Max Weber 02

Max Weber 02

The Debate in Japan


羽入-折原論争の展開 [1] [2] [3]


羽入辰郎・谷沢栄一「対談 マックス・ヴェーバーは国宝か 『知の巨人』の研究で糊口をしのぐ営業学者に物申す」『Voice』2004年5月号、198-207頁。

(書誌情報のみ掲示)


折原浩「虚説捏造と検証回避は考古学界だけか――「藤村事件」と「羽入事件」にかんする状況論的、半ば知識社会学的な一問題提起(その1)

2004年6月1日改訂版(本コーナーへの寄稿)

虚説捏造と検証回避は考古学界だけか――「藤村事件」と「羽入事件」にかんする状況論的、半ば知識社会学的な一問題提起(その1)


改訂版(数カ所につき論旨は変更せずに文章を推敲した他、注7[羽入の出身母胎(東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻)関係の責任問題にかんする所見]を大幅に改訂/増補しました。2004年5月30日記)


折原 浩

はじめに

 この論稿は、羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作と「知的誠実性」の崩壊』(2002年、ミネルヴァ書房、以下羽入書)が「言論の公共空間」に登場して一定の反響を呼んだ経緯を、「羽入事件」として捉え返し、一方では同書の執筆動機とその構造的背景、他方では(片や大方のヴェーバー研究者による無視、片や一部「識者」や読者による絶賛といった)社会的対応、の両面にわたり、理解社会学的また知識社会学的な外在考察[1]を試みたものである。

 管見によれば、「羽入事件」は、もっぱら「ヴェーバー学界」の内情に根ざす特異なスキャンダルでもなければ、どこにでもいる奇矯な人士がたまたま「ヴェーバー」に似せた藁人形を斬っていっとき観客も楽しませた、一過性の幕間狂言でもない。そうした側面がないわけではないが、それが本質ではない。むしろ、広く日本の学問文化風土に根ざし、現代大衆社会とりわけ大衆教育社会に通有の構造的諸要因に規定された、類型的(典型的)病理現象である。とすれば、今回の羽入事件が、拙評(「四疑似問題でひとり相撲」、東京大学経済学会編『季刊経済学論集』69巻1号、2003年4月、77-82ぺージ)/拙著(『ヴェーバー学のすすめ』、2003年11月、未来社、以下拙著)からこの「マックス・ヴェーバー/羽入-折原論争」コーナーに引き継がれた、羽入書そのものへの内在批判により、羽入が「知的誠実性」をもっては答えられずに論争を回避する実態が明るみに出て、一件落着するとしても、この事件の類例は、背後にある構造的諸要因が制御されないかぎり、いつなんどき、人をかえ、所をかえ、形をかえて、再現しないともかぎらないであろう。じつは、そうした予想が、ヴェーバー研究書としては一顧だに値しない羽入書に、(ヴェーバー研究の同僚諸氏や第三者には「常軌を逸した過剰反応」と映るにちがいない)破格に詳細な批判を加え、そこに顕れ出ている執筆動機に照射を当て、同書への社会的反響にも気を配ってきた理由のひとつでもある。そこで筆者は、羽入書への一連の内在批判と並行して、「羽入事件」に直接/間接に露呈された日本の学問文化・風土を問い、現代大衆教育社会の構造的諸要因も探り、「理解/知識社会学的」「外在考察」を重ね、この論稿をしたためて、いつでも発表できる態勢はととのえていた。通例に反して脱稿後ただちに公表しなかったのは、以下に述べるふたつの理由による。

 

 まず、筆者は、橋本努が開設したこのコーナーの土俵に乗り、「マックス・ヴェーバー/羽入-折原論争」の一方の当事者という立場に身を置いた。したがって当面、「ヴェーバーは詐欺師か」「ヴェーバーは罪を犯したのか」という(羽入本人はともかく、橋本が再設定した、筆者個人としてはあまり面白くはない)争点をそのまま「価値自由に引き受け、「第二ラウンド」の論戦に向けて、(同じく橋本の呼びかけに応じた)ヴェーバー研究者諸氏の寄稿とも対質しながら、この争点にかかわる内在批判の論点を、拙著への反響も含む刊行後の状況も踏まえて再構成し、つとめて平易明快に打ち出そうとつとめた。

先の拙著『ヴェーバー学のすすめ』第二章で、筆者は、つぎの課題を果たしたつもりである。すなわち、羽入が、「倫理」論文の主題ないし「全論証構造」の大筋に到達するはるか以前の「序の口」で、二三の論点に固執し(「木を見て森を見ず」)、しかも当の論点そのものについてさえ、原著者ヴェーバーの論旨/概念/方法を読み取れず(「木も見ず」)、それにもかかわらず、あるいはまさにそれゆえ、そういう自分の実態を正視せず逆になんとしても原著者を引き倒そうとする「抽象的情熱」に駆られて「疑似問題」を持ち込み(あるいは、いっそう正確にいえば、原著者との懸隔を無理にも埋めようとする「抽象的情熱」から、自分の身の丈には合った「疑似問題」が創成され、これが「彼我混濁」の「主体」には原著者自身の「問題」と錯視され)、以後、もっぱらヴェーバーとは無縁の「疑似問題」をめぐり、無理と矛盾を厭わない(その点では確かに「世界初の」)恣意的な主張と裁断が繰り広げられている、という実態を暴露し、羽入の反証はいつでも可能なように、具体的な文献的証拠を添えて論証したのである。というのも、ブーメラン満載の羽入書には、「学問とは常に暴露の試みであるべきであり、事実の暴露、それも往々にして『不快な事実』……の暴露であるべき」であって、「学問的営為とは研究者にとっては、これまで自分を支えてくれた甘美な幻想をおのれの手で破壊していく作業のことなのであり、そして自分の幻想が次々と破壊されてゆくというこの心理的に苛酷なプロセスに極限まで耐え続け、にもかかわらず理想を捨てぬこと……なのである」(羽入書、6ぺージ)と謳われている。とすれば、研究者としての羽入には有害で、かれの「ヴェーバー研究」を「序の口」で低迷させている「疑似問題」幻想を、学問的な暴露と論証によって破砕し、羽入自身の「おのれの手で破壊していく作業」を介助することは、少なくともかれ自身の説く学問観に則ってことを運ぶことであるし、かれが「甘美な幻想」を捨てて現実の問題に取り組むのに役立ちこそすれ、かれが研究者であれば、暴露に耐えられずに理想(と呼ぶに値するものがあるとして)を捨てはしまいか、と気遣う必要もないはずだからである。

 その後、筆者は、拙著への反響を可能なかぎり追尾していった。するとそこでは、上記「木を見て森を見ない」という批判は、よく理解され、首肯されるように見受けられた。ところが、「木も見ない」という批判、とくに、ルターが「(神から与えられた)使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語Berufを創始した経緯にかかわる微細な論点に話がおよぶと、ややもすれば「専門的/文献学的にすぎる」として判断が停止され、むしろ「細かい点はともかく、あるいは、かりに四『問題』にかんする羽入の論難が誤りではないとしても、ヴェーバーを杜撰ないし詐欺師と断定するのは『行き過ぎ』あるいは『過当な一般化』である」という趣旨の穏当な評価にいきつく傾向が支配的と看守された。なるほど、この評価は、「専門家」を尊重して「素人」の不用意な断定は控える(「餅屋は餅屋」の)謙虚な知恵に根ざし、他方、「泥棒にも三分の理」を尋ね「喧嘩両成敗」を好んで日常の人間関係を円滑にしている、平衡感覚に富む日本の文化・風土に根ざし、そのかぎりで「通りがよい」であろう。老生も、この文化・風土を頭から否定するつもりはない。ところが、羽入書は、まさにその謙虚さにつけ込み、子細に検討すれば(非現実的/非歴史的な独断を前提とする)それこそ杜撰で冗漫な立論を、ただ外見上「緻密」に、自信たっぷりに披瀝し、読者を強引に「ヴェーバーは詐欺師」との極論に引きずり込んでいる。その独断で、ヴェーバー研究者にはことごとく「偶像崇拝者」のレッテルを貼り、みずからは「百年の迷妄」をいっきょに振り払った「偶像破壊」の「英雄」であるかに思い込んで自己陶酔に耽り、「倫理」論文を読んでいないか、読んでいても一知半解で「逆恨み」を抱いた――まさにその点で羽入と同位/等価なので、羽入もその心理には通じているにちがいない――「羽入予備軍」読者の拍手喝采を調達しているのである。

 顧みると、羽入書刊行直後に発表された矢野善郎/橋本努の書評(『週間読書人』2002年11月29日/『朝日新聞』2002年12月15日)も、本コーナーへの牧野雅彦の寄稿も、専門家としての学問的批評を意図しながら、おそらくは同じ文化・風土に根ざす謙虚さが裏目に出て、遺憾ながら羽入書の「緻密さ」/強引さに引きずられ、「ヴェーバーが詐欺師であるかどうかはともかく」と留保しながらも、「細部には見るべきものがある」とする肯定的評価に傾いていた。本コーナーに寄せられた横田理博の評価も、「観念」と「例示」とを区別し、肝要なのは前者であるとして、後者は不問に付している。いずれにせよ、細部にたいする正面対決は不徹底で、回避されていたといわざるをえない。

 そういうわけで、一連の羽入書評価には、かの(それ自体としては「人に優しい」日本文化の長所ともいえる)謙虚さが、「専門家」か「素人」かを問わず、細部におよぶ緻密な批判的思考論証とむすびつかずに、ただそのまま、理非曲直を鮮明にすることを嫌う「人間関係主義Personalismus」の平衡感覚のなかではたらくばあい、羽入書に現れたような、「緻密な論証」を装う独断的で強引な言説には意外に脆くいったん転ぶとどこまで引きずられていくか分からない危うさが、潜んでいるのではなかろうか。

 一方、筆者がなによりも残念に思い、研究歴50年/研究指導歴40年の一ヴェーバー研究者として自分の無力と責任を痛感せざるをえないのは、大方の「専門家」「ヴェーバー研究者」による羽入書無視であり、そのスタンスが、細部にわたる批判は用意し、いざというときには公表できる態勢は堅持したうえで、なにか理由があって公表は当面手控えているという学者としての原則に根ざす確たる対応とは、とうてい考えられないことであった。むしろ案外、羽入書の大仰で挑発的/攻撃的な口吻に内心たじろぎ、粗暴な物言いを感覚的に受けとめかね、「触らぬ神に祟りなし」「ものいえば唇寒し」と「だんまりを決め込み」、ただ「忙しい」「関心がない」「本人が寄贈してこないから、買わない、読まない、論じない(三無猿)」「自分にはもっと『巨大な』課題がある」等々と「逃げ口上」は怠らず、「人の噂も七十五日」と「嵐が過ぎるのを待ち」、「自然淘汰」に期待をかける、(かつて1968~69年大学闘争で、圧倒的多数の「亀派」教官層において白日のもとにさらされた)「専門家知識人」の無責任体質が、さほどの状況でもないのに再度露呈され、この無責任が後続世代の「中堅」「若手」の研究者にも牢固として引き継がれている実情を、象徴的に垣間見させる事態ではあるまいか。「象徴的」というのも、ことは、およそ羽入書のような卑劣な攻撃には一番黙っていられず、躊躇なく論戦に立ち上がり、理非曲直を明らかにせずにはおさまらない、マックス・ヴェーバーという稀代の学者/論客にかかわり、ほかならぬかれの学説/思想、学風/人柄に一番親しんでいる「ヴェーバー研究者」の「見てみぬふり」であり、「当の『ヴェーバー研究者』においてしかりとすれば、ましてや他の『人格円満な』学者/学説に親しむ専門的研究者においてをや」との推論が、おおよそ妥当するにちがいないからである。

 他方、羽入書刊行以降の大状況においては、いずれも構造的背景があると思われるが、①山折哲雄/養老孟司に代表される虚名の半専門家/非専門家(世上は「識者」)による学問的には無責任きわまる政治的絶賛、②「羽入予備軍」ともいうべき、「倫理」論文は一知半解の半専門家/非専門家(「逆恨み読者」)による歓呼/喝采/共鳴、③「学術書であろうが推理小説であろうが(公正取引委員会に問われかねない正体不明/類別不能の商品であっても)、自分さえ面白く読んで楽しめれば(たとえ批判的理性を麻痺させる阿片であっても)よいではないか、とやかくいうのは学者の思い上がりだ」と居直って自己満足に耽る非専門家(「オルテガ・イ・ガセのいう意味における『大衆人』読者」[2])のルサンチマンと敵意の表白など、現代大衆/「大衆人」社会の「(諸価値を下降方向で一様にならす)平準化Nivellierung」傾向が、「山本七平賞」という「政治賞Show」を頂点に、華々しい盛り上がりを見せた。

 こうした傾向も、原則的/批判的な対応を怠っていると、この現代大衆/「大衆人」社会では、「自然に淘汰」されてしまうよりもむしろ、かえって勢いを増すばかりではあるまいか。他方、かりに羽入書ないしはその類の際物が、同じく対決回避によって増長し、双方が呼応/合流して、「亀派」「専門家知識人」層をますます逃避/沈黙に追い込んでいくとすれば、現代日本の大衆/「大衆人」社会における歴史/社会科学は、ヴェーバー研究のみならず、むしろ「流れに抗する批判的理性そのものが、「専門」に徹する「謙虚な」(ただし「蛸壺に閉じこもっている」と言い換えられもする)当事者が目を背けているうちに、歩一歩と外堀を埋められ、「目を覚ましたときにはすでに遅い」という破局にいたりかねないのではないか。

 筆者は過去50年間、数あるヴェーバー批判書に接してきたが、羽入書のように、およそ自分に固有の問題も内容も持たず、ただマックス・ヴェーバーが「知の巨人」といわれ、価値ありとされてきた、ただそれだけの理由で、当の巨人からなんの内容も学ぼうとはせず、ただ引き倒し、価値を破壊したかに見せて、一世の耳目を聳動し、「偶像破壊者」の栄光に浴そうという純粋ニヒリズムとも呼ぶべき「抽象的情熱」を、これほど無遠慮に誇示した代物には、出会ったためしがない。しかもそうした際物が、これまでは定評のあった学術出版社から、「人文・社会科学叢書」の一点として、大手をふって「言論の公共空間」に登場し、「政治賞」によって引き立てられ、喝采を浴びるというカーニヴァルが、いくたの予兆や先例は散見されたにせよ、よりによってヴェーバー研究の領域で、これほど鮮やかに実演され、見せつけられようとは、思ってもみなかった。学問をめぐる状況は、なにか不気味に、大きく変わっている。

そこで筆者は、羽入書のそうした「新味」「持ち味」、すなわち「外見は緻密/明快でも、内実は粗野/強引な独断の開陳で、ただ、『倫理』論文を読まない『識者』、『逆恨み読者』『大衆人読者』だけは唸らせる」という「価値自由」な「特性」を、上記の穏当な評価では回避されがちな細部にこそ鮮明に顕れている実態として、いまいちどルター論の詳細に立ち帰り、ただしこんどは一専門家としての社会的責任にもとづき、「『倫理』論文を知らない行司には、相手を思いのまま手玉にとっている『本物の相撲』に見えるが、じつは相手が不在(架空の創作)なので、どんな手でも使って見せられる『ひとり相撲』」として、できるかぎり平易明快に再説した。それと同時に、そうして把握される当の「特性」がなぜ「かくなって、別様ではないのか」、それがなぜ「かかる質と量の社会的反響を呼び起こすのか」と、問題を再設定し、この問いに答える因果帰属を求め、第二、第三、……の「羽入事件」ないしはその類例の再発防止策に経験科学的な基礎を提供すべく、理解/知識社会学的な外在考察に転じ、徐々にこちらに比重を移してきたのである。

 ただし、その論稿を早まって発表すれば、いきおい論点の拡散をまねき、限定された争点をめぐる内在批判への徹底を損ないかねないとも危惧された(本コーナーに掲載されている「森川剛光の第一寄稿にたいする応答」参照)。そこで、「第二ラウンド」に羽入が登場し、論戦に火花を散らすなかで、面前の相手から検証材料を引き出し、(まえもって「社会学的想像力」をはたらかせて構成され、用意されている)一定の「明証性」はそなえた仮説につき、当の現場資料をもって検証し、「妥当性」も裏付けられる土俵に立って相手を迎え打つまでは、仮説の公表は見合わせようと考えていたのである。

 いまひとつ、筆者は、この間一連の羽入書批判をとおして、「火中の栗を拾う」(拙著、48-9ぺージ)ことを、あくまで目標とはしてきた。炯眼な読者は、ときに厳しい論難に潜む肯定的な核心を見逃されはしなかったであろう。すなわち、かりに羽入が知的誠実性の規範にしたがうならば、かれの取り上げた四「問題」が、いかに考え直されなければならないか、ルター論/フランクリン論についてヴェーバーの知的誠実性を問うならば本来なにが考えられるべきであったか、「倫理」論文の「全論証構造」はいかに解されるべきか、などの(「整合合理性Richtigkeitsrationalität」ないしは「整合型Richtigkeitstypus」の)問題を、羽入に代わって考え羽入による反証と論争が可能なように、文献上の証拠と論理的な推論にもとづいて、つぶさに論証してきた。と同時に、かりにかれが「疑似問題」幻想への囚われから目を覚ましさえすれば、かれ自身が素材として取り上げ(ながら、「疑似問題」のコンテクストに短絡的に送り込むために、解釈を誤り、研究には活かせないでい)たいくつかの事実から、さしあたりは固有の意味におけるルター/ルター派研究、聖書翻訳史研究ないしはフランクリン研究の方向で、いかなる学問研究への展望が開けるか、も具体的に示唆した(とくに「横田理博の寄稿にたいする応答」参照)。よってもって、華々しい学界デビューを企てながら、学問的には躓いて、自分では自分の蹉跌に目を背けている羽入が、みずからヴェーバー断罪の規準とした「知的誠実性」規範にこんどは自分がしたがい、知的に誠実な一学究として立ち直り、「疑似問題」をめぐる不毛な「ひとり相撲」を清算したうえで、羽入書では裏目に出ていた才能をこんどこそ学問研究に振り向け、ばあいによってはヴェーバー研究者との「生産的限定論争」にも入れるように、研究者として前向きに再出発する道筋を羽入書の論述に内在して具体的に示してきたのである[3]

 ところで、羽入自身の「精神の反抗力」に訴え、それを梃子に実存としての再起を促すこうしたアプローチ――いうなれば「ロゴテラピー」(V.E.フランクル)としての内在批判――に、知識社会学的外在考察は、どうかかわるであろうか。この考察方法は、やはりなんといっても、敵対者の言表/言説の「存在被拘束性」を「暴露」してその効力を殺ごうとする「イデオロギー批判」「イデオロギー論」を前身としている。したがって、どれほど「暴露」的態度が抑制され、「価値自由」に洗練されても、個人を適用対象とする――あるいは、類型(典型)的連関の一例示として取り上げる――かぎり、当の個人が、自分の帯びていた「存在被拘束性」をみずから相対化/対自化して克服する反省に資する(上に引用した羽入自身の「暴露」学問観がブーメランとしてかれ自身に戻れば、そう期待してもおかしくはないが)というよりもむしろ、直接的/心理的な反発を触発し、かえってかたくなに当の「存在被拘束性」に立て籠もらせ、「精神の反抗力」は眠り込ませる、「硬直化反応とも呼ぶべき逆効果をまねきやすい。「当人によかれ」と前者を意図しても、「目的」から逸れた「随伴結果」「背反結果」として、後者に帰結するリスクは大きい。とすれば、内在批判の正面対決に予定され、そうすることをとおして「火中の栗を拾う」ことも期待されているこのコーナー「第二ラウンド」に、羽入個人が登場するのを待たずに、いち早く外在考察論稿を公表してリスクを犯すことは、やはりほかならぬ羽入本人のためにも、慎重に手控えるべきであろう。

 以上ふたつが、これまでこの論稿を公表せず、手元に置いて羽入の登場を待っていた理由である。ところが、羽入はこのたび、かれのためにしつらえられたともいえるこのコーナーではなく、「マックス・ヴェーバーは国宝か――『知の巨人』の研究で糊口をしのぐ営業学者に物申す」と題する『Voice』誌5月号(198-207ぺージ)の対談に登場し、論争「第二ラウンド」への参入回避を表明した。羽入書刊行直後には、「反響はいかがですか」と問われて「肝心の社会学界はまったく無視です(笑)」(『エコノミスト』、2002年12月10日号、60ぺージ)と「不服」を唱えていた羽入が、昨2003年4月の拙評/同11月の拙著/今年1月の本コーナー開設と、「肝心の社会学界」内外から「待望の」反響が現れ、橋本努からは「第二ラウンド」の一方の当事者という願ってもない舞台をしつらえてもらえたのに、「死人に口なし」の「ひとり相撲」ではない生者相手の「本物の格闘」をまえに、逃げに転じてしまったのである。しかも、自分は大塚門下とはちがって「首輪と引き綱の付いた主人持ちの研究者」(羽入書、210ぺージ)ではないと胸を叩いて見せた羽入が、逃げ口上さえ自分ひとりではいい出せないのか、谷沢永一と名乗る、少なくともヴェーバー研究者としてはなんの実績も知られていない一人物[4]に「首輪と引き綱」を託し、論争回避を教唆/正当化してもらっている。本来ならばここに、谷沢ではなく、羽入書をミネルヴァ書房に推した歴史学者の越智武臣か、「山本七平賞」の選考委員で『ヒンドゥー教と仏教』(第三章)の一訳者でもあった山折哲雄か、あるいは他の選考委員が登場し、羽入とともに、あるいは羽入に代わって、羽入書にたいする筆者の批判に内容的に答え、併せて(選考委員であれば)先に出ていた一専門家の書評(『季刊経済学論集』69巻1号、2003年4月、に掲載の拙評)を無視して授賞を決めたのか、そうでないとすれば拙評にどう内容的に対応したのか、選考事情について釈明しなければならないところであったろう。

 ところで、谷沢はなるほど、「山本七平賞」選考委員の山折哲雄/養老孟司/中西輝政/竹内靖雄/加藤寛/江口克彦ほどには無責任な賛辞(『Voice』2004年1月号、195-8ぺージ)は連ねず、羽入の「虫がいい」言い分を随所で「たしなめ」てはいる。しかし所詮は、「山本七平賞」選考委員の、「『倫理』論文を読まない、相手を見ない行司」の「身から出た錆」として、「ひとり相撲」を「本物の相撲」と見誤った判定ミスと権威失墜を、これ以上当の受賞者自身にあらわにされてはかなわないと「引き締め」にかかり、この思惑が、なんとか逃げを糊塗しようとする羽入側の願望と一致して、この対談が実現されたのでもあろう。他人をいわれなく「詐欺師」、「犯罪者」ときめつけ、相手が生者ならば「名誉毀損罪」に問われて当然の、齢五十にもなる羽入辰郎に、谷沢永一は一言「真剣勝負に応じてきなさい」と言い渡すことができない。この一点に、羽入-谷沢両人と、こうした対談を掲載する『Voice』誌の品位水準が、冗言を費やす余地なく集約されている。蛇足ながら、谷沢は代わって、羽入の遁辞に「相槌」を打ち、「助け船」を出すばかりでなく、歯の浮くような甘言を呈して羽入の自己幻想を補強し[5]、身勝手な処世術まで伝授して、「自分の虚像を追う人生」への搬送に拍車をかけている。そうまでして「山本七平賞」/「保守派論客」の「急場をしのごう」とするのである[6]。もとより谷沢には、「羽入に代わって論争を受けて立とう」と名乗り出る勇気も度量もない[7]。あれば筆者の批判に正面から対決すればよい。 

 しかし、当面の問題はあくまで、羽入本人である。ただ、羽入の発言内容については、雀部幸隆が、『Voice』誌1月号の「山本七平賞受賞の弁」への論駁「学者の良心と学問の作法について」(『図書新聞』2月21/28日号)につづいて、今回も、力のこもった鋭い批判「語るに落ちる羽入の応答――『Voice 5』誌上羽入-谷沢対談によせて」を『図書新聞』(6月5日号)紙上に公表しているので、筆者は、「屋上屋を架する」のは避け、ただつぎの二点を再確認するにとどめたい。

ひとつに、羽入の論争回避は、かれには「知的誠実性」のひとかけらもないことの証左である。羽入がヴェーバー断罪の規準とし、著書の副題にも謳った「知的誠実性」とは、相手を攻撃する戦略として表向き掲げられたにすぎず、自分も研究者として服する普遍的な準則ではないことが、これではっきりした。羽入は、自著の主張が論難相手のヴェーバーにはとどかない「ひとり相撲」で、「倫理」論文によっても、ルター/フランクリン関係の資料に照らしても、覆されている――少なくとも、当の主張を細部まで正面から受け止め、具体的に論駁している筆者の批判を、同様に正面から受け止め、具体的に反論することなしには、もはや維持できない局面にまで追い込まれている――にもかかわらず、この現実を直視せず、つまりは「自分にとって不都合な現実を直視する勇気」としての「知的廉直(誠実)」の要請に耐えられず、顔をそむけているのである。   

 第二点として、その結果羽入は、「批判を受け止めて自説を再検討し、反論するなり自説を改めるなり、ともかくも知的に誠実に対応して学問的に一歩でも前進する」という研究者として基本的な前向きのスタンスがとれない。自分に向けられた批判に対峙し応答するのではなく、すでに覆されている一年半前の主張に後ずさりし、陳腐な言い種を蒸し返すばかりである[8]。羽入は、羽入書の独文原稿をドイツで出版しようとしたが、10社に断られたそうである。ところがそれは、原稿の内容と質の問題ではなく、「ドイツ国民」の「国宝」をけなして「禁書」扱いされているからだと解し(この点にかけては谷沢も意気投合し)、こんどは英訳に期待をかけるという。羽入は、別のコンテクストで、ある大学卒業論文のテーマが「海外の研究は出ていない」との理由で指導教官に却下されたという挿話を引き、「こうした権威的な姿勢ではいけない」と説く。なるほど、日本の学界にはまだそういう権威主義がなにほどか尾を引いており、羽入書が日の目を見たにつけては、羽入が奥方の入れ知恵で二論文を欧州の二誌に載せていた(本質的には当該誌における査読の不備を証しするだけの)形式的事実が、ちょうどそれだけものをいったにちがいなかろう。そこで羽入は、「夢よもう一度」とばかり、そうした「姿勢ではいけない」という当の権威主義にとりすがって、自国における批判には耐えられない一書の英訳に望みをつなぎ、延命をはかろうとする。もとよりヴェーバー著作を「国宝」とはしていない英語圏(独語圏とて同様であるが)に、越智武臣のように羽入書を出版社に取り次ぐ不見識な歴史家がいるかどうか、いたとしてまともな出版社がどうあしらうか、万一英語圏で出版されたとして日本での復権がなるかどうか、一興をそそる見物ではある。

 ちなみに、この一件にも明らかなとおり、羽入は、自己矛盾にも自説の「ブーメラン効果」にも無頓着/無防備である。対談のある箇所で、自著以外のヴェーバー研究文献を揶揄するつもりで、「ヴェーバーは洒落た台詞を文章にちりばめていて、彼の言葉を自分の論文に取り入れると、いかにも格好がいい」と表白している。ほう、では羽入書はどうか。「洒落た台詞」が跳ね返って幻想破壊力を発揮している事実に、御本尊は気づかず、気づこうとしないだけではないのか。

 そういうわけで、羽入は、待望久しかりし論争「第二ラウンド」への登場をみずから回避した。上記のとおり、谷沢との対談における発言内容からみても、かれにはそもそも、知的誠実性も、論争をとおして学問的に前進しようとするスタンスも、そなわってはいないと見ざるをえない。内在批判を受けただけで、一年半前の自説に固執する「硬直化反応」に陥るのでは、羽入自身の「精神の反抗力」に期待をかけても埒があかない。「山本七平賞」によって敷設され、谷沢によって拍車をかけられた「自分の虚像を追いかける人生」を、当分は安らかに歩むほかなかろう。本人との直接対決は、無期延期とせざるをえない。今後羽入が、今回の応答回避を自己批判して反論/論争を申し入れてくれば、そのときには受けて立つ構えは堅持しながらも、このコーナー「第二ラウンド」に向けての論点集約は、これをもって「御開き」とし、このコーナーそのものの帰趨は、これまでの努力への感謝と今後への期待を込めて、橋本努に一任するとしよう。

 羽入書そのものは、「ブーメラン効果」に無頓着なかれみずから「倫理」論文について語ったとおり、「犯跡」として永遠に残り、「反面教材」として、あるいは「教育(病理)学のデータ」として、必要のかぎりでそのつど顧慮されもしよう。このコーナーにおける内在批判と寄稿者間の問答は、羽入の回避で「第二ラウンド」は不発に終わったにせよ、今後いっそう活性化されるべき日本の学問論争の歴史に、ひとつの記録として残り、なにかにつけ論争が起き、盛り上がるつど、関係者に広く参照され、活かされていくと期待してもよかろう。とりわけ、インターネットを活用した、短期集中型論争(正確には、論争に向けての短期集中型論点集約)の嚆矢として、記憶されるかもしれない。

 筆者としては、「火中の栗を拾う」ためになすべきことはした。その論証を、なんの根拠もなく「罵詈雑言」といってのける羽入辰郎個人は、ここで見限るよりほかはない。これからはむしろ、第二、第三……の「羽入事件」ないし本質を同じくする類例が発生しないように、発生しても素早く的確に対処できるように、その構造的背景に理解/知識社会学的外在考察をめぐらし、再発防止策も射程に入れて論じ、はからずも一年半におよんだ「羽入事件」への関与を締めくくる段取りに移りたい。いかんともなしがたい人物を慮って、外在考察の公表を手控える理由はもはやない。ここで外在考察に転じ、これまでは上記の二理由から手元に置いて公開しなかった一論稿を、今後の理解/知識社会学的な論議への一問題提起/一素材として、ここに初めて以下に公表する次第である。(2004年5月20日記、5月30日改訂、つづく) 



[1] 理解に戸惑う言表/言説に直面して、「なぜこんなことをいうのか」と問い、言表/言説の「意味上の根拠」すなわち「動機」に遡及し、言表/言説者の「社会的存在位置」を考慮に入れ、当の言表/言説(「知/認識/知識」)が「なぜ、かくなって、別様ではないのか」を、その「存在被拘束性Seinsgebundenheit」に即して捉え返し、理解し、説明しようとする考察方法。G.ジンメルによる「ある表現の意味Sinnを客観的に『理解することVerstehen』」と「表現している人間の動機Motiveを主観的に(その主観的な意味連関に即して)『解明することDeutung』」との区別を、M.ヴェーバーが批判的に継受し、さらにK.マンハイムが、(ナチに追われ、オランダを経由してイギリスに亡命する)以前のハイデルベルク時代に定式化し、政治・社会的激動(第二次世界大戦)のさなか、身をもって「時代診断学」に適用した、前世紀「実存的」歴史・社会科学の記念碑的所産。言表/言説内容を「観念内在的に」(「素朴に」「額面どおりに」)受け取って解釈する「内在考察Innenbetrachtung」と対比される。以下、「理解/知識社会学的」「外在考察」と略記。

[2] もとより一口に「読者」といっても、この②と③のカテゴリーばかりでないことはいうまでもない。「倫理」論文ほかヴェーバーの学問的労作を「事実と理に即して」精読された公衆の正当な評価は、このコーナーへの丸山尚士、高橋隆夫、両氏の寄稿ほか、多くの機会に表明されている。

[3] 羽入書が出たあと、奥付の略歴から知ったが、羽入が東京大学教養学部に在学していた期間、筆者は同学部に所属する現職の一教員であった。羽入本人は、なぜか筆者の研究室の扉を叩かなかったが、それはもとよりかれの自由で、咎め立てするつもりはない。ただ、かりにかれが、羽入書に連なる研究プランを携えて筆者の研究室を訪れたとしたら、筆者は、この間の論駁と同趣旨の批判をもって対応したにちがいないし、かりに論文審査の席に連なっていたとしたら、学部卒業論文としても認めなかったろう。ヴェーバー批判だからではなく、「批判」が学問の体をなしていないからである。

[4] なぜここで、谷沢なる人物が出できたのか、「山本七平賞」に羽入書を推薦して責任を執らされているのか、筆者には分からないし、分かろうとも思わない。

[5] たとえば「羽入さんが使命感をもって仕事をされれば、有象無象は全部消えて、あなたの本だけが残ることになります」と語る。谷沢がほんとうにそう思っているのなら節穴、心にもない甘言ならば醜悪というほかはない。

[6] 谷沢は、羽入の言い分を「適当に聞きおき」ながら、聞きかじりの傑作一般をとりとめなく持ち出しては、羽入を十八番の「彼我混濁」に誘い、褒められたつもりにさせる。そのうえ、羽入が「自分の仕事」(その中身が問題なのだが)に「使命感をもって」打ち込むには、「首にはならないから教授会はさぼれ、自分は事務長を脅して授業の持ち駒も同僚の半数に削減させた、ただ無能な同僚の神経は逆撫でするな」(要旨)と、独善的処世術の伝授も忘れない。「奥さんを上手に利用」するのも「自分を売り込む計算」と語り、世評を気にすると「鬱症状」になるから「自分の意見に共感や賛同を求めるな」と「たしなめる」文脈では、とうとう「あなたの場合、研究を理解してくれる賢夫人がいらっしゃるのだから、それで十分ではないですか(笑)」と(痛烈な皮肉と響くほかない言葉を)口にしている。

[7] しかしここで、批判の公正を期し、(日本の文化・風土のもとでは、責任追及が「ことを荒立てる」「深追い」と感得されて、感情的/情緒的な反感をまねく、危険な一線を越えることになるとしても)羽入の出身母胎の責任も問わないわけにはいかない。東京大学大学院人文科学研究科倫理学専門課程における羽入の指導教官/(優れたヴェーバー研究者として筆者もかねがね尊敬しているが)羽入論文審査の席に連なっていたと見るほかはない(元)教室主任教授/当時院生の近くにいて研究指導の一端を担っていたと思われる、やはりヴェーバー研究者の(元)研究室助手/日本倫理学会の「和辻哲郎賞」選考委員として羽入論文への授賞にかかわった日本倫理学会会員らは、この問題をどう受け止め、どう考えているのであろうか。筆者はこれまで、羽入にかかわる「虚像形成過程」の契機として、こうした人々の研究指導責任論文査読責任を指摘し(「学問論争をめぐる現状況」§11、「横田理博の寄稿にたいする応答」参照)、該当者たちが自発的に名乗り出て事実経過を明らかにし責任があればみずから率直に認めることを求め、名指しはせずに待っていた。かれらの応答と釈明の結果、かりに筆者の事実認識と帰責論に誤りや無理があれば、筆者としても自己批判して責任を執る用意がある。本コーナーへの応答要請は、橋本努からかれらにも(少なくともヴェーバー研究者としての元主任教授と元助手には)届いているはずである。さなくともかれらとしては、このコーナーに注目していてしかるべきであろう。というのも、自分たちが指導/審査して学位(ないし学会賞)を授与した当の論文、正確には、独文で書かれた原論文を「改訂・増補し」(羽入書、ⅵぺージ)て出版したという羽入書にたいして、これが学位論文には値しない(もとよりヴェーバー批判は結構であるが、その「批判」が学問の体をなさない)と論証する一ヴェーバー研究者が現れ、羽入自身が持ち出した「ヴェーバーは詐欺師か」という争点は引き受けて、羽入の登場を待ち、論争の「第二ラウンド」に向けて論議を交わしているのが、このコーナーにほかならず、実質的にはかれらの論文審査を追審査するフォーラムをなしているからである。ところがかれらは、なぜか黙して語ろうとしない。

 だが、考えてもみよう。世間の常識では、欠陥のある商品に商標/称号(博士号)をつけて販売した「営業Betrieb」責任者/品質管理主任/検査係らは、欠陥が発覚すればただちに責任を問われるし、問われて当然である。羽入博士のばあい、『思想』誌の編集者やミネルヴァ書房の編集者/出版社主が、羽入原稿を評価して掲載ないし刊行に踏み切ったとき、また、青森県立保健大学が羽入を評価して正式に教員に採用したとき、仲介者の紹介/欧州二誌の論文掲載/「和辻哲郎賞」受賞などもカウントには入れられたにせよ、決定にあたってもっとも重視されたのは、やはり常識的に考えて、羽入が博士号を取得していたという事実であったろう。学位にたいする社会的信用は大きい。ところが、当の学位取得のさいの論文審査が、学問的批判の体をなさない欠陥論文をそのまま合格させてしまったのではないか、したがって当該研究科の学位が社会的信用に値するかどうか、がまさに問題として問われているのである。

 もっとも、「羽入事件」のばあい、学位論文の原論文と「改訂・増補し」た羽入書との間にはズレがあろう。原論文のほうは学位取得に値する出来ばえを示していたが、「改訂・増補」のさいに水準の低下をきたし、学位に値しない羽入書が世に出てしまったということも、形式上はありえないことではない。ヴェーバーを「詐欺師」「犯罪者」と決めつけるような耳目聳動的な言表は、原論文にはなく、そのため査読者が「純アカデミックなヴェーバー批判」として読んだということは、ありうることである。では、羽入書から耳目聳動的な評言/誹謗中傷/自画自賛の夾雑物をすべて取り除いてみよう。そうすれば、「純アカデミックなヴェーバー批判」が残るであろうか。いな。論者独自の問題設定も論理構成もなく、無系統に重箱の四隅をせせくり、無謀にも素材外形への些事拘泥を針小棒大な議論によって過大な要求につなげようと目論んだ失敗作が、残骸として再発見されるだけであろう。かりに査読委員が、それでもなお「原論文はよく書けていたが、『改訂・増補』のさいに厚化粧を施され、耳目聳動を狙う際物となって世に出てしまった、その意味で『自分たちは裏切られた』『自分たちこそ被害者だ』」と主張したいのであれば(ありえないことではないと思うが)、そのときこそ原論文を公開したうえ、原論文および羽入書双方にたいする評価内容を公表し、公開の論議に委ねるべきであろう。羽入に博士の学位を与えた審査責任者には、羽入書、したがって学位請求論文の帯びている問題性がきわめて深刻で、「言論の公共空間」で広く議論され、学問の体をなさない欠陥が論証されながら、当の「博士」は学問的に反論できないでいる以上、事後遅れてでもその議論に参入し、「博士」に代わり、学問的確信にもとづく反論を展開して、当の学位請求論文は合格水準をクリアしていたと論証/主張し、研究者としてのおのれ自身とみずから責任をもって運営する公的機関(東京大学大学院人文社会系研究科)との社会的信用を回復する社会的責任があるはずである。当事者が、そうした公的責任を自覚して発言するのであれば、筆者もよろこんで、その公開論争「第三ラウンド」に参入するであろう。かりに北海道大学経済学部に所属する橋本努のホーム・ページにおけるこのコーナーでは「筋違い」ないしは「不服」というのであれば、みずから東京大学大学院人文社会系研究科のホーム・ページに「羽入書問題、公開論争コーナー」を開設してもよかろうし、それなら「筋が通る」であろう。

 さらに、つぎのような事情も考えられはする。近年大学院に「社会人枠」が設けられたりして、院生数が増えると同時に、院生の年齢構成が多様化してきている。それにともなって、研究指導上、たとえば、同年齢層の小集団であれば自然発生的に維持される、院生同士の緊密な(ときに激烈であってもよい)コミュニケーション/討議/相互批判の密度を、年齢格差にともなう「遠慮」その他の制約から解き放って、どのようにして確保していけばいいのか、といった数々の問題が発生している。そうした問題のひとつとして、指導教官なり主任教授なりが、比較的高年齢の院生(羽入のばあい、「社会人枠」による入学ではなかったようであるが)に、「本人は歳をとっていて妻子もいるから、なんとしても就職させてやりたい」あるいは「何年留年させて論文を書き直させても、改善の見込みはないから、早くなんとかしたい」という「温情に動かされる」ことも(あるいはその反動も)、原則的には非と分かってはいても、生身の人間間のこととして、起きないともかぎらないであろう。羽入書には、論文執筆にあたって好意的な処遇を受けたらしい先輩/研究指導者にたいする、主観的な思い込みの激しい、しばしば過剰で相手には迷惑と(第三者ながら)気遣われもする謝辞がふんだんに散りばめられているが、そのなかにあって(優れたヴェーバー研究者であって実質的/内容的にもっとも多く教えを乞い、学ぶことのできたはずの)教室主任教授への言及がまったくないこと、(なぜかヴェーバー研究者ではない)制度上正規の指導教官への謝辞もきわめて淡白であること、この二事実が、他の大仰な謝辞とは鮮やかな対照をなし、それだけに注目を引く。こうした事実は、主任教授/指導教官と羽入との間に、なんらかの緊張ないしは暗闘の関係が存立していた、少なくとも他の謝辞対象者との関係ほどには円滑にいっていなかった、という客観的可能性を示唆する。主任教授/指導教官らが、この難物を相手に、そうとう苦労し、辛酸をなめたであろうことは、推察に難くない。しかし、大学院における教官-院生間にどんな摩擦や軋轢があろうとも、「人間関係」に引きずられて学位論文審査の学問的な厳正さをゆるめることは許されない。その間にあって、本人の適性と力量に合った適職への転身という選択/勧告の余地は、いつでも開かれていたはずである。経緯がどうあれ、じっさいになされた選択は、少なくとも結果として、学問という営業種の許容範囲から逸脱すること甚だしく、営業にとってはもとより、本人にとっても、「自分の虚像を追いかける」「アクロバティックな人生」に追い込むようなもので、よかろうはずはなかった。遺憾ながら、学者/教育者の勧めるべき選択、論文審査にあたって執るべき態度/決定であったとは、筆者には思えない。ただ、この点にかけては、おそらく当事者としての異見があろう。ぜひ、責任者として名乗り出て実情を明らかにし異見も開陳していただきたい。そうすれば、大学院教育の現にある実態を切開し、深刻な問題を正視し、そこから改善策を模索していく今後の議論に、貴重な資料が提供されることにもなろう。ことは、これまでよもや「羽入事件」のようなことが起きようとは一番予想だにされなかった、文献読解にかけては最高水準にあるとの定評をえてきた名門研究室に、なぜか事実起きてしまった重大な審査ミス(と考えざるをえない深刻な問題)なのであり、それだけに今後に活かされるべき貴重な教訓を含んでいるにちがいないのである。

 いずれにせよ、口をぬぐって責任逃れをつづけていては、事実確認にもとづく適切な事後処置が妨げられ遅れるばかりでなく、商標/称号そのものが、「羽入標」「羽入号」と同一または同類の審査当事者による反省なき類例として、当-必然的に減価し、営業は不振に陥り、いずれは倒産の憂き目を見るであろう。当の営業からすでに世に送り出されてしまった倫理学関係者は、「自分の知ったことか」「あとは野となれ山となれ」と「見てみぬふり」をして「安泰」でいられるかもしれない。しかしそれでは、現に最大の「顧客被害を受けているにちがいない青森県立保健大学の学生は、どうなるのか。かれらがみずから告発に立ち上がるのを待つのか。こういう問題に、かれら倫理学関係者は、自分の学生時代にはどうかかわったのか。1968~69年大学闘争を闘って、なにを学んだのか。青森の学生が立ち上がらなければ、東京の現業責任者/関係者は、「亀派」教官になりすまし、専門家に固有の責任/社会的責任には「頬かむり」していていいのか。それでも、他ならぬ「いかに生きるべきか」の倫理学は教えつづけられるのか。そういう倫理学でいいのか。せめて、日本倫理学会の会員であれば、学会賞「和辻賞」が羽入に授与された経緯、とくに選考委員の実名と論文審査の内容を、会員の権利また義務として究明し公表することができるのではないか。

 倫理学周辺の同僚も、旧来の「大学自治」の慣行に埋没して、こういう明白な無責任を相変わらず「かばい」「隠蔽する」のであろうか。現在の東京大学大学院人文社会系研究科科長で、(筆者もこれまでフェアにつきあってきた)文学部倫理学科出身の元ヴェーバー研究者からは、筆者がこの問題にかかわる論稿をそのつど挨拶を添えてメールまたは郵便で送っても(文学部長兼任の科長職の多忙を斟酌しても解せないほど、一年以上の長きにわたって)「受け取った」との返事ひとつないが、いったいどう考えているのか。挨拶はともかく、学者としての見解はどうなのか。

 ことほどさように「大学の自治」が、民間企業の営業、あるいは「政治寄生的」さらには「純粋政治家/政治屋的」「営業」の倫理水準以下に落ち、「集団的既得(無責任)権」維持のイデオロギーと化して、内部改革力はおろか自浄能力さえ欠いているから、たえず「外部の第三者機関」構想を呼び出しては「同位対立」の関係に陥らざるをえないのであろう。

[8] たとえば、「ヴェーバーの恣意的な資料操作を論ずるため」、『コリントⅠ』7: 20や『箴言』のマイクロフィルムを取り寄せるのに苦労し金がかかったとの挿話をまたもや披露し、地道な資料集めが大切であると説くが、そのさい、当の折角の資料が「ヴェーバーの恣意的な資料操作」の証拠にはならず、かえって「ヴェーバーを杜撰者ないし詐欺師に仕立てようとする恣意的解釈=意味変換操作」を裏付けている、という批判は、都合よく忘れている。そればかりか、そういって「素材探し」に逃げ込もうとする羽入に、谷沢も、「資料が絶無でも『ありそでなさそで』というあわいを縫って苦心するのが、学問の楽しみです」、「逆にマックス・ヴェーバーがこれ見よがしに操作している資料を視野から外しても、ヴェーバーの『面白さ』は残る」、「ヴェーバーが何をいいたいかの判定は、資料がなくてもいえることです」と説き、一言余計ながら「ヴェーバー研究で糊口をしのいでいる『営業学者』のいうことは黙殺して、『マックス・ヴェーバーのいいたいこと』を追求されるべきでしょう」と「たしなめ」ているのに、羽入は、谷沢の「いいたいこと」には「うーん、そうですね(笑)」と唸るばかりで、まともに耳を貸さず、「待ってました」とばかり冗句のほうにとびつき、「折原とはそうした『営業学者』の『典型』です、『ヒステリックにな』って『罵詈雑言』を加えてきます、『批判に答えよ』と挑発しています」とご注進におよぶ。谷沢もここで、「御託を並べていないで、批判に答え、折原とやらの『言い掛かり』は『罵詈雑言』にすぎないと立証してきなさい」と突き放せばいいのに、それでは対談の意味がなくなると思いなおしてか、わざとピントを外し、「毀誉褒貶を気にせず、つぎの論文で答えればいい、いちいち応酬する必要はない」(要旨)と「助け船」を出し、「お墨つき」を与える。とたんに羽入は、「応酬をすると、時間を取られて前に進めなくなるんですよ」と気を取り直し、「ほかにすべきこと」(おそらくかれにとっては「前に進」むこと)として、なんと『マックス・ヴェーバーの犯罪』の英訳を出したいという。羽入書は「マックス・ヴェーバーの本場であるドイツではすでに知られていて『禁書』扱いになっている」(誰もそんなことを聞いてはいないが)ため、羽入による10社への出版打診には「いずれも丁重なお断りの言葉が返ってき」たが、「英訳すれば何とかなりませんか」と「頼みの綱」にお伺いを立てる(谷沢永一に、著作の英訳/外国語訳があって、英語圏の出版社にも「顔がきく」のかどうか、筆者は寡聞にして知らない。ただ、越智武臣がミネルヴァ書房に羽入書を取り次いで後者が受諾した、双方の不見識「特産」の事件が、英語圏のまともな学者や出版社にも起きようとは考えられない)。これに谷沢は、「ヴェーバーやヘーゲル、マルクスなど、体系とか方法論とか世界観といわれる学問はドイツ特産で……パリやロンドンやヴィーンには、そのように田舎じみたことをいう学者はいません」と、いやはやどうかと思う冗句をもって答え、「急にパリからあるいはロンドンから訳したいという連絡が来るかもしれないが、それは他人の仕事に任せて、それが進行するあいだ、あなたはご自分の学問を別に進めればいい」とかわし、なにはともあれ「ご自分の学問」に送り込もうと苦心惨憺している。すべてこの調子で、「プロクルーステース英雄譚」の余録「クーリングオフ苦労篇」と読むほかはない。


丸山尚士「「羽入氏論考」第1章 「"calling"概念をめぐる資料操作」の批判的検証---門外漢による「貧者の一灯」その2---」

2004年6月1日改訂版(本コーナーへの寄稿)

「羽入氏論考」第1章 「"calling"概念をめぐる資料操作」の批判的検証

---門外漢による「貧者の一灯」その2---

丸山 尚士

2004年5月23日


  2004年4月5日に、「羽 入-折原論争への応答---門外漢による「貧者の一灯」」を 寄稿させていただいた丸山尚士です。前 稿で筆者は、敢えて羽入氏の論考の中心的な論点には踏み込まず、主に周辺的なことを取り上げ、マックス・ヴェーバーおよび折原氏側に立つ弁護側の 証人としての論考を提示しました。


 その後、合間を見て研究を続け、特に最近になって入手できたベ ンソン・ボブリックの「聖書英訳物語」(柏書房、日本語訳;現著作者 Benson Bobrick, "Wide as the waters"、千葉喜久枝訳、大泉尚子訳、永田竹司監修、以下「BB本」と略 記)を参照し研究を進めることができました。著者のベンソン・ボブリックはamazon のレビューによると、"Benson Bobrick earned his Ph.D. from Columbia University and is the author of several books, including Angel in the Whirlwind, an acclaimed narrative history of the American Revolution."とのことであり、本書は学術書ではなく一般向け啓蒙書です。そうではあっても、日本語訳は国際基督教大学の永田竹司氏(聖書学) によって監修されており、その紹介によれば、「詳細な歴史情報の調査・研究に基づく歴史書としての質を保持しつつ、同時にその歴史を形成した重要な人物 像、政治的、宗教的、文化的脈絡に対する洞察に富んだ、人の心を動かす物語となっている。」とされています。(日本語訳 pp.257-258)私個人と しても、非常に詳細で、正確な歴史記述がされていると感じています。

 

  本書以外に、研究資料としては、田 川建三氏の「書物としての新約聖書」も活用しました。学術論文に批判を加える以上、可能な限り「学術的な」資料に基づくのが望ましいことは当然で す。しかしながら、たとえば英訳聖書の歴史においてドイツのルターに匹敵するティンダルについて、1948年~1999年の50年間で日本では学術論文は わずかに 3本しか出ていない、という状況(「ウィ リアム・ティンダル―ある聖書翻訳者の生涯」デイヴィド ダニエル (著), David Daniell (原著), 田川 建三 (翻訳)、における田川氏による訳者後書き、p.751)では、一般書に頼るのもやむを得ないということをどうかご理解ください。また、前 稿でも書きました通り、筆者は現在地方在住の一般人であり、大学図書館等の研究リソースの利用が困難、という事情も斟酌ください。

 本稿で は、BB本の詳細な英訳聖書史を踏まえた上で、改めて羽入氏の論考の第1章である、「"calling"概念をめぐる資料操作」を検証しつつ読み直してみ ました。BB本が学術書ではないという事情に鑑み、可能な限りはインターネット他で得られるリソースも参照して、裏付けを取るようにしました。ただし、す べての箇所においてそれができたわけではなく、この点は、正規の研究者の方によるご批判を仰ぎたいと思いますし、また再検証していただければ幸甚です。

 なお、 英訳聖書の歴史にあまり通じていない方にも、本稿の検証にできるだけおつきあいしていただくという目的で、この論考の末尾に簡 単な英訳聖書に関する年表を挿入しました。適宜その表を参照しながら読んでいただければ幸いです。

 結論を先に申し上げますが、東京大学大学院人文科学研究科に提出され、それに 対して博士号が授与された論文が基になっている羽入氏の論考は、単純な事実誤認、「文献学的」誤り や無理な解釈が多く、そうしたものに基づく論点がほぼすべて妥当性を欠いている、ということが検証できたと思います。本来この検証では、 BB本で大体の目安をつけ、問題がありそうな所を抜き出し、その後改めて入手できる学術書で検証を進める、という手順を考えていました。しかしながら羽入 氏の論考の第1章は、以下の検証だけで十分に反駁可能であり、さらに第二弾の検証を行う必要性は感じられませんでした。

以下、そ の検証結果を報告します。

 検証したのは、次の4点です。

  1. 英 語圏における「旧約聖書外典」の扱いについて

  2. 「ジュ ネーブ聖書」について

  3. コ リントⅠ 7.20を"vocation"と訳したもう一つの例外聖書とはどの聖書か

  4. OED の"calling"説明の解釈について


1. 英語圏における「旧約聖書外典」の扱いについて

 羽入氏は、ヴェーバーが一貫して旧約聖書 外典中の「ベン・シラの知恵」の訳語を調査せず、特に英訳聖書についてそれをしていないことを問題にしています。(羽入氏論考、p.26)

 BB本によれば、英語圏での旧約聖書外典の英訳の扱いは、こうなっています。 「1825年までに、聖書外典の訳は全ての英訳聖書に含まれることとなった。その後それはどこかの時点で抜け落ちてしまった。教義至上主義のピューリタン がローマ風の考え全てを拒絶したことの犠牲である。今日に至っても聖書外典を手にするのがとても大変なのは残念なことである。」とされています。 (p.200、以下すべて日本語訳のページ)

 実際に調査した結果では、1611年のいわゆるキング・ジェイムズ の欽定聖書(巻 末表の 20)では、「外典」の訳が含まれていたものが、1885年になって(巻 末表の 21)正式に聖書の英訳の中から取り除かれているという記述を確認できます。(たとえば次の Webサイトの記述)

"1611 AD: The King James Bible Printed; Originally with All 80 Books. The Apocrypha was Officially Removed in 1885 Leaving Only 66 Books."

 ヴェーバーは筆者の前 稿で指摘したように、当時の読者が容易に参照可能な世俗語訳聖書をトポス(読者と共通の了解事項としての推論のスタート地点)として、過去に遡っ てその起源をたどる、という論述の進め方をしています。この点で、ドイツではルターが「外典」について比較的寛容であったため、おそらくヴェーバーの当時 でも容易に一般の人が参照可能であったと思われます。これに対し、英語圏では、まさに外典が正式な聖書から外された直後であり、ヴェーバーの論述の進め方 として「ベン・シラの知恵」を定点観測用に使うのは適していなかった、ということが言えます。(外典が入手しにくいのは、日本でも同じでしたが、最近は 「旧約聖書続編」という名称で新共同訳旧約聖書の末尾に追加された形で出版される場合が多くなり、入手が容易になっています。)

 ルター思想の英訳聖書への影響が、「必ず『ベン・シラの知恵』を経由していな ければならない」という疑似問題については、すでに折原氏が詳細に反論済みですので、ここでは省略します。(折原浩、「ヴェーバー学のすすめ」p.60以 下)


2. 「ジュネーブ聖書」について

 「ジュネーブ聖書」とは、スイスのジュネーブに亡命していたカルヴァン派プロ テスタントによる英訳聖書です。(巻 末表の 14と15)その翻訳はそれまでの英訳にくらべ正確さが向上しており、また初めてひげ文字体(ゴシック体)ではなくローマン体の活字を用いて読みやすくし たり、また今日の聖書では一般的な「コリントⅠ 7.20」のような番号による章節分けを初めて行った聖書でもあります。さらには、欄外にカトリックの教 義への批判と解釈されうる注が付加されていることでも有名でした。

 この 「ジュネーブ聖書」について羽入氏は、「ヴェーバーやOEDが『1557年ジュネー ブ聖書』と言及しているものは存在しない。1557年の聖書として存在するのは『ウィティンガム訳の新約聖書』であり、いわゆる有名な『1560年ジュ ネーブ聖書』ではない。OEDはこの点で誤っていて、現在の版ですら修正されていない。ヴェーバーは『1560年ジュネーブ 聖書』の現物を見たことがない。したがってOEDの間違いに気づかず、それをそのまま引き継いだのだろう。」、等々の指摘をしております。(羽入氏論考、 pp.39- 40)実際に、その指摘がこの第1章の論考のかなりの部分を占めています。

 しかしながら、この羽入氏の論考は、「1557年 のウィティンガム訳の新約聖書」と「1560年のジュネーブ聖書」がまったく別のものである、という単純な誤った思いこみに基づいています。

 この「ジュネーブ聖書」の成立過程は、BB本によれば以下のようになります。 メアリー女王のプロテスタント迫害によりジュネーブに亡命していたウィリアム・ホウィッティンガム(William Whittingham、カルヴァンと姻戚関係、羽入氏論考では「ウィティンガム」と表記)が、まず1557年に ティンダル訳(巻 末表の 8)を基に新約聖書 の英訳を行っています。(巻 末表の 14)その3年後に、旧約と外典の英訳が追加され、さらに新約のホウィッティンガム訳について一部の単語の訳などの見直しが施された上でまとめられたの が、羽入氏の言う 「ジュネーブ聖書 1560年版」です。(巻 末表の 15、BB本、pp.138-139)羽入氏はこの2つをまったく別のものとして扱っていますが、BB本の説明にある 通り、新 約部分の1560年版は、1557年版の単なる校訂版に過ぎません。つまり、新約に関しては、ジュネーブ聖書は1557年版と1560年版 が存在することになります。このあたりの事情は、次のような複数のWebサイトで簡単に再確認することができます。

The Geneva Bible:The Forgotten Translation

The Geneva Bible (1557-1560)

The Geneva Bible

 なお、「ジュネーブ聖書」という言い方も、あくまでジュネーブで出版されたことか ら来る「通称」であり、1560年版のみが「ジュネーブ聖書」であるという羽入氏の主張は、おそらく何かの参考書籍の記述を誤解したと思われ、根拠を見い だせません。

 ここ で、ヴェーバーの記述とOEDの記述を再確認してみてください。どちらも「1557 ジュネーブ」(OED:"1557 Geneva")と「正確に」表現しています。年号を省略して単に「ジュネーブ聖書」とはしていません。どちらの引用にも問題なく、ジュネーブ聖書の成立 事情を正確に把握していない羽入氏だけが、ヴェーバーもOEDも誤っている、「『1557年のジュネーブ聖書』などありえない」、と主張しています。(羽 入氏論考 p.40)なお、BB本に記載されているように、1557年版と1560年版では多少の訳語の見直しが行われており、1557年版は例の問題の箇所が "state"、1560年版は"vocation"と訳されています。そのことをヴェーバーもOEDも正しく指摘しているにもかかわらず、羽入氏は 1560年版が"vocation"となっているのだから、ヴェーバーの論述は間違っている、それはOEDの誤りをそのまま引き継いだのだろう、と無理な 決めつけをしています。(羽入氏論考、p.39)しかも、両版の扉絵写真を掲げ、よく似ているから間違えやすい、などという誤りの理由まで仮構して的はず れな批判をヴェーバーおよびOEDに対して加えています。(羽入氏論考、p.40)

 OED については、その編集の基本方針として、単語の初出を探る、というのがありますから、その意味でもジュネーブ聖書の新約聖書部分について、 1557年版と1560年版を別のものとして区別するのは当然です。OEDの解説書(A Guide to the Oxford English Dictionary, Donna Lee Berg、Oxford University Press, 1993)によれば、OEDでは1560年版を"the Geneva (1560)"と"the"付きで表記、そして1557年版の新約は"1557 N.T. (Genev.)"と表記しているとのことです。("callling"の項では、"1557 Geneva"ですが、これはその前にコリント書からの引用であることが明記されていて、わざわざ新約聖書であることをことわる必要がないからでしょ う。)(田川氏の「書物としての新約聖書」p.557によれば、聖書研究者の間では、厳密に 区別する場合には1557年の新約を「ジュネーブ新約聖書」、1560年の全体を「ジュネーブ聖書」と呼ぶそうです。さらに、もう一種、 「ジュネーブ聖書」でやはりジュネーブで印刷された1588年のフランス語版を指すこともあります。)

  OEDの現代版でもこの部分が改訂されていないのは、OED初版の間違いが現代まで見逃されているのではなく、元々何ら誤っていないからです。羽入氏が指 摘する「OEDの誤り」を検証もせずに事実であるかのように扱うのは公平性を欠きかつ学問の原理にも悖ります。(もちろん、OEDが無謬である、などと主 張する気はありませんが。)このことは、羽入氏の他の主張についても同様で す。

 羽入氏 の主張する「文献学」的手法は、多くの場合、扉絵写真の例に見られるように「原典の姿」を確認することを指しているように読めます。しかし、この場合に典 型として確認できるように、「第1次資料」を確認することが、文献の解釈の正しさに何の寄与もしていません。羽入氏の論考で 確認すべきなのは、テキストそのものが成立した背景と、文献から抽出された「テキスト」そのものです。(活版印刷発明後の聖書については、すべて同様で す。手書き写本のようにテキストの抽出に揺れが生じる、といった可能性は非常に低くなります。)ヴェーバーが、その研究において現物の「ジュネーブ聖書」 を確認する必要性は、そのテキストの抽出作業がすでに別の人によって完了している限り、通常は高くありません。(各聖書の印刷技術の確認とか、装丁の確認 といった特殊な研究 目的が存在しない限り)この意味で、羽入氏が「ヴェーバーが1次資料を参照していなかった」という批判は批判としての妥当性を欠いています。むしろ、研究 当時の最新かつ最良の研究リソースであった、OED(その当時は第2巻が発刊されただけのもの)を非常に適切に参照していることを、積極的に評価すべきで す。森川剛光氏が、こ のコーナーへの2月22日の寄稿にて、ヴェーバーを含む歴史学派がその研究の多くを二次文献に依存している、と指摘されています。それ自体、一般 論としては正しくとも、羽入氏の妥当性を欠く指摘と結びつけて、「ここでもヴェーバーは二次文献しか使用していない」というネガティブな評価とするのは適 切な評価とは言えないと思います。(余談になりますが、筆者は大学の卒論でやはり歴史学派であるK・ポランニーの貨幣論を取り上げたので、森川氏の指摘に は非常に関心があります。)


3. コ リントⅠ 7.20を"vocation"と訳したもう一つの例外聖書とはどの聖書か

 続いて、「1582年の(カトリックの)ランス聖書も、エリザベス朝のイギリ ス国教会の宮廷用聖書も、再び公認ラテン語聖書にならって》vocation《に帰っているのは注目に値しよう。」(ヴェーバー「倫理」、岩波文庫、大塚 訳 p.108)の部分についての、羽入氏の論述を検証してみましょう。

 まず、ランス聖書とは、BB本によれば、エリザベス1世の時代に、今度はカト リック教徒が大陸のフランドル地方のドゥエに亡命して、そこで作成した英訳聖書です。正式にはランス(ドゥエ)新約聖書(Douai Rheims Version)というようです。(巻 末表の 17,19)(なお、細かいことですが、羽入氏は「リームズ・ダウエイ聖書」と呼んでいます。これは英語読みであり、「ランス大聖堂」を「リームズ大聖 堂」と呼ばないのと同じで、日本の聖書学では一般的ではありません。)この英訳の特徴は、カトリック側での初めての聖書英訳であり、プロテスタント側のよ うにギリシア語訳(70人訳、巻 末表の 1)や、ヘブライ語からの英訳ではなく、主としてヒエロニムスのラテン語訳聖書であるヴルガータ聖書(巻 末表の 2)から翻訳されているということです。また、プロテスタント側の訳とさらに違うのは、英語にそもそも存在しない概念を、まさしく"calling"のよ うな訳語を創造することなく、なるべくラテン語そのままを残した形の英訳にしたことです。(BB本、pp.149-153)

 その結果、プロテスタント訳では “Give us this day, our daily bread” のように平易に英訳された箇所が、この訳では“Give us this day, our super-substantiated bread” という風に、英語とラテン語起源の単語の交じった庶民にはわかりにくいものとなっています。(The 1582 Rheims New Testament:The First English Roman Catholic Scriptures) こうした方針により、英語訳として翻訳者によって創出された"calling"ではなく、再びラテン語に基づく"vocation"が使われるということ は当然であり、ヴェーバーの論述には重要です。

 この聖書は、カトリック側が訳したにもかかわらず、ラテン語の原語を容易に参 照できるという点で、プロテスタント側にも重宝がられ、1611年の欽定訳(キング・ジェイムズ聖書)の作成にあたっても、その訳語が一部そのまま採り入 れられたりしています。(BB本、p.154)

 さて、「エリザベス朝のイギリス国教会の宮廷用聖書」というもう一つの例外聖 書ですが、これは本来傍証に過ぎず、この聖書の特定はどうでもいいことに思われます。ですが、ここでも羽入氏は奇妙な推定と議論を繰り広げていますので、 それを指摘しておきます。羽入氏は、まず可能性があるのは、1568年の「主教訳」(BB本では「主教聖書」、巻 末表の16)ではないかとしています。しかしながら羽入氏も確認しているように、この聖書は該当箇所で"vocation"を採用していません。 また、BB本によれば、エリザベス女王はこの聖書に何らの関心も示さず、一度も公認しなかった、ということなので(p.146)、もう一つの例外聖書は 「主教聖書」ではありません。

 その後、羽入氏のp.42-43あたりの「推理」は、2.のジュネーブ聖書の解釈が間違っていることもあって、迷走しています。特に、羽入氏が「エリザ ベス朝時代(1558-1603)には新たな聖書は三種類しか出されていない。」(羽入氏論考、p.42)と断言している点から、羽入氏が英訳聖 書に関しては表面的にしか調べていないことがまたも窺えます。確かに、今日「研究の対象にされる」ような英訳聖書は、巻 末表の 15、 16および17の3種です。しかしながら、このことは他の聖書(場合によっては既存聖書の再編集版や改訂版など)がなかった、ということの論証にはまった くなっていません。それを調べるのが「文献学」のまさに責務だと思いますが。こうした自分側の不備は放置し、「要素を独断的に有限に限定した上での消去 法」という架空の論理でヴェーバーがカルヴィニズムの聖書英訳(1560年ジュネーブ聖書)をイギリス国教会の宮廷用聖書と混同した、とヴェーバー自身が まったくあずかり知らない牽強付会の議論にすり替えを行っています。

 羽入氏 が本来行うべきだった作業を、筆者が成り代わって行ってみます。このもう一つの例外聖書について、確証は得ていませんが、1589年に William Fulke が出した、「ファルクによる注釈付き新約聖書」(巻 末表の 18)のことではないかと推定します。(The Bible as Battlefield 参照。)この聖書(論駁書)は、プロテスタントのファルクが、巻 末表の17の 「ランス聖書」を徹底批判する目的で、ランス聖書と、16の主教訳聖書の両方を対比させる形で収録し、なおかつランス聖書の元々の注釈に、ファルク自身の 徹底した論駁を加えたものです。(実 際のページ写真を参照)この聖書には、自明ですが上記ランス聖書とまったく同じ訳が含まれており、さらに付記すればランス聖書はそのままの形で読 まれるよりも、このファルクの批判本を通じて一般に普及したということです。また、羽入氏がこだわっている、この部分の聖書という表現が「Bibelnと いう複数形」である問題(羽入氏論考、p.43)も、ファルク本が「2つの」異なる聖書翻訳を同時に含んでいることを指していると考えれば矛盾しません。 または、ファルク本自体の複数の版を指しているという可能性もあります。

 この項 については現時点では結論は保留とさせていただきます。ファルク本が実際に宮廷で使用されたかどうかは確認が取れていないからです。ですが、「文献学」を 標榜してやまない羽入氏の推論と、筆者の推論のどちらがより学問的な論証かは、読者の判断に委ねます。なお、このもう一つの聖書、が明らかになれば、 ヴェーバーが英訳聖書研究において、 OED以外の資料も参考にしているという証拠にもなります。


4. OEDの"calling"説明の解釈について

 次に、OEDの"calling"の説明と、それについてのヴェーバーの解釈に関する羽入 氏の論述を検証します。羽入氏は、ヴェーバーが「イギリスについてみると、クランマーの聖書翻訳が≫calling≪を≫trade≪の意味に用いるピュ ウリタン的な用語法の起源となっていることは、すでにマレー(Murray)がcallingの項で適切にも認めているとおりだ。」(「倫理」、大塚訳、 p.108)と主張していることに、批判を加えます。その論点は

  1. コリント Ⅰ 7.20の該当部分を"calling"と最初に訳したのはクランマーではなくカヴァデールである

  2. クランマー聖書は成立事情から考えて、「ピューリタン」的な概念の起源とはなりえない

の2つで す。整理するために、OEDに挙げられている用例と、羽入氏自身の調査による、カヴァデール聖書、マシュー訳聖書のこの部分の訳を列挙します(強調は筆者 による)

1382 (巻 末表の 3)Wyclif, Eche man in what clepynge he is cleped

1534 (巻 末表の 8の改訂版)Tindale, in the same state wherein he was called

1535 (巻 末表の 10)Coverdale, in the callynge wherin he is called

1537 (巻 末表の 11)Matthew, in the same state wherin he was called

1539 (巻 末表の 13)Cranmer, in the same callinge, wherin he was called

1557 (巻 末表の 14)Geneva, in the same state wherin he was called

1582 (巻 末表の 17)Rhem, in the vocation that he vvas called

1611 (巻 末表の 20)King James, in the same callinge, wherin he was called

 まず、 正確に言うなら、この部分を "calling"相当語に初めて英訳したのは、ウィクリフです。("clepynge”は"calling"の古型)この翻訳は、OEDにもその後の用 例の展開がないように、あくまでウィクリフの聖書英訳の中に留まって、「職業」の意味にまで発展していませんので、これは対象外と見なせます。

 16世紀に、最初にこの部分に"callynge"という訳語を与えたのは、羽入氏の確認が正しければ、クランマー聖書より先にカヴァデール聖書なのか もしれません。(この点は羽入氏のこの論文における唯一の「文献学的」新事実発見かもしれません。)ただし、カヴァデールは、ギリシア語の知識もヘブライ 語の知識もほとんどなく、今日的な言い方ではその聖書訳はティンダル訳を 「盗作」したものであり、後のクランマー訳の準備としてのみ評価され、学術的には重視されていません。また、1611年のキング・ジェイムズ聖書で採用さ れその後定訳となったのとまったく同じ訳がクランマー訳から始まっている、ということが用例の変遷で確認でき、OEDやヴェーバーの主張に特に問題がある とは思えません。

 それか ら、クランマー訳の性格ですが、確かに羽入氏の主張するとおり、この聖書の成立事情は「純ピューリタン的」とは言い難い部分があります。しかしながら、 16世紀、17世紀の聖書英訳は、ほぼすべてがティンダル訳をベースにしており、英国国教会もプロテスタントとカトリックの間で複雑に揺れ動いていたこと を考えれば、「クランマー訳が保守反動的聖書だから純ピューリタン的な考えの嚆矢となるのはおかしい」という議論は、正鵠を得ていないと思います。上記の 表を見れば、訳語が揺れを見せながら、1611 年のキング・ジェイムズ訳で"calling"に収束し、その間に意味も「神の召命→召命された時の状態、身分→その身分を成り立たせているような職業」 という風に変遷していった、というのがOEDの説明であり、ヴェーバーの理解だと思います。

  なるほど、もっともルター派に近かったティンダルは この部分を"calling"とは訳していません。しかしながら、ティンダルについては、訳語よりも、「悪しきマモンの譬え」という書物(1528年)の 中に見られるような主張の方がヴェーバーの論述にとっては重要です。「神に喜ばれるという点では、どの業が他のどれよりすぐれいてる、ということはな い。……使徒であろうと、靴屋であろうと……。台所の使用人で主人の皿を洗っていようと、使徒であって神の言葉を説いていようと……。仕事と仕事を比べれ ば、皿洗いと神の言葉の説教では違いがある。しかし神に喜ばれるという点では、まったく違いがないのである」。ここではルターよりもむしろ尖鋭化している 「世俗職業の聖化の思想」の例を確認できます。(「ウィ リアム・ティンダル―ある聖書翻訳者の生涯」、p.283)こうした、「翻訳者の精神」が、直接訳語に反映されなくとも、最後は、 "calling"に「職業=神の思し召し」の意味を付与することに結果としてなった、というのが、ここでの私の補則解釈です。

 最後 に、羽入氏論考のp.50で指摘されているOEDの用例についての ヴェーバーの理解について検証してみます。羽入氏は、ヴェーバーが、OEDの"calling"の項で、本来採り上げるべき意味項目である「職業(OED の説明項目の11)」の用例 ではなく、別の意味項目である「地位(同10)」の用例に準拠しているから、論述が誤りだとしています。具体的には"greater calling"といった用例は「職業」の用例ではなく、「地位」の用例であるから、ヴェーバーの論述は成り立たないとしています。(羽入氏論考、 p.50)

 しかしながら、ジュネーブ聖書の件では存在していない誤りを追及してOEDの 名誉を毀損した羽入氏が、今度は逆にOEDの意味分類を過剰評価しています。あたりまえの話ですが、辞書の説明が先にあって言葉の意味が定まるのではな く、色々な用例を収集して、その中に共通に含まれる「意味」を抽出して、辞書の説明は記述されます。その意味を複数に分類する場合には、お互いに近い意味 であるほど、また 時代的に接近しているほど、近い場所に分類されます。従って、"calling"の意味項目として隣接する10と11がお互いの用例を相互利用してはいけ ないほど厳格に区別されなければならない、と解釈するのは無理があると思います。それにそれ以上に、OED自身の説明の中に、「職業 (11)」の意味については、しばしば「身分(10)」の意味と語源が同じである("Often etymologized in the same way as prec.")と明記されております。羽入氏はOEDの記述のコピーを掲載しつつも、この部分については言及していないのは公正な態度とは言えません。

 以上が、筆者のこれまでの検証結果です。準拠したリソースは可能な限り記載ま たはリンクを付加しましたので、できればどなたでも再検証していただければ幸甚です。筆者の検証の結果は、単純ミスと強引なすり替え論理が非常に多い、と いうことになりました。しかも、多くの場合、羽入氏は自分が間違っているという可能性を想定せず、ほとんど一方的にヴェーバー他の学者に感情的とも言える 非難を繰り返すものでした。折原氏の「ヴェーバー学のすすめ」における反駁と、本稿における反駁を合わせて、羽入氏の論考の大部分は誤りとして証明された と考えています。もちろん、本稿で指摘したすべての点において、羽入氏による「学問的」反論は、筆者の大いに期待するところです。その反論が出て、それに よって羽入氏の論点のいくばくかが正当性を再度認められない限り、仮定であっても「羽入氏の○○という指摘は正しいかもしれないが」といった論理は、今後 本コーナーにおいては用いるのをやめた方がよいと思います。もちろん、それ以上に、羽入氏の論考に何らの学問的検証を加えることなく、山本七平賞を授与し た側の責任は今後厳しく追及されるべきと考えますが、それについての論述は機会を改めたいと思います。

以上


表1:本稿のための、英訳聖書を中心とする簡単な聖書の翻訳史

番号

成立(出 版)年

内容

略称

1

紀元前3 世紀

70人訳 (Septuaginta)。旧約聖書のギリシア語訳。

LXX

2

405年

「ヴル ガータ」版聖書の翻訳。ヒエロニムスによる、ラテン語訳の聖書。カトリックの正式の聖書として扱われる。


3

1382 年

ウィクリ フ訳第1版。ヴルガータ版からの最初の英訳。

TWT

4

1395 年

ウィクリ フ訳英訳聖書の第2版。


5

1455 年

グーテン ベルク聖書。印刷された最初のラテン語訳聖書。


6

1516 年

エラスム スの新ラテン語訳聖書およびその校訂によるギリシア語訳聖書。


7

1522 年

ルターの ドイツ語訳新約聖書。


8

1525 年

ティンダ ル訳新約聖書。ギリシア語から訳された初の英訳聖書。大陸で印刷され、地下ルートで流通。

WTNT

9

1530 年

ティンダ ル訳旧約モーセ五書を含む英訳聖書。

WTT

10

1535 年

カヴァデ イル訳聖書。新約・旧約・外典を含む最初の完全な英訳聖書。新約はティンダル訳を一部単語の差し替えのみでそのまま流用。

TCB

11

1537 年

マシュー 訳聖書。ティンダルの友人であったロジャーズ(マシューという偽名を使用)がティンダル訳の新約と、逆にティンダル訳にない旧約の未訳分をカヴァデイル訳 から流用して一つにまとめて完全な聖書にしたもの。


