たわごと Trifle

「Trifle」とは「くだらないもの」という意味でTriviaと同じ意味ですが、Triviaは日本でもよく使われていて「(知らなくてもいいけれど、知ると面白い)ちょっとした豆知識」という風に使われています。

化学科のクラスに、せっかくWebsiteができたのですから、空っぽでは残念です。「つまらない話」でも、枯れ木も山の賑わいと行こうではありませんか。

昔の友人に会って知ったこと

山形 達也

先日、昔の友人を訪ねた。この友人はいま老人施設に入っている。ここではSEWさんとしよう。子供の頃仲良しだったし、成人したあとも十年間隔くらいで互いに連絡を取り合っていた。前にSEWさんを訪ねたのは、ぼくがまだ日本に戻る前だった。

SEWさんには三人の娘がいて、みんな仕事を持って独立している。それぞれ自家持ちで三人とも「お父さんのためには、ちゃんと一部屋が用意してあるわ。何時でも来て一緒に暮らしましょうね」と言ってくれるそうだ。それでも、SEWさんは、今まで数多くの老人を見てきたけれど、老人が子どもたちと一緒に住んで良いことは一つもない、という。

老人側から見ると、理由の一つには思い当たる。老人もむかし一家を構えて、すべてを仕切って生きてきたのだ。それが、今度は子供の家に一緒に住むことになると、否応なく子供並みに扱われることになり、だんだん気持ちも頑固にもなってくることだし、その状況の折り合いがつけにくいのだ。

幸か不幸か、ぼくの子どもたちは、SEWさんの娘みたいに殊勝なことは言わない。娘なんぞは、別の意味で殊勝なことを言う。「パパのお金なんだから、好きなようにして暮らしてね。でも、最後に老人ホームに入るお金だけは残しておいてね」

訪ねてみると、SEWさんは駅からタクシーで5千円を超えるところに住んでいた。電話で話したときには、近くの大きな病院の喫茶室でおしゃべりをしようと言っていたので、老人ホームにまず寄って、タクシーでSEWさんを拾おうと思った。タクシーが到着した時彼は建物の外のベンチに座っていたけれど、一旦引っ込んでなかなかでてこない。10分以上タクシーを待たせたあと、やっと出てきたSEWさんは「うなぎ喰うかい?」と突然言うので、びっくり。まだ昼飯には早いし、その近くの病院に行っておしゃべりをしてから昼飯と思っていたのだ。

でも一瞬にして理解した。「そうか、この老人ホームの食事では、うなぎは出てこないよな」

近くに高名な炭焼うなぎの店があるという。実際行ってみると昼にはまだ1時間ほどあるというのにほぼ満席だった。

食事をしながら、あれこれとお喋りをした。昔のこと、今のこと。

SEWさんは、ぼくのシニア向けシェハウスの考えを聞いて、次のように言った。「なるほどね」

「だけど入る人をよく選んだほうがいいよ。この年だと、おじいちゃんとおばあちゃんでは、おばあちゃんのほうが圧倒的に数が多いよね。今のホームでは8割は女性だよ。

この歳だとね、男はどっちかって言うともう枯れているか、面倒くさいけれど、女性はまだあっちの気持ちがあるんだよね。

聞いた話では、男性のヘルパーがおばあちゃんの部屋に入ると、おばあちゃんがベッドの中で裸で待っているみたいなことが、よくあるんだそうだよ」

「えっ、そりゃ若い時に、若い女性なら大歓迎だけど、今じゃ、まっぴら御免だね」とぼく。

「だから一緒に暮らすことになる人には、注意深くないとね。うちの老人ホームには誰でも入ってくるけれど、君んところでは気をつけて選んだほうがいいよ」

「うん、ありがとう。これから始めるシェハウスのルールの第一は、【住人同士の親しい性的関係は禁止。これを破ったら即刻退去】にしようかな」とぼく。

こうやって小一時間経った。ぼくも食べるのが遅くなっているけれど、SEWさんはもっと遅い。そして彼は食べ終わって箸を置くとすぐ、「じゃ、出ようか」。「会計は済ませたよ」とぼく。「それじゃ、タクシー2台を呼ぶよ」とSEWさん。つまり食事が終わったら、もうぼくに用はなかったのだった。

