「阪神」と「オリックス」と私

              



昭和20年4月、甲子園にあった甲陽中学2年生だった私は、学徒動員で阪神電鉄の社員

(提示すれば、どこの電鉄の電車でも乗れる正式の社員証をもらっていた)となった。

そして6月のあるよく晴れた日、尼崎から宝塚に通じる道路と武庫川の土手との間にあった

阪神電鉄の農場へ、数人の仲間と働きに行くことになった。

 

そこでの農作業の途中、突然、警報が聞こえ同時に、アメリカの艦載機2機が、轟音とともに低空を飛来してきた。「伏せ!」「動くな!」引率の人が叫んだ。みんな畑の畔の間に身を伏せた。

敵機が行き過ぎた後、何を狙ったのか「ダダダッ」という射撃音が聞こえた。「引き返してくるぞ。

小屋に入れ、急げ!」中学生のほか農場で働いていた人たちも急いで小屋に入ってきた。「小屋が狙われたら全滅する」私はふと思ったが、動く人を見つけると必ず射撃してくる艦載機の習性から、全員小屋に隠れるのが正しいと思い直した。小屋に入ると後から、見るからに精悍な身体つきをした男が3人駆け込んできた。「アッ阪神の選手や」と誰かが言った。「呉昌征がいる」その時私はよく知らなかったが、職業野球の公式戦は戦争激化のため昭和19年で中止になっていた。

阪神は昭和20年の正月野球を最後に、一部の選手はこの阪神電鉄の農場で働いていたのだった。会ったのは、台湾出身の呉昌征のほか、本堂保次、辻源兵衛ではなかったかと思われるが、私には呉昌征の印象が強く記憶に残っている。敵機が去り、会社から運ばれた弁当が配られた。当時は米の飯などは全く食べられない。満州大豆だけの黄色い弁当だった。欠席者分の弁当が一食分余っていたので、呉のところへ「どうぞ」と持って行った。「あっそうですか」と言って、うれしそうな顔をして。むしゃぶりついていた。それが、私の職業野球選手を知った最初であった。

 

戦争が終わり、進駐軍が甲子園を明け渡すと、ハングリー精神旺盛な彼ら、特に呉は大活躍

して阪神は優勝した。昭和22年、まだ2リーグ制の始まる前のことであった。この時の

ラインナップは1番呉、2番金田、3番富樫、4番藤村、5番土井垣、6番本堂、7番玉置、8番長谷川、9番はピッチャー若林、でこの強力打線はダイナマイト打線と言われ今でも伝説になって語られている。

 

昭和23年、別当薫が阪神に入団してきてダイナマイト打線に加わり、絶大な人気を集めた。別当は甲子園の地元の甲陽中学出身、私も同じ中学なので、別当のことはよく覚えている。甲陽中学では昭和12年選抜大会、昭和13年は選手権大会で甲子園に出場し4番を打った。その後、慶応大学では当時大学野球史上最高の打率を誇る首位打者となった。昭和18年の出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)では慶応の4番として出場した。阪神でも俊足、強肩の上に強打で打ち続け、甲子園には別当見たさに大勢の観客が詰めかけた。特に女性の熱烈な別当フアンが多く、別当が盗塁で足をねじり全治3か月の骨折をした時に、支えられて退場する別当を見た女性フアンの数名が失神するという騒ぎになったことがあった。

 

昭和25年セントラル・パシフィックの2リーグ制となり、阪神の成績は低迷し、しばらく

の間私自身、阪神の野球から関心が遠くなっていった。しかし、昭和60年、吉田監督の時のリーグ優勝とそれに続く日本シリーズ優勝には、心を躍らせてそのシーズン期間中、毎日阪神の試合結果を夢中になって追っていた。この時の打線は新ダイナマイト打線と言われ1番真弓、2番弘田、3番バース、4番掛布、5番岡田、6番佐野、7番平田、8番木戸、でバース・掛布・岡田の連続バックスクリーンへの本塁打は今でも語り継がれている。このリーグ優勝に多くのフアンが熱狂し、道頓堀川に戎橋から飛び込んだこともよく知られている。阪神が神宮球場で優勝し、甲子園球場に帰ってきてシーズン最後の試合を終え、吉田監督を先頭に、選手たちがペナントをもって万雷の拍手のなか球場内を一周した。これをテレビで見ていた妻が、会社から帰ってきた私に、眼を輝かせて「阪神の選手、みんな生き生きしていて、よかったよ」と,その感動を語ってくれたことを思い出す。(今は施設に入っていて、高齢認知のため、阪神が優勝したと言っても、何の反応もないのは寂しい)

 

 

