Dr. Kuchitsu

分子科学アーカイブス 量子化学ノート 朽津 耕三 著

量子化学ノート

1.「量子化学」の講義が始まった経緯

2.講義について:私の思いと惑い

(a) 学びながら学んだこと:特に戦時の激しい高校生活で

(b) 教えながら学んだこと:本務と非常勤で

3. 人から人への情報伝送:教育と国際交流の場で

(a) 教育の場で:

(b) 国際学術交流の場で:

4. 文献

1.「量子化学」の講義が始まった経緯

「量子化学」という名前の講義が東大理学部化学科で3年生の必修科目として始まったのは、1969 年(昭和 44 年)の 4 月からであった。森野米三教授はこの年の 3 月末に停年退官され、物理化学第三講座を私が引き継いだ時だった。その直前は、大学紛争が東大本郷キャンパスで最も激しい時期だった。前年の秋に始まった全学の学生ストライキで、学内の大半の建物は大学当局の処置に抗議する学生たちの手で教室も研究室も封鎖され、大規模な騒乱事件が絶えなかった。東大の象徴で総長室をはじめ主要な事務局があった安田講堂も、おもに全国から集まった全共闘の学生たちによって占拠された。化学教室でも、機動隊に追われた多数の学生たちが当時の新館(現在の化学本館)正面のガラス扉を叩き割って逃げこんだ事件が一度あったが、幸いに建物の封鎖と破壊は免れた。しかし、落ち着いて研究を続けられる雰囲気ではなかった。加藤一郎総長代行は 69 年 1 月 18 日に機動隊を学内に導入して、安田講堂から学生たちを排除した。この講堂以外にも学内の多くの建物はこれらの事件で散々に破壊され、3月には東大の入学試験が中止されるという空前の事態となった。大学紛争は、その後に全国の多くの大学(特に国公立大学)に波及した。

紛争が終盤に入っていた 68 年暮のある夜に、助教授だった私はデモ隊で騒がしい赤門のあたりを何かの用事で化学教室主任の田丸謙二教授と一緒に歩いていた。そのとき田丸先生は突然に改まって、「化学教室では、4月から量子化学という3単位の講義を始めること になりました。貴方は教授になってこの講義を担当して下さい。」と言われた。この「主任 のお言葉」を屋外で、しかも暴力学生たちの襲来を避けながら伺ったことに驚き、身が引き締まる思いだった。4月以降になると学内はやや平穏になって、3 年生たちも駒場の教養学部から無事に進学し、講義と学生実験などの教育研究活動は、ほぼ順調に復旧された。

東大理学部では、量子力学が誕生した直後 1930 年代の初期に、早くも量子論の講義が行われていた。化学科での片山正夫教授の講義が嚆矢だったといわれている。1) 片山先生は物理化学本論と化学熱力学などを講じておられたので、量子論はその一部だったと思われる。物理学科の学生たち、特に小谷正雄・岡小天の両先生も、学生時代にこの講義を聴講されたそうである。化学科で実質的に量子化学と関連した講義は、(公式の講義名に明示さ れなかったが)ずっと続けられ、きわめて充実していた。特に 1953 年に新制大学に変貌してから、水島三一郎、森野米三、赤松秀雄、島内武彦などの諸先生により学部および大学院レベルでの講義で量子化学の内容が詳しく取上げられ、さらに大学院では物性研究所の長倉三郎教授の「量子化学特論」をはじめ、斉藤喜彦教授の固体量子化学に関連した講義があり、若手の助教授や非常勤講師の先生方からも多種多様な講義がなされていた。また、 新設の生物化学科の学生たちも、1960 年ごろから化学科の講義の一部、特に物理化学の基礎的な講義のほとんどすべてを必修として聴講していた。

