Dr. Matsunaga

筆者は神奈川大学を定年退職した翌月から平塚市博物館の民俗探訪会に入会して、色々な課題で神奈川県内を歩く間に、目、耳、口にそれぞれ手を当てた不見、不聞、不言の三猿も、青面(しようめん)金剛像も、藤沢、茅ケ崎、寒川、平塚の地域に最も古いものが存在することを教わった。そして、石仏、石塔を尋ねることをハイキングの楽しみとするようになり、また小学校で同級であった友人と鎌倉から三浦半島の先端、城ヶ島までを四十回に分けて巡り歩く機会も持った。さらに、仕事で東京に通ったとき暇があると、多少は石仏、石碑を尋ねて歩いてみた。この庚申塔の紹介は偶々、その間に撮った写真を眺め直した結果で、さほど広い地域を対象としたものではない。庚申講ないし庚申塔に関して、詳しい解説を求められる方は五来重著「石の宗教」講談社学術文庫1809(2007)を参照されたい。

松永 義夫

庚申塔様々

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プロフィール

岐阜県大垣市出身 (現・神奈川県平塚市在住)

1952年 東京大学理学部化学科卒業

理学博士(1958年)

1961~1965年 アメリカン・サイアナミド社1965~1992年 北海道大学理学部

1992~1993年 熊本大学理学部

1993~1999年 神奈川大学理学部

「液晶紳士随想百選:連載 N0.17」から

松永 義夫

庚申塔様々

松永 義夫

連絡帳

神奈川県内で最も古い庚申に関係した石造物は、横浜市鶴見区菅沢町15.宝泉寺の寛永10年(1633)の年銘がある宝篋印塔とされている。銘文の中に「庚申本地薬師」の文字がある。東京都(以下、東京都は省略)目黒区目黒3-3の十七ヶ坂途中の共同墓地には「庚申供養過去未来現在三世佛」の銘をもつ、さらに古い寛永3年(1626)の宝篋印塔(写真1)(写真をクリックして拡大してください)がある。また新宿区上落合1-26の月見岡八幡神社の正保4年(1647)に造立された宝篋印塔には「大願成就 奉造立庚申待講之結衆」の銘がある。宝篋印塔は宝篋印陀羅尼経を納める経典供養塔で、鎌倉市大町・安養院3-1-22の徳治3年(1308)の鎌倉最古の塔、同山崎天神山736・北野神社の応永12年(1405)の四方に薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勤菩薩が彫られた塔はその例である。後世には墓碑を含め各種の供養塔に用いられた。

不見、不聞、不言の猿(以下三猿と記す)の始まりは茅ケ崎市円蔵・輪光寺の寛永17年(1640) (写真2)とされている。塔の様式は舟光背型で、浮き彫りにされた三猿は、中央の不聞の猿が高い位置にあるピラミッド形配置にある。この猿の配置をもつ塔には次のものがある。台東区西浅草3.万隆寺の寛文5年(1665)の塔には、合掌する猿の下に蓮の蕾の茎を両手で持つ猿が彫られている。いずれの猿も立像である。平塚市札場町15-42・長楽寺の貞享4年 (1687)の塔は、細い開いた下肢に繋がる上肢と頭だけが彫られた平板的な猿(写真3)から構成されている。

台東区根岸3-9・根岸小学校の元禄16年(1703)の塔では、猿はそれぞれ蓮の花の台座に乗っている。鎌倉市岩瀬1.五社稲荷神社の元延元年(1860)の塔の中央の高い位置にある猿は長楽寺の猿と同じ様式であるが、下肢、上肢ともにやや太い。下に位置する猿は互いに向き合っていて、向かって左側の猿は下肢を投げ出し、右側の猿は下肢を折り曲げている。ピラミッド形配置の三猿の塔は造立の年代、場所共に互い離れており、様式も様々である。