昭和63年、オリエント・リース株式会社の宮内義彦社長は阪急電鉄からブレーブス球

団を買収し、プロ野球界に参入した。翌、平成元年には商号をオリックス株式会社として、

球団名をオリックス・ブレーブスからオリックス・ブルーウエイブスとして自ら球団のオー

ナーとなった。

 

ちょうどこの時、私は大阪に本社のある地方銀行系列リース会社の東京支社の責任者(常務

取締役東京支社長)として東京に赴任中で、オリックス本社の社長室で、宮内社長と面談したことがある。宮内社長は私と同じ関西学院大学商学部(グリークラブにも在籍)

の卒業だが、その後ワシントン大学経営学部修士課程でMBAを取っている。

日綿実業(現在の双日)へ入社後、アメリカで急成長していたリース事業への進出を図った

日綿実業は、20歳代だった宮内さんをアメリカに派遣して、リース事業を研究させてオリエント・リースを設立した。やがて、宮内さんはリース事業の本質を知る日本での第一人者となり、オリエント・リースを証券取引所2部に上場し、やがて1部上場に引き上げて、顧客も独自で開発し大きく発展させた。そして、日綿実業の子会社から脱却し、主要出資先の三和銀行の

系列からも離れて、昭和55年にはオリエント・リースの代表取締役社長に就任し、そして

その後、代表取締役社長 兼 グループCEOになった。

 

私が会ったときはすでに、リース部門だけでなく、銀行・保険・証券・消費者金融などを

経営し、アメリカ・オーストラリア・東南アジアにも進出を果たした若き有名な財界人に

なっていた。私のいた地銀系列のリース会社にとって、系列会社から離れ大発展を遂げた

宮内社長は正に希望の星であって「第2のオリエント・リースを目指せ」とばかり、

まず証券取引所への上場を図り、オリックスに追いつき、追い越すことを目標としていた。

宮内社長との話は、リース事業協同組合やリース会社同士の提携リースのことで、球団

買収の話などは聞けなかったが、しかし、私は阪急から買収したオリックス球団が今後

どうなるか、大変興味をもって、注目していた。

 

平成2年、バブル景気が崩壊し、株価は暴落し、不動産は急激に価値を低下させ、倒産する銀行も続出しはじめた。上場申請目前まで準備を進めていた、私のいたリース会社も、残念ながら、時期も状況も悪く、上場申請を見合わすことになり、「第2のオリエント・リース」となって、オリックスに追いつき追い越す夢は、はかなく露と消えてしまった。

 

オリックスは健在で、球団は平成3年のプロ野球のドラフト会議で、田口壮(1位)・鈴木イチロー(4位)を取り、選手層を充実させていった。イチローは中日ドラゴンズ入団を希望していたが、中日も他の球団も指名しなかった。オリックスのスカウト三輪田は強く主張してイチローを単独指名した。

 

平成7年1月17日、阪神淡路大震災が起こり私はマンション5階の部屋で、「万物落下」を体験した。この年に、すでに神戸を本居地にしていたオリックスが仰木監督の下、リーグ優勝して「がんばれKOBE」と震災被害からの立ち上がりを広く呼びかけた。私もこの優勝は本当に嬉しく思い、優勝祝賀大売出しの三宮の商店街で、合いのコートを安く1500円で買った。このコートは今でも使っている。オリックスは翌平成8年には日本シリーズにも優勝し、日本一となり、会社の知名度は一時、大いに上がった。

 

しかしながらその後、成績は停滞し、イチローはシアトル・マリナーズに、田口もメジャーに移籍し仰木監督も辞任。観客数は激減して、宮内オーナーは赤字球団を売却するのではないかとの観測が流れた。しかし宮内オーナーの打った手は、驚くべき積極策だった。

平成16年6月、オリックスは大阪近鉄バファローズとの合併交渉を発表、これには近鉄フアンを中心に合併反対の声が上がった。また、宮内オーナーは、合併によって球団数が減っても何も2リーグ制にこだわることはないとして、全球団の同意を得た。しかし選手会側(会長ヤクルト古田)は猛反発し、ストライキという空前の大混乱に落ち込んだ。

 

しかし楽天のプロ野球参入があり、プロ球団数は従来通り2リーグ制で進められるようになり、宮内オーナーは、合併をつらぬき、名称をオリクス・バファローズとして、大阪の京セラドームを正式の本拠地とするようになった。宮内社長は会長を経て、シニア・チェアマンに就き、オーナーとして球団の人気を取り戻すことに注力し、フアン数は大きく増えてきた。特に女性フアン(オリ姫)

が多くなりつつあった。

 