ぼくたちの心の中にはしっかりとEGOがコアになっている。それを取り巻いて色々のレイヤーがある。「人とうまく付き合いたい」「他人からよく思われたい」など、様々な、詰まりはそのヒトの人格を作るものが取り巻いている。

思うに、歳を取るというのは、こういうコアを覆ってその人の人格を形成しているレイヤーが変質して、そして徐々に失われていって、コアがむき出しになっていく過程なのだろう。マズローの5段階欲求説で言うと、彼の場合は第3段階の「3.所属と愛の欲求」も怪しくなってきているのかも知れない。

SEWさんがさっさともう一台のタクシーに歩み去るのを見てぼくは悲しかったが、一つには将来のぼくを見たからだった。そう、どう飾っても、年令を重ねると、ぼく本来の嫌な本質がむき出しになってくるのだ。ぼくの本質。真正面から見つめるのが怖くて、まだその勇気が奮い起こせないぼくの本質。

でも、残りの人生、それに向き合って生きていかなくてはならないのだ。

(20181030)

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ぼくの将来計画1

山形 達也

妻に先立たれたのが2011年1月でしたから、一人暮らしをするようになって8年近く経ちました。いつも元気というわけにはいきません。風邪、食あたり、ぎっくり腰で動けなくなった時、一人暮らしは絶望的に思えます。回復したあと、うちに毎月一度訪ねてきてくれる民生委員に、そういうときにヘルプを求められる組織はないかと尋ねたのですが、「頼りになる子供、親戚、近所のお付き合いはないのですか。公的には何も支援できません」ということでした。

80歳になるまでは自分を老人と思ったことはありませんでしたが、80歳を過ぎてからは自分は長生きしている高齢老人なのだと自覚するようになりました。一人暮らしですと、何が起こるかわかりません。家の防犯でSecomと契約していたので、「みまもり」というサービスを依頼しました。これは防犯センサーを逆に利用して、私がうちにいるモードの時、12時間トイレにいかないとSecomに通知が行って警備員が駆けつけてくれるというシステムです。これなら、息子が訪ねてきたときに死後6ヶ月の白骨を発見して大騒ぎになる心配もないわけで、私のためと言うより、息子孝行のシステムと私は呼んでいます。

今は元気ですがいずれ来るときに備えて老人ホームもいろいろと調べました。見学にも行きました。入居時に払うデポジットはピンからキリまであります(ペットとともに入れる施設もあります)。7−8千万円のところは至れり尽くせりのサービスで、自分でやることがないのですぐにボケてしまうそうです(高齢者がボケるのは死の恐怖から逃れる神の慈悲ですね)。しかしどれも、入ってしまうと施設側に管理された生活になるので、踏み切れません。これはごめんです。シニア向け分譲マンションですとまだましですが、それでも組合(つまり施設側の)規格があります。死ぬまで自分の意志を貫くことのできる、或いは尊重してもらえる老人施設はありません。

そういった中で気に入ったのが、シニア向けシェアハウスです。いくつか成功例がネットで紹介されていますで、ご存知と思います。それぞれ一人暮らしのシニアが個室を持って、お互い距離を置きながらも助け合いつつ、なお一緒に暮らす形態です(キッチン、バス・トイレが個室に付属しているシニア向けシェアハウスもあります)。或いはコレクティブハウスという形態もあって、これは数年前から日本でも始まりました。

シニア向けシェアハウスでは最後まで看取られた例も出ていますが、コレクティブハウスではその人の面倒をみる人が出てこなければ、最後は施設に移らなくてはなりません。シニア向けシェアハウスをいろいろと考えているうちに、既存のシェアハウスを探すのではなく自分でそれをつくろうと考えるようになりました。