12

1539 年

タヴァ ナーによるマシュー訳聖書の改訂版。


13

1539 年

大聖書。 (クランマー聖書、クロムウェル聖書)。イギリス国教会の礼拝用聖書。ティンダル訳を元に、一部の訳語を置き換えて、国教会で「公式に」使用できるように したもの。


14

1557 年

ホウィッ ティンガムによる、新約聖書英訳。1560年版のジュネーブ聖書に含まれる新約聖書の最初の版。今日の番号による章節分けを初めて採用。ジュネーブ新約聖 書。


15

1560 年

ジュネー ブ聖書。14の新約の校訂版に、旧約と外典を加えて完全な英訳にしたもの。カルヴァン派の代表的聖書。

TGB

16

1568 年

主教聖 書。ジュネーブ聖書と比べて不正確さが目立った大聖書の改訂版。高価で大きく使いにくいなどの理由で公認聖書とはならなかった。


17

1582 年

ランス版 新約聖書。最初のカトリックによる新約聖書のヴルガータ版からの英訳。


18

1589 年

ファルク による注釈付き新約聖書。16の主教聖書と17のランス版カトリック訳聖書を 両方を対比する形で収録し、さらに17のカトリック側の注釈にファルクの「論駁」を追加したもの。


19

1609- 10年

ドゥエ版 旧約聖書。カトリックによるヴルガータ版からの英訳。17と 19 を合わせて、ランス(ドゥエ)版聖書。(Douai Rheims Version、羽入氏論考では「リームズ・ダウエイ聖書」と表記)


20

1611 年

キング・ ジェイムズ版聖書。(欽定訳聖書)学識者を結集して、ティンダル訳やジュネーブ訳に校正を加えた当時の最高水準の英訳聖書。

KJV

21

1881- 1885年

20の改 訂版。旧約聖書外典が正式に取り除かれる。

ERV


折原浩「虚説捏造と検証回避は考古学界だけか――「藤村事件」と「羽入事件」にかんする状況論的、半ば知識社会学的な一問題提起(その2)」

2004年6月3日(本コーナーへの寄稿)

虚説捏造と検証回避は考古学界だけか――「藤村事件」と「羽入事件」にかんする状況論的、半ば知識社会学的な一問題提起(その2)

折原 浩


2004年6月3日

§1.問題設定――遺物捏造事件をめぐる当事者と隣接人文/社会諸科学

 東北旧石器文化研究所副理事長藤村新一による旧石器遺物発掘捏造が、2000年10月末に発覚してから、三年余になる。

 発覚直後、考古学者の全国組織である日本考古学協会は、「新たな発見をめぐって、資料の公開多様な意見の研究者による相互批判が不十分ではなかったのか、本協会としても厳しく反省する必要がある」(12月1日付「上高森遺跡問題等についての委員会見解」、傍点は引用者、以下同様)と受け止め、「疑念の生じた遺跡の検証を含めて前・中期旧石器遺跡の自由闊達な学術的検討が集中的に行われることの必要を認め」て、調査に当たる特別委員会を発足させた。

その後、同委員会は、「東北日本の旧石器文化を語る会」などの研究サークルや自治体の協力をえて、精力的に検証作業を進め、「当初の想定を超えるような驚くべき捏造の広がり」(2002年5月26日付「前・中期旧石器問題に対する会長声明」)を明らかにし、報告書を同協会の第68回総会に提出した。この機会に、同協会会長の甘糟健は、声明のなかでつぎのように述懐している。

「顧みれば、一部の研究者からの正鵠を射るところの多い批判がなされていたにもかかわらず、論争を深めることができず、学界の相互批判を通じて捏造を明らかにするチャンスを逸したことは惜しまれます。自由闊達で徹底した論争の場を形成することができなかった日本考古学協会の責任も大きいと考えられます。」

「日本考古学協会の研究発表会では、藤村氏等の研究グループの研究発表が異常に高い頻度で行われましたが、協会としては反対論者との討論を企画する等の問題意識もなく、結果的に捏造にかかわる調査を権威づけることになったことを反省しています。」

また、もっとも当事者に近い「東北日本の旧石器文化を語る会」は、2003年12月6日の声明で、つぎのとおり反省の弁を語っている。

「当会は、東北日本の旧石器研究の最新成果を速報し、あわせて研究者の情報交換を行うことを目的として1987年に設立されたものです。『前・中期旧石器』研究に対しては、発足当初から成果発表の場を提供し続け結果として虚偽の情報を広める役割を果たすこととなってしまいました。このことが、ねつ造行為をさらに助長させ継続させたことも事実であり、会として深く反省し、お詫び致します。

長期にわたるねつ造を見抜けなかった原因については、調査方法や研究姿勢などに問題があったことが指摘されていますが、当会にあっては、新たな成果に対してそれを検証しようとする視点で議論を尽くしてこなかった点に最大の問題があったと考えます。特に、最も基本的な遺跡での事実関係を客観的な記録に基づいて確認しあう姿勢が欠けていたと考えております。」

さて、こうした一連の声明には、研究上の同僚による遺物発掘捏造というスキャンダルを、ジャーナリズムに暴かれるまでは直視せず、事前には偽遺物にもとづく虚説を鵜呑みにし、あるいは、うすうす「問題とは感じ」ながら「見てみぬふり」をし、むしろ中立的で無難な「成果発表の場を提供」して虚説の「権威づけ」と普及拡大に加担していた研究者の姿が、簡明に浮き彫りにされている。

ところで、当事者による事後の自己批判を、上述のとおり集約してみると、「ことははたして考古学界だけか」との疑念が頭を擡げる。あの「藤村事件」を「対岸の火災」として「胸をなでおろして」いる隣接(人文・社会科学)諸領域の学界および研究者には、問題はないのか。むしろ、「触らぬ神に祟りなし」「臭いものには蓋」「ものいえば唇寒し」「沈黙は金」といった諺がなお妥当するような、考古学界と同質の学問文化風土のもとで、「検証」「相互批判」「自由闊達な学術的検討」「自由闊達で徹底した論争」を回避する同一のスタンスは堅持しながら、「破局」には直面させられないだけ、反省/自己批判の機会がなく、かえって「遅れをとり」「救いがたい」ともいえるのではなかろうか。

筆者はこの間、羽入書を取り上げ、そこで主張されている「ヴェーバー詐欺師説」を、一ヴェーバー研究者として内在的に批判してきた。そうするなかで、羽入がなぜ、学問的には認められようもない無理と矛盾を犯してまで「ヴェーバー詐欺師説」を唱えたのか、その動機および動機形成の背景にも、思いを馳せざるをえなかった。他方、羽入書が、「学術書」としては異例の売れ行きを示し、ヴェーバー研究者からの反論は聞かれないままに、「山本七平賞」を受けて「識者」の絶賛を浴びるといった社会的反響の量と質にも、憂慮を掻き立てられた。

そうこうするうち、筆者には、「羽入事件」と「藤村事件」とは、発生の時期が重なるばかりか、事件の本質においても、研究者や「識者」の対応についてみても、驚くほどよく似ている、と思えてきた。そして、いやしくも社会科学者であれば、一方は「対岸の火災」、他方は「近隣のぼや」くらいに受け流して「自然鎮火」を待つのではなく、あるいは、「ぼや」を消す内在批判で「こと足れり」とするのではなく、むしろ「社会学的想像力」をはたらかせて、両事件を類例として比較し、双方の異同を明らかにし、背後にある構造連関を問い、隣接領域の「破局」を「他山の石」として活かさなければならない、と考えるようになった。そこで、本稿では、内在批判とははっきり区別したうえ、一社会学徒として「外在考察」を試み、両事件の動機形成とその構造的背景につき、一定の明証性はそなえた仮説を提出して、(「妥当性」の検証とその後の展開は後進に委ねる、その意味で)半ば知識社会学的な一問題提起としたい。

§2.「藤村事件」と「羽入事件」――寵児願望にもとづく耳目聳動的転覆とその手段

「藤村事件」と「羽入事件」とを、ほぼ同時期の二現象として関連づけ、類例として比較してみると、まず共通面として、つぎの特徴が目に止まる。すなわち、単刀直入にいって、両事件は、両当事者が、学界の「定説」「定評」を耳目聳動的に覆して、学界の「寵児」「チャンピオン」に躍り出ようとし、その種の「学界における成功academic success」という「目的」を性急に追求するあまり、学問上疑わしい「手段」を採用した事件である。

とはいえ、いきなり「学問上疑わしい『手段』」というと、「藤村は然りでも、羽入は否」との異議が申し立てられるにちがいない。しかし、はたしてそうか。そこで、右の共通特徴から出発して背景を探るまえに、両当事者が採用した「手段」に限定して、両事件の異同を比較/検討してみよう。念のため、ここであらかじめお断りしておけば、筆者は、藤村が採った手段と羽入のそれとを混同し、藤村と羽入とを「一緒くたに」論じようとするのではない。学問上の論争が巷間の話題になると、往々にしてその種の誤解が生じ、「一人歩き」して、係争問題の焦点がぼやけ、論点も拡散し、的確な相互批判による学問的成果の達成が妨げられることもある。いままでこの論稿の公表を手控えていたのも、「はじめに」でも述べたとおり、ひとつにはそうした誤解の発生と「一人歩き」を危惧したからにほかならない。本稿の読者にはどうか、同じく学問上疑わしい手段といっても、疑わしさの質はちがうという本節の論旨を、よく見届けておいていただきたい。

なるほど、藤村は、遺跡に直接偽遺物を持ち込み、それをあとから取り出して本物の出土遺物に見せかける、正真正銘の捏造をおこなっている。辞書には一般に、「捏造」とは「本当にはないことを、事実であるかのように創り上げること」とある。藤村は、自分のしていることをその意味の「捏造」と自覚し、他人に隠している。それにたいして、ヴェーバー「詐欺罪」の構成要件を「発見」したと称する「羽入事件」を、遺跡発掘になぞらえれば、こちらの当事者は、「ヴェーバー遺跡」の一部に相当する「『倫理』遺構」に、もともとはなかった「偽遺物」をこっそり持ち込み、それをあとから取り出して見せて、「ヴェーバー詐欺師説」の「証拠」「新発見」と称しているわけではもちろんない。このばあい「『倫理』遺構」に相当するのが、「倫理」論文(Die protestantische Ethik und der »Geist« des Kapitalismus, in: Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie, Bd. 1, 4. Aufl., 1947, Tübingen, S. 17-206, 大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の〈精神〉』, 1989, 岩波書店[改訳第二刷文庫版], 梶山力訳/安藤英治編『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の〈精神〉』、第二刷、1998、未來社)であり、「偽遺物」とは、「倫理」論文そのものには出てこない(別人によって用意され、「倫理」論文に持ち込まれる)語ないし語群そのものを意味するであろう。羽入は、自分のしていることを「捏造」とは思わず、学問上「世界初の発見」と信じ、みずから発表し、広く承認を求めている(したがって、その検証は、「藤村事件」と比べてはるかに容易で、遠方の遺跡に足を運んで「事実関係を、客観的な記録にもとづいて確認しあ」うことも必須ではなく、各人がそれぞれ手元にある「倫理」論文と照合しさえすれば、少なくとも半ばは達成されるはずである)。

さて、「遺構」のなかでは、個々の「遺物」が群れをなし、ちょうど星々が集い、特定の個性的な位置関係にあって唯一無二の「星座」をかたちづくるように、「遺物」群も、特定の個性的な布置連関Konstellation(cum+stella)」をなして、「遺構」(全体ないしはその特定部位)を構成している、と見ることができよう。そこで、「遺物」群のそうした「布置連関」の見取り図、すなわち「(遺物)配置/(遺構)構成柄」を、略して「配置構成図」と呼ぶとすれば、「『倫理』遺構」の「配置構成図」とは、個々の語群が内属して「意味」を取得しているコンテクストないしはパースペクティーフ(それぞれのコンテクストが置かれている遠近法上の局面で、著者の「価値理念」/視座にもとづく「価値関係性」の濃淡に照応している)に相当するといえよう。とすると、羽入は、自分で自分の「配置構成図」を創っておいて、これを自分のほうから「『倫理』遺構」に持ち込み、遺構から取り出した「遺物」ないし「遺物群」(=語ないし語群)を、遺構のなかでの本来の配置に即してではなく自分の配置構成図に移し入れそのなかに並べ替え、結果として本物とは異なる「偽の遺物配置」(=偽のコンテクストと意味)を創り上げ、これを「ヴェーバー詐欺師説」の「証拠」としている。この「配置替えによる意味変換」の操作により、個々の遺物は、遺構のなかで本来もっていた意味を失い、羽入の「配置構成図」のなかで異なる意味を与えられ、「遺物」に転態をとげる。さきほど引用した、「本当にはないことを、事実であるかのように創り上げること」という辞書の定義を適用すれば、羽入は(「意識してか、無意識裡にか」は別として)、そのようにして少なくとも「偽の遺物配置捏造」し、これを「証拠」に「ヴェーバー詐欺師説」という虚説を捏造しているといえよう[1]

 

さて、こうした「配置替えによる意味変換」の操作は、客観的には「偽遺物の捏造」にひとしい。しかも、羽入が持ち込んだ「配置構成図」全体には、外形上は本物の遺物が配置を変えながらともかくも嵌め込まれ、この造作が、当の「配置構成図」全体に「本物」であるかの仮象をまとわせている。したがって、その意味で「手の込んだ」この「客観的捏造」は、かりに意図してなされたとすれば、藤村のように単純な捏造(偽遺物そのもの直接の持ち込み)と比べて、一段と巧妙で、それだけ悪質であるともいえよう。

しかし、この「羽入事件」のユニークなところは、操作や詐術には敏感なはずの羽入が、自分の「配置替えによる意味変換」は、作為的操作とは思わず、主観的には、「遺構」内部の本来の「配置構成」に即した「本物の配置構成」の「世界初の発見」と信じて疑わない点にある。ということはしかし、羽入の内部で、かれ自身「社会科学界の『巨匠』『第一人者』」と見なすヴェーバーを、まさにそれゆえ打倒しようとする抽象的情熱が、濃縮され、結晶して、「巨匠」「第一人者」を「詐欺師」に仕立てる「偽の配置構成図」が創成されているのに、羽入自身はそれに気づかず、それを「遺構」中の「本物の配置構成」に押しかぶせ、それと混同して怪しまない、ということである。ということはさらに、かれが、自分の抽象的情熱に溺れるあまり、ヴェーバーを「他者」として、「遺構」中の「本物の配置構成」を「対象に即してsachlich」曇りなく認識することができない、つまり、先入観に囚われて「『倫理』遺構」そのものを調べられない、「倫理」論文の初歩的読解もできない、ということである。

じつは、ヴェーバーが警告してやまなかった「価値自由」を地で行く、「主客未分」「彼我混濁」の「主体」羽入が、そのようにして無自覚裡に捏造した虚説こそ、「ヴェーバー詐欺師説」にほかならない。拙著『ヴェーバー学のすすめ』第二章は、この関係を「『四疑似問題』の持ち込みによる『ひとり相撲』」として内在的に暴露し、論証している。しかし、本稿では、ここでむしろ、「巨匠」「第一人者」を「詐欺師」と決めつけて打倒しようとする、こういう抽象的情熱/動機が、いったいなぜ、どのようにして形成されるのか、――理解/知識社会学的な外在考察に転じたいと思う。

§3. ルサンチマンと過補償動機に根ざす逸脱行動――構造的背景としての受験体制の爛熟

 /大学院の粗製濫造/研究者市場における競争激化

「藤村事件」と「羽入事件」とが、耳目衝動的に「定説」を覆そうと、学問上疑わしい手段を採用して虚説を捏造し、その点で本質を同じくする類例として捉え返されたいま、こんどは両事件そのものを、無関係な二偶発事として孤立させておくのではなく、互いに関連づけ、双方の発生にいたる背後の構造連関」を問い、(類例を含めた)再発防止の方策にまで論を進めなければならない。ここで、広く知られ、いまや「逸脱行動論」の分野では古典の地位を占めているマートン「社会構造とアノミー」論文(Merton, Robert K., Social Theory and Social Structure, 2. ed., 1957, Glencoe, pp. 131-94)を援用し、さしあたりこれを当面の問題に適用してみよう。すると、この理論の枠組みのなかで、両当事者の行為は、「学界における成功」という(文化の文脈で設定され、強調されている)「目的」の達成を焦るあまり、疑わしい「手段」を採用する「刷新innovation」類型の行為として捉えられよう。そして、その構造的背景としては、つぎのような諸契機の「布置連関」が考えられるはずである。

[1]基本的には受験体制(幼小児期から「一番」にプレミアムを与えて抽象的な「第一人者」志向を煽る仕掛け)の爛熟(家庭/学校/受験産業による標準的学習法/学習条件の整備と、本人自身による創意工夫/根気/リスクなどの意義の減退)に規定され、副次的には(一部出版業界の販売戦略にもとづく)「若き知性アイドル」の造成/乱舞(「中沢新一現象」)によって拍車をかけられた、抽象的な(独自の問題/問題意識をもたず、自己目的的な)「第一人者」志向(これが抽象的/「自己目的的であるがゆえに、挫折すれば容易に、「第一人者」打倒志向という同位対立物に転化する)、

[2]大学院の「粗製濫造」にともなう研究者志望の拡大、研究職をめぐる競争の激化、「生半可な」努力と業績では「学界における成功」は望みがたいという展望(ちなみに、『文部科学統計要覧』によると、①1965年には4,790だった大学院修士課程卒業者数は、以後著増をつづけて2003年には67,412と14.1 倍に達し、②卒業者の進学率は、1965年の38.0%から1990年の15.7%に低下し、以後14~16%台に低迷し、③就職率のほうは、同じ期間に47.6%から73.0%に上昇した後、60%台を維持している)、 

といった一般的背景に加え、

[3]両当事者に特有の事情として、「成功」をめざす競争場裡で相対的に「恵まれない」あるいは「出遅れた」位置にあった事実と、さらにそこから、「第一人者」/「成功者」/「恵まれた者」にたいするルサンチマンが生まれ、(なんとしても「起死回生の一打」を放って、一挙にハンディキャップを埋め、「学界」の「寵児」「チャンピオン」に躍り出て、あわよくば「世間をあっと驚かせ」、「恵まれた者」たちを「見返して」やりたいとの)「過補償over-compensation」動機が形成される「客観的可能性」、

が注目されるであろう。

なるほど、この特殊事情[3]については、個々の事例ごとに、同情に価する側面があるにちがいないし、探せばふんだんに見つかるであろう。しかし、そうだからといって学問上疑わしい手段の選択に走ってもよいということにはならない。同じように相対的に「恵まれない」位置にあって「過補償」動機を抱きながらも、かえってそれをバネに、人一倍精励刻苦し、創意工夫も凝らし、学問上正当な手段に自己限定して「成功」をかちえた研究者も、あるいはさらに、既成の「成功」類型を越える「革新」的成果を達成した人も、枚挙にいとまないはずである。

ちなみに、こうした要因連関の検索、とりわけルサンチマンと「過補償」動機の剔出は、おそらくは当事者、当事者予備軍、および(受験/競争関係については過熱しがちな、性善・平等主義の)教育学者や教育ジャーナリズムの「逆鱗」に触れ、反撥をまねくにちがいない。しかし、相対的に稀少な研究職をめぐる自由競争――同時に、研究者としての素質をそなえた後進の選抜過程――において、相対的に「恵まれる」者と「恵まれない」者とが振り分けられ、後者にルサンチマンと「過補償」動機が生まれ、これが一面、危険な「逸脱行動」への内圧を孕むことは、ここ当分避けられない現実であろう。

とすれば、みずから大学院教育/研究指導に携わり、そうした条件のもとで学問研究の将来の担い手を養成する責任を負い後進の学生院生とつぶさに接している研究者が、この現実を直視し、ルサンチマンと「過補償」動機への対処――いかにして当該学生/院生に、正当な研究努力による捲土重来への脱皮、または他の職業への転身を促すか、という緊張を孕む課題――を、大学院教育のクリティカルな問題として正面から取り上げ、見据え、フェア・プレーに準拠して選抜と予後策の改善をはかると同時に、「逸脱行動」の発生を防止するよりほかはないであろう。むしろ、研究者とくに教育社会学者/教育評論家が、そうした問題を「タブー視」し、現実の直視を避け、「実存的問題から社会学すること」を怠ってきたことのほうが、はるかに問題で、責任重大ではなかろうか。

というのも、広島大学総合科学部における一「万年助手」の「学部長刺殺事件」、「オウム真理教」集団への大学院修士課程修了者(正確には、修士課程までで、研究者としての将来を閉ざされたと感じた挫折逆恨み秀才)の大量流入など、高学歴層における「逸脱行動」の諸事例は、受験体制の爛熟と研究者市場で構造的に生産/再生産されるルサンチマンと「過補償」動機を抜きにしては、「解明」「説明」できないと思われる。そしてそれらは、もとより現象形態こそ異なるにせよ、ルサンチマンと「過補償」動機に根ざす「逸脱行動」という本質にかけて、「藤村事件」や「羽入事件」の予兆をなしていたのではなかったろうか。

羽入書も、「拷問」や「釈明却下」の比喩ばかりでなく、じっさいに社会科学界の「巨匠」「第一人者」を、さればこそ遮二無二「詐欺師」「犯罪者」に仕立てて葬ろうとする行論の、再三再四指摘してきたとおり、無理や矛盾をものともしない「検察ファッショ」流の強引さにかけて、異様に不気味である。羽入書には、もっぱら「巨匠」「第一人者」の打倒それ自体に凝縮し、「なんのために」との内省も独自の問題意識も欠く抽象的情熱が、罵詈雑言と自画自賛を連ねてやまない粗野な感性とむすびついて、なんの躊躇も抑制もなく露呈、というよりも誇示されている。こういうルサンチマンの持ち主は、単独ではなにごともなしえないにせよ、容易に、同じ素地から生まれる、同じく恣意的/独善的な政治勢力に操られ、組み込まれて、暴走する危険を包蔵してはいないか。とすれば、そうした危険をいちはやく察知し毒性は萌芽のうちに自由な言論によって摘み取ることこそ、「さらなる逸脱行動」の予防措置となり、ジャーナリズムに出て政治/社会運動の旗を振る評論家流以上に重要で、当該専門領域の研究者にふりかかっている固有の責任/社会的責任といえるのではなかろうか。

「摘み取る」といっても、なにか手荒なことをするのではない。学問上の論争を繰り広げるだけである。論争をとおして、たとえば「ヴェーバー詐欺師説」の誤りを学問的に論証し、提唱者がその誤りを認めて学問研究――ヴェーバー批判をつづけるならつづけるで学問的なヴェーバー批判――への捲土重来を期するように、第三者も「反面教師」「反面教材」に学んで「検察ファッショ」流を思い止まり、あるいは無益と察知して顧慮しなくなるように、自由な論争批判の効果波及効果を期するだけのことである[2]

さて、本題に戻り、「学部長刺殺事件」や「オウム真理教事件」に顕在化した問題についても、大学教員や理事の多くは、「喉元すぎれば熱さも忘れ」て、「挫折秀才の逆恨み」問題など「どこ吹く風」とばかり、「大学院もない大学では学部に受験生が集まらない」との理由で、本末転倒も甚だしい「学部の人寄せアクセサリー」として「大学院」を粗製濫造している。そして、「制度をつくったからには定員はみたさなければならない」というので、どうみても素質のなさそうな学生でも「スカウト」し、研究指導も怠っている。だいたい、みずから研究をせず、学問上の実績はなく、研究指導の責任感に欠け、専門的力量にも乏しい「大学院教授」が、いかに多いことか。かれらは、じっさいにはちょうどその無責任さに相当する分、「高学歴は取得したけれども、相応しい実力と地位はえられず、ただ自分の『真価』が世に認められないと感じてルサンチマン/欲求不満/『過補償』動機をつのらせている危険な『知識分子』les incompris intellectuels et dangereux」を「育成」しているだけではなかろうか。

他方、伝統的には研究者養成の機能を果たしてきた旧制帝国大学や老舗私立大学の大学院も、こうした趨勢につれて、教員の「身分的利害関心」(かつては「大学院大学」構想に反対していた大学教員も、「バスに乗り遅れるな」とばかり「大学院」新/増設に走り、「××大学院〇〇研究科教授」の肩書を愛用してやまない、あの心根)を梃子に、大拡張を遂げ、研究指導研究者養成にとっての適正規模をこえて「水膨れ」している。研究指導の実態は「指導教官」ごとの「たこつぼ」と化して、似たりよったり、助手の削減(講師/助教授ポストを増やすための「召し上げ」)が空洞化に拍車をかけている。そこに、「われこそは第一人者」と自負する「受験秀才」――いっそう正確には、一般教育教養課程の形骸化に対応して、ちょうどそれだけ「受験秀才から脱皮できない学校秀才」――が集中し、相対的に厳しい「競争」と「淘汰」にさらされる。「逸脱行動」への緊張と内圧は、それだけ高まっていると見なければならない。

さらにそこには、「社会人枠」の設定などにともなう院生の年齢構成前歴教養上の背景などの多様化によって、研究指導上の困難もつのり、(当事者は気づかず、気づいても「見てみぬふり」をしているとしても)深刻な問題が多発しているはずなのである[3]

小括

そういうわけで、ここで少なくとも「大学/大学院における研究指導の実態と責任」という問題が提起されよう。拙著で詳細に論証し、本稿でも一端に触れたとおり、羽入は、「倫理」論文の初歩的な読解もなしえず、それにもかかわらず――いな、まさにそれゆえ、というべきか――ヴェーバーを「詐欺師」呼ばわりしている。しかし、羽入は、当の羽入書に「改訂・増補し」(羽入書、ⅵぺージ)て収録された論文で、東京大学大学院人文科学研究科倫理学専門課程から、修士/博士の学位を取得し、同科の先輩関係者からは学会賞の「和辻賞」を授与されている。しかも、当該倫理学研究室といえば、ヴェーバーにも詳しい金子武蔵、小倉志祥、浜井修といった優れた思想学者を三代にわたって擁し、文献読解の厳密性にかけては(日本というこの社会の学界において)最高水準にあるひとつとの定評をえてきた。じじつそこからは、優れた「中堅」や「新進気鋭」の研究者が輩出している。じつは筆者自身、かつて大学院生のひとりとして隣接の金子武蔵ゼミを覗き、「自分の在籍する社会学研究室では、尾高邦雄、福武直らの指導的研究者が戦後一斉にアメリカ流プラグマティズムに『鞍替え』し、そうした『主流』に乗ることが『学界における成功』への早道となってはいるけれども、この自分は、そうしたスタンスに対抗してなにをなすべきなのか」という模索に、大いに示唆を受けたものであった。羽入がその研究室から出自したことは、筆者には驚きである。しかし筆者は、筆者の論証が覆されないかぎりは、羽入を育てた当該研究室の研究指導に問題があったと考えざるをえない。そして、当該研究室がつい最近まで最高水準にあったとすれば、「ましてや、他の研究室においてをや」との推論がおおよそ妥当するであろう。いずれにせよ、「大学/大学院における研究指導の実態と責任」が、「問うに値する」問題として提起されよう。

そこで筆者は、稿を改め、こんどは旧一教員の見地から、この問題につき、個人的な回顧/反省も交えて論じてみたい。ただ、この問題については、それ以上に、ひとつの研究主題として採り上げ、現状の実態調査などに本腰を入れて取り組む――つまり、一定の「明証性」はそなえた(と信ずる)上記の仮説につき、その「妥当性」を問うて展開する仕事にまで進む――ことは、筆者には無理がある。筆者はこのあと、「倫理」論文を起点/中心とするヴェーバーの学問にかんする全体像を構築して当該論文初版刊行百周年を記念する『ヴェーバー学のすすめ』続篇、「ヴェーバー『経済と社会』全体の再構成」という専門家としての責任/社会的責任に応える課題に取り組みたい。以上の問題提起については、若い教育社会学者が、「大衆教育社会」論の一環として考慮に入れ、問題として再設定し、研究を引き継いでくれるように期待してやまない。「羽入事件」にたいする検証回避とそのうえにたつ「山本七平」の授受問題についてはやはり、別稿で採り上げたい(この問題については、雀部幸隆が正鵠を射る論考「学者の良心と学問の作法について」、『図書新聞』、2004年2月14/21日号、本コーナーに転載、を発表しているし、拙稿「学問論争をめぐる現状況」§11でも論じたので、参照願いたい)。(2004年1月28日記、注の一部、6月3日追記)



[1] こうした関係を、筆者はすでに、拙著『ヴェーバー学のすすめ』第二章で立ち入って論証した。ただ、ここで「遺跡発掘」との類比を用いるからには、「遺構」(=「倫理」論文)中、羽入が「遺物」を取り出したフランクリン論/ルター論について、「遺構」そのものの「配置構成」を概観し(原著者ヴェーバーの論旨コンテクストパースペクティーフを、かれの方法方法論との関連において読解し)、そのうえで羽入が、ⓐそれぞれのどの部位で、どの「遺物」(一論点をなす語群)を抜き取り、ⓑ自分の「配置構成図」に移し入れ並べ替え、Ⓒいかなる「意味変換」を惹起しているか、羽入書四章の四例について具体的に剔出摘記しておいたほうがよいであろう。そうすることによって、当の「意味変換操作」意味」/「意味上の根拠」、すなわち羽入の執筆「動機」、が浮き彫りにされ、それが「別様ではなく、かくのごとくに形成され」た構造的背景の遡及的探究に、円滑に移行することができよう。他方、筆者はこの間、本コーナーへの諸寄稿に応答する過程で、諸寄稿から学び、みずからも再考し、拙著の細部には若干改訂/補完すべき論点も見いだしたので、改めて総括的な要約をしたため、羽入書にたいする内在批判を締めくくりたいと考えてもいた。そこで、そうした総括を兼ねて、上記趣旨の「配置構成」概観ならびにⓐⓑⒸ点の摘記を試みた。その結果、羽入が、四章の四主張いずれにおいても、ⓐ「『倫理』遺構」中数カ所の「遺物」を、「遺構」の「配置構成」から抜き出し、ⓑ羽入の「配置構成図」(かれが非歴史的・非現実的独断を持ち込んでしつらえた「犯行現場」のコンテクスト)に移し入れて、Ⓒ「遺物」を「偽遺物」(「杜撰」「詐術」「詐欺」の「証拠」)に意味変換している事実が、再確認された。しかし、概観と摘記とはいえ、それぞれの論証は、かなりの紙幅を要し、それ自体としてはまだ内在批判の枠内にあるのに、この外在考察論稿中の一節としては不均衡に膨れ上がってしまった。そのため、用意した総括稿(§§§「『倫理』遺構の配置構成⑴――『資本主義の精神』節の論証構造とフランクリン論の位置値」「『倫理』遺構の配置構成⑵――『ルターの職業観』節の論証構造と語Beruf創始/波及過程論の位置価」「羽入による『偽の遺物配置』と虚説の捏造」)は、それぞれ「マックス・ヴェーバーのフランクリン論」「マックス・ヴェーバーの語Beruf創始/波及過程論」「羽入辰郎の『倫理』論文読解水準と虚説捏造」と改題し、追って別途に発表したい。

 なお、羽入は「ヴェーバーは詐欺師である」との全称判断をくだすが、その「証拠」を集めてくる「現場」は、「倫理」論文のみである(つまり、「ヴェーバー遺跡」のうち、ⓐⓑⒸ点の検証を要するのは、「『倫理』遺構」のみである)。しかもその本論(第二章「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」GAzRS, I, S. 84-206)ではなく、序論(第一章「問題提起」GAzRS, I, S. 17-83)、それも第二/三節それぞれの「序の口」(の部位)にすぎない。また羽入は、そうした視野狭窄のうえに自分が問題とする箇所を「全論証構造の要」と決めてかかるが、なぜそこが「要」なのか、そもそも「倫理」論文全体がいかなる「論証構造」をそなえているのか、具体的な論証を怠っている。かれに代わる「全論証構造」再構成の試みとして、拙稿「ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」(『未来』2004年3月号、pp. 32-9、本コーナーに再掲)参照。本論を含む「倫理」論文全体の概観は、この拙稿に譲る。(2004年6月3日記)

[2] ちなみに、研究者が、こういう研究者固有の責任/社会的責任を学問的専門的に果たそうとはせず、あるいはむしろそうした責任を回避する口実/「免罪符」としてジャーナリズムに出て(あるいは政治/社会運動にかかわって)「旗を振り」たがる傾向は、日本というこの社会における「戦後民主主義」の脆弱点、少なくとも問題点のひとつで、学界とジャーナリズムの双方にとって不毛で不幸なことであったし、いまもってそうである、と筆者は考えている。この点は、ほかならぬこの「羽入事件」をめぐっても、そうした「半学者・半評論家」の羽入書絶賛(たとえば松原隆一郎)、あるいは「見てみぬふり」(たとえば山之内靖、姜尚中ら)によって例証されよう。

[3] この問題については、本稿(その1)「はじめに」注7で敷衍している(6月3日記)。


折原浩「マックス・ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム」

2004年6月5日(本コーナーへの寄稿)

マックス・ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム

折原 浩


2004年6月5日

 「倫理」論文[1]で、原著者マックス・ヴェーバーは、一方ではカルヴィニズム(ほか、「禁欲的プロテスタンティズム」)の宗教信仰、他方では(近代)資本主義経済との間に(前者が後者を促進する)「因果関係kausale Beziehung」があるという(ペティからマルクスをへて「ドイツ歴史学派」に引き継がれた)知見を、ひとまずは所与とみなし[2]、かれ自身としては「なぜそうなるのか」の根拠/理由を、双方にかかわる人間の「生き方/生活の営み方Lebensführung」の問題として、(関係当事者の「信条」「不安」「思惑」「動機」「目論見」「希望」「疑惑」「失意」「救済の確信」などの)内面的/主観的な「意味連関Sinnzusammenhang」に即して「解明」/「説明」しようとした。そこで、関係当事者を内面から駆動し、経済活動熱をたかめ、熟慮にもとづいて計画的に生活を律するように仕向け、結果として近代資本主義的商工業の資本所有/企業経営/(生産技術や経理を担当する)上層熟練労働といった社会的地位ないしは(そうした地位を占める人間群としての)社会層への帰属にいたらしめる動因(ある宗教信仰に発して展開されると想定される「意味連関」の最終項/当の宗教信仰にいたるべき「意味(因果)遡行」の出発点)(第一章「問題提起」第一節「信仰と社会層」参照)を、つぎの第一章第二節で「(近代)資本主義の『精神』」(以下「精神」)と呼び、これがいかなるものかを、かれが当時編み出しつつあった「意味解明Sinndeutung」の方法を適用して論じている。

 節の冒頭、ヴェーバーは、「精神」のような、複数の諸個人に(人、所、時に応じて純度/強度/様相などを異にして)共有され、それ自体としても複雑多岐な構成をそなえた「集合態Kollektivum」的意味形象対象に据え、その個性的特徴を逸することなく、かえって際立たせるように認識するには、いったいどうすればよいのか、という方法上/方法論上の問題に触れている。かれの方法論文献から「理念型Idealtypus」論ほか、いくつかの論点を補足して敷衍すると、そうした個性認識には、まず⑴(研究者の「価値理念」に照らして「知るに値する」)対象の特徴を抽出し、概念上純化し煮詰めて、要素的(第①)「理念型」を構成し、つぎには、⑵そうした第一要素の「理念型」的純化のさいにいったんは捨象されるけれども、まさにそうする過程で、被捨象態のなかの(同じく「知るに値する」)別の一特徴として捨象に抵抗し、際立ち、クローズ・アップされてくる第二の要素的特徴についても、第一要素との関連において、同じく要素的(第②)「理念型」を構成し、さらに、そのようにしていわば「芋づる式に」つぎつぎに構成される複数の要素的「理念型」(③、④、⑤、……)を、こんどは、⑶個性的な「布置連関Konstellation」[3]に即して総合し、いわば「ワンセットをなす理念型複合ein Komplex von Idealtypen」として「歴史的個性体 historisches Individuum」概念を構成し、よってもって複雑/多岐な対象「総体Totalität」に迫っていくよりほかはないであろう。

「倫理」論文第一章第二節の課題は、問題の「精神」を対象とし、これについてそうした「歴史的個性体」概念を構成し、そのうえで、その歴史的「文化意義Kulturbedeutung」を特定することに求められる。しかし、「歴史的個性体」のような複合的理念型を構成して、対象としての「精神」とは「かくかくしかじかである」と定義をくだすには、当然のことながら、研究を相応の段階にまで進めていなければならない。ところが、対象にかんするなんらかの事前了解がなければ、なにを採り上げてよいかも分からず、そもそも研究に着手することができない。概念的定義は研究が進んだ段階でなければ手に入らないが、他方、なんらかの定義がなければ、研究に着手し、当の段階にまで進めることができない。このディレンマを打開するのに、ヴェーバーは、問題の「精神」を(相対的に)もっともよく体現している(とおぼしき)特定の個人、しかも読者も熟知していて(あるいは容易に知ることができて)、著者と読者との対話として研究叙述を進める共通の出発点(「トポス」)に据えるのにもってこいの」特定個人を選び出し、「精神」を「暫定的に例示し、(読者に直観的に把握してもらうprovisorische Veranschaulichung」事前了解の手段として、そのかぎりで活用しようする。

そのさい、「個人」といってももとより、(誰でも自分個人を全体として捉えようと「自伝」「自分史」を書き始めてみればすぐ分かるように)これまた経験的には無限に多様で汲み尽くしがたい一総体」である。したがって、当該個人の無限に多様な意味表現/意味形象の混沌のなかから、「精神の一特徴に関連のある特定の側面を、当の一特徴の要素的「理念型」概念を構成する素材として選び出し、(他にこれとは矛盾する諸特徴/諸側面が「混沌と渦巻いている」ことは当然のことと前提し、かえって)一面性をこそ意図しさればこそ鋭い第一要素の「理念型」を構成するのである。

 このように、⑴要素的(第①)「理念型」から着手し、⑵の手順に移って別々の要素的「理念型」群(②、③、……)を漸次構成していき、これを⑶あるところで打ち切って、そうした要素的「理念型」群の総合に転じ、「ワンセントをなす理念型複合」として「歴史的個性体」概念を構成し、よってもって「精神」をその個性個々の要素特性および要素間「布置連関特性)に即して認識するのである。

 そこで、この方法を簡潔に表明した冒頭の断り書きにつづき、問題の「精神」を「暫定的に例示」するため、上記の「特定個人」として、そのかぎりで合目的的に選び出されるのが、18世紀の人ベンジャミン・フランクリンにほかならない。そして、かれの無限に多様な経験的意味表現/形象のなかから、「精神」の一特徴を表示する(フランクリンにとっても一側面にすぎない)一素材として、同じく「合目的的に取り出されるのが、実業家志望の青年に宛てた助言の二文書であり、さらにそこから抜粋され、引用される特定の箇所(語群)である[4]。フランクリンの同一文書、他の文書、ましてや自伝』のなかに、ことによるとそれとは矛盾する多種多様な意味諸形象(したがって記述/語群)があろうことは、当然のこととして前提とされている。

「倫理」論文全体のパースペクティーフにおける研究対象は、フランクリンではなく、あくまで「精神」なのである。フランクリンはといえば、上記⑴から⑵、⑶の手順を踏んで肉薄すべき一「総体」として、いわば「丸ごと」、研究の対象に据えられているのではない。あくまで「精神」(上記の意味における)暫定的例示手段として、まずは⑴かれの「生き方」の一面、それも、他の観点を採用すれば「非本質的/末梢的」として捨象されてもいっこうに差し支えない(が、ここでの著者ヴェーバーにとっては本質的に重要な)特定の一面(①「貨幣増殖」を自己目的として義務づける独特の「エートス」[5])に照射が当てられ、さればこそそこから、⑵一方では第二の、これまた特定の一面(②「功利主義への『転移』傾向」)、他方では第三の、(第二とは逆方向ながら)これまた特定の一面(③常套句『箴言』22: 29から、「超越的」背景として特定の宗派信仰との関連が予想される、「職業義務観」「職業倫理」との癒着)が索出され、集約的ながらごく簡潔に論及されるにすぎない。ここでの原著者にとっては(かれの価値関係的パースペクティーフとコンテクストからすれば)、それで十分なのである。当然、ヴェーバーは、第一章第二節、いやその(内容上はフランクリンへの論及に尽きる)初めの部分でさえ、「フランクリン研究」――いっそう正確にいえば、「フランクリンのほうを研究『対象』とし、一『総体』として、⑴から⑵への手順を踏んで一歩一歩アプローチし、⑶『歴史的個性体』として『フランクリン(の全体)像』を構成すべき、固有の意味におけるフランクリン研究」――とは「僣称」していない。はっきり、思考のヴェクトルが逆で、「精神」の概念的定義を獲得するための出発点、「暫定的例示手段」にすぎないと断り、そのかぎりで二文書からの抜粋/引用(わざわざキュルンベルガー『アメリカにうんざり』からの孫引き[6])を開始し、あとから「説教の主はじつはフランクリン」と明かすのである[7]

 さて、抜粋文の内容は、「時は金なり」「信用は金なり」の二標語に象徴されるとおり、個人の生活時間と対他者関係とを一途に捧げて貨幣増殖につとめよ、との訓戒である。この「金儲け心得」が、不利益を避ける相対的に賢明な選択肢として、その意味の「処世術」として勧告されるよりもむしろ、その域を越えて、なにかしら高所から降りてきて無条件に遵守を迫る「要請」「定言的命令」の様相を帯び、そうした「エートス」の表明として「口を酸っぱくして」説かれている。まずはこの点に、この抜粋文そこに表明されたかぎりにおける特定の意味形象に顕著な、「精神特徴があるといえよう(第①理念型)。

 ところで、『自伝』によれば、フランクリンは、この「エートス」をなす「正直」「勤勉」「節約」「節制」「規律」といった十三の徳目を、「自己審査手帳」をつくり、「習慣」として「身につけよう」――まさに「エートス」として体得/体現しよう――と努力したという。しかし、それらの徳目は、純然たる固有価値」「自己目的」として措定されているのではない。「貨幣増殖」のために「信用」を獲得する手段の系列に編入されている[8]。したがって、ともすれば「信用」獲得という効果に力点が移り、ばあいによっては「効果」が等価/同等なら「見せかけ」だけで十分と見る「偽善」にも傾きかねない。さなくとも、「貨幣増殖」にともなう快/安楽/その他なんらかの利益を「自己目的」とし、行為の倫理的価値さえももっぱら、当の目的を達成する手段としての合理性(「目的合理性」)を規準として評価する――「価値合理性」(すなわち、このばあい「倫理的価値」としての「固有価値」への意識的なこだわり)は、いわば「目的合理的」な「価値硬直化」としてしりぞける――「純然たる功利主義Utilitarismus rein als solcher」へと推転をとげる傾向を孕んでいる(第②理念型)。

 この側面は、上記のとおり、⑴「精神」をいったん「エートス」性の方向で――(「貨幣増殖」を義務として意識的に遵守する「価値合理性」の方向で)純化して捉えた(第①理念型)からこそ、⑵それに逆らい、抵抗する別の側面として索出され、前景に顕れ、第二の特徴として(第②理念型をもって)把握された。とすると、こんどは、「精神」が「純然たる功利主義」へと完全に解体するのを背後から阻止している「なにものか」が、逆方向に想定され、視野に入ってくるはずである。あるいは、それ以前にも、⑴「精神」を、(第①理念型において)「貨幣増殖」にすべてを一途に捧げる「エートス」というふうに、純化極端化して捉えるとさればこそまさにそこで、「ではいったい、なぜそうまでして貨幣を増やさなければならないのか」との問いが触発され、「至上価値」「自己目的」として固定化(いうなれば「物象化」)されている「固有価値」のさらに背後にある価値への関心が目覚めるであろう。

そこでヴェーバーは、「そうした『背後価値』『究極価値』は通例、宗教性の領域に求められる」という(数年後に「法則論的知識nomologisches Wissen」と命名される)一般経験則を(暗黙裡にせよ)媒介として、当の「なにものか」の方向に目を凝らし、宗教性との関連を探りにかかる。すると、フランクリンが、「なぜ人から貨幣をつくらなければならないのか」と同趣旨の問いを向けられた折に、(厳格なカルヴィニストの父から青年時代に繰り返し叩き込まれたという)『箴言』22: 29の聖句(GAzRS, I, S. 36, 大塚訳、48ぺージ、梶山訳・/安藤編、95ぺージでは「汝その職業使命巧みなる人[rüstig in seinem Beruf]を見るか、斯かる人は王の前に立たん」。新共同訳では「技に熟練している人を観察せよ。彼は王侯に仕え、怪しげな者に仕えることはない。」)をもって答えた、という故事が目に止まる。ヴェーバーは、この挿話を『自伝』から引用し、そのように宗教的背景を示唆しながらまずは上記の問いかけに、「近代の経済秩序の内部では、貨幣利得Gelderwerbが、合法的におこなわれるかぎり、職業における有能さTüchtigkeit im Beruf結果Resultatであり表現Ausdruckであって、この有能さこそが、……フランクリンの道徳のアルファにしてオメガ」(a. a. O.) だからである、と答えている。

とするとここで、先の第一特徴(第①理念型)では「最高善」と目された「貨幣利得」が、じつは単純にそうなのではなくて(たとえば「宝くじ」に当たったとか、たまたま資産を売却したとかによる職業外の「貨幣獲得」であってはならず)、むしろ③「職業における有能さ」こそが「道徳のアルファにしてオメガ」すなわち「究極の倫理的価値」であり、「貨幣増殖」とは、それが(近代)経済の領域で持続的に現れた結果指標にすぎず、そうであって初めてそのかぎりで価値ありと見られる、ということになる。他方、「職業における有能さ」は、かならずしも経済の領域に現れるとはかぎらず、たとえば(近代)知性/学問の領域に現れて「業績」という結果をもたらすばあいもあろうし、(近代)芸術の領域で「制作品」に表現されることもあろう。ヴェーバーは、当の「職業における有能さ」を奨励し、義務として命じ、さまざまな領域で「結果」に「表現」される独特の「職業観」「職業義務観」を、「資本主義の精神」に「含み込ませ」[9]ているのではなくて逆に「資本主義の精神」を、そうした「職業義務観」の(経済という)一特定領域への発現形態一分肢として捉えているのである。ここで、「精神」の第三の重要な特徴が、(「職業における有能さ」を「究極の倫理的価値」とする)独特の「職業義務観」と癒着し、この「職業観」の経済領域への発現形態をなしている、というふうに(第③理念型として)定式化されよう。

 ところが、そうするとこんどは、では、(どの領域に発現しようとも)「職業における有能さ」がなぜ究極の倫理的価値」とされるのか、との問いが発せられよう。そこで、思考をまた一段、第三特徴のさらに背後に遡らせ、当の「職業」を「倫理的価値」たらしめる「究極の価値理念」が探索されることになる。これはおそらく、『箴言』句の引用からも予想されるように、宗教性/「宗教的観念」の領域に立ち入り、そのなかから探し出されるであろう。そして、それが索出された暁には、翻って、その「宗教的観念」と問題の「職業義務観」との関連/「意味連関」が究明されよう。あるいは、倫理的な職業観/「職業義務観」宗教的基盤」が問われ、双方の「意味連関」が「解明」される、と言い換えてもよい。じつはこれこそ、第一章「問題提起」中のつぎの第三節「ルターの職業観」から本論(第二章「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」第一節「世俗内禁欲の宗教的基盤」第二節「禁欲と資本主義精神」)にかけて、連綿と展開される叙述に負わされている課題である。

 ところが、著者ヴェーバーは、この第一章第二節では(25段中の7段目までで)、「職業義務観」との癒着という第三特徴を取り出し、第③理念型を構成したところで、⑵「芋づる式」探索/索出の歩みをいったん止め、あえて宗教的背景ないし基盤には立ち入らず(第三節以下に留保し)、(第二節の後続8~25段では)翻ってこの「精神」の歴史的文化意義」を論ずる。すなわち、この「精神」ないし(これにリンクされてその核心をなす)「職業義務観」とは、「西洋近代」以前の「生き方」としてあった「伝統主義」のただなかから、それに対抗して歴史的に創造」され、以後、草創期の苦難の歩みを生き抜いた後には、形成途上の近代資本主義システムに「適合的」な「生き方」として、こんどは淘汰のメカニズムによって普及」するにいたった。すなわち、「精神」を一促進因として近代資本主義システムが軌道に乗り、このシステムがいわば「一人歩き」を始め、「精神」のほうは、当該システムへの「適応」をとおして日々拡大的に生産/再生産され、そのためにかえって当初の本源的「意味」は忘却の淵に沈み、「没意味化」される。しかしなお、現代にも生き延び、残滓をとどめてはいる。そこで、まさにその歴史的「創造」(近代的「職業理念」の「誕生」)に、読者とともに現代から遡って立ち会い、その経緯と初発の意味を理解追体験することが、つぎの第三節「ルターの職業観」以降の課題として設定される。さらに、著者ヴェーバーが「倫理」論文を執筆し公表した暗黙の意図としては(筆者の理解することころでは)、読者のひとりひとりが、著者ヴェーバーとともに現代のトポスから遡って歴史的創造の初期条件に立ち会い、「わがこととして初発の意味を蘇生させ心に止め、現代の惰性態としてある職業やシステムに、改めて明晰な態度決定をくだして取り組むように求められ、そのための思考材料が提供されるのである。

 しかし、われわれとしてはここでひとまず、節の冒頭から7段目までの叙述内容を要約し、「精神」の概念を定式化しておくことにしよう。「精神」の特徴として取り出された三要素を振り返って、それらの関連を見ると、第一特徴(第①理念型)においては「最高善」と見られた「貨幣増殖」が、じつは第三特徴(第③理念型)の「職業義務観」にリンクされ、「職業における有能さ」を表示する結果指標という「意味を帯びるかぎりで「善」たりうるのであった。したがって、「貨幣増殖」が「職業義務観」との癒着関係から切り離されてくると、それだけ「究極価値」「自己目的」と錯視されて、「最高善」にのし上がる。さらに「職業義務観」による手段系列への掣肘/歯止めも弱まる――「価値合理性」が薄れる――と、(いまや「最高善」にのし上がった)「貨幣増殖」を「至上目的」とする「目的合理性」が、「価値合理性」にとって代わり、その掣肘を脱して「一人歩き」を始め、唯一の価値規準として思考/行為を律するようにもなる。この方向で、第②理念型では「萌芽」として捉えられた「転移」傾向が行き着く先は、終着駅で待ち受ける「純然たる功利主義」である。このようにして、三つの個性的要素理念型が個性的に関連づけられ、「ワンセットをなす理念型複合」に総合され、「歴史的個性体」としての「精神」概念が構成されている[10]。これによって事態は、第二/第三特徴が相互掣肘によって均衡を保つかぎりで存立する第一特徴として、互いに相反する両方向性の緊張を孕んだ矛盾的統一連関として、動態的に把握されることになろう。

 たった七つの段落に凝縮されている原著者ヴェーバーの思考は、このようにいかにも自然で、明晰かつダイナミックである。しかもその、よく読めばけっして飛躍することのない一歩一歩は、読者との「トポス」を出発点に、対話しつつ過去に遡行し、蘇生/復元される「意味」を携えてはたえず現在に戻る、「意味」覚醒の連続であり、水平的また垂直的な視圏拡大の旅なのである。(2004年6月5日記)



[1] Die protestantische Ethik und der »Geist« des Kapitalismus, in: Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie, Bd. 1, 4. Aufl., 1947, Tübingen, S. 17-206, 大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の〈精神〉』, 1989, 岩波書店[改訳第二刷文庫版], 梶山力訳/安藤英治編『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の〈精神〉』、第二刷、1998、未來社

[2] やがて、1910年の対ラハファール論争を契機に、この与件自体が問題とされる。「倫理」論文では、「因果連関」のほうが与件とされ、「意味連関」として捉え返されるが、1910年以降、当の「意味連関」が「明証性はそなえた仮説とされ、その因果的妥当性」が、(宗教性に由来する「意味連関」が別様に発展をとげた西洋近代以外の文化圏では、「近代資本主義の精神」や「(近代資本主義を含む)近代的文化諸形象」が発生したのかどうか、しなかったとすれば、別様に発展した「意味連関」がその発生阻止にどう与ったのか、という)比較研究によって検証され、当の「意味連関」が「因果連関としても捉え直される。後期ヴェーバーの歴史・社会科学は、こうした世界史的比較の遠近法において西洋近代を相対化して捉え返していくかれ自身は近代化論者ではなかったのである。

[3] 語源cum+stellaからも明らかなとおり、星々が個性的な位置関係に置かれて唯一無二の星座をなすこと、またその連関を意味する。

[4] しかもヴェーバーは、その箇所をわざわざ「原典」からではなく、F. キュルンベルガーの『アメリカにうんざりDer Amerikamüde』(筆者は未見)から孫引きしている。丸山尚士によれば、この小説のモデルとされた詩人レーナウは、19世紀前半に夢を抱いてアメリカに渡りながら、「アメリカ的生活様式」の「拝金主義/功利主義」になじめず、一年で故国オーストリアに逃げ帰ったという。当の小説に表明されているのは(おそらく)、ドイツ国民に類型的な「アメリカ嫌い」の心情であり、これはこれで、「信仰のみ」の立場から(イエスの言にすら反して)行いとその果実は「みな見せかけであり、外面的であ[り]、その外見は多くの人を誤らせる」(「キリスト者の自由」、松田智雄編『ルター』、1969、中央公論社、70ぺージ)と説いたルターの精神に由来するであろう。著者ヴェーバーは、ドイツ国民の読者に「馴染み深い」か、さなくともすぐに「それと分かる」類型的嫌悪を「トポス」とし、これをいわば逆手にとって、当の「拝金主義」の主がじつは「道徳家」フランクリンであり、その信条が特定の職業倫理にリンクされ、特定の宗派信仰に発しているという来歴に遡行しながら、その途上では翻って、当の「アメリカ嫌い」の宗教的起源を解き明かしもするのである。

[5] 「倫理Ethik」を、生活/行為を「拘束」する「規範」(ないしその「綱要」「解説」「(倫理)学説」)として、それゆえ(「拘束」される)実践/生活/行為そのものとは一定の距離/緊張関係にある「観念」「ロゴス」として、捉えるとしよう。そのうえで、そうした「倫理」がむしろ生活のなかにいわば「溶け込み」、「生き方」の「血となり肉となり」、「習慣」とも化して、かえってときとして意識されずに行為を動機づけ、じっさいに規定している様相にスポットを当てれば、上記「ロゴス」としての狭義の「倫理」と区別して、「エートスEthos」と呼び換えられよう。

[6] わざわざそうする意味については、上注4参照。

[7] 冒頭にこうした方法的限定の断り書きが明記され、(以下、この論稿の本文でも確認するとおり)後続の叙述内容とも厳密に整合しているのに、見落としたのか、意味を考えなかったのか、「対象」と「例示手段」とを混同し、この混同から派生する奇想天外な非難を「怖めず臆せず」著者に投げつけ、「詐欺師」「犯罪者」呼ばわりまでして「世界初の発見」に胸を張るとは、「無知の怖さを知らない所為」というほかはない。そうした「博士」論文が「言論の公共空間」に登場し、「賞」の脚光まで浴びて衆目にさらされるのは、なるほど「世界初の」残酷な笑劇ではあろう。ただ、それを真に受けて絶賛する学者/識者/評論家や、拍手喝采して共鳴する読者もかなりいるので、笑ってばかりもいられない。

[8] フランクリンは、この点をつぎのように解釈した。人間は倫理的に弱く、「旨味」がなければ(つまり、純然たる自己目的」としては)徳目を守ろうとはしないし、しようとしてもできない。そこで神は、そういう人間の弱みを「大目に見」、それでも徳目を守らせようとして、徳目遵守が利益にもなるように「按配」した。その意味で「貨幣増殖-信用-十三徳」の「倫理」は、神の「摂理」と見られる。この関係を表現するのに、当の解釈をフランクリンが一種の「啓示」として「受けた」という言い回しを使っても、レトリックの許容範囲内にあり、ことの真相を歪めることにはなるまい。もっぱらこういう些細な点に挑みかかっては、ほんとうに「啓示」「啓示による劇的な回心」があったのかどうか、「典拠の不備」を衝き、「原典」に遡って詮索してみても、肝心の「意味」を逸しているのでは、本末転倒の徒労というほかはない。

[9]この「含み込ませる」という表記の反復(羽入書、66-7ぺージ)に示されるとおり、羽入は「精神」を、「職業義務観」の「上位概念」と見ている。では羽入は、「倫理」論文の全内容を総括する、つぎの結びの一文をどう解釈するのか。「近代資本主義の精神の、いやそれのみでなく近代文化の nicht nur dieses, sondern der modernen Kultur本質的構成要素のひとつである職業理念に根ざす合理的な生き方die rationale Lebensführung auf Grundlage der Berufsideeは、――この論文はこのことを証明しようとしたのであるが――キリスト教的禁欲の精神から生まれ出たのである」(GAzRS, I, S. 202, 大塚訳、363-4ぺージ、梶山訳/安藤編、355ぺージ)。「木を見て森を見ない」者には「木も見えない」。

[10] 行論を少し下ったところには、「先にベンジャミン・フランクリンの例について見たようなやり方で、正当な利潤を職業としてberufsmäßig組織的かつ合理的に追求する志操を、ここしばらく『(近代)資本主義の精神』と名づける」(GAzRS, I, S. 49, 大塚訳、72ぺージ、梶山訳・/安藤編、114ぺージ)と定義風に記されている。


折原浩「マックス・ヴェーバーのBeruf論――ルターによる語義創始とその波及」

2004年6月26日、2004年7月2日改訂版(本コーナーへの寄稿)

マックス・ヴェーバーのBeruf論――ルターによる語義創始とその波及


改訂版(注17「ヘブライ語風の言い回し」について見解を改め、その関係で注21も改訂しました。2004年7月2日記)

折原 浩


2004年6月26日、2004年7月2日改定版

「倫理」論文の第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」でも、著者ヴェーバーは、読者が慣れ親しみ、日常会話で頻繁に使っている語Berufを「トポス」[1](共通の場)として、議論を開始している。

 かれは、前節「資本主義の『精神』」でも、F.キュルンベルガーの小説『アメリカにうんざりした男』から、ドイツ人読者に類型的(典型的)な「アメリカ嫌い」を刺激する一節を引き合いに出し、これを「トポス」として巧みに利用していた。すなわち、方法論上の断り書きのあと、同書から「時は金なり」「信用は金なり」の訓戒を延々と孫引きし、その主がじつは「道徳家」ベンジャミン・フランクリンであると明かす。ところが、一見「拝金主義」の好例とも読める訓戒は、じつはたんなる「処世術」「金儲け心得」ではない。さりとてそれは、南ドイツの豪商で、「時は金なり」を地で行くと同時に「篤志家」「道徳家」の一面もそなえていたヤーコプ・フッガーの類例とは異なり、「死後の懲罰を恐れる、慈善による埋め合わせ(の勧め)」でもない。むしろそれは、なんと金儲け=貨幣増殖そのものを、「職業Berufにおける巧みさ」を表示するかぎりで「善」として肯定するばかりか、「自己目的」として義務づけもする倫理的説教なのである。ただ、(ドイツ人ならざる日本人読者にも、当の説教やフランクリンの『自伝』を読み返してみれば[2]看取されるとおり)「勤勉」「節約」「正直」「規律」などの徳目を、純然たる「固有価値」として遵守するのではなく、むしろ「信用」を介して「貨幣増殖」に連なる効果に力点を置いて評価し(そこで「価値合理性」と「目的合理性」とがせめぎ合い)、その意味で「功利主義」への「転移」(キルケゴール)傾向を孕んだ、独特の「エートス」である、といえよう。

 ヴェーバーは、こうして「歴史的個性体」として概念構成された「資本主義の精神」(以下「精神」)を、そのあと「伝統主義と対比し、「精神」の歴史的「文化意義」を明らかにする。そのさい、「伝統主義」についても、当時の読者にはよく知られていた農業部門での経験、すなわち、農場主(農業資本家)が収穫期に出来高賃金制を採用し、賃率を引き上げて労働強化を企てても、農業労働者には「仕来りとしてきた生活水準を単純に維持し、労働強化をともなう水準向上は望まず、どんな賃金刺激にも反応しない」「習慣の壁」(つまりは「伝統主義」)が顕著で、農場主の企図もこれに跳ね返されて挫折する、という知見を、これまた「暫定的例示」の「トポス」として活用している。また、そうした「伝統主義」を基調とする企業経営の風土に「精神」が割り込んでくるとどうなるか、の素描にも、こんどはフランクリンならざるヴェーバー自身の父方の叔父カール・ダフィト・ヴェーバーを(匿名で)登場させ、そのとき生産/販売/対同業者関係に持ち込まれる革新/刷新の諸相を活写するのである。

「精神」ないしその核心にある「近代市民的職業エートス」は、そうした「伝統主義」のただなかに、一連の「宗教改革」の系譜を引いて「生まれ」、「伝統主義」と闘いながら「成長をとげ」、「産業的中産者」やがて企業主/労働者双方に波及した。「経営Betrieb」に「適したadäquat」エートスとして、初期資本主義の近代資本主義への脱皮/発展を、経営/労働主体の内面から支え、促進した。なるほど、初期資本主義が、そのように「近代市民的職業エートス」や形成途上の「近代国家」に支えられ、幼弱期の困難を乗り切って、近代資本主義システムとして確立し、「固有法則的eigengesetzlich」な発展の軌道に乗り、発展の諸条件をこんどは自前で調達していくようになると、システム外生的な(宗教領域からのサポートによる)「精神」の育成は不要になり、後続世代が当のシステムへの「適応」の過程で「いやおうなく」身につけざるをえない、システム内生的所産に転化し、そのように「淘汰Auslese」のメカニズムによって再生産されるようになる。しかし、それ以前の初期段階では、経済システムの土台には還元されない――その「指標」でも「函数」でもない――独自の歴史的「創造」物として、当該システムの展開に先行し、「構成的konstitutivな意義」を帯びる関係にあった。そこで問題は、「かつて資本主義文化[!]のもっとも特徴的な構成要素をなし、いまなおそうである『職業』思想»Berufs«-Gedankeと、(……純粋に幸福主義的な利己心の立場からはきわめて非合理的な)職業労働への献身とを生み出した、あの合理的な思考と生活の具体的形態は、いかなる精神的系譜に連なるのか」、とりわけ「当の『職業』概念»Berufs«-Begriff のうちに潜む、そうした非合理的な要素はいったいどこからくるのか」(GAzRS, I, S. 62, 大塚訳、94ぺージ、梶山訳/安藤編、132-3ぺージ、[ ]は引用者)というふうに再設定される。そして、この問題が、つぎの「ルターの職業観」節(以降)に引き渡されるのである。もとよりこのばあい「(幸福主義的な利己心の立場からは)きわめて非合理的な」とは、当の立場からみると限度を越え、「利己的な幸福」を犠牲にしても職業労働には献身する(そういう「価値硬直化」に意識的に固執するかぎりで、「利己的な幸福」という特定の人生目的に照らせば「目的合理的な」)「価値合理性」を意味している。

「ルターの職業観」節の劈頭、ヴェーバーは、世俗的な職業(社会的分業体系の一環をなす特定の業務/労働領域で、同時に社会的機能/地位)を表すドイツ語のBeruf(あるいは英語のcalling)したがって「職業」概念»Berufs«-Begriffには、「すでに、ある宗教的な、神から与えられた使命Aufgabeという観念」(それゆえ「利己的な幸福」の限度を越えても献身すべき課題という「目的合理的」「価値合理的」な意味合い)が含まれていて、この語に力点を置いて発音すればするほど、それだけその意味合いが強く響き出るという事態に注目し、これを手がかりとして問題を解き明かしていく。まずこの、現在のBerufのように、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ言葉(以下Beruf相当語)の時間的空間的分布を広く見渡してみると、それが近世以降、しかもプロテスタントの優勢な民族の言語にかぎって見いだされることが分かる(ここに注1)。しかも当の語義は、そうした民族に固有の「種族的ethnisch」[3]な特性の表れではなく、プロテスタントが(まさにプロテスタントとして)「顕示的信仰 fides explicita」[4]を旨とする根本的立場から、平信徒大衆もみずから聖書を手にとり、自分たちの日用語で[5]読めるように、こぞって聖書を母国語に翻訳した16世紀の画期的事業から――したがって聖書の原文ではなく翻訳者たちの精神から――、誕生しているように見える(ここに注2)。

 そのさい「翻訳者たち」といっても、端緒はひとまず[6]マルティン・ルターに求めるのが妥当であろう。かれが、独自の宗教改革思想をもって聖書の独訳を進める途上、1533年に旧約外典『ベン・シラの知恵』(以下『シラ』)を訳出したとき、その一カ所(11: 20, 21)で、語Beruf(当時の綴りはberuff)を初めてzuerst「今日われわれが用いているのとまったく同じ[聖俗二義を併せ持つ『使命としての職業』という]意味で用いている」(GAzRS, I, S. 65, 大塚訳、95-6ぺージ、梶山訳/安藤編、134ぺージ)と思われるからである(ここに注3)。

こうした語義をもつ語BerufないしBeruf相当語は、「その後すみやかにdann sehr bald、あらゆるプロテスタント諸民族の通俗語Profansprache[7]のなかで、現在の意味をもつようになり現在にいたっている[現在完了形]。だが、それ以前には、当の諸民族のいずれの世俗文献にも、そうした語義の萌芽はまったく認められず、宗教文献Predigtliteratur [8]でも、知られるかぎり、ドイツ神秘家のひとり以外には、そうした萌芽は認められない。この神秘家[タウラー]がルターにおよぼした影響は、周知のことである」(GAzRS, I, S. 65-8, 大塚訳、96ぺージ、梶山訳/安藤編、134ぺージ)。

このように著者は、節冒頭の第1段落で、「使命としての職業」という意味のBeruf /Beruf相当語の創始/出発点を、ルターの聖書翻訳に絞り込み、そこにいたる歴史的経緯を、この第1段落に付された三つの注に送り込んで論じている。もとよりこの節全体は、もっぱら語義論に当てられているのではない。第2段落冒頭に「語義と同様、思想Gedankeも新しく、宗教改革の所産である」との文言があり、これを皮切りに、以下第12段落まで、節の大半では、語Berufに表明されたルターの職業思想が、かれの宗教改革思想の一環として取り扱われ、その「文化意義」と(歴史的)限界が論定される。劈頭で語Berufを採り上げたのは、このばあいにもそれが、読者とくにドイツ人読者との「トポス」として、議論を切り出すのに格好だからである。ということは、裏返していえば、それが「トポス」の域を出ないということでもある。

 議論の大筋は、語義論から思想論に進み、ルターの職業思想/宗教改革思想の①画期的意義と②限界とを見きわめ、③当の限界をこえて精神の派生に連なる契機(「合理的禁欲」ないし「禁欲的合理主義」)につき、外堀を埋め焦点を絞り本来の研究テーマとして、本論(第二章)に送り込んでいる[9]。①「画期的意義」とは、ルターが、中世カトリックにおける「平信徒大衆」と「(宗教的)達人」との二重構造(一方には「命令」を守るだけで、一身を救うには「功徳」の足りない平信徒大衆、他方には「福音的勧告」にもしたがい、その「剰余功徳」による「剰余恩恵」を教会の「宝庫(救済財庫)」に蓄え、たとえば「贖宥状」の「効力」を「裏付ける」など、ローマ・カトリック教会の「教権制」的支配一般を支える修道士、という教会身分構造)を否認し、修道院行きの救済「軌道」を世俗に向けて「転轍」し、それまでは世俗に(世俗的観点から見れば)逃避/消散していた宗教的能動分子の「観念的利害関心」と救済追求の実践的活力を、世俗の身分/職業にあって発揮するように広く解放した点、に求められる。その②「限界」とは、そうした「世俗内救済追求」が、「世俗内禁欲」にはいたらず、「世俗内伝統主義」に傾いた点、にある。とすると、③「当の限界をこえる契機」とは、ルターによって「転轍」された「世俗救済追求」の「軌道」を引き継いだうえで、「世俗内伝統主義」から「世俗内禁欲」に「転轍」するようなプロテスタント諸宗派(カルヴィニズムをもっとも首尾一貫した類型とする「禁欲的プロテスタンティズム」)の宗教思想/職業思想に求められることになろう。

「倫理」論文における著者ヴェーバーの価値関係的パースペクティーフとこれに即した問題設定(問題設定)からすれば、語Berufに表明されたルターの職業概念は、あくまで(「倫理」論文全体の)主題ではなく、主題(「合理的禁欲」の歴史的生成)を論ずるための(重要ではあるが)与件のひとつしかも乗り越えられるべき与件のひとつにすぎない[10]。ルターのBeruf語義論/語義創造論のそうした位置価にふさわしく、その叙述は、本論ではなく「問題提起」章の一節で、「トポス」としての意義に即して節の冒頭に置かれてはいるが、本文ではたった一段の紙幅が割り振られるだけで、簡潔に切り上げられ、上記の大筋に沿う議論に引き継がれている。ただ、その特性(世俗内救済と伝統主義との結合)を把握し、最小限の因果帰属をおこなうことは、まさに乗り越えられるべき特徴とその成立経緯を確認しておくためにも必要なことなので、(そのうえ、おそらくは、ことルターにかんするかぎりそれぞれ一家言をもつドイツ人読者の、「トポス」にたいする関心の横溢と「ほとぼり」を顧慮して)本文ではなく注に送り込まれ、ただ注記としては破格に詳細に論じられたのであろう。かりにその長大な三注が本文に組み込まれたとしたら、「倫理」論文は、著しく平衡を失し、弛緩した随想風散文に堕したにちがいない。そういう注記のなかからなんらかの論点を取り出して問題とするばあいには、まず当の注自体の位置価を、上記のようにあらかじめ押さえておくことが肝要であろう。

 

では、その三注で、著者はなにどう論じているのか。

 注1では、古代ヘブライ語を例外として、ギリシャ語、ラテン語、ロマン語系諸語には、Beruf相当語が見いだされない、という事実が指摘される。

 古代ヘブライ語にかんする叙述は、改訂時の加筆である。その語彙のなかには、melā’khā, hōq, dhebhar-yômのように、本源的には「指定された特別の使命」という意味を含み、とくに祭司職に適用されたが、やがてそうした意味合いが薄れ、あらゆる職業労働に用いられるようになり、その点でドイツ語のBerufに似ている語が含まれていた。ただ『シラ』については、ヘブライ語の原本がルターの時代にはまだ発見されていなかったので、ルターはギリシャ語訳(『七十人訳 Septuaginta』)から重訳している。したがって、ルターの訳語Berufは、ヘブライ語聖書原文の精神には由来していない。

 ロマン語系については、スペイン語のvocacionやイタリア語のvocazioneが、新約聖書のklēsis(「福音による永遠の救いへの召し」を意味し、ヒエロニムス訳『公認ラテン語聖書vulgata』ではvocatio)に訳語として当てられるばあいにのみ、「なにものかにたいする内面的な使命」というニュアンスを帯びる。しかしそれらは、今日のBerufとは異なって、世俗的な職業の意味には用いられない。他方、世俗的職業を表す言葉は、ministeriumやofficiumを語源として当初の倫理的色彩が薄れた語にせよ、arsやprofessioやimplicare(impiego)を語源として当初から倫理的含意はなかった語にせよ、「神から与えられた使命」という宗教的語調は帯びていない。要するに聖俗二義を併せ持つBeruf相当語は存在しない

 ルターがBerufと訳した『シラ』11: 20, 21も、スペイン語訳ではobraと(vulgataに則って)lugarか(プロテスタントの訳でも)post、カルヴィニストの仏訳でもofficeとlabeurとなっておりBeruf相当語が当てられてはいない。というのも、「ルターは、まだアカデミックに合理化されていなかった当時の官用ドイツ語に、言語創造的な影響を与えることができたけれども、ロマン語系諸国のプロテスタントは、信徒数が少なかったため、そうした影響を[それぞれの母国語に]与えることはできなかったし、あえて与えようともしなかったのである」(GAzRS, I, S. 65, 大塚訳、100ぺージ、梶山訳/安藤編、138ぺージ)。つまり、著者ヴェーバーは、宗教改革者・翻訳者による新しい語義の創造が、どの程度当該言語の語彙のなかに受け入れられ定着していくのか、という問題点について、一方では、翻訳者の属する宗派が「言語ゲマインシャフトSprachgemeinschaft」[11]のなかでいかなる地位を占めているか(「多数派」か「少数派」か)、他方では、影響を被る言語のほうが、すでにどの程度合理化(言語としてステロ化)されているか、といった多様な歴史的社会的諸条件を、当然のことながら正当に視野に収めて立論している[12]。ヴェーバーは、まさにそうした条件の違いを考え、英語圏・イギリスの類例は、ロマン語系諸国とは別のコンテクスト(注3の末尾)に移して取り上げることにしたのであろう。

 注2では、「アウグスブルク信仰告白」(1530)が取り上げられ、そこでは「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ職業概念がまだ十分には展開されていないと要約される論述がなされ、いくつかの条項が例示として引用されている。だが、この注2にかぎっては、注が付された本文の――そうした職業概念/Berufの語義が、聖書原文ではなく、翻訳者たちの精神に由来するという――趣旨と、この注記内容との関係が、いまひとつはっきりしない。

 この点を筆者は、つぎのように解釈する。すなわち、当の「信仰告白」が発表されたアウグスブルク国会には、法律保護停止刑を受けているルター自身は出席できず、かれに代わってメランヒトンらが出席し、ザクセン選帝侯領内のコーブルク城に滞在するルターと、書簡で頻繁に連絡を取っていた。したがってルター自身が起草者というわけではないが、この「信仰告白」そのものは、プロテスタントの教理/信条が公式の場で最初に宣言されたという意味では、きわめて重要である。その16条には「世俗の政府、警察、婚姻などのいっさいを、神の秩序Gottes Ordnungとして尊重し、各人がそうしたもろもろの身分Ständeにあって、キリストの愛と善行とを、その»Beruf« に応じて証しすべし」とある。なるほど、この»Beruf«は、ラテン語版ではたんに「そうしたもろもろの身分Stände[神の秩序としての政府、警察、婚姻など]にあって、善行をなせ in talibus ordinationibus exercere caritatem」としか記されていない事実からも読み取れるとおり、「少なくとも第一義的には『コリントⅠ』7: 20の意味における客観的秩序objektive Ordnung im Sinn der StelleⅠKor. 7: 20」(GAzRS, I, S. 65, 大塚訳、101ぺージ、梶山訳/安藤編、138ぺージ)の謂いで、まだ「使命としての世俗的職業職業労働」という語義にまではいたっていない。しかし、語RufではなくBerufが、ともかくも「職業」に近い、「職業」をも包摂しうる、「神の秩序ないし神によって指定された客観的地位」の意味で用いられている。ということはつまり、メランヒトンらを含む複数の翻訳者がかかわって、「使命としての職業」という概念が定式化され、訳語Berufが選定される一歩手前まで近づいているが最後の一歩が踏み出されずにいるということであろう。この事実は、(ヴェーバーが、後述のとおりつぎの注3でも、注2のこの箇所の参照を指示しながら述べているとおり)ルターが三年後の『シラ』訳のさい、すでに熟している「使命としての職業」概念を表示する語としてBeruf をergon とponosに当てたとき――ということは当然、類語RufとBerufとのどちらを採るかという訳語選択に直面し、おそらくは躊躇なくBeruf を採用したとき――、その宗教運動上(したがって歴史上)の根拠をなしたにちがいない。というのも、メランヒトン、ルターらの宗教改革は、スコラ的な語義論争、ましてや語形論争ではなく、強大なカトリック勢力を敵として民衆や諸侯の心を捉えようとする熾烈で尖鋭な社会的闘争であった。とすれば、正式に宣言された「アウグスブルク信仰告白」でいったん公に登録され、語義としても一歩手前まできていたBeruf を、三年後には棄てて、(前綴Be-が欠けるだけ弱勢の)Rufに差し換える必要も理由もなかったであろう。

