ぼけますから、よろしくお願いします

   ぼけますから、よろしくお願いします。

              

フリーの映像制作作家で映画監督でもある信友(のぶとも)直子さんは、2018年11月、初の公開作として両親の老老介護の状況をドキュメンタリー映画にした『ぼけますから、よろしくお願いします』を発表。観客動員数20万人を超える大ヒットとなり、文化庁映画賞と文化記録映画大賞を受賞した。その後コロナ禍の時を経て、母親を見送った。そして2022年3月には映画『ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえりお母さん~』を、母親の最後や葬儀の様子を加えて発表した。同年9月新潮文庫から自著『ぼけますから、よろしくお願いします』を出版した。

私は今年、10月4日西宮市民会館アミティ・ベイコムホールでこの映画が上映されるのを知って、「ぼけます」がどう描かれているのか見たいと思って、前売り券を買って鑑賞した。その後で新潮文庫から同じ題名で出版された自著も電子書籍で購入して、読んだ。

 

信友直子さんは1961年、広島県呉市の生まれである。広島大学付属高校を経て、東京大学文学部を卒業し、森永製菓に入社、広告部に配属のあと、グリコ・森永事件の取材を受けたことが契機となり、映像制作会社に転職した。2006年、休暇中インドで列車と接触して骨盤骨折し、2007年には乳がん発症、2009年、自らのがんの闘病記のドキュメンタリー『おっぱいと東京タワー~私の乳がん日記~』がニューヨークフェステバル銀賞、ギャラクシー賞奨励賞を受賞した。2010年フリー作家に転身している。

その直子さんの母信友文子さんが、アルツハイマー認知症と診断をされたのは2014年1月8日で85歳の時だった。広島県呉市で、93歳の父良則さんとの二人暮らしだった。その時、独身の直子さんは53歳、東京で映像作家として活躍中で、仕事に追われていたが、高齢の両親が心配で、毎日電話してその健康状態を確認していた。一年半ぐらい前から母親が同じ話を何回も繰り返すのでおかしいと思っていた。そして、その母が心配で年に3回は東京から呉に帰省するようになった。

直子さんは映像作家としての仕事柄、2000年頃から自ら撮影するために購入したソニーのハンデイカムビデオカメラを、持ち歩いていた。そして呉に帰省した時は、年老いた両親の日常の様子を撮影していた。この映像記録が後の映画製作に大いに役立つことになるのであるが、この時は、年老いた両親の映像を公開して、映画にすることなど全く考えてもいなかった。

 2015年正月、帰省したとき、冷蔵庫の中に、北海道の立派な昆布がいっぱい詰め込まれていたのを発見、昆布のほかにも新巻鮭一匹やホタテやいろんなものを、母が注文してしまっていた。耳の悪い父は電話を取らないので知らなかった。商品が送られてきて母は自分が注文したと認め、支払わざるを得なかった。結局悪質業者にとりこまれていて、10万円以上の多額の支払いをしていた。

 またこの年の正月から。母親は達筆で墨で書いていた年賀状を書かなくなった。「住友光月」という雅号を持ち78歳の時には「読売書法展」で特選表彰を受けるほどの習字の腕前だったのに……。このように母親の症状はどんどん悪くなっていった。直子さんは娘として両親二人だけの生活はもう限界にきていると考えた。直子さんが実家に戻って一緒に住むか、もう少し東京で仕事をするのなら、要介護認定をもらって、介護サービスを利用するか、どちらかにしなければならないと思った。しかし、両親を説得するのはそう簡単ではなかった。直子さんが呉市の家に帰る覚悟を決めて、父に「帰ってくるけん。一緒に暮らさん?」と提案するのだが、「わしがおっ母の面倒を見られるけん」といって頑として撥ねつけて、「まだ帰ってこなくてええ」と言って聞かなかった。母親が間違って腐ったものを食べて下痢をして、トイレが間に合わず、廊下を汚したのが分かった時、「二人だけで暮らしよったら危ない。介護保険をかけよるんじゃけん。ヘルパーさんに来てもらうのもええんじゃないのかね」と言ったら、父が反発して「わしにも男の美学があるんじゃ、元気なうちは人の世話にはなりとうはない。わしがおっ母の面倒をみる」母もすかさず同調して、人に来てもらうことに拒否反応を示した。

 2016年3月、今まで撮影してきた両親の映像をもとにして、フジテレビの情報番組「Mrサンデー」で『娘が撮った母の認知症』という特集を作ることが正式に決定した。直子さん自身は、テレビ番組に両親の映像を提供することなど、全然考えていなかったのだが、たまたま他の仕事でビデオカメラのテープをフジテレビの編集担当者に預けたときに、

担当者がテープに記録されていた両親の映像も見て、番組の企画会議で話をしたのがきっかけとなって、特集番組制作まで進んでしまった。特集となると直子さん自身が介護にかかわっている場面を撮るため、テレビ局のカメラマンを呉市の家に来てもらわねばならない。また認知症の相談に呉市の地域包括支援センターに、行く場面も入れることにしていた。これらのことが、老人二人住まいの信友家の介護体制に大きな変革をもたらすことになるのである。直子さんは頑固な両親に、認知症をテーマにしたテレビ番組制作公開の了解をとるため、帰省して話した。「あんたの仕事じゃけん、わしらはなんでも協力する。のう、お母さん」と父親がいってくれた。