正面を向いた三猿が横に並んだ形式で、最も古い塔は藤沢市藤沢4・伊勢山公園の承応2年(1653)(写真4)である。これに、茅ヶ崎市浜之郷・竜前院の明暦3年(1657)、藤沢市遠藤松原・御嶽神社の万治2年(1660)、茅ヶ崎市柳島2・八幡宮の万治3年(1660)、平塚市上平塚51・八雲神社の万治3年(1660)(この塔の三猿は立像である)、横須賀市長坂3・長坂公園の寛文元年(1661)と続き、寛文、延宝年間に多数各所に造立された。初期の猿は概して写述的であるが、次第に上下に引き伸ばされた猿が見られるようになる。藤沢市羽鳥3・御霊神社の寛文7年(1667)の塔、渋谷区渋谷3-5-12・金王八幡神社の西側にある豊栄稲荷の延宝2年(1674)の塔はその極端な例である。また、元禄年間には写真3の様式の三猿が多く見られる。豊島区巣鴨5-32-5・白泉寺の万治元年(1658)の塔の猿の配置は上述のものとは異なり、左右の猿は中央の猿の方向を向いている。三猿が塔の上部に並んでいる例として、横須賀市浦郷町3・正禅寺の万治2年(1659)の塔がある。それぞれの台座に乗った猿の立像が上部に並んだ下に、二鶏が向き合い、下部には蓮の花、雷、葉を持つ茎が並んでいる。

庚申が別称となるほど関連が深い青面金剛の最古の像は寒川町大曲134・下大曲神社の御神体である承応2年(1653)のものとされている。筆者は写真でしか知らないが、以下の塔とは異なり、笠付型で下部に二鶏を伴う。続いて、茅ケ崎市甘沼292・八幡神社承応3年(1654)、茅ケ崎市行谷317・金山神社の承応4年(1655)(写真5)、藤沢市遠藤松原・御嶽神社明暦2年(1656)がある。平塚市大島813・正福寺の明暦2年(1656)は市内で紀年銘が最も古い庚申塔である。さらに、茅ケ崎市十間坂3-9・神明社明暦4年(1658)と平塚市札場町15-42・長楽寺の造立年不詳の塔がある。相次いで造立され、地理的にも一つのグループを形成しているので、大曲型と呼ばれている。これらは、通常、庚申塔として記載されているが、松村雄介著「神奈川の石仏」有隣新書33(1987)によれば、石像が青面金剛であることを明示する銘文は無く、庚申とのかかわりが明らかなのは金山神社の塔のみである。

この塔およびそれ以降の塔の左右の二猿は両手を膝の上に置いている。他方、より古い二基と造立年不詳の一基では、向かって右側の猿の両手は組み、左側の猿は両手をそれぞれ膝の上に置いている。 大曲型とは全く異なる青面金剛像が東京都に存在する。すなわち、板橋区板橋3-25・観明寺の門前には寛文元年(1661)の塔がある。青面金剛は六手、二童子、一猿、一鶏を伴う。格子付きの覆屋に入っていて、全容は眺め難い。近くの板橋4-13・東光寺の寛文2年(1662)の塔は高さ190 cm、唐破風笠付きで、日月、二童子、一邪鬼、四夜叉(二体づつ二段に並ぶ)、一猿、一鶏を伴うもの(写真6)である。また、台東区根岸3-13・世尊寺の延宝2年(1674)の駒型の塔は日月、二童子、一邪鬼、四夜叉(東光寺の塔とは異なり、横に並ぶ)、一猿、二鶏を伴っている。

青面金剛像と三猿を組み合わせた塔の造立は延宝年間以降に多い。筆者が見た塔の中では、名古屋市東区白壁町3-24-47・長久寺の寛文8年(1668)の塔が最も古い。六手の青面金剛は向かって左側に頭をおく邪鬼を踏みつけている。名古屋では庚申塔は大変珍しい存在である。覆屋の前に置かれた「長久寺庚申塔の縁起」によれば、この塔は武州上の町から移設したものである。


横浜市金沢区野島町・染王寺の寛文13年(1673)(写真7)と藤沢市藤沢・藤沢庚申堂の寛文13年(1673)も古いものと云えよう。前者は六手の青面金剛の上部には日月、左右に二童子を伴い、邪鬼を踏みつけ、台座には二鶏らしきものも見られ、東光寺の塔の様式を受け継ぐ。後者の邪鬼は正面を向いた大きな丸い顔で表されて、その直下の猿は両端の猿に比べ小さい。何故か、この塔の青面金剛は頭上に小さな馬頭を頂いている。東光寺の塔に類する庚申塔を挙げてみると、大田区南馬込・長遠寺門前の覆屋に納められた延宝5年(1677)の塔の青面金剛は邪鬼を踏みつけ、一童子と二鶏を伴う。横浜市神奈川区子安通3・遍照院の享保8年(1723)の塔の青面金剛は邪鬼を踏みつけ、日月、二童子、二鶏を伴う。この塔の二鶏は三猿の間に挟まれている。いずれにおいても、夜叉は見られない。 平塚市では,立野町6-5.暗雲寺の延宝6年(1678)の舟形の塔が最も古い。四手の青面金剛の左右に二童子を伴い、邪鬼を欠いて代わりに向かい合った二鶏が彫られている。

