Max Weber 03

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The Debate in Japan


羽入-折原論争の展開 [1] [2] [3]

折原浩『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』未来社2005

刊行ご挨拶 | はじめに | 目次 | あとがき

『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』

刊行ご挨拶

折原 浩

 今年も異常な暑さですが、お元気にお過ごしでしょうか。

 さて、このたび、『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』を上梓いたしました。

「『学問の未来』とは、なんと大仰な」とお咎めを受けるかもしれません。もとより、学問の鳥瞰図、それを前提とする未来構想、といった内容ではございません。ただ、わたくしが、約半世紀間、学問研究に携わってきて、近年とみに憂慮をつのらせた問題を、狭い専門領域のごく些細なところからではありますが、それだけ具体的に、語ってはおります。

 1980年代ころから、若い世代に、学問に謙虚に取り組もうとする姿勢が薄れ、俗受けを狙う軽薄な身振りが目立つようになりました。なお悪いことに、そうした風潮をたしなめるべき「大人」たち、とくに「識者」が、「見て見ぬふり」をするばかりか、なかには「賞」を与えて煽て上げ、本人を初め、若い世代を広くスポイルする、という無責任が横行し始めました。この思想状況になんとか歯止めをかけませんと、かつてのように「気がついたときにはもう手遅れ」ということになりかねません。

 とはいえ、学問上の基本的なスタンスは、堅持したつもりで、そうした学問-思想状況にたいする批判の積極面は、まもなく姉妹篇『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』(未来社刊)として上梓される見通しです。こちらのほうも、併せご笑覧いただければ幸甚と存じます。

 では、炎暑の砌、くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

2005年8月11日

折原 浩

はじめに

『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』

はじめに

折原 浩

 本書は、前著『ヴェーバー学のすすめ』(2003年11月、未来社刊)の続篇である。前著につづいて、羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊――』(2002年9月、ミネルヴァ書房刊)にたいする内在批判を徹底させる。それと同時に、一方では、こうした書物が「言論の公共空間」に登場し、脚光を浴びる事態を、「末人の跳梁」として捉え、他方では、この事態を問題とし、羽入書の主張を学問的に検証しようとする学者・研究者がなかなか現われない実情を憂慮し、現代日本のこの思想状況と構造的背景に、知識社会学的な外在考察を加える。

本書の内容は、筆者が一昨年来、そうした内在批判と外在考察をとおして、「学問の未来」につき、憂慮と希望こもごもに語ってきた事柄からなる。すなわち、マックス・ヴェーバー、それも「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という一論文に投げかけられた「濡れ衣」を晴らす過程で、ごく狭い専門領域からではあるが、「学問とはなにか」「いかにあるべきか」をめぐり、日本の学問を将来担って立つべき若い人々を念頭に置きながら、具体的な題材に即して考えてきた応答をなしている。そこで、やや大仰と感じないでもないが、頭書の主題を選び、副題を付して限定することにした。

 副題には、「末人の跳梁にたいする批判」(外在考察)と「ヴェーバー学における批判」(内在考察)という二重の意味を込めたつもりである。「末人の跳梁」とは、(「倫理」論文の正確な読解を怠り、「ヴェーバー藁人形」に斬りつけて「耳目聳動」を狙い、トレルチや大塚久雄もしのぐ「最高段階に登り詰めた」と自負する)羽入書の出現と(これを氷山の一角とする)いうなれば「羽入予備軍」の構造的再生産を焦点に据え、こういう風潮を助長する半学者・半評論家群像、および、批判的検証を回避して「嵐の過ぎるのを待つ」学者・研究者の広い裾野、を含めて考えている。筆者は、本書の外在考察が、羽入書そのものはもとより、羽入書の出現とそれへの対応に姿を現した、二重/三重の無責任態勢を、改めて問題とし、克服していく契機ともなれば、と念願している。この考察は、人文/社会科学系の学者・研究者に、自然科学畑では公害/医療過誤/交通事故問題などを契機につとに問われてきた、専門家としての(応答/論争応諾)責任、関係書籍/論文の著者としての(自分の公表した内容について誤解/曲解の拡大を防止する)社会的責任、および教育者としての(知的誠実性と文献読解力を育成する)指導責任について、改めて問いかけることになろう。

 羽入書の著者は、筆者の批判に、一年半にもなるのに応答しない。もっぱら「知的誠実性」を規準にヴェーバーを批判した当人が、筆者の反批判には「知的誠実性」をもって答えず、ある対談には出て、「ブランド商品を百円ショップの安物とけなされて、腹を立てている」と語る。これではいたしかたない。筆者は、修士/博士論文に値しない羽入論文(羽入書の原論文)に学位を認定した東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻の指導教官/論文審査官に、羽入論文をどう評価し、学位を認定したのか、と問わざるをえない。欠陥車を売り出して事故を引き起こす会社の経営陣と同様、責任を問われてしかるべきではないか。筆者は、本書を上梓し、「羽入論文が学位に値しない」という筆者側主張の論拠を公表したうえで、これを一資料に、東京大学大学院倫理学専攻関係の指導教官/論文審査官に、公開論争を提起する予定である。

「ヴェーバー学における批判」の面については、右記「内在批判の徹底」について補足する形で述べよう。前著では、羽入書が、「倫理」論文全体を読解しないまま、第一章「問題提起」第二節「資本主義の精神」と第三節「ルターの職業観」それぞれ冒頭の細部に、羽入の側から「疑似問題」を持ち込み、「ひとり相撲」をとり、相手に届かない架空の議論を繰り広げている実態――それが、相手を知らない論文審査官や評論家には、相手を手玉にとっている本物の相撲に見える関係――を批判的に明らかにした。それにたいして、本書では、「疑似問題」の持ち込みから結論にいたる当の議論内容も詳細に追跡して、そこに示されている数々の難点を、(「倫理」論文のみでなく)文献読解一般にかかわる「注意すべき問題点」として取り出し、併せて適切な読解への指針をそのつど提示しようとつとめている。いうなれば、羽入書を「反面教材として活用しようとした。筆者は、大学/大学院における文献講読演習で、「倫理」論文が主テクストとされ、羽入書と本書とが副教材として活用されることを願っている。

他方、そのためにも、また、批判の半面としても、筆者自身のヴェーバー理解を積極的に対置し、そうすることをとおして従来の研究水準を乗り越えようとつとめた。本書では、羽入書には欠けている数々の論点内容や素材の方法的な取り扱い方などを究明し、ヴェーバー研究の専門的水準で論じたつもりである。一例を挙げれば、羽入は、「フランクリンの神」を「カルヴィニズムの予定説の神」と同一視する誤解にもとづき、ヴェーバーが「カルヴィニズムをカルヴィニズムで説明する」同義反復ないし不当前提論法を犯し、しかもそれを隠蔽する二重の詐術を弄したと称して、「ヴェーバー藁人形」を立ち上げている。ところが、当の同一視には、大塚久雄が、フランクリン原文の(pre-destine でもpre-determineでさえない)determineを「預定」と訳して、きっかけを与えている。筆者は、この事実を指摘するとともに、フランクリン文献に当たって、「フランクリン神観の特性を捉え、それが「カルヴィニズムの予定説の神」とどの点でどう異なるのか、具体的に論証している。

 

 なお、筆者は今回、羽入書との批判的対決をとおして、「倫理」論文の読解案内から始めてヴェーバー歴史・社会科学の方法の会得にいたる入門書/再入門書の必要性を痛感した。そこで、「ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」を『未来』(2004年3月号)に発表するとともに、本書の元稿にも、羽入書批判の関連箇所ごとに、1.理念型の経験的妥当性、2.多義的「合理化」論とその方法的意義、3.「戦後近代主義」ヴェーバー解釈からのパラダイム転換、4.「倫理」論文冒頭(第一章第一節)の理路と方法展開の展望、5.ヴェーバー宗教社会学概説(理論的枠組みと「二重予定説」の位置づけ)とも題すべき補説を書き加えた。ところが、それらは、事柄としていっそう重要であるため、羽入書批判としては均衡を失するほどに膨れ上がり、構成を乱すことにもなりかねなかった。筆者としては、羽入書批判を否定面だけに終わらせず、内在批判への徹底をとおして、かえってなにかポジティヴな内容を打ち出し、ヴェーバー研究にも寄与したいと力を入れたが、そうすればするほど膨大となって構成も難しくなるというディレンマを抱え込んだ。これに、未来社の西谷能英氏が、原稿を閲覧のうえ、それらを本書の姉妹篇として別立てに編集し、本書とほぼ同時に公刊するというアイデアを提案してくださった。筆者として、異存のあろうはずがない。そこで、その姉妹篇を『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』と題して、ほぼ同時に上梓することになった。まことに、一書を世に出すとは、編集者と著者との協働作業である、と改めて思う。

 その姉妹篇では、本書の延長線上で、ヴェーバーの歴史・社会科学に改めて光が当てられよう。たとえば、ヴェーバーの歴史・社会科学が、歴史・社会現象につき、要因の多元性を認め、各要因の「固有法則性」を解き明かすことは、ヴェーバー自身も明言し、従来から認められ、論じられてきたとおりである。ところがじつは、そればかりではない。かれは、ある原因からいったんある結果が生ずると、この結果が翻って原因に反作用する、といった「原因と結果との相互性互酬性」を認める見地から、たとえば「経済→宗教」「宗教→経済」といった「多面的な因果関係」を、典型的な事例の研究をとおして「理念型」的関係概念として決疑論/カタログ風に定式化/体系化しておき、そのあと個々の問題事例と取り組むに当たっては、その「道具箱」から双方向の「理念型」的関係概念を取り出して適用し、こんどは「原因 ⇄結果の互酬循環構造」として捉え返そうとしていた。「倫理」論文から「世界宗教の経済倫理」シリーズをへて『宗教社会学論集』「序言」にいたる展開を追ってみると、ヴェーバーが、こうした方法的/理論的態勢を着々ととのえつつあった実情が窺われ、かれの歴史・社会科学の潜勢力が、改めて掘り起こされよう。

「倫理」論文初稿発表の百周年を、この日本で、なんと「ヴェーバー詐欺師説」が横行するままに迎え、やり過ごすのではなく、本書と姉妹篇『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』が、このスキャンダルをむしろ「逆手に取って」、ヴェーバー歴史・社会科学の射程と意義にかんする学問的認識と評価を回復し、いっそう拡大して、この日本における歴史・社会科学の着実な発展に活かす一契機ともなれば、この間、筆者として年来の研究課題(『経済と社会』旧稿の再構成)を先送りしている責任も、いくぶん軽減されるであろうか。(2005年5月26日記)

目次

『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』

目次

折原 浩

はじめに

Ⅰ. 責任倫理から状況論へ

1章.学者の品位と責任――「歴史における個人の役割」再考

2章.学問論争をめぐる現状況

3章.虚説捏造と検証回避は考古学界だけか――「藤村事件」と「羽入事件」にかんする知識社会学的な一問題提起

Ⅱ.「末人の跳梁」

4章.言語社会学的比較語義史への礎石――ルターによるBeruf語義(「使命としての職業」)創始と一六世紀イングランドへの普及

5章.「末人の跳梁」状況

Ⅲ. ふたたび内在批判から歴史・社会科学的方法思考へ

6章.語形合わせから 意味解明へ――ルター職業観とフランクリン経済倫理との間

7章.「歴史的個性体」としての理念型構成――「資本主義の精神」におけるエートス・功利的傾向・職業義務

8章.「資本主義の精神」と禁欲的プロテスタンティズム――フランクリンの神と二重予定説との間

9章. 羽入書批判結語――論文審査・学位認定責任を問う

あとがき

あとがき

『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』

あとがき

折原 浩

 本書に収録した論稿は、「はじめに」、第一、八、九章およびこの「あとがき」を除き、北海道大学経済学部の橋本努氏が開設したインターネットHP「マックス・ヴェーバー、羽入/折原論争コーナー」から、他の寄稿者への応答を除く拙稿を取り出し、章題を改め、大幅な改訂も加えて、再編成したものである。主要な改訂は、つぎの三点にある。第一に、拙稿各篇は、脱稿後そのつど速やかに発表したため、十分に推敲するいとまがなく、重複や辛辣すぎる表記が多々残されていた。今回は、それらを極力削除した。第二に、この間拙論に寄せられた批判に対応して、改めるべき点は積極的に改めようとつとめた。第三に、本書第七、八章の元稿からは、(羽入書批判の関連論点を筆者がそのコンテクストを離れて独自に展開した)補説五篇を抜き出し、これも加筆/改訂のうえ、本書の姉妹篇『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文読解からヴェーバー歴史・社会科学の方法会得へ』にまとめて公刊することにした。

 「倫理」論文初版発表から数えて百年の記念すべき年に、本書と姉妹篇『ヴェーバー学の未来』とを上梓できるのも、右記のような経緯から、橋本氏とそのHPコーナーに寄稿された諸氏のお蔭である。「ヴェーバーは罪を犯したのか」というテーマのもとに、HPコーナーで交わされた論争は、残念ながら、他方の当事者である羽入辰郎氏が参入しなかったため、双方の対決をとおして理非曲直が明かされる形はとれなかったが、インターネットを活用した短期集中型の意見交換/論点集約の例として残るであろう。寄稿された諸氏、とくに橋本氏に、筆者からも深甚の謝意を表し、いつの日か氏によって論争記録が編集されることを期待したい。

 橋本HPコーナーへの寄稿者でもある雀部幸隆氏は、前著『ヴェーバー学のすすめ』執筆のときと同様、拙稿一篇ごとに行き届いた助言と激励を寄せられるとともに、臨機応変の適切な見解表明により、論争に力を添えてくださった。前著にひきつづき、氏に心から感謝する。

 また、橋本HPコーナーへの寄稿者のうち、丸山尚士氏からは、一六世紀イングランドにおける聖書の翻訳史について、インターネットをフルに活用した文献調査と、ハイデルベルク大学図書館に出向いてヴェーバー当時の蔵書目録/関連蔵書を調べるといった、徹底した研究協力がえられた。橋本HPコーナーには、氏の六篇の寄稿が掲載されており、「エリザベスI世時代における宮廷用の英国国教会聖書」にかんする氏独自の研究成果も報告されている。その内容は、筆者が本書第四章第一二節で提出している仮説の域を越えるもので、筆者はあえてコメントせず、専門家の鑑定に委ねることにした。氏の協力は、そうした肯定的/補完的な支援のみでなく、筆者にたいする批判としてももたらされた。すなわち、筆者は前著『ヴェーバー学のすすめ』(64ぺージ)で、「かりに(ヴェーバーが依拠した)OEDに誤りがあったとしても、その責任はまずOED側にあり、その件でヴェーバーを責めるのは本末転倒」という論法で、羽入書第一章の糾弾に反論していた。この点を丸山氏は、そうした仮定法で「攻撃をかわす」便法はOEDにたいしてフェアでないと正面から批判してきた。この批判は、厳しいけれどももっともなので、筆者は、その点を自己批判して受け入れるとともに、他の諸章の問題点についても、氏の要求する水準にまで反論を詰めなければならないと考えた。疑似問題の持ち込みを暴露しておのずと結論は失当と論定していた前著から、結論にいたる疑似論証の過程も追跡して羽入書の難点を洗い出そうとする本書への(内在批判の)徹底は、そうした丸山氏の批判をひとつの機縁としている。氏の寄稿は、インターネットの活用により、アマチュアの学者が学問論争に参入して貢献する道を開き、いっそう広げる可能性を示した、といえよう。私事にわたるが、丸山氏は学生時代、筆者のゼミに参加し、ヴェーバー文献にかんする粒々辛苦の輪読をともにした研究仲間のひとりであった。その氏が、思いがけず、本業のコンピューター・ソフト開発に多忙のなかで、この論争に参入し、実りある批判をかかげてもくれたことは、教師冥利に尽きるというほかはない。

 末筆ながら、本書が、比較的スリムに首尾一貫性を保つ一書にまとまったのは、「はじめに」でも触れたとおり、ひとえに未来社西谷能英氏の英断による。前著につづき、氏の識見に敬意を込めて謝意を表する。校正その他、細かいところまで気を配って本書を仕上げてくださった天野みかさんにも深く感謝する。

2005年5月28日 利根川を見晴るかす取手の寓居にて

   折原 浩

折原浩『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』未来社2005

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『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』

刊行ご挨拶

折原 浩

 いくらか凌ぎよい季節となりましたが、ますますご清祥のことと拝察いたします。

 さて、このたび、前著『ヴェーバー学のすすめ』につづき、前著『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』の姉妹篇『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』が、近々未来社より刊行される見通しとなりました。前著『学問の未来』の上梓から日も浅く、たいへん恐縮に存じますが、お暇の折、お目通しいただければ幸甚と存じます。

 わたくしといたしましては、これをもって、羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(2002年9月、ミネルヴァ書房刊)にたいする一連の批判に、ひと区切りつけたいと思います。ただし、同書の原論文に学位を授与した東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻に学位認定の学問的根拠を問う、公開論争の課題は、残されておりますが。

 つきましては、このさい率直にお願いしたいことがひとつあります。それは、ご同僚/ご友人との座談や、学生/院生への対応/対話その他、任意の機会に、下記のようなメッセージをお伝えいただきたいということです。すなわち、「羽入書に見られるような、『知的誠実』と『緻密な論証』を装う、学問性そのものにたいする攻撃にたいして、学問上は一専門家により、ともかくも委曲を尽くした反論がなされ、理非曲直は明らかにされている。したがって、たとえば人文・社会科学の諸領域で講義を担当しておられる各位には、従来それぞれ必要に応じてヴェーバーに論及されてきた諸箇所などで、『ひょっとすると自分も「詐欺」に加担しているのではないか』『「原典」による裏付けのない臆説を広めているのではないか』といった懐疑/逡巡に、語勢を弱められる必要は毛頭なく、従来どおり、あるいはいっそう明朗闊達に、ヴェーバー論及を進め、歴史・社会科学のなんであるかを、後輩や学生たちに伝え、知的な刺激を与えつづけていただきたい」、「羽入書と拙著とを精細に比較検証し、専門的に鑑定してくださるにこしたことはないとしても、そうした時間を割いていただくにはあまりにも多忙な方々も、任意の機会に、『羽入書は、学問上は反論ずみ。必要とあれば、折原の三部作を参照』とご指示いただき、茫漠たる懐疑/逡巡/戸惑いの伝播/拡大を防止していただきたい」ということです。どうか、ただこの一点、人文・社会科学の健やかな発展のために、ご一考いただければ幸甚と存じます。

 では、時節柄、くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

2005年8月30日

折原 浩

はじめに

『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』

はじめに

折原 浩

 本書は、姉妹篇『学問の未来――ヴェーバー学における末人の跳梁 批判』(2005年、未來社刊)とともに、前著『ヴェーバー学のすすめ』(2003年、未来社刊)の続篇である。

 『学問の未来』では、前著につづき、羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊――』(2002年、ミネルヴァ書房刊)への内在批判を徹底させた。それと同時に、こうした書物が「言論の公共空間」に登場し、(一方では非専門家「識者」の絶賛と「賞」授与、他方では専門家による批判的検証の回避、という)無責任の相乗効果として、ヴェーバー学への誤解/曲解とともに著者の虚像が「雪だるま式に膨れ上がる」事態を「末人の跳梁」状況として捉え、その背後にある日本の学問文化-風土と現代大衆教育社会の構造的要因連関に、理解/知識社会学的な外在考察を加えた。そのように内在批判と外在考察をこもごも進めるなかで、筆者には、「倫理」論文を徹底して読解し、熟考することから始めて、ヴェーバー歴史社会科学の思考方法を会得していく案内書(ないしは再案内書)が、いま必要とされている、との思いがつのった。

 他方、批判とは元来、相手が考えるべきであった事柄を代わって考え、そうすることをとおして従来の研究水準を乗り越えていく論議でなければならない。筆者も、批判のこの趣旨にしたがい、羽入書の誤りを剔出する否定だけに終わらせず、むしろ筆者の「倫理」論文解釈/ヴェーバー理解を積極的に対置し、補説として編入していった。ところが、それらはいきおい膨大となって、かえって批判書としての一貫性をそこね、構成を乱しもした。そこに、未来社西谷能英氏の助言があり、元稿から五篇の補説を抜き出し、他の(もともと独立性の高かった)三稿を加え、「『倫理』論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ」という趣旨に沿って八章に再配列/再編成し、しかるべき加筆/改訂をおこなうことにした。その結果、本書が成った。

 そういうわけで、本書は、ここ二年間の羽入書批判から生まれた副産物ではある。しかし、一書として、羽入書批判のコンテクストから離れても、独立の「倫理」論文読解案内(ないし再案内)となるように、さらに(「経験的モノグラフと方法論との統合的解釈」という筆者年来の方針による)「『倫理』論文の読解からヴェーバー歴史・社会科学の方法会得へ」の案内としても、読んでいただけるように、形式/内容ともに整えた。

第一章「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』論文の全内容構成(骨子)」は、当初「ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」と題して『未来』450号(2004年3月)に発表され、その後(北海道大学経済学部の橋本努氏が開設した)インターネット・ホームページの「マックス・ヴェーバー、羽入/折原論争」コーナー(以下橋本HPと略記)に転載されていた元稿を、今回、右記の趣旨に沿って改訂/増補したものである。羽入書のヴェーバー論難は、「倫理」論文第一章第二節劈頭のフランクリン文献引用と、同第三節冒頭に付された、ルターの聖句翻訳にかんする注記とに限定されていた。筆者も、羽入氏の論難に内在して反論を展開したので、その範囲も、対象に即しておのずと狭まり、氏が抽象的には語る「『倫理』論文の全構成」「全論証構造」について、筆者の理解を全面的また具体的に対置する必要は、当面はなかった。それにたいして、「倫理」論文読解としてのそうした欠落を埋め、「全体の内容構成」「全論証構造」にかんする管見を積極的に提示して、論争(内容と参入者)の範囲を広げようと試みたのが元稿である。今回、本書に収録するにあたっては、羽入書批判のコンテクストから独立させ、「倫理」論文を初めて(あるいは改めて)読んでみようとする読者を念頭に置き、手初めに全体をざっと読み通す道しるべとなるように、大幅に改訂/加筆した。