 さて、「使命としての職業」という語義のBerufは、翻訳者のひとりルターが、1533年に『シラ』11: 20, 21のergon とponosをBerufと訳出したときをもって嚆矢とする。このヴェーバーの命題は、この注2が付された直後の本文で提唱され、さらにそこに付された注3で詳細に論証される。とすると、この注2は、それに先立ち、一方では1530年の「アウグスブルク信仰告白」における職業概念の未展開を、対照的な背景事実として示し、翻訳者のひとりルターにおける三年後の語義創造の意義を浮き彫りにすると同時に、他方では、ルターがなにゆえにその創造的一歩を踏み出すことができたのか、とくになにゆえにRufでなくBerufを選定したのか、を説明する背景事実として、あらかじめ直前に提示したものと位置づけられよう。そう解釈すれば、一見本文との対応を欠く注2の記載内容は、第一段落の本文ならびに三注を貫くコンテクストに整合的に収まるであろう。

注3は、[1]ルター以前の用語法、[2]ルターにおけるBerufの用法二種、[3]ルターにおける『シラ』11: 20, 21の用語法、[4]ルターにおける『コリントⅠ』7: 17-31の用語法、[5]ルターにおける『シラ』11: 20, 21へのBerufの適用経緯、[6]ルター以後16世紀おけるBeruf相当語の波及、とも題されるべき六つの段落から構成されている。以下、ひとつひとつについて詳細に検討してみよう。

[1] ルター以前の用語法

 ルター以前には、Berufも、以後にBeruf相当語として用いられた各国語(オランダ語のberoep,calling,デンマーク語のkald,スウェーデン語kallelseなど)も、世俗的な職業には適用されていない。発音はBerufと同じ語(beruffなど)は、今日のドイツ語Rufと同じ意味(招聘、召喚)をそなえ、特例としては「聖職禄への招聘Berufung, Vokation」にかぎって用いられ、ルターもときにこの意味で使っている。とすると、この特例が、「聖職禄への」という適用制限を解除され、聖ならざる職禄への招聘にも転用されれば、そこに職業一般への招聘、したがって「(招聘されるに値する)使命としての職業」という語義/概念が誕生する、とも考えられよう。なるほど、「発音はBerufと同じ語」がこの特例を含んでいたという事実が、後に「使命としての職業」という概念が形成されて、それを表示する語が選定されるさい、他の語ではなく、まさにこの「発音はBerufと同じ語」が採用される契機として、それに有利にはたらいた、ということはあるかもしれない。しかし、そうした適用解除や転用がじっさいにおこなわれ、受け入れられて普及するには、転用によって新たに適用される職業一般が、すでに聖職と同等の意義を帯び、抵抗なく適用される対象として一般に認められていなければならない。聖職が降格し、世俗的職業が昇格して、等価/同等と見なされることが、転用が円滑におこなわれる条件である。ところで、そうした条件こそ、ルターの宗教改革によってもたらされた。すなわちルターは、先にも述べたとおり(「命令」のみを守る「世俗内道徳」を貶価し、「福音的勧告」にもしたがう「修道院道徳」を賞揚する)中世カトリックの「世界像」を否認し、世俗的な身分や職業における「世俗内道徳」の遵守に、聖職の履行に優るとも劣らない宗教倫理的意義を与え、この思想を、聖書の翻訳/訳語選択をとおして言語改革にまで貫徹したのである。

[2] ルターにおけるBerufの用法二種

 ところで、そのルターは、さしあたりまったく異なるふたつの概念を、語Beruf によって翻訳した。一方は、パウロのklēsisで、「神によって永遠の救いに召されることBerufung zum ewigen Heil durch Gott」の意味で、世俗的職業とはいささかも関係がない。用例としては、下記の箇所が挙げられる。

第一種 1522年 1526年 1546年

『コリントの信徒への手紙Ⅰ』1: 26 ruff beruff Beruff

『エフェソの信徒への手紙』1: 18, 4: 1, 4: 4 beruff beruff Beruff

『テサロニケの信徒への手紙Ⅱ』1: 11 beruff beruff Beruff

『ヘブライ人への手紙』3: 1 beruff beruff Beruff

『ペテロの手紙』1: 10 beruff beruff Beruff

(Dr. Martin Luthers Werke, Kritische Gesamtausgabe, Die Deutsche Bibel, Bd. 7, 1931, Weimar, S. 90-1, 104-5, 194-5, 200-1, 252-5, 350-1, 316-7によって確認)

第二種

 いまひとつの用法こそ、『シラ』11: 20, 21のergon とponosにBerufを当てたばあいで、ドイツ語の Berufが、今日と同じく世俗的職業の意味に用いられた最初の事例である。(WADB, Bd. 12, 1961, S. 178-9)

 ただし、同じ『シラ』11: 20でも、前半stēthi en diathēkē sou(汝の定めにとどまれ)のdiathēkēは、同じく『シラ』14: 16, 43: 10の用例[13]からも窺えるとおり、ヘブライ語のhōqに一致し、ドイツ語のBerufに似た「運命、指定された労働」という意味をそなえているにもかかわらず、ルターは、bleibe jnn Gotteswort(神の言葉にとどまれ)と訳している。他方、同じく『シラ』11: 21のponosは、work, esp. hard work, toil, labor という意味であるにもかかわらず、ルターは、こちらにはBerufを当てている。この至近の対照例に明らかなとおり、ルターは、(宗教的)使命という意味を含むか、含みやすい、したがってBeruf と訳しやすい原語(このばあいdiathēkē)には、じっさいにはBerufを当てず、他方、宗教的意味を含まず、含むとしても「神による懲罰としての労苦」という否定的意味合い帯び、Beruf とは訳しにくい原語(このばあいponos)にはかえってBerufを当てている。すなわち、ルターの翻訳は、原文に忠実な機械的画一的な直訳ではなく、むしろ、「翻訳者の精神」すなわち宗教改革者としてのみずからの思想を表明する意訳なのである。

ルター以前には、『シラ』11: 20, 21のergonとponosは、Werkと訳され、説教でも、今日ならBeruf というところで、Arbeitという言葉が使われていた。したがって、ひとまず、この第二種は、宗教改革者ルターが、翻訳者として創始した用法で、それが、ルター以降の翻訳者たちによっても(拒まれず、廃れず)受け入れられ普及して今日にいたっている、といえよう。

 ところが、純宗教的な「召し、召命」を表すギリシャ語klēsis の訳語には、ルターの第一種用法Beruf以外にも、Berufの類語Rufがある。たとえば、ハイデルベルク大学図書館所蔵の古印刷聖書では、第一種用法の箇所が»ruffunge«と訳されているそうであるし(GAzRS, I, S. 66, 大塚訳、102ぺージ、梶山訳/安藤編、140ぺージ)、ルターの論敵でカトリック神学者のエックによるインゴルシュタット訳では、1537年にも、『コリントⅠ』7: 20のklēsisがRufと訳されているという(GAzRS, I, S. 68, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)。とすると、そのRufが、かりにルター以前に、「神による召し、召命」の原義を保持しながら、どこかで(ちょうどルターが『シラ』11: 20, 21でおこなったように)世俗的な職業に適用されていたとしたら、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語(Beruf ではなく同義のRufが、ルター以前に創始されていたことになり、ことによるとルターは、そのRuf の語義をそのまま継承して、ただ語形をBerufに替えただけかもしれない。かりにそうだとすると、上述のルター創始説は、少なくとも半ばは覆えされ、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語Rufの創始点が重要で、そこにこそ遡行する必要がある、ということになろう。

 そこで、著者ヴェーバーは、ルター以前のRufの用法に目を向ける。すると、本文でも言及されていたドイツ神秘家(タウラー)が、ルターの第一種用法にも数えられていた『エフェソ』四章にかんする釈義で、klēsisをRufと訳したうえ、「施肥に赴く農民が実直に自分のRufに励むならば、自分のRufをなおざりにする聖職者に優る」と説き、農民の施肥という世俗的職業労働に適用する、まぎれもない事例が、確かに目に止まる。ただし、この用は、あまりにも時期尚早で、機が熟していなかったためか、鮮やかながら単発打/孤立例にとどまり、その後用として確立し、説教文献の範囲をこえて「世俗語にまで普及していくことがなかったし、現に普及してもいないin die Profansprache nicht eingedrungen ist[現在完了]」(GAzRS, I, S. 66, 大塚訳、103ぺージ、梶山訳/安藤編、141ぺージ)。現代ドイツ語の辞書を引いても、Rufの見出しのもとに「職業」の語義は見当たらない。ルターが、この点にかけてはいうなれば(ドイツでも)「二番打者」として、タウラーと同じように、ただBerufのほうを世俗的職業に適用し、その用例が、(ルターらの宗教改革運動の成果として)「アウグスブルク信仰告白」(1530)が正式に宣布されるにいたっている歴史的情勢に恵まれ、こちらは用法として確立し、広く受け入れられ、普及して現在にいたっている。そのかたわらで、タウラーのRufのほうは、顧みられず廃れていく運命をたどったのである。

また、ルターによる「継承」問題についていえば、なるほど『キリスト者の自由』などには、タウラーの説教と響き合うところがあり、「ルターの用語法Luthers Sprachgebrauchが、初めのうちanfangs (s. Werke, Erl. Ausg. 51, S. 51)»Ruf«と»Beruf«との間で揺れている」(a. a. O.)ところから見ても、その(ルターにおける稀少例としての)»Ruf« のほうを、タウラーの直接の影響に帰することができそうにも思われる。しかし、ヴェーバーによれば、それはけっして確かではない。というのも、「ルターは当初 zunächst、この語[»Ruf«]を、タウラーの上記箇所と同じような、純然たる世俗的[職業の]意味に用いてはいない」(GAzRS, I, S. 67, 大塚訳、104ぺージ、梶山訳/安藤編、141ぺージ)からである。すなわちルターは、当初(著者が挙示している箇所としては、1522年の『コリントⅠ』7: 20と、翌1523年のその釈義で)klēsisの訳語としてRufを用いているが、その語義はせいぜい「神の秩序として、神によって召し出された世俗的身分どまりで、タウラーにおける農民の施肥労働のような、純然たる世俗的職業労働までを意味してはいなかった。つまり、Rufの用法にかけて、タウラーとルターとは「直接には一致せず」、後者の用法を前者の用法の「直接の影響」に帰することはできない。ただ、管見では、「固有の意味におけるルター研究」ないし「タウラー-ルター関係研究」の一テーマとして、「間接の影響」を問う余地は残されているといえよう。

[3]ルターにおける『シラ』11: 20, 21の用語法

 しかし、ここ「倫理」論文の「価値関係的パースペクティーフ」では、「使命としての職業」という聖俗二義をかねそなえ、かつ今日に生きている語の創造が問題なのであるから、たとえ「二番打者」であれ、ルターによる語Berufの創始点、すなわち『シラ』11: 20, 21に立ち帰って、当の創造の経緯を問わなければならない。

 この『シラ』11: 20, 21も、『七十人訳』の原文では、神への信頼一般が知恵として説かれているだけで、世俗的職業労働それ自体に、なにか特別の宗教的かつ肯定的な評価が与えられているわけではない。原文のponosには、むしろ逆に「神による懲罰としての苦役/労苦」といった否定的評価が表現されている。ベン・シラがいわんとするのは、『詩篇』37: 3の勧告と同様、「神なき者の営利追求と繁栄に惑わされず、神を信頼して誠実に糧をえよ」という趣旨であろう[14]。ただ11: 20冒頭のdiathēkēだけは、klēsisにやや近い意味をもっているが、前述のとおり、ルターはここにはBerufを当てず、Wortと訳している。

そういうわけで、ルターの聖書翻訳において語Berufが当てられている対象は、片や「神による召し(ないし召された状態)」、片や「(宗教的評価をともなわない)世俗的職業労働」というふうに、一見まったく異質で、この二種の用法に連絡をつけることは、とうてい不可能のようにも思われる。ところが、ここで、読者とともに「『コリントⅠのある特定箇所とその翻訳die Stelle im ersten Korintherbrief und ihre Uebersetzung」を取り出して読んでみることにしよう。すると、この箇所が、一見相いれない二種の用法を「架橋しdie Brücke schlägt[現在形]」(GAzRS, I, S. 67, 大塚訳、104ぺージ、梶山訳/安藤編、141ぺージ)、双方の関連を解き明かす鍵を提供してくれるようにみえる。

[4]ルターにおける『コリントⅠ』7章の用語法

 そこで『コリントⅠ』の該当箇所、すなわち7: 17-31のあたりを、ルター訳聖書のうちでも読者が入手しやすい近年の普及諸版die üblichen modernen Ausgaben」を手にとって読んでみよう。著者ヴェーバーは、第一章第二節冒頭では、フランクリンの「貨幣増殖」説教を、キュルンベルガー『アメリカにうんざりした男』からわざわざ孫引きしていたが、ここでもわざと、ルター自身の「原典」ではなく[15]ルター以降の翻訳者たちによって改訂が施されている普及版それと知りまさにそれゆえに読者とのトポスに採用し、17-24を逐語的に引用し、29, 31節にも論及し、そこから議論を開始するのである。

17節は「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたし[パウロ]が命じていることです」(新共同訳から引用)とあり、ヴェーバーのいう「架橋句」の導入部に当たる。このあと、18/19節では、割礼者/無割礼者の別(つまりethnic status)、21-23節[16]では、奴隷/自由人の別(social status)、25節以下では配偶関係の別(marital status)が取り上げられ、これら現世における客観的「状態/地位/身分statūs, Stände」のいかんには、いささかもこだわらず、「終末論的無関心」の態度で臨むべきことが説かれている。そして、三具体例の間に挟まった20節と24節で、そうした客観的「状態/地位/身分」が、「神に召された状態」と捉えられ、「各人は召されたときと同じ、その状態/地位/身分にとどまれ」との一般命題に集約される。平信徒/聖職者の別(ecclesiastical status)を問わない、という「万人司祭主義」の原則へは、ここからあと一歩というところであろう。

 問題は7: 20であるが、ヴェーバーはここで、普及版ルター聖書の訳文Ein jeglicher bleibe in dem Beruf, in dem er berufen istのあとに、ギリシャ語原文en tē klēsei hē eklēthēを引用し[17]普及版ではklēsisがRufではなくBerufと訳出されていることを明示している。また、普及版からのこの引用を締めくくる段落末尾では、「1523年にはルターはまだ、この章の釈義で、古いドイツ語訳に倣い、klēsisを »Ruf« と訳し(Erl. Ausgabe, Bd. 51, S. 51)、当時はdamals »Stand« と解釈していた[過去完了]」(GAzRS, I, S. 67, 大塚訳、105ぺージ、梶山訳/安藤編、142-3ぺージ)と明記し、再度『エアランゲン版著作集』51巻、51ぺージの参照を指示している。したがって、著者ヴェーバーは、ルター自身はまだ『コリントⅠ』7: 20の本文でも釈義でも[18]»Ruf«と訳していた箇所が、普及版ではBerufと訳出され、その間に改訂されている事実を、完全に知悉したうえ、わざわざ読者に明示しているのである。まさにそうすることにより、ヴェーバーは、ルター自身はまだ»Ruf«と訳していた『コリントⅠ』7: 20のklēsisが、ルター以降の翻訳者たちによっては、いうなればルター自身を越えてBeruf と訳出されてもおかしくはないような客観的意味のコンテクストに内属しているという事実そのコンテクストをこそ、読者に示そうとしたのであろう。

 

[5]ルターにおける『シラ』11: 20, 21へのBerufの適用経緯

 確かにこの『コリントⅠ』7: 20では――ここにかぎっては――、原文のklēsisが、ラテン語のstatus、ドイツ語のStandに近い意味で用いられている。しかしまだ世俗的職業は意味せず、ブレンタノの主張に反して、今日のBerufと同義ではない。二三のギリシャ語文献に当たってみても、klēsis はいずれも、今日のドイツ語におけるBerufの意味で用いられてはいない。

それでは、klēsisが、今日のドイツ語におけるBerufの意味で用いられたのは、いつどこでか。それこそ、1533年、ルターが旧約外典の『シラ』を独訳したさい、11: 20, 21のもっぱら世俗的職業ないし職業労働を表すergonとponosに、それまではもっぱら宗教的意味のklēsisにだけ用いてきたBerufを当てたとき、まさにそこにおいて、にほかならない。

 ヴェーバーによれば、ルターは、前段[4]で確認したとおり、例外的に世俗的身分も意味する『コリントⅠ』7: 20の箇所では、かえってドイツにおける翻訳の伝統にしたがってRufを用いていたが、「各自が[使徒の宣布する福音を介して神の召しを受けたときと同一の]現在の状態にとどまれ、との終末観にもとづく[パウロ/ペテロの]勧告」、すなわち第一種用法の諸箇所では一貫して「klēsisをBerufと訳していた[過去完了形]」。「そのルターが、その後später、旧約外典を翻訳した[過去形]ときには、『各自その生業Hantierungにとどまることを可とする』との、『シラ』の伝統主義的な反貨幣増殖主義[反貨殖主義]にもとづく勧告についても、両勧告[上記終末論的勧告ならびにこの伝統主義的反貨殖主義の勧告]が、[各自の置かれている客観的状態を神の召しとして受け入れ、さればこそそこに堅く立てemmenō=abide byと説く点にかけて]すでにschon実質上類似しているという理由からも」、『シラ』11: 20のergonのみか、11: 21の「ponosに[まで、躊躇なく]語Berufを当てることができたし、その訳語選択が結果として受け入れられ、普及して、現在にいたっている[現在完了形]」(GAzRS, I, S. 68, 大塚訳、106ぺージ、梶山訳/安藤編、143ぺージ)。

 この箇所に、ヴェーバーは改訂のさい、「これこそ、決定的かつ特徴的なことである。前述のとおり、『コリントⅠ』7: 17[以下]の箇所では、klēsisはおよそ『職業』すなわち、[身分とは異なって]特定された仕事の領域abgrenztes Gebiet von Leistungenという意味では用いられていない」と加筆している。まことに、そのとおりである。原著者ヴェーバーにとっては、ルターにおいて、もともと変則的ないし例外的な『コリントⅠ』7: 20のRufが、Berufに改訂されてergonと ponosにも適用される、ということが問題なのではない。なるほど、『コリントⅠ』7: 20が内属する7: 17-31のコンテクストで、「『神の召し』が世俗の『客観的秩序』にもおよび、当の客観的秩序が『身分』として具体的に把握される」と解され、この思想をいわば突破口に、世俗的「身分」(という現世秩序の上位のSubdivision)のみか、さらに個別的な「職業」(という現世秩序の下位のSubdivision)への編入までが、「神の召し」したがって「使命としての職業」として把握されるようになるのであるから、『コリントⅠ』7: 17-31は、まさにヴェーバーのいう「架橋」として、そのかぎりできわめて重要である。しかし、決定的なのは、その「架橋」に表明された思想を媒介として、それまでは一貫してもっぱら「神の召し、召された状態」という宗教的意味に用いられてきた第一種用法のBerufが、そのまま、変則的でも例外的でもない宗教的意味を十全に保ったままで完全に世俗的な職業/職業労働、しかもそれまでは宗教的栄光化とは無縁で、むしろ「懲罰としての苦役」というニュアンスさえ帯びていたponosにまで適用されるにいたった、ということである。そうして初めて、たとえ旧約外典の一節においてであれ、それ自体として完全に使命としての職業という語義をそなえた語Berufが誕生した、といえるのである。

なるほど、ここには、一種の「不整合」があり、問題が残されているようにも見える。ルターは、「突破口」となる『コリントⅠ』7: 17-31中のklēsisを、真っ先にBerufに改訳してもよかったはずであるが、じっさいにはそうしなかった。また、『シラ』句の翻訳で「使命としての職業」という語義をそなえた語Berufを創り出したうえは、(ルター以降にルターの翻訳者たちがじっさいにそうするように)ルター自身も、その後、『シラ句との整合性において『コリントⅠ』7: 17-31中のklēsisにもBerufを当ててもよかったと思われるが、なぜかそうはせず、最後までRufで通した。この二点は、固有の意味におけるルター研究においては、なんらかの価値観点から、カール・ホルのいう「ルターの流儀」[19]に解消すべきではなく、「不整合」として正面から問題とし、その理由の探索がなされてもよいであろう。しかし、この「倫理」論文は、固有の意味におけるルター研究ではなく、「資本主義の『精神』」ないしはその核心にある「職業義務観」という「集合態的意味形象を研究対象とし、その宗教的背景を問い、やがては本論で、「世俗内禁欲」の救済道を打ち出した諸宗派の信仰内容との間に、いかなる「意味連関」があるかを究明しようとする、歴史・社会科学的研究である。したがって、「問題提起」章中の一節を割り当てたルター論では、ルターが救済道を世俗内に転轍」し、「使命としての世俗的職業」概念とこの概念を表示する語Berufを創出した画期的意義と、「禁欲」を「わざ誇りWerkheiligkeit」として忌避し、「伝統主義」に傾いた限界とを、ともに確認すれば足りる。概念-語の創出過程論でも、「使命としての職業」概念の創出が、偶然ではなく、聖書原文に由来するのでもなく、翻訳者の精神から、したがって宗教改革の必然的帰結として生まれたことを証明すれば足りる。創出過程に見られる用語法の外形上わずかな「不整合」に捕らわれてその詮索に深入りしたとすれば、それは、たんなる「些事拘泥」というよりもむしろ、研究の本筋からの無用な逸脱」「道草」であり、「倫理」論文全体に貫徹されるべき「価値理念」「価値関係的パースペクティーフ」による制御の弛緩、論理的内容構成の毀損として、かえって「倫理」論文の減価をまねいたことであろう。

さて、以上のとおり、『シラ』句のergonとponosにBerufを当てたとき、「使命としての職業」概念を表示する語Beruf が創出されたのであるが、上記の論証のかぎりでは、それはなにか「両勧告がすでに実質上類似しているという理由から」、つまり、もっぱら両勧告の「客観的意味における類似に引きずられ」、解釈主体の関与ぬきにも招来された結果であるかのように思われよう。こうした解釈は、大塚訳、梶山訳/安藤編の両邦訳とも、「すでにschon」を「たんに」「ただたんに」と訳出し、意図してではなくとも、「類似を活かす解釈者の主体性を貶価するかのようなバイアスをかけていることによっても、誘い出されやすいといえよう。しかし、こうした文言によって指し示される事態そのものを、多少とも想像力をはたらかせて思い浮かべ、よく考えてみよう。このばあい、解釈者はマルティン・ルターなのである。かれがなにか、「類似」に「引きずられ」、まるで「ことの弾みで」「魔が差したかのようにponosにまでBerufを当て、没主体的に「使命としての職業」概念を創出してしまった、というのであろうか。かりにそうだとすると、「使命としての職業」概念の創出は、偶然の所産で、宗教改革の必然的産物とは見なしえないことになる。しかし、ルターともあろう者が、それほど「いい加減に」聖書を訳し、ヴェーバーもヴェーバーで、ルターの聖書翻訳をそうした「杜撰な」作業として「杜撰に」追認した、とでもいうのであろうか[20]

 原著者ヴェーバーは、ルターが両勧告の「類似」ゆえに無理なく、ponosにもBeruf を当て、「使命としての職業」概念を創出することができたのではあるが、それもけっして偶然ないし機械的な結果でなく、内面的思想的必然性をそなえた主体的選択の帰結であると見ている。そして、すぐあとにつづく文章で、当の主体的契機を取り出して論じ、宗教改革の必然的産物であると同時にルター特有の伝統主義の帰結でもあることを立証するのである。したがって、問題の句に見える「すでにschon」とは、こうしたコンテクストのなかで、「つぎに述べる主体的契機を待つまでもなく、実質上の類似からしてもすでに」という意味に解されなければならない。

 ここに、前述注2への参照指示が出てくる。ヴェーバーによれば、「その間(あるいはほぼ同時期の)1530年には、アウグスブルク信仰告白が、プロテスタントの教理を確定し、カトリックの――世俗内道徳を貶価し、修道院実践によって凌駕すべしと説く――教理に無効を宣していたが、そのさい『各人はそれぞれの»Beruf«に応じて』という言い回しが用いられていた[過去完了](前注[注2]を見よ)。[①]このこと[アウグスブルク信仰告白が(Rufでなく)Berufを用いていたこと]と[②]ちょうど1530年代の初葉、生活の隅々にもおよぶ、まったく個別的な神の摂理にたいするルターの信仰が、ますます鋭く精細に規定されるような形態をとるにいたったimmer schärfer präzisiert 結果、各人の置かれている[個別の]秩序を[したがって『身分』よりもさらに個別的な『職業』をも]神聖なものとして尊重するかれの捉え方が、本質的に強まってきたこと、それと同時に、[③]世俗の秩序を、神が不変と欲したまうた秩序として受け入れようとするルターの[伝統主義的]傾向がますます顕著になったこと、――これら[①②③]のことが、ここで[『シラ11: 20, 21でルターの翻訳に現れているhier in Luthers Uebersetzung hervortreten[現在形]」(GAzRS, I, S. 68, 大塚訳、106-7ぺージ、梶山訳/安藤編、143-4ぺージ)。ところで、「アウグスブルク信仰告白」に論及している注2を参照すると、その第27条ではBerufにvocatioが当てられているが、「このvocatioは、ラテン語の伝来の用法では、まさしく神聖な生活、とくに修道院生活あるいは聖職者としての生活への神の召命/招聘という意味で[それだけに限定して]用いられていた。それが、ルターのばあいには、かの[修道院実践による世俗内道徳の凌駕を説くカトリックの教理を無効と宣言して、世俗内道徳をこそ重視する、「アウグスブルク信仰告白」に表明されたプロテスタントの]教理の圧力を受けて、いまや世俗内の『職業』労働が、そうした、神による召命/招聘の色調を帯びた[過去形]」(a. a. O.)のである。

このようにヴェーバーは、ルターにおいて「使命としての職業」概念を表示する語Berufが創始された主体的契機を、①宗教改革の事業がようやく信条を公布する段階にまで達したので、そこで登録された、(klēsisの通則的訳語として)宗教的意義に充満した語»Beruf«を継受し、まぎれもなくもっぱら世俗的な職業を表してきた語ergonとponosにあえて適用して、世俗的職業を「神による召命」とみなす思想をそれだけ強く打ち出し明確な語義語用法にまで貫徹して、世俗内道徳の重視にさらに拍車をかけようという宗教改革者ルターの決意、とともに、②ルターにおける摂理観の個別化、③ルターにおける伝統主義という密接に関連している二契機にも求めている。ところで、このうちの契機①については、前注2への参照指示にしたがい、その趣旨を汲み出すことによって、説明がついている。しかし、残る②と③については、この二契機が『シラ』11: 20, 21におけるルターの訳語選定を規定していると、たんに陳述している――あるいは、せいぜい仮説を提出している――だけで、まだ論証の体をなしてはいない。そこでヴェーバーは、こういうさいのいわば常套手段として、類例との対比を試みる。その論理展開は、絶妙である。

かりに、1530年代の初葉に、②ルターの摂理観がさらに個別化されなかったとすれば、「神の召命」は「身分」どまりで、「職業労働」にまではおよばなかったであろうし、③伝統主義の傾向が強まらなければ、「職業に堅くとどまれemmenō=abide by」という原文表記にBerufを当てることもなかったであろう。ところが、じっさいにはそうではなくて、1530年代の初葉に、この②と③の契機が緊密に連携しながら進展し、じっさい1533年には『シラ』の訳語選定を規定した。その事実は、つぎの類例との対比によって立証される。すなわち、ヴェーバーが、上記の引用にすぐつづけていうには、「それというのも、ルターは、『シラ』のponosとergonを、……いまやBerufと訳すのであるが、その数年前になおeinige Jahre vorher noch 『箴言』22: 29のヘブライ語melā’khāを、これが『シラ』のギリシャ語訳テクストにみえるergonの原語で、ドイツ語のBerufや北欧語のkald, kallelseとまったく同様、とくに聖職への『召命Beruf』に由来する語であったにもかかわらず、[Beruf とは訳さず]他の箇所(『創世記』39: 11[21])とまったく同様に、Geschäftと訳していたからである(『七十人訳』ではergon、『公認ラテン語訳聖書ヴルガータ』ではopus、英訳聖書ではbusinessと訳され、北欧語その他、手元にある翻訳もすべて、これと一致している)」(GAzRS, I, S. 68, 大塚訳、107ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)。ここで引き合いに出されている『箴言』22: 29とは、例の「汝、そのわざBerufに巧みなる人をみるか、かかる人は王のまえに立たん」というフランクリンのモットーであり、「かれの倫理のアルファにしてオメガ」とされた句である。ところが、この句は、(フランクリン父子の時代のアメリカでは)同じBerufあるいはcallingが当てられるようになっていたとしても、『シラ』の類例とは異なり、当の「わざ」を、②神の摂理の個別的な顕現とも、したがって③その枠内に堅くとどまるべき伝統的秩序の一環/一分肢とも、捉えてはいない。むしろ、「わざの巧みさ」という人為に力点を置いている。ということはつまり、(ルターが『シラ』の基調と見た)「神信頼」の、そこ(『箴言』句)における秘かな欠落を顕し、それだけ人為に頼って(ルターが原則的にしりぞける)「わざ誇りWerkheiligkeit」にも通じる、危うい傾きを孕んでいる、ということであろう。そこでルターは、それが旧約正典の一句で、ギリシャ語『七十人訳』の原文では(『シラ』のコンテクストではBerufを当てた)ergonで、ヘブライ語の原語も、語根 l’kh(遣わす)に由来し、かつては「遣わされた使命」の意味を帯びていて、Beruf と訳しやすいmelā’khāであったにもかかわらずあえてBerufとは訳さずに、そっけなくGeschäftと訳した。『シラ』句と『箴言』句とが同義/等価で、ただ「時間的前後関係」が問題であり、数年まえにはまだ『箴言』22: 29のmelā’khāをGeschäftと訳していたルターが、数年後には②摂理観の個別化と③伝統主義化の結果、当のmelā’khāにも、原文どおりBerufを当てるようになった、というのではないし、そんなことがルターに起きようはずもない。原著者ヴェーバーがいわんとするのは、②摂理観の個別化と③伝統主義化の結果、『箴言』22: 29のmelā’khāには、ますますBerufは当てられ、Geschäftで通すほかなくなる一方、『シラ』11: 20, 21のergon とponosには、原文原語からは無理でもまさに翻訳者の精神においてBerufを当てたという事実、これである。時間的に至近の類例対照例を引き合いに出すことによって、じじつ起きた「『シラ』11: 20, 21におけるergon とponos とのBeruf訳」という結果を、②、③として顕れたルターの思想変化という主体的契機に「意味・因果帰属」している。繰り返していえば、ルターが、時間的に近接した「数年まえにはまだ」、原文/原語からはBerufを当てやすい『箴言』句にはBerufを当てなかったのに、数年後には、Berufを当てにくい『シラ』句に、じっさいにはBerufを当てたのはなぜかといえば、それは、ルターの、②個々人の具体的境遇(したがって職業への編入)にまで神の摂理を認める傾向がつのり、それと同時に、③そうした現世の秩序を神の摂理とみて、各人はいったん召し出された職業に堅くとどまるべきである、とする伝統主義が強まり、こうした思想/思想変化が訳語の選択に表明された結果である、というのである。

 ここで、「ルターの職業観」節第一段落の本文と三注に述べられている内容を要約すれば、こうもいえよう。すなわち、今日でもなにほどか「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ言葉として頻繁に用いられる語Berufは、(ここでは、この語を「トポス」として、読者とともにその歴史的創始点に遡行し、「近代市民的職業エートス」の歴史的一与件の誕生に立ち会おうと探究を試みたのであるが、それは)偶然でも、聖書原文の直訳でもなく、宗教改革における翻訳者たち、とりわけマルティン・ルターの精神において、聖書の意訳によって歴史的に創造された。詳言すれば、一方では、『コリントⅠ』7: 17-31のコンテクストにおけるklēsis が、この語の用例としては変則的ながら、すでに「神の秩序としての身分」という意味に解され、1530年の「アウグスブルク信仰告白」ではその意味で»Beruf«と訳され、公式に登録されていた、という事態を客観的与件とし、他方では、翻訳者のひとりルターにおける②各人の「身分」のみか「職業」への編入をも神の摂理と見る、摂理観の個別-精緻化と③伝統主義化という思想変化主体的契機として――そのように客観的与件と主体的契機とがあいまって――1533年の『シラ』翻訳のさい、(世俗的職業/職業労働しか意味しなかった)ergon とponosに、(「神の召し」という宗教的意味に用いられ、特例としても「聖職への招聘」に適用を制限されていた)Berufが当てられることにより、まさにそのとき、創始された。それ以降、ルターのその意訳が、以後の翻訳者たちによって受け入れられ普及して――ばあいによってはルター本人をこえ、『コリントⅠ』7: 20のklēsisや『箴言』22: 29のmelā’khāにまでBerufないしはBeruf相当語が適用されて――今日にいたっている

 さて、語BerufならびにBeruf相当語の、以後の歴史的運命/普及に一瞥を投ずるとすれば、ここでも最小限つぎのことは指摘しておいてよいであろう。ルターによって創造された「今日の語義における語Berufは、さしあたりはzunächstもっぱらルター派内にかぎられていた[過去形]」(GAzRS, I, S. 68, 大塚訳、107ぺージ、梶山訳/安藤編、144ぺージ)。ルターによって敷設された「世俗内救済」の「軌道」を「伝統主義」から「禁欲的合理主義」に「転轍」した「禁欲的プロテスタンティズム」諸派、とりわけ嚆矢をなす「カルヴァン派は、旧約外典を正典外unkanonischと考えていた[過去形]」(a. a. O.)。したがって、そもそも『シラ』そのものを重視せず、そのうちの二語の翻訳など、ことさら問題にしようともしなかったであろう[22]。その「カルヴァン派が、ようやくerstルターの職業概念を受け入れ、重視するようになって現在にいたる[現在完了]のは、『確証』問題への関心が前面に出てくる、あの発展の結果であって、当初のerst(ロマン語系の)翻訳では、ルターの職業概念を表示するのに使える語がなく、かつまた、すでにステロ化されている国語の語彙のなかに、そうした語を創り出し、流布させ、慣用語として定着させるだけの勢力もなかった[過去形]」(GAzRS, I, S. 68, 大塚訳、107-8ぺージ、梶山訳/安藤編、144-5ぺージ)。

 ここで「『確証』問題への関心」とは、被造物から深淵によって隔てられた「予定説の神」をまえに、「この自分は、はたして選ばれているのか、それとも棄てられているのか、自分が選ばれていることを、なにをよすがに認識し、確信できるか」というカルヴァン派平信徒大衆の深刻な苦悶の謂いである。自分が選ばれていると確信していたジャン・カルヴァン(1504-64)自身には、「確証」などそもそも問題とはならず、かれにはむしろ、そうした問いを発すること自体、信仰が足りない証左で、非難されるべきことであった。しかしその問いは、平信徒大衆にとっては決定的で、各人に切実に問われた。牧会の実践では、この問いに答えて、「『神の栄光』を顕す『神の道具』として職業労働に没頭し、不安をしりぞけて『選びの確信』に達し、そうして生涯『恩恵の地位』を維持すべし」と説かれ、ここから持続的な「禁欲」が駆動された。ところが、そうした発展は、早くとも当の「予定説」と「予定説の神」が『ウェストミンスター信仰告白』(1647)に表白されるころからであり、ルターによる語Beruf創始の直接の影響には帰せられない。カルヴァン派を初めとする「禁欲的プロテスタンティズム」における「神観-救済追求-禁欲的合理主義の意味連関」は、まさにこの「倫理」論文の主要テーマとして、このあと本論(第二章)で論じられる。したがって、ルターの職業概念と語Berufの創始焦点を絞り課題を限定しているこの注3では、カルヴァン派ほか「禁欲的プロテスタンティズム」諸宗派の「職業」「職業思想」はもとより、それぞれの「職業概念」/語義論にさえ殊更立ち入る必要はない。かりに「価値関係的パースペクティーフ」による制御が弛緩し、ここでそうした論点まで取り上げて「道草」を食ったとしたら、論脈逸脱も甚だしく、内容構成の論理的整合性を損ね、締まりのない論文に堕したことであろう。

それに、先にも注1末尾で触れられていたとおり、16世紀におけるロマン語系諸国のカルヴァン派は、それぞれの「言語ゲマインシャフト」における「少数派」で、各言語そのものもすでにステロ化されていたから、言語改革という一点にかぎっては、ルターに比肩されるほどの語義創造/語彙改革を達成することはできなかった。ルターによる語Beruf創始をテーマとするこの注3ではあるが、末尾のこの第六段落にかぎっては、ルター派の範囲をこえる語BerufないしBeruf相当語の波及に一瞥を投ずることになるので、波及先の宗派の置かれている多様な歴史的社会的諸条件を考慮しつつ慎重に取り扱われなければならない。では、ルター/ルター派のドイツとも、ロマン語系諸国とも、明らかに条件を異にするイギリスを初め、英語圏のばあいはどうであろうか。イギリスは、17世紀以降、プロテスタント諸宗派の大衆宗教性が入り乱れて覇を競う主戦場ともなるので、そうした歴史的展開との連続性を、日常語の語彙語義について確認しておくためにも、ここでとくに、ルターによる語Beruf創造の直後における直接の影響にかぎって(それ以降における語義のみでなく思想の間接の影響については、上記の理由で本論で主題化することにして)通観しておくとしよう。

[6]ルター以後16世紀におけるBeruf相当語の波及 

そのまえに、ドイツに一瞥を投ずると、「Berufの概念は、その後すでに16世紀のうちにも、教会以外の文献では今日の意味で用いられるようになっている」(GAzRS, I, S. 68, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)。ルター以前には、klēsisが、たとえばハイデルベルク古文書館にある1462/66、1485年の聖書ではBerufung、1537年の(厳密にはルター以前ではないが)、エック訳インゴルシュタット版ではRufと訳されているが、それ以降は、カトリックの翻訳も、たいていは直截にルターにしたがっている[23]

ここでいよいよ、比較の範囲をルター派ドイツ以外に広げ、どの宗派にも一様に重視された新約正典の『コリントⅠ』7: 20を定点観測の指標に据えてイギリスにおける訳語の波及状況を概観すると[24]、まず注目すべきことに、1382年のウィクリフ訳[25]が、いちはやくこの箇所のklēsisをclepingと訳している。このclepingは、後にcallingにとって代わられる、宗教改革時代の用語法に一致する語で、ロラード派(ウィクリフ派)の倫理の特徴を示している。

 それに反してdagegen(ということはつまり、『コリントⅠ』7: 20の klēsisをもルター本人をこえてBerufと訳すルター的な用語法を規準とすれば、ロラード派からの一定の後退を意味するが)1534年のティンダル訳[26]は、このklēsisを(ルターと同じく)「身分」と解し、in the same state, wherein he was calledと訳した。(亡命カルヴァン派信徒のフイッティンガムによる)1557年のジュネーヴ版[27]die Geneva von 1557でも同様である。

このジュネーヴ版以前に、1539年の公認クランマー訳(「大聖書」)[28]が、このstateをcallingに置き換え、callingをtradeの意味で用いる(つまりイギリスにおけるBeruf相当語の)嚆矢をなした。

 ところが、その後に出た(亡命カトリック教徒による)1582年のランス(ドゥエ)版新約聖書[29]と、エリザベスⅠ世時代(在位1558~1603)の「宮廷用[30]イギリス国教会聖書die höfischen anglikanischen Bibeln[複数]」(GAzRS, I, S. 69, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)は、クランマー訳のcallingをふたたび、『ヴルガータに倣ってvocation に戻している。

 さて(原著者ヴェーバーの論旨をわずかながら筆者が補足して敷衍すれば)、16世紀イギリスの聖書英訳事業は、ウィクリフ/ロラード派の伝統を引き継ぐ「下からの」宗教改革の延長線上に位置するとしても、他面、ローマ教皇庁の掣肘から脱して専制君主としての国内支配を固めようとし、一面では(教皇庁公認『ヴルガータ』の権威に対抗する)聖書の自国語訳を奨励し、ばあいによってはイニシアティヴをとりながらも、平信徒大衆の「自由検討」にもとづく反権威主義的自立と反乱を恐れ、ときには教皇庁に身を寄せるテューダ朝の国王たち――政略結婚とからんだ離婚問題で教皇と争い、修道院を解散し、イギリス国教会を樹立したが、ルターやカルヴァンの教理は否認し、ティンダルを処刑したヘンリⅧ世(1509~47)、ひきつづき修道院解散を押し進めると同時に、教理と儀礼の面でもプロテスタント色を強めたエドワードⅥ世(1547~53)、カトリックに復帰してプロテスタントに血の弾圧を加えたメアリⅠ世(1553~58)、国教会派プロテスタントながらカトリック的要素も温存し、折衷的に独自色を出そうとしたエリザベスⅠ世――による「上からの」宗教政策に、肯定的にせよ否定的にせよ、顕著に規定されざるをえなかった。そうした時代相を映し出し、上述で瞥見したような、相応の一進一退紆余曲折をへながらも、聖書英訳の事業総体は進展し、それとともに、callingをtradeの意味に用いるピューリタン的な用語法」(Beruf相当語)も根を下ろしていった。このうち、「クランマーの聖書翻訳 die Cranmersche Bibelübersetzung」(GAzRS, I, S. 69, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)が当該用法の端緒をなすことは、(「倫理」論文執筆当時、編集途上にあって刊行されたばかりの)OED callingの項目で、碩学マレー博士が適正に指摘している。すでに16世紀中葉にはcallingがBeruf相当語として使われ、1588年にはunlawfull calling、1603年にはgreater callingといった用例が見られる。そして(一点だけ、16世紀の国教会の要請を引き継ぎ実現する形で17世紀に食い込んでいる一大編纂について補足すれば)、ステュアート朝初代のジェイムズⅠ世(1603~1625)の肝入りで開始され、六班51人の聖書学者が、16世紀の諸訳を丹念に参照し、原文とも照合して採長補短のうえ集大成したといわれる1611年「(キング・ジェイムズ)欽定訳」[31]では、『コリントⅠ』7: 20にin the same callinge, wherin he was calledという用語法が採用され、16世紀の紆余曲折がここに収束をみている

小括

このように通観してみると、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語Berufを「トポス」に据え、ルターにおける語義の創始過程と直後の波及に遡行して捉え返してくる原著者ヴェーバーの論述は、「意味探し」と「素材探し」との統一として、いかにもかれらしい緊密な論理整合性と的確な資料処理をともない、読者を念頭に置いて一歩一歩進められている。「倫理」論文のこの部分は、草稿ではおそらく、本文と注との区別なく一挙に書き下ろされ、全体の構成を顧慮して、詳細な論証部分が注に送り込まれたにちがいない。ひとたび粒々辛苦の読解が達成されてみると、読者は必ずや、論旨の明晰さに爽快感さえ覚えられるであろう。

筆者は、別稿「虚説捏造と検証回避は考古学界だけか」(本コーナーに掲載)で、「羽入事件」を「藤村事件」という類例と対比し、そこから抜き出した前稿「マックス・ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム」と本稿とにより、(遺跡発掘にたとえれば)「『倫理』遺構」における遺物群の「配置構成」を、できるかぎり遺跡自体のたたずまいに迫って復元した。そこでつぎには、稿を改め、羽入辰郎がこの「遺構」から、ⓐどの遺物をどのように抜き取って、ⓑ自分が外から持ち込んだ羽入流「配置構成図」に移し入れ、並べ替え、ⓒいかなる「意味変換」を生じさせ、「ヴェーバー詐欺師説」を「捏造」しているか、――いわばその「犯跡」を、ひとつひとつ克明にたどり、浮き彫りにしていかなければならない。(2004年6月26日脱稿、注17と21にかぎり、2004年7月2日改訂)



[1] 本コーナーへの丸山尚士の寄稿を参照。「倫理」論文の冒頭、第一章第一節「宗派と社会層」も、近代的商工業の資本所有/企業経営/上層熟練労働に携わる社会層への帰属率にかけては、カトリック教徒よりもプロテスタントのほうが優勢で、この点が他ならぬカトリック系の紙誌でも問題とされている、という同時代の統計と論調を「トポス」として説き起こされている。

[2] 日本人読者のばあい、初見では「時は金なり」「信用は金なり」の趣旨を「額面どおりに」受け取るとしても、二回目に、たとえばつぎのような箇所の下線部分に注意して読むと、印象が変わるはずである。「約束の期限までに几帳面に支払うことが評判になっている者は……」、「朝の五時か夜の八時に君の槌の音が債権者の耳に聞こえるようなら、……君が債務を忘れていない印となり、また、君が注意深いだけでなく正直な男であると人に見させ、君の信用は増すだろう」、「君の思慮深さと正直が人に知られているとすれば……」。つまり、「自分が事実正直か」(「使用価値」視点)よりも、「人に正直と見られ」(「交換価値」視点)て「信用」され、借入金の運用で「貨幣」を増やせるかどうか、がけっきょくのところ重要なのだと説く、「『貨幣増殖』目当ての『偽善』勧告」と読めないこともない。ドイツ人読者は、初回にもこうした箇所で「アメリカ嫌い」を触発されるであろう。キュルンベルガーのその狙いを、ヴェーバーもひとまず受け入れて、接点・「トポス」をつくり、そこから「事態ははたして、それほど単純か」と問いかけ、読者と対話しつつ論を進めていくのである。

[3] 実存する個人を起点に据えて「自然」と感得されるところから「社会的諸関係」にかんする(社会学的)概念構成を進めていくと、「家ゲマインシャフト」「氏族ゲマインシャフト」につぐ血縁擬制血縁的なゲマインシャフトとして「部族Stamm」「民族Volk」といった概念が想到されるであろう。しかしヴェーバーは、それらの「実体化(物象化的錯視)」は避け、「種族ethnische Gruppe」を「①外面的に目立つ容姿か、②習俗(生活習慣)かのいずれか、あるいは両方、または③植民や移住の記憶にもとづいて、『血統の共有』にかんする主観的信仰を、ゲマインシャフト(社会)関係の拡張にとって重要な程度に抱き、なおかつ『氏族ゲマインシャフト』はなさない人間群統計的集団)」と定義する。したがって、そうした主観的な「種族的共属性信仰」が共有されていても、現実に「部族」「民族」などの「種族ゲマインシャフト」が形成されるとはかぎらず、むしろそのつど、こうした類型概念により、まさしく社会学的な問題として捉え返されるのである(拙著『ヴェーバー学のすすめ』、第二章注45、140-1ぺージ、参照)。

[4] 「教団」(宗教団体)の規模が大きくなると、「平信徒大衆」と「達人」との分化が生じざるをえないが、そのうえ大量の複雑な教理や信条をもつようになると、そうした教理/信条への平信徒のかかわり方一般も、(キリスト教神学の用語で代表させると)「黙示的信仰fides implicita」と「顕示的信仰」とに分かれ、双方を両極とするスペクトルのどこかに落ち着かざるをえない。前者は、平信徒ひとりひとりが、自分個人では教理や信条にはかかわらず、むしろそうした問題を専門とする「聖職者」(スタッフ)の指示には無条件にしたがう総体的な態度表明の謂いである。それにたいして後者は、そうした「信仰」のあり方をいさぎよしとせず、平信徒個々人がみずから教理や信条を知り、自由に検討し、議論し、主観的に「真と確信し」、その旨表白して初めて信仰の域に達すると認める、宗教上の「個人主義」「主知主義」を意味する。Cf. Weber, Wirtschaft und Gesellschaft, 5. Aufl., 1980, Tübingen, S. 342-3.

[5] 聖職者に独占された「公認ラテン語訳vulgata」ではなく。

[6] 「ひとまず」というのは、観点とパースペクティーフを変えれば、ルターの職業概念そのものを問題とし、その特性について、たとえば「ドイツ神秘主義」、あるいはボヘミアのフスを介してウィクリフに遡行して因果帰属を試みる、といった研究も、成り立つであろうからである。

[7]それまで「ヴルガータ(ローマ・カトリック教会公認のヒエロニムス訳聖書)」に用いられた唯一の神聖な言語であるラテン語にたいする通俗語、したがってそれぞれの母国語。

[8]説教集など

[9]第一章第三節の表題は、Luthers Berufskonzeption. Aufgabe der Untersuchungと記されている。主題と副題とをコロンないしダッシュで結ぶのではなく、「ルターの職業観」という主題を終止符でいったん閉じ、そのあとに「研究の課題」と記されている。内容と照合すれば、この「副題」は、「ルターの職業観」が即(この論文全体の)「研究の課題」をなすという意味ではなく、この節で、ルターの職業観の限界(伝統主義への「逸脱」)が確認され、その限界をこえる「研究の課題」がいわば絞り出され本論に引き渡される、という趣旨を伝えている、といえよう。

[10] もとより、観点を変えれば、別の取り扱いも可能である。上注6参照。

[11] 「言語ゲマインシャフト」とは、「制定秩序gesatzte Ordnung」があって構成員が準拠し合える「ゲゼルシャフト関係」とは異なり、「制定秩序」はないのに、各構成員が他の構成員から寄せられる期待を「妥当gültig」と見なして行為し、それゆえあたかも「制定秩序」があるかのようにゲマインシャフト行為が経過する範囲のゲマインシャフト、すなわち「諒解ゲマインシャフトEinverständnisgemeinschaft」の一典型例である。Cf. Weber, Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, 7. Aufl., 1988, Tübingen, S. 453-4.

[12] ルターがある聖典のある箇所で新しい語義のBeruf を創造したからといって、それが、歴史的社会的諸条件のいかんにかかわりなく同一の箇所から同一の回路をとおって同一の様式で波及するわけはない。ルターの「言語創造」とその影響を、歴史的/社会的条件から切り離して「言創造とその伝播」に祀り上げ、言霊/呪力崇拝に耽ってはならない。学問的議論にそういう呪術的仮定を持ち込む論者は、まずなによりもヴェーバーの歴史・社会科学に学んで、そうした「呪縛から解放entzaubern」される必要があろう。

[13] 拙著、第二章注21、129-30ぺージ、参照。

[14] この点は、両勧告の前後のコンテクストを、とくになにが対照例として非難されているか、に注目して比較してみると、いっそう鮮明になろう。『詩篇』37: 1-7には「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。……沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな」とある。他方、『シラ』11: 21には、「罪人の仕事を見て訝るな。主を信頼して自己の職務に徹せよ。貧者を速やかに、急に富ませることは主にとっては易しいことである」と説かれている。

[15] 著者ヴェーバーは、上記『エフェソ』4章にかんするタウラーの説教に、同じ注3のなかで論及したさい、また、この箇所における『コリントⅠ』7: 17-31からの引用の直後にも、『エアランゲン版ルター著作集』51巻、51ぺージ(『コリントⅠ』7: 20)の参照を指示している。だから、その前後の7: 17-31を、同じ「原典」から引用しようと思えば難なくできたはずである。

[16] 21節は、近代の解釈が分かれる箇所である。拙著『ヴェーバー学のすすめ』第二章注15(128-9ぺージ)参照。

[17]この引用のあと、「枢密顧問官メルクスがいうところでは、これは明白なHebraismusである」(GAzRS, I, S. 67, 大塚訳、105ぺージ、梶山訳/安藤編、142ぺージ)と記され、つづけて『ヴルガータ』からの引用 in qua vocatione vocatus est がある。原文作者のパウロは、ヘレニズム世界の教養人で、書簡の文体も、流暢ながら整った文章語であるという(田川建三『書物としての新約聖書』、1997、勁草書房[以下、田川書]、340-5ぺージ)。とすると、Hebraismusとは、そういうギリシャ語文中に現れた「ヘブライ語風の言い回し(語法)」という意味であろう(田川書、332ぺージ)。ちなみに、『コリントⅠ』7: 20の原文についてみると、hē は関係代名詞hos の女性単数与格、eklēthēは動詞kaleō(=call)の三人称単数アオリストⅠ(単純過去)直接法受動相で、文法上は問題なくin the calling with (in) which one was called と訳出されよう。与格を「手段の与格」と解すると「人が召された当の召し」、(普通名詞については稀とのことであるが)「場所の与格」と取ると「召されたところ、地位、身分」という意味が派生してくるのでもあろうか。この箇所がどういう意味で「ヘブライ語風の言い回し」なのかは、筆者には判断しかねる。専門家のご教示をえられれば幸いである。なお、『ヴルガータ』の訳文についてみると、quaが関係代名詞quiの女性単数奪格、vocatus estは動詞vocō(=summon)の三人称単数直接法完了受動相で、やはり文法上は無理なくin the summons with which one was summoned と訳出されよう。

[18] ただし、すでに1523年の『コリントⅠ』7章の釈義でも、同一構文のklēsisにRufでなくBerufを当てている箇所もある(拙著、78ぺージ、参照)。つまり、「初期」に、聖典間のみでなく、聖典本文と釈義との間にも、「混用Schwanken」が認められる。

[19] 拙著、第二章、注33、131ぺージ、参照。

[20] 人あって、どれほどそうした「杜撰さ」をヴェーバーに、ヴェーバーを介してルターに、押しつけたいと願おうとも、それほど杜撰なことが、じっさいルターに、またヴェーバーに起きるはずがあろうか。そうしたルター像ないしヴェーバー像はむしろ、ルターはともかくヴェーバーをなんとしても打倒したいという解釈者の抽象的情熱から、大塚/梶山の不適訳に誘発されて脳裏に宿り、居すわってしまった幻像ではあるまいか。それはかえって、解釈者自身の軽率さと文献読解力の欠損を表し、そうした幻像を「彼我混濁」ゆえ、ほかならぬヴェーバーに投射/投影した所産と解するほかはなかろう。

[21] この箇所は、エジプトに連れてこられたヨセフが、主人ポテファルの妻に誘惑される直前の記事で、「ある日、ヨセフが仕事をしようとして家に入ると、……」(新共同訳)とある。ポテファルは、ファラオに仕える官吏だったから、この「仕事」とは、エジプト型「賦役/公役官僚制」に編入された「職務」で、それゆえ語melā’khāが当てられていたのであろう。というのも、melā’khāは、l’kh(遣わす)という語根から派生した語で、旧約聖書中に散見される数多の用例に照らして、「エジプト型、およびエジプトに倣ってつくられたソロモン型賦役国家にみられる賦役-公役官僚制Fron- und Leiturgie-Bürokratieの思想世界に由来し」、元来は「使命としての役務」という意味合いを帯びていた。ところが、(ヴェーバーが、ハイデルベルク大学の同僚で神学者/オリエンタリストのメルクスから聞いた話として伝えるところでは)「そうした語根の意味は、すでに古代に完全に失われ、語melā’khāは、いかなる労働にも用いられるようになった。そのように一定の[宗教的]色彩を失なった点、また、最初には祭司職への招聘に用いられた点でも、語melā’khāの運命は、ドイツ語のBerufと同様であった」(GAzRS, I, S. 63, 大塚訳、96-7ぺージ、梶山訳/安藤編、135ぺージ)という。

[22] 歴史の多様性に豊かな感受性をそなえ、対象の個性を損なわない歴史・社会科学的認識の方法を編み出して自覚的に駆使し、このばあいについていえば当然外典の取り扱いにおける宗派ごとの差異にも通じていたにちがいないヴェーバーは、なにもルターが『シラ』11: 20, 21で今日の語義におけるBeruf を創始したからといって、歴史/社会的条件を異にする他の宗派もことごとく同等にシラを重視し、それぞれの自国語訳シラの11: 20, 21 からBeruf 相当語を採用し始め、(他の聖典を含む)他の諸箇所にも普及させいく、などと決めてかかるわけがない。「唯『シラ』回路説」とも名付くべき、そうした生硬な想定は、歴史を思わずに字面をなで回す没意味文献学徒の妄想の産物にすぎまい。

[23] ということは、文脈から見て、ルターの(たんに『コリントⅠ』7: 20の用例ではなく)職業思想にしたがい、ルターと同様、当該箇所もBerufと訳したということであろう。

[24] この項目の執筆にあたっては、本コーナーに掲載の丸山尚士「『羽入氏論考』第1章『calling概念をめぐる資料操作』の批判的検証」を参照した。かれが調べてくれた文献や資料に、筆者も(同じく非専門家ながら)当たって再検証しているが、筆者が独力でそれらに行き着くには、多大な時間と労力を要し、容易なことではなかったろう。次稿「羽入による意味変換操作」の関連項目執筆についても、同じことがいえる。ここに記して、丸山のザッハリヒな教示に感謝する。

[25] 正確には、ウィクリフの弟子ニコラス・ヘリフォードによる『ヴルガータ』からの重訳(ベンソン・ボブリック著、永田竹司監修、千葉喜久枝/大泉尚子訳『聖書英訳物語』、2003、柏書房[以下、ボブリック著]、38-9, 251ぺージ、田川建三『書物としての新約聖書』、1997、勁草書房[田川書]、546-7ぺージ、参照)。

[26] ウィリアム・ティンダル(1495~1536)は、1524年に大陸に亡命してハンブルクに到着し、ヴィッテンベルクにルターとメランヒトンを訪ね、翌年にはギリシャ語(エラスムス版)新約聖書の英訳を終えている。この新訳は、当初ケルンで印刷されようとしたが、妨害にあい、ヴォルムスで印刷され、1526年にはイングランドに持ち込まれた。「1534年のティンダル訳」とは、この年に出た新約聖書の改訂第二版を指していったものであろう(デイヴィド・ダニエル著、田川建三訳『ウィリアム・ティンダル――ある聖書翻訳者の生涯』、2001、勁草書房、531-59ぺージ、田川書、548ぺージ、ボブリック書、93、94ぺージ)。

[27] 当時ジュネーヴでは、カルヴァンとテオドール・ド・ベーズ(ベザ)を中心として、ピエール・ロベール・オリヴェタンの仏訳(1535年「ヌシャテル聖書」)を改訂する作業が進められ、1588年には仏語訳のジュネーヴ聖書が完成している。この「仏語訳のジュネーヴ聖書」と区別される「英語訳のジュネーヴ聖書は、まず新約聖書の部分が1557年に完成した。新約聖書の部分の翻訳の中心だったのは、William Whittinghamだったろう、と言われている。しかしもちろん彼一人の仕事ではなく、多人数の共同の作業であった。……ついで1560年に、もう女王メアリーの時代は終り、イギリスは再び国教会にもどっているのだが、彼らはまだジュネーヴに居て、旧新約聖書の全体をあわせて発行している。フウィッティンガムはその直後にイギリスに帰国した。(なお厳密には、ジュネーヴ聖書というと1560年の旧新約全書を指す。1557年のものは、ジュネーヴ新約聖書などと呼ばれている。)……ジュネーヴ聖書というのはもちろん後世につけられたあだ名であって、この聖書そのものにそう書いてあるわけではない。発行場所としてジュネーヴと記載されているだけである。」(田川書、557ぺージ)なお、この「英語訳のジュネーヴ聖書」であるが、各文書の前に簡単な解説が付けられ、詳細な欄外注が施され、章のみか節にも今日流の番号が振られ、初めてラテン文字で印刷されるなど、非常に読みやすく、内容上も正確で、他のどの英訳聖書よりも優れているとして広く普及し、1560年から「欽定訳」が出る1611年までの約50年間に(1539年「大聖書」の7版、1968年「司教たちの聖書」の22版に比して、なんと)120版を重ね、その訳文は、後代の訳とりわけ「欽定訳」にも多く取り入れられているという(田川書、556-60ぺージ、ボブリック書、139、144、175、209、235ぺージ、参照)。

[28]この版の成立事情は、やや錯綜している。1534年、ヘンリⅧ世は、ローマ教皇庁と絶縁してイギリス国教会を設立するが、そのさい新王妃アン・ブリンに唆され、腹心の大司教トマス・クランマー(1489~1556)の提言をいれ、全教会に英語訳聖書を備えつける方針を採用した。この方針にもとづき、国教会公認英語訳の作成を命じられたのが、まずはマイルズ・カヴァーデイル(1488~1569)である。かれは、ハンブルクでティンダルと、ジュネーヴでフイッティンガムと接触していたが、みずからはギリシャ語もヘブライ語も読めなかったため、急遽ティンダル訳を底本とし、旧約中ティンダルが訳し残した部分は「ドイツ語とラテン語から英語に訳し」て補うほかはなかった。しかし、そのようにして、ともかくも旧新約聖書全体の英訳を初めてなしとげ、翌1535年「カヴァーデイル聖書」として発行したのである。ところが、ティンダルから旧約の一部未発表稿を託されていた友人ジョン・ロジャーズが、カヴァーデイルの向こうを張り、ティンダル訳を全面的に復元し、ティンダルの未訳部分はカヴァーデイル訳を取り込んで、1537年「(偽名)トマス・マシュー訳聖書」として発行する。となると、「勅令によって公認された」英訳聖書が二種類出回ること自体が不都合なうえ、双方ともヘブライ語、ギリシャ語原典からの本格的な翻訳ではなく、ティンダル訳他の寄せ木細工にすぎず、後者ではプロテスタント色濃厚な注が物議をかもしもしたので、この状態に王もクランマーも満足しなかった。全教会に備えつけて国教会の総意を結集しうる「第三の」統一公認英訳聖書を、原典から訳し直して編纂する必要に迫られたのである。宮廷筋と国教会当局のこの要請に応える大事業が、1611年に完成する「キング・ジェイムズ欽定訳」である。ところが、当局としてはそれまで待つわけにもいかず、急場しのぎに、またしてもカヴァーデイルに命じて「マシュー訳」の注を取り除くなど、再改訂させ、他方ではフランス最新鋭の印刷機を植字工ごと買い上げて豪華な装丁を施したのが、1539年の版組大型「大聖書Great Bible」である。その後、「英訳ジュネーヴ聖書」(1557、1560)の挑戦を受けて、同じ要請を「大聖書」の改訂という形で実現しようとし、やはり挑戦に対応しきれなかったのが、1568年の「司教(英国教会では主教)たちの聖書 Bishops’ Bible」である。(田川書、551-5, 560-1、ボブリック書、109-28、144-7、参照)

[29] エリザベスⅠ世の治世には、カトリック教徒が北フランスに亡命し、民衆への影響力喪失は独自の英訳聖書をもたなかったためと反省し、『ヴルガータ』からの英訳をドゥエで始めた。新約は1582年にランスで完成され、刊行されたが、旧約は遅れて1610年に完了し、ドゥエで出版される。(田川書、561-2ぺージ、ボブリック書、149-55、参照)

[30]「宮廷用 höfisch」と明記されている点に注意。つまりそれらは、公刊はされていない「宮廷用私家版」聖書の類[複数]で、教会史/聖書翻訳史関係の資料や叙述からは漏れていても不思議はない。それを、著者ヴェーバーは、王朝史/宮廷史を専門とする同僚サイドから聞いたか、みずから調べたかして、知ったのではあるまいか。独自色を出したがるエリザベスⅠ世が、その類の聖書を数種つくらせて宮廷で使ってみていたというのは、ありえないことではない。そうした企てが、じつは、ヘンリⅧ世時代のクランマー訳「大聖書」でもエリザベスⅠ世時代の「司教たちの聖書」でも充足されなかった、本格的な英国教会公認統一聖書への要請と、次期ジェイムズⅠ世による大がかりな「欽定訳」事業の実施とを結ぶ線上で、宮廷なりの模索を表していたとはいえまいか。

[31] ボブリック書、165-217、252-4ぺージ、参照。とはいえ、ティンダル訳、ジュネーヴ聖書、欽定訳の三者を並べて比較してみると、「欽定訳はほとんどジュネーヴ聖書の盗作といってよいくらい」であり、このジュネーヴ訳がティンダル訳を継承している点を考慮に入れれば、「結果において欽定訳は、途中にジュネーヴ聖書を介在させているものの、ティンダルを国教会向けに改竄したものというにすぎない」ともいわれる(田川書、559-60ぺージ)。


折原浩「シュルフター-折原 往復Eメール」

2004年7月2日(本コーナーへの寄稿)

シュルフター-折原 往復Eメール

折原 浩


2004年4月26日

 ここにご紹介したいと思うのは、去る4月26日に、ヴォルフガンク・シュルフター氏と交わしたEメールである。

氏からは、今年に入って間もなく、Gert Albert, et al. (Hrg.), Das Weber-Paradigma, Studien zur Weiterentwicklung von Max Webers Forschungsprogramm[G・アルバート他編『ヴェーバー・パラダイム――ヴェーバーの研究プログラムを展開する諸研究』](Tübingen: J. C. B. Mohr, 2003)への氏の寄稿論文Wolfgang Schluchter, Handlung, Ordnung und Kultur, Grundzüge eines weberianischen Forschungsprogramms[行動、秩序および文化――ヴェーバー流研究プログラムの根本特徴]の抜刷が、郵送されてきていた。というのも、氏とは、筆者が1993年に一年間ハイデルベルクに滞在する以前から、かれが1989 年(だったと思うが)に来日して以来、「抜刷交換」の関係にある。なるほど、筆者には、かれの独文論考を読み、コメントを独文でしたため、こちらは日本語の論稿(たいていは趣旨のみ)を独訳して伝えることになるので、どうしても時間を食われる一仕事にはなる。ただ、かれには、そうした「非対称的」関係を「すまないが、自分のほうは日本語がまったく読めないので」と受け止める感性があり、筆者の拙い独文をよく解読してくれるし、すばやく返事をくれる。というわけで、とぎれとぎれになりがちでも、なんとか交信はつづけてきたし、そのなかから、全集版『経済と社会』の編纂をめぐるやりとりを、共著『「経済と社会」再構成論の新展開――ヴェーバー研究の非神話化と「全集」版のゆくえ』にまとめて上梓することもできた(鈴木宗徳・山口宏訳、未来社、2000)。今回は、このコーナーへの寄稿に忙しく、なかなか返事を書けないでいたが、4月に入ってやっと小閑をえ、かれの抜刷論考へのコメントとあわせ、「羽入書問題」についても、かいつまんで伝えていた。

今回も、シュルフター氏からは、いつものようにすばやく返信がきた。「羽入書問題」にたいしても一定の関心を示し、簡潔ながら的確で、ヴェーバー本人のスタンスとも結びつける理解を披瀝してくれたので、このコーナーにアクセスされる方々には興味をもっていただけようかと、ご紹介したいと思い立った。ところが、5月からは、羽入の応答回避という局面を迎えて、ふたたび執筆に忙殺され、先送りせざるをえなかった。しかしここにきて、「羽入事件」にたいする外在考察論考にも一区切りがついたので、シュルフター氏の快諾をえ、下記のとおり、原文に邦訳を添えてご紹介する次第である。

 ちなみに、わたしたちは、「羽入事件」「羽入書問題」につき、日本のみでなく全世界のヴェーバー研究者、広く歴史・社会科学研究者に、当該社会の一ヴェーバー研究者として責任/社会的責任を負っており、学問的・批判的な見解を表明し、少なくとも(ともに考えてもらうために)情報を提供する義務があると思う。筆者としては、日本の「中堅」や「新進気鋭」の研究者に、(留学経験の有無にかかわりなく)そうした国際責任感覚を身につけ、常日頃から、海外にある同僚との間にも交信関係/信頼関係を培っていってほしいと希望している。

1. 折原からシュルフターへ

Sehr geehrter Herr Prof. Dr. Wolfgang Schluchter,

haben Sie vielen Dank für Ihre freundliche Zusendung vom Sonderdruck Ihres Aufsatzes “Handlung, Ordnung und Kultur, Grundzüge eines weberianischen Forshcungsprogramms”, in: Das Weber-Paradigma: Studien zur Weiterentwicklung von Max Webers Forschungsprogramm. Entschuldigen Sie bitte, daß ich mich leider so verspätet habe, darauf zu antworten.

So klar und deutlich wie gewöhnlich, haben Sie das Max Webers Forschungsprogramm einer verstehenden und empirischen Soziologie gegenüber den heutigen Hauptströmungen der Wissenschaftstheorien expliziert. Zusätzlich zu den sachlichen Seiten des Weberschen Werkes, insbesondere seinen religionssoziologischen Schriften, die Sie früher behandelten, haben Sie diesmal auch die logischen und methodischen Seiten seines Werkes im Lichte der gegenwärtigen Theorien klar placiert. Zusammen mit Ihrem vorigen Buch Individualismus, Verantwortungsethik und Vielfalt, habe ich daraus sehr viel gelernt.

In bezug auf Ihre Punkte 5. Methodologischen Individualismus und 6. Mehrebenenanalyse, vielleicht aber in meiner anderen gedankengeschichtlichen Perspektive, betrachte ich das Webers Forschungsprogramm als eine Synthese der“sozialökonomischen Wissenschaft seit Marx und Roscher”(GAzWL, S. 163) mit der “exacten”oder“atomistischen”Richtung der Forschung von Carl Menger. Weber, der den Gesichtspunkt Roschers, daß die kausale Erklärung und Analyse der “organischen” Einheitlichkeit der geschichtlich-sozialen Zusammenhänge nicht nur schwieriger als diejenige natürlicher Organismen, sondern prinzipiell unmöglich wäre, als ein Dogma ablehnte (a. a. O. S. 35-6), hat den Mengerschen gegenübergestellt, “daß in Wahrheit, da wir auf dem Gebiete der Gesellschaftswissenschaften in der glücklichen Lage seien, in das Innere der 'kleinsten Teile', aus denen die Gesellschaft sich zusammensetzt und welche alle Fäden ihrer Beziehungen durchlaufen müssen, hineinzublicken, die Sache umgekehrt liege” (a. a. O. S. 35 Anm. 1; dazu auch Menger, Untersuchungen über die Methode der Socialwissenschaften, und der Politischen Oekonomie insbesondere, Leipzig, 1883, S. 157 Anm. 51). Diese Forschungsrichtung hat Weber einerseits positiv statt der emanationistischen Dogmatik übernommen, andererseits aber“die menschlichen Individuen und ihre Bestrebungen, die letzten Elementen unserer Analyse”(ebd.), die Menger etwas naiver gesetzt hatte, eben durch Uebernahme und Weiterentwicklung der Deutungstheorie handlungswissenschaftlich viel besser begreifen können. Zugleich aber hat Weber die Mengers Anwendungsbeschränkung auf die “ökonomischen” oder “rationalen” Erscheinungen gerade mittels der Totalitätsorientierung der “sozialökonomischen Wissenschaft seit Marx und Roscher” durchbrochen, so den Weg zur intersphären(zum Beispiel zwischen Religion und Wirtschaft)oder multi-dimensionalen analytischen Anwendung geöffnet. Dann ist dieser Forschungsprogramm auch denn auf den Protestantismusaufsatz angewandt, am adäquatesten aber im Aufsatz über das antike Judentum(GAzRS, III, S. 87-9)formuliert worden. Während Durkheims Theorie eben die Genese der “kollektiven Vorstellungen” als solcher nicht explizieren konnte, ist Weber mit diesem Forschungsprogramm, das demselben Gabriel Tardes näher lag, einen bedeutenden Schritt vorangetreten.

Inzwischen bin ich in eine skandalöse Debatte in Japan verwickelt worden. Ein junger Doktor versuchte, Weber als einen Betrüger zu charakterisieren, dessen “Beweise” er aus Webers einigen Bemerkungen über Luther und Franklin sammelte, und veröffentlichte ein Buch wie anscheinend einen Kriminalroman, betitelt “Max Webers Verbrechen: seine Quellenbehandlungen am Protestantismusaufsatz und die Zerstörung seiner 'intellektuellen Rechtschaffenheit'”, aus einem nicht schlechten Verlag in Kyoto. Da die Dinge so vorkamen, dass man ihm einen Preis verlieh, junge Studenten und Leseratten sich gerne damit unterhielten, konnte ich nicht anders als das Buch wissenschaftlich schwer kritisieren und zugleich die Unverantwortlichkeit der jüngeren Weberforscher, die solche Lage der kontemporären Massengesellschaft nicht beachten möchten, zur Diskussion stellen. Daher habe ich leider keine Zeit gehabt, auf Ihren würdigen wissenschaftlichen Aufsatz zu reagieren.

Mit herzlichen Grüßen

Ihr

Hiroshi Orihara

邦訳

シュルフター教授、

G・アルバート他編『ヴェーバー・パラダイム――ヴェーバーの研究プログラムを展開する諸研究』に寄稿なさったご論考「行動、秩序および文化――ヴェーバー流研究プログラムの根本特徴」の抜刷を送ってくださって、まことにありがとうございます。

遺憾なことに、お返事がこんなに遅れてしまって、申しわけありません。

いつものように明快に、マックス・ヴェーバーの経験的理解社会学の研究プログラムを、今日の科学論の主要な潮流と対比して、見事に解明されましたね。ヴェーバーの労作のザッハリヒな側面、とくに宗教社会学的な諸著作については、以前に取り扱われたわけですが、今回はそれに加えて、その論理的、方法的側面も、現在の科学論に照らして明晰に位置づけられたことになります。このまえのご高著『個人主義、責任倫理および多面性』ともども、大いに学ばせていただきました。

そのうち、第五点の「方法論的個人主義」と第六点「多面的分析」につきましては、おそらくは別の思想史的パースペクティーフで見るからでしょうか、わたしはヴェーバーの研究プログラムを、「マルクスとロッシャー以降の経済科学」(「客観性論文」、『学問論集』163ぺージ)と、カール・メンガーの「精密的」ないし「原子論的」研究方針との、ひとつの総合と考えています。ヴェーバーは、「歴史的-社会的諸連関の『有機的』統一態を分析し、因果的に説明することは、自然の有機体の分析/因果的説明に比して困難であるばかりか、原理的に不可能である」というロッシャーの観点をドグマとしてしりぞけ(『同』35-6ぺージ)、「じつはわれわれは、社会科学の領域では、社会が構成され、社会的諸関係の糸が必ず通り抜けなければならない『最小部分』について、その内部を覗き込める、という恵まれた状態にあるので、事態はまったく逆である」(『同』35ぺージ、注1、加えては、メンガー『社会科学とくに政治経済学の方法にかんする研究』、1883、ライプツィヒ、157ぺージ、注51、参照)というメンガーの観点を、それに対置しています。ヴェーバーは、このメンガーの研究方向を、一方では肯定的に、ロッシャーの流出論的ドグマに代えて採用し、他方では、メンガーがやや素朴に措定していた「われわれの分析にとって究極の要素をなす人間諸個人とその努力」(『同上』)を、まさに解明理論を引き継ぎ、展開することによって、行動科学(行為論)的にはるかによく把握することができました。と同時にヴェーバーは、「精密的」ないし「原子論的」な説明方針の適用が、メンガーにあっては「経済的」ないし「合理的」な諸現象に制限されていたのにたいして、「マルクスおよびロッシャー以降の経済科学」の「総体への志向」に依拠してその適用制限を破砕し、「間領域的」(たとえば宗教と経済)ないし多次元的な分析への適用の道を開きました。その後、この研究プログラムは、プロテスタンティズム論文にもやはり確かに適用されましたが、もっとも十全な形では、古代ユダヤ教にかんする論文(『宗教社会学論集』第三巻、87-9ぺージ)に定式化されます。デュルケームの理論では、「集団表象」そのもののほかならぬ発生が解明できませんが、ヴェーバーは、むしろガブリエル・タルドに近いこの研究プログラムによって、デュルケームを越える重要な一歩を踏み出したと思います。

この間、わたしは日本で、あるスキャンダルめいた論争に巻き込まれていました。ある若い博士が、ヴェーバーを詐欺師として特徴づけようと企て、ルターとフランクリンにかんするヴェーバーの論述から「証拠」を集め、『マックス・ヴェーバーの犯罪――プロテスタンティズム論文における資料操作と「知的誠実性」の崩壊』と題する、一見推理小説風の本に仕立てて、京都のそう悪くはない出版社から刊行したのです。この本がある賞を受け、若い学生や読者が面白がって読むような状況にもなってきましたので、わたしは、その本を学問的に厳しく批判し、同時に、現代大衆社会のそうした状況を顧みようとしない、後進のヴェーバー研究者にたいしても、責任を問わざるをえませんでした。そのために、あなたの学問上価値のある論文にも応答している暇がなかったという次第で、申しわけありませんでした。

敬具

折原 浩 拝

2. シュルフターから折原へ

Sehr geehrter Herr Orihara,

herzlichen Dank für Ihr kommentierendes Schreiben. Mit Ihrer Interpretation der Punkte 5 und 6 bin ich durchaus einverstanden. Ich bin gerade dabei, einen Aufsatz über die protestantische Ethik abzuschließen, in dem ich in ähnlicher Weise argumentiere, wie Sie es tun. Sobald ich damit fertig bin, werde ich Ihnen den Text zukommen lassen. Ich bin auf Ihre Reaktion gespannt.

