同窓会の名簿によれば、次の通り43名。な お、氏名等間違い等あれば、御連絡下さい。
1組 石井、宇都宮、上井、小笹、菅野、小泉、三段崎、鈴木(素)、田中、 橋本、土方、細野、細谷、堀池、本間、前田、松原、依田、若林、 和智 以上20名
2組 青木、石橋、岡本、木村、児島、園田、千葉、中村、野呂、牧、山形 以上11名
3組 青木、梅沢、加藤、苅部、近藤、小路、田中、田端、永峰、山田、 山本、藤好 (旧姓による) 以上12名
なお、疎開が終わり、11月に帰京したときは、37名であった。
新宿から中央線で松本迄、世田谷区の他校の生徒と一緒の疎開学童用の列車、座席は3人掛けで皆座われた。朝、目が覚めた時、車窓から見える朝日に映える雪化粧した日本アルプスが綺麗だったことを記憶している。早朝、松本駅につき、松本電鉄の小さい電車で林檎畑の中の道を浅間温泉に向かった。温泉街の手前の駅で下車し、僕らは2列縦隊で整列し、上級生たちが両側に並んで迎えてくれている温泉街の中央通りをゆっくりと進んだ。
僕の宿舎は、東石川旅館であった。一緒にここに入ったのは、僕の他、田中君、小泉君、橋本君、笹田(旧姓山田)さん等がいたと思う。東石川旅館は、姉妹館の西石川旅館と向かい合って、温泉街の入口にある古い格式があると言われた旅館である。宿の入り口は、しもた屋風の旅館らしくない店構えだが、中へ入ると、大きな庭を囲んで、2階建ての客室がある。僕らの部屋は、2階の奥だが、縁側を隔てて階下の御庭が見渡せる。
東石川の寮長は、山崎幸一郎 先生で、毎晩、就寝前に各室を回られ、訓示をされた。先生は、当時のカーキ―色の国民服にやや大きめの戦闘帽をかぶっていたので、「デカ帽」と愛称されていた。先生は、疎開に御母上を連れて来られており、寮長室は僕らの自室に行く手前にある。僕らが自室に行くには、その前の廊下を通らなくてはならない。学校から帰ると、寮長室にいる御母上に「只今帰りました。」とあいさつするのが日課となっていた。寮母は、林さんで、後に山崎先生と下伊那郡上久堅村の興禅寺時代に結婚されている。
5 皇后宮御歌
まず、ここへ来て最初に習ったのは、次の皇后宮御歌(こうごうぐうみうた) である。
疎開学童のうへを思ひて
つきの世をせおふへき身そたくましくたたしくのひよさとにうつりて (原文通り)
現代仮名づかいで、漢字も加えてわかりやすく書けば、
疎開学童の上を思いて
次の世を背負うべき身ぞたくましく正しく伸びよ里に移りて
となる。
皇后宮御歌は、昭和19年12月23日、当時の皇太子殿下(現在の天皇陛下、 当時皇太子殿下も学童疎開中)の御誕生日に当たり、疎開学童に対し、詠まれたもので、国母たる皇后陛下の疎開学童を思う心情を素直に詠まれた歌である。
戦時下である事や戦争の事には、直接には触れず、ただ「次の世を背負うべき身ぞ」と呼び掛けたところが疎開学童にも自然に受け入れられた。「たくましく」と身体の鍛練を呼び掛け、「正しく」と正しさを学ぶことが勉学の目的であることを明確に示した所が素晴らしい。
これには、楽譜があり、短いものなので、唱歌として皆すぐ覚えた。寮では、 朝食前、上級生の音頭で何かにつけ、いつもこれを歌った。
毎朝、上級生代表の「こうごうぐうみうたあー、つぎのよをー」の発声と共 に、「つーぎーのよおー、せおうべきみーぞ、、、」と歌い、歌い終えて初めて「いただきまーす。」と言って、朝食の箸をとるのである。
平成12、3年頃に開催された附属の24年卒同期会で、この歌の話が出た事がある。これを歌える者いますかの呼びかけに、その場にいた学同疎開経験者は、殆どの者がこれに和し、合唱となった。僕は、この歌を忘れた事は無く、 いつでも懐かしく思い出し、今でも歌える。前記の山崎先生の疎開の絵巻も「次 の世を」の歌で結ばれている。後で出てきますが、これは、長野県歌「信濃の 国」と共に、学童疎開で覚えた二つの懐かしい歌となっている。
皇后宮御歌には、御下賜のビスケットの話がついている。御歌と共に、疎開学童全員(教職員を含む。)に皇后陛下からビスケット1袋(25枚入っていた そうです。)が御下賜された。実際の配布は、昭和20年2月10日の紀元節と されたので、この時、僕達は東京にいたので、これを頂いていない。ただ、一 袋のビスケットのうち、生徒は、その一部を東京の家族へ送ることとされた。 僕の場合は、昭和19年8月に5年生の姉が既に東石川旅館に疎開しており、 家族へ送るべき分のビスケット何枚かを同級生の母親が面会に行った際預かっ てきて、家まで届けてもらった事を覚えている。
これからも出てきますが、学童疎開の思い出は全て食べ物の話に関係してお り、学童疎開思い出と食べ物とはいつも切っても切り離せないものがあります。
(つづく)
(20181118)
附属の學童疎開の記録とその思い出(その3)
旧1組 若林 茂
6 東石川旅館
東石川での生活は食事も恵まれており、朝登校前には温泉で毎日足湯につかる事が出来た。学校は、近くの長野師範女子部付属国民学校を借りて授業があった。朝礼などは、同校の生徒と一緒である。学校まで徒歩で総合運動場みたいな所を横切ってゆき、20分位の距離であった。途中、必ず、護国神社(地方毎に置かれた靖国神社のようなもの)に敬礼することとなっていた。毎日、学年毎、寮毎にまとまり、隊列を組んで登校した。
東石川にいたのは1月ぐらいである。ここは、小じんまりした格式のある古い旅館で、しかも、よその旅館と比べて食べ物が良いと言われていた。地主であった当時の東石川の御主人が小作人から届く米を疎開学童に回してくれたからといわれている(山崎先生の手記)。これは、毎朝、持たしてくれる弁当のご飯の量を他の旅館の弁当と比べれば、すぐ分かることである。4月に学校が始まって間もない頃、ある日、1時間目に先生が教壇の机の上に秤を置き、何も言わずに、全員の弁当箱の計量をした。秤の使い方を習うのかと思ったけれど、先生の目的は、弁当箱に残されている御飯の量を調べていたのである。しかし、秤の結果について先生から何か御小言を食う事は無かった。当時、お腹がすくので、寮で詰めてもらった弁当をすぐ食べてしまう者が続出していたのである。昼前に弁当を食べてしまった者は、昼食時は弁当箱のふたを半分くらい開けて中を隠し食べるふりをしなければならなかった。
お腹がすくと言って、歯磨粉を食べた者もいた。口に入れるものだから食べられると思ったらしい。その生徒は、口の中を白くして登校していた。
この頃、時々東京から先生がやってきて、東京の様子を知らせてくれた。音楽の新国先生が、アコーデオンを携えて、今東京ではやっている歌として比島決戦の歌(「陸には、猛虎の山下将軍、、、、、出て来い、ニミッツ、マッカーサー、、、」)等を歌唱指導してくれたことをおぼえている。しかし、その頃日本軍はどうなっていたのか等の戦況の詳しい説明等は、全くなかった。
