Dr. Tsuboi

筆者は1944年に入学し、1960年まで東大理学部化学教室で育てられた。1960年当時は助教授だったが、1961年に東大に薬学部が新設され、そこの教授にいれていただいた。

あれは1960年の夏少し前だったと思うが、突然東大薬学部、薬品物理化学講座担任の準備を始めるよう要請された。あのとき、「決定」の報をお持ち下さったのは、伊藤四十二学部長、浮田忠之進教授であった。私にとっては、全くなんの前触れもなかった突然のご訪問であった。「薬を意識しないでよい、とにかく薬学の学生に物理化学を教え、そしてしたい通りの研究をして下さい」という極めて暖かいご厚意がつたえられた。

当時、私は、理学部化学科島内研究室で、赤外、ラマン、振動分光学関係の基礎的、物理学的分野を開拓すべく構想を練っていた。この話をきいて私の同級性は言下に、それはもうやめた方がよさそうだとつぶやいたが、私もそう思った。私の指導教官だった水島三一郎先生は「いまから方向を変えてもよい地位が築けるかなあ---」とあまり賛成でなかったが、森野米三先生はおおいに乗り気で、ただし、ただ面白い現象をみつけたとか、新しい実験方法を適用したとか、というだけでなしに、新しい概念、新しい学問領域をつくって行くように努力せよ、という意味の忠告を一度ならず下さった。

構想の練り直しは決していやな仕事ではなかった、構想の中心に来たのは。もはや、小さい生体分子でなく、生体内で活躍している生体高分子そのものであった。タンパク分子構造のX線回折はどうか? 早速、当時阪大仁田研から物性研に来ておられたその方面の権威の先生に何回も時間かけて教わった。原理も方法も十分理解できたが、実行はかなり難しそうだと感じた。たまたま当時会ったMITのアレキサンダー・リッチの話:学生にタンパク結晶のX線回折のテーマを与えるときには、「3年かかっても結果が出せないという事態になってもがまんできるか?」ということにしていると。

幸い、当時スイスで鉱物の結晶学的研究をしておられた飯高洋一博士が薬品物理化学講座の初代助教授になることを承知して下さり(専門をかなり変えることをご承知のうえ)、当時の薬学部の諸先輩のご厚意で研究費が調達され、エンメインC24H2606の分子構造決定にこぎつけた。これは、ワイセンベルグ写真の目測と、記憶容量や計算速度がいまとは比較にならないほど低いコンピュータ(Pc2)とに頼り、夏目充隆博士(当時薬学部薬化学助教授だったか)の化学的洞察を最大限に使ってやっとたどりついた成果であった。いわば、胸突き八丁を体力ぎりぎりで上り詰めた頂上といった感じであった。

当時早速に『東大薬学部』がX線構造解析法導入に成功し、C24という大きい分子の構造決定を成し遂げた、といった趣旨の評価が聞こえてきたおぼえがある。事実これは生まれて間もないわれわれの新学部の一大協力事業であった。飯高博士はやがて(1967)独立されて、薬品物理分析学講座を担当され、極めて多種多数の医薬品の分子構造をきめられた。また、教室第一号博士の三井幸雄氏はインターフェロンの結晶構造、1972年博士の森川康介(こうすけ氏)は多数の蛋白.蛋白複合体といった後年の業績はよく知られている。

新講座出発で、がたがたそうこうしているとき (1961年)、私はおもいがけなくもN1H(アメリカのNational lnstitute of Health)から研究費をもらえることになった。高分子の核酸タンパクの赤外はアメリカでは誰もやっていないから、NIHに申請すれば通るだろうといって、そのノウハウをおしえてくれた人がいたのである。それに従って、何か月も推敵に推敵をかさね、シングルスベースニ十数枚のタイプ印書を書きあげて、NIHに送った。

申請書のおわりに、審査してくれそうな研究者6名の名前を書いておいて、そのあと、それぞれに「こういうものを申請したからよろしくたのむ」という手紙を送っておいた。しばらくあとで、そのうち3人から肯定的な手紙がきた。やがて、3年間5万ドルという研究費が与えられた。これは申請内容に従って高分子タンパクにも使えそうな高性能の赤外分光光度計の購入にあてた。3年目に、また張り切って膨大な報告書を送ったところ、NIHから研究者が一人飛行機に乗って実験室の視察にやってきた。朝から夕方まで、終日の諮問視察討論に合格したとみえ、そのあとまた3年間5万ドルが与えられた。

あのころ、もう一つの幸運があった。ジョウンズホプキンス大学から6か月(196年9月~1965年2月)の客員教授の依頼がきたことである。当時高分子タンパク核酸関係の有能な研究者がおられたところで、しかも理学部でなく、薬学部的(?)のところであった。まだ、日本で新講座発足が軌道に乗ったともいえない時期であって気がひけたが、教授会の許可が得られたので出発した。幸いであったのは、私の東大理学部時代には学べなかったいろいろの蛋白関係の実験手法、電気泳動とか3Hシンチレーションとかを実地に自分の手を通じて学ぶことができたことであった。

ところが、皮肉なことに、東大薬学部に戻って少しあとで、研究にラジオアイソトープを使用することは-切中止という教授会決定があった。ラジオアイソトープは地球上どこに持っていっても、けっして消すことはできない、次世代の世界人類、次次世代の人類・・・と代を重ねるごとにがんの発生は少しずつ、あるいは急に、増えて行って、決して減ることはない、その方向にはただちに防止策を講ずべきだ、これには私も勿論賛成した。当時11台あった3Hシンチレーションが全部廃棄された。そういえばジョンスホプキンスでも、ラジオアイソトープの危険性について世間が無知で困るといったつぶやき的雰囲気をしばしば耳にしたことであった。

(未完)

(20171210)

坪井正道

1960年代の私(1)