Nakano Takamitsu

Charles Taylor's Communitarianism

中野剛充著『テイラーのコミュニタリアニズム 自己・共同体・近代』

勁草書房、2007年1月刊行

「もうひとつの西欧近代」を提示する、チャールズ・テイラーの公共哲学。ロールズ『正義論』に代表される現代リベラリズムを批判し、新たな民主主義を構想するコミュニタリアン、アイザイア・バーリンの正統な継承者にして批判者、そして英語圏で最も著名なヘーゲル学者--「深い多様性を思考しながら生きる」哲学者の全体像。(帯表書き)

「とりわけ私が発展させてみたいと思うのは、これまでテイラーが注目されてきた二つの論争、すなわち、「リベラル-コミュニタリアン論争」と「多文化主義論争」におけるテイラーの立場の哲学的含意についてである。テイラー哲学の内在的な検討を通じて、この二つの論争に新たな地平をもたらすこと、そしてコミュニタリアニズム思想の現代的な意義を考えること、これが本書の企てに他ならない。(序論より)」(帯前書き)

まえがき

中野剛充著『テイラーのコミュニタリアニズム 自己・共同体・近代』

勁草書房、2007年1月刊行

まえがき

チャールズ・テイラー(Charles Taylor)とは誰なのだろうか?この答えを知っている方はこの「まえがき」をとばして、序論から読んでいただきたい。しかし多くの人は、たとえば「コミュニタリアンの一人」といった観点からのみ、彼のことを知っているのではないだろうか。「コミュニタリアン」は彼を理解する一つのキーワードであることを認めざるをえないし、本著のタイトルを、「テイラーのコミュニタリアニズム」としたのも、そこが一番の理由になっている。しかしその他にも、例えば「多文化主義者」や「(分析)哲学者」、「ヘーゲル研究者」あるいは「カソリック社会主義者」としてのみ彼を理解している人が大勢いるのだ。

 これは日本語圏だけの話ではない。英語圏でも学者がそれぞれ、ある分野の研究者として、その分野の視点から、彼のことを「多文化主義者」や「ヘーゲル研究者」として理解しているケースがほとんどである。しかしいったい「チャールズ・テイラーとは誰なのか」と問うならば、彼はきわめて多面的で、領域横断的な思想家であることがみえてくる。その証拠に、これまでに発表された彼の思想に関する研究書は私が知るかぎり全部で4冊あるが、いずれもメインタイトルは彼の名前そのままの『Charles Taylor』となっている。これはつまり、彼の思想と経歴が、一言で言い表すことができないほど多様であることを意味しているのではないだろうか。

その中の一冊のサブタイトルには「深い多様性を思考しながら生きる(thinking and living deep diversity)」と記されているものがある。「深い多様性を思考しながら生きる」テイラーとは、どういうことであろうか?これはたんに彼が、プロテスタント・英語系が圧倒的な北米大陸で、カソリックの(フランス語圏である)ケベック人(事実彼は、イギリス系の父とフランス系の母の元に生まれている)として生きているということにとどまらないであろう。また、彼が世界においてもまれに見るほど多文化化が進んでいるカナダに生まれ、思想伝統において「大陸哲学」と「英米(分析)哲学」のあいだで思考している、ということだけでもないだろう。「深い多様性を思考しながら生きる」ことの意味を、テイラーの半生を簡単に追いながら、少し読み解いてみよう。

1931年カナダ・ケベック州生まれのテイラーは、ケベック州モントリオールにあるマギル大学を卒業した後(1952)、イギリス・オックスフォード大学に学び、マルクス主義と実存主義に関する博士論文を書いて博士号を取得した(1961)。オックスフォード在学中から、イギリス「ニュー・レフト」運動の創始者の一人として活動し、彼はそこで、ソ連型社会主義とは別の形の「ヒューマニスティック」な社会主義のあり方を模索していた。後にいわゆる「カルチュラル・スタデーズ」のリーダーとなるスチュアート・ホールらとともに、雑誌『ユニヴァーシティーズ・アンド・レフト・レビュー』を立ち上げたりもしている。この雑誌はその後、E.P.トムソンやA・マッキンタイアらの雑誌『ニュー・リーズナー』と合併して、『ニュー・レフト・レビュー』となり、テイラーはその初代編集者の一人となっている。またテイラーは、イギリスのニュー・レフトにはじめてマルクスの『経済学・哲学草稿』を持ち込んで、「ヒューマニスティックな社会主義」の可能性を一歩進めた人物としても知られる(ちなみにこのころ、テイラーはハンガリーの非合法地下大学の援助なども行っていた)。