当時から、松本と言えば、浅間温泉と松本城、伊那へ再疎開が決まった頃今のうちに見ておいた方がいいと言う事で、上級生に松本城へ連れて行って貰った。た。しかし、砂ぼこりの舞う広場に立つ松本城は、見る影もなく荒れはていて天守閣は今にも倒れそうに見えた。
7 井筒の湯
浅間温泉へ来て一月もたたないうちに、学寮の再編成があり、僕は、井筒の湯へ移った。僕達3年生は皆ここに集められたような気がする。ここは、浅間温泉では一番大きな座敷があると言われている大きな旅館であった。但し、前の東石川と比べると、僕らの食べ物は悪くなった。それ迄米の中に大豆が混じっていたものが、いつの間にか大豆の中に米粒が混じっている弁当になった。
井筒の湯の前の小さな店で、さなぎを一合升に山盛りにして10銭で売っていた。当時、僕らは、お小遣いとして月1円貰っていた。小泉君がこれを買って部屋に持ち帰り食べようとした所で先生に見つかってしまった。さなぎが食べられる事は、こちらへ来てから知ったことだが、もしこれがカイコガの元の姿であることを知っていたなら、口に入れられなかったであろう。先生からは、外の店で売っているさなぎは食べてはいけないと言われていた。火を良く通してないものが売られているからである。地元の人は、平気で食べている。その後、上久堅村へ行ってからは、さなぎは常食となった。
鈴木秀太郎さん(最下級の2年生)のバイオリンの弦が切断される事件が井筒の湯であった。鈴木さんは、僕達より1年下で遅れて最後に疎開に参加した組である。彼は、当然のことながら疎開にもバイオリンを持ちこみ毎日練習していた。非常時に、これは生意気であるとした上級生の誰かが弦を切ったのである。
5月のある日、石井君のお母様が面会に来られたとき、現在の戦局の話をして頂いた。ドイツが遂に米英に降伏した事、降伏したドイツ国民はどうされるか分からないから日本は負けるわけにはいかない事、他方、米国のルーズベルト大統領が亡くなったこと等。
井筒の湯で忘れられないのは、特攻隊の兵隊さんとの交流である。ある夜、食事を早く済ませた僕ら数人は、就寝の時間まで暇があったので広い宿の廊下を走り回って遊んでいたところ、2階の大広間の前迄来た時、中は明るく未だ人が残っているような気配がしたので、誰がいるのかと障子の隙間からそっと中を覗こうとしたところ、「誰だ。」との声に驚いて思わず障子を開けたら、中にいた数人の兵隊さんから「中に入って来い。」と招き入れられたのである。一緒にいた何人かの宿の女中さんらが私達の事を「疎開の子たちよ。」と紹介してくれたので、すぐ打ち解けた。皆きちんと陸軍の軍服を着ておりこれから部隊に戻り明日松本を発つと言っていた。
僕らは、知っている軍歌等を歌い、兵隊さんも喜んでくれた。僕らは、第一線で戦う兵隊さんと心が通じ合ったことで嬉しく、子供ながら興奮していた。「明日、飛行場から宿の近くを低空飛行するので見送って欲しい。」と言われ、帰り際に、大きな航空鞄の中から見た事もない航空食と書かれた食べ物を何個か貰った。丁度、かまぼこの板位の大きさの食べ物で、航空食糧と書いてある緑色の包み紙を破ると、チョコレートと飴とを混ぜて固めたような甘い味のカロリーの高い機上食である。東京を発って以来、初めて口にした甘いものだった。僕らは、この航空食糧の事は、皆には秘密とし、僕ら以外誰にも絶対に言わないことをお互いに約束した。僕らは、部屋に戻り、これを寝床の中でこっそり味わった。
翌日午後、宿の女中さん等と共に3階の物干し台に出て約束の飛行機が来るのを待った。温泉街の前方には松本平野が広がっている。松本空港の方を見ていると、南西の方からものすごい爆音をあげて戦闘機が物干し台すれすれまで近づいてくる。僕らは、大声をあげて宿の女中さんと一緒に機内の兵隊さんに手を振って見送った。機内の兵隊さんもこれに応えてくれているように見え、僕らは興奮した。このようなことが2,3日続いた。
平成13年ごろ、附属の疎開仲間と松本を訪問したとき、井筒の湯(現在はホテル井筒となっている。)に泊まり、宿の主人(戦時中、国民学校5年生だったとのこと)と話をする機会があった。このときの特攻隊員の話をすると、当時、松本空港に残っていた陸軍の飛行機を取りに来る特攻隊員がここ井筒の湯にもしばしば来ていたとのことである。松本空港が後方基地、あるいは訓練基地であったことは想像される。髙橋先生の手記にも浅間の旅館には時々特攻隊の兵隊が休養のため投宿していたと書かれている。
10数年前に、高倉健が主演した映画「ホタル」のシナリオを書いたのは、井筒の湯のこの主人によると、千代の湯の当時の関係者だそうで、朝熊温泉が、特攻隊員とは無関係ではなかったように思われ、興味は尽きない。同じような話は、世田谷区の代沢国民学校の生徒にもあったことが、平成10年8月15日の世田谷区報にも載っている。区報によれば、代沢の生徒は、当時浅間温泉の千代の湯に泊まっており、僕らと同様に、航空食糧を貰ったと言う。
8 脱走事件と本当にあったセクハラ事件など
浅間温泉時代の事で、触れなければならない事件の一つに脱走事件がある。これは、僕らが浅間温泉に到着する以前の事だから、僕にとっては、全て伝聞の話である。当時、これは、いじめ、食料不足、生徒間規律など疎開の根幹にも触れる大問題になったらしい。僕は、平成18年度の疎開の同窓会で当事者本人の住田さん(23年卒)から直接話を聞いたことがある。住田さんは、これは有名になったことでもあり、又、もう過去の事として、詳しくありのまま話して頂いた。きっかけは、たまたま、松本市内で散歩中お金を拾い、とっさに東京へ帰ろうと思いつき、松本駅で切符を買い汽車に乗ったそうである。松本駅にはいると、行き先が「新宿」と表示されている列車を見つけたので、迷わず乗ったところ、翌朝新宿につき自宅へ帰れたそうです。
その夜、学寮では大騒ぎとなり夜を徹して山狩り(髙橋先生の話)までしたが行方知れず、松本駅に問い合わせたところ子供が一人で切符を買って改札を通過したとのこと、直ちに自宅へ連絡して発覚となったそうです。東京では、教頭先生が文部省当局から呼び出され、一月にわたる厳しいお取り調べが続いたとのこと。問題は、ただ、道で拾ったお金を何故警察に届けなかったのか、学校はこの点につき如何なる教育をしているのかに集中したそうです。皆当時家へ帰りたかったのは、お腹を減らしてただ腹いっぱい食べたかっただけ。その他に6年生のいじめもあったのかもしれない。しかし、当局としては、疎開児童への食料不足も含めて問題が学童疎開体制そのものに及ぶ事を最も恐れていたらしい。そのため、問題を道で拾ったお金をそのまま私物化した道徳問題だけにすり替えようとしたようである。
