昭和30年(1955)後半より高蔵寺ニュータウン開発が激しくなり(昭和43年入居開始)丘陵が赤土の荒野と化し又古生層の山地では砕石による自然破壊が進み、美しい自然が変貌していった。
昭和42年(1967)自然を愛する実践者を集い、同年10月「自然友の会」を結成。自然保護と市内の自然をくまなく調査を始めた(昭和45年(1970)春日井の植物 刊行 春日井自然友の会 著)
昭和47年(1972)頃、自然保護条例の制定や自然保護について、市に陳情をする事により、春日井市に環境部が新設され緑化問題、自然保護の諸施策が推進されるようになった。その一環として「野草園」が設けられ、消えゆく市内の貴重植物を絶滅から保護できる受け皿ができた。場所は明知町旧老人福祉センター(老人フォーム)北部谷合の放置田跡である。上部県有林地谷筋より水を引き湿地をつくり、住宅・工場建設の為の開発により丘陵から消えゆく湿地の市内貴重種を数株づつ移転させた。(場所の関係で全部の移植は出来なかった)。当時は旧水田跡で生育環境も悪く毎月手入れを重ねた。
平成となって、老人フォーム及びその周辺も工場の開発地域となり、現在の春日井市少年自然の家地内 通称:オバケタニシの池周辺に「野草園」を移転し現在に至っている。