社会科学の人間学

Philosophical Anthropology of Social Sciences

橋本努『社会科学の人間学 -- 自由主義のプロジェクト』勁草書房、1999年刊

自由主義社会の新たな秩序構想へ


ウェーバーの主題を発展的に継承し、

社会を多元的に豊饒化するための

来るべき人間像を彫琢する。

【帯・表】


一般に自由主義は、社会の基本構造(制度)を正当化するための論理を探求するが、これに対してわれわれは、そうした「制度としての自由主義」を内容として豊かなものとするために、「プロジェクトとしての自由主義」というものを探求したい。われわれが反対するのは、制度としての自由主義を認めながらも、人格理念上は自由主義に反対するという議論の建て方である。「制度としての自由主義」を補完するものは、人格理念上の自由主義でなければならない。そこで問題は、自由な社会を豊饒化(複殖)する担い手=人格の理想とはどのようなものか、ということになる。(序章より)【帯・裏】


目次

橋本努『社会科学の人間学』勁草書房(1999)

目次


まえがき

序章 問題

0.方法と人格

1.自由主義の人間的基礎

2.ウェーバー研究の批判的継承

3.課題の構成


第一章 人格論:近代主体と問題主体

0.問題

1.人格論

  1-1.人格とはなにか

  1-2.人格の諸次元1:人物特性と関係形成

  1-3.人格の諸次元2:パーソナリティ要因

2.近代主体

2-1.近代的人格像

2-2.究極的価値をもつ近代設計主体

2-3.実践的人間:職業人

2-4.社会科学的人間

2-5.文化人:意味づける主体

2-6.賤民知識人

2-7.変革主体:予言者と近代

3.問題主体

  3-1.問題主体の特徴:近代的人格像との対比

  3-2.問題主体の位相:人格の諸次元

  3-3.問題主体の豊饒化


第二章 決断論:決断主義と成長論的主体

0.問題

1.「決断」概念の分析

  1-1.決断・選択・運命

  1-2.決断と必然性

  1-3.決断を重視することの意味

2.決断主義

  2-1.決断主義の価値的性格

  2-2.〈決断主体〉

    a.実存主義とリーダーシップ

    b.価値討議

    c.決断を強化するもの:空間化と時間化

    d.真理と原点

    e.責任

3.決断主義批判の検討

  3-1.ニヒリズムと美学

  3-2.理由づけ

  3-3.マルクス的批判

4.〈決断主体〉批判と〈成長論的主体〉

  4-1.決断の位置づけ

    a.決断による価値の創設

    b.究極的価値の正当化

    c.内的一貫性としての合理性

  4-2.真理・原点論批判

  4-3.責任論批判

5.〈成長論的主体〉の検討

  5-1.〈成長論的主体〉の優位

  5-2.運動主体と批判的合理主義

  5-3.成長論的自由主義に向けて


第三章 責任倫理論:多元的拮抗へ

0.問題

1.信条倫理と責任倫理をめぐる諸論点

  1-1.日常

  1-2.英雄

  1-3.宇宙

  1-4.目的合理性と価値合理性

  1-5.道徳と倫理

  1-6.緊張

  1-7.反省的/形式的な原理倫理

  1-8.責任の引き受け方

  1-9.根拠論と批判的討議

2.責任倫理の類型論

3.問題主体の責任倫理に向けて


第四章 闘争論:運命と自由

0.問題

1.運命論

  1-1.運命とは何か

  1-2.運命の類型学

      a.運命に対する態度

      b.運命の種類

  1-3.決断と運命の反転的性格

  1-4.悲劇的運命の構築

2.闘争論

  2-1.闘争の社会学的分析

      a.闘争の定義

      b.闘争の種類

      c.闘争の諸機能と闘争的秩序

  2-2.「神々の闘争」図式

      a.「神々の闘争」という秩序の性格

      b.問題点

3.運命的闘争としての自由主義

  3-1.人格レベル

  3-2.社会関係レベル

  3-3.学問レベル


第五章 方法論:価値自由から問題自由へ

0.問題

1.四つの立場:近代主体・精神的貴族主義・可能主体・問題主体

2.社会科学システムの基本構成

  2-1.正統性と妥当性

  2-2.意味・認識・観点の形成

  2-3.価値の取り扱い方

3.社会科学システムと人格の関係

  3-1.四つの立場:再論

  3-2.観点

  3-3.客観性

  3-4.普遍的文化意義

4.価値自由から問題自由へ

  4-1.「価値自由」解釈と「問題自由」

  4-2.「価値自由」批判

  4-3.「問題自由」と「問題主体」による社会科学システムの再編


終章 結論


参考文献

索引(人名・事項)


