はじめに
今後「まれかん」と看護を考えていく上で、管理人(川端)が重要と感じている、新しい障害学や看護学の潮流・思想・実践について、主に批判的ポストヒューマン(CPH)の視点による論文・資料を取り上げ、川端の個人的体験を絡み合せながら、ご紹介していきます。
このページでご紹介する内容は、(後半)看護学についてはNursing Inquiry 誌, 31(1), January 2024(=看護における「批判的ポストヒューマニズム」の特集号)および参照されている論文、(前半)障害学については辰己一輝先生の諸論文です。
課題意識が4つありました: (1)コロナ禍で以前にも増して疲弊している看護界において、障害の有無にかかわらず(ということは、このサイトの他のページとは別のカタチで)、全ての看護師が全ての患者さん方に向けて、今よりもっと思いやりと手間暇をかけてケアをしやすくなるような、そんな理論や哲学・実践例が、個人的に絶対必要と感じていたこと(そしてそのような理論等はこれまで「看護師」や「看護ケアの“対象”」、そしてこの地球上でこれまで「人間」としては認められてこなかった人たちを余さず含めるものであるべきこと)。(2)そもそも気候変動・環境悪化・世界的な格差の拡大は非常に気になり(不安で悲しくて…でもこの危機を経た先に何か未来がありそうで)「人新世」や「プラネタリーヘルス」と看護を論じた文献があれば一看護師としてそれらを理論立てて考え対処できるようになりたかった…ということ。(3)これまでの看護学における“障害のある看護師研究”はまだ今の看護学の枠組みを超えらておらず、障害のある看護師の存在をもっぱら単に「支援の対象」とばかり見てしまい、当事者のいる環境が創り出しうるポジティブな関係性や、逆に放置した場合の害に向けての展望や希望がないという漠然とした不満のようなものがありました。あとこれは(3)にも関連するのですが、(4)マイノリティ性をもつ看護師たち(新人看護師をも含め)がいじめられ排除される際のかなりひどい逸話を数多く知るにつけ、特定の加害者を法的に訴え罰するような言わば下流に向いた問題対処だけでなく、それよりもマイノリティ・弱い立場のメンバーの暴力的排除(それらは往々にして「安全」や「教育」を理由としてなされ(意識的にしろ、無自覚にしろ)、必ずしも周囲から見て明快ではなく(あるいは隠されており/申告できず)長い時間をかけたスローで精神的かつ霊的な暴力になりえると感じています)の要因となる環境や言説に遡って予防や削減に取り組めるような、上流を見据えた対応が必要かつ有効ではないかと考えていたことがあります。ここで「霊的な暴力」とあえて書いたのは、看護師にとって愛する仕事環境を失うというのは、単にその職や収入を失ってしまうに限らず、それまで培った日々の患者さん方との関係性やケアの環境などを含め自分の生きていく世界そのものの基礎が、失職と共になくなってしまう悲嘆につながりかねないと思うからです。そしてこれは一個人の喪失体験に留まるものではないからです。(説明が長くなってすみません…ともあれ不覚にも自分は50歳を過ぎて自分が看護師になるまで、このような世界があったことに気づけませんでした。) この(1)~(4)の課題についての一つの方向性と希望をここに先取りして書いてしまうと、Dan Goodleyらの提唱する批判的障害学(CDS)を、それが元としているCPH(主にロージ・ブライドッティの理論)と共に取り入れて、新らたに「障害のある看護師学」を立ち上げる意義があるように感じています。
さてCPHは、2023年春ころから、これを取り込んだ看護や障害学の英語文献・講演動画を個人的に興味を持って読み・視聴し、でも分かり易くご紹介するのはまだ荷が重く、まずは試行錯誤しながら各文献について、一看護師の個人的経験から出発して、ご紹介と考察を重ねていきたいと思います。これはある種の当事者研究ないしオートエスノグラフィーふうの試み、と言えるのかもしれません。既にCPHにお詳しい識者の方にあられては、ぜひ看護師へのエールとして、ここにあげた諸文献の応用をお願いできればとても嬉しいです。「まれかん」がアイコンにしている片翼の天使像は、西洋キリスト教中心主義的では…などというツッコミは無論ありです。また西洋起源のCPHにこだわらず、日本では仏教の「雑華厳浄」が「まれかん」に当てはまる、というようなほかの見方・実践ができると思います。
CPHは古典的な「ヒューマニズム」そして看護理論(s:複数形)の前提にもなっている「人間」を脱構築する思想なので、なかなかえらいことに。(どきどきわくわく)
写真は:マタタビ食堂さん (茨城県古河市)にて、ランチ後のコーヒー
1)「障害のある看護師」学のための文献:
http://kyosei.hus.osaka-u.ac.jp/wp-content/uploads/2021/03/b6165b7815a6035f0dea771c14016e24.pdf
キーワード: 批判的障害学(Critical Disability Studies)、クリップ・セオリー(Crip theory)
