Essay


吉原 經太郎

1、提案に至った動機、背景

最近の国際競争力に関するスイスのビジネススクールIMDの発表の調査では「日本の競争力は30位で、前年より5位低下」です。世界の63か国が調査対象で235の経済指標に基づくものです。

ビジネスの効率が46位と低く、ビッグデータの活用と分析、国際経験、起業家精神で最下位です。一方、環境技術、モバイルブロードバンドの普及と平均寿命の評価は高いとのこと。1位はシンガポール、インドネシアが32位で43位から急追とのこと。

2、提案

企業の部内積立金総額470兆円超を原資として、日本の経営力を長期的に向上させる人材能力向上案。

(1)全体から1兆円を出資して奨学基金を作る。余剰金の約0.2%。

(2)意欲ある若者15歳から30歳を対象とする。

(3)学位を取得することを基金供与の条件とする。

(4)選考の考慮条件として、留学先大学を重視する。(猛烈な勉強と共に、討論能力や実践応力を勉強し、学生間の国際人間関係も構築させる。米国の超有名大学を主に想定する。米国の大学の教育・研究レベルが優れていることを考慮した。日本の大学に入学するためのものではない)。

(5)基金はprestigiousなものとする。(財界、財務、経産、外務、文科などが関与し、税金などの優遇処置も考える)。

ヨーロッパを含めて、外国には私的・公的を問わず、優れた奨学金制度が数多くある。日本では大変に少なく、世界の教育から取り残される懸念がある。

3、効果

日本のマネージメント能力と国際対応能力の向上。

4、余談

日本はビジネスの効率や国際経験、IT活用などに関して、一段と向上することが必要である。このためにこれらに係るマネージメント力の向上が何より重要と考える。ミドルからアッパーマネージメントを主体として考えている。

無論、日本にも過去に優れた創業者が輩出した。松下氏や本田氏は高等教育を受けていない。一方、最近の企業では、Google の創始者2人はStanfordの大学院、Amazonの創業者はPrinceton大、Facebookの創業者はHarvard大、Softbankの創業者はUCBerkleyの出身である。

現在の一部の経営者は会社に残ったお金を、新しい投資(研究や設備)、賃金アップ、株主の還元にも使わない。使う能力がないのは情けない。つい先日剰余金の総計は450兆円と言われていたが、今はこれが増えて470兆円という。そうであるなら少なくともその一部を将来の人材育成に使うべし。折角貯めた金を他人の奨学金に使うのはイヤだというなら、上記の各種投資に使えばよい。日本経済はいっぺんに上昇するでしょう。

剰余金について考察し、上記のような考えに至りました。ご批判ください。

蛇足:

【剰余金とは、企業の活動で得た純資産から資本金を差し引いた金額です。財務省の公表した2017年度の法人企業統計では、企業が得た利益から株主への配当などを差し引いた利益剰余金(金融業、保険業を除く)は前年度より40兆2496億円(9・9%)増えて446兆4844億円でした】

上記の提言への反応

Yamagata 2019/07/20 (土) 18:41:01

「日本の経済向上のための一提案」という吉原さんの提言はすばらしい。総論、大賛成。

でも提言は「日本の地位向上のための一提案」というタイトルにしたら、もっと良いように思う。だって、今の日本はすべての面であまり注目される存在ではないから。吉原さんの提案のように若くて優秀な人を積極的に育てれば、数十年先には日本は国が小さくてもキラリと輝いて見事に生き延びるだろう。

奨学金と言ってもいろいろあるけれど、文意からすると、この奨学金は後で返還しなくて良い奨学金だよね。米国の大学制度をよく知らないけれど、大学の経費はべらぼうに高い。でも優秀な学生は奨学金がもらえる、でもその奨学金はいずれ返さなくてはならないのだっけ?吉原さんの提案の奨学金は、その奨学金を肩代わりするということだね。

