Dr. Kageyama

私が東大に入学したのは昭和22年春である。東京にはまだ戦災の

わが回想の化学教室

景山 眞

焼け跡が残り、新宿、池袋、神田などの駅前には闇市が繁盛していた。(この年の秋、東京帝国大学から帝国の文字が消えた)。 化学科では最初に教室主任の鮫島実三郎教授から教室の紹介があった。各講座の教授、助教授、助手の方々の名前、ついでにほとんどの先生が罹災者であること、また化学教室は鉄筋コンクリート建築の強度が未だよく判らない時代に建てられたので、必要以上に頑丈に作られていること等々。(中央図書館に行くと、関東大震災の時の東大の被害状況が大きな写真で新聞雑誌閲覧室に展示してあった。その中に「化学教室の惨状」として、実験台の上に壊れたガラス器具が散乱している写真があった。建物は無事だった)。 多くの教室員が戦災にあった名残として、教室の地下室に畑一夫助教授(有機化学)や殿岡さん(事務)と、もう一人事務の方が家族とともに住んで居られたし、224号室(小講義室)は住居のない学生たちに開放されていて、鈴木弘さん(のちに教養学部教授)などが住んでおられた。中庭の物置小屋には小使の戸田が住んでいた。(この人物については何故か昔から先生方も学生も呼び捨てにしていた)。

前期(理学部一年)では講義は午前中だけで午後は実験にあてられた。戦争中から続く紙不足、印刷工場の罹災などから、教科書、参考書などは手に入らなかったから、講義のノート取りは大切で、出席率は高かった。図書室には雑誌ばかりで参考書などはほとんどなかった。

当時のエピソード。夏の猛暑の日、分析化学の講義に227号室に現れた南英一先生、実験着の下からはだしの脚と下駄が見えた。ズボンなしのステテコ姿で白衣を着ておられた。旧制高校のバンカラには慣れていた我々もびっくり。

分析化学、無機化学の実験は新館2階の端の実験室で行われた。実験書は戦前に印刷されたストックがあったので、ほぼそれに従ったが、物資のない時代だったから、実験項目の選び方など、先生方は苦心されたのではなかったか。

夏には2日間かけて、歩いて隅田川の主な橋で水を採取し、その場で分析した。私は塩素イオンの滴定を分担した(野口喜三雄助教授)。

無機化学の実験の時、ちょっと不愉快な事件があった。アルカリ金属の硫酸塩の複塩を与えられ、それから分別結晶を繰り返して、Na,K,Rb,Csの硫酸塩夫々の結晶を得た。ところが私を含めて大勢の学生がその硫酸セシウムを盗まれてしまった。Cs化合物は高価だと知った。犯人は内部の事情に詳しい者と思われたが、先生方はどう判断されたのか、何の事情聴取も、説明もなかった。

この実験室の思い出は尽きない。夕方5時になると戸田が鍵束をガチャガチャ鳴らしながらやって来て、私達を実験室から追い出すのだった。一年間各自固定の実験台だったので、私は30名の同級生全部の名前を、映像の記憶として憶えている。

級友のなかには化学の知識に飛びぬけた者が何人もいて私を驚かせた。面倒な錯塩などの化合物の性質をよく知っているもの、分析化学実験の合間に人工甘味料を合成してしまう学生もいた。こんなこともあった。鮫島教授の物理化学の試験の前日、ノートを繰って勉強したが、どうしても理解できぬ事項に出会った。散々考えた挙句、これは鮫島先生が間違って教えたのではないかと推論したが、お蔭で他の個所の勉強が不十分になった。翌朝一番に教室に着いて、二番目に入ってきた級友にこの件を質した。彼は事も無げに答えた。「あそこは鮫さんが間違っているよ。化学実験学の相律の所に正しい記載があるよ」。私は絶句した。“化学実験学“は図書室に全巻揃っていた。幸いこの問題は試験には出なかった。

中期(二年目)ではクラスを二つに分け、半年づつ有機化学と物理化学の実験とを順序を入れ替えて行う。有機の実験では温度計は各自持ってくるようにと言われ、デパートで買って来た。有機化学の期間に二人が二週間、生物化学の実験に出向く。

生化では田宮信雄さんと石本眞さんが助手で、課題は髪の毛からシスチンの調製と、Thunberg法によるデヒドロゲナーゼの測定で

あった。御殿下グラウンドの地下の床屋で集めてきた髪の毛を(脱脂してあった)塩酸で加水分解してシスチンを得る。これは特に問題なく、得られた標品は田宮さんの研究に使われた。デヒドロゲナーゼは三四郎池で捕まえてきたオタマジャクシから抽出する。大きなオタマで、胴体の長さ3~4センチ、尻尾も同じ位あった。これを解剖して、内臓、筋肉部分をすりつぶして酵素液とする。

pH緩衝液、メチレンブルーと基質とをThunberg管内で水流ポンプ真空下で混ぜ、恒温水槽内に置いてメチレンブルーの脱色の時間を測る。基質としては乳酸などの有機酸や糖類だったと思う。ところが、これが大変、いつまで待っても脱色しない。3時間か4時間経って、やっと消えたかと思ったらコントロールも消えていた! 生化の研究室でこんなことがあった。石本さんが私にある試薬瓶を渡しながら、「これはドイツから潜水艦で来たものだよ」と言われた。戦争中、日本は連合国に封鎖されていたが、日独の潜水艦が往き来し得た例は、当時新聞で報道されていた。だから特定の物資がドイツからもたらされたことは想像に難くなかったが、石本さんが示された試薬は、わざわざ潜水艦で運ぶとは?と思わせるものだった。たしかリン酸一カリウムか何かだった。メルク製の高純度品ではあったろうが。