オリックスは令和3年・令和4年、そして令和5年と、3年連続のリーグ優勝。令和4年にはヤクルトに勝ち日本一に輝いた。そのとき、神宮球場で選手とスタッフたちは、監督に続いて宮内オーナーに駆け寄り、熱い掛け声と共に、何回もオーナーの体を胴上げした。私はその様子を見て、宮内オーナーを知るものとして深く感動した。こうして、最後を飾り、宮内オーナーはこの年退任した。見事な退任の姿だと私は思っている。

 

 

阪神タイガースは20年前、平成15年の星野監督の時にも18年ぶりのリーグ優勝を

している。この時。私はすでに退任して、西宮に住んでいたので、甲子園球場で優勝戦を

見た。その時、私は西宮市のシルバー人材センターの理事長をしていたが、センターには

「猛烈トラフアン」が集まっていて、ぜひとも阪神優勝祝賀会をやってほしいという

ことになった。しかしセンターの会員には巨人フアンもいるので、どうするか少し迷った。

やるにしても参加者の会費制で会の費用は一切センターから出すわけではないので、日本

盛の2階広間を借り切って大祝勝会を主催した。大いに盛り上がり、デイリースポーツ記

者の開発さんや中田義弘元投手も駆けつけてきて、話をしてくれ、球団旗の下、「六甲おろし」を50人以上で合唱した。この時のことは強く記憶に残っている。平成17年、第一次

岡田監督の時にもリーグ優勝をしている。この頃、阪神電鉄の株価は阪神タイガースが勝つ

と上がり始めた。私は阪神株1000株だけの株主だったが「村上ファンド」が買い占めに

かかっているのが分かった。450円前後で推移していた株は一時1200円を超えるまで

になった。私は株をいつ売却するかで迷った。結局1000円を超えたところで売却した。

そして、阪神電鉄は阪急に経営統合を提案、阪急は阪神にTOB(株式公開買付)をかけた。その間、村上ファンドの村上世彰代表が証券取引法違反の疑いで取り調べを受けるに至り、「村上ファンド」は阪神への経営参加をあきらめ阪神株を全てTOBにより売却した。

こうして阪急は阪神株式の64・76%を所有することになり、阪急は阪神を完全子会社

化して経営統合を果たし、平成18年6月、社名を阪急阪神ホールディングスとした。

 

令和5年、岡田監督は2度目の阪神タイガースの指揮を取り、守り勝つ野球を唱え18年

ぶりにセ・リーグを制し優勝した。オリックスは9月20日、ロッテ戦を制し3年連続のパ

リーグ優勝を遂げた。そして、関西ダービー・関西シリーズ・(阪神)なんば線シリーズなどと呼ばれている、タイガースとバファローズの日本一決定戦がいよいよ開幕した。

 

今年10月28日第1戦、私はテレビの前に釘づけになった。8対0阪神の勝。(シリーズは阪神が勝ちそうだ)、第2戦、8対0オリクスの勝(凄い、勝負はわからん)第3戦、5対4オリックスの勝(流れはオリックスに傾いた)第4戦、4対3阪神の勝(甲子園の歓声の勝利)第5戦、6対2阪神の勝(森下が逆転打を打った)第6戦、5対1オリックスの勝(村上投手アカン、阪神危ない、山本投手意地の投球)第7戦、7対1阪神の優勝(お疲れさまでした)兎に角、どちらが勝ってもおかしくない、大決戦だった。

 

私が92歳まで生きて来た人生の記憶の中に、阪神・オリックス、またタイガース・バファローズの色々な出来事が、実に深く鮮明に残っている。思えば、私が人生の中で影響を実に深く受けた二つの会社であり球団であつた。それだけに阪神・オリックスの関西ダービーを、連日テレビで見られたことは。本当に貴重な機会であった。

 

プロ野球関西ダービーは、阪神と南海が対戦した昭和39年以来59年ぶりで、こんな機会

はもうないのではないかと言われている。しかし、阪神の岡田監督は「アレ」(優勝する)に次ぐ言葉として、佐藤輝の提案した「アレンパ」(優勝を連覇する)を考えているらしい。オリックスの中嶋監督も来年も絶対日本シリーズに出ると言っている。

 

私も、先の短い人生だ。ぜひとも来年こそは、もう一度、阪神とオリックスが関西ダービーを激しく戦うのを見せてほしいと強く切望している。

(令和5年11月28日)



     夙川公園の古い木造組みの滑り台



今年の4月8日の金曜日、この日も私は夙川公園にでかけた。日が傾き始めた時刻、

提防上に出ると、散る桜の花びらが身体に降りかかった。川添橋を渡ると川面に、

花筏の白い群れがゆるやかに流れていた。

 

