Max Weber

Max Weber

The Debate in Japan


マックス・ウェーバーとは誰か。

「ウェーバー  近代合理主義と対決する社会学の始祖

『シリーズStart Line2 子犬に語る社会学・入門』洋泉社2003.10. pp.125-126.

「ウェーバー 近代合理主義と対決する社会学の始祖」


『シリーズStart Line2 子犬に語る社会学・入門』

洋泉社2003.10. pp.125-126.

橋本努

(Max Weber 1864-1920)


 かつて哲学者ヤスパースはウェーバーのことを、「われわれの時代における躓(つまず)きの、もっとも豊かな、もっとも深い経験者」であると語ったことがある。わずか56歳でこの世を去ったウェーバーが生前に公刊した著作は多くない。にもかかわらずそのカリスマ的な発言力と行動力とから、ウェーバーは一つの生き方のモデルとして、その当時も現在も人々を魅了しつづけている。例えば最も広く読まれている『職業としての学問』および『職業としての政治』(共に岩波文庫)を読むと、その理由が分かるだろう。この二冊は講演を起こしたものであるが、人生いかに生きるべきかという大問題に応じた珠玉の小品だ。「社会は堪えがたい矛盾に満ちているけれども、責任意識と覚めた理性を持って逞しく生きろよ」――ウェーバーはこう私たちに訴えかけてくる。

 幼い頃からひ弱だったウェーバーは、しかし大学時代には、精力的に諸学を勉強するかたわら、毎朝一時間フェンシングの稽古をしたり、学生組合仲間との付き合いでは決闘をして頬に傷を負ったりと、キャンパス・ライフを大いに楽しんでいた。1886年には司法官試補の試験に合格、1889年に論文「中世商事会社の歴史」で法学博士号を取得、1891年に教授資格論文「ローマ農業史」を提出すると、1894年にわずか30歳でフライブルク大学教授に就任する。翌年行った就任演説「国民国家と経済政策」はとくに有名で、ウェーバーは自ら手がけた調査を元に、ポーランドからの季節労働者を制限することがドイツ国民の気高さを示す国策としてふさわしい、と主張している。

 1896年にハイデルベルク大学に移ると、ウェーバーはこの年に権威主義的な父親と大喧嘩をしてしまう。激論の末、父親は息子に批判されたことがショックで旅に出るが客死、ウェーバー本人は精神的な疾患を患うことになる。その後ウェーバーは療養生活を余儀なくされ、1903年には大学を正式に退職している。

 しかし1904年には重要な二つの論文、「社会科学および社会政策的認識の『客観性』」および「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(略して「プロ倫」)の前半が公刊される(後半は翌年に出版)。ここで「客観性」とは、ある特定の観点の自覚とともに構成される思考と論述の一貫性、として定義されるものであり、当時としては斬新な主張であった。また、名高い論文「プロ倫」においては、カルヴィニズム以降のプロテスタントたちの自己救済行為、すなわち天職への奉仕と禁欲というものが、歴史的にはその意図せざる結果として、中産階級の勤勉精神や、徹底した利潤追求と簡素な生活に基づく資本蓄積をもたらした、と論じられる。つまり資本主義は、人々の欲望が増大したことによってではなく、禁欲的な人たちの信仰から生じた、というわけである。もっともウェーバーのみるところ、現代の資本主義は、もはや資本主義の精神たる「勤勉の美徳」を失っており、私たちはいわば「鉄の檻」のなかで、「精神なき専門人、心情なき享楽人」として生きる無価値な人間にすぎないという。これはかなり痛烈な批判だ。

 ウェーバーはその後、病を多少患うこともあったが精力的な活動をつづける。その研究全体を見渡すならば、二つの主要業績がある。一つは『宗教社会学論集』であり、この中から『プロ倫』のほか、『古代ユダヤ教』『宗教社会学論選』『儒教と道教』『ヒンドゥー教と仏教』などが邦訳単行本化されている。もう一つは大著『経済と社会』であり、これには『社会学の基礎概念』『支配の諸類型』『法社会学』『支配の社会学I, II』『宗教社会学』『都市の類型学』などが含まれる。この他に『学問論集』は、社会学の近代科学化に貢献した驚異の達成である(邦訳では『社会科学の方法』などを参照)。ウェーバーを貫いている基本姿勢は、近代合理主義の特徴を多角的に捉えながら、時代を背負ってこれと対決する、という点にあるだろう。社会学の始祖にして独創的な理論体系を築いたその豊富な知見は、いまだ乗りこえがたい学問的地平を築いている。


「ウェーバー」『現代倫理学事典』弘文堂2006

「ウェーバー」

(マックス・ヴェーバー)

[英/独] Max Weber 1864-1920

執筆・橋本努

『現代倫理学事典』弘文堂2006、項目


 父マックス・ウェーバー(1836-1897) は、亜麻布を商う豪商の家系の出身、市の助役を経て国民自由党議員(1872-84)となる。母ヘレーネ(1844-1919)は、フランスから亡命したユグノーの血を引く中産市民で、禁欲的なプロテスタント。厳格な精神生活のもとに、六人の子女を育てる。長男のウェーバーは、幼い頃から公明な学者や政治家と議論する機会に恵まれて、13歳でドイツ史に関する論文を書き、ギムナジウム期にはゲーテ全集を読破したりと、早熟な才能を見せた。幼少期には、脳脊髄膜炎の影響で虚弱対質であったが、大学生になると、毎朝一時間フェンシングの稽古をしたり、学生組合仲間との付き合いでは決闘をして頬に傷を負ったりと学生生活を大いに楽しむ。また大学生時代には、ハイデルベルク大学でドイツ歴史学派経済学を学び、ベルリン大学ではギールケ(Otto von Gierke)、トライチュケ(Heinrich Gotthard von Treitschke)、グナイスト(Heinrich Rudolf Hermann Friedrich von Gneist)、ゴルトシュミット(Rudolf K. Goldschmit-Jentner)、モムゼン(Theodor Mommsen)などに学んでいる。

 1886年、司法官試補の試験に合格、大学卒業後は司法官試補として裁判所に勤務しつつ、1889年、ベルリン大学において、近代の株式企業の発生を中世の商事会社に辿り跡付けた論文「中世商事会社の歴史について」によって法学博士号を取得、さらに1891年には、論文「ローマ農業史の公法的・私法的意義」によって教授資格を取得し、翌1892年には委嘱の膨大な調査報告「ドイツ・エルベ川以東における農業労働者事情」を書き上げる。教授資格論文では、ローマの没落過程を農業の発展とその共同体的形態の解体という側面から論じ、調査報告では、エルベ川以東の地域における経済構造の実態が他の地域と異なることを分析している。

 1893年にマリアンネと結婚、そして1894年にはわずか30歳でフライブルク大学教授に就任。その就任講演「国民国家と経済政策」では、ドイツ国民の気質の衰弱化と老化を避けるために、幸福主義的な経済目標の追求よりも、政治権力的な気高さと国民国家統合の強化を目標とすべきであると主張した。その2年後の1896年にはハイデルベルク大学に移り、当時問題になっていた取引所の改定問題をめぐって、商慣習に対する一般的誤解を解くために『取引所』を執筆。ウェーバーはしかし、この年に権威主義的な父親と大喧嘩をする。激論の末、父親は息子に批判されたことがショックで旅に出るものの、スイスで客死。そしてウェーバー本人は、そのあまりに禁欲的な研究活動もたたって、1898年から約2年間、精神疾患を患うことになる。妻マリアンネとともに、ヨーロッパ各地を訪ねる療養生活が続く。

 1900年にジンメル(Georg Simmel)の大著『貨幣の哲学』が出版されると、ウェーバーはこれを読んで絶賛、自らの病状も回復の兆しが出て、1903年には歴史学方法論の革新的な研究『ロッシャーとクニース』の第一部を書き上げる。ところがウェーバーは、病状が全快することなく、大学を正式に辞職。以降は著作活動に専念して、翌1904年には重要な二つの論文、「社会科学および社会政策的認識の『客観性』」および「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(略して「プロ倫」)の前半を公刊している(後半は1905年に出版)。また1904年にはアメリカ合衆国を訪問、そして雑誌「社会科学・社会政策アルヒーフ」の編集をゾンバルト(Werner Sombart)とともに引きうける。1905年にロシア革命が起きると、短期間で語学を習得して革命の経過を追う。1909年、社会政策学会のウィーン大会では「価値自由」論争を展開、翌1910年におけるドイツ社会学会の設立に尽力する。1914年に第一次世界大戦が始まると、戦争に志願して予備陸軍病院委員会の任務に一年間携わる。しかし1918年にドイツが敗戦すると、皇帝の退位を主張、さらにドイツ民主党の政治に参加するが、民主党の比例代表制被選挙者名簿の上位掲載がならず、1919年、政治活動からの徹底を表明、有名な講演「職業としての政治」を講ずる。同年、ミュンヘン大学教授に就任し、社会経済史要論を講ずるが、翌1920年6月14日、肺炎のため急死する。

 ウェーバーの研究全体を見渡すならば、二つの主要業績がある。一つは『宗教社会学論集』であり、この中から『プロ倫』のほか、『古代ユダヤ教』『宗教社会学論選』『儒教と道教』『ヒンドゥー教と仏教』などが邦訳単行本化されている。もう一つは大著『経済と社会』であり、これには『社会学の基礎概念』『支配の諸類型』『法社会学』『支配の社会学I, II』『宗教社会学』『都市の類型学』などが含まれる。この他に、社会科学方法論に関する諸論文を集めた『学問論集』と政治評論を集めた『政治論集』がある。

 ウェーバーを貫いている基本姿勢は、近代合理主義の特徴を多角的に捉えながら、時代を背負ってこれと対決する、という点にある。社会学の始祖にして独創的な理論体系を築いたその豊富な知見は、いまだ乗りこえがたい学問的地平を築いている。


【関連項目】価値自由

【主要文献】マリアンネ・ウェーバー『マックス・ウェーバー』大久保和郎訳、みすず書房1987年. 安藤英治『ウェーバー紀行』岩波書店1972年、長部日出雄『二十世紀を見抜いた男:マックス・ヴェーバー物語』新潮社2004年.


「マックス・ウェーバーの祖父と母についてのメモ」200801

メモ「ウェーバーはグローバル経済の恩恵を受けていた――祖父の財産、母の精神」

橋本努200801


 マックス・ウェーバーの母ヘレーネは、ゲオルグ・フリードリッヒ・ファレンシュタインとエミリー・ソーケイのあいだに生まれた、四人娘の三女である。この二人のあいだには、他にも、二人の息子も生まれているが、はやくに亡くなった。

 ゲオルグ・ファレンシュタインは、マックス・ウェーバーの祖父。ゲオルグは、実は二度目の結婚でエミリーと結ばれた。1度目の結婚では、六人の子供に恵まれたものの、妻に先立たれた。二度目の結婚でも、ゲオルグは六人の子供に恵まれた。しかしゲオルグは1853年に死去し、残った妻エミリーと4人の娘は、相当な遺産を受け継いだ。

 ギュンター・ロースによれば、ゲオルグは、妻の父カール・ソーケイの築いた莫大な資産を受け継いでいる。カール・ソーケイは、「冒険資本家」のプロトタイプであり、家族経営によって、世界の諸地域に投資や投機をして儲けた。なかには、キューバにおける奴隷プランテーションの所有と経営も含まれている。カール・ソーケイの商売は、マンチェスター、リーズ、リバプール、ロンドン、フランクフルト、アムステルダム、アントワープ、ロシア、イタリア、アルゼンチン、そして東洋へと、世界の各地に拡大していた。

 ゲオルグの4人娘は、ヘレーネ以外、すべて「教養市民」と結婚している。長女のイダは歴史家のヘルマン・バウムガルテンと結婚、次女のヘンリエットは神学者のアドルフ・ハウスガースと結婚、四女のエミリーは地理学者のエルンスト・ウィルヘルム・ベネッケと結婚。これに対してマックス・ウェーバーの母ヘレーネは、商人の家系に生まれたMax Weber Sr. と結婚した。Max Weber Sr. は政治家になるが、しかし彼の父と祖父は、リネンの輸出会社を経営しており、弟Carl Davidはリネン機織工場を設立し、マリアンネ・ウェーバーに多くの遺産を残している。

 ウェーバーの母へレーネは、長女のイダとともに、母エミール・ソーケイの関心を共有し、イギリスの文献をよく読んだ。ウィリアム・エルリー・チャニングやテオドア・パーカーのような神学者(a union of liberal faith and reason の提唱者)、フレデリック・ウィリアム・ロバートソン、あるいは、キリスト教社会主義者のチャールズ・キングズレーやトーマス・カーライルらの著作である。この事実は、これまで厳格なカルヴィニストのとみなされてきたヘレーネのイメージを変えるように思われる。

 ロースに従えば、マックス・ウェーバーは、新たに生まれた国際的なブルジョアジーの子(scion)であった。ウェーバーは、グローバル的なブルジョアジーの成功という視点から、当時の帝国的なドイツにおける権威主義的ナショナリズムに代わりうる「リベラルな構想(構想力のあるリベラル)」を探った。しかもその理想は、ピューリタニズムの祖先にあたる「理念型的で合理的-方法的なイギリスのビジネスマン」に求められた、というわけである。マックス・ウェーバーは、自身の生活の下部構造において、マルチ・エスニックなグローバル経済のメンバーであることの恩恵を受けており、この下部構造が、ウェーバーの問題関心を規定している、と見ることができる。

 以上、ギュンター・ロース著『マックス・ウェーバーのドイツ-イギリス家族史1800-1950:手紙・文書付』に関する以下の紹介文献を参照した。Lutz Kaelber [2003] “How well do we know Max Weber after all? A new Look at Max Weber and his Anglo-German family connections,” in International Journal of Politics, Culture and Society, Vol. 17, No.2, winter.(本文献を紹介していただいた丸山尚士氏に感謝したい。)

日本マックス・ヴェーバー研究ポータル Max Weber study in Japan portal

ウェーバー著「中世合名・合資会社成立史」の日本語訳などを公開しているサイトです。


羽入-折原論争の展開 [1] [2] [3]


羽入辰郎著マックス・ヴェーバーの犯罪(ミネルヴァ書房、2002年)における問題提起を受けて、これに対する全面的な反論の書、折原浩ヴェーバー学のすすめ(未来社、2003年)が出版されました。本論争の射程は広く、ウェーバー研究者やウェーバー読者たち、あるいは広い意味での研究者たちにも応答を求めるものとなっています。ここでは私の応答を載せると同時に、皆様に本論争への応答を呼びかけています。また応答をいただいた方々の御論稿を掲載しています。

その後、本論争の一部は、加筆修正を経て書籍化されました。 橋本努・矢野善郎編『日本マックス・ウェーバー論争 「プロ倫」読解の現在』ナカニシヤ出版、2008年。

折原浩「学者の品位と責任――「歴史における個人の役割」再考」

『未来』2004.1. No.448, pp.1-7.


学者の品位と責任――「歴史における個人の役割」再考

『未来』2004年1月号1-7頁所収

折原 浩


 マックス・ヴェーバーが重い神経疾患に罹り、それまでは「自由」と感得されていたにちがいない職業中心の生活軌道から外れた一八九八年に、プレハーノフは、「歴史における個人の役割」を論じ、歴史的「必然」の認識が、必ずしも個人の意思を萎えさせて「無為主義」に陥れるわけではなく、かえって個人の精力的な実践活動を支える心理的基礎にもなると主張した。「必然」の認識が、個人の迷いを払拭し、決然たる行動に打って出ることを可能にするばかりか、「別様にはなしえない」との自覚のもとに、当の行動にためらいなく没頭しつづけることを保障するというのである。

 もとよりプレハーノフは、この主張によって、マルクス主義における歴史的「必然」の認識と個人の「自由な」実践との両立可能を説こうとした。この論点そのものにかぎれば、なにもプレハーノフにまで遡る必要はない。関心を惹かれるのはむしろ、かれが、こうしたテーゼを、きたるべきロシア・マルクス主義の発展を念頭に置いて提起し、しかもそれを、ピューリタンとイスラム教徒の歴史的類例によって裏付けようとした点である。かれは、ピューリタンについては「一七世紀のイギリスにおいて、その精力の点で、彼らにまさる党派は他になかった」と記し、イスラム教徒については「彼らは、短期間にインドからスペインにいたる地球の広大な地域をしたがえてしまった」と述べ、「宿命論[予定信仰]が、精力的な実践活動をかならずしもつねにさまたげなかったばかりか、その反対に、……そうした活動の心理的に必要な土台」(木原正雄訳『歴史における個人の役割』、一九五八年、岩波書店、一四ページ、傍点は原文、[  ]は引用者。以下、この書からの引用はノンブルのみ記す)ともなりえた歴史的例証と見る。しかも、ピューリタンについては、自分の父母であれ、夫であれ、子どもたちであれ、ひとたび神に見捨てられていると知ったら、「彼らを死ぬほどの憎しみで憎」み、「地獄におちるように願」うだろうとの、某皇妃のカルヴァン宛て書簡を引用し、「こういう感情をもっていた人びとは、なんとおそろしい破壊的な精力をしめすことができたことだろう!」(二二ページ)と、必ずしも否定的ではない感懐を吐露している。

 さて、ヴェーバー文献に通じている人は、同趣旨の書簡が「倫理」論文にも引用されている事実(梶山力訳/安藤英治編『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』第二刷、一九九八年、未来社、二二七~八ページ、参照、以下「倫理」と略記)を思い出し、ヴェーバーにおける「マルクス要素」や「ニーチェ要素」をそれぞれ整理箱に収めようとするスコラ的系譜学の流儀(拙著『ヴェーバー学のすすめ』、二〇〇三年、未来社、一二三ページ、参照)に倣って、新たに「ロシア思想箱」の「プレハーノフ引き出し」を設けられないかと考えるかもしれない。しかし、そうしたことは、筆者の関心事ではない。ただ、ヴェーバーは、ニーチェの追随者が「永劫回帰」の思想から引き出した実践的帰結にも止目し(「倫理」、二一六ページ)、さまざまな類例間の比較によって、「必然」信仰が、一方ではその特質、他方では諸条件の「布置連関」に応じて、それぞれ異なる帰結にいたる関係をこそ、見極めようとしていた、と付言して置きたい。

 他方、大きな歴史物語を好む向きは、前世紀における「精力的な実践活動」の華々しい三事例(ソ連、アメリカ、イスラム教徒)が、それぞれのエートスに潜む「予定」「必然」信仰と自己絶対化ゆえに、しばしば粗暴な帰結を免れず、現に免れていない国際情勢に照らして、それらの精神史的淵源に見られる一定の類似を照射している点で、プレハーノフの「炯眼」を、価値符号を反転させて評価するかもしれない。こうした見方は、原初的な着想として大雑把に過ぎるが、筆者の関心を惹く。しかし、それもやはり、類例間の比較をとおして精緻化されなければならない。

 ここではむしろ、プレハーノフの提起した問題を、別の方向に展開してみよう。かれ流の歴史的「必然」信仰を、キリスト教信仰の世俗化形態と捉え、絶対化されて粗暴な帰結をまねく有害な迷信としてしりぞけるとき、「歴史における個人の役割」は、改めていかに考えられるべきか。

 かれのように、社会的生産力の不可逆的増大にともなう社会的諸関係の段階的継起を「合法則的」と決め込み、最終的には「理想状態」に「予定」されている(「千年王国」=「社会主義」の過渡期を経て「神の国」=「共産主義」の実現にいたる)歴史発展を「必然」とみなすとき、そうした根っからの楽天主義のもとでは、「他の人びとよりもよく先をみとおし、また他の人びとよりも強くものごとをのぞむ」類の人物が、「創始者」、「偉大な人間」、「英雄」として手放しに称揚される(八五ページ)。なるほど、プレハーノフは、こうした規定に含意される「英雄崇拝」は避けようとして、末尾に「偉大という観念は相対的な観念である。道徳的な意味では聖書のことばをつかえば、『自分の生命を友のためになげうつ』人はだれでも偉大である」(八八ぺージ)とイデオローギッシュに書き加えた。時あたかもロシア・マルクス主義の思春期とあっては、「英雄」の座に就く政治指導者のもとに、理想社会を夢見る若者が殉教もいとわず馳せ参ずる未来をかれが思い描いたとしても、無理もないかもしれない。しかし、『職業としての政治』におけるヴェーバーのように、歴史の歯車に手をかけたがる「政治指導者」の平均的な人間的資質を冷静に考慮に入れれば、ひとたび「先をみとおし」「歴史的必然」を身方に付けたと確信した「英雄」が、「自分の生命を友のためになげう」(傍点、引用者)つはずはなく、「歴史的必然」の大義名分をかざして、他人には「自分の生命を友のためになげうつ」ことを強要し、したがうべくもない大衆を「無為主義」ときめつけて「無為主義」に追い込み、粗暴な支配体制を構築していく客観的可能性は、容易に予測されたのではなかろうか。

 しかしここで、「政治指導者」論、「英雄」論に立ち入るつもりはない。むしろ、「必然」信仰とともに、それを前提とする「英雄」と「大衆」との区分も取り払うとき、「歴史における個人の役割」論は、どう再構成されるべきか、を問おう。

 プレハーノフ以前にこの問題を取り上げ、当時のヘーゲル主義を念頭に置いて鋭く異議を唱えたのが、ゼーレン・キルケゴールであった。かれによれば、個人が世界歴史の華やかな舞台にうつつを抜かし、世界史的影響に心を奪われていると、自分の行動についても結果や効果に気をとられ、いつしか「自由」、すなわち「全力をかけてある行動にうって出ようとする意志の純粋さ」と「行動の力」を失い、「腑抜け」になってしまう。それにたいして、真の倫理的行為とは、自分の志操を貫く無制約的行為にほかならないが、それはじつは、「行動の結果と効果のいかんを神に委ねていっさい問わない、信仰的超越のゆとりに支えられ」てもいる(杉山好/小川圭治訳『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき』上、一九六八年、白水社、二四三ページ)。

 右に見られるとおり、これは、ヴェーバーのいう「志操(心情/信条)倫理Gesinnungs- ethik」の簡明な定式化に当たる。そして筆者は、「責任倫理」の名のもとに「志操なき適応倫理」「志操なき結果倫理」がはびこり、「心情倫理」に負の価値符号が付けられやすいわが国の文化・思想風土のもとでは、この「志操倫理」の意義をどんなに強調してもしすぎることはないと思う。しかしそのうえで、キルケゴール流の純粋「志操倫理」には、ともすれば「実存的思考者」に通有の「狭さ」のなかで「思い詰めた熱狂」に転ずる危険がありはしないか、と危惧する(筆者のキルケゴール批判として、詳しくは『デュルケームとウェーバー――社会科学の方法』上、一九八一年、三一書房、一一七~二〇ページ、を参照されたい)。

 ところで、ヘーゲル/プレハーノフ流の「必然」とキルケゴール流の「自由」との狭間で、両者の極端な帰結をともに避け、両者を止揚しているのが、ヴェーバーの「責任倫理」論である。個人はもはや、歴史的「必然」に支えられることはなく、まったき個人として自分が「意味」付与する行為を状況に投企し、自分の「価値理念」を実現し、自分の「志操」を表明するほかはない。しかもそのうえで、「結果や効果のいかんは神に委ねていっさい問わない」のではなく、当の行為の蓋然的諸結果を、状況における諸条件の「布置連関」の認識をとおして予測し、意図しなかった結果にも責任をとらなければならない。そこでは、個人としての責任が、歴史的「必然」にも「神」にももたれかかれないだけ、かえってそれだけ鋭く、厳しくなる。

 では、この周知の「責任倫理」論を、羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(二〇〇二年、ミネルヴァ書房、以下羽入書)への対応という問題に適用すると、どうなるであろうか。

 もとよりこの問題は、「世界史的」意義など帯びようもない瑣末な案件ではある。しかし、「責任倫理」論をなにか「世界史的」大問題にかぎり、日常生活や専門的研究/教育領域にしばしば出現する小問題への適用を怠っていると、いつしかキルケゴールのいう「腑抜け」になる。「責任倫理」のカテゴリーは、卑近な小問題にもひとしく適用されなければならない。むしろ、「歴史における個人の役割」論を、ヘーゲル/プレハーノフ流の誇大理論的適用制限から解き放ったところに、ヴェーバー「責任倫理」論の意義のひとつがあるといえよう。

 羽入書の内容については、拙著『ヴェーバー学のすすめ』で論駁したから、ここでは繰り返さない。羽入書を言論の公共空間に押し出して実態を曝させた年長者の研究指導責任/査読責任にも同書で論及した。ここではむしろ、ヴェーバー研究者側の問題について考えてみたい。 

 プレハーノフ流の楽観的な見方では、ある問題の解決にA、B、C、……が携わったとして、Aが首尾よく問題を解決すれば、B、C、……はもはや当の問題に取り組む必要はなく、別の問題に転ずることができる。ところが、Aが途中で死ぬか、なんらかの事情で当の問題を解決できないとなれば、B、C、……のうち誰かが、Aに代わって当の問題を解決する。したがって、問題そのものは、いずれにせよ解決される(七〇ページ)。じつは筆者も当初は、誰か別人が羽入書を論駁してくれれば、筆者は「ヴェーバー『経済と社会』全体の再構成」という年来の懸案に専念できると考えた。そこで、「中堅」や「新進気鋭」のヴェーバー研究者に宛てた二〇〇三年の年賀状に、羽入書は「疑似問題を持ち込んだひとり相撲」との趣旨を書き加え、たしか「非行少年がはびこるのも、大人が正面からまともに対応しないため」と記して、遠回しに反論執筆を促したのである。しかし、思わしい手応えはなかった。そこで初めて、プレハーノフ流楽観論へのまどろみから醒め、「再構成」の仕事を中断して、『季刊経済学論集』(東京大学経済学会編、六九巻一号、二〇〇三年四月、七七~八二ぺージ)に書評「四疑似問題でひとり相撲」を寄稿し、抜刷りを同じ範囲のヴェーバー研究者に送った。

 これへの応答には、研究者とくに「中堅」が現在、大学でいかに多くの雑用に喘ぎ、「研究の自由」を制約されているか、が如実に示されていた。そうした条件下で、働き盛りの現職研究者には羽入書にかかわる余裕がないとすれば、悠々自適の老生が急遽登板し、ワンポイント・リリーフは果たしたともいえよう。ただ今後、いつまた得体の知れないピンチ・ヒッターが出てくるか分からないので、老生なりの苦言を呈して置きたいのである。

 書評抜刷りへの応答のなかには、「自分も同じく羽入書を問題と感じたが、反論にも価しないと思って放っておいた」とまえおきし、「ああした際物は、『自然の淘汰』に委ねればよい」ので、筆者も「早く年来の懸案に立ち戻るように」と勧告してくれるものもあった。好意の勧告は、有り難く承る。しかし、「淘汰」というのは気になる。「責任倫理」論の見地から、この問題をどう考えるべきか。

 周知のとおり、ヴェーバーは、あるライフ・スタイルなり学説なりが、淘汰に耐えて生き延び、支配的となるには、当のライフ・スタイルや学説そのものは、淘汰のメカニズムが作動し始めるまえに、予め歴史的に成立していなければならず、淘汰理論では、当の成立そのものは説明できない、と限界づけた。そのうえで、当の成立を、創始者個人に遡り、その普及過程とは区別して捉える、独自の説明方針を念頭に置いて、「倫理」論文も執筆していた(たとえば「倫理」九八ページ参照)。じつは、マルクスとドイツ歴史学派の「総体論」を、メンガーの「原子論」との相互媒介によって止揚したこの理論視角(拙著『ヴェーバー学のすすめ』、一一九~二二ページ)は、デュルケーム社会学にたいするタルド「発明-模倣」説の理論的優位を、さらに一歩進めた位相にある。デュルケーム社会学は、「集団表象」から「個人表象」の派生を首尾よく説明できても、当の「集団表象」の発生そのものは、少なくともその質に立ち入ってまでは説明できない。

 後代から距離をとって「成功物語」として歴史を構成すると、ある説が「自然の淘汰」によって葬られたかに見えるばあいもあろう。しかし、当時の微視的現実に遡って仔細に検討すれば、当該説が存続に価しないことを証明するか、あるいはいっそう優れた説を提唱するかして、当該説の「淘汰」に道を開いた、ことによると無名/匿名の個人にいき当たるはずである。そうした現実を捨象し、歴史があたかもそれ自体として「淘汰」のメカニズムによってひとりでに動くかのように眺めてはならない、というのが、ヴェーバーの淘汰理論批判に込められたメッセージで、「責任倫理」論とも連動していたのではないか。

 それに、現在の状況を考えると、羽入書が、「放っておいても自然に淘汰される」代物とは考えにくい。管見では、受験体制の爛熟、大学院の粗製濫造、学位規準の意図的引き下げといった構造的要因により、分からないことを分からないと認めて分かろうと努力する根気がなく(「大衆人」化)、逆に、分からない相手に「杜撰」「詐欺」と難くせをつけて、分からない自分のプライドを救い、あわよくば世間をあっと驚かせて学界デヴューも飾ろうという、幼弱でエクセントリックな願望が、羽入のみでなく、若い世代に広まっている。そこで、こうした風潮に「賞=ショー」を出しておもねながら、翻って当の傾向をバック・アップしようとする勢力も現れるし、読者の側にも、羽入書を歓呼して迎え入れ、その「共鳴盤」にもなりかねない「羽入予備軍」が形成されている。羽入書は、この統計的集団に秋波を送ってエンタテインしようとしているし、版元も、この層の広がりを当て込んで、際物と知りつつ売り込みをはかっていると思われる。仄聞するところ、大学の生協書籍部には、羽入書が「平積み」にされているという。こういう状況を放っておくと、「悪貨が良貨を駆逐し」、先達の根気よい努力によって築き上げられてきたヴェーバー研究の蓄積をつぎの世代に引き渡し、乗り越えを促し、わが国の歴史・社会科学を発展させようにも、担い手が育たなくなる。

 現に、学生/院生のなかには、ヴェーバー著作のような古典を厭う傾向が、趨勢として顕れてきている。じつは、羽入書にたいする筆者の批判も、対応上やむなく微細にわたっているが、若い世代への「テューター」による介助を欠くと、かえって「ヴェーバー離れ」に拍車をかけるのではないか、と危惧している。

 しかし、つきつめたところ、そういう状況論以上に重要なことがある。学者の品位という問題である。もし自分も恩義を受けている親しい友人が、だれか第三者に、いわれのない難くせをつけて「詐欺師」と決めつけられたら、「そんなことはない」と友人を擁護するのが、人情であり、人の道であろう。そういう状況で「見て見ぬふりをする」人を、古人は「義を見てせざるは勇なきなり」と看破した。ところが、ことが学恩、友人が外国人、しかも故人となると、ともすればそうした人情は影を潜め、「やらずぶったくり」の「見て見ぬふり」がまかり通る。ことほどさように、この島国の学者のエートスには、「対内倫理と対外倫理の二重性」が内在化しているのである。

 わが国の学者は、長期間、欧米の学問にたいする一方的な授受/依存関係になじんできた。もっとも、この関係をかつて「本店-出店」関係と揶揄した評論家よりも、みずから学問的に苦闘する学者のほうが、欧米人学者の学問的苦闘も追体験でき、学者としての共感と敬意という普遍的品位感情を培うとともに、欧米学問の土俵にも乗り込み、対等に論争し、積極的に寄与することで、当該関係の是正につとめてもいる。しかし、そうした学者は、まだわずかで、圧倒的多数は、欧米の最新流行を追い、手早く紹介したり整理したり実証的に適用したりするのに熱心である。そこでは、「言いたい放題」と「見て見ぬふり」をともに「人間として浅ましい」と受け止める品位は、育ちようがない。羽入書への対応は、はからずもそうした島国根性の深層を露呈してはいないか。

 ここで筆者には、一九六八~六九年東大闘争のさい、東大当局による事実誤認とその隠蔽という現実の直視を避け、首をすくめて嵐が過ぎ去るのを待った「亀派」教官の姿が思い出される。あれから三五年、事態は変わっていないのか。筆者がいま、あえてこの一文を草し公表するのも、「中堅」や「新進気鋭」の研究者には、この機会にぜひ「学者の品位と責任」について考え、今後に予想される危機状況には慎重にも敢然と立ち向かってほしいからである。

 問題と状況のいかんによっては、多忙による回避が許されないこともある。学者は、学問研究と教育に直接責任を負うべきである。あてどなくさまよう人間組織への責任を優先させ、研究への直接の責任を忘れるとすれば、本末転倒であろう。(二〇〇三年一一月三〇日)


橋本努「ウェーバーは罪を犯したのか――羽入-折原論争の第一ラウンドを読む」

『未来』2004.1. No.448, pp.8-17.

ウェーバーは罪を犯したのか――羽入-折原論争の第一ラウンドを読む

橋本努

(はしもとつとむ 北海道大学大学院・経済思想/政治哲学)

『未来』2004年1月号(No.448) pp.8-17. 掲載稿

2003/12/03提出

 はたしてマックス・ウェーバーは知の犯罪者なのか。羽入辰郎の労作『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房、二〇〇二年、以下「羽入書」)によれば、ウェーバーはその主著とされる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下『倫理』)において、いくつかの意図的な資料操作を行っているという。例えばウェーバーは、ルターやフランクリンの原著を調べず、当時のドイツ語普及版を参照するだけで都合のよい資料選択を行っており、その結果として、論証全体に致命的な欠陥があるというのである。もし羽入のこの考証が正しいとすれば、知識界は容易ならざることになるかもしれない。というのも、戦後日本の知識人たちはみな圧倒的な「ヴェーバー体験」(例えば、山之内靖著『日本の社会科学とヴェーバー体験』築摩書房、一九九九年を参照)を共有しつつ、その学的権威を認めてきたからだ。羽入の挑戦は、「知的権威に対する根源的疑義」として受け止められねばならないであろう。学問の象徴たるウェーバーが「知の詐欺師」であるとすれば、「知識人たちはみなウェーバーに騙されてきた」、「ウェーバーから学びウェーバーを伝承する者は、犯罪者の犯罪に荷担して害毒を撒き散らせてきた」、「知の巨人を崇拝してきた者は知的に不誠実であるか間抜けである」、ということになるのだから。羽入は言う、「知的でありたい」などという「欲を抱くから、この知的な悪魔[ウェーバー]に騙されるのである。今はただこの死せる悪魔のために、一生を費やした多数の学者達の不運を思うばかりである」(羽入書、一九七頁)。

 羽入の主張においてとりわけ批判の矢面に立たされているのは、ウェーバー研究者たちである。故人大塚久雄は措くとしても、例えば内田芳明、山之内靖、折原浩などの各氏がいかに応答するのか、衆目の関心を呼ぶところであろう。そしてこの度折原は、羽入に対する本格的な批判の書『ヴェーバー学のすすめ』(未来社、二〇〇三年、以下「折原書」)を上梓した。本書において折原は、羽入の挑戦を真っ向から受け止めるべく、「ヴェーバーの特別弁護人」を引き受けるという。しかもその内容は、かなり成功しているように思われる。もとより小生は、論争の詳細を判定するだけの文献学的力量をもちあわせていない。しかし両者の立論を読むかぎり、羽入の議論においてほとんど反論不可能だと思われた箇所についても、折原は徹底した考証と検討によって、説得力のある反論を展開している。一年前の書評(「朝日新聞」二〇〇二年十二月十五日)において私は、二つの論点において羽入に好意的な評価を下したが、いまやこれらの論点までもが、折原の驚くべき論証力によって揺らいでしまったかのようにみえる。はたして羽入の研究は、折原の反論によって失効させられたのか。以下に二人の主張を検討してみたい。(なお折原は、羽入からの応答を予期して、すでに論争の次の段階を準備していると述べている。したがって本稿は、論争の暫定的な検討になるかもしれない。)


第一の論点:『倫理』の論証構造全体は揺らいだのか

 最初に取り上げたいのは、論争全体に関わる問題である。すなわち、はたして羽入が主張するように、氏の考証によって、『倫理』全体の論証構造は揺らいだのであろうか。折原によれば、羽入は『倫理』の中のあまり重要でない部分を問題にしているにすぎず、また「『倫理』の全論証構造とは何か」という問題に適切な答えを与えていない。その結果として羽入は、「木を見て森を見ない」視野狭窄に陥っているという。

 確かに羽入のウェーバー批判は、『倫理』の中心テーゼを否定するものではないだろう。ここで中心テーゼとは、「カルヴィニズム以降のプロテスタント平信徒たちの自己救済行為、すなわち天職への奉仕と禁欲というものが、歴史的にはその意図せざる結果として、中産階級の勤勉精神や、徹底した利潤追求と簡素な生活に基づく資本蓄積をもたらした」という命題である。羽入はこのテーゼを否定していない。むしろ直接には、『倫理』における次の二つの補助テーゼを問題にしている。


「補助テーゼ(1)」:近代の職業精神は、ルターのいわばアモルフな(どちらの方向にも行ける)エートスに由来するものであり、そこからさまざまな歴史的影響関係を経て、ルターから他の諸国のプロテスタント諸派に伝播していった。


「補助テーゼ(2)」:フランクリンの教説に見られる人生観は、プロテスタンティズムの倫理とは直接の関係を失った、近代の職業精神を示すものである。


 これら二つの補助テーゼに対して羽入は、(1)については、その因果関係が『倫理』において論証されていないと批判し、(2)については、フランクリンの教説は十分に世俗化されていない(羽入書、第四章)と同時に十分世俗化されすぎている(同書、第三章)、と批判する。

 これらの批判がもつ意義については後に検討するが、いずれにせよ、羽入の論点は『倫理』の導入部分における二つの補助テーゼに関するものであり、中心テーゼを揺るがせてはいない。

 しかし羽入の観点からすれば、ウェーバーの『倫理』は「知の傑作」とみなされる以上、その補助テーゼもまたテキスト全体にかかわる重要な部分である、ということになろう。ではいったい、導入部の補助テーゼは、どのような仕方で「全体の論証構造」と関係しているのだろうか。争点となるのは「『倫理』全体の論証構造」の理解であるが、どうやら私たちはこの定義を共有していないようである。したがってもし羽入がこの問題に応答するのでなければ、論争は基本的な点で明瞭になっていない、ということになるだろう。


第二の論点:ウェーバーは知的に不誠実な人間なのか

 上記の論点が解決されないとしても、しかし羽入の議論は、検討に値する問題を提起している。すなわち、一次資料の裏づけをめぐる「知的誠実性」の問題である。羽入の観点からすれば、たとえ一箇所であっても致命的な資料操作が見つかれば、それは「知の犯罪」に値する。しかしはたして、ウェーバーは、知の犯罪者、あるいは知的に不誠実な人間とみなされるべきなのだろうか。

 これに対する折原の応答は、次のようにまとめられよう。まず、一次資料による裏づけは「知的誠実性」の唯一の(あるいは最重要な)規準ではない。一般に、現実の経験的研究者は、規範的格率だけでなく、研究上の経済という合目的性の格率にも従って研究を進めており、両格率のせめぎあいの中に立たされている。ウェーバーの場合にも同様であって、『倫理』は研究方針において自己制御の効いた「引き締まった作品」である。これに対して羽入のウェーバー評価は、一次資料の裏づけのみに焦点を当てる「狭められた知的誠実性規範」を持ち込んでおり、ウェーバーに対して無理解な、倫理主義的裁断になっている。しかもこうした裁断の背景には、「ヴェーバー研究者憎しの抽象的情熱」があるのみで、個人として固有の問題設定が見られない、と折原は論難する。

 このように折原によれば、一般に一次資料の裏づけがなくても、「知的不誠実」の罪を問われるわけではないという。これは健全な判断であるだろう。というのも、もしすべての学者が一次資料に当たらなければならないとすれば、その規範はかえって知の成長を阻害してしまうからである。しかしいったい、ウェーバーがある箇所の一次資料を参照しなかったことは、どの程度の落ち度とみなされるべきなのか。それは見逃しうる不備なのだろうか。それとも、「詐欺」として人格的に責めを負うべき事柄なのであろうか。

 この問題は、ウェーバーにどの程度の権威を帰属するのかという問題と密接に結びついている。知識社会学的にみるならば、次のようなことが観察されるであろう。まず一般論として、ウェーバーの書物に挫折を味わった学者ないし学生は、存外に多い。またその挫折感は同時に、一方ではウェーバーに対する畏怖の感情を呼び起こしてきたが、他方ではウェーバーに対するルサンチマンの感情を生み出してきた。とりわけ、六〇年代後半から七〇年代前半における大学大衆化の時代にウェーバーの書物に触れた世代は、この相反する二つの感情を強烈にもっているようだ。そして今回の羽入-折原論争の背景には、そうした特殊時代的な状況が大きく作用していると考えられる。およそ「知的誠実性」をめぐる中立的な評価というものは存在しないが、本論争は、ウェーバーの読者たちがもつアンビバレントな感情の両極を、両者がそれぞれ代弁しているようにもみえる。

 私自身はといえば、遅れてきた世代のウェーバー読者あるいは広義の研究者として、この問題に距離を置いている。というのも現代においては、ウェーバーの権威効果はかなり弱まっているからである。「学問は偶像崇拝と偶像破壊の同位対立を超えたところにある」という折原の主張を、私は真摯に受け止めたい。またウェーバーの「知的誠実性」概念について言えば、私はこれを「経験的な事実確定と実践的な価値評価を区別」し、「知性の固有領域の基準に服すること」という意味で理解している(拙著『社会科学の人間学』勁草書房、一九九九年、六五頁)。この定義から言えば、一次資料の裏づけ作業は、「知的誠実性」の一部にすぎない。知的誠実さを問うべき重要な場面とは、むしろ、実践的な価値評価に関わる問題について、その言語化をできるだけ押し進めることである、と私は考えている。

 もっとも羽入の貢献を評価して言えば、氏の批判は、ウェーバーが「あるべき学者の鑑」(二六四頁)として、あるいは「聖マックスと呼ばれるべき偉人」(二八〇頁)として受容されてきた文脈(アカデミズムを取り巻く文化領域)を解体することに成功しているのだと思う。ある一定の文脈においては、「ウェーバーは一次文献を当たっていなかった」という事実を示すだけでも、十分な偶像破壊効果をもつであろう。また『倫理』においてウェーバーは、ブレンターノの学説を文献学的に批判していることから、文献学者としても一流であるとの印象を受けるが、しかしこの点に関するウェーバー評価は、羽入の批判によって相対化されたと言えるだろう。

 ただし、偶像視を排してウェーバーを一社会科学者としてみた場合に、それでもなおウェーバーが知的に不誠実な人間だと非難できるのかどうかは疑わしい。また、ウェーバーに対する偶像崇拝やルサンチマンを共有しない人々にとって、羽入のウェーバー批判はいかなる意義を持つのか、という問題もある。以下に具体的な論点を追うことで、議論を深めていきたい。


第三の論点:ルターはイギリスのプロテスタント諸派に直接の影響を与えたのか

 羽入のウェーバー批判は、具体的には次の三つの問題をめぐるものである。第一に、「ルターはイギリスのプロテスタント諸派にどのような経路で影響を与えたのか」という問題、第二に、聖書の『コリントI』をめぐるルターの翻訳作業をめぐる問題、そして第三に、フランクリンと「資本主義の精神」をめぐる問題である。順を追って検討しよう。

 ウェーバーは『倫理』において、聖書翻訳に携わったルターたちの精神が、他の諸国のプロテスタンティズムに影響を与えていったと述べている。しかし羽入によれば、ルターが聖書のドイツ語訳(旧約外典『ベン・シラの知恵』(以下『ベン・シラ』))において採用した「職業(Beruf)」の概念(その意味は「世俗的な職を全うすることが神輿の使命に適う」ということ)が、イギリスのプロテスタント諸派による聖書の英訳作業に対して直接の影響を与えたことは論証されていない。またその際、ウェーバーは当時の英訳聖書(『ベン・シラ』)を調べず、別の典拠(『コリントの信徒への手紙I』(以下、『コリントI』))の二次文献を調べただけであり、このことは論証の杜撰さを示しているという。

 この批判に対して折原は、次のように応答する。まず、ウェーバーは『ベン・シラ』のドイツ語訳における「職業」の概念が、英訳に対して直接の影響を与えたとは述べていない。ウェーバーは、『ベン・シラ』がルターたちによってドイツ語に訳された「そのころから」、この言葉の用法がプロテスタントの優勢な文化国民の諸言語に普及していった、と述べているにすぎない。つまりウェーバーは、訳語の直接的な影響というよりも、精神文化の間接的な影響関係を想定しているのであり、『ベン・シラ』だけに焦点を当てる羽入の問題設定(折原はこれを「唯『ベン・シラの知恵』回路説」と呼ぶ)は、擬似問題の創成にすぎないという。ウェーバーは、訳語の影響関係を調べることによって「ルター発の言霊が形を変えずに伝播していく」という考え方を論証しようとしていたわけではない。伝播の過程には、当然、歴史の複雑な因果関係があると推定される。もっともウェーバーは、この歴史的影響関係を『倫理』の主題としてはいない。またウェーバーがこの点に関して一次資料を調べなかったことについて、ウェーバーを「万能学者/知的英雄」として偶像視するのでなければ、この種の批判によって「『倫理』全体の被る損傷は、軽微の域を出ない」(折原書、六五頁)。さらに、ウェーバーが一見すると無関係に見える『コリントI』を参照していることには、思想的な意味連関において確たる理由があるという。

 以上が折原の反論の要旨である。いずれも有効な代替的解釈であるだろう。しかし、かりに折原の反論がすべて正しいとしても、ある重要な論点が残る。すなわち、『ベン・シラ』の当該訳語を通じてルターの精神が他国のプロテスタントに影響を与えたのでなければ、ルターは実際にどのような仕方で他国のプロテスタントたちに影響を与えたのか、という問題である。この問題は、ウェーバー研究の範囲を超えて、事柄に即した歴史研究を要請するものであろう。なるほど『倫理』を一読しただけでは、この種の問題は当然、ウェーバーあるいは当時の歴史学者たちによって検討されているとの印象を受ける。しかし羽入のウェーバー批判は、この問題が一つの歴史研究課題となることを示していると言えよう。


第四の論点:『コリントI』七章二〇節の意義をめぐって

 次に、本論争の最大の焦点となる問題、すなわち、羽入が「世界ではじめての発見」と自称する貢献について検討してみよう。その論点とは、ルター訳聖書の一部『コリントI』には「職業(Beruf)」という言葉が見られない以上、それが同訳の『ベン・シラ』に影響を与えたとする仮説は成り立たない、という氏の主張である。羽入によれば、ウェーバーは当時の「普及版ルター聖書」に依拠した結果、その校訂過程を無視した杜撰な論証を行った、というのである。

 これに対する折原の反論は、ダイナミックかつ緻密な、驚くべき論証となっている。それはルター解釈の専門領域にまで踏み込むものであり、かなり高度な内容になっているが、その論旨を要約すれば次のようになるだろう。

 第一に、羽入がいうところの訳語の影響関係は、ウェーバーの説明に関する一つの解釈にすぎず、別の解釈を立てることもできる。第二に、ルター訳の『コリントI』七章の該当箇所に “Beruf” という言葉が用いられていないとしても、ルター本人の思想的展開(教会身分構造の否定とすべての「生活上の地位」の同等性を主張する段階から、与えられた職業と身分に留まるべきだとする伝統主義と摂理信仰へ、そしてその宗教的かつ反貨殖主義的な特徴の世俗社会への適用への展開、そこからさらに神の摂理を重んじる伝統主義への傾倒)を踏まえて解釈すれば、『コリントI』該当箇所の「ruf(klēsis)」という言葉が媒介となって、『ベン・シラ』における訳語選択(Berufの採用)に影響を与えたとする解釈が成り立つ。第三に、ルターの訳語は、一つの原語に逐一同一の訳語を割り当てるという機械的なものではなく、文脈ごとに異なり、ルター本人の精神や思想と密接に関係している(とくに『知恵』と『箴言』のあいだの訳語関係をめぐる羽入の議論は、ルターの思想的変遷を踏まえていない)。また “ruff” と “beruff” の使い分けに関して言えば、ルターはこれを歴然と使い分けていたわけではない、と考えられる(同様の指摘がルター研究者によってもなされている)。第四に、ウェーバーが指摘するルターの訳語の揺れは、時間的なものではなく、いくつかのテキストにまたがる「空間的な揺れ」であると解釈することができる。そしてその場合、『コリントI』ではなく『エフェソ』が問題となる。第五に、普及版のルター聖書において、『コリントI』当該箇所の “ruff” が、ルターの死後に “beruff” に変更されて統一されるという事実は、ルターの思想における大衆宗教的なモメントが、ルター派の内部で継受されていったことを示している。こうした継承関係がある以上、ウェーバーが当時の普及版ルター聖書を確認するだけで済ませたことは、さしあたり十分だったという。

 以上が折原の反論である。いずれも一定の説得力をもつものであり、またそれぞれの論点が相互に結びついて、全体として一貫した代替的解釈を示していると言えるだろう。折原のこの応答によって、論争は一段階高次化したように思われる。はたして羽入と折原のいずれの解釈が正しいのか。この問題はウェーバー研究を超えて、ルター研究にまでその判断を仰がなければならない。したがって論争の現段階では、この点に対する評価を控えなければならないが、もし折原説に対する有効な反論が提出されなければ、現時点では折原の反論に一定の説得力があるとみなしうる。

 ただし、仮に折原説が正しいとしても、なぜウェーバーは当該箇所の一次文献を参照しなかったのかという疑問は残る。また逆に、羽入説が正しいとして、ではこの点がどれだけ決定的な批判なのか、という問題は残る。さらに、もう一つの疑問として、はたして折原説は、ルター死後のルター派による翻訳改訂作業にも、ウェーバーがいうところの「翻訳者たちの精神」が現れていると見なしているのだろうか。もしそうだとすれば、これは『倫理』をめぐる一つの興味深い仮説であるにちがいない。


第五の論点:フランクリンと「資本主義の精神」の関係をめぐって

 最後に、羽入書の後半をめぐる論争、すなわち、フランクリンと「資本主義の精神」の関係について検討してみたい。羽入は、ウェーバーが理念型として用いる「資本主義の精神」(たんなる功利的な道徳ではなく非合理的なエートスを含んだ生活原理)をめぐって、ウェーバーはこの理念型の素材をフランクリンの説教に求めているが、その構成の仕方は、フランクリンが『自伝』で述べている自身の生き方と整合しないと批判する。第一に、ウェーバーは「資本主義の精神」という概念をフランクリンに適用する際に、フランクリンの『自伝』における「神の啓示」に言及しているが、この個所は、フランクリンが実際に徳に向かった動機を示すものではない。第二に、フランクリンの倫理は「非合理的超越」を含まない功利主義であり、「資本主義の精神」に含まれる非合理的要素(エートス)を含んでいない。第三に、ウェーバーは「資本主義の精神」を「すでに宗教的基盤が消滅してしまったもの」として構成しているが、しかしフランクリンを引用する際に、フランクリンの生き方がカルヴィニズムの特徴を示している事実を意図的に無視している。第四に、フランクリンが『自伝』において引用している聖書の「職業」概念(『箴言』二二・二九)が、ルター訳聖書においては “Beruf” と訳されていない以上、ウェーバーはフランクリンから古プロテスタンティズムに遡るという『倫理』論文全体の構想を破棄するか、あるいは、フランクリン以外を素材として「資本主義の精神」という理念型を構成すべきであったという。

 以上が羽入によるウェーバー批判である。これに対して折原は、およそ次のように応じている。第一の論点について、「資本主義の精神」(折原はこれを「近代市民的『職業観』」と言いかえる)という理念型の構成と適用は、ウェーバーにおいてはその目的がフランクリンという人物の複雑な総体を捉えることではない以上、その一次資料が例示手段として適切でなければ、例示手段を別のものに求めればよい。この種の批判によって当の理念型が棄却されることはない。第二・第三の論点について、羽入は、一方ではフランクリンの宗教性を想定せず、他方ではこれを想定するという両極の観点からウェーバーを批判しているが、これは一貫した批判になっていない。また羽入は、ウェーバーが「宗教的なものとの直接な関係はまったく持たず」と述べているところを、「無宗教な功利主義」の意味で解釈するが、しかし折原は、そこには当然「宗教の間接的な影響」を想定できると反論する。さらに、フランクリンが言及している神は、羽入の解釈するような「カルヴィニズムの予定説の神」ではなく、意味的に深遠な差があるとみる。後者の神は「祝福を求める者の願いを聞きたまわない神」であるのに対して、前者の神は「その願いを聞きたまう神」だからである。最後に、第四の論点その他について、羽入の主張は、言葉の外形的同一性に囚われており、意味の歴史的因果連関を無視した没意味的文献学に陥っている。ウェーバーにとって、ルターとフランクリンの訳語の直接性(精神の無媒介的連関)を論証することなど、問題とされていないという。

 以上が折原の反論である。いずれも妥当な応答であるだろう。なるほど羽入が指摘するように、フランクリンの「啓示」に関するウェーバーの取り扱いには難点がある。しかしこれはさほど大きな問題ではない。重要な争点はむしろ、「資本主義の精神」と「フランクリンのいう神」との関係である。おそらく羽入は、次のように想定している。すなわち、「資本主義の精神」という理念型が構成される素材となったフランクリンの生き方は、多分にカルヴィニズムの宗教性を含んでいる。したがって「『プロテスタンティズムの倫理』が『資本主義の精神』へと世俗化していった」という歴史仮説を、フランクリン経由で説明することはできない、と。しかし折原が指摘するように、フランクリンのいう神は、いわゆるカルヴィニズムの神とは異なる。もし折原のこの指摘が正しければ、羽入の批判はその効果を失うであろう。

 私見によれば、そもそもウェーバーにとってフランクリンは、議論のための導入手段であり、また理念型を構成するための素材であるにすぎない。また、フランクリンの倫理がどこまで世俗的かという問題は、ウェーバーにおいてはカルヴィニズムの倫理との比較の問題であるから、その世俗化の程度が現在の私たちと比較して宗教的であることは、何ら問題ではない。総じて言えば、理念型の妥当性をめぐる羽入の批判には、困難な点が多々見られる。その理由はおそらく、巨視的説明のために構成された「資本主義の精神」という概念を、フランクリンという一人の複雑な人間をリアルに捉えるために適用しているからである。しかし「資本主義の精神」とは、倫理のある一面を鋭く構成した方法装置であり、こうした理念型を批判するためには、むしろその説明力を超えるような、他の理念型構成とその適用を競合させなければならない。ポパー的に言えば、理論というものは、それよりもすぐれた別の理論が出現した場合に、はじめて棄却されるからである。

 もっとも私はここで、ウェーバーの理念型構成に問題がないと言いたいのではない。理念型をめぐる方法的問題は、たしかに存在する。またさらに、『倫理』における中心テーゼは、反論を寄せつけないほど強力というわけでもない。すでに代替的な解釈はいろいろと提出されている。アカデミックな歴史家の観点からすれば、理念型の構成とそれにもとづく『倫理』の中心テーゼは、あまりにも巨視的なスケッチにすぎず、他の歴史説明を否定するだけの価値をもたないようにみえるであろう。しかし逆に言えば、『倫理』は、「社会学ないし社会科学」の誕生を記念する作品として、固有の魅力をもっている。『倫理』が古典と呼ばれるのは、それが資料的に完璧なものだからではなく、斬新な方法に基づく知的探求のパトスを示しているからであろう。

 もちろん、ウェーバーの「知的パトス」という魅力にあやかって、これを権威化することには問題があるに違いない。例えば折原は、羽入が「学問の常道」を自ら閉ざしていると批判しているが(九三頁)、しかしウェーバーの全業績を学ぶことが学問の常道だとする主張は、権威的に響きはしまいか。いや、折原のこの主張は、「学問の一般的規範」としての健全な権威を示すものかもしれない。何が健全で何が過剰な権威なのかについては、意見が分かれるところだろう。権威はすべて否定されるべきかもしれないし、反対に、挑戦すべき権威がなければ、多くの知性は触発されないのかもしれない。帰結主義的に言えば、権威は、後続の知性を触発する程度に存在することが望ましい。しかしその基準や様態は、時代によって変化していくだろう。


おわりに:論争の行方

 以上、羽入-折原論争を五つの争点に整理しながら検討した。論争に対して私は中立的な立場をとっていると僭称するつもりはないが、現段階でこの論争を評価するならば、羽入と折原は、ウェーバーの学問的意義を、より適切なトポスへ導いたのではないかと思う。すなわち、羽入の貢献によってウェーバー崇拝の効果が消え去り、また折原の反論によってウェーバーの知的貢献が救い出されているのである。

 それにしてもこの論争は知的刺激に満ちている。羽入書は権威に抗するパワーに満ちており、また折原書は、羽入書をさらに越える文献考証的エネルギーを示している。ここで折原の反論をまとめるならば、次のようになろう。(1)羽入の批判によって『倫理』全体の論証構造が揺らいだわけではない、(2)ウェーバーは一学者として知的に不誠実な人間だとは言えない、(3)イギリスのプロテスタント諸派に対するルターの影響は証明されないが、この問題は『倫理』の課題ではない、(4)ルター訳聖書の「職業(Beruf)」をめぐる問題については、折原の反論によって羽入説が相対化される、(5)フランクリンと「資本主義の精神」の関係をめぐる羽入の批判の多くは、決定的なものではない。以上である。折原の反論は、全体としてみれば成功している。したがって「ウェーバーの巨像を指一本で倒した」という羽入の主張は、論争の第一ラウンドが終わった現段階では疑わしくみえるだろう。

 もっとも折原は、羽入が破壊しようとしている「聖マックス」という巨像を救い出そうとしているのではない。むしろ、私たちがウェーバーと真摯に向き合うことの意義を主張しているのであり、そして私たちは本論争を通じて、ウェーバーを今一度読むことの面白さを手に入れたと言えるだろう。例えば、『倫理』の中心テーゼ――「プロテスタント平信徒たちの内面的苦悩と生活指針の変革が、その意図せざる結果として近代の職業精神をもたらした」――にとって、ルター(派)やカルヴァン(派)の指導者たち(あるいは聖書翻訳者たち)が “Beruf” や “calling” といった概念を「職業」という確定した意味で用いたかどうかは、大きな問題ではないかもしれない。というのも、ウェーバーが最も関心を寄せているのは「平信徒たち」の行為であって、それは指導者や翻訳者たちの精神や行為とは大きく乖離しうるからである。これは単なる仮説であるが、ルター以降の聖書翻訳者たちがこれらの新しい訳語を導入した時点では、その訳語の意味は、脱文脈的で多方向に解釈を喚起するような、「概念ならざる理念」であったかもしれない。それは歴史を振り返る視点を持ち込んではじめて、「職業」という意味の萌芽を認めうる言葉だったかもしれない。また、“calling” の概念が「天職」の意味で普及したのは、もしかするとフランクリンよりも後の世代においてであった可能性もある。さらに別の問題として、ウェーバーが『倫理』における精神史の淵源をルターおよびルターに影響を与えたドイツ神秘思想家たちに帰しているのは、近代資本主義の駆動力をドイツの精神に帰すという、ナショナルな価値関心を背後に宿しているのかもしれない。すべてこうした疑問は、知的誠実性をめぐる道徳の問題というよりも、歴史認識とウェーバーの価値観点(およびその時代制約性)に関わる事実-評価の問題であるだろう。私たちは羽入の問題提起によって、さまざまな問題を改めて検討してみる機会を得たように思われる。

 もっともこの論争を狭く受け止めるならば、それは「ウェーバー業界内の長老と鬼子の争い」として映るかもしれない。しかしその内容が意味するところは、ウェーバーに影響を受けた読者界に広く波及する。さしあたって今後は、羽入による応答が注目されよう。と同時に、この論争に関心を抱く人々や、応答責任を問われている人々からの発言も期待したい。論争を不毛なものにしないためには、論者たちの誇張的修辞を「読者へのエンターテイメント」として割り切っておこう。例えば、羽入がウェーバーを「詐術師」「犯罪者」「魔術師」と呼んでいることや、これに応じる折原が、羽入の議論はその出発点からして「無概念的感得」(学知的反省の欠如)の水準にあると批判することなどである。こうしたレトリックがもたらす快楽と憤怒に振り回されず、論争が実りある方向へ展開することを、私は心から願っている。

(本稿の草稿段階で、荒川敏彦、古川順一、矢野善郎の各氏からコメントをいただいた。記して感謝したい。)


【編集部より】『ヴェーバー学のすすめ』(折原浩著、小社刊)の刊行にあわせて、『マックス・ヴェーバーの新世紀』(小社刊)の編者の一人である橋本努氏に、初めて『プロテスタンティズムの倫理とその〈精神〉』をめぐる問題にふれる読者の方のために、わかりやすく論点を整理していただく論考をお願いいたしました。

橋本努「羽入-折原論争への参入と応答:論争の第二ラウンドへ向けて」

(未発表稿)

羽入-折原論争への参入と応答:論争の第二ラウンドへ向けて

橋本努

(はしもとつとむ 北海道大学大学院・経済思想/政治哲学)

2004/01/20version


 羽入-折原論争の第一ラウンドに対する拙論「ウェーバーは罪を犯したのか」『未来』(2004年1月号)では、私はなるべく、個人的な評価を挟まずに論争を整理したつもりである。なぜ評価を抑制したのかと言えば、それは今後の論争への参加を、できるだけ多くの人々に呼びかけたいからである。この目的が果たされるならば、私は次に、自分なりの論争評価を下す責任があるだろう。以下に私なりの評価を述べよう。


【第一ラウンドに対する評価】

 羽入-折原論争の第一ラウンドを端的に評価するならば、「折原優勢」である。しかも「かなり優勢」であると私は見ている。羽入氏は今後、もし折原氏の反論に再反論しなければ、アカデミズムの内部ではほとんど評価されなくなるかもしれない。折原氏の反論はそれほどのインパクトがある。

 加えてもう一つ、折原氏の反論書『ヴェーバー学のすすめ』(未来社、2003年)は、すさまじい知的刺激に満ちていることを、ここで明言したい。折原氏のこれまでの著作の中で、この著作は最も独創的な部類に入るにちがいない。本書の貢献は、ウェーバー研究における一つの驚異的達成であるといっても過言ではあるまい。さらに言えば、折原氏は論争の名手である。見習うべき反骨精神の持ち主である。正直に言って、私にはこれほどの反論が可能であるとは思えなかった。私は当初、論争はおそらく、羽入氏とウェーバー研究者たちのあいだで空回りするのではないかと危惧したが、折原氏は論争の争点を明確にして、しかもテキスト内在的に論争しうる土俵を築くことに成功している。この点は高く評価してもしすぎることはないであろう。


【私自身のスタンス】

 以上の評価を述べた上で、ここで本論争に対する私自身のスタンスを明確にしておきたい。拙著『社会科学の人間学』(勁草書房1999年、18頁)において、私は狭義のウェーバー研究と広義のウェーバー研究を区別し、自分の研究をもっぱら広義のウェーバー研究に属するものだと位置づけた。またその場合、羽入氏の研究にも触れて、そのウェーバー批判のもつ意義が、ウェーバー業界を前提とした消極的なものにすぎないと意味づけた。羽入氏の研究は、第一義的には、狭義のウェーバー研究者に向けられたものであるから、私はこの論争において部外者だということになる。しかし、論争の社会的効果が大きなものとなれば、私もまた論争の「場外ラウンド」に巻き込まれよう。というのも私は、ウェーバーから学び、また折原浩先生(実際に大学院での講義を受講したという意味で、ここでは先生と呼びたい)からも多くを学んできたからである。本論争は、その場外ラウンドでは、ウェーバーを読むべきか、教えるべきか、研究において参照すべきか、という教育・研究の実践的な問題にまで波及している。この点では私も応答責任があるだろう。

 本論争の行方について、私は現在、次のように考えている。まず、論争の第二ラウンドにおいては、狭義のウェーバー研究者すべてが応答責任を負うであろう。また羽入氏は、専門である文献学的な研究を超え出て、社会(科)学者として、折原氏の諸々の問題提起に応答する責任を負うであろう。さらに、論争の土俵の外では、広義のウェーバー研究者(あるいはウェーバーから学んできた人々)が、何らかの応答責任を負うであろう。以下に述べる事柄は、私のコミットメントを含んだ応答である。

 狭義のウェーバー研究においては、ウェーバーの学問業績がすぐれていることを前提として、その再構成や再解釈や批判の営みがなされてきた。しかし私が言うところの「広義」のウェーバー研究は、ウェーバーの知的貢献を素材としつつ、そこからウェーバーを理論的に超えることを目指している。アインシュタインがニュートン理論を超えたように、またポパーが帰納主義の方法を超えたように、理論家はそれ以前の知的蓄積を利用しつつ、批判的超越を試みる。そうした批判的超越の立場からすれば、今回の論争は副次的なものとみなされねばならない。論争の個々の争点は大変興味深いものであるが、評価対立の中心は、「ウェーバーの権威維持かそれとも権威失墜か」という関心に向けられているからである。権威の維持や失墜といった関心は、批判的超越の立場にはない。知の成長を志向する批判的超越の立場は、対峙すべき相手に対して、深い敬愛とチャレンジ精神の両方を併せ持たねばならず、ある権威を擁護したり、憎悪を持ってこれを否定したりしてはならない。要するに批判的超越者は、権威維持や権威打倒といった営みには関心がないのである。むしろ権威は、知の成長によって乗り越えられるべきものとして意味づけられる。

 この点で、折原氏のこれまでのウェーバー研究は、ウェーバーを知の成長の基点=土台として再構成しつつも、そこから新たな知の成長を企てるものとして、高く評価されなければならない。近年の折原氏の研究はテキスト研究という「土台の再構成」に重心を置いているが、しかし氏の諸々の独創的貢献(とりわけ私が「可能主体」と呼ぶウェーバー解釈)を過小評価してはならない。

 これに対して羽入氏の貢献は、知の成長を志向するよりも、むしろ学的権威が無用な抑圧へと転化する場面を問題にしていると言えよう。一流のウェーバー研究者たちが羽入氏の問題提起を真正面から受け止めなかったとしても、それはある意味で、適切な態度であったかもしれない。というのも、「私はウェーバー崇拝者である」とか「ウェーバーという巨像を信仰している」などという一流の研究者は、実際にはいないからである。羽入氏の問題提起は、これにどう応答してよいのか、ウェーバー研究者たちに難しい判断を要求しているように見える。羽入氏は次のように言う。「巨人の言葉を引用し、自分の論文にきらびやかに散りばめ、巨人の作り上げた概念を再度説明する、ただそれだけで自分もまた巨人とともに学問をしているかのような気分に陶酔し浸り切る……それが許されてきたというまさにその点において、この巨人はわれわれの視野を確実にふさいできたのである」(羽入書、264頁)。ここで羽入氏が批判しているのは、アカデミズム一般に関わる問題であると同時に、二流・三流研究者たちに向けられたものであるだろう(仮に一流の研究者がいない場合にも、である)。こうした批判に対して、いったい誰が応答責任を負うのか。これは実践的な意味で難しい問題を引き起こす。

 しかし論争の間接的な効果が、狭義・広義に関わらず健全なウェーバー研究のすべてを脅かすことになれば、研究者たちは論争の焦点を多少ズラしてでも、さまざまな観点からこれに応接する必要があるだろう。そこで私は、以下に二つの点から応答したい。第一に、羽入書に対する内在的な検討と評価であり、第二に、羽入-折原論争の社会的意義をめぐる考察である。前者は、とりわけ『倫理』における「フランクリン」の位置づけの問題であり、後者は、「知的祭り上げ」と「詐欺師の誘惑」の問題、および、「学問のオルターナティヴ探し」の問題である。


【フランクリンをめぐる問題1:「羽入書」第三章の検討】

 では最初に、羽入書の検討をはじめよう。ただし、「羽入書」の前半、すなわち第一章と第二章に関しては、私は今のところ、折原氏の周到な反論に付け加えることはないので、ここでは後半に関してのみ、検討を加えたいと思う。

 第三章において羽入氏は、ウェーバーのフランクリン論を次のように取り上げている。すなわちウェーバーによれば、フランクリンの道徳は、たんなる「現実主義的・功利主義的傾向」の処世訓に還元されないような、「資本主義の精神」という独特な特徴をもっている。正確に言えば、ウェーバーはフランクリンという人物の生き方を素材にして、単なる処世訓に還元されないような、資本主義の精神という理念型を構成している。そしてウェーバーはこの「資本主義の精神」という理念形を構成する過程で、フランクリンが「神の啓示」に言及していることを傍証としている。しかし羽入氏によれば、『自伝』における「神の啓示」へのフランクリンの態度は、現実主義・世俗主義・功利主義の諸特徴を示しているにすぎないという。つまり、フランクリンが自伝で述べるところの「神の啓示」は、たんなる「現実主義的・功利主義的傾向の処世訓」に還元されるというのである。羽入氏は次のように述べる。

 「ヴェーバーは『[フランクリンの]自伝』の一体どこから“フランクリンの倫理は個々人の『幸福』や『利益』をおよそ超越している”などという自分の主張の根拠となる部分を見出してきたのであろうか」(180頁)。「『自伝』におけるフランクリンの叙述が理念型におけるそれ[資本主義の精神]と合致しないとするならば、……フランクリンは厳密には“資本主義の精神的”ではなかったという証明がなされたはずだったのである」(187頁)。「この理念型は、素材とされた『自伝』からもはや大きく隔たってしまっており、……フランクリン自身の素顔とはもはや似ても似つかぬものとなってしまっているのである。」(186頁)。「ヴェーバーによる『資本主義の精神』の理念型のフランクリン資料による検証は、理念型の検証の名に値しないものに過ぎなかった」(189頁)。

 このように羽入氏は、ウェーバーのいう「資本主義の精神」という理念型が「フランクリンの素顔」に迫るものではないとして、理念型の構成とその検証過程に問題があると指摘する。

 しかし羽入氏のこの主張には、およそ四つの難点があると私は考える。

 第一に、構成された理念型は、「フランクリンの素顔」に似ている必要はない。理念型はある一面を鋭く構成することに、その理論的意義があるからである。理念型は、デフォルメされた抽象絵画のようなものである。それは素顔に迫る必要はない。

 第二に、かりに「資本主義の精神」という理念型がフランクリンの言説によって検証されなければならないとしても、羽入氏が否定しているのは、ウェーバーが言及しているところの「フランクリンにおける神の啓示」の意義であって、それ以外の部分の意義を否定するほどの論拠を提示していない。具体的には、羽入氏は『倫理』における以下の文章の意義を否定するだけの論拠を挙げていない。

 「そればかりか、この『倫理』の『最高善』(summum bonum)ともいうべき、一切の自然な享楽を厳しく斥けてひたむきに貨幣を獲得しようとする努力は、幸福主義や快楽主義などの観点をまったく帯びていず、純粋に自己目的と考えられているために、個々人の『幸福』や『利益』といったものに対して、ともかく、まったく超越的なまたおよそ非合理的なものとして立ち現れている」(大塚訳47-48頁)。

 ウェーバーは以上の文章(にみられる考察)を、「資本主義の精神」という理念型を構成するための論拠の一つとしている。羽入説は、この文章から「資本主義の精神」という理念型が構成しうることを否定していない。むしろ別の論拠を否定しているに過ぎない。すなわち、フランクリンにおける「神の啓示」は理念型を構成するための素材や論拠たりえないという批判である。

 第三に、フランクリンにおける「神の啓示」について、ウェーバーは『倫理』の中で、一方では「功利的な傾向」として言及し、他方では「反功利的な傾向」として言及しているという矛盾がある。羽入氏は後者の解釈を否定するが、氏の批判は、ウェーバーの理念型構成の過程を検証するというよりも、むしろ、ウェーバーのテキストに内在する矛盾を指摘するものであろう。この点に関して、私は、ウェーバーの理論を洗練化する方向に、テキスト内在的な矛盾を解消する道を見出すことができると考える。そのためには、次の三つの理念型を区別することが望ましい。