他方でテイラーは、オックスフォード大学でアイザイア・バーリンと出会い、生涯にわたる交友関係を築いていった。テイラーはバーリンの下で学び、その後は、バーリンの思想の最も正当な継承者にして最大の批判者の一人となったのである(第三章第二節)。

カナダに帰国したテイラーは、カナダのマギル大学で教鞭をとりつつ、カナダ・ケベックの「政治家」としても活動を始めている。テイラーは、1960年代以降、カナダの民主主義的社会主義政党であるNDP(新民主党)から4度にわたって立候補し、一度は自由党から長く(1968-84の間に16年間にわたって)首相を務めた現代カナダを最も象徴する政治家といわれたピエール・トルドーと同じstar candidateとして議席を争ったこともある。4度とも落選したものの、NDPの副党首まで務めた。

その後、次第にアカデミックな活動に重点を置くようになったテイラーは、最初の著作『行動の説明』(1964)以来、徹底した自然主義(naturalism)批判者として、多くの著作と論文を著していった。1960年代から1980年代にかけて、テイラーは、人文・社会科学を自然科学に還元しようとする当時の潮流――彼が自然主義と呼ぶもの――を批判して、「自己解釈(self-interpretation)」的存在としての「人間行為者(human agency)」を考察の対象とすべきことを訴えている(第一章、第二章)。

1980年代以前のテイラーの業績で最も定評があるのは、いわゆる大陸哲学と英米(分析)哲学を架橋する仕事であろう。彼は、ヘーゲル、ハイデガー、ガダマー、メルロ・ポンティといったヨーロッパ哲学の伝統を背景に、狭義には分析哲学、広義には人文・社会科学全体を対象としつつ、そこに解釈学的な方法論を導入し、また独自のヘルダー解釈やウィトゲンシュタイン解釈に基づいて、人間と言語の(決して「道具的」ではありえない)本質的な関係性を解明していった。こうしたテイラーの研究は、『科学革命の構造』のトーマス・クーン、『文化の解釈学』のクリフォード・ギアーツ、『哲学と自然の鏡』のリチャード・ローティ、『コンピューターには何ができないか』のヒューバート・ドレイファスといった英語圏を代表する哲学者たちに、少なからず影響を与えたといわれている。

またテイラーは、英語圏では最高のヘーゲル研究者の一人としても知られている(第四章第一節)。1975年の大著『ヘーゲル』、および1979年にその一部を要約した『ヘーゲルと近代社会』の刊行は、それまでのカール・ポパーやシドニー・フックらによる偏狭なヘーゲル理解を、英語圏から一掃したといっても過言ではないだろう。テイラーは、ポスト・マルクス時代における哲学の可能性を提示する人物としてのヘーゲル、あるいは、西欧近代の最大の倫理的課題である「啓蒙主義とロマン主義のコンフリクト」を止揚した人物としてのヘーゲルという、新しいヘーゲル像を提示したのであった。

1980年代になると、テイラーはいわゆる「西欧近代」の問題にとりかかりはじめる。この時期には、他にも例えば、ハーバーマスやフーコーやマッキンタイアなどの思想家が同じ問題に取り組んでいるが、テイラーの立場は、「西欧近代」を全否定するのでも全肯定するのでもなく、そこに隠されたいくつかの善を「分節化(articulation)」することによって、主としてポスト・ロマン主義的な道徳性に、西欧近代の「救済」の道を見出そうとするものであった(第五章)。大著『自己の諸源泉』(1989年刊、現在までの主著と見なされている)や、その一部を発展させた小著『真正さの倫理』(1991年)は、この時期の代表作である。

