論文和訳

Laurin, Annie.‐Claude., Martin, Patrick. (2024).

Thinking through critical posthumanism:

Nursing as political and affirmative becoming

Nursing Inquiry,31, e12606. https://doi.org/10.1111/nin.12606

 

批判的ポストヒューマニズムを通して考える:

政治的でアファーマティブな生成変化としての看護

 

下記は、Laurin, A.‐C., Martin, P. (2024).Thinking through critical posthumanism: Nursing as political and affirmative becoming. Nursing Inquiry,31, e12606.https://doi.org/10.1111/nin.12606の日本語訳です(訳者:川端望海)。元の記事はクリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。:” This is an open access article under the terms of the Creative Commons Attribution‐NonCommercial License, which permits use, distribution and reproduction in any medium, provided the original work is properly cited and is not used for commercial purposes.© 2023 The Authors. Nursing Inquiry published by John Wiley & Sons Ltd.”


原著論文の掲載サイトはこちら:

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/nin.12606

 

概要

批判的ポストヒューマニズムは、机上の(theoretical)ヒューマニズムを廃するとともにこれを捉え直し続けることを通じ、今日の文脈における人間の状況(human condition)を問いつつ人間を、人間ならざるもの(nonhuman)や人間以上(more than human)の実在(entities)そして過去や未来とも調和させながら想像していくものです。1990年代以降この哲学的アプローチは多くの学問分野で言及されてきましたが、看護学者の間でも徐々に関心を集め「人間(human)とは何か」「今この場で看護師であることの意味は何か」といった問いを投げかけています。倫理的・政治的に深く踏み込むプロジェクトであるポストヒューマニズムは、我々の見るところポスト構造主義的な権力と抵抗の概念と関連しており、生命 - つまり人間と人間ならざるもの - の資本主義的な商品化(commodification)に特徴づけられたこの複雑な時代をより端的に映し出すポストヒューマン的な主体の形成(formation)を探求していきます。本稿の目的は、主としてロージ・ブライドッティの著作を使いながら、批判的ポストヒューマニズムの存在論的・認識論的な理論づけが、世界が生成変化し続ける(in becoming)ことを肯定しアファーマティブな行動を志向するポストヒューマン的主体を理解する上で、いかに有用であるかを探ることです。本稿では看護の実践や教育、研究における事例を通じて、批判的ポストヒューマニズムが看護師にとって、もっと言ってしまえば多くの存在(beings)にとって、我々が埋め込まれている昨今の状況における枠組みの変革をどれだけ可能にするかだけでなく、これらの事例が、批判を越えて、新たな世界の創造につながるアファーマティブな行動の具現化をいかに可能にしてくれるものかを探ります。

 

第1節    はじめに

 看護という学問分野には、ヒューマニズムに根差した白人経験主義(white empiricism)の長い歴史があり、これは種々の根深い不平等をもたらしてきました。そこでは看護の中心にいるその人(the (human) person )というものが、様々にその程度が違った「人間(human)」とみなされてきました(Hopkins-Walsh et al, 2022)。Prescod-Weinstein(2020)によれば、白人経験主義では、白人(通常は男性)だけが根本的な客観的能力を持ち、このカテゴリーに当てはまらないすべての人々を存在論的他者として排除すべしという根拠のない前提がなされます。西洋の言説において今なお根強いヒューマニズムと啓蒙思想の残滓は、とりわけ存在論的他者を排除することにより看護という学問領域を形作ってきました。そのため、一部の研究者たちは、ケアの実践、看護師という存在、そして看護師がケアする人々とは何かを問い直し、そしてその際、ヒューマニズム的言説のレンズを通してこれらがどのように枠付けられ、現在の文脈においてこれらがどんな形へと生成変化(becoming)しつつあるのかに着目しながら問いに取り組むようになってきています。看護学者はポストヒューマニズム的な探求法を用い、種々のアイデンティティ、ケア実践、そして本学問領域におけるポジティブな変容の可能性に関してそれぞれ異なるテーマを取り上げるようになりました(Adam et al., 2021; Dillard-Wright et al., 2020; Hopkins-Walsh et al., 2022, 2023; Smith & Willis, 2020; Smith et al., 2022)。なかでもSmithら (2022)は、看護における知識がいかに構築され価値づけられてきたか、看護の歴史がどのようにこの学問領域を形作ったか、そして例えば人種差別や階級差別、性差別や健常者中心主義(ableism)、同性愛嫌悪、トランスジェンダー嫌悪(transphobia)などの不公正や偏見を存続させてきた我々のコレクティブな歴史の様相(certain aspects)を脱構築し脱植民地化(decolonize)する必要性を指摘しています。ポストヒューマニズムはまた、看護師/患者といった二元論をやめ、ケアをケアする者とケアを受ける者の間の営みではなく、Puig de la Bellacasa(2017)が言うように、予め決められてはいない(not predetermined)状況に即した(situated)実践と捉えます。具体的な状況において絡み合う(entangled)存在たち(beings)が、一緒にケアを共同制作(cocreate)するのです(Smith & Willis, 2020)。

 看護は学問分野としても実践としても、社会構造の中に埋め込まれ、社会政治的組織の一形態(a form of sociopolitical organization)として資本主義に取り込まれています。資本主義は社会生活のあらゆる側面に広まっていて、人新世(Anthropocene) – つまり特権を持った人々の多大な影響のもと、テクノロジー、大量消費、資源破壊を介した人間の行動がこの星に刻まれるという時代にあっては、惑星規模で広まっているとも言えます。Moore (2016)は、人間たち(humans)、その中でもとりわけ資本主義が、我々が住み分かち合っているこの惑星の多様な局面をどう変容させてきたか表現しようと、"人新世"をもとに"資本新世(Capitalocene)"という造語を作りました。このような観点から見ると、私たちはこれまでとは違った時代に既に入っていて、それはこの星の持続可能性が後戻りできない地点にまで達するかもしれないし、そうではないかもしれないという時代なのです。資本主義は、消費財の選択肢を増やし、無制約な成長を促進する包括的な組織形態として確立されて以来、人間(human)の労働によって栄え、人種差別を受け性的に差別された他者(others)にとっては有害なものでした。フェミニストで大陸哲学者のブライドッティ(2013a)は、資本主義は他のすべてを呑み込み、結果として生命はみな消費される商品となり「グローバル経済は最終的に市場に不可欠ということですべての種を一元化し、その行き過ぎが地球全体の持続可能性を脅かしているという点で、ポスト人間中心主義的(post-anthropocentric)である」(p.63)と論じています。今の世界が置かれている状況の制約、つまり制度化された不公正、世界的な紛争、気候変動、急速なテクノロジーの進歩、天然資源の枯渇が常態化している状態を超えていくにはどうすればよいか、という問いがなされ暫定的な答えが出されています(Dillard-Wright et al., 2022; Smith & Foth, 2021)。看護学者は、資本主義および新自由主義の台頭が医療、とりわけ看護をいかに変容させ、看護師の労働条件や患者が受けられるケアの種類に影響を与えてきたか関心を抱いてきました。Porter (2019)によれば、資本主義が「人々の健康を弱体化させる[だけでなく]見境いのない利潤追求が治療のための介入の持続可能性をむしばみ、医療サービスの所有とコントロールが治療的関係を汚し、統制的労働力への要求は従業員を支えるケアを損ないかねない」(p.7)のは、とりわけ社会的不公正の創出を通じてなのです。

このような文脈において、本稿では批判的ポストヒューマニズムが常に進化し続ける哲学運動として、看護において社会的紐帯(social bonds)や権力関係の形成される過程を検証するためにいかに活用できるか、またその変容の可能性についても、さらに探求していきたいと思います。私たちは、まず「この世界に生きるものたち」(beings in the world)とこの集合体としての現実(collective reality)がどのように認識されるかを見直すための存在論的な基盤から出発することが肝心だと考えます。そこから、ポストヒューマンの存在論と密接不可分の認識論的な考え方に目を向けます。というのも、私たちは学者として、知識の形成、特にこの知識がロゴス、つまり合理的な言説とは異なる関係において、どのように「新しい」話者の存在に依存しているかに関心を寄せているからです。しかし、Ferrando(2013)が言うように、ポストヒューマニズムはポスト例外主義とも言えるでしょう。なぜなら何が新しいとされるかは、常に文化的パラダイムに左右されるからです。ある人にとって新しいことでも、別の文脈では常識とみなされうるのです。批判的ポストヒューマニズムが大陸哲学の一形態として、人間に対してある種新たな取り組みを行うと主張する一方で、先住民たちの存在論は有史以前から同種のアプローチを信奉してきていると、多くの先住民から戒めの声が挙がっています(Bignall & Rigney, 2019)。この意味において、私たちは白人の学者として集合的な考察(collective reflection)に寄与するだけであり、これが我々よりはるか以前から始まっており、はるか後にも続くという事実を自覚しています。

 究極的には、ポストヒューマニズムは看護師が自分達自身をどう見るか、そしてポストヒューマン時代のこの世界でどのように相互作用(interact)しているか探求することを可能にするものと考えます。Porter(2013)が言うように、「今日の資本主義の圧倒的な力を前にすると、抵抗はよくて断片的なもの、最悪無駄なものと見なされがちです」(p. 14)。しかし、これこそまさにポストヒューマニズムが私たちの社会的紐帯を再構築し、固有の関係が生み出す変容の可能性を受容しながら行おうとしていることなのです。ここでポストヒューマニズムが多様な運動体であることに鑑み、ポストヒューマニズムは私たちにどんな意味をもたらすのか、それをどのように理解していけばよいのか、そしてポストヒューマニズムはこの時代のメタナラティブなどではなくて、むしろ私たちが生成変化(becoming)するプロセスの中でのどのような存在であるかを枠づけするための現在進行形の手段だということを探りながら考えていく必要があります。本稿では、まずポストヒューマニズムにおける主要な諸概念を示し、続いてロージ・ブライドッティのノマド的思考にインスピレーションを得た存在-認識論的省察(onto-epistemological reflections)に触れたのち、批判的ポストヒューマニズムが、看護の教育・研究のみでなく実践においても、人新世の看護における抵抗や想像力、さらにはユートピアを構想していく上でいかに有効であるか、私たちが考えているところを具体的に述べていきます。

 

第2節    ポストヒューマニズムとは何か?

