日本最古の木造の今津灯台は語る

      日本最古の木造の今津灯台は語る


日本最古の現役木造灯台である西宮市の「今津灯台」が津波対策工事のため、210

余年の歴史で始めて、建っている場所の移設をおこなった。そして、南西方向に約160

㍍の対岸の新しい場所に移設を完了したのは、昨年(2023年)12月19日のことで

あった。

 

南海トラフ巨大地震が起こったら、津波が河口から川をさかのぼって押し寄せてくる恐れ

があるため、兵庫県は今津港の入口に船舶も通れる巨大な水門を作り、流れ込んでくる川、

新川と東川の水門の両方を繋いで結びつける工事を進めていた。そこで今津灯台を灯台と

して使い続けるために、水門より外側に移す必要が生じた。灯台を所有する酒造会社「大関」

は、県と対岸の海側に移設すること、を合意して、灯台の屋根と胴体はクレンで釣り上げ運搬

用の艀(はしけ)に乗せて運び、そして土台の石積みは別に運び、対岸の移設場所で組み

立てをおこなった。

 

3月中旬の晴れた日、私は移設された灯台の状態を見るため、阪神電車甲子園駅の一つ神戸

よりの駅、久寿川駅を降り、すぐ右にある広い道を南に海に向かって歩いた。私にと

って、この広い道の西側の社前町こそ、あの1945年西宮の無差別焼夷弾爆撃で焼け野原

になった私の家のあった場所なのである。私は14歳で焼け出されるまでここに住んでいた。

そして広い道を海に向かい進んだ東側が、私の生まれた家のあった巽町で、1934年、室

戸台風による異常な高潮により、その家の床上まで波が押し寄せ、強風の中、母親が3歳の私を

負ぶって、水の中を脱出したところである。当時は酒蔵の立ち並んでいた街ではあったが、

今は広い道の西側にはコーナンや上新電機などが入る大規模商業施設の建物が建っていて、

昔の面影は全くない。そして広い道は今津港の細長い湾の奥に達する。ここから湾に沿って

右の道を真っすぐに進んだ突堤の先が、今まで今津灯台のあった場所であった。灯台の新しく

移転した先に行くには湾に沿って左の広い道を進まなければならない。湾口を右に見て進み、

湾に流れ込む新川を超えると、道の先に新しい今津灯台が見えてきた。その場所は今津港に

入る湾口の東側で小高い土崖の上にあり、かつて今津砲台のあった場所の近くであった。今津

砲台は1917年に解体され、今は碑が建っているが、その碑の南側すぐに今津灯台が

建っていた。今津港へ入る湾口を見下ろせる絶好の場所であるが、すぐ北側には巨大ダムが

聳え立ち、昔とは全く違った付近の風景となっていた。灯台に近づくと、その周りを囲いで仕切

って、未だに作業員が数人で灯台の周辺整備の仕事をしており、近寄れなかったので、4月6日の

夕方に行われる「今津灯台移設後の点灯式」が終わってから、もう一度来ることにした。

 

4月18日午後。再度訪れた私は灯台の前にある大理石の四角い石に腰かけて灯台と向き合った。

やや薄曇りであったが、海風はさわやかで、他に人もなく静かだった。私は

「新しく場所を変わってどうだ」と問いかけてみた。すると、風に乗って灯台の語るのが聞こえてきた。

 

「見ての通り、わしは頑丈に石積みされた、底面3・5㍍四方、高さ1・6㍍の石の基壇の上に建って

いるのだ。そしてさらに、木造部のわしを、基壇に固定する4本の長さ2・5㍍もある石の柱に

支えられているのじゃ。

 

わしも知らなかったのじゃが。今度の移設で、この4本の石の柱の下に、さらに石の基盤が見つかった。

石柱の下にそんな基盤があることなど、誰も知らなかった。210余年前に基盤を造った者が念に念をいれて

いたことなのじゃ。今度の移転先の再設置は実は昨年中に終わる予定であったが、この石組み基盤を徹底的

に調べて、全く同じように復元するために、今年の3月まで遅れて、点灯式も4月6日までずれ込んだのじゃ。

場所が変わって、改めてわしの建っている石積みの基盤が、頑丈に造られていることが分かった。あと

少なくとも300年は保ちそうだ。これは大変なことだと思っている」

 