読者には、第一章をかたわらに、あまり細部や注にはこだわらず、「倫理」論文を通読され、まず大筋を押さえられるのがよいと思う。そして、なにか手応えを感じられたら、本書第二章「『倫理』論文第一章第一節『宗派と社会層』を読む」を手引きに、冒頭から再度、著者ヴェーバーとの対話を開始し、第四章「同第二節『資本主義の精神』第一~七段落を読む」に読解を進めていってほしい。さらに細部にも関心を寄せらたれたら、第五章「同第三節『ルターの職業観』第一段落と三注を読む」を案内として、当該の一段落に付された(優に一論文の体をなす)細密な三注を読まれるのもいかがであろうか。いずれにせよ、ぜひ「古典に出会う」体験をもっていただきたい。

間に挟まれた第三章は、「理念型とその経験的妥当性」と題される方法論議を内容としている。「ヴェーバーといえば理念型」といえるほど有名な「理念型」ではあるが、じつは方法論上なお議論が絶えない問題である。筆者は、抽象的方法論議に「屋上屋を架す」のではなく、ヴェーバー自身が理念型を(「倫理」論文などの「経験的モノグラフ」で)じっさいに適用している研究の実態に即して具体的に捉え返し会得し応用しようとつとめてきた。第三章では、そうするなかで熟してきた筆者の自説を示し、ふたつの誤解との二正面作戦を提唱する。そのうえ、第四章では、ヴェーバーが当該の箇所で、フランクリン文献による「暫定的例示」から当該「精神」の「歴史的個性体」(としての理念型)概念を組み立てていく手順を、その動態(「理念型思考のダイナミズム」)に即して例解する。理念型的方法が具体的に会得され、歴史・社会科学研究一般に自覚的に応用されるようになるかどうか、――「ヴェーバー学の未来」が問われる一局面といえよう。

第五章は、右にも触れたとおり「倫理」論文が細部にいたるまでいかに密度の高い論考であるかの例証でもあるが、内容上は、理念型と並んで重要な「類例比較による意味因果帰属の方法を、ルターによる「ベルーフ(使命としての職業)」語義の創始という歴史的実例に即して解説している。この章を姉妹篇『学問の未来』の第四章「言語社会学的比較語義史の礎石」と併読されるならば、ある「言語ゲマインシャフト」における一語義(たとえば「ベルーフ」)の意訳・創始から、別の歴史的・社会的諸条件のもとで、当該語義がいかなる歴史的運命をたどるか(宇都宮京子氏の理念型的定式化によれば、受け入れられて普及するか、誤訳として拒斥されるか、突飛として無視され廃れるか)という問題設定と理論視角がえられ、語彙と語義の歴史的変遷にかんする「言語社会学」的比較研究に「ヴェーバーでヴェーバーを越える」方向性が引き出されもしよう。

また、この「ルターの職業観」節を含め、「倫理」論文は、およそ「宗教性」にかんする歴史・社会科学的研究の嚆矢とも金字搭とも見なされている。ところが、それにしては、人間行為一般について宗教性を問うヴェーバーの視座と基礎概念は、意外に知られていない。たとえば、「倫理」論文から「脱呪術化Entzauberung」を取り出してきて論ずる人は多いが、では「呪術と宗教とはどこでどう区別されるのか」、「宗教性一般において、たとえばカルヴィニズムの『二重予定説』はどこにどう位置づけられるのか」、あるいはさらに「東西諸文明の歴史的運命を分けた宗教要因を歴史・社会科学的にどう取り扱えばよいのか」と問われて、的確に答えられる人は、さほど多くはあるまい。大塚久雄氏の「倫理」論文邦訳(単独訳)に付された「訳者解説」は、親切に書かれてはいるが、「二重予定説」にも「確証」思想にもまったく触れず、「なぜ、特定宗派のプロテスタンティズムから世俗内『禁欲』『(禁欲的)合理主義』が歴史的に生成されてきたのか」という主題の、肝心要の核心には説明がおよんでいない点で、不備というほかはない。そこで、第六章「人間行為の意味形象=規定根拠としての『宗教性』――ヴェーバー『宗教社会学』の理論的枠組みと『二重予定説』の位置づけ」では、章題どおり、ヴェーバー宗教社会学の視座と基礎概念の解説から始めて、問題の「二重予定説」を焦点にすえ、その前史/成立/特性/作用(イスラムの「予定説」との比較)/「屍の頭caput mortuum(残滓)」を概観してみたい。

さらに、日本のヴェーバー研究――あるいは、一般の「ヴェーバー理解」――には、キリスト教の特定宗派に淵源する「西洋近代の合理主義」を、なにか西洋文化総体に「つくりつけ」になっている固有の排他的傾向として実体化し、あるいは規範化/理想化し、「西洋近代人以上に『西洋近代主義』的に」解する向きがなお支配的で、これが同時に、同位対立としての「西洋-近代主義」をまねき寄せてはいないか。この傾向は、数あるヴェーバー著作のなかでも、「倫理」論文以降の「世界宗教の経済倫理」シリーズへの展開を無視ないし等閑に付し、もっぱら「倫理」論文のみを(あえて極端にいえば)「聖典化」する「学問上の呪物崇拝」としても顕れる。「倫理」論文の片言隻句を捕らえて覆せれば、ヴェーバーの人と作品をトータルに否認できると思い込んだ羽入書は、その裏返し――偶像崇拝の同位対立物としての偶像破壊――である。じつは、「倫理」論文そのものも、「世界宗教」シリーズへの展開のなかで捉え返さなければ、その真価を十分に汲み取ることはできない。

第七章「多義的『合理化』概念とその方法的意義」では、そういう「西洋近代人以上に『西洋近代主義』的」な「合理主義」論が、ヴェーバー自身の「合理化」論とは「似て非なる」誤解/曲解である所以を、「倫理」論文から「世界宗教の経済倫理」シリーズに視野を広げ、触りの箇所を引きながら立証する。ヴェーバー自身は、「合理化」の多義性をいわば「逆手に取る」ことで、かえって「西洋(とくに近代)の合理主義」を相対化し、人類の歴史的運命の多様性にたいする大いなる共感のもとに、限定的に位置づけ、捉え返そうと試みていたのである。

終章「回顧と展望――『戦後近代主義』ヴェーバー解釈からのパラダイム転換」では、そうした誤解/曲解に導いた「戦後近代主義」の政治(思想)的パースペクティーフから、ヴェーバー学を解放する「パラダイム転換」をくわだてる。これは、筆者が永らく、ヴェーバー文献の内在的読解に沈潜するなかで、胸底に温めてきた構想である。筆者としては、東西文化の「狭間」にあるこの日本で、この構想を実現していく方向に「ヴェーバー学の未来」を託したい。

2005年6月9日

折原 浩


目次


『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』

目次

折原 浩

はじめに

第一章「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」論文の全内容構成(骨子)

第二章「倫理」論文第一章第一節「宗派と社会層」を読む――近代市民層帰属 

の宗派別差異から、経済と宗教との「親和関係」にいたる(読者との対話による)論理展開ならびに歴史・社会科学の方法開示

第三章「理念型」とその経験的妥当性――ふたつの誤解との二正面作戦

第四章「倫理」論文第一章第二節「資本主義の精神」第一~七段落を読む――フランクリンからの素材を「暫定的例示」手段とする「理念型(歴史的個性体)」 

概念の構成手順(例解)

第五章「倫理」論文第一章第三節「ルターの職業観」第一段落と三注を読む――ルターによる「ベルーフ」語義創始の経緯と「意味-因果帰属」の手順(例解)

第六章 人間行為の意味形象=規定根拠としての「宗教性」――ヴェーバー「宗教社会学」の理論的枠組みと「二重予定説」の位置づけ

第七章 多義的「合理化」概念とその方法的意義

終章 回顧と展望――「戦後近代主義」ヴェーバー解釈からのパラダイム転換

あとがき

あとがき

『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文から歴史・社会科学の方法会得へ』

あとがき

折原 浩

 本書は、ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」論文を読解し、歴史・社会科学の方法を会得していく一助たらんとして、ここに公刊される。

 前著『ヴェーバー学のすすめ』(2003年、未来社刊)で、筆者は、従来の「倫理」論文批判に見られるひとつの問題的傾向を、つぎのとおり指摘した。すなわち、大方の批判者は、「倫理」論文から、自分の専門領域に重なる部位を抜き出しては、原著者ヴェーバーのありうべき個別の不備ないし過誤を限定的に是正するにとどまらず、「過当に一般化」して、ヴェーバーの「人と作品」を丸ごと葬ろうとする。そうした見地から、ヴェーバーの①実存的/生活史的原問題設定、②思想/学説史的背景、③「倫理」論文の全論証構造、④「倫理」論文以降の展開などを顧みず、学問的内在批判の要件をみたしていない。

 そのうえで筆者は、この①~④の欠落が、批判者側だけの問題ではなく、むしろ、「倫理」論文を「聖典化」し、正当な批判も黙殺してきた、戦後日本の「近代主義」的ヴェーバー研究そのものの欠陥でもある、と捉えた。したがって、一方では、当の問題的傾向が行き着いた極限としての羽入書を、内在的また外在的に批判しながら、他方では、いわば「返す刀」で、「近代主義」的ヴェーバー研究とその「悪しき遺産」を批判し、「二正面作戦」を展開した。少なくとも右記①~④の欠落を埋め、「倫理」論文にかんする本格的な学問論争の要件をととのえようと、筆者として最大限努力したつもりである。

 ①については、主として『ヴェーバー学のすすめ』第一章を参照されたい。②への遡行は、もとよりなお不十分ではあるが、マルクス、キルケゴールおよびカール・メンガーとの関係については、独自の見解を提示しえたと思う(『すすめ』、101, 118~23, 141~47)。他方、『ベン・シラの知恵』、『箴言』など、キリスト教聖書からの引用について、また、ルターやフランクリンへの論及については、それぞれ原典に遡って、当該のコンテクストにおける意味を捉え返している。この点は、学問研究としてあたりまえのことではあるが、「倫理」論文研究では従来手薄であったこともいなめない。

 とはいえ、本書および姉妹篇『学問の未来』(2005年、未來社刊)が力点を置いたのは、やはり③で、「倫理」論文の全論証構造を、方法上の指標にしたがって再構成し、読解にそなえた。

 それにひきかえ、④については、なるほど本書の第二/六/七章で、一方では、「倫理」論文の方法上の被限定性(「三段階研究プロジェクト」における「予備研究」の第一段階)を明らかにし、他方では、(「倫理」論文では与件として取り扱われる)「二重予定説」を、「倫理」論文以降に展開された宗教社会学の理論的枠組みのなかで捉え返してはいる。しかし、「世界宗教の経済倫理」シリーズ三部作および(「宗教社会学」篇を除く)『経済と社会』諸篇の重厚な内容に、深くは立ち入れず、きわめて不十分である。この欠落を埋める仕事は、いずれしかるべき準備をととのえて、捲土重来を期したい。

 なお、本書終章「回顧と展望」関連の参考文献としては、東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻との論争にそなえて開設した筆者のホームぺージhttp://www.geocities.jp/hirorihara に、(恩師高橋徹先生を「偲ぶ会」におけるスピーチに加筆した)「故高橋徹先生の秋霜烈日」を掲載し、修業時代の思い出も交えながら敷衍している。アクセスしてみていただければ幸いである。

 ちなみに、倫理学専攻からは、いまだに自発的な発言が聞かれない。そのうち、羽入書の原論文と審査報告書を閲覧のうえ、『ヴェーバー学のすすめ』『学問の未来』および本書を筆者側の論拠として、学位認定の学問的是非を問う公開論争を提起しなければならないと考えている。

本書の成立事情については、『学問の未来』の「はじめに」と「あとがき」、ならびに本書の「はじめに」に明記した。本書を構成する八章の元稿が掲載された橋本HPの橋本努氏、橋本HPへの寄稿をとおして筆者の執筆/改訂を促してくださった論争参入者各位、とくにそのつど貴重なコメントと激励を寄せられた雀部幸隆氏に、深甚の謝意を表する。また、本書が『学問の未来』の姉妹篇として日の目を見たのは、ひとえに未来社西谷能英氏の熟慮と英断による。『ヴェーバー学のすすめ』『学問の未来』『ヴェーバー学の未来』の三部作が、「倫理」論文初版百周年にあたり、学術出版文化の健在を示し、晴朗闊達な学問論争の活性化に資するとすれば、その功績の過半は西谷氏に帰せられよう。細かいところにまで気を配って本書を仕上げてくださった中村大吾氏、すがすがしい装幀を施してくださった高麗隆彦氏にも、厚くお礼申し上げる。

2005年8月27日 

折原 浩


橋本努「書評 折原浩著『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』未來社2005.8.刊行」

『東洋経済』2005.10.15.144頁

書評

折原浩著『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』

未來社2005.8.刊行

『東洋経済』2005.10.15.144頁

 「ウェーバーって詐欺師なんでしょ?アッハッハ!」

ある飲み会の席で、人文系の学者がウェーバーをあざ笑ってこう述べていた。3年前に刊行された羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房)の影響であろう。ウェーバーの主著『プロテスタンティズムと資本主義の精神』を文献学の拷問にかけ、資料扱いの杜撰なウェーバーを犯罪者として断罪した羽入氏は、「山本七平賞」の受賞によって論壇の人気を博し、今やその影響は、ウェーバーを読んでいない人にまで享楽を与えているようだ。「ウェーバー=詐欺師」説は、どうも酒のうまい肴になるらしい。

知識人というのはつまらないもので、誰かが批判されると、日頃のルサンチマンをぶつけて喜びたくなる。殊に、日本で学者の模範として崇拝されてきたウェーバーが犯罪者・詐欺師扱いされるとなると、本能的に頷きたくなる気持ちも分からないではない。戦後の知識人の多くは若い頃にウェーバーを熱心に読み、どこかで挫折した経験を共有するからだ。

批判を重く受けとめたウェーバー研究の重鎮、折原浩氏は、2年前に小著『ヴェーバー学のすすめ』(未來社)を刊行してこれに応答、またこの度、批判をさらに徹底させた大著『学問の未来』を上梓した。合わせて二書を、羽入書の論駁のために世に問うたことになる。異例の事態である。

ウェーバーを詐欺師とみなす羽入書が現れたとき、その文献学的に緻密な論理と推理小説風のシナリオ展開に、多くの人が魅了されたであろう。羽入氏のウェーバー批判を論破することは、かなり難しいとの論評も出た。ところが折原氏は、羽入氏よりもさらに文献学に分け入って、批判を見事に覆しているではないか。これはまったくの快挙という他ない。

ずばり言って折原氏の先の二書は、これまで書かれたどのウェーバー研究書よりも面白い。読者は、小著『ヴェーバー学のすすめ』の鮮やかな論理展開と独創的な解釈に、論争においてほとばしる知のパトスを味わうであろう。そして今回刊行された労作『学問の未来』もまた読者を惹きつけて離さない。細部にわたる批判がいちいち面白い。論争の決着はたんなるウェーバー研究を超えて、専門のルター研究やフランクリン研究に委ねられたかにも見えたが、折原氏はそれらの研究にも踏み込んで、文献学と社会学の二面から羽入氏に論難を浴びせている。特にフランクリンの啓示解釈は見事だ。また、羽入書には引用操作があり、天に向けて唾したとの批判もある。これはすでに、世紀の大論争ではないか。

橋本努(北海道大助教授)


矢野善郎「「プロ倫」は,再び「旬」か,それとも「賞味期限」か」

『創文』No. 481,2005年11月,pp.17-20.所収

「プロ倫」は,再び「旬」か,それとも「賞味期限」か

『創文』No. 481,2005年11月,pp.17-20.所収

矢野 善郎

 マックス・ヴェーバーの代表作「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(以下,「プロ倫」)が発表された一九〇四-五年から数えてちょうど百周年ということで,昨年から今年にかけて,ドイツ・英国・日本などで記念シンポジウムが開かれ,幾つかのジャーナルで特集が組まれた。

 こうしたイベントの存在だけを見れば,この古典は相変わらず「旬」といえる。しかしイベントの有無は,あくまで表面的な事象に過ぎない。私自身全てのイベントに参加したわけでないので即断は避けるべきだが,これらが,実質的な「プロ倫」リバイバルを提供できていたとは少なくとも聞いていない。「プロ倫」が「旬」であるかどうかは,科学的に実質的な争点の源泉となっているかで判定すべきであって,逆に百周年イベントでその「賞味期限」が見えたということも十分あり得る。そのどちらの見方が正しいのだろう。

 日本に限れば「プロ倫」に関して近年,最も話題になったのは,羽入辰郎の『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房・二〇〇二年)と,折原浩を筆頭としたそれへの批判であろう。羽入は,「プロ倫」執筆にあたりヴェーバーが辞書等の二次文献を参照して手抜きし,しかも資料操作を行ったと告発する。専門的な論点までフォローした人は少ないと思われるが,挑発的なタイトルと序文などをつまみ読みしたのだろうか,インターネット匿名掲示板の参加者などには受けたようで,結局政治的色彩を帯びた文学賞を受賞するなど意外な方面に反響があった。

 折原はこの告発の論点の全てを検討するとともに,学界として誠実な反論をすべきと呼びかけた。橋本努はこれに呼応しつつ,ホームページhttp://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/ に論争空間を設け参加を呼びかけ,多くの論者が論評を寄せている。折原は,羽入書批判のために,結局二年間で二冊の批判書『ヴェーバー学のすすめ』(未來社・二〇〇三年)『学問の未来』(未來社・二〇〇五年)と,後述するヴェーバー入門書を出版した。

 羽入自身は,その間まったく応答責任を果たさず,事実上「沈黙は承諾を意味する」状態である。が,いずれにせよ彼がなおも告発のたぐいにこだわるなら科学的にはさして意味があるとは思えない。折原の言葉を借りれば,羽入は学説研究や文献検証自体の意味を見失った「没意味的文献学」に陥ってしまったように見える。例えばルターのBeruf概念と英語圏のcalling概念との関連など、彼が発見した視角を歴史・宗教社会学的に展開し,より実質的なヴェーバー批判が展開されるのならばより論争の第二ステージはより実り多いものになるであろう。

 もっとも,この論争によって社会学者として率直に自省させられたのは,羽入の主張を額面通り受け取り,賞まで与えるほどに日本の社会科学的なリテラシー(読書能力)が落ちていることに気づかなかったことである。ルター派と禁欲的プロテスタンティズム諸派を一緒くたにし、「プロテスタンティズムが資本主義を生み出した」とする漠然とした「プロ倫」把握が広範囲でまかり通っていたことが、今回の騒動の背景にある。これを招いたのは,私自身も含む理論・学説研究者が,社会科学の理論水準の維持・再生産に十分な力を尽くしてこなかったことが一因にあろう。その点「没意味的文献学」に退行していたことの責めを負うべきは一人だけではない(その意味で,折原が羽入批判のしめくくりとして包括的なヴェーバー解説に踏み切り,『ヴェーバー学の未来』(二〇〇五年・未來社)を出版したことは,この騒動の望ましき副産物といえるかもしれない)。

 目を海外に向けると「プロ倫」について盛り上がっているのは,案外ドイツよりも英語圏かもしれない。二〇〇〇年以降に「プロ倫」の新たな翻訳が二種類刊行されているし,「プロ倫」のいわば続編「反批判」論文群の翻訳でさえも二種類出ている(日本では意外にもまだ「反批判」の全訳書はない)。いわゆる「ヴェーバー・テーゼ」の歴史的批判もコンスタントに出ている(例えばJere Cohenの近著)。

 また英国の学者が中心となり五年ほど前に創刊されたヴェーバー研究専門誌であるMax Weber Studies誌の呼びかけで,昨年早々にロンドンで「プロ倫」記念シンポジウム(二〇〇四年六月)が開かれ、私も縁があり参加してきた。

 そこでは,昨年水難事故で急死したモムゼンや,ヴェーバー全集で「プロ倫」巻担当のレーマン等のドイツ勢を筆頭に,作品史・文献学的な研究,つまり「プロ倫」執筆の際に依拠された一次資料についての報告が目立った。ただしその一次文献への遡及が何を明らかにしたのかはっきりしない報告も目に付き,その点「没意味的文献学」は日本だけの傾向ではないと苦笑せざるをえない。

 内容的に興味深い論点を提供したと考えるのは,米国から参加した二名の報告者であった。一人は,『鉄の檻を逃れて』(未來社から邦訳が近刊)で知られるLawrence A. Scaffである。彼は,いわば地の利を生かし,ヴェーバーの一九〇四年のアメリカ旅行とりわけ中西部滞在をたどるというテーマで報告した。ヴェーバーは「プロ倫」の第一部の原稿を出版に回した後,数ヶ月にもわたるアメリカ旅行に向かう。「プロ倫」の第二部は,渡米経験をいかしつつ帰国後に書いたとマリアンネの伝記でもされている。スカッフ報告では,チェロキー・インディアンをルーツに持つ混血で後に上院議員に就任することになる異才オーウェンとヴェーバーが議論していたことなど興味深い伝記的事実が紹介された。そしてオクラホマという,資本主義の波にのまれつつあるアメリカの牧歌的なフロンティアでの滞在が,「プロ倫」末尾の資本主義が貫徹していく近代のイメージの形成に深く影響したことなど,実質的な「プロ倫」理解とアメリカ論へとつながりうる結論が述べられていた(論文としてはJournal of Classical Sociology Vol. 5(1),2005.に発表されている)。