 1990年代から言及されるようになったポストヒューマニズムという用語ですが、その起源は1970年代の後半まで遡ることができます。文学者Ihab Hassanが人間の状態について次のような見解を示したのです。

 

 我々はまず、人間の形態(human form) - 人間の欲望とその外的表象の全てを含めて - がラディカルに変容しつつあると認識する必要があり、ひいては再認識を迫られるはずである。ヒューマニズムがポストヒューマニズムとしか言いようのない何かへと自ら変わっていく中で、500年に及んだヒューマニズムがその終焉を迎えようとしていることを我々は理解すべきである。(Hassan, 1977, p. 843)

 

 同様のものとしてフーコー(1970年)がその著『言葉と物』で告げた「人間の終焉」は、認識論的・道徳的危機を定式化したものであり、世界史の中心であった人間(Man)の地位(place)、および他のヒューマニスト達の理想に再考を迫るものでした。彼はヒューマニズムが、哲学的にどれだけ実りのないテーマとなってしまったか、さらには幾つかの意味で明らかに別様(diverse)かつ物騒な(dangerous)政治的営み(political operations)を許してしまったがゆえに非常に有害なものになってきていると指摘しました。批判的ポストヒューマニズムは、このような批判に基づく哲学的潮流として、近代西洋史の特徴をなしてきた理論的ヒューマニズムの否定と結びつけて考えることもできます。ここで留意しておきたいのは、ポストヒューマニズムが理論的ヒューマニズムを否定するものであっても、私たちが一般的に使う意味での実践的ヒューマニズム、とりわけ看護の世界では利他主義を表す言葉としてよく使われる実践的ヒューマニズムさえも否定するものではないということです。ポストヒューマニズムが否定するのは、より具体的に言えば「人間」(Man)あるいは概念としての「人間」(ManないしHuman)を構築してきたヒューマニズムです。人間(man, human)を構築するということが、ヒューマニズムにとっては自然や動物と関わっていく際に人間側の特異性と優越性を、そしてより大きな意味で他の全ての物たちとの関係における人間の例外性を際立たせてしまうことになったのです(Dekens, 2019)。この普遍的人間(Universal man)は、しばしば白人で植民地主義的でシスジェンダーで健常者(able-bodied)でした。人間(human)とは中立的な用語ではなく、特定の権限や特典を与えてしまうヒエラルキー的な言葉なのです(Braidotti, 2019a)。さらに言えば、ポストヒューマニズムはポスト人間中心主義の影響を受けていますが、これは種のヒエラルキーにおける人間の地位および生態系資源に対する人間の支配に対し根底から疑問を投げかけるものです。レヴィ=ストロース(1973)は人間中心主義が助長する自然に対する誤った優越感が、結果として環境に対する人間の虐待的な搾取と破壊を推し進めてきたと論じています。その意味でヒューマニズムは人間中心主義、本質主義(essentialism)、例外主義(exceptionalism)、種差別主義(speciesism)と結びついています。「自然/文化、人間/人間ならざるもの(human/nonhuman)といった古い二項対立を再定義することで、ポストヒューマニズムは非階層的で、それゆえより平等主義的な他の生物種との関係に道を開く」のです(Braidotti, 2015, p. 681)。

 批判的ポストヒューマニズムは、ポストモダニズム、ポスト構造主義、ポストコロニアリズムのようなアンチヒューマニズムの「ポスト-」的な発展形とも考えられます。「それはこれらが、理路整然とした(coherent)自律的主体という概念や啓蒙主義に根ざしたエピステーメー・価値観の普遍化に挑みつつ、この世界の多義性と特異性に対して還元主義的な二元論的ロジックを指し示そうとする合理性についても矛先を向けているから」です(Landgraf, 2022, p.136)。Sharon (2014)によれば、批判的ポストヒューマニズムは「唯物論(materialism)を特に重視する」ところ(p. 30)がこれらの哲学的伝統とは異なっています。批判的ポストヒューマニズムはまた、各集団内の違いを反映した個々のカテゴリー内の内的亀裂(internal fractures)を説明していくために、どれほど新しい着目点が必要となるかに焦点を当てていきます(Braidotti, 2022)。この意味においてポストヒューマニズムは新たな普遍性を構築しようとするものではなく、ヒューマニズムを完璧に排除しようとするものでもなく、むしろ「ヒューマニズム的言説に取り組むこと(working-through of humanist discourse)」(Badmington, 2003, p.22)を含意し、そこではポストが「連続性、不連続点(discontinuity)、(上回っていく(exceeding)という文字通りの意味での)超越性を意味している」(Ferrando, 2019, p.66)のです。ミネソタ大学出版局のポストヒューマニティーズ・シリーズの創刊編集者であるCary Wolfeの言葉を借りれば、「人間(human)を脱中心化するという主題(thematics)」に着目するのみならず「思考がいかにこの主題性に向き合うか」(Wolfe,2010,xvi)にも焦点を当てる必要があるということです。Wolfe (2010)はこのプロジェクトを、新奇かつ手間のかかる(a new and more complex)方向への質的飛躍とみなしています。

 ポストヒューマニズムと言えばHaraway(1985)のサイボーグ論に見られるように、テクノロジーや機械とのイメージが思い浮かぶことも多いかもしれませんが、批判的ポストヒューマニズムはそれでもなお人間という存在(the human)を気遣います(still cares)。それゆえトランスヒューマニズムと同一視すべきではありません。トランスヒューマニズムは、特に遺伝子やテクノロジーの強化(enhancements)を通じて、人間の身体的制約を超越しようとするものです。これは「ヒューマニズムの強化(intensification)」(Wolfe, 2010, xvi)と見なすことができ、「啓蒙的な科学的合理性の価値観と、認知されうる障害(disorders)や欠陥(deficiency)からの解放、そしてたぶんに死からの解放さえも約束するテクノロジーへの傾倒(commitment)」(Sands, 2022, p.2)を組み合わせたものです。もっと言えばトランスヒューマニズムは、人の寿命の究極の制約である「生物学的な死」を含めて人間の制約を超越しようとするものでしょう。

 要約するとポストヒューマニズムは、理論的ヒューマニズムと人間中心主義を否定しつつ、人間(human)と、それより一層包括的な(more generally)主体の形成について再考しようとするものです。Herbrechterら(2022)が指摘しているように「批判的ポストヒューマニズムは間違いなく政治的なスタンスだが、その存在理由はつまるところ倫理的なものである。それはケア - すなわち人間と人間ならざるものたちのそれぞれ異なるあり方への気遣い(care)に動機づけられている」(P.22)のです。

 このポストヒューマン的転回は、人間というカテゴリーと世界におけるその位置づけを根本的に問い直すものであり、必然的に特定の存在-認識論的な基盤を伴うものです。次に、このテーマについて幾つか省察を加えつつ、これが医療と看護における変革や抵抗の枠組みを作る上でいかに役立つか考えてみたいと思います。

 

第3節    存在関係的省察(AN ONTORELATIONAL REFLECTION)

 概してポストヒューマニズムはその発端から存在論的な省察だったと言えるでしょう。それは、この世界に存在するものの間の関係性や、それらが現実をどのように捉えているかに焦点を当てた哲学的潮流であり、一般に第一哲学と呼ばれるものに根ざしています。ネオ・スピノジストの存在論(Deleuze, 1988, 1990)を引きながらブライドッティは、限定されたカテゴリーとして人間をきっちり定義するような見方から離れ、ノマド的な生成変化(becoming)について語ります。ここでドゥルーズの存在論・ブライドッティの存在論の相互関係を検討しつつ両者を参照することにします。ブライドッティ(2020年)は「我々は(みな)今ここに共にいるが、我々はひとつとして同じではない」というアファメーションをしますが、これは彼女のポストヒューマニズム存在論を特徴づける「異なるもの達の一体性」(different togetherness)による存在論的なプロセスをよく表しています。彼女の言う「我々」とは誰で、その我々が共にいる「ここ」とは何なのでしょう?これらの省察は、主体の形成(subject-formation)と主体性(subjectivity)に関するこの見解において何が課題となっているのか捉えていく際のよい手掛かりになります。Vivaldi(2021)が指摘しているように、ブライドッティは主体と主体性を明確には区別していませんが、前者が人(person)として理解できるのに対して、後者はひとりの人間の主体(a human subject)がその自己、他者、世界に対する理解をいかに構築するかと捉えることができ、かつこれらは主体性の相互依存的な三つのレベルとして見ることができます(Braidotti, 2019b, p.45)。

 前に説明した啓蒙主義における理性的な人間の主体とは反対に、このポストヒューマニズムの展望における主体は独立した(sovereign)個人としての人間存在ではなくて、動物、人間、そして機械的な他者(machinic others)と共同構築される(co-constructed)主体です。このような主体形成の考えは、デカルト的な心身分離から起こってきたところの、主体性が普遍的な意識、合理性、倫理性として理解されるヒューマニズムの主体に対抗するものです。ヒューマニスト的主体には常にその否定的な相手として他者が結びついており、それらは「性別化・人種化・自然化された他者」であり「使い捨て可能な身体という人間以下の地位に還元され」ています。(Braidotti, 2013a, p.15 [邦訳ではp.30])。ある意味では、ヒューマニズムが信奉する「人間」(manおよびhuman)という概念は階層化と破壊以外では役に立たないものであり、ポストヒューマニズムが「人間をほどく(undo the human)」(Braidotti, 2019a)ことを目指す理由の説明となっています。

 ブライドッティ(2022)が説明するように、

 

ポストヒューマンになる(become)ことは、人間たち(humans)から未分化である(undifferentiated)とか、人間に対して無関心だとか、人間味がない(dehumanized)ということではありません。それどころか、自分たちの住む土地や環境との相互接続(interconnection)を含んだ拡張されたコミュニティ意識下での福祉(well-being)と倫理的な価値観を組み合わせるための新たな方法さえも含んでいるのです。これは、古典的ヒューマニズムの規範に沿って定義されるような、個々の主体の自己利益(self-interests)によって形づくられる倫理的絆とはまったく異なる種類のものです。(p. 35)

 

 ここでブライドッティは生けるものと非生物(nonliving beings)の脱ヒエラルキー化を強調する関係的存在論(relational ontology)に言及しつつ、これは当然、他者どうしの間の社会的な絆についてばかりでなく、連続体として提示される技術的、文化的、生態学的、環境的な関係についてのものでもあるとしています。かくして主体たちは、有機的無機的どちらの人間/人間ならざるものの行為体(actors)、テクノロジー、およびメディアを含むノマド的で横断的な(transversal)「アッセンブラージュ」(Deleuze & Guattari, 1987)と定義される関係的集合体を構成(compose)します(Braidotti, 2019a)。この存在論的に多声的な(polyvocal)共同体はブライドッティ(2019a)に言わせれば、物質的に身体化され(embodied)埋め込まれた(embedded)「人々(people)」であり、それはグローバルに媒介されている(mediated)のです。この新しい物質主義とも呼びうる新唯物論(new materialism)への転回は、ポスト構造主義のいくつかの分枝に特徴的であった脱構築的なプロジェクトの延長線上にあります。新唯物論は「言語的パラダイムを拒否し、権力の社会的関係性に埋め込まれた(immersed)身体の具体的かつ複雑な物質性を重視する」(Dolphijn & van der Tuin, 2013, p.21)概念的枠組みかつ政治的な立場として生まれました。フェミニストの哲学者らに端を発するそれは、身体化され埋め込まれた唯物論を主張するものです。