橋を渡った右岸の堤防上の広場には、滑り台が2台あり、その先にブランコ、シー

ソー、うんてい、やま型のぶら下がり、ジャングルジムなどがある。滑り台の一つは

古い木造の組み立てで、鉄の手すりが垂直な面についていて、滑り口へはそれを

登ることになっているが、もう一つの面に丸く突き出た木組みの梯子もあり、そちら

を登っている子供たちも多い。私はいつものように、滑り台の垂直面の手すりの

前に立って、両手を上にあげる、そして一番上部の手すりに少し飛びついて、

ぶら下がるのである。そして「1・2・3・4・5……」と呪文のようにつぶやく。

つぶやきが50を超えると、一旦手を放し、今度は下部の手すりをもって両足を横に

広げ、左右の膝を交互に曲げる。そしてまた、上部の手すりに飛びついてぶら下がる。

これを繰り返して終る。そしてその後、公園周辺のウオーキング約50分にでかけ

るのが、いつものコースである。

 

このとき私は、「この滑り台の手すりにぶら下がりを始めてから、ちょうど1年に

なる。最初に始めたのは、あのコロナが猛列に拡がった頃、コロナではなかったが

妻が救急入院をしたときだったなぁー」と1年前を思い返していた。

 

1年前の4月13日、妻の糖尿病が悪化して、足の疾患と相まって倒れ、夙川河口

の右岸にある回生病院に救急車で運ばれた。私も一緒だった。コロナのため陰圧室で

PCR検査のあと陰性と分かり、やっと妻を病室に送り込み手続きを終えて帰り道、

夙川公園を歩きながら考えた「妻が入院を続けることになっても、私が『ピンピン』

している限り、私が90歳を越えても、妻の入院費用の支払いや、介護の手続きなど

はできる。しかし、私が倒れたら、どうなる……。何が何でも私は健康であり続け

なければならない」

 

木造の滑り台のところまで来たとき、私はふと自然に手を伸ばし、手すりに

ぶら下がって見た。背筋がスーッと伸びて、いつも感じている腰の痛みが少し楽に

なったように感じた。そしてむかし「ぶら下がり健康法」というのが一時、流行した

ことがあるのを思い出した。背筋を伸ばすことには間違いなさそうだ。「よしこれから

ぶら下がってみよう」その日は雨が降ってきて傘がなかったので、それで帰ったが、

翌日から、ウオーキングにでかける始めに、準備運動のようなつもりで必ず毎日、

ぶら下がりと足の屈伸をするようになった。5月の天気の良い日は夙川に渡され

た鯉のぼりを眺め、声を出して数を唱えた。6月の雨のときには傘を滑り台の上に

かざしてぶら下がった。7月はTシャツ半パンで軽やかにぶら下がった。

 

7月5日、妻は歩行器で歩けるまでに回復してきていたがまだ、リハビリと足の傷の

治療が必要となり、回生病院系列の尼崎の大原病院に転院した。私の一人生活は長期

化することになると思った。コロナで入院中は会えなかったが転院のときは妻と会えた。

足は確かにまだ「ヨタヘロ」だったが、年齢85歳のわりに「眼」や「歯」はおとろ

えていないし、「耳」もよく聞こえるようだった。そして、「案外私より長生きするか

もしれない」と思った。むしろ、私の方は見た目には元気で「ピンピン」のように見え

るが、急に「ドサリ」と倒れ「コロリ」と死んでしまう可能性は高いかもしれない。

私が妻より長生きして妻の面倒を見るためにも、毎日のウオーキングとぶら下がり

は欠かせないと改めて思った。

 

8月、ぶら下がる腕に蚊が差すのか、かゆくなるので防虫スプレーを腕や首筋に吹

き付けてからぶら下がった。9月、公園近くの子供たちが、滑り台の木組みの上に

たむろしているときがあった。子供達にはもう一つの、支柱も階段も手すりも金属

で固めた滑り台よりも古い木組みの滑り台の方に人気があった。私が手すりに、

ぶら下がると、「キャー、じいさんがきた」と声をあげた。幼稚園児か小学校の初年

級かの年頃の男の子3人が「じいさん、じいさん」と騒ぎ立てる。それでもかまわず

ぶら下がっていると、台の上から私の顔をさわりにきたり、「バンバン」と指でピス

トルを撃つ格好をして「ここはおいらの秘密基地だ」「じいさん、おうちにお帰り

なさい」などという。それでも、私が滑り台を離れるときは「バイバイ」と台の上から

一生懸命に手を振ってくれた。10月、毎日のように木組みの滑り台に集まる子供

たちを見ていると、午後1時から午後4時ぐらいの間はなぜか女の子の方が多いこと

に気がついた。私が手すりにぶら下がりにゆくと、女の子の方はたいへん友好的である。

胸につけているひらがなの名札を私に見せて、名前を名のる子供がいた。一人が名乗

ると他の子も次々に名前を名乗ってくる。私も名乗るのが筋だが、この場合はなんだ

かてれくさく、「よろしくね」とだけ声をだしていた。この女の子たちより少し年上の

女の子のグループがいて、私がぶら下がっているときも無視して、横の木組みの梯子を

パッパッパと登り、滑り口の上の手すりで身体を一回転してから滑る動作をリーダー

らしい子がして、あとに続く3人が、同じ動作をして次々滑り降りてゆくということも

あった。私は先頭の女の子のリーダーぶりに感心してぶら下がりを続けていた。

 

