論文和訳
Dillard‐Wright, J., Smith, J. B., Hopkins‐Walsh, J., Willis, E., Brown,B. B., & Tedjasukmana, E.C. (2024).
Notes on [post]human nursing: What It MIGHT Be, What it is Not.
Nursing Inquiry,31, e12562.
「(ポスト)ヒューマン看護覚え書き:ありうべき看護とは、そうでない看護とは」
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/nin.12562
下記は、Dillard‐Wright, J., Smith, J. B., Hopkins‐Walsh, J., Willis, E., Brown, B. B., & Tedjasukmana, E.C. (2024). Notes on [post]human nursing: What It MIGHT Be, What it is Not. Nursing Inquiry,31, e12562. http:s://doi.org/10.1111/nin.12562の日本語訳です(訳者:川端望海)。
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原著論文はこちら:
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/nin.12562
要旨
本論文は、まずポストヒューマニズム(s:複数形)について、それらの中心的な概念を説明するとともに、看護はすでに様々なあり方でそれらと絡まりあっている(entangle)ことを述べる。同時に、看護がそれらポストヒューマニズム(s)から明らかになる他の発想とさらに絡まり合うことで看護が受けうる様々な恩恵の可能性について述べる。まずはポストヒューマニズム(s)の歴史を手短に示すことで、それらが形成された多様な場所(point)にその折り重なったルーツをたどってみる。次にポストヒューマンの諸思想を特徴づける幾つかの点に着目し、それらの間の違いを明らかにし、我々が集合的に理解でき用語として使えるようにする。その中で、トランスヒューマニズム、批判的ポストヒューマニズム(critical posthumanism、以下CPHと記す)、フェミニスト新唯物論(feminist new materialism、以下FNMと記す)、およびCPHとFNMから見えてきた思弁的でアファーマティブな倫理について、それぞれ糸口が得られるよう考察を行った。これらにある概念は看護に豊かな創造性をもたらしうるものであり、多くの事例にて既に実施されている概念であり、この論文のラスト3 分の 1 でそのことを取り上げる。我々は看護の在り方がすでにポストヒューマンを体現している――しばしば批判的に見てさえそう言える――ことを考察し、実践として看護の思弁的世界構築(speculative worldbuilding of nursing)について検討する。最後に批判的ポストヒューマニスト看護の視点から、我々がかかわる人間たち(humans)および人間以外のもの/人間以上のもの/人間ならざるもの(other/more/nonhumans)に寄り添い(attend to)、それらはみな関係を持つなかでその場にとどまり(situate)物質として在り(material)身体を持ち(embody)つながる(connect)ものであるという洞察を述べる。
キーワード: 批判的ポストヒューマニズム、ニュー・マテリアリズム(新しい物質主義、新唯物論、新唯物主義)、看護、ポストヒューマニズム、トランスヒューマニズム
第1節 | はじめに
あなたはまだ息をしていますか?これは私たちの進化への捧げものであり、奴隷制、罠(entrapment)、分離、支配の軌跡を続けて大気を呼吸不可能にする代わりに、私たちがほかの呼吸法を実践する可能性に向けられたものです。それがどのようなものか私には分かりませんが、海洋哺乳類という私たちの親戚は溺れないという点で素晴らしいということだけは分かります。だから私は、彼らのことを先生、メンター、指導者と呼びたい。そして、あなた方も呼吸する同胞としてご招待します。私たちが進化しますように。(Gumbs, 2020)
看護はポストヒューマニズムの問題を抱えている。近年の議論や非公式の出版物を見ると、看護界にはトランスヒューマニズムに対する強い懸念があるようだ。これには、ロボットが看護業務を担うだろうとの見解、ポストヒューマニズムが人間(human)の終焉をもたらすという見方、ポストヒューマニズムには倫理が存在しないとの懸念、ポストヒューマニズムは死への回避策を編みだしうるといった過大な評価などが含まれる(e.g.,Stephens, 2023)。これは2022年夏に開催された第25回ハイブリッド国際看護哲学会議でのOlga Petrovskyaの基調講演に続いて起こった議論とも共鳴する。会議ではサイボーグ支配(cyborg overlords)到来への懸念が、ポストヒューマニズムにおける尊大な白人性への批判と相まっていた。これの緊張感の一部は妥当なものである。ポストヒューマニズムは、その中の批判的ポストヒューマニズム(CPH)でさえ、ヒューマニズムを超えて考えようとするその取り組みの中で、白人性、植民地主義、性差別、健常者中心主義(ableism)、資本主義、人種差別といった問題の再生産を避けていく上で多くの課題を抱えている。一方でこれの緊張の一部は、誤解によってもたらされた結果としての懸念であると筆者らは考えている。本稿では、筆者らのグループ:コンポスト・コラボレイティブが集団として(collectively)、複数形としてのポストヒューマニズムをどんなふうに理解しているかを示しつつ、ポストヒューマニズムが看護にもたらしうる可能性、つまり、私たちの過去/現在/未来が我々の親戚からなされる呼吸のレッスンによって展開される中、溺れないための努力を体現して(gestures)いきたい(Gumbs, 2020)。