まえがき

橋本努『社会科学の人間学』勁草書房(1999)

まえがき


 社会科学が陶冶しうる自由主義のフロンティア精神とは何か。そしてその精神が切り開く社会の秩序構想とはいかなるものか。

 これが本書の取り組む課題である。かつて大塚久雄は、自由主義の可能性を中産階級の禁欲的エートスに求めたが、しかしその精神はいまやさまざまな点で魅力を失いつつある。これに対してわれわれは、高度知識社会を生き抜くために必要な自由主義のフロンティア精神というもの探り出し、「来たるべき新たな人間」の理念とその社会構想を描いてみたい。社会科学による自由主義のプロジェクト。このテーマを中心に本書は、現代の社会学・人間学・政治哲学・規範理論等における新たな刷新を試みつつ、独創的かつ論争的な仕方で自由の理想を打ち出すことを狙っている。

 では自由主義のフロンティア精神としての「来たるべき新たな人間」とは何か。本書の中で私は〈問題主体〉という理念を練り上げた。〈問題主体〉とは、ウェーバーおよびウェーバー研究の中から提出された「近代主体」に代わる人格の理念であり、その特徴は「問題主体-成長論的主体-拮抗的高揚主体-運命的闘争主体」という綜合的な人格理念として描くことができる。本書はこの〈問題主体〉の理念を丹念に構築・検討することを通じて、新たな人間の理念をもたらそうと企てている。表題にある「社会科学の人間学」とは、社会科学の営みによって陶冶しうる善き人格の理念を検討し、われわれの時代との関係において新たな人間像を探究する学問を指す。そして本書はこの問題に正面から挑んだ成果である。

 まず序章では、本書のテーマが社会科学的認識の「根本問題」となることを説明し、またこれまでの研究史、とりわけ物象化論とリベラル=コミュニタリアン論争、およびウェーバーの研究史を検討することによって、本書の主題を探究に値するものとして位置づける。つづく第一章では、まず、自己や主体や人格やアイデンティティなどの概念を理論的に分析し、次に、近代が理想とした「近代主体」の人格像を六類型に整理して批判的に検討した上で、「問題主体」という新たな人間の理念を丹念に練り上げる。この「問題主体」の理念は、本書全体の中心となる最も重要な知見である。第二章では、近代が掲げた〈決断主体〉の理念を批判的に検討し、これに対して新たに〈成長論的主体〉という人格理念を描き出す。第三章では、ウェーバーの責任倫理論をめぐる錯綜した議論を分析・整理し、新たな解釈として「拮抗的高揚主体」という人格理念を提示する。第四章では、運命の類型学的分析と闘争の社会理論的分析を示し、さらに「神々の秩序」を社会秩序の理念へと発展させた上で、運命的闘争としての自由主義という理想を提示する。第五章では、社会科学方法論のあらたな理論化を試みつつ、これまでの「価値自由」解釈に代わる新たな解釈として「問題自由」という理念を提示し、既存の「価値自由」論を破棄しうることを示す。そして最後に終章では、本書全体の主張と成果を総括する。いずれの章もウェーバーの主題に基づく考察であるが、第一章と第二章は、既存のウェーバー像と対峙するものであり、第三章から第五章までは、ウェーバーのモチーフを発展的に継承するものである。したがって本書は、全体としてはウェーバーの主題を発展的に継承するものとして位置づけることができるだろう。

 私は前著『自由の論法――ポパー・ミーゼス・ハイエク――』(創文社、一九九四年)において、社会科学方法論のシステム理論を構築しつつ、副題にある三人の思想家の分析をおこなった。そこにおいて示されたのは、二〇世紀の自由主義思想が社会科学方法論を中心に展開されたこと、そしてその方法論に思想が負荷されていたことであった。しかし前著では、社会理論と思想史研究において貢献したものの、自分自身の思想については展望したにすぎなかった。本書ではそれを全面的に展開している。私にとって本書は、自分の思想を体系的に紡ぎ出した最初の書である。規範理論の新たな創造を通じて自由主義の新しい思想を語ることに、最大の精力が注ぎ込まれている。論争的であることは前著の比ではない。「来たるべき新たな人間」を創造するという半ば無謀とも言える企図に、私は自らの取り組むべき重要な学問的課題を見いだした。そして本書はその課題に一定の応答をなしえたと考えている。

