令和7年11月吉日
会 員 各 位
春日井自然友の会
会長 長繩秀孝
自然観察会のお知らせ
晩秋の候、皆様には益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、このたび下記の通り観察会を開催する運びとなりました。
秋の自然に触れながら、皆様と有意義なひとときを過ごせればと存じます。
ご多忙の折とは存じますが、ぜひお誘いあわせのうえご参加くださいますよう、心よりご案内申し上げます。
記
(1)令和7年11月30日(日)
(2)場所 永源寺方面 「マイクロバス(小型)」使用
(3)コース
春日井市役所(7:30)===ゴルフ5裏(7:50)===春日井IC(8:00)===名神高速道路)===養老SA(休)===八日市IC==永源寺支所(公民館)(トイレのみ)===永源寺旦度駐車場・・・永源寺(参拝・散策・昼食)===筒井神社(参拝)===天狗堂登山口駐車場・・・大皇器地租神社・金龍寺「高松御所」(散策・参拝)===筒井峠「惟喬親王御陵」===道の駅「奥永源寺渓流の里」(休)===(R421/石榑トンネル)===大安IC===大山田PA(休)===勝川IC===春日井(18:00)===市役所(18:15)==ゴルフ5裏(18:30)
*昼食は永源寺門前の吾妻屋の桟敷(愛知川の川岸)(雨天:屋根あり)
(4)出発時間: 春日井市役所前 7時30分
八幡社駐車場東3分(ゴルフ5裏) 7時50分
(5)参加費: 案内状に記載(永源寺拝観料600円含む)
(封筒に氏名・金額を記入。また八幡社駐車場利用者は+200円も記載願います)
(6)募集人員:27名(補助席 利用いたします)
(7)申込期限:11月25日(火曜日)迄(受付は先着順とさせて頂きます)
(8)申込先:庶務(松原)
電話・ショートメール 090-4089-9906
留守電・FAX 0568-56-4358
LINE QRコード
(9) その他:弁当持参・雨具等
(10) [東野八幡社の駐車場を利用される方へ]
東野八幡社の駐車場は事前許可制ですので、観察会に駐車場をご利用される方は、参加申込みの際に必ずお知らせ下さい。
(11) バス乗車方法とご協力のお願い
〇市役所からご乗車の方へ
運転席に向かって左側3列目以降の座席にお座りください。
※安全確保のため、補助席のご利用はお控えください。
〇ゴルフ5裏からご乗車の方へ
奥の座席から順にご着席いただき、補助席もご利用ください。
※マイクロバスでの運行となりますので、スムーズな乗車にご協力をお願いいたします。
皆様のご理解とご協力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
(12)【駐車場利用について】
①駐車場入口の箱に「駐車許可証」入っています。
➁この「駐車許可証」を車のフロントガラスの内側、ダッシュボード上に外から見えるように置いてください。
③ 駐車位置は、西側に順に駐車してください。
④ お帰りの際は、必ず「駐車許可証」を駐車場入口の箱に戻して下さい。
(13)緊急連絡先:
【資料】
〇瑞石山永源寺の歴史 臨済宗永源寺派大本山
南北朝時代の康安元年(1361)近江の領主佐々木氏頼(うじより)が高僧寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師を迎えて開山されました。氏頼公は、高野山で僧の修業をされたこともある篤信の人で、その法名「雪江宗永」及び佐々木源氏の嫡流であったことから永と源をとって「永源寺」と命名されました。往時には僧二千人が集い、山中に五十六坊もの末庵を有したといいます。また、朝廷や足利家の勅願所として庇護を受け栄えました。応仁の乱では、当地にも争乱の火の粉が及び、二度にわたって伽藍はことごとく焼け落ちました。江戸時代の寛永8年(1631)京都妙心寺の僧、別峰紹印(べっぽうじょういん)禅師は永源寺が見る影もなく荒廃していることに心を痛め、自らも石を曳き土を運んで寺の復興に尽くされました。寛永20年(1643)、後水尾天皇の勅命により一絲(いっし)文(ぶん)守(しゅ)禅師が入寺されると、東福門院(徳川和子)と彦根藩の外護を得て伽藍が再興され、再び法灯が輝き、今に至っています。