この塔は平塚市では童子を伴う唯一のものである。平塚市には庚申塔は大曲型を除いて、47基あるが、鶏を伴う塔は6基、邪鬼を伴う塔は8基のみである。三猿を欠く塔も6基ある。青面金剛は四手または六手であるが、前者は10基に過ぎず、概して古いものに多い。 二手の青面金剛は比較的珍しい。近くでは、寒川町小動478・小動神社の天保10年(1839)の塔(写真8)がある。右手には剣を、左手には女身の髪を掴んでいる。

三面の青面金剛も稀で、筆者が知るのは文京区根津1-28-9・根津神社の6基の庚申塔(寛永9年の焚字 (1632)、寛文8年(1668)、延宝8年(1680)、元禄5年(1692)と宝永6年(1709)の青面金剛、造立年不詳の観音)を円形に寄せ集めた中の寛文8年のものと、横須賀市平作7・旧鎌倉街道の路傍の造立年不詳(写真9)の2基である。

前者の青面金剛は六手を拡げ、邪鬼は伴わない。後者も六手であるが、二手は合掌している。邪鬼は台座の向かって左側に顔を出している。 次に、変わった青面金剛像を取り上げよう。江東区亀戸4-48・常光寺には、天和3年(1683)造立の丸彫りの合掌した青面金剛像(写真10)がある。鉢巻のように蛇が巻きついている。三猿はないが台座の左右に二鶏が彫られている。頭に蛇を頂く青面金剛像は、北区岸町1-12・王子稲荷神社北隣の金輪寺の正徳2年(1712)および山北町の大野山の中腹,市間・路傍の明和5年(1768)の塔に見られる。これらの塔では、六手の青面金剛の頭上に蛇がとぐろを巻く。

これまでに述べた青面金剛とは様相が著しく異なる像も存在する。湯河原町宮上・万葉公園内の延宝8 年(1680)の塔には、四手、両足を拡げた裸形に近い青面金剛像(写真11)が見られる。

また、川崎市宮前区野川419・影向(ようごう)寺前の路傍の覆屋の中に、日月を頂き、邪鬼を踏み、体を弓なりに曲げた六手の細身の青面金剛が置かれている。三浦市初声町(はつせまち)三戸・霊川寺の平成12年(2000)の像(写真12)もこの類に入るであろうか。

青面金剛に踏み付けられた邪鬼は、通常は体を左右(写真6,7,11,12)あるいは前後(写真15)にして俯いているが、仰向けの邪鬼と腰を下ろした邪鬼が三浦半島で見られる。

葉山町堀内脇町の享保10年(1725)の駒型塔では、主尊の左足が仰向けの邪鬼の顎を、右足が肘を曲げた左手の先を踏まえる。三浦市南下浦町菊名・永楽寺の安永8年(1779)の駒型塔の邪鬼は比較的大きく、左右に太い手を伸ばす。合掌した青面金剛の右足は仰向けの邪鬼の顎を、左足は右肩を踏まえている(写真13)。葉山町一色前田・夜泣き石脇の明和9年(1772)の塔の邪鬼は正面を向いて座しており、右手で青面金剛の右足を支え、頭で左足を受けている。三浦市初声町下宮田岩神・路傍の塔の青面金剛と邪鬼はこれとは反対に頭で右足を、左手で左足を支えている(写真14)。

横須賀市武・路傍の造立年不詳の塔の邪鬼は右手で青面金剛の右足を、左手で左足を支える。これらの挙動は猿の位置に顕著な影響を及ぼしている。 邪鬼は一体とは限らない。荒川区西日暮里3-3-8.養福寺の宝永4年(1707)の塔では青面金剛の両足それぞれが、正面を向き、頬杖をした邪鬼を踏みつけている。札幌市中央区円山公園の地蔵堂裏手には青面金剛が邪鬼の二つの頭を踏みつけた大正3年(1914)の塔(写真15)がある。この青面金剛が頭に戴いているのはどくろである。なお、どくろを戴いた青面金剛は目黒区目黒2-13・路傍の田道(でんどう)庚申塔群の延宝5年(1677)および平塚市札場町15-12・台町稲荷社の享保9年(1724)の塔にも見られる。 中央の猿だけが正面を向き、左右の猿は内を向いている塔は既に言及した。左右の猿が中央の猿に背を向けている塔はより稀であるが、横浜市戸塚区汲沢町・路傍(大坂)の元禄8年(1695)、平塚市上吉沢388・妙覚寺の享保18年(1733)の塔が存在する。横浜市泉区下飯田町・左馬神社の寛延2年(1749)の塔の三猿は全て向かって左向きである。一猿だけ異なる方向を向いた例もある。平塚市小鍋島・八幡神社の正徳6年(1716)の塔では、中央と右側の猿は向かって左向き、左側の猿は右向き、藤沢市石川・佐波神社の正徳6年(1716)の塔はそれとちょうどその逆、平塚市札場町15-42・長楽寺の安永5年(1776)の塔では左側と中央の猿が向かい合い、これらに右側の猿は背を向ける。横を向いた猿は様々な姿勢をしている。

