自由の社会学

Sociology of Freedom

自由の社会学

SBN978-4-7571-4257-2

NTT出版 定価 (本体1,800円+税)

2010年12月刊行

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シリーズ・真横から見る現代2


自由な社会はいかにして可能か?


教育問題、知的財産権、アーキテクチャーからベーシックインカムまで。現代のさまざまな事象をもとに、私たちが真の意味で自由を実感できる社会を構想する。【帯・表】

自由とはいったい何だろうか。人は、なんでも自由にしていいと言われると誰かに決めて欲しいと思ったり、自由気ままでも怠惰な人生ならば価値が低いと考えたりしてしまう。橋本氏は、自由を実現するためには、微細な「統治」の技術が必要なのだと述べ、現実に起きた豊富な事例から鮮やかな思考実験を展開していく。その隙間から見えてくるのは、橋本氏の「自由とは、その人がしたいことを勝手気ままに選べばよいというものではなく、飽くなき探究の中から生まれるものなのだ」という信念だ。彼の言う自由に納得しないというのなら、それに対して真っ向から挑戦する別の信念が必要になろう。そのとき読者は既に、本書の魅力に引き込まれているのである。――――鈴木謙介【帯・裏】


あいさつ



『自由の社会学』

橋本努著・NTT出版・2010年12月

ごあいさつ


謹啓

 記録的な猛暑となった夏が過ぎ、その後は低温状態が続いてお野菜が高騰するという、まったくもって異常な気象が続いております。皆様、いかがお過ごしでしょうか。向寒の頃、ますますのご健勝をお喜び申し上げます。平素は、格別のご高配を賜り、心より厚くお礼申し上げます。

 さて、年末のあわただしい時期に、拙著『自由の社会学』(NTT出版、2010年12月9日刊)を刊行する運びとなりました。どうかお手隙のときにでも、御笑覧くださいますよう、お願い申し上げます。と同時に、皆様のご高配を乞う次第であります。

 本書のスタイルは、またしても、あまり類書のないものかもしれません。最初に、「自由の社会学理論」を構築しています。理論によって、自由主義思想の新たな局面を切り拓くことが、第一の狙いであります。以下の諸章では、現実のさまざまな事象に、政策的・規範的な観点から分析を試みています。そして本書全体としては、理論と実践の体系化によって、自由主義による社会の新たなビジョンを提起するという、いわば社会を巨視的にデザインすることに主眼を置いています。

 実は、前著『経済倫理=あなたは、なに主義?』の一部を用いて、これまでいろいろな方にアンケートを行ってきたのですが、それによると、現在の日本の支配的なイデオロギーは、「リベラリズム」であることが判明します。リベラリズム=自由主義は、いまでは、多数派のイデオロギーであり、それ自体としてみれば、もはや目新しい考え方ではありません。

 ですが本書『自由の社会学』は、リベラリズム=自由主義の観点から、むしろ多くの人にとって納得できない政策提案をいろいろと掲げているのです。奇抜で空想的なアイディアを喚起することを含めて、自由主義の新しい潜在的な含意を探っています。アンケートで「自由主義」に分類された方々には、自由主義ってこんなに斬新な思想でもあるのかという、驚きを与えるかもしれません。本書は当初、『統治改造論』という表題の下に探究されました。統治を改造するという企てに、本書は特別の関心を払っています。

 約10年前に、日本のリバタリアニズムを牽引する森村進先生は、ご高著『自由はどこまで可能か』(講談社現代新書)で、「自由の含意」を徹底的に探りましたが、多くの読者は、リバタリアンのように根本的な仕方で自由を支持するかというと、いやどこかで自由を捨てるという、穏当な自由主義の立場にとどまったことでしょう。私も穏当な自由主義にとどまったのですが、それでも本書『自由の社会学』は、森村先生とは別の方向に、自由はどこまで可能かを探っています。その立場を私は、成長論的自由主義とか自生化主義と呼んでいます。そこには納得できない政策提起も多々あるのではないかと恐れます。