  したがって著者らの視点からすれば、この関係的存在論は必然的に「共に生きる(living together)」という意味で広義の政治的存在論であり、この関係論的存在論は政治的存在論であり、主体が具体的に言及されているとき、生成変化しつつあるその主体は必然的に、新しい世界の創造を妨げる2つの障壁であるヒエラルキーおよび声の封じ込めに関わる場合はことさら、不一致(dissensus)(Rancière, 1997, 2008)、抵抗(resistance)(フーコー)、または脱構築(デリダ)に従事しなければなりません。これを実現するために必要な、主体の最低限の地位としては「(中略)単一的(unitary)である必要も人間中心主義的一辺倒(exclusively anthropocentric)である必要もない」(Braidotti, 2013a, p.102)のです。ブライドッティ特有の生気論は機械論的な生命理解とは正反対のものであり、ヒューマニズムから生じる超越論的意識や心身二元論を超えて、これら異なる主体や行為体が、それぞれの間の違いにもかかわらず如何に相互作用しうるかをよりよく理解しうるに足るものです。なぜなら、

 

 すべての物質や実体(substance)はひとつであり、それ自体に内在し、人間や非人間の生命体において知的であり自己組織的(self-organizing)である(Lloyd, 1994, 1996; Porter, 2013)。生気ある物質は、その内に秘めた自由(コナトゥス)を表現したいという存在論的欲求に突き動かされている。このような物質理解は、埋め込まれ身体化され、それでもなお人間/非人間の他者たちの関係性の網の目を流れゆくポストヒューマン的主体の知識の構成を活気づける(Braidotti, 2019a, p.34)。

 

 主体性は自己を超えて、人間だけでなく非-擬人主義的な(non-anthropomorphic)要素も含んだ関係性の潜在能力(relational capacities)を拡大します(Braidotti, 2019a; Lavoie et al, 2023)。ブライドッティ(2019a)に言わせれば「非人間(non-human)である、生命の活力たるゾーエー(zoe)は、これまで分離されていた種、カテゴリー、領域を横断して考えることを可能にする横断的な存在(transversal entity)」であり、これらの間を行き来(navigate)可能なアッセンブラージュを形成する(p.42)のです。人間の主体性は「自身が掌握できない出会いや相互作用、愛情(affectivity)、欲望の抑えがたい流れの効果」として理解できます(Braidotti, 2013a, p. 100)。

したがってここで私たちは心/身体、自己/他者といった二元論的な考えを捨て去って、ドゥルーズ的な「器官なき身体(body without organs)」としてポストヒューマン的主体を考えることができます。ここで身体は、その形態や器官を通してではなく、それ自体が運動するところの動的な力、すなわち影響し影響される力を通して考察されます(Young et al.,2013)。この機械への生成変化(becoming-machine)では「多様な"他者"と特権的な絆を有し、技術的に媒介された惑星環境と融合する」(Braidotti, 2013a, p.92)ことになります。私たちはまた、Braidottiによって提案された変容の他の2つの軸である「動物への生成変化(becoming-animal)」と「地球への生成変化(becoming-earth)」について、これらの存在に対する私たちの依存と共生そして支配を強調しつつ言及できます。これら異なる有機的な種および無機的諸要素の相互結合性を認めることにより、現実は自然-文化連続体(nature–culture continuum)の中で継続的に再構築されていきます。

自己が「他者」とどう関係するかについて検討したのであれば、次は主観性の第3の水準である「世界」に目を向けなければなりません。ブライドッティの世界観は、ポストヒューマンな主体が広範囲にわたる(profound)関係を通じ完全にこの世界に暴露されていることと関連します。ポストヒューマンへ生成変化するには、その次元の多重さには関わりなく一つの共有領域(a single shared territory)として構成される共通の世界(a common world)の観点から、他者との愛着(attachment)やつながり(connection)の感覚の再定義が求められます(Vivaldi, 2021, p.314)。この多重性(multiplicity)はドゥルーズとガタリの著作にも見られ、彼らは地球を「銀河系の一点であるばかりでなく、他の多くの中の一つの銀河系(not only a point in the galaxy, but one galaxy among others)」、もしくはBeaulieu(2022)が彼らの著作から明らかにしているように「万人に共通する一つの普遍的な地球ではなく、仮想的な地球が多重に存在する(a multiplicity of virtual earths)」(p.97)と考えています。ドゥルーズとガタリ(1987)が言うように「地球は(中略)器官なき身体。器官を持たぬこの身体は、形をなしていない不安定な物質で、あらゆる方向への流れで、制限されない強度や流浪の(nomadic)特異性で、狂ったような粒子や一過性の粒子で、充満している」(P.4)。さらに、Beaulieu(2021)は、ドゥルーズ的存在論における宇宙的な力(cosmic forces)には、地球とその地質学的・生物学的な有機体だけでなく、「我々の」世界の一部でもあるところの、物理的に遠く離れているにもかかわらず人間や人間ならざるもの、人間以上のものたちに影響を与える外部から来る銀河系外の力(external extragalactic forces)も含まれると指摘しています。

ドゥルーズの世界観を引き継いでBoundas(2005)はこの存在論を「動作する諸力の真の付加記号(diacritic)」(p.18)、あるいは強度の存在論というふうに位置づけています。これらの力は「異なっている/差別化されている(different/ciated)」(p.18)のであり、それらつながりの差異的な関係性によってのみ「そのようにあるもの(what they are)」なのです。力の差異的な質は「強度(intensity)」より正確には「強化(intensification)」と呼ばれ(p.18)、またこれらの「激化(intensifications)」こそが、存在の状態の発生(genesis of the states of being)をもたらすのであり、これは仮想的な(virtual)ものとなり、ひいては現実の出来事(real events)を構成することになり、さらにこれら自体が事物の状態(states of things)へと現勢化すること(actualizing)になるのです(Boundas, 2005)。簡単に言えば、現実(reality)とは仮想(the virtual)と実状(the actual)の相互交流(interplay)なのです。ドゥルーズが提唱したように「仮想は現実と対立しているのではなく、可能性(the possible)と対立しているのが現実なのです。仮想性(Virtuality)は実状性(actuality)と対立しており、それゆえ完全な現実性を持っている」(Deleuze, 2004 cited in Rae, 2014, p.138)。仮想性と実状性は現実の異なる形態であり、特定の絡み合った関係を伴います。「仮想性は、個別化された時・空間的多重性が生まれいずる所の多重性の前個別的な側面と、仮想的なイデアを実状へと生成せしめる力あるいは「火花(spark)」を伴う」(Rae, 2014, p.138)。仮想-実状の関係性を通じての「生成変化」は、それゆえ純粋に異なっている/差別化できるものである。同じ実体は二つとない」(Rae, 2014, p.144)。このことは、ポストヒューマンの存在論が持つ無限の変容可能性(transformative potential)を理解する上で重要です。なぜなら、不可避的に反復される差異は、常に異なるものであり、違った結果(outcomes)をもたらすからです。

このドゥルーズの存在論による回り道が、本稿において、生成変化しつつあるこの「私たち」を、ブライドッティが人間(human)を再構築していく幾つものやり方の中から、いかに捉えうるか理解していくのに役立ちます。ドゥルーズの仮想/実状(virtual/actual)という現実の配置(configuration)を援用し、ブライドッティ(2019a)は「批判哲学は実状への批判(すなわち、我々がそうであることをやめるものへの批判)に留まることはできず、仮想(すなわち、我々が生成変化つつあるもの)への創造的現勢化(creative actualization)に移行する必要がある。実状としての現在と仮想としての現在との相互交流が、主体形成のリズムを綴る(spell)のだ」(p.37)。」というふうにドゥルーズの分析を踏襲しています。ブライドッティ(2013a)の言葉を借りれば「主体への真摯な配慮により、創造性や想像力、欲望、望み、憧れ(中略)といった要素を考慮に入れることが可能となる。現代のグローバル文化とそのポストヒューマンな含意を、これなくして理解することはできない。我々は「現在にふさわしい」主体のビジョンを必要としている」のです(p. 52)。とりわけこれは、ポストヒューマニズムが信奉する非階層的な関係性を受け入れて、従来は「いわゆる人間(Man)」なる一般的概念から排除されてきた人々と共に立ち、そして新しい世界を築くために協働することを意味します。複数の生物種や異なったアイデンティティからなるコミュニティやアッセンブラージュの創造が、脆弱性(vulnerability)という否定的な結びつきでなく、それがどれだけの相互依存を明らかにしていくのかを進んで理解することにより(Braidotti, 2013a)、ポストヒューマンの主体は、仮想-実状連続体の中の関係性によって、その変容のポテンシャルを発揮することができるのです。生成変化における「人々」の政治的創造によって、先例のない世界の創造が可能になり、仮想的な欲望とそれが求める抵抗を通じて現勢化される(actualized)のです。次項では、この存在論がポストヒューマン認識論、すなわち存在-認識論(onto-epistemologies)ともいうべき、そこに存在することにおける知の実践(practices of knowing in being)の研究(Barad, 2003)をどのように明らかにしていくのかを考えていきます。

 

第3節1項 認識論的可能性に関する考察

  ポストヒューマニズムとヒューマニズムで共有されているのは、いまもなお(still)人間によって実施されているという現実ですが、ポストヒューマニズムの認識論的立場は、自己を位置づけるフェミニズムの方針に基づいており、自己を関係的なものであると認識しています(Ferrando, 2019)。かつては人間の特権で科学主導の歴史的進歩の原動力でもあった理性(reason)をいわば左遷することで、私たちは理性をノマド的で根源的な思考、すなわち各々異なった見通しを持てる視点から(through different vantage points)ヒエラルキーを断片化し、脱中心化し、脱構築し、取り消させるような思考に置き換えることができるのです。