11月、大原病院がワクチン2回接種済み者に限って、マスクとシールドをして、15

分間入院患者との面会をしてもよいことを決めた。27日土曜日、病室で妻と面会した。

身体の姿勢が良くなって、元気に見えたがコロナの状況下での入院のためか、認知症状

が出て、物忘れがひどくなり話がかみ合わなくなっていた。それでも私が持っていった

ウエハースを美味しそうに食べた。残りのウエハースは机の上に残して病室を出たが、

たちまち看護師に見つかって、「糖尿病のため食事管理をしています。食べ物は一切

持ち込まないでください」と、厳重に注意され、突きかえされた。

 

12月、ぶら下がる鉄の手すりが冷たくなり、手袋をしたまま、手すりに飛びつくことに

した。病院での妻との面会は予約しなければならない。回数にも制限があるが、12月は

3回だった。妻は体調が良くなってくると閉じ込められていることが不満なのか、イラつき

を見せることも多くなった。1月、オミクロン株の感染が増え、病院は再び入院患者との

直接の面会は中止とした。滑り台には厚着してぶら下がるので、腕が痛くなった。2月、

北風の吹く中でも、ぶら下がりを繰り返すと、少し体が温かくなる。あとのウオーキング

でも寒いときは、速足で歩くと下着に汗がにじんでくる。19日土曜日午前、大原病院の

院長で主治医の先生に会って、妻の状況を聞く。一時妻は言葉を充分に話せなくなったら

しい。「脳梗塞かとCT検査をしたが、今は正常に戻っている。足の疾患と腰の褥瘡

(じょくそう)は少しずつ良くなりつつあるが、もうしばらく治療を要する。そして少し

認知症状が出てきている」とのことだった。妻の症状の治療はまだ続く、私は5歳年下

の妻より絶対長生きしなければならないと、改めて思った。

 

3月、少し日が長くなったので、昼過ぎ遅くから、公園でぶら下がることが多くなった。

夕食弁当の宅配を月曜から金曜までとっているので、それが届く午後2時半から3時まで

の間は家にいることが必要なためでもある。妻の介護保険「要介護4」の期限が4月末

までだったので、更新手続きを市の高齢介護課に申し込む。病院の入院では実際に介護保

険を利用できない。入院が長期化する場合は、介護保険が利用できる高齢者施設で、しかも

治療が受けられるところを選ばないと、費用負担に相当の違いが出てくる。私は西宮市内

の特別養護老人ホーム(特養)3か所と西宮浜の介護老人保健施設(老健)への妻の入所

申し込み手続きをすることを決めた。特養は介護保険で費用負担が少なくなるので申し

込みが多く、入所順番待ちがそれぞれ100人以上といわれる。老健は短期間(6か月)

の入所となる。私はそれらへの妻の入所の期待を込めて気長に毎日、木組みの滑り台に

向かい、ぶら下がりを続ける決意を新たにした。

 

