障害・病い・マイノリティを経験した医療職が書いた本を少しづつ紹介しています。
川端は本の要約が苦手なのでもどかしい限りですが
(いったい人生をどう要約できるんだろう…)
「資料スプレッドシート」に挙げた書籍や記事もぜひ読んでみてください。
臼井 久実子編著「障害のある人の欠格条項ってなんだろう? Q&A: 資格・免許をとって働き、遊ぶには」2023年
医師・看護師免許、受験資格、公務員採用、運転免許などの「資格・免許」には、時に「障害があるから難しい」とその人を見ずに門前払いを招く欠格条項があり、学ぶ・働く・暮らす・遊ぶときに差別・偏見に基づく排除がなされてしまうことがあります。欠格条項の歴史や現状、課題、具体的な相談先や相談の方法、様々な体験について障害当事者、当事者医師・看護師・薬剤師・放射線技師・弁護士の方々が寄稿しています。執筆者の語り(動画)が公開されています。
この本の内容を川端の経験に重ねますと、国家公務員看護師だった時に障害を開示したらば施設の人事担当者から「採用の時に言ってくれれば…」と言われたこと(採用されたのかなぁ?)、看護学生時代に採用年齢を理由に病院への学校推薦や保健師養成コースを怖い顔(と感じた。初めてみる先生の表情!)で断られたこと(ほぼ同年齢の教授でした)、あと後年仕事で役立った小型船舶免許の取得に際し視力検査パスが危うかったことがありました。(これは検査でのコンタクトや眼鏡使用が認められる前の話です。)
看護師のような天職とみなされる職種に関しては、その人が向いていないと告げること自体が言葉の暴力=犠牲者非難 (victim blaming) つまり「その人の不幸を自業自得であると非難する」とみなしうる旨を医療人類学者の池田光穂先生が書いてくださっています。何が正しいかではなく、寛大であるかどうかに焦点を当てるようにしたいものです。 話し合う場での工夫や、排除を防ぐような「脱暴力のためのデザイン人類学」(中村寛先生)などを考えていければ…と思います。中動態の概念も応用してみたいです。
看護教員や看護管理者が障害のある看護学生・看護師を差別し排除したからといって「あなたは看護の教員・管理者に向いていない」ということもまた言葉の暴力になりえます。差別した者、差別された者、傍観した者、傍観を悔いている者の関係性がうまく修復できる方法を、例えば水俣の「もやい直し」から学び活かしたく思っています。
書影のみ(10冊)
あらためて ”Critical Disability Studies” や”批判的Posthuman看護”の視点で読み返したく思う書籍の例。
これら新しい障害学・看護学の潮流(思想・哲学)について、詳しくは本サイトの哲学カフェのページへお越しください。
加納佳代子著「復刻版 ケアリング・パワー それぞれの誇り」Kindle版、2022年
復刻版の発刊にあたって(一部抜粋)<Amazonのサイトより>
七一歳の私は、精神科病院の看護部長を週四日、てんかん啓発活動を担う「講談看護師」活動を週三日と、バランスの良い働き方を堪能している。そこで「講談看護師・加納塩梅」のホームページを娘に手伝ってもらい作成することにした。これまでの著作や論考、エッセイなどを掲載するために、もう一度読み返してみると、私が七一歳でコロナ渦の現場に帰り咲いてもうひと働きしはじめたように、「復刻版」として本書にももうひと働きしてもらいたいと考えた。
加納塩梅のテンカン小噺チャンネルはこちら
「医療現場で働く聞こえない人々―社会参加を阻む欠格条項」、現代書館、2006年
7種の医療職の16人の方々がその深い体験をそれぞれに語ってくださっているこの本も、ぜひ紹介したいた本です。当事者医療職にとって医師・看護師・薬剤師・臨床検査技師・言語聴覚師・精神保健福祉士の職場環境の違いは大きく、例えば医師の世界の閉鎖性は仲間を守り庇いやすい面が感じられる一方、看護師どうしのコミュニケーションでは女声の聞き取りが多くなるため高音域が苦手なタイプの難聴者には辛くなる…という語りが印象に残ります。使用している支援機器の違いも含め、複数の方の体験談が織り合わされてこそ、見えてくるものがあると感じます。
小笠原 信之・土橋 律子著「看護婦ががんになって」、日本評論社、2000
「看護婦が白衣を着て見ている患者の感情は、まだまだ生のものではありません。(中略)今、看護の学生たちに『わかったと思ったら、そこからズレがはじまる』と話しています」(p115)という言葉が、患者歴が看護師歴よりずっと長い川端には、すっと心に入ります。
疾患や障害の中で深く学んだ医療者がもっと存分に現場で活躍できるならば、それこそ本当の豊かさだと思うのですが、それが難しい現実に関し、自分も責を負う立場のひとりなんだと感じています。