先輩の先生方のページ

編集局:

私たちは高校生の頃、津田 栄著の「化学」を使って勉強しました。教科書としては名著でした。

津田 栄先生は、日本の化学教育に尽くされた東大理学化学科の大先輩です。1952(昭和27)年には自宅に私立の「化学教育研究所」を建てて、全国の小・中・高の教師を親しく指導し、地味でしたがわが国の化学教育の発展に大きく貢献されました。

津田 栄先生の「化学教育研究所」では小・中・高の教師の指導だけでなく、ご自分の教え子である東大の当時の化学科・薬学科の学生を講師にして高校生も指導されました。

私たちの5年上の先輩である西村 暹先生は、学生時代にはこの化学教育研究所の講師としても活躍され、当時の思い出を私たちのWebsiteに寄稿して下さいました。

(写真は西村 暹先生の近影。Wikipediaから借用)

「津田栄先生と化学教育研究所」

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松永 義夫先生

松永義夫先生の「庚申塔様々」が掲載されました。クリックしてください

左から、坪井正道先生、鈴木宏先生、景山眞先生、松永義夫先生(2015年3月23日)

編集局:すでに廃刊になっていますが、「月刊ディスプレイ」に「液晶紳士随想百選」というシリーズがあり、その連載 No.17 (1999年 8月号 p.85-86)に~今月の液晶紳士~として松永義夫先生の御寄稿文が載っています。

「液晶紳士随想百選」から

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1960年代の私(1)

坪井 正道

編集局:坪井正道先生は私たちが在学していた昭和34年(1959年)には島内研究室の助教授でしたが、私たちの卒業間もなくの昭和36年(1961年)に薬学部の教授となって理学部から移動されました

1960年代の私(1)

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近況

朽津 耕三

ご承知のように、今年のほぼ1月前の9月7日に満90歳となりました。中国の習慣では、ちょうど九と十が上下で卆になりますので、卒寿と呼ばれます。周辺の若者たちから、ふざけ半分に「先生、卒論をあまり急がないで、暫くゆっくりと留年なさいよ」と冷やかされております。

根津の日本医大病院の主治医(優れたリーダーのお一人)からは、「高齢による心身の老化は不可避だが、当面は頭から足先まで体のどこにも痛みと不自由がほとんど現れないのは、珍しい幸運と思ってよい」と言われております。ご心配を頂きました顔面の軽傷は、幸いに大事に至りませんでした。

東大、長岡技大、城西大、東京農工大などおよび海外の学術機関で、今まで長年にわたって続けて来ました学問的な仕事とアカデミック財団などでの管理などの仕事は、来年の3月末で、ほとんど全て「停年」に達するでしょう。

「Website,"Scientia" へのご寄稿」のお薦めは、まことに光栄の至りです。一つの「まとまった資料」は、「分子科学研究会」発行の「分子科学研究」の中に発表しております私の拙い(しかし、かなり行き届いた)原稿です。

近況の追伸

東大理学部化学教室を停年で退職しました時に、後任として立派な後継者として活躍をして下さいました 故 近藤 保 教授 が、独特の文才を発揮されて「べた褒めのユーモア」に溢れた奇抜な「私への送別の言葉」を公表して下さいました。その後に、私が方々の大学などで主任の職場におりました時に、広報記事の原稿を急いで整えて事務局に渡す作業に苦労しました。そこでこの原稿も、ご参考までにお知らせします。

朽津耕三先生のご退官によせて

量子化学ノート(朽津 耕三 著)

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わが回想の化学教室

景山 眞

2017年10月3日の会合では久しぶりに多くの方々に会えて懐かしく思いました。あの後、大橋陽子さんから、私のあの日の話を寄稿してほしいとの連絡をいただきました。化学科の同期のホームページへ載せるとのことでしたので、内容を少し一般向きに変えて原稿を送りました。ところがそれが写真つき、解説付きの素晴らしいものになりました。どうぞ次のサイトを御覧下さい。