私のぶら下がり1年間の経過をたどったあとは、今年の4月8日の金曜日、日が傾き始めた

時刻に話は戻るが、この日、ぶら下がりのあと夙川公園を南に下り、海岸に沿った道を芦屋市

との境界周辺までウオーキングして臨港線を通って夙川公園の東200㍍のところにある我が

家のマンションまで帰ってきた。ドアの前に立ってカギをあけようとしたが、そこでズボンの

ポケットに入れていたカギがないのに気づいた。自分の家に入れない。ポケットすべて裏返

して調べて、ハンカチ・財布・手袋は出てきたが、カギはない。インターホンで「おーい、あけ

てくれ」と叫ぶところだが、それもできない。一人暮らしの悲哀である。日が暮れて、マンシ

ョンの管理人室の灯は消え、通いの管理人は帰ってしまっている。私はぶら下がりのときに手

袋を使ったのを思い出した。手袋をポケットからだしたときにカギを落としたかもしれない。

私は再び夜の夙川公園の木組みの滑り台に駆けつけて、遠くの街灯の光を頼りに、滑り台の

下の地面にはいつくばって探した。「ない」。今夜は家には入れない。公園のベンチで寝るか、

いやそれでは、夜の風は寒すぎる。駅前の交番にいって、お巡りさんにわけを話し、留置場

に泊めてもらうか。「どうしょう」私は滑り台の丸い木組みの梯子をつかんで問いかけた。

木組みの梯子は、手に温かく「落ち着け」といっているように感じた。「何か食べないと」

「そうだ、背中のリックにはスープのカップが入っている。あれは臨港線を通ったとき、

セブンイレブンに立ち寄って買った。あそこでカギを落としたかもしれない」私は直ぐに暗い

公園を通り抜け。臨港線のテニスコートの横にあるセブンイレブンまで駆けつけた。

 

「カギ落ちていませんでしたか。マンションのカギです」店の人もカウンター周辺を探して

くれたが、見当たらない。「トイレへいかれましたか」そういえば確かにトイレにいった。

しかし、トイレには誰かが入っていて、直ぐには調べられない。私はもう一度カウンターの下

をよく見た。下の隙間からカギにつけていたリボンが見えた。カギは下の隙間に入り込んで

いたのだった。財布の出し入れのときに落としたのに間違いなかった。

 

店の人に見つけたことを告げて、すぐに夜の夙川公園を引き返し、再び木組みの滑り台の前に

立った。「あったよ」誰も周りにいない夜の木組みの滑り台に向かって声をかけた。木組みの

梯子をつかむと、木の温かさが伝わってきて「よかった」といってくれているようだった。

「明日からもぶら下がりを続けて、長生きしろよ」ともいってくれているようにも思えた。

「お前もなぁ。お前、だいぶあちこち木の部分がすり減って、ガタがきているからな。市の

公園緑地課の連中にお前が解体撤去されてしまったら、私はぶら下がりができなくなり、落ち

込んで悲しむことになる。何が何でもここにずっとおって頑張ってくれ」私も思いをつぶやいて

いた。


(2022年5月7日)


 


宝塚のリスト・フェレンツ

~巡礼の年、魂の彷徨~

 

今年も5月に、義妹(妻の妹)から電話がかかってきた。

「今年の大和証券招待の宝塚歌劇公演は6月18日にあるそうです。もし、そちらでも招

待券が入るようなら、当日車で迎えに行きますが……」

 

私の方には大和証券からのそんな話は全然入ってこない。担当者も変わったところだし、

大口の客でもないから、私には黙っていたら、絶対に招待券などこないだろう。厚かましい

と思ったが、大和証券の担当者に電話で、駄目でも仕方がないと思って招待を請求して

みると「そんな招待公演があるということは、全く知りませんでした。担当部署に問い

合わせてみます」という返事があった。

 

ネットで調べてみると、招待公演は15時30分から、花組の公演で「巡礼の年~

リスト・フェレンツ、魂の彷徨~」作・演出/生田大和とあった。もう一つは宝塚特有の

ショウと踊りである。私は19世紀初頭、大人気のピアニストでロマン派音楽の作曲家と

して活躍したリスト・フェレンツを題材にしたミュージカルというのに、興味を感じた。

最近の宝塚歌劇の演出家たちは、面白いミユージカルの題材を、見つけ出してくるのが、

実に巧妙であると、私は思っている。昨年の月組ロマントラジック楠正行「桜嵐記」にしろ、

一昨年の宙組の仙台藩遺欧使節団「イスパニアのサムライ」でも、史実の中から興味深い

物語を上手く掘り起こしてきて面白く見せている。今回のリスト・フェレンツは1830年

代以後のヨーロッパが舞台で「ピアノの魔術師」と称された彼が、圧倒的な人気で迎えられた

フランスのパリから物語が始まり、その後、彼はヨーロッパ各地を彷徨し、「巡礼の年」

というピアノ独奏曲を集めた作品集を作り上げるらしいのである。

 

私は今回のミユージカルの役割表をネットで見たとき、当時のパリで活躍していた有名人

の名前が並んでいて驚いた。まず、リストの運命の恋人、マリー・ダグー伯爵夫人。

当時のパリ社交界で三本の指に入ると謳われた美貌の貴族夫人、執筆活動もしていた。

これは女役トップスター星風まどかが演じる。そして音楽家のフレデリック・ショパン。

彼は友人としてライバルとしてもリストに大きな影響を与えた。演じるのは水美舞斗である。

当時のパリで、その名をはせた作家であり女権拡張運動家で男装の麗人、ジョルジュ・サンド。

永久輝せあ が演じるが、ショパンの恋人だった彼女がリストとどのように関わるのか。

そして、『レ・ミゼラブル』の著者、文豪ヴィクトル・ユーゴー。ロマン派の詩人でもあり

政治家でもあった彼が舞台で何を演じるのか、出演は専科の高翔みず希。

 