前節で紹介した新唯物論の内在性は、このコレクティブな力を私たちの知の生産様式の持続可能性へと拡張するものです。ゾーエー中心の平等主義は、ポストヒューマン思想の中核をなすものであり、高度資本主義による多くの種の生命の商品化に抵抗しうる情報交換や科学的実践を鼓舞しこれらと共に作用します(ブライドッティ, 2006)。横断的な提携と内在するアッセンブラージュを通して、新たな知の主体たちが共同で構築されるのです。考えることと知ることは人間だけのものではなく、この世界に位置し、世界と関わっているすべての行為主体がさまざまな程度で遂行することであり、すべての生命体の知性、能力、創造性の個別の度合い(respective degrees)を認めることです(Braidotti, 2019b, p.101)。これにより、人間だけでなく、植物、動物、技術的なメディア、そして他のものたちも「経験的知識に基づく行為体(cognitive agents)としてだけでなく、認識論的なパートナーとしても、つまり、知識を生成し知識を応用する能力を持った現実世界のプレイヤーとして、お互いに豊かになる(cross-fertilized)ことができるし、またそうすべきである(Susen, 2022, p.71)というふうに考えられるようになります。ポストヒューマンな倫理的実践は、このような相互受粉(cross pollination)に依存し、古典的な人文学では無視され沈黙させられていた主体や存在を目にし聞き分けられるよう、新たな連携の形成を可能にしていきます。この意味で、ポストヒューマンの知識とは、その知について知る新しい方法を見つけ、多様で複雑な多重性を持つ世界を受け入れることなのです(Susen, 2022)。

 ドゥルーズとガタリ(1994)はその著『哲学とは何か』において、哲学、科学、芸術の3分野を挙げこれらを区別しました。ブライドッティ(2019a)は、これらの分野における思考を関連づけて「状況に応じた質的な変化と創造的な緊張が維持されつつ、関係の様式に入り込み、影響を与え、影響を受ける能力の概念的な対応物である。批判的/創造的なノマド的思考は、論理中心的な思考システムの重力を逃れ、横断的関係の実状化を追求する」としています(p.46)。そして思考はこの世界のものであって(Alaimo, 2014)、合理性や人間主導に独占されるばかりのものではないのです。このような「他者」、断片化し、脱構築し、脱ヒエラルキー化する異質な思想は、開かれた複数の構造、アッセンブラージュを生み出します。このアッセンブラージュは、例えば、現実世界における人間の位置づけや、特に生死を問わずあらゆるシステムとの関係性における人間の位置づけのような、歴史的、イデオロギー的な普遍的とされる事実といった、種々の規制の規範の範囲を区切り、これらに問いを投げかけます。ブライドッティ(2019a)の批判的ポストヒューマニズムは、統一されたカテゴリーとしての人類(humanity)の修辞的一般化を避け、むしろ「現代の知の諸主体の位置づけられた複雑な特異性」(situated and complex singularity of contemporary subjects of knowledge)(p.48)と呼ぶべく努めます。これは、他の存在(other entities)に人間(human)の言論能力(capacity of speech)を通じて自己を表現させるだけでなく、ロゴス中心の合理性とは異なるコミュニケーション方法を採用することで、さまざまな形の対話および潜在的に拮抗する取引(antagonistic exchanges)を取り込んだものです。しかしながら、この「仮想的なポテンシャルを表現し物質化したいという」このコレクティブな欲望は「社会における主体形成と知識実践の両方に影響を与え、また今日の大学、科学のコミュニティ、芸術の世界にも影響をもたらす」(Braidotti, 2019a, p.41-22)。そしてこの3つはドゥルーズとガタリにとっての3つの思考様態の典型です。ドゥルーズとガタリは芸術を「可能性」と結びつけているので、この芸術に関する問いかけは特に興味深いものです。芸術作品は「仮想性を現勢化する(actualize)のではなく、それを包含する(incorporates)、ないし具象化する(embodies)。つまり身体、生、宇宙を与えるのである。(中略)これらの宇宙は仮想性でも実状でもなく、可能性であり、美学的カテゴリーとしての可能性である」(Deleuze & Guattari, 1994, p. 177)。彼らは、哲学は諸概念を創造し、その内在する矛盾のない場(place of consistency)を提示すること(laying out)で、この地球に忠実であり続けなければならないと考える一方、芸術は基本的に、その内在的な構図の次元(plane of composition)を展開する(lay out)ために知覚(sensation)のブロックを幾つも創造するものであるがゆえに、宇宙(cosmos)に関わるものと考えています(Beaulieu, 2022, p.96)。この構図の次元は、異なる教訓や影響(precepts and affects)が新たな配置によって創作される(are composed in new configurations)場であり、芸術作品は知覚の実在(a being of sensation)なのです(Bogue, 2007)。Grosz (2008) が説明しているように、

 

もし哲学が、内在性や一貫性という次元を通じて、それを生み出した哲学者とは無関係に生きる概念に生命を与えながらも、それらが引き出された元の混沌に参加し、影響を及ぼし(cut across)、証言する(attest)のであれば、芸術もまた、混沌の上に投げかける構図の次元を通して、その起源やいかなる目的や受容(any destination or reception)からも切り離され、それが表現し、それが引き出される無限とのつながりを維持する知覚に生命を与えるのです(p.8)。

 

そうなると様々な形態を取る芸術というものは、私たちがこの世界において異なったやり方やあり方を、これまで思いもつかなかったような仕方で、かつ主体性をその複雑さ全てにおいて考慮するような仕方で想像しうるような多様の方法のひとつにすぎません。これは、見慣れぬ(unfamiliar)形の知識、哲学を異なる方法で考えること、芸術と共に考えること、そして従来とは異なる研究方法や対象を通して社会変革を実現すること、コレクティブかつ参加型の知識共有様式(modes of knowledge sharing)を奨励するものです。(Laurin et al, 2023)。この次の節では、いかにして遊牧民(ノマド)的存在の横断的な同盟が、現代の主流的な言説に抵抗し、生成変化する世界に向かって働きかけることができるのか、また、ユートピアを通して、この絶えざるグローバルな生成変化をどう理解することができるのかについて、さらに詳しく説明します。

 

第4節    ユートピアと抵抗による仮想性ー現実性連続体の現勢化

(ACTUALIZING THE VIRTUALACTUAL CONTINUUM THROUGH UTOPIA AND RESISTANCE)

ブライドッティがポスト構築主義の脱構築理論を受けて言及した新物質論的転回のところで見たように、ポストヒューマニズムを特徴づけているのは批評と否定性を超越することです。否定性の超越はまた、肯定的倫理と結びついており、「反対という否定的な意味での批判的である必要はなく、したがって、対抗的主観性の生成のみを、あるいはそれを第一義とする政治的主体性」(ブライドッティ、2013a、25頁)ではなく、それよりもむしろ具体的なオルタナティブに関連しています。ポストヒューマンの省察は、私たちの世界が「社会正義、倫理的説明責任、持続可能性、種を超えた世代間の連帯に関連する問題を優先する」(Braidotti, 2019b, p. 41)ために、そして「政治的・倫理的説明責任、コレクティブな想像力と共有された欲望のための場」(ブライドッティ, 2013a, p. 102)を確立するために、新しい形の主体性を求めていることの認識を可能にします。権力と抵抗が絡み合い、拡散し、社会生活と一体化しているような「支配の情報科学の時代において、権力関係と倫理的・政治的抵抗の問題は、これまで以上に重要な意味を持つ」のです(Braidotti, 2006, p. 199)。ハラウェイとドゥルーズがフーコーの分析で指摘したように、フーコーの権力地図はすでに過ぎ去った瞬間を記述しており、今のその場の状況をうまく説明できていません(ブライドッティ、2006年)。したがって、ブライドッティ(2019b)が明言するように「自由は、私たちの存在を拡大し、強化しようとする欲望として、私たちのシステムに書き込まれている」(p.155)がゆえに、それらに対応するために、常に進化する人新世においていかに関係や権力が分配されているかを検討することが必要です。

 前節で考察した存在-認識論的省察を踏まえ、批判的ポストヒューマニズムが許容する、まだ実現していない、仮想の現勢化(the actualization of the virtual)というこの政治プロジェクトを、筆者らはどのように記述することができるでしょうか?ポストヒューマニストの存在-認識論が私たちに提供する無限の可能性の源は、ユートピア、先鋭的な想像力、肯定的な倫理など、さまざまな分野で言及されてきた多くの解放的な理想(emancipatory ideals)と関連付けることができます。ポストヒューマニストの存在-認識論が私たちに提供する無限の可能性の源は、ユートピア、先鋭的な想像力、肯定的な倫理など、さまざまな分野で言及されてきた多くの解放の理想(emancipatory ideals)と関連付けることができます。まず、ポストヒューマニズム思想におけるユートピアの論争中の(contested)用法について見ていきます。その後に、その特徴の幾つかがラディカル・イマジネーションやブライドッティのアファーマティブな倫理といった他の変革的な概念とどのように相互参照できるかについて触れます。

  批判的ポストヒューマニズムの観点から考えることで、もはや存在しなくなったものとまだ存在していないものとの間の、極めて政治的かつ倫理的な試みとして、私たちは生成変化の過程にある「私たち」とは何なのかを考えることが可能になります。ブライドッティ(2013a)は、とりわけ世代間の正義と連帯の重要性を強く主張しています。つまり、現在実施されている諸活動について後世の人々はこれを裁かなければいけないということです。これは、生けるもの(living beings)の存在論的本質についての思弁的省察であり、人間であるとはどういうことか、他者(人間ならざるものも含む)と関わるとはどういうことか、看護師であるとはどういうことか、ケアすること、ケアされること、それぞれの社会環境(milieus)下で看護ケアすること、そして仮説的な方法で未来に備えることについて、今一度考え直すことを可能にします。Herbrechterら(2022)が指摘するように、批判的ポストヒューマニズムが人間の立場(the place of the human)を問うとしても、それは「人間を気にかけている(cares about the human)」ことは変わりませんが、人間はもはや「人間ならざる他者(nonhuman others)の犠牲の上に存在」することは出来ないという認識も持っています。看護そのものが埋め込まれ具現化されている地域社会を看護は気遣う(cares about the community)専門職であることを考えると、これは看護にとって重要なことです。