 もとより本書は、私の博士論文を加筆修正したものであり、その成立までにさまざまな方のお世話になっている。まず、横浜国立大学在籍中にオブザーバーとして参加した内田芳明先生のゼミナール、それから東京大学大学院時代に出席した折原浩先生の授業は、私がウェーバー研究に触れる掛替えのない経験となった。日本を代表するウェーバー研究者の内田芳明先生と折原浩先生との出会いがなければ、私は本書において探究した問題の重要性をつかみ取ることはできなかったであろう。両先生からは、学問に対する畏怖の念を得ると同時に、探究への精神的起動力を大いに与えられた。ここに感謝と尊敬の念を表したい。また、大学院における指導教官の松原隆一郎先生には、修士課程から現在に至るまでの約八年間、論文指導その他において非常にお世話になった。未熟な私が自律できるようになったのは師のおかげである。記して感謝したい。佐藤俊樹先生、嶋津格先生、平子友長先生、森政稔先生、山脇直司先生からは、本書の草稿に対する鋭い批判と適切なアドバイスをいただいた。ウェーバー研究に関しては、宇都宮京子先生、小林純先生、古川順一先生、横田理博先生、嘉目克彦先生、そして一橋大学の大学院生を中心とするウェーバー研究会の皆様――荒川敏彦、霜鳥文美恵、鈴木宗徳、中西武史、橋本直人、矢野善郎の各氏――から有益な批判をいただき、実り豊かな議論を交わすことができた。さらに、本書の一部を発表した千葉大学の政治研究会の皆様、北海道の社会経済思想史研究会の皆様、および、一九九八年度の日本社会学会大会および経済学史学会大会における私の発表をめぐって討議していただいた皆様から、有益な批判と助言をいただいた。以上の方々すべてに感謝の念を表したい。最後に、東京大学の大学院生を中心とするチャールズ・テイラー研究会は、私の思想的・規範理論的なスタンスを磨くための場であった。この研究会はリベラル=コミュニタリアン論争を中心に、今世紀の政治・倫理思想をめぐって活発な討議をくりかえしてきた。工藤義博、斎藤直子、坂口緑、瀬田宏治郎、中野剛充の各氏に、この場を借りてお礼を申し上げたい。

 もっとも、私の思想の核となる人間理念はすこぶる奇抜なので、以上の方々の多くにとって私の主張は、説得的というよりも論争的であることは間違いない。しかし私の「問題設定の意義」については、これを共有してもらうことができたのではないかと実感している。今後こうした問題をめぐって議論を深めてゆけるならば、われわれは二〇世紀日本における社会科学の遺産を、次世代に向けて発展的に継承していくことができるだろう。本書の意義は、これまでのウェーバー研究を批判的かつ発展的に継承して、自由主義の特殊構想を構築した点にある。同時代の読者の皆様および将来世代の読者の皆様に、本書における問題を問題化して引き継いでいただければ私の先駆的任務は果たせたことになる。御批判・御検討を請う次第である。

 最後になったが、本書の出版に際して、勁草書房の富岡勝氏には並々ならぬご尽力をいただいた。次世紀を展望してこの世紀末に本書を出版できたことは、私にとってなによりの喜びである。謝して厚くお礼申し上げたい。

    一九九九年四月


「ウェーバー的問題の今日的意義」

雑誌『未來』1999年10月号掲載


ウェーバー的問題の今日的意義


――シンポジウム「マックス・ヴェーバーと近代日本」に向けて――


橋本努(はしもとつとむ)

(政治思想/北海道大学)


1.ウェーバーによる刻印

 かつてウェーバーは学生たちに対して、次のように述べたことがある。「現代の社会科学者の誠実さは、そのニーチェとマルクスに対する態度によって測られよう。……われわれが生きている世界は、ニーチェとマルクスによって深い刻印を打たれた世界なのだ」と。この一節に付け加えて言えば、今日のわれわれの世界はさらに、ウェーバーによって深い刻印を打たれていると言えるだろう。近代化論をはじめ、ウェーバーの議論はさまざまな分野の古典的な位置を占めている。それだけでなくウェーバーの生き方は、それ自体が現代を生きるための「一つのモデル」として、今なお人間学的な関心を引きつけている。八〇年代におけるポスト・モダンの潮流がバブルとともに去った現在、われわれが真摯に学問を営むことを志すとすれば、ウェーバーから再出発するということが、一つの正統な意義をもって立ち現れてくるであろう(橋本直人「ウェーバー研究は何を求めているか」『哲学の探求』[1993]参照)。