松本でのもう一つの大きな事件は、亀の湯にいた某先生の不祥事である。この事件については、荒井勝子さんの著作「アルプスよ今日わ」に詳しく載っている。なお、荒井さんは、当時5年生の娘さんであった附属の疎開学童のお母様、我が子を案じて寮母として、松本へ来て疎開学童の世話をしておられた方である。その本によると、朝起きて見たら女生徒の蚊帳の中に男(?)の人が、、、、、、という話である。これも僕らが疎開に参加する以前の事件であり、伝聞であるので詳しい内容には立ち入りませんが、今の言葉でいえば典型的なセクハラ事件である。この事件を引き起こした当の先生は、発覚後、学寮から追放されたとのこと。事件が事件であるため、当時は関係者以外には殆ど知られていなかったようである。戦時下の学童疎開の社会でもこういうことが実際に起きていた。いつの世も変わらないものである。
先生と言えば、先生だけが別室で特別な料理を食べていたとか、父兄が子供に食べさせようと東京から持ってきた食べ物が先に先生に食べられてしまった(お毒見事件、これも前記の「アルプスよ今日わ」に詳しく書いてある。)等これは、食べ物に関わる事件である。
付属の疎開の同窓会で当時の思い出を語ると、参加者からこの種の話が次々と披露された。父兄は面会に来ても自分の子だけにおやつを与えてはならず、少なくとも同室の人数分を用意するものとされ、これをまず先生に預け、先生から同室の子供らに配ることとされていたのである。
9 附属の精神教育(児童手帳の話)
脱走事件とか、セクハラ事件とか本来学童疎開の世界にはふさわしくない事件の話をしましたが、これとは対照的な話として当時の児童手帳を紹介しないわけにはゆきません。ここに、何年か前の附属の疎開の同窓会(その年の幹事は、確か、昭和23年卒と思います。)で配られた紺色の生地の表紙の当時の児童手帳の複製が有ります。
その内容は、つぎの通り、非常に興味深いので、やや詳しく御紹介します。
児童手帳は、先ず、現在でも時々話題になる教育に関する勅語全文、青少年学徒に賜りたる勅語全文、米国及英国に対する宣戦の詔書全文に続き、校訓「マジメ」が記載されている。
なお、校訓「マジメ」が書かれている訓示板は、世田谷区下馬の旧付属の朝礼台の後ろの壁に掲げられていて、生徒は毎朝これを見ながら朝礼に臨んだ事は、皆様御記憶の事と思います。
その次に、児童誓詞として次の三つの教えが掲げられています。
一 君に忠に父母に孝に 誠の日本臣民になります。
二 心を練り体を鍛え 強い皇国の力となります。
三 教えに従い務めに励み 昭和の楠木正行になります。
この三に、突如、楠木正行(くすのきまさつら)が出てきますが、前にも触れと通り当時の附属では、楠木正行が生徒の理想像とされていたことが分かります。
そして、次に、「児童戦時訓」として、大東亜戦争のいわれを、米英のアジア植民地化からアジアをアジア人の手に取り戻すことと等とのべ、「覚悟」として、私たちは大日本の少国民です。大東亜戦争に必ず勝ちますと続けている。
更に、「食礼の詞」として、次の詞が掲げられています。
あやに畏き 天皇命の御恵を この食物に戴きて 御民吾と身に魂に強き力を養はん
僕らは、この「食礼の詞」を、朝、先に御紹介した皇后宮見御歌と共に食事の前に唱えさせられていた記憶が有ります。これを読みやすいようにかなで書き直すと次のとおりです、疎開に参加した諸兄で思い出す方もいるのではないでしょうか。
あやにかしこき すめらみことのみめぐみを このためつものに
いただきて みたみわれとみにたまに つよきちからをやしなわん
そして、最後に、「児童五省」として、
一 皇国の子として、恥じることはなかったか
二 兵隊さんに申訳のないことはなかったか
三 親に心配をかけることはなかったか
四 身体の具合をそこなふことはなかったか
五 今日のつとめに怠ることはなかったか
で結んでいる。
これを見ると、当時の附属では、忠実に国策に則し徹底した天皇を中心とする皇国思想、米英を敵とする軍国思想に基づく教育を目指していたことが分かる。この手帳は、昭和19年9月23日交付となっているので、恐らく当時の3年生(僕らより1年上)が疎開中に交付されたものと思われます。昭和19年には、僕らは、2年生で東京におり、児童手帳を貰った記憶はありません。ただ、上記の通り、校訓マジメ、楠正成、「、、、つよき力を養はん」の食礼の詞の記憶等が有り、その激しい当時の雰囲気は、良く分かります。
これが配布された疎開の同窓会の際、参加していた昭和23年卒の女性の方が自分には海軍兵学校に行った兄がいますが、「海軍兵学校の手帳より附属の手帳の方が激しい。」とお兄さんに言われたそうです。
このような激しい教育方針は、先に御紹介した皇后宮御歌に見える疎開児童の事を思う皇后陛下の国母としてのやさしさと比べると、その落差は極めて大きいと言わざるを得ません。
そこで、実際の僕らのときの先生は、どうだったかと思い出してみると、このような激しい教育方針に忠実な先生もいました。例えば、その先生は、戦時中のみならず昭和20年8月15日以降も、米英への復讐や天皇陛下への忠節を生徒に説いていました。他方、戦時中でも、このような激しい軍国調の教育に踊らされることなく、冷静に僕達を見守っていた先生もおられた事も事実です。
(つづく)
(20181126)
附属の學童疎開の記録とその思い出(その4)
旧1組 若林 茂
10 再疎開 上久堅村へ
松本から下伊那へ発ったのは、昭和20年6月3日であった。当時流行していた「さらばラバウル」の替え歌「さらば松本」を歌い、松本をたち、塩尻、辰野を経て飯田線で下伊那へ向った。列車は満員で僕らも座れない。予想はしていたが、塩尻で警戒警報発令、次いで辰野で空襲警報となり列車が動かない。長野県に疎開して遭った初めての空襲である。当時、辰野、岡谷など諏訪湖周辺は、精密工業地帯として連日B29の空襲下にさらされていたのである。戦争の行方の厳しさを表す身近の空襲は、これから僕らの行方の厳しさを暗示するものであった。皆、満員の列車内で、立ったまま不安のときを過ごした。寮母の久保田さんが「大丈夫」と言って、僕らを励ました。僕らは、疲れて列車の床に腰を下ろして、うとうとしながら発車を待った。
僕らは、飯田線をこれまで聞いたこともない伊那八幡という駅で降りた。飯田から二つか三つ先の小さな駅である。駅前には、トラックが1台来ていた。荷台には荒縄が張られている。1台のトラックで荷台上の荒縄につかまり、上久堅村までピストン輸送で行く事となった。僕らは、1時間位待たされて何度目かの便に乗り、天竜川を渡り、山道を登って村の外れまで送ってもらった。そこから、6月とは言え、炎天下の麦畑の間の細い畦道をわけて、やっと目指すお寺についた。玉川寺(ぎょくせんじ)である。全員が着くのに、トラックは何往復もしたので、2,3時間以上かかったのではないか。疲れ果てて、みんなバラバラにお寺にたどり着いた。僕は、このとき、あまりにも疲れていたせいか、お寺につくとすぐ横になり、そのまま夜中まで眠っていたらしい。夕食も取らず、目が覚めたのは、夜中であった。