また同じく1980年代から、テイラーはいわゆる「コミュニタリアニズム」の代表的論客の一人として、大きな注目を集めるようになる(第四章)。70年代から80年代にかけて、英語圏においてはジョン・ロールズの『正義論』(1971年)が脚光を浴び、政治学・経済学・哲学・倫理学といった領域に「ロールズ産業」が構築されたとまで言われていた。これに対してテイラーは、ロールズの『正義論』に代表される現代リベラリズムの偏狭な自己概念や政府の中立性の概念を批判し、「トクヴィル主義者」として、民主主義的コミュニタリアニズムの理念を対置したのであった。テイラーの思想は、アミタイ・エッツィオーニらに継承され、アメリカ合衆国では「応答するコミュニタリアン運動」として大きな勢力を形成していく。そして彼らのコミュニタリアニズムは、ビル・クリントン前大統領やアル・ゴア前副大統領といった「ニュー・デモクラッツ」たちに、少なからず政治的影響を与えたといわれている。

1990年代になると、テイラーは『多文化主義と「承認の政治」』(1992=1995)を発表して、「多文化主義」論争の中心的な人物として注目を浴びる(第四章)。この論文その他によって、テイラーは、現代における人間のアイデンティティと「承認(recognition)」の本質的な関係性を明らかにし、1990年代のケベック危機(1995年の州民投票においては、50.5%対49.4%の僅差で、カナダからのケベック分離・独立が否決されている)に対して真摯な政治的・文化的な提言をおこなった。テイラーはこのとき、一方では偏狭なケベック・ナショナリズムを批判しつつ、他方では個人の権利を絶対視する連邦(憲章)主義を否定して、多様なアイデンティティを生き、かつ承認するという、「深い多様性(deep diversity)」の理念を訴えたのであった。

近年のテイラーは、宗教、とくにキリスト教とカソリックの問題を正面から取り扱うようになっている。批判者たちは、テイラーの思想のカソリック的な側面(例えば目的論的な性格など)を批判するが、個人の信仰としてのカソリシズムはともかく(彼は前ローマ法王ヨハネ・パウロ二世とも深い親交があった)、彼の思想全体を「カソリック」の観点から理解することはやはり難しいであろう。ただし近年、テイラーにとって、カソリックや宗教そのものの現代世界における意味や役割が大きなテーマになりつつあり、現在(2006年9月)執筆中と言われる大著も、その方向性で議論が展開されるものと思われる。

このようにテイラーは、まさに自身の生と思考において、深い多様性を生きてきた人物であった。その多様性の内実については、本論で詳しく検討していきたい。最後に、ナンシー・フレイザーが「9.11は『承認の政治』である」と述べているように、テイラーが提起した「アイデンティティと承認」の問題や、現代世界と宗教の関係、そして彼が近代の本質的な問題とする「諸々の善の和解(reconciliation)」の問題は、今後も21世紀全体を覆う大きな問題となることは予想するに難くない。こういった意味においても、テイラーの思想は、これからも注意深く読みこむ価値があるように思われる。