 ですが規範論研究の意義は、大胆なビジョンを提起しつつ、その政策的含意を批判的に討議することにあると私は信じております。どんな善き社会も、批判的な討議が活性しないところでは、衰退を余儀なくされてしまうでしょう。また最近のサンデル人気の背景には、なんとなく体制に従って生きていても、善き社会のビジョンを本源的に問いたいという欲求が、多くの人々のあいだに生じているということがあると思います。本書の主張は、善き社会の一つの特殊構想であり、いわば議論のたたき台として受けとめていただけると幸甚です。契丹のないご批判を、お待ち申し上げる次第です。

 最後になりましたが、皆様のご健康を、心よりお祈り申し上げます。

謹白

2010年11月末

橋本努


目次


『自由の社会学』


橋本努著・NTT出版・201012

目次


はじめに

第1章 自由な社会はいかにして可能か?  自由の社会理論

1.積極的自由と消極的自由

2.自由の根本問題

2-1.凡俗な自由と洗練された価値の逆説

     2-2.解放とアパシー(無気力)の逆説

3.実質的な自由

     3-1.自由と不自由を天秤にかける

     3-2.積極的自由の構想力へ向けて

     3-3.因果決定論と温情主義の欠陥

4.自由社会の三つの原理

     4-1.「卓越(誇り)」原理

     4-2.「生成変化」原理

     4-3.「分化」原理

第2章 虐げられた者への救済  「卓越(誇り)」原理 その1

1.「べてるの家」にて考える

2.二風谷ダム問題を考える

3.アイヌ共有財産問題を考える

4.売春業のライセンス化を考える

第3章 崇高なる魂への支援  「卓越(誇り)」原理 その2

   1.境界人を救う自由主義国家

   2.「ひびきの村」にて響き合う

   3.たくましき個人主義とは

   4.死ぬ権利としての自由

   5.自由自殺法を考える

第4章 自由を生きる意味  「卓越(誇り)」原理 その3

   1.自由を放棄する自由?

   2.教育基本法の改定問題

   3.自由という希望の学園

   4.小さな政府の経済倫理

5.構想力の論理としての自由主義

第5章 偶有性からの出発  「生成変化」原理 その1

   1.インターネット利用の洞穴化を考える

   2.新自由主義の教育改革

   3.フランスのスカーフ論争を考える

   4.表現の自由か、知的財産権か

   5.「アーキテクチャー」批判としての自由

第6章 経済的誘因の構築  「生成変化」原理 その2

   1.ライブドア事件を読む

   2.一罰百戒の倫理的資本主義

   3.戦争の民営化を考える

   4.ベーシック・インカムを考える

   5.商業を通じた文化的成熟

第7章 人工市場の導入  「生成変化」原理 その3

   1.道路料金の価格メカニズム

   2.民主主義に市場メカニズムを導入できるか

   3.臓器は誰のものか

   4.身体は誰のものか

第8章 分散統治の術  「分化」原理 その1

   1.大阪市職員厚遇問題を考える

   2.社会保険庁問題を考える

   3.大規模林道は必要か

   4.大組織の分社化は可能か

第9章 分散統治の補完術  「分化」原理 その2

   1.「みんなぼっち」の自由

   2.西友元町事件を考える

   3.ムハンマドの風刺画問題

   4.9.11事件以後の不自由社会

第10章 創造の核になる  「分化」原理 その3

   1.世の中、選択肢が多すぎる

   2.万能感としての自由

   3.いじめ問題を考える

   4.自由の遺伝子があれば

   5.創造階級という自由人

おわりに 結論

あとがき


はじめに



『自由の社会学』

橋本努著・NTT出版・2010年12月

はじめに


 自由な社会は、いかにして可能であろうか。この問いをめぐって、あらたな理論と、仮説的で体系的なビジョンを展開しようというのが、本書の企てである。

 第1章の理論編では、「自由とはなにか」という素朴な問いに向き合いながら、自由論の理論的刷新を試みている。本当の自由とは、リアルな自由、実質的な自由であるとして、では実質的な自由を実現するためには、どんな社会が必要なのか。本書の主張は、きわめて単純である。実質的な自由を実現するためには、三つの原理が必要である。すなわち、「卓越(誇り)」原理、「生成変化」原理、および「分化」原理である。この三つの原理によって成り立つ社会こそ、真の自由を構成することができる。このいわば「自由の三つの原理」論が、本書の中核をなしている。

