会長挨拶

会長挨拶 (2023–) 日本スラヴ学研究会第 7 代会長 西成彦  

 そのころは、木村彰一さんもまたご存命で、ロシア語にかぎらず、スラヴ諸語全般への関心が強く、その方面での後進の育成とともに、(英語やフランス語やロシア語からの重訳の形を取らない)スラヴ系の諸文学の日本への紹介にも積極的に関わられた吉上昭三、千野栄一両氏の呼びかけに応じた者たちで、「西スラヴ学研究会」を立ち上げようという話し合いが始まったのが 1984 年。当初は、後進の数も少なく、機関誌の刊行も創刊号から第二号までに五年、二号から三号までには九年もの歳月を要し、前途多難な船出ではあった。しかし、東欧諸国を起点とした「冷戦時代」の幕引き(今となってはその「幕引き」があまりに楽観的で油断に満ちたものだったと判断するしかないが)があって、旧「東欧」に対する注目の高まりが、動き出しては止まるをくり返していた私たちに力を与えてくれた。

   その後、会の産みの親であったお三方は、それぞれに深く惜しまれつつ他界されたが、おもに南スラヴ語(および文学)を研究されていた三谷惠子さんからの強いはたらきかけ(西スラヴ語に分類される「ソルブ語」に着手されたことも大きかった)もあって、研究会の名称を「日本スラヴ学研究会」に変更したのが 2012 年。旧「東欧」の諸国の多くや、バルト三国が「EU」に加盟したことで、いわゆる「西ヨーロッパ」と「ロシア」とのあいだに広がる「中欧」(学術的な定義はないものの)の魅力にひきつけられる人々は(旅行者から研究者まで)確実に増加傾向にある。

   そして、そのタイミングで、私たちがあたらしく開拓したのが、バルト三国やドイツ・オーストリア、ハンガリー、ルーマニアといった「非スラヴ語圏」との関係にも留意した「広域的なスラヴ学」の領域だった。スラヴ学そのものは、比較言語学的な思考方法を基礎に置くものだが、近年では言語学の内部でも社会言語学的な関心が強まり、スラヴ諸語を隣接諸言語との言語接触ぬきに論じることのむなしさを私たちは知るようになった。同じく、「世界文学」が広く叫ばれる文学研究の現状を見れば、スラヴ語圏の文学を、言語別に切り分けて論じることの不毛さもまた推して知るべしである。

 日本のスラヴ学研究の発展は、言語学、文化研究、文学研究の最先端の成果を積極的に取り入れるだけでなく、その最前線を牽引できるような革新性を追求することによって約束されるだろう。

 スラヴ学を主専攻とする研究者でなくても快く活動に関わって下さる方が一人でも多くなるよう、祈っている。 

会長挨拶 (2019–2023) 日本スラヴ学研究会第 6 代会長 長與進  

 2019 年 6 月の総会を機会に、日本スラヴ学研究会の会長という役割を担うことになりました長與です。2007 年から 2015 年まで企画編集委員長を務めて、その後 4 年間、ちょっと距離をおいて研究会の活動を眺めていましたが、ふたたびある種の役割を果たすべき時期だ、と自分に言い聞かせました。

 

 私事を持ち出して恐縮ですが、ぼくは今年 3 月末日に、これまで 28 年間勤務してきた大学を定年退職して、持ち時間と気分の上で、じゃっかん余裕ができたという事情もあります。自分の仕事だけでなく、「社会的な貢献」(大げさな表現ですが)もそれなりに行なわなければならない、という気持ちも働きました。といっても、気負っているわけではありません。会長として果たすべき役割とはなにかを、とまどいながら模索している、というのが正直なところです。

 

 会長に指名される日、家を出る前に日本スラヴ学研究会のホーム・ページで、研究会の「会則」と「沿革」を熟読してきました。会則でなにより目に留まったのは、第 2 条の「本会は、日本におけるスラヴの言語、文学、文化の研究発展に寄与し、研究者間の交流を促進することを目的とする」という一文です。周到に練られた文言で、本研究会の基本的役割を簡潔に表現していると思います。それを前提にして、こう付け加えたらどうでしょうか。-「国内におけるスラヴ研究を、全世界のスラヴ研究の動向と積極的に結びつけ、外での研究成果を取り入れて、交流をさらに促進し、いっぽう国内の成果を、外に向かって積極的に『発信』する場とする」。でもこれは会員のみなさんが、すでに常日頃、実践していらっしゃることでしょうから、敢えて付け加える必要もないかもしれません。それに研究会にとっての会則は、一国の憲法と同じ重みを持っていますから、改定には慎重でなければならないとも思います。

 