 ウェーバーの重要性は、しかし、ある意味で日本における社会科学の特殊性に根差している。それは例えば、一九八四年以降の新しい『ウェーバー全集』の初巻の約三分の二が、日本において購入されたという点からもうかがえる。残りの三分の一は他の国々において購入されたのであろうが、ドイツ本国で購入された『全集』の量は、全体の六分の一にも満たないかもしれない。とすれば、極めてドイツ的であると思われているウェーバーの世界は、実際にはドイツよりも日本で受容されたのであり、日本のウェーバー研究は現在、世界的にみて最高水準に達しているとも考えられる。

 こうした事情は、日本のマルクス研究が世界的にみて最高水準に達したという事情と並行して理解することができよう。日本における社会科学の中心課題は、社会科学の古典を一種の「カノン(canonical text)」として位置づけることによって、近代化の精神的支柱を備給することにあった。つまり社会科学の課題は、たんに社会をよりよく理解するというだけではなく、社会を近代化するために必要な人格的美徳を陶冶することにあった。そしてその支柱は、他ならぬマルクスとウェーバーによって提供されてきたのであった。もっとも最近では、マルクス研究はさすがに陰りをみせているが、これに対してウェーバー研究は衰えをみせていない。九〇年代に日本で出版されたウェーバーの研究書だけでも、すでに七〇冊にせまる。またウェーバーの翻訳も、新たに一〇冊程出版されている。さらに現在、ウェーバー研究を志す大学院生の数はますます増加しており、今年の日本社会学会大会では、ウェーバー部会が例年になく二つ開かれるという。いったい、いまなぜウェーバーがこれほどまでに注目されているのだろうか。


2.近代の〈たそがれ〉か?

 日本における『ウェーバー全集』の売れ行きに関心を示したドイツのW・シュヴェントカー氏は、日本のウェーバー受容とその影響について包括的かつ緻密な研究を開始し、その成果を著作『日本におけるマックス・ヴェーバー』(1998)として昨年刊行した。この本は専門家の間で大きな注目を集め、最大の賛辞を得たが、というのも研究者たちは、日本におけるウェーバー受容史についてそれほど多くを知らなかったからである。シュヴェントカー氏によってわれわれは、日本の研究事情までドイツに学んだわけであり、日本における学問的成果の批判的継承を重視するという学問作法に照らすならば、このことは猛省に値するだろう。

 もとよりシュヴェントカー氏の問題関心は、「ドイツ人は日本のウェーバー研究から何を学びうるのか」という点におかれている。しかしこの関心を拡張して、「日本人は日本のウェーバー研究から何を学びうるのか」、また「世界は日本のウェーバー研究から何を学びうるのか」という問題へと展開することができるし、またそれだけの価値がある。氏の研究によって、これまで学問的途上国の特殊事情と思われていたウェーバー研究は、いまや世界に向けて発信しうるような、重要な知的文脈を獲得したと考えられるからである。ウェーバー全集の売れ行きからすると、ある意味でウェーバーを論じてきた文脈の主流は、日本にあると言っても過言ではない。日本におけるウェーバー研究の特殊性は、それを逆手にとれば、輸出しうるだけの知的成果となりうるのである。

 こうした文脈観の転換を受けて、われわれは、ウェーバーとウェーバー研究の成果をもう一度見直さなければならない。ごく簡単にまとめるならば、日本におけるウェーバー研究は、およそ次のような経緯をたどった。まず一九〇五年から一九四五年の四〇年間は、ウェーバーの紹介が中心に受容され、続く一九四五年から一九六五年の二〇年間は、大塚久雄、丸山真男、川島武宜らによって、いわゆる「近代主義」的な受容と創造が始まった。そして一九六五年から一九七〇年の五年間(およびその前後)は、さまざまな成果が収穫され、ウェーバー研究のある種のピークを迎えることになる。一九七〇年代以降になると、近代的なるものへの懐疑から、今度は逆に「近代への批判者」としてのウェーバー像が探求され始める。この時期から現代に至るまでの研究は、大塚久雄のウェーバー理解が圧倒的な知的ヘゲモニーをもってきた戦後の日本社会を、なんとか相対化しようとする点に共通項を見いだすことができよう。「禁欲エートス」を日本の戦後復興とその後の高度経済成長に重ね合わせてきた日本人は、とりわけバブル経済の崩壊によって、「勤労の美徳」や「経済成長第一主義」といった価値観に対する根本的な反省を迫られている。こうした現実に対応するのが、七〇年代以降のウェーバー研究の課題である。