つづく第2章以降は、これらの三つの原理を応用した実践編になっている。自由な社会を築くための統治術とは、どんなものか。リアルな自由は、微視的な統治術によって可能になる。実践編では、知恵を絞っていろいろな提案をしている。

 自由は、規制や束縛を何でも取り払えば実現するというわけではないだろう。すべてを取り払ってしまえば、自由はかえって実感できなくなってしまう。むしろ自由な社会は、三つの原理をさまざまに応用することによって可能になる。これが本書の基本的なテーゼである。その背景には、ジンメル(一八五八-一九一八)の大著『社会学』における自由社会の探究がある。ジンメルの手法を継承する点で、本書はジンメル主義の末裔ともいえるだろう。

 実質的な自由の問題を突き詰めて考えていくと、私たちは結局のところ、イマジネーションの問題に行き着くように思われる。例えば、川の魚は、自由に泳いでいるつもりでも、その川のなかから逃れることができない。だから魚は自由ではない、と言われるかもしれない。ではその魚は、いかにして自由になれるのだろうか。イマジネーションによって、その答えは異なってくるだろう。たとえばもしその魚が、その川を越えて自由に泳ぐことができたとしたら、どうであろう。むろんそんな問題を考えても、あまり意味がないと思われるかもしれない。けれどもこうした問いは、「自由になるためのイマジネーション(=構想力)」を与えてくれる点で、重要な意義をもっている。

 自由の実質的な価値は、じつは空想(ユートピア)に依存している部分が大きい。「これが自由だ」といえる事柄は、まだ実現していない潜勢的・可能的なものにとどまっている場合が多い。そんな自由の価値を捉えて社会に着床するためには、私たちはまずもって、不可能な空想をたくましく描いていくほかないだろう。イマジネーション(=構想力)が枯渇してしまえば、いかに自由な社会と言えども、自由の実質的価値を担保することができなくなる。自由な社会において、私たちが不自由にしか生きられないという逆説は、イマジネーションにかかわる自由の本質な問題とも言えるのだ。

 ところが現代のリベラリズムは、自由の実質については問わないでいる。リベラリズムの基本的な考え方は、さまざまに異なった善(「善き生」の特殊構想)を追求する人々がいる場合に、なお社会が正統性を保つための、正義の原理を求める点にあるだろう。ある人は「これが善い生き方だ」という。ところが別の人は、「いや、それは違う、別の善い生き方がある」という。そうした対立が生じた場合に、個々の善き生とは独立して擁護される「正義」の原理があれば、社会はその正義の原理によって正統性を保つことができる。このようにリベラリズムは、あくまでも自由の問題を「善き生の対立」という観点から捉えて、個々の「善き生」から独立した「正義」を中核に置くような社会を考える。

 けれども、リベラリストがいう「正義の原理」は、「自由の原理」ではない。正義は、自由を形式的に保障するけれども、自由の実質を実現するわけではない。だから社会がリベラルになっても、私たちは「実質的な自由」をいっそう多く手にするわけではないのである。

 本書で考えてみたいのは、実質的な自由を実現するような社会構想である。私たちは、いかにして、実質的な自由を社会的に実現することができるのだろうか。自由の実質は、善き生の問題であると同時に、社会の統治原理の問題でもある。こうした自由の性質を、現代リベラリズムの地平を超えて扱うことはできないだろうか。現代のリベラリズムは、コミュニタリアニズム(共同体主義)の批判を真摯に受け止めているとはいえ、自由の実質的な価値を論じる思想には、あまり関心を示していない。自由の価値を論じる思想には、アナキズム、マルクス主義、解放神学などの豊かな蓄積がある。かかる思想伝統は、いかにしてリベラリズムに接合することができるだろうか。自由の実質的価値論とリベラリズムのあいだに、いわば化学反応(ケミストリー)を生じさせてみると、どうなるだろうか。本書を貫いているのは、そんな関心である。