猿が高さを異にして配置された塔として、横浜市栄区長沼町・八幡神社の享保12年(1727)と横須賀市長井5・不断寺の元文2年(1737)(写真16)を挙げておく。 三浦市南下浦町上宮田・十却寺前の明治5年(1872)の駒型塔の青面金剛の体には竜が巻き付いている(写真17)。

三猿の手は著しく長く、中央の猿の両手は左右の猿の顔まで水平に伸ばされている。向かって右側の猿は正面を向き、左手で左目を覆い、右手は中央の猿の左耳に当てる。左側の猿は中央を向き、その右手を中央の猿の右耳まで水平に伸ばす。当然ながら、左手は見えない。これを模刻したと思われる同市三崎町諸磯・心光寺前の明治24年(1891)の塔も存在する。これらに近い猿の所作は、横須賀市須軽谷と三浦市初声町高円坊境界の庚申堂バス停横と初声町高円坊大込・路傍のいずれも寛政10年(1798)の塔に見られる。これらが原形であろう。 横須賀市久村338・御滝神社の享保13年(1728)の柱状の塔には、上から不言、不聞、不見の猿の順に縦に並び、右下に小さく年号が刻まれている。 小田原市には片手しか使用していない三猿を多く見かける。例を挙げると、浜町30・宗福寺の寛文7年 (1667)の板碑型文字塔の猿の彫りは深く、左右の猿は腰掛けて足を垂らしている。左側の猿は左手だけを頭に当てて、右手は膝の上に置き、右側の猿の左手は目を覆っているが、右手は膝に向かって伸びている。

中央の猿は両手を頭に当てているものの、足は斜め、特に左足はほぼ水平で、横座りの姿勢にある。なお、宗福寺の境内には、前面に三猿が彫られ、上部に大きな丸彫りの不聞の猿がしゃがむという珍しい組み合わせの正徳6年(1716)の角柱型文字塔もある。城山1-22-10・大稲荷神社の宝暦5年(1755)の塔の左側と中央、同じく城山4-23-29・居神神社の明和3年(1766)の塔の左右の猿も、彫りが大まかで不明確であるが、片手しか頭に当てていない。小田原市外でも、片手しか使用していない猿は稀には見掛けられる。

葉山町下山口平・路傍の元禄6年(1693)の塔(写真18)の合掌した六手の青面金剛の塔では三猿全て、写真9の塔に並ぶ元禄8年(1695)の塔の六手の青面金剛の塔では中央の不聞の猿だけが右手を下げている。 小田原市小八幡3-1-1・八幡神社の境内には市の有形民俗文化財に指定された7基の石塔が並んでいる。 その左端の承応4年(1655)の板碑型文字塔の下部に彫られた二匹の猿は互いに斜め前方を向き、両手は曲げて下肢に付けている。左から5番目に位置する青面金剛が彫られた光背型の塔(年不詳)の下部にも猿は二体しかいない。彫りが浅くて明確ではないが、右手のみが顔に当てられ、右側の猿の左手は腹の上に、左側の猿の左手は体の横に垂れている。

茅ケ崎市堤・健彦神社の万治2年(1659)の文字塔がある。向かって左側は両手を用いた不言の猿であるが、右側の猿の右手は水平方向から右目に、左手は左耳に当てられ、不見、不聞の二役を勤めている(写真19)。横浜市戸塚区上倉田町・蔵田寺の明暦2年(1656)の塔には、地蔵の上に正面を向き、ともに合掌した二猿が彫られている。豊島区駒込・駒込小学校南西角の寛文12年(1672)の角柱型文字塔下部にも、合掌した二猿が見られる。 新宿区筑土八幡町2-1・筑土八幡神社には、光背型の寛文4年(1664)銘の塔がある。碑の全面に、立った猿と座った猿が向き合って、それぞれに桃をもつ珍しいものであるが、偽年銘の例として取り扱われる。 不見、不聞、不言の猿のうち一つを欠く例としては、小田原市曾我別所・城前寺裏の延宝5年(1677)の板碑型文字塔がある。前面下部の右側には不見、左側には不聞の猿が彫られ、不言の猿はいない。