本稿では、まずポストヒューマニズムにおける幾つかの主要な思想を概観することから始め、続いて看護がそれの幾つかと既に深く絡まり合っている(entangled)そのあり方(the ways:訳注;場所、道筋、やりかた、観点)を検討する。同時に、ポストヒューマニズムから生まれた他の思想とのさらなる絡まり合いから、看護が恩恵を受けうる複数の可能性を指摘する。そのために、まずポストヒューマニズムの歴史を簡単に述べ、これらが萌芽(germination)した複数の時点にまで、節くれだった幾本もの根をたどりたい。ここで、筆者らが理解している限りにおいて、ポストヒューマニズムが多声からなる(polyphonic)多発性の(multiple)ものであることを強調しておきたい。続いて本稿ではポストヒューマン思想の主要な特徴に目を向け、これによって各思想間の違いを見定め、用語のコレクティブな理解と使用について筆者らの見解を述べる。これにはトランスヒューマニズム、CPH、フェミニスト新物質主義(FNM)の各思索や、CPHやFNMから起こった思弁的(speculative)でアファーマティブな倫理を含める。このような考え方は看護にとって実り多いものであり、往々にして既に実践されている。本稿の後半3分の1ではこの事柄を取り上げる。本稿では看護が既にポストヒューマニズム的であること、時には批判的でさえあること、そして応用(praxis)として看護の思弁的な世界構築について検討する。本稿の最後に、批判的ポストヒューマニズム看護のビジョンを示すが、それは状況に埋め込まれ(situated)、物質的で(material)、身体をもち(embodied)、つながりあっている(connected)人間(humans)および人間以外のもの/人間以上のもの/人間ならざるもの(other/more/nonhumans)たちを、その関係性において、看護する(attend to)ものである。しかし本稿での検討を始める前に、筆者らは各自の、そしてコレクティブとしての社会的立場をまず確認し、本稿を生み出している物質的・身体的な環境を明らかにしておきたい。
筆者らは、白人および中国系インドネシア人を祖先にもち、第四次産業革命と第六次大絶滅の中で暮らし働いている看護師、アーティスト、教育者、学者であり、後期資本主義(late stage capitalism)の最後の崖っぷち(precipice)の端に不安定に(しかし、かなりの人々よりはずっと安定して)腰かけている(Braidotti, 2020; Sonic Acts, 2019)。筆者らは、コンポスト・コラボレイティブと自称する学術集団の中で共に生き、働き、学び、親しく交わり、遊ぶ者達である。個々人として見れば、我々は様々な社会的地位を占める者であるが、簡単に紐解けば以下のようになる。Jessは白人でデブで、クィアで、ジェンダークィアの親であり、パートナーであり、編み物好きで、かなりの学歴と労せず得た階級的特権を持つトラブルメーカー。She/they(訳注:ジェンダー代名詞は英語表記のままで記す)は、Akawahamandとして知られるアルゴンキン族の人々から奪われた土地に暮らし、働き、そして遊び、土地付与(land grant)大学の教員として、現在も進行中の入植植民地主義に加担している。Janeは、白人、シスジェンダー異性愛規範という労せずして得た特権の恩恵を受けている白人シスジェンダーのナースプラクティショナーであり、活動家であり、アーティビストであり学者。Jamieは中流階級に入ったばかりの、シスジェンダーの白人、クィアの看護学者で、英国に生を発し今はドイツで働く移住者としての恩恵を受けている。Brandonはシスジェンダーで、白人で、クィアで、看護師で、西アベナキ族から盗まれた土地に暮らす大学教員。Emmanuel Christianisは、シスジェンダーで障害のないクィア男性であり、アベナキ族から盗まれた土地に住む中国系インドネシア人の祖先を持つアジア系アメリカ人一世。Evaはシスジェンダー、白人の看護師、学者でドイツで暮らしている。
第2節 | ヒューマニズムについての短い(ごく短い)概説
「ヒューマニズム」を包括的に定義しようとする試みは、西欧中心的な世界における知識生産に向かう組織的エートスとしてのヒューマニズムの範囲(scope)と時間軸のせいもあって、圧倒的であるともいえる(Davies,2008; Wolfe,2010)。ヒューマニズムの起源は、ヨーロッパのルネサンス、啓蒙主義、キリスト教、世俗主義、植民地化のもつれに染み入っている(Braidotti,2022)。ヒューマニズムは、一人の思想家が生み出したものでも、一つの学派が生み出したものでもない。むしろヒューマニズムとは、超越的な意識、合理性、理性が授けられた者としての人間を中心に据えた考え方、信念、価値観の枠組みを指す(Braidotti,2019; Copson,2015)。超越的な意識が目指された理由のひとつは「物質性と身体性との結びつきから完全に」逃れることであり、それは今も変わらない(Wolfe,2010, p. xv)。この前提の下で、ヒューマニズムは人間たちを思考と言説そして宇宙の存在論的・認識論的なハブであるとする。Braidotti(2022)は、今日のリベラル・ヒューマニズムの主たる概念化は、人間(man)が、より厳密には言えば肉体的、精神的、文化的な完璧さを身にまとった白人のヨーロッパ人男性像が、尺度の担い手として世界中に輸出されるようになった啓蒙主義の産物であると述べている。Braidotti(2013)は、この覇権的な人間の仮想像(ideal)をレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な15世紀のデッサンのイメージに重ね合わせつつ「ウィトルウィウス的人間」(Vitruvian Man)(p.14)と呼ぶ。筆者らは「ウィトルウィアン・ナース」(Smithet al.,2022)という形で、この隠喩を看護の世界へと展開した。
フーコー(1994)は『言葉と物:』の中で、人間は終わりに近づいていると宣言し、西洋のエピステーメーにリベラル・ヒューマニズムの衣を脱ぐよう呼びかけている。ポストヒューマニストの思想家らは、権力、人間という主体、そして支配(control)を批判的に問うこのフーコーの呼びかけに応じた(Jackson,2013)。実際、Braidotti(2022)は、西洋のヒューマニズムが理想的な人間に適合しない人間/人間ならざるもの(nonhuman)の他者を拒否していると指摘している。Braidotti(2022)によれば、これには「女性やLGBGQ+の人々(性的他者)、黒人や先住民の人々(人種的他者)、動物、植物そして全ての存在物(earth entities)(自然化された他者)が含まれる」(p.19)。しかしながらジャクソン(2013)は、ポスト構造主義者やポストヒューマニストによる批判は、セゼール(2001)、ファノン(2008,2021)、Wynter(1984,2003)といった反植民地主義の哲学者たちによって豊かに練り上げられたヒューマニズム批判を受け止めきれていないと指摘する。これらの学者たちは、リベラル・ヒューマニズムの体制下で、誰が人間であり、誰が人間でないとみなされるのかを問うという重要な仕事に深く関わってきた。これらの批評を受けて、事項ではポストヒューマニズムについて検討する。