 あらかじめ注意を喚起したいのは、本書で提起される実例にまつわる個々の着想は、「自由な社会はいかにして可能か」を考えるうえでの、社会哲学の立場からの仮説的な提言であるという点である。社会哲学のアプローチは、プラグマティックな実効性よりも、個々の着想を体系的な構図につなげるという、思考の営為に重きを置いている。人間は、つねに打算的に動くわけではない。体系的なビジョンに刺激されて、実践の駆動因を得ることがある。社会哲学は、そのための新たなビジョンを模索することに、特別の関心を寄せている。むろん、そこで得られるビジョンは、物事を相関的に考えるための思考を喚起するとしても、そのまま実効的であるのではない。まして本書は、売春や自殺などを道徳的に是認するものではない。実際の政策を考えるためには、 仮想的なアイディアがもたらす意図せざる帰結を十分に考慮して、それぞれの領域の専門家の視点や現状を鑑みながら、より実効的で実践的な熟慮を行う必要があるだろう。

 本書は、最初から理論を前提として書かれたわけではない。執筆に際しては、個々の事例や時事問題と格闘しながら、その都度自分なりのアイディアを出すという思考の日々が続いた。理論を練ったのは最後の最後であり、理論は帰納法的に作られている。むろん理論に照らして、実践の整合性と体系性を志向してはいる。だが個々の具体案には、理論とは独立した着想もある。読者は、本書の理論に納得しなくても、個々の提案の意義を検討することができるのではないか、と私は信じている。また、本書は最初から順に読みすすめる必要はなく、関心のあるテーマに沿ってお読みいただければ幸いである。


自由って、なんですか、の巻――『自由の社会学』予告編


「自由って、なんですか、の巻――『自由の社会学』予告編」

シノドス・メールマガジン2010/11/16配信/シノドス・ジャーナル掲載

橋本努201011


 近く、NTT出版より刊行予定の、拙著『自由の社会学』(201012月)の予告をかねて、本小論では、以前、NHKで放映されていた「おでんくん」の物語に則して、自由について考えてみます。

でんがらがった でんが でんが

でんがらがった でんが でんが ……

唄いながら、ゆかいに練り歩いてくるのは、アニメ・キャラクターのおでんくん。アニメ番組「おでんくん」の主人公である。

物語の舞台は、「おでん村」という、屋台のおでん鍋のなかに作られた架空の田舎町。毎回たとえば、ジャガイモの「ジャガー」、たまごの「ガングロたまごちゃん」、「だいこん先生」など、おでんの具をキャラクター化した登場人物たちが、味わい深い物語を繰り広げる。

主人公のおでんくんは、餅巾着(もちきんちゃく)の姿をしたなごみ系のやさしい男の子で、その愛らしくも、あどけない仕草に、私たちは癒されるのである。

そんな「おでんくん」の物語の一つに、「自由ってなんですか」の巻がある。今回は、この話に即して、自由の本質について、考えてみよう。

「自由ってなんですか」の物語には、おでんくんとよく似た少年で、「ニセおでんくん」というキャラクターが登場する。キザで、孤独を愛する逸(はぐ)れ者で、世の中を、いつも斜めから見ているような少年である。

そのニセおでんくんが、川で釣りをしている。すると、目立ちたがり屋の「ガングロたまごちゃん」がやってくる。そこでニセおでんくんは、ガングロたまごちゃんに、こう尋ねる。

「君は自由に生きているかい?」

ニセおでんくんによれば、奇抜なヘアスタイルで学校に行くガングロたまごちゃんは、自由ではない。

「魚だって、自由に生きているつもりだろ。だけど、あの魚は、この川の流れから外には出られないんだ。せいぜい、ちょっと飛び跳ねてみせるだけさ。」

「君だってそうさ。自由に自己主張しているつもりでも、本当はみんなの目を気にして、目立ちたいだけなんじゃない? それが本当の自由といえるのかい?」

というわけなのだ。自由に自己主張しているつもりでも、たんに目立ちたいだけにすぎない。それでは本当の自由ではない、という。

では、ニセおでんくんのいう「本当の自由」とは、何だろうか?