 (1) 善悪の実践を規範的に内面化していない功利主義。(善悪の行為の外観を重視して、有用性や快楽のために役立つかぎりで道徳的に振舞う。)

 (2) 善悪の実践を規範的に内面化した功利主義(善い行いが「命令」されるのはそれが有用だからであり、ある行為が「禁止」されるのはそれが本来有害だからである、と考える。ここでは「命令」や「禁止」の普遍化と精神的内面化とが、功利的に有用であると見なされる)。

 (3) 幸福主義や快楽主義の観点をまったく持たない功利主義(例えば、貨幣獲得を自己目的として、快楽や享楽を厳しく斥けるような実践。これは貨幣という功利を求めるが、それが快楽や享楽に結びつかない点で「反功利主義」と言ってもよいだろう)。

 以上の三つのなかで、「資本主義の精神」に合致する理念型は、(3)である。また、いわゆる功利主義とみなしうるのは、(1)である。これに対して(2)の立場は、功利主義とも言えるが、しかし「資本主義の精神」の一特徴とも言えるような、両義的な特徴を備えている。そしてウェーバーもまた、(2)の考え方を曖昧かつ両義的に扱っている、と解釈することができよう。すなわち、一方では功利的な傾向をもつ「改信の物語」(『倫理』47頁3行目)としてであり、他方では「神の啓示」(『倫理』47頁12行目)としてである。私の考えでは、ウェーバーは「資本主義の精神」という理念形を構成する際に、(3)と(1)をドラステックに対比させた結果、その中間にある(2)の考え方を、両義的に位置付けてしまっている。われわれはこれを、理論的に不充分な点として受け止めて、むしろ理論全体の整理と更新(バージョン・アップ)を図るべきではないだろうか。

 羽入氏は、ウェーバーにおける(2)の扱い方が問題を孕んでいると批判するが、しかし私たちは(2)と(3)の区別を概念的に明確にすれば、ウェーバーの理論を更新することができる。具体的には、フランクリンにおける「神の啓示」を、功利主義と「資本主義の精神」の中間として位置付ければよいのである。このように扱えば、羽入氏のように、(2)の問題性を指摘することから(3)の疑問視や否定に至る必要はない。

 第四に、羽入氏は、この第三章においては、フランクリンの生き方が功利的であり、非合理的な要素を含んでいないとみなす立場に立って、ウェーバーの理念型構成を批判している。しかし第四章では逆に、フランクリンの生き方がカルヴィニズムの宗教倫理を多分に含んでいるとみなす立場から、正反対の議論を展開している。ということは、羽入書の第三章の議論は、同書第四章の議論によって論駁されるということになるのではないだろうか。

 以上、私は四つの観点から羽入氏の立論を検討してきた。まとめると、ウェーバーは「資本主義の精神」という理念型をフランクリンのテキストを素材に構成したが、しかしその構成の仕方の妥当性については――なるほど羽入氏の指摘するような「直接の検証」がなされていないという難点を持つとしても――、その構成を否定ないし拒否するほどの議論が羽入氏によって提出されているわけではない(むしろ羽入書の第四章は、この問題に対して間接的な検証としての効果をもつかもしれない)ということである。


【フランクリンをめぐる問題2:「羽入書」第四章の検討】

 次に、羽入書の第四章におけるフランクリン問題を検討してみよう。第四章では、「資本主義の精神」と「古プロテスタンティズムの宗教性」とが、内的な親縁関係をもつ、というウェーバーの主張が検討されている。羽入氏はまず、次のように問題を提起する。

 「ヴェーバーは、他ならぬ『資本主義の精神』を手掛かりとして今から資本主義的営利活動と古プロテスタンティズムの宗教性との“内的親縁関係”を見出さなければならないにもかかわらず、しかしながらその『資本主義の精神』は次のような形に構成されなければならない、と述べているのである。いかなる宗教的なものもその内には含まれてはいぬ形で、すなわち、全ての宗教的なものが剥奪されている形で構成されていなければならない、と。」(羽入書、203-204頁、傍線は引用者による)

 以上の問題提起において、羽入氏は大きな誤解をしていると私は思う。羽入氏は、「資本主義の精神」という理念型が「いかなる宗教性も含まない形」で構成されなければならないとみなしているようだが、これは誤りであろう。ウェーバーは、「宗教的なものへの直接的な関係をまったく失っており」(『倫理』大塚訳40頁、強調はウェーバーによる)と述べているが、ここで重要な点は、「直接的な関係」を失っているということであり、「まったく」という強調箇所ではない。ウェーバーはここで、宗教の「間接的な関係」は失われていない、と見なしているとみるべきである。実際、ウェーバーの『倫理』は、宗教的モメントの歴史的因果関係をたどることに、固有の課題がある。ところが羽入氏は、この「間接的な関係」の可能性を想定せず、「直接的関係の喪失」を「あらゆる宗教性からの解放」と理解して、これを繰り返し批判している(例えば、206, 219, 221, 224-225頁)。すべてこうした批判は、的外れであると私は考える。

 なおまた、ウェーバーは別のところで、「ただフランクリンのばあいには、宗教的基礎づけがすでに生命を失って欠落している」(『倫理』大塚訳364頁)と述べているが、これは、フランクリンが完全に無宗教になったというのではなく、ウェーバーはただ宗教的な「基礎づけ」がなくなったと言っているだけで、そこには当然、何らかの「宗教的モメント」が存在すると想定されよう。この点でも羽入氏は、ウェーバーの慎重な議論に軽率な批判を投げかけているように見える。実際、ウェーバーは、宗教的なモメントが、古プロテスタンティズムから資本主義の精神に至る歴史的因果連関において、いかに変容したのかという問題に関心を寄せているのであり、ウェーバーの問題設定は、この点において明確である。(なお折原氏は現在、論争の第二ラウンドにおいて、『倫理』の全論証構造を再構成するという準備をしているが、これは羽入氏の第四章の議論に対する真っ向からの批判を意味することになるであろう。)

 他方で羽入氏は、次のようにもウェーバーを批判している。すなわち、ウェーバーは「資本主義の精神」という理念型を構成する際に、そこにあらかじめ「古プロテスタンティズム的なもの」を含めることによって、「資本主義の精神」と「古プロテスタンティズム」のあいだの「内的親縁関係」を論証するという不当前提を犯している、と(羽入書、206頁)。言いかえれば、ウェーバーは「資本主義の精神」という理念型の特徴に「古プロテスタンティズム的なもの」を含めたからこそ、「資本主義の精神」と「古プロテスタンティズム」との内的親縁関係を説明できたのであり、これは当初の議論の前提に反する、というのである。なぜなら当初の議論の前提では、「資本主義の精神」は「宗教的なものへの直接的な関係をまったく失って」いると見なされたからである。およそ以上のように、羽入氏はウェーバーを批判する。

 羽入氏のこの批判に対しては、次のように反論することができよう。すなわち、「資本主義の精神」という理念型には、当初から宗教性のモメントが含まれている。しかしそれは、古プロテスタンティズムのそれとまったく同じものではなく、間接的な影響関係を含むものであるにすぎない。羽入氏は両者の宗教的モメントをともにカルヴィニズムの予定説であるとみなしているが、しかし折原氏が的確に批判するように、両者の宗教的特徴は、意味的に異なる。(これについては拙稿「ウェーバーは罪を犯したのか」15頁においても言及した。)そして両者の宗教的モメントの違いこそ、ウェーバーが『倫理』において説明しようとした課題の中心であったのであり、羽入氏はこのテーマを見失っているようにみえる。

 おそらく羽入氏は、次のようにウェーバーを批判することで、ウェーバーを犯罪者とみなしているのであろう。すなわち、ウェーバーは「古プロテスタンティズム」と「宗教性をまったく含まない『資本主義の精神』」のあいだの内的親縁関係を説明するという問題を立てたが、この問題を解くにあたって、こっそりと、「資本主義の精神」という理念型の特徴に「古プロテスタンティズム」と同様の「カルヴィニズムの神」を忍ばせ、「フランクリンからいっきょにルターに遡る」ことをしてしまった、という推測である。この批判はしかし、的外れである。その理由を繰り返し述べるならば、ウェーバーは『倫理』において、「古プロテスタンティズム」と「資本主義の精神」のあいだの宗教的モメントの違いを歴史的因果連関の追跡によって説明しようとしたのであり、その場合、資本主義の精神にみられる宗教的モメントは、古プロテスタンティズムにみられるカルヴィニズムの神とは性質が異なる。そもそも『倫理』における中心課題は、歴史の因果連関を説明することであった。「古プロテスタンティズム」と「資本主義の精神」の「内的親縁関係」なるものは、「論理的に直接な関係」ではなく、歴史的な因果連関、しかも「意図せざる結果」を含んだ連関の問題である。羽入氏はここで、「内的親縁関係」という言葉の意味を、歴史学的方法の観点から的確に捉えるべきであったのではないだろうか。

 以上の検討から、羽入氏の次の主張は却下されるべきだろう。すなわち、「……彼[ウェーバー]はフランクリンからいっきょにルターへと遡るというこの自らの着想の余りの鮮やかさにとらわれてしまい、無謀にもこの構想のままに突き進むという学者としては犯してはならぬ無理を犯した」(羽入書、239-240頁)という判断である。ここでいう「学者としては犯してはならぬ無理」というものを、もし羽入氏が「犯罪」と呼ぶならば、ウェーバーはそのような犯罪を犯してはいない。

 もう一つ、羽入氏の次の主張もまた却下されよう。「むしろヴェーバーがここですべきであったことは以下のことであったのである。その心情が、“非宗教性”という観点から見た場合には、まだ十分には“資本主義の精神的”とはなっていなかった例として、すなわち、そうした『資本主義の精神』への移行期の典型的経過例を示すところの理念型としてフランクリンを挙げるべきだったのである」(羽入書225頁)。ここで羽入氏は、フランクリンが『聖書』を引用する点で宗教的心情を持っているのに対して、「資本主義の精神」は「全ての宗教性を欠いた」心情を理念型化したものだと見なしているようだが、これは「資本主義の精神」という理念型の理解に関して誤りである。みてきたように、「資本主義の精神」という理念型は、宗教性のモメント(世俗的な功利主義によっては合理的に説明できない要素)を含んでいる。それは、前節における三つの規範的立場の(3)の特徴、すなわち、幸福主義や快楽主義の観点をまったく持たない功利主義(=「反功利主義」)である。

 なお、羽入氏が指摘するように、大塚久雄は『倫理』の訳者解説において、フランクリンの文章には「どういうわけか」「ピュウリタニズムないしカルヴィニズムの思想的残存物がいっぱいつまって」いると述べているが、しかしここでいう「思想的残存物」の存在は、フランクリンの倫理と古プロテスタンティズムの倫理が同一であることを意味しない。またかりに、両者が同じような特徴をもつとしても、それは両者の主要な特徴が異なることを妨げない。したがって大塚久雄の指摘は、『倫理』におけるウェーバーの立論を否定するような性質のものではないだろう。

 以上が羽入書に対する私の応答である。総じて言えば、羽入書の第三章と第四章の立論は、ほとんど成功していないように思われる。文献学的に見れば、羽入氏の研究はウェーバーのテキストに対する興味深い精査を多々含んでいるが、そこから引き出される結論は過剰であり、論理的に支持しえない。羽入書の後半に関するかぎり、羽入氏がウェーバーを犯罪者と判定する根拠は薄弱である。その理由はおそらく、理念型の構成が『倫理』の中心テーゼや方法の問題といかなる関係を持つのかについて、配慮を欠くからではないだろうか。この問題をクリアしないかぎり、氏の文献学的研究がもつインプリケーションは、消極的なものに留まらざるを得ないであろう。


【「知的祭り上げ」と「詐欺師の誘惑」】

 ここで羽入書に対する内在的な検討をいったん終えて(あるいは中断して)、以下に間接的な、いわば野次馬的な応答を試みてみよう。「狭義のウェーバー研究者」を自認しない私の立場からすれば、実は、間接的な応答のほうがより切実である。羽入氏の問題提起は狭義の文献学的論争を超えて、アカデミズムの営為を総体として見なおす契機を与えているからである。

 私たちはこれまで、例えば、マルクス、ウェーバー、レヴィ=ストロース、フーコー、ハーバーマスなどの知の巨人たちを、時代や流行に応じて祭り上げたり、あるいはこけ下ろしたりしてきた。内容の難解度から言えば、他の巨人と比べてウェーバーの著作が抜きん出ているわけではない。羽入氏のウェーバー批判は、ウェーバーに固有の問題というよりも、むしろ知の巨人たちに付きまとう一般的な問題、すなわち崇拝と冒涜という人格的評価の問題であるだろう。凡人の人格に対しては、崇拝や冒涜といった道徳的評価は生じ得ない。

 そこで問題となるのが、「知の巨人を祭り上げること」の社会的意義である。実際私たちは、「知的祭り上げ」というものが、それがいかに非合理的であるとしても、知の成長に貢献する機能を果たすことを知っている。祭り上げによって読む機会を得た読者が、知の巨人たちと真摯に向き合うことによって、やがてそこから、新たな知の成長が生まれるからである。実際私の場合も、学部生の時分には、内田芳明氏のウェーバー講義から多くの恩恵を受けた。しかしその後に理解したことは、ウェーバーが知の巨人であるという祭り上げは、入門者のための誘惑的言説に過ぎず、アカデミズムの内部ではそれほど流通していない言説だ、ということである。(もしアカデミズムが衰退すれば、「知的祭り上げ」の誘惑言説のみが自由に氾濫することになるかもしれない。)

 他方で「知的祭り上げ」は、知識人と大衆のあいだに階層的な分断を生み出す源泉にもなっている。すなわち、知の巨人たちの言説を理解する知識人と、それを十分に理解できず、したがって知的ルサンチマンをいだく大衆のあいだの精神的な不和である。(ここで大衆とは、知識人に憧れつつも挫折を味わう人々、という意味である。)知識人は、難解なテキストを理解する能力によって、自らを精神的に特権的・貴族主義的な人間であると自己認識しうるだろう。これに対して大衆は、そのような特権的・貴族主義的なメンタリティを持った人々の自己認識を妬ましく思うだろう。一方は自己と知の巨人の両方を肯定し、他方は自己を肯定するために知の巨人を否定する。

 知識人と大衆とのこの軋轢、すなわち、前者の特権意識と後者のルサンチマンという心情的対立は、およそ次のような二つの方途によって解消しうる。すなわち、一つには「大衆による知識人文化の殲滅」であり、もう一つには、反対に、「知識人による大衆の啓蒙的包摂」である。前者は「アカデミズム不要論」や「精神的貴族主義に対する道徳的貶価」に至る。そして学者の社会的影響力を疑問視し、学者世界の縮小を求めることを要求するであろう。これに対して後者の企ては、「入門書や教養書による絶えざる知の誘惑」を企てることによって、知識人文化を再生産しようとする。そしてその際、知識人はさまざまな「知の巨人たち」を祭り上げることに荷担するだろう。例えば「マルクスはすごい」、「ウェーバーはすごい」というエピソードを紹介することが、テキストを十分に理解しない人々の不満を、尊敬の念へと転化することに資するであろう。知の巨人たちを祭り上げることは、知識人の誘惑戦略である。知識人は自らの営みの領域を正当化したり発展させるために、初心者を誘惑するデーモンと結託しなければならない。

 羽入-折原論争は、終極的には、こうした「知識人と大衆の拮抗関係」という問題に至りつく。羽入の立場は、アカデミズム不要論(したがって誘惑戦略不要論)と親和的であり、これに対して折原の立場は、アカデミズム有用論と親和的である。では私はどちらの立場に立つのかと言われれば、大衆を啓蒙するための知の誘惑が必要であるという理由で、後者の立場をとる。知の成長を一つのコアに据える私の思想的観点(成長論的自由主義)からすれば、アカデミズムが果たす機能は有効である。政治や経済と同様に、知の領域においても、誘惑の言説が新たな創造をかきたてることが認められよう。そして知の成長を促進することは、結果として社会全体の富を豊かにすることに資するであろう。

 以上のことは、私が特殊近代的な啓蒙主義者であることを意味しない。ポストモダンの言説においても、同様の啓蒙が試みられているからである。例えば、東浩紀著『動物化するポストモダン』(講談社現代新書2002年)では、「動物化」していく人々に対する理性の啓蒙が試みられている。啓蒙のプロジェクトは、近代思想とポスト近代思想の両方に共有されていると見るべきである。

 また私はここで、既存のアカデミズムをそのまま肯定しようというのではない。知の成長を企てている学者はそれほど多くないからである。アカデミズムを知の成長のための装置として十分に機能させるためには、それに相応しいエートスや誘惑の戦略が必要となる。この点から付言すれば、私は、ウェーバーやその紹介者たちが詐欺師であってもかまわない、と考えている。実際にはそうではないのだが、しかし例えば、「知への愛」を人々に啓く哲学者として、私たちは、ヤスパースのような有徳者よりも、ニーチェやハイデガーやサルトルのような、詐欺師的感性にすぐれた哲学者を愛好するのではないだろうか。また哲学だけでなく、どんな分野の学問でも、初心者である学生たちは、有徳な学者の書いた入門書よりも、不良少年的な魅力のある学者の書いた入門書を密かに愛するのではないだろうか。

 いずれにせよ、詐欺師的な魅力を持った学者に騙されて「知への愛」をもつに至ることは、羽入氏の言うように「不運」なことではなく、私はむしろ「幸運」なことだと思う。知の入門には倫理的なパラドクスがある。詐欺師的な誘惑に騙されてはじめて、知への愛を掴む、というパラドクスである。重要なのは、このパラドクスの中にうまく入りこみ、そしてそこからうまく抜け出ることではないだろうか。

 およそ政治であれ経済であれ文化であれ、詐欺師的な(あるいはトリック・スター的な)幻想や魅力がなければ、それに固有の発展はうまれない。この点で、諸々のシステムは道徳のシステムから分化していると見なすことができる。諸システムが分化しながらも豊穣なものとなることを欲する「成長論的自由主義」の立場からすれば、誘惑の戦略や詐欺師の存在は、必要である。知的誠実性という美徳について言えば、拙稿「ウェーバーは罪を犯したのか」において述べたように、それは文献学的な一次資料の裏づけよりも、実践的な価値評価問題について、その言語化を押し進めることでなければならない。私は、資料操作や詐欺師的誘惑という問題が、知的誠実性という美徳にとっては瑣末な事柄だと考える。したがって羽入氏が提起するウェーバー=詐欺師説は、知的誠実性の中心問題とは区別されるべきであり、またかりにウェーバーが詐欺師的特徴をもつとしても(そのようなことは折原氏の反論によって否定されているが)、私はそうした事柄を道徳的に糾弾すべき問題ではないと考える。

 以上が、私の思想的スタンスから導かれる評価である。「知的祭り上げ」と「詐欺師の誘惑」は、知の成長のための導入レベルにおいて必要である。批判は、別の祭り上げと誘惑を対抗させることでなければならない。もっともこうした戦略に関する問題は、羽入-折原論争にとって本質的な事柄ではないだろう。私は自分のスタンスから間接的に、問題をずらして場外から応答することになった。


【学問のオルターナティヴ探し】

 前節では、いかにして大衆を知的に誘惑しながら「知の成長」を企てるか、という問題を検討した。そしてそのためには詐欺師の誘惑や幻想が必要であると私は主張した。例えば、初心者である学部生に対して、マルクスやウェーバーやフーコーなどの知の巨人たちを、その幻想や権威の効果を利用しながら紹介することには、やはりそれなりの学習効果があるだろう。もちろんこれを多用すると厭みな人間になる。

 しかし別の問題として、例えば現在、ますます増加する大学院生たちのニーズに合わせてこうした知の巨人たちを論じることは、いかなる意義を持つだろうか。博士課程に進学した大学院生のうち、職業としての学者や研究者に従事することのできる人数の割合は、この20年間のあいだに激減している(博士課程在籍者数は、この20年間で約三倍になった)。分野によって異なるが、学者として職を得る率が10%以下、といったところもある。こうした現状において問題となるのは、初学者への誘惑と詐欺師の役割ではなく、学問の誘惑に魅了された人々のその後の神義論である。学問に魅了された人々は、学者になるのでなければ、いかにして学問のオルターナティヴとなる職業を見つけるのか。また、いかにして学問の魅力に対して主観的・個人的に折り合いをつけるのか。こうした事柄はとわけ、大学院生たちの切実な関心となっている。

 今後日本社会において、もし学者の総数よりも、大学院の途中で学者の道を諦めた人々の総数が多くなるならば、私たちの知的・文化的世界は、もはや学者主導のものではなくなるだろう。学者的なるもののシンボルであるウェーバーの貢献は軽視され、その代わりに例えば、職業学者ではなかったマルクスが、非学者系知識人のシンボルとなるかもしれない。私たちの社会は現在、知識社会の到来と同時に学者になれない大学院生数の増大によって、学者系とは異なる文化・知識世界を豊かにしていくというニーズに直面している。そして羽入氏のウェーバー批判は、こうした反学問的な知的文化を肯定する契機として受け止めることもできよう。実際、羽入書は、学問にルサンチマンを抱く人々の「ルサンチマン処理財」として消費されたという側面がある(井上芳保氏のいう「ルサンチマン処理産業」は、学問の分野にもそのニーズを発見するはずである)。

 もっとも羽入氏は、他人のルサンチマンを処理してあげるために研究を進めているのではないだろう。しかし今後、学問のオルターナティヴ探しや学問上のルサンチマン処理というニーズが増えるならば、いったい誰がこれに応えるのか。またこうした文化社会の変動を、私を含めて職業研究者たちはどのように受け止めるべきなのか。ここではこうした問題を提起して、本稿を閉じることにしたい。

(なお以上の私の応答は、論争の只中にあっては、最終的なものではないことを記しておきたい。)


橋本努「ウェーバー研究者に羽入-折原論争への応答を呼びかける手紙」

2004年1月

ウェーバー研究者に羽入-折原論争への応答を呼びかける手紙

橋本努

2004.1.18.


親愛なるウェーバー研究者の皆様へ


拝啓

 新春の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。

 折原浩氏が『ヴェーバー学のすすめ』(未来社2003年11月)を上梓され、羽入辰郎氏の著作『マックス・ヴェーバーの犯罪』に対して本格的な論争を展開されています。これを受けて、雑誌『未来』(2004年1月号)Iでは、折原氏の玉稿「学者の品位と責任――『歴史における個人の役割』」の他に、僭越ながら私も、拙稿「ウェーバーは罪を犯したのか――羽入-折原論争の第一ラウンドを読む」を掲載させていただきました。本稿は論争の争点を整理するものであり、あえて個人的な評価を抑制しておりますが、これはウェーバー研究者の皆様にも、何らかのかたちで論争に参加していただきたいと思うからであります。ウェーバー研究者の皆様は、羽入書に対して、当事者としてどのように応じられますか。また羽入-折原論争をどのように評価ないし判定されますか。ご意見を伺うことができれば幸いです。

 なお、拙稿とは別に、私は最近、本論争への参加と応答を示した原稿を書きましたので、ここにお送りいたします。こちらは私の個人的な評価となっています。御笑覧いただけると幸いです。

 さて、折原氏は、今年の年賀状で「ヴェーバーを詐欺師と決めつける際物本が出まわっているのに、正面から反論する研究者が『若手』からも『中堅』からも現れませんでした」と書いています。また雑誌『未来』では、ウェーバー研究者たちが応答せずに「見て見ぬふり」をしていることの「倫理的浅ましさ」を問いただしています。そして、「問題と状況のいかんによっては、多忙による回避が許されないこともある。あてどなくさまよう人間組織への責任を優先させ、研究への直接の責任を忘れるとすれば、本末転倒であろう」と結んでいます。さらに折原氏は、すでに論争の第二ラウンドを準備しており、『未来』三月号にはその原稿が掲載される予定です。また雑誌『エコノミスト』2004.1.27.号の60ページには、「著者に聞く」のコーナーで、折原氏が本論争とウェーバー研究者について、羽入説を黙認した学界の社会的責任を問うています。こうした折原氏の問題提起(あるいは倫理的要請)について、私たちはこれを、何らかの形で受け止めなければならない、と私は考えます。

 しかし私自身を含めて多くの研究者たちは、いったい論争というのは、どの時期に、誰が、いかなる媒体を通じてなしうるものなのか、という基本的な問題に直面します。なるほど折原氏は、今回の羽入氏の問題提起において、おそらく最も応答責任を問われている研究者であるでしょう。そして折原氏は、今回それに相応しい責任を果たしたと私は思います。しかもその応答は、私たちの予想をはるかに越える、すぐれた反論でした。ところが私たちにとって、はたして、私たちのすべてがこの論争に参加することが実際に可能なのか(それほどの媒体が確保されるのか)、また、論争への参加を自らすすんで引き受けるだけの意義があるのか(誰かから原稿依頼があれば応じる用意はあるのだが、自分から情報発信するには腰が重い)、という問題があります。

 もっとも幸いにして、現代社会にはインターネットというメディアがあり、誰でも少ないコストで自己表現をすることが可能になっています。そこで私から皆様にお願いしたいことは、例えばホームページを通じてこの論争に参加していただけないか、ということです。すでに個人のホームページを運営されている方は、そこに掲載することができますし、また運営されていない方は、例えば私のホームページに掲載をすることができます(手書きの原稿でも、私の方でワープロ原稿に変換いたします)。さらに、論争参加者たちの応答をお互いにリンクで結ぶことによって、インターネットの読者に対して分かりやすく、アクセスしやすいかたちで、私たちの応答を表現できるのではないかと思います。私のホームページには、「羽入-折原論争への応答」という趣旨のページを新たに設けたいと思っています。(本ホームページは、一か月に千人程度のアクセスがあります。)なお、このページにもし皆様の応答を掲載させていただく場合には、その著作権は、書き手である皆様のものとなります。つまり、掲載を途中で辞退されたり、内容を変更されたりすることが可能です。草稿を発表されて、のちに別の媒体に掲載する際に取り下げることも可能です。

 羽入-折原論争への応答責任は、「なるべく早い時期に」という倫理的要請を伴っています。また、本論争に直接応答しない場合でも、場外から間接的な応答をすることは可能です。応答しない場合には、なぜ応答しないのかに関する応答責任を負うことにもなるでしょう。私はこの応答責任の問題を重く受け止めています。おそらく、羽入書を読んだ人々が発するであろうメッセージは、次のようなものです。「ウェーバーって詐欺師なんでしょ。文献の操作なんかして、これは許せない犯罪ですね。先生はこれまでウェーバーを研究してきて、一生を(あるいは青春を)棒に振ってしまったのではないですか。ウェーバーなんか読まないほうがいいですよ。」――こういう具合に、社会的な評価がなされていくと思います。実際、羽入書は山本七平賞を受賞されましたので、事は政治的に動いています。これはやっかいな論争に巻き込まれてしまったと思われるでしょう。しかし皆様、この際、どうしてウェーバー研究が必要なのか、ウェーバーから何を学ぶことができるのか、といった素朴な問題にまで立ち帰って、もう一度語り直してみませんか。この論争を機会に、ウェーバーがいっそう読まれることを私は願っています。

 以上です。なおこの手紙を公開書簡として、私のホームページに掲載させていただきます。どうぞご了承ください。

 寒さが厳しい季節となりました。どうぞお身体には、十分ご自愛ください。今後ともご指導、ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。


敬具

2004年1月20日

橋本努


森川剛光「羽入-折原論争への応答」

2004年1月24日(タイトルはこちらで付けさせていただきました)

森川剛光「羽入-折原論争への応答」2004.1.24.

以下の文章は、森川剛光様からウェーバー研究会のメーリングリストに配信されたものです。


皆様 今晩は


橋本努様 初めまして、そして論争のレフリー役ご苦労様です。

 私自身、橋本さんがいう「ヴェーバー研究者」のものの数に入っているのかどうか分かりませんが、まず言い訳がましいことから始めますと、ここ二年間は主に実家の方の問題とプライベートの問題で、極めて生産性が下がっておりました。もう一つは、私自身Weberの科学論集は読み込んだといっても恥ずかしくないのですが、倫理論文は内在的な反論役を積極的に買って出る自信があるほど、あるいは折原先生のような優れた内在的な反論がかけるほど読み込んでいたわけではありません。折原先生の本により、内在的な点で私がいいたいことはほぼ出てしまいました。

 「羽入本」は執筆動機から、偶像破壊という、学問内在的というよりは、むしろ政治的社会的性格を強くもっていたように思われます。その前提はいうまでもなく、日本における学問の権威としてのヴェーバーとヴェーバー学(あるいはヴェーバー産業?)の存在であり、それを破壊することが目的となるわけです。(それと山本七平賞は極めて政治的な色彩をもった賞であります。)ただし、橋本さんが指摘されているように、現代においてヴェーバーが権威かというと、私は疑問です。私自身は1969年生まれですから、畏怖もルサンチマンももたない世代です。したがって、羽入本が前提としているものが、羽入氏自身が想定している程度に存在するものかどうか怪しい現在において、彼のやっていることは不毛にも思えます。勿論、動機が学問外のものであっても、「知の成長」に貢献すれば、それでいいということにもなるのかもしれません。実際、羽入本の論点のなかから、救うに値するものを救おうという橋本さんの態度は、respektableなものです。

 むしろ私が興味を持つのは、折原先生が提起されている大学院教育の問題と、橋本さんが『未来』一月号十頁下段以降で述べている、「羽入事件」に対する知識社会学的問題及び草稿最後の「知識人対大衆」の問題です。また羽入書出版の当時から関心があったのは、彼の批判が妥当かどうかというよりもこの本がどのように読まれるかということに関心がありました。

 「羽入事件」が投げかける問題についてはもう少し考えてみたいと思いますが、とりあえず次の点だけ指摘させてください。(誤解を招くかもしれませんが)。私自身は日本においては、知の「誘惑」が過剰のような気がしてなりません。(私自身、批判的合理主義者ではないので、通常「知の成長」という概念を用いませんが)、「知の成長」を一国モデルで考えるならば、「入門書」や「啓蒙書」による大衆への誘惑も知の成長を促す意味で意味があるのかもしれません。しかし、国民国家一国単位の知のシステムや海外情報を独占的に紹介する知識人といった前提が昨今成り立たなくなってきている以上、知識人による大衆の啓蒙というモデルがどこまで維持できるものかどうか、また大衆への知の誘惑が知の成長に対してどれほど費用対効果の意味で効率的なものかどうかは疑問が残ります。(これも「知の成長」を有意に定義できたとしての話です)。また国民国家単位での知の成長モデルではなく、グローバルな規模の知のシステムを考えるのであれば、アカデミズムに生きる人間の責任は後者に対する貢献においてもありえると思います。

 したがって、「知識人による大衆の包摂」か「大衆による知識人文化の壊滅か」という二者択一の理念型モデル以外のモデルを用いた方が、「大衆による知識人文化の壊滅」を嘆くだけという結果を避けるためには、有意義のような気がします。それは同時にアカデミズムの役割を再考ないし、再定義することでしょう。(もう一つついでにいえば、知識人が大衆を啓蒙しているのか、それとも文化産業に知識人が(本人は啓蒙を行っているつもりでも)搾取され、消費財を造らされているのか一見しただけでは判断は難しいような気がします。同じ事態も価値観点によっては別様に記述できるということなのかもしれませんが)。

 もう一つ、橋本さんの原稿での「知識人」は1.巨人や大家のテキストを解釈できる、読むことが出来る人間、2.アカデミズム内部の、大学に職を持っている人間の二つの意味でどちらが優勢なのでしょうか。1.が必ずしも2を意味しないし(例・在野の著名なヘーゲル翻訳者)、2もまた1を必ずしも1を意味しませんよね。2になれるかどうかは、知的能力よりも「僥倖」が重要であることは、ヴェーバーの昔も今も変わらない現実です。

 なんだか長くなってしまいました。橋本さん宛に直接メールをすればよかったかもしれませんね。皆様申し訳ありません。


それでは

2004年1月24日

森川剛光拝

◆森川剛光さんの略歴をご紹介いたします。

森川剛光(もりかわたけみつ)

1969年生

慶應義塾大学経済学部卒。同大学博士課程単位取得退学。1997年よりドイツ学術交流会奨学生として、カッセル大学留学。2001年Dr.rer.pol.(カッセル大学・社会学)取得。1998年−2003年カッセル大学(社会学・哲学)及びハイデルベルク大学(日本学)非常勤講師。現在日本学術振興会特別研究員(東京大学総合文化研究科)。4月よりフリーランスの通訳・翻訳者。

専攻:社会学理論、社会科学のための哲学、社会思想史、宗教社会学・文化社会学

主著:Takemitsu Morikawa: Handeln, Welt und Wissenschaft. Zur Logik, Erkenntniskritik und Wissenschaftstheorie für Kulturwissenschaften bei Friedrich Gottl und Max Weber, Wiesbaden 2001.(日本社会学史学会奨励賞受賞作)

主要論文:森川剛光「理念型の再解釈」『三田学会雑誌』2000年4月、93巻1号、189-218頁。

分担訳:土方透編訳『宗教システム/政治システム——正統性のパラドックス』新泉社、2004年(印刷中)


雑誌『エコノミスト』2004年1月27日号、60頁掲載(転載承諾有)


山之内靖「羽入-折原論争への応答」

2004年1月29日(タイトルはこちらで付けさせていただきました)

山之内靖「羽入-折原論争への応答」

以下の文章は、山之内靖様から寄せられた応答です。


橋本 努 様                 2004年1月29日


「ウェーバー研究者たちに羽入-折原論争への応答を呼びかける手紙」および、「羽入―折原論争への参入と応答」を拝受しました。

 まず、「呼びかける手紙」に関してですが、私はこの論争にも、また、羽生氏の議論にも、まったく関心がありません。私は、すでに『ニーチェとヴェーバー』(1993年、未来社)、『マックス・ヴェーバー入門』(1997年、岩波新書)、『日本の社会科学とヴェーバー体験』(1999年、筑摩書房)で私のなすべき作業はなし終えた、と自覚しています。私は既存のヴェーバー学のあり方に違和感を抱き、その違和感に長らく苦しんできましたが、それとの取り組みを通して自分なりの解答を構築してきました。その主題は、ヴェーバーを西洋近代に始まる文明の擁護者や賛美者としてではなく、およそ、近代文明への根底的な批判者あるいはニーチェの問いを深刻に自覚した問題提起者として受け止める、というものでした。研究者の倫理的誠実さとは、自分がそこに生きる時代のコンテクストをどう受け止めるかということ、この点に関わっていると私は思っています。私はヴェーバーの学問的な作業を完璧な体系として崇拝するような観点とは縁がありません。むしろ、知的専門家集団である一部のサークルが――戦後の社会科学において有力な集団でしたが――ヴェーバーを理想像へと祭り上げ、神格化してきた状況に、異議申し立てをしてきたつもりです。私が「自分がそこに生きる時代のコンテクスト」と言う場合、それは大学の中の研究者集団によるパラダイム(トーマス・クーン)なのではなく、むしろ、生活者としての日常性にかかわる社会的相互関係の場を念頭においています。

 貴兄がもし、羽入―折原論争なるものに応答し、あるいは参加することが、ヴェーバー社会学について何らかのまとまった議論をした研究者の「倫理的義務」だと主張されるのなら、あるいはそれにたいして「応答責任」があると主張されるのなら、それは倫理性ないし知的誠実性について、狭い理解に立っているのではないか、と思います。確か、先の『未来』での貴兄の論稿では、羽入氏の問題提起をヴェーバー研究の先行者に対する挑戦と呼んでおられたと思いますが、私は、ヴェーバーの諸著作をいかに読むかは、研究者的課題につきるものだと考えてはおりません。むしろ、現代社会の歴史的コンテクストのなかで生きる生活者にとっての、思考と討議の材料の一つ、その最良のものの一つ、と考えております。「先生はこれまでウェーバーを研究してきて、一生を棒に振ってしまったのではないですか。ウェーバーなんか読まないほうがいいですよ」と若い世代が思うのではないか、と貴兄は危惧していますが、そんな反応を気にするつもりは毛頭ありません。私は、いまでも、私の『マックス・ヴェーバー入門』を初めとする私の諸著作に即して講義をすすめ、演習で議論をしていて、若い世代から、活発な応答を受けています。また、このごろは増えてきた大学院での中年の社会人たちとも、大変に濃密な議論を交わしております。

 私にとって、いまヴェーバーは、これまでのアカデミックな議論の枠を突破する新たな領域との関連で意味ある存在となっています。例えば、かつて『立法者と解釈者』(1987年。邦訳、1995年、昭和堂)のなかでヴェーバーを論難していたツイグムント・バウマンは、後の、「労働の倫理から消費の美学へ」(1998年。邦訳、山之内編著『総力戦体制からグローバリゼーションへ』2003年、平凡社、所収)では、むしろ、ヴェーバーのテーゼを肯定的に援用する方向に向かっています。かつてのバウマンは、「ピューリタニズムがもたらした『禁欲的職業労働のエートス』に焦点を合わせ、ここから近代世界誕生の歴史物語を紡ぎだしたヴェーバーの方法は、宗教改革時代の実態を捉えたものではない。それは近代の合理性が行き詰まって『鉄の檻』と化した時代が自己救済のために後から捏造した神話なのである」と述べていたにもかかわらず(山之内編著、58ページ)。『立法者と解釈者』でのバウマンの発言は、どうやら、羽入氏の論点と重なるところがあり、その先駆の一つと言ってよいでしょう。しかし、その後のバウマンの論点には、ヴェーバーの論旨を受容した上での展開が見られるようになっています。

 確かに、産業社会から消費社会へと移行した、といわれる最近のグローバル化の状況においては、ヴェーバーの合理化論、脱魔術化論は、もはやそのままでは通用しないでしょう。それに代わって、むしろ、「再魔術化」が新たなテーマとして登場しています。(「再魔術化」については、ジョージ・リッツァーの最近の諸著作。荒川敏彦「脱魔術化と再魔術化」『社会思想史研究』26号、2002年。山之内靖「脱魔術化した世界の再魔術化――ヴェーバーからパーソンズへ、そして再びヴェーバーへ」『再魔術化する世界』2004年3月、お茶の水書房、等を参照)。しかし、リッツァーにしても、荒川氏にしても、また私の場合も、「再魔術化」の事象をヴェーバーの無意味化を指示するものとしてではなく、むしろ、ヴェーバーが展開していた近代批判の延長上に現れた問題性として捉えています。私には、羽入―折原論争なるものにかかわっている暇などないのです。ヴェーバーが現在の私たちの日常生活を特徴付ける新たなコンテクストの分析に発展的に援用できるなら、そうした肯定的意味においてあらたな理論的領域を開発すること、そのことこそが、私にとっての生きがいなのです。

 もはや「参入と応答」について言及するエネルギーは残されていません。しかし、少しだけ触れておきましょう。こちらについて、とりわけ最後の<「知的祭り上げ」と「詐欺師の誘惑」>については、貴兄の面目躍如としていて、面白く拝読しました。しかし、私は、「知識人と大衆の拮抗関係」という図式について、その有効性を認めはしますが、自分の取る生活者としての地点からは、その両者に距離をおきたいと考えています。昨年、NHKから「地球市場・富の攻防」という大変に魅力的な映像のシリーズが放映されました。それを見ていて思ったのですが、その魅力は、さらにはるかに深刻な事態に気づかせるものでした。私の念頭に浮かんだ状況の図柄、それは、貴兄が述べる大学教授の職業的地位の数とその限界、といったレヴェルではなく、従って、知識人と大衆というオルテガやクリストファー・ラッシュの系譜に連なる問題性ではなく、むしろ、大学はもはや知の発信地として有意味な場所ではあり得なくなったのではないか、と感じさせるものでした。どうやら、こちらのほうが、貴兄のいう大学教授のポストの限界とそれに対するルサンチマンなどよりはるかに深刻なのではないか、と感じます。現代社会がそこへと進みいっている新たなコンテクストについて、大学内部の知識人は甚だしく鈍感なのです。私自身、私の講義よりもこれらNHKの映像のほうが、学生たちにとって、日常生活のコンテクストを身近に感じさせるという点ではるかに有効だと思わざるを得ませんでした。そして実際、あの映像のなかから、ナイキを扱った「巨大企業対NGO」、中国のバスケットボール選手のヨウメイを扱った「最強商品スーパースター」、コト・デ・ガザを扱った「要塞町の人々」、南アフリカの看護士の引き抜きを扱った「人材供給大陸」等を講義や演習で放映し、それに対する感想文を書かせるという実験を試みました。その効果は、本当に、びっくりするほどのものでした。学生たちは、自分が何気なく購入しているナイキやリーボックの製品が、どのようなコンテクストの中で生産され、販売され、消費されているのかについて、そのグローバルな関連を生々しい現実感覚を通して知覚したのです。

 大学教授のポストが限られている、ということを過剰に受け取る必要はないでしょう。大学教授は、そもそも、生活者としての現実に鈍感なまま、その特権的な地位に守られて自己を課題に評価する時代遅れの哀れな存在であることが多いのです。今の時代の若者たちは、大学教授の偽の権威主義を本音のところでは見破っています。試験をして学生をランク付け、社会の官僚制的制度に忠実な人格として送り出すそのシステムが、いまではいたるところでほころびを見せています。大学を卒業しても職がなく、あらためて専門職業学校に入りなおす学生の数は、年々、増大しています。そして実際、いくつかの大学は、最も肝心の入学試験さえ河合塾に依存するという事態にまでいたりついています。要するに、現代の先進社会の諸大学は、社会の新身分制秩序の予備校そのものへと、あるいは、企業の利潤を生み出す新技術開発研究所へと、成り下がっているのです。メディアの領域では、中国のヨウメイ選手がそうであるように、大学教授などには及びもつかない巨大な影響力を備えたタレントが生産されています。

 そうした時代状況をどのように生活者として認識するのか。また、ヴァーチャル化(仮想現実化)した生活秩序の背後にある存在論的問題性をどのように自覚化し、それを表現する社会運動へと結晶化してゆくのか。そうしたことが、いま、私の頭と身体を捉えています。その巨大な課題からすれば、所詮はヴェーバー研究者の間で強迫観念的に語られるに過ぎない倫理性だの知的誠実性など、時間を割くにはあまりに小さい問題なのです。

 ヴェーバーが羽入論文などの雑音によって読まれなくなるとするならば、読まれなくて良いでしょう。ヴェーバーだけにしがみついて、その学問的体系性が破壊されたら自分の存在に意味がなくなる、などと考えるのは馬鹿げています。そうした思い込みに従って、ヴェーバーへのあらゆる非難に首を突っ込み、そうすることによって自分を研究者的倫理性の模範だと主張するような強迫観念から私は自由でありたいと願っています。時代のコンテクストにたいして、それに正面から取り組もうとする人々がいる限り、そこに広がる討論のネットワークから、新たな知的エネルギーが沸いて来るでしょう。かつてヴェーバーは、20世紀の初頭という歴史的・時代的コンテクストのなかで、そうした新たな知的ネットワークの一つの結節点となったのです。その生き方こそが学ばれるべきであり、特殊に体系化ないし理念型化されたヴェーバー学など、どうでも良いのです。マルクスについても同じことが言えます。マルクスやヴェーバーから与えられた知の一つの可能性を、新たなコンテクストのなかで絶えず新たなものへと更新すること、その創造性こそが問われているのです。そうした創造性を欠いた専門研究者たちが、文献学的に地道に論じるべき事柄を詐欺行為などと大げさに粉飾したり、あるいは、ヴェーバーをそうした売名行為から守ることが学者の倫理性や知的誠実さを示す証なのだ、という強迫観念に取りつかれたりするのです。


                      山之内 靖


横田理博「羽入-折原論争への応答」

2004年2月1日(タイトルはこちらで付けさせていただきました)

横田理博「羽入-折原論争への応答」

以下の文章は、横田理博様から寄せられた応答です。

2004.2.1.


橋本努様

 前略

 ご論考をお送りいただきまして、ありがとうございます。

 橋本さんの問題提起を受けて、私の所感をしたため「応答責任」を果たしたいと思います。

 羽入辰郎氏の『マックス・ヴェーバーの犯罪』については次のように考えております。

 彼の“間違い捜し”は所詮、ウェーバーのテーゼの“例示”のレヴェルの間違い捜しに過ぎず、例示の仕方を間違えたからといって骨組みとしてのテーゼ自体の間違いにはならないと考えられます。たとえば、ルター訳聖書の「コリントⅠ」7-20にBerufという訳語がなくても、ルターに「Beruf(職業=使命)」倫理が存在していたとはいえるし、また、フランクリンが倫理的というより功利的な生き方をしていたといえるとしても、自己目的の倫理としての「資本主義の精神」を設定することはできます。テーゼ自体の検証には彼は全く手をつけようともしていません。彼の間違い捜しがそういう位置づけしかもたない(つまり、ウェーバーのテキストの批判にとどまり、新たな歴史学的寄与を伴ったものではない)にもかかわらず、あたかも従来のウェーバー研究をまっこうからくつがえす大発見であるかのごとくアピールしているのは、少なくとも不適切な表現であると考えます。

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という著作はどういう筋道の著作なのか、これを羽入氏は正確には提示していません。『プロ倫』の中味を知らない読者は、羽入氏がとりあげて批判しているところを『プロ倫』にとって重大な箇所だと誤解し、そこが反駁されたのだからもう『プロ倫』はダメだと短絡的に判断してしまいます。ウェーバーを丹念に読んできた人間ほどこの書に反発を抱き、ウェーバーを知らない人ほどワクワクする“推理小説”のようだとこの書を賞賛する、という事態の理由はここにあります。

 ウェーバーの著作は、古典として名前が定着する一方で実際にはあまり読まれなくなっており、そしてウェーバーの主張が正しいのかどうかといった関心はほとんど失われているのが現状です。この無関心さをついたのが羽入氏の問題提起だったといっていいでしょう。(私自身は、ウェーバーの主張が常識化される一方で、同時代のゾンバルトやシェーラーの「資本主義の精神」論が全く忘却されていいのか、という羽入氏とは全く別の観点からこのことを問題にしています。)ウェーバーが参照した資料に自分もあたってみるという羽入氏の地道な作業は、それ自体は尊重されてよいでしょう。しかし、そこで間違いを見つけたからといって、文脈の軽重をわきまえずに「犯罪」を告発してしまう軽率さは批判されざるをえません。

 ウェーバーに間違いを捜せばいくらでもあると思います。かりに八方破れであったとしても、その中に光っているものを極力ひきだそうとするのがウェーバーを読む意義です。研究者の価値関心に応じてウェーバーからひきだされたものの価値は、羽入氏の指摘するような間違いがあろうがなかろうが変わらないはずです。

 さて、羽入氏の著作に対して、折原先生が透徹した反駁書を書かれたことに対して私は敬意を表しております。そして、折原先生が、自分のような老兵が出てこざるをえないような、若いウェーバー研究者たちのだらしなさを痛感されていることについては、私も自戒せざるをえないところです。

 ただ、ウェーバー研究者が羽入氏の主張に対してこれまで全く批判を試みなかったわけではありません。私自身も、『マックス・ヴェーバーの犯罪』が出版される以前に、『思想』に掲載された羽入論文について短い批判を自分の論文の註に入れてはおりました。下記のような内容です。

 羽入辰郎「マックス・ヴェーバーの『魔術』からの解放――『倫理』論文における “Beruf” 概念をめぐる資料操作について」(『思想』第885号、1998年、所収)は、「コリント人への第一の手紙」7-20のルター訳に》Beruf《という訳語が一度もなかったことを示してウェーバーの誤りを批判している。しかし、世俗的職業を神から与えられた使命だと考える観念がルターおよびルター派にあった、ということがウェーバー・テーゼにとっては重要なのであり、そのことはこの翻訳問題によってくつがえされるわけではない。少なくとも「ベン・シラの知恵」11-20, 21では世俗的職業のことを》Beruf《 と訳したこと、また、「現代の普及版ルター訳聖書」の「コリントⅠ」7-20には》Beruf《 という訳語があることは、ルターおよびルター派にいわゆる「ベルーフ倫理」の観念が存在することの表れであると看做せる。観念(思想内容)が訳語の選択の仕方に表れうることは確かだが、訳語の不在が観念の不在を証明することにはならない。

 残念ながらこのコメントを含む原稿はいまだ出版に至らず、日の目を見ていないのですが、通常の研究者にとって、他の研究者に対する反論は、自分の論文の中で多少のコメントをするという形しかとれないのではないかと思っております。

 ウェーバーからいったい現在何を学ぶことができ、教師は学生にウェーバーのどういうことを教えるべきなのか、という橋本さんの大きな問題提起については、今後とも真摯に考え、論文や大学での授業内容という形で表現していきたいと考えております。

                              草々

2004年2月1日

                               横田理博


牧野雅彦「羽入-折原論争への応答」

2004年1月31日、2月7日改定(タイトルはこちらで付けさせていただきました)

牧野雅彦「羽入-折原論争への応答」

以下の文章は、牧野雅彦様から寄せられた応答です。

2004.1.30. (2004.2.7.revised)


橋本努様

 「羽入-折原論争」(羽入氏の応答がまだなされておりませんので、そのような呼称が適当かどうかは議論のあるところですが、とりあえず羽入辰郎氏の著書とそれに対する折原浩氏の批判書をめぐって今後行なわれるであろう議論と理解しておきます)に「参入」して意見を述べることは、さしあたりは控えておきたい、というのが私のいまの考えです。

 というのもご承知のとおり私は、折原氏の批判書の草稿をまえもって読ませていただいて、いくつかの意見を折原氏と私的に交わしており、そのことが折原氏の批判書のあとがきで記されている関係上、かたちの上ではすでに折原氏の側に位置することになっているからです。ですからここで私が「羽入-折原論争」について何か発言するならば、それはその内容の如何にかかわらず論争の一方の当事者に与するとの印象をもたれるおそれがあります。もちろん折原氏と私との間に見解の相違がないわけではありませんが、すでに折原氏の批判書は私の意見や疑問に対する応答も含めて書かれているのであるから、それに対して新たな論点を提示することなしに同じ議論を蒸し返すことは折原氏に対してもフェアではないし、またおそらく羽入氏がされるであろう反論の論点を先取りするかたちになるのは避けたい、と考えているからです。

 とはいえ、私と折原氏との間で意見が一致しなかったつぎの点についてあらかじめ明らかにしておくことは、今後予想される論争が学問的に生産的なものとなるためにも重要なことと考えます。争点となったのは他でもない、ルターの聖書翻訳をめぐってかかれた「プロテスタンティズム」論文の脚註をどう読解するかです。

 とりあえず未来社版安藤編/梶山訳で引用しておくと、143頁後ろから6行から5行(大塚久雄訳、岩波文庫では106頁)の部分になります。


「しかるにルッターは、各自その現在の身分に止まれとの、終末論に基づく勧告に関して、klesisを>Beruf<と翻訳した後、旧約外典を翻訳するに当たって、各自その職業に止まるを可とするとの、イエス・シラクの伝統主義的反貨殖主義にもとづく勧告に関しても、単に両者の実質的類似(sachliche Aehnlichkeit)のみからponosを>Beruf<と翻訳したのである」


この「klesisを>Beruf<と翻訳した」の一句をどう理解するか、私は当該註のすぐ前(安藤編/梶山訳142頁)で示されている『コリント前書』第七章のことを指していると解するのに対して、折原氏はここはウェーバーがとくに『コリント前書』第七章と特定していないのであるから、当該註のはじめの方で提示しているBerufの二つの用例のうちの前者、『エフェソ』1の18、4の1および4、『テサロニケ後書』1の11、『へブル』3の1、『ペテロ後書』1の10などの事例(安藤編/梶山訳139頁)の方を指すと解釈されます。その理由についてすでに折原氏は批判書133頁以下の註で詳しく論じられております。

 私には件の註全体の文脈、梶山訳/安藤編の頁でいうと139頁で二つの用例、「コリント前書1の26 エペソ1の18、4の1/6、テサロニケ後書1の11、へブル3の1、ペテロ後書1の10など」などのいわゆる「神の召し」の事例と、「イエス・シラク(ベン・シラ)」の「汝の職業にとどまれ」の事例をあげ、この二つの異なる用例を結ぶ事例として141頁以下で「コリント前書七章」を「現在のルター版」で逐語的に引用し、一五二三年にはルターはなお二〇節をRufと訳していることを指摘した後に、件の個所がおかれている――しかも改定時にはだめをおすように「前述のごとく、コリント前書7の17のklesisは今日の意味での『職業』を指すものでは決してない」とつけ加えている――という文脈からみれば、『コリント前書』第七章と理解するのが素直な解釈であるように思われます。

 ただし、私のような解釈をとれば、当該註でウェーバーが用いている『コリント前書』第七章が「現代版」であるということをどう説明するのか、という難点に突き当たることになります。「現代版」ルター聖書がルター本人の訳ではなかった、少なくとも当該個所をルターはBerufと訳していなかったことは羽入氏が明らかにされました(この事実それ自体についてはまだどなたも反論されていないように思います)。それではなぜウェーバーは「現代版」で「コリント前書」を用いたのでしょうか? ウェーバーは「現代版」がルター本人の訳でないことを知らずに「間違って」用いたのか、知っていたけれども何か別の理由があったのか(そうするだけの理由があった、というのが折原氏の理解でしょう)。ウェーバーも一人の人間ですから、なにかの「錯誤」があってルター本人の訳と取り違えるということもありうることだと私は考えております。ただ、そうであればなぜ改訂の際に訂正しなかったのか、羽入氏のいわれるように、隠蔽の意図があった、とまでは私は思いませんが、それでは訂正しネかった事実をどう説明したらいいのか、いまのところ私は自分自身と他人を納得させることのできる説明を見いだすことができません。というわけで折原氏に対してそれ以上の論点を提示できないままに、この点については「意見を留保」するかたちで終わっております。

 たしかに折原氏の解釈は、そうした問題を回避する実に巧みな読み方だといえるでしょう。羽入書の論点はいくつかあげられますが、最大の論点はやはりルター訳聖書をめぐる論点――ウェーバーが『コリント前書』第七章の当該個所でルター訳でなく現行版を使っていた――であり、この点が折原氏のような読解によってクリアされれば羽入書の衝撃力は相当に減殺されることにもなるでしょうから。

 ただ羽入氏の著書の評価をはなれてみると、わたし自身は、折原氏のような解釈は「プロテスタンティズムの倫理」論文当該註の読み方としてはすこし無理があるように思えてなりません。この点についてはこれまで「プロテスタンティズムの倫理」論文に関して研究されてきたウェーバー研究者やキリスト教関係の研究者の方々にも、当該個所をどう読まれてきたのか、ご意見をうかがいたいところです。

 もちろん当該個所は論文の脚註の一部であり、そこから論文全体の論証の如何を云々することは直ちにはできないことはいうまでもありません。さらにウェーバーの宗教社会学、とくに後期の「世界宗教の経済倫理」にいたる展開をふまえた上で「プロテスタンティズムの倫理」論文を位置づけるてみるならば些末な一点ということになるかもしれません。ただ、これまで多くの人に読まれてきたはずのウェーバーのテキストについてさえ解釈の分かれるところがある、という事実を羽入・折原論争ははからずも明らかにしたと思います。今後論争に参入される方々が、この個所についてどういう理解をされているのか、この個所をどう読まれてきたのか、参入されるに当たってまずこの点を明らかにされることを願っております。

                          牧野雅彦


折原浩「学問論争をめぐる現状況――全国の研究者、読書家、学生/院生のみなさんへ」

2004年2月7日(本コーナーへの寄稿)

学問論争をめぐる現状況

――全国の研究者、読書家、学生/院生のみなさんへ


折原浩

(2004年2月7日)

本稿は元来、神戸大学社会学研究会編『社会学雑誌』第20号(2003年)に掲載された拙論「マックス・ヴェーバーにおける社会学の生成――Ⅰ. 1903~07年期の学問構想と方法」の続篇を、同誌第21号に寄稿するとお約束していながら、ある事情で執筆できなくなり、そのお詫びと釈明を兼ねて、『社会学雑誌』編集者宛ての手紙として執筆されました。「ある事情」とは、羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(2002年、ミネルヴァ書房、以下羽入書)が公刊され、その論駁にかかわらざるをえなくなったことです。

この件はその後、昨(2003)年11月、羽入書が「山本七平賞」を受賞し、筆者の論駁(拙著『ヴェーバー学のすすめ』、未來社、以下拙著、第二章)も公表されて以来、広く「言論の公共空間」で注目されるようになり、この橋本努氏のホーム・ぺージにも、「マックス・ヴェーバー/羽入-折原論争の展開」と題するコーナーが開設されました。そこで、この件にかかわる筆者側の覚書と所見も、あるいは全国の研究者、読書家、学生/院生のみなさんの関心を惹き、研学のご参考にもなろうかと思い、「学問論争をめぐる現状況」と題してこのコーナーに掲載していただくことにしました。『社会学雑誌』読者のみなさんにも、このコーナーへのアクセスをお願いしています。

§1. 羽入書の特異性――「生産的限定論争」の提唱ではなく、ヴェーバー研究者への「自殺要求」

『社会学雑誌』への寄稿にかんする筆者の計画では、一昨(2002)年末に上記拙論「マックス・ヴェーバーにおける社会学の生成――Ⅰ.」を脱稿したあと、ただちに続篇の執筆にかかり、遅くとも昨年夏までには仕上げて、年来の懸案「ヴェーバー『経済と社会』全体の再構成」に戻るつもりでいました。ところが、その間に、羽入書が公刊され、「言論の公共空間」に登場してきたのです。しかも羽入書は、表題からも、内容からも、「拙論には関係がない」といって避けて通るわけにはいかない本でした。

というのも、羽入書は、「ヴェーバー研究者としてともに生きながら特定の争点に限定して、双方の見解を対置し、『(なんらかの、たとえば歴史的)妥当性』を規準として学問的生産性を競い合い、そうしたやりとりをとおしてなにか実りある成果を生みだそう」という、いわば「生産的限定論争」を提起しているのではありません。もしそうした論争の提唱であれば、「いまちょっと忙しい」、「いま別の研究テーマを抱えているから」といって、対決ないし態度表明を留保し、後日論争に加わる、というのでもいいでしょう。ところが、羽入書は(その主張を真に受けるならば)、ヴェーバーの学問的業績の特定内容に限定して「妥当性」を問おうとするのではなく、そうしたことにはいっさい関心がないと宣言し、もっぱら人間ヴェーバーの知的誠実性を疑い、「ヴェーバーは詐欺師である」との全称判断をくだして、かれの「人と作品」をまるごと葬ろうとしているのです。かりに羽入書の主張が百パーセント正しいとしますと、ヴェーバー研究者は、「詐欺」の片棒を担ぎ、ヴェーバーの「欺瞞」を世に広めて害毒を流してきた「共犯者」あるいは「犯罪幇助者」ということにならざるをえません。

この意味で羽入書は、いうなれば、ヴェーバー研究者にたいする「自殺要求」です。ですから受け手が、羽入書のこの激越な要求にたじろいで、ストレートに受け止めきれず、「ヴェーバーが詐欺師であったかどうかはともかく」と留保して肝心要のポイントを外し、「生産的限定論争」にすり替えて、羽入の主張をたとえば「歴史的妥当性」その他、別のアリーナに移し替えて限定的に評価するとすれば、それはいわば「お人好しののんきな自己欺瞞」であり、事柄に即してみれば「本末転倒」というほかはありません。「自殺要求」にたいしては「喰うか食われるかの死闘」を闘い(念のために書き添えれば、もとより文字通り「殺し合い」をするというのではありません)、論戦に破れて討ち死にするか、あるいは、こちらが生き延びて、「犯罪加担者」との「濡れ衣を晴らし」、ふたたび晴朗に、ヴェーバー研究論考を(たとえば『社会学雑誌』をとおして)「言論の公共空間」に発表したり、数々の「生産的限定論争」を企画したりすることができるように、その基本的な要件を回復するか、どちらかしかないのです。そうすることが、羽入書の主張を真に受けて正面対決するフェア・プレーであり、著者としての羽入個人にたいする最大の敬意でもありましょう。

とすると、そうした羽入書はなるほど、ヴェーバー研究者にとっては「生き死に」にかかわる問題かもしれないけれども、それだけにもっぱらヴェーバー研究者にかかわるだけではないのか、との疑問が生ずるにちがいありません。しかしじつは、そうとは思えないのです。羽入流のやり方で、ある一領域の研究者が「自殺」に追い込まれるとすれば、ことはその領域かぎりではすまされず、いついかなる領域でも、同じように研究者の(研究者としての)生命が脅かされ、学問研究の息の根が止められかねません。この論点は、追って§7で敷衍します。

§2. 軽佻浮薄なシニシズムを排す

むしろ「羽入本人は、軽い気持ちで『犯罪』や『詐欺』にたとえているだけなのに、それを『真に受ける』ほうが大人げない」とせせら笑う向きもあろうかと思います。しかし、故人とはいえ、他人を気楽に(「死人に口なし」とばかり)「詐欺師」とか「犯罪者」とか決めつけていいものでしょうか。「比喩」としても程があります。こういう耳目聳動を目論む「言いたい放題」を、「見て見ぬふり」をして「放っておく」と、いつしかそういう流儀に感覚的に馴らされ、粗野でいい加減な言表や思考が世にはびこることになりかねません。いつかこういう話をきいたことがあります。すなわち、「ホロコースト」はなかった、という言辞が、初めは憤然と抗議され、批判されても、性懲りなく繰り返されているうちに、「ああまたか」と受け流されるようになり、そのうち「ああまで『批判に耐えて』繰り返されているからには、ひょっとして『泥棒にも三分の理』があるのではないか」ということになってきて、やがて、事情に疎い後続世代には「五分五分の主張」と映る。それが怖い。だから、条理にかなった批判を、こちらも性懲りなく繰り返すほかはない、というのです。これには、「なるほど。なんでも『水に流して』、『元の木阿弥』というのとは違うな。粘り強く批判を繰り返して『歴史の偽造を許さない』リアリズムだな」と感心したものでした。

およそ学問には、ですから学者には、現代大衆社会の軽佻浮薄な「風潮に抗してgegen den Strom」、いつどこにでも原則的/原則論的な思考を持ち込む「対抗力Gegengewicht」の拠点を、みずからの言動と後継者の育成をとおして確保していく責任があると思います。ちなみに、それがマックス・ヴェーバーの「生き方Lebensführung」でした。まさにそれゆえ、この現代大衆社会で、ヴェーバーを研究し、学生/院生に「教える」――その自己形成を介助する――ことに意味がある、と思うのです。

§3.「(研究)仲間内」と「言論の公共空間」

なるほど、「ヴェーバー研究者」の仲間内あるいはサークル内では、①「羽入書のようなのは『ヴェーバー研究』ではない」「少なくともまっとうな『ヴェーバー研究』ではない」といって無視していても、さしあたり支障はないでしょう。②「反論に値しない」として「自然の淘汰」「時間の淘汰」に委ねておけば、さざ波さえ立たないかもしれません。さらには、③「(後輩の)羽入が近刊の著書を贈るといっていたのに、送って寄越さないから、『買わざる、読まざる、論じざる』だ」と「三猿」を決め込んでいても、「若いのに『お山の大将』になってしまって」と笑ってすますことができましょう。

ただし、(③は論外として)①と②には、ヴェーバー研究者としてそれでよいのか、という原則問題が提起されます。②については、別のところ(「学者の品位と責任――『歴史における個人の役割』再考」、『未来』、2004年1月号所収、本コーナーに転載)で、ヴェーバーの「淘汰説」批判と「責任倫理」論との接点の問題として論じましたので、そちらを参照していただければ幸いです。ここでは①をとり上げますと、周知のとおりヴェーバーは、「法の妥当性一般を否認する無政府主義者を、大学の法学部に受け入れてよいかどうか」という問題提起にたいして、「否認の根拠への確信が真正で」「論証を重んずるかぎりは」との条件を付けて「是」と答え、そのさい「もっともラディカルな懐疑が、認識の父である」と語りました。これになぞらえれば、「ヴェーバーの人格そのものを否認する羽入を、ヴェーバー研究のサークルに受け入れるべきかいなか」という問題設定にも、おのずと答えが出るでしょう。受け入れたうえで、「否認の根拠への確信が真正」かどうか、羽入の「論証」の是非を問うべきなのです。別にマックス・ヴェーバーを偶像に祀り上げるのではなくとも、かれの人となりへの信頼は、ちょっとやそっとでは微動だにせず、むしろ羽入の「ラディカルな懐疑」によって(皮相な信頼者には自明視され、隠されているかもしれない)「新たな認識」がもたらされるならば、それだけ信頼も深まろう、くらいに泰然と構える度量がほしいところです。ヴェーバー自身のそうした学問観と照合すれば、①ないし②の理由で羽入書に「門前払いを食わせる」ヴェーバー研究者は、やはり「ヴェーバー読みのヴェーバー知らず」というほかはありません。

ところで、そういう論文が、「ヴェーバー研究者」の仲間内ないしサークル内にかぎって議論されるのではなく、公刊された一書として「言論の公共空間」に登場したとなると、話は別になります。自分たちのヴェーバー研究が、「詐欺」「犯罪」への加担ではなく、この日本社会の「言論の公共空間」で「存立に値する」「意味のある営為である所以を、分かりやすく論証し、説得的に提示しなければなりません。この基本的義務を怠るとすれば、その社会的責任は重大です。

ここで学者は、原則として羽入書の主張を真に受け、公開場裡で論評しなければなりません。そしてその論評は、上記のような羽入書の特異な主張からして、「死闘」とならざるをえません。つまり、「ヴェーバーは詐欺師である」との主張を反論によって覆し、羽入がみずからの知的誠実性において自己批判することを求め、ばあいによってはそのうえで上記「生産的限定論争」の関係に持ち込むか、それとも、反論にいたらず、あるいは反論してもこちらが破れて、「詐欺師の手先であった」と自己批判し、ばあいによってはみずから学者生命を絶つか、どちらかです。

§4. ヴェーバー研究者における「当事者性の自覚」と「状況認識」の問題

筆者も、一方ではヴェーバー研究者のひとりとして、ヴェーバーの学問観に原則的にしたがい(もっとも、異なった学問観からヴェーバーを研究するということも、当然ありえます)、他方では「言論の公共空間」に属する公衆の一員として、応分の社会的責任を心に留め、羽入書を一読しました。そして、「失望落胆」しました。羽入書は、批判の矛先が「倫理」論文一篇にもとどかない「ひとり相撲」で、「原典」調査も徒労に終わっており、ただ罵詈雑言と自画自賛の量と質が『ギネスブック』に載るかとも思われる代物でした。

そこで、まずはヴェーバー研究の「若手」や「中堅」に宛てた昨年の年賀状に、「羽入の告発は、たとえばフランクリンとルターとを直接つなげようという『疑似問題』を持ち込んだ『ひとり相撲』にすぎず、反論は容易」との趣旨を書き添え、「非行少年がはびこるのも、大人が正面からまともに対応しないため」と付記して、遠回しながら反論執筆を勧めました。なにも、手始めに「若手」や「中堅」を前面に押し立て、万一かれらが破れて引きあげてきたら、「大将」がおもむろに受けて立とうなどと、深謀遠慮をめぐらしたわけではありません。ただ、拙論の続篇と「『経済と社会』全体の再構成」の執筆のために時間を確保したかっただけです。ところが意外なことに、ヴェーバー研究者の圧倒的多数からは思わしい手応えがなく、態度表明ないし反論執筆の気配は窺えませんでした。

ちなみに、筆者はこのあと二回、ひとつは書評「四疑似問題でひとり相撲」(東京大学経済学会編『季刊経済学論集』第69巻第1号、2003年4月、所収)の抜き刷り、いまひとつは拙著『ヴェーバー学のすすめ』を紹介ないし贈呈して、控えめながらヴェーバー研究者に態度表明ないし反論発表を促しています。しかしいまだに、これぞという応答はありません。この点は、羽入書以上に深刻な問題と思われますので、いま少し対応を待ったうえ、稿を改めて論ずる予定です。

ただひとつ、ここでも、上述したこととの関連で、指摘しておきたいことがあります。それは、多くのヴェーバー研究者が、「自殺要求」という羽入書の特異性を見抜けず、あるいは真に受けず、「生産的限定論争」の提題と混同してしまうらしい、ということです。筆者のほうでは、「この『自殺要求』を放っておくと、どんな各個研究も存立を脅かされかねないので、各ヴェーバー研究者がそれぞれ反対を表明するなり反論を発表するなりして、ともに共通の存立基盤を確保し、そのうえで各人の各個研究を晴朗闊達に進め、ときにはお互い『生産的限定論争』も闘わそうではありませんか」と提唱しているつもりです。ところが、多くのヴェーバー研究者は、筆者がある特定の「生産的限定論争」へ向けて、自分独自の各個研究を発表しているだけなのに、その意味を過当に一般化し、僣越にも押しつけてきて、叱咤激励しようとする、なにかこの件で「踏み絵」を踏ませようとする、とでも思っているかのようです。「この件は、ヴェーバー研究者としての貴台自身の問題でもあり、当事者としての対応を求められていますよ」というメッセージが、どうもとどかないようなのです。そして、ある人は、「老人のお仕事ぶりはたいへん結構。でも、自分のほうも現職の多忙のなかで、これだけの各個研究はしていますよ」と業績をドサッと送ってくださいますし、他のある人は、「『ヴェーバー研究』として価値のない羽入書を論駁しても価値はない。『「経済と社会」全体の再構成』ないし『客観性論文』補訳の改訂というもっと大切な仕事を『お留守』にしていいのか」と逆に筆者を責めてきます。後者にたいしては、筆者としても、「そんなことは小生がいちばんよく分かっています。貴台が『三猿』を決め込み、『価値のない』仕事を自分はやらないと息巻いて、ヴェーバー研究者としての『社会的責任』を顧みないから、やむなく小生が人生の残り少ない時間を割き、『価値のない』羽入書論駁に当てざるをえないのです」と、このさいはっきりいっておきます。

いずれにせよ、ヴェーバー研究者から、なぜこれほど「当事者性の自覚」が薄れ、おそらくはそのためか、「状況感受性」したがって「状況認識」が鈍り、「社会的責任」感も低下してしまったのでしょうか。対等な相互批判を回避し、「第三者・傍観者天国」に安住し、たまに論争に出くわしても、当事者の主張内容にたいして自分自身の評価内容を詰めようとはせず、むしろ「論敵を口汚く罵る」といった、美意識にすり替えた非難でことをすませ、「人格者(君子)」面を通そうとする、そういうこの社会の学問文化風土と、これに根ざした大先達・大塚久雄の「負の遺産」(批判黙殺のスタンス)が、深く浸透してしまっているのでしょうか。

§5.「倫理」論文かぎりでの論駁と、「原典」に照らしての批判的検証

さて、前段のつづきに戻りますが、年賀状添え書きへの音沙汰がないのを知って、筆者も「他人任せにしておいてはいけない」と悟り、拙論の続篇と「再構成」関係の仕事はやむなく中断して、羽入書論駁の執筆に取りかかりました。

羽入書は、「倫理」論文の本論(第二章)ではなく、第一章「問題提起」から、ルターとフランクリンにかかわる箇所だけを抜き出し、しかも両者を語の外形で直線的につなげようとする架空の「パースペクティーフ(遠近法)」を持ち込み、それで著者ヴェーバーを「批判」したつもりになっていますから(つまり「ひとり相撲」をとっているだけですから)、そのかぎりで暴露/論破するのは簡単です。しかし、ルターとフランクリンの「原典」を持ち出してくる部分を、当の「原典」に照らして批判的に検証し、そのうえで反批判するには、こちらも「原典」に当たらなければならず、とくに重要なルター文献については、その取り扱いの基本から学びなおし、わずかですが二次文献も参照しなければなりませんでした。しかしその結果、羽入には、ヴェーバーばかりでなく、ルターもキリスト教全般のことも、分かっていない、ということがはっきりしました(詳しくは、拙著、第二章、とくに57, 61-3, 66, 129, 130ぺージ、参照)。