第3節 | (ポスト)ヒューマニズムについて
ポストヒューマニズムは広範囲にわたる理論的な枠組みで、批判理論から派生してきており「人間」(ヒューマン)と「人間以上の存在」(モア・ザン・ヒューマン)の間に引かれがちな二項対立的な境界線に疑問を提しつつ探求していくものである。このような着想(ideas)をさまざまな方法で体得しようとするポストヒューマニズムにはそれゆえ色々な流派(thread)があり、それゆえ単数形でなく“ポストヒューマニズム(s)”と複数形であらわすことにする。まず始めに、おそらくはこの理論に初めて触れた人がもってしまうであろうこと、つまりポスト・ヒューマニズム(s)は「ヒューマン」を滅ぼしたく思っているのではないか?という発想を真摯に受け入れておきたい。その答えは我々が考えるところでは否である。人間たち(humans)の卓越性にばかり着目する態度をずらすことが、今までヒューマニズムの中に/を通じて/をめぐって構築されてきた様々な文化的空間(cultural spaces)を脅かしはしないかといった受け止め方がされかねないのは重々承知の上でそう答えたい。さてここで、ポストヒューマニズム、トランスヒューマニズム、批判的ポストヒューマン(CPH)、フェミニスト新唯物論(FNM) といった諸理論の違いに戸惑うことがないよう、これらの理論が各々取っているアプローチの仕方について述べていきたい。その次にCPHの看護における/看護のための様態(mode)として、思弁的(speculative)でアファーマティブな倫理について述べる。これら各々の特徴と微妙な差異を明らかにしておけば、看護界にある所のポストヒューマニズムに対する懸念と敵意がいくらかは軽減されると考える。
第3節1項 | ポストヒューマニズム
ポストヒューマニズムは「人間」のカテゴリ化に挑みつつ従来の人文主義哲学の諸限界を指摘していくもので、広範囲にわたる概念と分析手法を持ちわせている。 (Wolfe,2010)。 その諸概念の間には緊張や矛盾があり、整合性がないとさえ言える。「ポストヒューマニズム(s)」は幅広い概念の総称である。ここではポストヒューマニズム(s)が総じて持っている意見の一致点と相違点についてそのあらましを紹介する (Hoppe & Lemke、2021)。ザックリ言えば、ポストヒューマニズムは人間の本質について、伝統的に保たれていたその思い込みに対し異議申し立てをするものであり、それには人間至上主義――つまり世界は元から人間が頂点に立つ階層構造になっているのだ、という見方に挑む。ポストヒューマニズムは、人間が宇宙の中心にあるという憶測に抵抗しつつ、自然/文化、主体(subject)/対象(object)、人間/人間以上(モア・ザン・ヒューマン)といった二元論に疑問を投げかける。(Merchant,2006) これは、人間の本性は決して変化せず、かつ他の自然とははっきり違う…という見解に異議を唱えるもので、人間と自然との間のこのような分け隔てが人間(humanity)を含むこの世界に害を及ぼす可能性を認識している。(Braidotti,2019;Latour,2012;Merchant,2006;Wolfe,2010)。 ヒューマニズムの世界観の構造にある二項対立に代わるものとして、ポストヒューマニズム(s)は相互依存と関係性を優先し、私たちが何者であり何者になる(become)かを方向付ける上で物理的環境と身体化された存在の重要性を指摘する。興隆しつつあるポストヒューマニズム(s)の様々な系統は、技術に対し異なったアプローチをとっている:あるものは技術の潜在的なリスクやその不都合な面に注意を払い、あるものは技術が実際に果たしうる機能の重要性に目を向ける。また、人間の肉体と精神の限界を超えることを可能にする技術的・科学的進歩に焦点を当てる者もいる。ここでポストヒューマニズム(s)の流派のうちトランスヒューマニズムに目を向けてみよう。
第3節2項 | トランスヒューマニズム
ポストヒューマニズムの最も問題含みの流派のひとつがトランスヒューマニズムである。これについて検討する。トランスヒューマニズムは、看護の世界でも、それ以外でも、大きな不安の種となってきた。政治経済学者のフランシス・フクヤマは2004年の論文において「彼らが望むのことは、人類をその生物学的な制約から解放することにほかならない。トランスヒューマニストによれば、人類は進化の盲目的な突然変異と適応のプロセスから自らの生物学的運命を奪取し、種として次の段階へと進まなければならないのだ」と述べている。(p.42)。フクヤマ(2004)はトランスヒューマニズムがもたらす、不公平にまつわる途方もない不愉快さ、人間の自己改造がもたらしうる未知かつ不可知の帰結を指摘している。第二次世界大戦後の技術の卓越性から生じてきたトランスヒューマニズムは、身体、認知、感情のうちのどれであれ、これら人間の諸条件における制約を拡張するため科学技術を進んで利用しようとする。生物学者で著名な優生学者であるジュリアン・ハクスリーは、一般にトランスヒューマニズムの父とみなされているが、その彼はこう書いている。「最も恵まれた人々でさえその能力をはるかに下回る生き方をしていること、そしてほとんどの人間は潜在的にもっているはずの精神的・霊的能力(efficiency)のほんの一部しか発達せしめていないことに、我々は気づき始めている。実のところ人類は、未だ達成されざる可能性という広大な領域に取り囲まれており、探究心が試されている」(Huxley,1957,p.15)。これには、すべての人間(all humans)がその寿命を延ばし、より成功し、より大きな幸福と福祉を達成するオートピア(autopia、訳注:非現実的な理想郷)も含まれる。ハクスリーの優生主義的な考え方はトランスヒューマニズムを基礎づける前提に反映されている。問題含みの起源と言える。