外国の優れた大学に留学する(あるいは試験を受けて入学する)学生だけに出す奨学金でもいいけれど、そうすると数がとても少なくなるのではないか。日本の大学に入る学生にこの奨学金を出してもいいけれど、遊んでいても卒業できる文系に入る学生にではなく、理系の学生だけにしたらどうだろう。今の世の中は文系、理系でひとの将来を限定するのではなく、理系を出ても政治家、企業人になることを求められているし(そのほうが幅の広い人になれるのではないか)、それができるくらいの人をこの奨学金で育てて貰いたい、と思う。

KYoshihara 2019/07/22 (月) 11:23:49

Yamagataさまのご意見にお答えします。タイトルは「地位向上」への文字変更のご提案有難うございました。今は「日本の競争力向上のための一提案」と変更します。(経済向上では範囲が広すぎるので)

◎ 奨学金は返還しなくて良いことにする必要があります。その条件として何らかの学位を習得することを条件とします。

◎ ご指摘の、若者のインセンティブを高める方法をどうすればよいのか。これが大きな問題です。応募条件として高校生を含めています。今日、最優秀高校生はT大なぞ問題とせず、海外の大学を目指すということも聞きます。

◎ 日本の文系大学への奨学金を出すことはしません。一番避けたい。さて、日本の競争力が下がっているのは経営マネージメントが上手く行っていないからというのが私の認識です。IT関連は世界ランキングでもビリです。一般の科学技術はまだうまく行っていると思っています。米国の理系の大学を含めるのも良いかと思います。YOさんのコメントにあるように、米国では理系もめっちゃ勉強・努力をしないとやって行かない。

◎ 海外の新しいビジネス創生の「ナマの現場」に遭遇するか或は自ら係るためには、「その場その時の仲間」になっていなければ立ち遅れる。これがspeedyに出来るためには人脈と語学力が必要です。

これは世界と競争している科学者は良く知っていることです。私の発想の基になっています。

◎ 人脈に食い込むためにはその人の教養やdisciplineも重要です。日本の大学教育および大学環境、ははなはだ心もとない。

◎ GAFAのような企業を作れる人材の育成と優れたミドルマネージメントもしくは中小企業のマネージメントを改善するためです。前者を目的とするのは夢ですが、めったに遭遇できないことでしょう。後者のボリュームゾーンが改善出来ることも重要です。本提案の奨学金対象者の受給者を出来るだけ多くして、全体的な底上げを狙うものです。


YO 2019/07/20 (土) 17:47:17

吉原様: 何より先に、いつの間に経済の勉強をなさったのですか?驚きました。

お恥ずかしいことに私など「剰余金」のことすら存じませんでした。特にこの時期、選挙前日、にこんなことを云っているなんて、投票権を返上しなければならないのかもしれませんが、私は申し訳ない位経済のことはわかりません。しかし、ご提案は一々ご尤もだと思いました。

少数の人を選別することは現代はやりませんが、明治時代と同じく、急げばまず指導者を育てるべきでしょう。その奨学金がprestigiousであることはフルブライトを考えればわかり易いのではないでしょうか?

アメリカの一流大学の学生がどれほど勉強するか、つぶさに見て本当に驚きました。どちらかと云えば挑発的な服装をした女子学生が座席がプラスチックの板一枚という学バスの中で必死に教科書にしがみついている姿、或いはバス停でまだ暗い凍てつくコンクリートの道端でノートに計算をしている女子高校生も見ました。男子学生はもっとすさまじいでしょう。第二次大戦直後とは違う。日本は優秀だから留学する必要はないとの意見もちらほら聞きますが、それは間違いだと思います。企業に剰余金があるならば、その一部を割いてどうか日本をリードする人材を育てることにお使いになって下さい。

KYoshihara 2019/07/22 (月) 11:45:46

コメント有難うございました。企業の剰余金の総額は470兆円という巨額なものです。(消費税などちっちゃい・ちっちゃい)しかも毎年積みあがって来ています。これは本来留保以外に、設備・研究投資、給与増額、株主還元などに使うべきものです。現在の経営者はどのような理由かこれが出来ない。恐らく実行能力がない。