自分のうちの一部屋を自分の個室にして、ほかの個室は、同じように一人暮らしの困難を覚え、しかし並の老人ホームには入りたくない人に住んで貰おう。

1.キッチン・ダイニング、リビングは広くとって、さらにバスルームも共用にして一緒に暮らそう。本質的には自立していて、最後まで自立を求めるシニア、に入ってもらおう。最後まで自立を求めながらも、なおかつ仲間と一緒に暮らせる人たちと一緒に住もう。少なくとも夕食はいっしょに作って食べることで、お互いに助け合って生きていこう。

2.足腰を弱らせないために個室は二階にする。キッチン・ダイニング、リビングは一階。バスルームは一階と二階の両方に。

3.足腰が弱ってきたら車いすの生活が始まるでしょうから、そのときは一階に移って来ても暮らせるよう一階には予備の部屋が少なくとももう一つ。

4.一階のキッチン・ダイニング、リビング、バスルーム、さらに個室は入り口の幅を少なくとも80センチメートルはとって、車いすが自由に動けるようにする。

現在の私のうちは198平方メートルの広さがあり、しかも鉄骨造なので地震に安心なのですが、一階で車椅子で暮らすように改造するのが困難です(愚かなことにこの家を建てるときには、そこまで思い至りませんでした)。それでこの春から上記の条件を満たす中古の家を探し始め、やっと3ヶ月探して見つかったのが今の家からは遠いですが、首都圏にある3階建ての、同じく鉄骨造住宅でした。もちろん上記の要求に沿っての若干の改造が必要ですが、広さは188平方メートルで、まあまあです。

一緒に暮らす(私を含めての)居住者の誰かが老いて介護が必要になったときは、介護事業所から介護を必要に応じて派遣してもらう(保険でカバーできる以外の経費はその人の資産から払う)。ヘルパーが来る時間以外は、できるだけ他の人が助けるようにします(そういう規約を作るつもり)。自宅で家族に見守られながら静かに死ねるのと同じような環境を作りたいと思っていますが、どうしてもこうやって介護できなくなったときは、別の施設に移ってもらわなくてはなりません。これも規約に明記するつもりです。

今このシニア向けシェアハウスの規約を考えているところです。住む人にとっては、マイハウスの基本憲章と規約です。

(20181023)

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物忘れは認知症の始まり?

山形 達也

友人の一人が、「一週間前に歯医者に行く約束を忘れていて電話が掛かってきて気づいた、とてもショックだ、これは認知症の始まりはないかと気になってずっと落ち込んでいる」と言ってきました。

これはいけない、このまま放って置くと鬱になり、そして認知症になってしまう可能性があります。それで以下のようなメイルを書きました。

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若い人でも誰でも、健康な人でも、物忘れをすることがありますよね。物忘れとDementia(痴呆)との違いは、そのことを覚えているかどうかの違いです。ね、いまは歯医者との約束を忘れてすっぽかした、認知症が始まったのではないかと悩んでいるでしょ。でも悩んでいるのだから、つまりこれはただの物忘れです。悩む必要は全くありません。

ぼくのことを書きましょうか?ぼくは日本に帰ってきた翌年、つまり2015年の春、中学の同期生が恩師の米寿のお祝いを有志でやるから来ないかとメイルで連絡して来ました。もちろん参加すると返事を書きました。でも手帳にも、カレンダーにも書き入れなかったので、すっかり忘れていて、皆に迷惑をかけました。

それ以降、予定の書き込めるカレンダーをPCのすぐとなりに貼って、予定ができたらすぐに書き込むことにしています。

そのため、その後この手の失敗はありませんが、カレンダーの予定が毎日ぎっしり詰まっているわけではないので、つい毎日気にして見ていないのです。それで、危うく忘れそうになったことがあります。スマートフォンに予定を入れればちゃんと教えてくれると、若い人に教わりました。でもスマホに入力するなんて面倒ですね。予定表に書き入れる、それをしっかり見る習慣をつける、でいいかと思います。それでも忘れたら、それこそ、本番の始まり、始まり、ですね。