 なるほど大塚久雄の世代は、ウェーバーの近代的な精神を積極に解釈し、これを日本の現実に持ち込むことができた。しかし折原浩や山之内靖らの次の世代は、そうした近代擁護への反発から、ウェーバーの中に近代性とポスト近代性の両方を読み取り、その狭間において自身とウェーバーを位置づけた。ウェーバーは、近代のたそがれ期に現れたというのが、この世代のウェーバー解釈の特徴である。では、さらに次の世代は、ウェーバーをどのように読むのだろうか。近代とポスト近代という単純な二分法によって時代を解釈すべきではないとか、近代を批判する観点を他の文化視座に求めるべきだ、といった議論になるだろうか。例えば矢野善郎氏によれば、従来のウェーバー理解は、ウェーバーの歴史観のなかに「合理化過程」を読み取り、世界の脱魔術化と官僚化の傾向を不可避のものとみなす傾向があった。しかしウェーバーは、さまざまな種類の合理化を論じており、「合理的であること」を相対化するような分析装置を用意している(矢野善郎[1997]「マックス・ウェーバーの二重の方法論的合理主義」『社会学史研究』no.19.)。したがって、ウェーバーとともに単純な近代化傾向とその後の「たそがれ」を歴史に読み取ることは誤りである。近代批判者たちは、なるほど近代を相対化することに成功したが、しかしそのような時間的な相対化それ自体が、ウェーバーによって相対化されるかもしれない。


3.ウェーバー読解への注視

 いずれにせよ、ウェーバーは今後も、時代の傾向を読むための重要なカノンでありつづけることは間違いない。振り返るならば、戦後日本の社会科学においてウェーバーがカノンとされたのは、まさに日本における近代的な精神を陶冶する際の、知的権威としてであった。しかし、そうした近代化の精神を批判する場合に、ウェーバーが批判されるというよりも、むしろ既存のウェーバー「解釈」が批判され、ウェーバーは逆に近代への批判者として、新たに再カノン化されることになった。つまり、ウェーバーというカノンは、それを批判する観点からもカノンとして保持されたのであった。カノンを批判する観点を他ならぬ同じカノンが提供するという事態は、まさにわれわれの世界に刻印を打ったというに値する。その意味でウェーバーは、これから何度も「読み直し」と「再規定」を呼び起こすだろう。

 この点において重要なのは、折原浩氏の最近のウェーバー研究である。それはウェーバーのテキストを完全なものとして復元することをめざしているのであるが、単なる文献学的研究として位置づけられるべきものではない。むしろ、日本の社会科学がもつカノンをより強固なものとすることによって、その正統性と学者のアイデンティティを深いところで基礎付けるような、そうした中心基盤を形成するものとして評価されなければならない。

 ウェーバー読解がいかに気迫に満ちた営みであるかについて知るために、ここで、雑誌『未来』において戦わされた折原浩-山之内靖論争(1997年9,10,12月号)に触れておきたい。この論争は、「学問研究におけるフェア・プレー」とか「ウェーバー社会学研究のパラダイムチェンジ」といった大きな問題をめぐって議論されており、両者の挑発的な論争スタイルもあってか、大きな波紋を呼んだ。具体的な内容はともかく、ウェーバー研究に対する両氏の情熱とその気迫は、並大抵のものではないことが分かる。折原氏の主眼は、そもそもウェーバー研究を超える射程をもつ。すなわち、人文・社会科学では、古い論点が装いを新たに繰り返し登場するだけで、学問研究の内実ある研究が連続的に蓄積されていかない、むしろそうした着実な営みを攪乱してしまう、という危惧がある。学問におけるこうした一般的傾向を批判することが、山之内氏に対する問題提起だというのである。これに対して山之内氏の問題提起も、同じくらい大きい。すなわち氏によれば、ウェーバー著『古代農業事情』の改定作業から「祭司 対 騎士」という対立軸を読み解くことが、ウェーバーの全体像を提供するだけでなく、「近代の社会科学全体を問い直す契機へとつながる」というのである。両氏の問題提起は、専門研究者同士の内輪の争いといったものではなく、社会科学者の任務と社会科学全体のパラダイム・チェンジに関わる重要なものとして提起されている。両者の研究がもつ気迫は、日本における社会科学全体の中心課題を背負い込むという英雄的な問題関心から発している。