「今まで、幾度かの地震・台風・高潮・戦争・空襲など色々あったと思うが、みんな乗り越えて、きたのだなぁ……」

 

「そうだ。頑丈に造られた石積み基盤のおかげだ。最初にこのわしを造ったのは、文化7年(1810年)

今津の酒造家長部(現大関酒造)の当主5代目の長部長兵衛だった。ところが、その後安政5年(1858年)

に6代目の長部文次郎により建て替えられた。それ以来、雨の日も風の日も、幾度かの災害にも耐えて、港に

出入りする船の安全を見守り続けてきたのじゃ。

 

最初の頃はなぁ。燈心を油皿に乗せて使っていたので、長部家の奉公人が毎日油2合をもって通ってきた。

その頃はわしの海に向かって左側には今津の浜が、右側には西宮の浜の白砂が広がり、その後ろには

緑の松原が続いていた。そして時には、漁師たちがそろって、地引網を引く唄ごえが、浜風に乗って

聞こえていた。

 

享保12年(1727年)頃から、西宮や今津の浜から新酒を江戸に届ける海運レース、

『新酒番船競争』で江戸に一番の到着を競い合う激しい競争の大会が始まり、浜辺は大勢の人で

大変な賑わいとなることがあった。当日の朝は、およそ十艘ほどの新酒を積んだ樽廻船(帆掛けの

木造船)が浜の沖に並ぶのじゃ。浜辺にはねじり鉢巻に褌(ふんどし)姿の水主(かこ・船員)

達が勢揃いする。時が来て船主・行司も位置について、スタートの合図とともに、参加船の船名

と船頭の名などを書き入れた切手を渡された水主たちは砂浜を全力で走り、待ち構えていた伝馬船

に飛び乗り、白波を蹴って艪をこぎ、本船へ向かい、本船で待ち受けていた船頭は切手を受け取ると、

直ちにイカリを引き揚げ、帆に風をはらませて出発し新酒番船競争が始まるのじゃ。通常の樽廻船

の運行は紀伊半島を回ると鳥羽などの海岸伝いの風待港にたち寄るのじゃが、新酒番船は一刻も

早い到着が酒屋、廻船問屋、船頭などの関係者に大きな富をもたらすため、たち寄ることなく遠く

沖合の黒潮の速い流れを目指して船を操ってゆくから危険と隣り合わせのレースとなって

しまうのじゃ。途中、黒潮にのまれ海の藻くずと消えた船は数知れないほどあったのじゃ。

江戸への到着は速ければ3〜4日。品川沖から伝馬船で酒問屋の立ち並ぶ江戸の川岸に着き、

一番の栄冠を勝ち取った船頭は「惣一番」を名乗り、市中を練り歩く。船頭はその後一年

大きな特権を与えられ、高待遇を受けることになる。そしてその結果は早飛脚で西宮・今津

の荷主や行司に知らせた。当時西宮・今津の回船問屋は6軒、大阪は8軒、樽廻船の数は

145艘にも及んだのじゃ。 

 

明治6年になって、今津に小学校ができた。そして、明治15年、わしの近くに、新校舎が

建てられた。洋風のハイカラな建物で、中央玄関の塔屋は六角堂とよばれ、斬新なデザインを

見るため、遠い所から見に来る人も多かった。そしてわしのところにも立ち寄る人が増えた。

 

大正になって、香櫨園や甲子園に海水浴場が出来、今津の浜でも小学生の水泳訓練がはじまった。

訓練の最後に遠泳があり上級の生徒が参加した。今津の浜から香櫨園の御前浜まで沖合いを

集団で泳ぐのだが、先生達が舟を出して大声で励ますなど、皆、一生懸命じゃったなぁ。

 

昭和になると、今津・西宮の港の改修が行われ、吉原製油がこの燈台の入江をへだてた東側に、

そして西側に、製鉄会社などの大きな工場が出来た。時代の流れとはいえ、こうして、白砂

青松の風景が失われてきたのは、まことに残念じやった。

 