今年で一番ショッキングな出来事は、ゾフィを連れて散歩に行って(大体1ー1.5時間歩きます)うちに帰ってきて玄関のドアを開けようとズボンのポケットの鍵を探しながら前を見たら、なんとドアの鍵穴に鍵が刺さったままでした。これは大変なショックで、これ以来出かけるときは、大いに気をつけています。嬉しいことに、まだ同じ失敗はしていません。

でも、数日前、足の具合が悪いのに歩くために出かけることにして(ですからゾフィを連れていきませんでした)、心配なのでいつも持って歩くケータイにお金と自宅を書いた名刺も入れて、更に老人優待バス(高齢者優待で、毎年受け取るために9千円払う)を短パンの左のポケットに入れました。その時、これだとケータイ電話を取り出したときに優待パスが張り付いて一緒に出てきてしまって落とす危険性があるなと一瞬思ったのです。でも、まあいいや、気をつけよう。気をつけていりゃ、いいんだよ。

途中でケータイが鳴って、友人からなので話しながら1Kmくらい歩きました。話し終わってはっと思ってポケットを探すとパスがないではありませんか。すぐに10分くらい掛けて戻って念入りに探しましたが、見つけることが出来ませんでした。

現金が入っていたし、5千円以上残っている電車の無記名カードもあったためでしょうか、老人優待パスにはぼくの名前も住所も書いてあったので、その後数日間は連絡があるかなと思って心待ちにしていましたが、結局出てきませんでした。

このように高齢になっても、人はいつも新しい体験をして生きています。新しい体験って刺激的じゃないですか。という具合に、自分を客観的に見ているのですよ。生きていれば新しい体験が出来て、生きる瞬間はいつも刺激に満ち溢れていて、つまり、生きていることは楽しいじゃない?と、ぼくは思うことにしています。

人は必ず衰えます、身体も、あたまも。それをネガティブに捉えるか、ポジティブに捉えるかで人生の質が違ってくると思います。

いよいよ来たなと、嘆きつつ暮らすとウツ(鬱)になり、Dementiaが進みます。鬱と認知症は仲の良い友人です。いよいよ来たかもなんて悲しく思ってはいけません。いよいよか、さあ、どんな具合になるのか楽しんで見届けるぞ、のほうがいいのです。

時には、能天気で、極楽とんぼのぼくと出会って、ばかばなしに興じるというのはどうでしょう。

ともかく、今回のど忘れは誰にでも普通に起こることなのですよ。気に病むことではありません。

それでは、どうかお大事に。

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P.S. 今の日本では「痴呆」という言葉の代わりに「認知症」という表現を使うようになっている。

ボケた状態を痴呆というのはあまりにも生々しい、失礼であるということだろうか。言い換えたって現状は変わらないのに、8月15日を「敗戦の日」と言わずに「終戦記念日」という日本人特有のセンスだろう。ぼくはこれを、優しく響く言い換えを使うことで、実は現状認識を歪めるずる賢い、不正な行為だと思っている。

2004年12月24日の厚労省による【「痴呆」に替わる用語に関する検討会 】によると、

【「痴呆」という用語は、後述するとおり、「あほう・ばか」と通ずるものであり、侮蔑的な意味合いのある表現である。痴呆性高齢者と接する際の基本である「尊厳の保持」の姿勢と、「痴呆」という表現とは相 容れないものと言わざるを得ない。

また、現実に、「痴呆」と呼ばれることにより、高齢者の感情やプライドが傷つけられる場面が日々生じていると思われる。家族にとっても、親しみと愛情のある肉親をこう呼んだり、呼ばれたりすることには、苦痛や違和感を感じる場合も多いと思われる】