4.シンポジウムにむけて

 こうした気迫が生まれるのは、多くの社会科学者にとって、ウェーバーが学問のシンボルとして存在しているからであろう。大塚久雄から嘉目克彦に至るまでのウェーバー研究は、その中心において、「ウェーバーはどのような人格理念を生きたか(あるいは理想としたか)」をめぐって論じられてきたが、その背後には、「社会科学を営むことによって、どのような人格を陶冶することができるのか」という、いっそう根本的な問題が想定されている。ウェーバー研究者たちはこの根本問題に対して、「私はこのような人格理念がすぐれていると思う」と答える代わりに、「ウェーバーはこのような人格理念を重視した」という具合に応答してきた。つまり、自分の価値観点を前面に押しだす代わりに、それをウェーバーに託して応答してきたのであった。その応答は、「私にとってヴィッセンシャフトとは何か」、「ヴィッセンシャフトを志す私とは何者か」という問題への応答であると同時に、「近代日本における社会科学の理念とは何であるべきか」という問題に対する応答でもある。日本における近代化、近代化された日本の社会的諸課題、近代の日本社会に対する理解と変革の可能性、日本におけるモダニティの受け止め方、……こうした問題を社会科学はいかに理解すべきか。ウェーバーおよびウェーバー研究史は、学者のアイデンティティと日本社会の関係を考える上で、重要な素材を提供している。

 以上のような諸問題は、しかしさまざまな論者たちによって、ぜひとも「再定式化」されなければならない。そしてウェーバー研究の意義が、次世代に向けて語られなければならない。そこでわれわれ橋本直人・矢野善郎・橋本努の三人は、日本におけるウェーバー研究者たちに呼びかけて、下記のようなシンポジウムを企画した。シンポジウムでは、「マックス・ヴェーバーと近代日本」というテーマの下に、「現代におけるウェーバーの意義は何か」、「ウェーバー読解とはいかなる意義をもちうるのか」、「日本が誇るウェーバー研究とは何か、そして継承すべき重要な問題とは何か」といったさまざまな問題をめぐって討論する予定である。もっとも以上の問題提起は、シンポジウムの主旨全体をカバーしてはいない。シンポジウムでは、各論者の自律的な問題提起を尊重し、世代間交流を通じて、複数の声からなる現在を、未来に向けて交配させることに主眼がある。当日はフロアを含め、活発な討議を期待したい。

※社会科学がいかなる人格を陶冶しうるかについて、私の問題提起は、拙著『社会科学の人間学――自由主義のプロジェクト』(勁草書房、一九九九年)に詳しく述べた。参照していただければ幸いである。


折原浩先生からの手紙

折原浩先生からの手紙

1999.9.(公開の許可をいただいております)



橋本努 学兄

拝復

 ようやく朝晩、秋の兆しが感じられる候となりました。

 先日は、お便りと大著『社会科学の人間学』ご恵送たまわり、まことに有り難うございました。学兄のお仕事には、いっか正面から対座したいし、そうしなければならないと考えておりましたが、ついつい多忙に追われて、これまで念願が果たせずにきました。ご本にまとまったからというわけでもないのですが、その念願をこの機会になんとか果たそうと思い立ちました。

 まず、学兄が、批判対象を嬢小化することなく、最大限に膨らませ、高めた上で、乗り越えようとする原則的に正しい(まさに「成長論的な」)対応の一環として、小生の仕事についても内在的に細大漏らさず追跡した上で、そのようにして(ばあいによっては当人も)思わぬ意義まで与えてくださったことに、深甚な謝意を表します。このように批判され、乗り越えられるのであれぱ、「先輩冥利に尽きる」と申せましょう。

 その上で、学兄の精綴な分析的整理にはとてもっいて行けませんし、細かいことは述べきれませんので、大まかな感想をお伝えしたいと思います。

*

 小生が、1965年に駒場で駆け出しの教師になったころには、まずなによりもイデオロギーの過剰と闘い、開講一番「価値自由」の原則から始めなければなりませんでした。ところが、1996年に停年退職して名古屋大学にきますと、むしろ学生たちの居眠りと闘わなければならず、今年1999年、近郊の椙山女学園大学に移りますと、こんどは、居眠りばかりか「豊穣な」私語との闘いが待っていました。そこで四月からは、「机間巡回講義」をしながら、学生が本を読むこと、「価値自由」でなくともよいからともかく発言し討論すること、そのなかで「自分の問題を見つける」ように介助すること、を課題として悪戦苦闘しています。ですから、まず状況論的にいって、価値自由の課題性が薄れ、「近代主体」「可能主体」が魅力を失い、まずは「問題主体」への自己形成が求められている、という事情はよくわかりますし、そのかぎり、学兄の構想に賛同します。しかし、そのように考えるとすると、問題主体は