 こうして、フジテレビのこの認知症介護の番組制作をきっかけに、母親文子さんは介護申請をして、要介護1となり、週に1回のデイサービスと家事援助ヘルパーに来てもらうようになった。そして直子さん自身もこの番組によって社会にいくつかの問題を投げかけていることが改めて気がついた。例えば高年齢者夫婦の「老老介護」問題。身内が遠距離に住んでいる「遠距離介護」問題。介護のために仕事をやめねばならない「離職介護」問題。などだった。そして「両親の今を番組にすることはかなり意義のあることだな」と深く感じるようになった。

 フジテレビの『娘の撮った母の認知症』番組が大変な評判になり、翌年も続編を放映した。そして「いっそうのこと、映画にしよう。これはだれにとっても他人事ではないのだから」と思うようになって、映画化のための撮影と映画に入れるシーンの選択を始めた。そして、実際に認知症の母が言った言葉を、そのままの「題名」として映画『ぼけますから、よろしくお願いします』が2018年11月公開された。この映画には父親が地元の会社の経理マンとして、仕事をしていた頃の写真や、認知症になる前の若くて元気な母親の映像が映し出されている。そして今まで家事を何一つもしなかった父親が、認知症になった妻を支えるため、90歳半ばの年で、懸命に洗濯板で妻の下着も洗い、時にはなれない洗濯機に取り組む姿や、時には、買い物に出かけてなじみの魚屋で魚を買い、台所で包丁をふるって調理する姿が映し出されている。この映画はこのように認知症の妻を支える夫の愛に満ちたほほえましい場面もある半面、母親の認知症によるマイナス思考が限界に達し、夫婦の言い争いする場面も撮影していた。 

 母親はヘルパーさんにも慣れてくると、暴言を吐いたり、暴れたりすることもあった。ヘルパーさんが作ってくれた食事の父親の明日の分も食べてしまうほど食欲が旺盛で、父親は自分の食べるものは自分の枕元に置いて防衛して寝るようになった。母親は朝起きるのが遅くなり、認知症が進むと朝の寝起きの時、自分の存在がわからず不安が募り、恐怖感からの激しい言葉を発するらしかった。

 映画の映像では、寝起きで混乱のあまり不安の極限に達した母親が「私はもう死にたい! 包丁持ってきてくれ ! みんなの邪魔になるけん死んじゃる!」と目を三角にして叫び続け、しばらく穏やかに諭していた日頃は温厚な父親が突然爆発して「ばかたれ! なにをぬかすんな! そがいに死にたいなら 死ね!」と怒鳴りつける場面があった。

 

この場面の映像は、俳優が演技をしているのではない。実際の老夫婦の姿をそのままに娘の直子さんが撮影して公開したドキュメンタリーである。  

私はこの場面を見ていて、私の妻が2021年4月、足の疾患と糖尿病が悪化して倒れて入院したが、コロナのため病室での閉塞状況が続き、認知症状が進行していった姿と重なり 胸を「ドキドキ」させて見ていた。妻は今、歩けなくなり「要介護4」で介護施設に入所しているが、やっと出来るようになった面接の場で「もう死ぬ」「死にたい」を連発するときがしばしばあった。妻は自分が認知症で何もできないことを自覚したとき、不安感が極限に達し、その解決として「死」を口走ることによって、自ら不安を少しでも和らげようとしているのだろうと私は考えている。私は今年の11月で満92歳になり、むしろ5歳年下の妻よりは「死」に近い。しかし私が先に死ぬと認知症で歩行困難の妻が一人施設に取り残され、何もできなくなって悲惨な状況になる。なんとしても私は直子さんの父親良則さんのように、妻を見守りながら生き抜かなければならないと、このドキュメンタリーを見て一層強く思うようになった。

 

 2018年9月30日、直子さんは父親から「おっ母の様子がおかしい」との電話を受けた。救急車を呼ぶように伝え、すぐに新幹線に乗って、救急搬送された病院に向かった。

右脳の脳梗塞だった。父親は見舞いにシルバーくるまを押して、毎日病院に通った。一時回復したかに見えたが、年末には左脳の脳梗塞をおこし、しゃべることも食べることもできなくなり、2020年6月14日、母親文子さんは病院で息を引き取った。享年91歳だった。

2022年3月公開の『ぼけますからよろしくお願いします。~おかえりお母さん~』の映画では、病院での場面と、その後の葬儀と納骨の様子。そして、文子さんが亡くなった年の11月に呉市から父親良則さんに100歳の記念品が届けられる場面を撮影した映像を映し出して終わる。

 

 信友家の一人娘で、この映画の監督・撮影をした直子さんは次のように語っている。

「人が生きて老いてゆく先には、必ず死と別れがあります。でも人生の最終章は悲しいだけではありません。お互いを思いやり、かわす笑顔もありました。今回もまた、誰もが自分のこととして感じてもらえる物語になったと思います」

 この物語は私にとってまさに自分のことそのものであった。私は直子さんが、90歳代の父と80歳代後半の母の懸命に生きてゆく姿を一人娘として、真剣に向き合って撮影し、あけすけにさらけだす「老いの修羅」に、凄絶なドキメンタリー作家魂を感じ取っていた。


                       (2023年10月28日)