ご指摘の明治時代には、有力な実業家や政治家は自宅に書生を複数名置いて郷里の有為な人材など育てたという歴史もある。今の経営者は巨大な金を眠らせないで、将来の日本存続のための奨学金供与が出来ないはずがないと思いますが、如何でしょう。

おっしゃるように、フルブライト奨学金のようにprestigiousなものにしたいです。昔話ですが合格者は米大使館に集められて、当時のライシャワー大使の激励を受けました。

Yamagata 2019/07/22 (月) 21:46:33

吉原さん:この提案をうんと磨いてぜひ日本の政界・産業界に本気で提案して実現させてくださいな。でも、どうやって提案を有効なものにしますか?貴兄は政治家や、経団連にルートを持っている?




ゾフィとロボット掃除機

山形 達也

いまわが家で飼っている犬はボーダーコリーのメスで、Zophieと名付けている。これはペダンティックなところのあるぼくが「Sophia」という言葉が好きだからである。実際、それが理由でうちの男の子に愛知と言う名前をつけたが、ぼくたちの期待に反して彼は学問が好きにはならなかった。それどころか姓が山形県の山形で、おまけに名前がその時住んでいた愛知県と同じ愛知というわけで、学校の仲間たちから散々からかわれたらしい。気の毒なことをしたものだ。

それから半世紀経って、「こどもは親の期待に応えない」という経験則に懲りずにうちの犬にSophieという名前をつけようと思った。米国ではメス犬にはデージーとかソフィーとかいう名前がついている。しかし、ソフィと呼んでみると、ちょっと弱々しい。それで最初の音を濁音にしてゾフィにすると力強く響くので、Zophieと名付けたのだった。その後ポーランドの友人が訪ねてきて家に泊まったとき、ポーランドではSophiaを意味するZophieという女性名があり、愛称だとZosiaなのだという。実際、彼女の娘の名前はZophieだそうだ。つまり、悪くない名前である。

もともと妻の貞子と、「ぼくたち引退したらうちで盲導犬のパピーを飼おうよね」と話していたのだった。以前、犬を飼っていて死なれたあとはその辛さのためにまた犬を飼うのはためらわれたのだが、盲導犬協会が募集する将来盲導犬に育てるためのパピー制度に応募すると、主としてゴールデンレトリーバーの生後三ヶ月のパピーを預かって約一年育ててから訓練に送り出すというのを知った。もちろん一年後には育った犬を送り出してそれで別れてしまうのだが、死に別れるわけはないので悲しくはないだろう。それどころが世間に貢献している気持ちで、こちらも元気になるというものだ。

さて、妻に先立たれたぼくは2014年夏に日本に帰ってきて一人暮らしをはじめたが、広いうちで一人ではいかにも寂しい。それで盲導犬協会に電話をした。すると、「一人暮らしの方にはパピーはお願いできません、家族の人たちからの愛を覚えてもらえないからです」と断られてしまった。犬と暮らしたいのはこちらの都合かもしれないが、冷たく断られるとがっかりである。妻に死なれて独りになり、さらに犬とも暮らすのを断られる。

踏んだり蹴ったりとは、このことだ。。。この歳では、新たに子犬を飼い始めることはできない。保護犬の引取でも、一人暮らしや、高齢者は飼う資格が無いといってお断りなのだ。

嘆いているぼくを見かねて、さきほどここで紹介したいまは新宿に住んでいる息子の愛知が、「いざという時が来たら犬の面倒をみてあげるから、犬を飼っていいよ」と言ってくれた。なんと親孝行な息子ではないか。でも賢明な彼はこう付け加えることを忘れなかった「でもね、旅行に行くからと言っても、預からないからね」