Es tut mir Leid, dass Sie sich mit solchen schiefen Sachen auseinander setzen müssen, wie sie offensichtlich in dem Buch des jungen Wissenschaftlers stecken. Aber seriöse Arbeit ist schwierig und zeitraubend. Da sucht mancher eben lieber den Weg zur Show. Aber, wie Weber schon sagte: "Wer Show will, geht ins Lichtspiel". Leider haben wir inzwischen solche Leute auch in der Wissenschaft.

Mit herzlichen Grüßen

Ihr

Wolfgang Schluchter

邦訳

折原さん、

論評をメールで送ってくださって、心よりお礼申します。第五点および第六点にかんするあなたの解釈には、まったく賛成です。わたしは、いまちょうどプロテスタンティズムの倫理にかんする論文を脱稿しようとしていますが、そこでわたしは、あなたがなさっているのとよく似た仕方で、論証を繰り広げています。脱稿したらすぐにお送りします。あなたがどんな応答をなさるか、楽しみです。

あなたが、その若い学者の本に明らかに看取される、よからぬ事柄と対決しなければならなかったとは、お気の毒なことです。とはいえ、真面目な研究は、困難で時間を食います。ですから、ショーの道を行きたがる人も多いのでしょう。しかし、ヴェーバーも語っていたとおり、「ショーを欲する者は、映画館にいくがよい」のです。遺憾ながら、そういう人々に、この学問の領域でも出くわすようになった、ということでしょうか。

敬具

ヴォルフガンク・シュルフター 拝


雀部幸隆「学者の良心と学問の作法について: 語るに落ちる羽入の応答――『Voice 5』誌上羽入-谷沢対談によせて――」

『図書新聞』2004年6月5日掲載稿(掲載承諾有)

学者の良心と学問の作法について

語るに落ちる羽入の応答

――『Voice 5』誌上羽入-谷沢対談によせて――

雀部幸隆

『図書新聞』2004年6月5日掲載稿(掲載承諾有)

 羽入辰郎が本年5月の『Voice 5』(PHP研究所記)で一連の自著批判に対してようやく反応を示した。ただし単独にではなく谷沢永一との対談の形式を借りてである。だが、この反応はおよそまともな学問的応答とよべるものではなく、ただ相手に罵詈雑言を浴びせるだけの応酬にすぎない。

羽入が2002年9月にミネルヴァ書房から出した『マックス・ヴェーバーの犯罪——『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(以下羽入書)なる耳目聳動的著作に対しては、折原浩が「四疑似問題でひとり相撲」(東京大学経済学会編『季刊経済学論集』第69卷第1号、2003年4月)を皮切りに、『ヴェーバー学のすすめ』(未来社、2003年11月)、「歴史における学者の品位と責任——「歴史における個人の役割再考」」(『未来』2004年1月号)、「ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理」論文の全論証構造」(『未来』2004年3月号)と立て続けに論著を公刊し、詳細かつ徹底的な反論を加えるとともに、さらに一歩を進め、「倫理」論文をいかに読むべきかに関する国際的にも刮目すべき新知見を披瀝した(なお「倫理」論文とはいうまでもなくマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を指す。)

 また橋本努はやはり『未来』2004年1月号に「ウェーバーは罪を犯したのか——羽入-折原論争の第一ラウンドを読む」を寄稿し、折原の『ヴェーバー学のすすめ』時点までの羽入-折原論争の整理を行うとともに、北海道大学経済学部の橋本ホームページに「羽入-折原論争の展開」という特別コーナーを設け、羽入をも含む全国のウェーバー研究者に論争参加を呼び掛けた。このコーナーにはこれまでのところ羽入を基本的に擁護する寄稿はなく、森川剛光(3点)、横田理博、宇都宮京子(2点)など気鋭の研究者たちによる鋭く厳しい羽入書批判が掲載されている。むろん折原も同コーナーに積極的に寄稿し、論争の当事者として各論者の所説に対する懇切詳細な応答を行い、そのなかで羽入に対する批判とみずからの積極的なウェーバー理解とをさらに深めている。

 筆者もまた、羽入書が第一二回「山本七平賞」を受賞したさい(その事実ならびに選考委員会各委員の選評および羽入本人の「受賞の言葉」は本年1月の『Voice1』に公表された)、『図書新聞』2004年2月21日号および28日号に「学者の良心と学問の作法について——羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』の山本七平賞受賞に想う」(上下)を発表し、そのタイトルの甚だしい不穏当性と選者たちの不見識、そしてとりわけ「受賞の言葉」に見られる羽入本人の無恥厚顔ぶりを批判し、折原の批判に対して羽入が誠実に答える責務のあることを強調しておいた。

 こうして折原の精力的作業をはじめとする全一連の羽入書批判が登場し、羽入がその気になりさえすれば、公正で生産的な議論を成り立たせることのできる学問的論争のアリーナが整えられたのであるが、折原の最初の羽入書批判(上記『経済学論集所収論文』)以後すでに一年以上経過しても羽入の論争参加はなく、その応答が今や遅しと待たれていた。

 その折も折、羽入はようやく口を開いたのである。ただし、その場は『Voice 5』であり、また谷沢永一との対談の形式を借りるものである。しかも題していわく。「マックス・ヴェーバーは国宝か――『知の巨人』の研究で糊口をしのぐ営業学者に物申す」(同誌198−207頁)。

 いかにもセンセーションをねらう仰々しいタイトルではある。だが、このタイトルを見て、多少とも事情に通じた者なら誰しも思うことだろう。はて、一体、だれが、いつ、どこで、ウェーバーを「国宝」扱いにしたか、誇大デマ広告で半可通の好奇心を煽るのもいい加減にしてもらいたい、と。

 「営業学者」云々にいたっては、ウェーバー研究者に対する言うに事欠いた罵詈雑言であり、言及にも値しない。しかし、もし仮にウェーバー研究者が「『知の巨人』の研究で糊口をしのぐ営業学者」だとされなければならないとすれば、その悪口雑言はまっさきに羽入本人に跳ね返るはずである。なぜなら、羽入は埼玉大学教養学部卒業(1975年)以来、途中東京大学教養学部入学(卒業は1989年)、同大学院人文科学研究科倫理学専攻進学(博士課程を終えたのは1995年)を経て、実に30年近くものあいだ、ウェーバーの「倫理」論文における「資料操作の詐術」と本人の思い込むことだけにかかわりあい、その甲斐あってようやく今の職に就くことができたからである(1999年青森県立保健大学教授就任)。つまり羽入は「知の巨人」を研究する——その巨人を引き倒すためであれ何であれ——「営業学者」を地で行き、そのお陰で「糊口をしのぐ」ことができるようになったのである。<天に唾する>とはこのことである(以上の年譜は前掲『Voice 1』201頁所載の羽入の「プロフィール」による)。

 さて、こうして待望久しい羽入の反応は、対談のタイトルを一瞥しただけでもまともな人間の読む気を殺ぐものだが、その内容はさらに、<語るに落ちる>の一語に尽きる

 羽入の主張を一言でいえば、折原は自分に答えよとしつこく迫っているけれども、その批判は「営業学者」の「ヒステリック」な「罵詈雑言」にすぎず、したがって自分はそんなものに答える必要はない、というものである(『Voice 5』201頁。折原だけが羽入書を批判しているわけではないのだが、そのことは措く)。

 羽入の言いたいことはこれだけである。あとは愚にもつかないおしゃべりにすぎない。だが、羽入はそれだけのことを自分一人で言う勇気がなく、わざわざ保守派論客として自他共に許す谷沢永一のお出ましを願い、<そうだそうだ>と相槌を打ってもらって、みずからの<応答拒否>のお墨付きを貰おうという肚づもりなのである。なぜ谷沢の相槌が<応答拒否>の御墨付きになると羽入は考えるのか。それは当方の関知したことではない。

 当の谷沢は、ひょっとすると、「第一二回山本七平賞」選考会はとんだ際物をつかんだものだ、自分の頭の上の蠅を自分で追い払うこともできない輩は所詮物の役には立たぬと内心想ったのかもしれないが、しかし同じ保守系論壇の賞のことではあり、それにクレームを付けるのも得策ではないと判断したのであろう、結論的には、まあ世間の論評などいちいち気にせず自分の仕事をしなさい、これからあなたが何をするかが肝心なのであって、批判に対する応答はその中ですればよい、と慰めてか、励ましてか、羽入の思惑に一応沿う発言をしている(同上)。ただし、谷沢は随所で羽入をたしなめており(ここでもすでに<たしなめ>が入っている)、それはそれで興味深いところもあるのだが、本筋から外れるので、ここには立ち入らない。

 ところで羽入は、かつて山本七平賞受賞の時点では、すでに公表されていた折原の批判を意識して(その時点で彼はすくなくとも上記東京大学『季刊 経済学論集』誌上の折原論文を読んでいたはずである)、「受賞の言葉」で殊勝らしく、(キリスト教史や聖書史等の)「専門の研究者の方々にお願いして、私のいままでの論証がほんとうに正しかったのか否か、もう一度厳密に確かめるための研究会を始めています」と述べていた(『Voice 1』201頁)。人を詐欺師だの犯罪者だのと決めつけておいて、いまさらその「論証」が正しかったか否か「厳密に確かめる」も何もないものだし、それに、そんな検証は折原の批判に真っ当に答えるゆえんではないのだが(『図書新聞』2004年2月28日号所載の拙稿末尾を参照)、それでも羽入は、一応主観的には、なにがしかの自己検証作業の必要を認めてはいた。しかし今回羽入は、その検証作業のその後については全く口をつぐんだまま、折原の批判には一切答えない、と開き直ることにしたのである。

 その理由は、先にも見たように、折原の批判が「「知の巨人」の研究で糊口をしのぐ営業学者」の「ヒステリック」な「罵詈雑言」にすぎないからだというのだが、しかし、折原の一連の批判をまともに読んだ者なら、誰もそれを「ヒステリック」な「罵詈雑言」だとは思わないし、ほかならぬ羽入自身内心そんなふうに考えているはずがないから(もし本気でそう考えているようなら、彼は度しがたい愚物である)、折原の「罵詈雑言」云々という羽入のそれ自体「罵詈雑言」としか言いようのない物言いは、<折原さん、あなたのおっしゃることには、私は反論することができません>と白旗を掲げるに等しいものである。つまり、羽入の「罵詈雑言」は<参りました>を意味する特殊<羽入語>にほかならない。

 これでこの「論争」はひとまず決着が付いたのだが、羽入はこのあとどうするつもりなのであろうか。彼は、国内のまともな言論空間では思惑通りの市場開拓ができないので、その人騒がせな代物(羽入書)を海外輸出したいと考えているようである。

 もともと彼は自著の山本七平賞受賞にさいしてその英訳を考慮中と述べていた(『Voice 1』前掲)。だが、その前に、彼は自著のドイツ語版を出そうと企て、「ドイツの出版社10社ぐらい」に出版方を打診したところ、「いずれも丁重なお断りの言葉」を受けたという。「丁重」かどうかは知らないが、その拒絶の理由として彼の臆測するところがふるっている。その理由は、自分の本が「ドイツではすでに知られていて、『禁書』扱いになっている」からなのだそうである(『Voice 5』201頁以下)。「『禁書』扱いになっている」とはまたよくも言ったものだが、ドイツでは、<マックス・ウェーバーの犯罪? 悪い冗談だろう>というわけで、どの出版社にも相手にされなかっただけの話であろう。

そこで羽入はいよいよ羽入書の英訳刊行に漕ぎ着けたいと考えているのだが(同201頁)、英語圏でもとくに1980年代以降、かつての「パーソンズ・ウェーバー」とは面目を一新したウェーバー研究が本格的に始まり、その一端は、わが国でもよく知られているアンソニー・ギデンスやロバート・イーデン、デヴィッド・ビーサム、サム・フィムスター、ブライアン・S・ターナー、ステファン・コールバーグなどの諸研究、またRoutledge社から二度にわたって出版されたウェーバーに対するクリティカル・アセスメントやクリティカル・レスポンスの集成(Peter Hamilton(ed.), Max Weber : Critical Assessments 1,4 Vols. & Max Weber : Critical Assessments 2, 4 Vols.,1991,Bryan S. Turner(ed.), Max Weber : Critical Responses, 3 Vols.1999)などに窺えよう。英語圏におけるこのようなウェーバー研究の進展に照らして考えるなら、日本で厳しい学問的批判にさらされながら、それに対する何の学問的応答もなし得ぬまま、自著の英訳刊行を果たそうとする羽入のもくろみは、真っ当な形では、そう簡単にかなえられないだろう。

 それゆえ、羽入が今後とも学問の世界で生きて行こうと思うのなら、まずもって彼のなすべきことは依然としてただ一つ、自著に対する折原たちの批判に廉直に(知的誠実!)応えることである。


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(1-1)」

2004年7月27日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(1-1)

折原 浩


2004年7月27日

はじめに

 前稿「マックス・ヴェーバーのBeruf論――ルターによる語義創始とその波及」および前々稿「マックス・ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム」(ともに本コーナーに掲載)では、「倫理」論文の第一章「問題提起」第二節「資本主義の『精神』」冒頭(第1~11段落)に見られるフランクリン論と、同じく第一章第三節「ルターの職業観」劈頭(第1段落とそこに付された三注)で展開されているBeruf論とに的を絞って、原著者ヴェーバーの論旨を、一方では「倫理」論文全体のなかでそれぞれが占めている位置価、他方では細部にも貫徹されている歴史・社会科学方法論との関連、を見失わないように、検討し、解説した[1]

 この二稿は元来、拙稿「虚説捏造と検証回避は考古学界だけか――『藤村事件』と『羽入事件』にかんする状況論的、半ば知識社会学的な一問題提起」(「その1」と「その2」に分けて本コーナーに連載)の一部に編入される予定であった。ところが、両稿は、それ自体としては上記二論題にかかわるヴェーバー・テクストの内在的解釈の域を越えないにもかかわらず、「虚説捏造」稿全体の平衡を失するほどに膨れ上がり、知識社会学的外在考察に転じた趣旨を損ねかねないとも危惧された。そこで、当該部分の草稿を元の位置から抜き出し、独立の二論文に仕立て、本稿の前段として、本稿のまえに発表した次第である。

 筆者は、「虚説捏造」稿で、ほぼ同時期に起きた「藤村事件」と「羽入事件」とを類例として対比し、両事件に共通の本質を、両当事者が「学問上疑わしい手段」で耳目聳動的に「定説/定評」を覆し、一躍脚光を浴びて「学界の寵児」にのし上がろうとした「刷新innovation」(R・K・マートン)類型の逸脱行動として捉えた。現代大衆教育社会では、受験体制の爛熟、大学教養課程の形骸化・空洞化、大学院の粗製濫造、研究職/専門職市場における競争の激化といった諸契機の布置連関から、逸脱行動一般の駆動因ともなる「ルサンチマン」[2]と「過補償over-compensation」動機[3]が、年々構造的に生産/再生産され、高学歴階層に、そうした動機の「集積槽」、「自分の真価が世に認められないと感じて『逆恨み』を抱く知識人les incompris intellectuells」の「供給源」が形成されている。したがって、そうした構造連関と動因が直視され、制御され、(あるいはせめて逸脱行動への軌道が)転轍されないかぎり、個別「羽入事件」そのものは羽入の白旗(論争回避)で一件落着するとしても、この事件の類例は、人を変え、所を変え、形を変えて、いつなんどき再発するともかぎらないであろう。そういうわけで、「虚説捏造」稿における理解/知識社会学的外在考察からも、「大学院教育の実態と責任」が、現代教育学ないし教育社会学にとって喫緊の課題として、それにもかかわらず未着手/未開拓の問題領域として、浮かび上がってくる。

 ところで、筆者は、以上のように要約される行論の途上で、つぎの点を指摘し、強調した。すなわち、同じく「刷新」類型の逸脱行動における「学問上疑わしい手段」といっても、藤村と羽入とでは、採用された手段そのものの疑わしさの質は、明白に異なっている。藤村が、偽遺物を直接遺跡に持ち込み、自分の行為を「捏造」と自覚して他人に隠していたのにたいして、羽入は、自分の行為を「捏造」とは思わず、むしろ「世界初の発見」と称して公然と承認を求めている。しかし、羽入は(羽入書の主張を、類例との対比のため「遺跡発掘における新発見」になぞらえれば)、意図してではなくとも、ⓐ「遺構」(かれのばあい「倫理」論文のみ)の特定部位(フランクリン論とBeruf論)から拾い出したいくつかの「遺物」(フランクリン論とBeruf論とを構成するいくつかの論点ないし語/語群)を、ⓑ遺構そのものにおける遺物群の配置構成とは異なる(羽入が外から持ち込んで「犯行現場」に見立てた)「配置構成図」に移し入れ並べ変え、ⓒ当該遺物が本来の遺構内部で持っていたのとは異なる意味」(「杜撰」「詐術」「詐欺」の証拠)変換」している。藤村のように、個々の偽遺物を直接持ち込むのではなく、遺物そのものは遺構の特定部位から抜き出してくるとしても、遺構とは異なる配置構成図のなかに取り込む[4]ことで、遺物の意味変換を引き起こし、「ヴェーバー詐欺師説」を捏造しているのである。

 そこでまず、羽入が遺物を取り出す遺構の部位(フランクリン論とBeruf論)に本来そなわっていた遺物群の配置構成を、「倫理」遺構そのものに即して再構成し(前二稿)、そのうえで、羽入がⓐそのなかからいかなる遺物を取り出し、ⓑいかなる配置構成図に移し入れ、ⓒいかなる意味変換を生じさせているか、――そうした意味変換操作を、始点から終点まで、かれの叙述に内在して跡づけなければならない(本稿)。そうして初めて、羽入辰郎の「ヴェーバー詐欺師説」が、そうした意味変換操作による虚説捏造の産物であると、疑いの余地なく立証されよう。


§1「唯『ベン・シラの知恵』回路説」による意味変換と杜撰な解釈とにもとづく「ヴェーバー『杜撰』説」の捏造

 羽入は、「第一章 “calling” 概念をめぐる資料操作――英訳聖書を見ていたのか」で、「倫理」論文第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」の一カ所(本文第1段落に付された注3末尾の第[6]段落、「遺構」の特定部位)から、ⓐ16世紀のイングランドにおける英訳諸聖書の訳語にかんする叙述(原文で16行約150字)(「遺物」)を引用し(羽入書、21ぺージ)[5]、ⓑ「唯『ベン・シラの知恵(以下『シラ』)』回路説」とも名づけられるべき羽入のパースペクティーフ(「配置構成図」)に移し入れ、ⓒヴェーバーが英訳諸聖書を手にとって調べず(とりわけ、この「唯『シラ』回路説」からすれば真っ先に当たるべる『シラ』の訳語に当たらず)、OEDに頼り、そのうえOED記載事項の引用も誤っていると称し、要するに学者にあるまじき「杜撰」な資料「操作」の「証拠」に「意味変換」して、著者ヴェーバーを断罪している。そこでまず、羽入が論難の的としている当該第[6]段落の位置価(「倫理」遺構全体のなかで占める位置と意義)を再確認することから始めて、羽入による断罪の妥当性を逐一検証していこう。

1.「合理的禁欲」の歴史的生成と帰結――「倫理」論文の主題

 「倫理」論文全体の主題は、当然、本論(第二章「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」)で取り上げられている。内容を要約すれば[6]、①カルヴィニズムを初めとする「禁欲的プロテスタンティズム」の大衆宗教性における「合理的禁欲」動機の歴史的生成(第一節「世俗内禁欲の宗教的基盤」)と、②そうした宗教的禁欲の(修道院でなく)世俗内職業における実践が、富(業績)を生み出すことによって他ならぬ「富の世俗化作用」(ヴェーバー)ないしは「原罪」(マルクス)に屈し、(宗教性としては)みずから墓穴を掘り、「近代市民的職業エートス」(ないしは、経済という一特定領域への発現形態・一分肢としての「近代資本主義の精神」)に転態をとげ、さらには「純然たる功利主義」に解体して、「末人」(ニーチェ)ないしは「大衆人」(オルテガ・イ・ガセ)流の「生き方Lebensführung」にいたりつく「逆説的」経緯(第二節「禁欲と資本主義精神」)が、後に「理解社会学」と命名される「意味」解明の方法を駆使し、「意味変遷(精神史)の理念型スケール」を構成して、一望のもとに把握され、描き出されている。

 「倫理」論文以降における学問/思想展開を見通していえば、そうした「意味変遷の理念型スケール」を構成して初めて、一方ではそれを、西洋近代以外の諸文化圏における文化発展という(対照項としての)類例と比較し、西洋文化とりわけ西洋近代文化の特性を把握し、因果帰属して、みずからが現に立っている文化史的境位の学問的自覚[7]に到達することができる。他方では、そうした「普遍史(世界史)Universalgeschichte」的パースペクティーフを確保したうえで、さればこそひとつの文化圏に相対化される西洋近世以降の文化発展にふたたび立ち帰り、これをこんどはむしろ時間的空間的に細分し、改めて歴史研究の対象に据え、「意味変遷の理念型スケール」を適用/展開し、「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」(『経済と社会』)に集大成された「類型的/法則論的知識」を効率よく援用しながら、(第一次世界大戦敗戦後の祖国ドイツに足場を定め、アングロ・サクソンとロシアという二大「文明」の狭間に立って、双方に文化史的精神史的に対峙対抗しつつ、「末人」「大衆人」流「生き方」の跋扈/跳梁を克服する方途を探っていくこともできよう。

2.救済追求軌道の世俗内転轍と伝統主義――ルター宗教改革の意義と「限界」

では、「倫理」論文本論の主題にたいして、前段をなす第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」は、なにを論じ、どんな位置を占めるのであろうか。そこではまず、①ルターによる宗教改革の画期的意義が、明らかにされる。すなわち、ルターは、「命令」と「勧告」との二重規準により、「命令」しか守れない「(在俗平信徒)大衆」と、「勧告」にもしたがう「達人(修道士)」とを分け隔てる、中世カトリックの「世界像」と教会身分構造を、「ひたすら信仰によってsola fide」の根本的立場から否認/否定した。社会学的に見れば、修道院行きの「軌道」に乗って世俗内からは逃避/消散していた宗教的能動層の「観念的利害関心」を、「世俗内」にとどまって(聖職者や修道士に優るとも劣らない)日常道徳/職業道徳を遵守する「軌道」に向け換え、以後その実践的活力が、ともかくも世俗内で発揮される初期条件をととのえたのである。ところが、②ルターのばあい、そうして「転轍」された「世俗内」救済追求の「軌道」のうえで「いかに生きるべきか」という肝要な点にかけては、かえって(とはいえ、宗教性に徹するがゆえに、ともいえる)「伝統主義」への傾きが見られ、これが1524/25年農民騒擾への対応以降、年とともに顕著に現われてきた。すなわちルターは、伝統的な社会秩序のもとで、各人がそれぞれ社会的な「身分」や「職業」に編入されることそのことをも「神の摂理」とみなし、自分が編入された職業に「堅くとどまり」、そのなかにあって「神に服従すべし」と説いた。伝統的な社会秩序とその「下位単位 subdivision」(「身分」ばかりか「職業」さえも)が、「神の摂理」として聖化され、したがって当然、各人の職業活動も伝統の枠をこえてはならないとされた[8]

 前稿で論証したとおり、ルターは、そうした「摂理観の個別精緻化」と「伝統の神聖視」とにますます傾くなかで、(フリーハンドで「わざの巧みさ」を賞揚して「わざ誇りWerkheiligkeit」を触発しやすい)『箴言』22: 29の「わざmelā’khā」 には、(原語としてはBerufを当てやすい語であったにもかかわらず、じっさいには)Beruf を当てず、あっさりGeschäftで通した。それにひきかえ、(伝統主義的/反貨殖主義的な「神への信頼」を説く)『シラ』11: 20, 21では、原語としてはもっぱら世俗的な「仕事work」を意味するergonばかりか、かえって「神の懲罰」としての「苦役toil」という意味合いさえ帯びるponosにまで、あえてBerufを当てた。まさに翻訳者としての意訳、「伝統主義」的精神の表明として、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語Berufを鮮やかに創始したのである。

ただ、ルターに見られるこうした②「限界」の確定は、ルターの宗教性そのものにたいする本質的批判と混同されてはならない。「倫理」論文に固有の問題設定――すなわち、(ヴェーバー自身も含めて現代人が囚われてはいるが、その意味も来歴も曖昧になってしまっている)「職業義務観」を核心にもつ「(価値)合理的な生き方」「近代市民的職業エートス」について、その歴史的始源を突き止め、変遷の跡をたどり、明晰な自覚にまでもたらそうという「倫理」論文全体の目的ないしは問題設定――からすれば、そのかぎりで、そうした「生き方」の直接の(あるいは至近の)始源と見られるのは、ルター/ルター派ではなく、「禁欲的プロテスタンティズム」の「世俗内禁欲」であり、それにたいしてルター的宗教性(そのものというよりも、そ)の外的社会的作用には、「禁欲」ではなく「伝統主義」に傾く(「禁欲」から見れば「逸れる」)歴史的文化意義「限界」が認められる、というにすぎない[9]。そうした特定の「限界」確認から、「では、ルターによって『世俗内』に向けて『転轍』された救済追求の『軌道』を引き継ぎそのうえで『禁欲』の動機をつけ加え、『世俗内禁欲』に『転轍』したのは、いついかなる宗派か」という問題が設定され、本論(第二章)に引き渡されて、(カルヴィニズムをもっとも首尾一貫した類型とする)「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」が問われることになる。それゆえに、ここにいたる第一章全体に「問題das Problem」(梶山訳/安藤編では趣旨を汲んで「問題の提起」)という章題が付されているのである。したがって、第一章第三節「ルターの職業観」の全体を取り出すとしても、そこにおける大意上述の議論は、こと「倫理」論文にかんするかぎり[10]、「全論証構造」の「要」でも「中心」でもなく、主題を扱う本論に入るまえの、(重要ではあっても[11]ひとつの与件にかんする予備討論にすぎない。

 およそ研究者は、ある文献を学問的に読解しようとするばあい、原著者自身による重点の限定的配分、叙述各部位の軽重の度合い、これにもとづく章節の配列/構成を、テクストそのものに就き対象に即して読み取らなければならない。そうする労を厭い、原著者自身のパースペクティーフを無視して、自分のパースペクティーフを持ち込み、押しかぶせて、「要」や「中心」を勝手に創り出してはならない。そういう安易な独善的捏造を「脱構築」などと称して正当化してはならない。そうした恣意的操作を戒め、あくまでも対象に就こうとするSachlichkeitの精神を涵養することこそ、大学/大学院における学問的訓練の基本的課題でなくして、なんであろう。

3.なぜ真っ先にBeruf論か――トポスに発する対話としてのヴェーバー叙述

 さて、以上の位置価をそなえた「ルターの職業観」節の劈頭第1段では、前稿で解説したとおり、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語(ドイツ語ではBeruf)が、近世以降プロテスタントの優勢な民族の言語にかぎって見られ、その始源を尋ねると、聖書の翻訳に、しかも翻訳者のひとりルターが『シラ』11: 20, 21のergonとponosをBerufと意訳した時点に遡る(らしい)との趣旨が述べられ、そこに付された注で、当の意訳の経緯が詳細に跡づけられている。

 とはいえ、このように真っ先に語Berufを取り上げ、語義の由来を論ずるからといって、当の論点が、「倫理」論文全体はもとより、第一章第三節「ルターの職業観」にかぎっても、最重要な「中心的論点」をなしているというわけではない。一般論としても、ある論文の「中心的論点」を提示するのに、手順を踏んで一歩一歩核心に迫っていくのではなく、冒頭でいきなり持ち出すというのは、少なくとも制御された論証を旨とする学術論文としては、稚拙というべきであろう。いずれにせよ、「倫理」論文では、著者ヴェーバーは、第一章「問題提起」の三節いずれにおいても、読者に馴染み深い知見を「トポス」(共通の場)として冒頭に据え、そこを出発点に、読者と対話を重ねながら、一歩一歩深奥部へと探究を進め、それと同時に、読者に「熟知」されたことがらを歴史・社会科学的な「認識」にまでもたらそうとしている。この第三節でも、現代日常語Berufの語義論が、著者のそうした叙述目的と構成手法にとって「トポス」として格好であるがゆえに、真っ先に取り上げられている。それも、Berufの語義が、ルターによる救済追求軌道の世俗内転轍という画期的「意義」と、伝統主義への傾斜という「限界」とをふたつながら象徴する事実とあってみれば、そうした「意義」、「限界」への導入部として最適な「トポス」が選定されているといえよう。

4.トポスから奥へは入れない――「倫理」しかもBeruf論抜き出しの「根拠」

 ところが、羽入は、「第一章“calling”概念をめぐる資料操作」で、この第一章第三節冒頭の第1段を(後述のとおり、他の三章における三箇所のばあいと同じく)「倫理論文全体における位置価を見定めることなくいきなり抜き出している。

 羽入書全体の眼目は、「ヴェーバーは詐欺師である」との全称判断をくだして「ヴェーバー詐欺師説」を立証することにあろう。とすれば、そうした判断を十全にくだすためには、本来、ヴェーバーの著作から証拠を集めなければならない。そうすることができずに、全著作から特定の数著作、それもできなくて著作を抜き出すとすれば、そのばあいにはせめて、当の一著作(羽入のばあい「倫理」論文)が、全著作のなかでいかなる位置を占め、そこにおける杜撰、詐術、詐欺が(かりにあったとして)いかに致命的か、著者を全面的に詐欺師と推認するに足るものかどうか、を論証しなければならない。

 ところが、羽入は、「倫理」論文そのものを抜き出す理由も、論じていない。この点について羽入書を隈なく調べてみても、「倫理」論文が「最も有名な」「代表作」(1、265)であるという世評におもねたナイーヴな断定以外、なんの根拠づけも見当たらない。そのうえで、当の「倫理」論文から、ここで第一章第三節第1段のBeruf論を抜き出すにあたっても、「『倫理』論文前半部中心的論点をなすと言ってもよい、余りにも有名な部分である」(23)と述べるのみである。羽入は、あたかもそれだけで、この箇所に的を絞ることの根拠づけが済んだかのように、あっさりとつぎの論点に移ってしまっている。

 このように概念規定を欠く甘い陳述」にたいしては、大学/大学院における研究指導において、たとえば卒業-/修士-/博士論文構想発表ゼミや論文審査における口頭試問などの機会に、①「前半部」というが、いかなる規準によって、どこで「前半部」と「後半部」とを分けるのか、それぞれの「主題」ないし主要「論点」はなにか、双方の「主題」ないし「論点」がどういう「関係」にあるのか、②「中心的論点」というが、どういう意味で「中心的」なのか、③「あまりにも有名な」というが、なぜ「有名な」のか、かりにじじつ「有名」とは認められるにしても、そういう世評を既成事実として無批判に受け入れその前提に乗って立論することが、学問として許されるのか、といった当然の質問が、「議論仲間」としての学生/院生から、あるいは「指導教官」から、つぎつぎに浴びせられるであろう。そのようにして、論文執筆者がどの程度、自分が題材として取り上げている文献を読みこなしているか、それについて透徹した理解と独自の見解の形成にまでいたっているか、がたえず試されるであろうし、試されなければならない。学生/院生の論文執筆者自身も、そうした経験を積むなかで、当然、同じような質問/あるいはもっと厳しい質問を予想し、問われるまえに、自分のほうから先手を打って、ありうべき質問への回答を概念的に詰めて示し、ゆめゆめ「甘い陳述」は「人目にさらすまい」と心がけ、こと学問にかんするかぎりは慎重にも慎重を期し、やがてはそれが「習い性となって」、整然とした論文も書けるようになろう。ちなみに、ある学生/院生にどの程度研究者としての素質がそなわっているか、の目安として、①殊更「手取り足取り」指導しなくとも、自分だけで、あるいは「議論仲間」との討論だけで、ことを運び、整然たる論文を完成してしまう人、②一度指摘すれば、自分のほうから同種の質問を予想し、致命的な瑕疵や欠落はない論文を仕上げられる人、③思い込みが激しく、なんど注意しても「隙だらけ」の叙述を改めようとせず、改められない人、という規準を立てることができよう。羽入書の著者は、自著の主眼にとって決定的な箇所で、上記のような「甘い陳述」を「人目にさらし」て恥じないところから見ても、明らかに③の部類に属する[12]

ヴェーバーのばあい、いうなれば「倫理」論文が、かれの著作全体への「トポス」なのである。フランクリン論はその第一章第二節の、Beruf論はその第一章第三節の「トポス」にほかならない。つまり、原著者が、読者との接点として、意図して分かりやすく興味をそそるように書いている部位である。しかし、それはひっきょう、議論の深奥への導入部、いわば「序の口」にすぎない。思うに、そうした「トポス」の(また)「トポス」にとりついただけで、著者との対話を根気よく深奥部にまでつづけていこうとしない人/つづけられない人/(なお困ったことに)つづけられる人にたいして「ルサンチマン」を抱き、「逆恨み」する人が、それにもかかわらず、あるいはまさにそれゆえに、「ヴェーバー通」を装い(12、参照)、ヴェーバーを「詐欺師」に仕立てて引き倒し、「溜飲を下げ」「恨みを晴らそう」と企てれば、そういう人にも分かるかぎりの「トポス」「序の口」を「中心的論点」と強弁し、同じ理由で「トポス」を「中心的論点」と錯視しがちな[13]世評を味方につけ、概念的に詰めた根拠づけの欠落は恣意的断定の反復と罵詈雑言で糊塗し、あわせて耳目聳動と世評受けを狙ってしゃにむに奮闘するよりほかには、なすすべがないであろう。そういう人には、対象に即して「全論証構造」を再構成し、個々の論点の位置価を見定めて論証することなど、もともと無理であろうし、おそらくは関心事でもないであろう。

5.「言語創造的影響」の歴史的・社会的被制約性――Beruf論のコンテクストと英訳論及の位置価

 さて、羽入はつぎに、当の第1段に付された注3全六段の叙述から、末尾第[6]段落の大半を占める(というのは、冒頭の導入句、ドイツにおけるルター以降の帰趨に触れたふたつの文章、および末尾に付加されたL・ブレンターノへの応酬を除き)16世紀イングランドにおける聖書英訳とBeruf相当語普及の経緯にかんする叙述を、これまたいきなり、つまりこの注3全体のコンテクストとそのなかにおける第段落の位置価を無視して、抜き出している。

 前稿で詳論したとおり、この注3は、[1]ルター以前の用語法、[2]ルターにおけるBerufの用法二種、[3]ルターにおける『シラ』11: 20, 21の用語法、[4]ルターにおける『コリントⅠ』7: 17-31の用語法、[5]ルターにおける『シラ』11: 20, 21へのBerufの適用経緯、[6]ルター以後16世紀におけるBeruf 相当語の波及、とも題されるべき六つの段落からなり、優に独立の一論文ともなりうる密度の高い内容と、厳密な論理的構成をそなえている。ただそれが、「倫理」論文の価値関係的パースペクティーフにおいては、「トポス」論議の付録として、注に送り込まれている。著者ヴェーバーの「関心の焦点」が、「生き方」(「エートス」と「思想」)にあって、たんなる語や語義や用語法にはないからである[14]。  

 注3の論旨を要約すれば、こうもいえようか。すなわち、語Beruf(厳密には「発音がBerufに相当する語」)は、ルター以前には(あるいは、ルター自身においても『コリントⅠ』7: 17-31のコンテクストを例外として除けば)、もっぱら「神の召し」あるいはせいぜい「聖職への召喚」という純宗教的な意味に用いられていた。それが、『コリントⅠ』7: 17-31で、「政府、警察、婚姻などの、神によって定められた客観的秩序(ないしはその秩序を構成する客観的『身分』)」の意味を帯び、1530年の「アウグスブルク信仰告白」でもこの意味に用いられた。ルターは、神の無償の恩恵にたいする内面的信仰を本義とする根本的立場から、外面的な行い/わざと、わざにもとづく外面的差異を相対化し、「命令」だけを守る「不完全な者=在俗平信徒」と「勧告」にもしたがう「完全な者=修道士」とのカトリック的区別を廃棄し、世俗内にあって神への信仰を貫き、世俗内道徳を遵守することこそキリスト者の「生き方」と説いていたが、やがて、①「現世のsubdivisionとしての身分」ばかりか、②「摂理観の個別精緻化」と③「伝統的秩序の神聖視」にともない、「現世のさらなるsubdivisionとしての職業」までも「神の摂理」と捉え、「神に召された使命としての職業」という概念を抱懐するにいたった。先に孕まれたこの職業概念が、聖書そのものの翻訳において最初に聖句として表明され一語に凝結したのは、ルターのばあいは1533年の『シラ』訳で、11: 20, 21の、もっぱら世俗的職業を意味していた原語ergonと ponosにBerufを当てたとき、まさにそうした意訳の形式をとってであった。その後、この純宗教的な語を純世俗的な職業/職業労働に当てて新たな語義を賦与する(無理ではないとしても大胆な、少なくとも)明白な意訳が、ドイツ語圏ではルター以降の翻訳者たちにより、(誤訳として拒否・排斥されるのでもなければ、「奇抜」「問題外」として顧みられずに廃れるのでもなく)まさにルターが賦与した新たな語義どおりに受け入れられ普及して今日にいたっている[15]

 そうなったのはもとより、宗教改革の精神が広く普及し、ルターの職業概念を受け入れる思想的な素地がととのい、社会的な「共鳴盤」が成立していたからであろう。ただ、そうした概念ばかりか、概念を表示する意訳語Berufまでが、拒斥されず、廃れもせずに、かえって「言語創造的sprachschöpferisch」(GAzRS, I, S. 65, 大塚訳、100ぺージ、梶山訳/安藤編、138ぺージ)な意義を帯び、影響力を発揮し、ドイツ語圏という「言語ゲマインシャフトの保有語彙のなかに取り入れられ確たる地歩を占めて今日にいたっているのは、いったいなぜであろうか。それはなにか、ルターによる、しかも旧約外典シラの一カ所における一回かぎりの「カリスマ的」語義創造が、一種独特の無制約的な(それ自体の潜勢力が時空を越えて発現し、あまねくいきわたるといった)「呪力」を帯びて、これが(歴史的・社会的には異なる条件のもとにある)他国語においても、直接まずはシラの同一箇所に発現しそこから他の諸箇所にも「伝播」し「波及」していった結果である、というわけではあるまい。そうした特定Berufの普及は、一方ではルター派が、16世紀のドイツ語圏という「言語ゲマインシャフト」において、まだ「多数派」とはいかなくとも少なくとも侮りがたい宗教的・宗教政治的勢力をなしつつあり、他方、ドイツ語という言語そのものが、領邦国家群への分裂と多様な方言の割拠から、国語としてまだ「合理化(ステロ化)」されず、まさにそれだけルターによる聖書独訳の宗教的・文化的・政治的な、それゆえ言語創造的影響が、国語の合理化」(「標準語」の確定/ステロ化)そのものにさえおよびえた、という歴史的社会的な諸条件に制約された帰結であるというほかはないであろう。

 ヴェーバーは、「ルターの職業観」節第1段落に付された注1を、「ルターは、まだアカデミックに合理化されていなかった当時の官用ドイツ語に、言語創造的な影響を与えることができたけれども、ロマン語系諸国のプロテスタントは、信徒数が少なかったため、そうした影響を[それぞれの母国語に]与えることができなかったし、あえて与えようともしなかった」(a. a. O.)と締め括っている。また、注3の第[5]段落末尾、つまり問題の第[6]段落に入る直前でもルター派の範囲をこえるBeruf相当語の普及に論点を転ずるに当たって、つぎのように述べている。「こうしてルターによって創始された、今日の意味における語Berufは、さしあたりはもっぱらルター派内にかぎられていた。カルヴァン派は、旧約外典[したがってそのひとつ『シラ』]を正典unkanonischと見なしていた。カルヴァン派が、ようやくerstルターの職業概念 Berufs-Begriffを受け入れ、重視するようになって今日にいたるのは、『確証』問題への関心»Bewährungs«-Interesseが前面に出てくる、あの発展の結果であって、当初の(ロマン語系の)翻訳では、ルターの職業概念を表示するのに使えるがなく、かつまた、すでにテスロ化されている国語の語彙のなかに、そうした[ルターの職業概念を表示する]を創り出し、流布させ、慣用語として定着させるだけの勢力もなかった」(GAzRS, I, S. 68, 大塚訳、107-8ぺージ、梶山訳/安藤編、144-5ぺージ)。

 このようにヴェーバーは、概念と、概念を表示するとをはっきりと区別し、職業概念を語義として表示する(BerufならBeruf)の創始が、拒絶されず、廃れもせずに普及していく歴史的運命を、当然、紆余曲折をともなう現象とみなし、複雑な歴史的社会的諸条件を視野に収めたうえでそのなかで捉えていこうとしている。とりわけ、「世俗内禁欲」の歴史的生成と帰結という「倫理」論文の主題にとって最重要なカルヴァン派については特筆して、そこでは、正典とは見なされない『シラ』の訳はさしたる問題ではなく[16]、ルターの職業概念でさえ、評価され、重視されるようになるのは、カルヴァン派独自の、しかも大衆宗教性の発展を経て、(ルターにおける語Beruf創始の影響というこの注3の視点からは、いわば)影響先の主体的条件が後に熟して以降のことである、と述べている。すなわち、「この自分ははたして(予定説の)神に選ばれているのか、それとも棄てられているのか、どうしたら自分の選びを確信できるのか」という「『確証』問題への関心」が、平信徒大衆にとっては[17]切実となり、牧会ではこの問いに答えて、「神の道具」として職業労働に没頭せよ、と説かれ、このコンテクストで、ルターの「使命としての職業」概念受け入れられ同時に(ルターの職業概念から伝統主義色を払拭し、「現世改造/禁欲実践の変更可能な拠点としての職業」に意味変換する方向で)鋳直された、というわけである。カルヴァン派独自のこうした発展は、もとよりルターによる語Beruf創始の直接の(16世紀における)影響には帰せられない。したがって、この注3のなかの、すぐあとにつづく最終第[6]段落では扱いきれないし、扱うべきでもない。それこそ、本論で、「ウェストミンスター信仰告白」(1647年)に表明された二重予定神観の分析から始め、立ち入って論及されるはずである。原著者ヴェーバーは、直前でこのように、わざわざ断っているのである。

 以上が、ⓐ羽入によって論難の的とされている遺構(「倫理」論文)の一部位(第一章第三節劈頭第1段落「トポス」に付された注3の第[6]段落)で、ルターによる語Beruf創始直後の16世紀とくにイングランドにつき、英訳諸聖書に顕れた訳語の帰趨を瞥見/通観しておこうとする、原著者マックス・ヴェーバー自身のパースペクティーフであり、その限定である。

6.概念と語との混同と「唯『シラ』回路説」

 では、羽入はどうか。当該部位の論点を、ⓑどう捉え、いかなるパースペクティーフに移し入れるのか。ここで、かれが繰り返し力説するところを、煩を厭わず傾聴するとしよう。

⑴「……ヴェーバーによれば、『ベン・シラの知恵』11: 20, 21の当該箇所をルターが『世俗的職業』の意味を含む形で“Beruf”と訳したことそのことが、他のプロテスタント諸民族の俗語においてと同様、英語の内においてもまた、『世俗的職業』を意味するところの“calling”概念[!]をもたらしたのであった……」(25)

⑵「……『ベン・シラの知恵』11: 20, 21における『世俗的職業』の意味を含んだ独“Beruf”がプロテスタント諸民族の俗語の内に受け入れられることによって、それぞれの国語の内に“Beruf”に相当する生み出していったのである、というのがヴェーバーの立論の骨子であった……」(30)

⑶「……『ルターが与え得たような言語創造上の影響』を、それもルターによる『ベン・シラの知恵』11: 20, 21における“Beruf”というあの訳を介することによって、その国の俗語の内に与えることに成功したところの、ドイツ語以外のプロテスタント諸民族のおける『ベン・シラの知恵』11: 20, 21の聖書訳……」1(32)

⑷「……『ベン・シラの知恵』11: 20, 21におけるルターによる訳“Beruf”を通じて、英語圏内において“Beruf”に相当するニュアンスを含んだ“calling”というが発生したとするヴェーバーの立論……」(35)

⑸「……『ベン・シラの知恵』11: 20, 21を経由して英国においてルターの“Beruf”-概念[!]に相当する“calling”-概念[!]が発生したとするヴェーバーの主張……」(35)

⑹「……彼[ヴェーバー]がルターの“Beruf”訳の直接の影響が現れているはずである『ベン・シラの知恵』11: 20, 21の英訳聖書の各訳を見て議論を立てることができず全く意味のない『コリントⅠ』7: 20で議論を組み立てざるを得なかったのは、ただただOEDの“calling”の項目に『ベン・シラの知恵』11: 20, 21の用例が記載されていなかったから、という情けないことになる。」(44)

⑺「彼[ヴェーバー]が『ベン・シラの知恵』11: 20, 21におけるルターの“Beruf”直接の影響を『ベン・シラの知恵』11: 20, 21の英訳聖書の用例を用いて『倫理』論文中で論じれなかった[sic]のは、現物の聖書を手に取って調べなかったからに過ぎない。」(44)

⑻「……『倫理』論文における彼の元来の主張……、すなわち、『ベン・シラの知恵』11: 20, 21におけるルターによる“Beruf”の訳の影響下においてこそ、あのプロテスタント諸民族に特有の、宗教的召命の意味を含むと共に世俗的職業をも同時に指す、“Beruf”というと似た色合いを持つが、全てのプロテスタント諸民族の俗語の内に生み出されたのであるとする彼の元来の主張……」(51)

⑼「……『ベン・シラの知恵』11: 20, 21における“Beruf”という訳こそが、“Beruf”というの、宗教的意味ばかりか“世俗的職業”の意味も含む、ルターが創始した用法なのであり、そしてその用法がプロテスタント諸国のそれぞれの国語に影響を与えたのであるとヴェーバーは主張したのであるが、ところが彼が英訳聖書に関して詳細に論じているのは『ベン・シラの知恵』11: 20, 21ではなく『コリントⅠ』7: 20である。」(265)

⑽「……ルターが『ベン・シラの知恵』11: 20, 21を“世俗的職業”の意味を含む形で“Beruf”と訳し、その用法を聖書の英訳者達が直接に受け継ぐ形で、“宗教的召命の語義を含む職業という”が英語圏へと伝わったというヴェーバーの推論は成り立たない。」(266)

 このように同じ趣旨を飽くことなく繰り返せるのが、羽入叙述に独特の持ち味であるが、この十カ所を辛抱して読み通すと、まず、⑴と⑸では「概念」、他では「」ないし「用法」(用法)との表記が見られ、概念と語とが区別されずに混用混同されていることが分かる。では、この混同は、なにを意味し、なにをもたらしているであろうか。

 前稿でも本稿でも繰り返し確認してきたとおり、ルターにおいてはまず、「神の摂理としての客観的秩序」という概念が孕まれ、この「客観的秩序」が「身分」から「職業」へと個別化されて、「使命としての職業」という概念が成立し、これが、聖句としてはルターによる聖書翻訳事業の進展においてたまたま旧約外典シラ翻訳の時期と重なったために、その11: 20, 21のergonとponosにBerufを当てるという形で、鮮やかに表明されたのであった。とすれば、まえもって成立している(あるいは形成途上にあるか成立間際にある)職業概念が、聖句以外にも、たとえば釈義著作語録に、同様ないし(多少は)別様に表現され、これが広く俗語の語彙や用語法にも影響をおよぼしていく、ということもあったはずである。また、聖句にかぎるとしても、ルターの翻訳計画ならびにその進捗のいかんによっては、当の職業概念が、『シラ』句ではなく最寄りの時期に翻訳された他の聖典の(ただし世俗的職業を伝統主義的に意味づけるかぎりで『シラ』句と同義等価ないし類似の)箇所に、語としては先に表現され、定着し、その後『シラ』句にも適用される、ということも、十分「客観的に可能」であったろう[18]。ルター以降、ルター派の翻訳者たちが、ルター本人はRufで通した『コリントⅠ』7: 20のklēsisにもBerufを当てた、という事実も、ルターが(かれはかれの事情で)最初には『シラ』11: 20, 21で語Berufに表明した「使命としての職業」概念を、後のルター派の翻訳者たちが引き継ぎ、それを翻って(いまやergonやponosの世俗的職業/職業労働という意味も含めながら)『コリントⅠ』7: 20(のklēsis)にも適用した結果であって、いわば「使命としての職業」を語義とする語Berufの成立、再々成立、……の連鎖と解されよう。

 ところが、羽入は、「使命としての職業」を表すBerufの、ルターにおける成立を、先行する概念形成から切り離して、短絡的に『シラ』11: 20, 21に直結し、ここに過当な力点を置き、あたかも一回的な「言霊」「呪力」の源泉がそこに湧き出たかのように捉えて、上記引用のとおり反復/強調する。その結果、⑶の引用句からも明白に読み取れるとおり、他の「言語ゲマインシャフト」にあって宗派に属し、それぞれの歴史的・社会的条件のもとで宗教改革にかかわっている翻訳者たちもみな、当事者としての聖書翻訳計画のいかんにかかわりなく、所属宗派における旧約外典一般の位置づけと取り扱いのいかんにもかかわりなく、ただただルターが旧約外典『シラ』の翻訳で鮮やかな意訳を敢行したという理由だけで、ただちにそれを、そのまま自国語版『シラ』訳に引き写すかのように、また、そうしさえすれば、あたかもルターが『シラ』句で捻り出した「言霊」の「呪力」がそのまま自国語版『シラ』句にも乗り移って、歴史的社会的諸条件のいかんにかかわりなく、「ルターが与え得たような言語創造上の影響」力を発揮し、他の聖句や俗語の語彙にも波及していくかのように、頭から決めてかかっている。この生硬な非現実的・非歴史的想定こそ、筆者が拙著『ヴェーバー学のすすめ』で「唯『シラ』回路説」と名づけたものにほかならない。羽入書「第一章」では、こういう「言霊・呪力崇拝」の非科学的カテゴリーが「プロクルーステースの床」にしつらえられ、「倫理」論文「遺構」から抜き取られた「遺物」が、その上に寝かされて裁断されるのである。

7.定点観測に最適の『コリントⅠ』7: 20

 羽入は、原著者ヴェーバーが、問題の第[6]段落に入る直前で、上記のとおり、『ベン・シラ』中心の「呪力崇拝」的パースペクティーフを戒め、Beruf相当語の直後の普及についても、普及先の歴史的・社会的諸条件と翻訳者たちの主体性を顧慮するようにと説き、警告を発していたにもかかわらず、読み落としたのか、読んでも意味を考えなかったのか[19]、ⓑ羽入自身の「言霊・呪力崇拝」的「唯『シラ』回路説」のパースペクティーフ(「配置構成図」)を外から持ち込み、第[6]段落の論点を、ヴェーバー的歴史・社会科学の原コンテクスト/原パースペクティーフから引き抜いて、自分の「配置構成図」に移し入れ、ⓒ「杜撰」の証拠に意味変換している。

 まず、羽入は、上記引用⑹からも読み取れるように、ヴェーバーが英訳諸聖書の『シラ』11: 20, 21を調べるべきであったにもかかわらず、それができずに、「全く意味のない」『コリントⅠ』7: 20 klēsisの訳語を調べている、と非難する。ところがそれは、繰り返すまでもなく、かれが「唯『シラ』回路説」という非現実的・非歴史的仮定を持ち込み、これに囚われて第[6]段落を読み、ヴェーバーの論点も、そうした自分のパースペクティーフに移し入れ、並べ替えるからこそ成り立つ読みであり、非難である。ドイツともロマン語系諸国とも異なるイングランドの「言語ゲマインシャフト」にあってルター/ルター派とは異なる諸宗派に属する翻訳者たちの訳語選択を通観するにあたっては、歴史的社会的条件の違いを考慮に入れてかかる必要があり、意味のある類例比較を(当該第[6]段落ひとつで手短に完遂するには、定点観測点ひとつ選定しなければならない。とすればそれに最適なのは、(新約正典として)すべての宗派に重視され[20]かつ(ルター本人における)純宗教的「召し」から「神の摂理としての客観的秩序」「客観的秩序の下位単位としての身分」をへて(ルター以降の「普及諸版」では)「使命としての世俗的職業」にいたる意味変遷が、前段までで確認され、ひとつのスケールをなすことが判明している『コリントⅠ』7: 20であり、それ以外にはないであろう。羽入は「全く意味のない」『コリントⅠ』7: 20というが、それは、ヴェーバーがこうした方法的思考にもとづいて定点観測点を選定している「意味がまったく分からない」という告白と解するほかはあるまい。

8.杜撰による「杜撰」の創成――誤導防止は専門家の責任/社会的責任

 大学/大学院におけるテクスト読解のゼミで、こういう「怖さを知らない無知・無理解」が露呈すれば、「『テクストの字面しか読まない』でいると、誤解したり、皮相な解釈にとどまったままで『自分では得意になる』ことがままあるから、「慎重によく行間を読むように」と注意され、是正されるはずである。それが、読書指導/研究指導の基本といってよい。ところが羽入は、どうやらテクストを字面でも、まともに読んではいない。というのも、羽入は趣旨上述の論難を開始するに当たって、つぎのように述べている。

「前掲引用部分[第[6]段落中のイングランドにかかわる部分]の冒頭は、『英国では[――全てのものの中で一番最初のものとして――]ウィクリフ派の聖書翻訳(1382年)がこの箇所をhier“cleping”(後に“calling”という借用語によって取って替わられた古代英語)と訳し……』という唐突な表現で始まっており、これのみでは、ここでヴェーバーがどの箇所を指して述べているのか極めて分かりにくいのであるが、ここで論じられているのが『ベン・シラの知恵』11: 20, 21ではなく『コリントⅠ』7: 20であることは、ティンダル訳を“in the same state wherein he was called”と引用していることから分かる。」(25-6)原文のhier が『コリントⅠ』7: 20を指すということが、同じ文章後段のティンダル訳から遡って初めて分かる、といいたいのであろう。

ところが、羽入によって当該第[6]段落から引用された叙述の直前には、「ルター以前の聖書翻訳者は、klēsisの訳語として»Berufung« を用いていたし(……)、1537年のエック訳インゴルシュタット版では、»in dem Ruf, worin er beruft ist« となっている。ルター以後は、カトリックの翻訳もたいていは直截にルターにしたがっている」(GAzRS, I, S. 68, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)とあり、この直後に「イングランドでは、……」という羽入の「前掲引用部分の冒頭」がつづく。したがって、羽入が引用した原文のhierが『コリントⅠ』7: 20を指すことは、字面でも直前のエック訳»in dem Ruf, worin er beruft ist« から一目瞭然である。これが「唐突」に見えて「極めて分かりにくい」というのは、「イングランドでは、……」以下を、同じ段落しかも直前の文章から切り離し、そこだけに視野を限定してしまうからで、明らかに読み手の側の錯視である。あるいは、自分の読みが字面でさえ杜撰なために生じた「唐突」という誤印象の責任を、原著者に転嫁し、ヴェーバーを「杜撰」な著者に仕立てて、読者にもそう印象づけている、というほかはない。

なるほど、こういう箇所(大学/大学院教育がまともにおこなわれていれば、「言論の公共空間」にさらされるまえに是正されているはずの誤謬)をいちいち取り上げて立証までするのは、「大人げなく」「気恥ずかしい」くらいの些事拘泥である。しかし、「倒す」と決めた相手の「あら」を、こういうふうにして「捜す」、というよりもむしろ創り出し捏造し、あわせて自分の読みと論証の「緻密さ」を誇示しようというのが羽入流の計算で、類例も枚挙にいとまがない。読者間にも、こういう箇所を、いちいち原文ないし訳文と照合して検証しながら読む人は、ごく少ないであろうし、そんな重荷を読者に負わせるべきではないから、少なくて当然であろう。ところが困ったことに、それでは、こういう具合に「杜撰」を捏造する「一見自信たっぷりの口吻」が影響力を取得し、読者誤導が「野放し」になる。こういう一見些細な問題点を逐一指摘し、目に止まりにくい誤読/錯視/曲解/誤導を、さればこそ労を厭わず暴露、論証して警鐘を鳴らすことも、まさに目につきにくいがゆえに、専門家以外の誰にも転嫁できない優れて専門家の責任とされざるをえないのではなかろうか。現代大衆教育社会の構造的背景のもとで、羽入書が「言論の公共空間」に華々しく登場し、いっとき脚光を浴びた意味を、相応に深刻に受け止めるならば、専門家の責任/社会的責任をそこまで広げるほかない時代に入ってしまった、と認識し、専門家・当事者としての自覚にもとづく、責任ある対応を、考えていくべきではあるまいか。

9.「詐欺」仮説にもとづく非難と「杜撰」説への後退――思い込みの枠内で

 つぎに羽入は、なぜヴェーバーが、『シラ』11: 20, 21でなく『コリントⅠ』7: 20を取り上げたのか――(羽入にいわせれば)『シラ』11: 20, 21を調べることが「できなかった」のか――につき、①『シラ』11: 20, 21を調べるとBeruf相当語(calling系)でないことが判明して、「自分の立論が破綻してしまう」(引用⑽)と知っていた(から、『コリントⅠ』7: 20を持ち出して破綻を隠蔽し、読者を欺いた)、②英訳諸聖書を逐一手にとって調べる研究を怠り、OEDの“calling”項目に当たってみたにすぎず、そこには『シラ』11: 20, 21の用例が記載されていなかったために言及できず、代わっては記載のあった『コリントⅠ』7: 20を持ち出してお茶を濁した、というふうに、(自分の思い込みの枠内で、羽入の身の丈には合った)ふたつの理由を挙げ、①「詐欺説」を仮説として非難の言葉は投げつけながら、立証はできないと悟ってか、けっきょくは②「杜撰説」を採っている。

「ヴェーバーは英訳聖書では『ベン・シラの知恵』11: 20, 21の当該部分が“calling”とは訳されていぬことに少しも気づいていなかったために全く無邪気にも英訳聖書における『ベン・シラの知恵』11: 20, 21を引用しなかったのであろうか。あるいは全く逆に、ヴェーバーは英訳では『ベン・シラの知恵』11: 20, 21の当該部分が“calling”と訳されていぬことを承知していたからこそ、それらに言及しなかったのであろうか。

 もしも後者であるとするならば、“calling”とは訳されていない英訳聖書における『ベン・シラの知恵』11: 20, 21に言及することが自分の立論にとって不都合であることを十分意識した上で、『ベン・シラの知恵』11: 20, 21ではなく本来は全く関係もなく意味もない『コリントⅠ』7: 20 に関する詳しい議論に読者の注意を引き付けそらすために、『コリントⅠ』7: 20に関する難解な詳論をした、ということになろう」(35)。

こうまでいっておきながら、羽入はすぐに踵を返す。

「ヴェーバーは英訳聖書において『ベン・シラの知恵』11: 20, 21が“calling”とは訳されていないという事態を全く予想もせずにいた、と推測される。よりあからさまに述べるならば、ヴェーバーは『ベン・シラの知恵』11: 20, 21の当該部分を英訳聖書がどのように訳しているかについて、オリジナルな英訳聖書で調べてみることすらもしなかった、ということである。われわれの推測の根拠となる点を以下に挙げよう」(35-6)。



[1] 当初からお断りしているとおり、筆者は一ヴェーバー研究者を自任し、相応の責任は執るが、「倫理」論文ないしはその関連事項を特別に研究している専門家ではない。なるほど、一大学の教養課程とそのエクステンションとしての公開市民講座などで、たびたびデュルケームの『自殺論――社会学研究』とともに「倫理」論文を取り上げ、「経験的モノグラフと方法論との統合的読解・会得」という方針のもとに、教材として活用してきた。そうするなかで、前二稿で取り上げたヴェーバーの論旨にもしばしば触れた。しかしそれは、ヴェーバー研究者やヴェーバー読者の常識に属することで、とくに研究論文に仕立てて発表するまでもないと考えていたし、いまも考えている。むしろ今回、その「常識」さえ身につけていればなんなく対応できる羽入書の主張に、多くのヴェーバー研究者とりわけ大塚久雄門下の「倫理」専門家が沈黙し、一門外漢ともいえる老生がピンチヒッターに立つ羽目になったのは、率直にいって不可解かつ不本意なことである。

[2] 「負け惜しみ」「妬み」「怨念」。いかなる社会でも、富、権力、威信、救済など、「よきものとして希求される諸財Güter」の分配には「不平等」があり、「(相対的に)恵まれたpositiv privilegiert層」と「(相対的に)恵まれないnegativ pr.層」との分化が生ずる。そのさい、一方では①各Gut軸ごとに分化の異なる「多元化」(たとえば富に「恵まれる」者は威信には「恵まれない」、またはその逆、など)ではなくて、「一元化」(「恵まれる」者は軸で「恵まれ」、「恵まれない」者は全軸で「恵まれない」)が生じ、他方では②「恵まれる-恵まれない」双極間にスペクトル状の漸移-流動関係がなく、両極分解とその固定化が顕著に現われるばあい(たとえば19世紀のヨーロッパ)には、「支配階級と被支配階級」「主と奴」の「階級闘争」「身分闘争」が闘われ、こうした闘争を基軸に据える歴史像ないし社会理論が構成される(マルクスとニーチェ)。「ルサンチマン」とは、無力な「奴」側の、有力な「主」の「返り討ち」を恐れて表出されず、その意味で心理的に「抑圧され」「内向」して鬱積する「復讐欲」「復讐願望」の謂いで、これが、「倫理」や「宗教」の領域で「代償」的に「復讐」をとげ(「道徳上の奴隷叛乱」)、「溜飲を下げ」「落とし前をつける」ような「観念」の源泉となるばあいもある。ヴェーバーは、ニーチェによるこのルサンチマンの発見相応に評価し、「世界観的・『全体知』的固定化」は避け、概略以上のとおり歴史・社会科学の一作業仮説に相対化して批判的に駆使していた。

[3]農民出自の武士(たとえば「新選組」)は、生粋の武士以上に「武士らしく」振る舞おう――あるいは少なくともそう装おう――とし、ブルジョアジー出身の「プロレタリア革命家」は生粋のプロレタリア以上に「プロレタリアらしく」振る舞おうとする。このように、「身分」の境界線を越える、あるいは越えようとするさいに生ずる「過同調 over-conformity」ないし「強迫的同調 compulsive conformity」は、生粋の身分構成員にはない活力と(ばあいによっては)新風を吹き込むが、反面、そうした「業績」「達成」によって生粋の構成員を「見返してやろう」という動機を秘めてもいる。ここでは、両面をあわせて「過補償」動機と呼び、「価値自由記述語として用いる。

[4] 拙著『ヴェーバー学のすすめ』(2003、未來社)では、この操作を「『疑似問題』の持ち込み」と表記した。本稿は、その「『疑似問題』の持ち込み」をたんに「意味変換操作」と言い換えるのではなく、本コーナーへの寄稿を含め、拙著公刊以降の批判、反響を受け止めて再考し、羽入書批判結語として集成した、拙著の続篇(完結篇)である。

[5] 以下、羽入書からの引用はすべてノンブルのみ記す。圏点は引用文の著者、下線は(引用文中を含め)筆者(=折原)による強調。引用文中の[  ]は筆者による補足の挿入。

[6] 詳しくは、拙稿「ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」、『未来』2004年3月号、32-39ぺージ、本コーナーに転載、参照。

[7]「学問的」というのは、「自文化しか知らない、独りよがりのナイーヴな自文化中心主義」ではなく、他の諸文化に通じ、それぞれの特性/長所短所を知り尽くしたうえで、自文化の個性を把握し、その問題点を克服していこうとするスタンスの謂いである。

[8] 「禁欲的プロテスタンティズム」にとっては、伝統的秩序(やその下位単位)の神聖視は忌むべき「被造物神格化」であろう。信徒各人は、伝統的秩序を、内面的に受け入れて適応するのではなく、「神の栄光」を現世にあまねくにいきわたらせるため、「神の経略」にしたがって合理化すべき素材として捉え、そうした目的にとって有益かどうかを規準に(したがって本来変更可能な)自分の職業を選択し、これを現世内の拠点に、「神の道具」として労働に勤しみ、現世を合理的に改造していかなければならない、ということになる。

[9]「成功物語success story」として歴史を構成し、頂点に自文化をもってきたがる向きは、この「限界」の限定(被限定性)を容易に看過するであろう。しかし、ルターはたとえば、「キリストご自身……貸与を定義して、ルカ福音書第六章(35節)で、『何もあてにせずに貸しなさい』と言われている。ということは、あなたがたは無償で貸し与えるべきであり、ふたたびもどってくるかどうかは、(相手の出方に)賭けるよりしようがないということである。貸したものより良いもの、あるいはより多くのものをとりもどすつもりで貸す者は、したがって、公然たる罰あたりの高利貸である」(「商業と高利」、松田智雄編『ルター』、世界の名著18、1969、中央公論社、342ぺージ)と述べる。ヴェーバーもしばしば、この『ルカ』6: 35を引いて、「なにもmēdenあてにせず」は「なんぴともmēdenaあてにせず」の誤訳と解し、伝統的(というよりも原生的)「近隣ゲマインシャフト」における「救難義務」としての「緊急貸付」に由来する、その宗教的「醇化」と見る。この規範が、資本主義の観点から見るかぎり「立ち遅れた」「伝統主義」であることは明白であるが、だからといって宗教的ないし宗教倫理的に「誤り」ないし「無価値」といえるであろうか。

[10] 別の(たとえば「固有の意味におけるルター研究」の)問題設定と価値関係的パースペクティーフからすれば、「ルターの職業観」節を中心部に見立て、「禁欲的プロテスタンティズム」にかんする本論はいっさい顧みないということも、十分ありうるし、正当な学問的研究として成り立ちもしよう。しかし羽入はもっぱらヴェーバーの知的誠実性を問うという。羽入自身の問題を投げかけ、たとえばなんらかのヴェーバー・テーゼの歴史的妥当性を問うのではないと「まえもって警告」している。したがって当然、ヴェーバー自身の論理展開に内在して知的誠実性の「崩壊」点を暴露し、論証しなければならい。筆者は、拙著『ヴェーバー学のすすめ』で、それがじつはそうではなく、羽入がヴェーバー自身の論理展開に内在できず、「疑似問題」を持ち込んで「ひとり相撲」をとっているにすぎないと主張し、羽入の知的誠実性の崩壊点をそのつど暴露し、論証している。

[11] 管見によれば、「倫理」論文は、著者の価値関係的パースペクティーフに即してよく制御されている「引き締まった作品」であり、なんの重要度ないし位置価もない、たんに「道草を食う」だけの叙述は、なかなか見当たらない。一見そうした印象を受ける箇所も、じつは読解不足のためで、三読四読するうち、やっとその位置価に思いいたることが多い。

[12] 東京大学大学院人文科学研究科倫理学専門課程における羽入の「指導教官」と「論文審査教官」がこの点に気がつかなったとすれば、研究指導にあたって怠慢であったといわざるをえないし、気がついていながら修士/博士の学位を授与したとすれば、投げやりというほかはない。いずれにせよ、学問の未来学問研究者養成の将来を考えると、ここでかれらの責任を不問に付すわけにはいかない。筆者としては、この一連の「羽入書批判結語」により、羽入が学位に値しない事実を立証したうえで、博士論文原論文審査報告書類を閲覧し、正面から指導教官、論文審査教官の責任を問う予定である。したがって、かれらの名前と論文審査の問題点が具体的に明るみに出るのは、時間の問題である。せめてかれらが、それ以前にみずから名乗り出て、過誤を認めるなり、筆者に反論するなり、いずれにせよ学者として「知的に誠実に」責任を執るよう、ここで再度要請する。

[13]「倫理」論文をひととおり読んではみたけれども、深奥部は分からないか、一知半解のまま、忘れてしまい、鮮やかな「トポス」だけが記憶に残っている、という読者は、事実として多いにちがいない。別に非難するのでも、軽蔑するのでもない。「倫理」論文にかぎらず、深奥部をそなえた学術論文とは、そういうものである。とすれば、そういう読者の記憶と意識において「トポス」がいつのまにか「中心的論点」に昇格するのは、ごく自然の成り行きであろう。

[14]ところが羽入は、「語」を「生き方」から切り離したうえ、もっぱら「語」、それも「思想」を表現する用語法よりも個々の用例、しかも語よりも語の外形、に力点を置く。というよりも、外形だけに視野を限定して、ある語がある原典に「あるか、ないか」の生硬な「二項対立図式」をふりかざす。歴史において、社会をなして生きる人間諸個人によって多様に紡ぎ出され、多様に「語」り出される「意味」や「思想」、とくにそれらの動態には、思いがおよばない。それぞれの個性を逸しないように、しなやかに認識していこうとする方法/方法論議も、顧みようとはしない。要するに、そうした自分の「限界」「殻」を割って出て、みずから向上しようとはせず、かえって「殻」に居直り、閉じ籠もったまま、「世界初の発見」をなしとげ「高みにまで上り詰めた」と思い込みたがる。

 じつは、こうしたスタンスこそ、他ならぬヴェーバーが、ちょうど一世紀まえ、「倫理」論文の末尾で暴いて見せた「末人」「大衆人」流にほかならない。そういうスタンスのままでいては、およそ歴史・社会科学、とくにヴェーバーのそれに内在して理解することはできない。そういう「虫のいい」スタンスを暴いて戒めてくるかれを「逆恨み」して敵意を抱き、「悪魔」として打倒せんものと、「悪魔の手口を見抜く」べく、かれの歴史・社会科学の中身を捉えようとしても、それに内在して理解することはできず、かえってそれだけ「自分には分からない」、「それなのに分かる(あるいは分かると称する)連中がいるのは憎い」という「ルサンチマン」を抱かざるをえない。このルサンチマンからは、虚構のパースペクティーフが生まれ、それを「自分には分からない」対象に押しかぶせる結果、ますます対象を内在的には理解できないように、対象との距離が開くように、自分を追い込んでいくことになる。そうするとこんどは、翻ってそれだけ、「自分には分からないのに」というルサンチマンもつのり、ここからまた虚構のパースペクティーフと虚説の捏造が始まる。際限のない悪循環であり、知的誠実性を回復しないかぎりは這い上がれない「蟻地獄」といえよう。

 とまれ、こういう言い方では、それこそ「甘い臆断」とも解されかねまい。そこで以下、これを仮説とし、羽入書の主張に内在して具体的に検証していこう。それこそがじつは、現代大衆教育社会で構造的に生産/再生産される「ルサンチマン」と「過補償」動機から、羽入あるいは羽入予備軍を解放し、知的誠実性の回復を介助し、「蟻地獄」から救い出す唯一の道でもあろう。 

[15] 「意訳」の歴史的運命に、この三理念型を区別し、明晰に定式化したのは、宇都宮京子である。本コーナーへの宇都宮寄稿(その2)、参照。

[16]かりに、カルヴァン派が旧約外典を翻訳するとしても、それは、旧約外典を比較的重視したカトリック、ルター派、英国国教会の旧約外典解釈にたいする欄外注での論駁のためで、伝統主義的な「神への信頼」を説く『シラ』7: 20, 21に殊更Beruf相当語を当てるはずはないと十分予想できよう。じっさいヴェーバーは、ヨーロッパにおけるカルヴァン派系翻訳の典拠ともいえるフランス語訳で、ergonがoffice に、ponosがlabeurに、直訳されている事実を確認している(GAzRS, I, S. 65, 大塚訳、100ぺージ、梶山訳/安藤編、138ぺージ)。したがってかれは、英訳がフランス語訳の影響を受けながらもergonをofficeかworkに、ponosをlabourかtoilに直訳し、Beruf相当語callingは当てていないと予想し、あえて英訳『シラ』を「手にとって調べる」にはおよばない、そんな「道草」をくったら研究の経済的格率に反する、と適切に判断できたであろう。じっさい、羽入の原典調査は、羽入の意図に反して、ヴェーバーの予想が正しかったことを裏付けている(54-7)。

[17] この問いは、自分が神に選ばれていると確信しているカルヴァン(1504-64)本人には問題とならず、むしろそうした疑惑に囚われること自体、信仰が足りない証左として非難された。

[18] 「倫理」論文第一章第一節第1段落注3の叙述から、こうした仮説を引き出し、ルターによる聖典翻訳だけでなく、釈義著作語録などにも検索の範囲を広げて検証していく研究――固有の意味におけるルター研究と交錯する言語社会学的語義史研究――が、プロジェクトとして考えられる。筆者がざっと調べたところでは、1520年の『キリスト者の自由』や『キリスト教界の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に与う』で「職務」「職業」と邦訳されている箇所はamptかwerckであるが、1523年の『現世の主権について』になると、二箇所にberuffが当てられる(WA11, 1900, 258, 276)。一非専門家の印象にすぎないが、ルターは、自著や釈義では早くから比較的自由に自分の用語法を通しているが、聖典そのものの翻訳にはきわめて慎重で、ことによるとergonとponosにBeruf を当てるという大胆な意訳も、旧約外典の『シラ』なればこそ敢行しえた、といえないこともないように思われる。こういう問題については、すでに専門的業績は蓄積されていて、筆者が寡聞にして知らないだけであろう。専門家のご教示と、できればご発言を、期待したいところである。

[19]羽入書に改訂されたという博士論文の原題が振るっている。「『倫理』論文におけるマックス・ヴェーバーの『魔術』からの解放Die Entzauberung vom“Zauber”Max Webers in der“Protestantischen Ethik”」というのだそうである。

[20] 「旧約外典を正典外とみなしていた」カルヴァン派を、最重要な比較の項として念頭においているヴェーバーにとって、旧約外典の『シラ』は、この条件をみたさないから、それだけで定点観測点として問題外である。なお、カルヴァン派による旧約外典の取り扱いにかんして、このヴェーバーの判断に疑問を呈することはできようが、それはまた別個の「歴史的妥当性」問題である。


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(1-2)」

2004年7月27日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(1-2)