後期(三年目)になるといずれかの研究室に所属して卒業研究を行う。私は物識りの集まる研究室を避けて、生物化学(左右田徳郎教授)を選んだ。実験のほか、夫々の研究室のコロキウムで最近の研究論文を紹介する当番がある。化学教室全体の“雑誌会”でも同様の機会が回ってくる。しかし戦後の日本は貧乏だったので、外国雑誌は買えなかった。外国誌は昭和16年を最後として図書室には全くなかった。ところが米占領軍が科学専門誌の図書館を日比谷に開設してくれた。CIE (Civil Information & Education) 図書館と呼んでいた。映画館などがある賑やかな一廓にあった。Nature, Scienceは勿論 J.Biol.Chem や Archives Biochem.Biophys. など、また英国の Biochm.J. もあった。コピー機はない時代、私たちはそこで読んでノートして帰る。このような図書館は関東ではここだけなので混んでいた。私はここで他の学部や他の大学に進んだ高校時代の同級生に出会ったものだ。教授の先生方は忙しいのでここまで文献を読みには来られない。私達学生が先生に新情報を教えて差し上げる形となった。(数年後東大中央図書館に同様なセンターができた。各学科で外国誌が買えるようになるには更に数年を要した)。

卒業研究として、私は石本さんの下で、ヒアルロン酸、ヒアルロニダーゼに取り組んだ。 石本さんと一緒に当時品川にあった屠殺場に行き、牛の眼球、内臓など貰ってきて、基質や酵素を調製した。ヒアルロン酸など当時は化学教室でも誰も知らないし、勿論左右田先生の講義にも出て来ない時代だった。こうして1950年3月、私は卒業し大学院に進んだ。

その後、私は東大教養学部の化学教室に勤務することになり、鈴木弘さんと昵懇になった。鈴木さんは定年後、油絵を描かれるようになり,色々な展覧会に出品された。赤煉瓦の化学教室を描かれたことがあり、それが素晴らしかったので、売っていただけないかとお願いした。あれは手放したくないとの事で、私の願いはかなわなかった。

化学教室時代の思い出としては、石本さんに教わった歌を忘れることは出来ない。石本さんは戦後日本に起こった歌声運動の先駆者の一人に違いない。東大に音感合唱研究会をつくって活躍された。週一回昼休みに、銀杏並木の法文経の建物のアーケードに、楽譜を書いた大きな看板を立て、集まってきた学生に合唱を指導された。私は駒場の化学教室に移ってからも、週一回の左右田研のコロキウムには参加させてもらっていた。具合よくその日がアーケードの合唱に当たる時期があり、そちらにも喜んで参加した。ロシア民謡だのドイツ・リードなど教わった。カチューシャとか、Schubertの Das Wandern とか。今は流行らない Alt Heidelberg も旧制の大学生には大歓迎された。

それとは別に、化学科の3年位下のクラスの学生が、石本さんに歌の指導を願い出たことがあった。第二食堂のある建物に一部屋を借りて合唱が始められた、オープンだったので、私も参加させてもらった時期がある。坪井正道さんも来られたこともあった。Kamerad とか、学生の希望で“流浪の民”(これは日本語で)も歌った。

«編集局注:石本眞さんの音感合唱研究会については、音感合唱研究会の軌跡 ―吉松安弘ーpp.140-186 に詳しい。石本眞さんの残された膨大な楽譜のリストもネットに載っています»

生化学は戦後大きく発展した学問で、理学部化学科だけでなく。医学部、薬学部、農学部にもそれを学ぶ学生、院生が増えた。彼等は連絡を取りあって一緒に勉強したり、エクスカーションに行ったりする機会が増えてきた。その内、石本さんのお宅で忘年会などするようになり、石本パーティーと呼ぶようになった。勿論石本さんから合唱の指導をしていただく。ロシア民謡“郵便馬車の馭者だった頃”を習ったのを思い出す。

石本さんは合唱を戦後に始められたのではなく、戦争中からやっておられた。空襲警報が鳴ると化学教室では皆が地下室に避難した。地下の廊下での座り込みは退屈なので、石本さんが呼び掛けて合唱が始まったそうだ。後年 左右田先生が「あの時代、地下室から聞こえてきた歌声に慰められたものだ」と言われたのを憶えている。 そう、私は今も石本さんの歌の思い出に慰められている! (20171103)

ツンベルク管とその説明は、ネットから借用:https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%84%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E7%AE%A1&newwindow=1&safe=off&client=firefox-b&dcr=0&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwj3t-DCwKPXAhUDtpQKHbxqDd4Q_AUICigB&biw=1130&bih=663#imgrc=XAZgTNk4R6Cj0M: および:https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%84%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E7%AE%A1&newwindow=1&safe=off&client=firefox-b&dcr=0&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwj3t-DCwKPXAhUDtpQKHbxqDd4Q_AUICigB&biw=1130&bih=663#imgrc=0-Se6DUJmvjj_M:

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