だから、ゾフィと暮らし始めて3年半経つ間に、ゾフィを置いて旅行にでかけたのは、瀋陽のときの卒業生がうちに泊まりに来てくれた二回だけである。

犬を飼う前にはもちろんのこと、犬の種類、性格などを出来る限り調べた。最終的に気に入ったのは、犬の中では賢さが上位にくるボーダーコリーである。ボーダーコリーについては「牧羊犬なので動くものに気を取られやすく、道を歩いているときモーターバイクに飛びかかったり、追いかけたりします。突如走り出すので気をつけましょう」と書いてあった。実際にうちで9週間の子犬を飼い始めてみると、傍を歩くぼくの足を追いかけてかかとに噛み付こうとする。何十頭という羊を一匹のボーダーコリーが管理するという。ボーダーコリーは群れからはみ出た羊のかかとに噛み付いてその羊を追い立てるのだそうだ。動くものに反応するというその習性は、見事に彼の遺伝子に組み込まれているわけである。 やがてゾフィはぼくのかかとに噛みつかなくなったが、掃除機には敏感で、電気掃除機を使い出すと飛んできて吠えながら猛然と飛びかかる。モップなどの動くものにも、親の仇とばかり襲いかかって噛み付く。掃除機の先のスチックが動く足に見えるのだろうか。それで、掃除機を使う間は子犬のゾフィをケージに閉じ込めるしかなく、ゾフィは絶え間なしに吠え続ける。ケージを毛布で覆っても、掃除機を使うあいだ音楽を大音量で鳴らしても、騙されずに吠え続ける。 そして掃除機が動いていなくても、ゾフィは掃除機は攻撃すべき敵であると認識しているのだ。掃除機の置いてある戸棚の扉を不用意に開けたりすると、猛然と飛び込んで行って掃除機の先のTバーに噛み付く様子は、「親の仇とばかり」としか形容のしようがないほどである。いや、今の若い人に「親の仇とばかり」という表現がわかるかどうかは心許ないけれどね。

ゾフィは部屋の中でぼくと一緒に暮らしている。P&P(つまり、PeeとPoo。トイレのこと)のときにはドアの前で吠えるので、玄関の外に出すとうちの周りの狭い、それこそ犬走りで用を足して帰ってくる。ゾフィがいると当然部屋は大いに汚れるから毎日の掃除が欠かせない。子犬のときは前出のように、ケージに入れてその上に毛布をかぶせて部屋で掃除機を使っていた。子犬のときはまだいいが、育ってくると吠え声も大きくなる。それで大きくなってからは、ゾフィをうちの外に出して掃除機を大急ぎで使っていたのだった。もちろんゾフィはその間も外壁に飛びついて抗議をしている。

ところで、ゾフィとはほとんど毎日散歩するから、外に出ている間うちの掃除してくれるロボット掃除機をうちに導入すれば問題は解決するだろう。しかしつい最近まで、そんなことなど考えもしなかった。五十数年も電気掃除機を自分の手を動かして使ってきたから、ロボット掃除機ができて、とても便利でいいものだよと読んでも、ひとから聞かされても、自分も入手して使ってみようとは思いも寄らなかった。つまり、概念が固定化して頭の働きが硬直化していたわけだ。

それが最近Amazonのセールがあって、そのリストを見ているとロボット掃除機が数種類載っていて、価格が1−2万円である。意外に安い。ネットでロボット掃除機を調べてみると最初に市場に現れたRumbaが未だに一番売れていて、一番高いものだと10万円くらいするらしい。掃除機の情報と一緒に載っているユーザーの言葉を読むと、これは省力を超えて便利なものらしい。フムフムと言いつついろいろと調べてみて、このAmazonのセールで出ている2万円で買えるロボット掃除機を一つ購入した。セールでは20,230円だったが、翌日の価格は28,900円となっていた。

仕様書を読んで使い方を覚えて、さて、どうやってゾフィと折り合いをつけるかを最初に考えた。動くものが大好きというか反射的に反応するゾフィがこの新しいロボット掃除機を無視するとは思えない。ましてや電気掃除機には鋭い敵対意識を燃やしているゾフィである。もしゾフィが猪突猛進して噛み付いたら、2万円がパアになる。ゾフィの眼の前にロボットを置いてからスイッチを入れようか、あるいはロボットを動かしてからゾフィを部屋に入れようか、いろいろと考えて後者を選んでみた。ゾフィは動くものはボールでも、ゴキブリでも、あるいはハエでも猛然と追いかけるのだが(実際、ハエを追い回して最後はうまくすると口に入れる)、動くロボットは勝手が違うらしく、胡散臭げに眺めて、しばらく付いて歩いてみてから自分は関わらないと決めたみたいだった。恐らくは理解を超えた存在なので、敵ではないと見做したみたいだった。ゾフィはAIに尻尾を巻いたわけだ。