折原 浩


2004年7月27日

10. パリサイ的衒学癖――テクスト読解の杜撰と大仰な非難

 そこで、その「推測の根拠」を検証しよう。(n)は、羽入書の区分けである。

ヴェーバーは、第一章第二節冒頭のフランクリン論で、『自伝』から『箴言』22: 29を引用し、そこの「わざmelā’khā」(フランクリン父子ではcalling)が、ルターではGeschäft、「比較的古い英訳諸聖書 die älteren englischen Bibelübersetzungen」ではbusinessと訳されている、と注記している(GAzRS, I, S. 36, 大塚訳、50ぺージ、梶山訳/安藤編、97ぺージ)[1]。これについて羽入は、カトリック教徒が1610年に北フランスのドゥエで刊行した英訳旧新約全書では、ここがbusinessではなくworkeと訳されている事実と、1582年に同じくカトリック教徒がランスで刊行した新約(のみの)版にはヴェーバーが第[6]段落で言及している事実とを挙げ、大仰に、こう結論づけている。「ヴェーバーは、『箴言』22: 29を、すなわち、『倫理論文全体の彼の立論にとって最も肝心な部分の論拠を調べる時にはカトリック訳を参照せず、それに比べればどうでもいいとすら言える『コリントⅠ』7: 20を調べる時にはカトリック訳をきちんと調べた、…。…これは到底考えられぬほどに矛盾に満ちた行動である」(37)と。

いかにも羽入らしい、些事拘泥で針小棒大な難詰ではある。ところが、羽入書の60-1ぺージに掲げられている『箴言』22: 29の訳語一覧表を見ると、1535年の「カヴァーデイル訳」から「ジュネーヴ聖書」(1587年版)までの11種ではすべてbusiness と訳されており、ただ1610年のドゥエ版だけが、唯一例外的にworkeと訳出しているにすぎない。翌1611年の「キング・ジェイムズ欽定訳」もbusinessを踏襲している。

 翻って「倫理」論文の件の注記を原文で読むと、羽入が邦訳をそのまま引用して、ヴェーバーが「『古い英訳聖書では』と総称的に述べた」(37)と決めてかかっている箇所で、ヴェーバー自身は älterと比較級で語っており、16/17世紀で分けて16世紀の諸聖書をälterで括ったとすれば、1610年ドゥエ版の例外を無視したわけでもない[2]。また、フランクリン父子がcallingで読んだ箇所は「比較的古い英訳諸聖書ではbusinessとなっている」と注記するさい、ヴェーバーは意味上、ルターにおいてもGeschäftであったように、「比較的古い英訳諸聖書では[プロテスタントの諸聖書でもまだ]businessであった」という不一致/対照を主として考え、これに力点を置いていたにちがいなく、反面、カトリックのドゥエ版は考慮外に置いてとくに断らなかった、あるいはひょっとして看過したとしても、「『倫理』論文全体の彼の立論にとって最も肝心な部分」にかんする致命的な瑕疵とはいえまい。そう決めつけるほうこそ、かえって、件の注に出てくるフランクリン父子のcallingと、第一章第三節第1段落注3[5]段落で取り上げられるルターのGeschäftとの当然の不一致を「アポリア」に仕立て、両者が語形で直接一致しなければ「倫理」論文の「全論証構造」が崩壊するという奇想天外な思い込みと、およそいかなる資料も、価値関係性のいかんにかかわりなく、「原典を手にとって調べなければならない」という「過同調」[3]のパリサイ的衒学癖(軽重の判断がつかない「なにがなんでも一次資料マニア」)を露呈しているのではなかろうか。

11. 「事実誤認」の伏線――通称を正式名称に見せて恣意的に限定

ヴェーバーは、第[6]段落中で、「1534年のティンダル訳die Tindalsche von 1534」と「1557年のジュネーヴ版 die Geneva von 1557」(GAzRS, I, S. 69, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)とが『コリントⅠ』7: 20 のklēsisをstateと訳出している、と指摘している。羽入はここに挑みかかって、なんのことか「1560年の『ジュネーヴ聖書』」(39)を持ち出し、そこではstate ではなくvocationと訳されているという。というのも、

羽入によれば、ヴェーバーの主張は「それ自体としてみてもすでに奇怪」(39)で、「『ジュネーヴ聖書』は1560年に初めてこの世に現われた」(40)のであり、「ヴェーバーのいう『1557年のジュネーヴ聖書』など有り得ない」(40)のだそうである。

羽入のこの言い回しからは、なにか正式に『ヴュネーヴ聖書』と名づけられた版本があって、それが「1560年に初めてこの世に現われた」かのような印象を受ける。ところが、「ジュネーヴ聖書」とは、じつは後世につけられた「あだ名」ないし「通称」にすぎず、「この聖書そのものにそう書いてあるわけではな」く、ただ「発行場所としてジュネーヴと記載されているだけである」(田川建三『書物としての新約聖書』、1997年、勁草書房[以下、田川書]、557ぺージ)という。メアリⅠ世の迫害を逃れてジュネーヴに亡命したウィリアム・フイッティンガムが、一方ではカルヴァンやド・ベーズによる仏訳「ジュネーヴ聖書」の進捗をにらみ、他方ではティンダル訳を改訂し、古典語学者たちの協力もえて、初めに新約部分の英訳を完成し、ジュネーヴで刊行したのが「1557年のジュネーヴ版」ないし「ジュネーヴ聖書1557年版」である。これに旧約部分を加え、三年後に同じくジュネーヴで刊行したのが「1560年のジュネーヴ版」ないし「ジュネーヴ聖書 1560年版」にちがいない。なるほど、専門家の間で「厳密には、ジュネーヴ聖書というと1560年の旧新約全書を指」し、「1557年のものは、ジュネーヴ新約聖書などと呼ばれている」(田川書、同上)そうである。しかし、「倫理」論文は、聖書史の専門文献ではないし、第[6]段落のこの箇所で定点観測点として取り上げられ、訳語が問題とされるのは、新約の『コリントⅠ』7: 20であるから、フィッティンガムらによる新約の英訳が「初めてこの世に現われた」「1557年のジュネーヴ版」のほうをとり、そう明記して引用するのに、まったく問題はないはずである。むしろ、「ジュネーヴ聖書」を正式名称と決めてかかって1560年版だけに限定するほうが、ヴェーバーを「奇怪」、(つぎのでは)「事実誤認」「誤り」に陥れる伏線、「ためにする議論」で、それ自体としても狭隘で、「過同調」の衒学癖といえまいか。

羽入は、1557年版と1560年版の表紙の写真を掲げ(38-9)、それを見ても正式の表題には(田川のいうとおり)「ジュネーヴ」との表記は見られないにもかかわらず、前者を「ウィティンガム訳新約聖書」、後者を(こちらには訳者名を記さずに)「ジュネーヴ聖書」と称して、後者だけが『ジュネーヴ聖書』であるかに見せる。そして、「ただし、ともに“AT GENEVA”と書いてあるので、それだけにとらわれると確かに間違えやすい。ここから裏書きされるのは、ヴェーバーが現物の『ジュネーヴ聖書』を見たことがない、ということである」(40)と断ずる。さらに、

羽入は、これを「事実誤認」(40)と称し、この「事実誤認」をヴェーバーがいかなる二次文献から引き継いだのか、と問う。そして、1893年に刊行され、ヴェーバーも参照が可能であったOEDの前身A New English Dictionary on Historical Principleの第二巻 C項目に“1557 Geneva, in the same state wherin he was called.”という用例があるのを引き、「ヴェーバーは、このOEDの誤りを踏襲した可能性が高い」(40)とする。ちなみに、羽入によれば、1989年に出たOEDの現行第二版でも、「この部分の記載は……訂正されておらず、そのままになっている」(41)という。

しかし、この「1557年ジュネーヴ版」という記載は、上記のとおり、なんら「事実誤認」でも「誤り」でもなく、「訂正」の必要もないであろう[4]。したがって、ヴェーバーがその記載を引き継いだとしても、誤りではない。また、ヴェーバーがOEDに依拠したこと自体の意味については、後段で述べる。

12. 推測で「専門家が腹を抱えて笑う」姿を想像する「叛乱」劇

最後に、羽入は、ヴェーバーが第[6]段落で引用している『コリントⅠ』7: 20の用例は、唯一の例外を除き、ことごとくOEDに記載されている用例と一致するとして、その例外を取り上げる。それは、「1539年の公認クランマー訳die offizielle Crammersche Uebersetzung von 1539が[ティンダル訳の]stateをcallingで置き換えたのにたいして、1582年のカトリックのランス聖書と、エリザベス時代における宮廷用の英国国教会聖書[複数]die höfischen anglikanischen Bibeln der elisabethanischen Zeitが、ふたたび公認ラテン語訳聖書ヴルガータに倣って、vocationに戻っているのは注目すべきことである」(GAzRS, I, S. 69, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)とある箇所の「エリザベス時代における宮廷用の英国国教会聖書」のことである。なぜここが問題になるのかといえば、この聖書[複数]がヴェーバー独自の調査の結果であるとなると、すべてOEDに依拠したという羽入説が崩れるからであろう。そこで羽入は、この反証潰しにかかる。

 羽入によれば、エリザベスⅠ世時代(1558~1603)、「新たな聖書は三種類しか出されていない」(42)という。ところが、羽入は、その根拠を示していない。じじつ、丸山尚士の調査によれば(本コーナー掲載の丸山第二寄稿参照)、この期間には、羽入が取り上げている三種以外に、ウィリアム・ファルクの『ファルクによる注釈付き新約聖書』が1589年に公刊されている。これは、カトリックの「ランス聖書」を批判する目的で、それと1568年の「司教(英国国教会では主教)たちの聖書 Bishops’ Bible」(後述)とを対比する形で収録し、前者のカトリック的注釈をファルクが逐一論駁したものという。

 したがって、根拠の挙示を欠く羽入の「三種限定」それ自体が疑わしい。ところが、羽入は、この疑わしい前提のうえに乗って、つぎのような推測をたくましくする。まず、ランス聖書は、ヴェーバーが並記しているから、該当しない。つぎに「主教たちの聖書」は、『コリントⅠ』7: 20をcallingと訳しているから、これも違う。とすると、「三種限定を前提とするかぎり、エリザベスⅠ世時代に出版された聖書として残るのは、1560年の「ジュネーヴ聖書」しかないという。そして、これはなぜか『コリントⅠ』7: 20をvocationと訳している[5]。そこで、羽入は、欄外注でカルヴァン派色を濃厚に打ち出したこの「ジュネーヴ聖書1560年版」をヴェーバーが「エリザベス時代における宮廷用の英国国教会聖書」と取り違え、第[6]段落の上掲引用箇所にそう記したのではないか、と推測し、この推測でヴェーバーの「錯誤」「非常識」をこれまた推測し、あげくのはてに「専門家による嘲笑」の対象に据えようとする。

「……この恐るべき『ジュネーヴ聖書』を『エリザベス女王時代の英国国教会の宮廷用聖書』と呼び、またカトリック聖書と並べて『ヴルガータにならって再び“vocation”に戻っている』などと称するのはほとんど考えがたい錯誤なのであるが、あるいはひょっとするとその可能性はあるかも知れぬのである。

 OEDの間違いをそのままに受け継いだヴェーバーにとっては、ウィティンガム訳新約聖書が『ジュネーヴ聖書』なのである。そうすると聖書が一つ余ってしまうこととなる。1560年に出された聖書が一つ余ってしまうのである。ヴェーバーがどこか他の本で、出版年代は分からぬものの、エリザベス朝[sic]時代に新たな聖書が三冊出されたことは知っていたとしよう。しかもその一つ余る聖書は、ウィティンガム訳新約聖書とは異なり、『コリントⅠ』7: 20の問題の箇所を確かに“vocation”で訳してくれており、その限りではあたかもヴルヴータに戻ったように見えたとしよう。こうしてカルヴァン派の影響を欄外注で最も強く打ち出した恐るべき『ジュネーヴ聖書』を、『エリザベス女王時代の英国国教会の宮廷用聖書』と呼ぶという錯誤が生じたのではなかろうか。カルヴィニスト達が作った『ジュネーヴ聖書』を、カトリックの作った『リームズ新約聖書』[『ランス聖書』の英語読み]と並べ、双方とも『ヴルガータにならって再び“vocation”に戻っていることは特徴的である』などともし述べていたとしたら、ヴェーバーの非常識もはなはだしいこととなるが。(もちろん、ここで英訳聖書の専門家達が腹を抱えて笑っている姿は筆者にも思い浮かぶ……。)」(42-3)

推測で他人を批判するのも、その推測を仮説として立証しようというのであれば、(立証後に繰り延べるほうが望ましいにせよ、早まって筆を滑らせても)容認できないことはない。しかしまず、そうした推測の内容が、たとえばこのばあいのように、「ジュネーヴ聖書1560年版」と「英国国教会の宮廷用聖書」との混同というような「悪ふざけ」の水準にまで堕ちると、それだけで説得力は無にひとしくなる。しかも、推測に推測を重ねてそうした「批判」に上り詰めながら、それを仮説として検証するほうは怠るとなると、その批判者は、相手と理非曲直を争おうとしているのではなく、相手を非難すること自体を目的とし、そのためには推測であれ邪推であれ手段を選ばない、との印象を引き起こさざるをえない。こういうばあいにはむしろ、そうまでして誹謗中傷に筆を滑らせる批判者の動機はなにか、と問い返されることになろう。

 羽入は、さきほど「詐欺説」から「杜撰説」に転じたばあいと同様、ここでも、これほどまでに「死人に口なし」の「言いたい放題」を書き連ねておきながら、「ただしこの想定もヴェーバーが聖書の数を複数形で記していることを考えに入れると、成り立たぬかも知れぬ」(43)と逃げに転じ、「いつもそうであるが、追究すれば追究するほど、ヴェーバーの言っていることは意味不明で分からなくなる。ヴェーバーの叙述を追跡し、いかなる英訳聖書を彼の曖昧な記述が指そうとしていたのかを最終的に確定することは、したがって筆者にはこれ以上はできなかった」(43)として、推測仮説の立証は回避してしまう。「追究すれば追究するほど、……意味不明で分からなくなる」のは、自分の「追究」不足、読解力不足のせいではないか、とはつゆ疑わない。「最終的に……これ以上は」「確定」「できなかった」とは、以上の推論で「半ばは論証が尽くされた」との自己主張らしい。

 むしろ羽入の関心は、sachlichに(対象に即して)事実を確定することよりも、推測に推測を重ねる延長線上で、なんとかヴェーバーを「専門家達が腹を抱えて笑」う対象に据え、「笑われる」かれの姿を想像して「溜飲を下げる」、(「道徳上の叛乱」ならぬ)「学問上の叛乱」劇に向かっているように見える。遡っての「推論の根拠」を再検討すると、①「ジュネーヴ聖書」を正式名称であるかに見せて1560年版に限定し、1557年版は「ジュネーヴ聖書」ではないと断定し、なにか別物めかして「ウィッティンガム訳新約聖書」と呼び替え、「事実誤認」と「混同」(の一方の項)とを創り出しておいたのも、②消去法によりヴェーバーの「ほとんど考えがたい錯誤」「はなはだしい非常識」を導き出す前提として「エリザベス女王時代に公刊された聖書は三種のみ」との制限条項を(根拠も挙げずに)独断的に持ち込んでおいたのも、③この制限条項をヴェーバーも「どこか他の本で読んで知っていたとしよう」との推定を設けたのも、ことごとくこの「学問上の叛乱」劇ハイライトを演出する伏線であり、小道具であったようである。ちなみに、ルサンチマンによる想像上の「専門家」はどうあれ、現実の本物は、自分の専門的研究実績がいかに僅少か、ひとたび自分の専門から離れるといかに不得要領か、よく心得ていて、それだけつねに謙虚であろうから、かりに非専門家の思い違いに直面しても「腹を抱えて笑」うようなことはしないであろう。

筆者はもとより、英語聖書史の専門家ではなく、遺憾ながらこの問題に学問的な確信をもって答えることはできない。しかし、ヴェーバーの「言語社会学」的比較語義史のパースペクティーフから演繹して、専門家の教えを乞うに足る仮説はいちおう立てられるように思う。筆者は、ヴェーバーが「宮廷用höfisch」と明記している点に注目したい。つまり、「エリザベス時代の英国国教会宮廷用聖書[複数]」とは、公刊された聖書ではなく、エリザベスⅠ世が、国教会の統一公認聖書の編纂をめざしながら、数種つくらせて宮廷で使って試していた、いわば宮廷私家版の聖書ではあるまいか。

 「言語ゲマインシャフト」の歴史的・社会的条件を重視するヴェーバーの観点から見ると、この時代の聖書翻訳事業は、ウィクリフ(ロラード)派の伝統を引き継ぎながらも、やはり、教皇庁からの独立をめざす王室の宗教政策に(肯定/否定両面で)左右されるところが大きかった。前稿でも触れたとおり、この期におけるテューダ朝の①ヘンリⅧ世(在位1509~47年)、②エドワードⅥ世(1547~53)、③メアリⅠ世(1553~58)、④エリザベスⅠ世(1558~1603)は、国王とはいえ、あるいはむしろ国王なるがゆえに、宗教政策しかも聖書の翻訳になみなみならぬ関心を示し、⑤次期スチュアート王朝の初代の王で「キング・ジェイムズ欽定訳」事業をなし遂げたジェイムズⅠ世(1603~25)にいたっては、「神学論争を好んで……ほとんどすべての言語で書かれた聖書を研究するようになった」(ベンソン・ボブリック、永田竹司監修、千葉喜久枝・大泉尚子訳『聖書英訳物語』、2003、柏書房[以下、ボブリック書]、166ぺージ)と伝えられている。カトリックに回帰してプロテスタントに血の弾圧を加えたメアリⅠ世を除き、かれらの念願は、王室にとって危険なプロテスタントの教理とくにカルヴァン派の予定説は斥けると同時に、権威ある国教会公認統一聖書を編纂して、イングランドの「すべての教会に据えつける」ことにあった。この念願は、ジェイムズⅠ世により、六班51人の聖書学者を動員して成った「キング・ジェイムズ欽定訳」(1611年)でひとまず叶えられることになるが、そこにいたる同質の先駆けは、ヘンリⅧ世治下におけるクランマー監修のカヴァーデイル改訂訳(組版大型)「大聖書Great Bible」(1539)、あるいはエリザベスⅠ世治下の「主教たちの聖書」(1568)として日の目を見ていた。しかしそれらはいずれも、「ティンダル訳」(1526, 1534)と「ジュネーヴ聖書」(1557, 1560)に、質的水準においても民衆への普及度においても遠くおよばず、たえず改訂が要請されて、「キング・ジェイムズ欽定訳」にいたるのである。とすると、王室と国教会上層部におけるそうした利害関心の線上で、なにかにつけて折衷的に独自色を出したがるエリザベスⅠ世が、「宮廷用私家版」聖書を複数つくらせて、宮廷なりの模索と試行錯誤を進めていた、ということも、ありえないことではないと思われる。そして、そうした宮廷用私家版は、公刊されなかったために教会史/聖書史関係の資料や叙述からは漏れていたのにたいして、王朝史/宮廷史を含むイングランドの政治史にも通じていたヴェーバーが、独自に調べたか、あるいは同僚専門家から聞いて、それら私家版聖書類では『コリントⅠ』7: 20のstate がvocationに「戻っている」と知り、注3[6]段落にその旨記したのかもしれない。

 もとよりこれは、一門外漢による即興の一仮説にすぎない。ただ、「どうせ仮説なのだからどっちもどっち」と即断されては困る。一方は、「エリザベス時代における英国国教会の宮廷用聖書」と「ジュネーヴ聖書」(1560年版)との「混同」という荒唐無稽な(「明証性を欠く)仮説を、推測と独断から導き出し、ヴェーバーにかぶせて、「学問上の叛乱」劇を楽しむだけで、当の仮説の「妥当性の検証からは身を翻している。他方は、ヴェーバーの注3の叙述から、語義の形成と変遷を「言語ゲマインシャフト」の歴史的・社会的条件のもとで捉える「言語社会学」的比較語義史の研究方針を引き出し、これを16世紀イングランド史に演繹/適用し、上記のとおり一定の明証性妥当可能性をともなう仮説を導き、その検証にそなえている。この検証そのものは、いまのところ筆者には無理で、専門家のご教示を仰ぐほかはない。ただ、仮説は仮説でも、どちらのスタンスが学問上生産的であるか、「明証的」かつ「妥当」な真理の発見に通じるか、については、読者が賢明な判断をくだされるであろう。 

13. なぜOEDか――言語社会学的比較語義史研究の方針とパースペクティーフ

 羽入は、以上のような「根拠」で、ヴェーバーが英訳諸聖書を見ず、「エリザベス女王時代の英国国教会の宮廷用聖書という意味不明な唯一の記述」(44)を除き、他はすべてOEDの用例に依拠し、そこに記載のない『シラ』11: 20, 21の用例は調べずに“calling”にかんする議論を組み立てたとして、これを「情けない」「杜撰」(44)と断じている。そして、「広辞苑の用例だけに依拠してある語とある語との影響関係を論じ、それを論文にまで仰々しく書く国語学者が我が国にいるであろうか。いるとすればそんなものは国語学者ではない」(44)と決めつけている。

 しかし、この言い回しは、比喩を三重に間違えている。①大辞典OEDは、広辞苑のような中辞典とは効用を異にするし[6]、ヴェーバーは、②「ある語とある語の影響関係」を論ずる③「国語学者」ではない[7]。少なくとも、ある語Berufが「唯『シラ』回路」を伝って(プロテスタントの優勢な)他国語に伝播し、Beruf相当語の波及をもたらす、といった「言霊・呪力崇拝」に陥り、「語と語の影響関係」をもっぱらその平面で扱う、羽入の考るような「国語学者」ではない。語義の創造と普及とを、「言語ゲマインシャフト」のなか、あるいは間で、翻訳者たちが置かれている歴史的社会的諸条件に即し、かれらによる主体的な思想」「概念形成との関連において捉え返そうとする歴史・社会科学者であり、(ヴェーバー自身はこういう語は使っていなかったと思うが)「言語社会学者」といってもよかろう。そうした「言語社会学者」にとり、母国語ではない外国語の大辞典、しかも歴史的に用例を蒐集し、分類して挙示しているOEDのような大辞典には、研究目的に照らして重要な、独自の利用価値があろう。羽入は、このばあいにも、そうした価値関係や効用にはいっさいおかまいなしに、頭から「辞典に依拠して原典を調べないとは『情けない』『杜撰』」と決めつける。これは、いかにも杓子定規な「パリサイ的原典主義」であり、そのじつルサンチマンに発する「過同調」のスコラ的衒学癖、例の「なにがなんでも一次資料マニア」というほかはないであろう。

 では、このばあい、OEDは、具体的にどういう効用をそなえ、ヴェーバーはなぜ、大幅にOEDに依拠したのであろうか。

 ここで、プロテスタントが優勢な諸民族の言語におけるBeruf相当語をいまいちど思い起こしてみよう。そのうち、オランダ語のberoepは、呼ぶという意味の動詞roepenの語根roepに前綴 be-が付けられた語形で、ドイツ語のrufen, Ruf, Berufから容易に類推できよう。ルター派による『コリントⅠ』7: 20の訳語をそのままオランダ語に移せば、語形上も無理なく「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語beroepが誕生するにちがいない。ところが、ヴェーバーが挙示している語彙にかぎっても、デンマーク語のkald, スウェーデン語のkallelseはもとより、英語のcallingも、ドイツ語/オランダ語とは語根を異にする(おそらくギリシャ語kaleōに由来する)語で、それがそもそも(「呼ぶ」という原義に加えて)「神の召し」と「世俗的職業」との二義を併せ持つBeruf相当語なのかどうか、(「ヴェーバー研究者」の「悪い癖」で「ヴェーバーがそういっているのだから多分そうなのだろう」と受け取り、そう決めてかかりやすいが)じつはけっしてそれほど自明ではない。少なくとも、ヴェーバー自身にとっては、そうではなかったであろう。というのも、かれは、自国語のドイツ語について、「トポス」の注においてではあれ、あれほど骨折って、「発音はBerufと同一ないし類似の語」が純宗教的な「招聘」の意味に加えて「世俗的職業」の意味を併せ持つようになったのは、ルターないしドイツ語のばあいには『シラ』でBerufがergon とponosに重ねられたときから、というふうに始源を突き止め立証していた。そのかれであってみれば、他の「言語ゲマインシャフト」の翻訳者たちが、別の語根をそなえたcalling系統の語を、一方ではルター訳の影響を感知し継受しながらも、オランダ語版のようにBeruf をそのまま自国語に移し入れてすむわけではなく(あるいはオランダ語のばあいにもやはり複雑な経緯があったかもしれない)、他方でそれぞれの歴史的社会的諸条件のもとでいついかにしてBeruf相当語に鋳直したのか、という問題に、まさに問題として想到しないはずはなかったろう。そしてヴェーバーは、本来ならば、この問題の研究を、ドイツ語圏/ルターについては自分が実施した「言語社会学」的語義史研究と同一の密度をもって、しかもなんといっても自国語ほどには語義史に通じていない外国語について完遂しなければならない、と重々自覚していたにちがいない。ことは、英訳諸聖書をただ手にとって見て、表紙の写真をうやうやしく掲げ、『シラ』11: 2O, 21、『コリントⅠ』7: 20、および『箴言』22: 29、たった三カ所の訳語一覧表を提示すれば済むといった、いうなれば「没意味文献学」の作業ではない。ある箇所に語形calling, kald, kallelseが当てられているかどうかではなく、その語calling, kald, kallelseがまさしくその箇所にそれぞれどういう意味で当てられているのか、call(呼ぶ)の動名詞として単純に「呼ぶこと」だけの意味か、kaleōから派生したklēsisの訳語として「神の召し」という宗教的意味どの程度純粋に含むか、そのうえ「世俗的職業」の意味まで併せ持つにいたっているのか、個々の用例について網羅的に調べていき、ルターにおいては『シラ』11: 20, 21 で起きた事件が、どこでどのように起きて、Beruf相当語が誕生したのか、あるいは、calling, kald, kallelseが、それぞれいつどこでどのように意味変換をとげ、Beruf相当語になったのか、を各国語ごとに、各国の翻訳者について、突き止め、立証しなければならないのである。その点にかけて、『コリントⅠ』7: 20のstateがcallingに代わったという事実が確認されても、一概にルター的な用語法から「ピューリタン的な」用語法に「進んだ」とはいいきれない。そのcallingの意味しだいでは(つまり、そのcallingがまだ「世俗的職業」の意味をまったく含まなかったとすれば)、「ルター的な用語法stateからかえって原文のklēsisに忠実な「神の召し」(ルターの用語法では「第一種」)に「戻った」といえないこともないからである。したがって、①イングランドの「言語ゲマインシャフト」においてcallingが当時一般に「神の召し」と同時に「世俗的職業」の意味帯びて用いられていたという事実が、当時の英語語彙一般の語義に通じた学者により、語形callingが『コリントⅠ』7: 20に当てられた事実とは独立に証明され、そのうえで②まさにその語義のcallingが『コリントⅠ』7: 20に適用された、と立証されなければならない。

 ヴェーバーとしては、かりに16世紀のイングランドにおけるBeruf相当語の歴史的創始が、かれの研究主題であったとすれば、あるいは「倫理」論文の研究主題にとって枢要の位置価をそなえていたとすれば、ちょうど「中世商事会社史」研究のために古イタリア語、古スペイン語を習得して法制史文献を読みこなしたように、あるいは「1905年ロシア革命」が勃発すると、数週間でロシア語をマスターして現地から届く新聞に読み耽ったように、このばあいにも万難を排して古英語の語義史研究に没頭し、自分で①の証明もなしとげたにちがいない[8]。しかし、再三述べているとおり、この第一章第三節注3[6]段落の論点には、それだけの価値関係も位置価もなく、その意義はいくえにも限定されていたし、ヴェーバー自身その限定をよくわきまえて言明していた。そこで、かれとしては、「にわか仕込み」ではとうてい無理で、他方「倫理」論文にとってはさして意義もない①へのExkurs (「道草」)は避け、賢明にも英語を母国語とする碩学マレー博士が語義と用例の研究を集大成した大辞典OEDの記事に依拠するのが最善と判断したのであろう。そうすることによって、ドイツともロマン語系諸国とも歴史的社会的条件を異にし、統一王国として教皇庁から独立する蠕動をへて、王室も英国国教会の公認英訳聖書を求め、直接間接、肯定的また否定的に翻訳/編纂に干渉する16世紀イングランド特有の歴史情勢のもとで、その変動に見合う一進一退と紆余曲折をへながらも、ともかく語callingが「神の召し」と「世俗的職業」の意味を併せ持つBeruf相当語として普及し、1611年の「キング・ジェイムズ欽定訳」に定着していく流れを大づかみに確認できれば、この第[6]段落では十分であったろう。やがて17世紀の中葉以降、カルヴァン派の大衆宗教性において「確証問題」が前面に顕れ、当のcalling概念が、そのとき初めてルターのBeruf概念も受け入れて「合理的禁欲」の方向で独自に鋳直されていく、という経緯については、それこそ本論で十分な紙幅を当てて論ずると、あらかじめ第[5]段落末尾で断っていたのである。かりにこの注3末尾に、著者が直前の断り書きに背き、みずから英語語義史と聖書史に深入りして延々と論じ、16世紀の諸聖書も「手にとって調べましたよ」とばかり、麗々しく表紙や用例一覧の写真を掲げて証立てでもしていたら、羽入ひとりは表向き「随喜の涙を流す」(本音では「失望落胆して溜め息を漏らす」)かもしれないが、おおかたの読者は、この著者は言表の自己矛盾に無頓着なうえ、軽重の判断がつかない「道草」好きか、と失笑を禁じえないであろう。

ただし、ヴェーバーが注3実質上提示していた言語社会学的比較語義史の研究方針とパースペクティーフを厳格に適用するならば[9]、①1382年のウィクリフ訳clepingが、どういう意味で「後代の宗教改革時代の語法とすでに一致する語」(GAzRS, I, S. 68, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)といえるのか、それが「神の召し」と「世俗的職業」の二義を併せ持つBeruf相当語であったとすれば、いかにしてそうなったのか、②クランマー監修下の「カヴァーデイル訳」(1535年)で、「ティンダル訳」(初版1526年、改訂版1534年)のstateがcallingに換えられたとしても、そのcallingが「神の召し」という純宗教的意味への「回帰」ではなく、「使命としての職業」というBeruf相当語への「前進」/意味転換であったのかどうか(そうでなければ、「ピューリタン的用法」はもとより「ルター的・伝統主義的用法」の始源ともいえない)、③ルターが『ベン・シラ』11: 20, 21において純世俗的職業を表すergonとponosに純宗教的召しを表すBerufを当てたように、ちょうどそれと同義等価の事件[10]として、『箴言』22: 29の純世俗的businessに純宗教的callingを当てる、まさにピューリタン的な意訳の事件が、いつどこでどのように起き、さらにいかにして18世紀のフランクリン父子にまでおよんだのか、などの経緯が、やはり問題として取り上げられ、望むらくはそれぞれが注3における『ベン・シラ』事件の取り扱いと同等の密度で、究明されるべきであったろう。さらにいえば、ルター以前のヨーロッパ大陸についても、ボヘミアのヒエロニムスやヤン・フスではどうであったか、ツヴィングリは同じドイツ語圏とはいってもこの点にかけて異なる展開ないし萌芽を示したのか、「再洗礼派」ではどうであったか、など、多岐にわたって問題が提起されよう。これらは、「倫理」論文の第一章第三節第1段落とその三注に、萌芽の形で提示されていたヴェーバーの「言語社会学」的比較語義史の理論視角と研究プログラム――たとえばBeruf/Beruf相当語のような、ある(価値関係性を帯びた)語の語義創造変遷普及を、「言語ゲマインシャフト」の歴史的・社会的条件とその変動のなかで、ゲマインシャフトを構成する諸個人、とりわけ創始者/翻訳者たちの主体的な「思想」と「生き方」との関連において動態的に捉えていこうとする研究方針――を継承し、ヴェーバーが「倫理」論文でじっさいにやってのけた範囲・「限界」をこえて適用し展開しようとするもので、いうなれば「ヴェーバーでヴェーバーを越える」課題といってもよいであろう。一世紀にもおよんだ粒々辛苦の内在的読解と地道な研究の蓄積を踏まえて、わたしたちはいまやようやく、「倫理」論文を内在的に越え、そうした課題に正面から取り組める地点にまで到達している、といえるのではあるまいか。

14. 推測で「醜い」姿を描く「学問上の叛乱」劇のまた一幕

 ところが、羽入の結論は、(さきほど一部分は本稿6.⑺にも引用した箇所で)こう述べられている。「結論を言おう。彼[ヴェーバー]が『ベン・シラの知恵』11: 20, 21におけるルターの“Beruf”直接の影響を『ベンシラの知恵11: 20, 21の英訳聖書の用例を用いて『倫理』論文中で論じれなかった[sic]のは、現物の聖書を手に取って調べなかったからに過ぎない。もちろん、そこまで調べてしまえば、自分の立論が破綻してしまうことにも彼は気づかざるをえなかったであろう。破綻してしまうことを予感していたからこそ調べなかったのであろうか。ただし、それは学者の取るべき態度ではない。死の前年、ゲシュペルトまで変えるような細かい改訂までしていながら、どうせ英訳聖書にたいする細かい注の部分など、誰も調べやしないと高をくくっていたのであろうか。もしだとする[sic]ならば、そうしたヴェーバーの姿は醜いものでしかなくなる。しかしながら、今となってはもうヴェーバーに向かって何を言っても仕方のないことである。」(44-5)

 歴史の多様性にたいする感受性をそなえたまともな歴史・社会科学者にとって、もとよりヴェーバーにとっても、ルター『シラ』訳の英訳『シラ』訳への直接の影響など、問題ではなく、論文中で論ずる必要もない。そうしたことが「問題」となるのは、羽入がヴェーバーの論点を自分の「言霊・呪力崇拝」的「唯『シラ』回路」説のパースペクティーフに移し入れるとき、そういう羽入の脳裏でのみ創成される「疑似問題」としてにすぎない。ところが、羽入は、そのようにして(自分の見当違いから)ヴェーバーを「杜撰」と決めつけても、それだけではまだ満足できないらしい。かれの眼目は、ヴェーバーを「詐欺師」「犯罪者」として貶め、打倒することにある。とすると、「杜撰」と「詐欺」とは、相手を貶める呼称としては共通で、さればこそ羽入に重宝がられ、羽入書のキーワードともなっているが、双方それぞれを取り出してみると、本来互いに相容れない面もなくはない。「杜撰」では「詐欺」ははたらけない。少なくとも巧みな「詐欺」で人を騙すことはできない。そこで羽入は、ヴェーバーを「詐欺師」に貶めたい一心から、②「杜撰説」に加えて、①「詐欺説」の要素も加味し、非難と貶価を増強しようとする。「杜撰」にはたいてい「動機」はなく、ただ「杜撰」といって非難すればすむ。ところが羽入は、それでは気が済まず、「杜撰の動機解明」に乗り出す。ヴェーバーのばあい、「杜撰」は「杜撰」でも、英訳諸聖書をきちんと調べると「自分の立論が破綻する」との「予感」がはたらいて調査をわざと怠った、いわば「狡い杜撰」であったろうと推測するのである。そして、この想像上のヴェーバーの姿に、「学者のとるべき態度ではない」「細かい注など誰も調べやしないと高をくくっていたろう」と非難を投げつけ、「醜い」と決めつける。

ところが、そうしておきながらここでも、さきほどヴェーバーを「専門家が腹を抱えて笑う」対象に据えたばあいと同様、実物のヴェーバーがほんとうに、「自分の立論が破綻する」と「予感」して英訳『シラ』11: 20, 21の訳語調査を手控えたのかどうか、「学者のとるべき」でない「態度」をとったのかどうか、「細かい注など誰も調べやしないと高をくくっていた」のかどうか、(羽入の身の丈には合った)推測を仮説として検証しようとはしない。やはり「今となってはもう……何を言っても仕方のないこと」と身を翻し、おそらくは「死人に口なし」と胸をなでおろすのである。このばあいも、相手と理非曲直を争う、あるいはザッハリヒに事実認定を争う、というのではなく推測のみで想像上相手の姿を「醜く」描き出し、そう書き連ねることでみずから「溜飲を下げ」、あわせて「逆恨み」読者の拍手喝采を期しているのであろう。前例と同じく、ルサンチマンにねざす「学問上の叛乱」劇の一幕というほかはない。

15. OEDの記載と、ヴェーバー「誤読」の捏造

 つぎに羽入は、「ヴェーバーのこうした杜撰さは当然、資料の読みそのものにも現われてこざるをえない」(45)とする。「英訳聖書を実際には参照していなかったばかりか、唯一の典拠としていた肝心のOEDの記載自体もヴェーバーは誤読しており、しかも自分のその誤読を根拠として、英国における『Beruf =tradeという意味でのピュウリタン的な“calling”概念の起源』を論じている」(45)というのである。羽入としては、これで「駄目を押す」つもりなのであろう。

では、その「誤読」の箇所とは、どこであろうか。ヴェーバーは、確かに、「イングランドにとっては、クランマーの聖書翻訳が、Beruf =tradeという意味でのピュウリタン的な“calling”概念の源泉 Quelleであることを、すでにマレーがcallingの項目で適切にも認めている」と述べ、「すでに16世紀の中葉、callingはこの意味に用いられ、すでに1588年には『不法な職業 unlawfull calling』、1603年には『高級な』職業の意味でgreater callingといった語が用いられている(マレーの上掲箇所を参照)」(45, GAzRS, I, S. 69, 大塚訳、108ぺージ、梶山訳/安藤編、145ぺージ)として、当の項目からふたつの用例を引用している。この論旨にたいして、羽入は、三点にわたって批判を加える(以下①~③)。

まず、①OED(第二巻)の項目callingは、, , に三分され、そのうちの「.Summons, call, vocation」がさらに9.10. 11.に分けられて、それぞれの語義と語源が説明され、用例が挙示されている(63-4)。9.には要するに「神の召し」、†10.には「生活上の地位、身分position, estate, or station in life; rank」、11.には「普通の職業、生計手段、実務、商売ordinary occupation, means by which livelihood is earned, business, trade」の語義が当てられ、それぞれの用例が列挙される。そのうち†10.では、その語源が、『コリントⅠ』7: 20のギリシャ語klēsis、ラテン語vocatioで、この箇所は、「人が救済に召されたときにいた状態ないし地位を表すが、後に9.の意味としばしば混同されて、神が人を[そこへと]召した生活上の身分 the estate in lifeを意味するようになった」と説明されている。この語源説明のあと、『コリントⅠ』7: 20について、1382年ウィクリフのclepynge、1534年ティンダルのstate、1539年クランマーおよび1611年[キング・ジェイムズ欽定訳][11]のcallinge、1557年ジュネーヴ版state、1582年ランス版のvocation、合計六箇所の訳語が列挙され、そのあとに1555年から1691年までの俗語文献六点から用例(calling,callinge, Calling)が引用されている。そして、そのあとに11.「そこからHence」として、上記「普通の職業……」の語義説明がつづき、「この語義の語源もしばしば上例[†10.と同じように説明されるoften etymologized in the same way as prec.」と付記されているのである。

さて、羽入は、11.劈頭のこのHenceは、†10.の記載全体あるいは語源説明を受けるのであって、「ヴェーバーの言うように語義†10.における用例の一つに過ぎぬクランマー聖書からの引用のみを指しているのではない。したがって、『[英国にとって、]クランマーの聖書翻訳がBeruf =trade という意味でのピュウリタン的な“calling”概念の起源であること』をOEDがcallingの項で『適切にも認めている』などというヴェーバーの主張は、成り立たない」(48)と断定する。しかし、ヴェーバーがいったいどこで、「語義†10.における用例の一つに過ぎぬクランマー聖書からの引用のみを指して」「クランマーの聖書翻訳がBeruf =trade という意味でのピュウリタン的な“calling”概念の源泉である」と「主張」したであろうか。これも、好都合に「ヴェーバーの主張」を捏造しておいて、つまり「ヴェーバーの藁人形」を創っておいて斬って捨てる類の操作ではないのか。

じつは、ヴェーバーは、このHenceを†10.の記載全体と解し、とりわけ†10.の語源論を11.付記が受けて、「普通の職業……」の意味も「地位、身分」のそれと同じように9.「神の召し」との混同から派生したと関連づけて捉えている記述を重視し、そうして初めて、「イングランドにとっては、クランマーの聖書翻訳が、Beruf =tradeという意味でのピュウリタン的な“calling”概念の源泉であることを、すでにマレーがcallingの項目で適切にも認めている」と評価し、さればこそヴェーバー自身、マレーの見解を受け入れることができたと思われる。というのは、こうである。『コリントⅠ』7: 20の用例だけを列挙して、1539年のクランマー訳(ないしはクランマー監修下の「カヴァーデイル訳」)で初めて原語klēsisに語形callingeが当てられた事実を挙示しても、当のcallingeが、まだ10.世俗的身分ないし11.世俗的職業の意味を含まずもっぱら9.神の召しの意味で用いられたのかもしれず、それでは「ルター以前への逆戻り」でこそあれ、なんら「ピュウリタン的な“calling”概念の源泉」を証明したことにはならない。語形callingeが、当時すでに†10.「身分」ないし11.「職業」の概念を表示し、その語義のcallingeが一般に俗語文献でも用いられて、それが『コリントⅠ7: 20にも当てられたあるいはコリントⅠ7: 20に当てられた語形callingeは、確かに†10. ないし11.の語義を含んでいた、と証明されなければならない。そして、その証明のために、16世紀中葉のイングランド言語ゲマインシャフト妥当なものとして通用していた語義諒解俗語文献も渉猟して調べ上げることは、英語を母国語とせず、古英語の語義史には通じていなかったであろうヴェーバーには、にわかには実施困難で、ここでは(この注3[6]段落の限定された論点にかんするかぎりは)むしろ、16世紀についても語義と用例を系統的に蒐集/分類している『歴史的原理に則る英語大辞典』に依拠するのが最善で、賢明な判断であったにちがいないのである。

 OEDのマレーの記事は、ヴェーバーの要望に確かに「適切に」応えている。語義を9. 10. 11.に明晰/判明に(語義「諒解」の流動的相互移行関係を視野に収める「言語社会学」的観点から見れば「理念型」的に)分類し、9.から†10. 11.が派生する語源関係(「言語社会学」的には「流動的移行」関係)も明らかにし[12]、なによりも、9. については18例、†10.については (クランマー訳と欽定訳を含めて) 13例、 11.については9例の具体的用例を蒐集挙示して、「言語ゲマインシャフトにおける当該語義諒解の広がり普及を(ヴェーバーも独自に調べても叶わなかったであろうように)証明しているからである。それゆえ、クランマー訳と欽定訳とのcallingeは、11.ではなく、†10.の用例中に数えられているにもかかわらず、それがやがて11.の語義も帯びると類推でき、後代の「ピュウリタン的な“calling”概念」から遡ればその源泉」であると認めることができる。そう認定できれば、この注3[6]段落に当てがわれた、限定された論証の課題は達成され、あとは「道草」を食わずに本論で、当の“calling”概念が「世俗内禁欲」「禁欲的合理主義」に編入され、鋳直される経緯と帰結を、集約的に分析するのみである。ヴェーバー自身も、†10.の用例中に「クランマー訳」が挙示されいるからといって、そこだけに飛びつくというような(羽入が羽入らしく短絡的に推定しているような)まさにそうした短絡を犯すはずはなく、上記のように(研究における「規範的格率」と「経済的格率」との「せめぎあい」のなかで)OEDに依拠し、賢明に自分の足らざるところを補い、「クランマーの聖書翻訳が、ピュウリタン的な“calling”概念の源泉である」と「適切に」立論したにちがいない。

16. 「杜撰」暴露で自己満足――「不問に付された事実の発見」を活かせず

つぎに羽入は、②『コリントⅠ』7: 20のklēsisを初めてcallingeと訳したのは、1535年の「カヴァーデイル訳」で、「クランマーの聖書翻訳」ではないと述べ、これを理由に、「ヴェーバーが余り英訳聖書史に詳しくなかった」「英訳聖書史の観点からしてすでに誤り」「『クランマー聖書』の成立事情に関して知識を欠いていた」「ヴェーバーが本物の英訳聖書を手に取ることなく、OEDの記載のみを見て即断したことはここからも傍証されよう」(48)と非を鳴らしている。

確かに、この「クランマーの聖書翻訳 die Cranmersche Bibelübersetzung」は、前稿の注28で詳述しておいたとおり、成立事情がやや複雑である。トマス・クロムウェル(1485頃~1540)とともにヘンリⅧ世の腹心であった大司教トマス・クランマー(1489~1556)は、1534年に「全教会に英語訳聖書をそなえつける方針」を提言し、王の承認をえて実施に移した。そこで、クランマーの命を受け、公認英訳聖書の編纂にあたったのが、マイルズ・カヴァーデイル(1488~1569)である。なんと翌1535年には、ひとまず――といってもイングランドでは初めて――旧新約全書の英訳をなしとげている。では、この「カヴァーデイル訳」について聖書学/聖書史の専門家は、どう評価しているのか。ベンソン・ボブリックと田川建三に聴こう。

「カヴァデイルはラテン語学者で、ヘブライ語とギリシャ語の知識はほとんどなかったので、かれの聖書はたいてい他の翻訳書を底本としていた。特に準拠したのが、ティンダルの翻訳と聖ヒエロニムスのウルガタ版ラテン語訳、ドミニコ会の学僧サンテクス・パグニヌスによって原典から翻訳され、『二人の教皇の許可を得て』1528年に出版された新しいラテン語訳、そして二種類のドイツ語訳――一つはルター訳、もう一つは1529年刊行のチューリッヒ版聖書として知られる、ウルリッヒ・ツヴィングリとレオ・ユダ共同の力作――であった。そのような寄せ集めではうまくいくわけがないと思われるかもしれないが、カヴァデイルには驚くべき編集の才と、音を聞き分ける鋭敏な耳があった。ほぼ的確な目で、彼は資料の中から最良の部分を混ぜ合わせたり修正を加えたりしてうまく一つの立派な統一体に仕上げた。序文の中では自分が翻訳者としては不適任であることを率直に認め、はっきりと名を挙げてはいないが、その『豊かな』学識が適任であった人物として、ティンダルに敬意を表した。また欠員ができたために代わりに自分が『イングランドの国のために』この仕事を引き受けたと述べている。『期待されたほどうまくできなかったが、それでも全力を尽くし、善意で成し遂げることが私の義務だと考えた』。また彼は当局を敵にまわして自分の作品をそこなうことがないように注意を払った。『私は一個の私人にすぎませんし、高い権力を持つ者には従います』とかつて書いたこともある。最初題扉には『ドイツ語とラテン語から英語に訳した』という文句があったにもかかわらず、より慎重に『忠実に英語に翻訳した』と変更し、ドイツ語訳の(すなわちルター派の)痕跡が残らないようにした。結局、かなりの部分――詩書と預言書と外典――はカヴァデイル自身の翻訳でもあった。」(ボブリック書、113-4ぺージ)

田川建三となると、政治的背景への洞察も交え、氏らしく辛辣である。

「1534年にヘンリー八世がカトリック教会と分裂し、イギリスの教会は国教会となる。イギリス国教会というのは奇妙な存在で、非常におおざっぱに言えば、カトリックとプロテスタントの中間みたいなものであるが、その性格が聖書の翻訳の問題にも現われる。ヘンリー八世自身がそういう複雑な宗教政策を実際に司る能力があったわけではないので、彼のいわゆる懐刀として国教会の中身を作っていったのは、筆頭の大臣とも言うべき地位にいたトマス・クロムウェル(Thomas Cromwell)と大司教トマス・クランマー(Thomas Cranmer)であるが、クランマーが、国教会のすべての教会に聖書の英語訳を備えつける、という政策を提唱する。その点ではプロテスタントである。しかし、かといって、むろんティンダル訳を採用するわけにはいかない。ティンダル訳は重要な教会用語に関して、伝統的なカトリックの教会用語とは異なった訳語を多く導入している。」(田川書、552ぺージ)

「だから、カトリック教会がこういう翻訳を弾圧したのは当然のこととして、イギリス国教会の方は中間的な立場だから、もう少し微妙である。ティンダルを排斥する点ではカトリック教会と同じでも、聖書の英語訳そのものに反対していたわけではない。むしろ英語訳を積極的に普及しようとした。国教会はその成立当初は、聖書の英語訳の発行のために、大陸に亡命していたティンダルを呼びもどそうと試みている。これはティンダルのほうが断ったようだ。まあ、彼の学問的良心は国教会の半ばカトリック的な姿勢とは相いれなかっただろうから、もしもここで帰国したとしても、結局は何らかの破局は避けられなかっただろう。

結局、国教会は、ティンダルぬきでティンダル訳を活用することになる。かといって、これらの訳語を含むティンダル訳をそのまま採用するわけにもいかない。となると、大急ぎで国教会用の英語訳聖書を作らなければならない。その作業をおおせつかったのが、カヴァーデイル(Miles Coverdale)なる人物である。歴史のはざまには、いつもこのような道化まわりを担当する人物が登場する。彼はティンダルの知人で、その生前には結構その仕事に協力していたのだが、ここで国教会に利用されることになる。かわいそうに、かれはギリシャ語もあまり、ましてヘブライ語はほとんど、わからなかったようである。となると、既存の諸訳をつなぎあわせる以外にない。ティンダルをほとんどそのまま利用しつつそれでは都合の悪い部分は他の訳を参照して訳文をつくったのである。カヴァーデイル聖書と呼ばれるこの代物は、表紙に書かれた能書きによると、『ドイツ語(Douche)とラテン語から英語に訳した』とあるそうだが、原典からの訳ではないということを正直に告白してくれている。この場合のドイツ語はルター訳とチューリヒ聖書、ラテン語はいうまでもなくヴルガータを指す。しかもこれを実際に比較検討したA・W・ポラードによれば、これはほとんどティンダルに依存している。1535年の発行であるから、国教会成立の翌年である。拙速の典型と言えよう。

ただし、この仕事の唯一の長所は、ティンダルは完成できなかった旧約聖書の訳も完成し、聖書全体の訳をはじめて英語で提供した、という点にある。」(田川書、553-4ぺージ)

こうなると、ティンダルの友人で、ティンダルから旧約の一部未発表稿を託されていたジョン・ロジャーズが、黙っていない。カヴァーデイルの向こうを張って、ティンダル訳とその注を復元し、ティンダルの旧約未訳部分は、こんどはこちらもカヴァーデイル訳を取り入れて、1537年に「(偽名)トマス・マシュー訳」として発行する。

「当然こちらの方が良い訳であるから、カヴァーデイルは形無しである。トマス・クランマーもとりあえずこれの流通を容認せざるをえない。しかし、彼らとしては、そのままほっておくわけにもいかない。それに代る公式の翻訳、イギリス国教会の司教(主教)たちの総意を結集した国教会用の公式の聖書の翻訳を、本当に原典から翻訳して作る必要にせまられた。

 しかしそれは大掛かりな仕事にならざるをえない(これを後になってからやっと実現したのが、ほかならぬ欽定訳[1611年「キング・ジェイムズ欽定訳」]である)。とりあえずのつなぎとして、マシュー訳を国教会で使えるようにまたまた急造改訂することになった。そこで再びカヴァーデイルに仕事が押しつけられる。かわいそうに。プロテスタント的な注や解説を削除し、問題の訳語も入れ替える。二年後の1539年には完成している。これをあだ名で『大きな聖書Great Bible』と呼ぶ。別にgreatだからとて、『偉大』なわけではない。単に版型が大型だっただけの話である。教会の説教壇に設置するために。」(田川書、554-5ぺージ)。

翌1540年に出されたこの「大聖書」第二版には、クランマーが「言葉が違っていても、すべての国々が信仰の一致によって唯一の神を知り、愛によって一つとなっているように、翻訳が何種類かあってそれらが寄せ集めの言葉を用いていようとも、理解しあえるであろう」(ボブリック書、109ぺージ)と、まことに正直な「序文」を寄せた。そこで、この「大聖書」が、「クランマー聖書」とあだ名されるようになったのであろう。そういうわけで、1535年版「カヴァーデイル訳」と1539年版「大聖書」とは、実質的には「クランマー監修、カヴァーデイル編訳、ティンダル訳」とでも称すべき性格の代物であったと思われる。しかし、「監修者」とは、いずこにおいても実質的な仕事はせずに調整役を果たすだけであるが、カヴァーデイルはともかくも一部分を訳し、ボブリックも田川もともに、初めて旧新約の全訳を発行した功績は認めているのであるから、「クランマー訳」というよりも「カヴァーデイル訳」といったほうが、どちらかといえば正しいであろう。しかも、1535年の「カヴァーデイル訳」で、問題の『コリントⅠ』7: 20のklēsisが、なぜかティンダルのstateからcallyngeに替えられ(「マシュー訳」ではティンダル訳にならってstateに戻される)、このcallyingeが、1539年「大聖書」から1572年「主教たちの聖書」をへて1611年「キング・ジェイムズ欽定訳」に引き継がれる。OEDの記事は、“1539 Cranmer and 1611, in the same callinge, wherin he was called”とある。つまり、1539年「大聖書」を「クランマー訳」として採って、こちらのcallingeが、(じつはクランマー没後の)1611年「キング・ジェイムズ欽定訳」に引き継がれた、といいたいのであろう。確かにここでは[13]、1535年「カヴァーデイル訳」は無視している。そしてヴェーバーは多分、OEDの記事をそのまま受け取って独自に解釈し、1535年の「カヴァーデイル訳」に遡って調べることはしなかったにちがいない。したがって、この点を正確に明らかにした功績は、羽入に帰せられよう。これは、羽入書「第一章」唯一の「世界初の発見」、「不問に付されていた事実の発見」ではあろう。ただ、それでOEDとヴェーバーを非難し、得意になって終わったのでは、なんにもならない。

 むしろ、羽入がここでは、OEDとヴェーバーを、「1539年『大聖書』を採ってその前身である1535年『カヴァーデイル訳』を無視した」と批判するのであれば、当の羽入がさきほど「1560年『ジュネーヴ聖書』を採って、その前身である1557年『ジュネーヴ版』は殊更『ジュネーヴ聖書』ではないといってしりぞけた」のも、同一の規準ないし論法で批判されてしかるべきではないか。しかも、1535年「カヴァーデイル訳」、1539年「カヴァーデイル改訂訳」の、上記のような成立事情を顧みれば、OEDとヴェーバーが、両方を「クランマー監修、カヴァーデイル編訳、実質ティンダル訳」(簡略に「クランマー監修訳」)と見なして1539年版「大聖書」で代表させ、独創性に乏しい1535年版を殊更「カヴァーデイル聖書」として挙示しなかったのも、それほど目くじらを立てるほどの誤りでもなかろうと思えるが、いかがであろうか。

むしろここで、ヴェーバー研究ないし言語社会学的語義史研究にとって知るに値する意味がありそうなのは、「カヴァーデイル訳」が(上記、聖書学/聖書史の専門家がいうように)ティンダル訳の「焼き直し」であったとしても、あるいはむしろまさにそうであればこそかえってなぜそのカヴァーデイルが、よりによって問題の『コリントⅠ』7: 20にかけては、ティンダルに追随せずに別語callyngeを当てたのか、そのありうべき理由を探究することであろう。さらに敷衍していえば、『コリントⅠ』7: 20のklēsisを、ルターにもっとも近いティンダルが1534年にはまだstateと訳していたのはもっともとしても、カルヴァンにもっとも近いフウィッティンガムも1557年「ジュネーヴ聖書」でstateと訳し、さらに1560年版ではvocationに「戻って」、一見「ピューリタン的な用語法」から遠ざかっていくように見受けられるのにたいして、むしろ1535/39年クランマー監修訳、1572年「主教たちの聖書」、1611年「キング・ジエイムズ欽定訳」といった、英国国教会の公認訳のほうに、callingの「ピューリタン的用法の源泉」あるいは「その萌芽」が出てくるのは、いったいなぜなのか、と問われよう。16世紀イングランドの「言語ゲマインシャフト」における歴史的・社会的諸条件とその蠕動/変遷に照らして、こうした一定の「捩じれ」ないしは「紆余曲折」が生ずることはありうると予想されるにしても、やはりその具体的な根拠が究明されなければなるまい。

ここで一門外漢の筆者がその研究に手を染めることはできないとしても、これもさきほど述べた「ヴェーバーでヴェーバーを越える」研究課題のひとつとはいえよう。羽入の英訳諸聖書にかんする労は多い調査と、上記1535年「カヴァーデイル訳」にかんする「不問に付されていた事実の発見」の功績も、ヴェーバー非難で終わらずに、この注3「6」段落でも「ヴェーバーが本来考えるべきであったこと」あるいは「考えてもよかったこと」の究明へと連なればよかったのに、と惜しまれる。そうして初めて、学問的な批判、学問的に生産的な批判になる。

ところが、ルサンチマンにねざす「学問上の叛乱」劇は、このばあいにもやはり、たとえ問題となしうる事実を発見しても、それを問題として活かせない。むしろ発見事実を、相手への非難に直結して「溜飲を下げ」、それだけで自己満足に耽ってしまう。そのために、その発見からまた新たな推論を試みて新たな問題設定や事実発見に到達する、学問上の前進への道をみずから塞いでしまうのである。まさにそれゆえ、学問上有害である。羽入書が「反面教材」として有用なのは、まさにこのルサンチマンにねざす「叛乱」劇の不毛さを、なにものをも憚らず、遠慮会釈なく披瀝してくれているからである。

17. 「言語ゲマインシャフト」の現実と辞典の「理念型」的区別――稚拙な批判は、批判者への問いに反転する

つぎに羽入は、③ヴェーバーがOEDから引用したふたつの用例unlawful callingsとgreater callingsのうち、前者は確かに11.「普通の職業」欄に含まれるが、後者は†10.「地位、身分」の項目に属する一用例であるという事実を挙げて、「ヴェーバーは別の項目の用例を一緒くたにして引用してしまっており、項目†10.11.意味の違いが正確には分かっていなかった」(50)と推定している。

 しかし、これもむしろ、本稿前出12. で取り上げた、「ジュネーヴ聖書1560年版」と「英国国教会の宮廷用聖書」とをヴェーバーが混同していたのではないか、といった推定批判と同じく、あまりにも推定内容が稚拙なため、かえって説得力に乏しく、むしろ批判者の力量が問われる一例であろう。つまり、羽入には、OEDが†10.11.とを別の項目として立てた意味が分かっていないのではないか。あるいは、いっそう正確にいえば、ヴェーバーも、明晰/判明に記されているOEDの「項目†10.11.の意味の違い」は、他の検索者と同様、一読してすぐに理解し、「一緒くたにし」たはずはないが、そのうえで、その「意味の違い」をどう捉え返したのか、そうしたヴェーバーの方法的思考の意味が、羽入には「分かっていなかった」のではなかろうか。

 すでに丸山尚士の第二寄稿が指摘しているとおり、現実の「言語ゲマインシャフト」において「語」られ、「諒解」をとげられる語彙の「意味の違い」は、それ自体としては明晰/判明ではなく、「流動的移行」の関係にある。現に羽入書も、本稿14.冒頭に引用した「結論」のなかで、学術書としては珍しく、「論じられる」を「論じれる」、「もしそうだとするならば」を「もしだとするならば」と記しており、現在進行中の「流動的移行」傾向を反映している。辞典(少なくとも「歴史的原理に則る大辞典」)とは、現実に進行した「流動的移行」関係にある用例群を蒐集し、あとから明晰判明な理念型的区別を立て、これを規準に用例を分類――つまり、個々の用例を相対的にもっとも近い項目に内属させ、その欄に記載――したものであろう。辞典の区別が先に「制定」されて、現実の用例が(あるいは当該語を発する行為者が)その「制定律」に「準拠」するのではない。「言語ゲマインシャフト」は、「欽定oktroyieren」ないし「協定paktieren, vereinbaren」される「制定律」「制定秩序」をそなえた「言語ゲゼルシャフト」ではないのである。

 とくにこのOED“calling”項目Ⅱのばあい、9. †10. 11.の三者が近接した流動的移行関係にあることは、語源学的に説明されており、とりわけ中間項の†10.は†符号を付けられて、廃語(歴史的に廃れていった語義)とされている。とすれば、その欄に記載された用例greater callingの「語義諒解」(「上級の身分」)は、11.のそれ(「上級の職業」)に移行していく途上にあり、記載された年代以降には、†10.の語義は廃れて11.のそれに収斂した、と解して差し支えなかろう。なお、†10.の欄には、greater callingのほか、“1555 We are commanded…to apply ourselves to goodness, every one in his calling.”という、「アウグスブルク信仰告白」16条のnach seinem Berufに似ていて、ルターが後に「世俗的職業」の意味に解したのと同じ用例、また、11.の欄には、unlawful callingのまえに、“1551 As careful familie shall cease hir cruell callinge and suffre anie laiser.”といった用例が示されている。



[1] 羽入は、フランクリン父子のこのcallingが、ルターですでにBerufと訳されていなければならず、そうでなければ「倫理」論文の「全論証構造」が崩壊する、という奇想天外な「アポリア」を持ち込むが、この問題は、ここでは立ち入らず、本稿(その2)で再度取り上げることにしよう。

[2] とはいえ、筆者はなにか、羽入の向こうを張って、ヴェーバーが英訳諸聖書をことごとく手にとって調べた、と主張するわけではない。ヴェーバーの調査がどの程度のものであったのかは、よく分からない。ただ、この注3[6]段落にかぎっては、OEDに依拠したことに、後述のとおり正当な理由があり、それだけでも十分であったと思う。ここでは、羽入のこの「推論の根拠」が、「パリサイ的原典主義」に依拠して相手を貶める些事拘泥の言いがかりにひとしく、根拠の体をなさない、というまでである。

[3] というのも、「意味」を豊かに汲み、「論理」的にしなやかに思考するという研究者として必要な力量を欠き学問性から逸脱」しているので、かえって「原典」や「語」の外形にのみ過剰にこだわる「過同調」に陥らざるをえないのであろう。

[4] この点にかんして、筆者は拙著『ヴェーバー学のすすめ』で、「かりにOEDの記載に誤りがあったとしても、その責任はOED側にあり、その件でヴェーバーの責任を問うのは本末転倒である」という趣旨の立論をして、後に丸山尚士から批判を受けた(丸山第二寄稿参照)。拙著執筆時にも「例によって針小棒大な議論で、おかしいな」と感じてはいたが、「ジュネーヴ聖書」の成立経緯にかんする事実関係を調べる余裕がなく、つい、こういうときによく使う「一歩譲ってかりに……としても」という論法で片づけてしまった。不用意であった。丸山の批判に感謝し、自己批判して訂正し、OED関係者ならびに読者にお詫びする。OED最終巻(第20巻)の文献表には、New Testament の項目にGeneva 1557、Bibleの項目にGeneva 1560と記載されている。

[5] なぜ「ジュネーヴ聖書」が、1557年版から1560年版にかけて、『コリントⅠ』7: 20のstateをvocationに改めたのかは、興味深い問題である。確かに、語はヴルガータから採ったのであろう。さりとて語上も単純にカトリック的用法に回帰したのであろうか。vocatioは、呼ぶという意味の動詞vocōの完了受動分詞から派生した語で、伝統的には「聖職への招聘」に限定して用いられていた。しかし、20世紀には、たとえば「社会学の現実的課題La vocation actuelle de la sociologie」(G・ギュルヴィッチの主著のタイトル)というふうに、世俗的な使命/課題の意味にも用いられている。とすると、歴史的にどこかで、「聖職への」という制限が解除され、世俗的職業にも適用されるようになったにちがいない。その萌芽が、なんらかの形でこの「ジュネーヴ聖書」(1560年版)に現われたとしたら、早過ぎるであろうか。当該聖書の欄外注、およびOEDの“vocation”項目を調べてみるとどうであろうか。英語聖書史の専門家のご教示をえたいところである。

[6]中辞典には中辞典の効用があり、中辞典一般を大辞典に比して貶価するのではない。国語学者も、中辞典の効用を学問上も認めて、柔軟に使いこなしているのではあるまいか。

[7]これは羽入が、ヴェーバーを自分のパースペクティーフに移し入れ、「おのれに似せ」て、「言霊・呪力崇拝」ゆえに語形に埋没する没意味国語学者」に仕立てた規定といえよう。

[8] 拙著では、この点を、一次資料を最善とする規範的格率と、研究上の経済という合目的性の格率との「せめぎ合い」の問題として論じた(84-6ぺージ)。

[9] ここで、「法廷論争」とは異なる「学問論争」固有の課題に移る。つまり、「学問論争」では、「弁護」「特別弁護」すべき「被告人」への根拠ある学問的批判はたとえ被告人の不利となっても避けてはならない。

[10] 逆に、もっぱら世俗的職業を表していた語が、あとから「神の召し」という宗教的意味を帯びてBeruf相当語になる、というばあいも、論理的には考えられないことはないが、歴史的にはありそうもない。

[11] トマス・クランマーは、1556年に、メアリI世によって火刑に処せられているから、“1539 Cranmer and 1611, in the same callinge, wherin he was called”というOEDの記述は、このように解すべきであろう。この点については、ヴェーバーの「クランマーの聖書翻訳」という叙述に関連するので、後で取り上げる。

[12] 羽入は、「0EDによる『世俗的職業』としての“calling”概念の成立の経過」(48)を、約三ぺージにもわたって延々と「定式化」したあと、「ヴェーバーによる『世俗的職業』としての“Beruf”-概念の成立の説明と構造が酷似している」として「ヴェーバーは0EDのこの部分をヒントとして“Beruf”に関する自分の語源学的議論を組み立てたのかもしれない」と類推している(48)。しかし、宗教改革の思想的経過から、「現世の客観的秩序」、そのsubdivisionとしての「身分」つぎに「職業」が、順次宗教的に意義づけられ、そうした概念に見合う語がつくられる、という「概念-語義」の変遷を考えれば、双方が酷似するのは当然であって、「語源学的議論」に視野をかぎり、その枠内でどちらが「原型」かを論じてみても始まるまい。

[13] OEDの 項目9.のほうには、用例中に“1535 Coverdale Rom. i. 7 Sayntes by callinge”との記載があり(63)、マレーが1535年のカヴァーデイル訳を知らなかった、あるいは単純に無視していた、というわけではないことが分かる。現行第二版最終巻(第20巻)の文献表にも、Bibleの項目に、Coverdale 1535, ‘Matthews’ 1537, Great or Cranmer’s 1539”と記載されている。マレーは、なにか理由があって、『コリントⅠ』7: 20については1535年「カヴァーデイル訳」を採らなかったのではあるまいか。こうした問題を慎重に調べることこそ、文献学者の仕事ではあるまいか。


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(1-3)」

2004年7月27日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(1-3)

折原 浩


2004年7月27日

小括

 以上が、羽入書「第一章」にたいする批判、そこにおける「意味変換操作」の追跡/暴露/論証である。

羽入は、ⓐ「遺跡」(= マックス・ヴェーバーの全著作)から一「遺構」(=「倫理」論文)を、「遺構」からその一「部位」(= 第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」第1段落の「トポス」とそこに付された三注)を、さらにその「部位」から一「遺物」(=「イングランドにおけるBeruf相当語=callingの普及経緯」にかんする原文16行 約150字)を抜き出している。そのさい、「遺跡」のなかでの「遺構」の位置価、「遺構」のなかでの「部位」の位置価、「部位」のなかでの「遺物」の位置価、が顧みられず、それぞれを抜き出す根拠が論証されていない。したがって、当の「遺物」が、「遺構」とその「部位」の「配置構成」のなかで本来そなえていた「意味」と「限定」が無視されている。

原著者ヴェーバーは、「ルターの職業観」節冒頭、「トポス」としてのBeruf論で、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つBerufが、宗教改革者ルターの聖書翻訳から、原文ではなく翻訳者の精神の表明として(つまり意訳によって)創始されたと主張し、その歴史的経緯と帰結(の一部)を注で詳細に論じた。なるほど、ルターにかぎらず、西洋近世以降プロテスタントが優勢となる諸民族の宗教改革者たちは、それぞれ「顕示的信仰fides explicita」に欠かせない聖書の自国語訳に取り組み、それぞれ(「神に召し出された使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ)Beruf相当語を創り出していった。しかしそれは、改革者・翻訳者各人が置かれている「言語ゲマインシャフト」の歴史的社会的条件のいかんにかかわりなく、一律にルターの創始過程を真似て(あるいはそれに合わせて)、そのパターンを反復ないし縮小再生産していったということではない。ルターが『シラ』句の独訳で語Berufに「使命としての職業」という語義を創始したからといって、他の改革者・翻訳者も、みな判で押したように『シラ』句の自国語訳から始め、「言語創造的影響」力を発揮すると決まっているわけではない。ヴェーバーがそんな主張をしたためしはないし、だいたいまともな歴史・社会科学者が、歴史的・社会的条件の多様性を無視して、そんな戯言を語るはずもない。

 ルターのばあいは、救済追求「軌道」の「世俗内」「転轍」という画期的「意義」が、「現世の客観的秩序」「身分」「職業」を「神の摂理」と捉える「摂理観の個別化」「伝統主義」と結びつき、「使命としての職業」概念が孕まれ、これが聖書翻訳計画の進捗状況とあいまって、聖句としてはまず(反貨殖主義的・伝統主義的な「神への信頼」を説く)旧約外典『シラ』11: 20, 21の(純世俗的職業ないし職業労働を意味する)ergon とponosに(それまで「神の召し」あるいはせいぜい「聖職への招聘」という純宗教的意味に使われてきた)Berufを当てるという劇的な形式で、それだけ鮮やかに表明された。以後、この大胆な意訳がルター派においては(排斥されるのでも、廃れるのでもなく)受け入れられ、『コリントⅠ7: 20他の聖句にも俗語の語彙にも普及し、一方ではルター派宗教政治勢力の伸張、他方では領邦国家の分立と方言群の割拠状態という「言語ゲマインシャフト」の特殊な歴史的・社会的条件のもとで「言語創造的影響」もおよぼして現在にいたっている。しかし、ルターのドイツとは歴史的社会的条件の異なる「言語ゲマインシャフト」に生きて、ドイツ語以外の言語を母国語としている宗教改革者たちは、ルターによる宗教改革思想の影響を(聖書翻訳のみでなく、著作にも表現されるルターの「生き方」そのものから)強く受け、その一環としてBeruf創始の意義は重々認識し、思想とともに自国語に移したいと思い立つにしても、それぞれ自国における(あるいは自国を拠点とする)宗教改革を進めるにあたり、そのプログラム全般のなかで、どれだけの比重を「言語改革」に置き、これをどのように進めていくか、という一点にかけては、一方では、それぞれの「言語ゲマインシャフト」における歴史的・社会的諸制約(彼我の力量の差を含む)、他方では、それぞれの母国語の状態(ステロ化・合理化の度合い)に応じて、それぞれ取り組みのスタンスと帰結とを異にせざるをえなかったであろう。

 こうした視点と研究プログラムは、ヴェーバー的歴史・社会科学の一ジャンルとして、ここで「言語社会学」的比較語義史と名付けられ、今後、新進気鋭の若手研究者によって引き継がれ、鍛えられ、展開されていってほしい[1]と思う。とまれヴェーバーは、問題の注3[6]段落で「イングランドにおけるBeruf相当語の普及経緯」という(まさに羽入が抜き出す)論点に入る直前の[5]段落末尾で、かれが「倫理」論文の主題との関連で最重要視していたカルヴァン派への影響にこと寄せて、そうした視点を明快に語り出し影響先「言語ゲマインシャフト」の歴史的社会的諸条件と、そのなかに生きる宗教改革者・翻訳者の主体性を捨象しないようにと警告を発した(あるいは、かれの歴史・社会科学に少しでも通じていれば、そう警告していると読み取れるように語った)。しかも、カルヴァン派の大衆宗教性が「確証問題への関心」(という主体的条件の成熟)から、ルターの職業概念を受け入れて鋳直すのは、後代(17世紀以降)のことで、ルターの直接の影響には帰せられ、イングランドにおけるBeruf相当語callingの成立/普及だけにも帰せられない、それこそ(「倫理」論文の主題にとっては)はるかに重要な問題で、本論(第二章)に入って正面から本格的に取り扱うから、このあと注3[6]段落では立ち入らない、およそ注しかもその末尾で触れて済ませられる問題ではない、とはっきり断っている、あるいは断っているも同然なのである。

 しかもその第[6]段落の原文16行約150字については、ヴェーバー自身、かれの「言語社会学」的比較語義史研究としては大いに限界があり、かれとしても不十分/不満足なものと重々心得ていたにちがいない。かりにかれがイギリス人で、「トポス」にBeruf でなくcallingをもってきたとしよう。そのばあいには、語形callingが聖俗二義を併せ持つBeruf 相当語歴史的に形成される経緯を、ちょうどかれが「トポス」に選定した自国語Berufについて、長大な注3でルターの思想と用語法の変遷をたどって突き止めたように、またそれが創始点でそれ以前にはタウラーのRufという「廃れた」用例があっただけであろうと、ルター以前に遡って調べて(「自分の知るかぎりでは」と慎重に断って)語ったように、自国語の古語義史であればこそ手をくだせた独自の研究を、イングランドについて、たとえばルターの代わりにウィクリフなりティンダルなりを焦点に据えて完遂しなければならなかったであろう。いや、じつはそのことは、ヴェーバーがルターのみを震源として宗教改革の伝播を見ていくドイツ中心の歴史観[2]の持ち主ではなかったからには、あるいは少なくともそうした史観から解き放たれて考えることができたろうからには、なにも英語のcallingを「トポス」とはしないまでも、本来ここでできればcallingについても、そうした独自の研究をまっとうしなければならないと承知していたにちがいない。

しかし、ヴェーバーは、そうした独自の語義史研究を第一次資料に当たって遂行しなければならないという規範的格率と、つねに過大な研究課題を抱え、研究主題を目指して「道草」を食わず効率よく研究を進めたいという経済的格率との「せめぎ合い」を、また「素材探し」と「意味探し」との緊張を、生きていた。かれの関心の焦点は、なんといっても、語形はもとより語義にもなく、なるほど語義にも表明されはする人間諸個人の「生き方」(意味・思想・エートス)にあった。ここで、宗教改革の思想が「生き方」におよぼした影響を追跡するにあたって、その途上で語義史にも立ち入る必要が生じたとしても、それに度はずれた時間と労力を割くわけにはいかない。そこでかれは、賢明にも「自分の足らざるを補う」次善、むしろ最善の策を採った。ちょうど、0EDが刊行され始め、その第二巻に、碩学マレーが自国語なればこそ、callingの歴史的用例を広く蒐集し、語義を明晰/判明に(ヴェーバー流にいえば「理念型」的に)分類し、分類項目間の流動的移行関係にかんして語源学的な説明を与えてくれていた。そこでヴェーバーは、自分でにわかには調べようもない歴史的用例の素材は、(例の「エリザベス時代における宮廷用の英国国教会聖書」を除き)おそらくは確かに全面的にマレーの記事に依拠し、ただ独自の観点から記事内容を再構成して、「イングランドにおけるBeruf相当語callingの普及経緯」の大筋を、注3[6]段落の叙述にまとめたのである。すなわち、旧約外典シラとは異なってどの宗派にも一様に重視された『コリントⅠ』7: 20を定点観測点としてklēsisの訳語の変遷をたどると、前稿でも概観したとおり、注目すべきことにウィクリフのもとですでに1382年clepynge(『コリントⅠ』1: 26ではclepinge)と訳されていたが、1534年のティンダル訳(改訂第二版)[3]、1557年の「ジュネーヴ版」ではstateに戻り、さらに1582年のランス版と「エリザベス時代における宮廷用の英国国教会聖書」では『ヴルガータ』にならってvocationに戻っているが、興味深いことに、1535/39年のクランマー監修訳から1568年の「主教たちの訳」をへて1611年の「キング・ジェイムズ欽定訳」へと、むしろ英国国教会の公認訳聖書のほうにcalling系が用いられ、引き継がれ、定着している。これも、テューダ王朝が教皇庁から独立して国教会を結成し、カトリックと大陸のプロテスタンティズムとの中間で、自国語聖書の編纂と普及に関心を寄せ、ときにイニシアティヴをとるといった、イングランド「言語ゲマインシャフト」の(ドイツともロマン語系諸国とも異なる)歴史的変遷を映し出していると、ひとまずはいえよう。