上久堅村は、伊那八幡から直線距離で10キロ位、山道だから15キロ位はある。目立った特産物が有るわけでもない貧しい伊那の山村である。お寺が興禅寺と玉川寺と二つある。村の入り口付近に神の峯(かんのみね)という700m位の村民崇拝の山があり頂上に久堅神社がある。神の峯は、山崎先生の絵巻の冒頭にも描かれている。
上久堅村では、3年生と5年生とが二つのお寺に分かれる事となった。どのような基準で二か所に区分けされたのか分からない。村の入り口の右側にあるのが興禅寺、その先の奥にあるのが僕らの玉川寺である。
玉川寺は、その前を流れる川に懸った小さい橋を渡ると、立派な2階建ての山門があり、山門をくぐって階段を上り境内に入る。そこに大きな本堂を構え、小さな村にしては立派なお寺である。山門の横に水車が回っていたのを覚えている。僕たちは、お寺の本堂に畳を敷いてもらい、そこを浅間から持ってきた物置棚で仕切り、各班の居室とし、寝起きすることとなった。本堂には、電気が来ていないので、明りがつかない。
トイレは、本堂の裏に一つしかないので、おしっこをするのに長い行列を作って待つこととなる有様だった。先生方の御尽力で、やがて電灯がつき、境内の隅に仮設のトイレも増設され、生活環境は順次整備された。しかし、屋外のトイレは、女子にとっては大変だったように思える。僕が夜中に目を覚まし、本堂を出てわら草履をはいて暗い境内を横切ってトイレに向かうと、向こうから女の子が2,3人連れ立って暗い中をとぼとぼと戻ってくるところに遭遇する光景は、わびしかった。男子は夜でも一人でトイレ行ったが、女子は必ず2,3人で連れ立って行ったようだ。風呂場が整備される迄は、学校の宿直用の風呂を借りて交代で入浴した事もあった。真っ暗な中での入浴である。毎朝、顔を洗うのは、洗面所が出来る迄は、お寺の前の小川の水であった。
入浴もままならぬ状態で、皆、蚤や虱に悩まされた。いつの間にか虱の卵が下着の縫い目にびっしりと産みつけられている。洗濯された下着の縫い目にある卵を一つ一つ両手の親指の爪でつぶすのである。朝礼で並んでいる前の子の首筋に虱が這っているのを見つけると、採ってつぶした。しかし、2,3カ月も経つと虱もあまり気にならなくなった。
つらかったのは、病気になったときである。頼りになる人は寮母の久保田さんしかいない。僕らは、何故かよく下痢をした。東京を出たとき、親から持たされた胃腸薬はもうなくなってしまっている。ただ絶食をして自然回復を待つだけである。しかし、どんな下痢でも、数日経てば必ず治る。人間には自然治癒力がある事を知った。
村には学校と役場以外大きな施設は無い。お店の様なものも殆どないさびしい村である。玉川寺の前の急な坂道を登ると高台が開け、そこに上久堅国民学校があった。校庭の正面中央には立派な奉安殿があった。同校の一室を借りて僕らの授業が再開されたが、御寺での授業も多かった。学校では、僕らは、田舎の元気な生徒の中で、小さくなっていた。朝礼や作業などは、一緒だったが、地元の子らとの交流は殆どなかった。しかし、村の人たちは、僕らよそ者(「疎開の衆」と言われていた。)にいつも気を使ってくれた。村役場と学校は一体となって僕らよそ者を助けてくれたのである。僕らも、村にとけこむ様努力した。学校の行事では、よく元寇の歌が歌われた記憶がある。神風が吹くのを皆期待していたのであろう。
丁度現地についた頃は、夏休み前の農繁期である。学校の教室での授業は殆ど受けた記憶がない。毎日、村の子と同じように、農家の手伝いに出た。班ごとに部落が割り当てられ、その部落の各戸を御用聞きして回り、農作業を手伝うのである。成壮年層の男性は皆戦争に行ってしまったためか、村には若い者は殆ど見かけず、これを子供らの労働力で補っていた。当時は丁度麦秋である。鎌など持ったこともない僕らは、早速麦刈をさせられた。麦刈は鋸鎌を使う。桑の皮むきも大事な仕事であった。当地は、養蚕地帯であり、皮むきは、桑の葉を取った後の枝の皮から繊維を取るためその皮を向く作業である。農家の作業は、終わると必ずおやつが出るのが唯一の楽しみであった。村の人たちは、皆素朴で親切、農家を訪問していやな思いをしたことは無い。
又、ここで食べ物の話となる。伊那は農村だから食糧事情は良くなるかと思ったが、期待外れに終わった。御寺での食事は、相変わらず十分ではなく僕らは、いつもお腹をすかしていた。1度か2度、暖かいご飯の上に1センチ角ぐらいのバターが載っていたことがあり、美味しかったことを覚えている。恐らく疎開学童用にバターの特配があったのであろう。
食べ物に関する悲しい話も沢山ある。農作業中、畑の傍らの木陰に置いておいた弁当がいつの間にか無くなっていることもあった。誰かが他人の弁当を食べてしまうのである。玉川寺で、あるとき一人の男子が夜中にこっそり台所へ行き、残飯を食べていたのが見つかってしまった事件があった。その子は、見せしめのため、先生に本堂の柱に1晩中括りつけられた。
疎開中は生徒から親への手紙は先生の検閲を受けることとなっていたが、僕らは、先生に見せずに、東京の親宛今度来るときは食べ物を沢山持ってきてくれるよう葉書を書き、こっそり村の外れにあるポストに投函した。しかし、もうこの頃は、親の面会も少なく効果はほとんどなかった。松本とは違い、伊那は田舎である。当時の交通事情から見て東京からここまで面会に来るのは、大変であったと思われる。
ひもじさに耐えかねて、農作業へ行ってやさしくしてくれた近くの農家へこっそり食べ物を貰いに行っていた生徒もいたらしい。
11 県歌「信濃の国」
こちらへ来て、覚えたのが県歌「信濃の国」である。
第1連
信濃の国は 十州に 境連ぬる国にして
聳ゆる山はいや高く 流れる川はいや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地
海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき
で始まり、第二連、第三連、第四連、第五連、と続き、
最後の第六連は、
みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い
で終る。長野県の地理歴史の知識に加えて、美しい自然の下での豊な人間形成という情操教育の基本も含んだ歌詞である。