このような状況のもとで、私の 3 年生春学期の量子化学の講義は、化学科と生物化学科での必修3単位として 1969 年4月から始まった。何をどのように話せばよいのか、私はまったく手探りであったが、まず、以前に森野研究室で輪講のテキストとして丁寧に読んでいた「アイリングの量子化学の教科書 2)」を使おうと決めた。この本の安価な(当時よく見かけた「海賊版」ではなく合法的な)複製版がトッパン社から発売された直後だったので、英文で書かれた教科書を学生諸君が丁寧に読む訓練にもなるだろうし、数式の説明が比較的やさしく詳しいので、卒業してからも座右に置けば、何かの折に参考となりそうな本だと思ったからであった。

学生時代に様々な講義を受講した経験から、「強行軍」と「つまみ食い」だけは避けたいと思ったので、「とにかく欲張らないで、基礎の基礎を、進める所まで進めよう」と思って 始めた。しかし未熟だったので、怖れたとおり「基礎の基礎」をざっと紹介しただけで、9月の学期末になってしまった。そこで、秋学期に「単位に関係のない任意参加での補講」 を学生たちに提案したら、希望者が意外に多かったので、「1.5 単位ぐらいの非公式な補講」を夜学の形で定期的に行って、その学年で予定した内容の講義を何とか仕上げることができた。次の学年でも、同様の非公式な補講を加えて済ませたが、3年目からは、幸いに「量子化学Ⅱ」1.5 単位を秋学期に増設して頂けたので、その後の 12年間は、この計 4.5 単位の講義を続けることができた。

この講義体制は 1984 年度に大幅に変更され、量子化学Ⅰは駒場の2年生4学期(秋学期) に移り、1988 年春の私の停年退職まで続いた。4学期では、その前年まで長期にわたって島内武彦教授と、後任の田隅三生教授が引き続き「構造化学」を担当して下さっていたが、このときから「量子化学」と入れ代わって、私が「駒場の4学期」で「量子化学Ⅰ」の3 単位を担当し、「本郷の5学期」で後半の「量子化学Ⅱ」の 1.5 単位を担当することになった。このあと停年までの4年間の講義は、私にとって大きな転機となった。それまで、受講生の大半は化学科と生物化学科の学生諸君で、必修の聴講者は 60 名あまりであったが、4学期では理学部への進学が決まった(数学科を除く)2年生諸君の大半が対象となったので、一挙に数倍になったからである。理学部と化学教室との両方で責任の重い役職についていたので多忙な時期だったが、この講義にも専心できる得難い機会が与えられたことを、今でも深く感謝している。

後日に知ったところでは、物理系の諸学科では本格的な量子論の講義が3年生になるまでほとんどなかったようで、上記の化学系2学科のほかに、物理・生物・地学関係の学科に進学予定の学生諸君も、量子論入門の学修に多少は役立ったようであった。また、4学期の講義を始めてからは、他学科の学生諸君と卒業後まで個人的に親しく交流する契機が得られたことが、別の楽しみとなった。

画面の最初に戻る

2.講義について:私の思いと惑い

「学問の教え方」について、生徒あるいは学生だった頃の「勉強の幼年期と青年期」に、 私は「学びながら」教えられ、「成人期」に達して教員になってからは「教えながら」学ん だ。「何をいつどのように教えればよいのか?」という平凡な課題は、どちらの側にいた時でも、どんな講義を問題にした時でも、私が生涯にわたって問い続けてきた難問だった。

(a) 学びながら学んだこと:特に戦時の激しい高校生活

小学校から大学までお世話になった多くの恩師は、言うまでもなく私の「講義への思い」 を培い育てて下さり、卒業後に教師として過ごした半世紀あまりを支え続けて下さった。また、多くの「偶然の幸運」にも恵まれた。細部には個人差があるとしても、大半は誰もが経験することと思うので、多くを文献 3,4) に譲って、二三の挿話だけに留める。

私は終戦直前の1944 年に東京都心の中学から 16 歳で旧制の第一高等学校(一高)理科に入学した。旧制高校は 1951 年に学制改革でその任を終えたが、入学した時までは明治初年以来の全寮制の伝統が続けられ、教室での授業も大らかで、豊かな風格を持つ先生方の面白いお話も多かった。たとえば学期試験の最中に、出題された先生が生徒の答案を一人ずつ覗きこんで正解を教えて下さったこともあり、私もお蔭で間違いに気づいたり、なかなか回って来て下さらなくて焦ったり、という不思議な経験をしたこともあった。

