西宮砲台は語る

西宮砲台は語る

 

六甲の山なみが連なる東北の方を、海側から眺めると、その前には円くカーブを描く甲山

の姿がある。その甲山周辺を水源として緑の濃い松林の中を夙川が流れ下って河口に白砂

の美しい浜辺を造っている。「御前が浜」と名付けられているのは、えびす境内にある広田

神社南宮社の前の浜辺という意味であった。西宮砲台はその浜辺の東の片隅に、幕末以来

という永い年月、佇みを続けている。

 

浜辺の堤防の海側沿いに遊歩道ができて、私は阪神香櫨園駅近くの家から砲台まで往復

で6000歩を歩くことにしている。梅が香の夙川右岸に漂う一日、砲台の前の海砂に

半分うずまっている御影石に、私はしばらくの憩いと腰を下ろし、砲台と向き合った。

砲台は円形筒状の石造りで、高さ12㍍・内径17㍍・壁厚Ⅰ・21㍍で、外壁は白い

漆喰仕上げで、2階の側面に11個の砲眼が開けられている。2門の大砲の筒口を砲眼

から四方に向けて放つ装備であった。今は周りを柵に囲まれているが、南側の4つの砲眼

は、私をにらみつけているように感じて、目をつぶった。かすかに聞こえる波の音に

交じって、語り声が聞こえてきた。「おや? 砲台が語っている」私は耳を澄ませた。

 

わしが何で西宮のこの場所に造られたのか、話をしよう。今から171年前の嘉永6年

(1853年)、江戸湾入口の浦賀の沖に、アメリカのペリーが率いる黒船艦隊4隻が現れ、

停泊して、日本中大騒ぎとなったことは、よく知っているだろう。しかしその翌年の安政

元年(1854年)にもロシアのプチャーチン率いる艦隊4隻が、この茅渟(ちぬ)の海

(大阪湾)に侵入してきて、近畿を中心に大騒ぎとなったことは、あまり知られていない

だろう。プチャーチンは晩年には、日本と条約を結んだなどの功績により、ロシアでは18

59年に伯爵に叙され、海軍大将・元帥に栄進し、教育大臣に任命されたほどの人物なのだが、

日本に来たのは、アメリカのペリー艦隊が浦賀に入り、開港の交渉を始めたという情報を

知ったロシア政府が、アメリカに遅れてはならないと、ブチャーチンに命じて日本との通商

交渉を始めさせようとした意図にもとづくものだった。ブチャーチンは長崎に来て開港を

求めたが、らちが明かなかったので函館にまで行って交渉をした。ちょうどそのころ、ロシア

とイギリスとの間には、クリミヤ戦争が勃発していた。日本の近海の外海でイギリスの軍艦に

遭遇すると海戦になってしまうのはよくない。ブチャーチンはイギリスの船を避けて、紀州沖

から内海の茅渟の海に入いりこんだ。安政元年(1854年)9月18日、兵庫沖から御影、

打出、鳴尾と阪神間沿岸の、デモ航海をおこなった。その後大阪天保山沖に停泊し沿岸の測量

などを行っていたが、大阪奉行から下田へ回航して幕府と交渉するように言われ大阪を離れ、

その後紆余曲折の末、通商条約成立には成功する。だが、外国軍艦の茅渟の海侵入は、浜辺を

恐怖心と好奇心に満ちた群衆でいっぱいにした。湾に面した海の城を持つ尼崎藩では沿岸の

諸村に警備を割り当て、西宮の波止場に、大砲2門を引き出して警備するなど大騒ぎが続いた。

幕府は鎖国していたから、ロシアとイギリスの戦争の事情など知らない。京都所司代は、外国

の軍隊が阪神間に上陸して京都に攻め込まれるのを恐れて、大和郡山藩に伏見街道を、亀山

藩には山崎街道を警備するように命令した。近畿の諸藩も湾岸の警備態勢を固めた。朝廷でも

7社7寺に祈祷を命じ、敵艦退散を祈願した。

 