 もう一人は,ナショナリズムの歴史社会学で知られるLiah Greenfeldである。彼女は,自著The Spirit of Capitalism (2001)に基づき,「プロ倫」ではオランダが説明できない等,一部のヴェーバー研究者からは顰蹙を買うほどに精力的な批判をしていた。資本主義が日本も含め世界各地に展開していった原動力には「ナショナリズム」があるとの仮説に基づく彼女の大著により,「ヴェーバー・テーゼ」は塗り替えられるとの主張である。当然,学説研究者からは解釈上の文句も出てくるが,「プロ倫」を乗り越えるには,それにかわる仮説モデルを提供しないといけないという当たり前の原則を再認識させてくれた功績は大きい。代わりの枠組みやコンテクストを考えずに,些末な歴史的事実をぶつけて「ヴェーバー・テーゼが崩れた」と称する研究は古今東西枚挙にいとまがない。

 学説研究者から観ると「ヴェーバー・テーゼ」を批判するという試みはたいがい「藁人形たたき」であり,反論しやすい皮相な命題をヴェーバーの口に押し込め,それを叩いているように見える。しかし,今日の学説研究の問題は「皮相だ」と言っているだけで,本来乗り越えるべき「ヴェーバー・テーゼ」なるものを生きた社会科学の文脈に乗せる努力を怠ってきたこととも言える。

では「プロ倫」の意義は,どこにあるか。これには大別すれば二つの答え方があると考える。因果的テーゼを重視する答え方と,意味論的テーゼを重視するものである。前者は,経済的生活様式と宗教倫理との間の因果命題の発見こそが「プロ倫」の意義だと考える。後者は,「資本主義」概念の意味付けをラディカルに転換したことこそがその最大の功績だと見る。つまり複数の「資本主義」・「経済的合理主義」を弁別し,近代の資本主義の精神を特異な合理主義として記述した点こそが意義だと考えるのである(私自身は,拙著『マックス・ヴェーバーの方法論的合理主義』(創文社・二〇〇三年)で展開したが,後者である)。

 ヴェーバーは,救済されざる者の存在を正当化する冷たいカルヴィニズムの二重予定説が刻印を押したものとして,近代の(とりわけアメリカ的な)資本主義を描き出した。「勝ち組・負け組」,「競争社会」,「成果主義」,こうしたフレーズとともに日本に「ホリエモン」達が出現したことは,かつてオクラホマを飲み込んだ経済的合理主義の波がようやく日本に到着したと言えるのか…。いやアメリカの成功者は(たとえ偽善的であろうとも)社会に巨額の寄付を行うことが求められる。が,そうした身分倫理をそぎ落とした,別のより冷たい波が打ち寄せてきたのではないか…。意味論的テーゼを重視する立場からすると,「プロ倫」は現代社会,とりわけアメリカや日本を考える上で最も「旬」な問題提起の宝庫にすら感じられる。

 ヴェーバーは「職業としての学問(科学)」で,社会学的な研究は,「専門家が,その専門分野での分析視角からすれば簡単には思いつかないような問題設定を提供するのがせいぜいである」と,読みようによっては自負ともとれる苦悩を述べている。「プロ倫」は,まさにこうした「問題設定の提供」を一世紀にわたり行ってきたのであろう。そんななかヴェーバー研究者が「没意味的な文献学」に終始する一方,社会科学一般での「プロ倫」の解読がますます皮相なものになっていくことで,賞味する舌の方に「期限」がきているのであれば,これほど皮肉なことはない。

(中央大学文学部助教授)

『長野県看護大学学報』No.16, 2003.7. 18頁[PDF]

「現代社会学がその「産みの父親」として崇敬し、博覧強記の知的巨人、学者の神様と神格化された存在としてのマックス・ヴェーバーが主張してやまなかったのは「知的誠実性(intellektuelle Rechtschaffenheit)」であった。しかし、ヴェーバーは自らの代表作たる著書の中で、資料を読み違えたばかりか、自分に都合のいいように「不誠実」な資料操作をしていた。知的誠実性を訴えたヴェーバー本人は、実は一人の詐欺師にすぎなかった。」・・・

江藤裕之「書評 文献学の勝利: 羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』」

ASTERISK, A Quarterly Journal of Historical English Studies, Vol.XIII, No.4.所収 2004 winter


唐木田健一「「マックス・ヴェーバーの犯罪」事件」

『科学・社会・人間』95号、2006.1. 20-27頁、所収(書誌情報のみ掲載)

折原浩『大衆化する大学院―― 一個別事例にみる研究指導と学位認定』未来社2006.10.

お知らせ+はじめに+目次 | あとがき(より抜粋) | 刊行ご挨拶

『大衆化する大学院―― 一個別事例にみる研究指導と単位認定』(2006年9月、未來社刊)

お知らせ+はじめに+目次

折原 浩

今年3月の「京都シンポジウム」以来、長らくご無沙汰しました。

前著『大学の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』(2005年8月、未来社刊)のあと、「大衆化大学院における研究指導と学位認定」の問題を、東大院人文科学 (現人文社会系) 研究科倫理学専攻における羽入論文審査という一個別事例から探り出していく研究作業を進めてきました。同研究科のホーム・ぺージにこの問題にかんする公開討論のコーナーを開設してもらい、わたくしの問題提起、審査当事者の所見表明のあと、双方の見解を順次公表して、公開討論を進め、問題の所在をつきとめ、責任性の回復と事態の改善につなげていくという構想で、まず問題提起の書面をしたため、研究科長と羽入論文の主査あてに郵送しました。しかし、遺憾ながら、前者からは回答がえられず、後者からは拒否回答が送られてきました。そこで、わたくしの問題提起だけを、未來社より単行本として公表することにし、近々刊行の運びとなった次第です。

以下に、「はじめに――問題提起」、本文目次、「あとがき」の一部、刊行挨拶状を収録して、ご参考に供します。

なお、「京都シンポジウム」におけるシュルフター氏との討論と、その後進めている(当日報告の改訂)英訳稿につきましては、別途ご報告する予定です。

大衆化する大学院 ―― 一個別事例にみる研究指導と学位認定

折原 浩

はじめに――問題の提起

一. 羽入辰郎の応答回避 

昨(2005)年8月25日に拙著『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』が、同じく9月15日には『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』が、未来社から刊行され、今日(2006年4月15日)で約半年になる。書評「四疑似問題でひとり相撲」(『季刊経済学論集』、第59巻第1号、2003年4月)、前著『ヴェーバー学のすすめ』(2003年11月25日、未來社刊) の公刊から数えると、約三年の歳月が経過している。

 これらの拙著/拙評で、筆者は、羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(2002年9月30日、ミネルヴァ書房刊、以下羽入書)の「ヴェーバー批判」に、正面から反批判を加えた。羽入が反論/反証しやすいように具体的論拠をととのえ、論点ごとに筆者のヴェーバー理解を対置し、羽入の応答を求め、論争を開始しようとした。ところが、羽入はこの間、拙著/拙評の反批判にまったく応答しない。

 また、去る2004年1月には、北海道大学経済学部の橋本努が、ホームぺージ(http://www.econ.hokudai.ac.jp/%7Ehasimoto)に「マックス・ヴェーバー、羽入/折原論争コーナー」を開設し、羽入を含むヴェーバー研究者/読者に、広く論争参加を呼びかけた。筆者はこの呼びかけに答え、一連の論考[1]を寄稿したが、羽入は、このコーナーにも応答を寄せていない。

 知的誠実性を規準にヴェーバーを「批判」し、「詐欺師」「犯罪者」とまで決めつけた当人が、筆者の反批判には、知的誠実性をもって答えない。研究者として論争を受けて立ち、理非曲直を明らかにしようとしない。

二. 羽入への研究指導と学位認定を問う

そこで、筆者は、当の羽入辰郎に学位を与えた東京大学大学院人文科学(現人文社会系)研究科、とくに羽入への研究指導と学位請求論文の審査に当たった倫理学専攻に、改めて(『学問の未来』につづいて)この件にかんする所見の表明を求め、研究指導と学位認定の責任を問いたい。というのも、拙著で論証した羽入書の欠陥と羽入の応答回避から考えて、東大院人文社会系研究科とくに倫理学専攻は、羽入にたいする研究指導を怠り、知的誠実性をそなえた研究者に育成する責任/社会的責任を果たさないまま、学位は与えて世に送り出した、と推認せざるをえない。大学院・研究教育機関としての厳格な研究指導と適正な論文審査という条件のもとで初めて、そのようにして認定された学位に社会の信頼をえている当該責任部局が、根本的な欠陥をそなえた論文に、おそらくは問題のある審査で、少なくとも結果として学位を認め、そのかぎり学位認定権という職権を濫用し、社会の信頼を裏切っていたのではないか。

 こうした事態は、さまざまな分野で、専門職におけるモラル/モラールの低下と、虚偽/虚説捏造といった背信行為が、世間一般に有形無形の被害をもたらしている今日の社会状況と、けっして無関係ではあるまい。こうなった以上は、羽入書の欠陥を論証して、そこに結果として露呈された大学院教育の不備を指摘し、警鐘を鳴らした筆者が、その延長線上で、羽入の学位請求論文と審査報告書も検討し、そこに窺われる研究指導と学位認定の問題点を、明らかにすべきであろう。そうした問題点は、この一個別事例かぎりのことではなく、いつどこで再発しても、あるいはもっと目立たない形で多発していても不思議はない、構造的背景したがって相応の普遍性をそなえた問題で、とくに大学院の「大衆化」(増設/規模拡大にともなう定員/実員増)につれて深刻さを増してきているのではあるまいか。問題をそのように捉え返すことをとおして、現下の大学院・研究教育機関の実態に、広く関心を喚起し、不備/欠陥の是正と責任性の回復/向上に向けて、ひとつの捨石を置く必要があると思われる。いや、今日の社会状況を特段に考慮するまでもなく、大学院・研究教育機関のあり方をたえず点検して、現場に不備/欠陥があればそのつど是正していくことは、本来、学問とその未来に責任を負う研究者にとって、避けて通れない課題であり、社会にたいする責務でもあろう。

原論文提出から学位認定まで

 第一節 表題ほかの変更

 第二節 学位認定までの研究指導――対極二仮説の提示

 第三節 注目を引く一事実――謝辞群中に主査/専攻主任の名がない

 第四節 主査/専攻主任の「胸中」

第五節 論文「不出来」の類型的状況にたいする類型的対応

大学院「大衆化」とその随伴結果――「対等な議論仲間関係」の解体

 第七節 第一類型の対応――学問上の規範に照らして「客観的に整合合理的」な「積極的正面対決」

第八節 第二類型の対応――なお「客観的に整合合理的」な「消極的正面決」

第九節 第三類型の対応――「客観的に整合非合理的」な「対決回避」―

-「権威主義」の二面性

 第一○節「権威/温情」的対応の系譜とその文化的背景

 第一一節「前近代」と「超近代」との癒着

審査報告書「[論文] 内容要旨」の検討

そこで、以上(第一章)の三理念型構成を柱とする一般的/仮説的な考察を踏まえ、一個別事例として羽入論文の審査報告書を検討し、仮説の検証に移りたい。

 第一節「内容要旨」の構成

 第二節 前置きに顕れた「二重焦点」とその意味

 第三節「ピューリタン的calling概念の起源」の二義――「語源」と「宗教的/救済論的起源」

 第四節「虎の子」可愛さのあまり――パースペクティーフの転倒とその動因

 第五節「パリサイ的原典主義」の自縄自縛――「OEDの誤り」捏造

 第六節『ベン・シラの知恵』発「言霊伝播」説――被呪縛者はだれか

 第七節 実存的な歴史・社会科学をスコラ的な「言葉遣い研究」と取り違える

 第八節 当然のことを「アポリア」と錯視、「疑似問題」と徒労にのめり込む

 第九節『アメリカにうんざりした男』からの孫引きとその意味

 第一○節「フランクリンの神」が「予定説の神」とは、誤訳の受け売りと誇張

 第一一節「フランクリン研究」と「『資本主義の精神』を例示するフランクリン論及」との混同――ヴェーバー歴史・社会科学方法論への無理解

 第一二節「直接的」という限定句の見落とし――文献学の基本訓練も欠落

 第一三節 ふたたび「フランクリン研究」と「『資本主義の精神』を例示するフランクリン論及」との混同

 第一四節「啓示」をめぐる迷走

 第一五節 フランクリンにおける倫理思想形成の三段階を看過

 第一六節 恰好の標語も引用しないと「不作為の作為」「故意の詐術」

 第一七節「結び」で特筆の (ⅳ) 項が失当では、「ましてや他項においてをや」

審査報告書「審査要旨」の検討

 第一節 誤字・脱字・悪文――「投げやりな」審査要旨

 第二節 杜撰な審査報告書で「文学博士」量産か

 第三節 審査委員の「倫理」論文理解は「トポス」論議水準

 第四節 「無難な逃げ」の抽象的要約

 第五節 羽入論文――研究指導欠落の対象化形態

 第六節 無内容のまま「結論」に短絡――責任ある評価主体の不在

 第七節「集団的意思決定にともなう制約」問題

 第八節 第一類型対応から第三類型対応への越境

 第九節 第三類型対応への越境を規定した(一般的、個別的)諸要因

小括

 一、研究科のホームページに公開討論コーナーの開設を要請

 二、審査委員に所見表明を要請

むすび――広範な討論への呼びかけ

 一、倫理学専攻者は「母屋の火事」にどう対応するか

 二、ヴェーバー学、広く歴史・社会科学に、ザッハリヒな批判と論争にもと

   づく「連続的発展の軌道」を敷設しよう

(2005年12月15日起稿、2006年1月28日脱稿、2006年4月15日改稿、2006年7月5日再改稿)



[1]そのうち、橋本努ホームページに寄稿された諸氏(森川剛光、山之内靖、横田理博、牧野雅彦、宇都宮京子)の論考に、筆者が一当事者として応答した分は、それぞれ寄稿と応答とを対比して読まれるべきであろうから、双方が収録される予定の橋本編論争記録に留保してある。それ以外の、筆者独自の寄稿分は、橋本の了承をえ、改訂/増補して、拙著『学問の未来』『ヴェーバー学の未来』に収録した。

あとがき(より抜粋)

『大衆化する大学院―― 一個別事例にみる研究指導と単位認定』

(2006年9月、未來社刊)

あとがき(より抜粋)

折原 浩

 ……[前略]……


 顧みると、筆者が、自分の所属する東京大学、しかも出身学部の文学部を、筆者には理不尽/無責任と思われる措置について公然と批判するのは、1968-69年の「第一次東大闘争」、1977年の「文学部火災事件」につづいて、これで三度目である。過去二度の批判の論拠は、本書の第三章注4に挙げた文献に、公表され、記録されている。そこでは、批判の対象が、学問内容に直接の関係はない管理上の理不尽/無責任にかぎられていたが、今回は、批判の射程が、学位認定という中枢機能と(そこに顕れた)専門的研究の質と水準におよんでいる。

 筆者がこれらの批判とその公表をとおして意図したことのひとつは、日本の「学界-ジャーナリズム複合体制」に根を下ろし、第二次世界大戦後にも一向に変わっていない、ある「慣習律」にたいして、少なくとも挑戦を止めないことであった。すなわち、「学問的訓練をとおして錬磨される批判的理性の意義を、抽象的にはどんなに説いても、あるいは、抽象的にはどれほど過激な批判的言辞を弄しても、問題が自分の所属組織や出身母体や同業関係にかかわり、具体的な身辺の利害におよんでくると、とたんに批判を手控えて『口を拭う』、『身辺と余所』『内と外』の二重規準に囚われた『個別主義particularism』の慣習律」である。

 筆者は、いまから約四○年まえ、駆け出しの一教員として1968-69年「第一次大学闘争」に直面した。この事件は、当の慣習律を根本から問い返し、「『身辺と余所』『内と外』という二重規準の制約を超える理性的批判の具体的普遍化」に向けて、ようやく突破口を切り開くかに見えた。

その渦中では、たとえばつぎのような議論が交わされた。まず、日本社会一般の「無責任の体系」を批判する「知識人」の言説は、読者のひとりひとりが、それぞれの所属組織ないしは現場で直面する具体的な無責任措置のひとこまひとこまに、公然と向き直って闘うことを想定/期待し、そうした個別の闘いを導いて日本社会全体の変革につなげようとする「呼びかけ」と解されなければならない。「日本社会全体の変革」「責任体系の確立」といっても、実態としては、個々の組織や現場における、そうした具体的な闘いの根気よい積み重ね以外にはありえない。ところで、ある「知識人」の著者が、一方では、批判言説をジャーナリズムに発表して読者に「現場の闘い」を呼びかけながら、他方、生身の一大学教員としては、自分の所属組織の具体的な無責任措置(たとえば、事実誤認のうえに「疑わしきを罰し」、教壇では説かれる「近代法/近代的人権保障の常識」を忘れる、「第一次東大闘争」で問われた、東大当局の措置)が明るみに出てきて、まさに読者と同じ立場で当の具体的無責任と闘うべき正念場に立たされたとき、身を翻して批判を手控え、事実関係の究明も怠り、(さらに困ったことに)そうしたスタンスの矛盾を衝く問題提起には一種「苛立った」拒否反応しか返せないというのは、いったいどうしたことか。「知識人」のそうした実態が闘争場裡で一瞬あらわになったとき、その「呼びかけ」を真に受けて自分の現場で闘ってきた読者ほど、それだけ痛く失望し、それまでの敬意が否定的批判に反転したのも、ゆえなしとしない。

 しかし、そこから生じた「知識人」言説にたいする批判は、外からの闘争圧殺と内的な衰退につれ、状況の弾みも手伝って、いきおい一面的に尖鋭化した。「自分では闘う気のない『言説のための言説』」、「『余所ごと』にかけては鋭利で華々しくとも、所詮は『慣習律』の『安全地帯』に身を置いた『綺麗ごと』」、「読者を二階に上げて梯子を外す無責任なアジテーション」、「初めから『負ける』つもりの『負け犬の遠吠え』」……と、告発は止まるところを知らなかった。

 こうした他者糾弾の激化と、それと表裏の関係にある自己絶対化とが、状況の重みを共有しない後続世代に、多分に同位対立の擁護論を誘発し、最奥の争点を曖昧にし、議論を「第一次大学闘争」以前の水準に戻してしまったことはいなめない。じつはそこで、著者ないし「知識人」一般の実存的限界を見きわめて「深追い」は避け、むしろ「無責任の体系」を批判し、その克服を目指す問題提起そのものは評価し、引き継いで、その闘いを(こんどは自分たちが、著者の限界を超えても)具体的に普遍化していくにはどうすればよいか、というふうに前向きに設定しなおす必要があったのではないか。そのうえで、各人の現場で二重規準を超える批判的理性の軌道転轍を一歩一歩進めながら、相互に交流/連帯し、「第一次大学闘争」の切り開いた地平を確実に定着させ、「当事者性を忘れたふやけた議論」が蒸し返される余地もないほどに、軌道を固め、実績を積むことが、肝要だったのではあるまいか。

 問題は、「知識人」批判の当事者が、その後「知識人」たとえば研究者となってどう生きてきたか、にあろう。他者に向けた批判を自分自身にも向け換え、「『身辺と余所』『内と外』の二重規準を超える理性的批判の具体的普遍化」に向けて、各人の現場でそれぞれ個別の問題と批判的に対決し、牢固たる慣習律と具体的に闘ってきたかどうか。かえって、「世界歴史」や「社会一般」の抽象論から出発して、せいぜい個別問題を演繹するだけの(キルケゴールにいわせれば「腑抜け」の)スタンスと議論に、いつのまにか舞い戻ってはいないか。逆にいって、自分の所属組織ないし現場の個別問題から出発して、その構造的背景を問いつつ、批判の射程を極力拡大し、広く関心と議論を喚起していくような「実存的な歴史・社会科学」のスタンスと方法は、どれほど会得され、鍛えられ、実を結んでいるだろうか。


 ……[後略]……


刊行ご挨拶

『大衆化する大学院―― 一個別事例にみる研究指導と学位認定』

(2006年9月、未來社刊)

刊行ご挨拶

折原 浩

拝啓

 朝晩しのぎよい候となりました。ますますご清祥のことと拝察いたします。

 このたび、拙著『大衆化する大学院―― 一個別事例にみる研究指導と学位認定』(未來社)を上梓いたしました。ご多忙のところたいへん恐縮ですが、お暇の折、ご笑覧たまわれれば幸甚と存じます。

 さて、2003年の羽入書批判を皮切りに、多岐にわたった論争提起も、主たる相手の応答がないまま、このへんで一区切りつけざるをえないか、と予想されます。つきましては、この機会に一点だけ、(それ自体としては好ましくなく、できれば避けたい)自己解説をお許し願いたいと存じます。と申しますのも、この間、「折原はなぜ、羽入書のようなつまらぬものにこだわり、山本七平賞選考委員ら『保守派論客』や「旧石器遺物捏造事件」の当事者はともかく、本来は『味方』のはずの東大院人文社会系倫理学専攻から、『大塚門下』、はてはヴェーバー研究の『中堅』や『若手』にまで、批判の矛先を向けるのか」という戸惑いと批判が広まっているように見受けられるからです。ところが、わたくしのほうから忌憚なくいわせていただければ、まさにそうした「批判」を生み出す「戦後進歩派ないし左翼」の問題点を指摘し、その克服に向けて捨石を置くことこそ、この間の四部作への状況論的意味づけのひとつにほかなりません。