  このプロジェクトは、イデオロギーの幕が下り、かつての厳格な規範やプロトコル、ヒエラルキーが放棄されたとき、私たちに何が可能なのかの境界を超えることを奨励するという意味で、ユートピア的な本質を想起させます。それは、私たちが置かれた状況における経験(our situated experiences)というミクロな政治空間を通じてだけでも、世界を変える方法を提案することを可能にします。私たちにとってユートピアとは、特に医療現場における医師と看護師間の、ないし患者と医療チーム間の、根強い職業的ヒエラルキーのような、看護師と他のスタッフ、そして患者にとって有害な既存のヒエラルキーの脱構築を伴ったものでありましょう。これにより、仮想的な現実の平面においてコレクティブな欲望(desires)が生まれることになります。しかし、ユートピアは現代文化において非常に狭い意味で定義されており、その語源的な意味合いを指す場合がほとんどです。トマス・モアの著書『ユートピア』の中で、16世紀に初めてこの用語が用いられ、ギリシャ語の「良い場所」を意味するeutopiaと「ありえない場所」を意味するoutopiaの語呂合わせから、完璧な想像上の世界を表現するために使われました(Taylor, 2003, p. 554)。ドゥルーズとガタリ、そしてブライドッティにとって、ユートピアはそれぞれの政治プロジェクトの争点となる(contested)用語です。ドゥルーズとガタリ(1994)は、ユートピアという言葉が最適ではないと考えつつ、「ユートピアは際限のない運動から分断されることはない。語源的には絶対的な脱領土化を意味するが、常に現在の社会的環境(milieu)と結びついた臨界点(the critical point)にある」(99-100ページ)と述べています。一方、ブライドッティ(2013b)によれば、本稿で先に述べた関係的存在論(relational ontology)は、想像力と夢のようなビジョンを動員するという意味ではユートピア的であると考えられますが、歴史的基盤があって、かつこの共同的な試みに積極的に取り組んでいる人々によって部分的に実現されているため、真の意味でユートピア的であるとはいえません。さらに、Boulter(2022)によれば、「ユートピアを信じる人は欲望の経済について語るかもしれない。それは、実際には(支配的なイデオロギーや存在論からの解放を求める)欲望の明確な表現であるかもしれない。(中略)しかしそれは不可能性、本質的な不在を前提としてのみ可能になる」(p.224)」ため、ポストヒューマニズムは単に「不可能なこと」や「想像上のこと」に過ぎず、ユートピア的であるということになります。

  一方、Firth (2012) はユートピアを認識論的な立場としてとらえています。それは未来や押し付けられた「完璧な」青写真と結びついたものではなく、すべてを包含するユートピアです。Firth (2012) はまた、次のように述べています。

 

批判的ユートピアは内在的かつ継続的であり、その目標は固定されておらず、差異は過剰を生み出す ー それは新たな欲望と新たなアッセンブラージュを生み出す脱領土化する流れである。このように、ユートピアにおける欲望とその表明は、永遠に生成変化する状態にある。認識論のレベルでは、欲望は意識を変容させるアイデア、概念、ビジョンを生み出す。これは、新たな実践、関係性、空間の創造を導くことができる。 (p. 2122)

 

 ユートピアは、現在に影響を与える欲望の偶発的な発現(contingent articulations)としてとらえるべきでしょう。Randall Amster(2009)の言葉を借りれば、それは「永続的な革命の状態、すなわち、膠着化(entrenchment)や支配する行為(domination)に向かう我々自身の傾向に対する継続的な反抗として理解されうるかもしれない」(p. 292)のです。

  看護学では、ポストヒューマニズムを研究する学者たちは必ずしもユートピアの概念と関わっているわけではありませんが、Firth(2012)が説明している同様のプロセスや結果について言及しています。例えばDillard-Wright(2022)は、看護において異なった世界を構築するため創造性と欲望がいかに必要であるかを示唆しています。

 

それ自体が創造的抵抗の行為であるラディカルなイマジネーションを駆使することで、他の未来が可能になります。そしてオルタナティブな未来は、それを想像し構築することで可能になるのです。私たちの知るこの今から解き放たれた、過去に対する深い理解に裏打ちされた想像力は、扉を開く鍵。(中略)ラディカルな想像力は扉を開く鍵であり、看護の未来にとって最もクリティカルな介入であり、より公正で公平な世界への道です。 (p. 8)

 

 同様にこの認識論的なユートピア的性質が明らかにされているのは、ブライドッティの「政治的な行為体を取り戻すための条件は、まだ活用されていない資源やビジョンを動員し、他者との相互関係の実践においてそれらを具現化することで、可能な未来を創造しようとする努力によって生み出される」との主張です。このプロジェクトには、より高い先見の明、あるいは預言的なエネルギーが必要」です(Braidotti, 2022, p. 3536)。したがって、アファーマティブな倫理やユートピア、ないしはラディカルな想像力を語るにせよ、持続可能な未来への憧れや欲望こそが、生きていける今(a livable present)を構築することができるのです。未来は、私たちを前進させる積極的な欲望の対象として、今ここで現勢化(be actualized)したいものを構築する手助けをしてくれます(Braidotti, 2006)。これは、歴史的に周縁化された声を排除し続けている強固なヘゲモニー勢力や偽りの境界に抵抗し、異議を申し立て、脱構築することを意味します。このような持続可能な変革を実現するには、筆者らは、歴史的に抑圧されてきた知恵を横断的な連携によって現勢化させ、日常生活の平凡な実践(ordinary practices)に根ざしたコレクティブなプロジェクトを優先的に推進しなければならないと考えています(ブライドッティ、2019a)。私たちは、自己増強的(self-reinforcing)な現状を打破するために、私たちが共同制作している世界について、人間、人間ならざるもの(non/human)、人間以上のもの(more-than-human)など私たちのコレクティブな世界を構成するあらゆる主体と絶えず対話を続ける必要があります。

  ブライドッティの言うノマド的でアファーマティブ倫理は、特定の状況に対して必ずしも批判的に対応する必要はないが、新しいあり方や行動様式を積極的に提案するという否定性の超越を求めています。しかし筆者らは、オルタナティブな道を提案することで、特定の状況に対する批判と対応を継続することも必要だと考えます。批判的ポストヒューマニズムは、地理学的かつ系譜学的アプローチでもあって、未来だけでなく過去にも目を向けるため「堆積と残留物」のモデルでもあります(Herbrechter et al., 2022)。さらに言えば、ブライドッティ(2022)がベルクソンの時間の哲学を用いて指摘しているように、「過去とは、半ば達成された行為が凍りついたブロックではなく、歴史的な現勢化を待つ未来と複数の異種混合の集合体(heterogenous mass of future pasts)」でありましょう(p.34)。したがって、私たちは過去の実験が違った文脈でどのように現勢化されるかを考察することができます。特に、医療制度に関しては、繰り返せば必ず異なる結果が付随してもたらされるためです。最後のセクションでは、多重なレベルでの脱階層化から始まる、現状を覆す生産的な変革(subversions)を通じて、これらのコレクティブな新たな生成変化の欲望が、看護の学問領域と実践にどのように翻訳されるかを考察します。

 

第4節1項 看護への応用

 看護の学問領域は常に進化しており、批判的ポストヒューマニズムの哲学的潮流も同様です。批判的ポストヒューマニズムは、この世界の諸存在(beings)、つまりグローバルに媒介され、必然的に政治的な関係性を増強する存在、「共に生きる」という意味での(in the sense of living together)諸存在に焦点を当てます。看護学においては、これは、存在論的に関係性のある存在として - つまり、存在論的に多声的な環境に身体化され、かつ埋め込まれている存在として -  政治的な関心事は看護学の学問領域外の問題として見なされるべきではないことを意味します。とはいえ、筆者らは看護師たちが、しばしば女性、親、学生、介護者など、多様なアイデンティティを持っていて、それらが政治参加に対する認識に影響を与えうる可能性を十分に認識しています。看護師の役割が基本的にその患者との関係によって定義されている場合、そこには多様な他者との相互関係が作用していることを忘れてしまいがちです。グローバルな調停(mediation)におけるポストヒューマン的見解を受け入れることで、権力関係は存在論的に看護師に影響を与え、それは政治的/倫理的な「共に生きる」プロジェクトを意味します。そして、抵抗は看護師の役割の不可欠な一部となります。ここまで見てきたように、ポストヒューマニズムは、抵抗をコレクティブな政治的試み、異なる世界を目指す倫理的応答として規定して(inscribes)いますが、そこでは関係性としてのポストヒューマン主体の存在論的性質により、自己本位(self-centered)で独立した個人が単独で抵抗するという概念は消え去っています。

 ブライドッティが批判を超えて新しい世界を創り出すためのアファーマティブな行動を求めたように、医療従事者の政治的創出を心に思い描き、看護師/患者/および他の行為体に課せられた制約に対処してこれら諸存在にケアを提供できる前例のない世界を創り出すことは可能です。現状が現状を強化する文脈では、ヒエラルキーが人々を割り当てられた場所に留める働きをするため、創造的かつイノベーティブになることは往々にして困難です。この看護のための政治プログラムは、医療従事者と他の職員の間、および患者、市民と看護師の間、そしてシステム全体を含む、さまざまなレベルでの脱階層化(dehierarchization)を必然的に伴います。存在としては異なるが、同じ物質(matter)から生まれたという内在的な関係性において、私たちを結びつけるものを考えると、他者に危害を及ぼすことは、自分自身に危害を加えることになります。これは、自己の延長として捉えることができる存在としての、人間および人間ならざるものの「他者たち」の間の連帯を鼓舞するものです。Taylor(2016)が指摘するように、ポストヒューマンの倫理には、「遭遇(encounters)、出会い(meetings)、接触(contacts)、責任、説明責任、関与(commitment)」といった重要な用語が含まれています(p. 15)。それは一つのSF小説作品を書くようなもので(Beaulieu, 2021)、見なれないケアや看護の仕方を取り込むことになります。その意味で、筆者らは、ユートピアという概念を高く評価しています。ユートピアとは、まだ現勢化していない、今生成変化中のもの、あるいは「永続的革命(permanent revolution)」の状態であると考えられます(Amster, 2009)。しかし、この地球が病気の療養中であるという文脈において、これらの変化は単に進歩、開発、成長、あるいは革新といった観点だけで捉えられるべきではないことを強調したいと思います。私たちは、堆肥化(compost)、再利用(reuse)、減量(reduce)、簡素化(simplify)、異なった声に耳を傾けること、様々なタイムラインにそって物事を進めること(follow different timelines)、そしてこれまで声を上げることができなかった人々のための場所を確保すること(make place for those who have been silenced)ができるのです。これらには、筆者らがポストヒューマニズムと関連付けている概念を長年にわたって支持してきた先住民の声や、従来はその存在-認識論上のパートナーとしてのポテンシャルを過小評価されてきた人間ならざるもの達の実在(nonhuman entities)も含まれます。ブライドッティ(2013b)が論じているように、ユートピアは、すでにこれらの新しい世界に向けて積極的に活動している人々の仕事を通して、部分的に現勢化しています。本稿では、臨床の環境、教育、研究において、これを捉えることができる幾つものやりかたについて見ていきたいと思います。