この時、幕府はロシアとの通商条約成立よりも、外国の艦隊が日本の中心部の内海に侵入し

てきたことに脅えて心痛していた。安政3年(1856年)海防掛・勘定奉行の川路聖謨に命じ

摂津、和泉の海岸巡視をさせ、川路は台場設置を幕府に具申している。そして文久3年(18

63年)に老中の小笠原正行と軍艦奉行並(同等の地位)だった勝海舟に実地調査を行わせ、

その結果決定したのが、西宮、今津、和田岬、湊川に砲台を築造することである。なぜこの場所

を選んだのか、それは外国勢が京都の朝廷を目指して直接進入するのを防ぐためである。『尊王

攘夷』『天皇の錦の御旗』という考え方は日本の国内で流布しているだけでなく、外国でも知られ

ていた。それだけに幕府は外国勢に京都を占拠され、天皇をとりまく朝廷が外国勢に支配される

のを一番恐れていた。内海の茅渟の海から京都目指して上陸する場合、西宮から大阪までの間の

武庫川・神崎川・淀川河口は遠浅なので大きな船は近寄りにくく攻めるのは困難である。上陸する

となると水深がある神戸と西宮の間に違いない。という考えから、特に西宮と今津の海岸が選ばれ

たのじゃ。

 

文久3年4月、勝海舟は軍艦順道丸で、建設中の和田岬砲台・湊川砲台を将軍家茂に案内し,

続いて西宮・今津の砲台地を視察して長文の将軍の視察報告書を朝廷に差し出している。当時

幕府は財政難で、多額の国防費の負担は大変であったが、西宮・今津の酒屋が中心になり拠金

運動が始まって、砲台の建設費用を支援した。地盤が軟弱だったので、それを固めるために

打ち込んだ丸太は、西宮で1541本、今津で1157本とされ、切り出した石材は758個、

海上輸送で岡山の笠岡あたりの島から運んだとされている。工事は長引いて完成したのは

慶応2年(1866年)の秋だった。ようやく、わしがここに姿を現したのだ。そして、

大砲を砲台内に引き入れ、試しに空砲を打った。ところがじゃ、砲煙が内部に充満してしまい、

実用不能。使われることなく明治の時代を迎えてしまった。『実に残念無念じゃ』今でもわしは

その気持ちのまま、ここに立ち続けている。

 

明治の時代になり陸軍省がこのわし(砲台)を管轄していたが、明治40年(1907年)阪神

電鉄は香櫨園遊園開園に合わせ、香櫨園駅を開設し、御前浜を香櫨園海水浴場として開発すること

になり、同時にこのわし(砲台)も払い下げになり、阪神電鉄が買い取ったのじゃ。海水浴客が

増え始めた明治43年には、なんと、わし(砲台)の屋上に鉄柵を設け,電灯で飾りたて、納

涼台と称するビヤホールにしてしまったのじゃ。その時この周りは遊園地みたいになって、露店

も立ち並ぶようになっていた。5年間、わしが着飾った短い期間だったが一番華やかな時期だった。

 

夙川中流近くの片鉾池に、ウオーターシュートまであった香櫨園遊園は早くも。大正2年(19

13年)には廃園になり、奏楽堂(音楽堂)と博物館はそのまま、御前が浜のわし(砲台)の横に

移転してきた。博物館は「阪神館」と改めて余興場にもなっていた。奏楽堂は海辺の音楽の殿堂

として、楽団による生演奏が常時行われて有名になっていたものじゃ。大正11年(1922

年)にはこのわし(砲台)は国の史跡に指定され、「史跡西宮砲台」という標柱石をその翌年に

設置された。ところが昭和9年(1934年)9月、京阪神を襲った室戸台風は激しかった。史上

最大と言われた強風と高潮が押し寄せ、3千人以上の死傷者が出た。わし(砲台)の屋上の屋根は

吹き飛ばされた。隣のとんがり屋根の奏楽堂はたちまち崩壊してしまった。わしの屋根の修復は

その年に行われたが、奏楽堂の倒壊跡には西宮市の厚生施設「ピーチハウス(海浜休憩所)」が開設

された。そして昭和13年(1938年)六甲の山系一帯が大豪雨に見舞われた阪神大水害があって、

芦屋川・住吉川・石屋川などは大洪水となり多くの家が流されて、その死体の数体が、わし(砲台)の

前の御前が浜にも打ち上げられたことがあった。供養塔がわしの右前に建っているが、これはその

時のものじゃ。

 