 過日著者から贈呈を受けた『丸山真男』(岩波新書)の序章に、三島由紀夫と林房雄が対談して丸山に論争を呼びかけたところ、丸山が別の座談会には出て、「事実上黙殺するだけじゃなくて、軽蔑をもって黙殺すると公言します」と答えた、というエピソードが載っています(5頁)。さて、丸山は、三島と林の批判を「正面から受けて立ち」、「逆手に取って」、自説の正当性を主張することも、できたのではないでしょうか。ところが、著者は、そうしない丸山を容認し、しかも「丸山は、異質なものとの接触の意義を強調した」と説いています。「異質なものとの接触」とは、旧制高校の学寮とか、「東大法学部のリベラルな雰囲気」とか、同質空間の枠内にかぎられるのでしょうか。

1968-69年の「第一次東大闘争」のあと、わたくしどもが「解放連続シンポジウム」を開設し、「お互いの職場で起きた問題の事実関係をともに究明しましょう」と、一資料として拙著『東京大学――近代知性の病像』(1973年、三一書房刊)を贈って参加を呼びかけたときにも、丸山は、ただ「断る」というのではなく、「お前などと付き合うひまがあったら自分にはなすべきことが山ほどある」とか、「お前のような精神的幼児がスルスルと助教授に収まっていられるところに『東京大学の病像』が顕れている」とか、いわずもがなの言葉を返してこられました(『丸山真男書簡集』5、みすず書房、309-10頁)。

「異質なもの」といっても、自分を受け入れてくれそうな範囲をあらかじめ決めて、「仲間内だけで気勢を上げる」あるいは「崇拝者の群に上機嫌で饒舌を振るう」ことはしても、その限界を越えて「異質なものに触れる」と、とたんに拒否反応を起こし、逃げを倨傲で糊塗するかのようです。「どんな対戦相手も受け入れ、勝敗は二の次に、フェアプレーに徹して闘い抜く」スポーツマンと対比して、なんとも偏狭で退嬰的なスタンスではないでしょうか。「上に向かっても下に向かっても、右にも左にも、フェアに対応し、必要とあれば『身内』にもいいにくいことをいう」度量が欠けていたのではないでしょうか。

ところが、そうした脆弱性は、なにも丸山にかぎられません。「戦後進歩派ないし左翼」総体に浸潤し、目に見えない前提枠をなし、前記著者のような後続世代にも根を下ろしてしまっています。総じて「戦後進歩派なしい左翼」には、「政治運動あがり」はいても、スポーツマンがいません。先頃、『前夜』という雑誌が創刊され、わたくしも期待して定期講読を申し込んだのですが、「自分たちにとって異質なもの」たとえば現役の「保守派論客」群を取り上げ、それぞれの著作に即して批判を加える特集を組むとか、せめて一号に一人づつ取り上げて「叩く」とか、そういう「他流試合」は、少なくともいまのところ念頭にないようです。「身内」だけで「群れをなし」、「共鳴者をつのって気勢を上げる」だけでは、「縮小再生産」に陥らざるをないでしょう。

 こういうことでは、「戦後進歩派ないし左翼」は先細りするばかりで、それだけ「保守派論客」は「いいたい放題」となり、影響力を増すでしょう。とくに、拙著『学問の未来』で山折哲雄、養老孟司、加藤寛らとともに槍玉に上げた中西輝政が、論証(143-47頁)のとおり、学問上支離滅裂で、品性も問題ですが、それにもかかわらず、あるいはむしろまさにそれゆえに、日和見右翼のポピュリストともいうべき安部晋三の「ブレイン」に収まり、さらに悪影響をおよぼしそうな動きには、危惧と憂慮を禁じえません。いま、中西の著作をあくまで言説によって批判し、論証で影響力をそいでいく、「理性的批判の具体的普遍化」が、まずは京大の研究者に求められるのではないでしょうか。いな、いまや京大にかぎらず、誰しも身辺を見回せば、似たりよったりの人物がうごめいていましょうから、各人の専門にいちばん近く、もっとも問題のあるひとりに絞って、批判を集中し、論陣を張り、そのようにして自分の学問も鍛える、相手のある具体的な思想闘争を、各自の現場で展開する必要があるのではないでしょうか。

「戦後進歩派ないし左翼」の問題提起と遺産を継承する一方、その限界は「理性的批判の具体的普遍化」によって越えていく以外、学問の「下降平準化」に歯止めをかけ、状況論的にも、「恣意に居直るポピュリズム」ともいうべき現下のファシズムをくい止めることはできない、と思うのですが、いかがでしょうか。「学界-ジャーナリズム複合体制」に現れた羽入辰郎は、政界の小泉純一郎および安部晋三と「等価」ではないでしょうか。太平洋戦争前夜の「知識人」も、一人一人は「おかしい」と思いながら、他人の顔色を窺うばかりで、個人としてはっきりものをいわず、ズルズルと破局にまで引きずられていったのではないでしょうか。この点を、敗戦直後、誰よりも反省し、批判したのが、丸山真男だったはずなのですが。

 というわけで、この間の四部作が、「理性的批判の具体的普遍化」への捨石として、状況論的にも活かされることを祈念してやみません。「中堅」「若手」のみなさんには、かぎりある老躯がいつかは持ち切れなくなる「槍」を、このへんで早めに、担ってくださるように!

 では、よい季節とはいえ、くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。


敬具

2006年9月


折原 浩


伊藤睦月「近代資本主義の精神をつくったのはプロテスタントではない――羽入論文をめぐって」

副島隆彦編『金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ』祥伝社2005、所収(書誌情報のみ掲載)

茨木竹二「歴史社会学としてのヴェーバー社会学の生成と特性<IV>」

『いわき明星大学人文学部研究紀要』第14号、2001年 (書誌情報のみ掲載。羽入論文「マックス・ヴェーバーの<魔術>からの解放」への応答です。とりわけ茨城論文の注60, 14-15頁を参照。)

[付論]折原浩「書評――石岡繁雄・相田武男著『氷壁・ナイロンザイル事件の真実』を読む」

2007年4月4日(本コーナーへの寄稿)

書評――石岡繁雄・相田武男著『氷壁・ナイロンザイル事件の真実』を読む

折原浩200704

 厳寒の北アルプス・穂高岳で遭難があいつぎ、いずれも命綱が切れ、ひとりの若者は墜落して絶望、とラジオ報道で知ったのは、今から約五十年前、大学一年生のころだったと思う。その後、この事件を題材とする井上靖の小説『氷壁』が、朝日新聞に連載され、「山のロマン」として評判になった。筆者も、とびとびには読んだ記憶がある。作家はたしか、「ナイロンザイルに欠陥があって切れた」と、はっきりとは語らなかった。しかし、読者はおおかた、「これほど大々的に取り上げられるのだから、すでに原因は明らかにされ、決着がついているのだろう」くらいに受け止め、山好きの人以外、事件そのものにはあまり関心を向けず、そのうちに忘れてしまったのではないかと思う。筆者も、そのひとりだった。

 ところが今回、思いがけず石岡繁雄・相田武男著『石岡繁雄が語る氷壁・ナイロンザイル事件の真実』(2007年1月、株式会社あるむ刊)を読み、真相究明の経緯と、石岡氏をはじめとする関係者の闘いを知った。この本は、(三重県鈴鹿市にある登山クラブ)「岩稜会」の会長で、後に豊田と鈴鹿の両高専で応用物理を教えた石岡氏が、実弟の遭難死以来、事件にかかわり、真相究明と再発防止に立ちはだかる壁と闘った経緯を、途中から取材に当たった元朝日新聞記者の相田武男氏に語り、相田氏と(石岡氏の豊田高専時代の教え子で、名古屋市内で編集印刷業を営む)川角信夫氏とが、関連資料を織り込んで編集、出版したものである。四六判全460頁、巻末に年表が付されている。本体頒価、2300円。

 石岡氏は、本書刊行の半年前、2006年8月の半ば、八十八歳で逝去された。「はじめに――若い人に伝えたいナイロンザイル事件」 の結びにはこうある。「私たちが体験したことと同じような事件は、今日もなお同じような形で起きています。そういうことが起こるたびに、私は、二十一世紀を担う若い人たちに、ナイロンザイル事件の解決がなぜこんなに長引いたのか、企業や学問、科学技術にたずさわる人たちが社会的な責任というものをどう考えて行動したのか、また事件の渦中で示された人間の真実といったことを、理解してもらいたいと思ってきました。本書では、複雑な展開をしたナイロンザイル事件を、できるだけ理解してもらいやすいように語ります。……肩書や役職などは、当時のものをそのまま使わせてもらいました」(ⅴ)。つまり本書は、石岡氏が、生涯にわたる闘いを総括し、あとに残るわたしたち、とくに将来を担う若い人たちに、広く伝えようとした遺書なのである。

 1955年1月の事件直後、石岡氏は、前穂高の岩角で切れたザイルの一方を握っていて切断面を持ち帰った岩稜会員の証言を偽りないと見て、つぎのような仮説を立てた。すなわち、ザイルメーカーの東京製綱が「麻ザイルよりも強く、一トンの重さにも耐える」と保証し、諸外国でも使われているナイロンザイルではあるが、「鋭いエッジの岩角には意外に弱いのではないか」と。そして、この仮説を、自宅付近の松の木、自宅庭先にしつらえた木製架台、名古屋工業大学および名古屋大学工学部の土木研究室でおこなった実験によって検証し、1月の末には、「(登山用として売られ、穂高の登山隊も使った)直径8ミリのナイロンザイルは、90度の岩角を支点に、60キロの重量がかかり、約50センチ落下すると切断する。命綱に使うと、自然の岩角でも切れるから危険」(76-77頁)との結論をえた。この実験結果が、追検証に付され、承認されて、安全対策に活かされていれば、その後、同じ原因による犠牲者を出さなくてすみ、実弟の死も、本人や仲間の「ザイル取り扱いミス」による「自己責任」ではなく、当時には予測できなかった原因による初の犠牲として、その後の安全に活かされ、弟の霊も浮かばれよう。石岡氏は、そう考えたろうし、およそまともにものを考える人間であれば、そう考えて当然と思われる。

 ところが、名古屋大学などにおける実験の数日後、2月9日に開かれた日本山岳会関西支部主催の事故検討会に、石岡氏が実験結果とデータを報告すると、座長をつとめていた日本山岳会関西支部長の大阪大学教授篠田軍治氏が引き取って、「死因を明らかにし、今後の登山者の安全を守るため、事故原因の究明を急がなければならない。自分がその任に当たる」と申し出た。出席した新聞記者のなかには、「肉親がやった実験の結果は、はたして公正だろうか」と、疑念を表明する人もいた。

 さて、この篠田発言は、抽象的には正論である。また、記者の疑念も、みずからデータと結論をつき合わせて検証するいとまがなければ、それ自体としては「一般経験則」に即した、無理からぬ疑惑ともいえよう。そこで、篠田氏が、公平な第三者として、みずから研究に当たり、納得のいく結論をえようと、仲裁役を買って出た、とも解釈できる。本人も、このときには、半ばそのつもりでいたのかもしれない。

 しかしまもなく、4月20日ごろ、東京製綱から三重県山岳連盟に、愛知県蒲郡市にある同社の工場で、連休初日の4月29日、篠田氏指導のもとに公開実験をおこなうから、立ち会ってほしい、との招請状が届いた。ところが、石岡氏は、岩稜会の会長として、連休中に実弟の遺体捜索に出向く予定を、すでに1月の遭難現場撤収時に決めていた。そこで、当日の実験立会いは岩稜会の副会長と三重県山岳連盟の理事に託すこととし、事前に篠田氏を、副会長とともに阪大の研究室に訪ねた。このとき篠田氏は、石岡氏らにこう語ったという。「東京製綱は、事件によるイメージダウンで他の商品の売り上げも減り、かえって被害者を恨んでいる。筋違いだが、気の毒には思う。しかしそれよりも、ザイル事故は登山界にとってきわめて重大なので、原因究明を急がなければならない。ただしそれは、科学者というよりも一アルピニストとしての課題で、公費を使って研究するわけにはいかない。たまたま東京製綱から研究依頼があったので、その資金を使って実験をおこなうことにした。遺族とメーカー、双方の見解が対立しているときに、一方の援助で研究するのは不本意だが、そのために結論を誤るようなことは絶対にない。結論は、公開実験後、5月中旬には出せるから、それまで待ってほしい」(79-80) と。これを聞き、石岡氏はホッとして、実家の父親に朗報として伝え、安心して捜索登山に出発したという。

 ところで、この事件が起きたのは、1968~69年全国学園闘争以前のことであった。水俣病などの公害問題にかかわる大学教授の姿勢がつぎつぎに明るみに出て (たとえば「昭和電工の工場廃水が流れ込む阿賀野川流域に発生した『第二水俣病』の原因物質は、新潟地震のさいに信濃川河口の倉庫から流れ出た農薬だ」と説く学者が現れたりして)、学者・研究者・専門職のモラルと社会的責任が広く問われるようになったのは、それ以降である。とすればこのとき、もともと人を疑うことを知らない山男の石岡氏が、大阪大学の教授、それも日本山岳会の関西支部長をつとめ、登山の安全のために科学的原因究明の必要を力説する篠田氏を信頼したのは、無理からぬことだったといえよう。

 しかし、事件は、思いがけない方向に発展する。なお雪深い穂高で、捜索の手を休め、「蒲郡実験」の報告を受けたときのことを、石岡氏は後に、こう語っている。

「……私はテントの前で、到着した〔副会長の〕伊藤さんが黙って震える手で差し出してくれた新聞を受け取りました。5月1日付けの中部日本新聞でした。広げた途端、私は、『エーッ』と、思わず大声を出しましたよ。周りの雪の風景が、目の前で、どういうことなのか、みるみる紫色に染まっていったんですよ。それぐらいショックだったんです。あの時の紫色は、いまでもはっきり目の奥に残っていますね。

『初のナイロンザイル衝撃試験、強度は麻の数倍』と、大きな見出しの活字にがく然としました。つまり、公開実験で、ザイルが切れなかった、というんです。

私は、伊藤さんから新聞を見せられた一瞬後に、『この実験はインチキだ! 手品だ!』と叫んでいました。『これは、実験用の岩角が、丸くしてあるにきまっとる!』と、断言しました。怒りで、体が震えた、なんていうもんじゃなかったですね。『なんだ、これは!』と、実験を指導した篠田氏、それに、私に『公開実験には出ない方がいいでしょう』と、電話で言ってきた〔登山家で知人の登山用品販売店主〕熊沢氏に迫りたいほどでした。

それは、何回も岩角や鋼鉄の角で、エッジの実験を繰り返しやって、エッジの角にごくわずかの幅の面取りをすれば、ナイロンザイルはとたんに強くなって、切れなくなることを私は知っていたからです。つまり、面取りをすると、岩角や鋼鉄の90度の角が実際には丸くなってしまって、90度ではない、丸みを帯びた状態になるんですね。

しかし、これは、実際に実験をした者じゃないと、わからないことです。見た目には分からない程度の丸みをつけてナイロンザイルを岩角で急激に強くすることなんて、実験をした当人と実験の身近にいて手伝ったりした人以外、なかなか理解できないことです。また、少し離れていたら、1ミリぐらいの面取りが肉眼で見えるなんてことはありえないでしょう? 気づかないですよ。……ヤグラの高さが10メートルあったそうですが、それだけの高さがあれば、下から見上げている人からはエッジのアール〔面取り〕なんて見えるわけがありません」(87-91頁)。

 連休中、遺体は発見されなかった。石岡氏は、疲労困憊し、事件の前途への暗い予感におののきながら、「五郎〔実弟の名〕よ、早く姿を見せてくれ」〔そうすれば、堅く体に巻かれているであろうザイルの片方の切断面と、仲間が持ち帰った他方とを照合して、ザイルの切断とその実相を証明できよう〕と念じて、山を下りた。マスコミは一斉に、蒲郡実験の結果を報じた。これを受けて、早稲田大学の山岳部監督が、『化学』誌上で、「露営中、寒気払いに足踏みし、鉄のカンジキでザイルを傷つけたのではないか」と推測し、「第三者が見ていないところで、自分たちの初歩的なミスをナイロンザイルのせいにしようとする気持ちも、分からぬではないが」と書き添えた。『山と渓谷』七月号では、熊沢氏が、「東京製綱の科学的テスト」に触れ、「事故原因は、誤用によるザイル切断か、指導者はザイルを知らなさすぎたのではないか」と述べた。石岡氏ら岩稜会は「失敗を直視できず、責任をザイルに転嫁する卑怯者」という烙印を押されたのである。世論のこうした動向に、石岡氏の実父さえ、「世間を騒がせて申しわけない」と、氏に勘当を言い渡したという〔こういう律義で一徹な性格は、じつは石岡氏にも裏返された形で受け継がれているように見える。後に石岡氏が鴨居にザイルをかけて実験して見せたところ、「切れるんだな」といって、勘当も自然消滅したそうである〕。他方、東京製綱は、7月28日、約50人の学者を集め、「ナイロンザイルは切れない」と見せて、追い討ちをかけた。はたせるかな、これを機に、多くの山岳関係者や学者が、篠田氏のデータをもとに、「ナイロンザイルは切れない」と論評し始めた。

 これについて、石岡氏はいう。「このような論議や記述は、篠田氏のマジックを見破った私たちにとっては、どんなに立派に書けていても、いわば砂上の楼閣です。ところが、日本山岳会関西支部長、国立大学の教授という『権威』が、故意であろうとたまたまであろうと、まさか間違ったことはしないだろう、といった意識が、世間にはあるんでしょうね。とにかく、私たち岩稜会に反ばくする意見、見解は、その拠って立つデータの客観性を意識しているのか、いないのかは別として、まさにクロをシロと言いくるめる類のものでした。ここで明らかになったのは、権威やメーカーの与えるデータをただありがたく貰い受けるだけという学者や学識経験者の多さとその態度です。権威のデータに対立する実験をし、偏らないデータを持ち、それを明らかにしている立場にあるものに目も向けず、耳も貸さないという姿勢には、ただただあきれ、失望しましたね。また、その種の論評や記述に対して、私たちがデータを示して反論しても、反応してもらえなかったですね。いわば、てんから無視、という状況でした」(96-97、強調-折原) 。

 こうして石岡氏は、東京製綱のような企業の(製品ユーザーの安全を無視する)無倫理の営利至上主義、その走狗となって人を欺く実験を主導した篠田軍治氏の「御用学者」性、他方、権威になびき、いかに対話や論争を呼びかけても、黙殺するか、無関心を装うか、議論を回避して保身に走る、多くの学者や評論家の事なかれ主義、といった「無責任体系」の露頭に、はからずも激突し、この壁に素手で立ち向かう険しい道に、踏み出さざるをえなかったのである。その後の粘り強い闘いの経緯については、ぜひ、本書の詳細な記述を参照していただきたい。

 しかし、ここでも概略だけは摘記すると、石岡氏、岩稜会側は、篠田氏を名誉毀損の廉で告訴し、これが理不尽にも不起訴になって葬られると、次々に公開質問状を発し、(「蒲郡実験」に依拠してナイロンザイルの安全性を謳う)日本山岳会編『山日記』の記事に、訂正を申し入れていった。いずれのばあいにも、実験で確証された事実にもとづく周到な論証を添えて、である。その後、紆余曲折を経て、石岡氏ら三重県山岳連盟は、相田氏の助言を入れ、岩角に面取りをつけない、ザイルが当然切れる対抗実験を、自分たちの側から公開する。

 やがて、石岡氏ら岩稜会による闘いの甲斐あって、1972年からの「消費生活用製品安全法」制定にともない、1975年には世界初の登山用ロープの安全基準がつくられた。このとき、石岡氏は、実母とともに、実弟が荼毘に付された地を訪れ、「お前の死をこれからもけっして無駄にしない」と誓う。と同時に、鈴鹿高専の実験設備に、世界中の登山用ザイルを取り寄せ、実験を重ねた末に成立した安全基準について、これでやっと「日本は世界の登山界に誇れる国」、「科学技術、科学に伴うモラルも見なおされる国」(210) になれる、と語っている。氏は、1983年、定年の一年前に、鈴鹿高専を退職し、自宅敷地内に「高所安全研究所」を建て、高所作業用緩衝装置、脱出装置、福祉用介助器具などの開発、改良に携わった。つまり、安全を損ない、脅かす、似非科学への否定的批判から、科学にもとづく安全装置、安全器具の案出、試作へと、闘いを否定面から積極面へと連続的に展開していったのである。

 その石岡氏が、闘いの生涯から紡ぎ出した言葉を、ここにふたつ引用したい。

「私は、……多くの人たちからの励ましや助力、協力で、権威や企業に対して、安易な妥協や屈辱的に膝を屈することなく、ナイロンザイル事件の解決まで、長いたたかいを続けられました。言葉では尽くせないことで、感謝の気持ちでいっぱいです。これまで、私の人生で知りえた大きなことは、人間の弱さというものでした。どうしても、私たちは生きるために、誰にもあることですが、たとえば、分かれ道に立った時、険しい道と楽に進めそうな道があれば、楽に行けそうな道に足が向くのは当然です。しかし、目標が定まっていて、この目標が社会の広い視点で観察した時、目標として選択することが正しいものであり、険しいコースをたどらなければ目標に到達したことにならないという時、その道筋が険しいものであっても知恵をしぼり、工夫をこらして、越えて行かなくてはならないわけです」(241-42)。