というので別の言葉を探したとある。しかし、「あの人は認知症よ」とひそひそと囁くときに、侮蔑感情が入って来るのに、大して時間はかかるまい。

英語で「痴呆」をいみするのはDementiaで、もとはラテン語のmens= mind(心)にAwayを意味するDeが付いて出来た言葉だそうだ。英語には認知症に当たるCognitive impairment という言葉もあるけれど、医者も一般の人たち(つまり患者もその家族)もDementiaを使っている。聞こえの良い言葉への言い換えを使っても現状は変わらないことを認識している世界の方が、人として住むのにまともなように思う。

(20180828)

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目下思案中

山形 達也

放送大学で心理学の勉強をしてきてそれが一区切り付いたので、次は福祉の勉強をしたいと思いました。放送大学で「自分の都合の良いときに、自分に合った方法で勉強する」というスタイルにすっかり馴染んだので、通信教育をしているところを探したのです。

放送大学には福祉の勉強ができるコースはありますが、体系的に勉強して例えば社会福祉士の国家資格の受験資格ができるというようなコースはありません。

いくつか候補を探して、新設ではなく少しは歴史のあるところと思って聖徳大学を選びました。今年の春出願して、3年次にめでたく編入学して学費を納めると、一挙に20冊を超える教科書が送られてきました。

勉強のガイドを読むと、まず教科書の一冊を読んでシラバス・レポート課題集に書かれている出題に沿ってレポートを書いて提出すると試験を受ける資格が得られて、そこで試験に合格すればその教科の単位が得られるという仕組みでした。

そこでシラバス・レポート課題集の一番最初に出てくる「現代社会と福祉」という教科書を読み始めたのですが、どうにもこうにも難しくて理解するのが大変です。福祉は心理学と違って行政と法律が絡んでいますから、ひときわ言い回しが厳密と言うか難しく、権威主義的記述ですーっと理解できないのです。

50年以上科学の世界にいましたが、科学では難しい内容でも論理的に、誰でもわかる易しい言い方で述べるのが当たり前です。心理学のテキストを読んでいても、「記述が論理的ではない」とか「この書き方は自分が偉いとひけらかす言い方以外の何ものでもない」とか、「つまり何を言いたいんだ?」と、つい言いたくなる書き方が沢山ありましたが、福祉関係の本はその比ではありません。

とうとう、こりゃ一人で教科書を読んでいるからだな、と思って、通信教育の学生から普通科の学生になって実際の大学のクラスに通って先生の講義を直接聴いて勉強するスタイルに変えようと思いついたのです。

それで聖徳大学本部に電話をしました。私はこれこれと名乗って学籍番号を告げて、これこれの理由で通信教育の学生から普通の通学学生になりたいと述べました。電話を受けた人は女性の受付で、ぼくの話を丁寧に聞いて、あとで担当の掛かりから返事をしますということでした。

その掛かりからの電話が掛かってきました。そして言うには「聖徳大学は女子大なのですよ。男性は学部学生になれないのです!!!」

ぼくは唖然として声の出ない口をしばらくパクパクさせました。「そうですか、だめなんですか」

「でもね」と、やっとぼくは言いました。「今はLGBTと言って見かけは男でも本人は女性であると思っている人もいますよね。ぼくだって見かけは男だけれど、80を越えていて生物学的には男ではないですよ。LGBTなのだとぼくが主張して学生になりたいと言ったら、それなのに大学が断ったら、この大学は性差別をしているということになりますよ、いいんですか、アハハハ」

大学を探したときに調査が完璧でなかったぼく自身の責任です。この先、泣きの涙でこの難しい教科書に挑戦するか、しっぽを捲いて戦わずして退散するか、どうも後者になるんじゃないかと思いますが、目下思案中です。

(20180810)

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シャワーの勢い

山形 達也

私は足掛け15年中国の瀋陽にある大学に関わり、そのうち11年間は瀋陽に住んで、妻と一緒に研究室を持って学生と院生の教育と研究に従事していました。私達に与えられたのは、16階建ての教授棟の8階の一画で、1フロアには7家族が住んでいました。