なお、横道にそれるが、降参した状態を「尻尾を巻く」というが、降参した犬はしっぽを垂らして足の間に挟むのだ。決して巻くことはない。柴犬でよく見られるように、「巻いたしっぽ」というとしっぽが体の上にクルッと巻いていることをいうのではないか?それとも「巻く」というのは、しっぽを垂らした状態を指すのだろうか?不思議である。

実際にこのロボット掃除機を動かすと、バッテリーが切れるまで約2時間半、律儀に這い回って床をきれいにしてくれる。10万円の機器みたいな高度なAIは搭載していないが、障害物を避けつつ丹念に部屋を動き回り、障壁がなければ別のつづき部屋にも出かけていく。バッテリーが切れそうになると、まさに気息奄々という感じで充電器の基地にたどり着いて自分でチャージを始める。2万円の価格でも、このロボット掃除機を入れたくないところには電気ビームで遮断カーテンを張って侵入を防ぐ発振器が付いている。大したものである。

もっと早く手に入れればよかった。二階の掃除のためにも、もう一つロボット掃除機があるといい。いまでは、床の水拭きをしてくれるロボットまで売っているという。次のセールでは、ぜひ手に入れてみよう。いや、一年先のセールまでも待ちきれない感じである。

(20180722)


豊田理化学研究所に設置された井口洋夫記念ホール

吉原經太郎

皆様お元気のことと存じます。今日7月1日ですが、東京地方では6月中に梅雨宣言がなされるという記録的な年となったようです。すでに暑い日が続いています。体調管理をしっかりしましょう。

今日は豊田理化学研究所について書きます。本年春、研究所に「井口洋夫記念ホール」が開設されました。よくご存じのように井口先生は赤松秀雄先生と有機半導体の概念を提出されました。今日の有機伝導性材料隆盛の基礎となりました。我々が在学中には先生は赤松研の助手でしたので、学生実験などでお世話になりました。彼は東大物性研教授を経て、分子科学研究所の設立に参画され教授・所長を務められました。

さて、豊田理化学研究所はトヨタ自動車の創業者豊田喜一郎が、「学術及び産業の進歩発展に資するため、理化学の研究及びその応用を図ること」を目的として、昭和15年9月、東京芝浦で設立しました。彼の考えでは自動車に係る技術的研究は会社で行うので、自由な発想に基づく基礎的な研究を行う別途の機関が必要と考えたとのことです。当初は電池やロッシェル塩などの研究を行って成果が挙がったとのことです。喜一郎は飛行機を飛ばすことのできる新発想の電池の構想に大きな賞金を出して一般公募したそうです。今日の新聞報道では2020年代に「空飛ぶクルマ」の実用化を目指す官民組織を立ち上げるとのことです。まさに時代を先行する考えでした。

戦後の困難な時期に、豊田理研は独自の研究を中断して助成機関になっていました。井口先生は研究を復活すべく2004年に「豊田理研フェロー」の制度を設立しました。これは大学や研究所で研鑽を積んだ研究者に第二の職場を4年間提供して自由に研究してもらう制度です。物理学や化学のベテラン研究者が集って闊達に研究や放談を行っている大変愉快な場になりました。私も当初に参加させてもらいました。なお、現在の敷地は愛知県長久手市の豊田中央研究所に隣接しています。

