2013年05月15日~17日
連載もいよいよ最終回。私のルーツの地である岩手県・花巻市への訪問と旅の帰路を紹介し、締めくくりとします(下の略地図参照)。
子供の頃、祖母は戦時中の苦労話に交え「うちの先祖は、開拓時代に岩手県から網走に入植してきたんだよ」と、よく話をしてくれました。私はオホーツク管内の網走市出身ですが、「ひいじいさん」にあたる立花万蔵が昭和の初期に、大迫(おおはさま)町から北海道に移住してきました(注:大迫町は2006年、花巻市と合併しました)。はるか昔に網走の地に渡ってきた先祖の苦労を思い、今も花巻市に残る遠い本家の家を訪ねました。
▼三陸復興国立公園の南端・気仙沼から、JR大船渡線で一ノ関に向かい、そこから東北本線に乗り換え、花巻より少し北にある石鳥谷(いしどりや)に向かいました。東北本線は東北地方の大動脈。当然、電化された複線です。ローカル線ばかり乗っていたこともあり、車窓の景色も新鮮です。
▼石鳥谷から大迫まで、バスに揺られ国道396号「遠野街道」を南下しました。沿道には遅咲きの桜が咲いています。
▼大迫の本家に到着しました。学生以来20年ぶりの訪問です。ご主人の歓迎を受けた後、地元の図書館から取り寄せてくれたという、岩手県の家系の記録を見せていただきました。それによると確かに「北海道に転籍し…」の記述があります。記録書には「転籍の由緒は不詳」と書かれています。今となっては理由を知るすべもありませんが、北海道の東の地・網走への移住は、人生を賭けた一世一代の大勝負だったことは想像に難くありません。タイムマシンがあれば万蔵じいさんにインタビューしてみたいものです。ご先祖さまが網走に渡って来なかったら、自分もこの世に生を受けなかったと思うと、なおさら理由が知りたいものです。(でも、もしタイムマシンでインタビューしたら、「大した理由なんてねぇベ。おら、なんどなく行ぎだくなっただけさぁ~」とか言われたりして…)
▼今回の旅の目的は二つ。「三陸海岸をめぐること」と「ルーツの地、花巻市を訪ねること」。両方の目的を達成し、これから札幌に向けた帰路となります。帰りは盛岡経由か、また三陸海岸をまわるか、前日まで悩みました(ぜいたくな悩みですが、これが自由なひとり旅の魅力なのです)。天気予報を参考にし、三陸地方は晴れの予想のため、また三陸海岸まわりで帰ることにしました。途中、遠野駅の直前で列車の最後尾から撮影したスナップです。なつかしいふるさとの風景です。
▼釜石から、再び三陸復興国立公園を北上しました。宮古からは三陸鉄道北リアス線に乗車。ヘッドマーク(車両先頭の丸いプレート)には、「がんばろう三陸、杉良太郎」の文字。杉良太郎さんは復興支援活動により、ヘッドマークのオーナーのひとりとなっています。
▼帰路の途中、田野畑村にある断崖絶壁の景勝地「北山崎海岸」に立ち寄りました。予報どおりの快晴。抜けるような青空と三陸海岸の深みのあるブルーが調和し、まるで絵画のような美しさ。会心の一枚が撮影できました。白波がもう少しあればパーフェクトだったかな?ずっとずっと見ていたい風景です。
▼ずっと見ていたい風景の後は「キットずっと号」に乗車。「KitKat」がスポンサーのおしゃれな列車です。5月の桜の季節にはぴったりのデザインです。NHK「あまちゃん」の舞台の久慈に向かいました。
▼久慈からJR八戸線に乗り換え、日が沈むころに本八戸に到着しました。車窓から八戸海岸の夕日を撮影できました。
八戸からは夜行フェリーで苫小牧に向かいました。帰りは2等客室(ザコ寝)。「札幌に無事に帰れそうだ」という安堵(あんど)感と「また日常の現実に戻るのか」という、ちょっと寂しい気持ちで、他の旅行客と共に大部屋で横になりました。心地よい疲労感のためか、よく眠れました。翌5月18日、やっと桜が開花した札幌に帰還し、8日間にわたる旅の幕を閉じました。
(おしまい)
■旅を終えて(後記)
いい時代になったとつくづく思います。(読まれているかは別として)こんな旅の日記を、瞬時に世界中に発信できる時代になりました。フィルムや現像代を気にせず好きなだけシャッターを切り、写真や映像を自由に記録できる時代になりました。でも、それ以上に「先が見えない不安な時代になった」という思いが年々強くなっていきます。未曽有の震災に見舞われ、「未来のエネルギー」だったはずの原発が停止し、電気が足りない時代が到来するとは誰が予想できたでしょうか。旅から戻って「旅の日記」を書いていられる、こんなささやかな幸せを、これからも大切にしたいと思います。
旅行期間は、寒くもなく暑くもなく天候に恵まれました。これだけでもじゅうぶんラッキーというものです。宿泊はフェリー2泊、宮古2泊、下船渡2泊、石鳥谷1泊の計7泊。安い旅館や民宿を利用しましたが、どこの宿も居心地がよく、親切に対応してくれました。鉄道とバスは、自分でも数えきれない回数を乗り継ぎました。
鉄道が不通の区間は路線バスを利用しました。バスは地域住民に最も根付いた交通手段です。ほとんどの路線バスには「県立病院」や「総合病院」の停留所があり、お年寄りが通院するための貴重な足となっています。お年寄りが料金の支払いに手間取っていても、バスの運転手は優しく親身に対応し、時間をロスしても怒る乗客など誰もいません。東日本大震災では物資配給にも、じっと順番待ちをして暴動や略奪は皆無であったことを世界中が称賛しましたが、その原点を垣間見た気がしました。過疎化や高齢化が進み、みなが助け合い、支え合っていかないとやっていけないという意識が強いのでしょう。
子供たちはというと、見ず知らずの私に対して、笑顔で「こんにちは」と日常的に声をかけてくれます。まるで登山者が交差する時のあいさつのようです。こちらも笑顔で「こんにちは」と返事をしない訳にはいきません。この「声かけ」は、実は防犯対策の一環という話を聞きましたが、そうであっても悪い気はしないもの。われわれ大人を上機嫌にさせてくれます。
岩手県は私のルーツの地。旅をしながら、岩手県を含む東北地方は、いずれこの国が直面するであろう少子高齢化社会の模範となる地域だと感じました。気さくで実直。そんな岩手県民のDNAを引き継いでいることを、生涯私は誇りに思います。復興はこれからが正念場となるでしょうが、今後も影ながら支援していきます。旅行の折に、あたたかく対応していただいたみなさまには、あらためて感謝いたします。ありがとうございました。
(2013年5月 立花幹彦)
※本内容は2013年に「道新スタッフブログ」に掲載したものです。2019年「道新スタッフブログ」閉鎖に伴い、ブログ管理者に了解を得て、私のWebページに移設しました。