目次


中野剛充著『テイラーのコミュニタリアニズム 自己・共同体・近代』

勁草書房、2007年1月刊行


目次

まえがき


序 論 二つの論争とテイラーの社会哲学…1


第一章 テイラーの自己論…11

第一節 強い評価…13

第二節 自己解釈…15

第三節 責任主体としての自己…20

第四節 「真正さ(authenticity)」の個人主義…24


第二章 テイラーの社会-存在論…33

第一節 道徳的空間の中での自己…33

第二節 表現-構成的言語論…42

第三節 対話的自己とアイデンティティの承認…51


第三章 ヘーゲルとバーリン…59

第一節 テイラーのヘーゲル論…61

第二節 バーリンとの対決…66

第三節 諸価値の多元性とその可能性…76


第四章 テイラーの政治論…79

第一節 近代の不安・民主主義・断片化…82

第二節 共和主義・市民社会と公共圏…88

第三節 多文化主義・ケベック…93

第四節 深い多様性…102


第五章 テイラーの近代論…109

第一節 善・倫理学批判・分節化…110

第二節 歴史的物語(1):内面化と深み…115

第三節 歴史的物語(2):ロマン主義とエピファニー…122


結 論 テイラー哲学の可能性…137

第一節 テイラーへの三つの外在的批判…137

第二節 二つの中心的問題について…143


補 論 リベラル-コミュニタリアン論争の「政治的転回」 ロールズとサンデル…155

第一節 はじめに…155

第二節 ロールズ『正義論』の二つの意義…156

第三節 サンデルのロールズ批判とロールズの応答:哲学から政治へ…160

第四節 サンデルの再批判と「政治的転回」の差異…160

第五節 政治的転回がもたらした諸問題…168

第六節 おわりに…175


あとがき

参考文献/索引


あとがき

中野剛充『テイラーのコミュニタリアニズム 自己・共同体・近代』

勁草書房、2007年1月刊行

あとがき

 この「あとがき」において、何よりまずも述べなくてはならないのは、本著が私個人のみの研究の成果では決してなく、橋本努先生と坂口緑先生を中心に、東京大学大学院で関心を同じくする仲間とともに始めたテイラー研究会の共同研究の成果に他ならない点である。すでに10年以上も継続しているこのテイラー研究会では、両先生をはじめとするメンバーとともに、テイラーの論文集Philosophical PapersⅠおよびⅡやPhilosophical Argumentの一部ずつを、あるいはSources of the Selfの一章ずつを,まさにしらみつぶしのごとくレジュメにし、徹底的な議論を行った。ここでの議論と交流が、私の指導教官である山脇直司先生のご指導と共に、私を一個の社会思想研究者に育てあげてくださっている。その意味で、この研究は先に挙げた三人の方々とテイラー研究会に関わったすべてのメンバーを加えた、一個のコミュニティの成果そのものである、と私は考えている。そして私は、このコミュニティが、公私にわたって私の人生を導いていただいたことに、いくら感謝してもしきれないと思っている。このコミュニティの成果として本著の可能性や真価は全てこのコミュニティに帰属するものであり、限界や過ちはすべて私個人に帰属すべきものであることは、いうまでもない。

 次に私が本著を執筆したいと思った動機について述べたい。10年来私はあることに関して極めて歯がゆく感じていた。リベラル-コミュニタリアン論争についての議論や考察は、80年代中頃から90年代中頃にかけて世界的に最もホットなイシューとして大々的に展開され、日本においても例えば井上達夫先生の『他者への自由』(創文社)や菊池理夫先生の『現代コミュニタリアニズムと第三の道』(風行社)のように、極めて先駆的かつシャープな研究が多く発表されている。にも関わらず、少し単純化して言えば、日本だけではなく世界的にもコミュニタリアニズムを単に「ロールズ正義論がコミュニティの価値を重視していないと批判する思想」としてしかその本質を理解していない議論が大半を占めているように思われたのである。そのようないわば矮小化されたコミュニタリアニズム理解ではなく、特にテイラーに典型的なように、そのコミュニタリアニズムが単なるロールズ批判にとどまらず、「西欧近代(の倫理性)」そのものに対して、全く新しいオルタナティブを提示する思想、あるいはリアル・ポリティックスにおいても通用する新しい公共哲学を構築する思想であることを世に知らしめるような議論こそ展開されなければならない、と私は痛切に感じてきた。そしてそのためには、極めて多岐にわたるテイラーの思想の一部分だけに焦点をあてて論じるのではなく、それを一度トータルに考察する必要があると感じたのであった。本著をテイラーの思想、あるいはコミュニタリアニズムをまがりなりにもトータルな形で提示したものとして、その真の可能性や限界を読み取っていただければ幸いである、と私は考えている。