これは、明治32年から33年にかけて、当時の長野師範の教師だった浅井冽、北村季晴の作詞、作曲による。全体として、当時の立身出世主義を基調とするもので、今から見るとやや古い所もあるが、今日でも学校に上がるとすぐ教えられ、社会に出てからも県民に広く愛唱されている。教育県と言われる長野県らしい歌である。運動会などの学校行事のときは必ず歌う。僕らも、上久堅村へ来てすぐ教えられ、覚えた。お寺の壁に六番迄の歌詞が貼ってあった。付属の学童疎開同窓会では、いつも最後に「楽しきは青山」と共に「信濃の国」を歌って当時を偲ぶ。先の長野冬季オリンピックの入場式の際、「信濃の国」に合わせた踊りが披露されていたのをテレビで見て、僕は懐かしくこれを聞いた。
日本全国47都道府県の中でこのように県民に愛唱されている県歌のあるのは、長野県だけだそうである。しかもこの県歌を歌えることが長野県人のアイデンテイテイとなっていることに特徴がある。初めて会った人が長野県出身を名乗ると、相手は、先ず「信濃の国」が歌えるかと尋ね、これが歌えれば初めて長野県人と認められ、お互いに同郷人として心を許す習慣がある。僕は、戦後何度もこのよう経験をしている。
12 薪運びと米軍のビラ
農繁期が終わっても、教室での授業の記憶はほとんどない。お寺で長い座卓に座っての授業だった。武藤先生が殆どの科目を受け持っていた。夏休みに入っても、どこへも行くところもなく、皆、御寺でトランプ等をして時間を過ごすしかなかった。
時々、全員参加の薪運びがあった。自給自足のための1日仕事である。御寺での炊事や御風呂の薪を小さな山を越えた先の薪の集積場迄一人一把ずつ取りに行かねばならない。肩幅の倍もある薪の束をひもで結わえて小さい背中に背負うのだが、安定も悪く、ひもが肩に食い込み、ほぐれた松の木の皮がシャツの中に入ってくる。途中疲れて山の尾根で一休みしていると、諏訪湖の方に向かうのか、高い空を飛ぶB29の機体が夏の太陽に映えて時々きらっと光るのが見える。今、戦争はどうなっているのか、僕らは、不安な気持ちで青空を見ていた。一緒に見ていた木島先生は、この戦争はいずれ新兵器で終わるだろうと言っておられた。どんな新兵器ですかと聞いたら、先生はそのとき、例えば、殺人光線のようなものかなと言っておられた事が忘れられなかった。この頃、B29から撒かれたビラが上久堅村の上空にも舞った。しかし、これを拾うことは禁じられていた。刈り入れて干してある麦束に触れると自然発火するとか、紙に毒が塗られている等のうわさが流れていた。ある日、誰もいない所で、ビラをこっそり拾って見た。うすいブルーの紙に「米国大統領ハリ―エスツルーマンは、日本国民に告ぐ。」に始まる長い降伏勧告文であった。
このころ、興禅寺の加藤先生が応召されたと聞いた。学童疎開地の先生迄呼び出されるようにこの戦争も大変な状態になっている事を思わせる事件であった。
(つづく)
(20181207)
附属の學童疎開の記録とその思い出(その5)
旧1組 若林 茂
13 昭和20年8月15日(玉音放送)
夏休みはどこへ行くところもなく、農作業も休みで、お寺でみんなごろごろしてトランプ等をしていた。待ち遠しいのは、3度の食事とたまに出るおやつである。お腹がすくと、僕らは、桑畑に行き桑の実を採って食べた。桑の実は、紫色の小さい粒が丁度葡萄の房のようになっていて、僕らでも採れた。これを食べると、口の周りについた紫色の果汁が取れないのですぐわかる。あけびも皮を割ると中に紫色の実があり、食べると甘い。浅間温泉の頃は、食べるのもなんとなく気持ちが悪かったさなぎは、こちらへきてからは、平気で食べた。いなごは、竹の棒の先にさして、風呂の焚口の火であぶれば美味しい。ようやく田舎の生活にも慣れてきた。蛇を捕まえて、皮をむいて焼いて食べた者もいた。
丁度このような頃、天皇陛下の玉音放送があった。昭和20年8月15日である。
玉音放送につては、皆の記憶が分かれている。ある者は、お寺の境内にラジオが据えられて皆で聞いたと言う。僕は、当日玉音放送を聞いた覚えは全くない。そもそも、玉川寺に来てからラジオを聞いたことも見たこともない。新聞も見た事がない。マスコミから全く隔離された生活をしていたのである。僕は、この日の夕方、寮母さんが日本はとうとう戦争に負けたと言って泣いていると言う話を聞いて、初めて日本が負けたらしいことが分かった。本来なら、先ず、これ迄僕らに米英撃滅の戦意高揚を唱えていた武藤先生から説明がある筈だが、何もない。ただ、寮内には、なんとなく重苦しい空気が漂い、誰もこの事を口にしない。翌日、喬木村の公会堂へ疎開中の附属の生徒全員の集合がかけられ、教頭の木村先生が東京から駆けつけて来られて重大な話があると告げられた。
僕らは、翌日朝早く弁当を持って、緊張して喬木村公会堂へ向かった。喬木村公会堂は6年生の宿舎であり、いわば付属の学童疎開の本部である。喬木村安養寺にいる2年生、4年生も来ていた。僕らは、先ず弁当を食べ、うとうとしながら公会堂の板の間に座って木村先生の到着を待った。やがて木村先生の話が始まった。しかし、何を言っておられるのか全く良く分からない。終戦の未だ翌日であり、先生も生徒にどのように話せばいいのかお分かりにならなかったのでは無いかと思われる。それでも、先生の言われることを懸命に聞いて、僕は、これを次のように理解した。昨日天皇陛下が今次戦争につき重大な決断をされ、その放送があった。国民は、これに応え引き続き天皇陛下に忠義を尽くして行かねばならない。大東亜戦争は米国の卑劣な兵器の使用で終わった。これは、終戦である(但し、この間どこにも「敗戦」の文言は無い。)。
皆、本当に良く分からず、黙って、玉川寺へ重い足を引きずって戻った。お寺へ戻ると、今日はお盆ということで村の人からすももが入った籠が届けられており、木島先生からおやつとして数個ずつ配られ、皆美味しく食べた事だけはよく覚えている。
その後も、先生方から敗戦についての詳しい説明は無かった。武藤先生は、相変わらず、天皇陛下への忠義を説き、米英に対する戦意を引き続き維持すべきことを唱えていた。寮では、未だ不安な日が続いていた。
玉音放送のあった日から数日後、突然、玉川寺1組の全員が先生の部屋に集められた。そこには宇都宮君と彼のお母様がいた。彼のお父様は軍人であった。終戦により、家族にも何かがあるかもしれないとの恐れから、お母様が彼を早めに引き取りに来ていたのである。お母様が持ってきた僅かのお菓子が皆に少しずつ配られた。宇都宮君は、その日、荷物をまとめてお母様と玉川寺を出た。