一匹の猿が主尊であるかの如き位置を占める庚申塔もある。逗子市池子2・東昌寺の元禄8年(1695)の塔の猿は座して両手を膝に当て、横須賀市子安の享保6年(1721)の塔の猿は腰掛けた形で、両手の肘を膝に当てている。同市長井5・不断寺にもこれと似た享保11年(1726)の塔(写真20)がある。平塚市長持・熊野神社の寛文5年(1665)の塔の猿は上部に二鶏を伴っている。 庚申塔の主尊は青面金剛とは限らない。小田原市扇町5-6・大聖院には青面金剛像、庚申供養の釈迦如来の座像、大日如来の立像、阿弥陀如来の立像、地蔵菩薩像の立像が並んでいる。いずれも三猿を伴わない。これらのうち、阿弥陀如来像は寛文2年(1662)の造立、他は造立年不詳である。

台東区浅草2-3・浅草寺銭塚地蔵堂には承応3年(1654)の大日如来の座像(写真21)があり、台座に一鶏、一猿が彫られている。大日如来は頭に宝冠を戴くことで識別される。小田原市栢山・善栄寺の門前には三猿を伴う寛文7年(1667)の立像が見られる。横浜市戸塚区戸塚町3828・富塚八幡宮の寛文12年(1672)の塔の三猿の上に座する仏には宝冠はなく、釈迦如来であろう。

文京区大塚4・大塚公園には寛文5年(1665)の三猿を伴う地蔵菩薩像(写真22)がある。剃髪頭で、右手に錫杖(しやくじよう)、左手に宝珠もつ姿が一般的であるが、庚申塔では合掌していることも多い。横浜市戸塚区上倉田町・子の八幡神社の元禄15年(1702)の塔はその例である。

三猿を伴う阿弥陀如来像としては、川崎市川崎区堀の内町・真福寺の寛文5年(1665)、横浜市戸塚区上倉田町・子の八幡神社の寛文7年(1667)、横浜市鶴見区生麦・原町神明社には延宝5年(1677)(写真23)の塔がある。

聖観音像は台東区根岸3-9・根岸小学校脇の寛文8年(1668)、文京区大塚4・大塚公園の延宝6年(1678)、三猿を伴う如意輪観音像は荒川区南千住6-60-1・素盞雄神社の延宝6年(1678)の塔(写真24)に見られる。

帝釈天を主尊とする塔は横須賀市長坂・長坂公園に文政2年(1819)(写真25)と天保14年(1843)の塔が並んでいるが、互いに異なる様相をしている。いずれも三猿を伴わない。

この他、茅ケ崎市赤羽根・西光寺の門前には三猿を伴う地神を主尊とする文化6年(1809)の塔(写真26)、小田原市曽我別所579・墓地には庚申供養の造立年不詳の閻魔王、横浜市栄区小菅ヶ谷町2703・春日神社には享保4年 (1719)の同じく不動明王がある。 珍しい庚申塔として、豊島区高田2-12-39・金乗院(目白不動)の寛文6年(1666)の倶利加羅不動を主尊とする塔 (写真27)を紹介する。

平塚市にも土屋4086の駒ヶ滝の中程に弘化4年(1847)の塔がある。 通常、文字塔に彫られているのは、庚申または青面金剛に係わる願文である。前者は、「庚申」、「奉造立庚申」、「庚申塔」、「南無庚申塔」、「庚申供養塔」、「庚申塚」、「奉納庚申待供養石塔」、「庚申供養為二世安楽」など、後者は圧倒的に多い「青面金剛」の他に、「金剛王」、「青面金剛王」、「大青面金剛」、「青面金剛尊」、「青面金剛塔」、「青面金剛供養塔」などがある。寛政12年(1800)の建立の逗子市小坪のバス停近くの庚申供養塔とある文字塔も細い柱状で石材が珍しく緑色である。もちろん、なかには小田原市浜町30・宗福寺の寛文7年の「尽出輪廻生浄土」のように、変わったものもある。