  ブライドッティ(2013b)が論じているように、ユートピアはすでに、これらの新しい世界に向けて積極的に活動している人々の仕事を通して、部分的に現勢化しています(actualized)。本稿では、臨床の環境、教育、研究において、これを捉えることができる幾つものやりかたについて見ていきたいと思います。医療の分野では、専門職のヒエラルキーが制度的に根付いており、労働者の自主性(autonomy)を制約しています(Kilpatrick et al., 2011)。このヒエラルキーを維持するモデルは、WHO(2012、2018、2021)などの国際機関が提唱するガバナンスのタイプに反しているにもかかわらずです。ナース・プラクティショナー(NP)のような専門性をもつ看護師を対象に、専門職としての役割に対する障壁だけでなく、彼らが望む変化や、それをいかにして実現するかについても調査したプロジェクトでは、参加者は経済、臨床、意思決定の領域における医師主導だけでなく、看護管理者や規制当局による同様の支配についても言及しました(Martin et al., 2023)。専門職のヒエラルキーにより、医師はNPの業務の範囲を制約し、自分のクリニックで働くNPから金銭的利益を得つつ、これらの専門職を意思決定の場や重要な会議からは排除していました。参加者は、前もって決められた役割を与えられ、そこから抜け出すのが難しいと感じていましたが、自分たちの専門的役割を発揮し、最もニードのある場所で、地域社会に直接予防や教育を提供し、在宅での三次ケアまで行うことで、最終的によりよい患者ケアを提供できるオルタナティブな方法を提示していた者も多くいました。このような、既存の規範や基準に囚われないアプローチとも言える、アイデアやイニシアティブが広まることは、現在のシステムによって周縁化され、沈黙させられてきた人々が、新たな医療提供方法を想像するために不可欠です。

  カナダのケベック州では、このような取り組みに参加する人々のビジョンに沿った、地域のニードに直接応える脱中心化した医療のためのコレクティブで明快なイニシアティブのひとつとして、CLSC(ローカル・コミュニティ・サービスセンター)が、短期間ですが成功した例がありました。学生主導のプロジェクトであるポワン・サン・シャルル(Pointe St-Charles)診療所の事例に基づき、市民が役員を務める理事会、すべての医療専門職の同一賃金、ラディカルな視点、コミュニティの組織化などを実現したこのモデルは、その後数年にわたって、コミュニティのニードに合わせた医療とサービスの提供という形で、州内の各地で部分的に再現されました(Plourde, 2021)医師団体による抵抗や、政府が市民組織化に疲労感を抱いたことなど、様々な理由からこれらの診療所は廃止され、医師主導の診療所(GMF)が、それぞれ公的資金で運営される民間企業として運営されることになりました。近年、これらの診療所(GMF)が市民を効果的にはケアできておらず、救急医療室の負担増を緩和できないという指摘が多くなされています。すべての市民が家庭医にアクセスできるよう強制的な方策が取られているにもかかわらず、依然として、救急医療室を訪れるという選択肢しか持たない「孤児(orphaned)」のような患者さんがたくさんいるのです(Plourde, 2022)。ドゥルーズの仮想/実状(virtual/actual)の連続性をここで考えれば、繰り返しても同じ結果には至らないため、過去の試みの再現勢化(reactualizing)を示唆することができます。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックによって加速された医療システムの崩壊という避けられない事態に対応し、また、医療における専門職の関係性をラディカルに変えたいと述べている多くの看護師の欲望(desire)に応えるため、現在の状況下でCLSCの本来のイノベーション的なミッションを試してみることは可能でしょう。これは、クリニックのコレクティブなミッションを共有するすべての人々によって、ヒエラルキーが脱構築され、新たな合意がなされる(renegotiated)場であり、ケアやサービスの提供を住民(the population)のニードからそらしてしまう商業的な目的ではなく、コミュニティの福祉(well-being)を目的としたコレクティブな目的論に基づいて、小規模なスケールのケアを提供できる場所となるでしょう。

  異なる職場文化を現勢化させるプロセスに貢献するもう一つの方法は、施設分析(institutional analysis)の実践です。ガタリの精神病院での研究に触発され、グループの主観性(subjectivity)を形成することを可能にするコレクティブな空間の創出に依拠した施設分析が、ある病院の研究センターでテストされており、最終的には病院内に応用される予定です(Lavoie et al., 2023)。こうした実験的なフォーラムでは、専門職のヒエラルキーから解放された空間で、全ての参加者(all actors)同士の相互作用を通じ新しいポストヒューマン的主観性を構築することができます。

  まとめると、ブライドッティの批判的ポストヒューマニズムに則り、諸存在(beings)間に内在する相互接続(interconnections)の変革的な可能性を実現するには、私たちを束縛するイデオロギーの壁や、私たちの時代が呼び起こしているように見える自己憐憫や終末論的思考への誘惑を乗り越えるための学際的なアプローチが必要です(Braidotti, 2020)。私たちの時代の否定性は「可能性に対する感覚を社会心理的に鈍らせ、システム的な断片化と関係構築能力の崩壊を引き起こすことで、それ自身を表現しています」(Braidotti, 2020, p. 3)。生命の根源的な生成力を認識し直すことは、看護教育において着手すべき重要なプロジェクトです。自分をポストヒューマンの主体であり、グローバルに介在され(mediated)他者と相互に接続されていると考えること、そしてそれを看護師として体現することが、看護教育の一部でなければなりません。危険なほどのスタッフ不足、過重労働、過度な強制残業などといった問題に挑戦する看護師たちによる内部通報(whistleblowing)についての報告に見て取れるような(Gagnon et al., 2022)、容認できない重大な不平等に直面した際に権力に対して真実を語る重要性を看護師全般に教育することもできるでしょう。彼女らに、ヒエラルキーに疑いを持つこと、内部通報や抵抗のポジティブな変革機能を尊重することを教れば、現状を批判的に捉える役割に加えて、人々のニードにより良く応える医療の未来に向けてオルタナティブ方法をアファーマティブに実現するという大事な役割を自分たちがどのように果たすかについて、理解を深める手助けができるでしょう。そのために、教授陣は教室で、医療における専門職ヒエラルキーの有害な本質、さらには看護の学問領域内に見て取れるヒエラルキーや分断についても力を入れて教えるべきです。学際性と専門職間の協働は、今後も学び続けるべき重要な概念ですが、専門職のヒエラルキーをフラットにする可能性を持つ相互扶助の概念も重んじるべきでしょう。批判的ポストヒューマン教育学の観点から、大学等のカリキュラムにおけるすべての科目には、批判的かつ政治的内容を含めるべきと考えます。芸術の要素を取り入れた(Arts-based)アプローチが、学生が直面する制約を絵や写真、パフォーマンス、その他のメディアを通じて表現し、その制約をよりよく認識し、これに対処していく手助けとして有効でしょう。批判的かつ政治に意識的になること、それぞれの役割は異なっていても看護師同士の連帯を学ぶこと、共に生きられるようになること、看護師にとって不利な権力関係を認識できるようになること、これらすべてが看護師のエンパワーメントを促進し、変化をもたらす力を育みます(Martin, 2019)。

 

 先にも述べたように、ブライドッティの批判的ポストヒューマニズムは学際的な連携を特に呼びかけていることから、看護研究もまた重要な役割を担うことになります。看護研究者は、ポストヒューマンの研究におけるさまざまな方法論(芸術、理論、遊び、実践等)を用いるのみならず(Taylor, 2016; Ulmer, 2017)、普段は沈黙を強いられていたりインタビューが難しいとされる、さまざまな人間および人間ならざるもの(nonhuman)の声にも耳を傾けることで、研究とその成果の幅を広げることができます。StalfordとLundy(2022)が指摘しているように、子どもと関わる研究者は、しばしば抑圧的な倫理委員会に制約されて、子どもと直接関わるという大事な機会を奪われてしまい、代わりに大人が子どもの代わりに発言する代理的な方法に頼らざるを得ない状況にあります。子どもを研究や医療における能動的な主体として正当に考えるためには、子どもたちが自分自身を表現できる、洞察力に富み必要な交流を可能にする研究手法の開発に特に力を注ぐ必要があります(Carnevale, 2020; Carnevale& Manjavidze, 2016)。

  テイラー(2016)は、ポストヒューマン研究の実施(enactments)が「飛び込みの練習」のようなものであるかを実にうまく説明しています。それは「(中略)雑然として、ぎこちなく、時に危険な事業である。確実な知識を得るための方法論的な安全地帯・つかまりどころ・隠れ場所はない」のです。しかし、ポストヒューマニズム研究における未知の領域を探求させ私たちを突き動かす原動力のひとつは、ポテンティア(potentia)です。ポテンティアとは、エネルギー、バイタリティ、そして生き延びようとする本質的な(constitutive)欲求のことです」(p20)。ポストヒューマニズムにつきものの新しい連携(new alliances)やアッセンブラージュの解放的なポテンシャルは、その植物学で言う無限成長的な(indeterminate)性質によるものです。つまり、一緒に実験したり、コレクティブに違った世界を建設したりする方法は無限にあるのです。例えば、建築家、生態学者、動物療法士と協力してグローバルなケア環境を新たに考案している看護師は、こうしたノマド的連携が持つ変革の可能性を示す一例です。これにより、フーコーが指摘した(1975)、同じ連続体上に存在する医療保健の制度(例えば病院)から脱却することができます。病院を、よりホスピタリティにあふれ、誰もが歓迎される場所として、また人々の変化し続ける多様なニードにもっと沿うように、再想像することができるはずです。

 

 最後に、ポストヒューマンの未来が呼びかける世代間公正の精神に則って、この新しい「人々」が、有機・無機を問わず生命体の来るべき世代を尊重する行動をとるために、どうすべきかについてよく考える必要があります。本稿で紹介した子供たちの事例では、医療施設や政府委員会などの役員会に彼らのプレゼンスを確保することは、ポストヒューマン世界における不可欠のプレイヤーとして、彼らの置かれた状況における知識と欲望に対する真摯な関心を現勢化するポテンシャルをもった方法です。

 