入学した直後に受講した柳田友輔教授の授業は、私が生涯で受講した講義の中でベストの一つだった。この年は日本本土への激しい空襲が始まる直前で、授業どころか教室も、我々の命さえ、いつ失われるかという緊張のさなかだった。文系の生徒の一部は在学中に陸海軍に徴兵されて学校を去り、すべての在学生は短期または長期の農工いずれかの労働に動員されて、授業はしばしば中断された。

しかし柳田先生は「日本がもし爆撃で廃墟になっても、君たちはぜひ生き残って学究の道に励んでほしい」と言われ、情熱に溢れた深みのある講義をされた。数十年後に到来する生命科学の飛躍的発展をまるで予想されたかのように、動物学の最初の授業の冒頭に「生 物学の将来を担うのは化学だ。しっかり勉強したまえ」と言われて、まず基礎として有機化学の講義から始められた。当時の旧制高校での生物学の授業は、形態と分類についての古典的な説明が主流で、生物化学や生物物理学はほとんど取上げられなかった。また当時は、海外の学術情報はほとんど入手できなかった。しかし一高には欧米の科学雑誌も多少は(同盟国ドイツからインド洋経由の船便で)輸入されていたようで、この授業では新著論文の一部がすぐに紹介されることもあった。

この授業のハイライトは、メーヴス Moewus の「クラミドモナスの生殖と遺伝」という話であった。「あわやノーベル賞」という大発見のニュースは、柳田先生だけでなく当時の世界中の研究者を震撼させたことであろう。先生のこの授業から、私は境界領域の学問の面白さを知った。(ただし後日談がある。メーヴスの実験は嘘だった。それから 25 年も経って大阪市立大学を訪ねたとき、はからずも久保田尚志教授から「幻のクラミドモナス」という論文の別刷を頂いた。5)帰途の新幹線の車中で読んだら、実験助手の夫人を巻きこんだ推理小説のような物語が詳しく記してあったので驚いた。柳田先生の仇名は「狸」だった。狸は見事にメーヴスに騙され、私は狸に騙されて化学の道に進んでしまった。)

動物学の授業というのに、先生が課外の名著として奨めた洋書の中にスレーター・フランクの「理論物理学入門」とポーリングの「化学結合論」があったことにも驚いた。私が柳田先生の授業にこれほど感動したのは、上記のような戦時下での異常な緊張があったためかも知れない。私は先生の上記の授業から「知識以上の学問をヘッドだけでなくハートに与える講義がある」ことを学んだ。そして後日に教壇に立ったとき、「もし柳田先生だったら、この話をどのように講義されるだろう?」と自問することが多かった。

駒場の教室と研究室の大半は、怖れたとおり翌 45 年 5 月に爆撃でほとんど焼失した。しかし、幸いに犠牲者は出なかったし、寄宿寮と食堂・浴場などの施設も焼失を免れた。授業はそれ以前の 45 年 4 月初から停止され、私たち理科 2 年生の一部は海軍第二技術廠に動員された。そして、動員先の研究所は 5 月の空襲の直前に新潟県の松之山温泉に疎開した。ここでは東大理学部化学科・水島研究室出身の諸先輩(長倉三郎大尉、野田春彦大尉、倉谷健治中尉などの海軍技術将校と今堀和友先輩)の指導を受けて電波兵器用の誘電物質の研究を始めたが、わずか 3 か月で 8 月 15 日の終戦になってしまった。