その後ずっと彼と彼のお父様の事は分からなかったが、10数年前の24年卒の同期会で小泉君が宇都宮君と大学で同じクラスだったとの事から連絡が取れ、僕は、平成12年ごろ有楽町で再会した。その際、あのときのお父様の詳しい話を聞いた。それによると、そのとき、お父様は陸軍少将、フィリピン防衛第14方面軍総司令官山下奉文大将の参謀副長(情報担当)であったとのこと、戦後マニラのB級戦犯軍事法廷では、その堪能な語学力を以て山下大将の特別弁護人を務められた後、無事帰国されたそうであり、御家族一同も何事もなかったとのことである。なお、宇都宮少将がフィリピン防衛第14方面軍(山下兵団)のナンバースリーとして山下大将を補佐した事は、児島譲の「史説山下奉文」に詳しい。
14 敗戦の実感、ようやく取り戻した平和
このように、当時は、身近な友人にも不安が伝えられていたが、徐々に平和が回復してきた。9月に入ると「原子爆弾」という言葉も、皆の間に自然に広まって、敗戦の原因など大体の様子も徐々にわかって来た。日本は米英に負けたのである。飯田から米兵がジープで村はずれまで来たが何も恐れることは無かったとのことが村の若者から伝えられ、安堵した。皆、敗戦をしかと受け止めるようになった。そうなると、いつ東京へ帰れるかがの最大の関心事であったが、これを僕らから口にする事は憚られた。
村では、賑やかに秋の村祭りが行われ、平和な農村も戻って来た。応召された加藤先生もすぐ戻ってこられた。この頃、秋の遠足で天竜峡へ行った。秋の天竜峡は行楽客でにぎわっていた。疎開に来て以来、行楽地など人々が楽しんでいる所へ遠足に行き平和な様子を味わったのは、これが初めてであった。近くの林檎園に行き、台風で落ちたリンゴを貰って食べたのもこの頃である。当地では、「私は、真っ赤な林檎です。御国は遠い北の国、、、」で始まるリンゴの唄(戦後、東京で流行ったリンゴの唄とは別の歌)を皆歌っていた。
15 学寮通信に見る当時の上久堅村の学寮の様子
ここに、1枚のガリ版摺りの学寮通信(昭和20年9月頃発行)らしいものの不鮮明なコピーがある。疎開の同窓会の際に、3組の東条さんから頂いたものであるが、終戦後9月頃のやや落ち着きを取り戻し、平和が戻って来た事を少し感じさせる当時の上久堅村の学寮の様子を伝えている貴重な資料である。
目黒区が編纂した「昭和の戦争記録」(平成3年、岩波書店発行)の「銃後の臣民」の節に載せられているもので、出典については、「旧青山師範付属小学校(今の東京学芸大学付属世田谷小学校)の学童集団疎開の通信」と題された2頁である。石橋千鶴子様提供とある所から見ると、2組の石橋君のお母様から目黒区に提供された当時の附属の学寮通信ではないかと思われる。石橋君は、自由が丘に住んでいたから目黒区はその住所地であり、目黒区の出版物に附属の貴重な資料が載ったものと思われる。その内容を見て見よう。
冒頭、「虱に勝って蚤と敢闘中」の見出しで、寮では相変わらず虱や蚤と闘っているが中々征伐できない状態であると伝えている。又、当時下伊那地方では、赤痢が流行っているが、上久堅村は絶無と伝えているので安心である。
更に、「既に秋」の見出しで上久堅村にも秋が来て、稲の実りが始まり、松茸、栗、あけびで有名と書かれている。松茸は見たこともないが、僕らもあけびの実を食べた事は、前に書いたとおりである。
次いで、学寮通信の半分以上を占めて「寮告」とする主文があり、村の村長、助役、学校長、以下各主要部落の組合長、婦人会長ら役員合計49名に対し学童疎開生徒の父兄名で、組合からの馬鈴薯、南瓜の特別供出、毎日の野菜供出婦人会のおやつ供出等につき、個々に学寮代表として礼状を出して頂けるようお願いしている。そのため、村の各役員等1名毎に礼状を出すべき生徒の父兄2名を具体的に指定し要請している。例えば、上平部落の「米山数男」氏に対しては、「細野伝次郎、若林平」と細野君と僕の父の名前があげられている。恐らく、当時は、米などの主要食糧は統制下にあったが、主要食料以外の副食糧については、村の人々からの特別供出に頼る所が大きかったことによるものと思われる。改めて、当時の村の人々の僕ら疎開児童に対する温かいお気持ちに感謝するとともに、食糧等の特別供出の折衝に当たられた先生や寮母さん等の学寮運営御担当者の御努力も大変なものであったと感謝するところ大である。
なお、この場合、礼状を出す父兄は、学寮代表として礼状を出す事を要請されており、個人的関係からではないようである。当時、基本的には、生徒が農作業などで知り合った農家を訪れ食べ物を貰う事はしてはいけないとされていたと思う。しかし、これに違反する様な事実も有ったようである。この事に関して、学寮通信は、「鉄筆」というコラムで、面会に来る父兄と懇意になり、その依頼を受けて子供らに陰でこっそり食糧を与えている農家があるが、実はこれは、「下痢患者養成所」であるので、学寮当局は生徒に厳重な訓戒を与えるとともに父兄の自粛を促すべきであると書いている。
続いて、「消息」の欄では、加藤先生が8月30日に復員し9月1日に興禅寺の寮主任に復帰した事、これに伴い、加藤先生の留守の任務のため来ておられた増田先生が富田勤務を命ぜられ9月17日に送別式をした事を伝えている。
そのほか、「科学論文募集」として蚤の駆除法、「広告」として学童の為①蚤の駆除剤②ハブラシハミガキ粉③石鹸④ちり紙の喜捨を求むと伝えている。
僕は、このような学寮通信が作られて父兄に配布されていたことは、全く知らなかった。疎開中も帰京後も父母から聞かされたこともない。これまでに、疎開参加者の間で話題になったこともない。内容から見て、玉川寺、興禅寺の先生が書かれたものと思われる。ただ、当時、両寺にガリ版が有った記憶はない。村の学校のガリ版を借りたのであろう。これは、たまたま、東条さんが見つけたもので、よく調べて見ると上記の通り目黒区の資料に残されていたものであることが分かったのである。前にも述べた通り世田谷区の「教育史」にも多くの学童疎開の資料が残されている。このように、附属以外の公的機関に色々僕ら附属の学童疎開の資料が残されているのに母校には何も残されていないと言う事は、誠に残念なことである。
16 帰京決定の喜びと記念写真
10月半ばに入ると、ここ信州伊那の山村は、かなり寒くなる。お寺には、未だ炬燵もなく、毎朝、通学前のひととき、境内の石畳に座布団を持ち出して座り背中を御日様に向けて暖をとった。もし、このまま冬をここで過ごすのであればどうなるのか不安が募った。
10月末のある日、武藤先生から帰京が決まったとの発表があった時は、全員に歓声が挙がった。待ちに待った帰京である。その後、村の人たちによる暖かい送別会が何度も開かれた。この間、加藤先生が、写真をたくさん撮られておられる。加藤先生の写真の他に、3年生全員を撮った写真がある。これは、多分、わざわざ写真屋に頼んでとったものと思われる。このページの冒頭に載っている上久堅国民学校の忠魂碑の前の御世話になった武藤先生、餐場先生、加藤先生の3先生と当時の3年生全員の写真である。秋も深まった晴天の下、帰京を控えて、皆の安堵に満ちた表情が見られる貴重な写真である。これが僕たち3年生の学童疎開の最後の写真となった。写っている人の名前と人数は次の通り(夫々の名前は、同総会のときに、千葉君、東条さんらと確認したものである。なお、女子の名は、旧姓)。