ちなみに、この件にかんするヴェーバー研究者の対応についても、筆者は、「倫理」論文一篇と照合すればできるはずの「ひとり相撲」暴露/「ヴェーバー詐欺師説」論破と、「原典」にもとづく批判的検証/反論とを、はっきり区別しています。筆者が問題とするのは、後者にまで手が回らなかったことにかんしてではなく、前者を怠っているとしか思えない点についてです。

それで、筆者も、三月末には、「倫理」論文との照合にもとづく――そのかぎりでの――論駁をまとめ、書評「四疑似問題でひとり相撲」として『季刊経済学論集』に発表しました(じっさいには5月初旬刊)。

§6. 論争内容と、条件づくりと

しかし、それだけでは、掲載誌の性格上、読者の範囲がかぎられますし(多分、『社会学雑誌』読者のみなさんの目には触れていないでしょう)、書評欄ではスペースに制限があるので、意を尽くせません。この「スペースの制限」という形式的公平原則は、その枠内で議論を尽くさなければならないとなりますと、いきおい、瑣末な論拠から「ヴェーバーは詐欺師である」との全称判断に短絡する、羽入書のような耳目聳動的な議論に有利となり、これに対抗しようとすると、こちらの議論も、ともすれば「相手に似せておのれをつくり」、大雑把となりかねません。そこで、羽入の瑣末な論拠を逐一微細に反論するに足るスペースを確保し、「原典にもとづく批判的検証も加味した、やや長篇の論駁稿をしたため、ストレートに「マックス・ヴェーバーは詐欺師ではない――羽入書論駁」と題し、まずは人文・社会諸科学に広く読者をもつ雑誌から始めて、公刊してくれる出版社を探しました。

ところが、この日本という社会の出版業界も、学界の体質に対応してか、論争を重んじ論争に即応して出版を企画する態勢はとっていません。ましてや厳しい学術書出版不況のさなかとあっては、「ヴェーバーは詐欺師かいなか」といった「ヴェーバー業界内部」の「コップのなかの嵐」(じつは、そうではないのですが、この点については次節§7で詳論します)には、なかなか取り合ってくれません。あるいは、ことが大きくなると、羽入論文や羽入書を採り上げた編集責任を問われる、との予感がはたらいたのかもしれません。

いずれにせよ、日本というこの社会では、学問上の論争に徹しようとすると、内容だけではなく、論争の条件づくりにも苦労する、という現実に直面しました。とすると、「若手」のヴェーバー研究者が反論を発表しなかったのも、こういう外的制約のためで、無理もなかったのかもしれません。もしそうでしたら、「若手」研究者にたいする前述の批判は、失当で過酷であったと反省し、お詫びします。いまでは幸い、このコーナーが開設されていますから、「若手」も「中堅」も、ぜひ寄稿されるよう、筆者からも要望します。

筆者のばあい、けっきょくは未來社が出版を引き受けてくれましたが、「『ヴェーバーは詐欺師ではない』という表題では、狭隘かつ消極的にすぎるので、むしろ読者に、『倫理』論文ほかのヴェーバー著作をみずから読んでみようという意欲を喚起できるように、表題を改め、筆者の『倫理』解釈の基本構想と学問観にかかわる持説とを積極的に打ち出してほしい」という要望があり、これは喜んで受けて、急遽第一章を執筆し、『ヴェーバー学のすすめ』と題する単行本にまとめました(2003年11月刊)。

ともかくも、羽入書刊行後、約一年とちょっとのところで公刊にこぎつけられて、ほっとしました。

§7. 羽入書におけるヴェーバー断罪の一例――このやり方が広まると、どうなるか

さてここで、羽入書におけるヴェーバー断罪の一具体例をとりあげ、ことがたんにヴェーバー研究かぎりではなく、いかなる領域の学問研究にとっても由々しい問題であることを詳らかにして、警鐘を鳴らしたいと思います。

羽入書第一章は「"calling" 概念をめぐる資料操作――英訳聖書を見ていたのか」と題され、「倫理」論文中の、ひとつの注の末尾(梶山力訳/安藤英治編『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』、第二刷、1998年、未来社、以下「倫理」、145ぺージ)を取り出して「問題」としています。そこでヴェーバーは、16世紀後半の英訳諸聖書につき、ルター訳の直後(16世紀後半)影響に一瞥を投じているのですが、羽入が「問題」とするのは、その箇所でヴェーバーが、①『ベン・シラの知恵』(以下『ベン・シラ』)の英訳を調べず、②『コリントの信徒への手紙一』(以下『コリントⅠ』)7章20節の英訳を概観している事実です。羽入は、①につき、ヴェーバーがじっさいには『ベン・シラ』当該句の英訳を調べ、「労働ergon」と「職務ponos」がBeruf相当語のcallingに訳されていない事実を知っていながら、その(羽入によれば「ヴェーバーにとって不都合な」)事実を「隠蔽」するため、②で(羽入によれば「無関係な」)『コリントⅠ』を持ち出し、これに「すり替え」てお茶を濁した、と主張しようとしました(羽入はじっさいには、①の推定は立証できないと悟り、羽入書本文では「英訳聖書の原典に当たらず杜撰」との非難にトーンダウンしていますが、ここでもヴェーバーを「詐欺罪」に陥れようとしたかれの意図は、文章の改訂/推敲に漏れて残されている文言から確実に推認できます)。

さて、羽入のこの主張が成り立つためには、ルターによる聖句翻訳の影響がもっぱらベンシラを経由して他の諸聖典(したがって英訳諸聖典)にも波及したとの「『ベン・シラ』回路説」を前提とし、しかもそのうえ、ヴェーバー自身も同一の前提のうえに立っていたと仮定しなければなりません。ところが、その前提も仮定も成り立ちません。

キリスト教の諸宗派は、新約と旧約、正典と外典とで、それぞれ聖書としての位置づけと取り扱いを異にし、旧約外典を(少なくとも相対的には)軽んじていました。その旧約外典のひとつ『ベン・シラ』の当該句は、なるほどルター本人ないしルター派にかぎっては、「神与の使命」と「世俗的職業」との二義を併せ持つBerufの創始点として、相応の歴史的意義を帯びました。しかし、羽入が抜き出した上記「問題」の箇所におけるように、視野をルター本人ないしルター派に限定せず、広くイギリスの諸宗派を概観するとなれば、「世俗的職業」を「神与の使命」として尊重する宗教改革の思想が、もっぱら旧約外典のベンシラ句を結節点として各派に波及した、と見ることはできません。また、旧約外典の『ベン・シラ』句を、広く当の思想の空間的/時間的波及度――しかも、聖典における訳語選択への表出度という「波及度」の一面――を比較し測定するのに適した、定点観測の準拠標に見立てることもできないでしょう。まともな歴史家ないし歴史的センスをそなえた社会科学者であれば、キリスト教の多様な歴史的展開を無視して、そうした非歴史的非現実的想定を持ち込むとは、まず考えられません。

ヴェーバーももとより、そうした前提のうえに立ってはいません。かれが「倫理」論文第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」の冒頭で『ベン・シラ』句を取り上げたのは、当該句を原点ないし(諸外国語版聖書についてはそれぞれの)起点として、語Berufとその思想が、広くプロテスタンティズムの宗派とくにイギリスのピューリタニズムにも波及した、と見たからではありません。ヴェーバーは、ルターの宗教改革事業総体に、「救済追求」の「軌道」を修道院から「世俗」に「転轍」したという(ヴェーバー固有の「価値関係的パースペクティーフ」からみて)積極的な(歴史的)意義と、当の「世俗内救済追求」における「伝統主義への推転(「世俗内」「合理的禁欲」からの逸脱、「合理的禁欲」への発展の頓挫)という消極的な意義とを認め、伝統主義的な『ベン・シラ』の、伝統主義的な聖句の翻訳における語Berufの創始を、このふたつの意義の結合を端的に表示する事実と見ました。まさにそれゆえ、ルターの敷設した世俗内救済軌道を引き継ぎそのうえで「合理的禁欲」への転轍をなしとげる禁欲的プロテスタンティズム(とくにカルヴィニズム)をこそ、本論(第二章)で主題として分析するのに先立ちルターの宗教改革事業総体の意義と限界を論じて叙述を本論に橋渡しする「問題提起」章最後尾の「ルターの職業観」節では――そうした位置価をそなえた当該節にかぎっては――、『ベン・シラ』句を冒頭で取り上げるのが相応と見たにちがいありません。

したがってヴェーバーは、『ベン・シラ』におけるBerufの創始についても、なにかそれだけを切り離して絶対化することなく、そこにいたる経緯、とくに翻訳者ルターにおける伝統主義への思想変化と関連づけ、歴史的に相対化して取り扱っています。すなわち、ルターは、新約正典の独訳を完成した1522年には、原文では「終末論的現世無関心」に彩られたパウロ/ペテロ書簡の勧告(「各自、主の再臨まで、あとほんのしばらく、現世におけるあり方に思い煩うことなく、使徒の宣布する福音を介して神に召し出された、その召しの状態に止まっていなさい」)にかんして、当の「召しの状態」を表すklēsisを、『コリントⅠ』1章26節、7章20節ではruff、『エフェソの信徒への手紙』ほか三書簡の七箇所ではberuffと訳し(拙著、129ぺージ)、翌1523年の『コリントⅠ』7章の講解(釈義)では、20節のklēsisもberuffと訳出していました(拙著、78ぺージ)。ところがルターは、1524/25年の「農民叛乱」以降、とみに「伝統主義」に傾き、1533年に『ベン・シラ』を独訳したときには、『コリントⅠ』7章20節「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」の――聖典の性格とコンテクストからすでに「生活上のさまざまな地位身分statūs, Stände」の意味に解されていた――klēsisを、(宗教思想上の根拠づけは異なるけれども)事柄としてはすでによく似ている『ベン・シラ』句(「おのおの――伝統的秩序のなかで指定された――職務にとどまっていなさい」)の「職務」に重ね合わせ、五書簡beruffの「聖職への召し」という適用制限を解除して、『ベン・シラ』のergonとponosすなわち「世俗的職業」一般にも適用しました。語Beruf (beruff)を軸として語義の歴史的変遷を要約しますと、初期五書簡の終末論的「召しの状態」が、後期には『コリントⅠ』7章20節前後の「身分」を「架橋句」として、ルタールター派では『ベン・シラ』の伝統的職業」に重ねられ、この「職業」が「神与の使命の意味も帯びたのです。

他方、ヴェーバーは、羽入が問題とした箇所の直前で、つぎのように述べています。すなわち、「カルヴィニストは旧約外典を聖典外のものと考えていた。かれらがルターの職業の観念を承認し、これを強調するにいたったのは、いわゆる『確かさ』(確証-編者)の問題が重要視されるにいたったあの発展の結果としてであった。かれらの最初の(ロマン語系の)翻訳では、この観念を示すは用いられず、かつまた既に定型化(stereotypiert)されていた国語中にこれを慣用語とすることは出来なかった」(「倫理」、144~5ぺージ、強調体は原文)。つまり、ルターの敷設した「世俗内救済追求」の軌道上で、「伝統主義」から「合理的禁欲」への転轍をなしとげ、したがってヴェーバーの「価値関係的パースペクティーフ」から見てもっとも重要なカルヴィニズムは、①旧約外典の『ベン・シラ』を聖典とは認めず、軽んじていたし、②ルターの職業観念でさえ、これを承認して重視するのは、後代――「自分が神に選ばれた『恩恵の身分』に属することを、どうしたら『確証』できるのか」という(自分が選ばれていることを確信していた)カルヴァン自身(1509~64)にはなかった問題が、カルヴィニズムの「大衆宗教性」において切実に問われ始める時期――のことで、これについては、「ウェストミンスター信仰告白」(1647年)を与件とする本論の分析で採り上げるので、ここで論及する必要はない、というのです。他方、③カルヴァンやベザの常用語で、ユグノーの日用語でもあったフランス語は、言語としてのステロ化が進んでいて、少数派としてのカルヴィニストの要求は(かりにあったとしても)受け付けるはずがなく、『ベン・シラ』の当該箇所もofficeとlabeurのままで(「倫理」、138ページ)、ましてや、当の『ベン・シラ』の当時16世紀後半の英訳も同様にちがいなく、わざわざ「原典」に当たって調べるまでもない、それよりもいっそ、ルターにおけるBeruf創始のさいにも「架橋句」の役割を演じたにちがいなく、かつまた新約正典としていずれの宗派にも重んじられた『コリントⅠ』7章であれば、その20節klēsisの訳語を宗派について概観することには、まだしも意味があろう、というわけです。つまり、著者ヴェーバーは、羽入が「問題」とした箇所の直前で、「なぜそこでは、『ベン・シラ』を採り上げそれに代えて『コリントⅠ』7章20節について調べるのか」、その理由を、前後のコンテクストおよび「『倫理』論文の論証構造」(これについては、拙稿「ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」、『未来』、近刊3月号所収、をご参照ください)との整合性において、まっとうな文献読解力と論理的思考力をそなえた読者には誤解の余地がないほど明快に説いているのです。

ただ羽入だけが、「『倫理』論文の論証構造」を捉えていないうえ、直前の文言もコンテクストも読み落としたか、読んでいてもその趣旨を汲み取れなかったか、どちらかで、直後の一節を、上記の非歴史的非現実的想定のうえに、自分の『ベン.シラ』回路説」のコンテクストに組み入れ、著者ヴェーバーの「詐欺」(あるいは少なくとも「杜撰」)の「証拠」に仕立ててしまうのです。そのように、羽入こそ杜撰なのですが、「知らぬが仏」で「怖いもの知らず」というべきか、自分の思い違いを著者ヴェーバーにぶつけて断罪し、「鬼の首でもとったかのように」得意になり、「世界的な発見」と称して自画自賛します。

ところで、そういう羽入書だけを「倫理論文と照合せずに読む人は、相撲にたとえれば「相手を見てはいない」わけですから、「どんな手でも使って見せられる『ひとり相撲』」を、「相手を見事に手玉にとっている『本物の相撲』」であるかのように見誤り、本気で羽入の「ひとり相撲」に軍配を上げます。「判官贔屓」の観衆も、拍手喝采して「座布団が跳ぶ」でしょう。あるいは、その昔「倫理」論文をひもといたけれども、(初見では当然のことながら)どうもよく分からず、そのあと根気よく再読三読して理解しようとせずに、かえって怨念を抱いてしまった人がいるとすると、いまもって不得要領のままでしょうから、「羽入書だけを『倫理』論文と照合せずに読む」のと同じことになり、「本気で羽入の『ひとり相撲』に軍配を上げ」、同時に「ああ、やはりそうだったのか」「詐欺だったのなら、分からない自分たちのほうが正しく、正直だったわけだ」とばかり、「積年の恨みを晴らし」「溜飲を下げる」にちがいありません。

とはいえ、もし万一、羽入のそうした論法が不問に付され、黙認され、許容され、あるいは逆に、(検証を欠く)「観衆」や「怨念を抱いた識者」によって称賛され、奨励されていくとすれば、「倫理のみならずどんな論文でも、「詐欺」ないし「杜撰」と決めつけられ、葬り去られかねません。しかも羽入は、たんにここでだけ「心ならずも錯誤を犯した」というのではなく、こうした論法で相手を葬るためには、論理を「万力」に、文献学を「拷問具」に使い、相手の釈明が面倒に思えたら「裁判長に却下を申請する」とまで公言してはばからないのです。じっさい、他の三章でも、この第一章に輪をかけて凄まじい、牽強付会としかいいようのない断罪をくわだて、強行しています。すなわち、「価値関係性」と「(理論上の)合目的性」に準拠して厳格に制御され、緻密に構成された「倫理」論文テクストのほんの数箇所――それも、著者の「関心の焦点」ではなく、「射程には入る周辺部」の注記――を恣意的に抜き取ってきて、羽入自身の非歴史的・非現実的想定にもとづく「犯行現場」のコンテクストに移し入れ、「杜撰」「詐術」「詐欺」の「証拠」に意味変換してしまうのです。

筆者は、こういう断罪にたいしては、断固ヴェーバーを「弁護」します。しかし、そうするのはなにか、ヴェーバーの「権威」、いわんや「ヴェーバー産業の既得権」を守ろうとするからではありません(この点、拙著でも再三強調しています)。羽入の一見緻密な――じつは上記のとおり粗野で強引な――論鋒を、先の先まで追跡し、微細な争点にいたるまでヴェーバーの叙述と照合して批判的に検証しますと、羽入書を貫く、上記のように危険な反理性性反学問性があらわとなります。これを筆者は、たんにヴェーバー研究上の一問題(一新説の当否問題、「生産的限定論争」の一提題)と捉えて議論するだけではすまされず、その域を越える学問研究一般への脅威、あるいはさらに、たとえば裁判における人権保障規定を平然と踏みにじる恣意強行の予兆と見て、警鐘を鳴らさざるをえません。

この件を「ヴェーバー業界」内部の「コップのなかの嵐」と見て、「内外野スタンドで観戦」を楽しもうという方々も、そこから出発してくださって結構ですから、そのうえはどうか、この「羽入-折原論争」の中身に踏み込み、双方の見解を対置して当否を判定し、筆者の警鐘を聴き取るまでに、好奇心を旺盛にはたらかせてください。望むらくはそこから、それぞれの専門領域ないし隣接領域に、同質の問題的傾向が顕れていないかどうか、点検/自己点検してくださるように、お願いします。

というのも、このまま安穏としていますと、日本というこの社会における批判的理性の頽廃腐朽は、とりかえしのつかない「破局」に陥っても「第三者・傍観者天国」にひたって「目が覚めない」ところまでいきかねないからです。筆者が殊更ヴェーバー研究者の対応と責任を問うのも、かれらが「ヴェーバー産業」の「既得利害関係者」だからではなく、当該専門領域に顕れる動向について批判的検証をなしうる専門的力量をそなえ、危険な萌芽を見つけたらいちはやく論証し、専門外に向けて警鐘を乱打する専門外の他の研究者には転嫁できない固有の責任/社会的責任を負っていると考えるからにほかなりません。この責任問題については、後段§10でも再度とりあげ、敷衍します。

§8. 抽象的情熱あるいは偶像破壊衝動の問題――内在批判から外在考察への旋回点で

しかしなお、つぎのような疑問が投げかけられるかもしれません。すなわち、羽入がヴェーバーを「詐欺師」「犯罪者」に仕立てるやり方は、なるほど恣意的かつ強引で、学問上容認できず、他領域に波及したら大変ではあるけれども、そもそもそういう羽入流の「研究」自体、なにかきわめて特異で、羽入個人、あるいはせいぜい「ヴェーバー業界」のみの出来事ではないのか、と。だいいち表題からしても、『マルクスの犯罪』『カール・シュミットの犯罪』とでもいうのなら、(本質上はそれらも問題にはちがいないとしても)政治上の敵対関係からは、あっても不思議はないと思えるけれども、『マックス・ヴェーバーの犯罪』というのは、すでにそれだけからして、なにか異様ではないか、と。

確かに、羽入書に示されている羽入流の「研究」は、一風変わっています。すなわち、羽入自身の特定の研究テーマが、出発点に据えられ、それとの関連で――羽入の「価値関係的パースペクティーフ」において――特定のヴェーバー学説がとり上げられ、ゆえあって批判も加えられる、というのではありません。そうであれば、「生産的限定論争」になるはずです。そうではなくて、むしろヴェーバーを「人文/社会科学界における『知的誠実性』の『巨匠』ないし『第一人者』」と認めまさにそれゆえそのヴェーバーを「知的誠実性」に悖る「詐欺師」「犯罪者」として打倒すること――そのこと自体――に、情熱が傾けられ、執念が燃やされています。「なんのために」との内省も、独自の内容も欠くこの特異な抽象的情熱が、羽入書には横溢し、なんの躊躇いも自己抑制もなく、罵詈雑言と自画自賛となって迸出され、読者の耳目をそばだたせてやみません。あるいは、「偶像崇拝」の裏返しとしての、偶像崇拝と同位対立の関係にある「偶像破壊の衝動が、羽入流の「研究」を駆動し、鼓舞している、といいかえてもいいでしょう。そのため、羽入には、ヴェーバー研究者がすべて「聖マックス崇拝者」としか映らないのです。これらの点は、けっして筆者の「当て推量」ではなく、拙著で、羽入書をドキュメントとして立証しています。

こうして問題は、羽入流「研究」のライトモチーフをなすかにみえる、この抽象的情熱ないし「偶像破壊」の衝動が、いったいどこからくるのか、という「動機形成事情の探究」に移されます。問題は、そうしたモチーフが、「ヴェーバー業界」の特殊事情に由来するのか、それとも、現代大衆教育社会における構造的諸要因のなんらかの布置連関から派生し、研究者ないし研究者志望の高学歴階層に多少とも共有され、したがって「ヴェーバー業界」以外の他の研究領域(あるいはさらに、他の社会諸領域)にも広く出来しうる現象なのか、とはいえ、それがいちはやくヴェーバー研究という一領域に顕れたのはなぜか、というふうに設定/再設定され、相応の「外在考察」が要請されましょう。

筆者は、羽入書を、一ヴェーバー研究者として内在的に批判すると同時に、一社会学徒としては、その客観的「意味」理解/解釈から、主観的「動機」解明に溯行し、当の「動機形成」の構造的背景を探る、理解社会学的知識社会学的外在考察にも踏み込み、上記の問題設定にたいして一定の明証的・仮説的解答は用意しています。その結論は、かの抽象的情熱ないし「偶像破壊」の衝動は、「ヴェーバー業界」の特殊事情には還元されず、現代大衆教育社会の一般的構造的背景に由来しているけれども、それがいちはやく「ヴェーバー業界」に顕れてきたことについては、当該「業界」固有の媒介要因を措定して説明できる、というものです。

ただ、論争が「第二ラウンド」を迎えただけで、なお内在批判に徹すべきこの段階で、不用意に外在考察を交えることは、論点を拡散させ、内在性への徹底を損ねるおそれがありますから、ここでは暫定的結論の開陳は控えます。ただし、この外在考察の観点からみても、ことはけっしてヴェーバー研究かぎりの問題ではなく、それだけその深刻さへの憂慮がつのる、とだけは、ここでもお伝えしておきたいと思います。

§9. 羽入書の「山本七平賞」受賞――原則問題として考えよう

あたかもその(外在考察から導かれる)不吉な予感が的中するかのように、拙著刊行の直前、羽入書が「山本七平賞」を受けるという事件が起きました。

「賞」ばやりの昨今、学会さえ「賞」を設けるようになって、羽入は以前、日本倫理学会の「和辻哲郎賞」を受けてもいるそうです。この日本社会では、他人の慶事への批判は「タブー」にひとしく、嫌がられること必定ですが、こうなってきますと、「賞」という問題につき、いったん立ち止まって原則的に考えてみなければなりません。

この問題について論ずるとなると、筆者の世代にはただちに、「作家は作品で勝負する」といってノーベル文学賞を辞退したジャン・ポール・サルトルの鮮やかな選択が、思い出されます。この態度決定を学問の領域に移してみますと、「学者は論文で勝負する」という原則が立てられるでしょう。

とはいえ、その原則を純粋に貫き、およそいかなる外面的表彰もしりぞけるという選択肢をとれるかどうか、とるべきかいなか、となると、議論が分かれるところでしょう。現に、学生時代サルトルに私淑し、「サルトルの心理学」で卒業論文を書いた大江健三郎も、ノーベル文学賞を受けています。ただ、そのばあいにも、原則を無原則に緩めることはできず、たとえば「サルトルのように国際的に著名な作家は別として、『作品で勝負する』と気負っても、当の作品を手にとって読んでもらえないのでは勝負にならないから、そうした条件づくりの政治的行為として受賞する」というような、なにかはっきりした意味づけ・意味限定が必要でしょう。いずれにせよ、「作品」の中身にたいする文学上の評価、学者であれば、「論文」の中身にたいする学問上の評価、これをめぐる学問的討論が、優先されなければなりません。ノーベル賞に権威があるとすれば、それは、そうした原則にもとづく手続きを厳格に踏んでいるからでしょう。

とすると、学問上の「賞」の選考過程では、討論/評価にあたり、選考者が候補作「論文」の専門領域に通じていないばあいには、素人の判断だけでことを決めようとせず、当該領域の専門家による鑑定・評価を、少なくとも参照し、望むらくは尊重しなければならないはずです。

ところが、今回の「山本七平賞」についていえば、まず羽入自身は、一専門家としての筆者の書評「四疑似問題でひとり相撲」に学問的に応答しないまま、「賞」を受けました。拙著にたいしても、2004年2月7日現在、応答がありません。他方、選考委員(加藤寛、竹内靖雄、中西輝政、山折哲雄、養老孟司、江口克彦)も、事前に(昨年5月には『季刊経済学論集』の書評欄に)公表されていた筆者の論評を参照しないまま、選考を進めたとしか考えられません。

なるほど、専門家の鑑定といっても絶対ではなく、素人の評価のほうがかえって的確/公正であることも、ないわけではないでしょう。ところが、今回の「山本七平賞」のばあい、『Voice』誌一月号に収録されている各選考委員の寸評を読みますと、内容のお粗末さに唖然とします。いずれも、ヴェーバー研究の実情に疎いばかりか、羽入の大言壮語を鵜呑みにして歯の浮くような賛辞を連ね(じつは、「虚像」を押しつけて「真綿で首を絞め」)、年長者/学問上の先達として「窘めるべきは窘める」責任も忘れ、「推理小説」のように読み耽って面白がり、……要するに、素人「識者」の「無責任ここに極まれり」というほかない風情です。羽入書を「倫理」論文と照合していないため、「どんな手でも使って見せられる『ひとり相撲』」を、「相手を見事に手玉にとっている『本物の相撲』」と見誤って、「本気で『ひとり相撲』に軍配を上げ」、拍手喝采しているわけです。

六人の選考委員のうち、山折哲雄は、かつてヴェーバーの「ヒンドゥー教と仏教」第三章を(訳者のひとりとして)邦訳しており(『アジア宗教の基本的性格』、1979年、勁草書房刊)、ある意味で専門家、あるいは半専門家といえるかもしれません。しかし、もしそうだとして、羽入書の主張を認めたとなると、「自分も詐欺師の作品を翻訳して片棒を担いでいた」と自己批判しなければならないはずです。ところが山折は、羽入書を、六人の選考委員のうちでも無条件に絶賛しながら、ご自分の訳業には触れず、羽入書が「ヴェーバーかぶれ、ヴェーバー信者たちの魂を震撼させるであろう」と、「第三者」風に、ただなにか「溜飲を下げる」かのように語ります。自分の仕事にも発言にも、責任を感じない人なのでしょう。

さて、寸評一々の内容および羽入の「受賞者の言葉」にたいしては、雀部幸隆が間然するところのない批判を展開していますので、ぜひ参照なさってください(「学者の良心と学問の作法について――羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』の山本七平賞受賞に想う」、『図書新聞』、2月14日/21日号、所収)。筆者は、雀部の批判に、なにも付け加える必要を感じません。ただ、雀部による批判の営為には、つぎのような意味を読み取ることができると思います。

§10. 現代大衆社会における虚像形成――非専門家の無責任と専門家の無責任との相乗効果

オルテガ・イ・ガセの『大衆の蜂起』(1930年刊)といえば、「大衆社会論」の先駆けをなし、哲学的・人間学的な「大衆人Massenmensch」批判の射程にかけては後の社会学的「大衆社会論」を凌駕している古典です。そこでかれは、一見意外にも、専門科学者を「野蛮な大衆人」の一部類に数え、当の「野蛮」の根拠を、要旨つぎの点に求めています。すなわち、「かれらには、自分は狭隘な専門領域である程度の実績をあげたにすぎないとの自覚(自己限定性の自覚、まさにそれゆえその限界を越えようとするスタンス)がなく、なにか無限定の『権威』/『大立者』/『大御所』に収まったかのように錯覚して、自分では皆目分からない、あるいは一知半解の別領域についても、その道の専門家の意見をきかず、あたかも自分がそこでも『権威』であるかのように傲慢不遜に振る舞う」というのです(Cf. Ortega y Gasset, José, Der Aufstand der Massen, Gesammelte Werke, Bd. 3, 1956, Stutt- gart, S. 90-1. 邦訳各種)。

としますと、羽入の「山本七平賞」受賞にいたる経過は、そうした非専門家「権威」者の無責任と、かれらから無視されても専門家として責任ある異議申し立てをしない専門家の無責任とが、いわば相乗的に作用して、「倫理」論文一篇すらまともに読めずに著者を「詐欺師」「犯罪者」と決めつける「ひとり相撲」作品を、「押しも押されもしない巨人伝説を一挙に突き崩す鮮やかな仕事」(山折哲雄)に祀り上げた虚像形成の過程として、捉え返されましょう。あるいは、「大衆人」非専門家の「権威」と「大衆人」専門家の無責任とが相乗効果をひき起こし、羽入にかんする虚像が雪だるま式に膨れ上がって、羽入を「自分の虚像を追いかけて生きる不幸な人生の道」に追い込み、知的誠実性に生きる道――ヴェーバーの知的誠実性を問うたかれが、こんどはかれ自身の知的誠実性を賭けて拙評/拙著の学問的反論に応答し、知的誠実性をそなえた一学究として立ちなおり、捲土重来を期する道――をそれだけ遮ってしまった、といいかえていいかもしれません。

ところで、現代大衆社会においては、一方ではマス・メディアの影響力増大によって「大衆人」非専門家の空疎な権威」も増幅され、他方では「専門化」がますます進展し、専門家が各「たこつぼ」に閉じ籠もって発言回避の社会的無責任をつのらせていけば、この種の虚像形成はいとも容易になり、不況にあえぐ出版業界の販売戦略(「若き知性アイドル」の造成/乱舞作戦)とも呼応し、頻発して猛威を揮うようにもなりかねません。そうなれば、羽入が(かれのばあいは半ば自業自得で)陥れられたような、「自分の虚像を追いかけて生きる不幸」も、それだけ頻発するでしょうし、関連専門領域もその煽りをくって始終混乱に陥れられる、と予想されましょう。

雀部の営為は、「専門家が非専門家『権威』者を正面から批判する」という、内容上は容易でも、容易なだけにかえって躊躇われ、社会的には(空疎でも強力な)「権威」に抗う困難な闘いです。しかしそれは、現代大衆社会の上記の陥穽を見据え、虚像の一人歩きをくい止め絶えず実像に就く生き方を奪回していくのに、避けて通れない課題であり、各領域の専門家に固有の(上記の動向に照らしてますます重くなる)責任社会的責任の履行であるといえましょう。専門家には今後、こういう形で責任をとることがますます求められるでしょうし、専門家もそれに、いっそう進んで応えていかなければならないと思います。

§11. 虚像形成にかかわるさまざまな責任

ここで翻って、羽入にかかわる虚像形成過程を振りかえりますと、さまざまな専門家/半専門家の介在が検出されましょう。羽入に「和辻哲郎賞」を与えた日本倫理学会の選者の査読選考責任、それ以前に、かれに修士や博士の学位を授けた指導教官の研究指導責任と論文審査教官(そのなかには、「ヴェーバー研究の専門家」がひとりは加わっていたはずです)の査読責任、かれの論文を受理掲載した『ヨーロッパ社会学論叢Archives européennes de sociologie』、『社会学雑誌Zeitschrift für Soziologie』および『思想』誌の編集査読責任、かれの著書を版元のミネルヴァ書房にとりついだ越智武臣の推薦責任、際物に気づかず、あるいはうすうす際物と感得しても、まさにそれゆえ「学界に一石を投じ、売らんかな」の構えで出版に踏み切ったミネルヴァ書房の編集出版責任などが、つぎつぎに明るみに出てくるでしょう。これらの衝に当たった人々が、羽入にたいしてそれぞれ事前にひとこと「学問として、こんなことではだめだ」と責任をもって諭していれば、かれとしても(もともとはかれ自身が望んだことだとしても)これほどの虚像形成に巻き込まれ、これほどの「窮地」に追い込まれずにすんだはずなのです。

上記の責任のうち、ⓔⓕ欧州社会学二誌の編集/査読責任についてだけ補足しますと、日本というこの社会の学界は、長らく欧米学界への依存関係に馴染んできたので、ある論文が「欧米のレフェリー付き学術専門誌に受理され、審査をパスした」というだけで、ただちに(自分でその論文を読んで批判的に検証することなしに)「内容として優れている」と速断する傾向があり、この旧弊からなお脱却していません(羽入の虚像形成過程でも、例の「奥方」が欧米誌への発表を唆し、この旧弊につけ込んだふしがあります)。しかし、そうした外的規準が非専門家にはひとつの相対的な目安になるとしても、専門家は、まず自分で精読して評価を固め、これにもとづいて欧米誌の判定を判定し、欧米誌の査読水準を査定していかなければなりません。筆者は、羽入論文を掲載した二誌は、(少なくともヴェーバー研究にかんするかぎり)欧州の二流誌で、ほかならぬ羽入論文の採択により、専門誌としての査読水準を露呈したと考えています。

そういうわけで、この「山本七平賞」事件にかんしても、そこにいたる経過についてみても、そこで問われるべき責任、そこに介在している虚像形成の諸要因を解き明かしていくと、この日本社会で学問性に徹して生き抜くには、論壇/学界/学会/大学/出版社のなかの無責任な権威や勢力にたいして原則的学問的な批判を絶やすわけにはいかない、現代大衆社会の軽佻浮薄な「風潮に抗する」「対抗力」の拠点から、絶えず批判的理性をかざして出撃しなければならない、という現実が、あらわとなってきました。

§12. 検証回避は考古学界だけか

さて、上に挙げた責任を負う人々は、羽入書の主張内容をみずから学問的に検証することなく、一専門家としての筆者の反論(鑑定)も顧みず、「山本七平賞」の選考委員にいたっては、とっくに乗り越えられている(大塚久雄も抜け出しかけていた)「近代主義」的「倫理」解釈のうろ覚えの知識と非専門家の「直観」で判断して、羽入書の権威づけと普及に、それぞれ一役を買っていたことになります。

としますと、そうした検証回避と権威づけ/普及への加担という二点は、じつは、東北旧石器文化研究所副理事長藤村新一による遺物発掘捏造事件のあと、考古学界が事後の調査にもとづく反省点として一致して認めた問題(研究者のエートスにかかわる問題)にほかなりません。じっさい、ほぼ同時期に起きたふたつの事件は、両当事者が(藤村は意図して、羽入は意図しなくとも事実上)学問的に疑わしい手段を採用して虚説を立て、耳目聳動的に学界の「定説」「定評」を覆し、一躍脚光を浴びて学界の「寵児」「チャンピオン」に祀り上げられた――あるいは、祀り上げられそうになった――事件として、一脈通じる特徴をそなえています。また、考古学界がなぜ捏造に翻弄されたのかについても、日本考古学協会の会長甘粕健は、2002年5月26日の総会で「声明」を発表し、「一部の研究者からの正鵠を射るところの多い批判がなされていたにもかかわらず、論争を深めることができず、学界の相互批判を通じて捏造を明らかにするチャンスを逸した……、自由闊達で、徹底した論争の場を形成することができなかった日本考古学協会の責任も大きい」(傍点-引用者)と述懐しています。

とすれば、ここで、「問題ははたして考古学界だけか」との疑問が頭を擡げざるをえません。隣接(人文/社会科学)領域の研究者は、藤村事件を「対岸の火災」、羽入事件を「近隣のぼや」くらいに受け流して「自然鎮火」を待っていていいのでしょうか。むしろ、「触らぬ神に祟りなし」「臭いものには蓋」「ものいえば唇寒し」「沈黙は金」といった諺に象徴される同一の学問文化風土のもとで、検証/相互批判/論争の回避という同一のスタンスを保ちながら、考古学界のように(ジャーナリズムに捏造を暴露されて)「破局」に直面させられないだけ、反省/自己批判の機会もなく、それだけ「遅れをとり」「救いがたい」ともいえるのではないでしょうか。

こうして、問題はまたもや、ヴェーバー研究者としての内在批判の域を越え、むしろ一社会学徒として「社会学的想像力」をはたらかせ、二事件を同時期の二現象として関連づけ、類例として比較し、背後にある構造連関を問う「外在考察」に視座を転ずべき、旋回点にさしかかったことになります。

小括

そういうわけで、一昨年末、「社会学の生成――Ⅰ.」を脱稿して以来、思いがけない状況に直面し、予想していなかった方向に問題が広がってきました。そこで、拙著『ヴェーバー学のすすめ』以外にも、主としてヴェーバー研究者の対応を問題とする「学者の品位と責任――『歴史における個人の役割』再考」を発表し(『未来』1月号、このコーナーに転載)、対羽入論争の「第二ラウンド」に向けて争点を「倫理」論文全体に拡大する「ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」を脱稿し(『未来』3月号、掲載予定)、現在、二論考「虚説定立と検証回避は考古学界だけか――『藤村事件』と『羽入事件』にかんする状況論的、半ば知識社会学的な一問題提起」および「大学院教育の実態と責任」の執筆にとりかかっています。

筆者は基本的に、原則論を状況論に優先させる立場に立ちますが、ここまできますと、状況の問題をひとつひとつ原則的に採り上げて論じざるをえません。こうした問題をひとつひとつクリアしていくことが、「マックス・ヴェーバーにおける社会学の生成」論考や「『経済と社会』全体の再構成」に立ち帰って続篇を執筆するための、あるいは、この現代大衆社会で広く学問研究一般を晴朗闊達に進めるための原則的な要件回復の闘いでもあることを、ご理解いただければ幸いです。

今後は、(視野狭窄の羽入書に内在して論駁するため、即応して視野を狭めざるをえなかった)拙著第一弾『ヴェーバー学のすすめ』の(そうした)制約を乗り越え、⑴「倫理」論文の原問題設定、⑵思想的/理論的背景、⑶全論証構造、⑷「倫理」以降の展開(とりわけ「世界宗教の経済倫理」シリーズおよび『経済と社会』草稿)との関係などを、いっそう詳細かつ具体的に論じて初版百周年を記念する拙著第二弾『ヴェーバー的問題提起の射程――「プロテスタンティズムの倫理」論文初版百周年記念』を、なるべく早く仕上げて公刊のうえ、真っ先に拙論「社会学の生成」続篇に戻ることをお約束して、お詫びに代えます。(2004年1月23日第一次稿、2月7日改訂稿、脱稿)

雀部幸隆「わたしとウェーバーとのかかわり」(インタヴュー)

『図書新聞』2002年4月27日掲載

わたしとウェーバーとのかかわり

雀部幸隆

2001年末、『図書新聞』編集長米田綱路氏によるインタヴュー。

『図書新聞』2002年4月27日(土)第2579号

「記録 雀部幸隆氏が語るウェーバーとの思想的格闘、その軌跡。現代の精神史的省察 雀部幸隆」

として掲載


——現代日本の政治状況はますます混迷を深めています。そして政治に対する無関心と無気力が強まり、議会制民主主義の「機能不全」が叫ばれる昨今です。いまほど政治の役割が問われているときはないはずですが、その実態は眼を覆わんばかりの惨状です。

 雀部先生は一貫して、マックス・ウェーバーの政治論・政治思想を研究してこられました。その研究史そのものが、私には戦後日本の精神史の系譜と重なり合うように思われます。また『ウェーバーとワイマール——政治思想史的考察』(ミネルヴァ書房、二〇〇一年)の「あとがき」で、現代日本の政治的混迷にふれて、それは戦後民主主義の受容の仕方そのものに起因するのではないか、自らのなかにある戦後民主派的発想を徹底的に対象化して批判的に吟味する必要がある、と書いておられました。そこで雀部先生の歩んでこられた研究史および精神史の軌跡をたどりつつお話をうかがえればと思います。 

雀部 私が大学に入ったのは一九五五年ですが、それはちょうどフルシチョフによるスターリン批判の前年であり、またハンガリー動乱の前年ですね。その頃はマルクス主義全盛の時代で、『資本論』はバイブルのように読まれていました。私も大学に入ってすぐに当時大月書店から出ていた『マルクス・エンゲルス二巻選集』と『レーニン二巻選集』を読み、二年のとき『資本論』全三巻を青木文庫の長谷部文雄訳で読みました。この時期は戦後の学生運動の第二の高揚期だったわけですが、やがて六〇年安保で学生運動は一つの大きな挫折を経験します。

 私自身、スターリン主義との対決ということが大きなテーマとしてありました。マルクス主義とは何であるかを考え、大学三年の時ですが『経哲草稿』を読み、初期マルクスの思想に心酔するんですね。もともと哲学への志向がありましたから、初期マルクスとの関わりでヘーゲルの『精神現象学』や『法の哲学』を分からないなりにも読んだり、ルカーチの『歴史と階級意識』、『若きヘーゲル』、『理性の破壊』を読んだりしていました。やはりその背景には、自分たちが直面する問題にどう立ち向かうか、という問題意識があったんですね。ですが、それはまた私自身の思想的迷路の入口でもありました。

 その当時は、スターリンがだめならトロツキーだという風潮があって、トロツキーが多くは英語版からの重訳で盛んに翻訳されていました。同じようにブハーリンなども訳されていましたね。私も英語版で『わが生涯』、『裏切られた革命』、『一九○五年――結果と展望』、『レーニン死後の第三インターナショナル』などトロツキー自身のものや、アイザック・ドイッチャーのトロツキー伝三部作を読んだのですが、失望してしまいます。トロツキーはたしかに才気煥発でシャープだが、根本的にはリアルでない、これではやはりスターリンの一国社会主義路線に対抗できない、と。ちなみに、私は大学一年の終わりの春休みに、フルシチョのスターリン批判の直後のことでしたが、スターリンを批判するからにはスターリンのものは読んでおかなくてはいけないというので、当時出ていた邦訳の『スターリン全集』を電文の類を含めて全部読んでおりました。それで、私は新左翼の方へは行かないわけです。ブハーリンはボリシェヴィキ切っての理論家と言われるわりには、論法がスコラ主義的でまどろっこしい。けれども、レーニンには魅力を感じていました。私の少年時代はロシア文学全盛時代で岩波文庫などにずいぶん翻訳がありました。私も高校時代にコロレンコやガルシンなど今日ではあまり知られていない作家のものをも含めてロシア文学に傾倒しましたが、レーニンにはその一九世紀ロシア文学の伝統が流れ込んでいるのです。それは『レーニン全集』を細かく読むとよく分かります。事実、彼には「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」や「トルストイと労働運動」といったトルストイ論がありますし、『プラウダ』に書いた論説には「その前夜」というツルゲーネフの小説を思わせるタイトルのものがあります。ただ彼はドストエフスキーは嫌いだったようですね。そこで『レーニン全集』を読み直し、レーニンの新経済政策論や晩年の協同組合論の延長上に、スターリンの強制的農業集団化→大粛清のラインに取って代わる社会主義建設のオールタナティヴがないか、という問題意識でレーニンと取り組みます。そして一九二〇年代ソ連の社会主義建設論争について研究したわけです。後に東大へ行かれてソ連史の権威となられた溪内謙教授のアドヴァイスもあって、E・H・カーのボリシェヴィク・レヴォリューション三巻、インターレグナム、ソーシャリズム・イン・ワン・カントリー二巻(当時はまだ第二巻まででした)のつごう六巻におよぶ『ソヴェト・ロシア史』を読み、また当時は今のようにいろんな史料が出ていませんでしたから、ソ連共産党中央委員会や党大会の決議決定集、その不完全な議事録、それから一九二○年代コミンテルン執行委員会の機関誌『インプレコール(インターナショナル・プレス・コレスポンデンス)』などを読み漁りました。もちろんマルクスの勉強もします。当時、故平田清明教授が名古屋におられて多産な仕事をしておられた。その平田教授から三年間、名古屋大学の若手の研究者や大学院生が集まって、毎週水曜日の晩六時から九時まで『資本論』の講読をしてもらったのです。

 しかし、レーニンと格闘すればするほど、ますます思想的混迷は深くなっていきました。やはりスターリン主義に代わるソ連社会主義建設のオールタナティヴが見つからない。はたから見ると、刀折れ矢尽きた感があったのでしょう。ちょうど大学院のドクターコースに入った時でしたが、私の先生であった故守本順一郎教授が君は一度マルクス主義とはまったく異質な思想学問とぶつかってみてはどうかと言われ、マックス・ウェーバーを本格的に読むことを勧めて下さった。守本教授は山田盛太郎門下で——おかげで守本先生から山田盛太郎の『日本資本主義分析』を叩き込まれました——、日本の講座派マルクス主義の伝統に立つ方だったんですね。ウェーバーとマルクスという問題設定で、みずからはマルクス主義者でありながら、自己自身をも客観化してものごとを見ていくアカデミックな手法を用いておられた。山田盛太郎教授の学問は、戦後、大塚久雄、丸山眞男、内田義彦といった人たちの市民社会論の系譜ともつながります。

 一九六四年には「ウェーバー生誕一〇〇年記念シンポジウム」が日本でも東京大学で開かれましたが、私も一聴衆として大塚久雄、丸山真男、内田義彦、三教授の講演を聞きました。戦後日本のウェーバー受容をリードしたのは、いわば「大塚ウェーバー」つまり市民社会論者としてのウェーバーだったわけですが、大塚さんはその講演で「拭い難いペシミズムの影」がウェーバーにはあると言われたんです。それまではヨーロッパ的な近代化を一つのモデルと考えてきた大塚氏自身が、そこでちらっと疑念を漏らされた。ウェーバー研究において、大塚氏たちの言う「市民社会」とは観念的仮構物であり、それはどこにも存在しない市民社会のイメージだったという問題が出てくるのは、そのあとのことです。

 恩師の守本教授が東洋政治思想史の専門家だったということもあって、私はまずウェーバーの儒教論と取り組みました。そうして『宗教社会学論集』全三巻を七年ほど掛かって読むことになります。そこで私は、ウェーバーの最大の関心事は何だったのかという問題に突き当たったのです。それは、ヨーロッパの危機的状況にあって「近代ヨーロッパの運命いかん」ということだったんですね。そこから彼は、近代ヨーロッパがそれとして成り立つ独特の要因を考察していくことになります。とくにその問題は、ウェーバーの『宗教社会学論集』のなかの中国論(「儒教と道教」)とインド論(「ヒンドゥー教と仏教」)との中間に挿入され両者をつなぐ役割を果たしている論文「中間考察」のテーマに結びついて行きます。実はそこには、単なる中間の媒介項といった枠には収まり切らない、もっと何か二〇世紀的現代における人間的生の諸相に関するウェーバーの精神史的考察とでもいうべき独自の内容が含まれている。私はそう考えて、この「中間考察」と取り組みました。それは、のちの私のウェーバー研究を決定づけるほどの興味深い内容だったんですね。


——「大塚ウェーバー」は、戦後日本における最大の関心事、つまり近代日本をどう考えるかというテーマと結びついていたわけですね。

雀部 「大塚ウェーバー」においては、近代的な生産力とそれを支えるエートスというウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のアイデアをもとに近代化を考えていました。それは国民経済論であり、近代日本をどう考えるか、日本は何によって立つべきかという問題だったわけですね。

 日本の近代化を考えると、明治政府の伊藤博文たちは商工立国論の考え方をとったわけですが、内村鑑三や河上肇、柳田国男らは、農業と商工業とが並進鼎立する国民経済形成の必要性を説いたわけですね。たとえば内村鑑三は、日本は東洋の「デンマルク」国になるべきだと言いました。柳田国男の出発点は農政論にありましたから、彼は農業を重視した。そのあと民俗学に向かいますが、日本的なものはやはりしっかりと残さなければならないと考えていたわけですね。それは産業でいえば、やはり農業をしっかり維持するということになるわけです。ただ彼は官僚であり、貴族院の事務方のトップに上り詰め、またジュネーウ゛で国際連盟の仕事を何年かするというように、国際的な感覚は十分にある人でしたから、日本を工業化しなければならないということはよく承知していた。だから、商工農のバランスのとれた発展ということを言うわけですね。

 大塚久雄は内村鑑三の弟子に当たる人ですから、そうした考え方の系譜に立つ人でした。第二次大戦後、ふたたび日本は何によって立つべきかという問いがあって、それに対して大塚氏はあの「オランダ型貿易国家」への批判に展開される国民経済論を唱えた。これは小国立国論ですね。その中核を担うのが中産的生産者であり、彼らのエートスに規準が置かれる。その考え方はそれなりの意味を持ったわけですが、やがては一九六四年時点で大塚さんがちらっといわれた、彼の言葉でいえば「拭い難いペシミズムの影」がウェーバーにあったという問題が出てきます。大塚氏は後年その問題に着目して、従来とは少し立論のシフトを変えていかれます。そういう問題が出てこない間はマルクスとウェーバーで行けたのですが、ペシミズムの問題が出てくると、マルクスとウェーバーというパラダイムでは考えられなくなる。彼は無教会派のクリスチャンですが、その後は、本来のキリスト教と氏の考える方向に、より傾斜していかれたような気がします。

 そのペシミズムとは、近代ヨーロッパの人間が直面したまさに現代的ディレンマだったと思います。ウェーバーはそれを直視して、彼の言葉によれば「どこまで耐えられるか試してみよう」とした。それは非常に剛毅な精神だと思いますけれども、弱い精神だとそこで何かに救いを求めてしまいますね。この「どこまで耐えられるか」というのは、私がウェーバーを本格的に読み始めてから、ずっと念頭を去らない非常に大きな問題となりました。

 さきほどもお話ししましたが、私はそれまで自分がやってきたこととひっかけながら、ウェーバー研究をすることにしました。ウェーバーの儒教論について論文を書き、そして、たまたま一九二〇年代ソ連の社会主義建設論争をある程度見てきたので、そのことからウェーバーのロシア革命論とどう取り組めるかを考え、ウェーバーのロシア革命論について『思想』に論文を書くわけです。


——それが、『レーニンのロシア革命像——マルクス、ウェーバーとの思想的交錯において』(未來社、一九八〇年)に収められた第一章「マックス・ウェーバーのロシア革命論」だったわけですね。

雀部 そうです。その頃はまだマルクスとウェーバーという問題設定で考えていたのですが、マルクスーウェーバーという枠組みが、私の場合にはレーニンとウェーバーになるわけですね。だからウェーバーのロシア革命論の考察がレーニン論にもなって、私の場合にはレーニンの再評価になります。だが、『レーニンのロシア革命像』はロシアを素材にして私が三〇代初めから四〇代初めにかけて書いた論稿を集めたものですから、最初と終りの頃とでは思想的にずれが生じてきています。

  マルクスとレーニンという枠組みでいえば、もちろんマルクスなくしてレーニンはないのですが、たしかに思想的にはマルクスは偉大だけれども、革命家という点ではレーニンの方が数段上だろうと私は思っています。その当時の一般的風潮は、スターリンがだめだからその師のレーニンもだめであって、だからマルクスへ戻るんだというので、平田清明さんなどはその典型だったわけですが、私は違う。むしろレーニンの方が総合点でいえばマルクスよりも偉大だろうと考えていましたし、いまでもそう思っています。というのは、政治においては、実際に体制を引き受けるということがきわめて重要であり、いまの体制を批判する者は、自分ならその体制をどうするのか、古い体制を全面的に転換して新しい体制をどうつくるのかという確固たる見通しと覚悟がないと、体制を批判したことにはならない。それが私の若いときからの変わらぬ信念です。その点ではレーニンはすぐれていると思います。一九一七年に二月革命の後、ロシアでいわゆる二重権力状況が生まれる。首都のペトログラードではペトログラード・ソヴェトが事実上の権力を握っている。そこで、当時ソヴェトの会議で、なぜソヴェトが全権力を握らないのかという問題が持ち上がり、当時のペトログラード・ソヴェト議長でメンシェヴィキのチヘイゼだったと思いますが、彼が、いまこのロシアの八方ふさがりの情況のもとで果たしてロシアの全権力を引き受ける者がいるだろうかと反問する。その時すかさずフロアから、「いる!」というレーニンの声が響きわたる。たしかにレーニンは亡命先のジュネーヴで二月革命の報に接して「遠方からの手紙」を書き、帰国してからは「四月テーゼ」、「さしせまる大破局、これといかにたたかうか」を書いて、のちのソヴェト=ボリシェヴィキ政権の政権構想をすでに用意していたわけですね。ですから、オールタナティヴを出すということがきわめて重要です。それも確かなものを出すというのが。これは学問でも同じですね。

 このように当時の私はレーニンを高く評価していたわけですけれども、ただ、『レーニンのロシア革命像』を刊行する段になって序文を書かなければいけなくなったとき、私は自分のやっていることの不十分さを痛感しました。やはりもっとレーニンを突き放して見なければいけない、そう考え出した。しかし、じゃあ突き放してどう見るかという段になると、その視点がまだ定まっていない。大学を卒業して大学院に入る頃に陥った思想的昏迷は、結局のところ何も解決されていない。少なくとも自分なりの回答を見出していないということが、だんだん分かってくるわけですね。それで、ふたたび思想的彷徨状態に入るわけです。『レーニンのロシア革命像』を出版したのは一九八〇年ですけれども、大体のものはその前に出来上がっている。ですが、その頃からまた思想的彷徨が始まって、結局、ほとんど十年近く、仕事としてほとんど何もできない時期がありました。

 その頃、私はウェーバーの仏教に関する論考を翻訳しました。私はもともと仏教には関心があり、自分のなかの仏教を確かめるという意味もありましたが、それがこの時期のほとんど唯一の仕事です。そのとき、ウェーバーの仏教論に出てくる経典は見ておかねばならないと考えて、国訳大蔵経などを読んでいきました。これは私の一つのやり方なのですが、ウェーバーが扱っているものを他の角度から見るのです。例えばレーニンのロシア革命論とウェーバーのロシア革命論とをぶつけてみる。それから、ウェーバーの仏教論と取り組む場合でも、仏典で自分の読みうるものを読む。マックス・ミュラーの編集した膨大な英訳の『東方聖典』、そのなかの仏教関係の典籍をウェーバーは読んでいるわけですが、それとわれわれのところに伝わっているものとは違う。やはり私は、ウェーバーから仏教を教えてもらうのは小なりといえども極東の人間の沽券に関わる、と考えたわけです。一寸の虫にも五分の魂というところでしょうか。

  私は『宗教社会学論集』を研究しようと思っていたものですから、もともとキリスト教への関心も私にはあり——高校二年の時に当時の文語訳で新約聖書を読んでおります——、キリスト教の勉強もしなければいけないということになった。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ではルターとカルヴァンが出てきますが、やはりウェーバーから教えてもらうわけにはいかないと思って、ルターやカルヴァンのものを自分の目で読むよう心がけました。でも、これは大変なことで、そういうことをやっていると、自分の仕事としてはなかなかものが書けないわけです。内村鑑三や矢内原忠雄のもの、それからパスカルやドストエフスキーのもの、カール・ヒルティのものも、このキリスト教の勉強という関連で読みました。私はトルストイは若い頃に翻訳されたものをほとんど読んでいたのですが、ドストエフスキーのものはせいぜい『罪と罰』『悪霊』くらいしか読んでおらず、『カラマーゾフの兄弟』を始めとする彼のほかの小説、『作家の日記』は中年になって初めて読みました。このドストエフスキーの読書体験が、後でお話しするカントの認識論への開眼とともに、私がレーニン、さらにはマルクス主義一般と訣別する思想的に大きなインパクトとなります。


——『知と意味の位相——ウェーバー思想世界への序論(恒星社厚生閣、一九九三年)には第二章付論「ルター瞥見」が収められています。またトルストイやドストエフスキーへの言及も見られます。本書に収められたカント論もそうですが、ウェーバーの思想世界に分け入られるなかで、ウェーバーとカントという問題が浮上してきたわけですね。

雀部 ええ。なぜ自分がウェーバーに取り組んだかを考えてみて、やはり「中間考察」、それから『職業としての学問』が自分をいちばん引きつけたのであって、それを素材にして何か書けないかと思ったわけです。それが『知と意味の位相』の第一章「脱魔術化と意味喪失の時代としての現代」のもとになった論文「マックス・ウェーバーにおける知の現在」です。これは『職業としての学問』の覚え書きなのですが、ウェーバーをそこに至らしめたものは何なのだろうか、つまりウェーバーの少なくとも西欧近代精神史上の思想史的な回顧をやらなければいけないと考えるようになった。そこで彼の伝記を読み直し、青年時代の手紙を読んでみると、カントのウェーバーに与えた影響が思想的にはなはだ大きいことが分かってきました。直接には新カント派ですけれども、思想的な意味ではカントの影響なんですね。

 そこで私はカントの勉強を始め、『純粋理性批判』と『実践理性批判』、『理性の限界内における宗教』を読みました。そこで私の考え方のベースとなったのが、理性の限界内における宗教というコンセプトでした。カントには、そのほかにもそうした問題に触れた『形而上学講義』『宗教論講義』がありますが、それらも読んで、第二章「カントの形而上学批判」のもととなった論文を名古屋大学の『法政論集』に書くわけです。


——ウェーバーとニーチェという問題にも取り組まれるのですね。

雀部 一九八五年に文部省の長期在外研修でドイツへ行ったのですが、しかしそこで、やはりどうしても哲学・思想に引かれていくんですね。そこでルターを読み、それからニーチェを読みました。他方ではドイツ憲法史の勉強もするのですが、これは後で役に立つことになります。当時すでに、大きな枠組みでいえば、マルクスとウェーバーという問題設定からウェーバーとニーチェという問題設定へという流れが始まりつつあったんですね。私もその問題に取り組むことになりました。

  日本でも明治時代から、高山樗牛、生田長江、和辻哲郎、竹山道雄をはじめ、ニーチェは広く読まれてきました。私の高校時代にもニーチェに心酔する友人が何人かいましたし、私も新潮文庫の竹山道雄訳の『ツアラトストラかく語りき』などを読んでニーチェを横目で見ていたのですが、より直接のインパクトはドイツで受けたんですね。後でヴィルムヘルム・へニスの『マックス・ウェーバーの問題設定』(恒星社厚生閣、一九九一年)を嘉目克彦さんたちと共訳しましたが、ウェーバーとニーチェに関する議論をドイツでへニス氏とも行いました。彼はニーチェのウェーバーに与えた影響を非常に強調するわけですが、私はそれに対して抵抗があって反論した。もう少し距離を置いて、ニーチェがウェーバーに与えた影響は見ていかねばならないと考えたわけですね。それで『知と意味の位相』の第三章「カントからニーチェへ」と第六章「ウェーバーとニーチェ」を書くわけです。ちなみに、わが国でニーチェを持ち上げる人は、その多くがキリスト教をあまり勉強していませんね。ニーチェのキリスト教批判でキリスト教の問題は片付いたと思っている。マルクス主義者がマルクスやフォイエルバッハの宗教批判で宗教問題が片付いたと思っているのと同じです。私は自分が比較的信念のあるマルクス主義者だった頃から、「宗教は民衆の阿片なり」というマルクスの言葉には納得していませんでした。これはあまりにも安直で浅薄な批判の仕方だと。


——『知と意味の位相』の第四章「ウェーバーの社会主義論」は一九八九年の一二月、まさにベルリンの壁が崩壊し東欧革命が雪崩を打って始まったそのときに、季刊『窓』第二号に掲載されたものを読みました。

雀部 これは、その前の一九八九年の六月に起きた天安門事件の余韻のもとに書いたものです。ある意味で、それは私のマルクスとの訣別でした。ただ『職業としての学問』についての論文を書いた頃から、私のマルクス相対化は始まっていた。ですから、その論文を書いたとき、これが『レーニンのロシア革命像』を書いたのと同じ人間のものかと言われたりしました。

  私の場合、マルクスの考え方を相対化していくときの認識論的基礎はカントです。物自体と現象との峻別という発想は、私においてヘーゲルとマルクスとを相対化する大きなインパクトを与えました。ただカントの実践哲学には結局そのままついていくことができなかった。やはり、人間の道徳というものには宗教的な基礎が必要です。ニーチェも、道徳が成り立つためには信仰が必要だと言っていますが、ただニーチェの場合は、どのみち、その信仰に基礎を置いた道徳でもって人間を良くすることなどできない、と言うのです。だからニーチェはネガティヴな趣旨でそう言うのですが、別にニーチェにとらわれることはないのであり、ニーチェを離れて言って、私はやはり道徳というものがしっかりするためには、何らかの意味で宗教的な信仰がその根底になければならないと思うのです。おそらくこれは人類の永い経験でしょう。

  もちろんカントにもそうした考えがあるわけだけれども、彼はそれを哲学という枠組みのなかで一生懸命解こうとしている。これでは解けない。やはりはっきりと信仰ということを言わないといけない。ですから、私はカントに物足りなさを感じてルターやカルヴァンを勉強したのです。そうして、カントからルター、カルヴァンとたどることで、ウェーバーの思想的な奥行きを垣間見るわけですね。そういうふうにして、すでにドイツへ行く前にマルクスを相対化していたわけですが、ドイツから帰ってきてそのことが非常にはっきりしてきたのです。

  いまお話ししてきたことからもお分かりのように、私の思想的な混迷は、ある意味で大学時代、六〇年安保のときからずっと続いています。最初は何とかマルクスで行こうと頑張ったし、『レーニンとロシア革命像』を書いた。先ほどレーニンは偉大だと言いましたが、いくらそうでも、その後がよくなければ、やはりだめです。木はその果によってはかられる。カルヴァンのキリスト教はまさにその考えですね。彼は福音主義ですから行為救済論を否定するわけですが、信仰を得た結果の行為を非常に重んじます。

 そのこととの関連でいえば、カルヴィニズムから『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』につながっていくというウェーバーの考え方も出てくるんですね。ただ、私はあの本のなかのルターへの裁断には納得しかねるものがあります。でも、これはまた別の問題です。大塚さんなどは、ご本人がピューリタンの系譜につながるクリスチャンだということもあって、『宗教改革と近代社会』などで、『プロ倫』を援用しながら、ルターよりもカルヴァンのほうを評価されていたようですが、私はむしろルターのほうが宗教的には深く偉大なのではないかと考えています。しかし、そういうことで言えば、トマス・アクィナスやアウグスチヌスなどのことももっとよく知らなければなりませんし、そういう意味では、ウェーバーの宗教社会学の検討は、キリスト教にかかわる部分だけに限っても、大変難しい。ましていわんや、儒教論や仏教論、それから日本人としては武士道論――ウェーバーには日本の武士道に敬意を表しているところも見られますが――の領域にかかわることにおいてをや、です。早い話が、日本の天台宗や真言宗には台密、東密といって密教的要素があり、真言宗にはとりわけそれが強い。この密教的要素はウェーバー的には「呪術の園」ということになるのだけれども、いくらウェーバーには世界宗教の「経済倫理」という問題の限定があるといっても、われわれ日本人にとって、たとえば真言宗が「呪術の園」ということでばっさりやられて、それで事が済むでしょうか。これは弘法大師を信奉するとかしないとか、好きとか嫌いとかということとは関係がありません。ですから、宗教社会学の世界におけるウェーバーとの対話=対決は並大抵のことではない。というのが私のいまの正直な気持ちです。歴史的現実の実態分析の問題としていえば、ひょっとすると、ウェーバーの仕事の一番いいもの、彼の本当に強い領域は、ある意味で兵站線の延び切った感のなくはない宗教社会学論集よりも、むしろ政治論、彼の生きたドイツの現実政治と切り結ぶなかから生まれた時事的な政治論説ではないか、と私はひそかに考えています。これは私の政治学者としての我田引水の嫌いがなきにしもあらずでしょうけれども、ウェーバー自身晩年の手紙のなかで「政治は私の昔からのひそかな恋人です」と書いておりますし、そうした彼の主観的事実からすると、彼の政治論、広くいって政治思想は、ウェーバー研究において、少なくとも、もっと重視されなければならないと思います。彼の政治論を腑に落ちる形で読めなければ、本当はウェーバーが分らないのではないか。いろいろ手探りしながらウェーバーを見てゆくなかで、だんだん私はそう思うようになりました。それに私自身政治学徒ですから、いよいよウェーバーの政治論、政治思想に研究の照準を合わせなくてはならないと考えるようになったのです。ところが、このウェーバーの政治論を腑に落ちるような形で読むというのが、これがまた大変難しい。


——『ウェーバーとワイマール』に書いておられるように、ウェーバーの政治論・政治思想の考察は、雀部先生御自身の戦後民主派的発想の批判的検討と密接に関わっていたといえるのですね。

雀部 そうですね。ウェーバーの政治論、政治思想と正面から切り結ぶのがなぜ難しいのかといえば、それは、簡単に言って、彼の立論の仕方がわれわれの戦後民主派的発想と合わないからです。一九八七年にドイツで出たEvangelisches    Staatslexikon第三版には、「民主政治」は現代人にとって「誰もが納得する政治の公準」「良き国家の総称」になっているという記述がありますが、それはまさにわれわれ戦後民主主義の教育を受けた者にとってそうでして、われわれは民主主義を、いわば自然法によって人間理性に与えられた、何を措いても実現されるべき政治の至上価値と考えているはずです。そしてその民主制のなかでわれわれが最も高い価値を置くのが議会制です。ですから民主主義と議会主義とは戦後民主派のわれわれにとってまさに「誰もが納得する政治の公準」であり、それらが文句なく実現されているかどうかが、われわれが政治の良し悪しを判断する際の基準となっているわけです。ところがウェーバーは民主主義や議会主義は自分にとっては二の次の問題であるなどということを平気で言う。ではウェーバーが政治において追求する第一の価値は何かと問えば、それは「国民のLebensinteressen(生活利益、死活の利害)」であり、「ドイツ国家の権力利害」だと、彼は答える。つまり彼において政治の公準は国益第一なんですね。これは戦後民主主義の教育を受けたわれわれの神経を逆なでします。もちろん彼は当時のドイツの現実に即してドイツ政治の民主化と議会化を可能な限り追求しようとした。その点では人後に落ちませんが、しかしそのコンセプトは「国民的」民主制であり、「指導者」民主制です。このコンセプトは戦後民主派のわれわれにとっては何となく胡散臭い気がします。少なくともしっくりきませんね。大体「国民的」というのは戦後あまり好かれませんし--「国家的」などとはもってのほかです――、政治におけるリーダーシップを強調するよりも下からの積み上げを重視するほうが、何となく「民主主義的」であるように考えられています。それに、何よりも民主主義や議会主義は、ウェーバーにおいて目的価値(「価値合理的」に信奉されるべき価値)ではなく、突き放して言えば、(国益を実現するための)たんなる手段的価値(「目的合理的価値」)でしかない。こういうわけで、ウェーバーの政治論は戦後民主派的ないし市民派的発想の持ち主にとっては相性が悪いのです。そのことを象徴的に示すのがウェーバー晩年の二つの講演に対するわれわれの受け止め方です。おそらく『職業としての学問』は読めても、『職業としての政治』はなかなか読めない、というのがわれわれ多くの者のいだく実感ではないでしょうか。私の場合もそうでした。私がまだマルクス主義的な信条を持っていた頃はあの講演をすらっと呑み込めないのは当然のことですが、マルクスと訣別した後でも、あの講演はどうしてもひっかかるところばかりでした。それはかつての私のマルクス主義的信条の基層に戦後民主主義の価値観がしっかり根付いており、それがウェーバーの政治論をすんなり受け入れることを拒んでいたからです。

 こうしてウェーバーの政治論説や政治思想は戦後民主派のわれわれにとっては抵抗が大きい。もちろん抵抗が大きくたってかまわない。ウェーバーが間違っていて、われわれのほうが正しいのかも知れませんから。別にウェーバーを金科玉条とすることはない。だが、学問的にはそう簡単に開き直れない。そのことを如実に示すのがヴォルフガンク・J・モムゼンの『マックス・ウェーバーとドイツの政治 1890-1920』(初版1959年、改訂増補第二版1974年、邦訳1993・1994年)です。これは今日まで人がウェーバーの政治思想を論ずるさいに基準とされてきた大著なのですが、それはまた徹底したウェーバー批判の書でもあり、その結論は、簡単にいうと、ウェーバーは権力主義者であり、(自由)帝国主義者であって、特にその晩年の人民投票的指導者民主主義論は意図せずしてヒトラー独裁に道を開く危険な要素を憲政論的に秘めている、というものです。どうしてそういうことになるのかというと、それは、モムゼンがやはりドイツの戦後民主派第一世代としてわれわれと同じようなアメリカ仕込みの自然法的民主主義の信条を持っていて、その目でウェーバーを見ている、いや、裁断しているからです。戦後民主派的信条に正直に従って、というよりも、その自己の信条をも対象化して眺めるという操作を同時並行的に行わずに、ウェーバーの書いたものを読むと、たしかにウェーバーはモムゼンが言うようにも見えてくる。

 だが、ウェーバーが意図せざるヒトラーの先駆者だ、少なくともその要素を何がしか秘めているというのは、あんまりです。それは、われわれが『職業としての学問』や『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などを読んで抱くウェーバーのイメージとはやはりあまりにも違います。誰でもそう考えるのですね。

 だから、われわれはウェーバーの政治論を前にして大きなディレンマに陥るわけです。戦後民主派的発想でウェーバーを読むとモムゼンのように非常にネガティヴな結論になりかねない。しかしそれで納得できるかというと、そうはいかない。ですから、われわれはウェーバーの前で困惑し、モムゼンの前で当惑するわけですね。

 このディレンマをどう解くか。私の結論は、われわれは、われわれのうちなる戦後民主派的信条を金科玉条とすることなく——もちろんウェーバーを金科玉条としてもいけません——、それを徹底的に対象化しながらウェーバーと対話すべきである、というものです。ということで、私は若いときから自分を培ってきたマルクス主義を対象化すると同時に、その基層にあった自分の民主主義的な信条をもう一度見直す方向に思い切って踏み込むことにしました。しかし、自分の戦後民主派的発想を対象化するといっても、徒手空拳で、つまり頭の中でウーンと考えこむだけで、それができるわけではない。やはり対象に即してそれをやらなければならない。その場合、対象といっても、二重です。まず、われわれは日本人ですから、日本の現状を、そして日本の来し方行く末をどう考えるか、という問題がある。実はこの問題が、私が自分の戦後民主派的発想を見直さなければならないと思うにいたった最大の、そして最も切実な、きっかけです。冷戦終焉後の--いまでは去年九月のアメリカで起こった「世界同時多発テロ」後の荒々しい世界があります――、そしてバブルがはじけて日本が底なしの不況に落ち込んだかに見える今日ほど、内外ともに政治の役割が重要になった時はない。だが、日本の政治状況はますます混迷を深め、ほとんど液状化的崩壊現象を呈している。こんな惨憺たる政治状況をもたらした戦後民主主義とは一体何だったのか。それはそんなに礼賛できるものなのか。すくなくとも、それは疑うべからざる既得の価値なのか。こうして私は戦後民主主義を括弧に入れ、クェスチョンマークをつけて再検討する作業を、少なくとも明治以降の日本の政治史を成心なく——これが大事です——見てゆく作業とともに始めたわけです。しかし、私は日本の専門家ではありませんから、これは自分の本番の仕事に問題を送り込む作業としては重要であっても、それ自体としては専門的になしうることではありません。

 そこで第二の対象が浮かび上がります。これは私が専門的に扱いうる、すくなくとも努力すれば扱いうる、対象です。つまり、ウェーバーが格闘したドイツの現実の政治過程、ドイツ近現代政治史を見直す作業です。これはそもそもウェーバーの政治論を見てゆくためには必須の作業であって、モムゼンもまさに「ウェーバーとドイツの政治」ということで、両者を突き合わせて検討している。しかも彼はウェーバーの生きたドイツ史に総決算を与えたワイマール共和国の崩壊、ヒトラーの権力掌握というクリティカルな時点から振り返って、ウェーバーの政治論の意味――モムゼンの主観に即していえば、その問題性――を再吟味している。これは彼がもともとドイツ近現代史の専門家であったればこそできたことであり、彼のウェーバー論の強みもまたそこにある。内外の多くのウェーバー研究者がモムゼンのウェーバー批判、とくにヒトラーの意図せざる先駆者というウェーバー像に内心ではしっくり行かないものを感じながら、それを正面からまともに踏み込んで批判できないのも、専門家モムゼンの向こうを張ってワイマール共和国崩壊までのドイツ政治史を自分の目で確かめ、それと突き合わせる形でウェーバーの政治論を検討する余裕も力もないからです。だから、モムゼンが見ているのと同じワイマールの結末までのドイツ政治史をぜひとも自分の目で確かめなければならない。そして、それとウェーバーの政治論説とを突き合わせて、彼の所説の意味と射程を確定しなければならない。だが、モムゼンが見ているのと同じ目でドイツ政治史を見ても仕方がない。モムゼンほど大胆な結論は出さないまでも、ウェーバーの政治論について結局は大同小異の見方しかできないだろう。すくなくともモムゼンのウェーバーにかけた嫌疑の霧はすっきり晴れはしないだろう。だからモムゼンとは違った目で、すくなくともモムゼンの立脚している視点の妥当性を括弧の中に入れて、ワイマールの結末までのドイツ政治史を見なければならない。