水島三一郎教授の講演から受けた感動も忘れ難い。高校1年生の時に、偶然に水島先生の短い講演を聞く機会があった。赤外・ラマンスペクトルの話の中で、「水の分子は二等辺三角形です」と言われた。この一言は、私の頭にあった H2O という記号に「分子の形」を与えて下さった。さらに「この二等辺三角形は固定された定規ではなく、動いている」ことを教えて頂いた。幸いに学徒動員での配属先も実質的には水島研究室だったので、研究・教育の両面から「研究者の姿」に接する機会も与えられた。分子分光法を主体とする化学と生物学の最先端を長年にわたってリードし続けた水島研究室の雰囲気について、後に分子科学(たとえば生物物理化学)の礎を多方面にわたって築き上げた室員たちの見事な回想記が出版されている。6)

私の生涯の恩師となった森野米三教授は、「水島・森野のトランス・ゴーシュ分子内回転異性体の研究」で著名であり、7) 私が東大に入学した直後に名大から東大に移られた。先生の熱情をこめた統計熱力学の講義は歯が立たないほど難しかったが、最も印象に残ったのは最終試験だった。朝9時ごろから始まったとき、先生は教壇で問題と解答用紙を配られると、次のように言われた。「何時までかかってもよいから、あなた方の全力を尽くして 解答しなさい。他人から情報を受けさえしなければ、教科書や講義ノートを調べても図書館に行っても、食堂に行ってもよい。」多くの学生たちは夕方まで粘った。私は「大学の試 験とは、こういうものか」と驚いた。ファウラー・グッゲンハイムの教科書に出ていた難問に苦労しながら、私はふと「僕は森野研に行こう」と思った。どんな試験問題が出てどこまで正解できたかも覚えていないが、この時に森野研を選んだ決心は、その後に揺らぐことはなかった。7)

画面の最初に戻る

(b) 教えながら学んだこと:本務と非常勤で

助教授として講義を担当してまもなく、私は生涯にわたる「教育活動の手引き書」と出会った。中本一男教授が「化学と工業」誌 7) に書かれた「アメリカの物理化学教育」という論説の中で紹介されていた"You and Your Students"8)という A5 版 43 ページの小冊子である。MIT が刊行して新任教師の全員に配布していた手引書で、教員の誰もが心すべき当然自明の知恵を、詳細に具体的に集約してあった。座右に置いて教えられることが多かったので、後輩が新任の教師として各地に赴任する時に、しばしば就任祝いとして贈った。

一端を記すと次のようである。

(1) 講義(授業)は一方通行であってはならない。教室は教師と生徒が一致協力して作り上げ磨き上げる場である。

(2) 話し方と板書に注意する。板書は黒板を数段に縦分割して左上から右下に向けて整然と書き進み、また左上に戻る。このようにすると、生徒は一見して話の推移を追うことができる。(ちなみに、私は左隅の行にその日の講義内容の目次を書いた。)板書の大きさと縦幅は、後部座席の生徒が座ったまま楽に読めるようにする。

(3) 講義の直後に反省点をノートに記載して次回に役立てる。

(4) 試験は教師にも生徒にも「秤」であり、「どんなに重い人でも軽い人でも正確に測る」ことを目指す。(「試験が満点だった学生は『私の本当の成績は何点なのか、正確に測って下さい』と抗議する権利がある」と書いてある。日本では考えられないことである。)

私は教育学部の非常勤講師として数年にわたって、理科の教職課程を受講する理系全学部の学生たちに「理科教育法」の講義の一部(化学)を分担した。そのときにも上記の MIT 資料を紹介した。レポート提出を求めた課題の一つは「初等・中等教育の場で最も強く印象に残った経験」であった。延べ数百名の受講生のレポートをまとめて整理してみると、学生たちの心に残った「良い先生」とは、例外なく次の4項目のすべてを充足する教師であった。「(1) 教えることがしっかりしている。(2) 熱心である。(3)人間味に溢れている。(4) 生徒の自主性を尊重し、それを上手に引き出してくれる。」誰でも思いつきそうな平凡な答であるが、レポート書かれていた具体例には実に面白い物語が多かった。そして上記の 4 項目は、大学と大学院での講義と指導にも、そのまま通用する項目だと思った。