本サイトを読んでくださっている方とぜひその内容の全体をシェアしたく願うような文献です。管理人にとって痛いのは「さらに見逃せない点として、5)CDS は、今日の資本主義社会でますます進行する「新自由主義Neoliberalism」化の流れに対する抵抗を強く意識している。近代以後の資本主義社会(あるいはその根本原理とされる「能力主義」)に対する批判意識自体は古典的障害学にも存在していたが、CDS はそれをさらに徹底化し、「多様性diversity」を謳う今日の社会が障害者を市場へと包摂し、経済を駆動するのに都合のよい存在として「商品化commodification」してきた事実を鋭く指摘する。」(p28-29)という箇所です。本サイト「資料室」内の「英語の本」でご紹介している:Lisa M. Meeks (2020) “Disability as Diversity" , Springer, New York を手にしたとき、その事例の豊富さや引用文献の多さに感心したものの、一方で社会的な背景の分析や裏付けとなる理論・哲学の少なさに「こういう展開って何か話がうますぎるなぁ、どこか違和感があるなぁ」と感じてきました。個人的に違和感を最も感じたのは、“Disability as Diversity: A Case Studies Companion Guide”に出てくる米国で看護学校に在学する上で奨学金が必須な学生が成績不振に悩んでうつ病・自殺未遂となった事例の検討ですが、社会が必要とする看護師を社会の費用で育成する国、つまり看護学校が無料の国(北欧など)であればこのような「支援」は不要となるはずです。日本でも発達障害をもつ看護学生をめぐる状況でもっとも困難なのものの一つは、本人や教員が諦めた後に学費を出した親が諦めきれないケースだと聞きます。対象療法ばかりしていて疾患のメカニズム(とくに社会的なそれ)に気付かないもどかしさ…と書いたら伝わるでしょうか?こういうこともあって、これらの本はぜひご紹介をしたいが、訳す気にはならなかった…というのが実は正直な気持ちです。とはいえ、自分にはとうてい理論・哲学を上手に語ることが出来ず、悶々としていた時にこの論文に出会いました。ともあれ、障害のある看護師「支援」…は実は新自由主義と相性がよい側面がある、細かく見直しながら実践しなければ…と教えられます。ぬり絵の本を日本語に翻訳ながら、かえってこれが障害への差別や医療産業複合体に利する可能性、あるいは人新世の今どんな本や作品をデザインするべきか、考えさせられています。他にも大切な内容がたくさん、辰己一輝先生のこの論文にはあるのですが、それはおいおい。
さて、この論文で取り上げられているDan Goodley らが提唱する「ポストヒューマン障害学Posthuman Disability Studies」、つまり「ドゥルーズ=ガタリの哲学を経由した現代の障害学(CDS)は、もはや「近代」の枠内で障害者の実践を擁護するのではなく、「近代」というシステムそのものを問いただし」理論化している例(p38-39)について、無料で学べる資料として次の講演動画と論文を挙げます。
1ー2)McGillOSDチャンネル、2014年公開
Dan Goodley - Talk on Posthuman Disability Studies - McGill University
https://www.youtube.com/watch?v=Hl4gtwDuu9s&t=851s
「この講演は、単純かつ非常に複雑な問いを投げかけるものです。その問いでは、21世紀において人間であるとはどういうことか、そしてとりわけ大事なのは、障害がこれらの意味をどんな形で高めているのか、です。障害は、不足しているものについて我々を考えさせるよりもむしろ、いわゆる人間との関係において生産的かつ実効可能な方法を我々に考えるよう導いてくれると主張したく存じます。」(拙訳)
この冒頭の語りかけから始まるDan Goodley教授の動画ですが、この「人間」を同時に「看護師」として読みかえた問いとしてみることを川端は提案します。というのは、障害のある看護師は今の法律のもとで“合理的配慮など支援を必要とする存在になった”という既存の意味合い以上に、具体的にこれから彼女たち(彼ら)が看護界や社会とオープンに関わっていくことで見いだされてくる意味についても、きちんと理論化して述べた文献を寡聞にしてまだあまり知らないからです。患者さん方と看護師たち(と様々なもの・技術・環境など)の関係性を色々な意味でダイナミックに「橋渡し」していく(固定連絡設備である「橋」…よりも、動的でより環境依存的な「渡し船」や「川越人足」「蓮台」??)機能が見い出されていたら、看護界は障害者の法定雇用率の3倍くらい「まれかん」を公けに抱えていてもいいのではないかと思うのです(まぁ妄想かもしれませんが)。あと、これは余談ですがDan Goodley教授の主張の内容と語り口に加え、その坊主頭と自分で髪を刈るという点に川端はとても身近なものを感じています。さて、次はこの講演のベースとなった大事な論文へ参りましょう。
1ー3)Goodley, D., Lawthom, R. and Runswick, C.K. (2014)
Posthuman disability studies. Subjectivity, 7. 342 - 361.