 もう一点は第 9 条の、「会長は本会を代表し、総会を招集し、会務を統括する」という短い文言です。今回はじめて、気になりました。とくに最後の「会務の統括」の意味が、まだはっきりとイメージできていません。この点については適宜、歴代の会長である千野栄一さん(すでに鬼籍に入られてしまいましたが)、小原雅俊さん、飯島周さん、土谷直人さん、沼野充義さんのアドヴァイスを仰ぎながら、自分なりに納得できるスタイルを模索していかなければ、と考えています。

 

 「沿革」は今回改めて読んで、気持ちを引き締めました(この沿革の文責はぼくになっていますから、自分の書いたものを読んで襟を糺すというのは、じゃっかん奇妙ですが)。本研究会が「西スラヴ学研究会」として発足したのは 1984 年のことですから、もう 35 年も昔のことですが、ぼくも当初から末席に連なっていました。研究会立ち上げ時の、一種独特の熱気と雰囲気は、いまでもはっきりと記憶しています。「沿革」を読むと、そんな懐かしさとともに、もっと多くの貢献ができたはずだった、という自責の念がこみ上げてきますが、この感情も今回、会長を引き受ける決心をしたモチベーションのひとつになっているのかもしれません。

 

 繰り返しますが、とくに気負っているわけではありません。あまり好きな表現ではありませんが「自然体で」、しかしある種の緊張感を保ちつつ、務めていきたいと思っています。型どおりですと、「最後にみなさんのご協力をよろしくお願いします」、と言うべきかもしれませんが、それだと政治家風の決まり文句になってしまいかねませんから、「研究会についてのみなさんのご意見、ご要望、ご希望、あるいはご批判を、直接にお聞かせください」、と言うことにします。これも決まり文句の匂いがしますが、ほかに適切な表現が思い浮かびません。以上をもって挨拶に代えさせていただきます。

会長挨拶 (2011-2015) 日本スラヴ学研究会第 4 代会長 土谷直人

 1980 年代前半に、木村彰一東京大学名誉教授・早稲田大学教授、吉上昭三東大教授、千野栄一東京外国語大学教授、飯島周跡見学園女子大学教授を中心に、ポーランドやチェコスロヴァキアへの留学経験者が集まって、「西スラヴ学研究会」の構想がまとまり、準備会が開かれ、1984 年研究会の発足を見た。1985 年 2 月に、木村教授古希記念祝賀会兼『古代教会スラブ語入門』出版記念会が催され、会の結束がさらに高められ、翌年『西スラヴ学論集』の創刊号が出版された。当時会員は 17 名であった。

 この「西スラヴ学研究会」構想段階からすでに 30 年余りが経過した。取分け 1989 年のベルリンの壁の崩壊、その後のソ連の解体及び東欧世界の革命と変革の結果、旧社会主義国との行き来が遥かに自由になり、またスラヴ民族の国々への留学生も増加して、日本におけるスラヴ学研究一般、そして我々の研究会も長足の進展を見せ現在に至っている。

 こうした事情を背景に、研究会の重要な転換点となったのは、2012 年 6 月である。この時「西スラヴ学研究会」は、漸く増加をみせた南スラヴの研究者、リトアニア、ハンガリーを初めとするスラヴ近隣諸国の研究者を含めて、初期の創立者たちの意向であった「日本スラヴ学研究会」という名称に発展的に脱皮を遂げた。

 この間の研究会の主な業績については、研究会の沿革に詳細を譲るが、優れた個人的努力の成果が見られることは勿論の事、一般読者を対象としたものでも、『ポーランド文学の贈り物』、『文学の贈物』、『ポケットのなかの東欧文学』などの浩瀚な翻訳集が編まれ、会員が多く参加していることはわれわれの誇りとするところである。

  現在の我らの学会員は 90 名近くにまで増え、カバーする研究範囲、研究深度とも中堅及び若い世代の努力により、ますます広く深く、発展の度を加えている。

 最近の研究会の方向、意向としては、次の点が挙げられる。

 第一に、若き研究者の留学が以前に比べ容易になり、単に文学や言語専攻だけでは無く、カルチュラルスタディーズ、民俗学、美学や社会学を専攻する学徒も増えているにも拘らず、研究発表の場が相変わらず少ない現状から、スラヴないし中欧東欧研究者の自由な研究発表の場を堅持し、さらに拡充する。

 第二に、スラヴ圏、中欧東欧諸国からの学者、研究者、作家、ジャーナリストの来日が増え、彼らの講演、特別講義やシンポジウム発表を、時には他の学会や大学との共催で、直接研究会で聞く事ができるようになったが、そうした機会をさらに拡充し、交流を深める。

 第三に、諸外国のスラヴ学の研究者との研究の連携や学会研究会同士の連携を促進すること。この意味で、研究対象国の言語のみならず、ますます媒介言語としての英語の重要性を認識することが必要である。

 

 これらが、大きく外に向かって開かれた「日本スラヴ学研究会」の現状である。若い有能な将来の日本のスラヴ学を背負って立つ研究者のさらなる参加を切に願って、簡単な挨拶の筆を擱きたいと思う。