第5節    結論

 批判的ポストヒューマニズムは、今の時代のあらゆる疑問に答えられるようなメタナラティブではないかもしれませんが、現代において「ある(be)」ことの意味、私たちが何に生成変化したいのか、そしてそれをいかにしてもたらすか、考え直すきっかけを与えてくれます。ポストヒューマニズムは、新しいユニークな理論的志向を装うものではないという意味で、ポスト例外主義であること(Ferrando, 2013)を繰り返し強調しておかなければなりません。それはとりわけ、政治的なプロジェクトの中心に、アファーマティブな倫理的反応としての抵抗を深く刻み込むことを可能にします。その目的は、最終的に、周縁化された人間集団、人間ならざるもの、人間以上のものなど、ヒューマニズムとその継承者たちによって排除されてきた声に耳を傾けながら、私たちがコレクティブに構築しようとしている世界への議論に、すべての人を参画させることにあります。筆者らは、ポストヒューマニズムは思考と実践の肥沃な土壌であると感じているがゆえに、看護学者がポストヒューマニズムと関わり続けてくれることを願っています。Dillard-Wright(2022)などの看護学者が示唆してくれているように、新しい、異なる看護方法を思い描くには、ラディカルな想像力が必要です。しかし、ラディカルな想像力は、ラディカリズムがしばしば活動主義や過激主義として描かれるように、問題含みでもあります。私たちの生きられた現実(lived reality)について疑問を呈することは、ラディカルなことではなく、きわめて普通のこと、当然のことであり、また受け入れられるべきことです。人間例外主義の優越性・合理性を超えていくことは、私たちは常にすべてをコントロールできるわけではないことを、私たちが受け入れるよう迫ります。人間の限られた理解の及ばぬ現実の側面は、その現実性を損なうものではないのです。人間の主観性は「抑えがたい出会い、相互作用、感情、欲望の流れがもたらす影響であり、それは自分の意思ではコントロールできないもの」(ブライドッティ、2013a、p. 100)と解釈されうるものですが、このことは看護の学問領域の大半を今も支配している経験主義的(empirical)かつ理性的(rational)な基盤に疑問を投げかけます。ブライドッティ(2020)が巧みに指摘しているように:

 

人間性は創造の中心ではない。これは、生成変化(becoming)を扱う世俗的な、物質主義哲学としてのアファーマティブ思考の偉大さである。それは尽きることのない生成力であり、人間以外の生命をも含めた、あらゆる生(lives)を抵抗の場へと変える可能性を秘めている。生命(life)とは、私たち人間が作り出してきたものの真下にある(beneath)、後ろにある(below)、そしてこれを超越する(beyond)生成力である。この異質な(heterogeneous)生命の定義の中核にあるゾーエー(zoe)/ジオ/テクノの視点は、抵抗の場である。彼らは、ネクロポリティクスがもたらす荒廃や、生命を資本として管理するバイオポリティカルな管理に囚われることに対する多様でオルタナティブな選択肢を提示している。(p. 3)

 

 「我々は(みな)今ここに共にいるが、我々はひとつとして同じではない(we-are-(all)-in-this-together-but-we-are-not-one-and-the-same)」との言葉どおり、看護師にとって紛れもなく大切なのは、Massumi(2018)がポスト資本主義世界と呼ぶユートピア的な未来に対応できる新たな「人々」を形成するために必要な、コレクティブな状況を省察し続けることでありましょう。

 

謝辞

筆者らは、カナダ社会科学・人文科学研究会議およびケベック州高等教育省に感謝の意を表します。

 

利益相反に関する声明

筆者らは利益相反がないことを宣言します。

→哲学カフェへ戻る

参考文献

・Adam, S., Juergensen, L., & Mallette, C. (2021). Harnessing the power to bridge different worlds: An introduction to posthumanism as a philosophical perspective for the discipline. Nursing Philosophy, 22:e12362. https://doi.org/10.1111/nup.12362

・Alaimo, S. (2014). Thinking as the stuff of the world. O‐Zone: A Journal of Object‐Oriented Studies, 1, 13–21.

・Amster, R. (2009). Anarchy, utopia, and the state of things to come. In R. Amster, A. DeLeon, L. A. Fernandez, A. J. Nocella II & D. Shannon (Eds.), Contemporary anarchist studies (pp. 290–301). Routledge.

・Badmington, N. (2003). Theorizing posthumanism. Cultural Critique, 53(Winter), 10–27. https://doi.org/10.1353/cul.2003.0017

・Barad, K. (2003). Posthumanist performativity: Toward an understanding of how matter comes to matter. Signs: Journal of Women in Culture and Society, 28, 801–831.

・Beaulieu, A. (2021). Deleuze, Guattari et le posthumanisme. Interconnections: Journal of Posthumanism, 1(1), 69–70. https://doi.org/10.26522/posthumanismjournal.v1i1.2580

・Beaulieu, A. (2022). Back to earth! A comparative study between Husserl's and Deleuze's cosmologies. In C. Daigle & T. H. McDonald (Eds.), Deleuze and Guattari to posthumanism: Philosophies of immanence (pp. 90–104). Bloomsbury Academy.

・Bignall, S., & Rigney, D. (2019). Indigeneity, posthumanism, and nomad thought: Transforming colonial ecologies. In R. Braidotti & S. Bignall (Eds.), Posthuman ecologies: Complexity and process after Deleuze (pp. 159–181). Rowman & Littlefield International.

・Bogue, R. (2007). The art of the possible. Revue Internationale de

Philosophie, 241, 273–286. https://doi.org/10.3917/rip.241.0273

・Boulter, J. (2022). Postmodernism and Posthumanism. In S. Herbrechter, I. Callus, M. Rossini, M. Grech, M. de Bruin‐Molé, & C. John Müller, (Eds.), Palgrave handbook of critical posthumanism (pp. 1–16). Palgrave Macmillan. https://doi.org/10.1007/978-3-03042681-1_3-1

・Boundas, C. (2005). Les stratégies différentielles dans la pensée deleuzienne [Differential strategies in Deleuzian thought]. In A. Beaulieu (Ed.), Gilles Deleuze: Héritage Philosophique (pp. 15–43). Presses Universitaires de France.

・Braidotti, R. (2006). Posthuman, all too human: Towards a new process ontology. Theory, Culture & Society, 23(7–8), 197–208. https://doi.org/10.1177/0263276406069232

・Braidotti, R. (2013a). The posthuman. Polity Press.

邦訳:ロージ・ブライドッティ (著), 門林岳史 (ほか翻訳),『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』(2019), フィルムアート社

・Braidotti, R. (2013b). Nomadic feminist theory in a global era. Labrys, Études Féministes. https://www.labrys.net.br/labrys23/filosofia/rosibraidotti.htm

・Braidotti, R. (2015). Posthuman feminist theory. In L. Disch & M. Hawkesworth (Eds.), The Oxford handbook of feminist theory (pp. 673–698). Oxford Handbooks.

・Braidotti, R. (2019a). A theoretical framework for the critical posthumanities. Theory, Culture & Society, 36(6), 31–61. https://doi.org/10.1177/0263276418771486

・Braidotti, R. (2019b). Posthuman knowledge. Polity.

・Braidotti, R. (2020). “We” are in this together, but we are not one and the same. Journal of Bioethical Inquiry, 17, 465–469. https://doi.org/10.1007/s11673-020-10017-8

・Braidotti, R. (2022). Posthuman neo‐materialisms and affirmation. In C. Daigle & T. H. McDonald, (Eds.), Deleuze and Guattari to posthumanism: Philosophies of immanence (pp. 26–39). Bloomsbury Academy.

・Carnevale, F. A. (2020). A “thick” conception of children's voices: A hermeneutical framework for childhood research. International Journal of Qualitative Methods, 19, 160940692093376. https://doi.org/10.1177/1609406920933767

・Carnevale, F. A., & Manjavidze, I. (2016). Examining the complementarity of ‘children's rights’ and ‘bioethics’ moral frameworks in pediatric health care. Journal of Child Health Care, 20(4), 437–445. https://doi.org/10.1177/1367493515605173

・Dekens, O. (2019, January 17). Faut‐il se débarrasser de l'humanisme? [Should we get rid of humanism?] Librairie l'Odysée, Vallet, France. [Presentation].

https://www.ouest-france.fr/pays-de-la-loire/vallet-44330/rendez-vous-philo-l-odyssee-avec-olivier-dekens-6172375

・Deleuze, G. (1988). Spinoza: Practical philosophy. City Lights Books.

邦訳:ジル ドゥルーズ (著), 鈴木 雅大 (翻訳), スピノザ -実践の哲学- (平凡社ライブラリー) , (2002), 平凡社

・Deleuze, G. (1990). Expressionism in philosophy: Spinoza. Zone Books.

邦訳:ジル ドゥルーズ (著), 工藤 喜作 (翻訳), 小柴 康子 (翻訳), 小谷 晴勇 (翻訳), スピノザと表現の問題 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス 321), (2014), 法政大学出版局

・Deleuze, G. (2004). Difference and repetition. Continuum.

邦訳:ジル・ドゥルーズ (著), 財津理 (翻訳) , 差異と反復 上下合本版 (河出文庫) Kindle版, 河出書房新社

・Deleuze, G., & Guattari, F. (1987). A thousand plateaus: Capitalism and schizophrenia. University of Minnesota Press.

邦訳:ジル・ドゥルーズ (著), フェリックス・ガタリ (著), 宇野 邦一 ほか(翻訳), 千のプラトー - 資本主義と分裂症- 上・中・下 (河出文庫), (2010), 河出書房新社

・Deleuze, G., & Guattari, F. (1994). H. Tomlinson & G. Burchell, Trans., What is philosophy? Columbia University Press.

邦訳:G・ドゥルーズ (著), F・ガタリ (著), 財津 理 (翻訳), 哲学とは何か (河出文庫) ,(2012), 河出書房新社

・Dillard‐Wright, J, Hopkins‐Walsh, J. & Brown, B., (Eds.). (2022). Nursing a radical imagination moving from theory and history to action and alternate futures. Routledge.

・Dillard‐Wright, J., Walsh, J. H., & Brown, B. B. (2020). We have never been nurses: Nursing in the anthropocene, undoing the capitalocene. Advances in Nursing Science, 43(2), 132–146. https://doi.org/10.1097/ANS.0000000000000313

・Dillard‐Wright, J. (2022). A radical imagination for nursing: Generative insurrection, creative resistance. Nursing Philosophy, 23, e12371. https://doi.org/10.1111/nup.12371

・Dolphijn, R. & van der Tuin, I., (Eds.). (2013). New materialism: Interviews & cartographies. Open Humanities Press.

・Ferrando, F. (2013). Posthumanism, transhumanism, antihumanism, metahumanism, and new materialisms: Differences and relations. Existenz, 8(2), 26–32.