Subjectivity誌に投稿する前の著者らによる最終原稿をこちらのURLからダウンロードできます:
https://eprints.whiterose.ac.uk/82975/
「この問いに取り組むにあたり、私たちは、自然、社会、テクノロジー、医療、バイオパワー、そして文化という絡み合ったつながりを通して、「人間(ヒューマン)」がブライドッティの言うポスト・ヒューマンな状態に取って代わられ、時代遅れの現象となっている可能性の程度を考えてみたい。そして、政治的カテゴリー、アイデンティティ、関係性倫理の一場面(a moment of relational ethics.)として障害を取り上げたい。批評的障害学(CDS)は、ポスト・ヒューマンと完全に相容れる、と我々は主張する。なぜなら、誰が人間であるかを意味づける伝統的・古典的ヒューマニズムの概念に対し障害は挑み続けてきたからである。障害はポスト・ヒューマンに対する批判的な分析を促すものでもある。」(概要より抜粋して和訳)
この引用文でも「人間」を「ナース」に置き換え、“誰が看護師であるかを定める伝統的な「近代看護」に様々なマイノリティ・ナースは静かに疑問を投げかけている”というように原著の上へ重ねて読むことが可能だと思います。そして「支援の対象」としてだけでなく、「政治的カテゴリー」、「アイデンティティ」、「関係性倫理の一場面」としてまれかんを取り上げてみたいのです。「関係性倫理の一場面」という言葉は判りにくいかもしれませんが、五体満足な看護師に比べ様々にその時々に良好な関係性・倫理感がなければ看護ケアがしにくくそもそも生き残りにくい「まれかん」たちは、炭鉱のカナリア、もとい21世紀の看護界における歩哨(sentinel, lookout person ,scout)として機能しているはずです。例えばASD者の場合、もともとある感覚過敏に加え、社会性の困難からアンテナの感度をあげざるをえない側面があるように個人的には考えています。あと、空気が読めない、あるいは公正感が強くてあえて空気を読まないがゆえに、長い目でみて皆が不都合な状況に果敢に声をあげられるかもしれません。(気候危機に対してグレタ・トゥーンベリの果たした役割に敬意を表しつつ、こう考えています。)
さてさて、ここまでの流れ、おおよそ共感して頂けたでしょうか?整理するために表1にまとめてみました。まとめてしまうと肝心な点を見落としかねず本当はよくないとは思うのですが、長く快適に住む家を建てるべく、まずは足場の組み方を模索している所と寛大に見て頂ければ幸いです。
(表1が表示されないばあいは、こちらをクリックしてください)
以上、
1)「障害のある看護師」学のための文献ご紹介、でした。
このあとは、いったん障害者学を離れ、看護学の論文で批判的ポストヒューマン(CPH)の視点から述べてくれている文献を見ていきたいと思います。
2)人新世の”看護”を考えるための文献:
批判的ポストヒューマンの看護文献
2ー1)Dillard-Wright, Jessica, Walsh, Jane Hopkins, Brown, Brandon Blaine
We Have Never Been Nurses:
Nursing in the Anthropocene, Undoing the Capitalocene
Advances in Nursing Science 43(2):p 132-146, April/June 2020. | DOI: 10.1097/ANS.0000000000000313
「看護師であったことはなかった私たち:
人新世における看護、資本新世を解きほぐそう」(拙訳)
(下記URLとリンクは同誌同記事のページです。関東の大学図書館に所蔵はないようですね)
概要和訳)この青白い点(pale blue dot)に住む看護師として、差し迫る気候危機により、私たちが人間として、また人間でないとしても、地球上での生存を確保したいと願うならば、私たちの世界やコミュニティと今までとは違った関わりをすることが求められています。看護理論の次の50年を想像しながら、筆者らはこの学問分野のポストヒューマン批判を進めていきます。本稿では、看護のポストヒューマニズム批評を展開します。筆者らは、看護師がこの荒廃しつつある星の上で、私たちの今と未来を形作りつつある様々な現実に対してこれらに批判的に関わるよう求めるとともに、世界の全てと関わって分析のためのポストヒューマン的なツールを組み立てながら、人間の優位性を脱中心化するよう促したいと思います。
キーワード:人新世、反人種差別、資本新世、気候正義、解放論的看護(Emancipatory Nursing)、ネクロポリティックス、新自由主義、ニューマテリアリズム(新唯物論)、ポストコロニアリズム、ポストヒューマニズム