トランスヒューマンは、人間の制約に関して抽出的な技術資本主義的解決策を重視し、その制約が存在しているところの広範な社会的・文化的文脈から切り離される(decoupled)ことで、理想化された超人(superhuman)という概念を生み出すに至る(Huxley,1957)。このテクノロジーに媒介された超人(ubermensch)は、野心的な理想像として掲げられているものの、この人間(human)のバージョンは偶発性によって導かれたもので、共生関係からではなくこの宇宙にある諸実体(materialities)を消費することで燃料を供給され、永遠に生き続けようとするものだ。身体化された(embodied)人間のあり方(human condition)を超越しようとするトランスヒューマニズムには、遺伝子工学、ナノテクノロジー、ブレイン・コンピューター・インターフェイス、人工知能などが含まれるかもしれない。よくある、そして懸念されるイメージの一つは、人間の意識がアップロードされ、死すべき肉体を超越し、ある種のテクノロジーに媒介された不死を実現するというものだ。トランスヒューマニズムは、個人主義的、かつ目的論的な進歩を通じた人間の改良(human improvement)について、それ自体が望ましい目標であるという前提に立つ。したがってトランスヒューマニズムは往々にしてヒューマニズムが前提とする事柄に挑戦する替わりに、それらを再生産し強化してしまう(Wolfe, 2010)。こうした問題含みの諸前提の中でも特に重視すべきなのは、トランスヒューマニズムの基盤的前提である白人のシスジェンダーヘテロセクシュアルな家父長制であろう。
ポストヒューマニズムの中でさえ意義が唱えられるところの、トランスヒューマニズムとトランスヒューマニストが持つ強い欲求は、あたかもポストヒューマニズムのすべてを包含する小鬼(bogeyman)のごとく、学者や一般市民の間に急速に流布している。しかし、トランスヒューマニズムはポストヒューマン哲学の全てでも、最重要物というわけでもない。トランスヒューマニズムが、テクノロジーを人間の物質的身体を含めた自然環境の制約を超越するための手法として構想するのに対し、CPHは人間と環境の相互依存を最重視しつつ、テクノロジー的な介入の可能性を認める。次節ではCPHに着目する。
第3節3項 | 批判的ポストヒューマニズム(CPH)
批判的ポストヒューマニズム(CPH)は他のポストヒューマニズムと同様ヒューマニズムが前提とするものに挑んでいるが、より具体的かつ批判的なアプローチで挑戦するものである。理論としてCPHは、ポストヒューマニズムの視点から社会的、文化的、政治的な意味の関わり合いを分析していく。なかでも、この世界が 「人間(man) 」をその中心として構築されてきたものであるか否かを問うことは、地球や他者に対する人間(human)例外主義、人間の支配的立場や優位性だけでなく、個人主義や 自律性(autonomy)にも疑問を投げかけることとなる。しかし先に述べたように、個人主義や自律性は否定されず、むしろ人間たち(human)同士や人間たちと環境との相互依存(interdependence)、内的な依存関係(intradependence)が強調される。決断は個々人によって下されるのだが、ポストヒューマニズムはその決断をこの世にもたらすとき我々はいったい誰に依存しているのか、そしてその決断が生起してくるためにはどのようなリソースを要するのかを問う。その際、ポストヒューマニズムは、人間(humans)は他の存在(other beings )(人間、動物、機械、環境)と深く関わっており、こうした関係性が私たちのアイデンティティや価値観、態度(perspectives)を形成するのみならず、我々がその主体性(agency)が発揮するために必要なものであることを認識する。CPHは、そのような絡み合い(entanglements)の中で権力がどのように作用しているのか、また、人々が自分たちの物質性(materiality)の文脈の中でどんな具合に偶発的な(contingent)存在であるのかをたどるものである。
CPHの発展に寄与した重要人物の一人はフェミニスト哲学者のロージ・ブライドッティで、彼女のノマド的主観性に関する研究は大きな影響力を持ってきた。Braidotti(2013)は、自己とは常に流動的でダイナミックな存在(entity)であり、自己がその身を置かれている所の社会的・文化的文脈によって形成されるものだと論じている。彼女は個々人の相互関係性およびアイデンティティが構築されてくる広い意味での社会的・文化的文脈を見極めることの重要性を重視する。フーコー(1994年)とドゥルーズ&ガタリ(1988年)の著作に依拠しつつ、そのリゾーム的なネットワークと主観性の生成変化(becoming)に関する研究は多くの批評理論家に影響を及ぼしてきたものであるが、アイデンティティとは固定的なものではなく、むしろ社会的・文化的システムの複雑で相互に接続されたネットワークによって形作られる生成変化の過程と捉えられる。CPHは哲学、文学、カルチュラル・スタディーズなど様々な分野で用いられてきた。看護の分野では、ケアの提供にまつわる慣習的な前提を問い直し、よりアファーマティブなケア実践を展開していくためにCPHが支持を集めている。CPHは、物質世界と社会的・文化的なシステムを含めた現実生成(production of reality)において、人間と人間以外のものたちが絡み合っていることを重んじ、看護師に対してはケアが行われる際のより広い文脈を批判的に検討し、昨今の専門化された看護に根ざしている白人シスジェンダーヘテロセクシュアル優位の家父長制的な権力構造がそこで生み出すものを把握するよう促すものである。(Hopkins-Walshet al.,2022)。
第3節4項 | フェミニスト新唯物論(FNM)
批判的ポストヒューマニズム(CPH)はフェミニズム理論や科学論と相互に繋がりあっている。フェミニスト新唯物論(FNM)は物質に関する問い、そして物質がどれだけ大きな違いをもたらすかに関心を寄せる(Barad,2018)。先住民の知識体系に多くを負っているFNMは、フェミニスト科学哲学の起源にルーツを持つ(Haraway,1988;Harding,1991)。看護にとってFNMは、スタンドポイント認識論、すなわち我々が個人として抱くものの見方は、社会的経験によって形成されると考える理論に根ざしたものと言った方が分りやすいかもしれない(例えば、Abrums,2004; Barbee,1994; Jagger,2004; Reed,2022; Risjord,2009)。批判的ポストヒューマンの視点から言えば、FNMは看護というものを理解する上での糸口となりうる。FNMは物質的、社会的、文化的世界を含めた現実の制作において人間と人間以上のものたち(more‐than‐humans)との関わりを強調しているためである(Aranda,2019; Dillard-Wright,2022; Dillard-Wright & Shields-Haas,2021)。ここで外傷を負いクリティカルケア看護を要している患者の経験を考えてみよう。