東大を 1988 年に停年退職してから、長岡技術科学大学工学部で 5 年、城西大学理学部で10 年を、それぞれ常勤の教授として過ごしたのち、東京農工大学で客員教授として現在に至っている。その間に各地の大学・高専と海外の大学で非常勤講師として様々な講義をした。また放送大学の客員教授として専任の濱田嘉昭教授とともに長年にわたり放送・面接指導・通信指導に参加した。これらの非常勤の講義では、常勤と違っていわば「一期一会」 なので、「頭よりも心に向けて瞬時の情報伝達」ができるよう特に心がけた。

「試験(特に期末試験)は学生にとって絶好の勉強の機会になる」という考え方も、MIT の本から教えられた知恵の一つだった。全国の方々の学校で、上記の東大時代とは学部も学科も学年も異なる学生たちに様々な科目の講義をする機会が多かったので、講義内容にも成績評価の方法にも工夫が必要だった。ただし共通点として、私が担当した講義の大半は「基礎的な科目」だったので、もし教え方が良くないと多数の学生が途中で落ちこぼれる心配があり、劣等感・屈辱感を味わったり、嫌いになったりしても不思議ではなかった。

しかし、学生たちが数十時間も費やして講義を聴講した末に、その学問分野について『嫌 な思い出』だけを残して終わるのは、大学が掲げる「講義の目標」と正反対であり、私には堪え難いことだった。私の講義内容で学んだ学問の中身は、大多数の学生にとって、おそらく「一生に一度だけの機会」だったであろう。その折角の機会が「さっぱり分からなかった。つまらなかった」で終わったら、その学生は一生この学問との縁を断ってしまうに違いない。逆に「難しかったけど面白かった。よい勉強ができた!」と思い、少しでも「さわやかな達成感」が心に残ったら、卒業後どんなに遠く離れた分野に進んでも、折に触れてこの学問分野への懐かしい郷愁が甦り、興味と知識が一生にわたって膨らんで行くだろう。さらにその知識と知恵が、思いがけない形で問題解決に役立つかも知れない。特に女子学生では、家庭で幼児たちに母親からその「郷愁」が伝えられて、理科大好きの子供たちが育ったら、こんなに嬉しいことはない。「この目標を実現しようとしたら、最終試験も一つの大切な機会だ」と私は思い、次のようにして実行した。ためだった。

1. この講義を一人でも途中で投げ出すことなく、ぜひ最後まで出席して確実に何かを楽しく学び、「自分の努力で単位がとれた」と思うように導きたい。(2) それには何回かのレポートと試験で、一人も白紙の答案を出させない。全員に「全力を出し切って正解できた」 という喜びを味あわせたい。そこで、次の方針をとった。

2. 適当な節目にごく簡単な演習問題を出して、レポートを求めた。出題は「一般向き」と「健脚向き」の2本立てにして、前者は解答の寸前までヒントを出し、自力で「最後の一押し」だけすれば目から鱗が落ちて解けるように工夫した。後者は講義のレベルより高い「健脚向き問題」として、やはり詳しいヒントをつけて挑戦を求めた。

3. 試験の直前の講義のとき、受講生全員に「試験問題の山」を教えて、予習の目標を明示した。これは甘すぎるように思われるが、「試験週間中に、同時期に多数の科目を受験す る学生たちのための配慮」で、一面では私の科目だけに必要以上の負担を強いないようにするためであり、他面では私の試験を放棄したり姑息な便法で逃げたりしないようにするためだった。

4. 横道にそれて見当はずれの解答をしないように、本質さえ理解できていれば解けるようにと、各問題にヒントを付記した。

5. 「解答者が自問して自答せよ」という問題を1題入れておき、時間を一杯まで使って解答できるようにした。特に問題自身と回答に現れる奇抜な着想を評価して、コメントした。 冒頭に「解答者の都合により、問題を次のように変更する」と書いた奇抜な答案もあった。