物語では、ニセおでんくんは、ガングロたまごちゃんに、「君もやってごらん、本当の自由が釣れるかもしれないよ」と言って、彼女に魚釣りをさせる。

すると、ガングロたまごちゃんは、釣りをしながら、自分も一瞬、「本当の自由」が分かったような気になる。

ところが物語のその後は、とても抽象的で、よく分からない展開になる。

ガングロたまごちゃんは、川で大きなリングをつり上げる。ところがそのリングを、主人公のおでんくんが拾いあげる。そしておでんくんは、ガングロたまごちゃんを、そのリングのなかに入れて、電車ごっこをしながら、二人で学校へと向かう。ガングロたまごちゃんは、いわば日常の学校生活へと、強制的に引き戻されてしまう。

そして最後のシーンでは、ニセおでんくんが、リングで輪回しをしながら、夕日に照らされた地平線を駈けていく。その姿は、物悲しくも哀愁を帯びているのだが、ニセおでんくんは、それが「僕の自由さ」と言うのだ。

 夕日に照らされて、輪回しをする。それが自由であるというわけだが、いや、実によく分からない展開である。いったい、ニセおでんくんのように、人目を離れたところで輪回しをしながら走ることが、どうして自由なのだろう。

強引だが、解釈として一つ成り立つのは、実は「本当の自由」とは、つまらない事柄であって、自由とは不自由である、ということなのかもしれない。そしてニセおでんくんは、どうもこの真実を知っているような気がする。

そもそも、鍋のなかの「おでん村」には、自由など存在しない。登場人物たちはみな、この村から逃れることができないからである。だれもが自分の運命から、自由ではありえない。登場人物たちにとって、もし本当の自由があるとすれば、それは「自分の運命」に気づくことではないだろうか。「本当の自由」とは、自分の運命を悟って、あきらめることではないだろうか。

このように考えてみると、ニセおでんくんの言うことも、すこし分かるような気になる。だれもが「おでん村」から逃れられないとすれば、自由を理解することは、哀愁を帯びた黄昏とともにあらざるをえない。ニセおでんくんは、もしかすると、そんな真実に到達していたのかもしれない。

むろん、そんな解釈ではおかしい、という反論もあるだろう。

では自由とは、なんであろうか。「自由とは何か」――それはとても奥行きのある問いである。浅く答えることもできれば、深く考えることもできる問いである。

「自由とは何か」と問われて、さしあたって、「したいことをする」とか「他人に迷惑をかけないこと」などと答えてしまうのは、おそらく平凡な日常生活から生まれる発想であろう。

これに対して、そのような意味での自由など、「本当の自由ではない」ことに気づき、「自由など存在しない」と悟るのは、ニセおでんくんのような逸れ者であったりする。

ここで立ち止まって考えてみよう。自由とはいったい、何であろうか。「君は自由に生きているつもりでも、それが本当の自由といえるのかい?」と問われたら、どのように答えようか。

ニセおでんくんが投げかける、自由の本質的な問題に対しては、社会学的なアプローチが有効であるように思われる。自由は、社会のなかで、あるいは人と人との関係のなかで、実現する。では自由は、実際に、いかにして可能になるのだろうか。私たち一人ひとりが、自由に生きることができる社会とは、どんな社会なのだろうか。

このように問いを立て直してみると、自由の問題は、社会をいかに構成するか(条件づけるか)という問題に開かれていくことが分かる。「自由とは何か」をめぐって、私たちは、実践的・政策的に考えていくことができる。

本書『自由の社会学』が試みたいのは、そんな社会学的な探究である。

ガングロたまごちゃんの例に即して考えてみよう。

奇抜なヘアスタイルをして学校に行くことが、本当の自由に結びつくような社会とは、どんな社会だろうか。

ニセおでんくんに則して考えてみよう。

ニセおでんくんのような逸れ者が、自由な社会で果たす有意義な役割とは、何であろうか。

自由とは何か。それを煮詰まって考えてしまっても、私たちは自由になることができない。真に自由に生きるためには、実質的な自由のための社会を作るという、そういう実践的な発想に開かれていかなければならない。自由への問いは、社会への問いでもある。

自由な社会はいかにして可能か。それをさまざまな視点から、考えてみる。それが「自由の社会学」という企てである。