 それではモムゼンの立脚する視点とは何か。それはいうまでもなくわれわれと同じ戦後民主派の視点であり、アメリカ仕込みの自然法的民主主義の視点です。モムゼンは、ドイツ人がヒトラーの権力掌握とナチズムの勝利とを許したのは、ドイツ人の間に「民主主義の道徳的基礎」、つまり自然法的民主主義――民主主義を人間理性に対して自然法的に与えられた政治の至上価値として信奉すること——がしっかり定着していなかったからだと言います。しかし、自然法的民主主義が多少とも国民的規模で定着したのは世界広しといえどもアメリカ合衆国だけであり、したがって、自分たちの間で自然法的民主主義が十分定着していなかったからドイツ人たちはヒトラーの台頭を許したというのは、ドイツ人はアメリカ人でなかったからヒトラーの権力奪取を許したというに等しい。こんな無い物ねだりの運命論的な道徳主義的裁断でもってドイツ史を切り飛ばし、返す刀でウェーバーを切り飛ばしてもらっては困ります。ドイツ人はドイツに内在する諸条件に即してヒトラーを阻止できたのでなければならない。だが、モムゼンの立脚する戦後民主派的発想で行けば、結局そういうミもフタもない話になります。

 ということで、私は、モムゼンとは違った目で、ワイマール共和国崩壊までの近現代ドイツの政治史と憲政史を眺め、私が非専門家としてやっている日本近現代史の見直し作業とも頭の中では突き合わせながら、戦後民主派的発想の批判的再吟味に取り掛かったのです。もちろん、そのなかでウェーバーの政治論の読み直しも同時に行います。


——モムゼン批判と『ウェーバーとワイマール』でなされたワイマール共和国崩壊の政治史的、憲政史的過程も同時並行的に考察していかれたわけですね。

雀部 ええ。その関連で、オットー・ヒンツェやフリッツ・ハルトウンク、ゲルハルト・リッターらの古典的なドイツ政治史や憲政史の著作、ワイマール期のシュミットの憲法論や時事論説、マイネッケやアルフレート・ウェーバーのとくにワイマール期の時事論説、現代ドイツの史家のものとしてはハーゲン・シュルツェやハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラーのワイマール共和国史などをいろいろ読みましたが、しかし一番勉強になったのは、現代ドイツ最大の憲政史家エルンスト・ルードルフ・フーバーの索引巻をも含めて全八巻におよぶ膨大な『一七八九年以降のドイツ憲政史』です。この大著については、私の一九八五年のドイツ在外研修のとき、ハイデルベルク大学法学部のドイツ憲法史のラインハルト・ムスクヌーク教授のゼミでビスマルク憲法成立過程のところを読み、手ほどきを受けていたのですが、本格的に読むことにしたのです。とくにそのワイマール期を扱った第六・七巻――これだけで細かい活字で二〇〇〇頁以上に及びます――は、彼とは正反対の資質と志向の持ち主であるドイツ現代史家の故デートレフ・ポイカートによっても、その『ワイマール共和国』の参考文献欄で、ワイマール共和国憲政史の最も包括的で古典的な叙述を与えたものと評価されているものであり、これを見逃す手はありません。このフーバーのワイマール共和国崩壊の理解の仕方は、日本で定説となっているブラッハー流のワイマール共和国崩壊論とはある意味で正反対になっているんですね。モムゼンはウェーバー晩年の大統領制論のなかにヒトラー独裁を意図せずして用意する憲政論的要素を読み取りますが、そのとき彼の依拠したワイマール共和国崩壊の理解の仕方は、ブラッハー経由のものであり、このブラッハーの史観は、モムゼンが依拠するにふさわしく、われわれの戦後民主派的歴史観と共通項でくくられるものです。

 さて、このフーバーやハーゲン・シュルツェ、ハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラーらのワイマール共和国史を読み、それと突きつき合わせる形でウェーバーの政治論、政治思想を検討した結果、私の得た結論は、モムゼンのものとはまさに正反対のものでした。ウェーバーの大統領制論とその指導者民主制論とは、モムゼンの言うように、ヒトラーの全体主義的=「主権的」独裁に意図せずしてつながる危険な要素を含むものであるどころか、もしヒトラーのような全体主義的=主権的独裁の勢力が登場してきた時には、「委任的」独裁によってそれを阻止する手立てを憲政論的に用意するものであった、ブラッハーやモムゼン、それにわれわれのように、自然法的民主主義と観念的で硬直した議会至上主義を内容とする戦後民主派的発想にとらわれておれば、その点が——きわめて重要な右の二つの独裁の区別とともに——、正しく見えてはこないのだ、と。実際、ワイマール共和国最後のライヒ首相シュライヒャーは、まさにその「委任的」独裁の手法でヒトラーの権力奪取、「主権的」=全体主義的独裁の成立を阻止しようとしますが、共和国擁護派のドイツ社会民主党および中央党の反対が重要な一因となって挫折します。この点、ヴィンクラーは「民主派――つまり社会民主党と中央党——はあたかも共和国を脅威にさらす者がシュライヒャーであってヒトラーではないかのような行動をとった」と述べています。それでは、彼らはなぜヒトラーの「主権的」独裁を食い止めようとするシュライヒャーの「委任的」独裁の行為に反対したかというと、それは彼らが政治的に未熟であって、われわれの戦後民主派的発想と内容的には同一の観念的な自然法的民主主義と議会至上主義の観点にとらわれていたからです。とりわけドイツ中央党のごときは、ワイマール末期の一九三二年にライヒ議会で思惑の相反する右左の両極政党のナチスと共産党とが合わせて過半数を制し、ライヒ議会が完全な機能麻痺の状態に陥り、ワイマール憲法状況の非常事態が出現したとき、あろうことかナチスとの連立による議会主義的政府の形成にこだわり——しかも中央党はナチスが議会第一党だからというのでヒトラー首班を容認します——、ワイマール憲法第四八条で認められた「委任的」独裁の措置によって——ですから「委任的」独裁は合憲的独裁です——非常事態打開をめざすシュライヒャーの政策に反対するわけで、これを観念的な議会至上主義と言わずして何と言うか、ということです。われわれ戦後民主派でも、その発想にとらわれているかぎり、こうした場合、中央党と大同小異の態度をとるでしょう(しかも戦後の日本国憲法には、およそ非常事態に対処する「委任的」=合憲的独裁の規定はありません)。つまり、戦後民主派的発想は、ワイマール期に一度重大な誤りを犯しているわけです。ひるがえってウェーバーの政治思想の根幹を改めて考えてみますと、彼は「ドイツ国民のLebensinteressenは民主主義や議会主義よりも重い」と言います。彼は他の箇所で「ドイツ国家の権力利害」を云々していますから、国民的利益と国家的利益とをあわせて言う「国益」が彼の追求する政治の第一の価値です。では日本語で「国益」というのはヨーロッパの伝統的な政治概念で言うと何に当たるか。それはレースプーブリカということにほかなりません。ところで、このレースプーブリカ、Polity(政治体)の共通善、「公共善」の追求とその実現こそ、アリストテレス以来のヨーロッパ政治思想の伝統のなかで政治において真っ先に追求されて然るべきものとされたものです。ですから、ウェーバーの政治についての基本的コンセプトは、まさにアリストテレス以来のヨーロッパ政治思想の正系に就くものと言われねばなりません。そのレースプーブリカの概念を根本にすえたうえで、彼は、民主制と議会制とは現代政治の必須の条件であるから、国民的民主制と指導者民主制を主張したのです。その意味では、彼は、われわれに対して、戦後民主派的な観念的政治論にとってかわる、政治の原理論的観点を提供してくれている、と言えるのではないでしょうか。これが、ウェーバーの政治論を腑に落ちる形で読もうと格闘した結果、私の得た結論です。その詳細については、『ウェーバーと政治の世界』および特に『ウェーバーとワイマール』を読んでいただけると幸いです。


——先ほど、ウェーバーを研究する上で一貫して念頭を去らなかった「どこまで耐えられるか試してみよう」ということが大きな問題としてあったというお話がありました。『知と意味の位相』の冒頭には、ウェーバー自身の結論的命題としてこう記されています。「現代という時代は、『世界の魔術からの解放』が徹底的におしすすめられた時代であり、神々の闘争の時代であり、神なく預言者なき時代である。この時代を知的に生きぬくためのモットーはただ一つ、「汝をつかさどるデーモンを見いだして、日々の仕事につけ」。」

 私にはこれらの言葉が、現代という時代にあっても、知的に生きぬく一つの方途を示しているように思えます。

雀部 『知と意味の位相』と『ウェーバーと政治の世界』『ウェーバーとワイマール』に一貫してあった私の問題意識としてマルクス主義との訣別と自分の戦後民主派的発想の相対化とがありますが、さらにその両方に通底するものに救済論の問題があるのです。私も学問に「意味」を求めてずっとやってきた。今でもある意味では「意味」を求めているわけですが、ここで「意味」というのは「生と世界の究極の意味」、したがって救済の問題です。ウェーバーはそうした「意味」は学問によっては追究できないものであり、また政治に救済を求めてはいけないと言います。

 まず前者について。彼は一九〇四年に書いた「社会科学および社会政策の認識の客観性」という論文で、「われわれはこの世界をどれほど隈なく究明したとしても、それに照らしてその出来事の意味を読み解くことができない」、「およそ世界観というものは進歩を遂げる経験的知識の所産では決してありえない」と述べています。それは、簡単にいえば、学問や科学によって「意味問題」は解決がつかない、「意味」は、学問とは違うディグニティをもった精神の働きによって、各人が各様に見出し、作り出していかなければならない、というものにほかなりません。

 これはまことにその通りで、「意味」を科学的に証明することはできません。誰もが納得する客観的な「意味」はないのです。だからまた人間には「自由」の領域がある。カントではありませんが、客観的に合理的なもの、今日風に言えば科学で証明されるものは、zwingend、「強制的」であって、それは理性的存在者なら否応なく認めなければならないものですから、そこに「自由」の余地はありません。だからカントは「信仰」――これは学問的に証明されるものではないからーーを「自由」の事柄としたのです。そしてカントは「信仰にその所を得させるために理性に限界を設けた」。この伝でいえば、ウェーバーは「意味問題にその所を得させるために科学に限界を設けた」と言えるでしょう。

 こうして「意味問題」は各人各様に解かなくてはならないのですが、しかし、この「各人各様」をあまり極端化させて考えては困るのではないかと、私は最近考えております。ウェーバーといえば人はすぐ「神々の闘争」を云々しますが、いまの情況は、相も変わらずそんなことを得々として担ぎまわっている場合じゃないのではないでしょうか。その「神々」も「ディレンマ」に陥っているのです。大抵のウェーバー研究者は見逃していますが、ウェーバーの「中間考察」には、「神々の闘争」と同時に「神々のディレンマ」の問題も鋭く看取されています。この「神々の闘争」がにっちもさっちも行かなくなり、「神々」も結局抜き差しならぬ「ディレンマ」に陥っているのだとすれば、「意味問題」についても、お互いの、生きた人生経験を通して——だから科学的証明の問題としてではなく——、われわれの間にはもう少し広い共通項があってもいいのではないか、いや、多分ないといけないのではないか。そういう意味で、私は今日伝統的な宗教を再活性化させることがだんだん必要になってきているのではないかと思っております。シュルフターもそう考えているのですが、彼はウェーバーからはその観点が出てこないと言う。これが彼のウェーバーへの批判点の一つです。しかし、私はウェーバーにはそうした考え方への通路があると思います。この点がシュルフターと私との違いですが、ウェーバーを離れていっても、やはりそういう問題がわれわれにはある。その問題については、『ウェーバーとワイマール』巻末の付論「ウェーバー 現代の精神史的省察――一つのスケッチ」を参照願えると、幸いです。

 つぎに、政治に救済を求めてはいけない、について。これはウェーバーが『職業としての政治』でもどこでも常々強調するところで、これまたまことにその通りなのですが、しかし、この問題についても、すこしコメントしなければならないことがあります。『職業としての政治』はよくマキャヴェリの『君主論』と比較されます。そこには共通項があると見る人が多いのだけれども、たしかに政治を非常に突き放して冷徹に見る点、政治にひそむ悪魔性を自覚している点で、二人は共通しています。しかし、その自覚の仕方というか、自覚してその先は、という段になると、両者はやはり違う。マキャヴェリは、政治に携わることは悪魔と取引することである、だから政治は賢明かつ大胆にその流儀でやる、そこに何の躊躇も覚えないし、また覚えてはならない、覚える奴はProphet unarmed、武器なき預言者の憂き目を味あう、ということになりますが、ウェーバーの場合、政治の悪魔性を自覚するというのは、「気をつけろ、悪魔は劫を経ている!」ということであり、だからこちらも悪魔以上に劫を経なけりゃいけない、ほかならぬ悪魔的なものと対抗するために、ということであって、悪魔性の論理にまったく身を任せるというのではありません。もちろん悪魔の手口をよく知って、場合によっては、というよりも全く多くの場合、こちらもその手口に従わざるを得ない——だから罪を犯さざるを得ない。政治においては、どれほど優れた政治家でも、貸借対照表をつくると、功罪半ばするでしょう——のだが、しかし究極的には、悪魔に対抗することがやはり目指されています。この点は、『職業としての政治』の終わりのほうの、責任倫理と信条倫理との相克と、しかし、ルターの「我ここに立つ」を引っ張ってきて、ぎりぎりのところでの両者の相補を論ずる、その仕方を見ればよく分かります。

 この問題は、少し角度を変え、たしかに人は政治によって魂の救済を求めてはならないのだけれども、しかし、それでは、政治においておよそ「聖なるもの」が存在しなくてよいか、という形で見てゆくと、考えやすいでしょう。

 政治は苛酷なものであり、われわれがしょっちゅう見聞きしているように、しばしばどうしようもなく汚いものです。しかし政治がどれほど泥にまみれたものであっても、その政治のどこかにやはり聖なるものがないと、具合が悪い。なぜかといえば、政治はいざとなれば人から命を要求するからです。これは戦後のわれわれは忘れていますが、日本をも含めて人類何十万年、いや何百万年の経験ですし、今日でも、さしあたって日本を除く全世界の経験です。それは極めて重大なことであって、人の命を敢えて要求しなければならないことのある政治は、究極的には汚れていてはだめなんです。やはりどこかに聖なるものがなければならない。ウェーバーの政治論のなかではそのことが意識的に出されてはいなのですが、彼の観点においても潜在的にはあるのではないでしょうか。

 ただ、ウェーバーの時代とわれわれの時代とが違うのは、その間にナチズムがあり、アウシュヴィッツがあり、そして現在までにいたる凄まじいまでの人間精神の荒廃状況があるということです。そうすると、ウェーバーがそれほどポジティヴに言わなかったことでも、われわれが今日的観点からそれをぐいと取り出すとう操作が必要になってきます。

 宗教ということで言えば、やはりわれわれは宗教をおろそかにしてはいけないんですね。ただし私が言うのは、もちろん何千年という風雪に耐えた宗教です。かつて数限りない人間的な誤りを犯し、しかもそこから立ち直ってきた、そして自己の誤りをよくわきまえている宗教のことです。もちろんその宗教というのは複数で、ウェーバー的にいえば救済諸宗教、世界的諸宗教のことですし、それから、どんな宗教であれ、偏狭なファンダメンタリズムは困ります。


——ヒトラーの政権獲得とアウシュヴィッツ、またロシア革命後のソ連が巨大な「収容所群島」を生んでしまったという、そうした二〇世紀最大の問題を考えても、私たちは政治に救済を求めてはいけないということなのですね。

雀部 そのとおりです。マルクス主義は救済論ですね。疎外論についても、疎外というからには、疎外の克服ということを言わなければならない。それは人間の魂の救済であって、宗教や何か他の人間の精神の働きによってなら、なし得るかもしれないけれども、政治や学問ではできない。われわれはその見切りをつける必要があります。民主主義も、日本ではある意味でソフトな代替宗教になっています。戦後の日本では戦前の価値観が音を立てて崩壊し、拠るべきものがなかった。だから、日本国憲法と平和と民主主義が私たちのソフトな宗教のようなものになった。それは一つの救済論です。しかし、それも突き放して見なければいけない。

 それと同時に、しかしながら、にもかかわらず、政治においてはやはり聖なるものを残しておかなければならない。さもないと、われわれはニヒリズムの極致に行き着いてしまうでしょう。

(了)


雀部幸隆「学者の良心と学問の作法についてーー羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』の山本七平賞受賞に想う」

『図書新聞』2004年2月21日、2月28日掲載稿(転載承諾有).

学者の良心と学問の作法について

——羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』の山本七平賞受賞に想う——

『図書新聞』2004年2月21日号、2月28日号掲載(転載承諾有)

雀部幸隆


[以下、2004年2月21日号]

(一)「犯罪」とは穏やかでない

 『Voice』本年1月号誌上(一九四ー二○一頁)で羽入辰郎が第十二回「山本七平賞」を受賞したことを知り、その事実、選考会各選考委員の選評および羽入本人の「受賞の言葉」を見て、筆者は一驚を禁ずることができなかった。

 受賞対象となった著書は『マックス・ヴェーバーの犯罪——『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊——』(ミネルヴァ書房、二○○二年九月,以下羽入書と略称)である。『倫理』論文とはマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』である。

 そもそも「マックス・ヴェーバーの犯罪」というメインタイトルからして穏やかではない。すくなくとも世界的に知られた学者や思想家にたいする論難の書として、かつて「何某の犯罪」、たとえば「カール・マルクスの犯罪」とか「カール・シュミットの犯罪」」などと銘打った著作が世に問われたことがあるとは、筆者は寡聞にして知らない。

 そうしたタイトルの著書がなぜないのか、その理由はともかく、いや、その理由などというものを筆者はこれまで考えたこともないのだが、それは措く。

 いずれにしても「犯罪」という言葉は、広義には社会倫理的に当罰的行為を指すが、そのさい直ちに可罰するのは誰か、その可罰の妥当性をいかに保障するかが問題となり、どうしても、法益の侵害、一定の法的義務違反としての可罰的行為という意味での特殊刑法学的概念と結びつき、そうした刑法上の概念と切っても切れない関係にある。そうすると、何某の「犯罪」などと言うと、その犯罪の「構成要件」は何か、「違法性」は、「有責性」は、それから、その「犯罪」なるものをいかなる手続きにもとづいて、どの法廷で、誰が裁くのかなどと、一連の厳密な規定を要する事柄が直ちに問題となる。そうした諸問題をきちんとクリヤーし、またクリヤーする見通しが立たないと、そう安直に誰某の犯罪を告発できないのである。しかも告発したとて、然るべき機関(検察当局)によってその告発が取り上げられて起訴がなされ、さらにその起訴にもとづいて然るべき機関(法廷)において審理され判決が下される保障はない。大体、羽入はみずからの案件をどこの「法廷」に持ち出そうというのか。もちろん氏の意図としては、「言論の公共空間」にということでもあるのだろうが、それなら、いかにセンセーションをねらったとしても、「犯罪」などという日常語としても刑法上の概念と深く結びついた不穏な言葉を軽々に用いるべきではない、それも著書のメインタイトルに麗々しく掲げるべきではないだろう。


(二)授賞選考会の見識を問う

 ところで、羽入書のタイトル「マックス・ヴェーバーの犯罪」の「犯罪」が不穏当なものであることに関しては、今回の山本七平賞選考会の一メンバー加藤寛によっても意識されてはいる。氏はその選評において、「もっとも『犯罪』という題名は語感が強すぎる。これは羽入氏の気持ちからすれば『詐術』というほどの意味であり、これは出版社の売らんがための『犯罪』というべきか(?)」と述べている(『Voice』前掲一九五頁以下)からである。「犯罪」という題名を付けるにあたってイニシアティウ゛をとったのが羽入であったのか出版社であったのかは知る由もないが、いずれにしても羽入は現にその題名で自著を公刊したのであるから、かりに「出版社の売らんがため」の戦略に彼が従ったとしても、彼も——道義的には——同罪である。とするならば、題名の不穏当さを若干意識するメンバーがいながら、そのメンバーをも含めて、そうした題名の著書に賞を授けた第十二回山本七平賞選考会もまた、羽入および出版者の「売らんがための犯罪」に和し、その少なくとも道義的「犯罪」を助長する道義的な罪を犯したことになる。

 大体、「マックス・ヴェーバーの犯罪」というおどろおどろしくも不穏な題名を掲げて、その実、ウェーバーの「知的誠実性」(と羽入の解するもの)の崩壊——ウェーバーは「詐欺師」である(羽入書二、一九一、二七四頁)——というただ一点の全くネガティウ゛なことを「論証」するだけで、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に関するウェーバーの基本テーゼの当否の判断や、その基本テーゼを超える歴史的新知見の追究などのポジティウ゛なことには一切関心がない(同上九頁)などと開き直る著書にたいして、どのような賞であれ、賞を授けるというのは理解しがたいことである。

 選考会の選者たちは、羽入の著書が「聖マックス」崇拝の息の根を止めたその功績をたたえる、というのであろうか。しかし、「聖マックス」崇拝なるものは、今を去るほとんど四○年も前、一九六四年東京大学における第一回『ヴェーバー・シンポジウム』前後の一時期にウェーバー研究の内外で一部に見られた現象なのかもしれないが、そんなものは今日つとに地を払っている。「聖マックス」の「脱魔術化」などというものは、「遅れてやってきた青年」のアナクロニスティックな独り相撲の課題でしかない。

 ちなみに、選者の一人中西輝政は、今回の羽入の著書を読んでウェーバーもやはり「人の子」だという感慨を持ったとして、次のように述べている。「[マリアンネ]夫人の書いたヴェーバーの伝記を読んだときよりも本書を読んでヴェーバーをずっとヒューマンな存在に感じたものである。やっぱり彼も『人の子』ということである。」(『Voice』前掲一九七頁)

 ウェーバーが「聖マックス」ならぬ「人の子」だというのは、羽入書を俟たずとも、当たり前の話である。ほかならぬマリアンネ夫人の『伝記』によれば、一九○七~○八年に或る若い友人に宛てて書かれた手紙の中で、ウェーバー自身、みずからがまさしく「人の子」であることを、別の文脈からではあるが、告白している。「・・・お分かりいただきたいのですが、わたしが『罪』の何たるかをわきまえている人にたいしてあえて道徳をふりかざさないのは、それなりの理由があるからです!・・・実際のところ、わたし自身が『悪事』の最たるものを犯しています。・・・・もし『完徳の生活』(integer vitae)を送る者しか完全な人間に(zu Vollmenschen)成れないのだとしたなら、これは困ったことでしょう。・・・まあ、そんなことにでもなれば、さしずめわたしなぞは完全な人間に成ることなど、のっけから諦めねばなりますまい。」(マリアンネ・ウェーバー『マックス・ウェーバー』みすず書房、一九六五年、298頁、強調は原文、訳文は変えてある。)

 あるいは選考会の選者たちは、マックス・ウェーバーを「近代主義」の巨頭と見立てて、やはり羽入書がその巨頭の立脚する「砂上の楼閣」(選者の一人山折哲雄の言葉、『Voice』前掲一九七頁)を突き崩すことによって、「近代主義」の巨頭の化けの皮を剥ぐのに大きく貢献した、というのであろうか。これまた見当はずれの見立てにもとづく見当はずれの評価である。

 たしかに今を去る何十年も前、マックス・ウェーバーは、一部の論者たちのあいだで「近代主義」の権化と見なされたことがある。ただし、そうした評価はむしろウェーバー批判者たちの側からなされたレッテル貼りの面が強かったのだが、先ほどの「聖マックス」崇拝とも関連して、当時ウェーバーを持ち上げた論者たちにそうしたレッテル貼りに根拠を与える言辞がなかったわけではない。しかしウェーバー研究の驥尾に付している筆者などは、かつても今もウェーバーを「近代主義者」だとは考えていないし、すくなくとも今日、ウェーバーとまともにかかわろうとする者のあいだで、彼を「近代主義者」と考える研究者はむしろ数少ないだろう。

 だが、さらに重要なことは、選考会が、すでに二○○三年四月の時点で、羽入の著書にたいする厳しい批判が折原浩によってなされている(東京大学経済学会編『季刊経済学論集』第六九巻第一号七七—八二頁所収の羽入書にたいする書評「四疑似問題でひとり相撲」)にもかかわらず、それを無視し、その批判と羽入の著作内容との照合という、およそ授賞選考にさいして欠くべからざる手続きを踏まずに——すくなくとも今回の選者たちの選評からはその形跡は窺えない——、羽入に賞を与えたことである。その後折原は、二○○三年一一月には『ウェーバー学のすすめ』(未来社)を、二○○四年一月には『未来』誌上に「学者の品位と責任——『歴史における個人の役割』再考」を公表して、羽入批判をさらに詳細に展開し、とくに『ヴェーバー学のすすめ』においては、羽入への反論の域をはるかに超えて、ウェーバーの人と学問における『倫理』の位置と意味、その定点観測からなされる『倫理』のあるべき解釈、『倫理』と並行し前後するウェーバーの科学方法論諸論稿との相互関連に関する考察、『倫理』以降「世界宗教の経済倫理」への展開の展望等の諸点において、管見するところ、内外のウェーバー研究においてそれこそ新機軸を開く自説を積極的に展開している。ぜひ参照されるべきである。

 選者の一人山折哲雄は、先にも引いたとおり、『倫理』の立論はたんに「砂上の楼閣」でしかなかったのだが、ウェーバー「巨人伝説」にとらわれて誰も敢えて突き得なかったその虚像を、今回羽入が一気に「突き崩した」と述べている。氏は、「ヴェーバーが営々として築き上げた輝かしい理論的な支柱がじつはたんなる砂上の楼閣であった」(『Voice』前掲一九七頁)ということを、いかなる論拠にもとづいて揚言するのか。また、そうでないゆえんを力説した折原論文を、かつて『ヒンドウ−教と仏教』の一部を翻訳したこともある氏は、一体どう見るのか。

 また、養老猛司は、今回の選評において、「仮に著者の論考が誤りであることを証明したいなら、同じ手続きを踏めばいい」としたうえで、しかし「評者にはもちろんそんな暇はない。したがって当面、それがいかに破天荒なものであったとしても、著者の結論を素直に受け入れるしかない」と述べている(同上一九八頁)。「もちろんそんな暇はない」のなら、養老は、自身、ひょっとして「破天荒なもの」であるのかもしれないと思う「著者の結論」を、なぜ、「したがって」「当面」「素直に」受け入れることができるのか。選考委員に名を連ねるからには、せめて選考の時点ですでに公表されている『経済学論集』誌上の折原論文と羽入の著書とを突き合わせてみるという「暇」をつくるべきではなかったか。


[以下、2004年2月28日号]

(三)羽入の「受賞の言葉」の無恥厚顔さ

 しかし、なんといっても看過できないのは、「受賞の言葉」に見られる羽入の「悪のり」ぶりとしか言いようがない言辞である。

 もともと氏は、その著書の「はじめに」で、「トイレに本を持ち込む癖」があり、たまたま「中島らも」や「池波正太郎」を読み尽くしたあと『倫理』の岩波文庫版をトイレに持ち込んだ「女房」の指南を受けてこの本を書いたなどと、臆面もなく述べていた。それにたいして選考会のメンバーも、「バカも休み休み言え」と唾棄するのではなく——昔の日本人ならそうしただろう。選考会には、最近『国民の文明史』(産經新聞社)を書いて新渡戸稲造の『武士道』や内村鑑三の『代表的日本人』とそれらの著者たちのエートスに讃辞を惜しまない中西輝政も加わっているはずである——、「どんな小説も顔負けの鮮やかな導入部」だ(竹内靖雄、『Voice』前掲一九六頁)とか、そうした「奥さんのコメント」などの「付帯的なエピソードが生きる。『読む本』としてたいへん面白く、よい作品になったのは、そのためであろう」(養老猛司、同上一九八頁)などと調子を合わせていた。その反応に気を良くしたのか、今回、羽入は「授賞式」で「女房」の寄与への自画自讃をさらにエスカレートしてみせる。

 まず、氏は「『受賞の言葉』を用意するようにいわれていたわけですが、ほんとうをいうと皆さんが私からお知りになりたいことは、じつは一点でしかない。お前のとこの夫婦はいったいどうなってるんだ? どういう共同作業をやってるんだ? お前の女房はいったい何者なんだ? と。」(同上一九九頁)と切り出したあと、自著の「はじめに」は「一○○パーセント私の文章」(同上)だが、すでに「この鋭い——と本人が言う[引用者]——攻撃的な『序文』」となると、誰が書いたか「難しくなる」と述べ(同上)、以下のようにその楽屋裏を得々と開陳してみせる。「まず大雑把なところで女房が口述します。私はそれを、そこらにある小さな紙切れに筆記していくわけです。途中で女房の思考の糸が切れてしまったら、また別のことを口述します。四、五枚になったあたりで、『じゃ、打ってみる』と私がい」い、そうした断片をとにかく「論理的に繋がるようにして、私の文章も入れてみて・・・大体なだらかな文章にして・・・それをプリントアウトして、女房のところへ持っていきます。すると『あら、うまく繋げたわねえ』とかいいながら、また書き込んでいきます。書き込まれたものをまたなだらかに入れてしまい、私の文章もさらに足していき・・・こうして・・・誰の文章か分からない文章が出来上がってしまいます。」(同上一九九頁以下)

 このあと、この調子の話がさらに続くのだが、簡単に切り上げるとして、羽入書の本論部分はどうかというと、「3章・4章は修士一年のとき、私が自分で見つけたテーマ」だが、「1章・2章は、・・・女房のトイレでの発見」に負う、という(同上二○○頁)。

 さて、ことほどさように、「女房」の「勘」、「発見」、「口述」、「書き込み」に負うところ多大な著作ならば、羽入はその著著を羽入の単著としてではなく、すくなくとも「女房」との共著として出すべきであっただろう。なぜそうしなかったのか。「女房はドイツ語は全く出来ない」とのことだが、まさかそのことが憚られたわけではあるまい。その理由は知らず、いずれにせよ、その著作が成るにあたって内容的に貢献多大な「女房」と名を連ねることなしに著書を公刊した羽入は、当の「女房」を含めて公共の言論空間にたいして、まさに「知的に不誠実」であるとの誹りを免れないだろう。

 もし何らかの理由で羽入が自著を「女房」との共著として出すことを憚るのならば、羽入は、こともあろうに、その著書の授賞式で痴話めいた楽屋裏話を得々と開陳すべきではないだろう。それは学者の——いや普通の人間の——作法に反する無恥厚顔醜悪の言辞というほかはない。そうした発言は酒席での酔いにまかせた言辞としても、まともな大人のあいだでは顰蹙を買うだろう。

 だが、さらに看過できない重要なことがある。それは羽入が折原のいう『倫理』の本論部分に自著が論及しなかった弁解として持ち出している理由である。  羽入は、この時点で、氏のウェーバーにたいする「犯罪者」「詐欺師」としての断罪は『倫理』本論に全く立ち入ることなくその冒頭部分、それも多くは脚注を対象にして——しかも「視野狭窄」に陥り、「恣意的」な「証拠選択」をして——なされているにすぎないという、折原の『経済学論集』誌上の批判(同上七七頁)を明らかに意識して、次のように開き直った弁明をしている。「『倫理』論文全体の初めのほうでこの本の論証が止まってしまっているのは、それがひとえに女房が岩波文庫を放り出してしまい、『馬鹿と付き合うのはもうたくさん』といって、それ以上読んでくれなかったからです。」(同上二○○頁)

 これは、およそまともな良心と良識をそなえ、学問の作法をわきまえた学者の口にすることではないだろう。筆者は羽入の「受賞の言葉」のこの箇所を読んで、わが目を疑った。そして羽入のこの悪ふざけと悪のりをそのまま放置しておくわけにはいかない、と思うにいたった。

 そのまま放置しておくわけにはいかないと思ったのは、羽入の無恥厚顔ぶりに胸の悪さを覚えるその限度に達したからでもあるが、それ以上に、「ドイツ語の全く出来ない」移り気な「女房」の不遜で恐い者知らずの攻撃的な言動を引き合いに出すことによって、羽入は折原の批判にまともに応えることを拒否する、折原の批判を無視する、挙に出ていると見たからである。そのことは右の発言にすぐ続く次の文章を見るとよく分かる。「今後の予定はどうかと申しますと、本来は『倫理』論文の第二部——つまり本論[引用者]——に入っていって、女房にも読んでもらって、そこでの論証の是非を調べていかねばならないのですが、いま青森の看護系の新設大学におりまして、文科系の資料がまったくありません。いまの段階では、したがいまして、これ以上『倫理』論文の研究自体の領域を広げるのは無理だと思います。」(同上二○○頁以下)

 つまり、羽入は、折原が、羽入批判のごく初歩的なことの一つとして、ウェーバーに関して「犯罪者」などというとんでもない全称判断をくだすには、本来なら『倫理』だけに視野を限っていても駄目なのだが、せめて『倫理』の本論に立ち入ってその全論証構造を的確に押さえたうえで物を言え、と述べているのにたいして、そのつもりがない——それに「馬鹿と付き合うのはもうたくさん」とのたまう「女房」を説得するのにも骨が折れるだろう——ことを表明しているわけである。「青森の看護系の新設大学」にいて「文科系の資料」がないなどというのは、理由にはなるまい。

 もっとも、羽入はそれでも折原による批判は気になるらしく、「その代わり、と申しては何ですが、専門の研究者の方々にお願いして、私のいままでの論証がほんとうに正しかったのか否か、もう一度厳密に確かめるための研究会を始めています」と述べてはいる。「専門の研究者の方々」というのは、おそらくルター研究その他のキリスト教史関係や聖書の各国語への翻訳の歴史、さらにはフランクリンとその周辺の思想史を専門とする研究者たちだろうが、そうした専門家たちの教示を仰ぐことももちろん重要だが、折原の羽入批判はすぐれてウェーバーへの内在、もっと視野を広げた、ウェーバーの全論証構造の理解に則した、内在の問題とかかわる。もともと羽入は独自な歴史研究にもとづきウェーバー・テーゼにたいして積極的に異説を立てたりすることには関心がないわけであるから、ウェーバーを犯罪者扱いにし、その「知的誠実性の崩壊」を揚言するのなら、折原の批判を正面から受け止め——折原は羽入にたいしてそうしている——、ウェーバーに内在して反論すべきだろう。いまでは折原は『経済学論集』への寄稿論文だけでなく『ヴェーバー学のすすめ』ほかの論著を公表して、羽入への批判と折原自身の『倫理』解釈をさらに深め、羽入が実のある反論を発表するなら応答すると確約しているわけであるから、なおさらそうである。なにしろ羽入はウェーバーを犯罪人、詐欺師として断罪するという前代未聞の挙に出たのであるから、それにたいする折原の反論にたいして、岩波文庫本『倫理』の初めを読んだだけで「馬鹿と付き合うのはもうたくさん」などといって本を放り出してしまう「女房」の袖に隠れたりしないで、まともに応答する義務があるだろう。


折原浩「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答1」

2004年2月20日(本コーナーへの寄稿)

各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答1

折原浩

2004年2月20日

橋本努氏がこの「コーナー」を開設され、各位の寄稿も出始めて面白くなってきました。

筆者も、当事者のひとりとして、各位の寄稿にできるかぎり正確に応答したいと思います。併せて、なにかのご参考にもなればと思い、学問へのスタンスと周辺事情にかんする老生の見解も、ところどころに織り交ぜていきます。

1.1月24日付け森川剛光氏の寄稿について

森川さん、ご多忙のところを、よくぞ応答第一号を寄稿してくださいました。

 このコーナーにアクセスされる方々のなかには、まだ森川さんをご存知でない方もおられるのではないかと思いますので、筆者からも簡単に、筆者とのかかわりのかぎりでご紹介させていただきます。

森川さんは、ご自身、謙虚ながら自信にみちて「Weberの科学論集は読み込んだといっても恥ずかしくない」といっておられ、橋本氏の紹介にもあるとおり、Weberの『科学論集』を精読し、(いまでは忘れられている) Gottlとの関連を掘り起こし、「理念型」について整合的な解釈を打ち出し、広く西洋の論理学史のなかに位置づける、という画期的な研究で、学界にデヴューされました。じつは、その主著と主要論文のなかで、「客観性」論文邦訳への筆者の解説のある箇所が(氏の主題との関連で)批判されているのですが、筆者はこれを歓迎/重視し、「第七刷へのあとがき(訂正と補足)」に約3ぺージのスペースを割いて暫定的に応答しました。また、昨年、神戸大学社会学研究会編『社会学雑誌』第20号に寄稿した論文「マックス・ヴェーバーにおける社会学の生成I. 1903~07年期の学問構想と方法」も、森川氏の業績とくに筆者への批判を念頭に置いて書いています。くわしくは、森川論文と筆者の論考とを、このばあいについても対置して相互検証に付していただきたいのですが、争点は、「ヴェーバーの学問総体は『現実科学』(森川説) か、それとも『現実科学と法則科学との独自の総合』(折原説)か、とすれば、そのばあいの『現実科学』とはいかなる意味か」というふうに要約してさしつかえないでしょう。いずれにせよ、森川氏とのあいだでは、このようにして対等な(本コーナー掲載の別稿「学問論争をめぐる現状況」にいう)「生産的限定論争」が成り立ちますし、現に成り立っています。しかも、いまのところ「森川説優勢」といえます。

それはともかく、森川氏は30代半ば、筆者は70に近い老人です。しかし、そんなことは、学問論争にはなんの関係もありません。むしろ筆者は、学問的にも人間的にも成熟した新進気鋭の若手研究者が現れ、筆者と対等に「渡り合って」くれることを、このうえなく喜び、「学者は、自分の仕事が乗り越えられることを、ただたんに『甘受』するのではなく、むしろそれを『目的』とするのでなければ、仕事ができない」というヴェーバーの言葉を味わいなおし、森川氏のような新進気鋭の研究者がどんどん出てきて、筆者を乗り越え、より高い(あるいはより深い)地平に到達してくれるように、乗り越えられるべき自分も、できるかぎり高い(あるいは深い)地点にまで到達しておかなければならない、と決意を新たにして仕事をしています。

その森川氏が、「『倫理』論文は内在的反論の役をみずから買って出るほど読み込んではいないが」と断りながらも、(「倫理」論文については同様の自己限定のもとにある)筆者の反論でも、「私がいいたいことはほぼ出てしま」っている、と評価してくださったことは、氏が上記のとおり自立的/自律的な研究者であることを思うにつけ、筆者として率直に喜び、意を強くする次第です。ただ望むらくは、森川氏としては、こういうばあいにはやはり、「ほぼ出てしまっている」といわれる諸論点の具体的内容を森川氏自身の表現で要約的にも提示してくださったほうがよかったのではないか、よいのではないか、と思います。

また、このさい森川氏なればこそお願いしておきたいのは、今後なにか同じような、つまり、ご自身が「読み込んで」いる専門領域はもとより、たとえそうでない周辺領域でも、羽入書のような、一見緻密ながらじつは粗暴で学問性そのものを侵害する「ためにする際物本」が「言論の公共空間」に登場し、人々を惑わせるような事件が起きたときには、関連文献を「読み込み」、いちはやく反論し、議論の素材を提供して、論争の当事者となる「役をみずから買って出」ていただきたい、ということです。というよりも、この点は、すべての「中堅」と「若手」の研究者に期待することなのですが、とりわけ森川氏にはお願いしておきたいのです。

森川氏が、氏の学風からして、客観的・論理的意味解釈とそれにもとづく内在批判でこそ本領を発揮されるはずなのに、「応答」の第二パラグラフから知識社会学的外在考察に移り、以後延々と対橋本問答を繰り広げておられるのは、ちょっと意外でした。しかし、ヴェーバーの方法論を学び、方法を会得した人が、客観的意味解釈の平面で「不可解なもの」に遭遇すれば、「なぜ、こんなことをいうのだろう」と「動機」に遡及し、外在考察に移るのは、自然なことですし、ジンメルからヴェーバーをへてマンハイムにいたる社会科学方法論のうえで、定式化されていることでもありますよね。

筆者も、羽入書の、「ヴェーバー研究者」を横目でにらみながら、自分で創り上げた「ヴェーバー偶像」を、無理も矛盾もものともせず、しゃにむに引き倒そうとする異様な筆致から、「抽象的情熱」ないし「偶像崇拝と同位対立の関係にある偶像破壊衝動」という執筆動機に行き当たりました。そして、その形成事情と構造的背景に思いをめぐらし、一定の明証性をそなえた仮説的結論にまでは到達しています。しかしいまは、論争の一方の当事者として、他方の主役の登場を待っている段階ですから、あまり論点を広げすぎて、きたるべき議論を拡散させないほうがよいだろうと思います。橋本氏の「成長論的自由主義」、とりわけ「知的祭り上げ」や「詐欺師の誘惑」といった論点にも、筆者としては疑問があり、いずれ「生産的限定論争」を闘わさなければならないと考えていますが、同じ理由で、いまは批判的論及を控えます。

ただ、この論争の主題にかかわるかぎりで、いくつか管見を述べさせていただきます。

ひとつは、羽入書の前提をなしているという「ヴェーバー偶像崇拝」ないし「ヴェーバー産業」の問題です。そうしたものが、大先達・大塚久雄氏の、政治状況に呼応する半評論家的啓蒙活動によって一時期隆盛を極め、羽入書の「偶像破壊」の前提になっている、というのは、森川氏や橋本氏の推測のとおりであろうと思います。羽入書が唯一微小部分をとり上げた「倫理」論文については、大塚門下に専門家ともいうべき錚々たる研究者が多く、羽入書で大塚氏があれほど「こき下ろされたり、持ち上げられたり」、無礼な扱いを受けているのに、だれひとり反論に立ち上がらず、いまのところ「総崩れ」の様相を呈しているのも、かれらが大塚氏から「ヴェーバー偶像崇拝」ないし「ヴェーバー産業」を拝領しながら、ヴェーバーの学問内容フェアプレーの精神は受け継がなかった実情を、問わず語りに語り出し、両氏の推測の証左をなしているといえましょう。

ところで、筆者は、その大塚氏を、「マックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム」で初めてお目にかかって以来、当初には名を伏せ、ある時期からは名指しで、いずれにせよ氏がその気になればいつでも反論/反批判が可能な条件を確かめ、公開場裡でフェアに批判してきたつもりです。というのも、「シンポジウム」では、筆者なりに報告も裏方も精一杯つとめたのですが、「学界においても『一極支配』にあたるものはよくない、『自由』は多極間の狭間にある」というのが筆者の持論で、「シンポジウム」は、――この点では石田雄氏の評価とは正反対ですが――大塚氏を「小天皇」とする「小天皇制集団」の権威主義的一極支配体制が頂点に達した「記念祭」、したがってその「没落の序幕」でもある、と筆者には思えたのです。ちなみに、山之内靖氏がかつては、この「シンポジウム」における折原報告/発言その他を、「近代批判者としてのヴェーバー像」の萌芽ないし嚆矢として評価してくれていたにもかかわらず、あえてこちらから論争を仕掛けて対峙したのも、ひとつには、氏が、大塚氏の「マルクスとヴェーバー」に代えて「ニーチェとヴェーバー」を旗印とする「お山の大将」となって、未成熟な「若手」を周囲に集め、大塚流「小天皇制集団」を縮小再生産し、「一極」を形成しようとする挙に出て(『ニーチェとヴェーバー』、1993年、未來社、ⅹⅷ~ⅹⅹⅲ)、主観的意図はともかく、「若手」の自立性/自律性を殺ぐ有害な影響を与え始めた、と見たからです。

さて、「シンポジウム」以降の大塚氏および大塚門下にたいする筆者の批判が、公然とヴェーバーに準拠しながらであったため、その筆者が、(「崇拝-破壊」の準拠枠でみて)かれらに輪をかけた「ヴェーバー崇拝者」ではないか、と疑われるのも、半ば論理的/半ば心理的にもっともと思います。筆者自身、たえずそうした批判を自分に向け替えて反省を怠らず、具体的に的を射られたら、いつでもいさぎよく自己批判して改めるつもりですが、ヴェーバーへの正直な傾倒は、基本的に偶像崇拝ではないと思っています。

かれヴェーバーの、フェア・プレーの規範を掲げながら、たえず背反するおのれのいたらなさに悩みつつも、なおかつフェア・プレーに徹しようする「生き方」と、そこから紡ぎ出される学問の深さと広さへの、人間としてまた研究者として率直な共感と敬意が、筆者の取り組みの基調をなしています。この「学問の深さと広さ」については、拙著『ヴェーバー学のすすめ』で語ったことですが、わずかに補足を加えていまいちど繰り返すとすれば、「実存的(問題設定者・)思考者でありながら、(実存主義者には)通有の『狭さ』には陥らず、かえって極限まで思想の地平を拡大し、古今東西の文化を展望する独自の歴史・社会科学を構築し、普遍史的・世界史的パースペクティーフを開示し(ながら)、なおかつそのなかに、やはりおのれとおのれの属する文化の実存的境位を位置づけつつ捉え返していった、というところに、ヴェーバー的実存とその営為のいまだに死後百年近くたっても汲み尽くされない固有価値があると確信してい」(123ページ)ます。

この点、森川氏は先刻ご承知の前提ながら、たとえばパーソンズの(それはそれとして価値があるにちがいない)「法則科学」的社会学によって、ヴェーバーの「現実科学と法則科学との独自の総合」が乗り越えられている、あるいは「止揚」されている、とすれば、なにもヴェーバーにまで遡って「『ヴェーバー的法則科学』研究」に専念する必要はない、そんなことに「ことによると一生を捧げるなんて阿呆らしい」ということになりますね。そのばあいの「ヴェーバー研究」とは、せいぜい現代の頂点から振り返っての部分評価に尽きるでしょう。

ところが、そうではないのですね、森川さん。ヴェーバーの「現実科学」ないし「現実科学と法則科学との独自の総合」には、方法的にも内容的にも、逆に、現代最先端の「法則科学」も「止揚」されるはずです。したがって、かれの「現実科学と法則科学との独自の総合」を方法上/内容上再構成できれば、ヴェーバー没後百年の空白を埋め現代の歴史・社会科学の最先端に立つことになる。ところが、その「総合」には、「50年たてば乗り越えられる」というヴェーバー自身の言に反して、まだだれも到達していないばかりか、基本テクストすら整備されていない。半評論はともかく、学問としては、これでは「総合」の骨格を掴み、内容上の射程を見定めることすらおぼつかない。できることはせいぜい、換骨奪胎か、断片応用で、たとえば「祭司対騎士の対抗軸」ひとつ取り出して「全体像」と称し、「オードブルを食べただけで能事終われり」とする人が、「お山の大将」となって周囲に「子分」を集めようとする。哀しいかな、これが現状で、しかもその貧しさに気がつく人は少ない。

ちなみに、筆者も若いころは、「ヴェーバー的『総合』の方法的/内容的再構成」をやりとげ、ヴェーバー没後の研究成果も貪婪に摂取して内容上の拡充をはかっていくことこそ「ヴェーバーを内在的に乗り越える」道で、日本というこの社会における人文/社会科学を、東西文化の狭間という文化地政学的条件を活かし、ヴェーバー的「総合」を礎とする「比較文化史・社会科学」の方向で活性化し、国際的な拠点にもしたい、というような、野望を抱いていました。そうすることが、この日本でヴェーバー研究に携わる内容上の意味のひとつでもある、と考え、張り切ってもいました。しかし、この歳になりますと、やはり「アートは長く、人生は短い」、とてもひとりではやりきれないと観念し、諦観に生きざるをえません。ただその夢は捨てず、「『経済と社会』全体の再構成」だけでもやりとげて、後続世代の学問上の新研究と乗り越えにそなえる礎のひとつとし、併せて、『マックス・ヴェーバー全集』版『経済と社会』該当巻にかぎっては、(「本場」ドイツ人学者の独壇場で日本人はお呼びでないと思われていた)テクスト編纂にかけても、漢学/訓詁学の伝統を活かし、西洋学問の基準に照らしても評価される積極的貢献をなしとげて、日本のヴェーバー研究にたいする国際的評価をたかめ、国際的な拠点づくりへの一里塚ともしたい、と考えています。じつは(自分でいうのもなんですが)、『マックス・ヴェーバー全集』Ⅰ/22(『経済と社会』「第二部」該当)巻については、なるほど『全集』全体の編纂者シュルフターやモムゼンとの関係は、『ケルン社会学・社会心理学雑誌』や『マックス・ヴェーバー研究』誌上における批判的・否定的対決のほうが目立つでしょうが、かれらの指揮下にある分巻、とりわけ第二分巻『宗教ゲマインシャフト』の実質的編纂者キッペンベルクなどは、「序論」「編纂報告」「同付録」で、筆者の研究成果を大幅に取り入れ、確実に編纂を進めています。この点は、当該巻をひもといてくだされば明らかなはずです。ですから、筆者一個人にかぎっては(つまり、当然ながら幼弱な後続世代への影響という永い目でみて大変重要な問題を度外視すれば)、そういう自分の仕事が「偶像崇拝」、「知的祭り上げ」、その他なんといわれようとも「どうでもいい」のです。

ところが、そうしたヴェーバー研究が、この日本とりわけ社会学の領域では、意外にやりにくいという現実があります。

筆者の恩師であった指導的社会学者、たとえば(話を筆者の見聞の範囲に絞りますが)尾高邦雄氏や福武直氏には、戦前から戦中にかけて『社会科学方法論序説』や『社会学と社会的現実』といった、たんに「ドイツ的」というのではなく優れた、研究業績がありました。ところが、かれらは戦後、学問内在的な展開というよりもむしろ政治的外圧に適応する形で、一挙にアメリカ流調査業績プラグマティズムに鞍替えしたのです。この流儀では、およそ理論や思想は、「先行研究」――つまり、「調査研究」の、いちはやく切り上げられるべき前段階――、さらにはその背景にまで追いやられ、貶価され、矮小化されます。この流儀に漬かった人たちは、「先行理論」のなかには一生を捧げても悔ないほどの「固有価値」をそなえたものがあろうなどとは、つゆ思わないし、およそ考えようともしないでしょう。それにひきかえ、「調査」であれば、どんなものでも「一次資料」を押さえ、そのかぎり「独創性」を主張できて「業績」になります。ですから、大衆的社会学において、アメリカ流の調査業績プラグマティズムが主流をなしていくであろうことは、目に見えていました。

筆者は、幸いなことに、そういう社会学研究室に入るまえに、受験生のころにヴェーバーと出会い、ヴェーバー研究を志し、目的合理的に、ということはつまり相対的な手段として社会学科を選択していました。ですから、社会学研究室の主流にも、当時は「対抗力」として機能しえていたマルクス主義にも、距離をとって臨み、「どっぷり漬からずに」すみました。ただ、いつも「そろそろ『社会学学』は切り上げ、本格的な『社会学的調査』に取り組んだらどうか」という眼差しにさらされ、いちいち「利用価値に還元されない固有価値もあるのだ」という趣旨のことを説いてまわらなければならないのも「しんどい」ことでしたし、あるときには、調査プロジェクトの「現場監督」役を迫る指導教官にたいして、不利と知りつつ指導教官の交替を願い出たこともありました。

これは、いっそう根本的には、「戦後思想」の欠陥のひとつ、政治、学問、ジャーナリズムの三者が、鋭く区別されず曖昧に混淆されている問題の一現象形態としても、捉え返されましょう。政治における「民主主義」、それも「平等主義」が、野放図に学問内容にもおしおよぼされて、こういういい方すら神経を逆撫でするでしょうが、どんな「馬の骨」もヴェーバーも、ひとしなみに「先行研究」のひとつとして扱われる。そうかと思うと、学問内容に限定されるべき「精神貴族主義」的価値規準を、一著作者としての市民的・「生活者」的義務・責任という(広義では政治の)領域に持ち込み、「自分の関心を特権化し、「自分の課題(自称)「巨大(誇大化)することによって、読者にたいする著作者としての義務責任の回避を正当化する人も出てくる。また、大学を「腰掛け」として利用している無責任な半学者・半評論家・没教育者の伝統という(日高六郎氏から松原隆一郎氏にいたる)問題も、手つかずのまま残されています。いつか、ヴェーバー「中間考察」の手法を応用して、この三領域の「緊張関係」を切開し、理念型的に定式化したうえで、類例間の比較研究を試みる必要がありますね。

そういうわけで、ヴェーバーの「固有価値」に定位する研究は、「先行研究」の枠組みを押しかぶせようとする勢力に取り囲まれ、これに抵抗しつづけなければならないため、内面的にはけっこうたいへんで、やはりどうしても「ひとり狼」にならないとやっていけません。しかし、そう割り切れば、「戦後社会学」総体を相対化して「先行研究」視点とは異なる視座からものを見ることができます。だれがどこで、ヴェーバー研究から単純に逃げたか、あるいは、きちんと総括し筋道をつけて「ヴェーバーからの研究」(拙著、41~7ページ)に転身していったか、よく見え、よく分かります。 

さて、ヴェーバー研究をめぐる諸条件は、今日でもさして変わっていないか、かえってきびしくなっているでしょう。「理論社会学」のポストが減っているとあっては、いよいよもってしかりと思われます。ですから、筆者には、そうした悪条件のもとでも、広い意味でヴェーバー研究を志す若い人たちのことが気になりますし、飛び抜けた人はともかく、まだ若くて志望が当然不安定な人々に、あるいはその周辺に、羽入書のようなものがどう影響するか、という問題も、無責任に「どうでもいい」とやり過ごすわけにはいきません。

なお、上記のことに一言付け加えますと、筆者も、調査そのものを避けていたのではありません。福武氏の農村調査実習、尾高氏や北川隆吉氏の産業/労働/地域調査プロジェクトなどに参加し、ひととおりのことは学び、経験しました。そこからは、「社会的事実の確かな手応え」とでもいうべき感覚が残り、同じ文献研究/理論研究でも、あちこちから思想の上澄みを出来上がったものとしてかすめ取ってきては、大急ぎで組み合わせ、華々しくも空疎に飾りたてる抽象パズルのような代物には、どうしても違和感を抱き、批判を加えずにはいられない素地として、はたらいています。また、社会学関係のポストでは、調査研究の経験がないと、研究指導や論文審査のさいに、おおよその判断がつかなくて困るでしょう。「自分の専門ではないから」と同僚に頼み通すわけにはいきません。

筆者は、そのようにしてアメリカ流調査業績プラグマティズムに内面では「抗し」、じっさいには「就かず、離れず」のスタンスをとりながら、ヴェーバー研究を進めました。では、院生のころ、ヴェーバー研究にとって積極的な契機はなかったのかというと、そうではありません。ただそれは、隣接・倫理学教室の金子武蔵ゼミによって与えられました。筆者はそこから、自分の進むべき方向について示唆をえました。そのゼミには、抜群の素質と才能を見込まれてNHKから呼び戻された浜井修氏も出席しておられ、同氏とはその後、東大教養学部社会科学科で、同僚として過ごす一時期がありました。ところが、その倫理学研究室から、羽入氏が出自したのです。この関係も、筆者がこの問題を避けては通れないと思う理由のひとつです。しかしこの点には、大学院教育の問題との関連において、いつか別稿で、詳しく論じたいと思います。

さて、話が脱線してやや散漫になってきました。大塚門下の「聖マックス崇拝」も下火になり、そう見紛われやすい筆者も、じつはそうではない、というところから、「固有価値」に定位するヴェーバー研究とその条件という問題に入って、若い方たちに多少とも(たとえば「時代的比較の対照項」として)参考になろうかと、自分の経験に沿って話をしてきたつもりです。

ここで、話を元に戻しますと、かりに羽入書の執筆動機が森川氏のいうとおり「偶像破壊」で、その「偶像」が大塚氏と大塚門下の所産であり、その後そうした「偶像崇拝」そのものが下火になったとすれば、羽入書のようなものも、前提ないし対象を失って下火になる、筆者は、一大塚批判者ながら、大塚門下に代わって「後始末」の「火消し」役を果たした(いや果たそうとしている)ということになりましょう。であれば、森川氏以降の世代は、その「焼け跡」から、「畏怖もルサンチマンももたない世代」として、再発の憂いなく出発できる、ということになります。

そうなるかもしれないし、そうなれば一件落着で「めでたし、めでたし」です。筆者も、そうなることを願っています。しかし、どうも、そううまくはいかない客観的可能性も、考えておかなければなりません。森川氏は、偶像があって初めて「偶像破壊衝動」も目覚めるという前提のうえに立っていますね。しかし、「破壊衝動」のほうが先に形成され、あとから破壊すべき偶像を見つける、あるいは創り出す、という関係もあって、羽入氏のばあいにはたまたま、アカデミズムのなかで「聖マックス」という少し古いけれども格好の偶像が見つかった、というのかもしれません。そうだとすると、「破壊衝動」そのものの発生源が制御されないかぎりは、羽入氏にかぎらず、現代大衆教育社会の諸条件のもとで構造的に生産/再生産され、高学歴層なら高学歴層という貯水槽に沈殿/鬱積するルサンチマンや「破壊衝動」が、こんどは別の、かならずしもアカデミズム内部とはかぎらないところに「偶像」を見つけるか、創り出すかして、発動され、(下手すると)組織化される、ということも、ありえないことではない。たとえば、大学院修士課程終了者――それも、正確にいえば、修士課程かぎりで、研究者としての自分の将来が閉ざされたと思い込み、他の分野に転身して「生きる意味」を見いだすこともできなかったいわば「挫折秀才」「自分の『真価』が世に認められないといって不満をつのらせる人々 les incompris」――の「逆恨み」が、ー「偽預言者」への「偶像崇拝」に凝結し、「自分がそこに生きる時代のコンテクスト」「生活者としての日常性にかかわる社会的相互関係の場」を混乱と恐怖に陥れたさる事件の「熱さも、喉元すぎれば忘れ」、ニヒリズムの多様な発現形態にたいする憂慮も洞察もないというのでは、「ニーチェ読みのニーチェ知らず」というほかないではありませんか。そういうわけで、ここでもやはり、羽入書の内在批判から、執筆動機とその形成過程にかかわる外在的・知識社会学的考察に移らざるをえない、ということになってきます。

しかし、そこでひとつ提案なのですが、このコーナーになるべく多くの論客が登場して、思い思いに自由に討論するのは、それはそれとしてたいへんよいことですし、橋本氏の「肺活量」の範囲内で、できるかぎりやっていきましょう。でも、問題を「知識人と大衆」というような一般論、あるいはさらに「時代のコンテクスト」とか「社会的相互関係の場」といった、ふやけた議論に持ち込むのは、どんなものでしょう。主軸は、羽入書から提起されてくる具体的問題です。羽入書の特異な「自殺要求」(別稿「学問論争をめぐる現状況」§1. 参照)と正面対決し、ひとまず内在批判に徹し、そこから一方では「動機形成とその構造的背景」、他方では「虚像形成過程と知識人群像(諸類型)」(同、§§10,11. 参照)に遡行し、「芋づる式」に関連諸契機を探り当て、そこから初めて、それら諸契機の織りなす「時代のコンテクスト」も具体的に探り出していかなければなりません。一口に「知識人」といっても、羽入氏と筆者、「山本七平賞」の選考委員と雀部幸隆氏、橋本氏と森川氏と今後の応答者、等々、それぞれこの問題にたいする関与とスタンスを異にし、それに応じて、学生/院生、あるいは読者層を媒介とする、大衆との関係のあり方/つくり方も違っていて、一括して論じても無意味ではないでしょうか。この日本という社会における、ヴェーバー研究を含む歴史・社会科学の、永い目で見た発展と、批判的理性/学問性の拠点の確保というパースペクティーフから、ひとつひとつ問題を掘り起こし、具体的に論じ、着実に解決していきたいものです。

最後に一点。「羽入本の論点のなかから、救うに値するものを救おうという橋本さんの態度は、respektable」という点についてですが、一般論としてはそのとおりでしょう。しかし、筆者は、「生産的限定論争」と「自殺要求」との区別を曖昧にして、「総花的寛容」という「マンハイムの誤算」(拙著『危機における人間と学問』、1969、未來社、参照)に陥ってはならないと思います。羽入書はもっぱら「自殺要求」を出してきているのですから、その不当性を論証し、撤回させ、自己批判させてから、いくらでも「生産的限定論争」を闘わせましょう。この順序をとりちがえてはなりません。

では、今日はこのへんで。森川氏のさらなるご発展を祈ります。(2004年2月15日記)

2.1月29日付け山之内靖氏の寄稿について

筆者としては、山之内氏が、ものごとを原則的/客観的に判断し、この状況に的確に対応してくださるにちがいない、と期待していましたので、ご寄稿を拝読して驚き、たいへん残念に思います。

橋本氏は、山之内氏に、「いま、なにに関心をおもちですか、どんなお仕事をなさっていますか」と一般的にお伺いをたてたわけではないでしょう。そうではなくて、「ヴェーバー研究者、それも『マックス・ヴェーバー入門』の著者として、羽入書にどう対応なさいますか」と問うたのです。というのも、羽入書は、当のマックス・ヴェーバーを「詐欺師」「犯罪者」と決めつけており、かりにその主張が正しいとすると、山之内氏は、『詐欺師入門』の著者ということにならざるをえません。そんなことを山之内氏がお認めになるはずはない、かならず反論がおありだろう、しかしそれを「胸の内」にしまっておかれたままでは、しだいに「いったいどうなっているのか」という戸惑いが広がってくるし、とりわけ氏の『入門』によって文字どおりマックス・ヴェーバーに入門した(定義上初心者の)読者の戸惑いは大きく、『入門』執筆の折角のご努力も仇となりかねない、とすればこのさい、なにに関心をおもちでどんなお仕事をなさっているかにかかわりなく、数多のヴェーバー研究書とりわけ『入門』の著者として、反論を発表なさる――さなくともなにか発言なさる――社会的責任がおありではないか、発言なさるのであれば、どうかこの「コーナー」をお使いください、というのが、橋本氏が山之内氏に宛てた書状の趣旨だった、と筆者は了解しています。

ところが山之内氏は、このばあいにもそうであるように、しばしば「専門家」に代えて「生活者」というカテゴリーを持ち出し、「専門家」は(おそらくご自分は除いて)すべて「専門バカ」「創造性を欠いた専門研究者」であるかのようにいわれます。しかしそれは、ご自身が一専門家として(一専門的生活者として、他の生活者にたいしても)負っている責任を回避する「逃げ向上」ではないのでしょうか。

生活者は、火の粉がふりかかってきたら払い除けます。火の粉に「関心がある」からではありません。また、主観的意図はどうあれ、自分たちを火事場に連れ出した人がいて、その人が、火の性質、したがって火の粉を振り払って火を消す術に自分たちよりも明るいと見たら、なにはともあれ先頭に立って火の粉を払い除けてくれるように期待するでしょう。かれがその期待に応えたら、それを見習い、思い思いに工夫もして、徐々に火元に迫り、消し止めようとするでしょう。しかし、どういうわけか、火を煽り立てる人々がいて、火勢が衰えず、人々は苦戦を強いられています。ちょうどそのとき、張本人が、野次馬のなかに逃げ込んで「身の安全」を確かめてから、「わたしは火の粉にも、火事にも関心がない。わたしの関心は、あなたがた『生活者……の日常性にかかわる社会的相互関係の場』を念頭においてはいるが、『ヴァーチャル化(仮想現実化)した生活秩序の背後にある存在論的問題性をどのように自覚化し、それを表現する社会運動へと結晶化してゆくのか』というような『巨大な課題』(強調引用者、以下同様)にのみ向けられるのであって、わたしには、『火の粉を払い除ける』あるいはせいぜい『延焼を防ぎ、火元の構造をつきとめ、耐火設計を考える』というような『小さな問題』に『かかわっている暇などない』、そんな問題は『強迫観念』の産物に過ぎない」と言い放ったとしましょう。人々は、一瞬振り向いて「この人、気は確かか」と顔を見つめなおすでしょうが、ただちに見限って、現実に火の粉を払い、火事を消し止める努力を懸命につづけるにちがいありません。

そればかりではありません。山之内氏とまったく同様、羽入書そのものに「関心をも」てるわけがなく、山之内氏ほど「巨大」ではないにせよ、当人には過大と感得されている「課題」が「頭と身体を捉え」ているヴェーバー研究者は、大勢いるでしょう。いや、羽入書にたいしては、ほとんどすべてのヴェーバー研究者が、大同小異そうした状況におかれたにちがいありません。ところが、そのなかから、どうもこの火事は、放っておくわけにはいかないようだ、今回は「ヴェーバー業界」の現場で起きたにせよ、火種/火元は単純ではなさそうで、ばあいによっては他の「業界」にも、他の社会領域にも(異なる現象形態をとって)波及しかねない、他方、火の粉をかぶっている読者について、山之内著『入門』の読者か、そうでないか、などといっているばあいではない、と見た者がひとり出てきて、あえて暇をつくり」、羽入書の激越な「自殺要求」を真正面から受け止めて内在的に批判し、他方、『入門の読者ともいっしょに火の粉を振り払いながら、警鐘を鳴らし始めたとしましょう。ところがどうやら、そのことが、山之内氏には、お気に召さないらしい。山之内氏が放棄している社会的責任を、そのひとりが代わって引き受けている、というまさにそのことが、氏の逆鱗に触れる、ようなのです。

「応答」の最後のパラグラフは、どう読んでも羽入書と筆者に当てつけて書かれているとしか思えません。「マルクスやヴェーバーから与えられた知の一つの可能性を、新たなコンテクストのなかで絶えず新たなものへと更新すること、その創造性こそが、問われているのです。」ご高説ごもっとも、たいへん結構です。この「コーナー」に関与している人々、また関与しようとしている人々も、羽入書/羽入事件という現実の問題を軸に、知の継受と更新を目指しています。ただ、それを「創造性」「独創性」云々と、仰々しくひけらかさないだけです。問題は、これにつづく結びの一文です。「そうした創造性を欠いた専門研究者たちが、文献学的に地道に論じるべき事柄を詐欺行為などと大げさに粉飾したり、あるいは、ヴェーバーをそうした売名行為から守ることが学者の倫理性や知的誠実さを示す証なのだ、という強迫観念にとりつかれたりするのです。」

名指しは避けていますが、山之内氏はここで、羽入書を「文献学的に地道に論じるべき事柄を詐欺行為などと大げさに粉飾した……売名行為」と要約したつもりでしょう。しかし、冒頭で「羽生(ママ)氏の議論に…、まったく関心がありません」といい、(それなら「だからなにもいわない」というのであれば、まだしも首尾一貫はするのに、やはり一知半解のままなにかいわなければ気がすまないらしく)「(ピュウリタニズムを射程に入れている)バウマンの発言は、どうやら、羽入氏の論点と重なるところがあり、その先駆の一つと言ってよいでしょう」などと、例によって(「羽入氏の論点」とはいかなる内容で、「バウマンの発言」とどう重なるのか、具体的論及は避けながら)ピンぼけの「思想パズル」をただもったいぶってやってのける山之内氏に、いったいどうして、羽入書につき、上記のような要約ができるのでしょうか。このばあい「文献学的に地道に論じるべき事柄」とはなにか、それを羽入氏がどう「大げさに粉飾した」のか、が肝要なのであって、そうした問題にかんする具体的論証内容を携えずに土俵にのぼったら、山之内氏は、羽入氏に完膚なきまでに叩きのめされますよ。山之内氏が、いまになってそうした問題発言をいとも気楽に公表できるのも、当の命題を羽入書に内在して具体的に論証した仕事と、橋本氏による論点整理とが、すでに出ているからこそではありませんか。

そこを、山之内靖氏という方は、前回の論争(『未来』、1997年, 9, 10, 12月号)でも指摘したとおり、いつも「宴会に遅れて出てきては最上座に就こう」(ニーチェ)とされます。今回はそのうえ、三度にわたって「強迫観念」云々と罵言を投げ返し、一度などは「ヴェーバーだけにしがみついて、その学問的体系性が破壊されたら自分の存在に意味がなくなる、などと考える……馬鹿げ……た思い込みに従って、ヴェーバーへのあらゆる非難に首を突っ込み、そうすることによって自分を研究者的倫理性の模範だと主張するような強迫観念」とまで書いて――狡獪に名指しは避け、筆者の羽入書論駁の執筆動機が、あいにく山之内氏が決めつけたがるような、そうしたものではない、との反証に「肩透かし」をくわせ、「一般論を語ったのに、図星なので怒るのか」ととぼける余地を残しながら――筆者に当てつけ、「[そうした]強迫観念から私は自由でありたいと願っています」と開き直られるのです。

しかし、山之内氏自身がいかに巧みに「ものはいいよう」の限界を行かれようとも、客観的には、氏が「恩に仇をもって報いている」、すなわち、「氏自身も『入門』の著者として負っていながら、自分では果たせない『社会的責任』の代替的履行という『恩』に、そういう悪罵の『仇』をもって報いている」のは、だれの目にも明らかではありませんか。ヴェーバーは、当事者の(当事者としてのリスクと苦労ゆえに鋭い)論証を「どさくさにまぎれて」かすめ取る上記のようなやり方を、シュタムラーについてですが、「思想的な火事場泥棒をはたらくim gedanklich "Trueben" zu fischen」(Gesammelte Aufsaetze zur Wissenschaftslehre, 7. Aufl., 1988, Tuebingen, S. 319)にひとしい、とまでいって、きびしく批判しました(念のために申し添えますが、「泥棒である」との全称判断をくだし、人格攻撃を加えたわけではありません)。山之内氏が、それも「強迫観念のうち」といわれるならば、ご自分のほうは相当な「弛緩観念」(この場かぎりにおける筆者の造語で、精神神経医学の術語ではありません)に陥っている、といわざるをえないでしょう。

山之内氏は、一執筆者(一市民)として他の執筆者(市民)とつとめて平等公正に負うべき社会的責任問題には、「精神貴族主義的な規準を持ち込み、自分の「関心」を特権化し、「課題」を誇大化し、「知的誠実性」の概念も拡張し/ねじ曲げて(「知的誠実[廉直]」とは、まずなによりも「自分にとって不都合な事態を直視する勇気」のはずです)、ひたすら自分の責任回避を正当化し、責任をとっている他人をけなしつけるばかりで、自分ではけっきょくのところ、なにもなさろうとはしません。他方、「精神貴族主義」的規準が適用されてしかるべき学問内容の問題となると、どういうわけか弱気になって、自説に賛同してくれる人、同意見の人は「あの人、この人」と、「若手」を含めて無思慮に書きまくり(『ニーチェとヴェーバー』、前掲箇所)、「多数決原理」を持ち込むかのようです。今回も、「再呪術化」につき、荒川敏彦氏の名を自分のほうから挙示しました。そういうやり方が、山之内氏自身にとっては「お山の大将」の「精神安定剤」となるにせよ、どんなに「中堅」や「若手」に、いわば「一方的な網かけ/枠づけ」として作用し、精神的自立性/自律性を殺ぎ、当人自身に迷惑をかけるばかりか、学問/学界に「(派閥政治的)集団主義」という弊害をもたらすか、少しは考えてみたらどうですか。そういうやり方も、故大塚久雄氏の「悪しき遺産」のひとつで、故安藤英治氏が闘わざるをえなかった弊害の最たるものではありませんか。