一1一


近代主体・可能主体にいたる「起点」ないし「中間ステップ」に位置づけられることになり、問題主体に「成長論的主体」「拮抗的高揚主体」「運命的闘争主体」という優れた意義まで読み込み、ヴェーバー的主体を止揚しようとする学兄には、大いにご不満でしょう。

 そこで、小生自身が、原則論的に、近代-可能主体から、学兄が構想される勝義の問題主体に、まさに発展的に自己成長を遂げられるかどうか、と問うと、なお、疑問の余地が残されていて、互いに信頼し認め合って相互批判的拮抗閑保を結びたいとは思いますが、踏ん切りはつかないのです。というのは、究極的問題ないし問題のコアとはいったいなにか、という問題が残されていて、学兄の叙述からは、その肝心のところが、どうもはっきりしないように思えます。だれもが任意に問題を選び、任意の問題を究極的と見なし、あるいはコアに据えて、それぞれの評価は、フォーラムでの相互討議に委ねれぱよい、というのでは、おそらく済まされますまい。

 その点、小生のヴェーバー批判を対置することが許されるとすれば、それは、学兄も正しく読み取って下さっているように、究極最高の価値理念を宙に浮かせておくのでなく(そのままでは、どうしても偶像を立て、それに向かって背伸びする興奮と激情が生じざるをえないので)、主観的には究極的として把持されている理念をも、さらに背後にまわって(ですからこちら側の経験科学的認識と混同することはなく)、「主体的主体と客体的主体(人間)との不可分一不可同一不可逆の原関係」という根源的原点に照らして評価しようとします。つまり、いうところの究極的価値理念が、原点に発する光を素直に写し出しているか、それとも、原点に背いて窓意的に立てられた偶像にすぎないか、情重に吟味するわけです。そして、それまで究極的と思い込んでいた価値理念が偶像にすぎない、あるいはこれこれの意味で偶像性を帯びていたと察知したら、素直に改め、さらに(いつふたたび頽落するともかぎりませんから)吟味-改訂-是正を怠りません。その意味で、価値理念の種の「成長論的」発展を認めます。しかし、それは、問題のコアを、この根源的原点に発する光の場(二語価値理念の法廷)と解したばあい、フォーラムを、宙に浮いた諸個人の集合としてではなく、この根源的原点に準拠して討議を方向づけ合う個人によって構成される磁場と限定したばあい、にかぎられます。そうでなければ、過程的に評価するといっても、成長と頽落とを区別できず、どこに行き着くか分かりません。「糸の一端を止めない運針」(キルケゴール)、「河底に根を下ろしていない水草群の水面での絡み合い」

一2一


(ベルクソン)にならない保証がありません。これは、他人を水草群として見下し、われひとり善しとする傲慢で独善的な精神貴族主義ではなく、自分も水草ながら根を持つことによって「流れに抗する」ことができる、しかもそうすることはときとして必要なことだ、という自覚を基礎としています。こうした思想が、第一次世界大戦に反対したベルクソンや、さらに第二次世界大戦もくぐり抜けて抵抗したカール・バルトらによって孕まれ、提唱されたのも、良識ある人々のフォーラムが、あっという間にまるごと底上げされ、濁流に呑まれ、あらぬ方向に押し流されることが、人間歴史の上にはままあるのだ、という痛切な経験をへていたからに他なりますまい。小生がその意義を学ぶことができたのは、学兄もご指摘のとおり、直接にはバルトの弟子・故滝沢克己先生の教示によってですが、やはり敗戦後の価値観の激変と社会変動を経てきていたことを、背景としていました。