「南無阿弥陀仏」とある浄土教の庚申塔には、藤沢市大庭丸山の寛文12年(1667)と横浜市戸塚区東俣野町・八坂神社の延宝3年(1675)(写真28)がある。横須賀市長井と三浦市初声町三戸に目立って多い。すなわち、長井3.大六天神社には寛文3年(1663)、同じく長井5・不断寺には正徳2年(1712)、同5年(1715)、享保6年(1721)、同11年(1726)、嘉永6年(1853)が存在し、これら六基は全て猿を伴う。三戸・光照寺にも、享保17年(1732)、安永5年(1776)、同8年(1779)、天保2年(1831)の四基が見られるが、猿を伴うのは半数に過ぎない。この他、横須賀市須軽谷・法道寺近くの墓地の寛文3年(1663)、同市津久井の寛文8年(1668)、葉山町堀内・長徳寺境内の延宝3年(1675)、横須賀市太田和・荻野境界の元文3年(1738)、同市久比里・宗円寺境内の寛政3年(1791)の塔がある。逗子市小坪・仏乗院と三浦市初声町三戸・霊川寺にも、それぞれ一基が見られるが、造立年は不詳である。 藤沢市片瀬・常立寺前の江ノ島道の寛文年間の板碑に髭題目「南無妙法蓮華経」が彫られている。平塚近くでは、茅ヶ崎市今宿・松尾神社と藤沢市柄沢・柄沢神社でも見られる。この種の塔も三浦半島には多い。古いものとして横須賀市須軽谷・八幡神社境内の「妙法蓮華経」とある明暦2年(1656)と横須賀市平作の「南無妙法蓮華経」とある寛文11年(1671)の板碑が存在するが、集中的に見られるのは葉山町木古庭とこれと隣接する横須賀市衣笠の近辺である。すなわち、大沢・不動尊前の延宝2年(1674)、高祖坂の元禄7年 (1694)と享保8年(1723)、畠山城址橋の寛政9年(1797)と明治7年(1874)、横須賀市池上・妙蔵寺の延宝3年(1675)と延宝4年(1676)である。その他、逗子市久木の天保3年(1832)と横須賀市林の弘化33年(1846)の塔がある。

なお、横須賀市大矢部・満昌寺には、髭題目下に「帝釈天王」とある貞享4年(1687)の塔がある。これに類するものは、同市長坂の路傍や岩戸・熊野神社(写真29)にも見られる。

そこで、「帝釈天王」、「奉造立帝釈天王」、「南無帝釈天王」とある塔を次に取り上げると、三浦市初声町高円坊小長作・路傍の延宝6年(1678)、葉山町木古庭・畠山城址橋の天和3年(1683)と年不詳、横須賀市久村・佐原境界の享保4年(1719)と同17年(1732)、同市久村338・御滝神社の元文2年(1737)、逗子市久木の天保3年(1832)、三浦市初声町下宮田谷戸の天保14年(1843)、横須賀市林・路傍の明治24年(1891)、同市森崎・妙覚寺の年不詳がある。横須賀市公郷町・妙真寺境内の延宝8年(1680)の碑には「奉勧請南無帝釈天王加護処」とある。 神道に係わる「猿田彦大神」は比較的新しく、横須賀市と三浦市に偏在している。横須賀市久里浜・住吉神社境内の宝暦7年(1757)、文政9年(1826)、文政13年(1830)、嘉永7年(1854)の四基は三猿を伴うが、以下に述べる塔の多くは猿を伴わない。久村338・御滝神社の天保14年(1843)と久里浜・八幡神社の万延元年(1860)、萩野・太田和境界と東浦賀町・顕正寺境内に、いずれも明治41年(1908)の造立の塔が見られる。芦名・十二所神社の弘化4年〈1847)の塔は、猿田彦大神に並べて天鈿女命とある点で、大矢部・満昌寺の同年の塔は「猿田彦命」、同じく津久井・路傍の嘉永元年(1848)の塔は「猿田彦大神宮」(写真30)とある点で珍しい。