「私は、これまでの人生から、社会が気づかないままでいたり、あるいは自分たちの利益を確保するために気づかないふりをしたり、面倒なことを避けてしまうことがあるように感じています。そのために、世の中には、ナイロンザイル事件と同じような問題が社会的に大きな声にならないまま、ごく限られた関係者以外に知られないまま、いわば、秘密状態で存在していて、当事者が、本来負うべきでない理不尽な重荷を背負わされて日々歩まされているのではないか、と思えてならないですね。最近の新聞やテレビのニュース、出来事を見るたびに、ナイロンザイル問題で無念の思いをし続けた私たちと同じ状況に置かれている人たちが、ニュースの陰にいるのではないかという思いがぬぐえないのです。このことは、マスコミに従事する人たちにはぜひ理解してもらいたい、と思っています。これは、私の体験から声を大にして訴えたいことです」(244)。

 この訴えを受け止め、共著者の相田氏が、巻末の「私にとってのナイロンザイル事件」にこう書いている。「新聞社、放送局に身を置く記者は、次々に起こる事件、ニュースの後追いで毎日を過ごさざるを得ないのが実情だ。いわば、毎日の『流れ』に身を置けば、仕事をした形にはなる。しかし、『流れ』に乗らない記者は、協調性がない、勝手なヤツ、という評価が生まれる。私自身の経験を語れば、『君、ナイロンザイル事件は、石岡さんがやっているだけなんだよ。ナイロンザイルが弱いなんてことは、みんな知っているんだ』と、昭和47年秋に、名古屋社会部の日本山岳会員を自称するデスクに言われた。大学時代、山岳部員だったという先輩記者もそのデスクに同調して同じようなことを言った。何回か石岡さんにまつわるナイロンザイルの記事を書き、出稿した私は彼らにとって、問題のある若造だったに違いない。日本山岳会の『山日記』の21年目のお詫びの原稿を出稿した時、デスクの発した一言は『またか!いいかげんにしろよ、何回ナイロンザイルのことを書けば気が済むんだ、お前!』だった。……消費生活用製品安全法が制定され、登山用ロープが同法の対象となったことが伝えられたころ、突然、先輩記者が私のところに、『石岡さんのことをデスクから書くように言われたんで、ちょっと話を聞かせてくれよ』と、言ってきた。私はナイロンザイル問題を取材する記者が一人でも多くなればいいことだ、と考えていたから彼の要望に応じた。彼は、私が話したことを石岡さんに確認して記事を書いたかどうか知らないが、数日後、彼の署名記事が紙面に載った。しかし、彼が石岡さんに関する記事を書いたのは、デスクから指示されて出稿したその記事一本だけで終わった。彼の記者生活は定年まで、いわゆる陽の当たる場所であった。

〔三菱自動車ブレーキ欠陥事故、ガス湯沸かし器不完全燃焼事故などに露呈したとおり〕企業がユーザーのクレーム、指摘をまじめに受け止め、早期に欠陥を率直に認めて改善策をとっていたら、人命にかかわる不幸な事故がなかったことは、誰が考えても明白だ。ナイロンザイル切断から50年。いまだに、『クロをシロ』と装ったり、主張したりして社会を欺く、モラルに反した企業がまかり通る日本の社会があるのだ。さらに金を得るために、法が規制しないところを捜したり、くぐり抜けたりすることを現代の先端を走るビジネスと心得るような風潮、それを先端企業ともてはやすような社会になっている現在だから、石岡さんたち岩稜会が、ザイルメーカーや日本山岳会に対して言うべきことを言い続けることが、いかに大変なことであったか理解できるし、石岡さんや石原さん〔遭難事件のさい、ナイロンザイルの片方を握っていた岩稜会員〕たちの行動に心を打たれるのだ。一方で、私たちが周囲に起きていることに対して、無関心を装ったり、発言を控えることによって、『石岡さん』や『石原さん』『岩稜会』の苦闘を将来もつくり出してしまうことになるのだ。その結果は、いつか私たちの生活にも影響を及ぼす可能性がある、ということだ」(441~44)。

さて、それでは、わたしたち読者は、石岡氏、相田氏の訴えに、どう答えていけばよいのであろうか。

筆者自身は、石岡氏ほど、簡明で首尾一貫した闘いを、粘り強く闘い抜いてきた者ではない。とはいえ、大学教授という「権威」の実態、多くの学者・研究者の「権威」への弱腰、および、それと裏腹の関係にある社会的責任感の欠落にたいして、大学の内部で細々とは闘ってきた。また、企業による事故隠蔽、おおかたのマスコミ記者や評論家による「その日暮らしの『後追い取材』や『言いたい放題』」など、専門職のモラルと社会的責任にかかわる事件について、それぞれの組織の外部から、つとめて「もの申し」てはきた。そのようなひとりとして、石岡氏による――当然の悲憤慷慨を避け、どちらかといえば控えめな――実態の暴露と報告に、「こういうことは、確かにある」とひとつひとつうなずき、その訴えに心から共鳴して、本書を読んだ。筆者も、若い人たちが、本書を読んで、人生の岐路にさしかかったときの参考とし、支えにもしてほしい、と切望する。そのうえで、一社会学者としての老婆心から、つぎのことも、申し添えたい。

本書を、感動をもって通読した後、やや距離をとって、「では、この日本社会のなかで、石岡氏らはなぜ、上述のような険しい道を選び、闘いを担いきれたのか」と反問してみると、おおよそつぎのように答えられよう。

まず、一口に「社会」といっても、じつに多種多様な人々によって構成されている。そのなかの「学者」、「ジャーナリスト」も、これまた千差万別である。一方に石岡氏や相田氏のように、社会的責任を自覚して闘う人もいれば、他方には篠田氏、あるいは、(相田氏の記事に「デスク」「先輩」として登場する)「現象処理に明け暮れる記者」もいる。「日本社会」の「学者」および「ジャーナリスト」は、社会的責任という観点から見て、石岡氏と篠田氏、相田氏と「デスク」にそれぞれ代表される、ふたつの対極(「理念型」)の間に、スペクトル状に分布しているといえよう。

筆者としては、事態をそのように、いったんは相対化して見たほうがよいと思う。そうしないで、性急に「シロとクロ」「善玉と悪玉」とに決め分け、石岡氏らの闘いへの感激のあまり、「他の学者はひとしなみに篠田氏のような卑劣漢ばかりか」と悲憤慷慨して止まないとすれば(否定的にせよ肯定的にせよ、「学者」という範疇を抽象的に一括してしか捉えられないとすれば)、そういう共鳴は意外に脆く、やがて跡形もなく消え失せて、自分のじっさいの生き方はいつしか篠田氏型に近づく、あるいは「現象後追い型」に近づく、ということもありえないことではない。1968~69年全国学園闘争に決起した学生のうち、あるタイプの帰趨が、この陥穽を鮮やかに露呈している。

 むしろ、「別様にも生きえた石岡氏が、なぜ――どういう状況で、いかなる契機の出会いないし連鎖から――、現に語られたような、独自の闘いに踏み出し、かつその闘いを担いきれたのか」というふうに、問題を立て直してみよう。すると、石岡氏のばあい、①(おそらくは父親ゆずりの)律義で一徹な性格と、②科学者・物理学者としての真理尊重と自信・実力に加えて、③登山家としての自信と誇りが、とくに当初は大きくものをいったように思われる。御在所岳の岩場で訓練を積み、前穂高東壁、北尾根などの冬期初登攀を企てるまでのヴェテランたちが、仲間のひとり(石岡氏にとっては手塩にかけた実弟)を遭難によって失ったうえ、その原因を「初歩的なミス」に帰せられ、しかも「責任を回避してナイロンザイルのせいにする卑怯者」呼ばわりされ(石岡氏は、実父にさえ勘当扱いされ)る窮地にまで、追い込まれたのである。人間、ここまで追い詰められ、誇りを踏みにじられれば、腹を決めて闘う以外にない――真実にもとづいて雪辱を期するほかはない――とも思われよう。「権威と結託した企業優先の基本姿勢、庶民の人権無視の社会の趨勢では勝ち目はない」としても、「何もしないでそのままでいるということは、人間としてどう考えてもできることではない」(136)、たとえ敗れても、闘うほかはない、というわけである。もとよりそういう決断は、側から見るほど、単純明快ではなかろう。石岡氏はここで、実弟の遭難死という運命的な状況で、これら諸契機の連鎖により、いわば実存的に「難船者として生きる」ことを余儀なくされた。石岡氏の語りが真実として人の心を打つのは、それが、(語り手自身にとってじつはどうでもよい)「権威の受け売り」や「世間に通用する決まり文句の反復」ではなく、そのつど実存としての命運が賭けられた「難船者の思想」だからである。

 他面、石岡氏の責任意識のおよぶ範囲は、実存として避けられない「狭さ」に制約されて、当初は「登山家の安全」にかぎられていたように思われる。それが後に、おそらくは相田氏の助言を受け入れ、(レーンジャーや高層ビルの窓ガラス清掃者など)高所作業者一般の安全へと拡大-普遍化されたのであろう。しかし、そうなっても、当初からの実存的核心は揺るがないから、問題意識が抽象化され、希薄化されることはない。むしろ、全世界のザイルを取り寄せて、安全性をテストし、「世界に誇れる安全基準」を制定する。そこに、石岡氏の具体的で実のある愛国心も発露している。

 さて、難船者の思想は真実であるが、だからといって、みずから難船者になろうとしたり、人を無理やり難船者にしたり、というわけにはいかない。しかし、人間誰しも、いつ、どういうことで、難船者の状況に追い込まれないともかぎらない。あるいは、じつは難船者の状況にあることに、ある日突然、気がつくこともあろう。自分は難船者でないと自認している人も、そのときにそなえて、難船者の苦難を知っておくことは賢明であろうし、現在も、どういう位置で、どう難船者にかかわるか、想像力をはたらかせることは、その人の人生を豊かにするにちがいない。そうした視点から、本書を読み返すと、石岡氏と篠田氏とを双極とするスペクトル上に、さまざまな人間模様が描き出されていて、改めて興味をそそられる。

まず、石岡氏寄りの近くに、(蒲郡実験を学者に追認させるための)7月28日の実験を見学した名古屋工業大学の一教授が登場する。石岡氏が自分の実験データを持参して説明したところ、さまざまな資料を点検したあと、「恐ろしいことがあるものですねぇ。注意しなくては」(94)と嘆いたという。この教授は、蒲郡実験の虚偽を見抜き、騙されたと察知しはしたが、他人事のように「嘆く」だけで、関与は避けたのであろう。つまり、科学者としては共通の見解に到達しながら、石岡氏のようには、虚偽を告発する実存的動機がなく、「義を見てせざるは勇なきなり」の義侠心も持ち合わせていなかったのであろう。

思うに、日本人学者の過半は、この範疇に属している。石岡氏ら当事者には、「生ぬるい」「煮えきらない」と感得されたにちがいないが、氏らは、そうした対応を糾弾はせず、荷担を求めて深追いもせず、いわば「潜在的支持者」のままでいてもらっている。この関係は微妙で、かれがいつ支持を顕在化させるか、分からないし、つぎの機会ないし別の状況では、かれが難船者となって、石岡氏と同じような闘いに立ち上がるかもしれない。

 それにひきかえ、篠田氏寄りで公然と篠田支持を表明した「関西の著名大学の教授U氏」のスタンスは、注目に値する。かれは、電気の専門家として、当局からある火災事件の鑑定を依頼され、原因は銅を鉄で代替したための過熱で、火災の責任はまぎれもなくメーカー側にあると判定し、明言しながら、こういう。「それをそのまま発表しますと、メーカーの信用が落ち、メーカーは非常に大きな損失をこうむることになるわけですが、そのメーカーは大メーカーですからこれは社会にとっても大きな損失ということになります。ところが『別に電気器具は悪くなかった』といえば、それは家人の失火となってその人には気の毒ですが、その人一人だけの被害ですみます。国家的にみてどちらをとるべきかといえばもちろんメーカーを助けるべきです。私は、このように社会全体から判断して、電気器具に異常はなかったと発表しました。私のとった方法は現在でも正しいと思っています。篠田教授のご行為はこれとよく似たケースで篠田教授がそうなされたのは正しいことだと思います」(176)と。石岡氏(ないし相田氏)は、これには驚いて、「製造物責任という考え方が普及していない50年前の話だが、学者の中にもこういう人物はいるということだ。耳を疑うような話である」(177)と、簡単なコメントに止めている。

 しかし、一社会学者としては、どうもそれだけでは済まされないように思う。というのは、こうである。篠田氏といえども、自分の行為を直視し、それをそのまま正当化することはできない。後になると、「あの公開実験は、グライダーなどの曳航用ロープ、船舶の引き綱の実験だった」(166)と、虚言を重ねながら正当化している。ところが、U氏は、篠田氏に代わって、篠田氏の行為を正当化するイデオロギーを、公然と表明しているのだ。それは、被害者個人の人権も、ことの真偽もなんのその、個人よりもメーカー、それも大メーカーと、「大きなもの」「強いもの」の利益を擁護し、究極の基準を「国家」におき、自分の(科学でなく)「権威」を「お上のために役立て」ようとし、それを「正しい」と信ずる「全体主義」「国家主義」(歴史的には「天皇制ファシズム」)のイデオロギーである。それが、戦後にも再編成されながら、頑強に生き延びていて、思いがけず正直に吐露された、というところではないか。

なるほど、石岡氏らの闘いも含む、広義の反公害運動の進展にともない、「製造物責任という考え方は普及」して、欠陥商品のメーカーと御用学者も、こういうイデオロギーを公然と振りかざして責任を隠蔽しようとは、しなくなったし、しようとしてもできないであろう。それは確かに、公害の被害者をはじめとする粘り強い闘いの成果である。とはいえ、だからといって、たまたまU氏の口からは漏れた「全体主義」「国家主義」のイデオロギーそのものが、すでに死に絶えた、とまではいえまい。それは、U氏のように正直には言表されず、公然とは主張されないとしても、それだけ屈折して「ポピュリズム(大衆迎合の人気取り)」と癒着し、大衆感情に浸透してきているのではないか。それは、別の領域では、たとえば歴史科学上の真理の直視を避け、「愛国心」を強要するような運動の形をとって、かえって強められ、公然と姿を現してもいる。

人文・社会科学の領域にも、ちょうど篠田氏に対応するような人物はいる。分野は違ってものの役にも立たないから、企業の走狗にはならないとしても、鳴り物入りの似非科学で読者と世人の耳目を聳動し、論壇の「寵児」にのし上がろうとする人である。それを、ちょうどU氏に見合う学識経験者や評論家が、待ってましたとばかり、寄ってたかって面白がり、科学的検証ぬきに持ち上げて、イデオロギー的に利用しようとする。それにたいして、おおかたの研究者は、「観客」として「高みの見物」を決め込み、あるいは無関心を装い、知らないふりをしている。この(三種三様の無責任)構造が、放っておかれるうちに増殖するとなると、とても怖い。自然科学・科学技術畑における石岡氏らの闘いを含む反公害運動と、人文・社会科学の領域における「全体主義」「国家主義」イデオロギーにたいする思想闘争とが、人権と科学の尊重という結節点を媒介に、連携して進められる必要があるのではないか。

 そのほか、いまひとつ、原糸メーカー東洋レーヨンの社員が、篠田氏の予備実験を手伝い、面取りをつけないのでナイロンザイルが切れたデータ(篠田氏が蒲郡公開実験まえに、岩角では切れると知っていた証拠)をもっていて、蒲郡実験から帰る車中、三重県山岳連盟の理事に見せてくれた、という話も、興味をそそられる。その話を理事から聞いた石岡氏は、「思わず彼の手を握って感謝し、……神仏はわれわれを見捨てていなかった、と心の中で手を合わせ」(110)たという。また、「この世の中には公平さを装って見学者の目を偽る公開実験をする人たちがいる半面、やはり良心を持つ人がいるんだ、ということを身にしみて感じました」(117)とも語っている。石岡氏のように、やむなく『別れ道』に立たされ、『険しいコース』を選択して公然と闘いきった人は、もちろん立派であるけれども、この東洋レーヨン社員のように、不正に目をつぶらず、できる範囲で真実に荷担する人が、突出した闘いの蔭には必ずいて、闘いを支えているのではあるまいか。

 そういうわけで、本書は、自然科学や技術をめぐる人間と社会のありようについて考える手がかりを、ふんだんに含んでいる。そのようなものとして、自然科学者や技術者を志す人々はもとより、人文・社会科学を志す人々にも、ぜひ読んでいただきたいと思う。

 筆者は、1996年から2002年にかけて名古屋に住み、後半三年間在籍した椙山女学園大学人間関係学部で、戸谷修教授の知遇を得、教授の紹介で「株式会社あるむ」の川角信夫氏を知り、『ワーキング・ぺーパー』の作成を依頼していた。川角氏は、編集印刷業を営むかたわら、ジョルジュ・デュメジルの比較神話学『ローマの誕生』を訳出され、丸山静・前田耕作編『デュメジル・コレクション3』として、ちくま学芸文庫から出版しておられる。氏は、石岡繁雄氏の豊田高専時代の教え子だったそうで、師の生涯の闘いを一書にまとめて出版しようと心血を注がれたのであろう。その労作を、このたびも戸谷教授の紹介で、筆者にも送ってくださった。一読して深い感銘を受け、没頭し、進んでこの一文を草した次第である。下記に、川角氏の連絡先を記しておく。

〒460-0012 名古屋市中区千代田3-1-12 第三記念橋ビル

株式会社あるむ

Tel. 052-332-0861 Fax. 052-332-0862

http://www.arm-p.co.jp E-mail: arm@a.email.ne.jp


上田悟司「羽入-折原論争への応答」

2007年12月28日(本コーナーへの寄稿)

上田悟司「羽入-折原論争への応答」

200712

橋本努 様

「羽入-折原論争の展開」を時折、拝見しております。

そこで、腑に落ちない点がありご連絡差し上げた次第です。

まず、下記の引用をご覧下さい。

引用開始

*********************************

 併し、このウェーバーの見解は、もっと十分に検討されなければならないと思う。即ち1522年の聖書翻訳に於てルーテルが"Beruf"という言葉を使ったという点*と、1523年のコリント前書講解に於て、"Beruf"なる言葉を使用した裏面には世俗的職業の自由の観念が蔵されているという点**とについてである。

*ルーテル訳の聖書として現行されているものは殆んど総て、前記の箇所は"Beruf"となっているが、彼の全集ヴァイマール版によれば、1522年の初版本には"ruff"とあり、更に1546年版即ちルーテル生前の最後版に於ても全く同じく"ruf"とあり、"Beruf"ではない。

**1523年の講解をエルランゲン版について見ることを得ないが、そこに於てたとえルーテルが"allen Berufs"の自由という言葉を使用したとしても、その"Beruf"を以て直ちに世俗的職業の自由の意義が蔵されているととることは危険である。純然たる宗教的意義の召命ではないにしても、その状態を示すという位のところであろう。更に、ルーテルがBerufなる言葉を1522年版に於ては用いなかったのかというとそうではない。彼は他のところに於ても、"beruff"という言葉を用いた。更に、1546年版に於ては、それらは何れも大文字の"Beruff"となっている。(Weimar Ausgabe, 7,S.91-351)而もそれらの何れもが、全く宗教的な意味か又は召されし状態を示すものである。

*********************************

引用おわり

これは、下記の書からの引用です。

沢崎堅造著、『キリスト教経済思想史研究』、未来社、1965年

p.49、より

その初出は、

沢崎堅造著、「ルーテルの『職業』について」、『経済論叢』45巻5号、1937年11月

です。私が、

羽入辰郎「マックス・ヴェーバーの『魔術』からの解放─『倫理』論文における"Beruf"-概念をめぐる資料操作について」

『思想』 1998年 885号 72-111

を、『思想』誌上で初めて読んだとき、非常に興味深いが、この批判では、Weber の立論は崩れないと感じていました。その数ヵ月後、たまたま、古書店で、この沢崎氏の御著書を知り、「ああ、これこれ」と気付き、すぐに、岩波書店『思想』誌編集部気付けでこの情報を書面で送りました。なにしろ、羽入氏が世界初と喧伝するその60年も前に、ほぼ同じ論証がなされていたのですから。「文献学」的精緻さを誇るなら、初歩的ミスの範疇に属します。その後、9年間経過しても音沙汰がないので、編集部段階で握り潰されたかしたのでしょう。

さて、私は折原氏ほどの研究者が羽入氏と正面から論争に入るなら、必ずや、この沢崎氏の孤高の業績に気付かれるだろうと思い、静観していました。ところが、少なくとも、このサイトで拝見する限り、先人の業績を回顧される様子が、折原氏からも、他のどなたからも見られない。少々、憤慨しつつ、今このメールを認めている訳です。今のところの私の、この論争における感想が以下のようなものです。

1)この沢崎氏の、60年前(Weberが没して僅か17年後!)の国際的に誇り得る先駆的業績に気付かないままというレベルでは、羽入氏も折原氏も同じである。

2)なぜ、折原氏は、羽入氏がドイツおよび、フランスにおける学術誌に発表した時、徹底的に反論されなかったのか。

3)それについて情報がなかったとしても、なぜ、『思想』誌上に公表された1998年の時点で現在のような論争を、折原氏ほかの日本人研究者が起こさなかったのか。

2)、3)については、折原氏の何冊かの近著に書かれておられるかもしれません。ただ、こちらのサイト上には、見られないようですし、単なる、市井の一Weberファンとしては、他にやることがいくらでもありますので、折原氏の御著書未見のままでの感想です。事実誤認があれば、ご指摘戴ければ、幸いです。

ご参考に私のblog記事のリンクを貼り付けます。

笑覧戴ければ幸甚です。

羽入辰郎 『マックス・ヴェーバーの犯罪』 ミネルヴァ書房 2002(2)

http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2006/03/__30ad.html

羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの哀しみ』PHP新書(2007年)

http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/12/php2007_d66e.html

羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの哀しみ』PHP新書(2007年)(余計なお世話編)

http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/12/php2007_7a62.html

「羽入-折原論争」への、ある疑問

http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2007/12/post_ffff.html

上田悟司

vzw01175@nifty.com

http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/


雀部幸隆「日本のウェーバー研究はたんなるウェーバー「学習」か?今野元『マックス・ヴェーバー――ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』(東京大学出版会、二○○七年)を評す」

『図書新聞』(2008.5.10-5.31.連載)所収

日本のウェーバー研究はたんなるウェーバー「学習」か?