そして、昭和9年には室戸台風が襲ってきた。瞬間最大風速60㍍以上で、満潮が重ながり、

大波が高潮となり、わしの石積みのぎりぎりまで海水が来て、今津の町にも押し寄せた。

屋根が飛ばされた多くの家の床上に潮が渦巻き、町の大半が水に漬かり、大きな舟が

町の奥まで乗り上げてきていた。

 

戦争が激しくなっていったあるとき、椰子の実の皮が入った袋を一杯積んだ艀(はしけ)

がわしの目のまえに停まった。艀から板が向かいの吉原製油側に渡され、豪州兵の捕虜達が、

板を渡り、袋を担いで製油会社に運び込んでいた。捕虜達は神戸の収容所から、

看守がついて阪神電車の久寿川駅まで来て、そこから20人ぐらいが二列に並んで歩いて、

ここで作業をしていた。この頃、日本人は本土決戦で一億玉砕を覚悟し始めていたが、

捕虜たちはすでに日本の敗戦を確信していたのか、みんな明るい表情をしていたように

見えた。

 

昭和20年8月5日の夜から6日の朝にかけての大空襲は、B―29の編隊がきっちり西宮

の海岸線から北の町外れまで、絨毯を敷くように油脂焼夷弾の火の雨を降らせていった。浜に

逃げてきた人も直撃弾を受けて倒れた人もいた。わしの近くでも焼夷弾が破裂し危ういところ

だった。夜が明けると、まだくすぶりを続ける一面の焼け野原があった。

 

戦争が終ってから海が汚れてきた。やがて盛んだった海水浴も出来なくなった。それに

輪をかけるように、昭和37年、わしの前の海を埋めて、日本石油のコンビナートを

誘致することが、西宮市議会で採決されたと聞いたときは、西宮の海の自然もこれで終わり

と絶望したものじゃ。撤回されて本当に良かった。それでも平成17年の6月7日に単独

ヨット東回り世界一周で、わしの横にある西宮新ヨットハーバーに帰って来た堀江謙一さんが

『大阪湾に入った途端、海が濁っていた』と言っていたことがあったが、あれから少しは

改善されているが、未だに安心して海水浴ができる状態ではない。わしはなぁ、ピチピチした

魚や貝が、いっぱいにいて、海水浴客が海を楽しんでいた昔のきれいな海が早く戻ってきて

ほしいのじゃ。わしは思う。真っ白な砂浜が続き、そして緑の松原を背景に、白い石壇の

上の黒いはかま板が映えて建っているわしの姿こそ、本当の日本の海岸の美しさなのじゃよ」

 

「いやー 全くその通りだ。しかし、今度移ったこの場所。近くに白砂も松林もないが……」

 

「ここはなぁ、今津港に入る湾口を見下ろす場所に当たり、灯台としては絶好の場所だが、

道沿いの南側には倉庫が建ち北側は巨大水門がそそり立って、全く海辺のおもむきが

なくなってしまっている。だからこそ、木造板張りの古い姿のわしがここに建って、

海をいく人、陸を通る人たちに昔のよき自然に満ちた海辺を思い出してもらい、今、

周りに残っている白砂松林の浜辺を守ってもらいたいのじゃ。わしはもうこれ以上、

海に向かって、防波や防潮のコンクリートの高い壁などを造ってはいけないと思っている」

 

「分かったよ。『日本の国は松の国』と昔、海岸の松原を美しい風景として歌われて

いた。松原は自然の防波・防潮・防風林としても役立っていた。これは四周を海に

囲まれた海洋国家だから当然の風景だった。そして海と人の結びつきの深い国でもあった。

コンクリートの高い壁は、そのような人と海の交流を妨げてしまうからよくないのだな。

それはそうと、移転してから灯台の光の色が変わっている。今までは緑だったが移転後は

赤に変わった。これは入港する船から見て左の灯台の光は緑、右は赤と決められている

からだが、私はこれから、この赤の光を、浜辺の自然を美しく守り保つための警告の光と

受け止めて見ることにするよ」

(2024年5月1日)