Dr. Nishimura

西村 暹

津田栄先生は東大理学部化学科を大正9年に卒業された。同期には木村健二郎先生、一年先輩には塚本玄門先生が居られた。津田先生は昭和2年にドイツ留学中に、これからの方針を研究か教育かと考えられ、化学教育に専念する決意をされたとのことである。京城帝国大学に教官として赴任されたが、終戦後日本に帰国され旧制の第一高等学校で教鞭をとられていた。定かではないが、当時の一高の学生による旧体制に対する批判のターゲットとして津田先生の排斥運動が起きた。それゆえ先生は一高をやめられて都立日比谷高校に赴任されたとのことである。私は昭和19年(終戦の前年)に都立一中に入学し、その後戦後の学制改変で、ところてん式に都立日比谷高校に入り(たまたま中学、高校の6年制一貫教育)、津田先生の授業を受けることになった。

先生の授業はこれまでの化学の先生とは異なり、生徒を魅了した。授業を始める前に10分ほどご自身で実験をされて生徒に見せ、その後簡単な筆記テストをしてから、本題に入るやり方で、生徒に化学の面白みが伝わった。私と同じ学年には徳丸克己(東大理学部化学科、昭和31年卒、元筑波大学副学長)、貴志豊和(東大薬学部、昭和29年卒、元武田薬品工業、生薬研究所長)、一学年下には若林昭男(早稲田大学理工学部応用化学科、昭和31年卒、元電気化学工業、研究管理室長)がいた。全員理化部に所属して、放課後には部の実験室に入りびたっていたが、そこでも津田先生の教えを受けた。そのようなこともあって、大学に入ってからも、その後先生との長いお付き合いが続いた。

津田先生は、我々が大学に入った時には、日比谷高校の教官をやめられ清泉女子大学に移られていたが、田園調布のご自宅の敷地に別棟を建てられ、化学教育研究所を発足された。そこで高校の化学の先生を集めて化学教育には実験がいかに重要かを教えられた。先生は、また授業中に生徒各自が使う小さな実験箱(約40cm X 30cm X 30cm)を考案された。箱には簡単な実験に使う試薬、ガラス器具がコンパクトに入っている。生徒が各自各々実験できるとのアイデアである。

津田先生は高校の教師だけでなく、高校生にも直接この方法で指導したらと考えられ、大学生の我々が教師を務めることになった。案内書を先生のつてを使って都内の高校に配布し生徒を募った。生徒は10数人で男女半分ずつだったが結構評判が良かった。

津田栄先生と化学教育研究所

Wikipedia

著者紹介

1955年 東京大学理学部化学科卒業

1960年 東京大学大学院修了、理学博士

その後、癌研究会癌研究所、オークリッジ国立研究所(ロックフェラー財団給費研究員)、ウィスコンシン州立大学等を経て

1968年 国立がんセンター研究所生物学部長

1992年 万有製薬株式会社つくば研究所所長

1999年 万有製薬株式会社つくば研究所名誉所長

現在 筑波大学生命科学動物資源センターの客員研究員

「生きた化石のたわ言:

50年の研究からの教訓 」

「RNAからがん研究へ」

「がんと生化学ー

30年の経験をふりかえってー」

「60年間の研究から得た教訓:

するべきこと,してはいけないこと」

連絡帳

第二土曜日を除き、毎週土曜日の午後2時から6時まで開き、半年のコースで昭和28年4月から昭和35年まで計14回続いた。我々も高校時代は男女共学でなかったので大変楽しい思い出であった。クラスの中にはその後の進路でサイエンスに向かった人が多い。東大薬学部教授、東大医学部小児科医師、JSTの科学参事になられた方もいる。山形貞子(旧姓三枝)さんもその一人で、彼女は日比谷高校からお茶の水女子大学入学、卒業後、東大理学部生物化学科、江上研究室の修士課程に入り、そこで小学校、中学校、日比谷高校の同級生だった山形達也さんに再会することになった。言わば化学教育研究所がお二人の縁を取り持ったことになる。ちなみに 水島三一郎先生のご長女、千恵子さん(広部雅昭元東大薬学部教授の令夫人)もクラスに来ておられた。(写真 1:三回生に実験を教えておられる津田先生

津田先生の化学教育への貢献は多岐にわたる。化学教育研究所での化学担当の先生への指導のみならず、高校の化学の教科書を島村修先生との共著で執筆され、この教科書は何度も改訂された名著となった。また受験生向きの傾向と対策も然りである。先生は化学教育に関して、普通の化学の教官にはない斬新な発想を持っておられた。我々が高校生だった頃、化学研究の現状を知るには、日本化学会の年会を聴きに行くと良いと勧められ、私ももぐりで出かけたことを覚えている。

津田先生の奥様、節子様は塚本玄門先生の妹様で、大変お綺麗な方だった。お茶の先生をされていたが、毎年二子多摩川で開かれる花火大会をご自宅で見る会に招かれ、手作りの素晴らしいご馳走をいただいた。今でもお二人の仲むつましいご様子が目に浮かぶ。先生は後年、突然書くのが困難になり、発声もままなくなられた。それでも先生の執筆への意欲は衰えず、奥様が口述筆記されて本の出販を続けられた。お二人の間のお子様、寿子様は清泉女学院高校の理科(化学)の教諭をしておられ、中村正様(元中央大学理工学部教授)と結婚された。ご長男、和生様は現在北里大学一般教育部兼大学院医療系研究科分子病態学部教授で現役である。

結論として、津田栄先生の実験を重視した化学教育やり方が、高校の化学の先生方に引き継がれ、現在に続いているのだと思われる。津田先生のまさに化学教育に対する先見性と情熱の賜物である。

(写真 2:津田先生亡きあとのご一家。 津田先生は残念なことに昭和36年9月に亡くなられたが、私が同年11月、米国留学の直前にお宅にうかがった際。 上段左から、奥様、長女寿子様、中村正様(寿子様のご主人)若林昭男、徳丸克己、 下段は西村と妻美智子)注)1:若林昭男さんから写真や資料を提供していただいた。感謝する次第です。注)2:参考文献 「私の歩んできた理科教育の道」

津田栄:中村寿子、林良重、有川博 編纂

大日本図書 昭和57年7月20日 第一版

(20180409)