この教授棟は大学の構内の東の端に立っていて、竣工が2001年という新しい建物でした。1949年以降の中国では生産単位という考え方があって、それが工場なら、働く人たちは同じ工場の敷地内に一緒に住んで、衣食住の全てはその単位の中でまかなうという仕組みでした。大学も同じで、学生たちはもちろん寄宿舎に住み、先生たちももちろん大学の構内の一画に、日本の一昔前の住宅公団の団地みたいな建物に、無償で住んでいたわけです。

その中国でも資本主義化が進み、2001年に建てられた16階建ての教授棟は、それを希望する先生たちに室単位で分譲されました。一部は大学がそのまま保有していて、私たちみたいな外部の教授を住まわせるために使われていました。広さは105㎡くらいで3/LD/K。立派な家具付きで、もちろん家賃は無償でした。

寝室に置かれた大きなキングサイズのベッド。あまりの大きさにびっくりしましたが、これが意外にいいのです。広いので、掛け布団はぼくと妻とそれぞれ別に掛けられる広さです。ですから掛け布団の取りっこで互いに安眠を妨害する、妨害される心配もなく、心地よく寝られます。若い新婚さんには広い運動場が必要でしょうし、老人になれば成ったで必須なキングサイズのベッドを使う彼らの智慧に脱帽です。

洗面所は2 x 3 mくらいの広さでしょうか、洗面台、馬桶と呼ばれる洋式便器、シャワー、そして洗濯機が入っていました。風呂桶とか、バスタブはなく、湯は天井近くに取り付けた電気のボイラーに溜めてあります。うちのボイラーは70リットルの容量でした。

便器にはウオッシュレットは付いていませんでしたが、すぐ隣にあるシャワーのホースを長いものに替えて、必要なときにはシャワーで洗うことができるようにしたので、快適でした。大学にいて催すと、うちまで飛んで帰ったものです。

ところで、このシャワーですが、日本ですと十分な水圧があって十分な水量ですからシャワーだけでも楽しめるのですが、ここではほんのチョロチョロしか出ないのです。中国では水の事情が悪いと聞いていましたから、こんなものかと納得してチョロチョロのシャワーで身体を濡らし、洗っていました。ですから半年後の休暇で日本に帰ってうちでシャワーを浴びた時の気落ちのよかったこと!!!

滞在して一年経ったとき校長と会食した折に、中国の生活はどうかと訊かれて、とても楽しんでいると答えました。「しかし、シャワーのチョロチョロはいただけませんね」と話したら、数日後にはうちに工事が入って、快適なシャワー生活になりました。

これはどういうことかというと、建物が16階建てなので、水道の配管は二系統作ってあって、一つは8階までの住居を、そしてもう一系統は9階から16階までの住居をまかなっているのでした。うちは8階のてっぺんなので、下の住居で水を使うとほとんど水圧がなくなってシャワーがチョロチョロ状態になったのです。この二本の水道の配管は並んでむき出しで台所を通っているのですが、工事はこの内の16階行きの配管に穴を開けてうちの風呂場行きのパイプを繋ぎました。これで懸案はあっけなく解決。

お隣の先生にも、シャワーの出が悪いことを話していました。そこのうちも当然ながら、同じようにシャワーの出が悪いのです。その先生は「大学に苦情を言ったって、そんなの無駄だよ」と鼻で笑っていましたが、私たちが大事にされていたか、外教授なので評判を気にしたか、ともかく、めでたしめでたしで一件落着でした。

でも、この工事はうちだけの話で、お隣の先生のところのシャワーの水の出は相変わらずでした。わたしが瀋陽の教授棟に11年間住んでいる間に、顔見知りの教授たちのほとんど全員はほかのところにマンションを買って移っていきました。お隣の先生もです。この大学の教授の給料で、どうして豪華なマンションが何軒も買えるのか不思議ですが、それは別の話ですね。

(20121220)

豆知識:私たちのいた薬科大学では、日本みたいな学長ではなく、校長と呼ばれていました。でも、大学の最高権力者は書記と呼ばれる共産党から派遣されている人でした。

私の行った頃校長だった呉老師は、十年後に書記に昇進しました。

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