6. 採点と詳しいコメントを赤字で記した答案用紙を、受験者に返した。

これらの配慮で、「全部または一部分が、そっくり白紙のまま」という答案を出す学生や、 途中で諦めて退室する受験生はほとんど出なかったと記憶する。

事情によって稀には、教科書と講義ノート(もちろん自筆に限る。他人のノートのコピーは不可)と授業での配布資料などの持込みを認めたこともあった(。上記のMIT 資料には、持ち込み方式を open book、不可の場合を closed book と記している。)前者の場合、ノートに解答らしいものを書いてきて、試験の間に最後まで必死に写していた学生もあったが、 試験時間一杯に筆写をしたこと自体が、前記の理由で何かの勉強をする機会になったことと思う。(もちろん、持ち込んだノートが他人の書いたものでないことを、そのつど確認した。学生たちはよく質問に来ていたし、個々の学生の平常の出来具合を見ていたので、こんなに楽な試験でも採点に困ることはなかった。)

画面の最初に戻る

3.人から人への情報伝送:教育と国際交流の場で

(a) 教育の場で:

講義と講演を繰り返しながら、「一般に人と人との間の情報伝達は、分光学で見られる電磁波の共鳴吸収、あるいはテレビ電波の受信とそっくりではないか」と気がついた。人は誰でも「固有の共振帯域を持つ受信機」を持っていて、種々雑多な情報が耳から入力されたとき、ある決まった波長領域に届いた信号を最高の感度で吸収できるようである。「心の 琴線に触れる」という言葉もある。反対に、まったく共振できなければ、どんなに大声で長く発信しても「馬の耳に念仏」で何も心に残らない。この自明の事実を目の前で教えられたのは、京都国際会議場での偶然の体験だった。

ある国際学会でのハイライトだった総合講演が終わって、多数の聴講者がロビーに出て休憩に入ったとき、庶務幹事をしていた私に海外から 1 通の電報が届けられた。雑踏の中で顔も知らない参加者を探し出すのは至難の業だったので、私は会館の受付に飛び込んで場内放送を依頼した。デスクの女性は、受信者の宛名を見てポーランド人と知ると、引出しから一束のパネルを取り出した。そこには呼び出しメッセージが様々な外国語で書かれていた。女性は受信者に向けて「何々先生、電報が届いています。受付にお出で下さい」と、ポーランド語でゆっくりと繰り返した。効果は覿面で、教授はすぐに現れて電報を受け取り、嬉しそうにロビーの群集のもとに戻っていった。さすがに「国際会議場」だった。 もし呼び出しデスクの放送が英語だったら、情報は騒音の中で無事に伝達できたろうか?

この出来事で、私は「母国語での情報発信」が如何に効果的かを実感した。「それなら普通の教室でも、何週間かの講義の中でたとえ一瞬でもよいから、個々の学生たちに向けてそれぞれ宛ての「個人電報」を「母国語」で発信し共鳴励起できないだろうか?」と思うようになった。もちろん、どんな教室でも学生たちの「感度分布曲線」の個人差はきわめて広いので、発信する側で周到な技術が必要であろう。

画面の最初に戻る

(b) 国際学術交流の場で:

国際共同研究あるいは国際学術交流の場での人間同士の交流でも、上記と同様の「電磁波の送受信」と共通する配慮が有効であることをしばしば経験した。特に学術国際連合(純 正・応用化学連合 IUPAC と結晶学連合 IUCr)で様々な用務に 40 年あまり携わって、内外の識者の仕事ぶりから円滑な情報交流の大切さを学んだ。これらの国際学術連合は、どちらも ICSU (International Council for Science 国際科学会議)に所属する機関である。

周知のように、IUPAC の重要な仕事は、他の多くの国際学術連合と密接に連携・協力しながら、(1) 化合物命名法、(2) 原子量と同位体核種の自然存在比、(3) 単位・用語・記号の標準的な表記法を設定し、自然科学・工学の分野に広く普及させることで、学術情報の「標準化 standardization」とよばれる重要な国際活動の一部である。私は(3)の分野で、「グリーンブック」とよばれるテキストと、その日本語訳を刊行する仕事を続けてきた。10) また IUCr は、結晶学の広い分野で学術研究、教育、応用を活発に円滑に推進している機構で、日本人の研究者たちの長年にわたる貢献が特に顕著である。私の担当は電子回折の委員会であったが、基盤となる理事会にも偶然の契機で参加する機会が与えられた。