車や銃や爆発物や戦闘といった、人間と人間以外(other‐than‐human)のファクターからなるいくつかのアッセンブラージュの中で重傷を負った外傷患者は、看護師たちの有機体、電子モニター、資本主義、細菌、呼吸療法士、体液、血液、汚物、プラスチック、請求書、酸素、環境、アルゴリズム、医師たち、X線、空間、ケアなどからなる医療産業複合体に吸い込まれ、それらは絶えず変化し、終始移り変わり、絶え間なく関係し合っているものである。フェミニスト看護理論家のアランダ(2019)ならばこれらを「ダイナミックで活気があり(lively)創発的(emergent)」(p.4)と描写するかもしれない。フェミニスト批判的理論の視点は、看護というものが女性化された(feminized )労働と見なされ、そのように作り出され、その価値を貶められているものだけに看護にとって不可欠であるといえる。ケアが形作られる際の物質性(materiality)と関係性(relationality)の重要性を認識するFNMは、ケアが行われる幾つもの幅広い文脈を看護師らが批判的に検討していくことを可能にするツールとなっている。このような視点は、よりアファーマティブなケア実践を今後展開していくために、ケアの提供(caregiving)に関するこれまでの前提に挑むことを可能にする。
第3節5項 | 思弁的倫理とアファーマティブな倫理
はたして我々は未来にあっていかなるケアをしているのか、どのような未来を我々は実現するのか。これは不安や懸念を呼び起こしかねないテーマである。ここではポストヒューマニズム(s)について、その中のトランスヒューマニズムとCPHを対比させながら、批判的ポストヒューマンケアにおける我々の実践で用いている思弁的(speculative)でアファーマティブな倫理について論じる。Lloyd(1994)の見解をもとにアファーマティブな倫理に着目すると、倫理とは現実が認識される時点、つまり日常的な諸行為において実体化する(materialize)と解釈できる。Lloyd(1994)は、このようなアファーマティブな倫理についての見解をスピノザ的な思弁的倫理学の概念から発展させている。思弁的倫理学とは、我々のすべてが世界の物質性の一部であると理解しつつ、未来に生じうる展開に照らしながら倫理的な疑問やジレンマを探求していく哲学的アプローチである。ドゥルーズとガタリ(1988)によれば、スピノザは物質的世界(「自然」)に基づく哲学体系を提示し、存在するすべてのものはこの実態(substance)の様式(mode,)、あるいは変状(modification)であるとした。彼は、このことについて共有理解(shared understandings)を創り出すことこそが最高の知の形態であること、そして倫理的存在とは我々が我々の物質性の中にどう位置づけられるかについて共有理解を創造できることである、と主張する。スピノザの倫理体系に対するLloyd(1979,1994)の解釈は、倫理的行動の最高の形は、これら共有理解が生じてきた時点での根拠に基づいて行動することであるという考えに基づいている。看護において課題となるのは、この学問にあるところの植民地的枠組みに基づいた仮想的権力構造によって制限されたり覆い被せられたりすることなく、どのようにこれを行うかである。ある状況におけるアファーマティブな倫理とは、何かが主観的に認識できるようになったときに、共有された理解を生み出す過程のことである。アファーマティブな倫理において、この認識は静的なものにはなりえない。状況が変化するにつれ、その時々の状況を認識しかつ理解可能にしていくことは現在進行中のプロセスである。このように、アファーマティブな倫理とは変化する諸状況に適応しながら共有理解を生み出していく、動的で進化していくプロセスである。ということは、どのような観点から見ても、たくさんの未来が生じ得るがそれらはまだ定められてないということであり、看護師はそれらの諸状況に対し誰のどのような未来が重なりうるのか留意すべきである。アファーマティブな倫理を実践することで我々は自分の置かれた状況性(situatedness)や、その状況の元で下すことのできる/できない幾つもの決断について、説明責任が果たせるようになる。我々が、看護ケアは思弁的で困惑される(confused)ものだというふうに記述するとき、これは自己認識(self‐knowledge)が身体的認知(bodily awareness)の混乱(confusion)を共有するというスピノザ的な認識を示している。つまり、混乱は実在の機能であり、我々がそれをどう受け止めるかということなのだ。状況にはパターンが存在する一方、我々は物質的な関係性およびそれらが生み出される諸事情(conditions)に対して批判的に臨みかつ順応し(attuned to)続けるべきである。混乱と思弁(speculation)とを受け入れることで、看護ケアはその瞬間瞬間を活き活きさせうるが、同時にそれは刻々と変化する状況の乱雑さ、および常に変化する運動状態(everchanging dynamics)の中で倫理的・専門的な葛藤があること、加えて幅広い抽象的概念と権力関係を承認するということである。看護師たちは生理学的指標のわずかな変化を察知して対応し、他の臨床家にその変化を伝え、家族にはその患者特有の医療的存在論(healthcare ontology)の理解を促しながら、その一方で家族と患者の生活世界(lifeworld)に交互に参加して臨床的現実を共同構築することで、主観的に認知可能な現実の共有理解を常に作り出している。思弁的倫理においては、看護上おこりうるすべてのシナリオに適用できる答えがありケアを進めるなか常に変化する流れに適切かつ公正な決定を下しうる厳格な道徳性といった威圧的なモラルは退けられる。それよりもむしろ看護師は、アファーマティブかつ実際的に、その場の状況と感情に即した権力関係によって自分たち自らがその世界を作るべきなのだ。今この瞬間、看護師とそのケアにかかわる人々にとって最善の解決策があったとしても、1時間後ないし1日後には、それほどではなくなっているかもしれない。思弁的倫理は、看護師達がその世界をどう理解するかということに影響しうる知識や経験を持ちつつその状況に臨む、身体化され状況化された人間(human beings)であると認める。看護ケアは、それが思弁的かつアファーマティブであるとき、我々に理解を授け権力を編み出させたそれまでの歴史を受け入れ、思いやりとケアに満ちた方法で世界を制作する。