本論文紹介の動機=川端の体験から(長くなってすみません):受け持った認知症の患者さんに看護学科の老年看護とその実習で教わった全人格的なケアを心がけると、先輩方から「認知症の診断の下っている患者さんにそんな丁寧に接してどうするの?」と“愛あるご指導”をいただくことがしばしばあり大いに戸惑いました。たしかに今は時間と効率に追われ質の高いケアはしにくい空気があるのですが。その患者さんや面会の方からは暖かいお言葉・評価を受けてはいましたが、またHDS-Rが前年比より改善した事もありましたが、自分のケアには不満でした。私の二人の祖母は晩年認知症で、特養で恵まれたケアを受けていました。自分が看護師になってからは、勤務先以外にも様々な学びの機会を頂いて、例えば被爆者で認知症の高齢者の方、ハンセン病療養者で認知症の高齢者の方、加えて女性・性的マイノリティー・疾患・国内外の出身地や言語による困難さ等がときに幾重にも重なっている、いわゆるインタセクショナリティーを伴った患者さんやスタッフの方、当事者の方から多くを教わることになります。また当事者の一人として自閉症の国際学会に出てみれば、米国の擁護団体の方が「第三世界では自閉症の診断をする意味がない。診断がおりても公的支援がないから。何とかしましょう」と語る場に接します。さらに言えば、我々“先進国”の医療全体のマテリアル・フットプリントを考えると、今の日本では“ふつうに看護をする”だけで(目の前の患者さんのケアと安全配慮をするだけで)環境悪化は進み、第三世界の人々や未来の世代を始め、この地球があらゆる生命にとって生きづらくなる現実があります。気候変動を考えるだけでも、私たちはそもそも大気のケアをしなければ!病院の温暖化ガス削減や気候不安症に取り組む看護師グループはあるものの、まだまだ課題は山積みでしょう。障害があろうとなかろうと、私たちは誰かにとって「危険な看護師」だった…←障害に関連して「あなたは患者さんを危険にさらす」と言われたものでしたが。(後述)
そんな中で 「人間」とは「看護師」とは「他者」とは果たして何か?どういう時に(大気も含め)「ヒューマン」は今ある所の「ヒューマニズム」からどんなふうに排除されてしまうのか、強く意識するようになりました。
あと、2010年代に看護管理者や看護教員・看護師就労相談員の方々が往々にして「私は障害者は差別しないが、障害のある看護師は患者に危険で(or役に立たずor コミュニケーションが出来ず etc.)看護師に向いていないから今すぐ辞めてもらう」のように異口同音に言う現象とその矛盾を不思議に思っていました。さらには「何でお前のような奴が看護師になったんだ。この施設の看護師を辞めてもらうが紹介状なんかは書かない。看護の世界に戻ってくるな。」みたいに(怖い顔で)当事者看護師に言った看護管理者(上司)も知っています。あるいは「男性看護師は役に立たないから2倍働け」という先輩も。これらの諸発言は、今の日本の看護界にある諸言説をそのとき浮かんだ順に並べただけ、と当時は考えていたのですが、後でご紹介する「ウィトルウィアン・ナース」の論文により、もっと精緻に分析が可能なはずです。(ぜひ論文和訳をご覧ください)それにしても「お前のような奴が看護師に…」という想定の中身って何なんでしょう。怪我や病気で障害が残るようになった看護師で、上司や仲間から惜しまれ・同情されながら離職するケース・逸話もある訳ですが…それにしても。さてさて、このようなネガティブな看護師の発言について、その時々の個別の事情はむろん説明しきれないと思うものの、今の日本の看護界特有のある種普遍的な状況が、これらの現象には出ていたように私は感じ、そしてこの状況をうまく説明しうる思想や理論、その論文を読みたく思っていて、そうして出逢った看護文献のひとつがこの英語の(同じ著者グループ:compost collaborative による一連のうちの)論文でした。今の看護界があまり意識せずに持っている健常者中心主義(定型発達中心主義を含む?)のあらわれが、前記の「ほにゃらら~辞めなさい」「お前のような奴」なのかもしれませんね。(時に先方が録音しながらそういう事を堂々と言うのがつくづく不思議でした。)
本論文のタイトルは、科学哲学者ブルーノ・ラトゥールが提唱し本の題名にもなっている「We Have Never Been Modern 」(= 我々は今だかつて近代であった事はなかった」(邦訳書名:『虚構の「近代」』)からとられています。むろん「近代看護」の実践が虚構だった訳ではありませんが、「近代看護」とは果たして成立しえたものなのか、生産性や効率に追われて本来の看護ケアは出来ていないのではないか(それができる未来とは!)、近代以前はどうあって、今はどうで、これからどこへどう向かうべきなのかを問う筆者らの論文の一つです。(後日もっと上手に要約しながらこの記事をご紹介したいと思います)ともあれ、私自身読んでいて罪悪感を感じること非常に多い身です。化学企業出身だし、幼稚園児の頃は旧植民地の名誉白人みたいな存在でしたし。そのような葛藤の中にも歩むべき勇気を与えてくれる論文。結論を締めくくる最後の言葉から:“we must stay with the trouble. There is much work to be done....”。
同じ著者グループ(“compost collaborative”)から
ポストヒューマンに基づく看護理論に向けた論文が他にも出されています:
2-2)Dillard‐Wright, J., Smith, J. B., Hopkins‐Walsh, J., Willis, E., Brown,B. B., & Tedjasukmana, E.C. (2024).