その「集団主義」にかんれんして、「応答」には、山之内氏と、学生さんや「生活者」院生さんとの、『入門』を教材とする「活発な応答」や「大変に濃密な議論」への言及があって、関心を惹きます。では、その人たちのなかに、羽入書を差し出して、「先生は、『入門』の著者として、この本についてどうお考えになりますか」と正面から問うた人が、いたでしょうか。いたとすれば、その問いに山之内教授はどうお答えになったのでしょうか。お答えになったとすれば、『入門』の読者はなにもフェリス女学院大学の学生/院生さんばかりではないのですから、山之内氏は、その内容を公表されるべきだったのではないでしょうか。山之内教授に「怖めず臆せず」、そこまで斬り込む学生/院生さんはいたのでしょうか。それとも「生活者」たちは、山之内「教授の偽の権威主義を本音のところでは見破ってい」て、そういう問いは、文献精読と方法論に弱い教授には答えられないだろうと察知し、まさにそれゆえ「自主規制」してしまったのでしょうか。そのへんのところが知りたいのです。フェリス女学院大学の学生/院生さんで、この「コーナー」をご覧になっている方がおられたら、ぜひ応答をお寄せください(筆者の類例については、「大学院教育の実態と責任」論考のほうで、具体的に取り上げます)。

というのも、山之内教授がいまもって語られる(告白される?)とおり、「大学教授は、そもそも、生活者としての現実に鈍感なまま、その特権的な地位に守られて自己を課題に(過大に?)評価する時代遅れの哀れな存在である」と(は、35年まえの全国学園闘争当時からいい古されてきたことですが、それ)は、教授個人の問題であると同時に、まさにかれをとり巻く「生活者としての日常性にかかわる社会的相互関係の場」と「存在被拘束性」の問題でもあると思われるからです。ここでいわんとすることを明証的に例示するための一仮説にすぎませんが、たとえば外国語系の大学では、主力はなんといっても諸外国語の実践的習得と同系文化の総合的理解とに注がれるため、思想研究も、諸外国/諸思想の幅広い迅速な摂取流行追跡総花的概説に向けられ、日常的な同僚関係、対学生/院生関係における肯定/否定の「サンクション」もその方向にはたらいていて、相応の学風/方法が育ちやすいのではないでしょうか。とりわけ、いったん「傍系有名教授」が登場すると「生けるアクセサリー」として格好なため、珍重/温存され、「主力」のチェックがきかず、「お山の大将」になりやすく、学生/院生とのあいだにも、互いに「不都合な事態」には触れない「心優しい」関係が定着しやすい、とか。

このコーナーは、「羽入―折原論争」のために開設され、「山之内―折原論争」のスペースではないのですから、以上で十分としましょう。むしろ、このコーナーにアクセスしておられる良識ある社会人の方々には、以上のコメントでも「深追いし過ぎる」との印象をおもちの向きが多いのではないかと思います。『入門』の著者山之内氏が羽入書に反論できないという事実だけで「すでに決着している」のだから、それ以上原則論を繰り返しても、なんにもならないばかりか、かえって反感を買うだけだろう」と。

ご趣旨は分かりますが、じつは、相手は山之内氏ひとりではなく(そうであれば、「関心がないのでは仕方がありませんから、どうぞご随意に」というだけですむのですが)、氏の背後には、膨大なとはいわないまでも、まだかなりの数のいわば「山之内予備軍」が控えていて、氏の「応答」を秘かに歓迎し、それにならって自分の責任回避を正当化するばかりか、この「コーナー」への参入にも陰に陽に逆襲をかけてきかねない、と予想しなければなりません。ですから、そうした展開も視野に入れ、山之内氏の提示した諸論点に逐一原則的な反論を加えておかなければならなかったのです。

しかし、山之内氏ご自身にたいしても、いまからでも遅くはありません、羽入書と拙著『ヴェーバー学のすすめ』とを先行素材として対置し、相互検証のうえ氏独自の見解を打ち出されるという唯一原則的な対応の道が、あくまでも残されており、山之内氏がそうしてくださるならば、筆者は行きがかりを捨てて、山之内新説を歓迎し、対応する、と申し上げておきます。

では、今日はこのへんで。(2004年2月20日記)

雀部幸隆「山之内靖氏の「応答」についてひとこと」

2004年2月12日(本コーナーへの寄稿)

山之内靖氏の「応答」についてひとこと

雀部幸隆

2004年2月12日


 橋本努氏の「羽入—折原論争」に係るホームページで、山之内靖氏の「応答」を拝見しました。氏らしいソフィスティケイトされた文章ですが、ひとこと簡単に申し上げたいと思います。

 氏のご趣旨は要するに、<自分はもともとウェーバー信者ではないし、むしろ逆に聖マックスの脱魔術化を積極的に推進してきたつもりである。だから自分にとって羽入書は痛くも痒くもない。羽入−折原論争などは所詮ウェーバー業界内のコップの中の嵐に過ぎない。現在精神世界の大状況はそんなことよりはるかに深刻な問題を抱えており、それと取り組むのが先決で、自分にはそんなコップの中の争いに関わっている暇はない>、というものです。

 しかし、羽入書の流布と一部論壇におけるその妙な権威づけとは、まさにそれ自体わが国現在の精神状況のおかしさを示す一齣であり——それとも、おかしくない、と仰るのですか?——、山之内氏が精神世界の大状況と関わるのがわが使命だなどと言われるのならば、そもそもその大状況を織り成す一齣に対しても、まともに対応なさる必要がありはしないでしょうか。まして山之内氏はずいぶんとウェーバーを話の種にしてこられたのですから、そのネタに関して、<そいつは実はとんでもない詐欺師で犯罪者だったんだよ>とまでこきおろされて、<いやあ、今はほかにやることが一杯ありますので、わたしはこの辺で失礼します>と仰ったのでは、『マックス・ヴェーバー入門』の読者、氏の周辺は知らず全国の広汎な読者、からは、<それは聞こえませぬ>、と言われはしないでしょうか。


森川剛光「事実を隠蔽・捏造しているのは誰か――二次文献の利用と「ドイツ歴史社会学」のプログラム」

2004年2月22日(本コーナーへの寄稿)

事実を隠蔽・捏造しているのは誰か

――二次文献の利用と「ドイツ歴史社会学」のプログラム

森川剛光

2004年2月22日

 先日1月24日のこのコーナーに発表されたメールでは、私は内在的にいいたいことは折原氏の『ヴェーバー学のすすめ』でほぼ出てしまったという趣旨を述べた。しかし、このエッセイでは一点だけ補足することを試みる。内容的には大幅にKruse 1999によっており、あまり学術上のオリジナリティはないかもしれない。またある程度の研究者であれば、むしろ共通の常識に属することであろうから、発表するのが憚られる程度の内容である。(従って本エッセイを何らかの学術的な寄与と見なされることは筆者の本意ではない)。念のために断っておくが、筆者は「ヴェーバー研究者」と自己了解しているわけではない。(実際、直接ヴェーバーにはかかわらない研究も行っている)。ましてやヴェーバーやヴェーバー学の権威を守ろうなどという意図はさらさら無い。また筆者は折原浩氏と2004年2月20日現在直接の面識はないので、「先生」の一大事に「いざ鎌倉」と加勢するなどといった意図も毛頭ない。

 以下のエッセイが意味を持つとすれば、それは権威を壊したとうそぶく人間の内部にあるのは、実際には――世界的な大発見だとほらを吹き、政治的な賞を受けることで――単に権威に成り代わろうとする虚栄心であり、その過程で不都合な事実――この場合は学説史的事実――を隠蔽もしくは無視しているということを指摘することで、彼が倒した(と主張する)権威の像(具体的には権威の性格的特徴付け)が実は自己自身の投影に過ぎないことを示すことにある。

 羽入辰郎の『マックス・ヴェーバーの犯罪』では、ヴェーバーが『倫理』論文で一次文献を参照しなかったことが論証され、「ヴェーバー詐欺師説」が主張されている。それに対する折原の論駁でも「現実の経験的研究者は、規範的格率のみでなく、研究上の経済という合目的性の格率にも従い、両者のせめぎ合いのなかで仕事を進めているからである」(折原2003: 85)と述べているが、しかし、「一次資料が一般に最善であることには、異論はない」と認めている。このことはヴェーバーも実践的に可能であれば、一次文献にあたった方がよかったということである。

 しかしながら、ヴェーバーの業績の大部分が一次文献よりもむしろ二次文献に依存したものであることは、羽入書の指摘以前から知られたことであった。そしてそれはヴェーバーに限らず1920年代からの「ドイツ歴史社会学」に共通に見られたことである。(ここで「ドイツ歴史社会学」という集合名は、Kruse 1999から借用している。マックス・ヴェーバーが自身の研究プログラムをこの様に呼んだわけではない)。ヴェーバーの他に、この「ドイツ歴史社会学」の代表的論者(作品)には、ヴェルナー・ゾンバルト(『近代資本主義』)、フランツ・オッペンハイマー(『社会学体系』)、アルフレート・ヴェーバー(『近代国家の危機』、『文化社会学としての文化史』)、カール・マンハイム(『保守的思考』、『イデオロギーとユートピア』)、エドワルド・ハイマン(『資本主義の社会理論』)アルフレート・フォン・マルティン(『ルネッサンスの社会学』)、ノルベルト・エリアス(『文明の過程』)、アルフレート・ミュラー=アルマック(『経済様式の系譜学』、『神なき世紀』)、カール・ポランニー(『大転換』)、ハンス・フライヤー(『現在の理論』)、アレクサンダー・リュストフ(『現代の位置』)が挙げられる。(Kruse 1999: 12-13)

 この様な「ドイツ歴史社会学」の諸業績は、遅くとも1950年代までのものであり、その後ドイツで「より実証的」で「経験的」(あるいは「経験主義的」)な社会研究がアカデミーの中心となっていくにつれ、廃れていった。また、新しい「より実証的」で「経験的」な社会学派であるケルン学派の代表者ルネ・ケーニヒは、それ以前の主に二次資料に基づいた社会学は経験科学ではなく、「歴史哲学および社会哲学」に過ぎないとして卑下した。しかしながら、フォルカー・クルーゼのまとめによれば、「ドイツ歴史社会学」とケルン学派はそれぞれ異なった社会学の自己理解とアイデンティティをもっており、それぞれの背後には異なったパラダイムが存在しているのである。つまり、この二つの異なったパラダイム、異なった「経験」の理解、異なった「理論の存在論的位置価」、異なった「認識」の理解、異なった「科学の目標」のために、ヴェーバーが「現実科学」のプログラムとして学問的に正当化した「ドイツ歴史社会学」もケーニヒの目には「歴史哲学および社会哲学」に過ぎないものに映ってしまう。ちなみにいうとケーニヒのプログラムの哲学的支柱となっているのは、ハンス・アルバートの批判的合理主義である。

 「歴史社会学」はケーニヒやアルバートの意味での「経験的な社会研究empirische Sozialforschung」ではない。しかしながらそれでも経験的である。その経験の素材は歴史的なものであり、かつ「二次的に経験的なもの」であっても。(Kruse, 176-177)。「二次的に経験的である」というのは、他の歴史科学的諸学科の成果を独自に総合することで新しい認識をもたらすということである。橋本がいうように「アカデミックな歴家の観点からすれば、…『倫理』の中心テーゼは、あまりにも巨視的なスケッチに過ぎず、他の歴史説明を否定するだけの価値を持たないように見える」のである。(橋本 2004: 15-16)。

 だがアカデミックで実証的な歴史学を代表するドイツの歴史家のひとりであるヒンツェはヴェーバーの『宗教社会学論集』に対して、その「実証性」の欠如にもかかわらず、次のように述べている(Hintze 1964)。「異国の宗教体系の分析が常に、ヨーロッパの諸現象、諸状態、諸連関への比較の素材を展開するという科学上の目的に関して行われている」こと、そして「一つの宗教体系から、日常生活の生活態度とそれとともに経済を方法的に造形する倫理的衝動が飛び出しているかどうか、あるいは、経済生活の方法的合理化を妨害するその逆の動機がそこから生じてないかどうか」という問題が「終始変わらず、関心の中心にあるということ」が、研究の方向付けを統制しながら、「この世界を包括する作品の内的統一」をなしている。(Hintze 1964: 127)

 ヒンツェは次のように続ける。まるでわざわざヘブライ語の原典を対照する羽入の批判を予期していたかのように。

「著者は中国の言葉もインドの言葉も知らないし、ヘブライ語も、自分自身で認めているように、十分な知識がないので、この試みにそもそもある種の誤解をもって立ち向かう批判者たちには事欠かないであろう。ここで第一に問題になっているのが宗教史上の作品であれば、批判者たちは正当であろう。しかし、ここで問題になっているのは、比較社会学上の研究である。つまり、そこで問題になっているのは、宗教体系それ自体の分析ではない。そうではなくて、著者が素材に取り組む視点と問題設定、それは東洋学者の専門家の観念圏・関心圏には少なくともこれまで全く疎遠なものであった、この視点と問題設定が問題なのである。ここで追求されているのは、まだ決してひとりの東洋学者によってはなされなかったし、試みられもしなかった。いうまでもなく、中国学者あるいはインド学者にはそれに必要なカテゴリーがかけている。けれどもここで問題になっているのは、一つの本当に科学的に基礎づけられた社会学には避けて通ることのできない課題である。私が思うに、学会は著者にもっとも暖かい感謝を捧げる義務があろう。著者が、彼自身以上に気まずく感じざるを得ないあらゆる疑念と困難にもかかわらず、それにもかかわらずひるむことのない研究者の勇気とあくことのない勤勉で、とてつもなく巨大な課題に取りかかり、成し遂げたことに対してである」(Hintze 1964: 128)。

この二次文献に主に依拠する方法をヴェーバー自身は、人間の労働力には限界があるという――すでに冒頭で引用した折原 2003が指摘している――研究上の合目的性の理由の外に次のようにも正当化している。

「少なくとも事情に通じていない人々には、本書における叙述の意義を過大評価しないように警告しておかねばなるまい。中国研究者、インド研究者、セム語研究者、エジプト研究者といった人々は、もちろん、そこに何らの新しい事実も発見しないであろう。願うところはただ、本質的な事柄で、事実認識として誤っていると彼らが判断せざるを得ないようにものがないことである。が、そうした理想に、非専門家として可能な限り接近しようという試みがどの程度まで成功しているか、それさえ著者としては知るよしもない。翻訳を利用し、そのうえ碑文・文書・文献などの資料の利用や評価の仕方について、自分ではその価値に独自な判断を下しかねるどころか、しばしば激しい論争さえあるような、そうした専門文献を調べる以外に方法のない者が、自分の仕事の価値について極めて謙虚であるべきことは言わずして明らかであろう。…。したがって以下の諸論文、とりわけアジアにかんする部分は、全く暫定的な性格のものだということにならざるをえない。最終的な判断は、専門家のみが下しうるはずである。ただ、分かり切ったことではあるが、この様な特殊な目標を持ち、この様な特殊な視点からなされた専門家の叙述が今までなかったということが、そもそも私がこれらの論文を書いた唯一の理由だといってよかろう」(RS I: 13[『論選』二四−二五頁])。

 インドの言葉や、中国語あるいはヘブライ語はともかく、ヨーロッパの文献を扱っただけの『倫理』論文では、一次文献にあたることは必須だと反論がなされるかもしれない。しかし、ヒンツェの言葉は中国学者やインド学者、東洋学者という代わりに、歴史家、聖書学者、宗教学者といってみれば、『倫理』にもそのまま当てはまる。実際、折原 (2003: 34-35)が指摘しているように、『倫理』論文でもヴェーバーは次のようにはっきりと断っているのである。

 「以下の簡単な記述は、教理の問題にかんする限り、すべて教会史・教理史の文献、したがって、「セカンドハンド」によるもので、その点では全く「オリジナリティー」を主張するものではないことは、断るものでもなかろう。…。が、幾十年にわたる真摯な神学研究を全く省みずに、…この研究に導かれつつ資料を理解しようとしないなら、それは非常な不遜であろう。私はただ、記述を簡単にしなければならなかったため、説明が不正確にならなかったこと、少なくとも顕著な誤謬に陥らなかったことを、願う外はない。この記述のうち、神学の主要文献に通じている人々にとっても僅かに「新しい」点は、すべてを我々に重要な観点から見たという点のみであろう」(RS I: 86-87 [梶山訳一七二頁以下]。ついでにいえば、「ドイツの図書館は、財政が豊かでないので、「地方」に住むものは重要な資料や論文を、ベルリンその他の大図書館から僅かの期間借り受ける外はない」ともヴェーバーは述べている)。

 もう明らかになったと思うが、『倫理』を含めたヴェーバーの宗教社会学上の業績の生命は「視点」と「問題設定」の新しさであり、それは一次文献に基づいた研究では決して実現できないものなのである(Kruse, 183)。そして二次文献に基づいた研究を単なるディレッタントの作品に貶めないものが視点と問題の統一と、そこから一貫して方法的に統制された叙述なのである。

 同様に弟のアルフレート・ウェーバーも『文化社会学としての文化史』で次のように述べている。「これは歴史家ではなく、社会学者の手によるものである」。「これが意味するのは」何か「純粋に事実的なもの」というよりも、「より大きな諸連関にとっての特定の事実の解釈とその重みなのである」(Weber, A. 1935: 419; cf. Kruse 1999: 185)。

 Kruseは外にもゾンバルトやオッペンハイマーの例を挙げ、次のようにまとめる(184-187)。ドイツ歴史社会学は(論理的な意味で)、五〇年代以降特に経験的な社会研究で支配的になった経験主義的な科学理解をしていなかった。ドイツ歴史社会学は認識論的にはカントに定位しており、これが意味するのは、経験とは直接感性的に接近できるものではなく、悟性の思惟の力により把捉されるということである。科学とは「経験的な研究empirische Forschung」ではなく、特にヴェーバーの表現を用いれば、「経験的現実の思惟による整序」denkende Ordnung der empirischen Wirklichkeit(WL, 156)なのである。極論をいえば、すべて二次資料に依拠してもある特定の新しい視点からその資料を統一的に整序し、叙述し、新しい視野を開けばそれは科学的業績として全く正当である。ドイツ歴史社会学自体、一九世紀後半以降の諸科学の専門分化、断片化、実証主義化の潮流、それによって引き起こされた文化の危機に対する、一つの新しい総合の学としての試みであった。ヴァイスの言葉を借りれば、ヴェーバーにおいて社会学とは独立した学科ではなく、「歴史的文化科学および歴史的社会科学」の理論的部分である(Weiss 1992: 172-175)。それは(一次文献で作業を行う)歴史的諸科学の存立と学際的分業を前提にし、その成果(したがって二次文献!)を特定の文化価値から理論的に総合するという課題をもち、そのことによって専門化・断片化した知を再度意味づけ、文化価値を媒介にして生活世界に再結合する。

 羽入書が示したのは、ヴェーバーが一次文献を用いていなかったことだけである。そしてその文献学的に厳密な部分を「ヴェーバーは詐欺師」騒ぎ立てることとレトリックでつなぎ合わせ、独仏学術誌掲載のエピソードや日独の学者との対話などのエピソードで権威主義的に補強することで成り立っている。(当たり前だが、この様なエピソードやレトリックは学術的な論証の価値をもたない。「妻の発見」のエピソードもそうである)。

 しかしながら、実証主義的な一次資料フェティシズムに毒された目から自らを解放し、ヴェーバーを当時の「歴史社会学」のプログラムという文脈においてみれば、ヴェーバーが一次資料を用いていなかったことはなんの問題にもならない。ましてや折原 2003が示したように、論文全体の論証構造とはかかわらない箇所においてである。

 それどころか、一次資料を用いていないことをヴェーバーは自覚していたし、ヒンツェやケーニヒの例が示すように、ヴェーバー以降の学者たちも全く承知していた。羽入流のエピソード主義で日本の例を付け加えるとすれば、あるオーストリア学派の研究者の方—念のために断っておくが橋本努氏ではない−−は筆者に「ヴェーバーが二次文献を用いていたっていうのは周知のことじゃない。何を今更、大騒ぎしているの?むしろ素人目には、二次文献を上手く使った研究っていう風に見えるけど」といわれた。ゆえに『倫理』論文の四箇所という特定のコンテクストでは羽入の発見、「ヴェーバーが一次資料を用いていなかった」ことは、世界初の発見かもしれないが、ヴェーバーの業績全体としては既知の事実であり、それをレトリックで粉飾しているだけである。そして二次資料中心の研究という事実にもかかわらず、ヴェーバーの学問的業績の意義は認められてきた。というのは学問上の著作の意義は、新しい視点、問題設定を示しているかどうかだからである。その際には新しい資料を用いたかどうかはさしあたっては問題にならない。古いすでに既知の資料も新しい視点から解釈を施せば全く新しい意味と生命を受け取るからである。(その意味では羽入書も既知の事実を新たな視点から見たものといえるかもしれない。但し同書が更なる研究に対して開く地平は著しく貧困であることは否定しようがない)。

 ヴェーバーとは異なる科学理解によって、ヴェーバーのプログラムに賛意を表せないとしても、ケーニヒはそれと異なる社会学のプログラムを追求することで多くの弟子を育てたし、かなりの業績を残した。(ケーニヒの業績については、さしあたりwww.uni-koeln.de/rkg/)羽入氏はそのようなこともせず、ヴェーバーが一次資料を用いなかったことを示しただけで、鬼の首でも取ったかのように振る舞っている。(それが如何に滑稽なことか自分で気づかないのだから哀れでさえある)。それどころか自分の素朴実在論を自明の前提と見なし、解釈から離れた「事実それ自体」があるように語り、なぜ一次資料を用いるべきなのかを科学論的認識論的に積極的に根拠づけようともしない。またすでに示したようにヴェーバーの業績の多くが二次文献の上に成り立っているにもかかわらず、そしてそれにもかかわらず評価されてきたという事実を理解することなく、隠蔽し、ヴェーバーの業績が評価されてきたという事実を「ヴェーバーの魔術」という言葉でしか説明できなくなっている。この「魔術」という言葉を羽入氏は比喩のつもりで用いているのだろうが、しかし逆に――彼の意図とは逆に――この様な言葉を用いることは、何故ヴェーバーが評価されてきたのかを羽入氏が合理的に説明できないことを端的に示している。「魔術」と「詐欺」は羽入氏が自分自身で合理的に説明・理解できないことを無理矢理説明づけ、自己の限界を糊塗するためのDeus ex machina、もっといえば「でっち上げ」なのである。その証拠にヴェーバーが「ウソ」をつかねばならなかった動機を羽入書はどこにおいても示していない(し、示せなかった)。「犯罪の立証」としてはこれでは不十分である。(ヴェーバーが例えば、政治上・あるいはその他の理由から、「プロテスタンティズム」と「資本主義」の間の連関をうそをついてまで立証する必要があったということを羽入書が示していたら、勿論、話は別であった)。

 さて、最後に事実を確認しよう。

1.ヴェーバーの研究が主に二次文献に基づいていることは、ヴェーバー自身も自覚しており(だからこそヴェーバーは「現在の一般的な版」とわざわざ注記までした)、またヴェーバーの業績全体としてみれば、これまで「周知の事実」であった(し、研究プログラム上正当化可能である)。

2.従って、羽入氏の「発見」は『倫理』論文の四箇所に限定すれば、「発見」の功績を羽入氏に帰することもできるが、御本人が自画自賛するほど「世界的な発見」とはいえない。また、自画自賛を繰り返したからといって、そのことで「世界的な発見」になるわけでもない。

3.ヴェーバーに対する評価はその業績が二次文献に基づいていることを認めた上でなされてきたのだから、羽入氏の「発見」でヴェーバーの評価が下がることはない。

4.「ヴェーバー詐欺師説」を主張するために、羽入氏は1.の事実を隠蔽した。1.の系である2.も隠蔽し、自分の発見が「世界的な大発見」であることをうそぶく=でっち上げるためである。

ちなみに「でっち上げ」に基づいた虚偽告発は現行の刑法では犯罪である。従って、ミネルヴァ書房と羽入辰郎氏には次刷から同書の題名を『羽入辰郎の犯罪――私はいかにして事実を隠蔽し、ウソの上塗りで固め、賞までもらったか』とすることを勧める。

Hintze, Otto 1964: Max Webers Religionssoziologie, in: Soziologie und Geschichte, Göttingen, S.126-134.

Kruse, Volker 1999: 》Geschichtes- und Sozialphilosophie《 oder 》Wirklichkeitswissenschaft? 《, Frankfurt.

Weber, Alfred 1935: Kulturgeschichte als Kultursoziologie, Leiden.

Weber, Max 1920: Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie, Bd.1, Tübingen.[梶山力訳・安藤英治編『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』未来社、1994年; 大塚久雄・生松敬三訳『宗教社会学論選』みすず書房、1972年]

Ders. 1968: Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, Tübingen.

Weiß, Johannes 1992: Max Webers Grundlegung der Soziologie, 2. Aufl., München/ London/ New York/ Paris.

羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』ミネルヴァ書房、2002年

橋本努「ウェーバーは罪を犯したのか——羽入-折原論争の第一ラウンドを読む」『未来』2004.1. No.448, pp.8-17.

折原浩『ヴェーバー学のすすめ』未来社、2003年

(2004年2月20日脱稿)

注記・本稿脱稿時点で、折原浩氏の「応答」は未読。また、荒川敏彦氏には草稿段階でコメントを頂いたので、感謝したい。

(2004年2月22日修正、注記追加)


折原浩「インタルード――連続応答の趣旨と本コーナーの「価値自由」性に寄せて」

2004年2月27日(本コーナーへの寄稿)

インタルード――連続応答の趣旨と本コーナーの「価値自由」性に寄せて

折原 浩


2004年2月27

森川剛光氏と山之内靖氏への「応答1」のあとを受け、ほかの各位への応答をつづけていきたいと思いますが、そのまえに、筆者による応答の趣旨と、このコーナーの性格との兼ね合いにつき、ここで一言、管見を述べさせていただきます。

 筆者はもとより、他方の主当事者である羽入辰郎氏の応答を待ちながら、橋本氏の呼びかけ(ちなみに、氏がどういう範囲で、誰と誰に呼びかけられ、応答を求められたのか、筆者は事前に相談を受けていませんし、事後にもまったく関知しておりません)に応えて寄稿された(あるいは今後寄稿される)各位の応答内容にも、それぞれを所与として受け止める立場で、できるかぎりお応えし、そうすることをとおして、問われている問題そのものにたいする認識を広げ/深めると同時に、相互間でも討論を盛り上げていきたいと願っています。他意はまったくありません。

ただ、各位の寄稿に(結果としてあるいは)筆者ひとりが連続的に応答していく形になりますと、なにか「橋本氏と組んで『ヴェーバー研究問答教室』を開いている」といった印象が生じ、ことによると(なにかにつけ「政治的意図」を勘繰る向きには)「折原もまた、このコーナーへのヴェーバー研究者の結集を促し、一極支配を目論んでいるのではないか」というような、あらぬ疑いをかけられかねません。筆者自身は、なにかことを始めれば、思いがけない誤解を受けたり、誹謗中傷にさらされたりするのは世の常で、そうしたことを気にしていたらなにごとも始められないと承知していますから、なんといわれてもかまいません。論争の一方の当事者、また、一ヴェーバー研究者/ヴェーバー関係著作の一執筆者として帯びている責任社会的責任を、精一杯果たしていくのみです。

しかし、かりにそうした印象や誤解が生ずるとすれば、それは、本コーナー開設者の橋本努氏にとって、また橋本氏の呼びかけの趣旨に賛同して応答を寄せられた(あるいは今後寄せられる)各位にとって、たいへんご迷惑なことでしょう。このコーナー自体が、開設者および応答者の自由を損ねる、なにか「(学界政治的)集団形成」のメディアであるかのように見誤られ、逆宣伝され、ひいては応答者の範囲を狭めることにでもなったら、とても残念です。

そこで、各位の寄稿に筆者がお応えするのは、けっしてそうした「集団形成」を目論むものではなく、まったく逆に、羽入書の「自殺要求」は断固しりぞけつつも、「生産的限定論争」の平面で、自由な討論による多極形成」をこそ目指すものであると、ここにはっきり明示的一般的に宣言し、これから試みる一連の応答内容の質によって、この宣言の妥当性を具体的に裏付けていきたいと思います。じじつ、「応答1」における山之内靖氏との対決は、当事者の羽入辰郎氏にたいするのと同様、あるいはそれに優るとも劣らず苛烈であったと読者は受け取られたにちがいありません。「政治的集団形成」であれば、「『主要矛盾』を忘れて『内部矛盾』を拡大するのは賢明でない」とお叱りを受けるところでした。

しかし、このコーナーは、各々の立論の根底にある理想や価値規準のフェアな明示も含め(そういうヴェーバー的意味において)最大限に価値自由wertfrei」な学問的討論ないし論争の場となることを目指しているはずです。こういう具体的なコンテクストにさしかかったときにこそ、的確な読解のチャンスが生まれると思いますので、ヴェーバー「客観性」論文の一節を、ちょっと長くなりますが引用してみます。「もとより、実践的な政治家にとっては、個々のばあいに、現存する意見対立を調停することが、そのうちのひとつに加担することとまったく同様、主体的に義務をはたすことでもあるうる。しかし、そうしたこと[対立する意見を調停して妥協に達すること]は、科学上の『客観性』とは、いささかも関係がない。『中間派』は、左翼または右翼の極端な党派的理想に比して、髪の毛一筋ほども科学的真理に近づいてはいない。人が、[自分の党派的見地から見て]不都合な事実および生活の現実を、冷厳な実相において直視しようとしない{後の用語では「知的誠実[廉直]」を実践しない}ときほど、科学の利害が、ひどく損なわれていることはないのである。この雑誌{『社会科学・社会政策論叢Archiv fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik』}は、数多の党派的見地の総合によって、あるいは、それらの対角線上に、科学的な妥当性をそなえた実践的規範を獲得することができる、という重大な自己欺瞞にたいして、徹底的に闘うであろう。というのも、こうした自己欺瞞は、好んでみずからの価値規準を相対主義的に隠蔽するので、[価値判断に囚われない]研究にとっては、自分たちの教義が科学的に『証明可能である』とする古いナイーヴな[あからさまな{それとはっきり分かる}]党派的信仰に比して、はるかに危険だからである。認識と価値判断とを区別する能力、事実の真理を直視する科学の義務と自分自身の理想を擁護する実践的義務とを[双方を区別し、緊張関係に置きながら、ともに]はたすこと、これこそ、われわれがいよいよ十分に習熟したいと欲することである。」(Gesammelte Aufsaetze zur Wissenschaftslehre, 7. Aufl., 1988, Tuebingen, S. 154-5, 富永祐治、立野保男訳、折原浩補訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、1998、岩波書店、42-3ページ、下線による強調は原文ゲシュペルト、{ } は引用者による今回の付加)

なにか問題を抱えて考えあぐねているとき、なにげなく「客観性」論文のような古典をひもとくと、不思議にもふと開いたページに関連叙述が出ていて解決の糸口が掴める、というのは、ままあることですが、この一節は、どこになにが書いてあるかをだいたい記憶している筆者にも、いま初めて捜し当てて読むかのように新鮮です。ここに示されている人格理想/学問理念をくぐらせて、橋本努氏が創設されたこのコーナーを補足的に性格づけるとすれば、それぞれの理想に生きる自己責任的で(対他者的にも)責任倫理的な自立的/自律的個人が、羽入書によって提起されている(狭くはヴェーバー研究者、広くは歴史・社会科学研究者一般の「生存権」)問題、ならびに、そこから「芋づる」式に探り出されてくるアカデミズム内外の現実の諸問題をめぐり、科学的真理探究という共通の場に相会し、互いの見解をつとめて集約的かつ厳格な討論に委ねて妥当性を競い合う「土俵(アリーナ)」であるといえましょう。なにか「中間」ないし「対角線」上に、「集団的に結集」し、「政治的党派形成」を遂げようとするのではありません。したがって、意見の一致よりもむしろ対立を重んじなければならないでしょう。その意味で、『社会科学・社会政策論叢』の創刊理念(厳密にいえば、『ブラウン誌』から編集を引き継ぐさいに、新編集者ゾンバルト、ヤッフェおよびヴェーバーによって改めて確認され、いわばその「綱領文書」ともいうべき「客観性」論文に表明された「歴史・社会科学専門誌」の理念)に通じるものがあるかと思います。ただ、議論(コミュニケーション/ディスカッション)の焦点が上記のとおり(羽入書を契機とする関連諸問題というふうに)限定されていること、そのかわり、インターネットの利用によって、『社会科学・社会政策論叢』よりもはるかに迅速かつ集約的な議論が、技術的に可能で、保障されていること、この二点がちがいます。

ここで、後者の意義につき、(パソコン文化に遅れて参入した老生ですが)一言述べさせていただきますと、インターネットのホーム・ページの活用により、論考を脱稿してすぐその場で廉価に全世界に向けて公表できるようになりました。パソコン文化の先輩/ヴェテランには、なにをいまごろあたりまえのことに「欣喜雀躍」しているのか、と笑われるでしょうが、この道具は、論争に生きようとする研究者、とりわけ退職高齢研究者にとって、気がついてみるとまさに恰好です。この道具をフルに活用し、限定されたテーマひとつひとつに議論を迅速に集中し、クリアしていくとき、学問研究にどんな可能性が、どれだけ開けてくるか、たいへん楽しみです。

とくに、人文/社会科学系の議論/論争にとっては、この技術により「講壇価値判断禁欲要請」がいわば「宙に浮き」、それにつれて議論内容の質も変化すると予想されます。周知のとおり、学者が大学の講壇で自分の実践的理想や価値規準/価値判断を表白すべきかいなか、そうすることが許されるかどうか、という問題は、紛らわしいけれども「価値自由」そのものとは別個の、それとは区別されるべき問題です。「講壇では価値判断を禁欲すべきだ」というヴェーバーの立場は、それ自体ひとつの教育政策的価値判断で、しかも大学という場の時代的制約に拘束されていました。すなわち、ヴェーバーは、学生/若者の理想形成/自己形成の自由にたいする繊細な配慮から、理想の一方的な押し付けばかりか「尽力的顧慮einspringende Fuersorge」さえしりぞけ、複数の可能性を開示する垂範的顧慮vorausspringende Fuersorge」ともいうべきスタンスを採用していました。したがって、もし大学の講壇で価値判断の表白が認められるとすれば、その時代を代表する多種多様な価値規準(複数)が出揃い、学生/若者がそれらの狭間で考え選択することができるばあいにかぎられる、ということになります。ところが、当時のドイツでは、大学の講壇に多様な価値規準(複数)が出揃う保証がなかった、とすれば、そうした制約のもとで、聴講(現在ではさしずめ単位取得)を余儀なくされている学生に、講壇上から自分の理想ないし価値規準を吹き込むのは、勝手すぎる、フェアでない、品位に悖る、むしろ学者は教師として、自分の役割を専門的知識と思考法の伝達、せいぜい「知的誠実(廉直)」(の徳)の育成に限定すべきだ、ということになったわけです。

ところが、インターネットは、当の制約を取り払う技術上の可能性を開きます。特定のテーマについて開設された、万人にアクセス可能なホーム・ページないしはそのコーナーに、当のテーマにかかわる多種多様な価値規準の代表者が、迅速にそれぞれの所見を寄せ、出揃ったところで、集約的に議論を闘わせることができるようになりました。ひとつのコーナーに出揃うのがじっさいには困難というのであれば、各価値規準の表明者/代表者が、それぞれのホーム・ページにコーナーを開設して、相互間で集約的に議論を闘わせ、関与者が任意に複数のホーム・ページにアクセスして「狭間に立つことができましょう。

そうなってきますと、ホーム・ページのコーナーに掲載される「価値自由」な議論の内容についても、価値評価を交えない事実関係の客観的認識および整合合理的な論理展開とならんで、それらとははっきり区別して、それらの背後にある自分の実践的理想ない価値規準を明快に提示することが、妨げられないばかりか、むしろ義務にもなるでしょう。というのも、そうすることによって、寄稿者において認識と理想との双方が緊張関係において堅持されているかどうか、当の議論が真に(たんに「没価値的」にではなく)「価値自由」になされているかどうか、読み手が検証しながら読むための一方の(実践的理想側の)データを同時に提供していくことになるからです。

そのようにして、「価値自由」そのものも、「講壇価値判断禁欲要請」の根底にあった、読み手の自由にたいする「垂範的顧慮」も、ともに堅持されたまま、ホーム・ページのコーナーに掲載される「価値自由な」論議中、実践的理想ないし価値規準の提示に割かれるべき叙述の意義と量とが相対的に増大し、論議内容全体も相応の質的変化を被り、それにつれてさらには、実践的理想ないし価値規準そのものを評価するメタ規準問題も前景に現れてくるでしょう。なるほど、なにもかもそううまくいくはずはなく、さまざまな「逆機能」問題も発生してくるでしょうが、それらはそのつど、原則的に解決していくほかありません。

以上のようなことを考え、原則を立てたうえで、次回からはふたたび、横田理博氏、牧野雅彦氏ほかの寄稿にたいする具体的応答に戻って、議論を重ねていきたいと思います。(2004年2月27日記)


山本通「書評 羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪--『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊--」『社会経済史学』69巻4号(2003年11月)121-123頁。

(書誌情報のみ掲示)


宇都宮京子「『知的誠実性』を問うことの陥穽について」

2004年3月4日(本コーナーへの寄稿)

『知的誠実性』を問うことの陥穽について

宇都宮京子


2004年3月4日

はじめに

 本文は、羽入辰郎氏著『マックス・ヴェーバーの犯罪-「倫理」論文1)における資料操作の詐術と「知的誠実性の崩壊」-』(以下、「羽入」書と略す)をめぐって、自分の意見を概括的に述べたものである。

1.内容についての所感

1・1 科学者の「知的誠実性」を告発するということについて

ヴェ-バ-が、統計結果に基づいて持った視点と疑問点とを提示するというかたちで「倫理」論文をスタートさせていることは、重要だと思われる。そのような統計結果から、ある「意味」を読み取ったわけで、その統計結果を因果的に説明すべく、「資本主義の精神」という理念型の構成を行った。もちろん、これは、1つの試みであり、ヴェーバーが行ったのとは、別な因果連関の構成、因果的説明も可能であったかもしれない。そのような立場をヴェーバーが取っていたことは、「社会政策及び社会科学の認識の『客観性』」およびその他の諸論文から読み取れる。

ところで、その場合、ヴェーバーが立てた、プロテスタンティズムという一宗教のもっていた精神や生活態度が、資本主義という経済体制の成立に影響を与えたという仮説およびその構成過程が、どのように、また、どこまで説得力や論拠を欠くものであったら、ヴェーバ-は、知的に不誠実ということになるのか、ということが問題になる。

 簡単に一言で言ってしまえば、それは、プロテスタンティズムの倫理(特に、カルヴィニズム)と資本主義の精神との影響関係の考察について、一切寄与することができていない場合、すなわち、ヴェーバーが、最初に示した視点と疑問点の説明に全く寄与しない場合であろう。逆に、何らかのかたちで、従来からあった知見に、新しい、価値あるものの見方を付加することに寄与できているならば、たとえ、部分的に不備がもし、あったとしても、その貢献は評価されるべきであろう。

もちろん、論証の素材として提示されているものが不十分なものである場合や、その証拠からでは、筆者が論証したと主張するような結論を導き出せない場合、その論文の科学的価値が疑われることはあるであろう。しかし、その不十分さが、論争で指摘され、もし、ある筆者が敗れたとしても、それをその研究者の全人格や学者としての価値を否定されるということに直結することは少ないであろう。羽入書が、それを敢えて行ったのは、そこに、「論証できないことを知っていながら、意図的に、本当は使っていけない資料等を論拠として用いた」とか、「論拠を捏造した」と判断したからである。

しかし、羽入氏は、ヴェーバーのそのような「悪意」や「捏造」を本当に動かせない証拠を示して証明したといえるのであろうか。折原氏も指摘しているが、1つの論文に焦点を当てて批判するにしても、その論文が書かれた背景や他の論文との関係、さらに、(もっと重要だと思うが、)その論文を支えている論理学や方法論との関係を視野に入れなければ、分かるものも分からなくなるであろう。それを、羽入氏の著作においては、「理解できないのは、そこに詐術が施されてきたから」的な文言がちりばめられているのは、あまりに短絡的で一方的な断言ではないかと思われる。折原氏のような視点で「倫理」論文を読めば、ヴェーバーが、意図的に読者を欺こうとして詐術を働いたとはいえず、むしろ、考え抜いて、知的良心に基づいて書かれた部分も、文脈性を無視することによって、詐術に見えてしまう場合があるのだということが分かってくる。

羽入氏は、彼の著作の目的について、次のように書いている。「本書で重要なのは、『事実がどうであったか』ということではなく、むしろ逆に『事実についてヴェーバーが何を書いたか』ということなのである。あるいはより厳密に述べるならば、どのようなやり方で歴史的事実に関する彼のテーゼをヴェーバーは組み立てたか、ということのみに関心があるのであり、その組み立てられたテーゼが歴史的事実と合致するか否かということにはわれわれはなんら関心をもたない。本書で重要であり問題とされるのは、学者としてのマックス・ヴェーバーの『知的誠実性』(原語と引用注:略)のみである」。(「羽入」書 10頁)しかし、このスタンスは、正しいのであろうか。実際は、ヴェーバーの論述の展開を辿ることは、歴史的状況や事実がどのようであったのかを考慮せずには、不可能だと思われる。客観的可能性判断は、経験的事実との関係で行われるからである。

しかし、このように抽象的に論じても、論点は、はっきりとしないままであると思われるので、折原氏がすでに論じた内容と重複することを恐れずに、以下で、私自身の論脈で、羽入氏の、特に、第1・2章(部分)における論述の傾向とその問題点を例示したいと思う。

1・2 「羽入」書、第1・2章(部分)の具体的な問題点の例

 まず、羽入氏の、ヴェーバーの「倫理」論文を解釈する時の姿勢を端的に示していると思われる彼自身の文を以下に引用したいと思う。「…こうした『職業義務の思想』は聖書翻訳者達の精神から由来したのである(AfSS 37;RS 65;大塚訳九五頁、梶山訳・安藤編 一三四頁)、と。ここでヴェーバーは、『翻訳者の精神』(傍点引用者)と述べているのであるが(この部分、従来邦訳では『翻訳者の精神』と単数で訳されてきているが、“…der Übersetzer”は複数2格である)、しかしながら、このすぐ次に続く部分での彼の叙述、及びその部分に付された注からただちに分かることは、彼がここで重視しているのは実はマルティン・ルターただ一人であるということである」。(「羽入」書 67・68頁)

 せっかく「翻訳者達」(複数形)であると気付きながら、羽入氏は、なぜ、ヴェーバーが、ルターとそれ以外の翻訳者たちの両方をこの個所で指していると考えなかったのだろうか。

この指摘部分の前後も記すと「今日的な意味におけるその語は、むしろ、聖書の翻訳(pl.)に由来し、しかも(und zwar)、翻訳者たちの精神に由来しているのであって、原典の精神に由来しているのではないということがさらに、明らかになる」(G.A.z.R. S.65)となっている。「聖書の翻訳」も複数形なのであり、それをさらに詳しく説明するかたちで、翻訳者達の精神(複数形)と書かれているのに、なぜ、ここで、ルター1人を重視していると考えられるのだろうか。ルターのみならず、地域と時間を超えた多くの翻訳者達のその都度の解釈こそが、実は、意味創出の場であったとヴェーバーはここで強調しているのだと思われる。

羽入氏は、しばしば、ヴェーバー自身が明記していることを無視したり、自分の解釈を押し付けたり、間違いだとか、不誠実さの現われだとみなして、論を進めることがある。しかし、もし、本当に知的不誠実さを立証しようとするのならば、まず、相手が、100%知的に誠実であると前提して検証を進め、なるべく相手の文脈に沿って正確に理解しようとあらゆる努力をし、それでも問題が生じるときに初めて、そこに不誠実さが介在したと判断すべきであろう。しかし、羽入氏は初めから、「知的に不誠実なヴェーバーだから、こんな変なことをすることもありうる」という思い込みに支配されているところがある。

 その一番端的な例が、原注24の紹介および解釈の仕方に見て取れる。

氏曰く:「時間的順序に基づいたルターの翻訳相互の影響関係に関するヴェーバーの右の立場は、純粋に年代的な順序の見地から見た場合には、やや奇妙に響く面を持っている。というのは、それは、『コリントⅠ』七・二〇においてルターが行ったギリシア語“クレーシス”に対する“Beruf”という訳語の選択は(すでに見たように、実際には“ruff”であったが)、すぐ二年後の『箴言』のルター訳には全く影響を与えず、他方、十一年後の『ベン・シラの知恵』のルターの翻訳には影響を与えたということを主張しているからである」。(「羽入」書 87頁)

 この文には、さまざまなトリックが潜んでいる。この文中の、「実際には、“ruff”であった」ことを示したのは、羽入氏自身であるのだが、ヴェーバー自身も、「ルターが、『コリントⅠ』第7章第20節の中のギリシア語“クレーシス”に対して、“Beruf”という訳語を選択した」などとは、本当はどこにも書いてはいない。それを、書いていたことにして、このように批判を進めているのである。

さらに、ヴェーバーは、自分で、「現代の普通の版における」ルター聖書を用いたと書いて(G.A.z.R. S.67)、『コリントⅠ』の第7章の章句の引用を行っているのだが、羽入氏の主張によれば、「ヴェーバーは、非常におかしなことに、オリジナルなルター聖書に当たることもせず、『(現代の普通の版における)ルター訳聖書』を用いて、しかも、なぜか自分でそれを明示していた」のである。「ヴェーバーは、オリジナル版に当たっていないから、ルターが、ruffを使って訳していたことを知らなかった。それは恥ずかしいことである。それならば、現代の普通の版のルター聖書を使ったという事実を隠すはずなのに、なぜ書いたのか」ということであろう。このような羽入氏の論理に乗ってしまえば、確かに、読者は、「ヴェーバーってそんなにいい加減で変なことをしていたのか」と思うであろう。

しかし、実際、なぜヴェーバーは、自分で、「現代の普通の版における」ルター聖書を用いたことをわざわざ書いたのだろうか。もし、彼の知的誠実さを信じるところから解釈を始めるならば、「そこには、何か、理由があったはずである」と考えて、他の文脈との繋がりを、そのような視点で解釈しようとするだろう。しかし、不誠実でいい加減だ、という前提から出発すれば、このような自分に不利な指摘を自分自身で行っていることそのものが、ヴェーバーの訳の分からなさの新たな例証になってしまう。それに、もし、羽入氏の設定に乗ったとしても、人を欺こうとするような「詐術に富んだ」研究者が、わざわざ、自分に不利なことを明記するであろうか。したがって、羽入氏の解釈では、ヴェーバーは、常人としての判断力も持っていない変人ということになる。

では、もし、ヴェーバーが、正常で、「このように明記しても、自分には何も不利なことはない、むしろ、書くべきだ」と考えて、この「現代の普通の版における」という文言をつけたと前提する時、どのような解釈ができるのだろうか。それは、折原氏がすでに指摘しているが、『コリントⅠ』第7章の17節から31節に対するルター自身の訳を紹介しようとしたのではなく、ルター以後のどこかある時代に始まりヴェーバーの時代まで引き継がれていた、翻訳者達によるこの章句の訳し方を例示しようとしたということだろう。(折原 80頁)

つまり、『コリントⅠ』第7章の17節から31節まで通して読むと、神に召されたままの状態を保守しようとしているのは、現世の生活の場においてである。ヴェーバーは、『コリントⅠ』の第17節以降の(第20節を含む)例示と、ルター自身によるこの節への釈義の紹介2)を通して、第20節の配置が、“クレーシス”という語にStandという意味を読み取らせる可能性をもっていること、つまり、神の召命を表わす語が、そのまま、この世において人々が置かれた状況や立場へと解釈され得るようになる可能性を示したのであろう。この世のすべては神の創造物であるのだ、という視点を徹底すれば、どんな身分もその人の身に起きている状況も、そして、職業も、神の思し召しの結果だ、ということになる。

ところで、『コリントⅠ』第7章の章句が引用されているその少し後で、ヴェーバーが、以下のように述べている個所がある。長い文であるが、原文に即して切らずに訳してみた。

「しかし3)、各自、その現在のStandeに留まれ、という終末論的に動機づけられた勧告(Mahnung)において、“クレーシス”をBerufで翻訳していた(uebersetzt hatte)ルターは、後に彼が、その旧約外典を訳した時には、各自は、その仕事に留まるように、という『ベン・シラ書』の、伝統的主義的で反貨殖主義的に動機づけられた助言(Rat)において、ポノスを、確かにその助言(Ratschlag)の事実上の類似性のゆえに、同様に、Berufを用いて翻訳したのである」。(G.A.z.R. S.68)

この個所は、この文意をどのように解釈するかによって、羽入氏のヴェーバー批判が妥当と思われるか、誤解だと思われるかが分かれるところである。

羽入氏の解釈は、こうである。ヴェーバーが、「sachlichな類似性のゆえに」と書いたのは、「ルターが、『コリントⅠ』第7章 第20節において、Berufという訳語を自身が用いたことに引きずられて(「羽入」書 88頁)、『ベン・シラ書』でも、Berufを用いたのだ」と考えていたからである。すなわち、以前のBerufという語の使用が、後のBerufという語の使用を引き起こした、ということになる。このように、この文を解釈するならば、「ルターは、『コリントⅠ』第7章 第20節において、 “クレーシス”の訳語として、Berufを用いていた」とヴェーバーが判断していたことになる。

しかし、ここでの、「sachlichな類似性」とは、そのような意味だろうか。むしろ、ここでは、“クレーシス”と“ポノス”とが果たす意味上の役割のsachlichな類似性のことが、考えられていたのではないだろうか。

すなわち、以下のような、折原氏が提示し(折原 71頁)、橋本氏(『未来』)も支持を表明している見解と内容的にほぼ重なる、もう1つの解釈が考えられると思われる。

「『ベン・シラ書』を訳した頃の、信仰心が深まっていたルターは、地上における人々の状況も、住居地であろうと、身分であろうと、職業であろうと、すべて神の与え給うたものである、と考えるようになっていた。そして、まさに、その発想に基づいて、神の召命を意味し、従来、ルターによって、Berufを用いて訳されていた、ギリシア語“クレーシス“が用いられた勧告も、世俗の職業を意味していたギリシア語の“ポノス”が用いられている助言も、事実上は(sachlich)、指し示す内容が類似していると判断した。それゆえ、後者の“ポノス”も、“クレーシス”と同様に、Berufで訳してよいと考えた。」

この場合、ヴェーバーが、『コリントⅠ』第7章の章句を引用したのは、神の召命を意味する“クレーシス”が、宗教的な世界の枠を超えて、世俗的な状況への架け橋ともなりうるRuf(=Stand 客観的秩序4))と、ルター自身によって解釈されていたことを示したかったからであろう。これは、先にも指摘したように、ルターによる発想の紹介であり、かつ、現に、後の世においては、Berufで訳されるようになっている、ということの提示の意味もあったであろう。

また、先に引用した文に見られるように、羽入氏は、『コリントⅠ』が訳された2年後に訳された「箴言」22・29において、“クレーシス”が、Geschäftと訳されていたことを取りあげて、ヴェーバーの推論は間違っていると批判していた。なぜなら、『ベン・シラ書』は、『コリントⅠ』の11年後に訳されているのに、『コリントⅠ』におけるBerufの使用の影響を受け、それより以前に訳された「箴言」22・29には影響を与えていないのはおかしい、というのである。しかし、すでに論じたように、ヴェーバーは、「ルターが、『コリントⅠ』第7章 第20節で、Berufを用いた」とは書いていないのであるから、この批判も無効である。

1・3 「倫理」論文における論証の有効性について

もし、この「倫理」論文の意義が、疑われる場合があるとしたら、それは、まず、『ベン・シラ書』より前に、“Beruf”という概念が、今日使われているような意味で、翻訳等で用いられていたということが証明された場合であろう。だから、そのような視点を提示したブレンターノを、ヴェーバーは、鋭く批判したのであると思われる。

ところで、「ルターの信仰が熱烈」になったということが、いかなる資料からも経験的(歴史的)事実として読み取ることができない時も、この「倫理」論文の価値は問われるかもしれない。ヴェーバーは、1530年頃から、「生活のすみずみにまでおよび神の個別的な摂理についてのルターの信仰が熱烈」になったことを、現在のような意味での“Beruf”概念の成立と流布の一要因として挙げている。そのような歴史的事実や社会的状況を介在させて初めて、ヴェーバーの因果連関は、完成していると考えるべきであり、それを、文献学的検証だけで論難しても、本質を見失うだけではないだろうか。そして、上記のような信仰の深まりと聖書の訳語との関係については、折原氏の指摘しているように、翻訳においては、「その語をこの文脈ではどう訳すべきか」という、翻訳者たちのその都度の判断が介在するから、必ずしも、ルターの時代やその直後にすぐに訳語の変更が行われるようになるとは限らないのではないだろうか。だからこそ、ルター以降の「翻訳者達」の解釈(精神)も視野に入れて、この「倫理」論文の理念型構成の作業は、進められていると考えるべきで、それゆえ、この「翻訳者達」という語は、複数でなければならなかったのだと思われる。

 もし、そのように考えて関連個所を読み直すならば、ヴェーバーの論述は、決して矛盾したところはなく、少なくとも、羽入氏が、「ヴェーバーは、聡明なはずなのに必要な作業を行わず、訳の分からないことを、より関係のない部分についてゴタゴタと書いて、自分の論理が筋道立っていないことを隠そうと意図していた」、と読んだ部分は、そのようには読めない。

以上、上記のように、解釈すると、第1・2章(部分)における羽入氏の論述のかなりの部分は、興味深い部分があっても、ヴェーバーの知的不誠実性を証明するという目的にとっては、折原氏の言葉を借りれば、「一人相撲」(折原 114頁)になっていると思われる。問題でないところを問題視して、その問題性を論証しようとしているからである。

他の部分については、すでに、折原氏や橋本氏が指摘しているので繰り返して詳論することはしないが、第3章と第4章の証拠の挙げ方、論破しようとしている内容は、やはり、相互矛盾を孕んでいると思われる。読者がすぐには入手できない資料を用いて、自分の都合の良い部分だけ証拠として並べれば、このように論証は出来上がってしまうのだ、ということの例を見たように思えた。

2.私自身の立場について

私は、自分が、「ヴェーバー研究者」という範疇に納まる存在なのか自分では確信がもてない。しかし、ともかく、ヴェーバーの文章を読んで理解できないときは、(悪文であると思うことはあっても、)主にその予備知識の広さや深さの違いのせいであると考えてきたし、また、「なぜ、ヴェーバーはここで、このような参照指示を出しているのか」という疑問の謎解きが、私のヴェーバーの方法論に関する研究のきっかけの1つであった。細かい点では、ヴェーバーに全くミスがなかったとは言わないが、それでも、「なぜ、ここでヴェーバーは、表現を変えたのか」というように、理由なくしては、ヴェーバーは、いい加減な用語の変更はしない、という前提のもとに研究を進めてきた。そして、その結果として改めて、彼のなるべく厳密に論を進めようとするヴェーバーの姿勢を確認するということもしばしばあった。それは、ヴェーバーの権威に寄りかかろうとしているわけではなく、ヴェーバーの知的誠実さを前提にしているというだけのことである。また、私は、ヴェーバーだけでなく、どのような研究者の業績を研究対象とする時も、その研究者を、まず知的に誠実であると想定して、そこから研究を進めたいと思っている。

 私は、羽入氏の著作を読んだ学生から、「ヴェーバーって詐欺師なんですか。そのような人の研究に自分の時間を割くことに意義はあるのですか」と、もし、尋ねられることがあれば、「たとえ、もし、ヴェーバーに不十分なところがあったとしても、彼は、詐欺師ではない。知的に誠実であろうと人一倍努力をした人だ。そして、私がヴェーバーから学んだものは、大きく、ヴェーバーに出会えてよかったと思っている」と答えたいと思っている。

むすび

 羽入氏のこの文献学的研究に注いだエネルギーの大きさは敬服に値すると思うが、その研究を始める時と進める時の動機の歪みと視点の狭さが、せっかくの詳細な検討の過程で、原典のもつ真意と誠実性とを見落とさせたり、曲解させていることは、明らかであると思われ、大変、残念に感じている。

ある研究者の論文の価値を問うのではなく、その研究者自身の「知的誠実性」を問うということは、大変、難しいことなのではないかと、改めて感じた。すなわち、「知的誠実性」を問おうと意図すること自体が、その問い手自身の「知的誠実性」を失わせたり、歪めたりする可能性があることを、本書のあり方が示しているように思えるからである。その陥穽に陥らないように、私自身も、「羽入」書のもつ矛盾点や問題点について、客観的に考えていかねばならないと思った。

【参考文献】

橋本 努 (2004)「ウェーバーは罪を犯したのか――羽入-折原論争の第一ラウンドを読む――」(『未来』N0.448 pp.8-17 未来社 所収)

羽入辰郎(2002)『マックス・ヴェーバーの犯罪-「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性の崩壊」-』 ミネルヴァ書房

折原 浩 (2003)『ヴェーバー学のすすめ』 未来社

Weber,Max(1920)”Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus, Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie I J.C.B.Mohr

(Paul Siebeck) Tübingen (G.A.Z.Rと略す):阿部行蔵訳 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」、(『ウェーバー 政治・社会論集』(世界の大思想23) 河出書房 所収)



1) マックス・ヴェーバーの論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」のこと。(Weber,Max

(1920)”Die protestantische Ethik und der Geist desKapitalismus, Gesammelte Aufsätze zur

Religionssoziologie I J.C.B.Mohr (Paul Siebeck) Tübingen (以下、G.A.Z.Rと略す)所収)

2) ルターは、『コリントⅠ』第7章、第20節への釈義において、ギリシア語の“クレーシス”という語を、ドイツ語の“Ruf”で訳し、Standと解釈した、とヴェーバーは、書いている。(G.A.z.R. S.68)

3) この、「しかし(Aber)」にどのような役割を与えるかによって、その後に続く「各自、その現在のStandeに留まれ、という終末論的に動機づけられた勧告」の指す内容について異なった解釈ができる。この文の前後のつながり方や、ヴェーバーによる『コリントⅠ』第7章の章句引用の際の時制の用い方などから、この「勧告」は、『コリントⅠ』の第7章、第20節を指しているのではないと判断できる。

4) ヴェーバーは、G.A.z.R. S.65で、「『コリントⅠ』第7章第20節における意味での客観的秩序として…」という表現を使っている。この場合、この「客観的秩序」とは、神からのはたらきかけそのものではなく、神が決定した結果としての「この世」の客観的なあり方を指しているのであろう。


鈴木あきら「羽入-折原論争への応答」

2004年3月8日(タイトルはこちらで付けさせていただきました)

鈴木あきら「羽入-折原論争への応答」

2004年3月8日


(以下のメールは、鈴木あきら様から橋本に宛てられたものです。掲載に当たって鈴木様から、「この人は素人だから、いきなり噛みつかないように、と(笑)」のアナウンスメントを頼まれました。皆様、どうぞよろしくお願いいたします。)

初めてメールを差し上げます。

私は東京で小さな広告製作会社を経営しております、鈴木あきらと言います。

今回、突然メールを差し上げたのは他でもありません。

貴兄のHPにある羽入-折原論争の頁を興味深く拝読したからです。

私は上述のように小さな広告会社の経営者であり、

学者でもなければヴェーバーの研究者でもありません。

さらにいうなら、羽入氏の「マックス・ヴェーバーの犯罪」を読むまで、

ヴェーバーの「倫理論考」(羽入本にならいます)を読んだことすらない、

まったくの一般読者(ちなみに年齢は50歳)です。

で、ヴェーバーの「倫理論考」ですが、若い頃からその書名は知っており、

何度か挑んだことはあるのですが、あまりに難しいので、

そのたびに途中で挫折した経験を持っています(笑)。

で、今回、たまたま書店で、

羽入氏の「マックス・ヴェーバーの犯罪」を見かけて購入し、

家に帰ってから、さっそくベッドの中で読み始めたのですが、

いやぁ、これが実に面白く、

できのいい推理小説を読むようにワクワク、ドキドキしながら、

一気に、最後まで読み通しました。

私はもともとこういう推理小説仕立ての読み物が好きなんです。

推理小説仕立てというところがミソで、本物の推理小説はあまり好みません。

あくまでも推理小説仕立てが好きなんです。

例をあげれば、高田衛氏の「南総里見八犬伝の世界」とか、

中野美代子氏の「西遊記の秘密」というような奴です。

それまで慣れ親しんできた物語世界や厳然と存在する論理構造を

一つひとつ突き崩していく中から、最終的にどんな新しい世界が顔を覗かせるのか。

それをワクワク、ドキドキしながら読んでいくのが好きなんですね。

今回の「マックス・ヴェーバーの犯罪」も同様でした。

羽入氏の緻密な論証は本当にスリリングで面白く、最後まで興奮しっぱなしでした。

で、何が言いたいかというと、

羽入本を読んで興奮している私は、

にもかかわらず「倫理論考」を読んだことがないということです。

本家本元の「倫理論考」を読んだことがないのに興奮して、十二分に楽しんだんです。

これ、どういうことなんでしょうか?

ようするに、羽入氏の本が面白いということと、

マックス・ヴェーバーとはあんまり関係ないんですよ。

極端に言えば、羽入氏が「犯罪を暴こうとする対象」が、

マックス・ヴェーバーでなくても、羽入本は成立したって事です。

もちろん、マックス・ヴェーバーぐらいの名前がないと、

誰も手にはしないでしょうが。

羽入本が売れたり、評価されているとすれば、

それは検証の内容というより、

検証の手つき、書き方の芸でしょう。

たとえば、かつて一世を風靡した書籍に、

竹内久美子氏の遺伝子シリーズがありました。

人間の行動は、すべて利己的遺伝子が決定する、という例のあれです。

彼女の登場も、最初はショッキングなものでした。

なにしろ、男が浮気をするのも、

子供を作らない夫婦が姪や甥を可愛がるのも、

すべては利己的遺伝子のせいである、なんて論理展開をされれば、

誰でもびっくりします。

しかもそれを書いているのが、

高名な動物行動学者である日高敏隆氏の女性のお弟子さんとくれば、

なにやら正座する気持ちになりますよね。

でも、ちょっと読みすすめれば、

それが学術的な分子生物学や遺伝子学からすれば、

ずいぶんとアクロバティックで、

奇妙な論理展開だということが、

すぐにわかります。

実際に、竹内氏の著作も間もなくそのように取り扱われ始めました。

今では誰も竹内氏を、動物行動学者に連なる文脈で捉えている人はいないと思います。

しかし、にもかかわらず、現在でも竹内ファンはたくさんいますし、

週刊誌で人生相談をするほどに、人気も衰えていません?私も彼女のファンであることに変わりはありません。

どうしてでしょう?

彼女の人気は、彼女の持つ学術的な知識や理論にあるのではなく、

彼女の話芸にあるからであり、読者も十分にそのことを知っているからです。

竹内氏も登場の頃は文章も硬く、論理展開にもぎこちないものがありました。

しかし、2冊3冊と著作を重ねていくうちに、

その語り口は見事に垢抜けていきました。

私は彼女の著作を、

例によって推理小説を読むようににワクワクしながら愛読しつつ、

ちょうど3冊目辺りで、

「あ、うまくなったなぁ。語りが芸になった!」

と感心したものでした。

私は、今回の羽入本もその文脈で楽しみました。

なにしろ、ヴェーバーの「倫理論考」を読んでもいない私を、

ワクワク、ドキドキ興奮させてくれるんですから、

羽入氏の芸は、それだけで大したもんです。

もちろん、その芸の中には、例の「はじめに」も入ります。

あの強烈な「女房の話」があったから、私のような素人でも、

ゲラゲラ笑いながら読み始めることができたんです。

で、問題は読後です。

羽入本を読んだ私が、

「なんだ、マックス・ヴェーバーって、詐欺師だったのか」

と、「倫理論考」を読むことをやめれば、それは確かに問題でしょう。

でも、私は羽入氏の検証を手がかりに、

今度こそはなんとか最後まで「倫理論考」を読んでやろうと挑戦し、

遂に最後まで読み切ったのです。

もちろん、素人のことですから、理解の度合いは別にして、ですが‥‥。

また、ヴェーバーが二次資料にしか当たっておらず、

その引用にも問題があった。

だから、ヴェーバーを希代の詐欺師だと思ったかというと、

そんなことはありません。

逆に、辞典一つでここまで想像力の翼を広げることのできるヴェーバーの才能に、

改めて感動したくらいです。

ですから、当然の如く、

他のヴェーバー研究者の著作を否定的に捉えたりはしませんでした。

なにしろ、羽入氏自身も繰り返し語っているように、

彼が「詐欺だ」と言っているのは、

ヴェーバーが一次資料に当たっていないにも関わらず、

いかにも一次資料を子細に検証したように書いてあることなのであり、

「倫理論考」じたいの論理展開については、

何も触れていないのですから。

で、貴兄のHPにおける専門家諸兄氏の憤り方についてですが、

私には逆に、専門家諸兄氏の憤り方が、少しばかり傲慢に写ってしまうんですね。

なぜ、彼らはもっと自分の仕事と読者を信頼できないんだろう。

たとえば、折原さんという方(ごめんなさい。私は氏を存じ上げないのです)は、

======================================

羽入書は、当のマックス・ヴェーバーを「詐欺師」「犯罪者」と決めつけており、か

りにその主張が正しいとすると、山之内氏は、『詐欺師入門』の著者ということにな

らざるをえません。そんなことを山之内氏がお認めになるはずはない、かならず反論

がおありだろう、しかしそれを「胸の内」にしまっておかれたままでは、しだいに

「いったいどうなっているのか」という戸惑いが広がってくるし、とりわけ氏の『入

門』によって文字どおりマックス・ヴェーバーに入門した(定義上初心者の)読者の

戸惑いは大きく、『入門』執筆の折角のご努力も仇となりかねない

======================================

と書かれていますが、読者って、そこまで馬鹿じゃありませんよ。

逆にこういう感情的な文章を読むと、私などは逆に、

「学者という連中は、所詮、読者をそのレベルまで見下してモノを書いているんだな」

という感想を持たざるを得なくなってしまいます。

読者はきちんと自分の判断で書籍を購入し、

自分の判断で読み、

自分の判断で放り出したり、大切にしまっておいたりするんです。

読者は、何も、その本を読んだからって、

著者に依存して生きているわけじゃない。

山之内氏の「入門」と羽入本の両方を読んだ読者が、

「いったいどうなっているのか」と戸惑い、

「入門」を読んだ努力が無駄になってしまうと狼狽えている‥‥。

そんな馬鹿げたことを折原さんという人が考えているとすれば、

それこそ思い上がりというものでしょう。

仮に、仮にですよ、

そんな愚かな読者がいるとすれば、

それはその著者の力量に見合っているということでしょう。

少なくとも私は、羽入氏の芸も楽しんだし、

お陰で「倫理論考」を読み通すこともできた。

「あ、もしかしたら、これ、専門家同士が大騒ぎしてるかもしれないな」

と思ってインターネットを検索して貴兄のHPにたどりつき、

貴兄の研究業績と写真に接することもできた(笑)

おまけに私は、このサイトで名前を知った折原さんの、

『ヴェーバー学のすすめ』もさっそく注文したんです。

本当にメデタシ、メデタシじゃないですか(笑)

折原さんも、雀部さんも、かなりご高齢のようで、

それだけ長い間一心に研究してこられたのでしょうから、

お気持ちもわからないことはないのですが、

でも、もう少しご自分の仕事と読者を信頼し、

どっしりと構えられてもいいのではないかと思います。

羽入本一冊で、世界が変わるわけではありません。

というと、今度は羽入氏がガックリされるかもしれませんが(笑)

折原さんや雀部さんが、早く枝葉の議論から離れ、

貴重な時間を本来の研究に使われることを願っております。

突然のメールで長々と、失礼いたしました。


LINK: 高根図書設計

「折原さんの一ファン」という高根様からメールを頂きました。HPの「日記」コーナーで本論争が取り上げられています。2004年3月9日


折原浩氏講演会の案内および資料

2004年3月4日の講演会

折原浩氏講演会の案内および資料

2004年3月4日

1.未來社からのご案内

「学問の未来――羽入書問題をめぐって」

時:2004年3月4日(木)午後7時~

所:岩波ブックセンター・信山社3階 岩波セミナールーム

〒101-0051 千代田区神田神保町2-3

tel 03-3263-6601 fax 03-3265-5227

要電話予約(予約は岩波ブックセンター03-3263-6601へ)・先着100名・入場無料

主催:未來社

「学問は、偶像崇拝と偶像破壊との同位対立をこえたところにある」(折原浩著『ヴェーバー学のすすめ』「結論」より)ヴェーバーの実存的危機のさなかから生まれた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』(マックス・ウェーバー著、梶山力訳/安藤英治編、未來社、1994年)を、その原問題設定に立ち戻り批判から擁護する、折原浩氏著『ヴェーバー学のすすめ』が刊行されました。本書は、ヴェーバー論でありながら、学問研究への厳密な意識と誠実な態度で知られ、また東大闘争の「造反教官」としても知られた折原氏ならではの「学問論」でもあります。『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(羽入辰郎著、ミネルヴァ書房、2002年)への徹底した反論を通して、大学院の粗製濫造といった現在の大学が抱える構造的要因などにも触れつつ、すべての研究者・大学院生・指導教官へ、現在の大学・学問のあり方についての問題提起ともなっています。その『ヴェーバー学のすすめ』の著者・折原浩氏の講演会です。どうぞふるってご参集ください。

2.当日配布された資料

「書物復権」連続ブックフェア(岩波ブックセンター信山社)関連企画/未來社主催

2004年3月4日

岩波セミナールームにて

折原浩講演レジュメ(付・引用資料集)

■学問の未来――羽入書問題をめぐって

折原浩(おりはら・ひろし)氏略歴

1935年、東京生まれ。

1958年、東京大学文学部社会学科卒業。

1964年、東京大学文学部助手。1966年、東京大学教養学部助教授。1986年、東京大学教養学部教授。

1996年、名古屋大学文学部教授。

1999年、椙山女学園大学人間関係学部教授。2002年同学部退職。

著書に『大学の頽廃の淵にて――東大闘争における一教師の歩み』(1969年、筑摩書房)

『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌』(1969年、未來社)

『人間の復権を求めて』(1971年、中央公論社)

『マックス・ウェーバー基礎研究序説』(1988年、未來社)

『ヴェーバー「経済と社会」の再構成――トルソの頭』(1996年、東京大学出版会)

『ヴェーバーとともに40年――社会科学の古典を学ぶ』(1996年、弘文堂)

『「経済と社会」再構成論の新展開――ヴェーバー研究の非神話化と「全集」版のゆくえ』(共著、2000年、未來社)

『ヴェーバー学のすすめ』(2003年、未來社)


はじめに――「羽入書問題」とは?

 羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知

  的誠実性」の崩壊』、2002年9月、ミネルヴァ書房刊(以下、羽入書)

 折原浩書評「四擬似問題でひとり相撲」(東京大学経済学会編『季刊経済学論集』第69 巻第1号、2003年4月、77-82ページ)、

 折原浩著『ヴェーバー学のすすめ』、2003年11月、未來社刊

羽入書そのもの(と、その動機/背景)の問題 → §§1,2

羽入書への対応側の問題(ヴェーバー研究者の対応、「山本七平賞」授賞)→ §§3,4

 「専門的業績」にたいする「専門」の責任/社会的責任(説明責任)に関連して:

§1.羽入書そのものの問題――例示として「第二章 "Beruf"-概念をめぐる資料操作―― 

  ルター聖書の原典ではなかった」(他の三章については『ヴェーバー学のすすめ』第二章、参照)

1.羽入の「問題」設定(=「擬似問題」の持ち込み)

2.「倫理」論文第一章「問題提起」第二節「資本主義の『精神』」の内容構成

「倫理」論文全体の構成:第一章問題提起」(第一節「信仰と社会層」、第二節「資本主義の『精神』」、第三節ルターの職業観」)計66ページ;第二章(本論)「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」(第一節「世俗内禁欲の宗教的基盤」、第二節「禁欲と資本主義精神」)計122ページ。こうした全体の内容構成については、折原浩「『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」(『未来』、2004年3月号)参照。 

 第一章第二節:①方法論上の覚書――②暫定的例示のため、フランクリン文書から抜粋(「時は金なり」、「信用は金なり」)――③要約「自分の財産[改訂稿では資本]を増加させることへの利害関心が自己目的であるという前提のうえに立って、各人をそうした利害関心に向けて義務づける思想der Gedanke der Verpflichtungdes einzelnen gegenüber dem als Selbstzweck vorausgesetzten Interesse an der Vergrößerung seines Kapitals」(GAzRS, I, S. 33, 梶山力訳/安藤英治編『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の≪精神≫』)、第二刷、1998、未來社、91ページ、改訳)――④ヤーコプ・フッガーとの比較――⑤功利主義への転移傾向と、貨殖要請の「非合理的」超絶性。後者の背景/一定の宗教的観念との関連を示唆するものとして『箴言』22: 29(新共同訳「技に熟練している人を観察せよ。彼は王侯に仕え 怪しげな者に仕えることはない。」)を引用。この引用にヴェーバーの注記:「ルッター訳では≫in seinem Geschäft≪(その仕事に)とあり、旧英訳聖書では≪business≫とある。尚おこの点については後述する(→本稿134頁⑴参照[S. darüber S. 63 Anm. 1.]。)――⑥この「資本主義の『精神』」の歴史的「文化意義」を、「伝統主義」との比較によって確認 

3.「倫理」論文第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」冒頭注記にたいする羽入の「問題」設定

4.「倫理」論文第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」冒頭注記の関連論点

§2. 羽入書に表白された執筆動機ならびにその構造的背景の問題

  折原浩「虚説捏造と検証回避は考古学界だけか――『藤村事件』と『羽入事件』にかんする状況論的、半ば知識社会学的一問題提起」(未発表)

§3. 羽入書にたいするヴェーバー研究者の対応と、「専門家」の責任/社会的責任

  折原浩「学者の品位と責任――『歴史における個人の役割』再考」(『未来』2004年1月号、

 http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hashimoto/に再録);雀部幸隆「山之内靖氏の『応答』についてひとこと」(上記HP);折原浩「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答1(森川剛光氏と山之内靖氏への応答)」(上記HP);折原浩「大学院教育の実態と責任」(未発表)

§4.羽入書の「山本七平賞」受賞と「非専門家・選考委員」の責任

  非専門家の無責任と専門家の無責任との相乗作用による虚像形成

オルテガ・イ・ガセが専門科学者を「野蛮な大衆人Massenmensch」と見る根拠(要旨):「狭い専門領域でわずかな業績を挙げただけなのに(そうした限界の自覚、したがってそうした限界をたえず乗り越えようとするスタンスを持たず、むしろ)なにか自分が『権威』『大御所』になったかのように思い込み、皆目分からないか一知半解な、他の領域についても、その道の専門家筋の意見を聞かず、傲慢不遜にふるまう」(Ortega-y-Gasset, Jose, Der Aufstand der Massen, 1930, Gesammelte Werke,Ⅲ, 1956,S. 90-1)。

雀部幸隆「学者の良心と学問の作法について――羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの

 犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(ミネルヴァ

 書房、2002年)の第12回山本七平賞受賞に想うこと」(『図書新聞』、2004年2月14/21日号、上記HPに再録);折原浩「学問論争をめぐる現状況――全国の研究者、読書家、学生/院生の皆さんへ」(上記HP)

むすび

羽入書そのものの問題、およびそこから探り出されてくる諸問題

「『専門家』による『専門的業績』」を衒った耳目聳動的虚説捏造

基調としての「抽象的情熱」「偶像崇拝と同位対立の関係にある偶像破壊」

その構造的背景:現代大衆教育社会における大学院の粗製濫造/「大学院大学」化、高学歴層におけるルサンチマン/破壊衝動の鬱積、「挫折秀才の逆恨み」問題

羽入書にたいする対応の問題、およびそこから予想される学問の未来

ヴェーバー研究者(=「専門家」)による責任(研究指導/論文査読、批判的検証/相互検証/論争)の回避;『マックス・ヴェーバー入門』の著者による社会的責任(『入門』読者にたいする「説明責任accountability」)の回避

こうした「専門家」の無責任につけこむ「非専門家」(オルテガの意味における「大衆人」的「著名人」「学識権威」、たとえば養老孟司、加藤寛、山折哲雄ら「山本七平賞」選考委員)の無責任な賞揚による虚像形成と、その影響

自由は、対極間(多極間)の狭間にある。どうして人は、一極に身を寄せたがるのか。

■引用資料集

引用1「実際に価値あり完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門的になしとげられたものeine spezialistische Leistungばかりである。それゆえ、いわばみずから遮眼帯を着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。」(GAzWL, 7. Aufl., 1988, Tübingen, S. 588-9, 尾高邦雄訳『職業としての学問』、第68刷、1993、岩波書店、22ページ、ただし、尾高訳は、spezialistischを「専門家的fachmännisch」と訳出。引用文中の強調も含め下線による強調は引用者以下同様

引用2「フランクリンの『自伝』に引用されていた『箴言』22: 29の一節から"Beruf"という語を引き出し、そしてさらにはただこの"Beruf"という語の語源をたどることのみによって直接ルターへと遡る部分、この部分こそが『倫理』論文の全論証にとっての要をなす、………この部分の論証には、一つのアポリアが隠されている………。」(『羽入書』、68ページ。以下、ノンブルのみ記す。強調は引用者)

引用3「………ヴェーバーは、『箴言』22: 29のその箇所においてルターが"Beruf"という訳語を使ってはいなかった["Geschäft"で通した――引用者]にもかかわらず、フランクリンの用いた"Calling"という表現からルターの"Beruf"という訳語へと、『倫理』論文中において飛び移らねばならぬ、ということになる。

  …ヴェーバーはもちろん、この事態が自らの論証にとって致命的となりかねぬことを良く知悉していた。彼はフランクリンの『自伝』からの引用部分に次のような短い注を付し、読者に対しこのアポリアを後ほど解くことを約束した。………ここで予告されている注こそが、"Beruf"に関するあの[第一章第三節冒頭の]有名な注である。」(69)

引用4「このアポリアを回避するためにこそ、妻マリアンネをして嘆かせたあの長大

な『脚注の腫瘍…』………は書かれたのである。」(71)

引用5「ここでのヴェーバーの主張をまとめてしまえば次のようになろう。ルターは、本来は『純粋に宗教的な概念』だけに用いられるはずであった"Beruf"という訳語を『ベン・シラの知恵』11: 20, 21における二つのギリシャ語ergonとponosとを訳す際にも、この二つのギリシャ語は純粋に世俗的な意味しか含んでいなかったにもかかわらず、用いてしまった。言い換えるならばルターは、元来は『世俗的職業』という意味しか含んでいなかったギリシャ語ergonとponosに対して、奇妙なことにも、純粋に宗教的な概念だけに普通は用いられるはずだった訳語"Beruf"をすっぽりとかぶせてしまったのである。『世俗的職業』の意味しか持たぬ語に純粋に宗教的な概念のみに用いられてきた訳語をかぶせてしまったこと、こうしたルターのこの言わば意訳から、宗教的観念ばかりか『世俗的職業』という意味をも含み入れた、あのプロテスタンティズムに特有の"Beruf"という表現が生まれたのであり、そして正にこれこそがルターの創造であったのである、と。」(72)

引用6「………一方では前者『箴言』22: 29は『倫理』論文の全論証の構成にとって極めて重要な箇所であるにもかかわらず、そして他方では、後者[『ベン・シラの知恵』11: 20, 21]における"Beruf"という訳はそれに比すれば、双方の勧告が『事柄として似ていた』がためのルターの思い違いから生じた言わば単なる誤訳不適訳あるいは少なくとも余りにも自由な意訳とみなすべきようなものであるに過ぎぬにもかかわらず、なにがゆえに前者をあっさりと無視して後者を格別に重んずることがヴェーバーには許されるのか、………」(75)

引用7「ルターは、『コリントⅠ』7:20における勧告と『ベン・シラの知恵』11:21における勧告との双方のに勧告における事柄としての類似性に影響されたために、前者の勧告コリントⅠ7: 20において"Beruf"という訳語を自身が用いたことに引きずられ、ルターは後者の勧告『ベン・シラの知恵』11: 21においても、元来は宗教的観念を全く含んではいなかったギリシャ語"ponos"をも、『コリントⅠ』7:20におけると同様"Beruf"と訳すに至った。それは同時に、ルター個人の『神の全き特殊な摂理へのますます精緻化されてきた信仰』に影響された結果でもあった。

 ………『神の普遍の意志によって望まれたものとして世俗の秩序を甘んじて受け入れようとする……彼の傾向』が、後に外典を翻訳した時期ほどにはまだ高まっていなかった数年前の時期に翻訳された箴言』においては、したがってルターは訳語として"Beruf"ではなく"Geschäft"を選んだ。

したがって、ルターの用語法の研究に際して、『箴言』22: 29における"Geschäft"という訳語を考慮にいれる必要はないのである。」(76-7)

引用8「ルッターは、一見全く異れるニ種の概念を、≫Beruf≪の語で翻訳している。第一は、パウロのklēsisで、神によって永遠の救いに召される意である。コリント前書1:26、エペソ1:18、4:1および4、テサロニケ後書1:11、ヘブル3:1、ペテロ後書1:10等はこれである。この場合の観念は純粋に宗教的であって、使徒の宣布せる福音を通して神の与え給うた招聘を指すものに過ぎず、このklēsis の観念は、今日の意味における世俗的な『職業』とは些しも関係がない。………――第二に、ルターは、………イエス・シラクの句として七十人訳には、en to ergo sou palaiotheti及びkai emmene to pono souとある個所を汝の労働に止まれbleibe bei deiner Arbeitとする代わりに、汝の職業に止まれbleibe in deinem Beruf及び汝の職業を離れるなbeharre in deinem Berufと翻訳し[た]。………ルッターのこのシラク書の翻訳は、私の知れる限りでは、ドイツ語の≫Beruf≪の語が全く今日の、純粋に世俗的な意味で用いられた最初の場合である。」(GAzRS,Ⅰ,66、梶山訳/安藤編、139-40ページ)

引用9「私の知り得た限り、Berufではないが、Rufの語が(klēsis の翻訳として)世俗的労働の意味で使用されている最初の文章は、エペソ書四章に関するタウレルの美しい説教『[肥料を施しに行く]農民について』(Basler. Ausg. f. 117 V.)に見られる。曰く、『農民が忠実に自らのRuffに励むならば、自己のRufをなおざりにする僧侶達より、その生活は一層善良である。』この語は、こうした意味では、通俗的(非宗教的)用語とはならなかった。ルッターは、最初のうちRufとBerufとを混用している(Werke, Erl. Ausg. 51, S. 51参照)のみならず、彼の『キリスト者の自由』その他には、タウレルの右の説教と同じ観念が屡々見られるとはいえ、この点についてタウレルの直接的影響は決して明白ではないUnd trotzdem Luthers Sprachgebrauch anfangs (s. Werke, Erl. Ausg. 51, S. 51) zwischen ≫Ruf≪ und ≫Beruf≪ schwankt, eine direkte Beeinflussung durch Tauler durchaus nicht sicher, obwohl manche Anklänge gerade an diese Predigt Taulers sich z. B. in der ≫Freiheit eines Christenmenschen≪ finden.。というのは、ルッターは最初にはzunächst、タウレルの右の句のようにこの語を純粋に世俗的な意味では用いていないからである。」(GAzRS,Ⅰ,66-7、梶山訳/安藤編、140-1)

引用10「かようにルッターの用いたBerufなる語の、一見全く異れる二種の用法に、連絡を与えるdie Brücke zwischen……schlagenものは、コリント前書の中の章句と、その翻訳die Stelle im ersten Korintherbrief und ihre Uebersetzungである。

ルッター訳聖書(現在の一般的な版に従えばbei Luther (in den üblichen modernen Ausgaben)、この句を中心とする前後関係は、左[下記]の如くである(コリント前書第七章[17~31節])。」(GAzRS,Ⅰ,67、梶山訳/安藤編、141-2)

引用11「然るにルッターは、各自その現在の身分に止まれとの終末観に基づく勧告に関してklēsis を≫Beruf≪と翻訳した後旧約外典を翻訳するに当たって[翻訳していたが、その後旧約外典を翻訳するにあたっては]各自その職業に止まるを可とするとの、イエス・シラクの伝統主義的反貨殖主義に基づく勧告に関しても、単に両者の実質的類似のみから[すでに事柄として似ていたので]、ponosを≫Beruf≪と翻訳したのであるAber Luther, der in der eschatologisch motivierten Mahnung, daß jeder in seinem gegenwärtigen Stande bleiben sollte, klesis mit Beruf übersetzt hatte, hat dann, als er später die Apokryphen übersetzte, in dem traditionalistisch und antichrematistisch motivierten Rat des Jesus Sirach, daß jeder bei seiner Hantierung bleiben möge, schon wegen der s a c h- l i c h e n Aehnlichkeit des Ratschlages ponos ebenfalls mit Beruf übersetzt.。(これこそ重要な、注目すべき点である。前述の如く、コリント前書7:17のklēsis は、今日の意味の『職業』を指すものでは決してない。)その間(或いはほぼ同時)に1530年のアウグスブルク信仰告白は、カトリック教徒による世俗内道徳の軽視の無効に関する、プロテスタンティズムの教理を確定すると共に、『各人はその職業に応じて』 einem jeglichen nach seinem Beruf の語を用いていた。このこと、及び恰も30年代の初葉、日常生活への神の摂理に対するルッターの信仰の深化すると共に、各人を支配する秩序を益々神聖視するに至ったこと、なおまた世俗的秩序を神の意志によるものとして、これを認受しようとする彼の態度が益々著しくなったことなどが、右のルッターの翻訳に現れたのである。≫Vokatio≪は、ラテン語の慣用語法では潔い生活への、とりわけ修道院におけるあるいは聖職者としての潔い生活への神の召命として用いられた。ルッターの場合には、かの教義の圧力によって、世俗内部における≫職業≪労働がそういう色調を帯びるようになったのである。なぜならば、ここでルッターはイエス・シラクにおけるponosとergonを≫Beruf≪と訳しているが、…… 数年前まではまだソロモンの箴言22:29のヘブライ語melākhāを、すなわち疑いもなくイエス・シラクのギリシャ語テキストにあるergonの語源であり、語幹l'kh=送る、贈る、すなわち『贈物』から導かれたものでもあり、そして、ドイツ語のBerufや北欧のKald, Kallelse同様、――とりわけ聖職者の≫Beruf≪に発するこの言葉を、その他の箇所(創世記39:11)同様に ≫geschäft≪と訳していたのだから。(七十人訳では、ergon、ヴルガータではopus、英訳[諸]聖書ではbusinessであり、手許にある北欧やその他あらゆる翻訳は一致している)。……かくしてルッターの造出した≫Beruf≪の語の今日の意味は、最初は単にルッター派の間のみに限られていた。カルヴィニストは旧約外典を聖典外のものと考えていた。彼らがルッターの職業の観念Berufs-Begriffを承認し、これを強調するに至ったのは、いわゆる『確かさ』(確証―編者)の問題が重要視されるに至ったあの発展の結果としてであった。彼らの最初の(ロマン語系の)翻訳では、この観念を示すは用いられず、且つまた既に定型化(stereotypiert)されていた国語中にこれを慣用語とすることは出来なかった。」(GAzRS,Ⅰ,68、梶山訳/安藤編、143-5)

引用12「ルターは、1522年の教会説教で、初めてBerufを、それまでの[聖職への]招聘Berufungの意味に代え、身分Stand、職務Amt、ないし命令Befehl(今日の『業務命令』を考えればよい)と同義に用いた。もとより、語義を詮索せず恣意的に変更したのではない。というのも、ルターは、まさにこの説教において同時に、全キリスト者は、およそ特定の身分に属するかぎり、当の身分に召し出されていると感得できる、との思想を詳細に述べているからである。身分がかれに課す義務は、神自身がかれに向ける命令である。"Beruf"という[前綴be-によって]強められた語は、こうした語義を、たんなる"Ruf"に比べて、ことにこの"Ruf"が使い古されて宗教的意味内容を失ったばあいに比べて、いくらか強く表現した。しかしながら、それ以降はもっぱら自分の導入した用語法にしたがうというのは、ルターの流儀ではなかった。かれは、そうした用語法とならんで、相変わらずBerufをBerufungの意味で用いたり、Berufの代わりに"Ruf"とか"Orden"とか、いったりしている。」(Holl, Karl, Die Geschichte des Worts Beruf, 1924, Gesammelte Aufsätze zur Kirchengeschichte Ⅲ, 1928, Tübingen, S. 217-8)


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2004/3/4 岩波セミナールーム

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3.折原浩氏が準備した資料(配布資料は以下の文面を再構成したものです)

「書物復権」/連続ブックフェア 第二段企画/未来社主催 講演会 3月4日 折原浩

学問の未来――羽入書問題をめぐって

はじめに――「羽入書問題」とは?

 羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知

  的誠実性」の崩壊』、2002年9月、ミネルヴァ書房(以下、羽入書)

 拙稿書評「四擬似問題でひとり相撲」(東京大学経済学会編『季刊経済学論集』第69 巻

  第1号、2003年4月、77-82ページ)、

 拙著『ヴェーバー学のすすめ』、2003年11月、未来社

羽入書そのもの(と、その動機/背景)の問題 → §§1,2

羽入書への対応側の問題(ヴェーバー研究者の対応、「山本七平賞」授賞)→ §§3,4

 「専門的業績」にたいする「専門」の責任/社会的責任(説明責任)に関連して:

 引用1「実際に価値あり完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門的になしとげられたものeine spezialistische Leistungばかりである。それゆえ、いわばみずから遮眼帯を着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。」(GAzWL, 7. Aufl., 1988, Tübingen, S. 588-9, 尾高邦雄訳『職業としての学問』、第68刷、1993、岩波書店、22ページ、ただし、尾高訳は、spezialistischを「専門家的fachmännisch」と訳出。引用文中の強調も含め下線による強調は引用者以下同様

§1.羽入書そのものの問題――例示として「第二章 "Beruf"-概念をめぐる資料操作―― 

  ルター聖書の原典ではなかった」(他の三章については拙著第二章、参照)

1.羽入の「問題」設定(=「擬似問題」の持ち込み)

 引用2「フランクリンの『自伝』に引用されていた『箴言』22: 29の一節から"Beruf"という語を引き出し、そしてさらにはただこの"Beruf"という語の語源をたどることのみによって直接ルターへと遡る部分、この部分こそが『倫理』論文の全論証にとっての要をなす、………この部分の論証には、一つのアポリアが隠されている………。」(『羽入書』、68ページ。以下、ノンブルのみ記す。強調は引用者)

 引用3「………ヴェーバーは、『箴言』22: 29のその箇所においてルターが"Beruf"という訳語を使ってはいなかった["Geschäft"で通した――引用者]にもかかわらず、フランクリンの用いた"Calling"という表現からルターの"Beruf"という訳語へと、『倫理』論文中において飛び移らねばならぬ、ということになる。

  …ヴェーバーはもちろん、この事態が自らの論証にとって致命的となりかねぬことを良く知悉していた。彼はフランクリンの『自伝』からの引用部分に次のような短い注を付し、読者に対しこのアポリアを後ほど解くことを約束した。………ここで予告されている注こそが、"Beruf"に関するあの[第一章第三節冒頭の]有名な注である。」(69)

引用4「このアポリアを回避するためにこそ、妻マリアンネをして嘆かせたあの長大

 な『脚注の腫瘍…』………は書かれたのである。」(71)

2.「倫理」論文第一章「問題提起」第二節「資本主義の『精神』」の内容構成

「倫理」論文全体の構成:第一章問題提起」(第一節「信仰と社会層」、第二節「資本主義の『精神』」、第三節ルターの職業観」)計66ページ;第二章(本論)「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」(第一節「世俗内禁欲の宗教的基盤」、第二節「禁欲と資本主義精神」)計122ページ。こうした全体の内容構成については、拙稿「『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」(『未来』、2004年3月号)参照。 

 第一章第ニ節:①方法論上の覚書――②暫定的例示のため、フランクリン二文書から抜粋(「時は金なり」、「信用は金なり」)――③要約「自分の財産[改訂稿では資本]を増加させることへの利害関心が自己目的であるという前提のうえに立って、各人をそうした利害関心に向けて義務づける思想der Gedanke der Verpflichtungdes einzelnen gegenüber dem als Selbstzweck vorausgesetzten Interesse an der Vergrößerung seines Kapitals」(GAzRS, I, S. 33, 梶山力訳/安藤英治編『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の≪精神≫』、第二刷、1998、未来社、91ページ、改訳)――④ヤーコプ・フッガーとの比較――⑤功利主義への転移傾向と、貨殖要請の「非合理的」超絶性。後者の背景/一定の宗教的観念との関連を示唆するものとして『箴言』22: 29(新共同訳「技に熟練している人を観察せよ。彼は王侯に仕え 怪しげな者に仕えることはない。」)を引用。この引用にヴェーバーの注記:「ルッター訳では≫in seinem Geschäft≪(その仕事に)とあり、旧英訳聖書では≪business≫とある。尚おこの点については後述する(→本稿134頁⑴参照[S. darüber S. 63 Anm. 1.]。)――⑥この「資本主義の『精神』」の歴史的「文化意義」を、「伝統主義」との比較によって確認 

3.「倫理」論文第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」冒頭注記にたいする羽入の「問題」設定

 引用5「ここでのヴェーバーの主張をまとめてしまえば次のようになろう。ルターは、本来は『純粋に宗教的な概念』だけに用いられるはずであった"Beruf"という訳語を『ベン・シラの知恵』11: 20, 21における二つのギリシャ語ergonとponosとを訳す際にも、この二つのギリシャ語は純粋に世俗的な意味しか含んでいなかったにもかかわらず、用いてしまった。言い換えるならばルターは、元来は『世俗的職業』という意味しか含んでいなかったギリシャ語ergonとponosに対して、奇妙なことにも、純粋に宗教的な概念だけに普通は用いられるはずだった訳語"Beruf"をすっぽりとかぶせてしまったのである。『世俗的職業』の意味しか持たぬ語に純粋に宗教的な概念のみに用いられてきた訳語をかぶせてしまったこと、こうしたルターのこの言わば意訳から、宗教的観念ばかりか『世俗的職業』という意味をも含み入れた、あのプロテスタンティズムに特有の"Beruf"という表現が生まれたのであり、そして正にこれこそがルターの創造であったのである、と。」(72)

引用6「………一方では前者『箴言』22: 29は『倫理』論文の全論証の構成にとって極めて重要な箇所であるにもかかわらず、そして他方では、後者[『ベン・シラの知恵』11: 20, 21]における"Beruf"という訳はそれに比すれば、双方の勧告が『事柄として似ていた』がためのルターの思い違いから生じた言わば単なる誤訳不適訳あるいは少なくとも余りにも自由な意訳とみなすべきようなものであるに過ぎぬにもかかわらず、なにがゆえに前者をあっさりと無視して後者を格別に重んずることがヴェーバーには許されるのか、………」(75)

 引用7「ルターは、『コリントⅠ』7:20における勧告と『ベン・シラの知恵』11:21における勧告との双方のに勧告における事柄としての類似性に影響されたために、前者の勧告コリントⅠ7: 20において"Beruf"という訳語を自身が用いたことに引きずられ、ルターは後者の勧告『ベン・シラの知恵』11: 21においても、元来は宗教的観念を全く含んではいなかったギリシャ語"ponos"をも、『コリントⅠ』7:20におけると同様"Beruf"と訳すに至った。それは同時に、ルター個人の『神の全き特殊な摂理へのますます精緻化されてきた信仰』に影響された結果でもあった。

 ………『神の普遍の意志によって望まれたものとして世俗の秩序を甘んじて受け入れようとする……彼の傾向』が、後に外典を翻訳した時期ほどにはまだ高まっていなかった数年前の時期に翻訳された箴言』においては、したがってルターは訳語として"Beruf"ではなく"Geschäft"を選んだ。

 …したがって、ルターの用語法の研究に際して、『箴言』22: 29における"Geschäft"という訳語を考慮にいれる必要はないのである。」(76-7)

4.「倫理」論文第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」冒頭注記の関連論点

 引用8「ルッターは、一見全く異れるニ種の概念を、≫Beruf≪の語で翻訳している。第一は、パウロのklēsisで、神によって永遠の救いに召される意である。コリント前書1:26、エペソ1:18、4:1および4、テサロニケ後書1:11、ヘブル3:1、ペテロ後書1:10等はこれである。この場合の観念は純粋に宗教的であって、使徒の宣布せる福音を通して神の与え給うた招聘を指すものに過ぎず、このklēsis の観念は、今日の意味における世俗的な『職業』とは些しも関係がない。………――第二に、ルターは、………イエス・シラクの句として七十人訳には、en to ergo sou palaiotheti及びkai emmene to pono souとある個所を汝の労働に止まれbleibe bei deiner Arbeitとする代わりに、汝の職業に止まれbleibe in deinem Beruf及び汝の職業を離れるなbeharre in deinem Berufと翻訳し[た]。………ルッターのこのシラク書の翻訳は、私の知れる限りでは、ドイツ語の≫Beruf≪の語が全く今日の、純粋に世俗的な意味で用いられた最初の場合である。」(GAzRS,Ⅰ,66、梶山訳/安藤編、139-40ページ)

 引用9「私の知り得た限り、Berufではないが、Rufの語が(klēsis の翻訳として)世俗的労働の意味で使用されている最初の文章は、エペソ書四章に関するタウレルの美しい説教『[肥料を施しに行く]農民について』(Basler. Ausg. f. 117 V.)に見られる。曰く、『農民が忠実に自らのRuffに励むならば、自己のRufをなおざりにする僧侶達より、その生活は一層善良である。』この語は、こうした意味では、通俗的(非宗教的)用語とはならなかった。ルッターは、最初のうちRufとBerufとを混用している(Werke, Erl. Ausg. 51, S. 51参照)のみならず、彼の『キリスト者の自由』その他には、タウレルの右の説教と同じ観念が屡々見られるとはいえ、この点についてタウレルの直接的影響は決して明白ではないUnd trotzdem Luthers Sprachgebrauch anfangs (s. Werke, Erl. Ausg. 51, S. 51) zwischen ≫Ruf≪ und ≫Beruf≪ schwankt, eine direkte Beeinflussung durch Tauler durchaus nicht sicher, obwohl manche Anklänge gerade an diese Predigt Taulers sich z. B. in der ≫Freiheit eines Christenmenschen≪ finden.。というのは、ルッターは最初にはzunächst、タウレルの右の句のようにこの語を純粋に世俗的な意味では用いていないからである。」(GAzRS,Ⅰ,66-7、梶山訳/安藤編、140-1)

引用10「かようにルッターの用いたBerufなる語の、一見全く異れる二種の用法に、連絡を与えるdie Brücke zwischen……schlagenものは、コリント前書の中の章句と、その翻訳die Stelle im ersten Korintherbrief und ihre Uebersetzungである。

  ルッター訳聖書(現在の一般的な版に従えばbei Luther (in den üblichen modernen Ausgaben)、この句を中心とする前後関係は、左[下記]の如くである(コリント前書第七章[17~31節])。」(GAzRS,Ⅰ,67、梶山訳/安藤編、141-2)

引用11「然るにルッターは、各自その現在の身分に止まれとの終末観に基づく勧告に関してklēsis を≫Beruf≪と翻訳した後旧約外典を翻訳するに当たって[翻訳していたが、その後旧約外典を翻訳するにあたっては]各自その職業に止まるを可とするとの、イエス・シラクの伝統主義的反貨殖主義に基づく勧告に関しても、単に両者の実質的類似のみから[すでに事柄として似ていたので]、ponosを≫Beruf≪と翻訳したのであるAber Luther, der in der eschatologisch motivierten Mahnung, daß jeder in seinem gegenwärtigen Stande bleiben sollte, klesis mit Beruf übersetzt hatte, hat dann, als er später die Apokryphen übersetzte, in dem traditionalistisch und antichrematistisch motivierten Rat des Jesus Sirach, daß jeder bei seiner Hantierung bleiben möge, schon wegen der s a c h- l i c h e n Aehnlichkeit des Ratschlages ponos ebenfalls mit Beruf übersetzt.。(これこそ重要な、注目すべき点である。前述の如く、コリント前書7:17のklēsis は、今日の意味の『職業』を指すものでは決してない。)その間(或いはほぼ同時)に1530年のアウグスブルク信仰告白は、カトリック教徒による世俗内道徳の軽視の無効に関する、プロテスタンティズムの教理を確定すると共に、『各人はその職業に応じて』 einem jeglichen nach seinem Beruf の語を用いていた。このこと、及び恰も30年代の初葉、日常生活への神の摂理に対するルッターの信仰の深化すると共に、各人を支配する秩序を益々神聖視するに至ったこと、なおまた世俗的秩序を神の意志によるものとして、これを認受しようとする彼の態度が益々著しくなったことなどが、右のルッターの翻訳に現れたのである。≫Vokatio≪は、ラテン語の慣用語法では潔い生活への、とりわけ修道院におけるあるいは聖職者としての潔い生活への神の召命として用いられた。ルッターの場合には、かの教義の圧力によって、世俗内部における≫職業≪労働がそういう色調を帯びるようになったのである。なぜならば、ここでルッターはイエス・シラクにおけるponosとergonを≫Beruf≪と訳しているが、…… 数年前まではまだソロモンの箴言22:29のヘブライ語melākhāを、すなわち疑いもなくイエス・シラクのギリシャ語テキストにあるergonの語源であり、語幹l'kh=送る、贈る、すなわち『贈物』から導かれたものでもあり、そして、ドイツ語のBerufや北欧のKald, Kallelse同様、――とりわけ聖職者の≫Beruf≪に発するこの言葉を、その他の箇所(創世記39:11)同様に ≫geschäft≪と訳していたのだから。(七十人訳では、ergon、ヴルガータではopus、英訳[諸]聖書ではbusinessであり、手許にある北欧やその他あらゆる翻訳は一致している)。……かくしてルッターの造出した≫Beruf≪の語の今日の意味は、最初は単にルッター派の間のみに限られていた。カルヴィニストは旧約外典を聖典外のものと考えていた。彼らがルッターの職業の観念Berufs-Begriffを承認し、これを強調するに至ったのは、いわゆる『確かさ』(確証―編者)の問題が重要視されるに至ったあの発展の結果としてであった。彼らの最初の(ロマン語系の)翻訳では、この観念を示すは用いられず、且つまた既に定型化(stereotypiert)されていた国語中にこれを慣用語とすることは出来なかった。」(GAzRS,Ⅰ,68、梶山訳/安藤編、143-5)

  引用12「ルターは、1522年の教会説教で、初めてBerufを、それまでの[聖職への]招聘Berufungの意味に代え、身分Stand、職務Amt、ないし命令Befehl(今日の『業務命令』を考えればよい)と同義に用いた。もとより、語義を詮索せず恣意的に変更したのではない。というのも、ルターは、まさにこの説教において同時に、全キリスト者は、およそ特定の身分に属するかぎり、当の身分に召し出されていると感得できる、との思想を詳細に述べているからである。身分がかれに課す義務は、神自身がかれに向ける命令である。"Beruf"という[前綴be-によって]強められた語は、こうした語義を、たんなる"Ruf"に比べて、ことにこの"Ruf"が使い古されて宗教的意味内容を失ったばあいに比べて、いくらか強く表現した。しかしながら、それ以降はもっぱら自分の導入した用語法にしたがうというのは、ルターの流儀ではなかった。かれは、そうした用語法とならんで、相変わらずBerufをBerufungの意味で用いたり、Berufの代わりに"Ruf"とか"Orden"とか、いったりしている。」(Holl, Karl, Die Geschichte des Worts Beruf, 1924, Gesammelte Aufsätze zur Kirchengeschichte Ⅲ, 1928, Tübingen, S. 217-8)

§2. 羽入書に表白された執筆動機ならびにその構造的背景の問題

  拙稿「虚説捏造と検証回避は考古学界だけか――『藤村事件』と『羽入事件』にかんする状況論的、半ば知識社会学的一問題提起」(未発表)

§3. 羽入書にたいするヴェーバー研究者の対応と、「専門家」の責任/社会的責任

  拙稿「学者の品位と責任――『歴史における個人の役割』再考」(『未来』2004年1月号、

   http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hashimoto/に再録);雀部幸隆「山之内靖氏の『応答』についてひとこと」(上記HP);拙稿「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答1(森川剛光氏と山之内靖氏への応答)」(上記HP);拙稿「大学院教育の実態と責任」(未発表)

§4.羽入書の「山本七平賞」受賞と「非専門家・選考委員」の責任

  非専門家の無責任と専門家の無責任との相乗作用による虚像形成

  オルテガ・イ・ガセが専門科学者を「野蛮な大衆人Massenmensch」と見る根拠(要旨):「狭い専門領域でわずかな業績を挙げただけなのに(そうした限界の自覚、したがってそうした限界をたえず乗り越えようとするスタンスを持たず、むしろ)なにか自分が『権威』『大御所』になったかのように思い込み、皆目分からないか一知半解な、他の領域についても、その道の専門家筋の意見を聞かず、傲慢不遜にふるまう」(Ortega-y-Gasset, Jose, Der Aufstand der Massen, 1930, Gesammelte Werke,Ⅲ, 1956,S. 90-1)。

雀部幸隆「学者の良心と学問の作法について――羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの

 犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(ミネルヴァ

 書房、2002年)の第12回山本七平賞受賞に想うこと」(『図書新聞』、2004年2月14/

21日号、上記HPに再録);拙稿「学問論争をめぐる現状況――全国の研究者、読書家、学生/院生の皆さんへ」(上記HP)

むすび

羽入書そのものの問題、およびそこから探り出されてくる諸問題

「『専門家』による『専門的業績』」を衒った耳目聳動的虚説捏造

基調としての「抽象的情熱」「偶像崇拝と同位対立の関係にある偶像破壊」

その構造的背景:現代大衆教育社会における大学院の粗製濫造/「大学院大学」化、高学歴層におけるルサンチマン/破壊衝動の鬱積、「挫折秀才の逆恨み」問題

羽入書にたいする対応の問題、およびそこから予想される学問の未来

ヴェーバー研究者(=「専門家」)による責任(研究指導/論文査読、批判的検証/相互検証/論争)の回避;『マックス・ヴェーバー入門』の著者による社会的責任(『入門』読者にたいする「説明責任accountability」)の回避

こうした「専門家」の無責任につけこむ「非専門家」(オルテガの意味における「大衆人」的「著名人」「学識権威」、たとえば養老孟司、加藤寛、山折哲雄ら「山本七平賞」選考委員)の無責任な賞揚による虚像形成と、その影響

自由は、対極間(多極間)の狭間にある。どうして人は、一極に身を寄せたがるのか。

折原浩「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答2」

2004年3月15日(本コーナーへの寄稿)

各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答2

折原浩

2004年3月15日

横田理博氏の寄稿にたいする応答

横田氏が、ご多忙のなか「所感」を寄せてくださったことに、一当事者として感謝します。ご趣旨はきわめて明快ですが、念のため、筆者のほうで六点に要約し、あるものには簡潔に、他のいくつかには筆者の側で敷衍して、応答を試みます(横田氏はご承知のことでも、このコーナーの公開性を考慮して補説するばあいがありますので、ご了承ください)。

[1]「倫理」論文は、「テーゼ」と「その例示」とからなる。「例示の仕方を間違え」ても、「骨組みとしてのテーゼ自体の間違いにはならない」。羽入書は、例示のみにかかわる"間違い捜し"で、「テーゼ」自体に達していないから、「テーゼ」を更新する「新たな歴史学的寄与」を含んではいない。それにもかかわらず「従来のヴェーバー研究を覆す大発見であるかのごとくアピール」するのは「不適切」である。

[2]羽入書は、「倫理」論文の「筋道」を「正確には提示」していない。そのため、当の「筋道」を知る読者は、羽入書に反発するだけで問題ともしないが、「筋道」を知らない読者ほど、羽入氏の論難する箇所が「倫理」論文自体にとっても重大と思い込み、全否定へと短絡する。羽入書への評価が、両極端に分かれるのは、そのためである。

[3]ヴェーバー著作は、古典としての評価が定着する一方、じっさいにはあまり読まれず、批判的な検証や展開もされなくなっている。その虚を衝いたのが羽入氏で、ヴェーバーが参照した資料に当たる地道な検証作業自体は尊重に値するが、「文脈の軽重をわきまえずに『犯罪』…告発」に走ったのは「軽率」であった。

[4]こうした状況で、横田氏自身は、いまでは忘れられているゾンバルトやシェーラーの「資本主義の精神」論(同時代の類例)と比較する手法を採用し、いまいちどヴェーバー・テーゼの批判的検証を企てたい。

[5]ヴェーバー研究の意味は、いくらもあろう"間違いを捜す"ことではなく、研究者の価値関心に照らし出されてくる「光っているもの」を引き出すことに求められる。そうした固有価値は、羽入氏が指摘するような「間違い」の有無にかかわらない。

[6]若手ヴェーバー研究者による羽入批判がなかったわけではなく、横田氏自身、(羽入書刊行前の)羽入論文「マックス・ヴェーバーの『魔術』からの解放――「倫理」論文における"Beruf"概念をめぐる資料操作について」(『思想』第885号、1998年3月号、72-111ページ)への批判を、要旨つぎのとおり、未発表論文に注記していた。ヴェーバー・テーゼにとっては、世俗的職業を神与の使命と捉える職業ないし職業倫理がルター/ルター派にあったという事実が重要で、この事実は、ルター訳『コリントⅠ』7: 20にBerufという訳語がなくとも覆らない。「観念(思想内容)が訳語の選択の仕方に表れうることは確かだが、訳語の不在が観念の不在を証明することにはならない」からである。

さて、筆者は、横田氏のこの「所感」が、羽入書にたいする内在批判として大筋で正しいばかりか、その後の展開――すなわち、羽入書への社会的対応が、片や大方のヴェーバー研究者による無視、片や「倫理」論文の「筋道」を知らない山折哲雄氏らによる絶賛/「山本七平賞」授賞というふうに二分されてくる展開――の根拠を、羽入書に内在する欠陥に即して的確に捉えている点で、簡潔ながら優れた批評をなしていると思います。ただ、このコーナーは、拙稿「インタルード」(本「コーナー」に掲載)でも述べたとおり、「政治的結集」ではなく「学問論争」の場ですから、「小異を捨てて大同に就く」のではなく、むしろ「小異」、つまり「大筋で」という留保にこだわって、これを拡大してみましょう。

まず[2]の「筋道」とは、羽入氏のいう「『倫理』論文の全論証構造」に当たるでしょう。確かに羽入氏は、当の「全論証構造」とはいかなるものか、「正確に」提示してはいません(そこで筆者は、『未来』3月号所収の論考「ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」で、当の「全論証構造」の全面的かつ具体的な再構成を試みました)。そこまでは、横田氏が控えめにいわれるとおりです。しかし、その先はどうでしょうか。羽入氏の叙述が「不正確」だったために、もっぱら読者が誤解」したのでしょうか。むしろ羽入氏は、「全論証構造」を把握していないばかりではなくさらにそのうえ、つぎのとおり、自分が問題とする「部分」をヴェーバーの「全論証にとっての要」と決めてかかり読者を誤導しているのではないでしょうか。

「フランクリンの『自伝』に引用されていた『箴言』22: 29の一節から"Beruf"という語を引き出し、そしてさらにはただこの"Beruf"という語の語源をたどることのみによって直接ルターへと遡る部分、この部分こそが『倫理』論文の全論証にとっての要をなす[?]、…この部分の論証には、一つのアポリアが隠されている[?]……。」(羽入書、68ページ、以下、ノンブルのみ記す。下線による強調と[ ]の挿入は、引用者。以下同様)

「……ヴェーバーは、『箴言』22: 29のその箇所においてルターが"Beruf"という訳語を使ってはいなかった["Geschäft"で通した]にもかかわらず、フランクリンの用いた"Calling"という表現からルターの"Beruf"という訳語へと、『倫理』論文中において飛び移らねばならぬ[なぜ?]……。……ヴェーバーはもちろん[?]、この事態が自らの論証にとって致命的となりかねぬことを良く知悉[?]していた。彼はフランクリンの『自伝』からの引用部分に次のような短い注を付し、読者に対しこのアポリアを後ほど解くことを約束[?]した。『「箴言」22・29。ルターは"in seinem Geschäft"と訳している。古い英訳聖書は"business"。これについては63頁・注1を参照せよ。………』ここで予告されている注こそが、"Beruf"に関するあの[「倫理」論文第一章第三節冒頭の]有名な注である。」(69)

このアポリアを回避するためにこそ[?]、妻マリアンネをして嘆かせたあの長大な『脚注の腫瘍』……は書かれたのである。」(71)

さて、横田氏はじめ、「倫理」論文を成心なく通読し、歴史を思い浮かべながら論旨の「筋道」をたどって考えた読者には、羽入氏によるこの一連の推断は、なんとも恣意的な「決め込み」と映るほかはないでしょう。18世紀のフランクリン父子が、『箴言』22: 29の「わざ」(ヘブライ語の原語は"melā'khā"、ヘレニズム世界に散住してヘブライ語を読めなくなったユダヤ教徒のためのギリシャ語訳=『七十人訳』では"ergon")を"calling"で読んだからといって、16世紀のルターがすでにその語を"Beruf"と訳していなければならない、ということにはなりません。なるほど、ヴェーバーの所見では、ルターが1533年に旧約外典『ベン・シラの知恵』11: 20, 21の"ergon"と"ponos"(労働、労苦)を"Beruf"と訳出した時点で、世俗的職業を神与の使命と捉える"Beruf"が創始され、「それ以降dann(その箇所から、ではなく)」プロテスタントの支配的な諸民族の言語に、"calling"を含めて上記の聖俗両義を併せ持つ「"Beruf"相当語」が普及しました。しかし、だからといって、初っぱなからルターが、『ベン・シラの知恵』11: 20, 21の"ergon"訳に合わせて、『箴言』22: 29の"ergon"まで"Beruf"と訳出していなければならない、ということにはならないでしょう。

というのも、『箴言』と『ベン・シラの知恵』とは別々の聖典ですし、問題の二箇所のコンテクストも意味もちがいます。『箴言』句は、(新共同訳では)「技に熟練している人を観察せよ。彼は、王侯に仕え、怪しげな者に仕えることはない」とあります。それにたいして、『ベン・シラの知恵』のほうは、(『聖書外典偽典2・旧訳外典Ⅱ』再版1981、教文館、108ページによれば)「自分の天職を貫き、これにいそしみ、労働しつつ老年を迎えよ。罪人の仕事を見て訝るな。主を信頼して自己の職務に徹せよ」とあり、ここで「労働」「職務」と訳されている"ergon"と"ponos"に、ルターが語"Beruf"を当てたわけです。なお、20節冒頭に見える「天職」の『七十人訳』原語は、"diathēkē"(遺言、定め)で、これこそ"Beruf"と訳されてしかるべきではないか、とも思われますが、ルターはこれには"Gottes Wort"(神のことば)を当てました。また、21節の後半では、「貧者を速やかに、急に富ませることは主にとっては易しいことである」(下線による強調は引用者)と説かれています。

とすると、『箴言』句は、「技」への「熟練そのものに力点を置き、人間わざ・人為を賞揚して「わざ誇りWerkheiligkeit」を触発しやすいのにたいして、『ベン・シラの知恵』のほうは、「神のことば」と解された「定めdiathēkē」にしたがい、(伝統的秩序のなかで)自分に指定された「労働/職務ponos」に「とどまるemmenō=abide by」ことをこそ、「主を信頼する」知恵として奨励している、と読めましょう。とすれば、神の無償の恩恵にたいする純一な信仰・帰依を説き、「わざ誇り」を(神信頼の秘かな欠落を顕す証左として)原則的にしりぞけるルターの宗教性から見て――とりわけかれが、1524/25年の農民叛乱にたいする敵対以降、とみに「伝統主義」に傾いた歴史的経緯を考慮に入れるならば――、かれが『箴言』の"ergon"には"Beruf"を当てずにそっけなく"Geschäft"(実務)と訳し(「伝統主義」が強まる一方の没年まで当然"Geschäft"で通し)、『ベン・シラの知恵』句のほうは、"ergon" ばかりか"ponos"にまで"Beruf"を当てた事実も、まさに「翻訳者ルターの伝統主義的精神」の表出として首肯されましょう。

と同時に、『箴言』句のほうはどうかといえば、「神の道具」として振舞う人間行為・人為に力点を置きがちな、17-8世紀「禁欲的プロテスタンティズム(の大衆宗教性)」、とりわけ(父フランクリンを厳格な平信徒のひとりとする)カルヴィニズムにおいては、『箴言』句がルタールター派からは「わざ誇り」としてしりぞけられるまさにちょうどそれだけ逆に尊重され、「伝統主義」的制約をともなわないその"melā'khā" "ergon"にこそ、"calling"を含めて「"Beruf"相当語」がどこかで当てられて当然であろう、と「意味適合的に予想されましょう。そこで、そうした改変がどこで、どんな歴史的事情のもとで起きたのか、『箴言』句の「"Beruf"相当語」訳が、そこから(ルターから直接にではなくどのような歴史的経緯をへてフランクリン父子のもとにまで達していたのか、というひとつの(おそらくは)新しい問題が、歴史研究に投げかけられることにもなりましょう。

ところが羽入氏は(じつは折角、この新しい問題の出発点に立ったのに)、そこを上記の「文献学的八艘飛び」で短絡的に直結し、当の問題への入口をみずから塞いでしまいます。すなわち、『箴言』22: 29と『ベン・シラの知恵』11: 20, 21との意味上の差異を無視し、両者を「同義等価とする非現実的非歴史的仮定のうえに、前者の"Geschäft"と後者の"Beruf"との(じつは当然の)不一致を「アポリア」に見立て、これを「倫理」論文のなかに――それも、本論(第二章)ではなく「問題提起」(第一章)しかも第二節の注と第三節の注との間に――持ち込んで、そこをなんと「全論証にとっての要」と称するのです(じつはこうして、歴史の現実問題から離れ、羽入氏の頭のなかだけにある擬似問題に迷い込んでしまいました)。

そのうえで羽入氏は、彼我の区別がつかないのか、著者ヴェーバーもこの「羽入ストーリー」どおりに、指定の役まわりを演じているかのように描き出していきます。すなわち、ヴェーバー自身も、「この『アポリア』を解かなければ『倫理』論文の『全論証が崩壊』する」とばかり、必死で「八艘飛び」を企て、「資料操作」で「詐術」まで弄した(あるいは、少なくとも弄しかけた)けれども、ついに「刀折れ、矢尽きて」倒れていた――その屍骸を、羽入氏こそ「世界で初めて」「発見」した――、というわけです。

ところで、「『プロ倫』の中味を知らない読者」でも、「一論文の『要』が、まだ本論にも入らない『問題提起』章の、それも注と注との間にあって、内容上も、18世紀の革新的(反伝統的)世俗人フランクリンと、伝統主義に傾いた16世紀の宗教家ルターとを、一語で直接つなぐところにある、などとは、いかにも不自然ではないか」と、漠然とは疑問に感ずるはずです。ところが、羽入書はなにしろ、「はじめに」から「推理小説仕立て」で、奥方の例の「トイレ託宣」に始まり、架空ゆえに巧みな「心理描写」と執拗な「反復」の小道具にいたるまで、それこそ「総力戦/総動員体制」で「ヴェーバーは詐欺師」と吹き込んできますから、読者もつい「詐欺師なら、そんなところに『要』をしのばせ、こっそり『アポリア』を隠すなんて、やりそうなことだ」と信じ込まされ、かえって一瞬は疑問に感ずるそのつど、当初からの先入観を少々無理でも自分に納得させ、追認の坂道を転げ落ちてしまっても不思議はありません。

「種を明かし」てしまえば、なんともお粗末な「手品」のような話です。横田氏も[3]で指摘しているとおり、「倫理」論文は、ことほどさように「実際にはあまり読まれなくなって」いるのでしょう。ただ、さりとて、横田氏が[2]で述べるように、「『プロ倫』の中味を知らない読者は、羽入氏がとりあげて批判しているところを『プロ倫』にとって重大な箇所だと誤解し、そこが反駁されたのだからもう『プロ倫』はダメだと短絡的に判断してしまのでしょうか。もっぱら読者側の「誤解」と「短絡的判断」に責任を帰すべきなのでしょうか。実情は、上記のとおり、自分の誤解を誤解と自覚せず「世界的な発見」と錯覚している著者羽入氏が、読者を当の誤解・錯覚に向けて誤導しているのです。ただ、ご当人は、自分のやっていることを誤読・誤解とは思わず、「世界的な発見」の開陳と信じ込んでいますから、意図して読者を欺く「詐術」とはいえません。だいたい、「『プロ倫』の中味を知っている読者」にはすぐ見破られるようでは、「詐術」としても稚拙にすぎましょう。むしろ、「倫理」論文の「全論証構造」を把握できない読解不足、キリスト教一般とりわけルターの宗教性にかんする認識不足、ヴェーバー打倒を自己目的とする「抽象的情熱」に駆られるあまり、両不足を顧みて改めることのできない「価値自由」のスタンス、批判対象を「他者」として措定できない「彼我混濁」の幼弱な自己中心性、………要するに、ことここにいたるまでの教育、とりわけ大学院における研究指導の問題が提起されている、というべきではないでしょうか。

さて、羽入氏はこのあと、第一章第三節「ルターの職業観」冒頭の注記内容についても、つぎのふたつの虚説を捏造して、ヴェーバーの「詐術」(少なくとも「杜撰」)の「証拠」に仕立てています。すなわち、ヴェーバーは、ルターが1533年の『ベン・シラの知恵』訳で"ergon"と"ponos"に"Beruf"を当てる「数年まえにはまだeinige Jahre vorher noch」(GAzRS, Ⅰ, S. 68; 梶山訳/安藤編『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の <精神> 』第二刷、1998、未来社、144ページでは「数年まえまではまだ」; 大塚久雄訳『同』改訳文庫版第二版、1989、岩波書店、107ページでは「その数年前にはまだ」)、『箴言』22: 29


宇都宮京子「『知的誠実性を問うこと』の陥穽について 補遺――牧野氏の問題提起に焦点を絞って」

2004年3月23日(本コーナーへの寄稿)

「知的誠実性を問うこと」の陥穽について 補遺

――牧野氏の問題提起に焦点を絞って――

宇都宮京子


2004年3月23日

はじめに

以前に、「『知的誠実性』を問うことの陥穽について」というタイトルで投稿を行なったが、本投稿は、その補遺だと考えて頂けたらと思う。実はもっと以前にこの文章は書いてあったのだが、理由はよく分からないが送信しようとするとファイルが壊れてしまい、送信することができなかった。そのため、先の投稿文章において、本投稿の内容にも部分的に触れておいたという経緯がある。しかし、その際は、文章があまりに複雑で長いものになることを避けるために、牧野氏が問題提起された個所については、注で簡単に触れただけであった。

今回、いろいろと工夫をして、以前に書いた文章をファイルとして壊さずに送信できるようになったので、改めて投稿することにした。すでに折原氏によって、詳細にかつ丁寧に「羽入」書について検討と批判とが行なわれているが、重複を恐れずに書いていくつもりである点は、先の投稿のときと変わらない。折原氏の批判と重複する部分が多々あることを承知の上で、今改めてこの投稿をするのは、牧野氏が指摘した個所は、多くの人々がその解釈に迷う可能性が高いところだと思うからである。


1.問題の所在

 最初に、牧野氏の問題提起について、簡単に整理をしておきたいと思う。牧野氏は、橋本努氏の開設しているHP上の投稿(1月31日(2月7日改訂)版)において、以下のように書いている。(部分引用)

私には件の註全体の文脈、梶山訳/安藤編の頁でいうと139頁で二つの用例、「コリント前書1の26 エペソ1の18、4の1/6、テサロニケ後書1の11、へブル3の1、ペテロ後書1の10など」などのいわゆる「神の召し」の事例と、「イエス・シラク(ベン・シラ)」の「汝の職業にとどまれ」の事例をあげ、この二つの異なる用例を結ぶ事例として141頁以下で「コリント前書七章」を「現在のルター版」で逐語的に引用し、一五二三年にはルターはなお二〇節をRufと訳していることを指摘した後に、件の個所がおかれている――しかも改定時にはだめをおすように「前述のごとく、コリント前書7の17のklesisは今日の意味での『職業』を指すものでは決してない」とつけ加えている――という文脈からみれば、『コリント前書』第七章と理解するのが素直な解釈であるように思われます。

 ただし、私のような解釈をとれば、当該註でウェーバーが用いている『コリント前書』第七章が「現代版」であるということをどう説明するのか、という難点に突き当たることになります。

…ただ羽入氏の著書の評価をはなれてみると、わたし自身は、折原氏のような解釈は「プロテスタンティズムの倫理」論文当該註の読み方としてはすこし無理があるように思えてなりません。この点についてはこれまで「プロテスタンティズムの倫理」論文に関して研究されてきたウェーバー研究者やキリスト教関係の研究者の方々にも、当該個所をどう読まれてきたのか、ご意見をうかがいたいところです。

 牧野氏の問題提起の背景にあるのは、羽入氏が、彼の著書のなかで以下のように論じている点である(「羽入」書 87頁)。羽入氏は、この点をヴェーバーの知的誠実性を疑う際の根拠の1つと見なしている。

ヴェーバーは、Berufという訳語が、『コリントI』(第7章 第20節)で「クレーシス」というギリシア語に対して使われたことによって、クレーシスとポノスという語との間に架橋が可能になったと考えて彼の論理を展開した。ところが、羽入氏の調べたところによれば、ルターは、当時、『コリントI』(第7章 第20節)でクレーシスに対してruffという語を用いており、Berufという語を用いて訳してはいないので、 ヴェーバーの推論は成り立たない。そのような間違った推論を組み立てるのは、ルターの時代の聖書を調べていないか、調べて知っていたのに、その事実を隠蔽して、 推論を捏造したかのどちらかである。どちらにしても、知的に不誠実なこと限りない。しかも、ヴェーバーは、自分で、「現代の普通の版」を用いたと明記しているのだが、それがまた、ヴェーバーの訳が分からないところである。

 このような羽入氏のヴェーバーの「倫理」論文批判に対して、牧野氏は、他のところでは折原氏と、羽入氏の著作に対する見解を共有しているが、以下のヴェーバーの論述をどのように解釈するか、という点では折原氏と見解を異にすると述べている。

 「しかし、各自、その現在のStandeに留まれ、という終末論的に動機づけられた勧告(Mahnung)において、"クレーシス"をBerufで翻訳していた(übersetzt hatte)ルターは、後に彼が、その旧約外典を訳した時には、各自は、その仕事に留まるように、という『ベン・シラ書』の、伝統的主義的で反貨殖主義的に動機づけられた助言 (Rat)において、ポノスを確かにその助言(Ratschlag)がもつ事実上の類似点のゆえに、同様にBerufを用いて翻訳したのである」(1)(Weber、1920、S.68)。

 すなわち、この文中の、「終末論的に動機づけられた勧告」という表現が、どの資料を指しているのか、という点で、二人の見解は、分かれている。牧野氏は、羽入氏と同様に、ここは、『コリントI』(第7章 第20節)であると考え、折原氏は、そこではなく、「『エフェソ』『テサロニケII』『ヘブル』『ペテロII』における、純粋に宗教的なBerufを用いている勧告を指している」と考えている。(折原、2003、78頁)

 では、そのような見解の相違は、羽入氏によるヴェーバー批判とどう関係するのだろうか。それは、羽入氏のように、『コリントI』(第7章 第20節)説を取る立場に賛成すれば、どうしても、「ルターが、『ベン・シラ書』の章句を訳す際に、“ポノス” という完全に、非宗教的な職業を意味する語を、Berufを用いて訳すきっかけを与えたのは、『コリントI』第20節において、ルターが"クレーシス"をBerufと訳していたことだと、ヴェーバーは、述べていた」と文脈上、読めることと関係している。

その場合、その結果として、「『コリントI』の第20節において、ヴェーバーは、ルターが、実際は、"クレーシス"をBerufと訳さないでruffと訳していたことを知らなかったか、あるいは、知っていたのに、その事実にわざと触れずに、無理に論証を捏造したのではないか」と推測されるようになる。

つまり、ヴェーバーは、ルター聖書の原書に当たることもせず、現代版を使って、ルター自身の訳との相違点も確認せず、ルターが"クレーシス"を、(実は、ruffと訳していたのに、)Berufと訳していたと思い込んでいたのかどうか、という点が問われているのである。また、最悪の場合は、ヴェーバーは原書にあたっていてruffとルターが訳していたことを知っていたのに、現代版における章句を引用してごまかした、という解釈が出てくるかもしれない。そして、もし、それが事実だということになれば、羽入氏の述べたとおり、ヴェーバーは、ここの論証において、非常に杜撰であるか、あるいは詐術を用いて論証を捏造したと見なされ、その知的誠実性を疑われることになる。

ところで、ここで、筆者の判断を、以下の具体的説明に先駆けて述べるならば、羽入説は支持しがたい。その理由を、以下で具体的に示したいと思う。

2.具体的な論証

2-1. Berufの訳は、2種類あるとヴェーバーが述べていたことからの判断

まず、ヴェーバーによってルターによるBeruf という語を用いた訳し方には、2種類あると述べられていた点は、注意すべきであると思われる。もし、「『コリントI』 第7章 第20節の、ドイツ語ではstandの意味であると解釈されていた"クレーシス"(2)を、ルターは、Berufと訳していた」と、ヴェーバーが考えていたならば、Beruf の訳し方は、1.純粋に宗教的な意味 2.架橋的な、Stand(奴隷の身分など、神が与えた客観的な秩序)としての意味 3.現世における職業という意味 の3種類あったと述べていたはずだと思われる。しかし、2種類とヴェーバーが述べている点を尊重するならば、Berufという訳語をルター がそこで用いていたと、(ヴェーバーは、)考えてはいなかったと見なすべきではないだろうか。

2-2.『コリントI』の章句をめぐる時制の使い方等からの判断

 『コリントI』の章句を引用する直前に書かれているのは、以下の文である。

(引用1)Die Brücke zwischen jenen beiden anscheinend ganz heterogenen Verwendungen des Wortes Beruf bei Luther schlägt die Stelle im ersten Korinterbrief und ihre Übersetzung.(Weber、1920、S.67)

<訳> (ルターによるあの2つの全く異質であるように見えるBerufという語の使用の間に、コリントIの章句とその訳とが架橋する のである。)

ここでは、schlägtが現在形であることと、「訳(Übersetzung)」の前についているのは、ihreであって章句のことを指しており、ルターによる訳であるとは、特に述べられていないことにも注意が必要であろう。

このあと、『コリントI』の各章句が例示され、さらにそのあとに以下の文が続く。

(引用2)In v.20 hatte Luther im Anschluss an die alteren deutschen Übertragungen noch 1523 in seiner Exegese dieses Kapitels klesisクレーシス mit 》Ruf《 übersetzt (Erl. Ausgabe, Bd.51 S.51) und damals mit 》Stand《 interpretiert.

<訳>(20節において、ルターは、古いドイツの翻訳に引き継いで、1523年にもなお、この章 の釈義において、クレーシス を「Ruf」と訳し(エルランゲン版全集、51巻、51頁) 、当時、「Stand」と解釈していたのである。)

ここで用いられている動詞の時制は、過去完了(hatte…interpretiert)である。また、上記の(引用1)の前文の時制も、…,aber gerade hier verwenderte Luther…となっており、過去時制(verwenderte)である。前後の文が、過去を表わす時制で書かれているのに、その間にある文の、「架橋するのである」という部分だけは、現在形なのである。

 もちろん、資料の提示は、「…では、…となっている」という表現で、過去に書かれた内容を現在形で提示することは、よくあることであるが、schlägtのような動詞の用い方については、過去にルターが架橋したこと(過去の事実)について述べているのか、架橋していることを今、確認できるということを示しているのかを、区別して表現する可能性が高いと思われる。

 以上のような時制の使い分け、および、(引用2)における noch やdamalsという語の用い方を考慮に入れて、総合的に判断すれば、どう考えても、(引用1)の部分 は、文脈の流れに対しては、挿入句的な位置付けになっているとしか思えない。つまり、ルター以後のどこかある時代以降の、"クレーシス"を"Ruf"ではなく、"Beruf"と 訳し直した翻訳者や、それ以降、ヴェーバーの時代までそれを踏襲してきた翻訳者達 による『コリントI』第7章の17節から31節の訳し方を例示しようとしたということだろう。つまり、その時代の聖書解釈の基準に従えば、Rufという概念を、Berufとして 訳しても良いと、(ルター自身ではなく!)ルター以降、現在までの訳者たちが判断するような、ここはそういう文脈なのだ」ということを示したかったのではないだろうか。『コリントI』第7章の17節から31節まで通して読むと、神に召されたままの状態を保守しようとしているのは、日常生活の場においてである。

以上のような諸点から、ヴェーバーが、『コリントI』第7章の章句を、節の間の関連を示しながら例示したとき、「ルター自身もBerufを用いて訳していたと考えていた」とは思われない。また、 ヴェーバーみずから、「現代の普通の版」のルター聖書を使ったと明記しているので、ルター聖書の原書を引用しているかのごとく装おうとしていたとも考えにくい。 (牧野氏も、この明記について説明できないと述べている。)

2-3.ヴェーバーによる"sachlich"という語の用い方との関係での解釈

2-3-1.「終末論的に動機づけられた勧告」とは何か ――‘Aber’はどこにかかるかを考慮しつつ――

 ヴェーバーは、『コリントI』第7章の章句の引用を行なったあと、『コリントI』第7章第20節 についてのテオフュラクトスによる注解に言及しながら、「ここでも、"クレーシス" は、今日のドイツ語の」Beruf《の意味ではない》と述べている。そして、さらにそれに続く個所では以下のように述べている。

「Aber Luther, der in der eschatologisch motivierten Mahnung dass jeder in seinem gegenwaertigen Stande bleiben sollte, "klesisクレーシス" mit 」Beruf《 ubersetzt hatte, hat dann, als er spaeter die Apokryphen uebersetzte, in dem traditionalistisch und antichrematistisch motivierten Rat des Jesus Sirach dass jeder bei seiner Hantierung bleiben moege, schon wegen der sachlichen Aehnlichkeit des Ratschlages ponosポノス ebenfalls mit 》Beruf《 übersetzt》.(Weber、1920、S.68)

<訳>(しかし、各自、その現在のStandeに留まれ、という終末論的 に動機づけられた勧告(Mahnung)において、"クレーシス"をBerufで翻訳していた (übersetzt hatte)ルターは、後に彼が、その旧約外典を訳した時には、各自はその仕事に留まるように、という『ベン・シラ書』の、伝統的主義的で反貨殖主義的に動機づけられた助言(Rat)において、ポノスを、確かにその助言(Ratschlag)がもつ事実上の類似点のゆえに、同様にBerufを用いて翻訳したのである。)(3)

ここでヴェーバーがこのように述べているのは、具体的には、何を意味しているのか、について考えてみたいと思う。

 

ヴェーバーは、この文の直前で、「ルターは、(コリントIの)第20節において、古いドイツの翻訳を引き継いで、1523年にもなお、この章の釈義において、クレーシス を『Ruf』と訳していたこと(エルランゲン版全集、51巻、51ページ)」と 、さらにそれを、「当時、『Stand』と解釈しており、それは、今日的なBerufの意味ではなかった」 と述べている。さらに、テオフュラクトスによる注解においても、"クレーシス"は、 「自分の信仰をえた家、地区、および町村において」と解釈されており、「今日のドイツ語のBerufの意味ではない」、とヴェーバーは、書いている。その場合、それに続く上記の文の冒頭のAberは、どのような意味になるだろうか。阿部訳では、Aber以下は、「しかるにルターは、各自その現在の状態=身分にとどまれ、という終末論にもとづく勧告のところで、『勤勉』を《Beruf》と訳しているのだが、そののち旧約外典を翻訳したときには、各自その生業にとどまるべし、というベン・シラ書の伝統主義的・反貨殖主義的な訓戒を、この二つがただ内容上類似していることからギリシア語の 『勤勉』をドイツ語の《Beruf》と翻訳したのである」となっている。(ここで、阿部氏が、"クレーシス"のところを、「現在の状態=身分」と書いているところから、阿部氏が、dass jeder in seinem gegenwaertigen Stande bleiben sollte,の部分は、 『コリントI』第7章第20節を指している、と考えて翻訳していたことが分かる。しかし、阿部訳では、ギリシア語のponosポノスも、klesisクレーシスと同様に「勤勉」と訳し、原語もついていないので、文脈が見えにくくなっている。)ところで、Aberは、原文を見ればすぐに分かるように、意味上、übersetzt hatteに繋がっているのではなく、hat dann,…ponosポノス ebenfalls mit 》Beruf《 übersetzt》に繋がっている。つまり、『コリントI』第 7章 第20節は、「テオフュラクトスによる注解においても、"クレーシス"は、『自分の信仰をえた家、地区、および町村において』と解釈されており、それは、今日の Berufの意味ではなかったが、「しかるにルターは、各自その現在のクレーシスにとどまれ、という終末論にもとづく勧告のところで、」その「クレーシスを《Beruf》と訳していたが」と続くのではない。ここは、「しかるにルターは、…後に彼が、 その旧約外典を訳した時には、各自は、その仕事に留まるように、という『ベン・シラ 書』の、伝統的主義的で反貨殖主義的に動機づけられた助言(Rat)において、ポノス を、確かにその助言(Ratschlag)がもつ事実上の類似点のゆえに、同様に、Berufを 用いて翻訳したのである」と続くのである。

さて、この文脈を抑えた上で、ここで、「各自、その現在の身分に留まれ」という勧告の正体について考えてみたいと思う。ヴェーバーは、『コリントI』第7章、第20節においては、"クレーシス"を、Standとルターが解釈していたことについては、すでに指摘していた。しかし、その時の、訳語は、Rufであって、Berufではないとも述べていた。そうであれば、どこかに、Stande、"klesisクレーシス"、そして、Berufの3つの語を結び付けている「勧告」がないかを探すべきであろう。折原氏は、その答えを、ルターが、 「『エフェソ』『テサロニケII』『ヘブル』『ペテロII』でklesisクレーシスをberuffと訳していた事実」に求めている(折原、2003、78頁)。その場合、上記の勧告におけるBerufという語の意味内容が、純粋に宗教的であっても構わないのかどうかについて考えてみたいと思う。羽入氏は、ルターが、「『コリントI』7・20を"Beruf"で訳したという事実」こそが、ルターをして、「『ベン・シラの知恵』11・21の"ポノス "をも『コリントI』7・20と同様に"Beruf"と訳させるに至らしめた」とヴェーバーが主張していた、と解釈している。しかし、羽入氏は、wegen der sachlichen Ähnlichkeitという語の解釈を間違えているのではないかと思われる。その理由は、①『コリントI』第7章、第20節では、本来、宗教的な語"クレーシス"が、Standという意味で用いられて「客観的状況」を指しており、それは、各自が神によって現世に置かれた状況とも解釈できることから、宗教的でありながら、現世的なニュアンスを帯びていると解釈できること、と②(「事実上の類似点」という語を、どのように解釈すべきか、がここでは、非常に重要だと思われるのだが、)世俗的な仕事としての意味を従来になっていたギリシア語のponosポノスも、この世俗の世界すべてが、神の与え給うた状況なのだと考えるという発想がすでに存在していれば、事実上は(sachlich)、神の招聘の一形態と解釈もできること、の2点から、それらを総括することによって、導き出せる。

この場合、『コリントI』第7章、第20節において、"クレーシス"が、Berufで、直接、訳されていなくても、ルターの頭や心の中に、宗教的なBerufと世俗的なポノスと が実際に結びつき得るとみなす可能性が存在していたことが、『コリントI』第7章、 第20節の前後関係を踏まえた第20節のルターによる解釈の仕方を見て、確認できさえすれば、ヴェーバーにとっては十分だったのである。そして、ルター以降の翻訳者達 が、"クレーシス"を、Berufで訳しているという事実も、その可能性を裏付けているのである。

その関係を、ヴェーバーか書いている順番に即して、以下でもう1度、整理してみたい。

クレーシス → Ruf= Stand(神に召されたままの状態→現世における客観的状況)

クレーシス → Beruf(神による招聘、召命)

ポノス  → 世俗の仕事 → Beruf

クレーシス→Beruf→ Ruf(Stand)→ ポノス → Beruf

             <wegen der sachlichen Ähnlichkeit>

クレーシスは、従来、ルターによってBerufで翻訳され、神による「招聘」という意味しか担っていなかったが、『コリントI』の第17節から第31節までの意味の連関、特に、第20節においては、Rufと注釈をつけられ、「現世における客観的状況」の意味の Standと解釈された。人々が置かれている現世における状況(Stand)すべては、結局 は、神が与え給うたものである、という発想がこれらの節全体を通して確認できる。それゆえ、ポノスという世俗的な職業の意味


折原浩「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答3」

2004年3月23日(本コーナーへの寄稿)

各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答3

折原浩


2004年3月23日

牧野雅彦氏の寄稿(2月7日)への応答

 牧野雅彦氏が、ご多忙のなかを本コーナーに寄稿してくださったことに、感謝します。ただ、そう書いてすぐ、「そうすることが牧野氏にはご迷惑にならないだろうか」という疑念が涌きます。というのも、筆者は、拙著『ヴェーバー学のすすめ』(2003、未来社)の「あとがき」で、雀部幸隆氏、牧野氏、そして橋本努氏と「Eメールで交信し、筆者の草稿にコメントしていただき対話を重ね論点を明確にすることができた」(159ページ、下線による強調は引用者、以下同様)と事実を記し、「本稿の責任は、もとより筆者ひとりにあるが、本稿の諸論点につき、全面的または部分的に、ご多忙のなかを付き合ってくださった五氏に、筆者として深く感謝する」(169ページ)と締めくくりました。もとより、牧野氏にせよ、他の四氏にせよ、筆者の「身方」になってくださったとか、筆者「側」に「加担」してくださったとか、その趣旨に解されかねないことは、いっさい書いておりませんし、書くはずがありません。双方の見解の一致/不一致にも、あえて触れませんでした。ところが、牧野氏は、「あとがき」のこの記事から、氏が「かたちの上ではすでに折原氏の側に位置する」「内容の如何にかかわらず論争の一方の当事者に与する」との「印象をもたれると危惧され、「論争」への「参入」を「さしあたりは控え」る理由とされています。

筆者は、政治と学問とを峻別します。根のない水草が水面で絡み合いながら漂うような「人間関係」/集団形成は、個人を政治的には強めるけれども、学問的にはそれだけ弱めると思います。したがって、そうした(「自分がどう考えるか」よりも「他人にどう見られるか」の)「印象に引きずられることも、その切っ掛けをつくることも、極力避けたいと常日頃心がけています。ですから、羽入書には「『あっ、ヴェーバー駄目だ……』とわずか数秒で、苦渋に満ちた表情で吐き捨てるように断言された」(13ページ)と、あたかも「羽入氏の側に位置する」かのように書かれている松浦純氏にも、筆者の側からは偏見も先入観も交えずにお訪ねし、「ルター文献の使用と読解につき、基本的な手ほどきを受け、閲覧の便宜をはかっていただ」(拙著、「あとがき」、160ページ)きました。そうすることが、学者同士の付き合いの作法と考えるからです。牧野氏との関係については、拙著第二章注34が、氏との見解不一致ゆえに膨れ上がった事実を、その箇所で注記しておけばよかったのかと反省し、この点が不備とお考えであれば、お詫びします。