 ただし、注3[6]段落における原文16行 約150字の叙述は、イングランドにおける(Beruf相当語としての)callingの語義形成と普及にかんする「言語社会学」的比較語義史研究としては、「トポス」の付論とはいえ密度の高い、ルターに焦点を合わせたドイツ語Beruf創始の研究に比べれば、当然のことながら格段に見劣りがする。かりに、羽入なり別の研究者なりが、ヴェーバーとは異なり、イングランドを研究の主要なフィールドに選び、そこにおけるcallingの語義形成/変遷/普及を主題として本格的に研究し、ヴェーバーを批判的に乗り越えようとするのであれば、上記13. の後半部で設定したような問題、すなわち、①ルターに一世紀半先行するウィクリフにおけるclepyngeが、はたしてBeruf相当語であったのかどうか、あったとすれば、いかなる歴史的経緯をへてそうなったのか、②大陸に亡命してルターやカルヴァンと交流するなかで英訳をおこなったティンダルやフウィッティンガムよりも、英国国教会公認訳のほうにcallingが多用され、普及し、定着していくようなのはなぜか、このcallingはBeruf相当語なのか、そうとすればいかなる経緯でそうなったのか、そうでないとすれば、ルター/ルター派の、あるいはピューリタン的な用語法との間にどれだけの齟齬があったのか、③『箴言』22: 29「わざmelā’khā」の訳語としてbusinessに換えてcallingが当てられる(まさにルターにおける『シラ』意訳事件と機能的に等価のピューリタン的意訳事件が起きるのは、いつどこでどのようにしてであったか、というような問題を再設定し、歴史・社会科学的に(「トポス」以上の密度をもって)究明しなければならないであろう。かりに羽入が、注3[6]段落の原文16行約150字の叙述から、こうした問題を引き出し、「ヴェーバーでヴェーバーを越える」方向に、あるいはもとより他の研究方法/技法を用いてもよいが、前向きに研究を進めたのであれば、ヴェーバー自身も草葉の陰から身を起こして、わたしたちヴェーバー研究者とともに、心から喜び、その功績を讃えたことであろう。

 しかし、羽入がじっさいにおこなったのは、どういうことであったか。

ⓑ注3[6]段落の原文16行約150字を、以上に要約したような位置価を無視し、直前の文章からも切り離して(本稿8.参照)、そこだけに視野を狭め、しかも羽入の「唯『シラ』回路説」のパースペクティーフに移し入れ、ⓒヴェーバーの「杜撰」(しかも「狡い杜撰」)の証拠に「意味変換」した。ヴェーバー批判を踏まえて学問研究を一歩前進させたのではなく、学問的批判の体をなさない誹謗中傷に逸脱してしまったのである。

 羽入は、かれの「唯『シラ』回路説」からすれば、ヴェーバーは真っ先に「英訳諸聖書を手にとって」『シラ』11: 20, 21を調べるべきであったにもかかわらず、そうせずに、「本来は全く関係もなく意味もない」(35)『コリントⅠ』7: 20の用例を持ち出してお茶を濁した、と難詰する。しかも、かれがそうせざるをえなかったのは、注3[6]段落の執筆にあたり、OED “calling” 項目の(『シラ』11: 20, 21については用例の記載がなく、『コリントⅠ』7: 20の用例は記載されている)マレーの記事に依存したからで、この依存の仕方においてもヴェーバーは記事の「事実誤認」を引き継いだうえ、正しい記事まで「誤読」していると主張する。つまり、羽入によれば、ヴェーバーの叙述は、「『倫理』論文前半部の中心的論点」(23)でも、このとおり「杜撰」で、論証の体をなさず、破綻している、というわけである。羽入が主張したのは、たったこれだけである。

しかし、かりに羽入のこうした主張を全面的に認めるとしても、これだけでは「ヴェーバー杜撰説どまりで、羽入が主眼とした「詐欺師説」「犯罪者説」の立証にはいたらず、かれの目論見は早くも「第一章」で挫折したことになろう。ただかれは、この根本的欠陥を補うかのように、「詐欺説」を仮説としては提起し、(立証は難しいと見て、けっきょくは「杜撰説」に後退するが、そのさい)「ヴェーバーは『シラ』11: 20, 21を調べると自説が破綻すると予想して」調査をわざと怠ったという(「杜撰」と「詐欺」とは本来矛盾するので)なんとも無理ないわば「狡い杜撰説」まで捻出している。上記「OED依存説」を立証しようとするさいにも、推測を重ねて想像上ヴェーバーを「専門家が腹を抱えて笑う」「醜い」対象に据えようとする。羽入には、そうした推測と想像の上でヴェーバーを貶めること自体に、なにか「溜飲を下げる」「感情充足価値」があるかのようである。それだけで「得意になり」「自己満足/自己陶酔」に耽る。そのため、そうした推測を仮説に戻して立証し、ことによると立証されもしようヴェーバーの誤りや不備を乗り越えて学問研究を先に進めようとはしないし、そうすることができない。したがって、羽入書は、独自の学問的貢献をまったく含まず、むしろ研究者/研究志望者が「こうしてはならない」という「反面教材」として役立つにすぎず、そのようなものとして活用されるよりほかはないのである。以上をまえおきとして、ⓑ「唯『シラ』回路説」のパースペクティーフとⓒ「OED依存説」「OED誤読説」などの論難に見られる羽入の誤りと教訓を、念のためにここでもういちど集約的に剔出しておこう。

ヴェーバーは、第一章第三節第1段落で、「この語Berufは、ルターの聖書翻訳ではまず初めzuerst『ベン・シラの知恵』の一カ所(11: 20, 21)で、現在とまったく同一の意味で用いられているように思われる。その後すみやかにdann sehr bald、この語は、あらゆるプロテスタント諸民族の世俗語のなかで、現在の意味をもつようになっていった」(GAzRS, I, S. 65-6, 大塚訳、95-6ぺージ、梶山訳/安藤編、134ぺージ)と述べている。羽入は、この箇所を、「そこからすみやかに」と読み誤ったのではないか。Beruf 相当語が、ルター訳『シラ』の一カ所に発し、もっぱら『シラ』訳を経由して他言語に波及すると読んだのではないか。しかしそれは、字面の誤読というよりも、羽入がヴェーバーの歴史・社会科学、いや歴史・社会科学一般がなんであるかを理解していないための「早合点」と解したほうがよさそうである。羽入は「ヴェーバー通」(12、参照)を自任しているが、ヴェーバーにおける語義問題を取り上げようというのに、ヴェーバーの「言語ゲマインシャフト」論、したがって「諒解ゲマインシャフト」「諒解行為」という基礎概念も参照していない。ヴェーバーがこうした概念を提示している「理解社会学のカテゴリー」やその基礎概念の具体的展開である『経済と社会』も、おそらく読んではいないし[4]、読んでいてもその意味は分かっていない。あるいは、半分は分かっていても、自分がいま取り上げている問題と関連づけて考えるまでにはいたっていない。そのため、ある語義をそなえた語が、ある「言語ゲマインシャフト」で、ある主体によって創始され、当の「言語ゲマインシャフト」では「言語創造的影響」力を発揮して普及するとしても、他民族の「言語ゲマインシャフト」では、かならずしもそうではなく、一見一方的な「波及」と映る現象も、「波及」先の「言語ゲマインシャフト」における歴史的・社会的諸条件に制約され、複雑/多様な「客観的諸可能性」のひとつが実現されて、まさにそのように「波及」しているかに見える、という事情を、歴史・社会科学的に分析し、認識することができない。そのために、ルターが『シラ』の一カ所で語Berufを創始したからには、他の「言語ゲマインシャフト」でも、『シラ』の同一箇所からBeruf相当語が発して、ドイツと同一のパターンを繰り返し、同一の「言語創造的影響」力を発揮していくと思い込み、「唯『シラ』回路説」を虚構する。そして、「言語ゲマインシャフト」の歴史的・社会的条件も、そのなかで生きる諸個人、とりわけ宗教改革者たちや翻訳者たちの主体性も無視した、そういう「言霊・呪力崇拝」に陥り、そのパースペクティーフのなかに、注3[6]段落の論点(「遺物」)を移し入れるのである。羽入が、博士論文の原論文に、「『倫理』論文におけるマックスヴェーバーの魔術からの解放」という表題を掲げているのは、なんとも微笑ましい[5]。羽入には、自分が歴史・社会科学の水準に達せず、「言霊・呪力崇拝」に陥っていること、ヴェーバーが「倫理」論文で考え、読者と対話している内容が自分には内在的に理解できないことなど、要するに自分がどういう状態にあるか、なにものであるか、が分かっていない――いや、意識したくない――のであろう。「言霊・呪力崇拝」の「唯『シラ』回路説」を絶対正しいと信じて、歴史・社会科学、その「第一人者」と見たヴェーバーに、勇猛果敢に挑みかかる。その結果、どういうことになるか。

ⓒ羽入は、自分の「唯『シラ』回路説」を「ヴェーバーの立論の骨子」(本稿6.⑶)、「ヴェーバーの立論」(同⑷)、「ヴェーバーの主張」(同⑸)、「ヴェーバーの推論」(同⑽)と決めてかかり、反復強調して読者に印象づける。そうしておいて、それならば真っ先に調べるべきは、英訳諸聖書の『シラ』11: 20, 21なのに、ヴェーバーはそうしていないという(じつは、そうする必要がなかった)。羽入が調べてみると、そこはworke, estate, labour, placeでcallingではない(ヴェーバーの予想を羽入が裏付けた)。そこで羽入は、ヴェーバーがその事実を知っていて、自説に「不都合」と察知し、「本来は全く関係もなく意味もない『コリントⅠ』7: 20に関する詳しい議論に読者の注意を引き付けそらすために『コリントⅠ』7: 20に関する難解な詳論をした」(35)との「詐欺説」を立てようとする。「唯『シラ』回路説」の「言霊・呪力崇拝」に目の眩んだ羽入には、定点観測点としての『コリントⅠ』7: 20の意義がまったく目に入らないらしい。かれの眼目は、ヴェーバーをたんに「杜撰」として非難するだけではなく、「詐欺師」として打倒することにあった。しかし、ヴェーバーが、カルヴァン派のフランス語訳officeとlabeurを挙示している事実その他から「英訳諸聖書の『シラ』11: 20, 21もBeruf相当語で訳されてはいない」と予想していたであろうことは推測できても、その事実を知っていたとまでは立証できない。そこで羽入は、踵を返して、ヴェーバーが当の事実に「少しも気づいていなかったために全く無邪気にも英訳聖書における『ベン・シラの知恵』11: 20, 21を引用しなかった」(35)という「杜撰説」に後退せざるをえない。ただそのさい、後ろ足で蹴り返すことも忘れない。ヴェーバーが当該箇所を引用「できなかった」のも、OEDの記事を引き写したからで、そこには「全く意味のない」『コリントⅠ』7: 20の用例しか挙示されていなかったためである(「OED依存説」)、しかも、一方ではOEDの「事実誤認」をそのまま引き継ぎ(「『事実誤認』引写説」)、他方ではOEDの正しい記事も誤って読み、誤って引用していて(「誤読説」)、論証の体をなさない、という。しかし、はたしてそうか。

 「OED依存説」の推定「根拠」として、羽入はまず、①ヴェーバーが「『箴言』22: 29の『わざmelā’khā』は、比較的古いälter英訳諸聖書ではbusinessと訳されている」と述べた箇所を槍玉に挙げる。この箇所を、羽入のほうで、ヴェーバーが「『古い英訳聖書では』と総称的に述べ」ている、と言い換えておいて、1610年のカトリック「ランス聖書」ではbusiness でなくworkeと訳されているという事実を持ち出し、「『倫理』論文全体の彼の立論にとってもっとも肝心な部分の論拠を調べる時には[この]カトリック訳を参照せず、それに比べればどうでもいいとすら言える『コリントⅠ』7: 20を調べる時にはカトリック訳をきちんと調べた」とは「到底考えられぬほど矛盾にみちた行動である」(37)と決めつける。はて、第一章第二節中の小さな注が、なぜ「『倫理』論文全体の彼の立論にとってもっとも肝心な部分」になるのか、羽入の「独り合点」で「全論証構造」の論証がないから、皆目分からないのであるが、それはともかく、ここでヴェーバーは、16/17世紀で分けて、羽入が探し出した唯一の例外、1610年の「ランス聖書」は「比較的古い」ほうには属さないと考えていたのかもしれない。したがって、羽入の論難は的を失して宙に浮き、むしろなんとかヴェーバーに「杜撰」の証拠を見つけようと焦って原文の比較級を見落とす軽率さ、つまり羽入の杜撰か、あるいは比較級と知っていながら「総称」に捩じ曲げてヴェーバーの「杜撰」を捏造する羽入の詐術か、どちらかを証明することになる(多分、前者であろう)。

つぎに羽入は、②通称「ジュネーヴ聖書」の1557年新約版と1560年新旧約版とを、なにかまったく別物であるかのように截然と分け、「ジュネーヴ聖書」を正式名称であるかのごとく後者に限定して「1560年に初めてこの世に現われ」たと称し、他方「1557年のジュネーヴ聖書など有り得ない」として「ウィッティンガム訳新約聖書」と名づける。いうなればこうした「呼称操作」(羽入なら定めし「詐術」というであろうが)によって、OEDの“1557 Geneva”、ヴェーバーの“die Geneva von 1557”という表記を、ともに「間違い」「誤り」と断定し、後者を、前者の「事実誤認」を引き写した結果として、「OED依存説」の一根拠と推認する。

 しかも、こうした伏線を張って、ヴェーバーには別物の「1560年ジュネーヴ聖書」が残されたはずとの想定を設け、そのうえに「エリザベスⅠ世時代に公刊された英訳聖書は三種のみ」という根拠不明の制限条項を持ち込み、消去法で、ヴェーバーが「ひとつ余る1560年のジュネーヴ聖書」と「エリザベス時代の英国国教会の宮廷用聖書」とを混同したと推測し、そういう「非常識」な「錯覚」も「ありえないことではない」と書き立て、想像で「専門家が腹を抱えて笑う」姿を描き出す。推測を仮説として検証し、学問上前進しようというのではなく、推測と想像でヴェーバーの「姿」を笑い物にし、「溜飲を下げ」ようという、例の「ルサンチマン」にねざす「学問上の叛乱」劇のハイライトである。書き手の動機を顕す退嬰的な光景ではある。

さらに羽入は、③「OED誤読説」のひとつとして、ヴェーバーが 11.項目冒頭の「そこからHence」の「そこ」を、†10.項目全体の趣旨と受け取らずに、「用例の一つに過ぎぬクランマー聖書からの引用のみ」(48)を受けると「誤読」し、そのうえで「クランマー聖書」を「ピュウリタン的用語法」の起源と見なした、と主張する。しかしこれも、ヴェーバーがOEDの記事をどう読んだか、にかんする羽入の憶測による決め込みで、羽入が斬りつけやすい「ヴェーバー藁人形」を自分で創っているにすぎない。

 ヴェーバーは、一方では、†符号のついた、廃れた語義†10.「身分」の語源が、klēsis, vocatioで、召命を受けたときにいた状態ないし地位が、9.「神の召し」と混同されて、「召し出された身分」の意味を帯びた、と説明され、その用例中に“1539 Cranmer and 1611, in the same callinge, wherin he was called”とあり、他方では、†符号のつかない、つぎの項目11.「職業」についても、「語源はしばしば上記項目[†10.]と同様」と明記されているのを、双方とも読み比べて、1539年の「クランマー監修訳」(「大聖書」)および1611年の「キング・ジェイムズ欽定訳」が『コリントⅠ』7: 20のklēsisをcallingeと訳し、これが当初には†10.「召し出された身分」の意味で用いられ、やがて廃れて11.「召し出された職業」に移行した(だから1539年クランマー監修訳のcallingeを「召し出された職業」という「ピューリタン的用語法の源泉」と見なせる)と読んだにちがいない。いや、羽入書(62-3)にも引用されているOEDの calling項目Ⅱ. 9.10. 11.の明快な記事は、少し注意深い読者であれば誰が読んでもそう読むのが自然で、ヴェーバーとて例外ではなかったろう。むしろ羽入だけが、†10.の†符号と、11.の語源説明とを読み落とし、あるいは読んでもその意味を考えず、†10.の一用例を短絡的に11.の語義に結びつけ、この羽入の杜撰な解釈をヴェーバーに転嫁して、なんとヴェーバーの「誤読」と称し、ヴェーバー「杜撰」説の一証拠に「意味変換」してしまっている。

 羽入はまた、④『コリントⅠ』7: 20の klēsis に最初にcallingeを当てたのは「1535年カヴァーデイル聖書」であるから、ヴェーバーが「1539年クランマー聖書」をピュウリタン的なcalling概念の源泉と見るのは「誤り」であり、かれがOEDの記事からそう「即断」した「傍証」であるとする(羽入は、ここでは、OEDの“1539 Cranmer”という記載がすでに「誤記」である、とは明記していない)。これも、当該聖書の錯綜した編纂事情を考慮に入れると、1537年「(偽名)トマス・マシュー訳」を間に挟む1535年「カヴァーデイル訳」と1539年「大聖書」とは、実質上「クランマー監修、カヴァーデイル編訳、ティンダル訳」であるともいえよう。とすれば、そうした「クランマー監修訳」を1539年「大聖書」で代表させたと思われるOEDの表記と、確かにこれに依拠したであろうヴェーバーの説明とを、大上段に振りかぶって「誤り」と決めつけるのも、やや勇み足と思われる。

ただし、聖書学や聖書史の専門家は「カヴァーデイル訳」を「ティンダル訳」の「焼き直し」と評価して問題にしないとしても、「言語社会学」的比較語義史の観点からは、『コリントⅠ』7: 20にかんするかぎり、その「カヴァーデイル訳」でティンダル訳のstate が初めてcallyngeに置き換えられる事実は、やはり注目に値する。この事実は、イングランドの「言語ゲマインシャフト」では、むしろ英国国教会の公認訳でcallingが多用され、「キング・ジェイムズ欽定訳」にいたる系譜の一環として、「問うに値する」価値関係性をそなえているといえよう。したがって、この点は、「不問に付されていた事実の発見」として羽入の(思わざる)功績と認められよう。ただ、その功績は、ただそれだけでは事実問題として、「倫理」論文の当該注3[6]段落に見える「クランマーの聖書翻訳」という箇所に、「いっそう正確には『クランマーの聖書翻訳』とは、……」と、その成立事情を簡潔に解説する補注を付ければ済むことで、「倫理」論文の根幹を揺るがすほどのものではない。

 むしろ羽入は、この事実発見を、(ことによると「根幹を揺るがす」意義を取得することもありえよう)学問的に生産的な方向で、活かそうとはしない。ヴェーバーの「誤り」「『クランマー聖書』の成立事情にかんする知識の欠落」を剔出すること自体に力み返り、それだけで満足してしまう。かりに1535年版を「カヴァデイル聖書」と認めるとしても、そこでなぜどういう経緯でstate がcallyngeに置き換えられたのか、そのcallyngeは(callのたんなる動名詞ないし9.宗教的意味の「神の召し」ではなくすでに10.「神に召し出された身分」から11.「使命としての職業」へと聖俗併せ持つ意味を帯びるにいたっていたのか、マレーがOEDの記事で、9.「神の召し」の用例のひとつには“1535 Coverdale”を挙げて1535年カヴァデイル訳の存在を確かに認めていたにもかかわらず、10.「身分」、11.「職業」の用例中には“1535 Coverdale”を採らず、10.「身分」の用例中に“1539 Cranmer and 1611” のほうを挙示したのは、やはり理由のあることで、1535年「カヴァデイル訳」のcallyngeが(『コリントⅠ』7: 20 にかんするかぎり)語義としてはまだ9.「神の召し」にとどまっている、と見たからではないのか、というふうに問いを重ねて、折角発見した事実の「意味解明、「説明する方向には関心を向けようとしない。ましてや、当の事実が、(ウィクリフの先駆け以後は、ティンダルやフウィッティンガムではなく)国教会公認訳系にcallingが多用される事実とどう関連するのか、イングランドという「言語ゲマインシャフト」の歴史的・社会的特性どうむすびついているのか、といった「言語社会学」的比較語義史の問題設定に結びつけ、学問的に膨らませ、当の事実の「文化意義」を見きわめていこうとはさらさらしない。折角スタート地点に立ったのに、前方を見ずに敗走してしまうかのようである。それというのも、羽入が「詐欺説」から後退して死守しようとする「杜撰説」からすれば、「誤り」「知識の欠落」の指摘だけでワン・ポイント稼いだことになり、「溜飲を下げる」のには十分だからであろう。ここにも、ルサンチマンにねざす「学問上の叛乱」劇は学問上不毛であるという事実が、顕著に露呈されているといえよう。

 最後に羽入は、⑤「細かい誤り」(49)として、ヴェーバーがOED†10.「身分」の一用例greater callingを11.「職業」の一用例unlawful callingとともに、Beruf=tradeの用例として引用した事実を捉えて、「別の項目の別の用例を一緒くたにして引用してしまっており、項目†10.と項目11.の意味の違いが正確には分かっていなかった」と推認している。このばあいも、批判相手に(「辞典項目の意味の違いも読み取れない」といった)あまりにも稚拙な誤りをなすりつけようとする批判者は、かえって批判者のほうが稚拙ではないか、と問い返される一例である。現実の「言語ゲマインシャフト」においては、語義「諒解」は流動的移行関係にあり、辞典とはそもそも、そうした現実の関係から用例を蒐集して、「理念型」的に明晰/判明な区別を立て、これを規準に、個々の用例を相対的にもっとも近い項目に内属させたものである。このばあい、†10.「身分」と11.「職業」とは、両項目の語源説明にもあるとおり、9.「神の召し」から派生してくる語義として、現実には「神に召し出された身分」から「使命としての職業」へと流動的に移行するしかも隣接項目として近い関係にある。そのうえ、†10.に†符号が付されて、語義「身分」が廃れるということは、時間がたつにつれて「身分」の語義がうすれ、それだけ「職業」という語義が重きをなして、最終的には後者だけに行き着く、歴史的な移行の関係を意味しないわけにはいかない。したがって、11.の用例を†10.の用例に転用することはできないとしても、逆の転用は可能であり、かつ正当である。羽入の「批判」は、このばあいにもやはり、辞典の字面外形に囚われその区別を観念論的/「二項対立的に絶対化して、語義「諒解」の現実の流動的移行関係に思いがおよばない、また、現実のそうしたの流動的移行関係をいかに概念的に鋭く認識するか、という方法/方法論にも想到しない、批判者の生硬なあり方を、問わず語りに語り出しているといえよう。こちらのほうは、けっして「細かい誤り」ではない。

 ここで、羽入書「第一章」の批判を終える。つぎは「第二章」から「第四章」にかけて本稿と同様の内在批判を加え、そのうえで「はじめに」「序文」「終章」「あとがき」に表明された羽入のスタンスと動機を問題にする予定である。

 本稿(その1)を閉じるにあたり、ふたつのことを読者にお断りしておきたい。ひとつは、あるいは読者のなかには、筆者のこうした内在批判は、論争「第一ラウンド」でリング上にダウンしている羽入に、「これでもか」といわんばかりに追い打ちをかけ、「畳みかけて」「いじめて」いる、といった印象をもたれ、感情的に反発され、筆者の執筆動機を問われる向きもあろうかと思う。羽入が、かれのためにしつらえられた本コーナーではなく、『Voice』5月号の対談に登場して論争回避を表明して以来、筆者の力点は、内在批判から外在考察に移り、内在批判としても、羽入書を「反面教材として活用し、学生/院生諸君や若い研究者諸氏に、とかく落ち込みやすい邪道に陥らないように具体的に警鐘を鳴らし、他方、テクストをいかに読むか、歴史・社会科学者のスタンスはいかにあるべきか、いかに「ヴェーバーでヴェーバーを越える」か、……、老生の所見を忌憚なくお伝えして、いささかなりともこの日本社会における学問の将来を担う方々の前途に役立てようという方向に、移ってきている。しかし、こうした内在批判は同時に、いかに厳しくとも、羽入本人と羽入予備軍が、なんとか知的誠実性を回復して、不毛なルサンチマンの「蟻地獄」から這い出られるように、「知的に誠実に考えていけばこうなるのではないか、反論があるならどうぞ」と「解放の道筋」を明らかにしているはずである。この点も、どうかお見逃しなく。

つぎに、本稿は、部分稿(その1)であるにもかかわらず、本コーナーに連載してきた従来の拙稿に比して、三倍強にも膨れ上がった。「反復が多い」という印象をもたれる向きも、とくに前稿、前々稿から読み継いできてくださった読者には、多いのではないかと思う。しかしそれは、インターネット上の論考は、書籍とは異なり、あれこれ卓上に指定ぺージを広げて読み比べることがしにくく(パソコンの操作に熟達した方、あるいは数台お持ちの方は別だが)、前稿、前々稿などへの参照指示を出して先を急ぐのは不親切、と気がつき、あえて反復を厭わずに、各稿読み切りでも趣旨が通じるように、と工夫を凝らした結果である。老生が耄碌したためではないので、どうかご心配なく。(2004年7月27日脱稿。つづく)



[1] そうして国民の言語感覚が研ぎ澄まされていけば、「テロ」を国際犯罪でなく「新しい戦争」と言いくるめ、混同するような、愚かな政治家や政治勢力に籠絡されることはないであろう。

[2]羽入は、「倫理」論文、しかもその「序の口」への視野狭窄のため、事実上「唯『シラ』回路説」を採ることにより、そうした史観しかも「ルター発言霊呪力崇拝」史観に陥っている。

[3] OEDによれば、『コリントⅠ』1: 26のティンダル訳では、9.「神の召し」の意味で、callingeが用いられている(63)。

[4] ヴェーバーの著作中、羽入書にともかくも引用されているのは、「倫理」論文のほか、『職業としての学問』、「客観性論文」くらいであろう。羽入によるそれらの内在的理解は、ここで「倫理」論文について暴露し論証しているほどに低い水準にある。

[5] もとより、「呪力崇拝」論文を書いてそうした表題を付けるほうも付けるほうであるが、審査して学位を認めるほうも、認めるほうである。この題名を踏襲したからといって、その際物を出版社に取り次ぐ歴史家も歴史家である。


橋本直人「学問におけるポピュリズム――羽入氏『犯罪』の一つの読み方」

2004年8月16日(本コーナーへの寄稿)

学問におけるポピュリズム――羽入氏『犯罪』の一つの読み方

橋本直人


2004年8月16日

 羽入氏の著書『マックス・ヴェーバーの犯罪』(以下『犯罪』と略記、書名なしのページ数は『犯罪』からの引用ページ)と、それに対する折原氏の批判を中心として展開された今回の論争は、ここまでのところ主に『犯罪』の主張内容に関する学問的な批判が主題となってきた。それは応答に加わった人々の研究者としての良心の為せるところであろう。だが私見ではこの論争は、また特に『犯罪』は、これまでの経緯の結果として良くも悪くも「政治的」な性格の強いものになってしまったように思われる。ただしそれは通常の意味での「政治」、例えば権力をめぐる党派的な「政治」といった意味ではない。そうではなく、社会における学問的専門性の「位置」に関わるという意味で「政治的」なのである。

 本稿は、『犯罪』の読解を通じて以上のとらえ方を提示し、論争への「応答」を試みたものである。

 『犯罪』とこの論争が「政治的」である、と主張する限り、最初に自らのスタンスを明らかにする義務が私にはあるだろう。まず、私は自分のことを(たとえどれほど未熟であろうと)狭義のウェーバー研究者であると理解している。したがって私はこの論争に対して一定の利害関心を有している。つまり「局外中立」ではあり得ないし、またあろうと欲してもいない。もっと有り体に言えば、私はウェーバー研究者として羽入氏の立場に対してはきわめて批判的である。

 ただし、羽入氏個人に対しては(また折原氏他批判者側の各人に対しても)何ら含むところはない。私は羽入・折原両氏に面識があるが、しかし両氏いずれに対しても「先輩・後輩」や「師弟関係」といった「しがらみ」は有していないし、逆に何か反感を抱くような「背景」も持っていない。ついでに言えばいわゆる「大塚学派」なるものにも何の縁もゆかりもない。しばしば(特にネット上で)政治と人間関係を混同した勘ぐりが見られるので(「日本的」政治文化?)、念のために付言しておく。

 とはいえ、『犯罪』と論争の「政治性」の問題に入る前に、まず『犯罪』の各論点について私の理解を簡単に提示しておくべきであろう。

 少なくとも理論的な関心から見る限り、私は『犯罪』の主張内容の全体を通じて何か新たな成果や方向性がうかがわれるような、そうした「新しさ」を感じることができなかった。これは『犯罪』刊行時に私が日本にいなかったために当時の「反響」を知らなかったという事情による部分もあるだろうが、それだけが理由ではない。

 例えば、折原氏も「一見一番よくできている」(『ヴェーバー学のすすめ』p.104)と、その「巧妙さ」を指摘するフランクリンに関する議論を取り上げてみよう。すでに早くから指摘されている3章と4章の矛盾(例えば同p.103、また橋本努氏「ウェーバーは罪を犯したのか」を参照)などいろいろ疑問点はあるのだが、このフランクリンに関する議論から最大限積極的な要素を取り出すとすれば、それは理念型に関する問題であろう。理論的に見れば、『犯罪』の後半二章で最も重要なのは「理念型概念に対する批判可能性」の問題であり、これはすでに折原氏や橋本努氏も指摘しているとおりである(もっとも羽入氏自身はp.195で理念型を「呪文」と呼んでいるように、この問題については全く触れていない。この点については後述参照)。

 だがこの問題は、実はすでに大塚史学に対する越智武臣氏の批判と、その批判に対する世良晃志郎氏の応答のなかで論じられている問題なのである(この点については安藤英治氏の『ウェーバー歴史社会学の出立』p,229を参照。また、その点で羽入氏が「あとがき」で越智氏と安藤氏の名を挙げているのは示唆的である)。

 この問題自体は確かに重要な問題である。管見の限り、この問題についてウェーバー研究者から明晰かつ十分な解答が提示されたことはまだないように思われるし、それゆえ改めて提起されるに十分値する問題であろう。実際、世良氏はこの問題を「ウェーバーの科学論における最大のアポリアの一つをなす問題」(世良晃志郎『歴史学方法論の諸問題』p.136以下を参照)とさえ呼んでいる。そして私自身も、この問題に対して何らかの解答を提示するのはウェーバー研究者としての責務の一つであろうと考えている。

 その意味で、確かに『犯罪』後半二章(そしてその主張に対する批判)の提起する問題は理論的に見ても重要ではある。しかし決して新しい問題ではないし、また「忘れられた」問題でもない。

 あるいはまた、前半のルターに関する問題を見ても似た印象を受けずにはいられない。

 羽入氏自身が初出を明らかにしているとおり、『犯罪』のルターに関する部分はすでに『思想』や『倫理学紀要』上で10年以上前に提示されている。しかし、例えば安藤氏による言及(安藤上掲書p.263)を例外とすれば、管見の限りこの時点で彼の主張をめぐって論争が展開されたという記憶はほとんどないのである。つまり、折原氏の批判する「黙殺の文化」ということで言うならば、すでにウェーバー研究者は羽入氏の主張を一度は「黙殺」していることになる(そもそも最近の業績至上主義による論文量産状況の下では、若手による業績の大部分は「黙殺」されている)。

 私個人の印象に戻れば、そもそも『倫理』の「全論証構造」の核心がルターに関する節の脚注にある、という問題設定自体が腑に落ちず、まだ院生だった頃に『思想』の論文を読んだときにも、率直に言えば「何とも応答しかねる」という印象を抱いていた。これは折原氏の指摘するとおり、羽入氏が『倫理』の「全論証構造」を明示していない当然の結果である。この印象は『犯罪』でも基本的には変わらない。

 このように見てくれば、少なくとも理論的な関心から読む限り『犯罪』はそれほど「新しい」書物ではない、という私の印象にもそれなりに根拠のあることが理解されるであろう。『犯罪』を読む限り、そこで指摘されている事実は新しいとしても、それだけで何か生産的な展望が開かれるようには思えないのである。

 それに加え、羽入氏のウェーバー理解にはやはり疑問を呈さないわけにはいかない。

 例えば上で触れたように、せっかく理念型をめぐる重要な論点に接近していながら理念型論そのものを「呪文」と呼んで切り捨てている(そのために問題自体が展開されていない)点は、私などには非常に「もったいない」と感じられてならない。実際、すでに述べたようにこの問題が十分に展開されたならばウェーバー方法論に対する深刻な批判ともなり得るはずなのだが、羽入氏はその可能性を自ら放棄している。このことからすれば、羽入氏はその「もったいなさ」を、つまり自らが展開し得たであろう問題の意義を理解していないのではないか、という疑問が生じてくるだろう。

 さらにもう一つ『倫理』解釈そのものに関わる事例として、『犯罪』p.130以下の長大な注(注自体はp.125から始まっている――「脚注の腫瘍」?)におけるアブラモフスキー批判を取り上げておきたい。

 羽入氏はこの脚注の中で、教会史家カール・ホルの文章をていねいに引用しながらアブラモフスキーの「虚偽」を指摘している。そしてその結論として羽入氏はこう述べている。

 「ホルは飽くまでも、カルヴィニズムは資本主義を抑圧すべく戦ってきた、と述べているのである」(p.135)。

 だが問題はこの「資本主義」の中身である。この注で引用されているホルの文章からすると、カルヴィニズムが「抑圧」すべく戦ったのは「高利貸し達」に代表されるような、「貨幣経済」と同一視し得る「資本主義」である(p.134)。しかしこうした「資本主義」と近代資本主義との区別、またカルヴィニズムが「貨幣経済と同一視し得るような資本主義」に、言い換えれば「野放図な営利追求」に徹底して反対したという論点は、それこそ『倫理』解釈上の初歩に属すると言えよう。そしてこの論点を踏まえれば、ホルの主張はまさに「ヴェーバーの認識を少なからぬ点で立証して」いる(p.131、アブラモフスキーからの引用)と言ってよい内容なのである。その限りでアブラモフスキーは何ら「虚偽」を犯してはいない。

 それに対して、この二つの「資本主義」の区別自体まで否定するならともかく(それならばまだしも生産的な議論になる可能性がある)、同じ「資本主義」という言葉が使われていて主張が逆だからアブラモフスキーは「虚偽」を犯した、と言うのでは「素朴実証主義」のそしりは免れまい。

 対象がウェーバーであろうが何であろうが、批判する際にその批判対象を正しく理解する、というのは積極的な批判を行なう上で必要不可欠な条件であろう。だが以上の例からもうかがわれるように、『犯罪』の場合にはその批判の前提であるはずのウェーバー理解がどうも怪しいのだ。となれば、羽入氏がどれほど力を込めて「分からないと言ってきた人間達の方が実は正しいのではなかろうか」(p.5)と主張したにせよ、その「理解不可能性」の責任がどこまで本当にウェーバーにあるのかも、やはり疑わしく感じられてしまうのである。

 以上のように、「新しさ」という点からしても、また「批判の生産性」という点からしても、少なくとも私個人の関心に照らす限り、『犯罪』は取りたてて応答を必要とする書物とは思えない。

 にもかかわらず今回に限って『犯罪』に対する応答が要請されるとするならば、それは以上見たような羽入氏の主張内容そのものへの応答責任が問われたからだとは考えにくい。結局は内容以上にその語り口、「詐欺師」ウェーバーの「犯罪」という語り口にどう応答するのか、その点が問われることとなってしまったからではないだろうか(もっとも初出各論文でも羽入氏の語り口は相当「挑発的」だったのだが)。

 鈴木あきら氏の発言(「論争への応答」参照)はこうした事情をあまりにも的確に、あるいは身も蓋もなく、指摘している。

 「ようするに、羽入氏の本が面白いということと、マックス・ヴェーバーとはあんまり関係ないんですよ。」

 私が冒頭で「良くも悪くも」政治的と述べた、その「悪い」側面はこの点である。つまり『犯罪』(その受け取られ方を含め)の力点がどうしても主張内容よりもその「語り口」とその「効果」にシフトしてしまい、その結果どうしても学問的に生産的な議論が展開されにくくなってしまっているのである。

 そしてこうした結果に陥った大きな原因の一つは、いうまでもなく羽入氏の「無回答」にある。もし羽入氏が論争初期の段階で何か積極的な応答をしていたならば、また違った展開もあり得たのではないだろうか。せめてこれからでも羽入氏から何らかの応答がなされることが強く望まれる。

 というのも、羽入氏のこの沈黙は、実はさらに重大な意味を持ってしまう可能性があるからである。それが次に取り上げる「語り口」の問題である。

 『犯罪』における「語り口」を検討しようと考えるならば、誰もがまず思い浮かべるのは冒頭の「女房」のエピソードであろう。確かにこのエピソードの印象は、各種の書評やコメントでもしばしば触れられているように、善し悪しはともかく実に鮮烈である。しかし冷静に数えてみれば、『犯罪』における「女房」の登場はこの「はじめに」の4ページと終章の注(4)の2ページ、計6ページに過ぎない。そのわずかな量で「女房」があれほどの印象を読者に残すのはなぜであろうか。「学術書らしからぬ」抱腹絶倒のエピソードだから? なるほど。だがそれだけの理由だろうか。個人的な事情を記した前書き・後書きの類は山ほどあるし、面白いものも決して少なくはない。だが、これほど強い(それも内容に関わるような)印象を残すものはまずないだろう。

 この『犯罪』における「女房」のエピソードはなぜこれほど強い印象を与えるのか。おそらく、「女房」は『犯罪』の「語り口」にとってきわめて重要な役割を担っており、だからこそ印象が強いのである。このことを明らかにするために、少し細かく『犯罪』の「語り口」に付き合ってみよう(以下カッコ内の数字はすべて『犯罪』からの引用ページ。また、言うまでもないが以下の分析は現実の羽入夫妻とは何の関係もない。あくまで『犯罪』の「語り口」の分析である)。

 確かに『犯罪』はウェーバーを「詐欺師」と非難している。だが『犯罪』の「語り口」が描き出すウェーバーはただのチンピラ詐欺師ではない。むしろ「あの明敏な」(p.104)ウェーバーは「読者を自分の思う方向に引きずり込む力という意味での腕力」(p.19)に長けた「冷徹で老獪」(p.196)な「底意地の悪い悪魔」(p.212)である。この「悪魔」の手にかかれば大塚久雄でさえ「よちよち歩きの赤子に等しい」(p.212)。

 しかしやはり『犯罪』によれば、ウェーバーのこの「魔力」は実際には「余りにも簡単なトリック」(p.196)であり、「基本的なことを確かめる」(p.18)ことさえ怠らなければ「誰もがただちに簡単に気づく」(p.146)ことができる代物に過ぎないのである。

 そんな「簡単なトリック」にそれでも人々が簡単に引っかかるのは、それが「読者が知的であろうとすればするほど、知的でありたいと願えば願うほど、絡め捕られ締めつけられる巧妙な罠」(p.197)だからである。そんな「優秀な人間達」(p.261)ほどウェーバーの魔力に捕まり「押し潰されてゆく」(p.261)。その結果生まれるのが「科学の名に値する学問」(p.3)とはとうてい言えない「ヴェーバー産業」(p.5)である。この世界ではウェーバーに疑問をはさむことなど「専門外の素人達の単なる誤解」(p.3)と切って捨てられる。これこそ「ヴェーバー研究の世界の情けない実体」(p.146)に他ならない。

 これに対して「たかが一読者にすぎないこの卑小な私」(p.19)こと羽入氏は、「かつて一度は純粋に無邪気にもマックス・ヴェーバーを崇拝していた」(p.277)が、「演算速度の遅いコンピューター」(p.261)だったことがかえって幸いしてウェーバーの魔力という「ウイルス」(同上)を免れることに成功する。そしてついに「最後にはおのれの自重で簡単に倒れるだけの巨大なブロンズ像」(p.265)を倒し、「世界的な発見」(p.283)を成し遂げる。

 それゆえ羽入氏は次のように宣言する。「この複雑怪奇な罠を単純に一気に叩き壊してしまうためには、思い切った馬鹿にならなければならない。イワンの馬鹿のような、明朗で単純な馬鹿に」(p.197)。

 では、ウェーバーの魔力に取り込まれている数多くの研究者たちの中で、なぜ羽入氏だけがその魔力を脱し「明朗で単純な馬鹿に」なれたのか? 実際、羽入氏自身もはじめは「学者の鑑」ウェーバーを批判するという「不遜な冒瀆行為」に対する「恐怖感」(p.ii)ゆえになかなかウェーバー批判に踏み込めなかった。いや、数多くのウェーバー研究者の中でも羽入氏のウェーバー恐怖は異様なほどである(「怖くて書けない」(p.ii)!)。その羽入氏だけがなぜ? その理由はもはや明らかであろう。「女房」のおかげである。

 羽入氏の「女房」は「全くの素人に過ぎない人物」(p.280)だが、それゆえにウェーバーの「毒素に全く感染しない」(p.280)。だからこそ何の根拠もなく(「大体が詐欺師の顔してる」!)ウェーバーが「嘘付いてるわよ」(p.i)と断言できる。そしてその「女房」に尻を叩かれることでようやく羽入氏は「ヴェーバーを一人で、世界中ではじめて、批判することの恐怖」(p.iii)を克服する。したがって、いわば「世界中ではじめて」ウェーバーの「魔力」を打ち破ったのは「女房」ということになる。

 以上のまとめは『犯罪』から印象的なフレーズを抜き出してつないだに過ぎないが、おそらく読者諸氏が『犯罪』を一読して抱かれる印象と大差ないだろう。そしてこのように見てくれば、冒頭のエピソードが強烈な印象を与える理由も明らかであろう。『犯罪』の語り口を成り立たせるその最終的な拠り所がまさに「女房」のエピソードなのであり、逆に言えば良くも悪くも『犯罪』独特の語り口は、その一つ一つがみな「女房」の第一声(「マックス・ヴェーバー、ここで嘘付いてるわよ」)の残響なのである。「女房」の印象が強いのは、いわば『犯罪』の語り口のしくみそのものが生み出す当然の結果なのである。

 さて、以上のまとめをさらに整理すれば以下のようになるだろう。

 ―― 「老獪な悪魔」にして「詐欺師」ウェーバーの周囲を、すっかり「魔力」に当てられた「優秀な」「インテリ」たる「専門家」が取り巻いている。だがその実体は「簡単なトリック」であり内実は全くの空虚である。その実体を見抜くことができるのは「明朗で単純な馬鹿」である羽入氏だけであり、それが可能になったのは「全くの素人」である「女房」の直感が「魔力」を打ち破ったからである、と。

 確かに痛快な図式ではある。あまたの「インテリ」たちを「専門家」として取り巻きに抱える「老獪な悪魔」ウェーバーを、徒手空拳、「素朴な疑問」だけを手に携えて打ち破る「素人」羽入氏――なるほど、いくつかの書評で『犯罪』が「スリリングな展開」と評されたのもうなづけないではない。少しばかりRPG臭いような気もするが、それはまあ良しとしよう。

 さて、この図式にのっとって仮に「悪魔」ウェーバーを「文献学の万力」で追いつめ、その「知的誠実性」のなさの暴露に成功したとしよう。だが「ウェーバー退治」も済んでこれで「めでたしめでたし」、と簡単に一件落着するわけではない。問題はその次である。武器として用いられた「万力」は、そして批判の規準であった「知的誠実性」は、ウェーバー退治の後どうなるのか。羽入氏はこれらの武器を手に新たな戦果を生み出すのか、それともウェーバー退治とともに「御役御免」とばかりにこれらの武器も放り出すのか。

 なぜこんな問題が生ずるかと言えば、今挙げた「万力」と「知的誠実性」という二つの言葉の出典が他ならぬウェーバー(『職業としての学問』)だからである。果たして羽入氏は、「悪魔」ウェーバーもろともに「悪魔」が教えてくれた武器である「万力」も「知的誠実性」も打ち捨てるのか。言い換えれば、羽入氏のウェーバー批判は『倫理』の内容のみにとどまるのか、それともウェーバー全体にまで、とりわけウェーバーが擁護した学問的な厳密性と専門性の否定にまで及ぶのか。これがここでの問題である。

 このように問題を整理すると、多くの方は何を馬鹿な、と思われるであろう。いかに羽入氏が激烈にウェーバーを批判したにせよ、学問的な専門性まで否定するわけがない、と。だが本当にそうだろうか。

 実はこの点で『犯罪』はかなり両義的である。一方では確かに、『犯罪』は学問的な厳密性と専門性の徹底こそが必要だと主張しているように読める。羽入氏は『犯罪』での議論を「社会科学が科学であり続けるため」にこそ必要な作業である、と主張している(p.283)し、さらに「ヴェーバーの教えにしたがって、ヴェーバーに教えられたとおりにヴェーバー自身をも批判的に研究していく」(p.7)というセリフなどはそれだけ取れば名言とさえ思える。

 だがすでに雀部氏や折原氏も批判するとおり、『犯罪』のウェーバー批判は、少なくともその語り口の水準で見る限り、常にウェーバーの全否定として語られている。実際に批判の対象となっているのはウェーバーの膨大な著作中でも『倫理』の前半部分だけなのだが、『犯罪』での批判は常にウェーバー全体を、とりわけ『学問』をはじめ羽入氏に戦うための武器を与えたであろうウェーバーの方法論をも、巻き添えにするように書かれている。雀部氏や折原氏が厳しく批判する「全称命題」の問題性は、私の見る限りこの点にこそある。

 こうした『犯罪』の両義性がどちらに転ぶかは、『犯罪』だけでは決定されない。そこで重要になるのがその後の羽入氏の言動である。なぜなら、この羽入氏の言動は氏自身の意図を越えて『犯罪』が読まれる際の文脈を形成してしまうからである。

 ここで、もし羽入氏が今回の論争に対して「一人の専門家」として何かしら積極的な応答をしていたならば、それは羽入氏のウェーバー批判が『学問』に代表されるような学問的専門性の否定を意味しない、という明瞭なメッセージとなり得たであろう。しかもそこでの積極的な応答は別にウェーバーに関するものでなくとも良かったはずである。新たなフランクリン像やルター像の提示でも、あるいは資本主義の成立に関する新たな仮説でも、一定の専門性を前提として何かしら積極的な発言がなされれば、『犯罪』でのウェーバー批判が直ちに学問的な専門性の否定を意味するわけではない、と明瞭に示し得ただろう。そうなれば上記の両義性は学問的専門性の徹底という方向で解消されていたはずである。

 だが、少なくとも現時点まで羽入氏からそうした応答はなかった。そしてこのことは応答がなされた場合の裏返しの事態を含意してしまうだろう。つまり、論争における羽入氏の無回答を通じて、『犯罪』は学問的専門性まで含めた全否定として読まれ得る書物になってしまうのである。上記の比喩で言い換えれば、羽入氏はウェーバー退治とともにその武器も放棄してしまった、ということになる。

 加えて羽入氏が『犯罪』刊行以降も常に「女房」を引き合いに出して発言していることは、こうした可能性を強化してしまう。というのも、羽入氏はこれらの発言において「専門家」としてではなく「女房」=「素人」の代弁者として「専門家」の「空虚さ」を批判しつづけることによって、「素人の代弁者」ではなく「一人の専門家」として語る可能性を自ら狭めてしまっているからである。その結果、ひるがえって『犯罪』は上記の両義性を離れ、「専門性の否定」の言説として読まれてしまうだろう。

 こうした事態は羽入氏自身にとっても自縄自縛ではないかと推測するのだが、それは問うまい。ともあれ、少なくともこの限りで羽入氏の言動は「悪ふざけ」でも「調子に乗っている」のでもなく一貫したものと解釈することができる。

 先に私が「論争における羽入氏の沈黙は重大な意味を持ってしまう」と述べたのはこの意味においてである。羽入氏の実際の動機がどうであろうと、『犯罪』を含めその言動は結果として専門性否定の意味を帯びてしまう。だからこそ、せめて今からでも羽入氏が今回の論争に何らかの応答をされることが強く望まれるのである。

 それにしても、『犯罪』の語り口が学問的な専門性の否定を含意してしまうというのは、読解としてあまりに極端ではないだろうか? 確かに。だが、ここで『犯罪』についてこうした読解の可能性を提示したのには理由がある。冒頭で「良くも悪くも」政治的と述べた、その「良い」側面がこの点に関わってくる。

 上で整理した、『犯罪』の語り口が描き出す図式にもう一度戻ってみよう。

 この図式の大枠は単純な二項対立である。一方には内実の空虚さを「詐欺」で押し隠す「専門家」とその頭目たるウェーバー、他方には直感的に真実を見出す「女房」=「素人」とその代弁者たる羽入氏。この「対決」において、少なくとも「素人」羽入氏の側から見る限り和解や意思疎通の可能性は存在しない。そもそも「素人」から見た「専門家」の「理解不可能性、分からなさ」(p.5)こそが「専門家」の空虚さの徴候だったのであり、その空虚な相手との意思疎通などあり得ないだろう(「馬鹿と付き合うのはもうたくさん」という「女房」のセリフが想起される)。だから羽入氏は「この複雑怪奇な罠を単純に一気に叩き壊」すしかない(p.197)。

 この図式に留まる限り「素人」がこの「対決」を通じて「専門家」から何かを学び、自らを変化させることはあり得ない。そうした要素がそもそもこの図式には欠落しているからである。したがって、「専門家」を倒したあとも「素人」は「素人」のままである。

 先ほど指摘した「専門性の否定」という問題、「武器を打ち捨てる」と述べたのはこのことを指している。

 比喩を用いずに少し問題を敷衍すれば以下のようになるだろうか。

 確かに既成学問が空洞化するという現象はしばしば見られる。古いところではアダム・スミスがオックスフォードの旧態依然たるスコラ学に呆れ果てた、という例も挙げられよう。また既成学問の空虚ぶりを「素人」が見抜くというのも確かにあり得ることであろう。まして「素朴な疑問」が学問にとってどれほど重要であるかは論を待たない。他ならぬウェーバー自身、「素人」の着想の見事さや「素朴な疑問」の重要性(「アナーキスト」のエピソードを想起されたい)について『学問』や『価値自由』論文で触れている。だが、その空洞化した学問を批判した結果として、何がもたらされるべきであろうか。生まれてくるのは専門性の否定ではなく「新たな専門性」を備えた新たな学問でなければならないのではないか。だとするならば、「素人」の着想も一度は一定の学問的な専門性・厳密性によって入念に練磨される必要がある。逆にそうした練磨を経ない「着想」は結果的には無力なままに終わるであろう。仮にウェーバーの『倫理』を批判したとしても、その批判の際に用いた学問的専門性の規準(したがって、例えば『学問』が提示した「知的誠実性」や論理性といった規準)によってこそ「素人の着想」は新たな専門性を備えた学問へと練磨され得る。

 要するに、もし新たな学問が必要とされるのであれば、それは「素人」が「専門家」を「一気に叩き壊す」ことによってではなく、両者が真剣な対決を通じて相互に学び合い、自らを変化させていくことを通じてしか成し遂げられないはずなのである。ここで重要なのは、このプロセスが相互的だということである。すなわち、「素人」が一方的に「専門家」から学ぶのではなく、「専門家」もまた「素人」との対決を通じて多くのことを学び、自らの硬直性や空洞化を打破する必要がある。もしこうしたプロセスを欠くならば、「専門家」が「素人」によって「叩き壊」されたとしても文句は言えまい。

 だが、こうした相互的なプロセスに向かう可能性が最初から排除されてしまい、学問的な専門性が批判され新たな展望も示されないとしたら、それは結局のところ学問とその専門性の放棄に帰着するだろう。

 そして個人的な印象で言えば、おそらく現在、日本の社会全般において何かしら「専門性に対する嫌悪」の底流的な感情が広がっているのではないだろうか。政治におけるポピュリズムの拡大と並行して、あるいは学問においてもポピュリズムが浸透しているのではないだろうか。専門性や厳密性による練磨を経ることなく、「素人」のままであることを良しとするポピュリズムが。

 もしそうした「専門性の放棄」、あるいは「専門性に対する嫌悪」といった心情が『犯罪』による反響の背景にあるのだとしたら、問題はかなり深刻である。ことは現代の状況における学問的専門性そのものの位置に関わるからである。

 もちろん今回の論争がこの問題を「決する」などと大上段に構えるつもりは毛頭ない。それでも今回の論争はこうした状況の顕在化した一端ではあり得るのではないか。冒頭で「『犯罪』と今回の論争が『政治的』だ」と述べたのはこの意味においてである。

 いま私は「個人的な印象」と述べた。だが、現在日本で進行している階層間格差の拡大(ないし潜在化していた格差の顕在化)はこの「印象」をある程度裏づけるように思われる。とりわけ高等教育が、したがって間接的に学問が、こうした格差を少なくとも追認=正当化するものとして機能している(例えばブルデューの「文化資本」概念――この概念をめぐっては様々な批判があるが――を想起されたい)と考えられるのであれば、そこから学問とその専門性に対する嫌悪が生み出されたとしても無理はない。

 もしこうした状況理解が妥当なものだとするなら、学問における専門性嫌悪とポピュリズムの発生に対して、学問それ自身も(したがって「専門家」自身も)何かしら関与していることになるだろう。学問的な専門性の強化が結果的には格差の拡大に結びついていると考えられるからである。実際、他ならぬウェーバーが『法社会学』の末尾で描き出したのも「学問的専門性」が生み出す格差の問題ではなかっただろうか。

 だとすると、『犯罪』の背景に想定される専門性嫌悪の心情は、学問的専門性そのものの「意図せざる結果」とも言えるだろう。そう思うと、羽入氏が(もちろん文脈はまったく違うが)『犯罪』のあとがきで自著を「日本ヴェーバー研究の鬼子」(p.287)と評しているのは何とも皮肉な話ではある。

 さて、もし『犯罪』と『犯罪』をめぐる状況とをこのように理解できるとするならば、学問におけるこうしたポピュリズムにどう対処するべきなのだろうか。ウェーバーであればこうしたポピュリズムを学問のザッハリッヒカイトに耐え得ない「弱さ」として叱咤できたかもしれない。しかし上で見たような理解からすれば、ウェーバーの時代ならぬ現代において「弱さ」に対する叱咤が問題の解決につながるとは考えにくい。だが、言うまでもなく学問的専門性の放棄という選択肢はあり得ない(少なくとも私はそう信ずる)。ではどうすべきか。

 ここで注意したいのは、『犯罪』が描き出すようなポピュリズム的図式に従った対応は決して問題の解決にはつながらないということである。というのも、すでに見たとおりポピュリズムの二項対立図式は結局のところ「素人」が「素人」のままに留まることを正当化し、結果的には既存学問に対する批判を単なる「憂さ晴らし」に矮小化させてしまうからである。さらに階層間格差の問題に照らして見るならば、ポピュリズムは一見階層分化を批判しているように見えて実際には「ガス抜き」を図りつつ現状を固定化する方向で機能するだろう。保守派文化人が『犯罪』を「絶賛」するのは理由のないことではない。

 もちろん学問の威を借りる権威主義は論外だが、しかし二項対立を(ひいては階層分化の進展を)前提し固定化するという点で、実はポピュリズムは権威主義の裏返しであり、いわば「同位対立」なのである。

 すでに見たように、真に必要なのは「専門家」と「素人」がともに真剣な対峙・対決を通じて相互に学びあうことであろう。いや、そもそも「専門家」/「素人」という固定化した二項対立自体が権威主義/ポピュリズムの作り出す虚構ではなかろうか。確かに階層間格差は存在するだろうし、それに対して学問は間接的であれ何かしら共犯であるだろう。だが、初めから「専門家」だった人間などいないのだし、逆にいつまでも「素人」に留まり続ける必然性も存在しない。確かに現代の状況は過酷だが、しかし我々はその厳しさに抗しつつ、常に学ぶこと、学び続けることができるし、そのことによって自らを変えていくことができるはずである。他者の議論を「一気に叩き壊す」のではなく、こうした一見遅々とした営みこそが学問の可能性を担っているのではないだろうか。

 そして今回の論争もまた、こうした可能性に賭けてこそ展開されてきたと言える。しかも現に「専門家」であるウェーバー研究者たちが「専門家」ならざる人々の寄稿から実に多くのことを学んできたのではないか。だとすれば、今回の論争を通じて互いに学びあうことが可能であったという事実そのものが、ポピュリズムの二項対立図式に対する最高の批判なのである。

 本稿は、この「最高の批判」に対して側面からのささやかな寄与を試みたにすぎない。

追記 1: この機会に触れておくならば、同じく折原氏の関わっている論争としては、いわゆる『経済と社会』の編集問題をめぐるシュルフター氏(ハイデルベルク大学)との論争の方が当然ながらはるかに生産的である。また一見地味な文献学上の論争のように見えるが、私見ではこの論争の射程はかなり広いように思われる。やはり当事者の姿勢が論争を左右するのであろう。

 機会があれば、私個人としてはむしろこの折原・シュルフター論争について詳しく検討を加えたいと考えている。

追記 2: 文中で触れた階層間格差の拡大という問題について、実際には階級・階層研究の領域で実に多種多様な(それこそ専門的な!)議論が展開されており、ここでその研究動向について論ずるのはもちろん不可能である。とはいえ全体の動向として、高度成長期からバブル期にかけて解消した(かに見えた)格差が近年改めて顕在化していること、またその格差に対して教育が少なくとも縮小させる力にはなっていないこと、などが広く論じられているように思われる。

追記 3: 本稿を作成する上で、橋本努氏および折原氏から貴重なご指摘をいただいた。この場でお礼を申し上げたい。

 ただし念のために付言しておけば、本稿の主張がはじめから折原氏や橋本努氏の主張に与するべく(それこそ「政治的」=「党派的」に)構想されたわけではない。むしろ本稿の主張は両氏の主張と部分的には対立するのではないか、と私個人は予想している。そしてもしその点について論争が起こるとするなら、やはりその論争を通じて学問の可能性に寄与し得ることを期待したい。


折原浩「なぜ「『末人』の跳梁」と題するか――前稿(羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語・その1)への補遺」

2004年8月22日(本コーナーへの寄稿)

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なぜ「『末人』の跳梁」と題するか――前稿(羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語・その1)への補遺

折原 浩

2004年8月22日

はじめに

 前稿「『末人』の跳梁――羽入『ヴェーバー詐欺師説』批判結語(その1)」では、羽入書第一章「“calling”-概念をめぐる資料操作――英訳聖書を見ていたのか」の叙述に内在して、羽入の「意味変換操作」を剔出した。その後、若干補足したい点が出てきたし、前稿の論旨の一部(ヴェーバーBeruf論のコンテクスト)を整理しなおす必要も感じた。他方、連載予定の本稿全体を、なぜ「『末人』の跳梁」と題するか、についても、再度内在考察に転じた趣旨とともに、若干解説する必要があろうかと考えた。そこで、やや反復の嫌いはあるにせよ、ここでもういちど前稿の要旨を再構成して示し、あわせて題名の趣旨を述べたい。次稿は、「『末人』の跳梁――羽入『ヴェーバー詐欺師説』批判結語(その2)」と題し、羽入書第二章「“Beruf”-概念をめぐる資料操作――ルター聖書の原典ではなかった」を取り上げ、前稿同様、そこに見られる羽入の「意味変換操作」を抉剔する予定である。

1.ヴェーバーBeruf 論のコンテクスト――「遺構部位」の配置構成

 「羽入事件」と「藤村事件」とを類例として対比し、前者における「ヴェーバー詐欺師説」の捏造を、後者における遺物発掘捏造になぞらえると、羽入が「遺物」を取り出した「遺構」「部位」本来の「配置構成」は、つぎのとおりである(このばあい、「遺構」とは「倫理」論文、「部位」とは、同論文第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」の本文第1段落とそこに付された三つの注、「遺物」とは、三注のうち注3の第[6]段落に含まれ、内容としてはイングランドにおけるBeruf相当語callingの成立に論及した、原文16行約150字の叙述、「配置構成」=「遺物」群の「布置連関Konstellation」とは、当該叙述が内属するBeruf論のコンテクスト、にそれぞれ相当する)。

 ヴェーバーは、「ルターの職業観」節の本文第1段落で、読者との「トポス」(共通の場)として同時代のドイツ語語彙のなかからBerufを取り出し、①この語が現在「使命としての職業」という独特の意味で用いられている事実を所与として認め、そのうえで(比較語義史のパースペクティーフを開いて)、②同じように「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つBeruf相当語(callingなど)の時間的・空間的分布が、近世以降プロテスタントの優勢な諸民族の言語にかぎられている事実を指摘し、そこから(歴史的因果帰属に転じて)、③そうしたBeruf およびBeruf相当語は、宗教改革における聖書の翻訳に――しかも、原文ではなく「翻訳者たち精神der Geist der Uebersetzer」に――由来するとの仮説を立て、そのあと、この仮説に、二様の回答を示している。すなわち、一方では、④翻訳者のひとりルターのばあい、そうした語Beruf が、まずはzuerst旧約外典『シラ』11: 20, 21の翻訳のさいに――原語ergonとponos(原文では反貨殖主義・伝統主義的な「神への信頼」を説くコンテクストに内属し、もっぱら世俗的な「仕事work」ないしは「労苦toil」を意味していた語)に、語Beruf(それまではルター自身も主として「神の召し」ないしはせいぜい「聖職への招聘」にかぎって純宗教的に用いてきた語[1])を当てるという意訳の形式をとって――成立し(そのとき語beruff が語のうえで初めてBerufとなり)、この意訳語Berufが、排斥されるのでも、無視されるのでもなく、広く受け入れられて、現在にいたっている、他方、⑤ドイツ以外のプロテスタント諸民族のばあいにも、「その後すみやかに dann sehr bald」、語形は異なっても同義・等価のBeruf相当語が成立し、普及して、現在にいたっている、と述べている。

 さて、本文を読んできて、この論点④と⑤にさしかかると、やや性急との印象を免れがたいであろう。というのも、事実がはたしてそのとおりであったかどうか、そうとすれば、いかなる経緯をへてそうなったのか、という歴史的検証は省いて、結論だけが提示されているからである。ところが、ヴェーバーは、論点④に、全六段からなる長大な注3を付し、事実の確認と経緯の説明は、そのなかに送り込んで実施している。すなわち(ここでさらに「言語社会学」のパースペクティーフを開いて)、一方では、⑥ルターにおいて、そうした宗教改革者としての「翻訳者の精神」が、いかに形成され、その「精神」によって孕まれた職業「概念いかなる事情を介して『シラ』11: 20, 21の訳語に表明されるにいたったのか、その歴史的経緯を、五つの段落([1][5])を振りあてて詳細に論じ、④の仮説を立証している。他方、⑦ドイツ語圏の境界を越え歴史的社会的条件を異にする他の言語ゲマインシャフト」においても、そうした宗教改革者・翻訳者の「精神概念、「その後すみやかに」なんらかのしかるべき(たとえばcallingのような)を見いだし、それにBeruf相当語としての語を賦与し、これが普及して今日にいたっているかどうか、そうしたことが起きたとすれば、⑧いかなる歴史的経緯をへてそうなったのか、との問いに答え、論点⑤の仮説を立証すべく、ただし⑤に特別の注を付すのではなく④にかんする注3末尾の第段落に繰り入れる形で(したがって、⑥に比して1/6弱の紙幅で)、最善の努力を払っている。すなわち、ドイツ語圏以外のプロテスタント諸国のうち、結果的にBeruf相当語が普及して今日にいたっている「言語ゲマインシャフト」の一例として、イングランドを取り上げ、語calling(ないしはcallyngeなど、語形上のヴァリアント)を、Berufやberoep(オランダ語)とは別系統のkald(デンマーク語)、kallelse(スウェーデン語)など、ギリシャ語kaleōから派生したと思われる語群の一代表例に見立てて、それが、Beruf相当語として成立した事実を、歴史的経緯にかんする詳論は省いて確認し、論点⑤の仮説を、十全な立証とまではいかなくとも例証している。

 

2.規範的格率と経済的格率との狭間における選択と「限界問題」

 なるほど、この論点⑦の叙述を、論点⑥のそれと比べれば、質量ともに見劣りがする。前者には、注3末尾の一段落内に収まる原文16行約150字が費やされているだけであるが、後者にはその六倍強の紙幅が当てられている。かりに「BerufならびにBeruf相当語にかんする比較語義史」が「倫理」論文の(「トポス」でなく)主題であれば、論点⑦では、イングランド以外にも、オランダ、デンマーク、スウェーデンなど、プロテスタントが優勢な「言語ゲマインシャフト」におけるBeruf相当語成立の事実[2]のみでなく、その歴史的経緯までが、論点⑥における自国ドイツの等価事例に匹敵する密度で詳論されてしかるべきだったろう。ところが、じっさいには、唯一の例イングランドについても、Beruf相当語callingの成立が事実として確認されるだけで、その経緯の詳細は不問に付されている。つまり、論点⑧は、ほとんど問い残されている。というのも、「倫理」論文は、比較語義史研究を主題としてはいないからである[3]

 ところで、ヴェーバーは、つねに過大な研究課題を抱え、どんな問題についても「一次資料に当たって事実を確かめ、歴史的経緯を究明すべし」と要請する規範的格率と、膨大な課題を効率よくこなして成果にむすびつけようとする経済的格率との「せめぎ合い」を、「素材探し」と「意味探し」との緊張を交えて、生きていた。ということは、一篇の論文を執筆するときにも、主題に向けて効率よく――つまり、個々の論点に割り当てる時間と労力を、論点それぞれの価値関係性ないしは合目的性に応じて制御して――叙述を進め、早く主題の議論に集中しようとする求心力と、「トポス」にかんする比較語義史的補足論議でも、「人間にかかわることで、わたしに無縁なことはない」とばかり、比較の諸項(少なくともその代表例)についても一次資料による検証にまで深入りして、「補説Exkurs」(「経済的格率」の観点からすれば「道草」)にも時間と労力を惜しむまいとする遠心力との交差圧力を受けながら、双方の狭間に身を置いて、つねに最善の選択を心がけていた、ということであろう。

 「倫理」論文のばあい、ヴェーバーは、そういう「せめぎ合い」のなかでの選択として、論点⑤にかんする⑦の叙述は、形式上、独立の注を設けず、(論点④に付され、叙述⑥に当てられる)注3の末尾に繰り入れる形で、簡潔に切り上げようとしたにちがいない。また、内容上も、当時刊行途上にあったOEDの、英語語義史に通じた碩学マレーの記事を、なるほど「二次資料」とはいえ、(当時のかれには、にわかには蒐集できない)歴史的素材の最良の集成として、摂取し、活用している。かりにかれが生きていて、これを「資料操作」として咎められたとすれば、「杓子定規に『一次資料』規範に固執するよりも、柔軟に良質の『二次資料』を活用するほうが、(他に振り向けてもっと有効に使える時間と労力を節約できるばかりか)内容上も『おのれの足らざるところを補って』もらえて『結果的にベター』(『自分にとってはベスト』)ということもありうる」と答えたであろう。

 ちなみに、かれは、ルターの『シラ』句訳に源を発した「言霊」の「呪力」が、直接、英訳諸聖書の『シラ』句“calling”に乗り移り、この“calling”から直接「禁欲的プロテスタンティズム」の職業概念が派生するなどと、信じてはいなかった。主題として念頭にある「禁欲的プロテスタンティズム」の職業概念/職業倫理は、後代、「禁欲的プロテスタンティズム」の大衆宗教性において「確証問題への関心」が前面に顕れて以降(17世紀中葉以降)、そのように主体的条件が熟して初めて、歴史的に形成され、ルターの職業概念そのときに初めて(『シラ』回路を含むにせよ、それだけではない多様なルートを経由して)イングランドのピューリタニズムに摂取され、鋳直された、と見ている。したがって、かりにこの論点⑦16行約150文字の叙述において、ルターとピューリタニズムとが、一語Beruf=callingで直結されなかったとしても、「倫理」論文の「全論証構造」が揺らぐわけではない。それは、ルターとフランクリンとが同じく一語Beruf=callingでは直結されず、geschefft≠callingと齟齬をきたしたとしても、(歴史・社会科学的に考えれば、用語法の歴史的変遷として)むしろ当然のことで、(当の齟齬は)なんら「倫理」論文の「アポリア」とはならず、その「全論証構造」の「命取り」ではなく、むしろ「補完材料」をなす、というのと同然である。「倫理論文の全論証構造においては、この⑦で、ルターによる語Berufの創始「以後すみやかに」、プロテスタントの優勢な諸民族の「言語ゲマインシャフト」にBeruf相当語が普及し現在にいたっている事実を確認し、本文のテーゼ⑤を例証できれば、それで十分なのである[4]

 ただ、つねにより高いいっそう完璧な究明と論証をめざす学問の規範に照らせば、他国の「言語ゲマインシャフト」におけるBeruf相当語の創始経緯にかんする⑦の叙述も、自国のルターにかんする⑥の叙述と同等の水準にまで引き上げることが、あくまで可能ではあったろう。ヴェーバーも、かりにそうした「言語社会学」的比較語義史が「倫理」論文の主題であったとすれば、万難を排して(あるいは、さなくとも「トポス」の補説についてまで一次資料を調べる時間と余力があったならば、よろこんで)、より高きをめざす学問の規範にしたがったにちがいない。「規範的格率と経済的格率とのせめぎ合い」を生きなければならない、実存(現実存在)としての研究者は、価値関係的パースペクティーフによって制御された研究の途上、時間と労力のおよぶ範囲の境界線上で、(別の観点からは、あるいは高次の規範に照らせば「欠落」「不備」「不足」と見なされてもやむをえない)こうした「限界問題」に直面し、現実にはその究明を断念し、問い残さざるをえないのである。

 ところで、こうした「限界問題」は、ちょうど学問論争と法廷闘争との「限界問題」をもなしている。学問論争を法廷闘争になぞらえることは、ある範囲内では可能かつ有効であろう。しかし、訴訟における「勝敗」といった後者のカテゴリーに囚われると、なによりもまずこうした「限界問題」が、「弁護」すべき「被告人」の「弱み」とも感得され、訴訟の展開には「不利な」材料にもなりかねないと予感され、ここから「限界問題」の存在すら認めないという防衛反応が生じやすい。そうなると、比喩は学問上、かえって有害になる。というのも、学問は、そうした「限界問題」をこそ、まさに知的誠実性をもって直視し、批判し、仮説を構成して検証し、そのようにして(単線的あるいは「弁証法的」な)進歩をとげていくものだからである。

3.「限界問題」にたいする二様の対応――学問的批判と偶像破壊

 ところで、学問論争において、ある研究者が、他の研究者を批判するばあい、そうした「限界問題」にどういうスタンスをとるか、という一点に、当該批判者の学者としての品位が顕れるように思われる。

 一方の極に想定される批判者は、批判相手の「限界問題」を、高次の規範に照らして「欠落」「不備」「不足」と認定するにしても、それを無条件に「瑕疵」「欠陥」一般に解消して非難するのではなく、相手が二格率の「せめぎ合い」のなかで最善の選択をなしたかどうかを、当該論点の位置価と価値関係性に照らしてまずは検証する。そのうえで、批判者自身もより高きをめざす学問の規範に服して、当の「限界問題」を問題として再設定しむしろ自分自身の問題として引き受けようとするであろう。あるいは、当の問題を自分の問題ともする(たとえば「言語社会学」的比較語義史を専門的に考究する)意思はなくて、他の(そうした意思をもつ)研究者とくに後進に託すとしても、当の「限界問題」に迫る批判相手の議論(たとえばヴェーバーのBeruf論、とくにルターとドイツ語圏にかんするヴェーバーとしてもっとも密度の高い議論)から、そこに潜在している(たとえば「言語社会学」的比較語義史の)研究方針とパースペクティーフを引き出し、つとめて明快に再構成して、当の「限界」を越える(たとえば「ヴェーバーでヴェーバーを越える」)方向性を示し、問題を託す他の研究者に提供する責任は負うであろう。

 このばあいには、批判者も批判相手も、ともにより高きをめざす学問の規範」に服そうとするから、批判が、相手の限界暴露と否定だけには終わらず、当の「限界」を越えるなんらかのポジティヴな成果を生み出す公算が高い。言い換えれば、そうした者どうしの論争は、どんなに激しくとも「生産的限定論争」となる。少なくとも、そうする責任は、批判者にも堅持されているであろう。

 それにたいして、他方の極に想定される批判者は、相手とともに「より高きをめざす学問の規範」に服し、そのもとで相互に批判を交わしながら、(どんなに熾烈な論争となっても)あくまで理非曲直を争おうとするのではなく、相手をむしろ、暗々裏にせよ「偶像」に見立て、その「偶像」を「引き倒す」ことで、みずからを偶像として立てようとする。そういう「批判者」はむしろ、「偶像崇拝の裏返しとして偶像破壊をこととする者」「偶像崇拝者と同位対立の関係にある偶像破壊者」「偶像破壊のかぎりにおける自己崇拝者」とも言い換えられよう。思うに、こうした「偶像崇拝=破壊者」は、対象の偶像化と自己の偶像化に通じる「抽象的情熱」ないし過度の興奮を制御できない。というのも、そうした情熱や興奮を鎮めて偶像化を背後から引き止める人間存在の原点に背いて、「根のない水草」のように大地から浮き上がり、ちょうどそれだけ、内奥の不安を鎮めようと、どこかに偶像を立てて「拠り所」とせざるをえないからであろう。

 とまれ、そういう「偶像崇拝=破壊者」が、「偶像」に見立てて「打倒」しようとする相手の「限界問題」に直面するばあい、なにが起きるか。かれは、「限界問題」を、関連論点の位置価や価値関係性にかかわりなくただちに相手の「瑕疵」「欠陥」と決め込み、「弱み」と見て挑みかかり、特定の「瑕疵」「欠陥」を相手総体の「瑕疵」「欠陥」にまで過当に一般化し、それに非難を集中して、相手を「倒した」かに見せ、まさにそうすることで、みずから「寵児」「勝利者」「英雄」として躍り出、「偶像」として祀り上げられようとする。

4.「偶像崇拝破壊者」の「末人」性 

 立ち入って観察してみると、かれは、自分よりも優れたより高い客観的価値を認めて、現実にそれをめざして努力する、ということができない。あるいは、かつてはめざしていたけれども、挫折し、絶望し、(その絶望を絶望として見据えて)再起してはいない。かれがたとえば学問を志すとしても、「より高きをめざす学問の規範」に服して、現にある自分の殻を割って出、克己し精進して「より高い客観的価値」を実現しようとし、まさにそのことをとおしてみずからも向上しようとするのではない。むしろ、現にある自分に安住したまま、自分よりも優れたもの、より高い客観的価値をそなえたもの、その意味で現にある自分を脅かすものを、なんとかして引き倒し、自分の水準以下に引きずり下ろして、自分は「人間性の最高段階に上り詰めた」と思い込みたがる。