Notes on [post]human nursing:
What It MIGHT Be, What it is Not.
Nursing Inquiry,31, e12562. http:s://doi.org/10.1111/nin.12562
「(ポスト)ヒューマン看護覚え書き:ありうべき看護とは、そうでない看護とは」(論文和訳はこの表題をクリック)
WebからPDFダウンロード可能(クリエイティブ・コモンズの文献):
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/nin.12562
先にご紹介したDan GoodleyらのPosthuman disability studies.(2014) を今後「障害のある看護師学」に向けて応用するために、この論文を押さえておきたく思っています。ポストヒューマンに含まれるうちの、幾つか思想のうち看護に関連するものの短い説明がなされ、それらの中から看護全般に活かせるものを紹介しつつ、今の看護実践が既にそれらの思想・哲学に沿ったものでもあることを述べつつ、新しい看護理論・実践への応用を含め、さらなる活用の可能性、我々がどうあるべきを述べています。当事者看護師にとっては、今はまだ100%「人間」「看護師」とはみなされない患者さん方と自分たち、そして環境を守るための倫理や分析法の端緒が学べると思うのですが、以下、少しづつ和訳を進め、その後に解説が書けるようにしたいと思っています。分かる方はぜひ、私なぞよりどんどん先に進んで下さって応援のために戻ってきて頂ければ嬉しいです。(川端)
2-2-1)様々なポストヒューマニズム(s:複数形)についてざっくり、かつより正確に知るには、英語OKの方にはこちら。:YouTube、Posthumansチャンネルのプレイリストから、Francesca Ferrando教授による「CRASH COURSE "THE POSTHUMAN" - 6 Lessons and 3 Concepts」の9動画がお勧めです。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLAXeXR1DbC1rvnBtdo2-ol-3V8ePmr7jp
2-2-2)批判的ポストヒューマンについて知るには:ロージ・ブライドッティ著、門林岳史他 訳『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』2019年、フィルムアート社
上記文献2-2)より
(図1)Harming in Order to Heal #7 (癒すために害す#7 )
この構図は人間と人間以上の行為主体性が絡まり合い連続的に展開していくさまをシンボリックに表している。写真はケアを提供する間に急速に蓄積していく膨大な量の廃棄物を具現化した(embody)ものだ:現代人(human being of today)を癒すため、この地球や環境から資源を抽出し破壊し続けていることの皮肉さを、鑑賞者が認識できるようその身ぶりで示している。現在のヘルスケアにおけるソリューションは、まず目先の事しか考えておらず人間中心主義的である:地球そのもの、つまり人間以上の存在たちや将来の世代へのケアに優先順位を与えるまでは、真のヘルスケアを提供するという使命を私たちは果たすことができない。(Tedjasukmana,2022)
この写真(図1)および脚注は、Dillard‐Wright, J., Smith, J. B.,Hopkins‐Walsh, J., Willis, E., Brown, B. B., & Tedjasukmana, E.C. (2024). Notes on [post]human nursing: What It MIGHT Be,What it is Not.Nursing Inquiry,31, e12562.https://doi.org/10.1111/nin.12562の中の図1および脚注の日本語訳です。元の記事はクリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。
テジャスクマナ氏の上記の作品は、ご紹介している私には幾つもの理由で心痛む作品です。病棟看護師時代に患者さんケアのためこれだけの廃棄物(燃やせば温暖化ガスと塩素系化合物…)を出していたことに加え、以前の私はこのようなプラスチック製品や医薬品を研究する合成化学屋でもあったのです。作って作って売れれば売れるほど儲かる?売れなくてもつい作り過ぎ、使い過ぎてしまう…このような物たちや思考の流れに私もどっぷり浸かって、地球を誰にとっても住みにくくしてきていた。(無意識にも心は気づいていて、何度もうつ病になった…と解釈するのはうがち過ぎでしょうか。)
さてここで、障害のある看護師つながりの一つのオルタナティブとして、キューバの歯科医療現場で働くDeaf Dental Nurseの動画を合わせて紹介します。1960年代にラテンアメリカで(特権的に)幸せな子供時代を過ごした者として、この映像の各所にどこか懐かしみを感じている側面はあります。単純な比較は慎みたく思うのですが様々な理由と歴史を経て、この動画では滅菌を要する器具を薄茶色の紙でくるんであります。(0:51 - 1: 21付近、手話と字幕と笑顔で説明)砂糖キビの繊維で作ったバガス紙でしょうか?紙は作る過程で今は化石燃料を使いますが、使ったあとに燃やさず土に返すこと(堆肥化、紙のコンポスト化)ができるはず。石油化学産業戦士?を経て看護師になった者として、石油がなくなったあとも(例えば千年後の地球で)持続できる看護ケアの具体像をイメージしていきたいです。ちなみにキューバでは医学部の授業料も無料です。(川端)
Cuba: Deaf Dental Nurse (Jul 1, 2021)、YouTube “Joel West Barish”チャンネルより(4分22秒) https://www.youtube.com/watch?v=KrrUZBWCays
2-3)Hopkins-Walsh, J., Dillard-Wright, J., Brown, B., Smith, J. & Willis, E. (2022).