Puig de la Bellacasa(2017)は、事前に計画されることのないケアについての唯物論的、生態学的かつ関係的パラダイムを提唱している。計画しないということは、カオス的でも準備不足でもない: 専門知識、トレーニング、そして知識に深く根ざした手仕事(art)とは、どんな状況に置かれようともそれに対し開かれた自分自身が見いだせることである。このようなアプローチでは、ケアは非搾取的な人間/人間以上(more‐than‐human)の関係に埋め込まれる必要がある。人間(humans )に特定の未来を計画したり人間の集合(humanity)に道徳主義的な観点を想定したりするケアの形態は、制約的かつ禁止的なケアのモデルを再生産してしまう。ケアはそういうものではなく、すべての人間が出来うる限りその中で生きられるよう、この世界を維持し持続させ、修復するためになされるすべてのことでなければならない(Fisher & Tronto,1990; Laurin & Martin,2022)。看護学者は看護ケアを批判的ポストヒューマン理論の中に位置づけ始めている。これはCPHのアファーマティブな倫理と資本主義への対抗可能性を見出したためである。看護ケアは、置かれた現実を認めながらその世界がどう制作されるかをめぐる、思弁的でアファーマティブな特性を受け入れ活用できることだろう。思弁的倫理は、異なる複数の倫理的枠組みの間における可能性と制約をよりよく理解するのに役立つ。さらには、トランスヒューマニストが前提とするものへの懸念や、具体的なことでは人工知能、遺伝子工学、ナノテクノロジーなど新しいテクノロジーそのものへの心配など、将来発生しうる倫理的な課題の数々を予見し、それらに備える際にも役立つ。思弁的思考にいそしむことで、看護師は潜在的な倫理上の苦境を事前に察知して対処することができ、そして、急速に変化していく世界の複雑さにより合致した、ニュアンスに富み芳醇な倫理的枠組みを作り上げていくことができる。思弁的倫理がもつポテンシャルは、急速に変化する世界の複雑性に適応しうる複雑で微妙な差異を含んだ倫理的枠組みが展開できることにある。思弁的倫理においては、たとえ未来の可能性に対し陰鬱かつ恐怖に満ちたイメージを抱かせたり無気力を呼び起こしかねない不確実性・曖昧さがある時でも、快くこれに挑んでいくことができる。だからこそ、我々は実践においてアファーマティブ倫理を採用するのだ。
第4節 | 看護は既にポストヒューマン...
看護とは生成変化(becoming)における関係的な様式(relational mode)を前提とするケアの一形態(form)である。なされかたによっては、看護はケア提供において在来の権力関係を提示し、再生産し、強化し、増幅する。批判的ポストヒューマン(CPH)理論は、資本主義的なケア生産を方向づける権力の動態(power dynamics)に挑み変革するための方法を考える際の枠組みを提供する。看護ケアは人間(human)というアクターだけでなく、テクノロジー、微生物、環境など、人間以上のもの(モア・ザン・ヒューマン)の行為主体(actor)が関与する複雑な関係ネットワークの中で行われるものだ。看護ケアにおけるCPH理論にあっては、ケアは常に既にある関係性の絡まり合い(relational entanglement)であり、こうした絡まり合いには物質的な結果が伴うことを受け入れる。今日の看護ケアはしばしば、質の高いケアよりも効率性や生産性を優先するような新自由主義的な枠組みの中で提供されることになるが、CPHの諸理論はこのような支配的言説に対抗しうる視点を提示する。ケアの諸実践におけるモア・ザン・ヒューマンの行為主体性(agency)を(再)設定することで、CPH理論は行為主体としての人間のみがもっぱらケアに責任を負うという考えに挑みつつ、ケア実践を形作っていく環境やテクノロジー、その他のモア・ザン・ヒューマンの行為主体的な役割を強調する。たとえ人間に向けてケアが行われる時であっても、ケアというものは同時に人間以外のもの/人間以上のもの/人間ならざるもの達(other/more/nonhumans)の領域を巻き込み、それらは複雑なネットワークの中で進行するところの、私たちが環境を創造したり制限したりする方法を形作る道具として働く。このプロセスには、人間的な要素と人間以上の要素の両方が関わっており、その中でケアに向けて共生関係(symbiosis)が働く。例をあげると、看護師が胸部感染症の患者さんに抗生物質を投与すれば、一定の細菌が抑制され、一方で人の健康は促進され他の細菌の繁栄が許容される。この世界で人間たち(humans)がどの程度空間を占めうるかは権力と深く結びついているものだ(Ahmed,2014)。特に看護の実践は誰がそして何を人間とみなすかという選択を伴ってくる。この意思決定プロセスはシンポイエーシス(sympoiesis)という文脈の中で行われ、そこでは権力がネットワーク内の潜在的なつながりに影響を与える。ロイド(Lloyd ,1994)やスピノザが提唱しているように、権力は諸関係の生成的側面であるポテンティア(potentia)および制限的側面であるポテスタス(potestas)として現れる。上記の例では、抗生剤を投与するという行為が物質の継続的な進化におけるポテンティアとポテスタスのシンポイエーシス的な本質(nature)をよく言いあらわしている。
権力関係と、人間と人間以上のものの相互関連性についての議論を継続しつつ、このような関係が、人間たち(humans)を彼らを取り巻く環境の中にどのように位置づけながら、誰をないし何を人間とみなすかという決定にどのような影響を与えるかを検討するのは大事なことだ。
アーティストで看護師でもあるエマニュエル・クリスチャン・テジャスクマナ(Tedjasukmana)(2022年)は、この交差(intersection)における説得力あふれる手本を差し出している。彼はアートと看護の両者を組み合わせることで、現在の医療行為が環境に与えている気づかれ難い・見過ごされがちな影響と、それが人間性(humanity)の決定も含んでしまうことへの注意を喚起している。テジャスクマナはその作品 “Do No Harm: An Artist's Attempt to Shift Healthcare Culture Within the Anthropocene(害すなかれ:人新生下で医療文化を変えていくための芸術家の試み)”では、廃棄物の発展途上国への輸出など、医療が環境に及ぼしている影響の数々と、往々にしてこれらのファクターが人間中心の医療行為から切り離されていることを探求している。この分離は環境問題を悪化させるだけでなく、権力の不均衡を強化し、特定集団の疎外を永続させてしまう。