海水浴場として御前が浜は盛況を続けていたが、昭和18年(1943年)には戦争の影響で閉鎖と

なった。その後、ピーチハウスは、在郷軍人の合宿訓練所に使われ、翌年には陸軍の無線特科隊兵舎

となり、付近に高射砲陣地なども出来ていたが、昭和20年(1945年)5月の空襲で狙われ、焼

失している。戦争が終わり、海水浴場が復活するのは、昭和22年(1947年)になってからじゃ。

昭和30年にかけて、夏のシーズンになると、脱衣所を兼ねた休憩所の小屋が立ち並び、水浴客の監

視塔も、わしの前に建てられた。横には飛行塔も出来て遊園地を兼ねた海水浴場としても、大変賑

わっていた時期も続いた。

 

昭和30年代に入ってわしの前の砂浜も海も埋めたてて、日本石油の石油コンビナートを誘致する

計画が進められていることが分かって、いよいよわしもお終いかと思ったことがあった。しかし西宮

の酒屋を中心に猛烈な反対運動があって、計画発表から2年で白紙撤回になったと聞いた。ところが、

昭和30年後半に入ると、浜辺の海水汚染が目立つようになり驚いたことに、わしの西隣に「マリ

ンプール」が出来て、みんなプールで泳ぎ始めた。そして、昭和40年(1965年)海水汚染が進み、

香櫨園海水浴場は甲子園海水浴場と共に遂に閉鎖されることになった。

 

昭和56年(1981年)なんと、わしの直ぐ前の海を隔てて、西宮市は人工島『西宮浜』を造り

始めた。住宅地・工業用地として平成元年(1989年)人工島は完成した。

 

平成7年(1995年)2月の阪神淡路大震災で、わしは無事だったが、人工島へ通じる大橋が壊れ、

通れなくなった。そこで、わしの前の砂浜を埋めて広い自動車道を作り、大橋の西側にある御前浜橋

(跳ね橋)と夙川オアシスロードをつなぐ計画がたてられた。この時はわしの前の砂浜の広場に、

海岸沿いの地元の人達が集まって、『白砂の御前が浜を守ろう』と、白砂の浜辺を守るために、海

岸の自動車道路に強く反対することを決めた。そのため浜辺は守られ、堤防沿いに遊歩道ができた

のじゃ。

 

その後昭和50年代になって、海の水をきれいにする取り組みが功を奏しはじめ、わし(砲台)の他に

建物はすでになく、古い昔の御前が浜らしくなった。人工島との間の海ではウィンドサーフィンを楽しむ

人が集い、浜辺には、ユリカモメ・カルガモ・オナガカモ・スズガモ・シロチドリなど多くの野鳥が飛

来する楽園へと姿を変えてきているのじゃ。

 

わしはここに建っていただけだが、周りは目まぐるしく変わっていった。わしは何にもしていない。

建っていても何の役にもたっていない。あの時建てられた4基の内、湊川砲台は早くから、取り払われ、

今津砲台も大正4年にはすでに解体され、記念碑だけが残っていると聞いている。わしもそろそろ解体

してほしいと思っているのじゃ……」

 

砲台は一気に語り終えた。私には砲台の語る話の内容が良く分かり、深く心に染みわたった。私はゆっくり

と次の言葉を返した。

「18世紀の半ばから、イギリスはインド・ビルマ・マレーシア・清国に、フランスはベトナムに、

オランダはインドネシアに、アメリカはフィリッピンに侵攻し植民地にしていった。幕府も尊王攘夷の諸藩も、

それはわかっていた。その時の『怖れ』『不安』『焦り』が形になった。それが、あなた(砲台)だ。

そして、その時の日本人の抱いた『危機感』が維新の原動力になった。

 

『今こそ、日本人はなにをなすべきか』。あなた(砲台)と向き合い、当時の情勢に思いを巡らし、戦争のない

人類の世界を構築してゆく方法を考えなければならない時だ。その原動力となる『危機感』のために、あなた

(砲台)は必要なのだ。『解体してほしい』など言ってはいけない。白砂の御前が浜の守り神としても、永遠に

そこいて欲しい」

(2024年2月29日)