そして、主人公リスト・フェレンツ役を演じるのは、花組トップスター柚香光(ゆずかれい)。

舞台でピアノの名手を演じる以上、ピアノを実際立派に弾かなくてはならないだろう。彼女

は宝塚歌劇団に入団前からピアノとバレーは習得していたといわれている。演出を担当した

生田大和さんは「柚香光が主演ということで、ピアニスト役を演じてもらおうというところ

から構想を深めていった。柚香の存在にインスパイアされて、主人公をリストに定めたとも

いえる」といっている。

 

私は柚香がリスト役で弾くピアノ、宝塚のリスト・フェレンツとして、実際舞台でどう

曲を弾きこなすのか、これはこの公演の大きな注目ポイントだと思った。そしてもう一つ

のポイントはジョルジュ・サンドや、ヴィクトル・ユーゴーが活躍した、19世紀の芸術

家たちのパリでの時代の空気が、いかにこの舞台に表現されているかだと、私は期待も込めて

強く思った。「この公演には注目ポイントが色々あってぜひ見てみたい」と思いはじめていた

矢先、大和証券からA席(SS席・S席・A席・B席のランクがある)の招待券が送られて

きた。

 

6月18日、15時30分。宝塚大劇場の開演のベルが鳴り終わると、静かにストーリー

を語る声が聞こえた。

 

「1832年、パリ。フランスは革命という動乱の時代を経てもなお、権力を握り続ける

貴族と、台頭著しいブルジョワジーによって牛耳られていた。毎夜開かれるサロンでは、

享楽と所有欲に溺れる貴族がお抱えの芸術家たちに腕前を披露させ、芸術家たちは己の

技と魅力で名をあげるべくしのぎを削っていた」

 

第一幕・そのパリの屋根の下、女流作家ジヨルジュ・サンドの屋根裏部屋、愛の場面。

 

恋人のサンドと一緒に住むリストは、憂い顔でピアノに向かい、「ジュテーム」と歌いはじめ、

弾き語りを少し行う。今宵はル・ヴァイエ侯爵夫人のサロンで貴族たちのためにピアノの演

奏をしなければならない。しかしいつかは自分の音楽でのし上がり、貴族らを見返して

やりたいとの強い野心をリストは持ち、サンドもその野心を理解していた。私は第一幕に

サンドの屋根裏部屋が出てきたことからリストを取り巻く多くの女性たちのうち、今回の

演出では永久輝せあ が演じるサンドの役柄が中心になって、物語を進行させていこう

としていることが、強く感じられた。

 

第2幕・パリの夜、ル・ヴァイエ侯爵夫人のサロン。

 

このサロンではフレデリック・ショパンが華麗な演奏を披露していた。次いでリストが

登場すると、貴婦人達の間から歓呼の声が上がる。熱い視線が注がれる中、リストの起絶

的な技巧を駆使したピアノ演奏が繰り広げられた。リストの類まれな美貌と相まって、彼

のピアノ演奏は今やパリ中の話題の的となっていた。私は舞台で、水美舞斗のショパンと

柚香光のリストの超絶技巧といわれていたピアノ演奏がどう行われるのか、注目していた。

「ピアノ だんじり」と呼ばれる高い台の上にピアノが置かれ、ピンクのライトにミラー

ボールの華麗な照明の下で演奏されていた。そして、水美も柚香も確かに直接ピアノを立

派に弾いていた。しかし、すぐにオーケストラの大音声の音楽に合流してしまい。ピアノ演

奏をじっくり聞けるという状況ではなかったのは残念であった。また当時のピアノ曲として

「愛の夢第3番」「華麗なる円舞曲」「子犬のワルツ」などが演奏されていたはずであるが、

特に曲目の紹介もなく、私も曲目まではよく分からなかった。本格的なピアノの演奏会では

なく、歌劇の一場面だといえばそれまでだが、トップスターがリストを演じ、2番手スター

がショパンを演じる舞台である以上、もう少し長く直接のピアノ演奏を続けてほしかった、

と私は思った。

 

第3幕から第10幕までは、社交界の華、才色兼備のマリー・ダグー伯爵夫人との出会いと、二人でパリを出奔して魂の彷徨、巡礼の日々が綴られる。

 

リストの友人であり、ライバルのショパンは、人気が高まるにつれて本来の自分を失ってゆくリストを案じていた。ショパンはリストにダニエル・ステルンというペンネームで書かれた批評記事を見せる。それはリストを礼賛するものでなく、本来向き合うべき音楽の本質が書かれていた。リストは批判記事を書いたのはマリー・ダグー伯爵夫人だと分かると、すぐさま伯爵夫人のもとを訪れる。