今野元『マックス・ヴェーバー――ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』(東京大学出版会、2007年)を評す

『図書新聞』2008.5.10.-5.31.


雀部幸隆

昨二○○七年一二月に、今野元が『マックス・ヴェーバー――ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』と題する著作(以下、今野書)を東京大学出版会から刊行した。本書は「政治的学者ウェーバー」の伝記をその政治にかかわる言説の多面的な諸相に目配りしながら書き上げた大作である。氏がドイツのベルリン大学で研究指導を受け、ウェーバー自身の未公刊史料はもとより、かれの同時代人たちや当時の政治諸組織の未公刊史料をもみずから博捜して、ヴォルフガンク・J・モムゼンの仕事につぐ詳細なウェーバーの政治的評伝を著わしたことは、日本のウェーバー研究において新しい挑戦と見なしてよい。しかし、その大いなる挑戦と努力とがどこまで実を結んでいるかといえば、話は別である。氏自身はみずからの成果に恃むところ多大なようだが、遺憾ながら、評者の見方は異なる。

まず簡単な事柄から見ていこう。

(一)たとえば氏がウェーバーの少年時代の作文まで実際に目を通したのは、たしかにメリットではある。しかし、少年時代の作品のなかにすでにその後の「西欧派ドイツ・ナショナリスト」としてのウェーバーの本質が出そろっており、そこで打ち出された基本視点がその後も一貫して変わらなかったとまでいうのは、ウェーバーの人間的学問的な成長発展を看過する不適切な一般化だし、また、神経疾患との格闘を経、しかもなおその後遺症と闘い続けなければならなかったウェーバーの後半生を、疾患以前のウェーバーと基本的に同列に扱うことも同様に不適切な一般化である。

(二)それから、これも氏に特徴的なことだが、「倫理」論文や「教派」論文を、もっぱら政治的・政治思想史的観点から読むのは、はなはだ一面的である。もし「倫理」・「教派」論文が政治的・政治思想史的文書として読まれるべきだとすれば、世界政治のうえで英米と互角にわたり合えるドイツ国民国家の確立という氏の強調するウェーバー畢生の政治的課題からして、「倫理」や「教派」論文はことの一面の核心に迫った文書ではあっても、良くも悪しくも正統ルター派やカトリックに随従するドイツ国民の大多数をそうした国民国家の担い手へと「人間的」に形成し統合する視点はそこにはふくまれておらず、その意味ではそれらの文書は政治的見地からは一面的であり、したがって「倫理」や「教派」論文をウェーバーの政治的課題にあまりにも引きつけて読むのは、それらの論文の真価を正当に評価するゆえんではないと評者は考えるからである。

 ちなみに、氏は「倫理」論文を、「文化的プロテスタンティズムの論客」たちの「『愚鈍なカトリック教徒』に対する嘲笑を、学問的な言い回しで再現したものに他ならない」、とまで極論している(今野書七○頁)。しかし、それでは、ウェーバーが、一九○八年から○九年にかけ「工業労働の精神物理学について」実地調査し、「倫理」論文の問題関心の延長線上で、同時代の労働者の宗派的出自と特性とに論及し、「今日ではカトリックが労働適性の格差とどの程度の関連をもつか」は慎重に検討されねばならぬと述べている事実(MWG11,S.280,Anm.35a) 鼓肇雄訳『工業労働調査論』日本労働協会、一九七五年、二○○頁以下、註(8))、また、同様にかれが、およそ「宗派」なるものがひとびとの「生活態度」に及ぼす影響にかんして、「今日のカトリシズム」は「その程度や方向からすると中世のそれとは非常に違っている」と述べている事実(ebd.,S.362.Anm.95)同上訳三○五頁、註(5))を、氏はいったいどう見るか、と問われるだろう。

(三)それからもう一つ、氏が膨大な未公刊史料を渉猟してウェーバーの詳細な政治的伝記を著わしたといっても、それではわれわれは、その伝記的事実において、マリアンネ・ウェーバーの著作やヴォルフガンク・J・モムゼンの著作の提供したものを全体として大きく超える事柄を今野書から教えられたかといえば、それは疑問といわざるをえない。大きくいって、モムゼンの伝記的著作はマリアンネ『伝』の後塵を拝しているし、今野書はさらにモムゼン『伝』の後塵を拝している。マリアンネにかんしては、夫を「聖マックス」化したと非難されることが多く、今野もそれに唱和しているが、「聖マックス」化するほどの情熱を傾けてマリアンネが夫の巨人的足跡を詳細に跡付けてくれたからこそ――これは距離を置いて見れば大変な業績である――、後世の人間はこの巨人の全体像を探る大きな手がかりを与えられたのであって、モムゼンをふくむ後世のウェーバー研究者たちはみな彼女から大きな恩恵をこうむっているはずである。

 今野は今回の研究を「モムゼン門下の作業の批判的継承」としている。氏によれば、従来の主として経済学や社会学の分野でなされてきたウェーバー研究はウェーバー「学習」であって、ウェーバーを「分析」の対象としたのはモムゼンただ一人だそうである(今野書一○頁)。氏は、そのモムゼンの最良の部分を「モムゼン門下」が『全集』編纂の注記の作業等で立派に受け継いでおり、自分の仕事もそのモムゼン門下の実証主義につらなるものであって(今野書一○頁以下)、従来の日本のウェーバー研究の大多数とはちがい、立派にウェーバー「分析」の名に値すると、考えているようである。そうした自負のせいか、今野書では、日本のウェーバー研究者たちの仕事はそれぞれの中味が多少とも吟味されることなく十把一からげに切り捨てられたり、だれのどの研究がそれに該当するのかまったく指示されないまま批判されたりしている。

(一)まず後者の例は同書二○三頁におけるウェーバー「ロシア政治分析」の「『近代批判』的解釈」という指摘に見られ、その「解釈」なるものがいったいだれのどの研究を指すのか示唆されてさえいない。前者についていえば、今野書一一頁の上山安敏、嘉目克彦、佐野誠、牧野雅彦、さらには濱島朗、雀部幸隆への言及に見られ、上山、嘉目、佐野、牧野たちは、レーヴェンシュタインやビーサム、コッカ、トルプ、リンガーとともに、「ウェーバーの西欧的側面を強調して彼を擁護するという図式」に分類されているのだが、かれらを十把一からげにその「図式」で整理して事がすむはずがない。そうした批判的言及をするからには、やはりそれぞれの相手と多少なりとも対質せねばなるまい。

(二)評者である雀部にかんしていえば、雀部は、「西欧主義的価値観」に立って一方ではウェーバーの「西欧的理念からの逸脱を強調して彼を批判」し、他方では逆にウェーバーの「西欧的側面を強調して彼を擁護する」という「対抗図式」、から「逸脱する」政治史・政治思想史研究に分類されているのだが、雀部は「戦後民主主義世代への反撥からモムゼンらが問題視したヴェーバーの一面を健全なナショナリズムとして逆に称揚した」そうである(今野書一一頁)。

雀部は、「戦後民主主義世代への反撥」などとあまり簡単に論定してほしくはないというだろうが、それはともかく、いずれにせよ雀部はウェーバーにかんして「健全なナショナリズム」を云々したことがなく、むしろ「逆に」ウェーバーにかんして「ナショナリズム」を云々することは慎重になされねばならぬことを、ゲルハルト・リッターのナショナリズム批判などにも言及しながら、強調している(『ウェーバーと政治の世界』恒星社厚生閣、一九九九年、第一章第二節、『ウェーバーとワイマール――政治思想史的考察』ミネルヴァ書房、二○○一年、四一頁以下)。

(三)その点と直接かかわることだが、今野はウェーバーが“national”と記した語を「国民主義的」と訳し、“nationalistisch”と記した語を「国民至上主義的」と訳している(今野書二四六頁)。両者は通常それぞれ「国民的」および「国民主義的」と訳され、邦訳みすず書房版『政治論集』2、六四一頁(これはGPS1.Aufl.,S.469に対応する)においてもそう訳されている。にもかかわらず、もし氏のように訳し変えるのなら、その理由が明記されねばなるまい。ことに、ウェーバーのこの“national”と “nationalistisch”、そしてさらに“imperialistisch”の三語の区別の仕方にかんして、雀部が前掲二著で(同上箇所)かなり踏み込んだ考察をしているのであるから(雀部はその三語をそれぞれ常識的に「国民的」「国民主義的」「帝国主義的」と訳している)、なおさらそうである。

ちなみに、nationalistischを「国民至上主義的」と訳すのなら、Nationalistは「国民至上主義者」と訳されなければならないはずで、それなら、今野書のサブタイトルの「ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯」は、日本語でいえば、「ある西欧派ドイツ・国民至上主義者の生涯」となる。これは表現としてたしかにカール・シュミットのいう「反対物の複合体」(complexio oppositorum)ではあるが(今野書三七○頁)、今野書の含意として、はたしてそれですむのか、と問われるだろう。

(四)ところで、今野は、さきに見たように、今回の自己の研究を「モムゼン門下の作業の批判的継承」としているのだが、その「批判的継承」の「批判的」ということの意味がいまひとつ明瞭ではないし、評者などからすると不徹底といわざるをえない。そもそも師匠であるモムゼンにたいしては、氏は、なるほどその「西欧主義的」バイアスにもとづいてウェーバーを「道徳主義的に診断した」点はこれを批判し、またその批判があるために、氏がウェーバーの政治評論をより多角的に見ることのできている面がないわけではないのだが、氏はやはりモムゼンの業績を「誰でも避けて通れない金字塔であり続けている」として高く評価しており、わが国のウェーバー研究など「学習」にすぎないと見なしているせいか、ほかならぬわが国で徹底したモムゼン批判がなされていることの意味をまともに汲み取ろうとはしていない。

そもそも氏がその「綿密な史料批判」の「作業」ぶり(今野書一一頁)を受け継ごうとする「モムゼン門下」は、「経済と社会」旧稿の編集方針決定にさいする折原浩の綿密な文献学的考証と文書内容的考察とにもとづくモムゼン批判を敢て取り上げようとしていないが、氏もまた同様に、折原のモムゼン批判に触れる必要がないと考えているようである。ちなみに「経済と社会」旧稿編集方針をめぐる折原のモムゼン批判は、簡単には『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か――歴史研究への基礎的予備学』(勁草書房、二○○七年)七七頁以下および一七五頁以下の箇所でその概要を知ることができるが、しかし、その問題にかんしては折原に相応の主張があろうから、以下、折原とは別のモムゼン批判者の一人である雀部にかかわる論点にしぼって今野書の内実を吟味しよう。

 三

雀部のウェーバー政治思想にかかわる前掲二著と分析対象のうえで重なってくるのは、今野書の主として後半部分、とくに第四章および第五章である。

(一)まず、第四章第一~第四節のウェーバーの対外政治論・戦争論にかかわる部分にかんしていえば、「ロシア領ポーランドをめぐるハプスブルク帝国との抗争」、「潜水艦作戦」の経緯について今野書は雀部のものとくらべ(前掲『ウェーバーと政治の世界』第四章「ウェーバーのドイツ対外政治論――第一次大戦期の講和綱領・戦争目的論・戦後再建論を中心に――」)より詳細に扱っている。しかし、雀部の当該論稿は、第一次世界大戦勃発からドイツの敗戦にかけての時期のウェーバーの対外政治論・戦争論の大枠にかんするものとしては、モムゼンの西欧主義的バイアスおよび道徳主義的裁断からフライな総体的分析として、すくなくとも本邦では比較的早い時期に属する論稿であり、そうしたものとして批判的検討の対象となって然るべきはずのものである。が、今野はそうした対質を行っていない。

(二)つぎに第四章第五節の「内政改革構想」関連の問題に移る。

① そのうち第一の論点は、「各領邦における選挙権の平等化」とくにプロイセン邦における普通平等選挙制の導入をめぐる問題である。今野は、「かつて平等選挙法に批判的であった」ウェーバーが一九一七年以降平等選挙法の「熱心な推進者」となったのは、基本的には、かれが「前線兵士たちに、少なからず共感をいだ」き、「復員後の前線兵士に、遜色ない選挙権を与えようとした」からだといい(今野書二七六頁)、また、当時「イギリスが選挙法改正の手続きを始めて」おり(「実現は一九一八年二月」)、「同じことがドイツにもできるはずだ」とかれが考えたからだ、ともいう(同上二七八頁)。

そのこと自体は否定されるわけではない。しかし、ウェーバーが平等選挙制の導入を不可避かつ不可欠と見なしたのは、そればかりではなく、もっと一般的で広い歴史的パースペクティヴにもとづいてのことであり、その点を今野は適確に掴みだしてはいない。

そのパースペクティヴにもとづく視点とは、第一次世界大戦を契機とする総力戦段階における貴庶各階層の人間の「運命の平等」という観点である。一九一七年一二月の「ドイツにおける選挙法と民主制」におけるウェーバーの以下の文章はそれを如実に物語る。


「だが、積極的には、平等選挙法は・・・現代国家そのものがふたたび作り出したあの一種の運命の平等[つまり戦場における死]と密接に関連している。・・・過去における政治

的権利の不平等は、すべて究極的には[武装自弁の能力があるかないかといった]経済的条件に規定された軍役資格の不平等に由来するものである。こうした不平等は官僚制化された国家と軍隊とには存在しないのである。『国家市民』(Staatsbürger)という現代的概念を生み出した官僚制の支配は誰かれの別なく及び、すべての人々を捉えるが、その支配に対抗する手段はただ一つ、投票用紙あるのみである。この投票用紙という権力手段によってのみ、人々は、その命令とあれば死におもむかねばならない、かのゲマインシャフト[国家]の諸々の案件を、共同で決定する最小限を手にすることができるのである。」(MWGⅠ/15,S.371f.邦訳みすず書房版『政治論集』1、二八七頁。強調は原文、[ ]内は評者


 その点でも、雀部はウェーバーにおけるこの「運命の平等」、つまり国民皆兵制=一般兵役義務制の導入の観点に着目し、オットー・ヒンツェの同様の視点にも言及しながら、まさにそれが一九一七年以降のウェーバーの選挙権平等化要求の核心的論拠となっていることを指摘した(前掲『ウェーバーと政治の世界』一九三頁以下、『ウェーバーとワイマール』三七頁以下)。

② 第四章第五節の第二の論点は、第一次世界大戦末期のウェーバーによるドイツ政治の議会化構想において「議院内閣制」がそのものとして目ざされていないことをどう評価するかの問題である。

 今野は自著の二八三頁で、ウェーバーは「帝国宰相が帝国議会に責任を負うという『議院内閣制』原則を明確に確立しようとまではしていない。帝国宰相の帝国議会からの選出は飽くまで一つの指導者選抜の手段であり、それ自身が自己目的ではなかったのだろう。」と述べている。この論述には二つの問題点がある。

まず、今野は「帝国宰相が帝国議会に責任を負う」ということがすぐれて「『議院内閣制』の原則」と考えているようである。もちろん「帝国宰相が帝国議会に責任を負う」こと自体は「『議院内閣制』の原則」の一つではある。しかし、それは厳密な意味での「『議院内閣制』原則」を成り立たせる第一の原則ではない。その第一の原則は、「行政指導者がほかならぬ議会から選び出されなければならぬという原則」(ウェーバー)である。

 ウェーバーは「新秩序ドイツの議会と政府」のなかで、ドイツ政治の議会化、帝国議会の権限強化を目ざし、そのために議会が具備しなければならない諸原則を列挙している。その第一は、いま挙げた「行政指導者がほかならぬ議会から選び出されなければならぬという原則(本来の意味での『議会制システム』)」だが、それに続く第二原則として、かれは「そうでないまでもやはり(oder doch)、行政指導者がその職に留まるためには、議会多数派の明示的に示された信任か、もしくはすくなくとも不信任決議の回避を必要とするという原則(指導者の議会による選抜淘汰)」を挙げている。そして第三に、かれは「それゆえ行政指導者が議会もしくは議会委員会の審問にたいして余すところなく陳述し答弁するという原則(指導者の議会制的責任)を挙げ、第四に、「そして行政指導者が議会の承認した方針にしたがって行政を指導しなければならないという原則(議会による行政の監督)」を挙げている(MWGⅠ/15,S.473.みすず書房版『政治論集』三七一頁以下。強調は原文)。

 ウェーバーはこれがおよそ議会政治と呼ばれるに値する政治の具備すべき諸原則だというのだが、この諸原則の列挙の仕方、とくに第一原則と第二原則との列挙の仕方は特徴的である。その仕方は、oder dochでつながれているわけであるから、いわば選択的列挙とでもいうべき仕方であり、ウェーバーは、ドイ第二帝制の連邦制的な立憲制的君主制の条件下では――じつは敗戦後の国民選出の大統領を頭に頂くワイマール共和制のもとでもそうなのだが――第一原則を採用することができないという含みを持たせて、しかしそれでも第二以下の諸原則を帝国議会が具備するなら、ドイツ政治の議会化の課題は帝国議会レヴェルでは達成される、だからその三原則の実現はなんとしても目ざされるべきだと考えたのである。

 もちろんイギリスで実現を見た厳密な意味での議院内閣制はウェーバーの挙げた四つの原則、とくにその第一原則を具備しているが、この第一原則を具備した狭義の議院内閣制はこれを採用できる国とそうでない国とがあり、それが採用されないからといって、当該の国の政治の議会化が不十分だというわけでない、各国は各国の条件に見合った議会化をすればそれでよいのであって、なにもイギリス型の議院内閣制を金科玉条とする必要はない。このようにウェーバーは考えていたはずである。ちなみに、雀部は、ウェーバーがなぜドイツでは、帝制期においてもワイマール共和制期においても、厳密な意味での議院内閣制(ウェーバーの言葉でいえば「本来の『議会制システム』」)を採用できないと考えていたのか、その理由を両期におけるドイツ・ライヒの国制構造の特質に照らして明らかにしている(『ウェーバーと政治の世界』のとくに二六八頁以下および二九六頁以下、『ウェーバーとワイマール』九八頁以下および一二三頁以下)。そのことを今野は知ってか知らずにか、ウェーバーが「『議院内閣制』原則を明確に確立しようとまではしていない」などとして(強調は評者)、ウェーバーのドイツ政治の議会化構想が議会政治推進の観点からはあたかも限界があるかのように述べているのは、やはり氏がモムゼン的な「西欧主義的」・アングロサクソン政治的バイアスのかかった眼でウェーバーの政治論を見ようとしているからだろう。

つぎに、氏は、ウェーバーにおいて「帝国宰相の帝国議会からの選出は飽くまで一つの指導者選抜の手段であり、それ自身が自己目的ではなかったのだろう」と述べているが、上記のようなウェーバーにおけるドイツ政治の議会化構想は、もちろん議会における政治指導者選抜の課題をもその重要な一環としてはいるけれども、そればかりではなく、いや、すぐれて、議会の権限および権威自体の強化をも目ざすものであったはずである。だいたい「帝国宰相の帝国議会からの選出」をそれ自体として「自己目的」とするような政治は、モムゼンのような議会至上主義者の観念世界以外にはありえまい。

③ 今野書第四章第五節の第三の問題点は、ウェーバーの君主制論への氏の言及の仕方に見られる。第五節の「四 皇帝及び連邦諸侯の言論統制」は、ウェーバーがヴィルヘルム二世をはじめドイツ諸邦君主の失言や無責任な虚栄的言動の数々にたいして厳しい批判を差し向けたことに多くのページを割いている。もちろん、そうしたウェーバーの君主批判に言及すること自体に問題があるわけではない。しかし、氏がさらに、それにもかかわらず、ウェーバーがなぜ最後まで君主制の維持にこだわったのか、なぜウェーバーが議会制的な世襲制的君主政体をドイツにとっての最適の政体と考えたのか、それをウェーバーの君主制効用論にまで踏み込んで考察していないことは問題であり、その点の欠落は、氏がウェーバーにおける貴族制評価の視点にかんする積極的な分析を欠落させている点とともに、ウェーバー政治思想の重要な側面を見落とすものといわなければならない。それにたいして雀部は、『ウェーバーと政治の世界』第三章においても『ウェーバーとワイマール』二四頁以下においても、ウェーバーの君主制効用論をくわしく考察しており、またかれの貴族制評価の視点も『ウェーバーと政治の世界』二三○頁以下において相応のページ数を割いて分析している。

④ それからもう一つ、ウェーバーの君主制論にたいする今野の理解にかんして看過できない点は、氏がウェーバーの「擁護した君主制」を無概念的に「立憲君主制」としていることである(今野書二八三頁)。氏は「『影響力の王制』[当時のイギリス王制――評者]、つまり君主が議会に日常政治を委任して、高所から監督するという」君主制を「立憲君主制」と呼んでいるのだが、ウェーバーにあっては、それは「議会制的君主制」parlamentarische Monarchieであって、当時のドイツ第二帝制の「立憲制的君主制」konstitutionelle Monarchie(「大権の王制」)とは区別されるものである。この概念的区別は一九世紀ドイツの国法学者たちに共通のものであり、ウェーバーもまたそれにしたがって君主制論を展開しているのである。ちなみに、ウェーバーの場合には、ドイツ第二帝制の「立憲制的君主制」から「議会制的君主制」への推転が課題であった。この概念的区別、推転にかんするウェーバーの所論は、雀部の『ウェーバーと政治の世界』第三章「ウェーバーの君主制論」第四節「議会制的君主制と立憲制的君主制」および『ウェーバーとワイマール』第二章「ウェーバーのドイツ政治改革論」第一節「ウェーバーの統治形態類型論」において追究されている。 