三浦市に「猿田彦大神」の塔が造立されたのは、年代が明らかな限り、明治以降である。初声町高円坊小長作に明治17年(1884)、明治29年(1896)、昭和7年(1932)、初声町高円坊中原・三峰神社に明治29年(1896)と年不詳、高円坊大込に大正9年(1920)、昭和7年(1932)と年不詳、松輪柳作に明治21年(1888)と年不詳、松輪谷戸に明治22年(1889)と明治44年(1911)、松輪大畑に明治24年(1891)が見られる。これらの猿田彦大神の碑のいくつかは、自然石を用いたものである。鎌倉市雪の下・巨福呂坂切通しの一基も、そのような例である。 この他、葉山町一色前田には延宝5年(1677)の「奉造立山王供養之所」、横須賀市馬堀町・貞昌寺には、宝永4年(1707)の「奉造立山王大権現」、同市安浦町には延享4年(1747)の「奉修庚申山王大権現」とある石碑が存在する。これらのうち、前の二つは三猿を伴う。 庚申塔が神社や寺院に多いのは道路工事などで移転させられたためである。横須賀市馬堀町・貞昌寺前の52基、長井・不断寺の30余基は、その最たるものである。武蔵野線・東浦和駅近くの清泰寺には、天明33年(1783)造立の50基と万延元年(1860)造立の301基の塔が隙間なく並んでいるが、ほとんどが全く同じ作りの文字塔で、意図的に作られたものである。

終わりに、本文中で触れた以外の庚申塔に関する入門書を記載する。

庚申懇話会編 「全国、石仏を歩く」雄山閣(1990) 庚申懇話会編 「全国の磨崖仏から道祖神まで、石仏を歩く」JTB(1994) 日本石仏協会編 「石仏めぐり入門」ごま書房(1997)

日本石仏協会編 「江戸・東京石仏ウオーキング」ごま書房(2003)

(20171128)

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「液晶紳士随想百選:連載 N0.17」から

松永 義夫

液晶と出会うまで

筆者は大学院学生の時代,当時としては画期的な電気伝導性をもつペリレン・臭素錯体を見いだしたのが契機となって,American Cyanamid社に入社し,伝導性分子錯体を探索する機会をもった。北海道大学に移ってからも,電荷移動型分子錯体を対象に伝導性をも含めた様々な課題を学生諸君とともに手掛け続けた。液晶を視野に入れた動機は井上伸昭氏による芳香族炭化水素ピレンの分子錯体の固相転移の研究にある。この種の分子錯体固有の高温相は,一次元の柔粘性結晶と言うべきものと知れた。そこで,単独では非液晶性の化合物でも,錯体形成を利用すれば,もう1つの中間相である液晶が作り出せる筈と思いつき,1978年に荒谷康太郎氏とともにこの発想の具体化に着手した。この時点においては,上述の柔粘性結晶相が荒谷氏と同級である稲辺保氏によって集大成されるのに並行して,液晶をも取り入れようとしたものである。

以下,極く自然に展開した液晶の研究で,特にこの分野の人との交流を求めることもなく,語るほどのものをもたない。既に退職した身であることをお断りして,研究の思い出を述べさせて戴く。

分子錯体形成と液晶相の発現

電子供与性と受容性の2種の芳香族分子から成り立つ電荷移動型分子錯体の結晶では,2種の分子が面を平行にして交互に積み重なっている。もし,この異方性に富む分子間相互作用が適当に弱ければ,結晶の代わりに液晶を形成することが期待されよう。筆者がAmerican Cyanamid社に勤務していた1960年代前半に,Franklin lnstituteにおいて伝導性分子錯体の研究を進めていたLabes教授(Mol, Cryst. Liq. Cryst.の編集者で,現在はTemple大学)は種々の研究集会での顔なじみであるが,早くに液晶の分野へ転じていた。彼らは電子供与性と受容性ネマチック液晶を混合すると,系が着色するだけではなく,二成分系状態図の透明点曲線が上方へ湾曲する事実を報告した。筆者らは湾曲の度合いが十分に大きければ,非液晶性電子供与体と受容体からなる二成分系にも液晶が見いだされる可能性があると期待した次第である。結晶性の分子錯体も同時に形成される場合は,液晶性錯体が得られたとも見なされよう。筆者らの着想は電子供与体にはジメチルアミノ基を,受容体にはニトロ基を導入したベンジリデンアニリンを用いることで容易に達成され,これを1980年に京都における国際会議でポスターとして発表された。当日,Labes教授はGray教授と連れ立って会場に現れて筆者を紹介れ,Gray教授はこれが初仕事と聞いて“goodstart'と励ましの言葉を下さった。