 

社交界の花形ともてはやされていたマリーだが実際は、窮屈な貴族としての存在意義に疑問を持ち、夫のダグー伯爵との仲も冷え切っており、男性名で文筆活動をしていた。そして、ハンガリーの平民出身というコンプレックスがあり貴族でなかったために音楽院に入れない過去の挫折があったリストとの中に、同じ苦しみを見出したのだった。魂の根底で、理解し合える女性と巡り会えたと喜びに打ち震えるリストはマリーの手を取って出奔する。

 

万年雪を頂くマッターホルンを望むスイスのジュネーブの森の山荘で、ようやく二人は自分を取り戻し解放感に浸っていた。そんな時、パリから芸術家たちが押しかけて来た。彼らはリストを心配し様子を見に来たのだが、芸術家たちの顔ぶれは、今でもよく知られている錚々たる連中である。ヴィクトル・ユーゴー(高翔みず希)をはじめとして、近代批評の父と呼ばれるサント・ヴーヴ(和海しょう)。『人間喜劇』を構想しサマセットモームに天才と言わしめたバルザック(芹尚英)。あの有名な絵画「民衆を導く女神」を描いた

ドラクロワ(侑輝大弥)。オペラ作曲家ロッシーニ(一之瀬航季)。『幻想交響曲』のベルリオーズ(希波らいと)。別の場面では詩人ラマルティーヌ(峰果 とわ)など。この時代のパリでは有力な芸術家たちが、サロンに集まって芸術はどうあるべきかなどを議論していたのである。私はこれだけ歴史的にも有名な芸術家を集め、それを演じるベテランのスターが参加している舞台が、芸術家についての紹介も説明もなく、終わってしまったことは大変残念に思えた。紹介役を作って役柄を紹介するか、「自己紹介ソング」をそれぞれに歌わせるかなど、工夫をしてほしかったと思った。

 

ジョルジュ・サンドはリストにパリに戻ってもう一度だけ演奏してほしいと頼む。リスト不在のパリでは、ラブリュナレド伯爵夫人の後ろ盾を得たタールベルクが最高のピアニストと称賛されるようになっていて、サンドはそれが我慢ならなかった。マリーは反対したがリストは最後に一度だけだと再びパリの地を踏む。

 

第11幕から第15幕までは、パリに戻ったリストに、世界中から出演依頼が舞い込む。マリーはパリの新聞社で記事を書く仕事をしながら、共和主義運動に身を投じてゆく。二人の間に亀裂が生じ、マリーはもはやかつての二人に戻れないと悟る。そして1848年「諸国民の春」と呼ばれる革命が起こる。

 

リストはタールベルクとのピアノの戦いの中では、かつての超絶技巧ではなく、巡礼の日々に作曲した抒情的な調べを弾く。それがかつてない喝采に包まれることになり、リストを再び表舞台へと引き戻してしまう。ウイーンのチャリテイ演奏の功績が認められて、故郷のハンガリーで爵位を授かり、リストは遂に貴族という身分を得ることになる。そして、王侯貴族の待遇でヨーロッパ各国に迎えられるようになる。一方マリーが参加して、その中心になって活動している共和主義運動は、王侯貴族による政治体制を打破し、市民による立憲体制を目指すもので、革命によってリストは手に入れた爵位や富といった価値が転覆してゆく様を見せつけられる。リストはピアニストからは引退し、作曲と音楽教育に専念する。

 

第16幕・ショパンの死とリストとサンド。

 

リストにとって、常にコンプレックスを与える存在であり続けた盟友ショパンの死の場面。

1849年10月17日、39歳。

 

第17幕・1866年・修道院での再会。

 

ダニエル・ステルンに名前を変えたマリーは、修道院で僧職についているリストを訪れ再会する。リスト音楽院の19名の生徒たちが、静かに歌を歌い、このミュージカル劇は終わる。

 

私が、この劇を見て良く分かったことは、19世紀にはまだ、ヨーロッパの多くの音楽家や画家たちは貴族たちの保護下にあったのだということである。そして、この時代の芸術家たちは、そこから抜け出し納得できる作品をいかに作り出すかに心血を注いでいたことも改めて認識できた。劇を見てそのような時代の空気も感得できて、良かったと思った。

 

大和証券のA席の招待券は2枚あったが、義妹のお蔭で親類同士席を埋めることができ、無駄をすることなく済んだ。長期入院中で今回も行けなかった妻に宝塚に行ったことを電話すると、「来年は絶対に行く」といった。

 

                          (2022年6月30日)