これらの(通常の研究活動とはやや異質の)学術連合の活動を通じて、私は当然ながら「世界の各国や地域で、人々の生き方、考え方、話し方、暮らし方の違い」に直面し、「文 化と社会活動での避け難い対立」と、「人間らしい思いやりと共感」、「相互理解と融和に向けた努力」、その中にあって「研究者が互いに礼節をもって共存する協力と競争の姿」を垣 間見ることができた。私が出会った超一流のリーダーたちは、まったく私心がなく、常に世界全体の学術発展を見通し、若い研究者たちの将来をいつも念頭に置いて、卓越した指導力を発揮していた。「この人たちこそ本当の賢人なのだ」と感心することが多かった。仁田勇先生や水島三一郎先生をはじめ、多数の日本人の活躍ぶりも見事だった。

5~15 名ぐらいの委員会にしばしば出席して、「ぜひ通したい提案があったとき、委員たちに耳を傾けて聞いてもらえるような話し方」を修得するのに苦労した。本来なら、議長のリードのもとで、各委員は整然と議論を集中させて個別に結論を出してゆくべきなのに、 各自の不規則な発言で騒乱を極めることが多く、上記の「電磁波通信のたとえ」でいえば、「ノイズに埋まった私の発信を感度よく受信してもらう工夫」をしない限り、全委員を説得するのは不可能だった。そこで、「レーザー発振」を思いついた。委員会をリードできる 学識と知恵を持ち皆に尊敬されている委員を選び、その委員の「固有振動モード」をあらかじめ察知して、その委員が共感して膝を乗り出してくれるようなキーワードを適時に発信して、増幅器になってもらう工夫である。それがうまく機能したこともあった。

私のように、戦中から終戦直後にわずかな語学教育だけを受けた者が経験した上記のような苦心と努力は、いま国際学術交流の表舞台で活躍されている日本人研究者の方々には、 もはや不必要なものであろう。

画面の最初に戻る

文献

1) 東京大学理学部化学教室雑誌会、「東京大学理学部化学教室の歩み」(2007).

2) H. Eyring, J. Walter, G.E. Kimball, "Quantum Chemistry," John Wiley. New York (1944).

3) 朽津耕三、「花火との出会い」、 化学と工業、44, 2049 (1991).

4) 朽津耕三、「不思議な出会い」、 化学、63, No. 12 , 11 (2008).

5) 久保田尚志、「幻のクラミドモナス」、化学の領域 増刊 86, 12 (1968).

6) 馬場宏明、坪井正道、田隅三生 編「回想の水島研究室―化学昭和史の一断面」、共立(1990).

7)「森野先生を偲ぶ」、森野米三先生追悼記念事業会、非売品、(1997).

8) 中本一男「アメリカの物理化学教育」、化学と工業、17, 510 (1964).

9) "You and Your Students", Officeof Publications. MIT, Cambridge, MA, U.S.A. (1951).

10) “Quantities,Units and Symbols in Physical Chemistry”IUPAC,Physical and Biophysical Chemistry Division,3rd Edition, RSC Publishing (2007).

「物理化学で用いられる量・単位・記号, 第3版」, 日本化学会監修, 産業技術総合研究所計量標準総合センター訳, 講談社(2009).

画面の最初に戻る

公開日 2013 年 6 月 17 日 第1版

(「分子科学」編集委員会の許可を得て転載)

著者紹介:

朽津 耕三

(くちつ こうぞう)

東京大学名誉教授

長岡技術科学大学名誉教授

東京農工大学客員教授

専門分野;構造化学

朽津耕三先生の

ご退官によせて

近藤 保教授

上田良二先生の思い出

朽津耕三