Critical Posthuman Nursing Care:
Bodies Reborn and the Ethical Imperative for Composting.
Witness: The Canadian Journal of Critical Nursing Discourse, Vol 4(1), pp. 16-35. https://doi.org.10.25071/2291-5796.126
「クリティカル ポストヒューマン看護ケア」(タイトル拙訳)
WebからPDFダウンロード可能(クリエイティブ・コモンズの文献):
https://witness.journals.yorku.ca/index.php/default/article/view/126
概要の和訳)看護ケアは身体化・具現化された(embodied)、共同創造的(co-creative)かつ世界制作(world-building)な実践であって、パンデミックのたびに一目瞭然となるものです。伝統的な習慣・実践(praxis)から職能化されたケア実践に移り変わってきた看護は、白人性、家父長制、資本主義などなど、この学問領域を方向付けてきた様々なイデオロギーの消し難い影響をいまだ色濃く出しています。本稿では、批判的フェミニストポストヒューマンおよび新唯物論(new materialism)の視点を取り入れながら、そもそも看護ケアとは、ケアの現場、ケアを受ける人々、そしてケアの関係性を構造化する権力(powers)から切り離すことはできないし切り離すべきでもない、状況的で(situated)身体化された(embodied)取り組み(endeavor)であるという考えを提示します。理想化された状況においてさえ、看護ケアはこれらの力(forces)の制約によって具体化されるものです。本稿は、時代を超えて、またCOVIDパンデミックなるご時勢の中で看護をいわば鋳型に押し付けてきた(have molded)諸概念を解きほぐしていくものです。ここで筆者らは、Arundhati Royに触発されたイマジネーション、つまりパンデミックは幕開け(portal)であり再生(rebirth)への機会であるということ、そしてSFやアフロ・フューチャリズムの思弁的な伝統を活用します。また、ケアの実践について、ハラウェイのコンポスト(堆肥化)の精神に則り、批判的ポストヒューマンの視点から提言を行います。ここで言うコンポストとは、ヒューマニズムに基づくこれまでの伝統的なケアの概念の域を越えて、様々な境界を変容させ、分解させる種々の作用の隠喩として用いているものです。筆者らはコンポストを、私たちがどんな世界(worlds)を共同制作(co-produce)したいのか再考する試みの一環として思い描いています。またコンポストを、看護師たち、人々、すべての物質(matter)、すべての生き物(creatures)、諸世界が共創(are co-created)される舞台(arena)として、ケアが再定義されうる(care can be revisioned)ような行動への呼びかけ(call=招待、選択、必要性、使命)としても考えています。
キーワード :アファーマティブな倫理(Affirmative Ethics)、COVID新世、批判的ポストヒューマニズム、フェミニスト・ニューマテリアリズム、看護ケア、看護史学
まだ私にはうまく短く要約や解説ができないので(CPHは物事を細かく見ていくのでもともと要約を拒むものですが)、この先、全訳してご紹介してみたく思っています。
2-4)Smith, J., Willis, E., Hopkins‐Walsh, J., Dillard‐Wright, J., & Brown, B. (2024).
Vitruvian nurse and burnout: New materialist approaches to impossible ideals.