1組 11名、2組 8名、3組 9名、合計 28名
(なお、出発時は、前記の通り、43名であった。)
最後列 三段崎君 田中君 細野君
第6列 堀池君 青木君 田中さん 鈴木君 近藤さん 田畑さん
第5列 小泉君 山田さん
第4列 小路さん 山形君 梅沢さん 苅部さん 若林 青木さん
第3列 園田君 本間君 千葉君 依田君 野呂君 上井君 小笹君
中村君
第2列 永峰さん 石橋君 牧君
第1列 武藤先生 餐場先生 加藤先生、
これら28名は最後迄附属の学童疎開参加者として残っていた諸兄姉であるが、中には一旦帰京したが又復帰参加して最後迄皆と行動を共にした山形君や、この写真撮影後御家庭の事情で迎えに来られたお母様と共に皆に先立ってその実家に向かって山を下った千葉君も含まれている。従って、最終的に疎開参加者として帰京した3年生は、27名となる。
最後に、残念ながら学童疎開中に亡くなられた一人の附属の生徒の事を記して置く。当時4年生で安養寺にいた堀口さんである。昭和20年9月10日盲腸炎により死亡、告別式は安養寺で行われ、喬木村、下久堅村にいた生徒全員参加した(山崎先生の記録)。僕は、このとき、お腹を壊していたので、残念ながら徒歩による安養寺行きが許されず、玉川寺での留守番だった記憶がある。
(つづく)
(20190108)
附属の学童疎開の記録とその思い出(その6 最終回)
若林 茂
ここで、附属の学童疎開に参加された2人の先生が残された貴重な記録を紹介しておこうと思う。いずれも既に遺稿となっている貴重な記録である。
17 髙橋先生の手記
髙橋先生は、5年、6年の男子組を担当され、当初から最後まで付属の学童疎開で苦労された。戦後開催された付属の疎開の同窓会には毎回御出席され、当時の資料の展示や、貴重な話をして頂いた唯一の先生である。平成16年、先生は、「おじいちゃんの思い出」という手記を残されている。その中に、「大変だったあの頃」として疎開の事をまとめておられる。恐らくお孫さんにお伝えするつもりでお書きになったものと思われる。以下、他の記録では、見られないような学童疎開に関する事実を拾ってみることとする。
浅間温泉への疎開は、昭和19年8月12日である。第1次の申し込み者は、約300名いたと記されている。当時、先生には、1歳のお子様と妊娠中の奥様(当時、太子堂国民学校の先生、奥様も後に浅間に来られる。)を残して参加を決めたとのことである。荷物は、各自布団袋1個と行李1個に限られた事は、僕らの場合と同じである。世田谷区の疎開児童は、全員一緒だった様で、松本浅間温泉に着いたとき、本郷村国民学校の校庭で世田谷区国民学校全体の疎開児童の対面式があったと書かれている。先生は、菊の湯の第6小隊の隊長だったとのこと、これは、附属でも疎開学童について当時の陸軍の兵隊の部隊編成に倣い、中隊、小隊、班、の編成を採っていたのである。当時のスタッフとしては、菊の湯(本部)に責任者として木村先生(後、高島先生)、養護として、菊の湯に久保田先生(僕らは、後に上久堅の玉川寺でお世話になった。)、東石川に林さん(後に、山崎先生と結婚され、僕らとは興禅寺まで一緒)、寮母として西島さん、渡邊むつさん(菊の湯出身で下伊那迄続けられた人)の名が記録されている。
僕らの到着前に、浅間温泉を狙った米機の爆弾が隣の里山辺温泉に落ちた事があったそうである。松本の陸軍飛行場から特攻隊の兵隊が浅間温泉に度々投宿されていた事の記録も見られる。これは、先に記した僕らの井筒の湯での特攻隊の兵隊との交流の体験と全く符合する事実である。
再疎開については、あるとき、大政翼賛会の一幹部とかの某氏が浅間の疎開地に来て、各校代表者の先生を集め、戦局について話をしたとき、「もしかして、疎開学童は満州へ疎開してもらうかもしれない。」という話をしたそうである。当時の指導者と称する人の認識がこの程度か、あるいは、国民全体が戦局の実態を知らされていなかったかを物語る無責任でかつ恐ろしい発言である。
松本からの再疎開は、既に、他校では3月、4月頃から開始されていたが、付属は当分浅間に残ることとなっていたので、学寮の再編成が行われた。4月の再編成は、再疎開への準備であったのである。
再疎開先は、下伊那の喬木村と上久堅村が選ばれたが、現地調査や交渉の結果、かなり不便な所であることが分かり、決定までには賛否両論が出て難航したそうである。
下伊那の学寮編成で6年生の割当てられた下伊那郡喬木村富田の公会堂は、今まで人が住居にした事もない建物で、その定着までの準備が大変であったとのこと。喬木村での生活は、農家への勤労奉仕、食糧、薪の運搬、さなぎを食べた事など、僕らの上久堅村の場合と同じである。当時6年のSさんが盲腸炎になったとき、手術のため元気な子数名でSさんをリヤカーに乗せ、皆で励ましながら飯田の市立病院まで運んで入院させたとの感動的な話がある。当時の病院は自炊で、寮母さんが七輪、鍋等を持ち込んで看病されたとのこと等を、僕は、疎開の同窓会で髙橋先生から直接聞いた。
浅間では、坂本主事先生、大野先生が出征し、下伊那に来てからも川島先生、加藤先生(上久堅の興禅寺)も出征したので、髙橋先生ご自身も覚悟されていたそうである。坂本先生の出征の話は、既に僕が東京での事として紹介した事と同じである。
8月15日の玉音放送は、富田の学校の職員室で疎開の教師としてはただ一人代表してお聞きになったが、良く聞き取れなかったこと、天皇の声は国民を励まされるようなお言葉にもとれたが終りの方ではなんとなく敗戦のお告げの様に思われたと記されている。学寮へ帰り、子供たちに何から話そうかと考えているうちに、涙が出て何も言えない。しかし、そこで気を取り直し、日本が敗れ天皇陛下から終戦の勅語があったこと、更に、楠正行の故事に倣って、仇をとらねばならないと子供たちを励ましたとある。直接に、ラジオを聞いた先生でもこのように混乱されていたようである。
その後は、夏休み中でも午前中2時間、9月に入ると連日6時間の授業をしたとあります。6年生は、帰京すれば中学、女学校の受験を控えていたのです。
正式の帰京の発表は、10月になってから。その間、お世話になった喬木村富田部落に対する謝恩会や神社参拝等は、僕ら上久堅村の場合と同じである。
11月5日、富田部落の方々の温かい見送りで峠を下ったときは、感激的であったと記されている。伊那八幡から辰野で中央線に乗り換え翌朝白々と明け始めた新宿に到着、第一師範駅を経て、懐かしい下馬の校舎に1年3カ月ぶりで帰ったと結んでおられる。
