2013年05月14日
今回は、震災で大きな被害を受けた陸前高田市を中心に、奇跡の一本松の雄姿を紹介します。いつもより写真を多く掲載し、被災地の現状を伝えたいと思います。
▼宿泊した下船渡の民宿の窓から大船渡港を撮影しました。おだやかな天気です。早朝BRT(バス高速輸送システム)に乗り込み、陸前高田を目指し民宿を後にしました。
▼途中の海岸には、松林が自生しています。北海道ではほとんど見られない最も三陸らしい風景です。
▼BRTに乗車すること1時間、陸前高田市役所前に到着。小高い山の峠のような場所です。ここで下車しました。
▼陸前高田市の仮庁舎の全景です。先日のニュースで、将来の新庁舎は安全な高台地域に再建する方針になったと報じられました。旧市街地を10メートル程度かさ上げし、もとの地域に新庁舎を建設する案も検討されましたが、住民や市職員の希望が優先されました。
▼その旧市街地に向かいます。路線バスは停車しないため、3km程の道のりを歩いていきました。津波で崩壊した建物の解体には国の復興計画に沿って補助金が支給されますが、その期限が今年3月までということで、私が訪ねた5月には、ほとんどの建物は撤去されていました。
▼がれきは数カ所に分けて集積しています。今も撤去作業が続いています。重機とダンプカーの作業音が響き渡ります。
▼すっかり更地と化した旧市街地において、一棟の民間ビルが解体されずに残っています。4年26日のNHKスペシャルでは、ビル所有者のインタビューが放送されました。「このビルを壊せば、町の記憶を思い出す手がかりが無くなってしまう。忘れないためにビルを残したい」と語っていました。
▼「忘れないよ、みんなと暮らしたこの町」。ビルの屋上には所有者の思いを記した看板が掲げられています。津波到達水位の記録と共に。
▼ビルを目印に旧市街地を歩いてみました。菜の花でしょうか?住宅の玄関タイルと思われる場所の鮮やかな黄色い花が目を引きます。普段の生活では、何も意識しない花ですが、どんな環境にも適応するその生命力と同時に、人間の無力さを感じてしまいます。
▼以前のJR陸前高田駅の跡。線路は完全に撤去され乗降ホームだけがそのまま残っています。左の丘の手前に見える建物が前述の民間ビルです。
▼駅前ロータリーの場所に残る鉄柱の台です。駅と駅前通り商店街を結ぶ、かつての最も中心地です。震災前は、「歓迎・高田松原」の看板が設置され、観光客の目印となっていました。
▼旧市街地から海側を望みました。一面が更地です。人々の暮らしがあった場所だとは、とても思えません。左上に小さく見える建物が国道45号沿いの「道の駅」。奇跡の一本松も同じ方角にあるのですが、この場所からは遠くて見えません。
▼「道の駅」を目印に、海に向かって歩いていきました。国道45号沿いには、ボランティアの人たちが植えたカラフルで鮮やかなチューリップが見ごろを迎えていました。美しい花々は、私を含め多くの人々の心を潤してくれます。ボランティアのみなさんには頭が下がります。
▼やっと奇跡の一本松が見えてきました。札幌を出発して、フェリー・鉄道・バスを乗り継ぐこと十数回、この場所にたどり着くまでに、まる3昼夜かかりました。同時に私の生涯で最も充実した3日間でもありました。
▼奇跡の一本松の全景です。今は取り除かれましたが、訪れた時は復元作業の足場のほかにワイヤでも固定されていました。かなりの自重なのでしょう。
▼一本松の左側は、かつて7万本の松が群生していた場所です。震災により1本だけが残ったことについて、5月29日付の北海道新聞朝刊に興味深い記事が掲載されました。奇跡の一本松をテーマにした「希望の木」を刊行し、「千の風になって」の作曲者でもある新井満(あらい・まん)氏のインタビュー記事です。この中で新井さんは「一本松がどうして助かったのかと自分なりに考えた結果、7万本の松は一つの家族で、一致団結して守ったので一本松が助かった、という内容の散文詩が頭に浮かびました」と語っています。この風景を目の当たりにすると、新井さんの言葉に納得する思いです。「7万本が守ってくれた奇跡の一本松」は、次はわれわれ人間の手で守っていき、どういう形であっても、ずっと残っていってほしいと思います。
▼陸前高田を出発しバスで気仙沼に向かいました。途中、国道44号の右側に巨大な漁船を発見!バスの窓から撮影しました。津波で打ち上げられた漁船が、2年間解体されずに住宅地に鎮座しています。この漁船は「第18共徳丸」といい、室蘭市のNPO法人が解体作業にあたることになりました。
▼気仙沼へ向かうバスの車窓の風景。以前の町並みはなく、住宅の基礎部分だけが残されています。がれきは撤去されても、この土地に未曽有の震災があったことを、私たちに静かに訴えかけているようです。
▼三陸復興国立公園南端のJR気仙沼駅に到着しました。気が付けば、ここはもう宮城県。
三陸復興国立公園の旅は、ここで一区切りになります。このあとJRで岩手県の内陸に入り、私の先祖の地、花巻市に向かいました。今も花巻市に残る遠い本家の家を訪ね、親睦を深めてきました。