*

 つぎに、そうした原点志向的主体が、「真理」につき、「一致説」にもとづいて自説を権力的に押しっけるのではないか、という危倶については、小生自身の来し方によってお答えするほかはありません。学園闘争当時から、小生は、自説をパンフレットに認めて状況に投企しました。これは、立論の根拠を確実に読者に示すことによって、反論・反証を促し、その材料をむしろこちらから提供し、「よりよい説明を試みる人には耳を傾けようとす」る姿勢の表明でした。そればかりか、問題はたんなる学術論争ではなく、大学当局にたいする造反でしたから、処分の正しさがより説得的に説明されたならば、こちらは非を認めて辞職するほかはないという決意を秘めた(闘争としては、けっしてうまいやり方ではない)一種の決断でもありました。さて、小生がこの姿勢を学んだのは、ヴェーバーよりむしろデュルケームから(『デュルケームとウェーバー』上、p.55)でしたし、この線に沿って、後の「実証主義論争」については、アドルノ、ハバマスにたいしてポパー、アルバートのほうに軍配を上げました。その後の論文や著書でも、つねに反証材料を著者側から読者に提示する、という原則を堅持してきたつもりです。むしろ、問題は、こちらがどんなにそうしても、反論・反証して討議・論争関係に入ろうとはしない学者が多すぎる、ということでした。テキストの読みについて、ひとつの正しい読みがある、と想定してかかるのも、そうでなければ、「いろいろあっていいではないか」「誤読こそ創造なり」「声を大

にし、ジャーナリズムに乗ったほうが勝ちだ」とでも感得しているのか、討議・論争

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にならないからです。むしろ、「ひとつの真理」「ひとつの正しい読み」という規範的要請を引き受ければこそ、それをめざして異説間にも討議が起こり、活性化するのではないでしょうか。むしろ、不都合なことには黙っている、あるいはかえって批判者のスタイルばかりあげつらう、という「討議シニシズム・ニヒリズム」がはびこって権力主義を誘い出すことこそ、わが国の学問文化の問題と考えざるをえません。もとより、学兄の構想は、そうした学問文化ないし風土に対決して、自由主義的討議を活性化させようとの方向をめざすものとして、そのかぎり大賛成です。だからこそ、現実の学問文化を直視し、これと対決して、規範の是非を問いなおしてほしいと思うわけです。

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 以上、大まかな感想と部分的反論を述べさせていただきましたが、あるいは、こうした論点は、学兄の精綴な分析的論点整理のなかで、すでに反駁されてしまっているのかもしれません。もしそうでなけれぱ、上記のような問題を、学兄の構想のなかにとりいれて発展的に活かしていただければ幸いです。いずれにせよ、学兄の大作は、「やがては乗り越えられることを目的とする」研究者としての小生にとって、近年になく、この上ない慶びでした。

 なお、残暑の醐、くれぐれもご自愛のほど、祈り上げます。


      1999年9月11日

           折原浩


折原浩先生。

1999年10月、日本社会学会大会後の飲み会にて。


シンポジウム「マックス・ヴェーバーと近代日本」

 1999年11月27日(土)・28日(日)

  於: 東京大学 文学部(本郷)

ヴェーバーの影響力とは何であったか。また今後、私たちはヴェーバーとどのように向き合っていくべきか。このシンポジウムでは,「マックス・ヴェーバーと近代日本」という共通問題をめぐる対話を通じて、広く問題を起こすことをめざしています。日本の社会科学がもたらした知的成果を21世紀に向けて継承するために、世代間交流の場となることを希求します。予定されている討議と部会、報告者は次の通りです(敬称略)。


●11月27日(土)

 10:00-13:00

 討議「マックス・ヴェーバーと近代日本」  上山安敏・富永健一・山之内靖

 14:30-17:30

 「政治」部会  雀部幸隆・佐野誠・橋本努

 「資本主義」部会  大西晴樹・佐久間孝正・橋本直人


●11月28日(日)

 10:00-13:00

 討議「日本のマックス・ヴェーバー研究の過去・現在・未来」 折原浩・姜尚中・嘉目克彦

 14:30-17:30

 「理論・思想史」部会  牧野雅彦・向井守・矢野善郎


専門的な研究者に限らず,様々な方面の方々に御参加下さいますよう、お待ち申し上げます。(参加の事前申し込み等は不要です。参加費は無料ですが、実費として配布資料のコピー代をいただきます。)

なおシンポジウムの詳細は,ホームページ http://www.L.u-tokyo.ac.jp/~yano/sympo.html をご覧下さい。

またお問い合わせは,東京大学の矢野(03-5841-3877 email: yano@L.u-tokyo.ac.jp)まで。

(企画:橋本努・橋本直人・矢野善郎)