 四

今野書第五章で、評者の観点からしてとくに問題をふくむ箇所は、やはり第三節「ヴァイマール共和国の国制構想」である。

(一)今野はウェーバーの当該の国制構想が「共和主義」、「大ドイツ主義」、「統一主義」の「三原則」によって「貫かれている」と特徴づけている。このうち前二者については異論がないが、「統一主義」(Unitarismus)を単純に当時のウェーバーの立場とすることはできない。そもそもその立場は「大ドイツ主義」と矛盾する。そのことを明確にするためには、まずUnitarismusの訳語の確定から議論を始めなければならない。Unitarismusに対置される言葉はFöderalismusだが、Föderalismusは「連邦主義」であるから、それと対置される――ウェーバーも『ドイツ将来の国家形態』において、Unitarische oder föderalische Lösung? Einheitsstaat oder Bundesstaat?と二者択一的な問題提起をしている(MWGⅠ/16,S.111. みすず書房版『政治論集』2、五○四ページ)――Unitarismusは、「単一国家主義」という訳語を当てるのが妥当だろう。そのように事柄をはっきりさせると、Unitarismusはワイマール共和国国制の、「大ドイツ主義的解決groβdeutsche Lösung」(ebd.,S.117. 同上五○九頁)と矛盾してくる。なぜなら、ライヒ国制の「単一国家的解決」(unitarische Lösung)は、独自の通貨と発券銀行、異質な財政運営と通商政策的要求とをもつオーストリアとの合併を不可能にする、とウェーバーは考えていたからである(ebd.,S.116.同上五○九頁)。

そのうえ、なによりもウェーバー自身が、『ドイツ将来の国家形態』において、新生の共和国においては結論的に「連邦共和制」(Föderativrepublik)が目指されるべきだとしている(ebd. 同上)のであるから、かれが個人的な信条からすればUnitarismusを採りたいと希望していたとしても、すくなくとも近い将来においては、ドイツの国制はFöderalismusに立脚せざるをえないと見なしていた。その理由は、ウェーバーによれば、一、ドイツ国制の「単一国家的解決」はドイツの弱体化を目指す連合国側がそれを許さないだろうし、二、それはまた上記のように「大ドイツ主義的解決」を不可能にするだろうし、さらに三、オーストリアだけでなくバイエルンも、その歴史的伝統的に「正当化される特性」(die berechtigte Eigenart)からして、そうした「単一国家的解決」に激しく抵抗するだろうからである(ebd. 同上)。今野も、ウェーバーのこうした理由づけを見ないわけではなくそれに言及してはいるのだが、なぜか氏はUnitarismusをウェーバーの戦後国家構想の三大原則のひとつだとする自説に固執している。

(二) しかし、その固執は、帝制期の「連邦参議院」(Bundesrat 今野はこれを「連邦評議会」と訳している)をどう改編して共和国国制に組み込むかにかんするウェーバーの見解の、今野による一面的な解釈の問題につながる。

今野は、Bundesratを解体してアメリカ合衆国「元老院」(上院)に見合ったStaatenhaus(今野の訳語は「分邦院」、雀部の訳語は「連邦院」)を創設するというのがウェーバーの構想だったとしている。それではBundesratとStaatenhausとがどう違うかといえば、今野によれば、Bundesratは(第二)帝国内各邦政府がその訓令にしたがって行動する「代理人」を派遣するという形式にもとづいて組織されているのにたいして、Staatenhausはかつての邦に対応する地域(ワイマール共和国では州)住民の「直接選挙で選出され、自分自身の意志で行動する各邦の『代表者』によって構成される」というところにその違いがあるという。

このうちの前半部分の説明は妥当だが、後半部分に指摘された内実のStaatenhausをウェーバーが提案したかといえば、その事実はない。今野がここで説明しているStaatenhausはアメリカ合衆国のSenate(元老院、上院)に対応し、今野はウェーバーがそれ(など)を参考にしてかれのStaatenhausを構想したというのだが(今野書三三七頁)、それは違う。

ウェーバーは、「純粋に民主主義の観点からすれば」、「住民選挙」方式にもとづくアメリカ型のStaatenhausが望ましいけれども(MWGⅠ/16,S.124.『政治論集』2、五一五頁)、しかし、現在ドイツの諸条件のもとではそれは採用できない、と断っている。その理由は、かれによれば、第一に、「今日、『ベルリン』の信用がいちじるしく失墜し、ライヒの憲法制定議会とならんで各邦の憲法制定議会が並存する」という状況のもとでは、ライヒへの自邦政府の政府としての応分の要求権を「代理人」原則によって連邦主義的「中央機関」に反映させようとする各邦政府の動きを抑えることができないからだし(ebd.,S.122. 同上五一三頁)、第二に、なんといってもそうした「住民選挙」方式にもとづくStaatenhausがドイツでうまく機能しうるという「明白な経験的証明が欠けているから」である(ebd.,S.126. 同上五一六頁)。

さらにウェーバーは、アメリカ的なStaatenhaus方式の採用を不可能とするについて、第三にもっと即物的に重要な理由を挙げている。そもそもウェーバーは敗戦後のドイツ復興のためには「労働の最高度の合理化」が必要だと考えていたが、かれは、それを行財政面で達成するためには、ライヒ行政の執行とその監督、ライヒ行政への注文等の業務に各邦「政府の代表者」が関与することがぜひとも必要であり、そうした関与は、実際には各邦政府の「訓令」を受ける「代理人」たる「官吏」(Beamte)がこれをもっとも効率的に行うことができるのであって、とりわけ「住民選挙」方式の地域住民「代表」たるStaatenhaus議員(各邦選出議員)にその十全な代役を務めさせることは不可能だと考え(ebd.,S.116. 同上五一三頁以下)、そこから(も)かれは、アメリカ的なStaatenhaus方式を現下のドイツに取り込むのは不可能だと見なしたのである。

そこで結局ウェーバーが第二帝国のBundesratにかわるワイマール共和国の連邦主義的中央機関として提案したものは、一八四九年「フランクフルト憲法」方式のStaatenhaus(ちなみに雀部は、同憲法のStaatenhausに限り、それを「諸邦院」と訳している)である(ebd.,S.57,74.対応する邦訳なし)。それは、同憲法第八八条によれば、議員の半数を「各邦政府」が、別の半数を「各邦議会」がこれを任命するというものであり(E.R.Huber,Dokumente zur deutschen Verfassungsgeschichte, Bd1, Kohlhammer, 1978, S.384. 高田敏ほか訳『ドイツ憲法集』信山社、一九九四年、三一頁)、これなら、敗戦前に帝国のBundesratの議会化のために知恵を絞ったウェーバーの志向をある程度かなえることができると同時に、Staatenhaus議員の半数は政府の任命になるのであるから、ライヒ行政への各邦の効果的関与というさきに見たドイツ・ライヒの現下の必要にも応えることができるだろうと、ウェーバーは考えたものと思われる。しかし、このフランクフルト憲法のStaatenhaus方式にはじつは難しい問題がふくまれており、はたしてウェーバーがそれをどのように見てどのように解決しようとしていたのか疑問が残る。だが、そのことは当面の今野書の吟味とは別問題であるから、ここではその問題に立ち入らない。なお、その問題性をもふくめて、以上に述べたことの詳細は、雀部の『ウェーバーと政治の世界』二九○頁以下および『ウェーバーとワイマール』一一八頁以下において考察されている。

(三)さて、今野書第五章でとくに検討されなければならない第三の論点は、ウェーバーの「直接公選大統領」構想の理解にかかわる問題である。

 今野は、ウェーバーがライヒ大統領のあり方にかんし、アメリカ型の国民選出の大統領制をとるか、あるいは、とくに(当時の)フランス型の議会選出の大統領制をとるかの選択を前にして前者を選択したとし、その理由として、第一に、かつての第二帝国のBundesratが結局Reichsratとして「ドイツ将来の国家形態」でウェーバーが構想していたものよりもさらにföderalischな要素をつよく残す形で「温存」され、それに対抗するunitarischな要素として国民投票的民主的正当性に立脚した官職を国家最高の地位に据える必要のあること、第二に、新生ドイツ共和国でも実力ナンバーワンのプロイセン邦(→州)の首長に十分太刀打ちできその上位に立ちうるライヒ首長を置くためには、その首長がやはり直接国民投票による民主的正当性に立脚する必要のあること、第三に、新生ドイツにおいてライヒ議会が比例代表選挙制を導入し、ウェーバーの視点からすれば議会本来の機能を十分果たせそうにないがゆえに、その補完機関として直接国民の意思に立脚するライヒ首長が必要であると考えられたこと、第四に、新生ドイツのライヒ「国会の中心に位置する多数派・独立社会民主党に、ヴェーバーは人間の精神的自律を押し潰す『官僚制』の影をみていた」こと、の諸点を挙げている(今野書三三七頁以下)。

これらの理由づけそのものに特別問題があるわけではない。しかし、ここでも今野はウェーバーのワイマール共和国国制構想への「アメリカ合衆国の影響」を過剰に見すぎているきらいのあることが指摘されねばならない。氏は、自著の三三一頁で、「ヴェーバーの戦後国制構想は、アメリカ合衆国の影響がとりわけ顕著なものになっている。ヴェーバーにとってイギリス国制への親近感は依然として捨てがたいものだったが、君主制再興が不可能不都合であると判断したときに、割り切ってアメリカ国制に目標を換えたのである。」と、それこそ割り切った整理をしているが――そこから、ウェーバーの新Bundesrat構想にたいするさきに見た今野の一面的な解釈が生まれる――、そう簡単に整理することはできない。やはりウェーバーにとって、アメリカはアメリカであり、ドイツはドイツである。アメリカの国制の基本は大統領制だが、新生ワイマール共和国の国制は、ウェーバーの定義によれば、「国民投票的大統領制と代表制的議会制とが並存する国民投票的代表制的統治」である(WuG,5.Aufl.,S.173. 世良訳『支配の諸類型』一九六頁。強調は原文)。

この定義からも窺えるように、ウェーバーの戦前戦後のドイツ政治改革論を見る場合に、かれの統治形態論を視野に入れることがぜひとも必要である。だが、今野はその必要性にたいして然るべき注意を払っていない。いまここで問題となる点をいえば、ワイマール国制はウェーバー的には「国民投票的大統領制と代表制的議会制とが並存する国民投票的代表制的統治」と定義されるものであるから、大統領制とライヒ議会制、Reichsrat制、ライヒとかつての諸邦たる諸州、ライヒと最大最強の州たるプロイセン、これらの相互関係をウェーバーがどのように考えて新生ドイツの国づくりに臨もうとしたのかを、詳細かつ明晰に分析せねばならない。その要求基準からすると、今野の論述は単純で一面的だといわざるをえない。

(四) ところで氏は、この箇所の最後の所で、ウェーバーが「直接公選大統領に大きく期待したのは事実だが、それは彼がドイツ国会無用論に傾斜したということではない。」と述べている(今野書三三九頁)。これは、ウェーバーの「[ワイマール]憲法提案は、純粋な議会主義からの離反を表明するものである」、「極端な知的合理主義にもとづいて、ウェーバーは人民の自由な自己組織という民主主義思想から訣別した」とするモムゼンの見解(Mommsen, Max Weber und die deutsche Plitik 1890-1920, 2.Aufl.,Tübingen,1974,S.363,420. 未來社版訳Ⅱ六一八頁、七○三頁)を意識して、それを修正しようとしたものと思われる。それならば、氏は、さらに立ち入って、ウェーバーが「カエサル主義的人民投票的民主主義思想とライヒ大統領のカリスマ的指導者としての地位の確立をめざす憲法構想」によってヒトラーの権力掌握に意図せずして道を開いたとする(ebd.,S.205,436f. 同上訳Ⅰ三三六頁、訳Ⅱ七二五頁以下。 なお、Mommsen,Max Weber and the German Politics 1890-1920,Paperbackedition 1990,p.ⅶをも参照)モムゼンのウェーバー研究の肝心かなめの論点をどう評価し、そのモムゼンの主張にたいする雀部の批判をどう考えるのか、と問われるだろう。それとも、氏は日本の先行研究などたんなるウェーバー「学習」にすぎないから、そんなことなど問題にしなくてもいいと考えているのであろうか。

以上、総じていえば、今野書は、その自負の大きさにもかかわらず、得意なはずの史実の発掘という点でも先行のマリアンネ『伝』およびモムゼン『伝』を大きく超えるものとはいえず、また、その史実、つまりウェーバーの政治的発言・政治思想の「分析」・解釈という点では、結局皮相で突っ込み不足が目立ち、しばしば一面的な解釈に陥っている。

ウェーバーの「政治構想」が全体として「知性主義の逆説」を示すという今野書の「結論」も、はなはだ不明瞭である。知性主義の「限界」ということなら、ウェーバーのつとに指摘したところであり、カントの物自体と現象との峻別を承知している者なら直ちに理解可能なコンセプトであるが、しかし知性主義の「逆説」などということは、およそ概念的明晰性を欠き、論評の域外にある。

なお氏は、その後、この意義不明瞭な「知性主義の逆説」に加えて、「マックス・ヴェーバーの呪縛」を云々しているが(今野元「マックス・ヴェーバーの呪縛――現代ヨーロッパに見る『知性主義の逆説』」『UP』二○○八年二月号四四頁以下。つい数年前に「マックス・ヴェーバーの犯罪」などと空騒ぎした向きがあったが、今度は「マックス・ヴェーバーの呪縛」だそうである)、そもそも氏は「逆説」や「呪縛」をいう前に、ウェーバーのテキストを注意ぶかく読み解き、的確に「分析」する必要があろう。しかし、そのためには、さらに、氏がたんなる「学習」と見なしたわが国のウェーバー先行研究との対質を避けるわけにはいくまい。

丸山尚士「学問とは何か―「マックス・ヴェーバーの犯罪」その後(2)」

2008年7月19日(羽入辰郎氏の新刊本へのレビュー。現在リンク切れ。


小谷野敦「「学者学」という奇妙な領域」

2007年6月29日掲載の小谷野氏のブログより転載

「学者学」という奇妙な領域

2007年6月29日掲載(ブログより転載)

小谷野敦

 1988年に「NICS」が「NIES」に変わったというのも、二十年近く前のことだし、若い人は知らないだろう。前者はNewly Industrializing Countriesの略で、二十世紀後半に経済成長を遂げた香港、台湾、韓国、シンガポールをさしたものだが、香港や台湾は「国」といえるかどうか疑わしいというので、CountriesをEconomiesに変えたということである。1993年に翻訳が出たエズラ・ヴォーゲルの『アジア四小龍』(中公新書)はこの四地域を論じて、その成功の理由の一つとして、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じたプロテスタンティズムの代わりに、儒教がその役割を果した、とした。もっともそうなると、より大きな龍である日本が、十九世紀終りから目覚しい経済成長を遂げたのも儒教のおかげか、ということになり、この主張は眉唾ものとされている。実際をいえば、地域が小さくまとまっていること、ユーラシア大陸の東岸であることなどが、成長の要因だというのが妥当なところだろう。

 さて、ヴェーバーのこの不思議に有名な論文は、最近の学生の間では、略して「プロ倫」などと呼ばれている。私が学生のころはそういう略称はなかったが、便利なので以下、このあまり上品でない略称を使うことにする。私がこの本を初めて読んだのは、大学一年の時、一般教養の折原浩助教授による授業で、同氏の『デュルケームとウェーバー』を教科書に、その方法論が講じられた際で、デュルケームの『自殺論』は、論証も鮮やかで読み応えがあった。当時はまだ同書は文庫版では出ていなかったが、その後中公文庫に入った。ところが、岩波文庫で読んだ「プロ倫」は、実に分かりにくかった。結論はよく分かるのだが、肝心の論証が分かりにくい。同級生も、どうもおかしいと言っていた。その後年月を経て、学問の厳密な方法について学んでから改めて読むと、穴だらけで、とうてい学術論文とは思えず、まるで「文藝評論」のようにしか見えないのだ。だいたいその結論にしてからが、学問的に論証できる類のものとは思えないし、いわば「縮み志向の日本人」などの「日本人論」や「比較文化論」によく似て、都合のいい材料だけ揃えてそれらしく論述しているとしか思えない。何より、ヴェーバーがこれを書いていた頃には、既に、プロテスタントとは何の関係もない日本が、アジアで経済成長を遂げていたわけだが、ヴェーバーはその点について、何の説明もしていない。

 ところが、当時は薄いのに二冊本の、梶山力・大塚久雄訳だったのが、1989年に大塚の単独訳の一冊本になり、それから四半世紀、いよいよ「古典」扱いされるようになっている。

 2003年、羽入辰郎の『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房)が刊行されて話題を呼び、山本七平賞を受賞した。これは東大倫理学の博士論文である。なかなか面白い本で、書きぶりは梅原猛風、「プロ倫」の中で、ヴェーバーが、ルター訳聖書と、フランクリン自伝を用いた箇所でごまかしをやっていると、文献学的に示している。その冒頭で羽入は、ヴェーバーのような「権威」に逆らうのが恐ろしくて、なかなか書けなかった、と書いている。私のようなはずれ者の文学研究者には、 よく分からない話だ。もっともかつて、志賀直哉のような偶像を批判するとたいへんな攻撃を受ける、と書いていた人がいた。

 だが果たして、羽入に対して激しい攻撃が仕掛けられた。それが、私が習った折原先生である。『ヴェーバー学のすすめ』(2003)、『学問の未来--ヴェーバー学における末人跳梁批判』(2005)、『大衆化する大学院--一個別事例にみる研究指導と学位認定』(2007)と、遂には個人攻撃とも言うべき領域に至っている。

 羽入のヴェーバー批判が、ヴェーバー全体への批判になっていない、と折原は言っているが、羽入は『VOICE』2004年5月号で谷沢永一と対談して、その意図を明瞭に語っている。要するにヴェーバー偶像崇拝の批判なのである。しかし折原は自らどんどんその偶像崇拝ぶりをあらわにしており、もはや「ヴェーバー天皇陛下」である。折原は「不敬である」と怒っているとしか思えないのである。たとえば折原は平然と「ヴェーバー学」などと言っているが、ヴェーバーは学者である。自然科学の世界で、「ニュートン学」だの「ラヴォワジェ学」だのというものはないし、文学研究の世界でも、「ノースロップ・フライ学」などというものはない。折原はこれまで、ひたすらヴェーバーの方法ばかりを論じてきて、その方法を何か別の対象に適用しようとはせず、『マックス・ヴェーバー基礎研究序説』などという冗談のような本を出してきた。当時、中沢事件で怒っていた西部先生が、どうせそのうち「ヴェーバー基礎根本研究序説序章」とかいう本を出すんだろうと痛罵していた。

 羽入はヴェーバーを「詐欺師」などと批判しているが、むしろこのような、西洋の学者に心酔して学問の本道を見失ってしまう折原のような人こそが批判されているのである。『ヴェーバー学のすすめ』では、「デヴュー」などという初歩的な誤記があって、西洋の学問研究をする人が、フランス語のdebutすら知らないのかと呆れた。

 過去の学者の研究は、学説史の一環としてならありうるし、本居宣長研究や、風巻景次郎研究というのもありうるが、あくまでそれは学説史である。学者を研究対象とする「学者学」というものに、私はかねてから疑念を抱いてきた。民俗学の世界には、柳田、折口、南方熊楠などを研究対象とするものが以前からある。南方の場合、未公開資料があるからまだ良かろうが、柳田、折口研究というのは、「民俗学者学」であって、おかしいとしか思えない。学問というのは、先行研究のどこが正しくてどこが違っているかを明らかにし、過去の説を棄却しつつ進んでいくものだろう。哲学などでは、研究対象がないから、プラトン研究などになるのはやむをえないが、「社会学」を名乗りながら「社会学者学」をやっていたのでは仕方がない。これでは、「過去十年間、文学作品が論じられたことはない」と言われた、かつてのイェール学派みたいなものだ。

 近代の日本の学問は、ひたすら西洋の学者について学ぶことをしてきて、そのことはさんざん批判されているのに、一向にその気配がやむことはない。後世は、この時代を、西洋学者の訓詁注釈、スコラ学の時代として位置づけるだろう。


折原浩著『マックス・ヴェーバーとアジア――比較歴史社会学序説』刊行のご挨拶

2010年3月

折原浩著『マックス・ヴェーバーとアジア――比較歴史社会学序説』

刊行のご挨拶


本日(2010年3月10日)、上記表題の新著が、平凡社より刊行されました。自己解説抜きでご批判に委ねるべきところですが、僣越ながら、ここで目次と粗筋をご紹介させていただきます。本書は、下記の四章、29節から構成されます。