さて、本題に入って、ここでは「『倫理』論文脚注中の短い一文をどう読むか」という些細な問題をめぐり、(このコーナーにアクセスされる)第三者の方々にとってはおそらく退屈にちがいない議論を繰り広げなければなりません。そこであらかじめ、こうした議論の意味に関連して、ヴェーバーの講演『職業としての学問』から、つぎの一節を引いておきたいと思います(このコーナーの公開性を考慮し、牧野氏は先刻ご承知のことでも、補説し敷衍していきますので、ご了承ください)。

「じっさいに価値あり完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門的に達成されたものeine spezialistische Leistungばかりである。それゆえ、いわばみずから遮眼帯を着けることのできない人や、全身全霊を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所を正しく解釈するのに夢中になる、というようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。」(GAzWL, 7. Aufl., 1988, Tübingen, S. 588-9, 尾高邦雄訳『職業としての学問』第68刷、1993、岩波書店、22ページ、下線による強調は引用者、以下同様)

この箇所の「専門的spezialistisch」を、尾高訳は「専門的」(ドイツ語なら定めしfachmännisch)と訳出しています。たった一語の違いですが、ニュアンスは変わります。「専門家的」と訳すと、「価値あり完璧の域に達しているような業績」は「専門家」でないと達成できない、逆に「専門家」はみな、そういう業績を達成している、と解されやすく、そう解されると、「専門家」としての処遇を与えられながら「価値ある専門的業績」は達成しない人もいる、という現実が看過されましょう。したがって、「専門的業績」にたいする「専門家」の責任という観念も、それだけ芽生えにくくなるはずです。他方、後半は、「専門家」か「非専門家」かにかかわりなく、「価値ある専門的業績」を達成するには、いざというときには細かな問題にも全身全霊を集中できなければならない、と解釈されるよりもむしろ、「専門家」は常時「遮眼帯を着け」て「専門の蛸壺」に閉じ籠もっていなければならない、あるいはそうしていてよい、自分の細かな専門的研究を、広く歴史や同時代の状況を見渡しながら位置づけたり、人間存在の原点に発する光に照らして捉え返したりする必要はない、という(現状に合った)見方に引き寄せて読まれてしまうでしょう。要するに、「専門家イデオロギー」の意味に解されやすくなりましょう。こうして、たった一語の違いも、現状の批判か、容認か、という大きな問題に連なってきます。

ところで、筆者は、この「専門家イデオロギー」も、その裏返し同位対立物としての「専門バカ」論も、ともに否定します。そのうえで、「専門的業績にたいする専門家の責任と社会的責任を問う立場を提唱します。「専門的業績にたいする責任」とは、「完璧の域」には達しなくとも「価値ある専門的業績」をみずから達成するという肯定面に加えて、たとえば羽入書のような、「専門的業績」と称して登場し、(「非専門家」のうちの無責任な人々には絶賛されようとも)専門的には無価値な際物を、まさにそのようなものとして暴露し論証するという否定的な側面も含みます。既成の「大学自治」論は、「専門家」としての処遇を受けながら(この肯定-否定両面の)責任は果たさないメンバーに、まさに「自治問題としてどう対処するかという難問を避け、そうした視点も問題意識も欠いているため、「集団的既得権(無責任権?)擁護のイデオロギー」と化し、外部に第三者機関」を設置してチェックしなければならないとする構想をたえず呼び出して、「悪循環」に陥らざるをえないのでしょう。他方、「社会的責任」とは、医師/技術者/自然科学者については問われるようになってきた「説明責任accountability」を、(「領域の専門家」を含む)「専門家」公衆にたいして負い、積極的には自分自身の専門的研究テーマの意味、消極的には羽入書のような「専門的」際物の無意味を、自分の属する「専門家」サークルの範囲を越えて、「専門家」公衆にも分かりやすく説明し、「虚像形成」(本コーナー掲載の「学問論争をめぐる現状況」§§9~12参照)を防止すること、こうした課題を専門家の義務(非専門家には問われなくとも、専門家としての自分には問われ、けっして放棄するわけにはいかない義務、いうなれば一種の"noblesse oblige")として引き受けること、を意味します。

とすると、ここではこれから、ヴェーバーの「高度に専門的な業績」に属すると思われる一問題に、一専門家としての牧野氏とともに、また、このコーナーにアクセスされる(この問題にかぎっては)「非専門家」の方々ともごいっしょに取り組み、「倫理」論文の「ある箇所を正しく解釈する」のに「全身全霊を打ち込んで夢中になる」経験を共有し、そうすることをとおして(筆者としては)「専門的業績」にたいする一専門家の責任と社会的責任とを同時に果たしていきたいと思います。

問題の箇所とは、「倫理」論文第一章第三節「ルターの職業観」の初めに出てくる長大な注のなかから、牧野氏が引いておられる一文です。まず、牧野氏と同様、梶山力訳/安藤英治編、第二刷、1998、未來社(以下、梶山訳/安藤編と略記)から引用してみますと、つぎのとおりです。

「然るにルッターは、各自その現在の身分に止まれとの、終末観に基づく勧告に関してklēsisを»Beruf«と翻訳した後、旧約外典を翻訳するに当って、各自その職業(Hantierung)に止まるのを可とするとの、イエス・シラクの伝統主義的反貨幣増殖主義に基づく勧告に関しても、単に両者の実質的類似(sachliche Aenlichkeit)のみから、ponosを»Beruf«と翻訳したのである。」(梶山訳/安藤編、143ページ)

こういう一文の意味を捉えるには、前後のコンテクストから切り離さず、そのなかで考えることが必要かつ重要でしょう。しかし、さしあたりコンテクストは括弧に入れ、この一文中に、①「各自その現在の身分に止まれとの、終末観に基づく勧告に関してklēsisを»Beruf«と翻訳」、②「旧約外典を翻訳」、③「ponosを»Beruf«と翻訳」という三つの翻訳への言及があることに注意したうえで、原文を参照してみましょう(ドイツ語を履修しておられない方には恐縮ですが、しばらくご辛抱ください)。

Aber Luther, der in der eschatologisch motivierten Mahnung, dass jeder in seinem geganwärtigen Stande bleiben sollte, klēsis mit »Beruf« übersetzt hatte[①], hat [③]dann, als er später die Apokryphen übersetzte[②], in dem traditionalistisch und antichrematistisch motivierten Rat des Jesus Sirach, dass jeder bei seiner Hantierung bleiben möge, schon wegen der s a c h l i c h e n A e h n l i c h k e i t des Ratschlages ponos ebenfalls mit »Beruf« übersetzt[③].(GAzRS, I, S. 68、隔字体による強調は原文、イタリック体は引用者)

動詞に注意しますと、ご覧のとおり、①は過去完了、②は過去、③は現在完了というふうに、著者ヴェーバーは、時制を使い分けています。それに、①は、主語のルターにかかる"der……übersetzt hatte"の従属節(形容詞節)に出てきます。また、梶山訳/安藤編では「単に両者の実質的類似……のみから」というふうに、なにか「実質的類似」を軽んずるバイアスをかけて訳出されている原語は、nurやlediglichではなく、schonです。この三点に留意し、著者がいわんとする真意を汲んで筆者なりに改訳しますと、下記のとおりです(Standを「身分」でなく「状態」と改める理由については後述します)。

「ところが、各自その現在の状態にとどまれとの終末観にもとづく勧告においてはklēsisを»Beruf«と翻訳していた[①]ルターではあるが、その後、旧約外典を翻訳した[②]ときには、各自その職業にとどまっていてよいとするイエス・シラクの伝統主義的反貨殖主義にもとづく勧告においても、すでに両勧告が実質上似ていることから、ponosを同様に»Beruf«と翻訳している[③=「……と翻訳したが、その後この訳語が普及し、ルター派に継承されて、現在にいたっている」という意味の現在完了]。」

ここで、まえに掲げた梶山訳/安藤編の訳文とこの拙訳とを比較していただきますと、細かな違いよりもまず、前者では、①と②=③という過去の二時点における差異だけが、現在の実存的問題から切り離されもっぱらスコラ的に問われているかのように、読まれかねません。それにたいして、後者では、現に自分が悩み、読者も囚われているにちがいない「職業義務観」をめぐって、読者と対話し現に自分たちの間でそうした観念を表している語»Beruf«を、その発生状態に遡って捉え返しながら、現在に身をおいてその現実的「文化意義」を読者とともに問うていこうとする実存的思考者著作家ヴェーバー(拙著、第一章、参照)の姿が、多少とも蘇り、彷彿としてくるのではないでしょうか。

しかも、梶山訳/安藤編の訳文は、著者ヴェーバーが、①と②=③とを、過去におけるふたつの翻訳の段階的継起として時間的順序を追って叙述しているかのように読めますが、原文ではじつは、形容詞節の①を先行の対照例として対置することにより、主体ルターによる②時点の語»Beruf«創始と③その現在的帰結とに、力点が置かれています。

以上のように原文の意味を押さえたうえで、こんどはこの一文のコンテクストを視野に入れ、原文冒頭のAberがなにを受けなににかかるか、を考えてみましょう(この問題設定には、宇都宮京子氏とのメール交信から教示を受けました)。著者ヴェーバーは、この注の先行部分で、ⓐルターにおける語»Beruf«の「二種の用法」を挙示し、ⓑ両用法を「架橋しているschlägt」(「倫理」論文の読者が現に読んでいる版では、という含意の現在形。これも宇都宮氏の教示)のが「『コリントI』中の章句とその翻訳ihre Uebersetzungen」(ルター本人訳とはいわず読者が現に読んでいる版の翻訳文という意味。同じく宇都宮氏の教示) であると述べ、ⓒ「ルターでは(近年の普及諸版によると)当該章句が置かれているコンテクストはつぎのとおりである」とわざわざ普及諸版と断り、『コリントI』7: 17~31をほとんど逐語的に引用して読者に具体的に想起してもらっています。そのうえで、ⓓルターが、1523年の釈義では、20節のklēsisを、"Stand"の意味には解しながらも、「旧いドイツ語訳に倣って」まだ"Ruf"と訳出している事実を指摘し、ⓔこのklēsisがEhestand, Stand des Knechtesなどの「身分status, Stand」には相当しても、まだ今日の»Beruf«を意味してはいなかったことを(ブレンタノとの応酬から)強調し、ⓕ(同僚ダイスマンの教示と断って)ギリシャ語文献、たとえば11~12世紀のTheophylaktosも、『コリントI』7: 20の当該句を、「いかなる暮らし向き、地区、または町村であれ[召しを受けた状態に止まれ]」と講釈し、まだ「職業」とは解していない事実を挙示しています。そしてこのあとに、例の一文がつづくわけですが、梶山訳/安藤編では、このつながり具合が、つぎのように読まれることになります。

「――畢竟、この[Theophylaktosの]章句においてもklēsisは今日のわれわれの»Beruf«(職業)の意ではけっしてない然るにAberルッターは、各自その現在の身分に止まれとの、終末観に基づく勧告に関してklēsisを»Beruf«と翻訳した後、旧約外典を翻訳するに当たって、……ponosを»Beruf«と翻訳したのである。」

ここだけに視野を狭め、かつ、Aberが、「各自……翻訳した」との、主語ルターを修飾する従属(形容詞)節にはかから、「ponosを»Beruf«と翻訳し」という主節にかかる、という関係を見落とすと時間的順序を追って、「各自その現在の身分に止まれとの、終末観に基づく勧告」が『コリントI』7: 20を指し、ルターはまずこれを»Beruf«と翻訳し、つぎに旧約外典のponosを»Beruf«と翻訳した、とする羽入(=牧野?)解釈が創成されましょう。そのばあい、読者と対話している著者ヴェーバーが、キリスト教文化圏の読者に「各自その現在のStandにとどまれとの、終末観に基づく勧告」といえば、パウロ/ペテロ書簡一般を指し(牧野氏の「素直な解釈」のように、ここを『コリントI』7: 20に特定して読ませようとするのは、むしろ特異で、その旨の特記が必要とされましょう)、ルターがそのklēsisを»Beruf«と訳している箇所とは、当該注のⓐで挙示しておいたから繰り返すまでもない、と考えても杜撰とはいえますまい。現に、キリスト教文化圏の読者ではなくとも、梶山/大塚訳、上(1955、岩波書店、107ページ)、大塚単独訳(1989、岩波文庫版第二刷、106ページ)では、このStandに一貫して「状態」が当てられ、さらに阿部行蔵(旧)訳(1955、河出書房、173ページ)では、ここが「新約における『おのおの現在の己が境遇(Stand)にとどまるべし』という、かの終末観に基づく訓誡」と訳出されています。ヴェーバーによって「第一種用法の諸事例として挙示されているパウロ/ペテロ書簡のコンテクストが、この「終末観に基づく訓誡」に該当することは、挙示された箇所に当たってみれば明らかです。たとえば、『コリントI』でもヴェーバーが「第一種」用法に含めている1: 26のコンテクストは、「召されてキリスト・イエスの使徒となった」(1: 1)パウロが、「召されて聖なるものとされ」(1: 2)、「主イエス・キリストの現れを待ち望んでい」(1: 7)るコリントの信徒に向けて、「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」(1: 26)と呼びかけ、「無学」「無力」(1: 27)で、「世の無にひとしい」「卑められる」(1: 28)状態にあった者が、さればこそ神に選ばれたのだと説き、「その状態/姿勢を堅持し、この世の知恵/能力/栄誉を求めて、それらを誇りとすることのないように」と諭しています。この一例が、「各自その現在の状態に止まれとの、終末観によって動機づけられた勧告」に該当することは明瞭でしょう。他の諸箇所も同様です。じつは、この句を含む問題の一文にかんするかぎり、梶山訳/安藤編は、(おそらくは大塚、阿部両氏ほど新約に通じていなかったと思われる編者による)改悪というほかはなく、羽入(=牧野?)解釈は、(原典および大塚訳を注記してはいても、内容上、新約一般にかんする理解を踏まえて比較照合した痕跡がなく)この改悪に引きずられた誤読誤解というほかないのではないでしょうか。かつて東北大学他で教鞭をとったカール・レーヴィットは、その経験をとおして、日本人学者が西洋の思想/文化を皮相にしか理解できないのは、ギリシャ哲学とキリスト教にかんする基礎的な素養に欠けるためと分かった、とどこかに書いていました。この警句が、いまなお、いや、いまではいっそう有効であるとすれば、それはたいへん残念なことです。

ここで、訳文でなく原文を、そのコンテクストのなかで捉え返すと、著者ヴェーバーの論旨は、大意つぎのとおりに解されましょう。すなわち、パウロ/ペテロ書簡一般で「神の召し」「召し出された状態」の意味に用いられ、ルターの「第一種」用法として»beruff«と訳されていたklēsisは、『コリントI』7: 17~31のコンテクストでもまだ身分Stand」どまりで今日の現に読者が手にしている普及諸版のような、»Beruf«の意味は帯びていなかった。ところがAber、ルターは、後に(1533年)『ベン・シラの知恵』11: 20, 21を訳すときには、(片や終末論、片や伝統主義と)宗教思想的基礎づけは異なっていても、「召された状態にどどまれ」「伝統的秩序のもとで指定された職務にとどまれ」という「事柄としての類似性」からしてすでにschon(という意味は、このあとのコンテクストで導入される、ルターにおける「摂理観の個別化/精緻化」という主体的契機の関与を待たなくとも)、"ergon"ばかりか"ponos"にまで»beruff«を当てることができた、と。

改訂稿では、このあとに「これこそ重要な、注目すべき点である。前述のごとく、『コリントI』7: 17のklēsisは、今日の意味における『職業』を意味するものではけっしてない」(梶山訳/安藤編、143ページ、下線による強調は引用者)と加筆されます。これは、「『コリントI』7: 17に始まるコンテクストでは、klēsisがまだ『身分』と解されていたのに、『ベン・シラの知恵』11: 20, 21で(他の箇所では»beruff«と訳されていた)klēsisが『世俗的職業』に適用され、ここに初めて、『使命としての職業』を意味する今日の語Berufが誕生する」という趣旨を、ブレンタノへの応酬として再度強調しているわけで、上記のコンテクストに整合的に収まります。牧野氏は、この加筆が「だめをおす」といわれるのですが、筆者には、牧野氏流の「素直な(naivな?)解釈」に「だめをおす」以外、どういう意味で、なにに「だめをおす」のか、理解できません。

上記のコンテクストのなかで、著者ヴェーバーが、意図して明示的にルター聖書の「原典」でなく普及諸版を用いた趣旨は、つぎのとおりでしょう。すなわち、翻訳者ルターの精神からする意訳が、その後普及し、現に読者が手にしているルター聖書のほかならぬ普及諸版もそれにしたがっているばかりか、ルター本人では「架橋句」をなすだけだった『コリントI』7: 17~31のklēsisまでもいまでは現に読者が見られるとおり身分Stand」の域を越えて「職業Beruf」の意味に解され、訳語もBerufに統一されている。ところがルター本人においてはまだそうではなかったこの間(ルター本人からルター派をへて現在にいたる間)、どういう歴史的経緯から、『コリントI』7: 17~31のklēsisまでが、Berufと訳されるにいたったのか、ルター以降に展開された近代「職業」社会で、「身分」よりも「職業」が重きをなしてきた歴史情勢に逆規定された結果か、それともなにか宗教思想上の改変がなされた結果なのか、などの問題は、また別個の固有の意味におけるルター/ルター研究ないしは聖書翻訳史研究の)課題とされよう。それはともかく、ここで問題の「神与の使命としての職業」を表す語"Beruf"の創始、ならびにその影響が現在におよんでいる歴史的連関事実はあらかじめ現在の普及諸版を参照しこれをルター本人におけ歴史的経緯(かれの思想的変遷と訳語選択への表われの諸相)と対比することをとおしてこよなく現在の読者に感得/理解されるはずである、と。

このように、過去の事実を、たんに過去のこととして確定するだけではなく、その現在的文化意義」を、読者との対話において読者とともに問い解明していくところに、実存的思考者ヴェーバーの著作の本義があるといえます。そのヴェーバーにとっては、『コリントI』7: 17~31が「架橋句」となって『ベン・シラの知恵』のergonとponosにも「第一種用法のberuffが当てられ、「神与の使命としての職業」という語義と語"Beruf"が(原語の直訳としてではなく、翻訳者ルターの精神において)創始された、という大筋を確認できれば、7: 20たった一箇所のklēsisが、上記ⓓで確認した1523年釈義のruffのままだったか、1533年の『ベン・シラの知恵』独訳までに(前綴be-を付けて多少意義を強めた)類語beruffに改訂されたか、それともドイツ人教会史家カール・ホルのいう「ルター流」(拙著、131ページ、注33、参照)で相変わらず混用されていたか、というような問題は、ひっきょう第二義的なスコラ的問題にすぎず、わざわざ原典に当たって調べるまでもないと(初版でも改訂に当たっても)判断されたでしょう。かりに、ほかならぬ『コリントI7: 20で聖俗両義を併せ持つ語"Beruf"が創始されたと主張しているのであれば、話は別です。しかし、じつはそうではなくて、『コリントI』7: 20は「架橋句」の一部にすぎないというのです。しかも、重要なのは、著者ヴェーバーが引用に先立って明示的に述べている通り、7: 20一箇所ではなく、そのコンテクストです。前後に出てくる、18、19節の割礼/包皮別(ethnic status)、21~23節の奴隷/自由人別(social status)、25節以下の配偶関係別(marital status)といった「諸身分statūs, Stände」の具体例が重要で、そうであるからこそヴェーバーは、「普及諸版」でそこのところをほぼ逐語的に引用し、読者に具体的に想起確認してもらおうとしたのでしょう。これを、「源氏物語研究」に「谷崎源氏」を使うようなものだとか、「聖書翻訳史研究」をOEDで代用していいのか、などといって非難するのは、比喩を間違えているのです。「倫理」論文は、「源氏物語研究」に相当する「固有の意味におけるルター研究」でも、聖書翻訳史研究でもありません。むしろ、そうした非難は、非難者のほうが、「倫理」論文の本義も「全論証構造」も顧みず、「スコラ的/パリサイ的原典主義」の生硬な遠近法を持ち込み、そうしている自分の錯誤を自覚できない、さればこそ「ピント外れ」の非難を得々と披瀝できる、という事態の証左にほかなりません。「遮眼帯」を着けっぱなしで、大筋大局を見ず、没意味的「素材探し」に憂き身をやつしていると、そうした視野狭窄と倒錯に陥ってしまうのでしょう。

さて、羽入氏は、「ヴェーバー自身が、ルターは『コリントI』7: 20のklēsisを"Beruf"と訳出した、と主張している」と、例のとおり冗漫に繰り返していますが、その論拠は、つぎのふたつでした。ひとつは、同じ注の『エフェソの信徒への手紙』四章にかんする議論から、「ルター初期の用語法における"Ruf"と"Beruf"との混用」(GAzRS, I, S. 60、梶山訳/安藤編、141ページ、参照)という記述を抜き出し、この「混用」を『コリントI』7: 20の用例における時間的揺れにすり替える議論でした。ところが、この議論が成り立たないことは、拙著で論証しました(75-9ページ、参照)。いまひとつが、ここで問題とした一文の「終末論的勧告」を『コリントI』7: 20と解する議論ですが、これも、以上のとおり、パウロ/ペテロ書簡の根本性格にかんする無理解から、梶山訳/安藤編の誤訳ないし不適訳に引きずられ、「終末論的勧告」を『コリントI』7: 20と短絡的に特定/同一視する無理な解釈であったと判明しました。

これで、羽入氏の主張は、ふたつの論拠を奪われ、崩壊したことになります。ヴェーバーは、ルターが『コリントI』7: 20のklēsisを"Beruf"と訳出したと、主張してはいません。ですから、ルターが『コリントI』7: 20のklēsisを"Beruf"と訳出していなかった事実(これはなるほど、羽入氏が初めて発見し、立証した事実ではあります)を、なにか不都合と見て、現行普及版で「代替」し、「隠蔽」する必要もなかったのです。ヴェーバーが現行普及版を使ったのは、なにか「原典」と取りちがえた、「原典」を調べられなかった、という(スコラ的/パリサイ的原典主義者がいとも安易に想定しそうな)消極的理由からではなく、むしろ正反対に、かれの著作活動の本義からくる積極的な理由からでした。ヴェーバーは、現代の読者が読み慣れ親しんでいる現行普及版を、まさにさればこそ例示/例証手段として取り上げ、その類例との対比において読者自身がルターにおける語義語創造の現場に立ち会いその特性と文化意義を捉えられるように配慮し、そういうかれ独特の叙述を進めているのです。羽入氏は、ヴェーバー的叙述のそうした根本性格を理解せず、氏自身の生硬なスコラ的/パリサイ的原典主義を持ち込んで、評価を覆すことしか考えませんでした(そのため、唯一の新発見事実をルター/ルター派研究の方向で活かす道も、みずから塞いでしまっているのです)。

もとより筆者は、牧野氏を羽入氏と同一視はしません。牧野氏のお仕事、ことに近著『歴史主義の再建――ヴェーバーにおける歴史と社会科学』(2003、日本評論者)を「専門的業績」として高く評価し、拙稿「ヴェーバー『プロテスタンティズム論文』の全論証構造」(『未来』三月号、32-39)でも参照させていただきました。著者には敬意を抱いています。むしろ、率直にいえば、そういうれっきとした専門的ヴェーバー研究者の牧野氏が、なぜ羽入書ごときにこれほど動かされ、引きずられるのか、不思議でなりません。この事実もまた、筆者が「これはいかん」と羽入書論駁に踏み切り、「返す刀で」ヴェーバー研究者の対応を批判しなければならないと考えた理由のひとつです。

牧野氏は、羽入氏に引きずられて「スコラ的、パリサイ的原典主義」の遠近法に乗ってしまい、これを前提に、「ヴェーバーも一人の人間ですから、なにかの『錯誤』があってルター本人の訳と取り違えるということもありうることだと私は考えております」と語り出されます。いまや、この「ヴェーバーも一人の人間」という口吻が、一時期の「聖マックス崇拝」への同位対立にすぎない「偶像破壊」の風潮に棹さして、しばしばいとも気楽に漏らされるようになりました。たとえば、「山本七平賞」選考委員・中西輝政氏の選評「『偉大なウソ』への一刺し」(『Voice』1月号、196-7ページ)も、その一例です。こうした精神状況にたいして、筆者は問い返さざるをえません。いうところの「人間」を、自分に合わせて低水準に措定し自己慰撫に耽り、「ヴェーバーが(一人の人間として『錯誤』を犯しうるとしても)、こんなつまらぬところでこんなつまらぬ『錯誤』を犯すだろうか」と問いもせず、思ってもみず、むしろ筆者がそう示唆すると、自分の現状に居直り、むしろ「それこそ聖マックス崇拝」とばかり逆襲に転じ、自分のより高きを目指そうとしない)「大衆人的安住の境地に固執する退嬰的頽廃的風潮が、この日本社会を覆い、若い世代を蝕んでおり、これが、学問を含む日本の将来にとって大きな脅威をなすのではないか、と。牧野氏こそ、こうした「流れに抗する」「中堅」のお一人と期待しているのですが。

こういうばあい、筆者はつねに、先達世良晃志郎氏の言葉を思い出します。氏は、『支配の社会学』の訳業を完成された「あとがき」で、「ウェーバーの難解さは、決して彼の概念や論理の晦渋さや不明確さによるものではなく、また純粋に語学的な困難に由来するものでもない」(II, 1962, 創文社、665ページ)と記され、当の「難解さ」の由来を、古今東西の膨大な史実を注釈ぬきに引き合いに出すことに加え、つぎの点に求められます。「第二の事情は、ウェーバーの叙述が、厳密な概念規定と論理的一貫性とによって貫かれているという事情である。そのために、ウェーバーをよむ場合には、他の著作をよむ場合よりもはるかに執拗な形で彼の論理の展開を追求してゆくという努力が必要になる。論理の展開を見失うときには、彼の叙述は完全に理解不能なものになってしまうからである。読者の中には、ウェーバーの翻訳や彼についての解説をよまれて、論理の攪乱や、あるいは論理的発展の系列の中の一つの環が脱落したことによって生ずる論理の中断に出合って、いいようのないはがゆさやもどかしさを感ぜられた経験のある方が少なくないであろう。ところで、この彼の論理主義は、他方では、彼の著作をある意味では非常によみ易いものにもしているのである。すなわち、論理が通らないときにはそこには必ず誤読ないし誤訳があるものと考えてもう一度検討しなおしてみることが必要になるし、また逆に、論理が一貫して貫かれてゆくときには、彼をほぼ正確に理解しえているという安心感をもつことができるのである。しかも、ヴェーバーの論理は、通常人の理解を絶するような悪い意味での『深遠な』形而上学的論理なのではなく、健全な常識をもって十分に理解することのできるものなのであるから、論理が通るか通らないかということによって理解の当否の見当をつけてゆくというよみ方は、予想以上に大きな効果をもつのではないかと思われる。この邦訳においても、訳者は、くだけた日本語にするということよりも、論理のつながりをできるだけ明瞭に表現しうるような訳文を作ることに努力したつもりである。」(666-7ページ)

筆者にも、ヴェーバー原文の難所にさしかかり、そのつど自分のほうに「必ず誤読ないし誤訳があるものと考えて」呻吟の末、ようやくヴェーバーの論理の筋に到達し、粒々辛苦の訳文に表明する、といった経験があり、そのたびに、世良氏のような先達をもてた幸せを噛みしめたものでした。このことを、拙著にもしたためた(126、130-1ページ、注9、30)のですが、その趣旨が牧野氏に伝わっていなかったとすれば、とても残念です。なるほど、世良氏や筆者のようなスタンスは、「聖マックス崇拝」と見紛われやすいでしょう。しかし、かりにそうだとしても、そういう「他者崇拝」は、「自己崇拝」「自己陶酔」という「偶像崇拝の最悪種」に比べればまだましです。というよりもむしろ、人間存在の原点に発する光に照らされて、すべての偶像が偶像として見抜かれたうえ、いったん他者の「無謬性」を措定してかかることは、「おのれをむなしゅうして対象に迫る」、「雑念を鎮め、(光に照らされて)対象に映し出されてくる真理を、みずから映し出そうとする」努力を促し、これこそが学問上生産的な成果をもたらすのではないでしょうか。

少なくともこの『コリントI』7: 20問題にかんする筆者の解釈は、そのようにしてえられたものです。ですから、牧野氏がそれを、「問題を回避する実に巧みな読み方だ」と(あたかも『箴言』22: 29を引くかのように)捉えられ、「ヴェーバーが『コリント前書』第七章の当該個所でルター訳ではなく現行版を使っていた」という(羽入=牧野?解釈にとっての)問題点が、「折原氏のような読解によってクリアされれば羽入書の衝撃力は相当に減殺されることにもなるでしょう」と書かれているのを読みますと、「折角ですが、そうした規準による評価は、ご辞退します」とお答えするほかはありません。というのも、筆者は、ありもしない「羽入書の衝撃力」に振り回されて技巧を弄することなど思ってもみないからです。むしろ牧野氏が、羽入氏に引きずられて『羽入書の衝撃力』という偶像を前提としてしまうから、筆者の解釈も、それを「減殺」する「ためにする巧みな議論」としか映らないのではないでしょうか。

そのうえで牧野氏は、筆者の解釈が「[上記の] 問題を回避する実に巧みな読み方」ではあるが、「『プロテスタンティズムの倫理』論文当該註の読み方としてはすこし無理があるように思え」るとして、「倫理」論文とキリスト教関係の研究者 (牧野氏は明示的に書いてはおられませんが、おそらく「専門家」)の意見を求めておられます。専門家の所見を求めること自体はたいへん結構なことで、筆者からも、ぜひお願いしたいと思います。拙著でも、同じことを要望しています。

しかし、牧野氏がこの段階で、そういう提唱をなさることにかぎっては、異議を申し立てざるをえません。ちょうど「教科書裁判」を闘っていた家永三郎氏が、「お互い専門家ではないのだから、法律専門家の意見を聴こうではないか」という林健太郎氏の提唱に激しく反発したように。というのも、牧野氏は、拙著の第二章注34が、主に牧野氏個人に宛てて書かれていることをご承知のうえ、その内容には論点ごとに逐一お答えにならず、なにか (「人にどう見られるか」「どういう『印象』を与えるか」という「交換価値」視点から)「折原側に加担してはいない」と「身の証を立てる」ためだけかとさえ思える、(「じじつどうなのか」「どう考えるのか」という「使用価値」視点から見ると)学問的には一歩も前進していない応答を、本コーナーに寄せられただけで、ヴェーバー研究者としての責任をまだ果たし尽くしてはおられません。しかも、問われている問題は、ルター研究、キリスト教研究の問題ではなく、あくまでヴェーバー研究の問題です。羽入氏は、「もっぱら『知的誠実性』の観点からヴェーバーの『全人格』を問うているのであって、ヴェーバー・テーゼの『歴史的妥当性』問題など埒外だ」と宣言し「警告」しているのです。「自殺要求」と「生産的限定論争」(拙稿「学問論争をめぐる現状況」、本コーナーに掲載、§1参照)とをとりちがえてはなりません。少なくとも牧野氏は、『コリントI』7: 20問題が争点で、拙著の第二章注34がこの争点にかかわる筆者側の見解であると公表され、確認されたのですから、いまやこれに逐一具体的に反論されるべきです。そのうえで、ルター研究、キリスト教研究の専門家に意見を求められるのなら分かります。そうでなければ、ご自分は逃げ腰で「専門家」に「下駄を預け」ようとする、「専門家イデオロギー」への加担者と見なさざるをえませんし、専門家にたいしてもたいへん失礼な話です。

最後に、牧野氏は、「これまで多くの人に読まれてきたはずのウェーバーのテキストについてさえ解釈の分かれるところがある、という事実を羽入・折原論争ははからずも明らかにした」と述べられたうえで、「今後論争に参入される方々が、この個所についてどういう理解をされているか、この個所をどう読まれてきたのか、参入されるにあたってまずこの点を明らかにされる」ようにと、途方もない参入条件を設定しておられます。だいたい、「ヴェーバー研究者」でも、自分の研究テーマにかかわる価値関係的パースペクティーフからこの注に焦点を合わせている、ごく少数の人々を除き、ここでとりあげた一文ばかりか、ルターの語義論にかかわる詳細な三注も、原文と照合しながら精読したという人は、ごく少数、ひょっとすると訳者を除けばひとりもいないのではないでしょうか。「倫理」論文を読んでも、ヴェーバー・テーゼそのもの(ないしは「全論証構造」)を読み取っていない、あるいはテーゼの重要な環をめぐって読解/理解が分かれる、というのであれば、話は別で、大問題でしょう。しかし、この第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」冒頭の三注については、ざっと読んで大意を捉えていさえすれば、さしあたりはそれで十分ではないでしょうか。いざというときに「何千年もまえから解かれずにきた永遠の問題である」かのように、「全身全霊を打ち込んで夢中になる」ことができれば、それでいいのではないでしょうか。

「もっとも有名な」「代表作」だから、細大漏らさず、ラテン語/ギリシャ語/ヘブライ語まで調べて読み尽くし、解釈が一致するまで議論していなければならない、などというのは、それこそ「専門家イデオロギー」以外のなにものでもありません。人あって、大意を捉えるだけの大雑把な読み方では「ヴェーバー研究者」とはいえない、あるいは「ヴェーバー研究の専門家」とはいえない、と決めつけるとすれば、その人はかえって、「木を見て森を見ない」没意味的「素材探し」、「専門家イデオロギー」の虜にすぎず、そういう自分の規準を絶対化しているだけではないでしょうか。そんなことに囚われていると、齢50に達しても、「倫理」論文「問題提起」章中ふたつの節の冒頭にさえ、取っ掛かろうにも取っ掛かれず、低迷をよぎなくされたまま、自分の虚像を追いかけて「一生を棒に振る」ということにもなりかねません。

筆者はといえば、ある特異な関心から、すなわち、大塚久雄氏の訳業を批判する要件として、また「素材探し」をかねて、梶山/大塚訳から大塚単独訳にかけての改訂の跡を、もっとも厄介と見た件の三注について、原文と照合しながら検証するという作業をいちおうはしていました(ちなみに、この三注にかけては、梶山/大塚訳には見られた誤訳/誤記が大塚単独訳では改められ、大幅な改善が見られ、「素材探し」は不発に終わりました。筆者は、故安藤英治氏とともに、ヴェーバー著作を私物化する大塚単独訳の批判者ではありましたが、大塚氏が晩年に内容上はよいお仕事をされた事績のひとつまで否定するつもりはありません)。また、古典語の類については、当該注のみでなく、「倫理」論文ほかヴェーバー文献に夥しく出てくる原語について、いちいち専門家に問い合わせていたのでは迷惑にちがいないので、いちおう自分で原語引用句の大意を読み取れるくらいまでは勉強しました。そうしたことが、羽入書の「虚仮脅し」に屈せず、正面から対応するのに多少は役立ったと思います(ですから、若いヴェーバー研究者あるいは文献研究者には、「スランプ」に陥ることもありましょうから、そういう時期には「作業療法」をかねて古典語をひとつずつ修得していくことをお勧めします)。しかし本質的には、「倫理」論文の本義大意大筋を捉えていたことと、世良氏から学んだ読解のスタンスから、安易に「人の子の錯誤」という錯誤に陥らず、逆に羽入氏がどこでそういう錯誤に陥っているかが透けて見えるということが、いっそう重要と思います。ですから、ヴェーバー研究者のみなさんには、牧野氏が設定されようとした条件には囚われることなく、大胆にこのコーナーの論争に参入してくださるように、当事者のひとりとしてお願いいたします。

牧野氏には、やや厳しい反論を呈しましたが、『歴史主義の再建』にいたる一連のお仕事とそこに示された篤実な研究者としての姿勢と資質への敬意と期待には、いささかも変わりありません。むしろ、専門外の問題にたいする専門家としての謙虚さが、このばあいには裏目に出て、羽入書への評価を過当に高めてしまったのではないかと思います。 

それにしても、他方の当事者主役、羽入辰郎氏はいったいどうしておられるのでしょう。そろそろ出番ではありませんか。

(2004年3月23日記)

丸山尚士「羽入-折原論争への応答--門外漢による『貧者の一灯』」

2004年4月05日(本コーナーへの寄稿)

羽入-折原論争への 応答---門外漢による「貧者の一灯」

丸山尚士


2004年4月05日

                             

 丸山尚士(まるやまたかし)と申します。この度、橋本努氏よりご快諾を賜り、本論 争に拙文を寄稿させていただくことになりました。最初にお断りしておきますが、私は現在「職業としての学問」に従事しておりません。現職はあるソフトウェ ア会社での日本語変換ソフトの開発・企画であり、直接にも間接にもヴェーバー研究とは無関係です。


 そのような門外漢が参入する理由は、大学時代の経歴にあります。私は、1986年3月に東京大学教養学部教養学科第二「ドイツの文化と社会」(以下「ド イツ科」)を卒業しました。大学入学から卒業までの4年間、1年の時は一般教養の社会学講義(デュルケームとヴェーバー)、2年の時は全学一般教養ゼミ (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」{以下「プロ倫」と略}を含む宗教社会学)、そして3~4年の時は大学院と共同の社会学演習(「経済と 社会」再構成)という具合に、通して折原浩氏(「先生」と呼ぶべきですが、論争の両者に公平性を保つという意味であえて「氏」と呼ばせていただきます)か らヴェーバーについての教えを受けました。また、もう一方の羽入辰郎氏においては、「マックス・ヴェーバーの犯罪」(以下、「犯罪」本)の著者略歴によれ ば、私が卒業した3年後の1989年に、同じドイツ科を卒業しておられます。一般的に言えば羽入氏が私の後輩ということになりますが、氏は他の大学を卒業 後改めて東京大学に入学し直されたらしい篤学の士であり、年齢も筆者より8歳上です。(直接の面識はありません。)

 つまり、羽入氏については、同じドイツ科出身で、同じくヴェーバーを何らかの研究の対象にしたもの同士(Genossen)です。また、折原氏について は、そのヴェーバーについて教えていただいた、まさに恩師です。その意味で、私は第三者による客観的なジャッジ、ということにはまるで資格がありません。 ですが、一部なりとも両者に関わりを持つ人間として、証人の役割を果たすことは可能かと思います。


 本論に入る前にまず宣言させていただきますが、そのような中間的な立場にあるといっても、私は羽入氏の側に立つつもりは毛頭なく、100%折原氏側に立 ちます。「弁護側の証人」の役割を微力ながら果たせれば、と思っています。というか、羽入氏の略歴を見るまでは、自分のホームページに折原氏への応援メッ セージを載せれば十分と思っていました。(この特別弁護人は18年前と何ら変わらず、証人の助けなど必要としないくらい、有能かつ強力な方なので。)しか しながら、羽入氏の略歴を知った後は、何か自分の知の「バックグラウンド」が侵されているような感を受け、羽入氏との意見の違いを表明したい、という衝動 に駆られました。そのことが本論考寄稿の直接の動機です。


 前置きが長くなりました。弁護側の証人として、特別弁護人に協力するにあたり、私なりに3つのフェーズを考えました。

  1. 事実そのものについての議論→羽入氏が指摘する事実が本当にそうであったかということを争うフェーズ

  2. 事実をどのように解釈するかということ、犯罪の表象で言うなら、どのような法概念を適用すべきか、ということを争うフェーズ(たとえば「殺 人」なのか「正当防衛」なのかということ。)

  3. いわゆる情状酌量のフェーズ、そうせざるを得なかった事情の考慮。

もとより、私はすでに多くの人が指摘されているように、羽入氏が指摘する点が仮にすべて事実であったとしても、何らの意味でも犯罪を構成するようなもので ないのは明らかであり、上記の各フェーズは、羽入氏の空想的な議論のレベルに形だけ合わせる、ということでしかありません。


 まず1.の事実について。事実といっても、残念ながら羽入氏が細々と指摘する「自称文献学」的発見について、その一つ一つを検証できる状況にはありませ ん。上記したように、一般企業勤務の身では、大学在籍中には容易に利用できた、ヴェーバーの著作のドイツ語オリジナル版ですら、入手することが困難です。 また、そのような調査に時間をかけすぎることは、現在の職業に対する私自身の「職業倫理」に反する行為となります。そこで、私は、ヴェーバーの著作に対し て指摘された事実ではなく、羽入氏自身が主張する概念の事実性を検証したいと思います。羽入氏は「犯罪」本の序文で、「ヴェーバー産業」なる概念を提示し ます。(「犯罪」本 p.5「ヴェーバーを専門に解釈する人間と専門に解釈する書 物の出現と共に、こうしてヴェー バー産業が成立する。」「…、これらこそがヴェーバー産業を支える心理的 需要の秘密なのである。」)羽入氏は、このヴェーバー産業について、詳細な説明を行っていません。社会学的・経済学的に、「産業」という場 合、少なくとも、

  • 最低でも100億円レベルの巨額のお金の動く市場が成立している

  • 複数の経済主体(企業)がこの市場に関与して売上を得ている

  • 複数の業種が同じ市場に関与して売上を得ている

というような暗黙の前提があるように思います。もっとわかりやすく、またヴェーバー社会学らしく、理念型を用いて説明してみます。「ヴェーバー産業」とい うものが成立している場合は、次のような状況が想定されます。もちろん理念型ですので、歴史的にまったく一致した現象がどこにも存在しなくても、問題あり ません。:-)


「マックス・ヴェーバーが今ブームだ。書店ではヴェーバー自身の著作が 一般書にならんでベストセラーになるのはもちろんのこと、『声に出して読みたいヴェーバー』、『あらすじで読むヴェーバーの名著』、はては『蹴りたい ヴェーバー』、さらにはマリアンネの遺稿とされる『私が愛したマックス・ヴェーバー』まで、便乗本が次々と発売され、それぞれが結構な売れ行きを示してい る。少年ジャンプには、ヴェーバーの少年時代の父との葛藤を描いた漫画が掲載され、読者の人気投票の上位を占めている。はてはケン・ラッセル監督によっ て、ヴェーバー映画すら企画されているという。ヴェーバーの研究者達には、企業からの『脱呪術化とコア・コンピタンス』『精神無き専門社員による経営』と いったテーマでの講演依頼が殺到しているという。旅行社では『ヴェーバー聖地巡礼:ハイデルベルク7日間の旅』といった企画が、高価格にもかかわらず人気 を集めているという。…」


いささか悪のりが過ぎたかも知れませんが、似たような状況が約10年前に、もう一人の知の巨人「南方熊楠」についてあったのを思い出していただければ、あ ながちカリカチュアではない理念型ではないかと思います。


 さて、夢から覚めて現実に戻りましょう。ここに描写した理念型のような意味でのヴェーバー産業というものが、1/10の規模であっても成立していないの は、誰が見ても明らかですが、若干の数字でその事実を再確認しましょう。

 次の数字は、私が2004年4月4日に調べた、amazon.co.jp における書籍の売上げランキングです。


養老孟司

「バ カの壁」 

94位

M・ヴェー バー

「プ ロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

2,507 位

吉本隆明

「共 同幻想論」

9,128位

M・ヴェー バー

「職 業としての学問」

12,719 位

K・マルクス

「資 本論」(1)

19,873位

折原浩

「ヴェー バー学のすすめ」

35,076位

羽入辰郎

「マッ クス・ヴェーバーの犯罪 」

58,338位


この順位で、それぞれ何部売れているのかは不明です。ただ、ヴェーバーの著作の中でもっとも売れている「プロ倫」が仮に年間1万冊売れているとした場合 (これは学術系としては大ベストセラーでしょう)、その販売元である岩波書店の売上げは定価\800 X 卸率65%として、なんと!わずかに520万円。せいぜい個人の年収レベルです。羽入氏自身の「犯罪」本も、折原氏の心配をよそに、一般向けにはほとんど 売れていないようです。(私自身、近所{徳島県徳島市}の比較的大 型の書店で、羽入本を購入しましたが、その店のデータベースには確かに1冊在庫があると出ていたのに、何度書棚を見ても発見できませんでした。店 員に聞いたら、棚の下の引き出しの中にしまってあったのを出してくれました。)


 もう一つ、インターネット時代ということで、Googleでの検索 ヒット数を比較してみましょう。これも調査日付は上記の amazon.co.jp ランキングと同じです。(「日本語のページを検索」で検索)


カール・マルクス

5,510件

レヴィ=ストロース

6,030件

"マックス・ ウェーバー" OR "マックス・ヴェーバー"

  8,350件

ドゥルーズ

9,030件

ハイデガー

19,300 件

吉本隆明

19,600 件

ヴィトゲンシュタイン OR ウィトゲンシュタイン

23,700 件

ケインズ 

25,100 件

フロイト

39,900 件


ここでも、ヴェーバーは落ち目?のマルクスよりはましであるものの、吉本隆明やハイデガー、ケインズ、ヴィトゲンシュタインらに遠く及ばない、という結果 になっています。(上記結果はノイズ混じりですので、あくまで参考程度に見てください。)

 結論として、羽入氏のいう「ヴェーバー産業」を私は確認することができませんでした。折原氏の批判によれば、羽入氏はミクロレベルの問題で「偽問題」を 設定して一人相撲を取っている、ということでしたが、マクロレベルでも同じことが言えます。(あるいは、ルター原典主義に拘泥するあまり、その精神といつ しか神秘的合一を果たし、ありとあらゆる「産業」を "auri sacra fames" として毛嫌いするようになったのでしょうか…)

 

 続いて、2.の事実の解釈、という弁護証言に移りたいと思います。羽入氏は、ヴェーバーが英語聖書における calling の意味用法について、ほとんどOED(の前身)しか見ていなかったのではないかと、と指摘しています。これが事実かどうかはひとまず置いておくとして、羽 入氏は「広辞苑の用例だけに依拠して、ある語とある語の影響関係を論じ、それを論 文にまで仰々しく書く国語学者が我が国にいるであろうか。いるとすればそんなものは国語学者ではない。」(上掲書 p.44)という譬えを用いて、ヴェーバーを糾弾しています。私は、この譬えに、羽入氏の(1) 詐術 あ


折原浩「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答4」

2004年4月10日(本コーナーへの寄稿)

各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答4

折原 浩


2004年4月10日

森川剛光氏の第二寄稿(2月22日)にたいする応答

森川氏のこの第二寄稿は、第一寄稿を「一点だけ補足する」試みとのことですが、森川色が打ち出された独自の論考で、しかも羽入書批判としては決定打ともいえるほど強烈です。かりにこのコーナーが法廷であれば、この森川鑑定で「訴訟としての勝敗は決まった」といっても過言ではないでしょう。

ただ、このコーナーは、法廷ではなく、学問論争の場です。筆者も「特別弁護人」を兼ねるとしても、職業的弁護士ではなく、一学究です。筆者の役割は、なにがなんでも「依頼人」の権益を守り(逆にいえば、「依頼人」にとって不利になることは避け)、「勝訴」を勝ち取ることに尽きるわけではありません。学問論争に固有の課題は、「法廷闘争」という比喩を越えたところで始まります。この違いが見過ごされ、論争に勝つという目的だけに関心を奪われると、われ知らず「敵に似せて己をつくる」ことにもなりかねないでしょう。

もとより、森川第二寄稿が、なにかそうした陥穽に足をすくわれているというのではありません。むしろ学術論文としても読みごたえがあります。さればこそ筆者は、森川鑑定ならぬ森川論文を、ヴェーバーの学問論をめぐる先行「森川-折原論争」の土俵に移して評価し、対質したいとの誘惑に駆られます。なるほど筆者は、森川第一寄稿への応答では、「『自殺要求』と『生産的限定論争』との区別を曖昧にして論点を拡散させないように」と提唱しました。それとは矛盾するようですが、いまもって他方の当事者・羽入氏が登場せず、主対決に火花を散らすことができない以上、(対羽入論争にかぎれば「副土俵」に当たるとしても、ヴェーバーをめぐる論争としては実質上/内容上はるかに重要な)この「森川-折原論争」の土俵で、「ヴェーバーの人と学問」にかんする理解を深め、主対決にそなえることも、許されてよいのではないでしょうか。

森川第二寄稿にたいする筆者の疑問は、「ヴェーバーの学問総体は、(フォルカー・クルーゼ氏とともに森川氏が導入している)『ドイツ歴史社会学』の枠組みに収まりきるかどうか、無理に収めようとすると、ヴェーバーの学問のある面――『意味探し』と緊張関係にある『素材探し』の面――が脱落してしまうのではないか」という一点にあります。

もとより筆者は、クルーゼ氏が進めている「ドイツ歴史社会学」の復権そのもの(鈴木幸寿/山本鎮雄/茨木竹二編『歴史社会学とマックス・ヴェーバー、上――歴史社会学の歴史と現在』、2003、理想社、所収のクルーゼ論文、参照)に異を唱えるわけではなく、それはそれとして高く評価します(Kruse, Volker, Geschichts- und Sozialphilosophie oder Wirklichkeitswissenschaft ?[歴史‐社会哲学か、それとも現実科学か?], 1999, Frankfurt a. M. は、邦訳されてしかるべき好著だと思います)。

顧みますと、筆者が社会学を学び始めた1950/60年代、ルネ・ケーニヒに代表されるドイツ社会学は、確かに「ドイツにおけるアメリカ社会学」「アメリカ社会学のドイツ版」にすぎず、とりたてて学ぶに値するとも思われませんでした。第二次世界大戦の戦敗国で、政治情勢の圧倒的優位のもとに、アメリカ文明の影響が学問にもおよび、社会学でもアメリカ流調査業績プラグマティズムが主流を占めたのは、ドイツとて日本と同様で、いたし方ないことだったでしょう。ヴォルフガンク・モムゼンが、ハイデルベルクにおける「ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム」(1964年)で、パーソンズら「アメリカの紳士連」と表向き鋭く対立しながら、モムゼン自身の基本的立場はといえばアメリカ流の自然法的民主主義で、それゆえに「ワイマールの失敗」の実態と意義を捉え損ね、じつはそれにそなえていたヴェーバーの「指導者民主制」の評価も誤った(雀部幸隆『ウェーバーとワイマール――政治思想史的考察』、2001、ミネルヴァ書房、参照)という皮肉なエピソードも、そうした流れのなかに位置づけて捉え返されるのではないでしょうか。ヴェーバー研究にしても、ドイツにおける本格的な内在的研究、とくに「全体像」の構築をめざす研究は、ナチに追われてアメリカに亡命したラインハルト・ベンディクスの、経験的研究内容に焦点を合わせたMax Weber: An Intellectual Portrait [『マックス・ヴェーバー――その学問の包括的一肖像』、1960、第二版1962、New York、拙訳、1966、中央公論社、改訳、上下、1987/88、三一書房] が、西ドイツに逆輸入され(独訳は1964年)、これが肯定-否定両様の発展刺激となって以来、テンブルック、ヘニス、ヴァイス、シュルフター、ケスラーらによって進められたといっても、過言ではないでしょう。テンブルックの挑発的で画期的な論文(1975)も、ベンディクス作「肖像」の向こうを張るかのように、その独訳と同じくDas Werk Max Webers[マックス・ヴェーバーの業績]と題されていました。

むしろ、ヴェルナー・ゾンバルト/マックス・ヴェーバーからアルフレート・ヴェーバー/カール・マンハイムをへてノルベルト・エリアス/カール・ポランニー/アレクサンダー・リュストフにいたる「歴史社会学」、すなわち「第三帝国」以前の時代に花開いた優れて学問的な伝統が、ほかならぬ母国のドイツで、これほど永く忘れ去られていた事実のほうが、知識社会学的研究のテーマに取り上げられてしかるべき問題といえましょう。それにたいして、遅きに失した感はあるものの、クルーゼ氏によって、「ドイツにおける『ドイツ歴史社会学』の復権」が企てられ、ヴェーバー研究もその一環として活況を呈してきたことは、それ自体たいへん悦ばしいことです。こうなってきますと、その流れは、ドイツではおそらく揺るぎないものとして定着していくでしょう。

それにひきかえ、日本には、「ドイツ歴史社会学」に類する(あるいはそれと同等/等価の)自国の伝統というものがありません。社会学に限定された大まかな展望ではありますが、フランスには、デュルケーム/デュルケーム学派の伝統があります。1990年代にソルボンヌに留学していた白鳥義彦氏によると、大学近辺の書店には、デュルケームの『レーグル』(Les regles de la methode sociologique[社会学的方法の諸規準], 1895, Paris)が平積みされていたとのことです。筆者が1993年にハイデルベルクに滞在したときにも、大学近辺のツィーハンク書店などには、ヴェーバーの諸論集(UTB叢書のポケット版)と『経済と社会』(第五版の学生版)は必ず取り揃えられていました。アメリカでもいまや、パーソンズやマートンの著作が、同等の地位を占めているのではないでしょうか。

ところで、自国の学問的伝統のなかに、こうした古典が定着して確たる地歩を占め、学生/院生が社会学なら社会学へのスタンスを形成するにあたっては基礎教材/拠り所となり、「危機-パラダイム・チェンジ」のさいにも、じつは再志向・再編成の準拠標をなす、というのは、たいへん意義の大きいことだろうと思います。というのも、学問は、まさにアルフレート・ヴェーバーのいう「文明過程Zivilisationsprozes」の一環で、連続的発展が可能な領域です。「パラダイム・チェンジ」といっても、「突然変異」あるいは「いったん白紙に戻して出直す」「無から再出発する」というのではなく、従来に比して「いっそう包括的な地平」が開かれ、それまで連続的に蓄積されてきた学知に「新しい体系化中心」から「新しい光」が当てられ「新しい解釈」が施され、新たに獲得される知見ともども「いっそう包括的な新しい体系」に「止揚」されるといった、「『文明的なるもの』の(『単線的』でなく)『弁証法的』な進歩」(マンハイム)に相当するでしょう。ですから、相対的安定期の日常的研究活動においてのみでなく、一見劇的な変化のさいにも、そこにいたるまでの連続的発展軌道の有無がものをいうわけです。そして、そうした軌道の礎をなすものこそ、上記のような古典であると思われます。

それにひきかえ、そういう古典を礎とする確たる軌道がないと、学問の展開も、なにか「『(定義上一回的な)文化運動Kulturbewegung』の途切れ途切れの散発と離合集散」にひとしいものと化してしまうのではないでしょうか。そこでは、学問の展開といっても、それだけ「個人プレー」がものをいい、政治やジャーナリズムの動向に左右され、諸外国の最新流行を追い、いつまでたっても「連続的に深まる」ことがなく、ちょっとしたことでも「振り出しに戻ってしまう」という不安定性を免れがたいでしょう。そうした展開が、論争を厭う文化・風土のうえに置かれればなおさらで、それだけ拡散的かつ非連続的な傾向がつのるはずです。というのも、論争こそ、発展の方向を探り出し連続的な軌道を創り出し保障していく協同作業そのものですから。

このように見てきますと、羽入氏が、文献読解の厳密性にかけてかつては定評のあった研究室から「鳴り物入りで」(「和辻哲郎賞」を受けて)学界にデヴューし、羽入書が(今回これで「玉石混淆」と評価を落としたとはいえ、従来は定評のあった)「ミネルヴァ人文-社会科学叢書」の一点として「言論の公共空間」に登場し、大学の生協書籍部でも平積みにされるというような現象も、加えては専門家がこの状況にたいして「見て見ぬふり」をし、他方では無責任な非専門家が絶賛/喝采し、再度「賞」(「山本七平賞」)を授与して「虚像形成」に拍車をかけ、専門的研究における連続的発展の失速と(ことによると、将来における)低迷途絶の予兆をなすというような事件も、品位ある伝統連続的発展軌道論争を欠く皮相で脆弱な学問文化/風土の一症候として捉え返されるのではないでしょうか。この「羽入書事件」が、品位ある学問的伝統のある社会で起きるとは、ちょっと考えられません。そうした社会では、もっぱら論敵の「知的誠実性」を問うて「詐欺罪」に陥れることだけを狙い、主たる歴史・社会科学的テーゼの歴史的妥当性には関心がないとうそぶく代物を、出版社に取り次ぐ不見識な歴史家も、そうした際物を受け入れ、自社出版物一般への定評を損ねても売り込みをはかる無定見な編集者/出版業主も、どこを探しても見つからないでしょうから。

というわけで、そういう伝統の欠如が、今回はこの「羽入書事件」に露呈されたと思われます。しかし、そうした実情をただ嘆いていても、手を拱いていても、なにごとも始まりません。伝統がなければ、創り出すまでです。そう捉え返せば、伝統の「欠如」も、いわば「白紙状態tabula lasa」として創造の好機となしえましょう。では、いかにして。管見では、学問としての普遍妥当性に根ざすの形成と、東西文明の狭間にある日本の文化地政学的条件に定位した個性的な展開の可能性とを、ともに考慮に入れながら、このふたつの要請にもっとも適した素材を、自国産かいなかを問わず古典のなかから厳選し、他国産であれば母国における取り扱い以上に徹底的にわがものとし教材化して、大学(とくに前期の教養課程)/大学院/公開市民講座に持ち込み、定着させていく以外にはないでしょう。

筆者が、この見地に立ち、社会学にかぎっては、もろもろの素材のなかから最適と見て選び出し、教材化してきたのが、デュルケームの『自殺論――社会学研究』(1897, Paris)とヴェーバーの「倫理」論文でした。大学在職中には、教養課程における週一回の年間講義や、エクステンションとしての公開自主講座『人間・社会論』で、前半にデュルケーム、後半にヴェーバーを取り上げ、具体的な経験的モノグラフと抽象的な方法論(デュルケームのばあいには『レーグル』、ヴェーバーについては「客観性」論文ほか)とを関連づけて解説してきました。学生/院生/聴講者市民が、一年間、講義内容を参考にして自分で『自殺論』と「倫理」論文を熟読し、『レーグル』や「客観性」論文と結びつけて熟考すれば、学問としての社会学/広く社会科学のスタンスとはいかなるものか、がおおよそ分かるように、できれば身につくように、最善を尽くしました。そのうち、前半のデュルケーム教材を書物の形にしたのが、『デュルケームとウェーバー――社会科学の方法』上下 (1981、三一書房)です。表題は版元の要請にしたがいましたが、中身は上述のとおり、(「倫理」論文とも部分的には対比した)『自殺論』解説で、これほど懇切丁寧な古典『自殺論』読解手引書は本国フランスにもないと自負しています。後半のヴェーバー教材(「倫理」論文と方法論文との統合的解読)は、一書にはまとめきれず、「客観性」論文邦訳の解説に、「倫理」論文ほか経験的モノグラフからの例示/例解を比較的豊富に盛り込む段階で止まっていました(富永祐治/立野保男訳、折原浩補訳・解説、1998、岩波書店)。筆者としてはむしろ、「全体像」構築にそなえる専門的研究課題「『経済と社会』全体の再構成」を、ドイツにおける『マックス・ヴェーバー全集』版の編纂にも役立てようと、その刊行スケジュールと進捗をにらみながら先行させてきました。しかし、この「羽入書事件」を契機に、日本社会の学問状況/精神状況に危機感を抱き、反省をよぎなくされたいま、年来の予定を変更し、国際貢献は先送りしても、「倫理」論文と方法論との統合的解説を中心に、(「『経済と社会』全体の再構成」は専門的な細部として後で編入する)「全体像」を先に構築し、『ヴェーバー学のすすめ』の続篇として仕上げ、上梓しようと考えるにいたりました。

そこで、そのヴェーバー――つまり、この日本社会における歴史・社会科学と市民的教養に、連続的発展の軌道を敷設し伝統をも築き上げていく礎のひとつを提供して、今後永く役立ってほしい先達ヴェーバー――ですが、その学問総体を、ここで予先的に思い描いてみますと、どうでしょうか。どうしても「歴史社会学」の枠組みには収まりきれない面が残り、これまた重要と思えてくるのです。抽象的にいいますと、「歴史社会学」の枠組みからは、もっぱら「意味探し」としてのヴェーバーに光が当てられ、焦点が結ばれ、(上述のとおりそのこと自体には異論がないとしても)反面一次資料を貪婪に漁る素材探しとしてのヴェーバーが看過されるのではないでしょうか。そして、その傾向が行き着く果てにはやはり(一面的な「意味探し」に特有の)「動脈硬化」症が待ち受けているでしょう。筆者は、そうした危惧を禁じえません。そこでいま、この問題を、ポパー/アルバート流の批判的合理主義か、それともジグヴァルト/ゴットルの論理学/フッサールの現象学/ハイデガーの存在論か、といった哲学的基盤/支柱についてではなく、ヴェーバーの学問内容総体について具体的に問うとすると、どうでしょうか。

森川氏とともに、「ヴェーバーの業績の大部分が一次文献よりもむしろ二次文献に依存し」ており、その点はなにも「ヴェーバーに限らず、1920年代からの『ドイツ歴史社会学』に共通に見られたことである」とひとまず認めましょう。そのうえで、ではヴェーバーのばあい、当の「大部分」からはみ出る「一次資料に依拠する『小部分』」とはなにか、「大部分」と「小部分」相互の関係割合が、かれの学的生涯において、研究プラン研究プログラムの進捗との関連でどのような変遷をとげてきたのか、と問うてみましょう。

ここでは細部にはこだわらずに大要を述べますと、病前/「初期」の主要業績はみな、「中世商事会社史」にせよ、『ローマ農業史』にせよ、「東エルベの農業労働関係調査」にせよ、それぞれに欠くことのできない一次資料を貪婪に蒐集し、そこからえられた知見を整序して成り立っています。ヴェーバーは、「ドイツ歴史学派」の一員として精力的に実証研究を進めており、かれ固有の研究テーマも、独自の方法論的関心も、もとより(後に形をなしてくるものから遡れば見えてくる)萌芽はあるにしても、まだ前景に現れてはいません。

ところが、拙著『ヴェーバー学のすすめ』第一章でスケッチしたとおり、精神神経疾患(1898年~)を契機とする近代的職業義務からの離脱/「自己沈潜」にもとづく生活そのものの実存的再編成にともない、かれを苦しめ、周囲の人々も虜にしている「近代的職業義務観」を歴史的に相対化し、経験科学の限界スレスレのところで概念によって捉え返し、ここからさらに「西洋近代の来し方/行く末」を見通そうとする、かれ固有の研究テーマと独自の方法意識が孕まれます。1903年ころからは、「倫理」論文と「ロッシャーとクニース」「客観性」論文とを当初の双極とし、経験的モノグラフと方法論とを相互媒介的に推し進める研究プログラムが、『社会科学・社会政策論叢』という格好のメディアをえて実施に移され、軌道に乗ります。ここに、いわばヴェーバーらしい「後期」ヴェーバーが姿を現し、経験的モノグラフとしては「主として二次資料に依存する業績」、方法論としては「そもそも一次資料を必要としない(あるいは、できあがったde facto業績をいわば一次資料に見立てて反省を加え、de jureを問う)業績」が続々と生み出され、重きをなしてくるわけです。この時期の(本人は予期していなかった死にいたるまでの)経験的モノグラフ類を、自足完結的最終的な完成作と見て、これにスポットを当てますと、そのかぎりで「歴史社会学者としてのマックス・ヴェーバー」像が結ばれるでしょう。しかしかれ自身は、自分の学問的営為を「歴史社会学historische Soziologie」とは規定しませんでしたし、この言葉を(おそらくは一回も)使っていません。「倫理」論文にも「客観性」論文本文にも「社会学Soziologie」という表記は皆無で、著者自身、「倫理」論文の末尾に近く、「この純然たる歴史叙述diese rein historische Darstellung」(GAzRS, I, S. 204、梶山訳/安藤編、359ページ)と呼んでいます。

さて、「初期」とは二分される「(広義の)後期」を、さらにどこでなにを規準として「中期」と「(狭義の)後期」とに分けるかは、優れて、解釈者による観点のとり方に応じて異なってくるでしょう。筆者は、1910年を画期と見ます。すなわち、この年の対ラハファール論争を契機に、それまでの「ロッシャーとクニース」(1903~06)、「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」(1904)、「文化科学の論理学の領域における批判的研究」(1906)、「シュタムラーにおける唯物史観の『克服』」(1907)、および(この二篇を忘れてほしくないのですが)「閉鎖的大工業労働者の淘汰と適応(職業選択と職業上の運命)にかんする社会政策学会の調査・方法論序説」(1908)、「工業労働の精神物理学に寄せて」(1908~09)における方法論上の(他の論客との対質をとおしての)模索が、ひとまず決着をみて、かれ独自の方法的立場が確立します。そして、「初期」以来獲得され集積されていた膨大な素材が、その後に(生前には主として二次資料を介して)蒐集される素材ともども、一方では「世界宗教の経済倫理」シリーズの(これこそ「比較歴史社会学」と呼ぶにふさわしい)諸労作、他方では「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」(『経済と社会』)と題する「法則科学的決疑論との双極に、方法自覚的体系的に整序され始めます。ここに、再起後十年におよぶ沈潜と模索をくぐり抜けて、再度「新しい創造の局面が始まった」と見ることができましょう。

ちなみに、この対ラハファール論争は、「反批判的結語antikritisches Schluswort」で終わっており、論争当事者ヴェーバーの作風から見て、つぎには当然、かれ自身のSyntheseないし新しいTheseの提示が予想されます。確かに論争の内容は、ヴェーバー自身が振り返って語っているとおり(GAzRS, I, S. 17、梶山・安藤訳、65-6ページ)、なんらうるところのない応酬だったにちがいありません。しかし方法上は、それ以降の再編成/再構築に向けていわば「否定的発展刺激」として作用し、この意味で重要だったと筆者は見ます。

さて、「儒教」(1915、改訂版「儒教と道教」1920)「ヒンドゥー教と仏教」(1916~17)「古代ユダヤ教」(1917~20)とつづく「世界宗教の経済倫理」シリーズは、「三部作」として一括して取り扱われるのがつねです。なるほどそれも、この「三部作」が、「倫理」論文末尾の注に明言されているとおり、「『倫理』論文を孤立させず、文化発展総体のなかに位置づける」ための、「普遍史[世界史]における宗教と社会との関連にかんする比較研究」(GAzRS, I, S. 206、梶山訳/安藤編、143ページ)として、その意味の「比較宗教社会学試論vergleichende religionssoziologische Versuche」という根本性格を共有しているかぎり、もっともな取り扱いというべきでしょう。しかし、そうした共通の基礎のうえで三者を類例として比較」してみますと、その間に方法上思想上の発展が見られ、興味をそそられます。

なるほど、「儒教」と「ヒンドゥー教と仏教」は、主としてシナ学/インド学の知見に依拠し、ただしばしば碑文/古文書/旅行記/宣教師報告/官報/新聞記事などの(翻訳ながら)一次資料と官庁統計も駆使して、(「倫理」論文では「資本主義の精神」に当たる)「経済志操Wirtschaftsgesinnung」「経済エートスWirtschaftsethos」を「関心の焦点focus of interest」とし、社会構造と宗教性の両面「も射程scopeに入れ」、そのあとに予定されている西洋における発展の分析にそなえ、「西洋の文化発展とは対照的であったか現に対照的であるもの」(拙著、37ページ)に照射を当て、それぞれの特性を鋭い概念に定式化していきます。そのかぎりでは、また、中国文化圏とインド文化圏とを、「基軸時代Achsenzeit」(紀元前500年前後の600年間を指すヤスパースの概念)以前から20世紀の同時代にいたるまで、それぞれ一篇の論文で一挙に扱いきる外延上極大の巨視的考察という点にかけても、両者は共通しています。ところが、両文化圏を東西比較のパースペクティーフのなかで捉える捉え方は、対象の性格を考え合わせても、「儒教」では静態的、「ヒンドゥー教と仏教」では(それに比べて)動態的です。そのうえ、それぞれの歴史的動態をクローズ・アップし、「西洋的発展との分岐点とおぼしき局面にさしかかるや、穿ち入り、掘り下げ、詳細に分析して(たとえば、排他的な一人格神[ヴィシュヌ]崇拝、救済道における呪術的/法悦的要素の排除、中産階級における「ゼクテ」形成といった[西洋的]条件が出揃った特例を含む、後期ヒンドゥー教諸ゼクテの比較分析)、東西分岐の歴史的根拠(上例についていえば、[西洋的]条件をそなえたゼクテにこそ顕著な「グル崇拝」を、上から統御し、その猖獗を阻止するに足る、官僚制的に合理化された教権制的中央権力の有無)を突き止めずにはやまない迫力が漲り、横溢し、可能でさえあれば(というのはヴェーバーのばあい、時間的余裕があって語学上のネックさえクリアできれば)必ずや一次資料による検証裏付けとそれにもとづくさらなる展開にも進んだであろうと読者に予想させ確信させるような、そういう度合いが、「儒教」から「ヒンドゥー教と仏教」にかけて、全体として強まっているとの印象を拒みがたく受けるのです。ヴェーバーが、第一次世界大戦後、『宗教社会学論集』の第一巻(1920)を編集するにあたり、初版「儒教」に大幅な改訂/増補を加えたのも、故安藤英治氏が調べ上げた細部の補正もさることながら、筆者にはむしろ、上記「動態分析における歴史的検証への潜勢力」ともいうべき特性における「ヒンドゥー教と仏教」以上へのレヴェル・アップのほうが、はるかに重要と思えます。ただ、そこのところを具体的に論証するとなると、両雄篇の「全論証構造」の分析と、「儒教」から「儒教と道教」にかけての「論証構造」再編成の追跡が必要とされますから、ここでは扱いきれず、『ヴェーバー学のすすめ』続篇に譲るほかありません。

ここでは、傑出したインド学者の故中村元氏が、「ヒンドゥー教と仏教」第一部邦訳の「あとがき」でつぎのように述べているところを、専門家の評価として引用しておきます。「ウェーバーの宗教社会学論集が実に歴史的意義を有する貴重な学的成果であるということは、学界において周ねく認められていることである。インドの宗教を論じた『ヒンドゥー教と仏教』という部分も極めて注目すべきものである。のみならず、読んでみてまことに面白いものである。世界の諸文明圏の宗教現象を広く扱ったウェーバーは、専門のインド学者でないために、所論の中の誤謬もかなり目立つが、それにも拘らず、日本におけるインド研究乃至東洋研究の発展のために、……日本語に移さるべきものであることは、言うまでもない」(1953、みすず書房、221ページ)。中村氏は、こうした評価にもとづいて杉浦宏氏に邦訳を依頼し、みずから専門家として「補注」を寄せ、「誤謬」を訂正したうえで、(明らかにヴェーバーの問題設定を引き継ぎながら)「社会科学の専門学者ではないために、早急に何らかの断定を下すことよりは、むしろ諸方面の研究者が利用し得るようなかたちで材料を紹介する」という目的で、『宗教と社会倫理――古代宗教の社会理想』(1959、岩波書店)を上梓されました。オットー・ヒンツェに比定すべき専門家/歴史家(中村氏のばあい主要には思想史家)のスタンスといえましょう。

しかし、ここでむしろ注目したいのは、「ヒンドゥー教と仏教」から「古代ユダヤ教」にかけての発展です。まず、「古代ユダヤ教」は、「儒教」「ヒンドゥー教と仏教」とは異なり、一文化圏の全範囲におよぶ巨視的考察ではありませんし、通史としての「ユダヤ教史」「ユダヤ史」でもありません。著者ヴェーバーは、古代パレスチナというごく限られた地域に焦点を絞り、「誓約連合時代」から「王政期」をへて「捕囚」後にいたる限られた時期(「基軸時代」)の社会変動と宗教発展に、考察を集中します。