Nursing Inquiry, 31, e12538. https://doi.org/10.1111/nin.12538
「ウィトルウィアン・ナースと燃え尽き症候群:無理な理想に新唯物論で迫る」(論文和訳はこの表題をクリック)
WebからPDFダウンロード可能(クリエイティブ・コモンズの文献):
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/epdf/10.1111/nin.12538
本論文紹介の動機=川端の体験から:障害や疾患・マイノリティを持つ看護師がなぜ差別され排除されてしまうのか?(いじめられるとか“辞職”を求められるとか…障害のある看護師へのいじめが続き、目や体がご不自由で車椅子生活で口がきけない患者さん方もその場に巻き込まれ、とうとうその全てがいたたまれなくなった当事者看護師が、ナース・ステーションで先輩看護師に土下座して許しを請うたら、その土下座が看護師個人にふさわしくない行為だと上司たる看護管理者らからの辞職勧告理由の一つになったという逸話もあります)あるいは、自ら看護界を去るようにみえる現象(やるべき組織自体の改善を諦めて、そもそもそんな心の余裕も持てなくて、早く楽になりたくて、泣く泣くor呆然とor心底燃え尽きて“一身上の都合”という辞表を出す例とか)が見てとれるのか?(耳も心も痛む話ですが…特にそのような経験をした/に関わった/を傍観した身には)といった事柄を理論的に分析し考察するためにこの論文を取り上げます。今の看護師(とくに障害のある看護師)に見られる自己犠牲傾向という課題は、レスリー ニール-ボイラン博士の研究書の第7章「ナース・ヒロイック」において触れられています。関連する文章を引用すると「障害を持つ看護師たちはしばしばほぼ同程度に高いヒロイックの基準を抱え込んでいました。その高いヒロイックの基準――長時間働くとか、どのシフトでも喜んで働くとか――を自分は保つことができないと感じた看護師達の多くは、この看護の世界を去るか、ありいはそれ程きつくない別の現場を求めて、それまで働いていた職場を離れていました。」とあり、具体的な当事者看護師の証言が多数添えられていますが、一方で(以下引用)「看護というものは自己矛盾に満ちていて、看護はどんな姿をしているべきかについての集合知を作り上げることがその歴史上できないまま推移しています。看護には統合されたひとつの哲学のようなものはありませんし、(以下略)」と述べられているように、哲学や理論を応用するような分析・考察は不足しています。そこでこの、批判的ポストヒューマンや新唯物論の理論を用いた、今あるところの問題含みの看護師像(=ウィトルウィアン・ナース)(仮説)についての論文を取り上げます。このウィトルウィアン・ナース(“完全無欠さ”も象徴している)の隠喩を用いると、看護管理者や看護学の教授が「ワタクシは完璧なナースだからこのワタクシが障害者差別をすることはあり得ない」という感覚を無意識に持つ、という説明もできるかもしれません。まぁ、差別をするなと看護学校では何度も教わるものの、差別の定義とかどういう行為が差別にあたるのか、自分が意識せずにする差別・もつ偏見にどう気づくか…などは、ほとんど教わらないですしね。さてさてこうしてご紹介する私自身が経験したことにも関連してラディカルになってしまっている側面がそもそもあり、また元の論文の主張自体かなりラディカルに感じられる点も多いかもしれませんが、穏やかに読み考えて頂ければうれしいです。(川端)
2-5)Smith, J. B., Willis, E.‐M., & Hopkins‐Walsh, J. (2022) .
What does person‐centred care mean, if you weren't considered a person anyway : An engagement with person‐centred care and Black, queer, feminist, and posthuman approaches.
Nursing Philosophy, 23, e12401.https://doi.org/10.1111/nup.12401
「人とは見なされない人がいる中でのパーソン・センタード・ケアとは?:
黒人・クィア・フェミニズム・ポストヒューマン的なアプローチ法とパーソン・センタード・ケアの交点 」(論文和訳はこの表題をクリック)(論文和訳はこの表題をクリック)
WebからPDFダウンロード可能(クリエイティブ・コモンズの文献):
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/nup.12401
本論文紹介の動機=川端の体験から:パーソン・センタード・ケア(PCC)については、看護学生時代に認知症高齢者の看護に重きを置いていた老年看護学の授業で教わり、また個人的にも、二人の祖母が特養で晩年を過ごしたことからYouTubeで欧米の大学の講演などを視聴していました。既に書いたことですが、ハンセン病療養所の新人看護師だった時、認知症高齢者の受け持ち患者さんのお話を丁寧に聴いたり、肩こりの訴えがあった時に肩を揉むなどしたりした際、複数の先輩看護師から「認知症の診断があるの知ってるでしょ。そんなに丁寧に接してもしょうがない。(だから他の仕事をしなさい…[言外に]それより先輩看護師の肩を休憩室で揉みなさい)」と言われたときの違和感が、ご紹介の動機のベースにあります。「男性看護師は役に立たないから2倍働きなさい」、「障害のある看護師は役に立たない」という言葉を耳にしたことは、『100%人(ないし看護師)とは見なされない人(看護師)がいる現状』という認識を私にもたらしました。冗談めかして書くと、と言いますのは、深刻に受け取るよりも半ば笑いながら考えた方が建設的な気がするからですが、″男性看護師は半人前=50%の看護師なのか…”、”障害があって辞めろと言われた場合は0%の看護師なのか…”みたいな感じです。その一方で、仮にPCCが上手くいって手厚い認知症ケアを受けられるのが地球上の一部の人だけならば、それはどう考えたらよいのか…という問題意識もありました。この問いに幾つもの足掛かりを与えてくれる論文だと思います。批判的ポストヒューマン(CPH)の看護論文の中で、「障害」(健常者中心主義)に1節を割いている論文であることも、ここでご紹介する理由の一つです。川端の戯言はこれくらいにして、この論文そのものをどうぞ!