井口先生は新任フェローに「これまでの研究課題を離れて、全く新規な発想で研究をして下さい」とお願されました。これはなかなか難しい課題です。私は湿潤空気に紫外光(水銀灯または紫外光レーザー)を照射すると水の凝結(凝集)が起こるのではないかと思い、簡単な容器を作って実験しました。すると幸運にも水滴が生ずることを発見しました。凝集の条件やその詳しい機構を研究しました。ジュネーブの世界気象機関で開催された研究会で招待講演することができました。しかし、人工降雨の研究にまでは至りませんでした。

冒頭の井口洋夫記念ホールは研究棟に接続した建物で、先生の業績の数々が展示されています。中小の会議室があって研究発表などが行われます。階段教室の会議場の壁を取り除くと庭園と池が俯瞰できるというドラマチックな作りです。余談ながら、演劇の好きな方は、能登演劇堂や平成中村座を思い出して頂けるとよろしいかと思います。

理事長の豊田章一郎氏(元トヨタ自動車社長、元経団連会長)は大変熱心に豊田理研の復活に尽力されました。フェローの研究発表会には皆勤で出席されています。井口先生と一高時代に友人であったこともあって2人の共同作業で研究所の再建が行われたと理解しています。先生の没後に業績をたたえる記念ホールが建設されることになったのは、実業界の巨人と学会の巨人の2人の深い関係の帰結だったと思われます。

(20180702)


みそ汁

吉原 經太郎

定年退職したころから、妻の家事労働を少しでも分担したいと思った。元来、食べることが好きなので、毎日朝食を作ることにした。毎回何かと工夫が出来て楽しそうではないか。何でも三日坊主で終わる私にしては珍しく数年間以上続いていて、一つの習慣になった。

献立は気の向くままに雑多である。主食はご飯、パン、パンケーキなどだが、副食も合わせると和洋折衷になることが多い。よく作る組み合わせは、トースト、みそ汁、ベーコンなど、チーズ(一片)、ヨーグルト、それと季節の果物といった具合である。何の変哲もない献立であるが、少しこだわりがある。味噌には三州味噌(八丁味噌)を用いる。

八丁味噌は大豆、麹と塩のみで作られる。固体のまま木製の桶に入れて、重しとなる石を100個以上積んで、2夏と2冬の間発酵させる。固体状態での発酵には時間がかかるので、通常の味噌づくりの工程よりずっと長い。水を加えて液体にして発酵させれば早くできると思われるが、あくまで固体のまま行うのが伝統である。何年か前に八丁味噌工場に見学に行った。

桶は直径約2メートル、高さ約2メートルの大きさで、最も新しい(!)桶が大正年間の製作であると聞いて驚いた。大昔からの桶を修理しながら使っているとのことである。八丁味噌の製造会社は2軒しかないが、写真はその内の一つ合資会社カクキューの味噌蔵の様子である、この会社には同様の桶が200個あるということだった。 このようにして出来る「純粋の」八丁味噌は少し固く(お湯に溶けにくく)、少し渋みもあって、塩分も少し強い。そのため、普通の味噌汁用にはコメ味噌との「合わせ味噌」にしたものも販売している。私が用いるのはもっぱらこちらの方(「赤だし八丁」)で、なかなか滋味豊かである。アミノ酸分析表も発表されているが、マメみそ特徴や製法の味に与える特性については残念ながら調べていない。徳川家康の兵士が強かったのは、この固体の味噌を携帯して食べながら(しゃぶりながら)何日も戦うことが出来たからだと当地では信じられている。 出汁は煮干しを前夜から浸けて使う。市販の出汁の素(昆布や小魚を粉末にしたもの)も使うことも多い。みそ汁の具には家庭菜園から採れた新鮮なものがある。四季を通じて、なす、えんどう豆、大根、ニンジン、ジャガイモ、かぼちゃ、ねぎなどが収穫できる。これに豆腐または油揚げを加えている。葉物を沢山食べれば「葉酸」も摂取出来るので、老化が少しでも「遅延」することを期待している。

(20180124)


<編集部コメント>

吉原さんの「みそ汁」に出てくる八丁味噌を読んで、口中に唾が湧きませんでしたか?