境内は鈴鹿国定公園に定められ、シイ・カシ・スギ・ケヤキ・クスノキの巨木をはじめ、モミ・シデ・サカキ・ソヨゴ・ヤブツバキ・ナツハゼ・シキミなどが見られ、特に、総門から山門にかけてイロハモミジやオオモミジを主とした秋の紅葉は美しい。地質は、中生代白亜紀の火成活動によるデイサイト・流紋岩からなり境内にはその柱状節理が見られる。
〇筒井神社
筒井神社は蛭谷地区にあり、別名筒井八幡宮と呼ばれ、祭神は八幡大神(応神天皇)と惟喬親王となっています。貞観8年(865)、文徳天皇第一皇子惟喬親王が筒井峠(旧永源寺町と旧愛東町の境)に宇佐八幡宮を勧請し、その後、明治初年に現在地に遷されました。筒井峠はろくろ発祥の地で木地師都市として栄え、筒井千軒と謳われました。公文所(政所)が設けられ、全国通々浦々にろくろ師目免許を与え、これらを支配しました。境内にある木地師資料館には、氏子馳帳(県指定民俗文化財)はじめ木地師製品や親王信仰の伝統を伝える品々が展示されています。筒井神社が立つ蛭谷地区には9件の集落があり、内7件が小椋姓となっています。
〇大皇器地租神社(おおきみきじそじんじゃ)
神社は君ヶ畑地区にあり、木地師の始祖とされています。寛平10年(898)の創祀と伝わり、惟喬親王が祀られています。はじめ、白雲山小野宮器地租大明神とも称しましたが明治15年に現社名に改められました。神紋は十六菊紋。
神社の由緒によると、親王は或時、侍臣を集め、「元慶3年(879)11月9日を以って入寂の日と定め、たとえ余命があるともこの日を以って縁日とせよ」と仰せられたので、侍臣藤原光長卿は都に上り、謹んで是を清和天皇に奏上したところ、天皇は太皇大明神として守護すべき旨と御謚号を賜り、翌年(880年)4月3日に神殿の造営がなり親王の御神霊が鎮祭され、これが当社の創始された所以と記されています。
神社は、明治5年(1872)まで国家安泰・皇家永久の祈祷符を宮中に収めていました。惟喬親王がこの地に住んでいた際に小椋信濃守久長と小椋伯耆守光吉に命じて木地の器を作らせたという伝承によって、当社は木地師の根源社として全国の木地師を支配しました。同様に木地師の根源社とする筒井八幡とともに木地師に対する氏子狩りを行い、全国に散っていた木地師に大きな影響力を持っていました。
境内にある「さざれ石」は、惟喬親王の重臣藤原定勝の末裔である揖斐川町春日小宮神の藤原一族から寄進されたものです。定勝は椀木地の司として仕えていた木地師で親王の命を受け、江州君ヶ畑から良質な木材を各地に求めてついに春日渓谷の奥地一帯を発見しました。定勝は、一族と共にこの地に移り住み江州君ヶ畑の名に因み、濃州君ヶ畑と称しました。その後、濃州君ヶ畑は移住者が増加し、延宝元年(1673)新しく小宮神村が誕生しました。
大皇器地租神社境内には、数十本もの見事なスギの巨木が林立し、シャクナゲ・サカキ・クリンソウ・カラマツソウなどが見られます。
〇蔵皇山金龍寺(高松御所)(きんりゅうじ) 曹洞宗
室町時代に惟喬親王が建立し、隠棲したことから「高松御所」と呼ばれます。境内には親王の像が安置され木地師の崇敬を受けています。
惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子であったが母が紀氏の出身であったことから、権勢をふるっていた摂政関白、藤原良房の娘と文徳天皇の間に生まれた第四皇子、惟仁親王が清和天皇に即位した。皇位継承に敗れた惟喬親王は都を逃れ、小松畑と呼ばれた山中に幽棲し、金龍寺を建てて住居とし、里人は小松畑を君ヶ畑と呼ぶようになり、金龍寺を「高松御所」と呼びました。