これにより、有害な廃棄物の影響が被害に遭いやすいコミュニティに釣り合わないほどのインパクトを与え、誰があるいは何が人間であるとみなされるかの決定が形作られる。デビッド・フェデールの『E-Wasteland』は、発展途上国、特にガーナにおける廃棄物投棄が環境と人間に及ぼす影響を暴いたドキュメンタリー映画である。(Fedele,2012)映画は、このような実践がローカル・コミュニティや生態系に与える壊滅的な影響を浮き彫りにすると同時に、E-waste問題に対する世界的な責任と持続可能な解決策を促し、人は環境とかかわりあっていることを認識させる。ドネツ(Dönmez,2016)は、こうした慣行は生態系帝国主義の一形態であると繰り返し述べている。テジャスクマナはアート、デザイン、デジタルメディアを駆使しつつ人々の関心と寄与を高め、持続可能な変革、特に医療業界におけるそれをすみやかに促すことを目指している。ケア・環境・権力の間にある複雑なつながりに取り組むことで、彼の作品は私たちが人間性を決めるやり方と、これらの複雑なシステムの中でさまざまな個人や存在(entity)に提供されるケアのあり方に挑みこれを変えていく。図1:"Harming in Order to Heal #7(癒すために害す#7)”を参照。
地理的・社会的・時間的な諸次元のいたるところで相互に結びつく空間をシンポイエティックに創造していくことは、権力関係を通じて私たちの世界を違った形にすること、何が人間とみなされるかについて、また新たな関係性について地ならしをするはずだ。看護の実践はこれを行うことで、今の複雑なシステムの中でさまざまな個人や存在に提供されるケアのあり方や人間性(humanity)の定義に影響を与えるという極めて重要な役割を果たす。
第4節1項 | ...これはそんなに悪いことではない
ポストヒューマニズムは、しばしば神をも恐れず道徳心に欠け非倫理的なものではないか…という懸念をもたれるにもかかわらず、倫理に対する思弁的でアファーマティブなアプローチは、看護その他のケア実践にとって生成的な力を持つ。我々がここで概説するこれらの倫理の不確定的かつ思弁的な性質は、まさにトランスヒューマニズムとは相反するものであり、それは知識生産の様式としてCPHとFNMが人間および人間以上/人間以外/非人間/人間ならざるものからなる行為主体(human and more/other/non/unhuman actors)の間の状況的で情緒的な関係性を受け入れるからである。トランスヒューマニズムが技術的強化(enhancement)によって人間の限界を超えようと試みる一方、CPHのアファーマティブな倫理は、共有理解(shared understanding)の瞬間瞬間を通じて現実を生み出すことにおける人間と人間以上のものたちとの相互の関係性を重視する。このような倫理観は、アルゴリズムによる「もし何かが起こったら」(what‐if )ではなく、「こういう状況ならこうする」(if‐then)を志向するもので、看護に適している(Smith et al.近刊予定)。看護ケアを含む 「ケア 」というものが、そう簡単には定義できない複雑で微妙なトピックであることは重々承知しているが、一方でケアはケアをする側と受ける側との関係性の中で世界制作として起こるものであると我々は確信している。それゆえに看護は常に一貫してサイボーグであり、統合された実践とテクノロジーが、空間と時間をまたがって様々な生(beings)を結びつけているのである。アファーマティブな倫理と思弁的な倫理、CPHによって、物質的、社会的、文化的、環境的な文脈の中で起こり状況化する医療というものへの、微妙な差異に富み入り組んだ理解がなされうる。アファーマティブな倫理は、世界制作としてのケア、一種の行動による倫理に取り組むものである。ルールに縛られたりアルゴリズム的かつ個人主義的に危害を回避してまわるのでもないこの類のアプローチは、むしろ関係性を優先し、人間および人間以上の生の価値と尊厳を肯定し、個々人と社会全体の幸福と繁栄に貢献するものである。
第4節2項 | 思弁的な世界構築としての看護
これまで述べてきたような様々な不安や問題のために、看護はCPHに取り組んでいないと考えることはできる。しかしながら、看護はすでに洞察力に富んだ(visionary)世界構築の実践を体現している(embodies)と主張することもできる。言い換えれば、まさに看護という活動(act)そのものが、実はすでにCPHを生み出している(producing)のである。どの程度テクノロジーが媒介するかの差はあれど、これは地球の至る所での現実(case)だ。すなわち、看護師、家族、ケアワーカーたちは、季節、土地、水、家族、コミュニティのリズムに合わせたやり方で、人々の誕生、生活、ケア、そして死に立ち会っている。看護師、ケアを要する人々、その家族、そして環境やセンサー、電子カルテおよび私たちを取り囲む諸要素(elements)や存在(beings)のアッセンブラージュを私たちが創っていくにつれ、私たちはコレクティブに生成変化する(we are collectively becoming)。あらゆるケアの状況で、私たちはコレクティブに生成変化しているのだ。ドナ・ハラウェイが理論化したように、
サイボーグとはサイバネティックな生命体であり、機械と生命体のハイブリッドであり、社会的現実の創造物であると同時にフィクションの創造物でもある。社会的現実とは、生きられた社会関係であり、我々の最も重要な政治的構築物であり、世界を変えるフィクションである。(中略)この経験は、最も重要で政治的な種類のフィクションであり、また事実でもある。解放は、抑圧および可能性双方についての意識、想像的理解(apprehension)の構築にかかっている。サイボーグはフィクションと生きられた経験の問題であり、これは20世紀後半における女性の経験として数えられるものを変える。これは生と死をめぐる闘いであるが、サイエンス・フィクションと社会的現実の境界は視覚上の思い違い(illusion)である。(Haraway,2006)(拙訳)
看護は、つながりや可能性の想像的理解を通じて、可能なものを統合する。このことは、劣化しつつある惑星上で、誕生、生活、病気、そして死という関係性の中で生きとし生けるものを結びつけるために、看護の諸実践を含め看護が用いるテクノロジーによって媒介されている。