 いっそう根本的にいえば、かれには、人間存在の原点に揺るぎなく腰を据え、さればこそ内外に偶像を立てず内面的に自己充足する、ということができない。だからかれには、なんらかの外的対象を打倒・否定し、ちょうどそれだけ自己を偶像化し、自己満足・自己陶酔に耽る以外、自己尊重感を保つすべがない。したがって同時に、そうした外的対象が、現にあるがままの自分にも打倒・否定できる範囲内になければならないと悟って、「死人に口なし」の「死者」を撃つか、生者なら「返り討ち」を恐れ、「手強い」相手は避けようと、小賢しく立ち回るよりほかはない。こうした退嬰的基調のうえにたつ「ライフ・スタイル」こそ、ヴェーバーが「倫理」論文の末尾で、『ツァラトストラ』(ニーチェ)の寓意を引いて「末人たちdie letzten Menschen」と呼び、後にオルテガ・イ・ガセが「大衆人 Massenmensch」と名づけた類型のそれにほかならない。

いっそう正確にいえば、そうした「末人」としての「偶像崇拝=破壊者」は、世上「高い価値をそなえている」と評価されているものを、まさにそれゆえ(そうした評価の当否を批判的に吟味検証することなく「偶像」として受け入れ、当の「偶像」を世間の規準に即して「打倒」し、世上「偶像破壊者」の「栄誉」に浴そうとする。「最高の」「栄誉」をかちえるには、「最高」と評価されている「もっとも有名な」「偶像」を「倒す」にかぎる。それには、「偶像」の「弱みにつけ込む」のが、いちばん手っとり早い。それがはたして「弱み」か、自分はそうした「弱み」とは無縁か、などと胸に手を当てて考え始めると、足を引っ張られるから、そうした反問はいっさい止めにして、遮二無二「弱みにつけ込む」ことだ。「偶像」が学者であれば、世間一般には「学者は誠実で緻密」と見られているから、反対に「詐欺」「杜撰」と決めつけ、誰にでもある「限界問題」の「弱み」から無理にも「瑕疵」「欠陥」を引き出して「証拠」に仕立て、あたうかぎり「誠実で緻密」な「論証」を装い、世評をひっくり返して見せれば効果覿面、耳目を聳動するに足りよう。

 世間には、「最高」の「偶像」に反感・怨念を抱くだけの「学者」もけっこう多いから、そういう類の「識者」、あるいは「耳目聳動」を喜ぶ「評論家」には、効果抜群、かれらから絶賛/拍手喝采を引き出すのも難しくはあるまい。

 確かに、「××研究者」は腹を立て、反感をつのらせるにちがいない。しかし、ここにも「××読みの××知らず」がけっこう多いから、「自分は××研究者ではない」とかわして反論を回避するか、『××入門』まで書いてしまってその伝は使えない「啓蒙家」も、「自分には『もっと巨大な』課題がある」とかなんとか、師匠ゆずりの「黙殺」つまりは「沈黙は金」の処世術に逃げ込むか、まあそんなところであろう。「××研究者」が在職する大学・大学院を見渡しても、昨今、「教官」のそうした日和見的・「亀派」的「ライフ・スタイル」を正面から問い質せる、気骨のある学生・院生は、絶えて見かけない。「大学教官」の「××研究者」は、「見てみぬふり」をしていさえすれば安穏としていられるわけで、みな、「放っておけばどうにかなろう」「だれかがやってくれるだろう」くらいに受け止め、「雉も啼かずば撃たれじものを」で、自分からあえて反論を買って出る「物好き」など、まずどこにもいないだろう。

 万一、「手強い」反論が出てきたとしても、そのときはそのときで、「やはりまだいる偶像崇拝者」、「詐欺師に騙された哀れな輩」「廃棄物を垂れ流す××産業の営業者」「ブランド商品をけなされてヒステリックに反応」とかなんとか、俗耳に入りやすいレッテルにはこと欠かない。だから、そのときは、反論内容にはいっさい応答せず、「ポピュリズムで押しきれば、なんのことはない。

 「末人」の計算は、小賢しくもしたたかである。この「羽入事件」についてみても、少なくとも結果的には、ひとつの「不安材料」を除き、状況は大筋として「末人」の思惑どおりに推移してきているではないか。

5.「末人」跳梁の予兆

 こうした事態にたいしては、さまざまな対応がありえよう。「ま、そんなに目くじらを立てなさるな。『若僧』の駄々を歎く光景は、なにもいまに始まったことではない。『××研究』もいまや、どこにでもいる驕慢な『分からず屋』をひとりくらいは抱え込めるほど裾野を広げたと考えれば『もって瞑すべし』ではないか」と達観して鷹揚に構える人もあろう。あるいはさらに、「向きになって正面から対応すると、かえって相手の『思うつぼ』にはまり、傷をいっそう広げかねないから、放っておいて『淘汰』に委ねるのが、やはりいちばん賢明ではないか」と政治的配慮をめぐらせる人もいよう[5]。それぞれ一理も二理もある批判で、筆者としては、そうした批判を受け止めてそのつど応答しながら、自分の対応を調整/制御していけることを、たいへん幸いなことと考えている。と同時に、そうであればこそ、そうした批判にあえて逆らい異なる方向をとろうとする個人としての理由を述べ、さらなる批判にそなえる必要もあろうかと思う。

 筆者は、50年の研究歴/40年の研究指導歴(とくに古典文献講読ゼミの経験)から、ヴェーバーにかぎらず、古典といわれる書物は、そう簡単には理解できず、三読四読し、沈思黙考し、「議論仲間」の友人と議論したり、先輩や師匠に問い質したり、研究文献/二次文献に当たったりして、ようやく解読の糸口が掴め、だんだん分かってくるものではないかと思う[6]。そうであればこそ、そうこうするうちに、そのように「努力して分かる」こと自体が楽しみとなり、それを励みにいっそう努力するという好循環も生まれよう。そのようにして、初見では難解な古典文献を根気よく精読するうちに、「恣意を克服して対象に就く(Sachlichkeitの)」精神も育ってきて、これがやがては文献解読以外にも現実の問題に対処する場面で、その人のsachlichで明晰な判断と態度決定に活かされるのではあるまいか。ここに、「古典を学ぶ」意義のひとつがあると思う。

 ところが、1980年代に入ってから、学生/院生の間に、古典文献講読ゼミで「あなたのいまの読み方は間違ってはいないか、そこはむしろこう読むべきではないか」とストレートに指摘すると、考えなおすか反論するかではなしに、怒り出すという現象が目立ち始めた。そういうばあい、筆者としては、「当為」を振りかざしたり、権威主義的に「畳みかけ」たりした覚えはなく、むしろ「直截な指摘」をためらう弱さを克服しなければならないと気を引き締めながら、sachlichな理由を添えて、意図してストレートに指摘し、反論を促すように努めてきたつもりである。ともかくもそのころまでは、同一人が同じスタンスをとってきても、そうした怒気を含む対応に出くわしたことはなかった。だから、それはむしろ、学生/院生の側に、自分よりも優れたものから学んで向上しようという気構えと根気が薄れ、現にある自分に居直り、すぐ自己満足に耽りたがり、そういう退嬰的な姿勢をただそうとすると逆に恨む、あるいは、あえてそうする「手強い」相手は避ける、そうした脆弱な気質が蔓延してきた兆候と解釈せざるをえない。ある年度には、社会学専攻に、そうした怒気をヴェーバーにぶつけ、問題の退嬰的傾向を露にした修士論文(候補作)が提出され、「これはいかん、口述試験で正面対決しなければならない」と腹を固めたが、そのときには論文執筆者本人(羽入とは別人)のほうで気がついたらしく、いったん提出した論文を撤回し、翌年、問題傾向を改めた新作を提出して審査を通る、という「小事件」も起きていた。

 したがって、1998年に初めて(名古屋大学の院生がコメントを求めてきた)羽入論文「マックス・ヴェーバーの『魔術』からの解放」(『思想』、同年3月号)を読んだときにも、「あ、あれだな、あれがとうとう『言論の公共空間』にまで大手を振って登場するようになったな」と察しがついた。そのときには、論文の内容よりもむしろ、そうした論文が、文献解読の厳密性にかけては定評があって、筆者も金子武蔵先生のゼミからは学ぶところのあった、東京大学大学院倫理学専攻から学位を取得して出てきたことに、たいへん驚いた。と同時に、その意味では事態を深刻に受け止めながらも、当の出身母胎の善処に、やはり期待をかけたのである[7]

 しかし事態は、筆者の期待する方向には動かなかった。「善処」がなかったか、あっても功は奏さなかったのか、図に乗って表題を「魔術」から「犯罪」にエスカレートさせた羽入書が、数年後、これも定評のあった『MINERVA人文・社会科学叢書』の一点として公刊されたのである。その後の筆者の対応については、本コーナーに掲載の「学問論争をめぐる現状況」§§3~6、「横田理博寄稿への応答」、および「虚説捏造と検証回避は考古学界だけか(その1)」「はじめに」などに書きとめておいたので、ここでは繰り返さない。問題はむしろ、羽入書の自己主張(「偶像破壊=自己偶像化」要求)に「見てみぬふり」をし、「末人」が「わがもの顔」に振る舞うのを放任しておくと、いったいどうなるか、当面は小さな問題にすぎないとしても、そこからやがて、この日本社会における学問、ひいては文化一般のあり方に、どういう影響がおよんでいくか、という点に求められよう。

6.諸価値の「下降平準化」と「類が友を呼ぶ」「集団-ゲマインシャフト形成」

 「鳴り物入り」の「学界デビュー」は果たせても、「末人」は「末人」である。「より高きをめざす学問の規範」に服し、客観的(真理)価値に仕えて、その発展に寄与しつつみずからも向上しようとするのではない。そういう志、向上心をもたないのが「末人」の「末人」たる所以である。むしろ、客観的価値の世界を、ひたすら自己中心に、一方では、自分が「最高」の「偶像」を「詐欺師」と断する「世界初の発見」をなしとげ、「人間性の最高段階に上り詰めた」と思い込み、自己満足・自己陶酔に耽る、退嬰的営為の手段として、他方では、そのままで「寵児」「勝利者」「英雄」として脚光を浴びようという「虫のいい」イヴェントの舞台として、自己本位に最大限、利用しようとする。

 では、学問なら学問といった客観的価値の世界が、「末人」によってそのように自己中心・自己本位に、「偶像破壊=自己偶像化」に利用され、喰い荒されても、当の客観的価値そのものは、微動だにせず、安泰を保てるのであろうか。そこまで楽観が許される状況であろうか。むしろ、当初は目に見えない程度と形においてではあれ、客観的価値規準とそれに見合う価値パースペクティーフが攪乱され、たとえば「杜撰緻密」、「詐欺誠実とがこもごも取り違えられそうした混乱混濁のうちに諸価値が相殺され、「平準化nivellierenされ下降方向で均され)」ていくことにはならないであろうか。そのゆくてには、「なにが『価値』で、なにが『非価値』か」、もはや曖昧で判断がつかない、もう「なにがなんだか分からない」という「アノミー(無規範・無規制)状態」をへて、あげくのはて「けっきょくは自分の恣意を価値として押しつけ通せる、図々しいほうが勝ちだ」という権力主義が台頭し、気骨のない「大衆人」がこぞって追従に雪崩込む、という状況が、出現してはこないかどうか。

 もとより、ひとりの「末人」が孤立的にせよ登場すれば、事態がそこまで直線的に進む、というふうに考えることはできない。そうした予測を大真面目に掲げるのであれば、「強迫観念」に囚われていると決めつけられてもいたしかたない。しかし、ある「(物質的また観念的)利害状況Interessenlage」(たとえば「相対的に恵まれない『寵児』願望者のルサンチマンと『過補償』動機」)が構造的に生み出され、そうした「利害状況」を共有する「集群ないし統計的集団Gruppe」(les incompris intellectuels)が(「目には見えない」にせよ、いわば「潜在的ゲマインシャフト」として)生み出されてくると、そうした社会的基盤のうえでは「類が友を呼び」、まずはマス・メディアやインターネットを媒介とする「離ればなれの形成」、ついで「時宜的なゲマインシャフト形成gelegentliche Vergemeinschaftung」をへて、 ばあいによっては「カリスマ的」リーダーのもとに(開放的-閉鎖的)「ゼクテ(結社)」が結成されもしよう[8]。もとより、こうした「集団-ゲマインシャフト形成」の階梯は、一方向的な「進化」の「段階」として「実体化」されてはならない。それはむしろ、そのときどきの諸条件に応じて「形成されては反転して解消し、また反転して形成される」双方向的「離合集散」(漸移的流動的相互移行関係)を動態的に把捉しようとする概念標識理念型スケールと見なされるべきである[9]。ただ、そうした「集団-ゲマインシャフト形成」と交錯しながら、「形成-解消」の両局面で(「解消」の局面でも)客観的諸価値の「下降平準化」が進み、ただ、「形成」局面では「平準化」がいっそう加速される、と予想される。こうした概念構成によって、事態の推移ばかりか、思いがけない展開も予測し、見通せるようになる。

 じっさい、「類が友を呼ぶ」「時宜的ゲマインシャフト形成」は、今回、一見思いもよらないところに出現した。なるほど、羽入書の登場後、まずは羽入予備軍」(「利害状況」を共有する「統計的集団」としてのles incompris intellectuels)の間に、羽入書を歓呼して迎える「離ればなれの群集」が形成され、羽入書を「誠実で緻密な論証」と取り違え、客観的価値規準を曖昧にし、その「下降平準化」に一役買ったであろう。この事実は、その間の「インターネット評論」の動向から、ほぼ確実に推認される。ところが、「時宜的ゲマインシャフト形成」のほうは、一見思わぬところに「絶賛者」が群がり、「賞=SHOW」を演じて「偶像破壊」カーニヴァルの列に伍する、世にも珍奇な形態をとった。『Voice』誌2004年1月号に掲載されている「山本七平賞」選考委員、加藤寛、竹内靖雄、中西輝政、山折哲雄、養老孟司、江口克彦の「選評」は、「末人」の「偶像破壊」に唱和して「時宜的ゲマインシャフト形成」に走った「PHP名士」「PHP識者」の資質と水準を露呈したデータとして、客観的諸価値の「下降平準化」を押し進める「末人」共同戦線の広がりを示す一徴候として、注目に値する。

7.「信じ難きを信じ」――加藤選評を読む

⑴加藤寛(千葉商科大学学長)によれば、「戦後の学生時代、私たちはマックス・ヴェーバーに浸りつづけていた。若きヴェーバーと碩学G・シュモラー[sic]との大論争[10]、ヴェルトフライハイト(価値判断排除論[sic][11])など私たちは読み耽り、それを題材として友人たちと論じ合ったから、ヴェーバーは私たちの青春のシンボルであった」という。なるほど、若いころヴェーバーを勉強したこと、とくに、難解な題材をめぐる「議論仲間」を持てたことは、それ自体たいへん結構なことであったといえよう。ところが、当の加藤が、「そのヴェーバーが学問的犯罪を犯したという衝撃が羽入氏の研究を通じて解き明かされている。しかもそれがたんなる感想コメントではなく、厳密なテキストクリティークに基づきその検証を試みたのだから、読むうちに肯んぜざるをえなくなる。こんなことが小説ではなく学術論文によってなされるなど正直いって信じられなかった」と告白している。

 さて、かりに加藤が、羽入書を「小説ではなく学術論文」として読み、羽入の「検証」を「読むうちに肯ん」じたとすれば、加藤の「青春」とは、当の「学問的犯罪」を見抜けずに「ヴェーバーに浸りつづけ」た錯誤ということになり、加藤としては、まずそうした自分の「青春」を問い返すべきであろう。ところが、加藤は、そうせずに、なにか他人事のように、羽入書を評価し、歓迎する。なぜか。加藤は、「大塚久雄信奉というかたくなな日本の学界(空気)に抗したこの画期的な著作が陽の目を浴びたことを喜びたい」とも語っており、この感情のほうが強くて、自己点検を妨げられているのではあるまいか。この「大塚久雄信奉」とは、ヴェーバー研究の現況を知る者にはやや[12]時代錯誤に響くが、案外、加藤の世代には共有されている本音なのかもしれない。とすれば、加藤の「青春」体験は、かれには「かたくなな」ルサンチマンを残し、これが今回のいささか軽率な羽入書評価に発現してしまったといえよう。

 「軽率な」というのも、加藤自身、学者であれば、おそらくはPHP研究所から回されてきた推薦状に賛意を表するまえに、「倫理」論文を再読し、羽入の主張をそれと逐一対比して検証し、そのうえで羽入書を学問的に評価すべきであったろうからである。そうする暇がなければ、「信じ難きを信ずる」まえに、少なくとも専門のヴェーバー研究者の意見を聞いて、慎重を期すべきであったろう。羽入書が「厳密なテキスト・クリティーク」を装いながら、「検証」の体をなさず、「相手を見ない行司には、相手を手玉にとっているかに見えるひとり相撲」にすぎないことは、事前(2003年4月)に『季刊経済学論集』(69巻1号)に載った書評「四疑似問題でひとり相撲」で指摘されていた。加藤が、「専門家の意見を聞く」という学者として当然の手順を踏まずに、羽入の主張を「肯ん」じたとすれば、軽率で無責任であったといわざるをえないし、かりにそうしてもなおかつ「信じ難きを信じた」というのであれば、よほどの「節穴」というほかはない(この「軽率で無責任か、それとも『節穴』か」という批判は、加藤のみでなく、六人の選考委員すべてに当てはまる)。加藤も、加藤自身の専門領域では学問的訓練を積み、ひとかどの業績も挙げてきたにちがいないから、多分前者であろう。かれの「青春のシンボル」が、かれに学者としての品位と責任感は残さず、あちこちでいい加減なことをいう「名士」「識者」にのし上がることは妨げなかったとすれば、まことに残念といわざるをえない。

 なお、加藤はいちおう、「『犯罪』という題名は語感が強すぎる。……これは出版社の売らんがための『犯罪』というべきか(?)」と、疑問を呈してはいる。しかしこのばあい、確かに出版社の、なりふりかまわぬ「売らんがための『犯罪』」も問題であるが、著者羽入自身も、本文でヴェーバーを「詐欺師」「犯罪者」と断じているのである(2、18、191)。加藤はなぜ、著者の不見識のほうは不問に付せるのか。ここでもおそらく、あの「かたくなな」ルサンチマンから、羽入書が「陽の目を浴びたことを喜び」、広く推奨したいという願望が、かれの判断を誤らせたのであろう。

8.「ポピュリズムの走狗」――竹内選評を読む 

⑵竹内靖雄(成蹊大学教授)は、羽入書を「完成度の高い推理小説のように面白く読」んだそうである。「羽入探偵は、この[資本主義を推進した精神的エネルギーはプロテスタントの倫理であるという]ヴェーバーの推理を吟味し、そこにはインチキな操作があってこの推理は成立しない、ということを完膚なきまでに立証してみせたのです。これはこの学問の分野では大変な『壮挙』で、かの巨人ヴェーバーの像が、その売りものである『知的誠実さ』という土台から崩れ、倒れていくさまが見られます。これが面白くないわけはありません。」 なんたることであろう。「完膚なきまでに立証」「大変な『壮挙』」「巨人像が土台から崩れ、倒れる」等々、「決まり文句」の賛辞を連ねて推奨する竹内とは、「ポピュリズムの走狗」か。こういうコピーライターには、「『倫理』論文と羽入書を読んでからものをいえ」といってみても始まるまい。

さらに竹内は、羽入書の書き出しを絶賛する。「この本の冒頭ではいきなり羽入夫人が登場して、『マックス・ヴェーバーの嘘』を指摘します。名探偵羽入氏のワトソン役かと思った夫人がじつは主役の探偵に指図し、叱咤激励して仕事をさせる。どんな小説も顔負けの鮮やかな導入部です。そして読みはじめると、たしかに難解な専門用語が充満してはいますが、緻密で明快な論理で組み立てられた文章に導かれて、一気に読み通すことができます。」劈頭一番、「女房」を「トイレに本を持ち込む癖がある」巫女に仕立て、「だいたいが詐欺師の顔してる」(ⅰ)との託宣を口に入れる「悪ふざけ」を、竹内が「大人」として「たしなめる」のも忘れて賞揚するとは、学者としてのスタンスと力量ばかりか、人間としての品位のほども疑われよう。羽入書に「緻密で明快な論理」を読み取るとは、「この私には、『緻密で明快な論理』をそれと判別する準拠枠がありません。推薦回状に掲げられた『決まり文句』をただコピーライターとして味付けするだけです」との告白と解しておこう。

9.本能/感情/恣意に居直る自己中心/自民族中心主義――中西選評を読む

⑶中西輝政(京都大学教授)は、羽入書の評価に入るまえに、自分の学問観を披瀝している。かれは、「若いころから『マックス・ヴェーバーにはどこか、ウソ臭いところがある』と本能的に感じていた」ので、羽入書を読んで、『やっぱりそうだったか』との思いを繰り返し感じた」という。若き中西は、そうした「本能的感情」から、「ヴェーバーを押し戴く友人たちを尻目に早々とイギリスに留学」する。そして、ドイツ人は「お話」として貶める「イギリス流の事実の羅列のような歴史にこそ、まだしも真実があると思うようになった」。というのも、「人間に関わる話はまず、すっきりと割り切れるようなものはない」。ところが、(かれによれば)「そこを強引にネジ曲げて『整然たる体系』ないし『○○理論』と呼ばれるようなものをつくらないと、『偉大』ということにならない」。そこで、学者はとかく(たぶん「偉大」と賛美されたくて)「人間に関わる話」を「すっきりと割り切り」「強引にネジ曲げて」、「整然たる体系」ないし「○○理論」をつくろうとする。とくに「職業としての学問(出世)[sic]を意識しすぎると」、どうしてもそうなる(らしい)。だから、そういう「『偉大な知性』というものには、つねに警戒が必要」というわけである。

さて、学問も人間の営みであり、その根本性格も「人間に関わる話」の一種であろうからには「すっきりとは割り切れない」はずである。ところが、中西は、そう語った舌の根も乾かぬうちに、ドイツ人の「体系ないし理論志向」とイギリス人の「事実志向」というふうに、「民族性」ないし「国民性」を規準に立てて「すっきりと割り切って」見せる。なにしろ「本能」と「感情」[13]を重んじ、「恣意」に居直った中西には、自己矛盾などどうでもよいのであろう。

 ところで、方法的に限定された規準を意識して立て、そのようにいったんは「すっきりと割り切って」みると、問題はそれからで、「ドイツ人の学問」、「イギリス人の学問」といっても、前者は「体系ないし理論志向」、後者は「事実ないし素材志向」と、「割り切れる」ものではなく、「プロクルーステースの床」に寝かせて「強引にネジ曲げ」られるものでもなく事態は無限に多様であるという原事実が、明るみに出てくる。そうして初めて、そのように多様な「ドイツ人の学問」のなかで、ヴェーバーの歴史・社会科学が占めている独自の位置と根本性格を把捉し、規定することもできる。

 詳細は省くけれども、「人間に関わる話はまず、すっきりと割り切れるようなもの[で]はない」とは、ヴェーバーの根本了解ないし原認識でもある。ただ、そこからヴェーバーは、中西が(まさに中西の身の丈には合わせて)想定するように、「職業としての学問」を「出世」の手段と解し、「偉大」と称されるために、多様な事実を「強引にネジ曲げ」て「すっきりと割り切れる」「整然たるヴェーバー体系」ないし「ヴェーバー理論」を構築しようとするのではない。そういう「体系」ないし「理論」は(中西には「体系」一般、「理論」一般とみなされているが)、ヴェーバーにとっては「世界観」的「全体知」として斥けられるべきものである。さりとてヴェーバーは、中西と同じように、知性に早々と見切りをつけ、本能、感情、ないし「実感信仰」に逃げ込んで「居直ろう」ともしない。むしろ、知性ないし理論に、ある限界内で相応の役割をあてがい、観点による制約とその一面性を自覚しながら、現実の諸側面にたいする「叙述手段」「索出手段」「(因果的意義の)検証手段」として十全に活かそうとする。そうすることによって初めて、(中西もわれ知らず陥っている)実感信仰のもとにおける特定観点(「民族性」「国民性」)の排他的絶対化その観点からする理論の実体化というありふれた弊害からも脱却することができる。

 というわけで、中西の学問観は、ヴェーバーにたいする批判どころか、むしろヴェーバー以前への退行である。そういう退行点から無理に「批判」を装えば、「ウソくさい」というような「本能」「感情」「実感」を臆面もなく持ち出し、それに「居直り」、「立て籠もり」、あわよくば「ポピュリズム」で押し切ろうとするよりほかにはあるまい。もとよりそれでは、「イギリス人」にたいしても、あるいはイギリス人にたいしてこそ、説得力を持たない。じつは、こういうことは、中西が「ヴェーバーを押し戴く友人たちを尻目に早々とイギリスに留学し」たというちょうどそのころ、おそらくはその「友人たち」が「理論信仰と実感信仰との同位対立」を克服すべく、確かにヴェーバーを題材としながら対決していた問題で、日本の学界ではすでに解決ずみといってもよい。中西は、「尻目」にかけた日本でも、「早々と留学した」イギリスでも、この問題にかけてはなにごとも学ばず、とうの昔に乗り越えられた旧聞を、いまになって蒸し返すしか能がないのであろう。

 ところが、中西は、自分の退行点をなんと知的進化の頂点に定め、諸国民をそこにいたる進化線上に配列して、「自己中心egozentrisch」の「“お話”としての歴史」を組み立てる。いわく、「日本は極端な例としても、ドイツはもちろんアメリカでさえ、ヴェーバーは大変な偶像でありつづけてきた。しかしイギリス人、場合によればフランス人でも、ヴェーバーは『わかりきったことを、妙に難しくいう人』というイメージを抱いている人が多い。知的な後進先進社会のちがいかもしれない」。ヴェーバーの叙述は、再三指摘してきたとおり、「分かりきったこと」を「トポス」として出発し、そこから読者との対話を進めて、議論を深めていくが、この対話に就いていけないか、就いていこうとしない人が、「妙に難しい」と弁明するのであろう。ちなみに、英仏のヴェーバー研究は、とくに内在的解読の面で長らく遅れをとっていたが、1990年代に入ってから、さすがにそうした点が反省され、原典から触りの部分の仏訳[14]が刊行されたり、イギリスで専門誌『マックス・ヴェーバー研究』[15]が発刊されたりして、活況を呈してきている。

さらに、中西の退嬰的「自己中心」主義は、通則どおり、独りよがりの「自民族中心主義Ethnozentrismus」に結びつく。「本書[羽入書]の、『きめ細かな論証』の手続きと問題を絞り込む『縮み志向』の持続、さらに本当の意味で『価値自由』な素直な視点とヒューマンな感覚でもって、西欧思想特有の偉大なウソ』に対し、いわばハチの一刺しで報いる痛快な仕事というのは、まさに日本人にしかできない仕事だと思った」。ここでは、さきほどの「知的な後進-先進社会」図式がいとも簡単に放棄され、「西欧-日本」図式にとって替わられている。西欧の諸国民においても、進化につれて克服されていくはずであった「偉大なウソ」が、いつのまにか「西欧思想特有」となり、それに羽入書が対置されて、これが「日本人にしかできない」、「痛快な仕事」に祀り上げられるのである。

 なるほど、中西は、そうした「自己中心」「自民族中心」の虚構により、いっとき「痛快」の「感情を味わい、羽入と自己陶酔をともにして「本能を充たしはしたであろうし、今後もそうしていたいであろう。しかし、日本という「島国のなかで」そうした児戯に耽っていたのでは、西欧の学問を、その最高の所産に内在して乗り越えることはおろか、その平均水準において対等に伍していくことすらおぼつかない。だいたい中西に、イギリスならイギリスの学界で相応に評価されている学問上の実績はあるのか。羽入書の登場と中西らによる有頂天の絶賛は、西欧の学者の目には、なるほど「日本人にしかできない」「壮挙」と映るかもしれない。ただし、その表情には、「そういうスキャンダルもセンセーションも、確かに『日本人にしかできない』ことで、まことにお気の毒」との同情と、高齢の学者であれば「かつての独善的日本主義に走らなければよいが」との憂慮が、避けがたく浮かぶであろう。中西が、「そんなことはない、羽入書は国際的に通用する業績だ」と主張したいのであれば、羽入が望んでいることでもあるから、羽入書の英訳刊行に「一肌脱いで」みたらどうか。その過程で中西は、「西欧思想」の現実にいくらかは触れ、羽入書の実態に直面させられるであろう。

 さて、中西流の退嬰的「自己中心主義」「自民族中心主義」は、それにもかかわらず、いな、まさにそれゆえ、普遍的な「ヒューマニズム」の衣を身にまとって現われ、ちょうどそれだけ人間的とかヒューマンとかの諸価値の下降平準化をもたらすほかはない。羽入をなんと「ヒューマンな感覚」の持ち主と讃える中西は、「夫人[マリアンネ・ヴェーバー]の書いた伝記を読んだときよりも本書[羽入書]を読んでヴェーバーをずっとヒューマンな存在に感じたものである。やっぱり彼も『人の子』ということである」と語って、選評を結んでいる。この間、中西にかぎらず、「ヴェーバーも『人の子』」、「ヴェーバーも一人の人間」という口吻が流行り、ときとしてヴェーバー研究の専門家にまで伝染してしまった。

 もとより、「ヴェーバーも一人の人間である」とは、ヴェーバー自身も認めていたとおり、当たりまえのことで、なにもとりたてて反論したり、問い返したりする必要もない。ここにきて、その「当たり前のこと」が、なぜ、殊更持ち出され、まことしやかに語られるのか。問題は、「人間」の内実をどこに求め、なにを規準としているか、にあろう。たとえば中西が、どこでヴェーバーを「ヒューマンな存在」と「本能的に感じて」いるか、といえば、その規準は、やれ「(注の片隅で)原典を調べず杜撰」とか、やれ「詐術を弄した」とか、(ちょうど羽入や中西には見合う)「あら捜し」や「こじつけ」の域を出ない、低い次元に設定されており、そうした次元でしか学問を語れない志の低さが臆面もなく誇示されて、ヴェーバーをそこまで引きずり下ろすことで自己慰撫・自己満足に耽ろうという魂胆が見え見えである。しかも、そうした水準で「末人仲間」になるのを潔しとしない異見者/異論者には、「聖マックス崇拝者」というレッテルを貼ろうと身構えていて、暗々裏に同調への心理的圧力をかけている(気の弱いヴェーバー研究者は、こうした圧力に屈しないように用心されたい)。「末人」には、人間として「より高い」規準に生きようとする他人は、低きに「縮み」込もうとする自分たちを脅かす存在として「目障り」このうえないのだ。この状況で、「ヴェーバーは人間」という口吻が、互いに低きに就き、ともに慰撫に耽ろうとする「末人ゲマインシャフト」の儀礼となり、呪文となる。「末人」たちは、そのようにして「ヒューマニズム」を装いながら、「類が友を呼び」、人間的諸価値の「下降平準化」に拍車を掛けるのである。

10. 「一論文を訳してはみたが、とてもとても……」――山折選評を読む

⑷山折哲雄(国際日本文化研究センター所長)も、竹内靖雄と同様、「押しも押されもしない巨人伝説を一挙に突き崩す鮮やかな仕事」、「何しろ、ヴェーバーが営々として築き上げた輝かしい理論的な支柱がじつはたんなる砂上の楼閣であったことを、緻密な実証を積み重ね、鋭い論理のメスを振るって白日の下にさらけだすことに成功している」と絶賛し、「ポピュリズムの走狗」としてコピーライターぶりを発揮している。山折も、竹内と同じく、なにが「緻密な実証」で、なにが「鋭い論理のメス」か、「自分の『学者』人生では学べませんでした」と告白しているのである。

 ただ、竹内といくぶん違うのは、「草木もなびく巨人への信奉者たちは目を剥いて驚愕するであろう」、「模倣と学習に明け暮れるヴェーバーかぶれ、ヴェーバー信者たちの魂を震撼させるであろう」と快哉を叫び、溜飲を下げている点である。さもありなん、山折はかつて、ヴェーバーの「ヒンドゥー教と仏教」第三章「アジア宗教におけるゼクテ形成と救世主[グル]崇拝」を、他のふたりの共訳者とともに邦訳し、『アジア宗教の基本的性格』と題して公刊している(1970、勁草書房)。ところが、この翻訳は、「横を縦になおした」だけの代物で、誤訳/不適訳が多く、なによりもヴェーバーの原文を(「倫理」論文を含む)比較文化史のパースペクティーフのなかに位置づけしていない。それができなければ、この論文を訳す意味は皆無にひとしいのであるが。これでは、山折が、原著者ヴェーバーの作品は「自分にはとても分かりません」と「引け目」を感じ、さりとて自分では批判論文は書けず、ルサンチマンに凝り固まって、「ヴェーバーかぶれ」「ヴェーバー信者」に「八つ当たり」するのも無理はない。

 今回、「末人」後輩による耳目聳動作の出現に、その内容を絶賛するならするで、「自分もかつて当の『詐欺師』の作品を邦訳して普及に加担しました」と率直に認め、自己批判しなければならないところなのに、自分の責任には頬かむりして長年の鬱憤を晴らしたようである。加藤と同じ世代に属する「名士」「識者」のひとりとして「大塚史学」「大塚ヴェーバー論」へのルサンチマンに駆られていると読める。ただ、山折はいったん「青春体験」の域を越えて半専門家となり、責任が生じているだけに、加藤ほど「開けっ広げ」には振る舞えず、ちょうどそれだけ陰湿なのであろう。「願ったり叶ったり」とばかり後輩「末人」の「偶像破壊」にとびつき、ほんとうには分からないのに「緻密な実証」のお墨付きを与え、ヴェーバー/ヴェーバー学への秘かな敵意を正当化しているのである。

11.「掛け持ち推薦業」の弁――養老選評を読む

⑸数多の「賞=SHOW」への推薦業掛け持ちで忙しい養老孟司(北里大学教授)は、自分が無責任に踊らされていることを半ばは感知していて、弁明を怠らない。しかし、その理屈はいかにも無理で、かえってかれの実態を正直に語り出している。

養老は、「本書は難解とされたヴェーバーの代表的業績、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』におけるヴェーバーの論証が、知的誠実性をまったく欠くことを、文献学的検証によって明確に証明したものである」と、おそらくは推薦回状に謳われていたであろう文言を、分かったように書き写している。ただかれは、度はずれた掛け持ち業者だけに、他の五人ほど不用心/無批判ではなく、「この結論を鸚鵡返しにしたら危うい」と一瞬察したにちがいない。ただちに「仮に著者の論考が誤りであることを証明したいのなら、同じ手続きを踏めばいい。評者にはもちろんそんな暇はない。したがって当面、それがいかに破天荒なものであったとしても、著者の結論を素直に受け入れるしかない」と弁明し、防戦の構えをとっている。

 しかしこれは、なんともおかしな理屈で、弁明の体をなさない。誰も、評者養老に、羽入論考が誤りであると、同じ手続きを踏んで証明することまで期待してはいない。かりに暇があっても力量があろうとは思えない。だからといって、「暇がない」から、「著者の結論を素直に受け入れるしかない」というのは、短絡である。それでは、「自分の専門ではない」、「専門でない領域で反証している暇はない」と言いわけしさえすれば、どんな結論でも「素直に受け入れ」られることになり、(「掛け持ち推薦業」の「名士」として「賞=SHOW」に「箔を付けて」まわることはできても)評者は勤まらない。評者とは、最低限、候補作を読み、それにたいする反論があるかどうかを確かめ、あれば両者を読み比べて、双方の当否を検証する義務を負う。その「暇もない」というのであれば、評者にならなければいい。なった以上は最低限の義務を果たすのが、評者の責任である。

 さて、羽入書のばあい、「著者の論考が誤りである」と「同じ手続きを踏」んで「証明し」ている書評「四疑似問題でひとり相撲」が、事前に発表されていた。養老は、自分では「同じ手続きを踏」むことができなくとも、「同じ手続きを踏」んで反論している書評は参照し、羽入書にたいする推薦回状の評価を再検討することはできたであろうし、評者としてその「暇は」どうしてもつくらなければならなかったはずである。かれは、じっさいにはどうしたか。かれの選評には、書評「四疑似問題でひとり相撲」を参照した形跡はなく、推薦回状の結論を確かに「素直に受け入れ」たと推認される。

 もっとも養老は、上記のとおり「当面」という留保を設けている。とすると、上記の書評とその趣旨を敷衍した拙著『ヴェーバー学のすすめ』の羽入書論駁が、その後「言論の公共空間」で広く論議されるにいたっている以上、養老は、「留保」を解除し、養老として羽入書を評価しなおし、(たとえば本コーナーに寄稿して)提示すべきではあるまいか。遅ればせながら、羽入書と拙評/拙著とを読み比べ、評者として責任ある評価をくだし、ゆえあって広くいきわたっている「無責任な掛け持ち推薦業者」との汚名を晴らしたほうが、身のためではあるまいか。

 ところで、話を選評の内容に戻すと、養老には、羽入書の(再三具体的に指摘されている)冗漫で杜撰な叙述が、批判的に解読できなかったようである。そこで、竹内と同じく、「面白い」という「感じ/感想」に逃れ、無理な評言を捻り出しては、「読み物」と学術論文との規準混濁を押し進める。「本書が『面白い』のは、たんに内容が重いというだけではない。これだけ重大な結論を導こうとすれば、多くの反論が予想される。それを考慮しつつ、著者はきわめて慎重に論を進める[?]。ゆえに論述にムダがなく、手落ちがない[ほんとうか?]。そのために全体に緊迫感が生じる[ほう?]。同時に奥さんのコメントやドイツ人学者の手紙のような、付帯的なエピソードが生きる[人によっては?]。『読む本』として[sic!]たいへん面白く、よい作品になったのは、そのためであろう。」感想にも、読み手の水準が露呈されるのである。

⑹江口克彦(PHP研究所副所長)の選評は、とりたててコメントするに値しない。ただ、下記の評言がおそらくは推薦回状の原文であったろうと思われるので、引用しておく。「……『マックス・ヴェーバーの犯罪』は、マックス・ヴェーバーが、代表作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において展開した論理の曖昧さと『ごまかし』を徹底的に炙り出した学術論文である。著者は、周到な論理構成と厳密な文献検証によって、マックス・ヴェーバーの詐術の実態を明らかにしていく。その巧みなレトリックと畳み掛けるような論証の手法は迫力と説得力に富み、一瞬、本書が学術論文であることを忘れさせて、まるで推理小説を読んでいるような興奮さえ感じさせるほどであった。」

12. 醜態は自滅に予定されているか――個人責任にもとづく実存的投企の要請

 さて、以上の六選評はいずれも、評者が、各人の専門外にある「倫理」論文への論難につき、みずから「倫理」論文を読んで吟味検証することなく、専門家の意見も聞かず、おそらくはPHP研究所からの推薦回状を鵜呑みにして、学者としては軽率な評価をくだし、無責任な賛辞を呈したものである(そうでないといいたければ、ひとりでも、束になってでも、反論するがよい。筆者が相手になろう)。そのうえ六人(とくに竹内と養老)は、羽入の「図に乗った」「悪ふざけ」にたいしても、本人の将来を慮って「たしなめる」風もない。むしろ(とくに加藤、中西、山折は)羽入の幼弱な論難にかこつけて「江戸の仇を長崎で撃つ」かのようである。いい歳をして、若輩の羽入に寄ってたかって「食い物」にし、羽入を「知的誠実」から遠ざけ、「自分の虚像を追いかける人生」に送り込んでいる。かれらは、かれらの評価の誤りを学問的に立証され、それだけ羽入や羽入予備軍らの後進を毒したと知っても、なに食わぬ顔で「梯子を外し」、「あとは野となれ、山となれ」の無責任風情を通すであろう(責任を感じるなら、いまからでも遅くはない、反論するがよい)。

ところが、そうした「PHP名士」連の賛辞を浴びて登壇した羽入のほうも、開口一番、「ほんとうをいうと皆さんが私からお知りになりたいことは、じつは一点でしかない」と切り出し、「お前のとこの夫婦はいったいどうなってるんだ? …… お前の女房はいったい何者なんだ?」を知りたいだろうと言い放って、得々と「世紀の偉業」の「楽屋裏」を明かす。「どっちもどっち」である。この「悪のり」ぶりには、さすがの「PHP名士」らも、「とんだ玉を掴まされた」と悟ったのではあるまいか。とまれ、『Voice』誌1月号のこの特集記事は、一方では世に「保守派論客」と呼ばれる「大衆人識者」[16]から、他方ではそういうポピュリズムに付け込む「寵児」願望者から、「類が友を呼んで」生まれた「時宜的ゲマインシャフト形成」の事実を証し、その知的道徳的な質と水準を端的に標示している。そうした資料としては、一読に値しよう。

では、現代日本のこうした思想・精神状況を直視して、いまなにをなすべきなのか。このとおり露に示された「末人の跳梁」にたいして、それでも「見てみぬふり」をしていていいのか。

 この問題をめぐり、再度ある類型の批判者たちに登場してもらうならば、かれらは、「どちらも真面目に対応すべき相手ではない。放っておいて醜態をさらすにさらさせ、自滅するに任せよう」というスタンス[17]をとり、「『深追い』は避ける」と言い換えて、「見てみぬふり」をつづけようとするであろう。だが、それは、独りよがりの楽観ではないか。暗黙にせよ「自滅」に「予定」されているかのように想定しているが、その根拠はあるのか、あるとすればそれはなにか。むしろ、大塚久雄も折衷的に抱え込んでいた世界観的マルクス主義の影響をまだ引きずっていて(少なくとも自覚的に清算するにはいたらず)、なにか「歴史的必然」を味方につけているかのように感得(じつは迷信)して、やはり歴史に「世俗内救済」を求め、「明るい未来」への展望が開けなければ(あるいは逆に、「段階的飛躍」に「急転」すべき「破局」「前夜」にまで追い詰められなければ)行動に立ち上がれず、個人責任にもとづく状況への実存的投企には見向きもしない、なにかそうした「集団的無責任/集団的相互慰撫」の退嬰的気風に、いまなお(状況がここまできても)どっぷりと浸っているからではないのか。キルケゴールが鋭く指摘したとおり、「世界歴史の華やかな舞台にうつつを抜かして」、「腑抜け」[18]になってはいないか。

 筆者は、ヴェーバーとともに「歴史内救済」への幻想を拒否する。筆者は、「明るい未来」への展望よりも、「これ以上暗い未来」への現実の動向に歯止めを掛けることを、この時点における実存的責任倫理的課題として選びとる。そして、自分にとって制御可能な具体的な現場から出発し、自分の実存的投企の意味を、大状況も射程に入れて吟味し確認し展望し発表し、できることなら同じく個人責任から出発する実践者と呼応/提携していきたい。そのようにして、少しでも社会的に広がりのある運動を押し進め、「現実の暗い動向」に歯止めを掛け、そのことをとおしてこそ「少しでも明るい未来」を築く、いや、築くそなえをしていきたい。

13. 思想・文化闘争としての学問的内在批判

 では、「自分にとって制御可能な、具体的な現場」とはなにか。それは、現在の筆者にかぎっていえば、さしあたり「ヴェーバー研究」を中心とし、同心円状また遠近法的に広がっている学界および「言論の公共空間」である。今回、ほかならぬその中心点に、「限界問題」につけ込んでいとも斬りつけやすい、(しかし自分の身の丈に合わせて)矮小な「ヴェーバー藁人形」を創っておいて、一見鮮やかに斬って見せ、いっとき快感に浸ると同時に読者も楽しませ、学問をポピュリズムで押し切ろうとする際物の衣をまとって、学問の客観的規準とそれに即した蓄積を一挙に葬り去ろうという、ふてぶてしい「末人」のニヒリズムが、公然と姿を現し、「大衆人識者」と「大衆人読者」をたぶらかして絶賛と歓呼賛同をせしめた。この「時宜的ゲマインシャフト形成」について、かの類型の批判者たちは、「『保守派論客』が、またいつものようにたむろして『言いたい放題』の無責任を競い合っているだけだ」とし、「まともな相手ではない」と「タカをくくって」、問題そのものも「仲間うちだけの話題」にとどめ、いっさい対外的発言は差し控えようと政治的に申し合わせたかもしれない。しかし、当人たちはそうして自己慰撫/自己満足に耽っていられるとしても、「言論の公共空間」を構成する多様な関係諸階層は、はたしてどう受け止めるであろうか。とりわけ、そういう「不作為の作為」は、①やがては日本の学問/思想/文化を担って立つと期待されるが、いまのところは学問へのスタンスがまだ固まってはいない、後継者たるべき学生/院生諸君や、②ジャーナリズムや在野から学界の動向に注目し、「言論の公共空間」に書籍として登場する諸業績を学問としての客観的規準に即して評価し、そのようにして日本の学問・文化の一翼を担い、今後とも担っていこうとする、識見あるジャーナリストや読者層の健在は心強いとしても、すべてのジャーナリストや読者がそうではなく、③「読み物としての面白さ」や「センセーション」を好み、論述内容を自分で読んで検証しようとするよりも、「だれそれがどうこういっている」という「有名人」の評言や、「○○は××の弟子だから××に同調するのも当然」というような「人脈」「係累」「系譜」に準拠した判断に頼り、一見穿った評価を弄んで悦に入る「大衆人読者」や「インターネット評論家」も含む、広範囲の多様な公衆には、どう映り、どういう帰結をもたらすであろうか。それこそ、「専門家のひとりよがり」と映り、徐々に「黙っていたのでは分からない」、「それも、羽入書に応答できない『苦し紛れの沈黙』ではないか」との疑問が広まるのも当然であろう。そうこうするうちに、ポピュリズムがますます優勢となり、やがては「ヴェーバー研究」が外堀を埋められ、その前例が他の学問分野に波及し、広く文化状況一般に上記の「アノミー状態」がもたらされないともかぎらない。「そうなったらなったで、それでもかまわない」、「自分は自分の『巨大な課題』に専念するのみ」というような「天才気取りの」独りよがりな言辞は、社会とくに「言論の公共空間」のなかで、上記①②③などの公衆に囲まれ、①②に支えられて学問研究と教育に携われる専門家として、まことに無責任/社会的に無責任ではあるまいか。

 それにたいして筆者は、どの戦線でも論陣を張り、フェアな勝負に出たい。なるほど、六「名士」の選評は、政治的言表であって学問上は取るに足りず、逐一採り上げて論じても学問的ヴェーバー研究にはなんのプラスにもならない、とはいえよう。しかしそこでは、世上「名士」が、わけ知り顔で、自信たっぷりに、羽入書を「周到な文献検証」と「緻密な論理」でヴェーバーの「学問的犯罪」を「完膚なきまでに立証」した「画期的」な「学問上の」「壮挙」である、云々と喧伝しているのである。「名士」とはどういうものかを知らないで、これらの選評を読んだら、そのとおりと信じたり、信じたくはないが動揺する人が出ても不思議はない。①の学生/院生諸君のなかからは、羽入書と『Voice』誌1月号の選評を目にして、「この日本の学界と『言論の公共空間』では、こういうやり方で高い評価がえられ、(どんな類であれ)『有名人』も絶賛してくれるのであれば、自分がいまやっている暗中模索にも似た粒々辛苦の努力など、どういう成果に結びつくのやら、ひょっとすると徒労ではなかろうか」と、苦しい修業を疑い始め、放棄してしまう人が出てこないともかぎらないであろう。これにたいして、くだんの批判者は、「そんなことでギヴ・アップするようなら、初めから学問などやらなければいい」と無責任に言い放つかもしれない。しかしそれは、多くの弟子を初めから養成した経験がなく、ある程度業績を発表し始めて見込みのありそうな新人を「一本釣り」することにのみ専念し、それだけを「研究指導」と心得てきた「ひとり狼・お山の大将」の無理解な言である。少なくとも、こういう「賞=SHOW」が流行り、そのつど「名士」連が無責任な賛辞をふりまいて、反論も受けずに繰り返されていけば、「いったいなにが『周到な文献検証』なのか、『緻密な論理』なのか、『完膚なきまでの立証』なのか、『画期的な学問的壮挙』なのか、……」が、(とりわけ、プリオリにそうした規準と判定能力を持ち合わせているわけではない広汎な学生/院生また読者にとっては)どうしても曖昧になり評価規準の下降平準化」が避けられないであろう。

 これにたいする原則的な対応は、ただひとつ、しごく単純である。学問をポピュリズムで押し切ろうとする政治的な動きにたいして、こちらも政治的に対抗して「敵に似せておのれをつくり」、「同位対立」に陥るのではなくあくまでも学問性に徹して対応するのである[19]。「PHP名士」連のいうように、羽入書がはたして「緻密な論理」による「周到な文献検証」の体をなしているかどうか、ヴェーバーが「学問的犯罪」を犯したと「完膚なきまでに立証」しているのかどうか、その実態を緻密な論理と周到な文献検証によって暴露し、羽入が「ヴェーバー詐欺師説」という虚説を捏造している事実を、完膚なきまでに立証するのである。そうすることによって、ポピュリスト(羽入と「PHP名士」連双方)の企図を打ち砕くと同時に学問的な立証とはいかなるものかその実例をこちらから具体的に提示対置し、価値規準の曖昧化、「下降平準化に歯止めをかけ、むしろその規準をこちらから一段引き上げるのである。

 こうして、羽入書にたいするこの一連の学問的内在批判(羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語)は、拙著『ヴェーバー学のすすめ』刊行後における各位の論議内容を摂取して、その補完篇をなすと同時に、「末人の跳梁にたいする思想文化闘争という意味を取得する。現在、日本社会のさまざまな領域に、「羽入事件」「PHP・山本七平賞=SHOW」と本質を同じくする価値崩壊・「下降平準化」の現象が顕われてきているが、筆者としては、筆者にとって制御可能な、具体的な現場の問題(マックス・ヴェーバー研究における学問的価値規準の問題)から思想・文化闘争を始めて、価値崩壊・「下降平準化」に抗し、その射程[20]を確かめながら一歩一歩日本の学問・文化の向上に微力を尽くしていきたいと思う。この一連の「結語」執筆を終えて、羽入書が学位(博士号)に値しない事実を確実に論証したうえは、当の学位を授与した東京大学大学院倫理学専攻における学問的価値規準の崩壊とその責任の問題に、思想闘争の戦線を拡大していく予定である。(2004年8月25日脱稿)

閑話余録

 この夏の全国高校野球大会は、南北海道の駒大苫小牧が優勝した。優勝旗が白河の関をとびこして津軽海峡を渡るとは、だれが予想したろうか。筆者も、苫小牧が、PL学園に勝った日大三高、明徳義塾に勝った横浜高校を、それぞれ連破したのに驚いて、準決勝からテレビで観た。新興私立勢力らしく、連戦を見越して三人の投手を揃えていたが、準決勝に初めて登板した「秘密兵器」の二年生投手が140キロ台の速球をビシビシ決めるのには驚き、さらに、ちょっとピンチをまねくと惜しげもなく早々と三年生投手にスイッチしたのには、また驚いた。どうして、全員守備もよく、投捕球も正確で、バントも確実に決め、ここまで勝ち進んだのもフロックではなく、「高校野球」の基本的訓練を積み、鍛え抜かれた本格的チームと見た。「奇を衒う」だけの新興チームは、予選で敗退して甲子園には姿を現せないし、たとえ出てきても一二回戦どまりである。決勝戦も、13対10というスコアからは大味の乱打戦にも見えるが、じつはそうではなく、3点リードされてもリードしていても、当たっている四番打者にもバントを命ずるというふうに、監督さんの方針は一貫して「高校野球」の鉄則を踏み、揺らぎがなかった。たしかに打力に秀でていたし、相手投手が連戦で疲労していたので、結果として大量得点を数えたまでである。準優勝の済美高校も、まとまった良いチームで、上甲監督の笑顔のもとに粘り強く戦ったけれども、創部三年目で春夏連続制覇というのでは、「高校野球」として「出来すぎ」で、ちょっと面白くなかろう。

さて筆者、毎夏、一二回戦は一二試合だけ、興味のある組み合わせを選んで観ることにしている。今年は一回戦、伝統のある名門公立高の代表格・広島商が、新興私学勢の東の雄・浦和学院と対戦するというので、これを選んだ。広島商は、久しぶりに甲子園に出てきたせいか、伝統校らしい「卒のない」試合運びが見られずに残念だった。むしろ浦和学院が、新興勢力らしい大胆なチームづくりと同時に、伝統校に優るとも劣らない、きめの細かいオーソドックスな「高校野球」と「プラスアルファ」を身につけているのに感心した。新興勢力らしいチームづくりとは、勝ち進んで連戦となるのを見越して主戦級の投手を二三人揃えるとか、相手投手が右か左かに応じて打線を組み換えるとかである。浦和学院は、そうした態勢もとっていたようだが、正確な投捕球、連携プレー、確実なバントなど、「高校野球」の基本はきちんと身につけていたばかりか、「頭脳的プレー」が光った。たとえば、ワン・アウト満塁の守備で、二塁手が短いライナーをあえて前進せずにワン・バウンドで捕球してバック・ホーム、捕手が一塁に転送してダブル・プレー、といったプレーである。こういうばあい、前進して難なくノー・バウンドで捕球すれば、安全で確実にアウト・カウントを稼げる。そこのところを、ちょっと打球を待ってショート・バウンドないしハーフ・バウンドで捕ると、首尾よく捕っても本塁に高投しがちだし、三塁走者を刺せるか、捕手が転送して打者走者を刺せるか、いくつかリスクをともなう。よほど日頃から実戦の練習を積み、そのつど個々のプレーを反省して反復練習していないと、頭では分かっていても、いざ実戦となるとなかなかできないプレーなのである。

 筆者は、伝統校びいきで東の銚子商が甲子園から遠ざかっているのを寂しく思うひとりであるが、浦和学院がそうした高度のプレーをなんなくこなしているのをみて、よい監督さんのいる新興勢力は侮りがたい、と惜しみなく拍手を送った。また、長年住んでいた千葉県の地元チームを、例年なぜかやはり応援することになるが、今年の初出場・千葉経済大付属高の、千葉っ子らしからぬ「卒のない」「粘り強い」試合運びには、これまたびっくりした。しかし、かつて全国制覇をとげた「東京の田舎チーム」桜美林高校の松本投手が、監督さんとして当時とちっとも変わりのない姿を見せていて、納得がいった。現在住んでいる茨城県取手市は、かつて取手二高が全国優勝を飾った土地柄なのだが、木内監督が常総学院に移ったあと、無風状態に戻ってしまっている。

そのように、高校野球は、伝統校/新興勢力入り乱れ、フェアーな戦いを繰り広げて、人々に爽やかな感動を伝えながら、確実に力をつけている。着実に進歩をとげている、ともいえる。筆者も、昔々ともに「甲子園へ」の夢を追った仲間たちに会うと、「いまの高校生は上手になったなあ。自分たちはかつて、先輩から精神主義をたたき込まれて、きまりきった練習に打ち込んでいたけれども、もう少し合理的な練習をしていれば、甲子園にも行けたろうになあ」などと(1953年夏、当時有数の激戦区・東京都予選の準々決勝で敗退した)「負け惜しみ」を楽しみ、夢破れた青春を懐かしむ昨今である。思うに、高校野球には、ルールとそれに即した鉄則があり、それを認め合って、練習を積み、フェアに戦うなかで、着実に進歩が生まれ、誰の目にも明らかになって、爽やかな感動を呼ぶ。じつは、人生と学問にも、そうしたルールと鉄則がある。しかしそれは、目には見えないし、言葉で抽象的に定式化しただけでは、なんにもならない。あるいは、そうした定式化は、筆者の任ではない。直面している問題について、なにがルールに適った健やかなありようなのかを、具体的に論証して伝えていく以外にはない。甲子園球場の外野の芝生に赤トンボが飛び交い、厳しかった今年の夏も終わろうとしている。(2004年8月22日記)



[1] 以下、この意味のBerufはberuffと記して、Beruf相当語としてのBerufから区別する。したがって、たんにBerufと記すばあいは、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ、Beruf相当語としてのBerufを指す。

[2]もとより「倫理」論文でも、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語などについて、Beruf相当語が歴史的に(経緯はともかく)成立し今日にいたっている事実は、現代の辞書を用いて確認されている。比較語義研究ではないから、それだけで十分ともいえる。

[3]「倫理」論文の主題とは、 これまでにも再三、一方では著者ヴェーバーの生活史における実存的・根源的原問題設定から、他方では「倫理」論文の「全論証構造」から、つとめて「整合的」に推認し論証してきたとおり、フランクリン文献によって暫定的に例示される「近代資本主義の精神」を、核心に「職業義務観」を秘めた「近代市民的職業エートス」の一分肢と見て、当の「職業義務観」の宗教的背景を問い、(伝統主義に「逸れた」)ルター/ルター派ではなく(カルヴァン派をもっとも首尾一貫した一類型とする)「禁欲的プロテスタンティズム」の「世俗内禁欲」「禁欲的合理主義」を直接の与件と見て、その間の「意味(因果)連関」を探究することにある。そうした多項目連関にかんする「意味変遷の理念型スケール」を構成し、西洋以外の諸文化圏と比較して「近代市民的職業エートス」を歴史的に相対化し、捉え返し、時間的また空間的に細分化した歴史研究による検証/展開を含む、明晰な態度決定にそなえようとするところにある。

[4] 前稿(その1)では、この点を明示的に強調することにかけて、欠けるところがあった。

[5] この類型の批判にたいしては、拙稿「学者の品位と責任――『歴史における個人の役割』再考」(『未来』、本年1月号、本コーナーに転載)で応答している。

[6] V・パレートは、「自分は経済学者として『資本論』を苦労して読み、ようやく理解したが、同時に、『資本論』を理解している経済学者が『白い蠅』ほどに少ないということも理解した」という趣旨のことをどこかで語っていた。筆者は、ヴェーバーにかんする『灰色の蠅』として、この寸言は古典解読の一面を鋭く衝いていると思う。

[7] 本コーナー掲載の「横田理博寄稿への応答」参照。

[8] ここで「カリスマ的」とは、もとより価値中立的な術語で、「価値自由」に用いられる。「オウム・アーレフ型ゼクテ結成」は、この方向における「逸脱的ゲマインシャフト形成」の一現象形態として位置づけられよう。

[9] これが、ヴェーバー社会学の基礎視角であり、「階級」「身分」「民族」などの「社会形象」を「実体化」せず、それぞれを構成する諸個人の行為に還元し、そのうえで諸行為関係の形成を、流動的相互移行の諸相に即して動態的に捉え返そうとするものである。

[10] シュモラーとの大論争の相手は、カール・メンガーであって、ヴェーバーではない。ヴェーバーは、シュモラーとは「大論争」はしていない。

[11]「ヴェルトフライハイト」を「価値判断排除論」と訳出する解釈は、①科学における「価値判断排除」と実践における「主体的・自覚的価値定立」との緊張のうえにたつWertfreiheitの両義性のうち、後者を捨象していて(論者自身の「技術論的頽廃」をヴェーバーに転嫁していて)一面的である、②「教壇における価値判断排除」というまったく別種の(それ自体、教育政策的・実践的な)要請との混同をまねく、という二理由から、適切ではなく、現在ではまず顧みられない。

[12] 「やや」というのも、加藤のこの批判は、いまだに師匠にならって「批判黙殺」をつづける大塚久雄門下には、確かに当たっている、といえないこともないからである。ただし、かりに羽入が、そういう「かたくなな日本の学界(空気)に抗した」一面がなくはないとしても、「批判」が学問の体をなさず、はるか大塚以前に退行していたのではどうしようもない。加藤がそれも見抜けずに浮かれ騒ぐのでは、これまたどうしようもない。

[13] このばあい、中西の「感情」とは、H・ベルクソンのいう「知性以上の感情」ではなく、「知性以下の感情」である。

[14] たとえば、日本ではすでに1972年に邦訳されている『宗教社会学論選』(大塚久雄/生松敬三訳、みすず書房)に相当する仏訳Sociologie des religions par Max Weber, Textes réunis, traduits et présentés par Jean-Pierre Grossein, Editions Gallimard, 1996.

[15] 編集陣には、日本から富永健一、矢野善郎が加わっている。

[16] オルテガ・イ・ガセによれば、「自分は狭い専門領域である程度の実績をあげたにすぎ ないという自覚(それゆえ、絶えずそのときどきの自分の限界を越えて客観的業績を達成すると同時にみずからも高まろうとするスタンス)を欠き、なにか無限定の『権威』『大御所』『大立者』にのし上がったかのように錯覚(自己偶像化)し、自分では皆目分からないか、せいぜい一知半解の問題についても、その道の専門家の意見を聞こうとせず、あたかも自分がそこでも『権威』であるかのように傲慢不遜に振る舞う」専門科学者ないし専門科学者上がりの「識者」は、「大衆人」の一部類であり、その最たるものである。

[17] このスタンスもじつは、「敵に似せておのれをつくり」、傲慢不遜である。

[18] 本コーナーに再掲されている拙稿「学者の品位と責任――『歴史における個人の役割』再考」参照。

[19] 橋本直人が、本コーナーへの寄稿で、「羽入事件」を「政治的問題」ととらえているのは、大筋として妥当と思う。では、それにたいして、どういう方針のもとに、どう実践的に対応しようというのか。

[20] 上記9.でとりあげ、批判的に分析した中西輝政の退嬰的自己中心・自民族中心主義の質を直視し、かれがしばしばマス・コミに登場し、自民党右派と連携を保っている事実を考慮に入れると、この思想-文化闘争が、思想/学問/文化領域における反ファッシズム闘争への展開を余儀なくされることも、予期しておかなければならない。


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(2-1)」

2004年9月16日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(2-1)

折原 浩


2004年9月16日

はじめに(承前)

前々稿「『末人』の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(その1)」では、羽入書の第一章「“calling”概念をめぐる資料操作――英訳聖書を見ていたのか」を取り上げ、羽入の「意味変換操作」を剔出した。すなわち、羽入は、「倫理」論文第一章第三節「ルターの職業観」本文第1段落に付された注3の第6段落から、イングランドにおけるBeruf相当語の普及にかかわる原文16行約150字の叙述を、ⓐ原著者ヴェーバーの原コンテクスト――すなわち、英語のcallingを、ドイツ語Beruf、オランダ語beroepとは系統を異にするデンマーク語kald、スウェーデン語kallelseなど、ギリシャ語kaleōを語源とする語群の一代表例として取り出し、それが、ルターによるBeruf の語義(「神に召し出された使命としての職業」)創始「後すみやかに」、Beruf相当語となり、現在にいたっている、という事実を確認するコンテクスト――から抜き取り、ⓑ羽入が外から持ち込んだ虚構――すなわち、翻訳者のひとりルターのばあいには『シラ』11: 20, 21の意訳として成立したBeruf相当語が、歴史的・社会的諸条件を異にする他の「言語ゲマインシャフト」においても、一様に『シラ』11: 20, 21を起点として成立し、そこから普及して一様に「言語創造的影響」をおよぼすという非歴史的・非現実的な虚構(「唯『シラ』回路説」)――のなかに移し入れ、ⓒヴェーバーが「肝心の」英訳『シラ』11: 20, 21の原典に当たらず、OEDの記事に依拠して「なんの関係もない」『コリントI』7: 20の訳語を挙示しているのは「杜撰」(しかも『シラ』11: 20, 21を調べると自説が「破綻」するという予想から、わざと調査を怠る「狡い杜撰」)という「証拠」に意味変換し、「ヴェーバー杜撰説」を捏造している。

ところで、羽入は、「ヴェーバー詐欺師説」「犯罪者説」を立証しようとして、自著の表題にも掲げている。とすれば、第一章の主張がかりに成り立つとしても、このとおり「杜撰説」「狡い杜撰説」どまりで、「詐欺師説」の立証にはいたらず、羽入の企図は早くも挫折したことになる。しかも、その「杜撰説」でさえ、要旨上記のとおり、原著者ヴェーバーの叙述(「遺物」)を、羽入自身のコンテクスト(「配置構成図」)に移し入れ、「杜撰」の「証拠」に仕立てる「意味変換操作」により、もっぱら羽入の脳裏で組み立てられた虚説にすぎない。羽入の主張はむしろ、原著者ヴェーバーの原コンテクストを読み取れない、羽入自身の杜撰による「ヴェーバー杜撰説」の捏造というほかはない。「唯『シラ』回路説」のような「言霊崇拝」の呪術的カテゴリーを、まさにそういう「呪力崇拝の追放Entzauberung」を目指したヴェーバーの「倫理」論文に読み込んで怪しまない「学者」は、(羽入書をミネルヴァ書房に推薦した)越智武臣や、(羽入書を絶賛して「山本七平賞=SHOW」を演じた)加藤寛、竹内靖雄、山折哲雄、中西輝政、養老孟司、江口克彦らを除けば、世界中どこを探しても見つかるはずがないから、世にも稀な羽入説は、「世界初の発見」ではなくとも「世界初の独創的虚説」とはいえよう。

筆者としては、「ヴェーバーをヴェーバーで乗り越えよう」という壮図はもとより、なにかほかの、しかるべき学問的規準に照らしてヴェーバーの所説を批判し、そこからヴェーバーを越えるなんらかの客観的成果を達成しようという企図であれば、日本の歴史・社会科学のために喜んで評価し、できるかぎりの支援も惜しまないつもりである。しかし、世上「巨人ヴェーバー」に、「杜撰」とか「詐欺」とか、なんとも低い次元で、「重箱の隅」の「意味変換操作」により「杜撰説」や「詐欺師説」を捏造し、一挙に「巨人を倒し」て自分が「最高段階に上り詰めた」かのように思い込み、なんのポジティヴな成果にも、歴史・社会科学全体への直接/間接の危害にも、思いをいたさない、これほど自己中心・自己本位の「末人」風情は、とうてい容認するわけにはいかない。

しかも、この「末人」跳梁は、一個人の特別因子による孤立・突発現象ではなく、現代大衆社会における一連の構造的諸契機に規定され、1980年代以降とみに強まってきた傾向の、ヴェーバー研究という一特定領域への先駆け突出と思われる。すなわち、「高度成長」による生活一般の「安楽化」と、マス・メディアから携帯電話にいたるコミュニケーション手段の「なしくずし過剰普及」による「情報漬け」と「自己沈潜 Insichselbstversenkung」[1]機会の消滅、といった全般的背景のもとに、受験体制の爛熟/大学教養課程の空洞化/大学院の粗製乱造/研究者市場における競争の激化といった構造的諸契機から、学生/院生における克己心・向上心の低下/自己安住・自己耽溺癖/基本的修練は怠ったまま、手っとり早く世間の耳目を聳動して「寵児」「チャンピオン」「第一人者」に躍り出ようとする願望/そうしたスタンスを見抜いてたしなめるとすぐに「キレ」て敵意や怒気をむき出しにするか、そうした「手強い」相手を避けて通ろうとする幼弱性といった、まさに「末人」・「大衆人」としての小賢しい退嬰的傾向が、とみに優勢となり、これが大手を振って「言論の公共空間」に登場してきた先駆けと見えるのである。

それがなぜ、よりによってヴェーバー研究の領域にいち早く姿を現わしたのかも、ひとつの媒介要因を措定することで容易に説明がつく。すなわち、そうした耳目聳動には、世上「巨人」とみなされ、しかも当の「末人」的退嬰傾向を一世紀まえにいち早く察知して戒める(羽入流にいえば「脅す」)ことも怠らなかったヴェーバーを、ほかならぬ知的誠実性というかれ自身の規範を逆手にとって「引き倒した」かに見せれば、効果覿面、「センセーション」を呼んで「大向こうを唸らせ」、とりわけ同じ動機からヴェーバー本人には憎しみを、ヴェーバー研究者には妬みを抱く「羽入予備軍」の歓呼賛同を調達することができよう。こうした計算から、ヴェーバーを標的に据え、「末人」水準の「杜撰」や「詐欺」に「引き下ろして」撃つ戦略を採ったのであろう。あるいは、当初にはヴェーバーをそうした「巨人」として、つまり「偶像」として崇拝し、勉強を始めてみたものの、克己心・向上心の欠如から着実な研究は「性に合わず」、地道な業績では「埒があかない」と焦り、そうこうするうちに上記の計算と戦略が脳裏に閃いて、一躍「偶像破壊」に転じ、耳目聳動を狙うにいたったのかもしれない。いずれにせよ、こうした背景を考えるだけでも、この「末人」跳梁に「見てみぬふり」をし、「わがもの顔」に振る舞うのを放任しておくわけにはいかない。

しかも、ことは、そうした羽入および「羽入予備軍」かぎりの問題ではない。上記の「PHP名士」連が、いい歳をして羽入書に寄ってたかり、「倫理」論文も羽入書も書評も読まずに(あるいは、読んでも理解せずに)、歯の浮くような賛辞を呈して「山本七平賞=SHOW」を演じ、「江戸の仇を長崎で撃とう」とするやら、自己中心・自民族中心の本能(恣意)を誇示するやら、羽入本人を「寵児」として「自分の虚像を追いかける人生」に送り込むと同時に、「推理小説と学術論文との混淆」を奨励し、学問規準の曖昧化・「下降平準化」を押し進める挙に出てきた。「類が友を呼び」、片や「保守派論客」「PHP名士」の「末人デビュー」、片や末人羽入の「論壇デビュー」による、双方からの「時宜的ゲマインシャフト形成」がなされたのである。

こうなると、こちらの対応も、一羽入書の内在批判にとどめるわけにはいかない。かれら「保守派論客」「PHP名士」が、「羽入書は、『周到な文献検証』と『緻密な論理』によってヴェーバーの『学問的犯罪』を『完膚なきまでに立証』した『画期的』『壮挙』である」云々と喧伝し、学問の評価規準を曖昧にし、その「下降平準化を押し進め、(中西にいたっては)自己中心・自民族中心の「本能」を押し通そうとしてきたからには、かれらを同じ土俵に招き入れてフェアに論争し[2]、当の羽入書の実態を、ほかならぬ周到な文献検証と緻密な論理によって暴露し、羽入による「ヴェーバー詐欺師説」の捏造を完膚なきまでに立証して、かれらの評価と宣伝の誤りを糺さなければならない。そうすることをとおして、かれらも押し進める客観的価値規準の曖昧化・「下降平準化」に歯止めを掛け、むしろこちらから一段引き上げて、将来の学問研究/批判的知性文化一般を担う学生/院生/読者に、その準拠標として提示していく必要があろう。

そういうわけで、あくまで学問性に徹するこの一連の内在批判は、同時に、「末人」の「類が友を呼ぶ」「集団-ゲマインシャフト形成」と、(そうした社会的な広がりと離合集散をとおして、学問なら学問の)客観的価値規準を下降方向に「平準化」する現実の「流れに抗しgegen den Strom schwimmen」て、むしろ当の価値規準を引き上げる思想文化闘争という意味を取得する。以下、本稿では、前々稿につづき、羽入書の第二章「“Beruf”概念をめぐる資料操作――ルター聖書の原典ではなかった」を取り上げ、羽入が、架空の「アポリア」を持ち込む「意味変換操作」により再度杜撰説を捏造している現場を、紛うかたなく剔抉し、当の思想-文化闘争を一歩進めたい。

§2「語形合わせ」による「アポリア」と「資料操作」の捏造

1.「全体」から「前半部」へ、「古プロテスタンティズム」からルターへの視野狭窄と、「意味(因果)帰属」の「語形合わせ」へのすり替え

 第一節「“Beruf”をめぐるアポリア」を、羽入は、「まず初めに、ルターの“Beruf概念に関するヴェーバーによる議論が、『倫理』論文全体の構成にとっていかなる重要な意味をもっているかを見る」(65)と書き出している。これは、抽象的提言のかぎりでは、いちおうまっとうな出だしといえる。そのあと、言明されたとおりに「『倫理』論文全体の構成」が概観され、そのなかに「“Beruf-[語でなく]概念に関する[羽入でなく]ヴェーバーによる議論」が位置づけられ、その「重要な意味」が解説されるのであれば、結構なことである。ところが、羽入は、すぐにつづけて、「『倫理』論文前半部においてヴェーバーは『資本主義の精神』の起源を古プロテスタンティズムにまで遡る」という。

 ここで早くも、①なんの理由も挙げずに、「全体」から「前半部」へと視野が狭められている。そもそもどこで「前半」と「後半」とを分けるのか。「前半」とは「問題提起」と題された第一章、「後半」とは本論の第二章「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」のことか。とすると、羽入はここで、「後半部」の本論を切り捨て、「問題提起」部だけでBeruf論の意義を論じようというのか。念のため、この「第一節」をお終いまで読んでみても、「後半部」本論にかんする議論は見当たらない。つまり、「後半部」はここで、恣意的に切り捨てられたのである。これでどうして「倫理」論文全体の構成におけるヴェーバーBerufの意義が語れるのか。

 つぎに、②「古プロテスタンティズム」とは、どの範囲をいうのか。ルターのみか、それともカルヴァン他の主だった宗教改革者も含むのか[3]、あるいはさらにカルヴァンを初めとする「禁欲的プロテスタンティズム」大衆宗教性までも含めるのか。羽入はこのあと、追って立証するとおり、もっぱらルター(しかも、ルターの「職業義務」思想ではなく、Berufの用法)に論及するのみである。ところが、ヴェーバー自身は、当のルターにかんする叙述(第一章第三節「ルターの職業観」)を終えようとするさい(全12段落中、末尾に近い第10段で)、「[このあと本論で]古プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神の発展との関係die Beziehungen zwischen der altprotestantischen Ethik und der Entwicklung des kapitalistischen Geistesを探究するにあたり、カルヴァンカルヴィニズムおよびその他のピューリタン諸ゼクテ』が達成したところから始める」(GAzRS, I, 81, 大塚訳、133、梶山訳/安藤編、166)と予告している。つまり、「古プロテスタンティズム」に「禁欲的プロテスタンティズム」の大衆宗教性までを含め、むしろこれに力点を置いているのである。とすると、羽入はここで、「後半部」とともに、ルター以外の古プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神の発展との関係」という「倫理」論文の探究主題を、恣意的に切り捨ててしまったのではないか。そのうえで、いったいどのようにして、「倫理」論文全体におけるヴェーバーBerufの意義を論じようというのか。

 さらに、③「遡る」とは、どういう意味か、あるいは、いかなる方法的手続きを指すのか。後代に用いられたある語(たとえば18世紀のフランクリン父子が、あるキリスト教聖典のある箇所の訳語として読んだcalling)を、時間的に遡って、前代に用いられたある語と比較し、双方が互いに一致するかどうか(たとえば16世紀のルターが、同じ聖典の同じ箇所の訳語にBerufを当てたか、それともBeruf は当てずにGeschäftで通したか)を確認するというような、たんなる(外面的・没意味文献学的な)語形合わせか、それとも、ヴェーバーが「倫理」論文でじっさいに駆使し、方法論文献で一般的に定式化している「意味(因果)遡行」=「意味(因果)帰属」のことか。