はじめに


Ⅰ. ヴェーバーにおける欧米近代――「倫理論文」の内容骨子


1.「職業義務エートス」としての「(近代)資本主義の精神」

2. カルヴィニズムの「二重予定説」と「合理的禁欲」

3.「合理的禁欲」の普及と「(近代) 資本主義の精神」への転態

4.「(近代) 資本主義の精神」の帰結と 「二重予定説」の機能変換

5.「倫理論文」におけるヴェーバーの自己限定



Ⅱ. ヴェーバーによる比較歴史社会学の方法と構想――「倫理論文」を越えて世界史へ


6. 研究領域、因果帰属先の拡張と、因果帰属の論理による他文化圏との比較

7. ヴェーバー社会学の創成――歴史研究への基礎的予備学

8.比較歴史社会学――理解社会学(理解科学の「一般化」的「法則科学」的分肢)と歴史学(「個性化」的「現実科学」的分肢)との総合

9.「旧稿」の趣旨――人間協働生活の普遍的要素にかんする類-類型概念の決疑論体系

10.「カテゴリー論文」の内容骨子――「理解」の方法手順、社会的行為-秩序の「合理化」にかんする「四階梯尺度」

11. ヴェーバー「一般社会学」の特性と、「総体把握」への方法-理論構想



Ⅲ. ヴェーバーの比較歴史社会学におけるアジアとくに中国


12.「欠如理論」ではないヴェーバーの眼差し――非西洋文化の特性把握と因果帰属への一般方針

13. インドにおけるカースト秩序の歴史的形成とその諸条件

14. 中国における近代資本主義の発展に有利な経済的諸条件――X₁ 私人の手中への貨幣集積とX₂ 流動可能な人口の大量増加

15. 経済的には可能な資本-賃労働関係を、社会的に阻止した主要因――X₃ 氏族の抵抗

16.氏族の歴史的消長を左右する諸要因――- X₄ 政治-支配体制とX₅ 宗教性

17. ヴェーバー支配社会学の内容骨子――正当的支配の三類型、下位諸類型、それぞれの組織構造と変動因

18. 中国のX₄ 政治-支配体制――春秋戦国期の「封建制」から秦漢帝国以降の「家産官僚制」へ

19. 中国のX₅ 宗教性――家産官僚制と正統儒教との個性的互酬-循環構造

20. 中国農村における「ボリシェヴィズムの共鳴基盤」――貧農と光棍

21. 日本における近代資本主義受容の諸条件――封建制と天皇制との個性的互酬-循環構造と、幕末開国期の「白紙状態」

22. 西欧における初発の「近代化」にいたる諸条件

23. 西欧とロシア――比較歴史社会学の「思考実験」



Ⅳ. 比較歴史社会学の展開――ヴェーバーからのパラダイム変換と再構成に向けて


24. 日本における「敗戦後近代主義」のヴェーバー解釈とその被制約性

25.「プロテスタンティズム・テーゼ」の「法則科学」的普遍化即一面化――ベラーと余英時による展開の問題性

26.比較歴史社会学のパラダイム変換に向けて

27. 比較歴史社会学のパースペクティーフにおける「アメリカ合衆国」――「西欧近代の『出遅れた鬼子』」

28. 比較歴史社会学のパースペクティーフにおける「ロシア帝国」と「旧ソ連」――「西欧近代の『巨体の亜流』」

29. イギリス(ユーラシア大陸の西の島国)と日本(東の島国)との対照性に見る中日・日中関係の独自性――「学問力-文化力-平和友好力の互酬-循環」路線への転轍


あとがき


事項索引、人名索引



章から章と21節までで、「倫理論文」(初版)以降の三主著(遺稿)『科学論集』『経済と社会』『宗教社会学論集』におけるヴェーバーの学問展開を、ひとつの「全体像」に集約します。それは、「西洋(とくに近代)文化総体の特性把握と因果帰属」をめざし、(「法則科学」としての)社会学と(「現実科学」としての)歴史学とを独自に総合する「比較歴史社会学」構想として、捉えられます。

22節では、夭折によって実現しなかった当の構想「本番」の内容骨子を、「世界宗教の経済倫理」の裏読みと『経済と社会』の照準点との統合的解釈によって復元します。その要点は、古代ユダヤ教とキリスト教を古代からの主体的与件とし、西欧中世世界におけるローマ・カトリック教権と封建制的俗権との「対抗的相補関係」を環境条件として、「漁夫の利」を占めた都市集住者が、市民身分を形成して都市自治を達成し、「近代化」への風穴(価値観点を換えれば、生産諸力の異常発達への傷口)を開ける歴史的経緯に求められます。23節では、そうした「西欧中世に固有の個性的布置連関」の歴史的-因果的意義を、ヴェーバー自身の「因果帰属の論理」に則り、(教権と俗権との癒着により、ノヴゴロドの都市自治がモスクワ国家に併呑され、市民的発展の萌芽が摘み取られた)ロシア史を比較対照項として検証します。

 章では、翻って、日本における従来のヴェーバー研究を、ヴェーバー自身のそうした固有価値と潜勢を捉えきれず、「人間における近代化問題」でなく「近代化における人間問題」と、逆さまに問題を立てた「敗戦後近代主義」の「存在被拘束性」から、批判的に捉え返します。そのうえで、「西欧近代文化世界の嫡子」としてのヴェーバーとは異なる、「西欧近代のマージナル・エリア(インド、ロシア、中国、日本など、周辺・境界・外縁地域)」の一隅に生を享けた「マージナル・マン(それも1935年生まれの「敗戦世代」)」の立場から、比較歴史社会学の「パラダイム変換」を企てます。ヴェーバー没後、第二次世界大戦後に「冷戦構造」の双極に躍り出た一方のアメリカ合衆国(離脱衆国)を「西欧近代の出遅れた鬼子」、他方の(旧ソ連を含む)ロシアを「西欧近代の巨体の亜流」として位置づけ、日中関係の独自性を、ユーラシア大陸の西の島国(ヨーロッパ半島の出島)イギリスと東の島国日本とのマクロな比較によって捉え返します。

結論としては、一筋縄ではいかない国際的力関係の惰性的現状には冷徹に対処しながらも、「(西欧中世-近世に発し、近-現代には生産諸力の異常発達にいたりついた)経済力と軍事力との互酬-循環構造」に換えて、生産諸力を地球環境の生態学的許容限界内に公正に制御していく「維持可能な循環型地球-人類社会」の構築をめざし、「学問力-文化力-平和友好力の互酬-循環」路線への「転轍」を唱えます。

 そのように、筆者の従来の拙作とは異なり、「ヴェーバーでヴェーバー(の遺作)を越え」、そのうえで「みずから(「敗戦世代のマージナル・マン」として)ヴェーバーをも超えよう」と試み、各所で筆者の価値観点を表明します。こうした方向で、比較歴史社会学の展開に向け、今後も微力を尽くしたい所存ですので、どうかご繙読のうえ、忌憚なくご批判くださいますよう、お願い申し上げます。(2010年3月10日記)


折原浩「マックス・ウェーバーの科学論と原発事故」

2012年2月12日


ヴェーバーの科学論と原発事故

折原浩

2012211


一、 科学一般の権能と 科学知の限界

マックス・ヴェーバーは、科学一般の権能を、大別して、①与えられた目的にたいする手段の適合度の検証、②その手段を採用したばあいに生じうる随伴結果 (犠牲) の予測、③当の目的の意義にかんする知識の提供、に求めた。

①については、「われわれは、(われわれの知識のそのときどきの限界内で)いかなる手段が、考えられたある目的を達成するのに適しているか、それとも適していないか、一定の妥当性をもって確定することができる」(富永祐治・立野保男訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』1998、岩波文庫、p. 31、圏点による強調は原著者、下線による強調は引用者、一部改訳、以下同様)と述べている。

自然科学であれ、人文-社会科学であれ、およそ科学知には、いついかなるときにも「ここまでしか分からない」という限界があり、そのかなたには未知の領域が広がっている。なるほど、科学者は、未知の領域に仮説をもって挑戦する。自説を仮説として、科学としての方法規準にしたがって検証し――したがって、ばあいによっては、自説の誤りを認め――、既知の領域を広げていく。しかし、どこまで行っても、科学知の限界は、ちょうど「旅人にたいする地平線」のように、そのつど後退し、かならず未知の領域が残る。

カール・ヤスパースは、初期には精神病理学者としてヴェーバーの科学論を継承し、後に独自の実存哲学を展開したが、科学者をこうした「限界状況」のなかで捉え返し、この限界を弁えずに「科学は万能」と信ずる傾きを、端的に「科学迷信Wissenschaftsaberglaube」と呼んで斥けている。

二、目的と結果との相互秤量

では、権能②についてはどうか。ヴェーバーは、こう語っている。「もしある考えられた目的を達成する可能性が与えられているように見えるばあい、そのさい必要とされる[当の]手段を[現実に]適用することが、あらゆる出来事のあらゆる連関[にいやおうなく編入されること]をとおして、もくろまれた目的のありうべき達成のほかに、いかなる[随伴]結果をもたらすことになるかを、当然つねに、そのときどきのわれわれの知識の限界内においてではあるが、確定することができる。そうすることで、われわれは、行為者を助けて、かれの行為の意欲された結果と、意欲されなかったこの [随伴] 結果との [相互] 秤量が、できるようにする。すなわち、れわれわは、意欲された目的の達成が、予見できる出来事の連鎖を介して、他のいかなる価値を損なうことになるか、そうした形でなにを『犠牲にする』か、という問いに答えることができる。大多数のばあい、もくろまれた目的の追求はことごとく、この意味でなにかを犠牲にする、あるいは少なくとも犠牲にしうるから、責任をもって行為する人間の自己省察で、目的と結果の相互秤量を避けて通れるようなものはない。とすれば、そうした相互秤量を可能にすることこそ、われわれがこれまでに考察してきた [科学にもとづく] 技術批判の、もっとも本質的な機能のひとつである」(上掲書、pp. 31-32)

三、科学と技術との緊張

さて、こうした利害得失(メリットとデメリット)の相互秤量も、なにか目新しい主張ではない。それはむしろ、ある技術の採用にあたって必須の要件として、つねに語られ、要請され、通常は実行されてきたことであろう。ところがそのさい、科学と技術は、「科学技術」と一括されたり、「技術は科学の意識的適用である」と唱えられたりして、双方の親和性ないし順接関係が、暗黙にせよ前提とされていたのではないか。とすると、その点にかけて、ヴェーバーはむしろ、双方の緊張に着目し、技術にたいする科学の否定的批判的関係も、科学の本質的機能と見ていることになろう。

すなわち、ある目的の達成をめざして、ある技術の採用が提唱され、議論されるとき、科学者の (科学者として責任ある) 関与には、そのときどきの科学知の限界にかんする自己批判的認識がともなわなければならない。そのさい、当の目的の提唱者ばかりか、その目的を受け入れて手段を考案する技術者も、ともすると目的の価値に目を奪われ、ひたすらその達成を焦ることもあろう。そうなると、①手段の適合度の検証はともかく、②随伴結果の予測にかけては、そのときどきの科学知の限界内における、あるいはそれを一歩越える――「想定外の」――不具合や事故、これにともなう犠牲の発生を、とかく看過、軽視しがちであろう。そのとき、科学者(あるいは、技術者が科学者と同一人のばあいには、科学者としての技術者)には、さればこそ科学知の限界をむしろそれだけ鋭く意識し、(「限界内」の確かな予測の域を越えても)不具合や事故の可能性を予想し、ばあいによっては警告を発する責任が生ずる。科学者は、科学知の限界を越えて、「希望的観測」や「楽観的想定」を語り、「科学迷信」に陥って、自他を誤らせてはならない。

四、「議論の場」の必要と意義

他方、科学者は、目的達成と犠牲との相互秤量にあたって、他の科学者、技術者、目的提唱者、さらには事故のばあいには「犠牲」がおよびうる関係者とも、議論を重ねることができようし、各人の観点の制約 (人間として不可避の一面性) を考慮すれば、そうすることがぜひとも必要であろう。ヴェーバーが「客観性論文」をいわば綱領文書として、『社会科学・社会政策論叢』の編集に携わったのも、そういう開かれた「議論の場」を、公衆に提供しようと意図したからではないか。

そのさい、議論への参加者のうち、(当の技術の現場の操作者・運転員を含めて)「犠牲」がおよびうる関係者は、なるほど、関連領域に精通した「専門家」ではないかもしれない。しかし、そうした関係者は、技術の現場ないし近辺にいて、不具合や事故が発生すれば、その被害を(「犠牲」がおよび難い目的提唱者や設計技術者に比して)もろに身に受けるから、それだけ敏感に、事故の可能性にかんする仮説を直観的に孕むことができよう。その厳密な検証は科学者に委ねる――ばあいによっては、科学者と共にする――ことをとおして、実質上「科学知の限界」の拡張に寄与するパートナーともなりえよう。

五、通常技術と特異技術

ところで、そうした相互秤量の内容は、個々のばあいに応じて多種多様であろう。しかしこのさい、ふたつのケースを「理念型」として区別する必要があろう。ひとつは、事故が起きる公算ないし客観的可能性は確かにあるけれども、それによる犠牲は限定されていて、目的達成のメリットをそれほど棄損しない、というばあいである(通常技術)。あるいは、ある薬の副作用が大きいことは分かっていても、そのままでは生命が危ういので、副作用は甘受しても薬を服用する、というばあいもあろう。こうした類型にかぎれば、当の技術を採用して事故ないし副作用による犠牲が生ずるとしても、そのつど発生原因を特定し、対策を立て、再発を予防して、技術としての完成度を一歩一歩高めていくことができよう。それが、科学の権能にかなうと同時に、健全な人間常識にもとづく選択であろう。

ところが、いまひとつ、なるほど事故による犠牲の確率は低い――できるかぎりの予防措置によって、できるかぎり低く抑えられる――としても、科学知の限界から、事故が起きない保証はなく万一事故が起きれば、犠牲は甚大で、取返しがつかず、目的達成の価値を棄損してあまりある、というばあいもあろう。また、事故が起きて「急性のakut犠牲」が生ずることはなくとも、常時、有害で危険な副産物や廃棄物が排出され、処理されずに (あるいは「処理」「再処理」されても、危険なまま) 集積され、そうしたいわば「慢性のchronisch犠牲」が、後続世代に先送りされることもあろう(こうした類型をひとまず、「通常技術」にたいして「特異技術」と呼んでおく)。

このばあい、科学者は、(急性と慢性)両様の犠牲が広範囲で甚大と予測されれば、当の「特異技術」の採用による目的達成のメリットがいかに大きく見積もられていようとも、万一の事故を考え、翻って当の目的の意義について反省し、その当否を問うことができよう。ここで、科学の権能③が引き受けられ、活用される。そして、そうした問い返しにもとづいて、ばあいによっては、当の技術の採用を見合わせ目的達成そのものを断念することが、科学の権能にかない、健全な人間常識にとっても妥当な判断となり、選択ともなろう。

六、特異技術としての原発

とすれば、昨年の福島第一原子力発電所の事故以来、問題とされているのは、この類型の「特異技術」であるといえよう。そしていま、通常技術と特異技術とを範疇的に区別することが喫緊と思われる。というのも、(ここで、この問題にたいする筆者自身の態度決定を表明することになるが) 万一事故が起きれば取返しがつかず、廃棄物処理の見通しもない、という原発技術の特異性を看過し、他の通常技術と同様に考え、「事故は深刻に受け止め、その教訓を学んで『前向きに』安全対策に活かそう」という (一見もっともでも、特異技術には通用しない) 一般的な建前を掲げて、原発の存続そのものは容認する方向に、議論が流される恐れなしとしないからである。

とはいえ、もとより、「そもそも今回の事故がなぜ起きたのか、安全管理のどこに不備があったのか」と問い、具体的に検証を重ねて、「同じ轍を踏まない」ように対策を立てること自体は、そのかぎり必要かつ重要であろう。しかしそれには、つぎの前提を置くことが不可欠と思われる。すなわち、「今回なぜ、メルトダウン (炉心の溶融-沈下) と水素爆発で止まって、圧力容器-格納容器の破裂と炉心の暴走にいたらなかったのか。そうなる公算、およびそのばあいに生じうる犠牲は、どのくらいだったのか」という最悪事態の想定と予測を避けないこと、「メルトダウン止まり」をあたかも不動の与件であるかのように思いなして「安心」し(余人を「安心させ」)、今回の事故と「同じ轍は踏まない」対策だけで「よし」とし、原発の再稼働と存続は認める方向に誘導されないこと、安全対策はもっぱら、原発の廃絶を前提とし、全廃炉にいたる工程の安全確保に限定すること、これである。

さて、ヴェーバーの科学論は、技術にたいするこうした否定的・批判的関係も、射程に収めていたと思われる。なるほど、かれの時代の技術は、原子核の分裂ないし融合にともなうエネルギーの解放によって、戦争利用では目的意識的に、平和利用では随伴結果として、未曾有の破壊と災害を(急性ないし慢性に)もたらし、「人間の創始した技術が翻って人間を滅ぼしうる」段階には到達していなかった。したがって、かれ自身は、主として「通常技術」を考え、「特異技術」という系を明示的に論じてはいない。しかし、科学知の限界を自覚しつつ随伴結果を予測する責任の要請を、技術発展のこの段階で受け止めるならば、ただちにこの「特異技術」という系が、ひとまずは理念型として導き出されよう。

七、「合理化」と「職業としての学問」

他方、ヴェーバーにおいて、技術と科学とのこうした緊張関係は、技術(効率)と科学(真理)との間だけではなく、目的提唱の背後にある経済(富)や政治(権力)との間にも、「価値秩序の(神々の)闘争」として見据えられ、そうした「神々の争い」が、普遍的合理化」の一環として捉え返されていた。このばあい、「合理化」とは、科学・技術・経済・政治・芸術・性愛・宗教といった生活領域の「固有価値」と「固有法則性」が、それぞれ知的に認識され(「主知化」)、「ratio (合理的計算)」にしたがってそれぞれ専一的・集中的・「目的合理的」に追求される――「社会的分化-専門化」の――結果、「価値秩序(の神々)」も引き裂かれて、互いに争い、(狭間に身を置く人間に)緊張をもたらす事態である。

また、「合理化」は、各生活領域の「固有価値」をその「固有法則性」に即してそれぞれ専一的・集中的・持続的に追求する「専門家」(芸術家・宗教者などを含む広義の「専門家」)と、そうした「経営Betrieb」(持続的目的追求という広義の「経営」)の所産に適応し、その価値を享受する大衆ないし公衆との距離を拡大してやまない。科学と技術に焦点を絞れば、科学的原理の「発見」は、「発明」として技術的に応用され、その結果、さまざまな日用財が製造され、普及する。ところが、そうした所産を「富」として享受し、諸財を日常的に利用する大衆ないし公衆は、そうした発展と「富」の増大・多様化につれて、諸財の設計と製造のさいには基礎とされた合理的原理から、ますます疎隔されざるをえない。ただ、そうした財の、人工物としての機能は「予測によって制御できる」と信じているにすぎない。したがって、なにかの機能不全によって予測が外れ、信頼が崩れると、自分ではどうしようもなく、困惑して「パニック」に陥りかねない。「合理化」された世界に生きる「文明人」は、自分の生活条件を経験的に熟知している「原始人」に比して、自分の生活条件については無知かつ不安定であり、「目的合理的」に振る舞うとはかぎらない(海老原明夫・中野敏男訳『理解社会学のカテゴリー』1990、未來社、pp. 120-25、参照)。

カール・マンハイムは、ヴェーバーの「合理化」論を、後にナチスが台頭する状況で受け止め、敷衍し、展開したが、かれによれば、社会の「機能的合理化」は、個人の「実質的合理性」(マンハイムのばあいは、「所与の状況において事件の相関関係をみずから洞察して知的に行為する能力」に限定)を高めるとはかぎらない。むしろ、個々人は、みずから「実質的合理性」を発揮して混迷から脱し、機能-信頼体系を再建していく方向に向かうのではなく、そうした模索と選択を「重荷」と感じ、これを「肩代わり」してくれそうなカリスマ的リーダーを待望し、歓呼して迎え入れかねない(福武直訳『変革(再建)期における人間と社会』1953、みすず書房、参照)。

ヴェーバーが、いまから一世紀近く前に、科学の権能を明らかにしながら「職業としての学問」を説いたとき、その「職業Beruf」には、普遍的「合理化」というこの全社会的条件のもとで、大衆ないし公衆に委ねきることはできない――したがって「民主・自主・公開」の三原則によって担保され、おのずと解決されるわけではない――三権能の活用と技術批判が、「専門家」としての科学者の「使命Mission」として――したがって、「職業科学者」か「市民科学者」かの区別には、ひとまずかかわりなく――要請されていたのではないか。「客観性論文」や「職業としての学問」をとおして知られているかれの科学論は、原発事故発生以降の状況で、こうした関連で受け止められ、敷衍され、展開されよう。

なるほど、人文-社会科学者には、むしろ科学の権能③によって、原発技術の意義にかかわる諸問題――それが、いかなる文化史的背景のもとに、どこから来て、どこへ向かうのか、(かりにそれが「化石燃料の最後の一ツェントネルが燃え尽きる」まえに廃棄されるべきであるとすれば)人びとの価値観-ライフ・スタイルはいかに変えられ、産業-経済構造もいかに再編され、代替エネルギーがいかに調達されうるか、等々――に取り組み、それぞれ「専門家」として寄与することが、求められよう。本稿は、そうした取り組みの多様な展開を期待しつつ、議論の共通の出発点として、(人文-社会科学畑では比較的に馴染まれていると思われる)ヴェーバーの科学論から、原発事故にたいする態度決定の手掛かりとも立脚点ともなりうる周知の論点を、取り出して再確認したまでである。

むすび

本稿は、具体的には「ヴェーバー研究会21」(2012318日予定)への参集者を念頭に置いて、執筆された。いきなりヴェーバーの科学権能論から始め、教材としての利用も考えて長い引用を交えたのは、そのためである。

顧みると、1968-69年の全国大学闘争では、学生が教員に「学問のあり方」を問い、これに答えて (院生・助手を含む)「専門的」研究者が、「職業科学者」あるいは「市民科学者」として、さまざまな社会運動にかかわり、そのなかから反原発運動に取り組む人びとも現われた。ところがいま、「大学ムラ」は無風状態に見える。こんどは教員が学生に、「学問のあり方」を問い、大学を「議論の場」にしていくことが、求められているのではあるまいか。(2012211日記)


羽入-折原論争の展開  [1] [2] [3]