・Ferrando, F. (2019). Philosophical posthumanism. Bloomsbury Academic. Firth, F. (2012). Utopian politics: Citizenship and practice. Routledge.

・Foucault, M. (1970). The order of things: An archaeology of human sciences. Pantheon Books.

邦訳:ミシェル フーコー (著), 渡辺 一民, 佐々木 明 (翻訳)『言葉と物: 人文科学の考古学』(1974), 新潮社

・Foucault, M. (1975). Surveiller et punir [Discipline and punish]. Éditions Tel/ Gallimard.

邦訳:ミシェル フーコー (著), 田村 俶 (翻訳)『監獄の誕生<新装版> : 監視と処罰』(2020), 新潮社

・Gagnon, M., Perron, A., Dufour, C., Marcogliese, E., Pariseau‐Legault, P., Wright, D. K., Martin, P., & Carnevale, F. A. (2022). Blowing the whistle during the first wave of COVID‐19: A case study of Quebec nurses. Journal of Advanced Nursing, 78(12), 4135–4149. https://doi.org/10.1111/jan.15365

・Grosz, E. A. (2008). Chaos, territory, art: Deleuze and the framing of the earth. Columbia University Press.

・Haraway, D. (1985). A manifesto for cyborgs: Science, technology, and socialist feminism in the 1980s. Socialist Review 80, 15(2), 65–107.

・Hassan, I. (1977). Prometheus as performer: Toward a posthumanist culture? A university masque in five scenes. Georgia Review, 31(4), 830–850.

・Herbrechter, S., Callus, I., de Bruin‐Molé, M., Grech, M., Müller, C. J., & Rossini, M. (2022). Critical posthumanism: An overview. In S. Herbrechter, I. Callus, M. Rossini, M. Grech, M. de Bruin‐Molé, & C. J. Müller, Eds., Palgrave handbook of critical posthumanism

(pp. 3–26). Palgrave Macmillan.

・Hopkins‐Walsh, J., Dillard‐Wright, J., Brown, B. B., Smith, J., & Willis, E.(2022). Critical posthuman nursing care: Bodies reborn and the ethical imperative for composting. Witness: The Canadian Journal of Critical Nursing Discourse, 4(1), 16–35. https://doi.org/10.25071/

2291-5796.126

・Hopkins‐Walsh, J., Dillard‐Wright, J., & Brown, B. B. (2023). Nursing for the Chthulucene: Abolition, affirmation, antifascism. Nursing Philosophy, 24(1), e12405. https://doi.org/10.1111/nup.12405

・Kilpatrick, K., Lavoie‐Tremblay, M., Ritchie, J. A., & Lamothe, L. (2011). Advanced practice nursing, health care teams, and perceptions of team effectiveness. The Health Care Manager, 30(3), 215–226.

・Landgraf, E. (2022). Posthumanism and the Enlightenment. In S. Herbrechter, I. Callus, M. Rossini, M. Grech, M. de Bruin‐Molé & C. J. Müller, Eds., Palgrave handbook of critical posthumanism (pp. 123–144). Palgrave Macmillan.

・Laurin, A.‐C., Hopkins‐Walsh, J., Smith, J. B., Brown, B., Martin, P., & Tedjasukmana, E. C. (2023). Mattering: Per/forming nursing philosophy in the Chthulucene. Nursing Philosophy, 24, e12452. https://doi.org/10.1111/nup.12452

・Lavoie, J., Martin, P., & Laurin, A.‐C. (2023). Subjectivity through the lens of Guattari: A key concept for nursing emancipation. [Manuscript submitted for publication].

・Levi Strauss, C. (1973). Anthropologie structurale deux. [Structural anthropology vol.2]. Plon.

邦訳:

・Lloyd, G. (1994). Part of nature: Self‐knowledge in Spinoza's ethic. Cornell University Press.

・Lloyd, G. (1996). Spinoza and the ethics. Routledge.

・Martin, P. (2019). Souci de l'autre dans la relation humaine et fétichisme de la productivité et de la performance calculée: Quand le politique devient incontournable en formation infirmière. [Concern for the other in the human relationship and fetishism for productivity and calculated performance: When politics becomes unavoidable in nursing education]. 87e Congrès de l'ACFAS, Université du Québec en Outaouais, Gatineau, Canada.

・Martin, P., Bouchard, L., Perron, A., Lynch‐Bérard, M.‐J., Laurin, A.‐C., Ménard, J., & Malo, B. (2023). Rapports sociaux et structures de pouvoir dans lesquels s'enracine le vécu d'infirmières québécoises exerçant dans des secteurs de soins spécialisés: Une mise en regard

des pratiques de soins, de l'autonomie professionnelle et de la mobilisation infirmière [Social relationships and power structures rooted in the experience of Quebec nurses working in specialized care sectors: A comparison of care practices, professional autonomy and nurse mobilization] [Unpublished research report].

・Massumi, B. (2018). 99 theses on the revaluation of value: A postcapitalist manifesto. University of Minnesota Press.

・Moore, J. W., (Ed.). (2016). Anthropocene or capitalocene? Nature history and the crisis of capitalism. PM Press.

・Plourde, A. (2021). Le Capitalisme, c'est mauvais pour la santé: Une histoire critique des CLSC et du système sociosanitaire Québécois [Capitalism is bad for your health]: A critical history of CLSCs and Quebec's healthcare system] Écosociété.

・Plourde, A. (2022). Bilan des groupes de médecine (GMF) de famille après 20 ans d'existence: Un modèle à revoir en profondeur [Assessment of family medicine groups (FMGs) after 20 years of existence: A model in need of in‐depth review]. IRIS.

https://iris-recherche.qc.ca/wp-content/uploads/2022/05/GMF-note_web2.pdf

・Porter, S. (2013). Capitalism, the state and health care in the age of austerity: A Marxist analysis. Nursing Philosophy, 14(1), 5–16. https://doi.org/10.1111/j.1466-769X.2012.00556.x

・Porter, S. (2019). Why nurses should be Marxists. Nursing Philosophy, 20, e12269. https://doi.org/10.1111/nup.12269

・Prescod‐Weinstein, C. (2020). Making black women scientists under white empiricism: The racialization of epistemology in physics. Signs: Journal of Women in Culture and Society, 45(2), 421–447. https://doi.org/10.1086/704991

・Puig de la Bellacasa, M. (2017). Matters of care: Speculative ethics in more than human worlds (3rd ed.). University Of Minnesota Press.

・Rae, G. (2014). Ontology in Heidegger and Deleuze: A comparative analysis. Palgrave Macmillan.

・Ranciere, J. (1997). Le dissensus citoyen [Citizen dissent]. Carrefour, 19(2), 23–24.

・Rancière, J. (2008). Le spectateur émancipé [The emancipated spectator]. La Fabrique éditions.

・Sands, D. (2022). Introduction: Encounters between bioethics and the posthumanities. In D. Sands, Ed., Bioethics and the posthumanities (pp. 1–11). Routledge.

・Sharon, T. (2014). Human nature in an age of biotechnology: The case for mediated posthumanism. Springer.

・Smith, J. B., & Willis, E. (2020). Interpreting posthumanism with nurse work. Journal of Posthuman Studies, 4(1), 59–75. https://doi.org/10.5325/jpoststud.4.1.0059

・Smith, J. B., Willis, E.‐M., & Hopkins‐Walsh, J. (2022). What does person centred care mean, if you weren't considered a person anyway: An engagement with person‐centred care and black, queer, feminist, and posthuman approaches. Nursing Philosophy, 23, e12401. https://doi.org/10.1111/nup.12401

・Smith, K. M., & Foth, T. (2021). Tomorrow is cancelled: Rethinking nursing resistance as insurrection. Aporia, 13(1), 15–25. https://doi.org/10.18192/aporia.v13i1.5263

・Stalford, H., & Lundy, L. (2022). Children's rights and research ethics. The International Journal of Children's Rights, 30(4), 891–893. https://doi.org/10.1163/15718182-30040011

・Susen, S. (2022). Reflections on the (post‐)human condition: Towards new forms of engagement with the world? Social Epistemology, 36(1), 63–94. https://doi.org/10.1080/02691728.2021.1893859

・Taylor, C. (2016). Edu‐crafting a cacophonous ecology: Posthumanist research practices for education. In C. Taylor & C. Hughes, Eds., Posthuman research practices in education (pp. 5–24). Springer.

・Taylor, K. (2003). Utopianism. In I. McLean & A. McMillan, Eds., Oxford concise dictionary of politics (pp. 554–556). Oxford University Press.

・Ulmer, J. B. (2017). Posthumanism as research methodology: Inquiry in the anthropocene. International Journal of Qualitative Studies in Education, 30(9), 832–848. https://doi.org/10.1080/09518398.2017.1336806

・Vivaldi, J. (2021). Xenological subjectivity: Rosi Braidotti and object oriented ontology. Open Philosophy, 4, 311–334. https://doi.org/10.

1515/opphil-2020-0187

・Wolfe, C. (2010). What is posthumanism? University of Minnesota Press.

・World Health Organization. (2018). Human resources for health: Global strategy on human resources for health: workforce 2030 (144). World Health Organization. https://apps.who.int/iris/handle/10665/327509

・World Health Organization (2021). The WHO global strategic directions for nursing and midwifery (2021–2025).

https://www.who.int/publications/i/item/9789240033863

・World Health Organization. (2012). WHO recommendations: Optimizing health worker roles to improve access to key maternal and newborn health interventions through task shifting. World Health Organization.

https://apps.who.int/iris/handle/10665/77764

・Young, E. B., Genosko, G., &Watson, J. (2013). The Deleuze and Guattari dictionary (Ser. Bloomsbury philosophy dictionaries). Bloomsbury Academic.

 


この記事の引用の仕方(原著の表記):

Laurin, A.‐C., Martin, P. (2024).

Thinking through critical posthumanism: Nursing as political

and affirmative becoming. Nursing Inquiry, 31, e12606.

https://doi.org/10.1111/nin.12606

 

以上は、Laurin, A.‐C., Martin, P. (2024).Thinking through critical posthumanism: Nursing as political and affirmative becoming. Nursing Inquiry,31, e12606.https://doi.org/10.1111/nin.12606の日本語訳です(訳者:川端望海)。元の記事はクリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。:” This is an open access article under the terms of the Creative Commons Attribution‐NonCommercial License, which permits use, distribution and reproduction in any medium, provided the original work is properly cited and is not used for commercial purposes.© 2023 The Authors. Nursing Inquiry published by John Wiley & Sons Ltd.”


→哲学カフェへ戻る