先生は、疎開の同窓会にいつも御出席され、毎回、保存されていた当時の資料を持参して展示されたりしていつも貴重なお話を頂いた。僕達24年卒が幹事で平成18年の疎開の同窓会を企画したとき、「ぜひご出席頂きたいお迎えに上がります。」と御案内したが、行きたいがもう行けないとの御返事をいただいたのが残念であった。その直後、同年12月18日、享年90歳でお亡くなりになったとの訃報に接した。改めてここに、お悔やみと御冥福をお祈り申し上げる次第である。
18 山崎先生の手記と絵巻
山崎先生は、丹念に疎開の記録を残しておられる。学校の公式記録の無い現在、付属の学童疎開の唯一の公的な記録に近いものと言えよう。僕は、最初に、浅間温泉では東石川で教えを受け、下伊那へ行ってからは、先生は隣の興禅寺におられ、間接的にいろいろお世話になった思い出深い先生である。先にも御紹介した通り、昭和52年9月に毎日新聞社から発行された写真集一億人の昭和史の別冊「学童疎開」に先生の手記と、疎開学園素描と題する絵巻が載っている。疎開に関する基本的データーとして私が先に引用した疎開の出発から帰京までの正確な場所、日時などの記録は、殆ど先生の手記に拠っている。その手記では、先生は、疎開学園の存続については、地元の特段の好意、特に東石川旅館の御主人が地主として蓄えていた米を惜しみなく子供らに補給して下さったこと、上久堅村では、心から「疎開の衆」(当時、僕らは、こう呼ばれていた。)を大事にして下さったことに感謝し、更に、皇后宮御歌と皇后陛下の御菓子に言及し、子供たちがこれで元気づけられたことを述べておられる。皇后宮御歌と皇后陛下の御菓子については、私が先に(その2)で詳しく御紹介した。先生は、後日、都立西戸山小学校校長になられておられるが、その学校創立90周年に際し、天皇皇后両陛下の御行啓をいただいた折、疎開の絵巻を見て頂くとともに、子供たちが立派に「次の世」を背負っている事を御報告申し上げたと記されている。「次の世」とは、皇后宮御歌の一節を指している事は言うまでもない。絵巻は、上久堅村興禅寺での生活を水彩で描いたもので、昭和20年9月2日から同年10月31日までの疎開の絵日記である。その中での印象調査の結果が僕らの気持を率直によく表しているように思えるので、紹介する。
答えているのは、当時の5年生である。
一番心に深くあること 8月15日、皇后宮御歌と御菓子
家については 焼けないか、家の人は丈夫か
楽しかったこと 演芸会、面会、遠足、温泉
嬉しかったこと 面会、東京へかえると聞いた時、手紙
寂しかったこと 面会に来て帰る時、家の事を思い出す時
悲しかったこと 6年生にいじめられて
くやしかったこと 戦に負けた事、6年生にいじめられた事
驚いたこと 8月15日、爆弾のおちた時、6年生の乱暴
大水、ジープがやって来た時
つらかったこと 冬の登校 薪運び
ありがたかったこと 御歌と御菓子をいただいたこと、村人の親切
先生、寮母さん、
ためになったこと やりぬいた事、
興味深いのは、「6年生のいじめ」が度々出てくること、「皇后宮御歌と御菓子」が皆に喜ばれていることである。皇后宮御歌については、私も全く同感である事は、先に述べた(その2 参照)。
ためになったこととして、「やりぬいた事」をあげているが、これは、10歳前後で親から離れ学童疎開の生活を一人で生きぬいたという経験が夫々の精神形成に与えた大きな成果であり、これが学童疎開の唯一の積極的成果であると言っても過言ではないと私は思っている。「やりぬいた。」との実感は、戦争には負けたが最後迄頑張った僕ら疎開学童の共通のものであろう。
この絵巻は、その後興禅寺に寄贈され、僕らが平成12年に、上久堅村を訪問した際、同行の旧2組の千葉君が主要部分を写真に撮って保存している。本誌は、その後、興禅寺から地元の図書館に寄贈されたときいている。
19 帰京の日
僕達は、昭和20年11月5日、朝早く、玉川寺、興禅寺を発ち、来た時と同じ飯田線伊那八幡駅へ向かった。来たときは、トラックのピストン輸送だったが、今度は帰京できる嬉しさもあり、徒歩で元気に山道を下った。伊那八幡から辰野で中央線に乗り換え11月6日早朝新宿に着いた。思えば3月23日ここ新宿を発って以来、数えてみると226日目の帰京であった。この間の終戦を挟んでの激動の日々を考えると、数年は経っているように思えた。渋谷から東横線で第一師範の駅を降り、いつもの通学路を母校へ向かえば、丁度栗原君の家のある坂の上から黒い迷彩が施された校舎が見えてきた。校庭には、既に、大勢の父兄が待っており、感激の対面の後、附属の学童疎開の解散式が行われた。無事に東京に帰れたうれしさもあるが、戦争に負けた悔しさも有り、複雑な気持であった。僕は、占領下の東京の街を始めて見ながら、父と共に自宅に向かった。
20 最後に
以前から、附属の学童疎開の記録を今のうちにきちんとまとめておこうと思って、関連する資料の収集に努めていたが、何故か肝心の学校に学童疎開の資料が一切残されていないことが分かり、中々実現しなかったところ、附属のウェッブサイトの編集者の山形君からの再再の要請も有り、やっと筆を執ったのは一昨年の春であった。どうせ書くなら、個人的な思い出だけに止まらず、記録的な意味を持ったものにしたいと欲張ったためなかなか筆が進まなかった。人間の記憶なんてあてにならない。友達と思い出を語っているうちに、いつの間にかそれが自分の記憶であるかのごとく思うようになってしまう。そこで、編集に当たっては、自分の記憶は、別の客観的な記録に照らしつつ確認しながら書き進めることとした。例えば、松本への出発の日、松本から伊那の上久堅村への再疎開の日、帰京の日等の重要な日に関しては、一応きちんとした記録があり、これらの日の記憶、例えば、昭和20年3月23日の出発の夜の新宿駅での父親との別れ等はっきり呼び戻すことが出来る。又、例えば、住田さんの脱走の話など疎開の同窓会での出席者の発言等は、出来るだけ再現した。疎開に関する学校の記録がないとはいえ、山崎先生の絵巻、髙橋先生の手記等紙になっている記録は、出来るだけ利用した(前記17、18)。
今回、書いているうちに、疎開参加者各位からの御指摘等により、事実が訂正されたり、追加されたりして、記録的な意味が補充されたたことも多い。又、現在の学校に附属の学童疎開の記録や資料が一切残されていない理由など、それ迄どうしても分からなかったことが今回これを書いているうちに明らかになったこともある。
ご協力下さった山形君始め諸兄に改めて御礼申し上げる次第である。
思い出せば、丁度今から74年前の昭和20年3月23日は、僕ら新3年生が附属の学童疎開第2陣として、新宿駅から松本へ発つた日である。
平成31年3月23日 (完)
(20190323)