誤解のないように言えば、これは看護やCPHに欠陥がないということを意味するのではない。あらゆる学問の実践と同様、CPHとその分枝にも、現状を維持し、権力の不均衡を永続させ、抑圧を駆り集めし、排除を反復する危険性はある。Haraway(2016)が主張するように、トラブルとともに留まること(staying with the trouble)は、すべての存在(beings)、事柄(matter)、事物(things)に対するアファーマティブなケアをラディカルに欲し(desire)ながら、ともに行動すること(acting together)を意味する。筆者ら自身でさえ、批判と格闘し批判を思案しつつ、同時に「ポストヒューマニズム理論がまだ経験していない多くの人間性(humanity)、さらにはヒューマニズムすらある」(Jackson,2013, p.1)と熟考せざるをえない。看護師として害を少なくすること。(doing less harm as nurses)この看護の世界には改善すべき点(remedy)が多くあり、そのうち幾つかは、哲学的探究の様式としてのポストヒューマニズムが直面する懸念と全く同じものである。ここまで述べてきたように、CPHや他のポストヒューマニズムは、二項対立の超越や「ポスト」、「超えて(beyond)」、さらには前に進むための新たなやり方を築く際に後方への旋回を呼びかけることがしばしばある。しかしながらFerrando(2020)が疑問を呈したように、「このポストの気楽さ(easiness)はいったいどこから来るのだろう?」(p.21)。「ポスト」は問題含みである――少なくとも込み入っている。これについて批判的フェミニスト研究者のジャクソン(2015)はこう書いている。「『超えて』の魅惑的な引力に対し私は問いたい。私たちは何を、そしてなによりいったい誰の人間性(humanity)概念を超えようとしているのだろうか?さらに言えば『超えて』という概念そのものに何が含まれているのだろうか?『ポスト』になること、あるいは『人間を超えること』を求める声は、この呼びかけの起源となる場所、その刻印、その魅力が、それ以上の検討や正当化を必要とせず、ただ急速にルーチン化する責務の履行を前提にしていることがあまりにも多い」(p. 15)。筆者らが考えるところ、これは看護の、ポストヒューマニズムの、ヒューマニズムの、あるいは我々が知る医療の、その制約と境界を探るために、トラブルとともに留まることである。これらの問いに気楽さ(easiness)はない。
第5節 | 結論/として
本稿ではポストヒューマニズムを通して考えることで、どのようなものが看護にもたらされうるか、探求を試みた。筆者らは看護に深く結びつき、かつこれに役立ちうる概念であるCPHとFNMを、より悪影響が懸念されうる、抽出的かつ問題含みのトランスヒューマニズムから区別できるよう議論した。ヒューマニズムからポストヒューマニズムに移行することで、この世界における局所的な、状況に埋め込まれた諸関係に留意しつつ、権力と立場性(positionality)を分析するためのレンズが得られる。看護ケアは、患者と介護者の身体化された経験、ケア現場の物質的現実、そしてケアが生み出される社会的・政治的文脈などとの絶えざる交渉を引き起こすため、時としてすでにしばしば批判的ポストヒューマニズムとなっている。批判的ポストヒューマニズムによる看護ケアへのアプローチでは、ケアは常に複雑な関係性やもつれ合い(entanglements)の網の目(web)の中に置かれていると考える。この関係性は常に変化し進化している。複雑さと曖昧さを受け入れることで、批判的ポストヒューマン諸理論は、人々、ケアする者そしてコミュニティのニードに応える、変革的かつ倫理的な実践としての看護ケアを再考していくためのパワフルな枠組みを提供する。困難や不完全さをよそに、思考実践としてのCPHとFNMはデカルト的二元論と西洋的普遍主義への布石を打ち、他者や一部の集団を人間以下の存在として排除してしまうような、啓蒙主義が前提としてきた個人主義やヒエラルキーに反論する(Åsberg,2017)。私たちはこの理論化を、より解放的な看護の今と未来に向けたラディカルな想像力の行動(act)として提案する(Dillard-Wright,2022)。米国そして世界の人々の健康と安全を脅かす政治的脅威を考えれば、この要請はあまりにも現実的(material)である。キリスト教主義的ナショナリズム、権威主義の台頭、大量殺人、ヘイトクライム、警察の無慈悲な暴力、妊娠中絶禁止法、医療過誤の犯罪化、禁書など、例を挙げればきりがない。ヒューマニズムが前提とすることに固執すれば、看護師は無益な動きを繰り返すぜんまい仕掛けの玩具になってしまい、周囲の変化に対応できない恐れがある(Dillard-Wright et al., 2020; Latour, 2004)。FNMとCPHの糸が看護の言説に織り込まれるとき、反人種主義、反植民地主義、クィアな知の手法を実践するコミュニティと共に、抵抗、抗議、芸術、文化、自然との多声的なつながり、そして人間と人間以外のものたちの全てのものとのつながりを取り込んだ知識が共同制作されうるような、創造的で関係的なポストヒューマン発見のための多重な道のりが想像可能となる。(such as in Adam et al., 2021; Blaine Brown et al., 2022; Hopkins‐Walsh et al., 2022; Smith & Willis, 2020)。
謝辞
看護やそれ以外の場所で様々な種類のポストヒューマン思想を抱き、これを通して考え続けている人々の声や視点に、筆者らはコレクティブに感謝したい。筆者らはまた、Sally Thorne氏がこのNursing Inquiry誌に批判的ポストヒューマニズム特集号を組むことで創り出してくれた貴重な空間にも謝意を表したい。
利益相反
筆者らは利益相反がないことを表明する。
データ利用可能性ステートメント
本研究では、新たなデータについては作成も分析も行っていないため、データ共有はこの論文には適用されない。
ORCID
Jess Dillard‐Wright http://orcid.org/0000-0003-4646-5199
Emmanuel C. Tedjasukmana http://orcid.org/0009-0009-1927-5796
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この記事の引用の仕方(原著の表記): Dillard‐Wright, J., Smith, J. B., Hopkins‐Walsh, J., Willis, E., Brown, B. B., & Tedjasukmana, E. C. (2023). Notes on [post]human nursing: What It MIGHT Be, What it is Not. Nursing Inquiry, e12562.