円盤状分子でなくてもディスコチック液晶相は見いだされる

このように,液晶形成を分子間相互作用,言い換えれば,分子内の官能基の種類と配列の仕方の問題と考えるならば,Gray教授が単量体では液晶状態を与えないと総説に述べられたパラニ置換ベンゼンをネマチック液晶へ添加することで,スメクチック液晶を発生させることも可能な筈と,千野英治氏が挑戦を始め,1ヶ月程で実現化に成功した。これを引き継いだ木美佳氏が作成された二成分系状態図から,アルキル基とベンゼン環の間をアミド基で繋いだ誘導体は潜在的にスメクチック液晶相を持つことが示唆された。そこで,複数個のアミド基の導入によって,現実に液晶相を示すベンゼン誘導体を得る試みを始めた。予想に反して,長いアルキル基をメタ位にもつ誘導体の方がパラ位にもつ誘導体よりも容易に液晶相を与えた。ネマチック液晶性メシチレン誘導体をまとめた結果を寺田匡宏氏と1986年のBerkleyでの国際会議にポスターとして提出した。筆者の面前で“I don’t understand it”と言う人がある一方,Gray教授が注目してわざわざ仲間を呼んで来られたのが印象に残った。研究の初期には,液晶がカラミチックかディスコチックかを明らかにできなかったが,X線回折の経験を積むことによって後者と決定された。これは潜在的スメクチック液晶相の具現化を目指して,ベンゼン誘導体を取り上げたのには期待に反する結果である。1992年になってフランスのMaltheteらが筆者らの報告を ”astonishing” なこととして追試を行い,液晶であることを確かめた。加えて,水素結合によって生じる分子の柱状の積み重なりが構成単位となって生じる液晶であることを明らかにした。

折れ曲がった分子の面白さ

多数の学生諸君の協力を得て,2本から6本までのアルキル鎖をもつ様々な分子形状のベンゼン誘導体で液晶相を見いだすことができ,分子形状は液晶形成には二義的なものとの感をますます強めた。そこで,ことさら折れ曲がった形状をもつ分子,すなわち,分子の中央に1,2-,1,3-フエニレン,メチレン基,あるいはエーテル型の酸素原子をもつ5環系を松崎弘幸氏らと取り上げた。最初の系列をVancouverの国際会議ではポスターとして,次いでPisaの会議では招待講演として提出した。これらのアキラルな化合物がもつスメクチックC相が強誘電性であることを東京工業大学の渡辺教授らが示された結果,「バナナ型分子」の名の下に日の目を見るに至ったようである。

構造と性質の関係に関する経膜則が不完全なこと

液晶表示が話題になる以前,液晶に関心をもつ化学者はごく稀であり,研究は分子設計の基礎ともなる「構造と性質の関係」を中心とするものであった。その種の研究は第二次世界大戦前は主としてHalle大学のVorlander教授のグループ,戦後はHull大学のGray教授のグループによって遂行された。Gray教授は分子を芳香核,末端基,側方置換基,連結基,アルキル鎖の枝分かれなどの要素に分割し,それらの一つの変化と性質の変化は直接結び付けられるとの発想で経験則を求め,多くの総説にその結果をまとめている。しかし,これらの要素が互いに影響を及ぼし合うことを無視できないのが現実で,経験則には例外が見いだされる。これを解消するには,系統的に多くの化合物を調べて例外が発生する要因を明らかにすることが肝要であろう。これに関しては既に北海道大学から幾つかの成果を公表したが,神奈川大学の卒業研究で集積された結果もいずれ纏めて報告したいと思っている。

液晶形成をファン・デル・ワールスカだけに依存する理由はない。イオン結合が働く液晶として坂本誠司氏らが見いだしたアミノ安息香酸のアルキルエステルとパラークロロベンゼンスルホン酸からなる塩,さらには配位結合が働く液晶として,栗原光一郎氏が取り上げたアルキルアミンと臭化亜鉛からなる付加物がある。いずれもスメクチック液晶を与える。

北海道大学の任期も余すところ4年となって,研究グループに初めて教官の協力者,星野(宮島)直美博士を迎えた。液晶を対象にという学生の希望を満たし,同氏の金属錯体を専攻された経験を生かした題目として,金属錯体液晶,特に同族列を組織的に取り上げる研究を開始して戴いた。

[選者寸言]分子錯体系の伝導性の研究から,分子錯体系の液晶形成の研究に入った液晶紳士である。有機半導体から液晶に研究分野が変っても,研究対象は一貫して「有機分子錯体」であり続けたことが注目される好紳士である。その徹底した一貫性が,現在注目の「バナナ形アキラル分子」の強誘電性液晶発見への関連性を生みだしたものと考えられる。(液晶子)。

月刊ディスプレイ 1999年 8月号 p. 85-86に初出

左から、景山眞先生、鈴木宏先生、松永義夫先生、鈴木祝寿先生(2016年)

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