<秋葉原今昔の巻き>
秋葉原に行き始めたのは70年代の終わり。加藤少年は初ラを片手に
ラジオストアーへ行っては部品を買っては作ってた。
このころの秋葉原は、男臭くて、殺伐としていて、刺すか刺されるかの様な
緊張感があった。
中学になると、ストアーとはお別れして、中央通りを超えてラジオデパートやら
秋月やら国際ラジオやらに行くようになる。
ジャンクという世界を知ったはこのころで、新規で作成するよりもジャンクで遊ぶ
方が安上がりで楽しめることに気が付く。
余談ではあるが、当時の秋月は和風な一軒家みたいなところでやっていた。
なぜだか解体する日に秋葉原にいて、変な白人と一緒に最後の姿を見届けた思い出がある。
(国際ラジオは無くなって、あきばお~になっちゃった。)
今思えば、80年代初めころから、秋葉原がおかしくなり始めたのである。
マイコンボードの出現が変えてしまったのではないかと。
ハードバカと言えば、オーディオバカとラジオバカが多い中、マイコンを自作する
派閥が出現したのである。
当時は、コンピューターが高額すぎて自分で作るしかなかったので気持ちはわかる。
ちなみに、このころのDOS/V街は部品商社とか月販ハムぐらいしかない寂しい所だった。
どかんと変わったのは、PC9801の頃からではないか?コンピューターが家電になったため、
量販店で大量に販売されだした。
ここで秋葉原の客層が変わる。
男くさいハードバカに混じって、ソフト人間が多数出没するようになる。
ソフト人間はアニメが大好き! この辺りから、アニメとか漫画が増えた。
ちなみにこのころ加藤青年はアマチュア無線にどっぷりつかっていた。
次にどかんと変わったのはPHSの安売りである。
キャンペンガールがあちこちの店先でPHSを売り、アベックが来るようになったのである。
男くさい街に、アベックが来るとはと驚いた。
IBM互換機が出回り、DOS/V街はにぎわう。
電子工作雑誌がどんどんなくなる。。。。
私は日本から離れてしまったので20年間は空白。
戻ってみれば、メイドが立っている街になっていた。
あれだけ栄えたハードの文化は衰退した。
戦後から始まった単なるブームだったのだろうか?
秋葉原は多くの技術者を育てたが、今後は出てこないだろうよ。
ものつくりニッポン? ホントに?