いま、その中身につき、極限的に切り詰めたスケッチを試みなければなりませんが、なるほど問題はまず、インド文化圏との巨視的な比較から、イスラエルの民が、(「客人民Gastvolk」を吸引し、「パーリア・カースト」に編入してやまない)カースト秩序は欠如している環境世界のなかで、なぜみずから「パーリア民族Pariavolk(宗教儀礼上も疎隔される客人民)」となって現在(1917年)にいたっているのか、というふうに、比較歴史社会学的に設定されます。ところが、この民は、みずからを「パーリア民族」たらしめている(本来かくあるべからざる)現世の世界秩序が、神ヤハウェによって転覆され、みずからを「支配者民族Herrenvolk」とする本来の秩序に転換される日を待望し、そのために比較的単純な合理的日常倫理を遵守する「生き方Lebensfuhrung」を創始し、これを堅持しようとしました。ここで「比較的単純な合理的日常倫理」とは、「モーセの十戒」に要約されるような神の命令を日常生活のなかで遵守する義務が課されるだけで、わけのわからない呪術/煩瑣な儀礼/法悦や狂騒道(情動耽溺)などへの「非合理的」逸脱がなく、つねに「醒めている」という意味で「合理的」であって、ことさら「伝統主義的」ではなく、さりとてまだ「禁欲」でもない「自然主義」的倫理の謂いです。

こうした日常倫理の「文化意義」は、インド文化圏における個人単位の伝統主義的もしくは遁世的な救済追求との対比によって鮮明に捉え返されます。インド亜大陸では、原住の諸種族(ムンダー族、ドラヴィダ族)と、西北から波状をなして侵入した種族(インド・アーリア諸族)が、異種族ごとに互いに凝集/対峙し合って種族分業関係を形成する特異な歴史的/社会的先行与件から、現世の秩序が上下の「カースト(宗教儀礼上相互に疎隔される閉鎖的身分)秩序」として編制され、これが「業の神義論」によって正当化され、神聖にして永遠不変と見なされるようになりました。個々人の救済追求は、そうしたカースト秩序の枠内で、自分の属するカーストの伝統的儀礼義務を忠実に守ることで「輪廻転生」のさい上層カーストに「再生」するか、日常生活から離れて「瞑想」をこととする「遁世」の道を歩み、「輪廻転生」そのものから「解脱」して「涅槃」に入るか、どちらかに向かわざるをえませんでした。いずれにせよ、宗教的救済追求の実践的活力が、前者にあっては伝統的社会秩序を積極的に補強する方向に、後者においてはそこから逃れて消極的に補完する方向に、作用することになります。それに反して、古代イスラエルでは、(砂漠から都市城砦/集落への)漸移的草原地帯における半遊牧的小家畜(羊、山羊)飼育者層に特有の、(定住農民との)契約/契約遵守を死活問題とする生活様式から、神-人関係にも「契約berith」の観念が適用され、民が連帯責任をもって神の命令を遵守すれば、神ヤハウェも「約束を思い起こして」革命を成就し、全信徒を「パーリア民族」の地位から救い出してくれる、という民族単位の現世内的また歴史的な救済論が成立するにいたりました。

そのうえ、エジプトとメソポタミアとの狭間にある古代イスラエルの地では、交互に両帝国の侵略にさらされ、やがては捕囚にいたる民族の相次ぐ苦難から、「ヤハウェはなぜ、自分の忠実な民をこの苦境から救い出してくれないのか、これではいったいどこに神の『義』があるのか」との「神義論の問い」が、それだけ切実に問われざるをえませんでした。これに答えて(アモスからイザヤ、エレミヤにいたる)捕囚前の記述預言者は、「この苦難は、(ヤハウェが義を顧みないからでも、無力だからでもなく、逆に)上辺でしかヤハウェに従順でない不義不実の民に、ヤハウェが帝国の大王をも操って懲戒の笞を振るっている徴である(したがってヤハウェは、地上をあまねく支配する天上の王である)」という反通則的(古今東西の宗教性一般に見られる、ある神が利益を与えてくれず、災いをもたらすばかりなら、その神を捨てて有力そうな他の神にすり寄る――「与えられんがために与うdo ut des」――「合理的」な「通則」とは正反対の)解釈を打ち出し、ヤハウェを超越的で普遍的な人格神に押し上げると同時に、かの「比較的単純な合理的日常倫理」の内面化(「志操倫理的な醇化gesinnungsethische Sublimierung」)をもたらしました。そのあと、捕囚の苦難の経験から、一方では祭司が儀礼的疎隔障壁を強化して、救済待望を「パーリア民族」的地位に接合し、他方では第二イザヤの預言において、そうした地位から生ずる復讐願望とルサンチマンが緩和されるとともに、「苦難のしもべ」の神義論が生まれて、パウロ流の「救い主(キリスト)論」の歴史的先行与件が成立することになります。

このように、「古代ユダヤ教」の叙述は、ユダヤ民族の「文化圏」を、中国/インド文化圏と同じく、西洋とは異質の「他者」として措定し、空間的な巨視的比較によって「対照」的諸要素を探り出してきては「西洋における発展の分析」にそなえる、というものではありません。それはむしろ、当のユダヤ民族が当時の西洋文化圏自体の内部に「パーリア民族」として現に存在している事実と正面から取り組み、(すでに概念上用意された他文化圏の「対照」的諸要素を援用することによって)上記のとおりその特性と歴史的由来を問うところから出発します。そのうえで、当の「パーリア民族」性と結びつきながらも、後のキリスト教において当の結合から解放され普遍化される「比較的単純な合理的日常倫理」とその「志操倫理的醇化」傾向、「超越的普遍的人格神観」と「キリスト論」といった、今日の西洋文化圏の基礎をなす思想/エートスについて、その歴史的淵源を問い現在の読者をその現場に導きその発生状態に立ち合わせ追体験させようと読者との対話を繰り広げていくのです。

そのさい、著者ヴェーバーは、確かに「非専門家Nichtfachmann」(GAzRS, Ⅲ, 7. Aufl., 1983, Tubingen, S. 4, 5、内田芳明訳『古代ユダヤ教』上、1996、岩波書店、13、15ページ)として、ヴェルハウゼンやエドゥアルト・マイヤーを初めとする旧約学者や古代史家の(「一生を費やしても精通できない」と認める)膨大な専門的業績を、整理して継受し、慎重に参照しました。しかし、それと同時に、旧約聖書を初めとする一次資料から、当の発生状態にかかわる歴史的諸事実を復元し、それぞれが「かくなって他とはならなかったのはなぜか」を経験的に説明していきます。もとより、さらにいっそう非専門家の筆者には、専門的先行業績にたいするヴェーバー独自の貢献が、どこに、どの程度あるのか、その後における当該専門諸学の発展に照らして現にどこまで認めてよいのか、正確に評価することはできません。ただ、つぎのことだけはいえるのではないでしょうか。すなわち、一次資料としての旧約聖書の記載事項(たとえば、モーセがシナイ山頂でヤハウェから「十戒」を授かるという『出エジプト記』の記事)がそのまま歴史的事実を映し出しているわけではなく、むしろそこに象徴的に表現され、権威づけられている歴史的事実そのもの(たとえば「十戒」の歴史的成立経緯)については、聖書信仰からは自由な経験科学的考察をめぐらして「明証性」のある仮説を立て、そのうえで当の仮説の経験的「妥当性」を、できれば一次資料からの直接証拠、さなくとも間接的な比較証拠/状況証拠の積み重ねによって検証していかなければなりません(たとえば、「十戒」の歴史的起源を、レビ人が司牧のさいに携えた「罪」カタログの、「定言的命令」表への倒置に求め、当時の状況に照らし、遠くバラモンの類例も引いて立証しようとする、それこそ「目から鱗が落ちるような」ヴェーバー説)。そのばあい、ここでも「価値自由」に徹するヴェーバーのスタンスと、豊富な比較史的知識(状況証拠)とが、ただたんに(専門家には欠けている)視点と問題設定を持ち込むだけではなく、当の視点と問題設定にかかわる歴史的諸事実の復元と因果帰属にかけても、専門家に伍して引けをとらない、ヘブライ語への精通不足を補ってあまりある、とりわけ聖書信仰から自由な読者にも説得力があって腑に落ちる歴史社会科学的説明を、提供してくれているのではないでしょうか。さればこそ、ひとりの専門的旧約学者が、「イスラエル宗教をイスラエル人の生の地盤との関聯に於て把握すること」をめざす『イスラエル宗教文化史』を刊行するにあたって、「『古代ユダヤ教』の成果から最も深く学んだ」(関根正雄、1952、第8刷、1960、岩波書店、5ページ)と特筆することも、起こりえたのでしょう。ここにも、オットー・ヒンツェに比定すべきスタンスが表明され、実を結んでいるといえましょう。

そういうわけで、「三部作」でも「古代ユダヤ教」となると、「西洋における発展の分析」にそなえて、他文化圏の対照的要素ないし傾向を探り当てて鋭く定式化しておく、という準備段階から、すでにその「西洋における発展の分析」の内部に入り込み、その淵源のひとつを一次資料も用いて発生状態において捉える歴史・社会科学的研究という性格を色濃く帯びてきます。また、「三部作」以降の展開については、出版社の1919年10月25日付け新刊予告によりますと、「古代ユダヤ教」のまえに「西洋に特有の発展の一般的基礎(または、古代および中世におけるヨーロッパ市民層の発展)」「エジプト、バビロニアおよびペルシャの諸事情(またはエジプト、メソポタミアおよびゾロアスター教の宗教倫理)」が挿入され、「古代ユダヤ教」のあとには、「詩篇およびヨブ記」にかんする補足と「パリサイ人」(現行「古代ユダヤ教」付録)につづき、「タルムードのユダヤ教」、「原始キリスト教」、「東方教会のキリスト教」「イスラム教」および「西洋のキリスト教」が、「世界宗教の経済倫理」シリーズの続篇として執筆され、『宗教社会学論集』は全四巻本として刊行される予定だったようです(cf. Schluchter, Wolfgang, Religion und Lebensfuhrung, Bd. 2, 1991, Frankfurt am Main, S. 594)。これらが、著者の急逝によって頓挫せず、予定どおり執筆されていたとしたら、上記のような発展傾向と潜勢力は、(少なくとも「原始キリスト教」と「西洋のキリスト教」にかんするかぎり)ますます顕著に現れてきたのではないでしょうか。そして、その延長線上で、「倫理」論文末尾の研究プランと連結され、このプランが実施に移されて、「中-後期」ヴェーバーにおける探究の大きな円環が閉じられることになったのではないでしょうか。「大きな円環」というのは、「倫理」論文の「全論証構造」に見られる「プロテスタントの経済活動熱と近代的社会層帰属傾向」から出発し、フランクリンからルター/ルター派、「禁欲的プロテスタンティズム」を経由して「市民的職業エートス」とその現況に戻ってくる、西洋近世以降の「小さな円環」にたいして、当の「倫理」論文から出発して「基軸時代」の中国、インド、古代パレスチナにいたり、イスラム教と東方教会キリスト教の発展と対比しつつ、原始キリスト教、中世キリスト教をへて西洋近世に戻ってくる「世界史の旅」ともいうべき円環の謂いです。


森川剛光「羽入論文の実像と虚像」

2004年4月9日(本コーナーへの寄稿)

森川剛光「羽入論文の実像と虚像」


2004年4月9日


以下の文章は、森川様からウェーバーのメーリングリストに配信されたものです。

MWMLの皆様、橋本努様

森川です。こっちのマンションを引き払うために一時帰国しております。

ドイツに行っている間に、羽入氏の「世界的大発見」が掲載されて雑誌をチェックしてきました。もうされた方もおられるかもしれませんが。

まずZeitschrift für Soziologieに1993年に掲載されたMax Webers Quellenbehandlung in der "Protestantischen Ethik". Der Begriff "Calling" ですが、同誌には同論文掲載後最近のものまでチェックしましたが、同論文に対しては賛成反対ともよせられておりません。掲載されたがほぼ無視されているという状態です。羽入書284頁に「ドイツの社会学誌ZfSの二月号に掲載された。ちょうどその翌月の三月にはドイツで日独ヴェーバー・シンポジウムが開かれることになっていたので、タイミング的には好都合であった」とあり、あたかも読者は同誌掲載論文が「世界的大発見」でシンポジウムでも取りあげられたかのような印象を持ちますが、シンポジウムの結果はMax Weber und das moderne Japanで、また参加者証言からもそこで羽入論文が話題にもならなかったことが判ります。

またArchives europeennes de sociologieの方については、「(マックス・ヴェーバーによる/の意味の歪曲」)と題された特集号の、特集部分の巻頭論文として掲載されたもの」(羽入書284−285頁)とあり、掲載年が1994年であることから、「世界的大発見」であるZfS論文を受けて緊急特集が組まれ、その巻頭を羽入氏の論文が飾ったかのような印象を読者は受けるようになっています。しかし、特集は羽入論文を含めて、2本の論文からなり、もう一本の論文はパーソンズのヴェーバー翻訳を問題にしたPeter GhoshのSome problems with Talcott Parsons' version of 'The Protestant Ethic'であり、特集自体も雑誌の中程にあります。従って、同誌が羽入論文の立場を全面的に認めて大特集を行い、その巻頭を羽入論文が飾ったわけではなく、2本ある論文の一つでたまたま(おそらく取り扱う時代の順序で)最初にきたに過ぎないと思われます。「ヴェーバーによる意味の歪曲」を取り扱っているのは羽入論文のみです。また、論文に対する反響ですが、これまた同誌のその後数年間を見る限り、賛意も批判もよせられておりません。

自分のことを大きく見せたいのという欲望をもつことは結構ですが、この様なところを見る限り、詐術を用いているのはヴェーバーより羽入氏ではないかという思いを禁じ得ません。また、「ドイツ・ヴェーバー研究の世界に衝撃を与えた」というカバーの内容紹介部分も、宣伝コピーとして多めに見てきましたが全く事実とかけ離れています。また、この様な欧文雑誌をあたるだけで実体が判る「詐術」を用いるとは、日本の読者もなめられたものだと思います。


折原浩「ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理」論文の全論証構造」

『未来』2004年3月号掲載稿32-39頁(転載承諾有)

ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理」論文の全論証構造

折原 浩


『未来』2004年3月号掲載稿32-39頁

はじめに

橋本努が本誌一月号に「ウェーバーは罪を犯したのか」と題する論考を発表している。橋本は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の〈精神〉』(梶山力訳・安藤英治編、第二刷、1998年、未来社、以下「倫理」論文)をめぐる羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(2002年、ミネルヴァ書房、以下羽入書)と折原浩『ヴェーバー学のすすめ』(2003年、未来社、以下拙著)との「論争の第一ラウンド」について、論点を整理し、「羽入-折原論争」の第二ラウンドに向けて「土俵」をととのえている。筆者としては、橋本がむしろ論争の当事者主体となり、この「論争」についても「レフェリーないし行司」として責任ある判定をくだすように期待するけれども、今回はその「土俵」に乗り、「第二ラウンド」にそなえたいと思う。

「第一ラウンド」における羽入のヴェーバー論難は、もっぱら「倫理」論文第一章第二節「資本主義の『精神』」劈頭のフランクリン文献引用と、同第三節「ルターの職業観」冒頭の、ルターの聖句翻訳にかんする注記とに限定されていた。筆者も、羽入の論難に内在して反論を展開したので、その範囲も対象に即しておのずと狭まり、羽入が抽象的には語る「『倫理』論文の論証構造」については、筆者の理解/見解を全面的また具体的に展開することはできなかった。そこで、本稿ではこの欠を埋め、「『倫理』論文の全論証構造」にかんする管見を積極的に提示してみたい。というのも、「ヴェーバーは詐欺師である」との全称判断の当否が双方の「知的誠実性」を賭けて問われているこの論争を、橋本も要請するとおり実りあるものとするには、議論をせめて「倫理」論文の全体に拡大し、そのなかで羽入が論難する箇所の位置価資料選択の当否とを見定める必要があろう。また、そのようにして議論の対象と準拠枠を拡大すれば、広く第三者とりわけヴェーバー研究者から、見解表明を期待できると思われるからである。

一、「世俗内救済追求」への軌道転轍――ルター宗教改革の意義とその限界

ここでは、「全論証構造」について「倫理」論文の冒頭から解説を始めるのではなく、羽入の解釈とはもっとも顕著に異なると思われる論点から入りたい。そのうえで、著者ヴェーバーによる論旨の展開を八項目に集約し、最後に第一章第一節「宗派と社会層」に戻って、全篇を概観し、骨子を述べ、(もとより要約ながら)ヴェーバー的探究の全円環を再構成してみたい。

とすると、当の「もっとも顕著な相違」は、ルターによる宗教改革の意義(「文化意義」)を、フランクリン父子への「影響」も含めて、どう把握するか、という一点にあろう。羽入はそれを、旧約外典『ベン・シラの知恵』(以下『ベン・シラ』)におけるBerufの創始とその直接波及効果に求めているように見受けられる。ところが、「倫理」論文の第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」の全文を成心なく通読すれば、

㈠当の「文化意義」は、(もとより言語改革を重要な一環としては含む)ルターの宗教改革事業総体が、宗教思想上の根拠から「命令praecepta」と「福音的勧告consilia evangelica」とのカトリック的区別を破棄し、(前者のみを遵守する)「在俗平信徒」と(後者にもしたがう)「修道士 (世俗的救済追求者)」との(「大衆」と「達人」との)宗教身分二重構造を破砕した一点――しかも、まさしくこの消極的な一点――に求められている。ただその結果、(当の区別を前提とする中世的「世界像」のもとでは修道院行きの「軌道」に乗ってしまった)達人――というよりもむしろ、内面的に厳粛で「より高きを望んで精進する」ような「観念的利害関心」をそなえた、やがては達人たるべき「能動分子」――が、ルターによるこの軌道転轍以後は「世俗」にとどまり、その宗教的/実践的活力を世俗の「生活上の地位」「身分」「職業」にあって発揮する「世俗救済追求innerweltliche Heilssuche(禁欲Askeseとはいわず)」の道が開かれた。逆にいえば、宗教が信奉者を内面から駆動する精神的/心理的エネルギーが、世俗の修道院に(「世俗」の観点からみて)逃避/消散/蒸発してしまわなくなった。ところが、

㈡当のルターでは、このそれ自体としては画期的な「軌道転轍」が、他面伝統主義」への思想変化と手を携えて進んでいた。この経緯の、訳語選択への表現として、全体として伝統主義的な旧約外典『ベン・シラ』の、そのまた伝統主義的な一一章二〇節後半の「労働しつつ老年を迎えよ」の「労働ergon」と、同じく二一節中の「主を信頼して自己の職務に徹せよ」の「職務ponos」とに、聖句としては初めて、それまではもっぱら「宗教的使命」、「職への招聘」に当てられていた語beruffが適用され、「神与の使命」と「純世俗的職業」との両義を併せ持つ語Berufが創始されたのである。それは、一五三三年のことで、一五二四/二五年の「農民叛乱」以降とみに伝統主義に傾き、伝統的秩序内職業への各人の個別的編入を即「神の摂理」と見るにいたった翻訳者ルターの当の伝統主義的精神の外化・表現としてであった。

ヴェーバーが、キリスト教聖典のうちでは相対的に――新約正典、旧約正典、新約外典に比して――尊重され、宗派ごとに扱いのまちまちな旧約外典『ベン・シラ』の当該句を、「倫理」論文の第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」で真っ先に持ち出したのは、なにも『ベン・シラ』をもろもろの聖典のうちでもっとも重要と見、当該句をBeruf思想波及の原点他言語版諸聖典との結節点と見なしたからではなかろう。また、たとえば(ヴェーバーの問題関心・価値関係的遠近法においてはもっとも重要な)カルヴィニズムは「旧約外典は聖典」と軽んじていたから、『ベン・シラ』の当該句を、そうした宗派も含め、広くプロテスタンティズム諸派についてBeruf思想の空間的/時間的波及度――しかも、諸聖典における訳語選択への表出度というその面――を測定する定点観測点に見立てることもできまい。むしろヴェーバーは、旧約外典『ベン・シラ』は、内容上/方法上そうするにはもっとも適当と(キリスト教文化圏の読者にはとくに断るまでもなく)認めたうえで、かえって当該箇所が伝統主義との結合という特殊ルター的/ルター派的な制約を端的に示しているがゆえに、「ルターの職業観」の特性と限界を叙述する節の冒頭を飾るのに(かぎって)は相応しい、と判断したのであろう。このばあい「限界」といってももとより、宗教的本質的意義の限界ではない。「世俗的」であっても伝統主義ではなく、「合理的禁欲、それも教理ではなく歴史的形成をこそ、「関心の焦点」に据え、全篇の主題として「解明」「説明」しようとする「倫理」論文にとっては――この問題設定そのものにむすびついた特定の価値関係的パースペクティーフ(遠近法)」からみて、そのかぎりで――、ルター/ルター派には、まさに伝統主義への推転(主題としての「合理的禁欲からみれば逸脱」「迷走」「頓挫」)の点で、歴史的文化意義限界が認められる、という意味である。さて、

二、「世俗内軌道」上における「合理的禁欲」の起点――禁欲的プロテスタンティズム

㈢ルターによって敷設された「世俗的救済追求」の「軌道」のうえで、当のルターには欠けていた合理的禁欲への宗教的動因をつけ加えた――「伝統主義」から「合理的禁欲」への「さらなる軌道転轍」をなしとげた――諸宗派が、「プロテスタンティズム」のうちでも、ルター派ではなく、「禁欲的プロテスタンティズム」――カルヴァン派、敬虔派、メソディスト派、および(教理上の基礎は異なるが)「再洗礼派」系の諸ゼクテ――である。したがって、「倫理」論文の本論(第二章)は、「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」と題され、第一節「世俗内禁欲の宗教的基盤」では、もっとも首尾一貫した代表例としてのカルヴィニズムから始めて、当の宗教的動因が「倫理」論文全体の主題として分析される。すなわち、「二重予定説」のような教理上の与件から、いかにして「合理的禁欲」への「実践的起動力」が生まれてくるのか――その経緯(担い手個々人の内面的/主観的な「意味/(因果)連関」)が、後に「理解社会学」と命名される方法を駆使して、「明証的」に「解明」され、「理解」される。

たとえば「ウェストミンスター信仰告白」(一六四七年)に表明されている「隠れたる神」の「二重予定」を心底から信じた、カルヴァン派「大衆宗教性」の「信徒」を採って「理念型」を構成してみると、かれは、「この自分は、はたして『永遠の生』に選ばれているのか、それとも『永遠の死』に予定されているのか」との不安から逃れ、「救い(=選び)の確信」に到達して「息をつく」には、「(いかに洗練されたサクラメントであれ)呪術(=神強制)による救済」の退路は断たれているので、ただひたすら――伝統に逆らっても――「神の栄光」をこの世に広める「神の道具」に相応しく「行為」するよりほかはなかった。そして、一度でも「捨てられている徴」があらわとなって絶望の淵に突き落とされないためには、一瞬たりともゆるがせにせず、行為のひとこまひとこまを「選ばれた聖徒に相応しいか否か」の自己審査に委ね、そうした醒めた熟慮によって「生活営為Lebensführung(生き方、ライフ・スタイル)」全体を、計画的体系的に制御形成していき、よってもって(「自然の地位」に対置される)「恩恵の地位」を生涯にわたって堅持しようとしたのである。ところで、

㈣こうした宗教的動機づけによる「自己審査と熟慮による生活営為全体の制御/形成」すなわち「合理的禁欲」が、(ルターによって敷設され、カルヴァン/カルヴィニズムに継承された)世俗軌道のうえで、たとえば(当の世俗生活の領域としての)経済生活に持ち込まれると、初発には意図されなくとも、相応の「実践的起動力」/効力を発揮せざるをえまい。所与の経済的諸条件のもとにあって、右の意味で禁欲的合理的な「職業」労働による収益の増大、資本家機能への転身/転職、および絶えざる伝統的革新による資本蓄積といった経済的地位の向上に、伝統主義下に比してはるかに有利に作用せずにはいなかったろう。

さらに、そうした発展につれて、⑴機会さえあれば、伝統に逆らっても新しい資本家的「職業」に転出することや、⑵私的消費支出を極力抑えて利潤を追加投資にまわし、事業を拡大していっそうの利潤を取得することや、⑶かつての「産業的中産者(中産的生産者)」仲間を競争場裡で蹴落とし、いまや賃労働者として雇い入れ、呵責なく搾取して貧富の懸隔を拡大していくことや、⑷(それ自体としては歓びに乏しい)労働/労働搾取に耐えて勤労意欲を失わないことなどが、「(被造物としての人間の理解を絶した、二重予定の)神の摂理祝福」として宗教的に正当化されれば――宗教が教理としての自己同一性は保ったまま、「意義変化Bedeutungswandel」(ヴェーバー)「機能変換Funktionswechsel」(ルカーチ、マンハイム)をとげれば――、当の発展にはいよいよもって拍車がかけられることになろう。「倫理」論文第二章第二節「禁欲と資本主義精神」(の前半)では、こうした「宗教的禁欲の世俗的効力発現」の諸相が、鮮やかに分析されている。ところが、

三、「合理的禁欲」における宗教色の後退と「合理的ライフ・スタイル」の構造的再生産㈤そのようにして富が増えると、まずは平信徒個々人が、「原罪」(マルクス)ないし「富の世俗化作用」(ヴェーバー)に捕らえられる。すなわち、富が増えるとどうしても、獲得された富のうえに安住するようになり、高慢/激情/現世への愛着もつのらざるをえない。こうして、宗教的動機づけが世俗内で効力を発揮し、勤労と節約を媒介に(当初は「意図せざる随伴結果」として)富を産み出せば産み出すほど、まさにそれだけ宗教の根は涸れ、みずからの墓穴を掘る。

しかも、この「原罪」の作用は、当事者の認識/警告/抵抗の有無にかかわりなく、いやおうなく貫徹される。そして、「倫理」論文第二章第二節「禁欲と資本主義精神」(の後半への旋回点)における叙述の主眼は、この作用にもとづく逆説的関係の存立自体にあり、たとえばメソディスト派のウェズリーによる当該関係の認識/警告といった事実も、ただ当の作用の帯びる抗いがたい性質を引き立たせるために、後に副次的に書き添えられているにすぎない。むしろ、

㈥いっそう重要なのは、初発には宗教的に動機づけられた「禁欲的・合理的ライフ・スタイル」が市場における競争に打ち勝って「淘汰」に耐え抜くさまを、周囲の市場利害関係者が目撃し、「競争場裡で有利なモデル」と認定すると、当のライフ・スタイルがそのかぎりで、当該宗派の平信徒以外にも、宗教色抜きの経済的致富動機からも、まずは模倣され、やがて目的合理的に採用されて、普及していく、という事態である。このように、宗派のライヴァルが競争場裡に登場してくると、当該宗派の平信徒も、「原罪」の作用で宗教的動機は薄れるにせよ、なお――ここでは、姉妹論文「プロテスタンティズムのゼクテと資本主義の精神」で主題化される「ゼクテ仲間の監視下における自己主張」という契機は省くとして――市場における自己維持のためにも、「禁欲的・合理的ライフ・スタイル」の少なくとも外形は保持せざるをえない。こうして、(初発には宗教に媒介されて産み落とされた)「禁欲的・合理的ライフ・スタイル」が、こんどは「淘汰のメカニズム」によって再生産される。と同時に、担い手個人についても、市場利害関係者・経済行為者総体についても、当の「禁欲的・合理的ライフ・スタイル」の宗教的禁欲色は、この発展につれて徐々に後退し、やがては宗教的超越的契機を欠く「合理的ライフ・スタイル」すなわち「功利主義」に取って代わられることになろう。

四、「合理的ライフ・スタイル」における宗教的禁欲の残照――職業的営利エートスとしての「近代(資本主義)の精神」

㈦ちょうどその過渡期にあって「功利主義」への「転移」(キルケゴール)傾向をともないながら、なお宗教、それももっぱら禁欲的プロテスタンティズム」の残照をとどめ、世俗内の「職業」的営為を――したがって「職業」としての経済的営利追求をも――「職業義務」として倫理的にサンクション」し、拍車をかけているのが、第一章第二節で取り上げられ、右記のような「意味連関」「解明」の出発点とされていた「資本主義の精神」である。管見では、この「精神」は、「近代資本主義」を資本主義一般から区別し、近代経済のみでなく近代科学/近代政治/近代芸術など、近代的文化諸形象にかかわる近代人の人間活動一般を、ことごとく「職業」として自己目的化/専業化し、それぞれの生産性をそのかぎりで未曾有に高めた「実践的起動力」として、むしろ「近代の精神ないしエートス」と呼ぶほうが適切であろう。それはともかく、

㈧第一章「問題提起」第二節「資本主義の精神」では、近代的中産市民層/労働者層/資本家層の「合理的ライフ・スタイル」になお(ここには多く、かしこには少なく)残留する「集合態Kollektivum」的エートス――「合理的ライフ・スタイル」を構成する諸契機のうちで、「功利主義からみれば非合理的禁欲的契機――が取り出され、鋭い一義的(理念型)概念に構成されて、禁欲的プロテスタンティズムへの「意味/(因果)溯行の出発点に据えられる。そのため、(第一章第二節冒頭で当初の暫定的例示手段としてそのかぎりで一八世紀の人ベンジャミン・フランクリンの(無限に多様な経験的)衝動/感情/思想のカオスのなかから、合目的的に選択される素材が、実業家を志す青年への助言や『自伝』といった文書(の特定の語と語群)に外化/表明されている「意味形象」(「生き方」の範例)である。

著者ヴェーバーの「価値関係的パースペクティーフ(遠近法)」から見て「知るに価する」その「本質」は、「時は金なり」「信用は金なり」の二標語に象徴されるとおり、個人の生活時間と対他者関係とを一途に捧げて貨幣増殖に励め、との倫理的説教にある。なるほどそこでは、「勤勉」「節約」「正直」などの徳目が、「固有価値」として措定され「定言的命令」として「要請」されるのではなく、「貨幣増殖-信用獲得-(そのための)諸徳目」という手段系列に編入されているため、いつしか信用獲得という効果に力点が移動し、徳目遵守が相対化され、効果が等しければ「外見だけで十分」として内実は不問に付し、ばあいによっては(外見で人を欺いて同等以上の効果を期する)「偽善」に傾く趨勢(「客観的可能性」)を免れがたい。しかし、少なくともフランクリン自身は、外見と同時に内実をも重視し、「一三徳」を「習慣」(エートスēthos の原義)として身につけようと、「自己審査」手帳をつくって「自己制御」に努めていた。このようにフランクリンは、世俗生活者の「能動分子」として確かにルターが敷いた軌道のうえにはいたが、さりとて世俗内伝統主義者ではなかった。したがって、かれのこうした自己審査自己制御の精神的系譜をどんなに遡ってみても、カルヴィニズムには行き着くにせよ、ルターにたどりつくわけがない。

問題は、フランクリンという一人物の生きざま」そのものではなく、かれが少なくとも一面では体現していたエートス――「近代(資本主義)の精神」――の歴史的文化意義」にある。この点は、フランクリンと同じく貨幣増殖に一生を捧げ、一人物としてはひとしく公徳心の持ち主であったヤーコプ・フッガー(という前期的大商人の類例と比較してみると、鮮やかに浮き彫りにされる。すなわち、フッガーは、カトリックの教えにしたがって営利追求を「反倫理的」ないし「倫理外/非倫理的」と感得していたから、まさに貨幣増殖/資本蓄積の実を挙げれば挙げるほど、それだけ「良心の呵責/死後の懲罰への不安」にさいなまれ、私財をたとえば救貧集合住宅(「フッゲライ」)の建設に投じ、経済的慈善事業に「精神的保険料」を支払い、倫理的罪責感の埋め合わせをはからなければならなかった。それにたいしてフランクリンは、「近代(資本主義)の精神」によって、ほかならぬ職業としての貨幣増殖/資本蓄積をこそ「最高善」とも感得できたから、それに「最高の良心」をもって「なんの(宗教的ないし倫理的な)罪責感も憂いもなく」、明朗闊達に没頭することができた。経済的営利追求に内面から重くのしかかっていた宗教倫理的制約が取り払われたばかりでなく、なんと営利追求自体に最高のプレミアムがかけられた。かつては互いに正反対を向いて妨げ合っていた宗教倫理と経済的営利追求とが、ここでぴたりと一致し、後者に前者の拍車がかけられたのである。

五、総括――探究の全円環とヴェーバー固有の貢献

㈨ここで翻って「倫理」論文第一章第一節「宗派と社会層」に戻ると、冒頭では、近代市民的社会層(資本家、経営者、および近代的経営には欠かせない生産技術/経理などを担当する労働者)への帰属と、宗派所属との関係が問われ、前者におけるプロテスタントの(カトリックに比しての)相対的優位が確認されている。そのうえで、この相関事実を「説明」しようとする四つの先行仮説が、つぎつぎに反証を挙げて棄却され、「どう考えても特定宗派の古プロテスタンティズムとくにカルヴィニズムの信仰内容そのもの(経済的諸条件における歴史的/伝統的優位、元来の「世俗的性格」、「少数派」としての「過補償」動機、ないし営利と宗教との「反動」形成関係ではなく)が、平信徒の「弛緩分子」ではなく「能動分子」をこそ駆動して、経済活動熱をたかめ、近代的社会層帰属を促進している」との因果命題が定立される。

ところで、この因果関係そのものは、じつはペティら同時代の炯眼な観察者にも、(マルクスや)ドイツ歴史学派たとえばゴータインにも、認識されていた。そこでそれは、いちおう所与の前提とみなし、むしろ「では、なぜそうなるのか、信仰内容のいかなる要素が、どのように作用して、そうした帰結をもたらすのか」というふうに問題を設定しなおし、当の因果関係を「意味連関として解明」する(これは前人未到の)領域に踏み込む。すなわち、「古プロテスタンティズム」と「近代的社会層帰属」という両端の間に、多項目からなる「意味連関」を想定し、まずは最後尾の(人々の経済的活動熱をたかめ、近代的社会層帰属にいたらしめる)を(語形溯行ではなく)「意味溯行」の出発点に据える。そして、これについては方法上いったん宗教色を払拭して「資本主義の精神」と定義し、その核心になお認められる「非合理」的契機・エートス性から、背後の宗教性を予想し、(「近代(資本主義)の精神」一般の「文化意義」を「伝統主義」と対比して確定したあと)当の宗教性の具体的探索に移る。そこではなるほど、まずは(「プロテスタント」のひとりとしての)ルターを「射程には入れる」けれども、かれは前述のとおり「世俗的救済追求」への「軌道転轍」をなしとげ、Berufは創始したものの、その職業倫理は「伝統主義」に逸れて「合理的禁欲」への萌芽は認められないばかりか、むしろたとえば「わざ誇りWerkheiligkeit 」の原則的拒否において「合理的禁欲」には「逆行」している(だからルターは、「わざ誇り」を触発しやすい『箴言』二二章二九節の「わざmelā'khā, ergon」には、当の原語そのものはBerufを当てやすい語であったにもかかわらず、まさに「翻訳者の精神において」最後までBerufの適用を拒み通した)。まさにそれゆえ、ルター論は「問題提起」章の一節内で簡潔に切り上げ、むしろかれによって敷設された世俗内軌道上に、なお欠けている環を求めて「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」に視線を止め、照準を合わせる。そして、これをこそ「関心の焦点」/本論(第二章)の主題とし、そこからは歴史を下る方向に転じて、右記㈢~㈧の「意味連関」につき、多項目のひとつひとつを丹念に「解明」しながら、㈧で出発点の「資本主義の精神」に戻ってきた。こうして、全探究の円環が閉じられ、叙述が意味上完結したのである。

そういうわけで、この「倫理」論文全体特有の学問的貢献は、「『プロテスタンティズム』しかも『ピューリタニズム』が資本制生産様式に『照応』する、あるいは『商業精神』『資本主義精神』を『喚起』し、資本主義経済の発展を『促進』する」との、ペティ、マルクスおよびドイツ歴史学派には既知の因果関係そのものではなく、むしろ「なぜそうなるのか」を、当事者の「内面」「精神生活に分け入り、要旨右記のとおりの「意味連関として解明」したところに求められよう。ここに、(ゾンバルトの「ユダヤ的精神普遍化説」をいちおうおくとすれば)マックス・ヴェーバーに固有前人未到の功績があった。少なくともヴェーバー自身は、一九一〇年の「反批判」「反批判結語」論文で、自分の業績をそのように限定している(マルクスとの関係については、拙著、一四一~六ぺージ、ドイツ歴史学派との関係については、牧野雅彦の近著『歴史主義の再建――ウェーバーにおける歴史と社会科学』、二〇〇三年、日本評論社、参照)。また、なぜヴェーバーのみ――といちおういっておく――が、そうした領域を開拓し、内容ばかりか方法上も新しい独自の業績を達成できたのか、については、神経疾患による職業人化とそれにともなう苦悩という(余人には欠けているか、乏しかった)生活史的/実存的契機(拙著、第一章一、二節、一〇~一九ぺージ)の意義が重視されるわけである。

六、「定説」と学問的批判の要件

さて、以上が「『倫理』論文の全論証構造」ないしは著者ヴェーバーの「価値関係的パースペクティーフ(遠近法)における論点構成の全体」である。これはなにも、筆者独自の見解というわけではない。むしろ、専門的なヴェーバー研究における諸先輩(とりわけ梶山力、大塚久雄、安藤英治)の永年にわたる根気よい「倫理」論文解読と、「倫理」前後の諸労作にかんする先達のこれまた根気のよい研究の蓄積から紡ぎ出された「定説」であり、筆者による内容上の補足は、㈥点ほかごくわずかしかない。ただ筆者は、諸論点の全体を、筆者が著者ヴェーバー自身の「価値関係的パースペクティーフ」と確信する視座から、かれの方法論にも準拠して再構成し、多少メリハリをつけて叙述したにすぎない。

むしろ、「倫理」論文そのものについては素人の一般読者も筆者も、当該論文を成心なく通読しさえすれば、容易に読み取れ、テクストの価値関係的論理的構成そのものに照らして首肯される「論旨」「全論証構造」であるといってもよいであろう。筆者は、右の九項目を書きとめながら、あまりにもあたりまえの「常識」を縷々解説しすぎてはいないか、との不安に再三襲われた。ただ、この「常識」さえしっかり身についていれば、羽入書に動ずることなどありえないはずなのだ。

もとより、常識や定説を疑い、批判することは、大切なことである。懐疑と批判がなければ、学問の進歩はない。ヴェーバーが、「たとえ法の妥当性一般を否認する無政府主義者であっても、論証を重んずる研究者であれば、法学部に受け入れるべきだ」との持論を表明するさいに述べたとおり、「もっともラディカルな懐疑が、認識の父」なのである。

とはいえ、学問上の批判は、みずから「定説」の水準に達し、その内容を十分に知ったうえで、それを否認するならするで、理にかなう根拠を提示するばかりか、その根拠から積極的に「定説」を乗り越える、実のある新説」を提示するをそなえていなければならない。右のヴェーバーの言にも、「論証を重んずる研究者であれば」という留保条件がつけられている。人あって、否認されるべき「定説」を知らず、誤読/誤解にもとづく些事拘泥と針小棒大な架空の議論で難くせをつけ、罵詈雑言を浴びせ、もっぱら打倒/破壊をこととして自画自賛/自己陶酔に耽りつづけるようであれば、研究者としては論外であろう。

羽入辰郎が、ヴェーバーの「知的誠実性」を問うた論争の「第二ラウンド」に、みずからの「知的誠実性」を賭けて登場することを期待する。(二〇〇四年一月一五日)


折原浩「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答5」

2004年4月18日(本コーナーへの寄稿)

各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答5

折原浩


(2004年4月18日)

宇都宮京子氏の寄稿(3月4日、補遺3月22日)への応答

宇都宮さん、ご多忙のところを二回にわたり、ご寄稿ありがとうございました。「『コリントⅠ』7: 20問題」につき、周到な読解例を具体的に示されたうえ、そのスタンスを適切に、故世良晃志郎氏と同義の一般的指針に要約してくださいました。拙著『ヴェーバー学のすすめ』と「応答3」で提示した筆者の説を、いったん仮説に戻し、羽入説/牧野説と対比しながら、いっそう多くの具体的データで、いっそう綿密に検証し、妥当と立証してくださったのですから、筆者には間然するところがありません。宇都宮説が、どこでどう筆者説を乗り越えているか、具体的に再確認したうえで、こんどは宇都宮指針を残された一問題に適用し、管見を述べてみたいと思います。

「補遺」のほうから入りますと、

2-1. かりにヴェーバーが、『ルターは「コリントⅠ」7: 20のklēsisもBerufと訳した』と認め、主張したのだとしたら、ルターにおけるBerufの用法として、『エフェソ』他の『第一種』(純宗教的な「召し」「招聘」の意味)と、『ベン・シラ』の『第二種』(宗教的意味と世俗的意味とを併せ持つ「使命としての職業」の意味)との他に、まさに『コリントⅠ』7: 20のBerufを『第三種』(やはり宗教的意味と世俗的意味とを併せ持つけれども「召し出された世俗的身分」の意味)として加えたはずである。しかしヴェーバーは、じっさいには『第一種』と『第二種』を認めただけで、『第三種』は加えなかった。ということはとりもなおさず、『コリントⅠ』7: 20はBerufの用例ではないと考えていた証左である」という趣旨のご指摘、――そういわれてみると、目が覚める思いです。自説から導かれ、見つけ出せるはずの証拠に、なぜ自分では気がつかなかったのか、分かってみると不思議にも思えるのですが、よくあることではあります。

2-2. ヴェーバーによる時制の使い分けが、かれの問題設定と著述へのスタンス(自分の論稿を状況に投企し、読者と対話することへの意味づけ)にとって重要であることは、筆者もかねがね考えていました。今回も、争点となっている件の一文――①「終末論的に動機づけられた勧告においてklēsisをBerufと訳出」=過去完了、②「『ベン・シラ』を訳出」=過去、③「ponosをBerufで訳出」=現在完了、の三時制を含む件の一文――にかぎっては、①が過去完了であること、意味内容上パウロ/ペテロ書簡の終末論的勧告に該当すること、というふたつの論拠を挙げて、①の「終末論的に動機づけられた勧告」が、『コリントⅠ』7: 20ではなく、『エフェソ』他の「第一種」を指す、との結論を導いてはいました。

ところが、宇都宮さんは、この時制の使い分けにつき、件の一文のみでなく、そのコンテクストにまで範囲を広げて考え、検証してくださいました。(引用1)の「橋渡し」(現在形)を導入句とし、『コリントⅠ』7: 17~31を「普及版」と断わってほぼ逐語的に引用しているくだりは、直前の「ルターは『ベン・シラ』11章20節冒頭のdiathēkēにはBerufを用いなかった」(過去形)という趣旨の一文と、直後の引用2)「ルターは1523年の釈義ではまだ(noch)、klēsisをRufで訳していたし、当時は(damals)、Standと解していた」(過去完了)という趣旨の一文との間に挟まれているわけですね。

そこを、大塚訳は、前後とも「歴史的現在」で、梶山訳/安藤編は、前文を現在形、後文(引用2)を過去形で、それぞれ訳出しています。いずれにせよ、時制の使い分けが訳文だけでは分かりません。原著者ヴェーバー自身は、おそらく「普及版」を手元に置き、その文言とこれを読んでいる同時代の読者を念頭に置きながら、ルターの、旧約外典『ベン・シラ』における(ergon, ponosの訳語としての)Beruf「第二種」用法(「使命としての職業」1533年)と、新約正典パウロ/ペテロ書簡における(klēsisの訳語としての)Beruf「第一種」用法(「召し」「召された状態」1522/23年)とに遡り、主題にかかわる前者を基準時点として過去形、後者をその前段とみて過去完了形、で叙述しています。そうすることによって、同時代の読者が同時代の語Berufから遡って、「使命としての職業という語義がルターにおいて創始される現場に立ち会いそこからまた現在の普及版に戻ってこられるように過去の二時点と現在との間を行ったり来たりしているのでしょう。ところが、邦訳では、ヴェーバーのそうした姿が彷彿としてきません。むしろかれが、「スコラ的歴史家」のように、過去の二時点の出来事を、そのかぎりで取り扱い、したがって本来は当該時点の「原典」を用いるべきなのに、なぜかそれができずにやむなく現代の「普及版」で代用しているかのように、映し出されます。邦訳者自身は、必ずしもそう解していたわけではないと思いますが、「ヴェーバーの『杜撰』や『詐術』の証拠をなんとしても見つけよう」との先入観をもって臨んだ羽入氏は、そう速断し、それだけで「鬼の首でも取ったかのように」得意になり、自分の危うい解釈をもういちど原文に当たってチェックしようとはしなかったのでしょう。

2-3-1. 冒頭のAberがなににかかるかにかけては、「応答3」でもお断わりしたとおり、宇都宮さんのご教示にしたがいました。ここも、原文ではAberが、①「終末論的に動機づけられた勧告においてklēsisをBerufと訳出」という従属節(主語ルターにかかる形容詞節)ではなく、(②「『ベン・シラ』を訳出」した時点以降の)③「ponosをBerufで訳出」という主節にかかっているのですが、邦訳では、三時点①②③が段階的継起をなすかのように訳されているので、順次①→②→③にかかる、と受け取られ、①を『コリントⅠ』7: 20に特定する羽入/牧野解釈が誘い出されてしまうのでしょう。

ちなみに、上記の二論点からは、「学問研究においては、邦訳には頼りきれず、どうしても原文に当たらなければならない」という一般的指針が引き出されます。このばあい、梶山訳/安藤編にせよ、大塚訳にせよ、「倫理」論文の邦訳はもとより、優れた訳者による高水準の邦訳といえましょう。それにもかかわらず、いざとなると上記のような問題がじっさいには生じてしまうのですね。としますと、「高水準の両訳にして然りとすれば、ましてや他の標準ないし標準以下の邦訳においてをや」ということになり、「一般に邦訳に頼りきってはならない」という指針が引き出されます。

筆者の世代は、師匠や先輩から、「翻訳では学問はできない」と頭からたたき込まれ、「そんなの『原文権威主義』ではないか、『外国語権威主義』ではないか」と秘かに反撥しながらも、「おとなしくいわれたとおりにして」「習い性になった」というのが正直なところです。しかし、昨今の若い人たちは、そういう「頭からたたき込む」やり方には承服しないでしょう。ただ、外国語をきちんと勉強して原文を読もうとはしない一方、やたらにカタカナまじりの文章を書きたがるのも、いっそう軽薄で中途半端な外国語権威主義のようで、そうであるとすれば困りものですが。それはともかく、この宇都宮寄稿のように、「邦訳に頼ると、どんな点でどんな具合に原文を読み誤りやすいか」という肝心のところを具体的に解き明かしてくださると、これには若い人たちも納得がいって、外国語をきちんと勉強して原文を丹念に読もうと決心してくれるでしょう。そのうえ、その原文の読み方についても、「パリサイ的といえるくらいの原典主義者で、ドイツ語はもとよりラテン語/ギリシャ語/ヘブライ語にも通じているらしい羽入氏の『世界的な発見』にして上記のとおりとすれば、ましてやわが読解においてをや」というふうに受け止め、慎重に構えてもらえるとよいのですが。

さて、いま一点、件の一文中のdie sachliche Aehnlichkeitをどう捉えるかですが、筆者は、「召し出された現在の状態に止まれ」と「自分の職務に止まれ」というスタンスの類似に力点を置いて解釈していました。これにたいして宇都宮さんは、「現世のすべてを神の与えたもうた状況」と捉える思想が肝要で、これを媒介とすれば、「身分」であれ「職業」であれ、各自が「現世で置かれている客観的状況」は、「事実上sachlich」「神が与えたもうた状況」として本質上互いに「類似しähnlich」、「職業」も「神による招聘の一形態」と見ることができ、「客観的状況」に当てられたBerufを「身分」ばかりか「職業」にも当てられるようになる、と明快に解釈され、説明されました。だからこそ、「神の与えたもうた」身分なり職務なりに忠実に生きようというスタンスの類似も生まれるのだと、思想的媒介根拠という内的前提を取り出して、スタンスの外的様態に傾いていた筆者説のバイアスを是正してくださったわけです。

2-3-2. そしてさらに、ルター以降翻訳者たちも、そうした思想を共有していさえすれば、『ベン・シラ』につき、ルターの意訳改訳を(「拒否し」たり「見過ごし」たりするのではなく継承し、「使命としての職業」という「新しい語義」を定着させ、普及させていくばかりか、『コリントⅠ』7: 20 についても、ルターの訳語Rufを、ほかならぬルターの思想精神によって乗り越えこれにもBerufを当てることができることになりましょう。当の思想が継承されて、広汎なルター派信徒の間にルターの意訳を受け入れる素地ができ、まさにそれゆえ、それが「誤訳」として「退けられる」ことも、「いわれなき逸脱」「奇妙な不適訳」として「見放され」、「廃れる」こともなく、「新訳の創造と解され受け入れられ引き継がれ定着し拡大普及して現に読者が手にしている現代のまさに普及版にいたっているというわけですね。

たとえばBerufならBerufといった、現に自明性を帯びて通用している語の意味を、そのまま受け入れるのではなく、いったん発生状態に遡って捉え返し創始後の運命に(上記「新創造」、「拒否」、「廃棄」という)三つの理念型を区別することによって、意訳にともなうリスクを明るみに出すと同時に、それ以降の翻訳(翻訳者)連鎖をその都度の意味創造として捉えていこうとするこの構想は、ヴェーバーの研究実践とその潜勢から宇都宮さんが引き出した創見/卓見で、広く「言語にかんする歴史社会学」的研究に有効な指針と作業仮説を提供するのではないでしょうか。このコーナーは、片方の主役である羽入氏が登場せず、目論まれた主対決/主論争としては不発のまま足踏み状態にありますが、橋本努氏の呼びかけに答えて寄せられた論稿のなかに、こうした卓見が現れたことひとつをとってみても、内容上は大きな意義があると思わずにはいられません。

では、こんどは筆者が、この宇都宮指針を引き継いで、残された問題に適用してみましょう。ヴェーバーは、上の(引用2)に明記しているとおり、ルターが1523年の釈義ではklēsisをRufと訳し、Berufとは訳出していなかった事実を、確かに知っていました。また、ルターにおけるBerufの用法につき、時期を限定せずに二種類を区別し、「第一種」として『エフェソ』他の該当個所を列挙しているのに、そこにコリントⅠ7章は含めていません。『コリントⅠ』については、1: 26を含めていますが、この箇所は、ルターの初訳(1522年)ではRufだったのが、1526年度版の第二版からBerufに改訂されています(拙著、129ページ、注17、参照)。ですから、ヴェーバーが1526年度版の第二版以降のなんらかの版を使って、「第一種」の用例を調べたとしますと、1: 26を含めたのは、必ずしも引用ミスではなかったことになります。ただ、正確を期するとすれば、初期(1522~26年度第一版)にはまだRufであった旨を注記しなければならなかったでしょう。この「1526年度版の第二版以降の版」とはいつの版か、また、(ヴェーバーは、ルターが生涯にわたって聖書翻訳の改訂をつづけたこと自体は当然承知していたでしょうから)厳密にいえばルターの没年(1546年)にいたるまでの全版を網羅的に調べ上げる必要があったわけですが、はたしてそうしたのかどうか、(そこまではしなかったとして、では)どこまで調べたのか、などのことは、いまのところはっきりしません。しかし、時期を限定しない「第一種」の用例挙示に、『コリントⅠ』7: 20は含めなかった事実から、「この箇所はルター没年にいたるまでBerufではない、1523年のRufが改訂されず、そのまま残されていた」と判断していた蓋然性が高い、と推認されましょう。

では、ヴェーバーはなぜ、そのことに触れなかったのでしょうか。この問題について、宇都宮さんは「むすび」で、「……上記のように解釈すれば、触れる必要がなかったことも確かであると思われるし、またもっとありそうな理由として、ruffと訳されていたことを書くことによって、却って論旨が分かりにくくなる可能性があると判断したということも考えられる。もし、後者の理由であったとしても、それは、杜撰さや知的不誠実性によるのだとは言われないであろう」と結論づけておられます。

さて、そこのところ、もう少し立ち入ってみると、どうだったのでしょうか。こんどは筆者が、宇都宮指針から、「触れる必要がなかった」という説を導き、その証拠を突き止めて、お返しをする番です。

この間、羽入書の「衝撃力」に幻惑され、「全論証の要」との独断に引きずられたのか、数あるヴェーバー著作のなかから「倫理」論文一篇、それも第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」、しかもその冒頭に見られる三注のひとつに、いきなり飛び込み、当該注があたかも独立の論文、しかも主要論文であるかのように、そのなかの二三の論点に無条件無制約/に没頭し、些事拘泥/針小棒大というほかない議論が繰り広げられてきました。しかし、テクスト読解にあたっては、本文と注とを区別し、注は注として、それがそもそも本文のいかなるコンテクストでいかなる論点に付され、どんな趣旨の敷衍ないし補足をなすのか、本文そのものからいかなる限定を被っているのかよく確かめてから、またよく確かめながら読まなければなりません。こういうことは、テクスト読解法のイロハに属することで、一般論としてはだれも否定しないでしょう。しかし、今回の羽入書事件は、そうした基本が、ばあいによっては専門家によってさえ、いとも容易に無視され、忘れ去られるという脆弱な学問風土を、はしなくも露呈したといわざるをえません。

しかし宇都宮さんは、当該の(なるほど、注記にしては並はずれて長大で、内容も圧縮されて豊かですから、独立の論文に見立てる理由もなくはない)注記を、正しく本文のコンテクストに戻して読まれました。原文には、「今日の意味におけるこの語[Beruf]das Wort in seinem heutigen Sinnは、聖書の翻訳に由来し、しかもそれは原文の精神ではなく、翻訳者たち[複数]の精神に由来している[現在形]」(GAzRS, Ⅰ, S. 65)とあって、この一文の末尾に注1(邦訳では注2)が付されています。そのあと、「この語[Beruf]は、ルターの聖書翻訳において、まず初めにzuerst『ベン・シラ』のある箇所(11章20/21節)で、われわれが今日用いているのとまったく同じ意味でganz in unserem heutigen Sinn用いられているように思われる」(a. a. O.)との一文がつづき、これにも末尾に注2(邦訳では注3)が振られているわけです。宇都宮さんは、羽入氏が折角、翻訳者が複数であることに着目しながら「ヴェーバーが重視しているのはルターただひとり」と速断した点を批判し、ルター以降の翻訳連鎖視野に収め、注記内容が、本文のこの趣旨を過去の経緯に遡って具体的に解き明かし(Berufの語義が、いかなる形で「翻訳者たちの精神」に由来し、今日におよんでいるか」の問いに答え)、本文を補完している(本文と注との)意味関係を的確に復元されました。

ところで、本文と注との関係をいま一歩立ち入って検討しますと、なるほど上記の注記内容が(邦訳の)注2に出てくるのであれば、宇都宮説は意味上厳格にも整合的といえましょう。しかし、それがじつは(邦訳の)注3に出てくるのです。注2はといえば、注3にくらべてはるかに短く、しかも翻訳者たち、翻訳者群像ではなくて、もっぱら「アウグスブルク信仰告白」を取り上げ、そこでは「この[「使命としての職業」という]概念が、部分的にしか展開されず、公然と表明されてもいない」(GAzRS, Ⅰ, S. 65 Anm.)と、消極的な位置づけを与えるばかりです。念のために申し添えますと、「アウグスブルク信仰告白」とは、1530年のアウグスブルク国会で、ルターの盟友メランヒトンが読み上げたプロテスタント派の信条ですね。ルター自身は「法律的保護停止刑」を受けている身で、この国会に出席できず、ザクセン選帝侯領最南端のコーブルク城に長期滞在して、メランヒトンと手紙で頻繁に連絡をとる以外なすすべがなく、そうした間接的関与に止まらざるをえませんでした。ヴェーバーによれば、たとえばその16条は、「世俗の政府警察婚姻などのいっさいを、神の秩序Gottes Ordnungとして尊重し、各人がそうしたもろもろの身分Ständeにあって、キリストの愛と善行とを、その»Beruf«に応じて証しすべし」と要求しているけれども、このばあいの»Beruf«とは、(ラテン語版ではたんに「そうしたもろもろの身分[神の秩序としての政府、警察、婚姻など]にあって、善行をなせin talibus ordinationibus exercere caritatem」としか記されていない事実からも推認されるとおり)少なくとも第一義的には「『コリントⅠ』7: 20の意味における客観的秩序objektive Ordnung im Sinn der Stelle Ⅰ Kor. 7: 20」に当たり、まだ世俗的職業は指していない、というのです。

ところが、「アウグスブルク信仰告白」のそうした「限界」が確認されますと、そこからはただちに、では、数ある翻訳者のうちでも、メランヒトンら「アウグスブルク信仰告白」の起草者ではなくルターが、しかも直接に関与して「使命としての職業」という概念を「(部分的にでなく)全面的に展開し、(黙示的にでなく)明示的に表現する」のはどこか、という問いが発せられます。そしてヴェーバーは、この問いに答えて、それこそ三年後(1533年)の『ベン・シラ』11: 20, 21の翻訳においてらしいと、上述のとおり本文に明記し、そのうえで、その詳細な歴史的経緯は注3に送り込む手筈を採ったわけです。

こうした脈絡を念頭に置いて注3を読み返してみますと、じつはそのなかにも、しかも重要な箇所に、「アウグスブルク信仰告白」への論及があります。例の三時制を含む一文のあとには、改訂時の挿入をとばすと、つぎのように書かれています。

「その間(あるいは、ほぼ同時期の)1530年には、アウグスブルク信仰告白が、プロテスタントの教理を確定し、カトリックの――世俗道徳を[たんに「命令praecepta」のみを守る「大衆倫理」として]蔑視し、修道院における[「福音的勧告consilia evangelica」にもしたがう]実践によって凌駕すべしと説く――教理に無効を宣していたが、そのさい『各人には、それぞれの»Beruf«に応じて』という言い回しが用いられていた[過去完了](前注注2を見よ)。[①]このこと[アウグスブルク信仰告白が(Rufではなく)Berufを用いていたこと]と、[②]まさしく30年代の初葉に、生活のすみずみにもおよぶ、まったく個別的な神の摂理にたいするルターの信仰が、ますます鋭く精細に規定される形態をとるようになった結果、各人の置かれている[個別の]秩序を[したがって「身分」よりもさらに個別的な「職業」をも]神聖なものとして尊重するかれの捉え方が、本質的に強まってきたこと、それと同時に、[③]世俗の秩序を、神が不変と欲したまうた秩序として受け入れようとするルターの[伝統主義的]傾向が、ますます顕著になってきたこと、――これら[①②③]のことが、ここで[『ベン・シラ』11: 20, 21で]ルターの翻訳に現れている[現在形]。»Vocatio«とは、まさに伝来のラテン語では、神聖な生活への、とくに修道院生活あるいは聖職者生活への神の召命/招聘Berufungという意味で[それだけに限定して]用いられていた[過去完了形]が、ルターのばあいには、かの[修道院実践による世俗内道徳の凌駕を説くカトリックの教理を無効と宣して、世俗内道徳をこそ重視する、上記プロテスタントの]教理の圧力を受けて、世俗内の『職業』労働が、そうした[従来は修道院生活あるいは聖職者生活への招聘に限定されていた、神による]召命/招聘の色彩を帯びた[過去形]のである」(GAzRS, I, S. 68、梶山訳/安藤編、143-4ページ、大塚訳、106-7ページ)。

一見、注2注3とでは、「アウグスブルク信仰告白」にたいする評価が、消極的から積極的へと変わっているようにも見受けられます。しかし、じつはそうではありません。なるほど「アウグスブルク信仰告白」では、一語»Beruf«にかぎれば、その意味は「客観的秩序」「客観的状況」の域を脱してはいなかったでしょう。しかしそこで、プロテスタントの教理が公に宣言され、世俗内道徳にたいするカトリック的貶価が退けられた意義は大きく、世俗的道徳を実践する場としての「職業」が、それだけ浮上し、宗教的意義を帯びてきます。三年後の『ベン・シラ』訳では、まさにそうした「教理の圧力を受けて」、いまやその「職業」にも(これにこそ)»Beruf«が当てられ、ここに初めて、聖俗二義を併せ持つ「使命としての職業」を表す語Berufが誕生するというわけです。しかも、メランヒトン、ルターらの宗教改革は、スコラ的な語義/語形論争ではなく、強大なカトリック勢力を向こうにまわして民衆や諸侯の心を捉えようとする社会運動であり、熾烈で尖鋭な社会的闘争でした。したがって、「アウグスブルク信仰告白」でいったん公に登録され、語義としても一歩手前まできていた»Beruf«を捨ててRufに差し替える理由も必要もなく、かりにだれかがそうした提唱を試みたとすれば、「運動/闘争にとって無意味であるばかりか、無用の疑義と混乱をまねく」として退けられたにちがいありません。

とすると、ではなぜ「アウグスブルク信仰告白」で、Rufでなく»Beruf«が採用され、公に登録されたのか、と一時点遡って同じ問いを問うことはできましょう。この問いは、厳密にいえば、1530年以前の資料、たとえばメランヒトン-ルター書簡を調べて究明すべき、独立別個の問題で、ここで立ち入るわけにはいかず、(多分)未解決の問題として「開いておく」ほかありません。が、おそらくは、カトリックの勢力/その教理と対抗して、プロテスタントの教理と、この教理に整合する秩序観/身分観を強く打ち出すには、Rufよりも相対的に強勢をともなう語形Berufのほうが、インパクトがあって、運動に適合的と判断されたのではないでしょうか。

他方、Rufについては、ルター以前のドイツ神秘家タウラーに、農民のRufを聖職者のRufと対比して遜色がないものと評価する用例が見いだされるそうです。この事実には、ヴェーバーが同じく注3の、少しまえのところで論及しています(拙著、75-6ページ、参照)。しかし、「この語Rufは、この[タウラーが用いた、世俗的職業の]意味では、世俗語のなかに入り込んではいかず現にその意味で用いられてはいない[現在完了]」というのです(現代ドイツ語の辞書類を調べても、Rufの見出しのもとに「職業」の語義は見いだせません)。ルターも、なるほどタウラーらドイツ神秘家の影響を受け、『キリスト者の自由』他に、思想的に響き合う箇所があって、語Rufのタウラー的用法を引き継いでもおかしくはなかったと思われるのですが、じっさいにはそうしませんでした。けっきょくのところ、タウラーのRufは、宇都宮作業仮説にいう「早過ぎた」「変則的逸脱」として「注目されず」、ルター初め受け継ぐ者がなく、Berufが「新創造」として受け入れられていくかたわらで廃れて」いった、ということになります。ヴェーバーが、注3の上記箇所で、わざわざタウラーの先行例に論及したのは、まさにこの点を上記のとおり確認しておく必要があったからでしょう。したがって、「使命」という宗教的意味あいを帯びる「世俗的職業」という語義のかぎりでは、ルターにおいても、ルター派においても(ここではさらに『コリントⅠ』7: 20から排除されて)廃語となったRufの歴史的運命は、「現に使命としての職業という意味で用いられている語にかぎって、語義の由来を問い、現在にいたる翻訳連鎖も見通しておく」という本文の趣旨(注記に送り込まれる課題の限定)からも、もとより、現に語Berufで表現される職業義務観歴史的由来を問い、宗教的背景に遡ってその成立経緯と(「禁欲的プロテスタンティズム」における)「合理的禁欲」への転態の諸相とを解明/説明するという「倫理」論文全体のテーマ設定/「全論証構造」からしても、それ以上詮索する必要がなかったといえましょう。

宇都宮さん、いかがでしょうか。宇都宮指針/作業仮説を、その潜勢を含めて継受し、「Ruf問題」に適用して、その有効性を例証することができていますでしょうか。

それはともかく、宇都宮さんが、その周到にして緻密な論証のスタンスを一般的に要約しておられる箇所は、ここに引用し、繰り返し強調するに価すると思います。

「もし、本当に知的不誠実さを立証しようとするのならば、まず、相手が、100%知的に誠実であると前提して検証を進め、なるべく相手の文脈に沿って正確に理解しようとあらゆる努力をし、それでも問題が生ずるときに初めて、そこに不誠実さが介在したと判断すべきだろう。」

「細かい点では、ヴェーバーに全くミスがなかったとは言わないが、それでも、『なぜ、ここでヴェーバーは、表現を変えたのか』というように、理由なくしては、ヴェーバーは、いい加減な用語の変更はしない、という前提のもとに研究を進めてきた。そして、その結果として改めて、彼のなるべく厳密に論を進めようとするヴェーバーの姿勢を確認するということもしばしばあった。それは、ヴェーバーの権威に寄りかかろうとしているわけではなく、ヴェーバーの知的誠実さを前提にしているというだけのことである。また、私は、ヴェーバーだけでなくどのような研究者の業績を研究対象とする時も、その研究者を、まず知的に誠実であると想定して、そこから研究を進めたいと思っている。」

まずは相手の誠実性あるいは論理性を前提とし、「己をむなしゅうして」相手に迫ろうとすればこそ、相手の真価を学ぶことができるし、(ばあいによっては)相手の不誠実も矛盾も見抜き、論証することができる、この「対象に就く(Sachlichkeitの)」精神こそ学問の真髄であり、そうした謙虚さこそがじつは強さである、というこの一見逆説的なスタンス――これを、このコーナーにアクセスされている若い学生/院生諸君には、ぜひ二篇の宇都宮寄稿から学び取り、会得していただきたいと思います。

そのスタンスは、筆者が、金子武蔵、世良晃志郎といった優れた先達から学んだことでもあります。そして、筆者は、このスタンスを、みずから「ヴェーバー『経済と社会』全体の再構成」という学問研究に活かそうと精進しながら、ヴェーバー他、古典文献の読解ゼミを通して、広く学生/院生諸君に会得してもらおうと努力してきました(そういうゼミにかつて付き合ってくださった丸山尚士氏から、このコーナーにも寄稿していただいて、筆者はとてもうれしいです)。というのも、こうしたスタンスにもとづく明晰で強靱な批判的思考/思考力が、学者/研究者のみでなく、世の政治家/外交官/ジャーナリスト/弁護士/社会運動家などに広く普及していけば、テロを(テロとし、国際犯罪として、限定的に対処するのでなく、無概念無論理に)「新しい戦争」と称して闇雲に拡大報復/侵略戦争に乗り出すような、愚かで傲慢な手合いに、いちはやく歯止めをかけ、追随して振り回されることなく、振り回されつづけることなく、健やかに生きられるにちがいありませんから。

(2004年4月18日)


高橋隆夫「論争の展開」への感想

2004年4月21日(本コーナーへの寄稿)

「論争の展開」への感想

高橋隆夫


2004年4月21日

橋本様、始めまして。

高橋隆夫と申します。

突然のメール、大変失礼致します。

「羽生-折原論争」については多少の関心を持っており、貴サイトを見つけ、議論の発展を期待しております。

参加者は「プロ」-学者だけか、と思っていましたら、

鈴木あきらさんのように「素人」も発言されていたので、

同じく小生も参加権ありかな、と失礼をも省みず、メールさせて頂いております。

まずは、小生の立場から。

小生はごく普通の会社員(57歳)、一応、大学の経済学部を卒業したことになっております。

我々にとってウェーバーは、まさに「知の巨人」

(どこかのジャーナリスト=インチキ「虚人」ではありません!)

でありまして、ウェーバーを読むということは、難解への挑戦として

憧憬の対象であり続けています。

「プロテスタンティズムの倫理」は、これまでに2回通読しています。

1度目は学生時代、河出書房版「世界の大思想」シリーズの安倍行蔵訳、

2度目は89年、大塚先生の岩波文庫の改訳版が出た時。

この時は読了後、「俺の頭もまだこの本が読み通せる程度にはボケていないのだ」

と、自分をほめてやった記憶があります!

さて、昨年末、書店で「山本七平賞受賞」と帯を付けた羽入本を見つけ、

購読した時は、確かに面白かった。

しかし、読了後「これはえらいこっちゃ、これが本当のはずはない、

もし、本当だったら、我々の知の憧れ、知の巨人は一体どうなるのだ、

世間ではどう評価されているんだろう、

『山本七平賞』というが、山本ベンダサンはインチキだが、

山本書店は真面目な出版社だったし…どの程度のものなのか」

などと考えて、今は便利ですねえ、インターネットで調べると、

折原先生がちょうど反論書を出版されたということを知り、

こちらは書店で見つけられなかったので、ネットで購入して読みました。

小生、これまで不勉強にして、折原先生を存じ上げませんでしたが、

ありがとうございました、誤った判断を持ち続けないでいることが出来ました。

学者としては「素人」ですが、読者としてはこの道50年の経歴ありです。

読書人としての判定としては、折原先生の完勝です。

と、ここまでは鈴木あきらさんと同じような結論に至ったように見えますが、

ちょっと待って下さい。

もし、「犯罪」本の著者がジャーナリストだったり、作家なのだったら、

それでもかまわないのかも知れません。

(それでもよくない、ということは後で書きます。)

しかし、羽入氏の経歴をネットで調べると、

現在、某大学の主任教授をなさっているではありませんか。

学生に「厳密性と確実性に基づく論理的及び客観的な思考能力を高め」ることを

教育されている訳です。

その教育者が自分の著書に対する本質的な反論を受けて、

しかも論議の場所がインターネット上に公開されているというのに、

当サイトで堂々と自らの見解を明らかにしない、

というのは、一体どういうことでしょう。

…このサイトに限らず、ネットでサーチする限りは、

羽入氏からの反論を見つけることはできません。

(或いは、今忙しくて時間がないから、ということなのかもしれませんが、

折原先生、雀部先生共時間の余裕などない中、

『学』のために真摯に取り組んでおられるのです。対決すべきです。)

鈴木あきら氏が、ちょうど竹内久美子の例を出してくれているので、

これにのっとって話をしてみますが、

鈴木氏のように「面白ければいいじゃないか」というのは現代の悪しき風潮だと思います。

竹内久美子の著書は「生物学風に味付けされた」社会評論ですが、

この「生物『学』風」という所が問題なのです。

彼女が、世の男女のなりわいについて、どのように評しようが、本人の自由ですが、

そこに学問=『学』の装いをまとわせていることが大きな問題です。

しかも、それは著者だけの問題ではなく、読者の方もそのような書物を読んで、

単なる「ヨタ本(失礼!)」を読んだのではなく、

生物学の一端に触れたような、ある種知的な自己満足を得られる。

(…この種の本はそのような目的で出版されている。)

「大衆社会」における『知』の取り扱われ方が、ここに現れているような気がします。

鈴木氏は竹内氏のことを「動物行動学者に連なる文脈で捉えている人はいない」といいますが、

今でも読者の大半は「生物学者」or「生物学の専門家」と思っているのではないでしょうか。

少なくとも、彼女の愛読者が、読んだことのない人に彼女をすすめる時には、

「語り口のうまい芸人ですよ」とは勧めないでしょう。

「『遺伝学に関連する』面白い本があるんだ」と勧めませんか?

…いい方を変えれば、「推理小説のように面白い遺伝学の本」として読まれているのが

実際ではないでしょうか。

「学」を装った口当たりのいい論評、しかもそれが旧来の常識を覆す!

(そして、且、その結論は読者の居場所を肯定し、居心地を良くさせる。)

他にも色々ありそうに見えてきませんか。

小生は、「犯罪」本が(そしてその著者も)そのような「面白い知的な本(著者)」として、

世に認知されてはいけない、と思うのです。

…竹内久美子問題も、当時生物学者は頑張って反論したはずですが、

「大衆社会」は現在も、彼女を受け入れていますね。

しかし、彼女のせいで「利己的遺伝子」についての考えが、世間で誤解されるなど、

彼女は現在も、生物学に対して害毒を流し続けていると、小生は考えます。

その意味で、折原先生が「知の誠実さ」を実践しておられる姿は、本当に敬服の念に耐えません。

先生が今回の論争の中から少しでも「学」のヒントを見つけられ、

「『経済と社会』の再構成」のご研究が実り多きものとなりますよう祈念し、筆をおきます。



羽入-折原論争の展開  [1] [2] [3]