名古屋の食文化は、八丁味噌に濃く彩られています。味噌煮込みうどん、味噌カツ、などなど。

その八丁味噌が、農林水産省の「地理的表示(GI)」制度で登録されました。しかし、吉原さんのエッセイに出てくる老舗「カクキュー」はそれに含まれていないそうで、その不思議な事情が『名古屋めしの象徴・八丁味噌ブランド問題の「なぜ?」』というタイトルで書かれているのを見つけました。2月13日の記事です。ぜひお読みくださいな。

(20180215)


運命を決めたひとこと

山形 達也


私たちが理学部化学教室に進学したのは1958年4月で、それから卒業までの2年間、出入りしたのは何時も化学教室の正面玄関からだった。この化学教室の入り口の絵が私たちのWebsiteのホームページを飾っている。この正面玄関と階段には、それから60年近く経っても忘れられない思い出がある。(写真はInternetから借用しました: http://www2u.biglobe.ne.jp/~komichi/Home_page/tokyo_1/rigakubu.htm)

 1958年の9月、つまり私が3年生の秋の午後、私が外の用事から化学教室に戻って来て教室の入り口が見えるところに来ると、化学教室の玄関から出て階段を降りようとする一人の女性の姿が見えた。私は思わず「サエ!」と叫んでしまった。

 この女性・三枝貞子と私は、小学校、中学校、高等学校の同期生だった。でも私は、大学受験で一年浪人をしたので、お茶の水女子大学の化学科に進学した彼女は私よりも一年先輩になっていて、この年は東大大学院の修士課程の受験に来て、彼女はその帰りだった。

 中学の時、私たちは男女共学で、同学年の生徒の数は150名しかいなかったから、お互いすべてが顔見知りだった。女性徒は親しい仲間同士であだ名を付けて呼び合っていたので、もちろん私はそれも熟知していた。

 しかし、極めて奥手だった私は、あだ名で女生徒を呼ぶことのできる男友だちを羨望と嫉妬で身を焦がしつつ眺めながらも、それでも女子を親しくあだ名で呼ぶ勇気は持たなかった。

 実際、その年令になるまでついぞ女性の同期生をあだ名で呼んだことはなかったのに、彼女を見た途端に口をついて出たのは「サエ!」だった。私自身びっくりしたけれど、彼女も心の底から驚いたに違いない。

 驚いて目を見開いた彼女と、その時はそこで立ち話をしただけだった。でも、彼女はこれが大きなきっかけだったと、その後言っていた。生まれて初めて私が口にした愛称で、私が一人の男性として彼女の心にポンと飛び込んだのである。

 三枝貞子は1959年春には東京大学化学系大学院生物化学専門課程に入学し、私は1年遅れで同じ道を辿った。生物科学の江上不二夫先生の研究室は、新館と呼ばれた化学教室の右手の奥の増築部分の1階にあった。その狭い一室に彼女と机を並べて大学院修士課程を終え、私は1962年4月に彼女と結婚した。

 落ち着いた性格で思慮深い彼女が、若い頃は生意気なだけで、未熟な青二才だった私をどうして選んだのか、いま考えると不思議である。でも、彼女のお陰で私はやがて自己中心的な性格から脱却して、人間らしく成長することが出来た。今思い返すと、その後の長い年月の間に、よくぞ彼女は私を見放さなかったものと思う。彼女に先立たれた今、私は感謝の気持ちを伝えるすべがない。毎日、心のなかでもっと立派な人になろうと彼女に誓っている。

(20171110)


Scientia を見た Mak Kag氏の投稿

昔ある時、化学教室の地下室から階段を上がって玄関ホールに出ようとしたら、一組の男女が、名札を裏返して、人目を忍ぶように玄関を出て行くのに気が付いた。彼等は外に出て、小走りに病院の方に向かった。そうか彼らはできていたのか!隠さなくてもいいのに!

今バラシます。それは Chaibo ことYamagataと KoSada ことSae でした。それから何年か何か月か経って、修士報告会のあとのコンパで、Sae はシャンソンを歌い、Chaiboはクラリネットで伴奏をしました。めでたしめでたし。