「哲学カフェ」ページの最後に…
以上の文献・思想は、自分が障害を隠して(そして年齢は隠さず)採用される機会にあずかれなければ、そもそもうつ病糖尿病のケアをして私を看護師に導いてくださった先輩方がいなければ、この育てにくい人間を看護師にしてくださった恩師の方々がいなければ、そして障害に関連して職場を辞すことにならなければ(ここでCPHでは加害者/被害者という二項対立は避けられますし、個人にのみ努力・責任を負わせるものでもなくなる訳です)出会えなかったものでしょう。多様な患者様、お局様(そんなに怖い顔しなくても…ってお願いしたらばチクられ師長さんに怒られた。「もともとそういう顔なんだから怖い顔と言うな」とのこと。師長さんもまた怖い顔に。そんなに怖い顔しなくても…)、かばってくれた同僚、国内外の障害のある看護師の先輩たち、その「装備」(車椅子、杖、歩行器、人工内耳、補聴器、人工呼吸器、介助犬、PC、スマホ、ネット、アバター、法律・制度…)、ヒトの疾患・健康状態をめぐる細菌叢・ウイルス群・家畜たち(の在り方)・野生生物・大気・水・土壌・石油や水銀などの鉱物/廃棄物、放射能、戦争、災害、医療システム、お薬、食事療法、運動療法、瞑想・リラクゼーション…そしてこれを読んでくれているあなた:アッセンブラージュ(集合体、もっと言えば、お互いの違いはそのままに関係しあい自分たちが変化しながら新しい世界をつくり出すものたちの集合体)とは、こういうものなのかもしれませんね。
ところで(以下、深夜の病棟の怪談話っぽく)みなが寝静まった病棟で、ある老未亡人が介助の際にふと微笑んで言われた「お父さん来てる、あなたのうしろ」のお父さんも、アッセンブラージュの中の行為主体(モア・ザン・ヒューマンのアクター)だったのでしょうか。でも私には見えなかったなぁ。(残念…)霊感のない私と違って、ある先輩は、時々亡くなった患者さんが見えるのよ~とおっしゃっていました。仏教徒は少なくクリスチャンが多い気がする…とも。信仰をお持ちの患者さんが多い施設だったのです。施設敷地内に「宗教地区」もありました。さて「お父さん」が見えないまま未亡人に今のお気持ちを伺った私でしたが、彼女は「嬉しい。お父さんが来て微笑んでくれているから、今夜はこれから安眠できる」とのことでした。看護学校では、精神看護の授業で「患者さんの妄想は肯定も否定もせず」と教わりますが、川端自身はこの教えに物足りない思いがあって、少なくともご本人がその時に感じているお気持ちは本物と考えて、否定せずに接したく思います。現場で患者さんが嬉しいと言ってくださると、看護師の私も嬉しくなりますしね。そしてその夜、このあと直ちにナース・ステーションに戻ったらば、深夜勤リーダー(のお局様と二人っきり♡ナイト)からは「たかがトイレ介助にこんな時間掛かってどうする!!」と怖い…じゃなかった「もともとのそういうお顔」で言われたのでした。特に忙しくもなくそれまでは平和な?夜勤だったのですが。さて、このお局さまには、報告するとしばしば「嘘だねー」と返されるので(こういうふうに報告を受け取ってくれない看護リーダーって困るなぁ、事実を報告をしているのに。本当よ!)「お父さん」の一件はご報告できませんでした。このお局様にとって私は喜ばしい存在ではなかったのでしょう。まぁ、そうこうしているうちに病棟のお仕事を追われ、今はこんなことをしている訳ですが、もしこれが(今このアッセンブラージュの中で)お役に立っているならば、それはお局様のお力もありますね。ともあれ「お父さん」の件については、いまご報告させていただきました。(川端)
ここまでお疲れさまでした。
マタタビ食堂さんの地元野菜をたっぷり使ったランチはいかがでしょう。