 また私の今後の研究の方向性について簡単に述べさせていただきたい。本著は補論を除いて、テイラーの思想、テイラーのコミュニタリアニズムに限定した研究である。しかし、いわゆる「コミュニタリアン」と言われている人々は、テイラー以外にも、アラスデア・マッキンタイア、マイケル・サンデル、マイケル・ウォルツァー、ロバート・ベラー、アミタイ・エッツィオーニ、ベンジャミン・バーバー、ロバート・パットナム…など多数に及ぶ。彼らはそれぞれ極めてユニークかつオリジナルな議論を展開しているのだが、英語圏においてすら、彼ら一人一人の思想についてのトータルな研究をしたものは極めて少なく、さらには彼らの思想をある種の共通性をもった「コミュニタリアニズム」として提示したものは、ほとんど皆無に近いといっていいのが現状である。リベラル-コミュニタリアン論争はすでに80年代に終わった、などと言うのは単純な過ちであり、私はむしろコミュニタリアニズムは21世紀にこそ緊急に必要な思想であると考えている。彼らの思想を一人一人研究するだけでも極めて困難であるのに、それらを統合してある種の実体性と無限の可能性を兼ね備えた思想として「コミュニタリアニズム」を構築するのは、気の遠くなるような仕事ではあるが、私はこの仕事にこれから全力で向かってゆきたいと考えている。

 最後に、上記以外に私が大学生時代から大学院をへて現在にいたるまで特にお世話になった方々(以下順不同)、似田貝香門先生、森政稔先生、柴田寿子先生、斉藤直子先生、門脇俊介先生、井上達夫先生、佐藤俊樹先生、松原隆一郎先生、小林正弥先生、田中智彦先生、関谷昇先生、チャールズ・テイラー先生、マイケル・サンデル先生、辻英史氏、瀬田浩二郎氏、祖父(故)高井常雄、祖母高井みつよ、叔父高井保秀、叔母高井留美子、そして文章の書き方から議論の構成に至るまで懇切丁寧にアドバイスいただいた剄草書房徳田慎一郎氏、さらにこの小論を最後まで読んでいただいた方々に感謝して、この議論を終わりにしたい。


書評

中野剛充著『テイラーのコミュニタリアニズム 自己・共同体・近代』

勁草書房、2007年1月刊行

書評

■朝日新聞2007年03月18日

共有する善を多元的に追求

 グローバル化の進展にともなって、近年、国家と市場のあいだに共同性を再構築する必要を唱える論調が目立つ。そのなかで、主として英米圏でコミュニタリアニズム(共同体主義)と呼ばれる政治思想が、日本の論壇でも注目を集めるようになってきた。

 本書は、コミュニタリアニズムの主要な論客のひとりであるカナダの政治哲学者チャールズ・テイラーの思想を包括的に論じた本邦初の作品である。

 コミュニタリアンは一般に、個人の権利に対して、コミュニティーが共有する善や価値観を重視する。その上で、著者がテイラーに固有の洞察とするのは、その共通善が単一のものではなく、本質的に多元的なものと捉(とら)えるところである。伝統的にリベラリストは、この諸善の多元性ゆえに、消極的自由(他人に妨げられない自由)の擁護に立てこもってきたが、テイラーは、多元的な諸善間の和解可能性を創造的に追求するところにこそ人間の自由があると主張するのだという。

 テイラーは、カナダ・ケベック州の独立問題に関しても「深い多様性」を承認する方向での連邦制維持を主張している。生きた思想の緊張感が伝わる好著である。

 山下範久(北海道大学助教授・歴史社会学)


追悼

追悼 中野剛充

 中野剛充さんは、1971年7月1日生まれであり、2013年9月8日(推定)まで、42年間の人生を送られました。ここに、謹んでご冥福をお祈りします。

 1995年以来、私は中野さんと「チャールズ・テイラー研究会」を通じて、親睦を深めてきました。濃密な学問的議論を重ねてきました。中野さんは、まだこれからのご活躍が期待されていました。すぐれた思想的才能と実践意志をもった、畏友であります。早くにしてこの世を去られたことを、とても残念に思います。

 振り返ると、テイラーがつないでくれた交流でした。テイラーに感謝しつつ、私は中野さんの分まで、思想の課題を背負いたいと思います。


中野剛充 (2000年、ニューヨーク)