 この点にかけては、ここで結論を先に述べ、追って証拠を挙げていくとすれば、じつは羽入は、歴史・社会科学方法論の理解を欠き、「意味因果帰属語形合わせと取り違えている。そのため、18世紀のフランクリン父子はcallingで読んだ『箴言』22: 29の「わざmelā’khā」が16世紀のルターではGeschäft(geschefft)でBeruf(beruff)ではなかったという――片や、『箴言』と『シラ』とのコンテクスト、したがってそれぞれの語義(ないし含意)、および(プロテスタントはプロテスタントでも宗派ごとの)解釈、の差異、片や、語義の歴史的変遷、つまり「意味形象」の空間的/時間的被制約性と多様性を、歴史・社会科学として正当に考慮に入れれば、しごく当然の――齟齬を、語形合わせの「遡行」が達成されない「アポリア」と見誤る。そして、その当然の齟齬を、ヴェーバー(羽入には好都合なことに)同様に「アポリア」に見立ててくれて、その打開に苦心惨憺したあげく、苦し紛れに「詐術」をも弄した(あるいは弄しかけて「ルター聖書の原典を見ない杜撰な資料操作」に陥った)という自己中心で彼我混濁の「お話」を虚構する。第一章「“calling”概念をめぐる資料操作――英訳聖書を見ていたのか」のばあいと同様、ⓐヴェーバー(「遺跡」)の「倫理」論文(「遺構」)における「『資本主義の精神』論」「『職業義務』論」「Beruf語義/語法成立史論」(「[遺構中の]部位」)の特定叙述(「遺物」)を、「意味(因果)帰属」にかかわる原コンテクスト(当該「部位」における「遺物」群の「配置構成」)から抜き取って、ⓑ「語形合わせ」のコンテクスト(著者の関知しない羽入の「配置構成図」)に移し入れ、ⓒ「アポリア」打開の「詐術」、ないしは少なくとも「杜撰な(原典代替)資料操作」に意味変換してしまうのである。

 ところが、この捏造の段取りは、「PHP名士」連によれば、「緻密な論理」による「周到な文献検証」の体をなし、とくに竹内靖雄と養老孟司によれば「推理小説のように面白く」、中西輝政の「本能」には適って「ヒューマンな感覚」に溢れ、「やっぱりそうだったのか」と納得がいくそうである。また、少なくともその草案は、文献解読の厳密な訓練にかけては従来定評のあった東京大学大学院倫理学専攻において、「博士の学位に値する」との認定を受けたものである。そこで、われわれとしても慎重を期し、これから一齣一齣を取り出して、はたしてそのとおりかどうか、詳細に検証していくとしよう。

2.「資本主義の精神」の禁欲的特徴――読解不備による「搦手迂回論」の捏造

 羽入は、当の「遡行」につき、上記の引用にすぐつづけて、「ヴェーバーの論証を多少とも子細に検証してみるならば……、ヴェーバーは実はそこでは『資本主義の精神』の起源を直接には求めておらず、むしろ間接に、すなわち『職業義務の思想』の歴史的由来を尋ねることによって、つまり言わば搦手から回り道をして求めている」ことが「すぐに分かる」という(65)。しかし、この文言からすぐ念頭に浮ぶのは、④「はて、ヴェーバーはなぜ、そんな七面倒くさい『搦手から[の]回り道』をしなければならなったのか」という疑問である。ヴェーバー自身が、はたしてそうした「回り道」をしているのであろうか。

 そこで、「倫理」論文を「多少とも子細に検証してみるならば」、ヴェーバーは第一章第二節を正面から「資本主義の『精神』」と題し、当の「精神」を、(羽入が視野を狭めてもっぱら取り上げる第1~8段落よりも少し下った第21段落では)「正当な利潤を、先にベンジャミン・フランクリンの例について見たようなやり方で、職業としてberufsmäßig組織的かつ合理的にsystematisch und rational追求する志操」(GAzRS, I, S. 49, 大塚訳、72ぺージ、梶山訳/安藤編、114ぺージ)と(暫定的に)定義している。なるほど、ここではさしあたり、羽入が主張するとおり、「精神」が「職業義務の思想」を一契機として「含んでいる」というふうに見てもよかろう。しかし、その一契機とは、なにもかも一緒くたにして「職業義務」一般を強調する思想という意味ではない。一貫して著者ヴェーバーの念頭にあるのは、この暫定的定義からも、フランクリン文献による例示に始まってここにいたる行論からも、明らかなとおり、「正当な利潤を組織的かつ合理的に追求する志操Gesinnung」「エートスEthos」にいわば溶け込み、「組織的かつ合理的な」(つまり、熟慮と自己審査による自己制御がよく利いた)利潤追求に活きてはたらき、体現されるような、そうした特定の「職業義務」思想である。後段で展開されるヴェーバーの「職業義務」論を先取りしていっそう正確に規定すれば、⒜およそ職業を、「神の摂理」にもとづく「伝統的秩序」の一環と見て、同じく「神の摂理」によって自分がいったん編入された職業に「堅くとどまれ」あるいは「忍従せよ」と説く「伝統主義的な「職業義務」思想(ルター/ルター派)ではなく、⒝職業を、自分個人が「神から(伝統的秩序を媒介とせず、むしろ直接に)与えられた使命」を達成し、「恩恵の身分」に属する(「神の道具」に選ばれている)ことを「確証」して、「選ばれているのか、それとも捨てられているのか」という深甚な不安から逃れる「手段」、そのために「組織的かつ合理的な行為」を実践する「場」ないしは「拠点」とみなし、したがって、よりよく使命を達成できそうなら、伝統的秩序に逆らう転職も可とする、「禁欲(主義)「職業義務」思想(カルヴィニズムをもっとも首尾一貫した類型とする「禁欲的プロテスタンティズム」)、――前者⒜でなく後者⒝に「選択親和関係 Wahlverwandtschaft」をもつような、そうした類型の「職業義務」思想なのである。

 上記の暫定的定義のすぐあとで、ヴェーバー自身が明記しているとおり、「フランクリンの『説教』に明らかに現われているような、一定の禁欲的特徴ein gewisser asketischer Zug」[4](GAzRS, I, 55, 大塚訳、80、梶山訳/安藤編、121-2)こそが、かれにとって「知る値する」「精神」の「本質」であり、これをこそ、その起源と目される、しかるべきプロテスタント宗派(ルター派ではなく「禁欲的プロテスタンティズム」)の信仰内容に直接「意味(因果)帰属」することが、「倫理」論文の主題にほかならない。「職業義務の思想」という一契機も、そういう「一定の禁欲的特徴」と結びつき、そうした特徴を生み出すような特定の「職業義務」思想として、そのかぎりで問題とされる。「精神」と「職業義務の思想」とが、なにか別々の実体としてあって、前者の「意味(因果)帰属」を企てるのに、まず後者を前者に「含み込ませて」おいて、後者の「意味(因果)帰属」で代替する、などというのではない。

 むしろ、「職業義務の思想」一般を故意に前景に取り出して「精神に残る要素は不問に付す、そういう捉え方は、「倫理」論文の行論の大筋――すなわち、フランクリン文献による例示から「精神」の暫定的定義に進み、その「意味内容」(職業義務の禁欲的履行)歴史的起源を求めて(第一章第二節)、ひとまずルター/ルター派への遡行を試みるものの、そこには、「職業義務」はともかく、(「わざ誇りWerkheiligkeit」 として排斥される)「禁欲的特徴」は「意味(因果)帰属」できないと見て(第一章第三節[5])、カルヴィニズムを初めとする「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」に転じ、そこにこそ「職業義務の禁欲的履行」を十全に「意味(因果)帰属」する(第二章本論[6])、ヴェーバー自身による論旨の展開――を把握しそこね、なにか「前半部」「問題提起」章だけで「ことを済ませ」、「問題を処理し尽くせる」かのように錯覚する視野狭窄の産物であろう。「前半部」だけでフランクリンとルターとを無理に直結しようとすれば、前者によって例示される「精神」の「意味内容」の二契機を、「職業義務」と「禁欲」とに分離、実体化し、ルターとは結びつかない「禁欲」のほうは捨象し、(「職業義務」一般としては)ルターと結びつく「職業義務」のほうを取り出して強調し、これをルターに「語形合わせ」で直結するよりほかはあるまい。そうしておいて、直結できない「アポリア」を捻出し、その「アポリア」を打開しようとの「苦し紛れの詐術」をヴェーバーに帰そうという算段ではあるまいか。そういう「意味変換操作」――ヴェーバーの叙述に「アポリア」を「あらかじめ忍び込ませておいて、あとから取り出して見せる」操作、意識的に遂行されれば紛うかたなき詐術であるが、それが不思議なことに意識されない、「詐術すれすれの捏造操作」――が、羽入の脳裏で進行しているのではないか。しかし、あまり先を急がずに、羽入の説くところを、いましばらく聴くとしよう。

3.例示と定義との混同による徴表「エートス」の看過

 つぎに羽入は、「搦手迂回論」が成り立つ二条件を、ひとつは「『職業義務の思想』を『資本主義の精神』の内に、それも『資本主義の精神』にとって構成的な意味を持つものとして含みこませること」、いまひとつは「『職業義務の思想』の起源を実際に古プロテスタンティズムへまで遡らせること」(65-66)に求める。そして、第一条件について、つぎのようにいう。「ヴェーバーがフランクリンの二つの文章から『資本主義の精神』の理念型を構成した時点では、まだ『職業義務の思想』は『資本主義の精神』の内には含まれていなかった。そこでの『資本主義の精神』の定義にしたがえば、『自分の資本(初版では財産)を大きくすることへの関心』は、確かに『自己目的』としてはみなされていたものの、いまだ『職業義務』としてはみなされてはいなかったのである」(66)。

 さて、ヴェーバーは確かに、第一章第二節の冒頭に、「精神」の理念型を構成する方法にかんする覚書を記し、定義にかんする(研究が進展したうえでなければ定義はくだせないが、なんらかの事前了解がなければ研究に着手することもできないという)ディレンマを打開するための「暫定的例示としてそのかぎりで「フランクリンの二つの文章」を引用し、その趣旨を、「信用に値する紳士という理想、とりわけ自分の資本を増加させることへの利害関心を自己目的として前提とし、この利害関心に向けて個々人を義務づけるVerpflichtung思想」(GAzRS, I, 33, 大塚訳、43、梶山訳/安藤編、91)と要約し、そこには、それにたいする違反が「一種の義務忘却Pflichtvergessenheit」として非難されるような「エートス」が表明されている、と特徴づけている。

この箇所のヴェーバーの叙述を、羽入による上記の解釈と比べてみると、羽入は、⑤この「時点」(第5段落まで)ですでに、「精神」の理念型が構成され、「定義」がくだされたと早合点しており、例示の趣旨の要約を定義と取り違えている。しかも、⑥その意味内容」としては、ヴェーバーが(まだ「職業義務」ではないとしても)「義務づける思想」「エートス」性を取り出して、これを「本質的」徴表として強調しているのに、羽入は、不注意にか故意にか、この徴表を見落としている。「自分の資本を大きくすることへの関心」を「自己目的」とみなすだけでは、「精神」とはならず、それだけでは「精神」を定義したことにはならない。というのも、「利害関心Interesse」とは、たとえ「自己目的」とみなされても、本性上、適度に充足されれば止まるか弱まるもので、それだけでは、資本蓄積を軌道に乗せ、システムとして近代資本主義を生み出すには足りない、つまり近代資本主義に「適合的」ではない。そうした利害関心が、「理念Idee」によって媒介され、「義務づけられ」て初めて、じっさいにも「自己目的的」つまり無制約的に発動されるようになり、資本蓄積の軌道が敷かれる。こうした「義務づけ」が、一定の規模で社会集団/社会層に共有されるまでは、並外れて強烈で止むことのない利害関心も、「慣習倫理とは無関係な個人的気質eine persönliche, sittlich indifferente, Neigung」(GAzRS, I, 33, 大塚訳、45、梶山訳/安藤編、92)にとどまり、ヤーコプ・フッガーのような「前期的大商人」を散発的に生むことはあっても、システムとして近代資本主義を創り出すにはいたらない[7]

つぎの第6段落で、ヴェーバーは、「時は金なり」の信条を外面的には生涯貫いた当のフッガーを類例として引き合いに出し、かれには(慈善事業には出費を惜しまない道徳的資質はあっても)経済活動そのものにリンクされる「倫理的色彩を帯びた生活原則eine ethisch gefärbte Maxime der Lebensführung」――つまり、フランクリンの文章からはかれの一面として読み取れる「エートス」――は欠落していた、と指摘する。そうして初めて、「この論文では、このエートスという独特の意味で、『資本主義の精神』という概念を用いる」と定義風に定式化している[8]。そして、1920年の改訂稿では、その「資本主義」とは当然「近代資本主義」のことで、これ以外の古今東西の「資本主義」には、この「エートス」が欠けている――つまり、このエートスこそ、「近代資本主義の精神」の構成的契機である――と、初稿発表(1904年)以降の広汎な比較宗教社会学的研究(「世界宗教の経済倫理」)の成果を集約して、「精神」概念の普遍史的な「文化意義」を簡潔に浮き彫りにするのである。

 ところが、羽入の解釈には、ほかならぬその「独特の意味」がすっぽりと抜け落ちている。羽入は、「資本主義の精神」と「職業義務の思想」とを区別するからには、前者の「意味内容(後者と区別して、それ自体「独自のもの」として)どう捉えるのか、明確に規定して提示しなければならないはずである。しかし、そうした規定は、上記「自己目的」論という不備な定式化以外、どこにも見当たらない。

4.コンテクスト無視の『箴言』句抽出と、「語形合わせ」論への移し替え

 むしろ羽入は、「職業義務の思想」による「代替遡行」論の先を急ぎ、つぎの第7段落の叙述から、『箴言』22: 29(「汝、そのわざBerufに巧みなる人を見るか、かかる人は王のまえに立たん」)の引用を、これまたコンテクストを無視して抜き出す。そして、⑦「倫理」論文における語Berufの初出[9]と見誤り、そこでヴェーバーが「『資本主義の精神』の内に、……『職業義務の思想』を含みこませることに見事成功した」(67)という。しかし、ヴェーバーはじつは、前段で「エートス」(「価値合理的」「目的非合理性」)という第一(要素的)理念型を鋭く一面的に構成すればこそ、一方では、この第7段落で「功利主義への転移傾向」(「価値非合理的」「目的合理性」)という対抗的側面に着目して第二(要素的)理念型を構成し、そうした「転移」を引き止めてエートス性との均衡を保たせている背後の要因を求めて、他方では、(第一要素の)「時は金なり」「信用は金なり」と、すべての生活時間と対他者関係を一途に捧げて利潤追求・貨幣増殖に専念する「禁欲的特徴」の「不自然さ」にたいする「なぜ、そうまでして」との問いに答えて、「一般経験則」「法則論的知識」から、なんらかの宗教性を想定する。そして、フランクリン自身が同趣旨の問いに、「父親が少年ベンジャミンにつねひごろ『箴言』句を引いて教訓を垂れた」と答えている箇所を、『自伝』から引用する。つまり、ヴェーバーは、第一要素の「義務づけ」の起源を、「職業義務の思想」一般ではなく、「組織的かつ合理的な利潤追求」を「使命」として要請し、「一定の禁欲的特徴」を生み出すような、そうした「職業義務」思想に求め、その背景としても、宗教性一般ではなく、『箴言』句の愛好に表明されるような、そうした宗派信仰[10]を示唆しているわけである。羽入の解釈では、⑧第7段落で『箴言』句が引用されるコンテクストの理解、したがって、前半で構成される第二(要素的)理念型と、これに対抗する「職業義務」思想の特異な性格とが、脱落している。

5.語と思想との混同/すり替え――読解力不備と生硬な思考

 つぎに、第二条件にかんして、羽入は、「『職業義務の思想』の歴史的由来への問いに対して、ヴェーバーは次のように答える」として、「こうした職業義務の思想』は聖書翻訳者達の精神から由来したのである」(67)と「倫理」論文第一章第三節第1段落中の一文(GAzRS, I, 65, 大塚訳、95、梶山訳/安藤編、134)の参照を指示している。ところが、この箇所は、「現在の意味におけるこのdas Wort in seinem heutigen Sinnは、聖書の翻訳に、しかも原文ではなく、翻訳者たちの精神に由来している」とあり、主語は「語」であって、「思想」ではないし、もとより、『箴言』22: 29を引用して説かれるような「こうした職業義務の思想』」ではない。ところで、著者ヴェーバーは、つぎの第2段落を、「語義Wortbedeutungと同様に、思想Gedankeもまた新しく、宗教改革の産物である」(GAzRS, I, 69, 大塚訳、109、梶山訳/安藤編、146)と書き出しており、語義論(第1段落)と思想論(第2段落以下)とを明示的に区別し、語義論を「トポスとして第1段落とその三注に限定して集約的に論じている。したがって、⑨「職業義務の思想」の由来を、かりにヴェーバーが「ルターの職業観」節内で問うていると見て、そこに答えを求めるとしても、第2段落以下の思想論ならともかく、節の冒頭に出てくるとはいえ、Beruf一語ないし一語義の由来しか扱っていない「トポス」論議の第1段落に、一目散に直行し、いったんそこに固着したら他の箇所はいっさい顧みないというのは、いかにも短兵急な猪突猛進で、語義論と思想論との「混同」「すり替え」というほかはない。しかも、⑩いささかなりとも肝心の意味内容」に思いをいたすならば、本来、『箴言22: 29を引用して説かれるようなこうした職業義務の思想』」の起源が、ルターに遡れるはずはなく、かりに第2段落以下も参照するにせよ、問題を「ルターの職業観」節の枠内で扱いきれると考えて、そこに視野を限定してしまうこと自体が、ヴェーバーとは無縁な、羽入の独り合点である。それは、内容上も、フランクリンもルターも知らない「博士」の無謀な企て、といわざるをえない。

ところで、羽入は、せっかく「翻訳者」が「翻訳者たち」と複数であること

に着目しながら、「このすぐ次に続く部分での彼[ヴェーバー]の叙述、及びその部分に付された注からただちに分かることは、彼がここで重視しているのは実はマルティン・ルターただ一人である」(68)と決め込んで、折角の着眼の意味を考えようとしない。じつは、「ルターの職業観」節の枠内でも、著者ヴェーバー自身が念頭においている聖書翻訳者は、けっしてルターひとりではなく、明示的にもたとえばメランヒトンに言及しているばかりでなく、ルターによる『コリントⅠ』7: 20のRufをBerufに改訳して現在にいたる翻訳者たちや、『シラ』11: 20, 21の意訳語Berufを(拒否するのでも、無視するのでもなく)受け入れて現在にいたる再改訳連鎖の当事者たちなど、黙示的には無数の翻訳者を考慮に入れている。それはともかく、羽入がここで「ルターの職業観」節に視野をかぎってしまった以上、そこで主に論じられるのがルターひとりなのは、むしろ当然で、なにも力んで述べ立てるまでもない。しかし、だからといって、ヴェーバーが「職業義務の思想」一般、ましてや『箴言』22: 29を引用して説かれるような「こうした職業義務の思想』」の歴史的起源を、もっぱらルターひとりに求めている、ということにはならない。羽入は、意識的な詐術というよりもむしろ、「木を見て森を見ない」、そのため「木も見ない」、文献解読力の不備と、いろいろな箇所を関連づけて論旨の展開を慎重に追跡する柔軟な思考力の不足とのため、このようにしておそらくは無意識裡に、つぎからつぎへと議論を「すり替え」てやまないのであろう。

6.「全論証の要」としての「語形合わせ」――「アポリア」捏造の準備完了

 このあと、羽入は、「使命としての職業」を意味する「ドイツの“Beruf”、あるいは英の“calling”といった表現は、ルターの聖書翻訳から初めて生まれたものなのである」(68)と、じつは「ルターの職業観」節、しかもその全13段中の第1段落におけるトポス論議のみのだれも知らない者はいない小括をこと改めて要約し、そこからなんと、つぎの命題に飛躍する。「そしてここにおいて同時に、『職業義務の思想』をめぐるヴェーバーの探究は、おのれの目的をすでに達したこととなる。すなわち、ルター、つまり[!]古プロテスタンティズムにまで到達し得たのである。『職業義務の思想』の根源を古プロテスタンティズムに見出すことと、『資本主義の精神』そのものの起源をもまた古プロテスタンティズムの宗教世界へと遡らせること[11]とは、もはやあと一歩の違いでしかない」(68)。                             

 羽入は、自分では気がつかないのであろうか。「思想」を「語」に、「古プロテスタンティズム」を「ルター」に、「意味(因果)帰属」を「語形合わせ」に、それぞれ「すり替え」ているということに。そうした無意識の「すり替え」によって、全「倫理」論文の探究目的が、本論にも入らないうちに、「問題提起」章「ルターの職業観」節の第1段落で、すでに達成されたかのように見えるのであろう。さらに羽入はいう。

「したがって以上のことからわれわれは次のように述べることが許されよう。フランクリンの『自伝』に引用されていた『箴言』22: 29の一節から、“Beruf”というを引き出し、そしてさらにはただこの“Beruf”という語の語源をたどることのみによって直接にルターへと遡る部分、この部分こそが『倫理』論文の論証にとって要をなす、と。そして本章で検討対象とするのが正に右部分である。なぜならこの部分のヴェーバーの論証には一つのアポリアが隠されているからである。」(68)

 むしろ、羽入が「この部分」に「アポリア」を隠し、ここを撃てば「倫理」論文全体、あるいはヴェーバーその人を倒せる――あるいは、自分が撃って倒せるのはここしかない――と思い込んでいるので、当の「部分」が、(羽入の誤読と妄想の所産でも、取るに足りない末梢部分でもなく)まさに「『倫理』論文の全論証にとって要」と見え、あるいは半ばはそう見せようと、これまで剔出してきた①~⑩の「脱落」「混同」「すり替え」が犯され、やっと思い通りの命題に到達できた、というのではあるまいか。それが、「PHP名士」連には、「巧みなレトリック」「緻密な論理」「周到な文献検証」等々と映るのではないか。

 とまれ、ここでこんどは、「前半部」から「全体」への恣意的飛躍がなされた。この第一節冒頭、「全体」からいきなり「前半部」(しかも、「精神」節の第1~8段落と「ルターの職業観」節の第1段落とその三注のみ)に視野を狭めた羽入が、こんども唐突独断的に、「語形合わせ」の微小部分から、一挙に「全体」に言及範囲を広げ、「全論証」にかんする論証ぬきに、当の微小な「語形合わせ」を、これこそが「全論証の要」と強弁する。内容としても、18世紀の人フランクリンの『自伝』から一語を抜き出し、それが16世紀のルターの訳語と直接一致するかどうかという見当違いの無理な「語形合わせ」を、「倫理」論文の主題と決めてかかる。いうなれば、オードブル皿の一品をちょっとなめただけで「この料理はフルコースまずい」との裁断がくだせると信じているのである。しかし、そんなことが、学問上、はたして「許される」のか。 

小括

 以上が、羽入書第二章第一節前半(四ぺージ分)の批判的検証で、羽入がおそらくは無意識に犯している①~⑩の誤り(脱落、混同、すり替え)が剔出された。このあと、「批判結語(2-2以下」では、羽入がこの「全論証にとって[の]要」から取り出す「アポリア」とは、じつは原著者ヴェーバーのアポリアではなく、フランクリン父子における『箴言』22: 29のcallingが、ルターにおいてはBerufではなくGeschäftであったという歴史・社会科学的には当然の齟齬を、羽入が「意味(因果)帰属」の原コンテクストから抜き取って、非歴史的・非現実的な「語形合わせ」のコンテクストに移し入れるために、そのかぎりで没意味文献学者の脳裏に映し出される虚構にすぎないこと、したがって当然、ありもしない「アポリア」を「打開」せんがためにヴェーバーが「企てた」とされる「資料操作」なるものも、当の虚構を前提として捏造された「濡れ衣」にすぎず、むしろ羽入における文献解読力の欠落を露呈していることを、羽入の叙述そのものに内在して論証する予定である。

 ここで一言、感想を差し挟むことが許されるとすれば、以上に逐一暴露してきたとおり、羽入には、「倫理」論文の論旨を汲み取る読解力も思考力もそなわっていない。ということは、大学大学院において文献読解の基本的訓練が施されていないということである。かりに耳目聳動を狙う野望やヴェーバーへの誹謗中傷は垣間見られなかったとしてもこれほど杜撰で粗暴な読解記録を、(研究者としての素質のある学生/院生には必ずそなわっている)慎重な謙虚さをかなぐり捨てて誇示しているような論文は、学部卒論としてはもとより、学部演習のレポートとしても、厳しくザハリッヒに誤りを指摘して突き返し、書き直させるのが、教師の務めであり、責任であろう。本人が抵抗しても、あえてそうするほうが、本人にたいしても親切で、少なくとも、それがそのまま衆目にさらされるような残酷な笑劇は避けられただろう。

 ところが、「羽入事件」のばあいには、上記のとおり杜撰で粗暴な論文に、東京大学大学院倫理学専攻から、修士、博士の学位と、日本倫理学会からは、学会賞「和辻賞」が授与されている。しかも、授与当事者・責任者たちは、文献読解の厳正な訓練にかけては定評のあった研究室と関係学会に所属する者たちである。したがって、この側面は、むしろ「いい加減さ」で定評のある「PHP名士」連による「山本七平賞=SHOW」演出とくらべて、はるかに深刻な問題と受け止めざるをえない。というのも、羽入論文への博士号等授与に顕示された(代表的名門研究室における)学問的評価規準の崩壊、したがって学問的要因の支配(少なくともその予想)は、信頼に値する評価規準と評価システムを整備せず、評価担当者の恣意と不公正がまかり通るままに「成果主義」「業績主義」を導入した組織一般が陥る「志気の低下」「人材流出」「組織崩壊」とほぼ同様の経過を、いっそう深刻な形で、まずは当該学会に、やがては他の分野にも波及させていくと予想せざるをえないからである。

 「いっそう深刻な形で」という意味は、こうである。この間、このコーナーに発表した論稿にたいしては、直接間接、いろいろな感想や助言が寄せられ、筆者は、そのつど応答できないことも多いが、賛否を問わず、大いに感謝している。そのなかに、大学/大学院教育に携わるある専門研究者から、「じつは、研究者としての素質に恵まれていると見込んで、大学院進学を勧める学生が、近頃ではほとんど他に就職してしまう」という実情報告があった。ただでさえ、研究職への志望者は、たとえば(大学在学期間/研修期間は多少長くても、国家試験に合格すればまずまちがいなく専門職に就ける)医師の類例と比較して、大学卒業後最低五年、院生として研学を積んでも、研究職に就ける保障がなく、近年(本コーナーに掲載の「虚説捏造(その2)」稿に統計数値の一端を示したとおり)就職はますます困難になって、大学院進学のリスクはそれだけ大きくなってきている。そのうえ、就職の要件として求められる研究業績と学位について、信頼のおけるフェアな評価がなされず、学問外のなにかが「ものをいい」、「羽入事件」のような出鱈目なことがまかり通るとあっては、どれほど学問研究そのものには関心があって情熱を感じる学生でも、経歴形成にたいする自己責任から、そういう素質のある学生ほど、大学院進学は見限る、という選択に走らざるをえないであろう。その結果、総体として、研究職の「金権主義」的壟断と、それに見合う学問的批判性の喪失がもたらされることは必至と思われる。

 ここで再度、羽入辰郎の指導教官/主任教授/研究指導助手/論文査読教官/「和辻賞」選考委員らの自発的見解表明を求める。「もう済んだこと」「一事不再理」では済まされない。学位に値しない論文執筆者に学位を与えた、学者としての学問的責任と、そういう無責任が少なくとも今後の研究指導/後継者養成にもたらす影響にかんする、社会的責任とを問いたい。なんどもいうように、公開文書としての博士論文原本と査読報告書を査読して、問題点を明らかにし、実名を挙げてその責任を問うのは、筆者がこの「批判結語」を書き上げたうえで着手する予定の課題で、時間の問題である。それ以前に、関係者が自発的に応答されるよう、重ねて要請する。(2004年9月14日記、つづく

付記(ヴォルフガンク・モムゼン教授の逝去に思う)

 『マックス・ヴェーバーとドイツ政治Max Weber und die Deutsche Politik 1890-1920』(1959, 2. Aufl., 1974, Tübingen: J. C. B. Mohr) の著者として知られているヴォルフガンク・モムゼン氏が、去る8月11日、バルト海岸で遊泳中、心筋梗塞のため逝去された、との報が、嘉目克彦氏から雀部幸隆氏をへて筆者にも届いた。6月にロンドンで開催された学会に出席した矢野善郎氏からは、モムゼン氏も元気な姿を見せていた、と少しまえに聞いたばかりだったので、突然の訃報に愕然とした。モムゼン氏が、1993年春にミュンヘンで開かれた国際シンポジウム「マックス・ヴェーバーと日本」を主催し、ヴォルフガンク・シュヴェントカー氏との共編で『マックス・ヴェーバーと近代日本Max Weber und das moderne Japan』(1999, Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 552 Seiten) を公刊するなど、日独のヴェーバー研究/歴史・社会科学研究の交流に尽力された、生前の多大な功績を讃え、謹んでご冥福を祈る。この機会に、『マックス・ヴェーバー全集』I/22(『経済と社会』「旧稿」該当巻)の編纂にまつわるエピソードを、国際交流/協力の難しさの一端として記し、あわせて、モムゼン氏が『全集』編纂者のひとりとしてやり残したI/22, 23(『経済と社会』該当巻)の進捗に向けて、思うところを述べたい。

 1998年秋、訪日して関西に滞在しておられたモムゼン氏は、上京の途上、関西学院大学の早島瑛氏とともに、10月16日、名古屋に筆者を訪問された。「いよいよ『全集』I/22, 23(『経済と社会』該当巻)の刊行に踏み切ることになったので」と編纂方針を説明し、モムゼン氏担当のI/22-1(第1分冊「諸ゲマインシャフト」)の「序論Einleitung」第一次草稿を手渡して、編纂方針と草稿内容につき、「できるだけ鋭く論争を提起so scharf wie möglich polemisierenしてほしい」と来意を告げられた。筆者は快諾し、タクシーで名古屋城を回ってもらい、プラットホームに見送って別れた。

しかし、学問上は、モムゼン案は受け入れがたい、と分かっていた。『経済と社会』の編纂問題について、筆者は、第一次編纂者マリアンネ・ヴェーバーと第二次編纂者ヨハンネス・ヴィンケルマンの「二部構成」編纂[12]を批判し、これにたいする批判者、故フリードリヒ・H・テンブルックの「『経済と社会』との決別」[13]とも決別して、まずは「旧稿」「1910~14年草稿」を、原著者マックス・ヴェーバー自身の構成プラン「1914年構想」に準拠し、「理解社会学のカテゴリー」(1913年)を「概念的導入部」として「トルソの頭」に据え、テクスト中の前後参照指示と術語用例に整合するようにテクストそのものを再配列/再構成する、という再編纂方針を『ケルン社会学・社会心理学雑誌』に発表していた[14]。他方、モムゼン氏は、ヴィンケルマン氏によるヴェーバー・テクストの編纂独占を長らく批判してこられたので、筆者も同じ方向を目指す再構成論者で、容易に合意がえられるものと、わざわざ訪ねて、草稿を手渡すまでの好意を示されたにちがいない。しかし、先行編纂を批判して否定することと、自分が代わって妥当な編纂をなしとげることとは、別のことである。そのうえ、モムゼン氏は、手堅い歴史家ではあっても、社会学者ではない。ヴェーバーの精妙な社会学的概念構成と論理展開を、膨大な草稿の全篇にわたって追跡/再構成し、400個を越える前後参照指示ならびにそれぞれの被指示箇所と、おびただしい術語用例とを、細大漏らさず調べ上げ、先行の誤編纂ゆえに縺れた糸を細かく手繰って巻きなおすような仕事は、氏には相応しくない(氏は別のタイプの学者である)と見ていた。

 そこで筆者は、モムゼン氏来訪の好意に答えるのに、詳細な私信をしたため、いわば「合わない頭をつけたトルソ」であったマリアンネ・ヴェーバー編、ヨハンネス・ヴィンケルマン編に代えるに、「頭のない五肢体部分(五分冊)」に解体するにひとしい氏の方針は、学問上受け入れがたいと、逐一論拠を添えて丁重に伝えた。これにたいして、モムゼン氏からは、直接の返信はなかった。代わって、第一分冊編纂協力者のミヒャエル・マイヤー氏から、「モムゼン氏から代って返事するように頼まれ、モムゼン氏宛ての私信を読んだが、……」と前置きして、「編纂方針にたいする基本的な了解がえられれば、細部について煩わせるつもりはない」という趣旨の書簡が届いた。これにたいして、筆者は、「細部はもとより、編纂方針そのものに賛成できない」という趣旨を、さらに詳細に論拠を添えて答えた。しかし、その後、マイヤー氏からも応答はなかった。

 この間、筆者はむしろ、「共同編纂上やむをえない『犠牲Opfer』」としてモムゼン氏に歩み寄ったかに見えるシュルフター氏に、「その『犠牲』は大きすぎる」と答えて、『ケルン社会学・社会心理学』誌上で論争し[15]、筆者の意図としてはむしろ、編纂陣内におけるシュルフター氏の立場を側面から補強しようと努めた。それはなにか、歴史学と社会学との「縄張り争い」といったようなことではなくて、シュルフター氏が当初、カテゴリー論文の前置ほか、筆者には正しいと思える方針を提唱していたからである。したがって、シュルフター氏にたいする筆者の批判が、モムゼン氏を横目で睨み、いっそう厳しくモムゼン氏の編纂方針を撃っていることは、事情通が読めばすぐ分かることであった。ところが、モムゼン氏からは、「シュルフター批判、興味深く読みましたよ」という一行が添えられるものの、もっぱら氏の既定方針を敷衍する独文/英文の論文[16]抜き刷りが送られてくるばかりであった。

 それまで筆者は、一種のフェア・プレー感覚から、批判や編纂資料(たとえば被指示箇所と照合した前後参照指示の一覧表)をもっぱら独訳して、ドイツの編纂者にストレートに送り届け、どう対処するかはかれらの自由に委ねてきた。批判や資料を英文で発表すれば、英語圏読者の関心も喚起でき、その反響でドイツ編纂陣へのインパクトを側面から強められると分かってはいたが、なにか「外野スタンドに応援団をつくる」ように思えて、気が進まなかった。しかし、ここにきてモムゼン氏のほうが先に氏の編纂方針を英文で発表したからには、それにたいする批判の英文発表をもはやためらう必要はないと考えてよかった。折よく、その間にイギリスで刊行されたMax Weber Studies誌の編纂陣に加わっていた矢野善郎氏から寄稿の要請があったので、すみやかに論考「『合わない頭をつけたトルソ』から『頭のないバラバラの五死屍』へ?――全集版I/22巻の編纂方針にかかわる諸問題」をまとめ、矢野氏に英訳してもらって、2001年8月には、ロンドンの編集部宛て郵送することができた[17]。ところが、イギリス流なのか、MWS誌固有の流儀なのか、なかなか返事がなく、編集に手間取っている風で、とうとう2001年末には、先にモムゼン編の第1分冊がMohr社から公刊されてしまい、「編纂協力」へのモムゼン氏の感謝状を添えた献本が送られてきた。ちょうど同じころ、MWS誌編集主幹Sam Whimster氏からは、「モムゼン批判よりもむしろ、それまでに公刊された第1、2、5分冊に即して全集版I/22の編纂を総体として批判する論文に改めてほしい」という要請状が届いた。そこで筆者は、モムゼン氏には編纂の労をねぎらう献本礼状を送ると同時に、Whimster氏の要請に答えて、相応の改訂を施し、ふたたび矢野氏を煩わせて、論稿「『合わない頭をつけたトルソ』から『頭のないバラバラの五肢体部分』へ――全集版I/22巻の編纂方針にたいする批判」をまとめ、編集部に送った。ところが、これがまた編集に日時を費やして、翌2003年6月に、第3巻第2号の一篇[18]としてやっと日の目を見た。

 大略上記のような経過を振り返り、いまもって気懸かりなのは、多忙なモムゼン氏は、事前に私信では伝えていた筆者の批判を、自分では読んでいなかったか、ざっと目は通しても(筆者の独文が下手なこともあって)真に受けなかったか、どちらかで、第1分冊の献呈にたいしても、とりあえずは編纂の労をねぎらう丁重な礼状を出すにとどめ、そのさいには批判は控えた(これは「日本的」か? むしろ、「あれほど事前に批判していたのに」と直言すべきだったか?)こともあって、刊行後になにかいきなり厳しい批判をMWS誌に発表してぶつけられた、というふうに受け取り、「名古屋にまで出掛けて挨拶したのに」と不快に思われたのではないか(これも「日本的」解釈か?)という点である。モムゼン氏本人以外にも、シュヴェントカー氏を初め、エディット・ハンケ女史、ミヒャエル・マイヤー氏ら、モムゼン氏の高弟筋に、筆者のMWS誌寄稿がそのように受け止められているのではないか、という点も、やはり気懸かりといえばいえる。もっとも、こうした懸念を抱くこと自体が、きわめて「日本的」なのではないかとも思う。筆者としては、どうもすっきり割り切れず、学問上の原則を堅持しながら国際的な友好関係を保つことの難しさの一例とも思えるので、あえて経過を記して、忌憚のないご批判を乞いたいと思う次第である。

筆者としてはむしろ、いつか、先行編纂にたいする批判を踏まえたポジティヴな再構成試案を携えて渡独し、こんどは筆者がモムゼン氏をデュッセルドルフに訪ねて、経過を説明し、わだかまりがあれば解きたい、と念願していた。じつは、椙山女学園大学を定年まえに退職して研究/執筆に当てる時間を確保/拡張したのも、ポジティヴな再構成試案の作成に専念し、論稿を急ぎたいと考えたからである。「学問的批判は否定に終わらず、肯定的な成果に到達して初めて完結する」という持論からも、ぜひ早く、批判を完結させたいと思った。モムゼン氏の突然の逝去は、筆者にとって、そういう再訪の機会が失われたという点で、たいへん心残りである。せめて、ここに記した経過と筆者の真情を、シュヴェントカー氏が汲み取ってくださって、ドイツにおける同門の知友にお伝えいただければ幸いと思う。

それと同時に、モムゼン氏亡きあとの『全集』編纂がどうなるか、ということも気懸かりである。当面は、I/22, 23(『経済と社会』該当巻)の問題である。いまにして思えば、本来、「『旧稿』全体をどう再構成するか」という問題設定を先行させて、編纂者グループをつくり、相当期間をかけて研究と討論を重ね、公開のシンポジウムないし聴聞会も開いて、まずは再構成案を作成し、具体的に煮詰めたうえで、(分冊刊行方針をとるならとるで)分担を決めるという段取りで進むべきだったと思う。それが、初めから、おおまかな内容区分にしたがって編纂者の分担を決めてしまい、各責任編纂者の作業が別個に進行してしまったため、異論や批判が出てきても、あとから変更するわけにいかず、「にっちもさっちもいかなくなり」、モムゼン氏の責任感と実行力で「強行突破」をはからざるをえなかった、というのが真相に近いのではないか。そう考えると、五人(ヴィンケルマン氏亡きあとは四人)の編纂者のひとりとしてその渦中にいたシュルフター氏が、明晰な氏らしからぬ「歯切れの悪い」(と筆者には思える)軌道修正を重ねたのも、「共同作業にともなう『犠牲』」として、よく理解できるように思う。

 では、これからどうするか。残る第3分冊「法」、第4分冊「支配」については、もう、テクストの一部を既刊第1、2、5分冊と入れ替えるわけにはいかないであろうから、第3はゲッファート編、第4はモムゼン/ハンケ編で、そのまま予定テクストを収録して刊行するよりほかはなかろう。しかし、第3分冊「法」の「序論」では、「法社会学」のみの序論として残されてしまった「経済と法の原理的関係 Wirtschaft und Recht in ihrer prinzipiellen Beziehung」が、じつは「理解社会学のカテゴリー」に相当する「社会的諸秩序のカテゴリー Kategorien der gesellschaftlichen Ordnungen」と、「団体の経済的諸関係一般 Wirtschaftliche Beziehungen der Verbände im allgemeinen」とともに、「1914年構想」の第1項目(細分類で三項目中の第2項目)に属し、「旧稿」全体の第二番目に配置替えされるべきこと、第4分冊の「序論」では、第5分冊の「都市」が元来、「非正当的支配」論として「支配の社会学」に内属する一分肢であること、などが、編纂方針の批判/自己批判として明記されなければなるまい。そのうえで、「旧稿」全体の編纂にかんする諸論文、諸資料を収録することが当初から予定されていた第6分冊には、テンブルックに始まる編纂陣外からの批判論文、批判資料もすべて収録したうえで、そこでこそ、各分冊テクストの部分的入れ替え(じっさいにそうした入れ替えを実施して改訂版を出すかどうかは別としても)を含む、「旧稿全体のもっとも妥当な再構成案が示されるべきであろう。そして、読者には迷惑に違いないが、「旧稿」を全体として読もうとする読者は、第1分冊からではなく第6分冊から読み始め、しかもまずは「理解社会学のカテゴリー」で基礎概念を十分に押さえてから「家ゲマインシャフト」に始まる具体的な諸章に取り組むべきことが、全巻に「注意書き」として大書され、周知徹底されなくてはならない。編纂者にとっては名誉なことではないが、学問のため、読者のためには、ぜひともそうしなければならない。

 そういう方向で、誤編纂の繰り返しのために全体としては未解読というほかない約一世紀前の古典的大著(じつはシュルフター氏の主張どおり、『経済と社会』ならぬ)『経済と社会的諸秩序ならびに社会的諸勢力』を、なんとか「読める古典」として蘇生させたい。モムゼン氏亡きあとの編纂陣にあって、そうした方向へのリーダーシップを執れる人は、やはりシュルフター氏をおいてほかにはいないであろう。筆者もまた、本コーナー掲載の橋本直人寄稿も触れてくれたとおり、なるべく早く対シュルフター論争を再開し、こんどは再構成試案を示すポジティヴな方向で、モムゼン氏のやり残した仕事に、間接に寄与し、氏が日本の歴史・社会科学総体に示された好意と尽力に、日本の側から実質的・学問的に、いささかなりとも報いていきたいと思う。(2004年9月16日記)



[1] Cf. Ortega-y-Gasset, José, Insichselbstversenkung und Selbstentfremdung, 1939, in: ders. Gesammelte Werke, Bd. Ⅳ, 1956, Stuttgart, S. 7-31.

[2] このばあい、筆者としては、「初めから対話や論争を見かぎり、互いに別々のメディアで、別々に言いたい放題のことを言い、けっきょくは『双方言いっぱなし』に終る」という(「進歩的知識人」を含む「戦後文化人」の通則をなしてきた)従来のパターンは改めたいと思う。そこで、「山本七平賞」選考委員の六氏に、(事前に本コーナー開設者橋本努氏の了解をえて)9月7日付けで下記の書簡を郵送し、六「選評」内容への批判的論及を知らせ、あわせて本コーナーへの寄稿による論争参入を呼びかけた。

謹啓

 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

 初めてお便り差し上げます。マックス・ヴェーバーの社会科学方法論と比較文化・社会論を研究しております折原浩と申します。

 一昨年秋に羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房)が刊行されましてから、小生、昨年四月に書評「四疑似問題でひとり相撲」を『季刊経済学論集』(東京大学経済学会編、第69巻第1号)に発表し、十一月には羽入書批判を主内容とする『ヴェーバー学のすすめ』(未來社)を公刊いたしました。そのあと、北海道大学経済学部の橋本努氏が、インターネットのホーム・ページに、マックス・ヴェーバー「羽入/折原論争の展開」コーナーを開設されましたので、数篇の論稿を寄稿し、現在にいたっております。羽入辰郎氏本人からは、まだ寄稿がえられませんが、ヴェーバー研究への直接間接の関与者を初め、数多くの研究者や読者が、それぞれの見解を寄せ、対話と論争を展開しております。

 さて、このたび、そのコーナーに、拙論「なぜ『「末人」の跳梁』と題するか――前稿(羽入『ヴェーバー詐欺師説』批判結語・その1)への補遺」を寄稿し、そのなかで、羽入書への「山本七平賞」授賞にさいしての貴台の「選評」(『Voice』誌本年1月号所収)に、批判的に論及させていただきました。つきましては、ご多忙のところ恐縮ですが、下記のホームページをご参照くださり、反論がおありと拝察いたしますので、ぜひ論稿にしたためてご寄稿になり、論争に参入されますよう、ご案内申し上げます。

 では、なお残暑の砌、ご自愛のほど、お祈り申し上げます。

敬具

­­­http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto

(TOMUSINETを左クリック、左のメニューからMAX WEBERの欄を左クリックしていただきますと、当該コーナーが開きます。)

2004年9月7日

(折原 浩)

[3]「倫理」論文第一章第一節「宗派と社会層」では、「ルターカルヴァンノックスフォエトの古プロテスタンティズムder alte Protestantismus der Luther, Calvin, Knox, Voët」に言及し、それは、「現在われわれが『進歩』と呼んでいるものとはほとんどまったく無関係」で、「今日では極端な[原理主義的な]宗派に属する者でさえ、もはやなしで済まそうとは思わない、近代生活の全側面に、真っ向から敵対していた」と指摘し、したがって「古プロテスタンティズムの精神における一定の特徴と近代の資本主義文化との間に、およそなんらかの内面的親和関係を認めようとするのであれば、われわれはそれを、古プロテスタンティズムが(見かけ上)多少とも唯物的な、さなくとも反禁欲的な『現世の楽しみ』を含んでいたというようなところにではなくて、むしろ古プロテスタンティズムがそなえていた純粋に宗教的な特徴のうちに求めるよりほかはない」(GAzRS, I, 29, 大塚訳、33、梶山訳/安藤編、83)と論じている。原著者ヴェーバーが「古プロテスタンティズム」に言及するばあい、いかなる射程で近代の資本主義文化」との「内面的親和関係」を究明しようとしていたのか、この箇所からも一目瞭然であろう。

[4] この句の前後は、示唆に富む内容を含んでいて興味深いので、ここに引用し、補説を加えてみたい。「ドイツでも個別にはいくつか傑出した実例が見られた資本主義的企業家の『理念型』は、……見栄や不必要な支出を好まないのみか、故意に権勢を利用することを嫌い、現に自分のえている社会的名声にたいして外側から褒賞を受けることさえ喜ばずに避けるのである。言い換えれば、その生き方Lebensführungはしばしば、先のフランクリンの『説教』に明らかに現われているような、一定の禁欲的特徴をそなえている――これこそわれわれにとって重要な現象でその歴史的意義について立ち入って論ずることがまさしく後段の課題となる。とくに、そうした企業家には適度に冷静な謙虚さの認められることが、けっして稀ではなく、むしろ頻繁でさえある。それは、ベンジャミン・フランクリンも巧妙な処世術として推奨することのできたあの控えめな態度に比してはるかに誠実なものである。そうした企業家は、巨富を擁しながら自分一個のためには『一物ももたない』。ただ良き『職業の遂行』という非合理的な感情を抱いているだけである」(GAzRS, I, 55, 大塚訳、80-1、梶山訳/安藤編、121-2)。

 こうした「理念型」概念にたいしては、あるいは、①現実の「資本主義的企業家」を理想化して現実を隠蔽するイデオロギーにすぎず、「そんな企業家がいったいどこにいるか」との疑問が提起されもしよう。しかし、それはそれとして大いに議論されてしかるべきことではあるが、当面の「『倫理』論文における原著者ヴェーバーの『知的誠実性』問題」とは別次元の、当該理念型の「歴史的妥当性にかかわる問題である。「知的誠実性」を問うための内在理解の問題としては、②当のヴェーバーが「精神」の「理念型」概念を、フランクリン論をただの例示として外延内包ともにその域を越え、各国の「近代資本主義的企業家層の一特性を測る尺度として、広く適用し展開していることは、ここまで読めば一目瞭然であろう。しかもそのさい、③例示から定義をへて広域適用/展開にいたる過程で、どういう側面について、例示かぎりのフランクリン論が凌駕されているのかといえば、それは、「巧妙な処世術として推奨することのできた、あの控えめな態度」、すなわち(図書館開設などの起業にあたり、自分が発起人として表に出ようとするのではなく、友人たちの発案を受けてまわって、いうなれば「下働き」として実現に務めているという形をとったほうが、事業が円滑に進むし、やがては真の功労者が誰の目にも明らかとなって十二分に償われるという)効果を計算に入れた「狡智」ともいうべき、あの「功利主義に傾く側面第二の要素的理念型で捉えられる側面)である。これにたいして、そうした「名声」を「償い」として求めず、外面的「褒賞」を忌避する企業家の「価値合理的」態度が、「はるかに誠実なもの」として対置され、「近代精神」の勝義の側面として強調されている。さらに、④こうした理念型の適用範囲は、経済の領域における企業家層には限定されない。じつはこの「精神」とは、「職業義務」思想が「含み込まれる」上位概念ではなく、逆に、後者、すなわち「近代市民的職業エートス」が、経済活動にリンクされて、経済という一領域に発現する形態(その意味における一分肢)にすぎない。したがって、「一定の禁欲的特徴」にかかわる上記の「理念型」は、「近代企業家」にかぎらず、「近代芸術家」「近代科学者」などにも適用され、その特定側面を照射する概念として応用が利く。たとえば「作家は作品で勝負する」といって「ノーベル文学賞」を辞退したジャン・ポール・サルトルは、この意味における「近代作家」の理念型に合致し、「近代主義」を掲げながら晩年に「文化勲章」を受けた某経済史家は、そのかぎり「近代科学者」のこの理念型からは逸れている、等々の特徴づけが可能とされよう。なにか特定個人に道徳的価値判断をくだそうというのではなく、ヴェーバーの理念型につき、その適用/展開可能性の広がりを示唆するまでである。

[5] この節には、一カ所だけフランクリンへの言及がある。「まず、確認するまでもないことであるが、ルターが、本論文でこれまでこの[『資本主義精神kapitalistischer Geist』という]言葉に結びつけてきた意味における――あるいは、その他なんらかの意味における――『資本主義精神』と内面的な親和関係にある、などということはできない。宗教改革のあの『事績』をつねづねもっとも熱心に賞賛する教会関係者からしてすでに、今日でも全体としてみれば、いかなる意味においても資本主義に好意を寄せる味方などではない。いわんやルター自身にいたっては、フランクリンに見られるような志操とのいかなる親和関係も激しく拒否したであろうことは、まったく疑問の余地がない」(GAzRS, I, 72, 大塚訳、115-6、梶山訳/安藤編、151)。

[6] この本論第一節「世俗内禁欲の宗教的基盤」にも、フランクリンへの言及が一カ所ある。しかし、そのコンテクストでは、前注に引用した箇所における「ルターとの親和関係の否認」とは対照的に、「倫理的な生き方を組織化Systematisierung der ethischen Lebensführung」する方法(「信仰日誌」)について、中世カトリック修道院生活の合理的形態から、一方ではイエズス会派における「懺悔聴聞資料」としての活用、他方ではカルヴィニズムの禁欲における「自分の脈拍を見る」手段としての展開をへて、後者からフランクリンの(「十三徳」樹立のための)「自己審査手帳」にいたる系譜(「親和関係」)が確認されている(Cf. GAzRS, I, 123, 大塚訳、213-4、梶山訳/安藤編、229-30)。

[7]ヴェーバーのこうした見解にたいして、その「歴史的妥当性」を問うことは、もちろん可能であり、有意義でもあろう。ただしそれは、当面の「知的誠実性」問題とは別である。

[8] 本コーナー掲載の拙稿「ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム」に示した筆者の解釈では、「歴史的個性体」(「個性的な布置連関をなすワンセットの要素的理念型複合」)としての「資本主義の精神」概念の、第一要素的理念型の定式化、ということになる。

[9]「倫理」論文は冒頭、「さまざまな宗派が混在している地方の職業統計Berufsstatistikに目を通してみると」(GAzRS, 17, 大塚訳、16、梶山訳/安藤編、69)、近代的商工業の資本所有、企業経営、上層熟練労働にたずさわる社会層が、顕著にプロテスタント的色彩を帯びており、この現象は「資本主義の発展が、……社会層別と職業分化beruflich zu gliedernをもたらした」地域ではどこにも見いだされる」(GAzRS, I, 19, 大塚訳、16、梶山訳/安藤編、69)166ぺージ)と書き出されている。第2段落でも、カトリック教徒の手工業徒弟は、そのまま親方になろうとする傾向が顕著なのにたいして、プロテスタントの同業者は、いち早く大工場に転出して上層熟練労働や経営幹部の地位を目指すという差異につき、「教育によってえられた精神的特性、しかもこのばあいは、郷里や両親の家庭の宗教的雰囲気によって規定された教育の方向が、職業の選択Berufswahlとその後の職業上の運命berufliche Schicksaleを決定している」(GAzRS, I, 22, 大塚訳、22、梶山訳/安藤編、74)と述べられている。

[10]「禁欲と資本主義精神」節の第4段落には、「バクスター[Richard Baxter, 1615-91]の主著には、不断の厳しい肉体的また精神的労働の教えが、ときとしてほとんど激情的なまでに、全篇にわたって繰り返し説かれている。そこには、ふたつの動機が協働している。労働はまず、古来試験ずみの禁欲の手段である。……宗教上の懐疑や小心な自己責苦だけではなく、あらゆる性的誘惑に打ち勝つためにも、節食、菜食、冷水浴とともに、『汝の職業労働に精励せよ』との教えが説かれている。[第二に]労働は、それ以上に、なによりも神によって定められた生活一般の自己目的である。『働かざる者食うべからず』というパウロの命題は、いまや無条件に、万人に妥当する」(GAzRS, I, 169-71, 大塚訳、300-4、梶山訳/安藤編、303-6)とあり、の箇所には、「バクスターは、この言葉を繰り返し用いている。聖書の典拠は通例、フランクリン以来われわれによく知られている箴言22: 29か、あるいは『箴言』31: 16[新共同訳では「熟慮して畑を買い、手ずから実らせた儲けでぶどう畑をひらく」]に見える労働の賛美である」と注記されている。羽入は、『箴言』句callingの直接の語源を、ルターでなくバクスターに求めるべきだったろう。

[11] ヴェーバーが、「精神そのものの起源」を、どのように「古プロテスタンティズムの宗教世界へと遡らせ」ているのか、――この点を羽入がどう解釈しているのか、聞きたいものである。「あと一歩の違い」というのであれば、具体的に説明できないわけはあるまい。

[12]「旧稿」「1910~14年草稿」を「第二・三部」とし、そのまえに、基礎概念が変更されたあとの「新稿」「1920年改訂稿」を「概念的導入部」として配置して「第一部」とする、いわば「逆立ちの構成」。これでは、編纂者が、原著者ヴェーバーと読者との間に立ちはだかり、原著者が変更した後の概念で、変更前の叙述を読め、と指示することになり、読者を混乱か、不正確な「読解」に陥れるばかりである。

[13] Tenbruck, Friedrich H., Abschied von Wirtschaft und Gesellschaft, Zeitschrift für die gesamte Staatswissenschaft, Bd. 133, 1977, Tübingen: J. C. B. Mohr, S. 703-36.

[14] Orihara, Hiroshi, Grundlegung zur Rekonstruktion von Max Webers “Wirtschaft und Gesellschaft”, Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie, 46. Jahrgang, 1994, Tübingen: J. C. B. Mohr, S. 103-21.

[15] Cf. Schluchter, Wolfgang, Max Webers Beitrag zum “Grundriß der Sozialökonomik”-Editionsprobleme und Editionsstrategien, KZfSS, 50, 1998, 327-43; Orihara, Hiroshi, Max Webers Beitrag zum “Grundriß der Sozialökonomik”-Das Vorkriegsmanuskript als ein integriertes Ganzes, KZfSS, 1999, 724-34; Schluchter, Wolfgang, “Kopf” oder “Doppelkopf”-Das ist hier die Frage-Replik auf Hiroshi Orihara, a. a. O., S. 735-43; Orihara, Hiroshi, Zur Rekonstruktion der alten Vorkriegsfassung von Max Webers Beitrag zum “Grundriß der Sozialökonomik”-Eine Erwiderung auf Schluchters Replik, Working Paper No. 1, März 2001, Sugiyama Jogakuen University, The School of Human Sciences, pp.1-17.(この応答は当初、KZfSSの編集部に送ったが、編集委員のシュルフター氏自身がかかわる論争でKZfSS誌の紙面を継続的に塞ぐわけにはいかない、との一理ある理由で、掲載は断念し、当時在職していた椙山女学園大学人間関係学部の好意で、Working Paper を発刊してもらい、その第一号として発表することができた)。なお、これらの論稿は邦訳され、シュルフター/折原著、鈴木宗徳/山口宏訳『「経済と社会」再構成論の新展開――ヴェーバー研究の非神話化と「全集」版のゆくえ』と題して、2000年、未来社から刊行されている。

[16] Mommsen, Wolfgang, Zur Entstehung von Max Webers hinterlassenem Werk Wirtschaft und Gesellschaft. Soziologie, Discussion Paper, No. 42, 1999, Berlin: Europäisches Zentrum für Staatswissenschaft und Staatspraxis, S. 1-54; Ders., Max Weber’s “Grand Sociology”: The Origins and Composition of Wirtschaft und Gesellschaft. Soziologie, History and Theory: Studies in Philosophy of History, Vol. 39, Middletown, Connecticut: Wesleyan University, pp. 364-83.

[17] From “a Torso with a Wrong Head” to “Five Disjointed Pieces of Carcass”?: Problems of the Editorial Policy for Max Weber Gesamtausgabe I/22(Old Manuscript Known as “Part II” of the Economy and Society), Working Paper, No. 8, Feb. 2002, Sugiyama Jogakuen University, The School of Human Sciences, pp. 1-27.

[18] From “a Torso with a Wrong Head” to “Five Disjointed Body-Parts without a Head”: A Critique of the Editorial Policy for Max Weber Gesamtausgabe I/22, Max Weber Studies, Vol. 3, Issue 2, June 2003, Sheffield, pp. 133-68.


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(2-2)」

2004年9月20日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(2-2)

折原 浩


2004年9月20日

承前――「“Beruf”をめぐるアポリア」節前半における「全論証の要」捏造

 前稿「批判結語(2-1)」では、羽入書第二章第一節「“Beruf”をめぐるアポリア」冒頭から四ぺージ分の叙述(65-8)を取り上げ、羽入による論旨の展開を追跡した。そこで羽入は、①「倫理」論文の「全体」から「前半部」へと視野を狭め、②「古プロテスタンティズム」をルターひとりに限定し、③「意味(因果)帰属」を「語形合わせ」にすり替え、④(「資本主義の精神」の「意味(因果)帰属」を「職業義務の思想」の「遡行」で代替するという)「搦手迂回論」を持ち込み、⑤「例示」にすぎないフランクリンからの引用文の「趣旨要約」を、「精神」の「定義」と取り違え、⑥その「意味内容」についても、徴表「義務づける思想」「エートス性」「一定の禁欲的特徴」を見落とし、それに代えるに、同じく「例示」にすぎないフランクリンの『自伝』から一語callingを抜き出して、⑦(「倫理」論文における語Berufの)「初出」と見誤り、⑧そのコンテクストも、典拠『箴言』における独自の(たとえば『ベン・シラの知恵』とは異なる)意味合いも無視して、(バクスターでなく)ルターに直接「遡ろ」うとし、その遡行先についても、⑨「思想」と「語」とを混同して、(「ルターの職業観」節の主要部を占める)「職業思想」論ではなく、(冒頭一段落にかぎられた「トポス」の)「Beruf語義(成立史)」論に短絡し、⑩「精神」の構成契機をなす独特の「職業義務」思想の歴史的起源を、(18世紀フランクリン父子の“calling”と、16世紀ルターの“Beruf”との「直接の一致」という)「語形合わせ」に求め、羽入のこの虚構が(また突如、「前半部」から「全体」へと飛躍して)「倫理」論文の「論証にとって」をなすという、彼我混濁の主張を掲げるにいたっている。

 もとより、ヴェーバーを「倫理」論文に即して批判しようとすること自体は、たいへん結構である。しかし、学問としてそうした企図を実現するには、まず、批判者が、当の「倫理」論文とはいかなる内容の著作か―――なにを主題とし、それをいかなる方法で解き明かそうとし、どこまで到達しているのか――、その「全論証構造」を、ヴェーバーの論述に内在して解読し、要約して提示し、そのなかに、自分が問題とする論点を位置づけて、ヴェーバーの「破綻」(を立証しえたとして)が、どこまでおよび、その業績をどの程度くつがえすに足るものかどうか、論証しなければならない。ところが、羽入の叙述は、形だけは――あるいは、抽象的には――そうした手順を踏んでいるかに見せかけながら、こと「倫理」論文の具体的内容におよぶと、「全体の要」と称して、主題に入る以前の「例示」と「トポス」(しかもそれぞれの注記)に短絡するばかりか、当該微小部分の意味解釈と方法理解でさえ、上記のとおり、いたるところで「見落とし」「混同」「取り違え」「すり替え」を犯して倦まない、いうなれば学部演習レポートの合格水準にも達しない、迷走の産物というほかはない。端的にいって、羽入には、「倫理」論文の中身も、ヴェーバーがそこで編み出した「意味解明」「意味(因果)帰属」の方法とその意義も、分かっていない(異議があるなら、反論するがよい)。分からないのでかえって、「怖いもの知らず」の「特権」で、見当ちがいの臆断を得意気に公表できるのであろう。

 問題はむしろ、これほどの「論文」に、文献読解の厳密な訓練にかけては定評のあった東京大学大学院倫理学専攻が、修士/博士の学位を認定したばかりか、日本倫理学会が学会賞「和辻賞」まで授与し、さらに、京都大学名誉教授・越智武臣の不見識で無責任な推薦(越智に異議があれば、反論するがよい)を受けたミネルヴァ書房が、これまた定評のあった「Minerva人文・社会科学叢書」の一点として羽入書を公刊し、これを加藤寛、竹内靖雄、中西輝政、山折哲雄、養老孟司、江口克彦ら「PHP名士」が絶賛して「山本七平賞」を授与するという事態、そのようにして羽入本人にとっても不幸な虚像が「雪だるま式」に膨れ上がった経緯、しかも、そうした「ことの成り行き」を、大方のヴェーバー研究者を初めとする歴史・社会科学者が「見てみぬふり」をして、学者としての責任/社会的責任にもとづく批判ないし発言を回避している(1968-69年大学闘争以降、35年をへた)現代日本の思想・文化状況の実態、これである。この一点をとっても、世の中、ますます奇怪しくなってはいないか。責任ある当事者たちが応答しない以上、筆者は批判と責任追及をつづけるほかはない。そうすることをとおして、せめて、筆者が会得したかぎりの学問研究のスタンスを、とくに学生/院生の諸君に伝えていきたいと思う。

「“Beruf”をめぐるアポリア」節後半における「アポリア」捏造

 

7. 摩訶不思議「飛び移り直結論」――「意味(因果)帰属」の「語形合わせ」へのすり替えにもとづく思い込み

 では、羽入は、上記のように虚構された「全論証にとって要」の箇所に、どのようにして「アポリア」を持ち込むのか。それがほんとうにアポリアなのか。

 羽入は、ルターが『箴言』22: 29の「わざmelā’khā」を“Beruf”でなく“geschefft”と訳していた事実を挙示したのち、「したがってヴェーバーは、『箴言』22: 29のその箇所においてルターが“Beruf”という訳語を使ってはいなかったにもかかわらず、フランクリンの用いた“Calling”という表現から、ルターの“Beruf”という訳語へと『倫理論文中において飛び移らねばならぬ、ということになる」(69)と主張する。しかし、どうしてそうなるのか、なぜ「飛び移らねばならぬ」のか、その理由が説明されていない。事柄そのものが、説明されなくとも分かるほど自明のことなのか。

 ところが、18世紀のフランクリン父子が用いた英訳聖書では“Calling”と訳されている『箴言』22: 29の「わざ」を、16世紀のルターが、理由あって、(“Calling”に相当する)“Beruf”でなく“geschefft”で訳していた、ということは、歴史上ありうること、いな、フランクリン父子とルターとの(とりわけ宗教思想ないし宗教的背景の)差異と、双方を隔てる約二世紀間の歴史的変遷とを考え併せるならば、むしろ当然のこと、ではあるまいか。ヴェーバーが「倫理」論文によって捉え、説明しようとしている事柄そのものに、もう少し立ち入って考えてみると、「厳格なカルヴィニスト」(GAzRS, I, 36, 大塚訳、48、梶山訳/安藤編、95)と紹介されている父フランクリンが、そうした宗派的背景からして、『箴言』22: 29のbusiness(=geschefft)をあえて“Calling”と改訳した英訳聖書を使ったのにたいして、カルヴィニズムを「わざ誇りに傾く行為主義 Werkheiligkeit」として原則的に斥けたルターが、当の『箴言』22: 29には、あえて“Beruf”(=“Calling”)を当て、geschefftで通していた、というふうに説明されるのではないか。ヴェーバーは、歴史・社会科学者として、そうした宗派ごとの差異と歴史的変遷とを念頭に置きながら、フランクリンの『自伝』から『箴言』22: 29を引用した箇所に、ルターはBeruf でなくGeschäftと訳していると、わざわざ不一致をこそ、注記しておいたのではないか。

 さて、羽入のほうは、羽入書第一章で、16世紀イングランドにおけるBeruf相当語の普及という論点につき、現実の語義諒解とその流動的移行よりも、辞書OEDにおける項目分類にこだわって、ヴェーバーの「読み違い」を想定/捏造していた。とすると、ここでも、それと同じように、事柄ないし歴史よりも、「倫理」論文の字面(における没意味文献学的「語形合わせ」)に囚われて、宗派ごとの聖典解釈したがって語義/訳語の差異やその歴史的変遷を考慮に入れず、後代のフランクリン父子が聖典のある箇所を“Calling”で読んだからには、すでに二世紀前のルターも、そこを“Beruf”と訳しているはずで、双方の訳語が「倫理」論文中の飛び移り直接一致しなければならない、と早合点し、この思い込みを、「アポリア」としてヴェーバーの叙述に読み込んでいるのではないか。この点は、突き詰めれば、「歴史が先か、文献学が先か」という問題に行き着き、「文献の記載どおりに歴史が進行しなければならない」という羽入の観念論(あるいは「拷問具」としての「没意味文献学」への固執)を明るみに出すであろう。しかし、ここではそこまで議論を詰めず、とりあえず具体的問題点として指摘すれば、羽入のこうした「飛び移り直結論」は、羽入書第一章では「唯『シラ』回路説」の形をとって現われていた、あの「言霊崇拝」の呪術的カテゴリー――ルターが『シラ』11: 20, 21で、「神与の使命としての職業」というBerufの語義を創始し、「言語創造的影響」をおよぼしたからには歴史的社会的条件を異にする他の「言語ゲマインシャフト」でも、みな一様に『シラ』11: 20, 21を起点としてBeruf相当語が普及し、ルターのばあいと同一の「言語創造的影響」をおよぼす、と決めてかかった杓子定規の生硬な論法――と同質であって、あのカテゴリーがこんどは『シラ』句ではなく『箴言』句の訳語(という異なった局面)に適用されているだけではなかろうか。

 そういうわけで、ヴェーバーがフランクリン父子の“Calling”からルターの“Beruf”へと「『倫理』論文中で飛び移らねばならぬ」という「必然性」には、根拠がない。それはむしろ、「意味(因果)帰属」を「語形合わせ」にすり替えている羽入の思い込みで、それを羽入が、まさにここで、「全論証にとって要」の箇所に持ち込んだ――あるいは、本来筋の通ったヴェーバーの叙述(「遺物」)を、ⓐ原コンテクスト(「遺構部位の遺物配置構成」)から引き抜き、ⓑ羽入の「配置構成図」に移し入れ、ⓒ「アポリア」に意味変換した――のではないか。

8.彼我混濁の「自明の理」――短い注が「アポリアを解く約束」

 ところが、羽入のほうは、ここですばやく、当の「必然性」の論証が済んだかのように、それが「自明の理」でもあるかのように、既定の前提として語り始める。羽入は、「ヴェーバーはもちろん[!?]、この事態がみずからの論証にとって致命的となりかねぬことを良く知悉していた[!?]」(69)という。しかし、「もちろん」と力まれても、羽入がなにを根拠にヴェーバーの「腹の内」を「良く知悉して」いるのか、当の根拠の提示がないので、理解しようもない。ただ、こう語ることによって、羽入が、羽入にとっての「必然性」をヴェーバー自身に読み込み、「ヴェーバーもまた、その『必然性』を意識して同じくアポリアと解しみずから『解決』しようとしたが、『解決』できずに『回避』した」という彼我混濁の決めつけ路線に踏み出した、ということは分かる。

 羽入は、そのすぐあと、フランクリンの『自伝』からの引用箇所にヴェーバーが付した当の「短い注」を、「『箴言』22: 29。ルターは、“in seinem Geschäft”と訳している。古い英訳聖書は“business”。これについては63ぺージ、注(1)を参照せよ」と引用し[1]、なぜかここで――この参照指示だけで――ヴェーバーが、「読者に対し、このアポリアを後ほど解くことを約束した」(69)と決めてかかる。羽入自身は、自分の「アポリア」をヴェーバーの叙述に「含み込ませることに見事成功した」(67)と思い込んで怪しまないので、当然の訳語不一致にかんするヴェーバーの簡潔な事実挙示の注記も「アポリアを後ほど解く…約束」と映るのであろう[2]

 しかし、なぜ、この注記の文言が、そうした「約束」と解せるのか。かりにヴェーバーが、羽入の思い込みどおり、詐欺師ないしは(少なくとも、自分にとって不都合なことを隠す)知的に不誠実な学者であったとして、この注と、ここで予告されている「63ぺージ、注(1)」つまり「ルターの職業観」節第1段落に付された注3との間に、一方の語形“Calling”が他方の語形“Beruf”に一致しない「アポリア」が潜んでいると「良く知悉していた」とすれば、どうしてわざわざ、「ルターではGeschäftでBerufではない」と、自分を「アポリア」の窮地に追い込む、不利な材料を、自分のほうから積極的に提示したのであろうか。むしろ、ヴェーバーは、16世紀のルターではGeschäft、「比較的古いälter[3]」英訳聖書ではbusinessと訳されている事実と、それが18世紀のフランクリン父子では“Calling”に改訳されて出てきて、business(Geschäft)にも宗教的意義が賦与されるにいたっているという不一致を、隠すどころか積極的に提示し、この語形不一致にも表示される歴史的語義=意味変遷を示唆し、その思想的/エートス的背景をこそ、ここから一歩一歩解明し、本論に入って探究していくと(そういいたければ)「読者に約束」しているのではないか。そう解するほうが、はるかに自然で、「全論証構造」にも整合するのではないか。

 ところが、羽入は、「この短い注は、“Beruf”に関する注にくらべ従来あまり注目されてこなかったが、重要なのは“Beruf”に関する注よりもむしろこの注なのである。なぜなら、“Beruf”に関するあの膨大にして難解な注を書かざるを得なかったそのそもそもの原因となる事態がこの短い注の内に含まれているからである。“Beruf”に関する注における肝心の問題点が従来看過されてきたのも、この右の短かな注が一体何を意味し、いかなる奇妙かつ厄介な事態のことを指しているのかということに関して、研究者達がこれまで全く関心を払ってこなかったからにほかならない」(69-70)という。こう述べて、羽入は、当の「短い注」の意義を、抽象的に謎めかして読者の関心を掻き立て、他の「研究者達」はその謎を「従来看過」してきた、と自分の「独創性」をほのめかしている。しかし、では、当の「事態」とは、じつのところ、いったいなんのことか。この問いに、羽入はすぐ、「ヴェーバーにとっていささか厄介な前記……の事態は、結局、フランクリンが『自伝』において英訳聖書の正統的な言い回しからはややずれた“Calling”という語によって聖書の句を引用したこと、そして聖書翻訳には見当たらないこの表現を足掛かりとしてヴェーバーが宗教改革の父へとまで遡ろうとしたことから生じた事態である」(70)と答えている。とすると、ここに、「謎」の正体が、羽入自身の口から、問わず語りに語り出されている。すなわち、羽入は、「表現」つまり「語」を「足掛かり」として「宗教改革の父」つまりルターに「語形合わせ」という意味で「遡る」ことが、原著者ヴェーバーの企図であり、「倫理」論文の「全論証の要」である、という当初からの誤読誤解をここにも持ち越している。その誤読/誤解にもとづく羽入の思い込みをヴェーバーに読み込み、そうした彼我混濁から、「膨大にして難解な注を書かざるを得なかった、そのそもそもの原因となる事態」「奇妙かつ厄介な事態」を捏造し、ヴェーバーに帰しているのである。

9.「同義反復論法」――「アポリア」から「アポリアの回避」へ

 ここから、例の「同義反復論法」が始まる。つまり、フランクリン父子の用語とルターのそれとの一致という当然の事態が、じつは「意味(因果)帰属」の「語形合わせ」へのすり替えにもとづく羽入の誤読/誤解から「アポリア」に化けているだけなのに――あるいはむしろ、まさにそれゆえ――、「アポリア」「アポリア」と「自明のこと」のように復唱され、畳みかけられる。そうこうするうちに、「倫理」論文を自分で解読して論旨を捉えてはいない読者/識者/論文査読者/「賞」選考委員は、そのかぎりで、いつのまにかそう信じ込まされてしまう、という段取りである。

「ヴェーバーは、このアポリアの意味を、『倫理』論文中において自らはっきりとは[!?]説明しなかった。しかしながら、前掲の短い注の内に目立たぬようにほのめかされている[!?]事態は、実際のところかなり深刻なものである。なぜなら、後に出てくる“Beruf”に関する注の内でヴェーバー自身も認めているように……、“Geschäft”という語も“business”という語も共に、“Beruf”とは異なり、『神から……与えられた使命』などというような宗教的観念は一切含んではいぬ言葉であるから」(70)。

「なぜなら」以下は、そのとおりである。しかし、それがどうして「深刻」なのか。羽入にとっては「アポリア」でも、ごく当然のことであってみれば、ヴェーバーもそれを「アポリア」に見立てて「その意味を、みずからはっきり説明する」必要などないし、だいたいそんな「意味」は思ってもみなかったろう。「目立たぬようにほのめかす」などと、いかにも詐欺師がやりそうな詐術めいたことを「ほのめかして」いるが、それは、羽入の脳裏には浮かんでいても、ヴェーバーの関知するところではない。さて、羽入は、つづけていう。

「フランクリンの『自伝』の一節からなるほど独語“Beruf”へと移行することはできる。しかしその聖書からの引用句『箴言』22: 29をルターは“Beruf”とは訳してはいなかった以上、そこからルターの“Beruf”-概念へと直接に遡ることはできない。フランクリンが『自伝』で引用した『箴言』の一節から、ルターにおける“Geschäft”という全く宗教性を帯びていぬ、ただ単に世俗的職業を意味するに過ぎぬ言葉へと遡ることはできても、ルターの聖書翻訳によって創造された“Beruf”という、世俗的職業を指すと共に “神から与えられた使命”という宗教的含意をも含み込んだあのプロテスタンティズムに特有の概念へと遡ることは、したがってこのままでは不可能であることになる。」(70-1)

それは、そのとおりである。だが、それがどうしたというのか。同じことをなんど繰り返せば、気がすむのか。

ただ、羽入はここで、一行空けて、こう断定する。「以上がこの短い注の内に含まれているアポリアである」(71)と。ここに明示的に語り出されたとおり、羽入のいう「アポリア」とは、じつはアポリアでもなんでもなく、フランクリンにおける『箴言』22: 29の“Calling”から、ルターの“Beruf”へと、「語形合わせという意味で遡る」ことはできない、というごくあたりまえの事態にすぎない。「アポリア」「遡る」といった語が、なにか「マジック・ワード」としてはたらいて、「意味(因果)帰属」と「語形合わせ」とのすり替えを隠蔽し、謎めいた印象を与えているだけである。

 ところが、羽入は、このあとすぐ、「ではいかにしてヴェーバーはこのアポリアを回避したのか。われわれはここでようやく“Beruf”-概念に関するあの注を扱うことになる。このアポリアを回避するためにこそ、妻マリアンネをして嘆かせたあの長大な『脚注の腫瘍』……は書かれたのである」(71)と畳みかける。「アポリア」を既定の前提とし、その「アポリア」の回避に論点を移して、「ルターの職業観」節第1段落の注3が「このアポリアを回避するためにこそ……書かれた」と、ヴェーバーの執筆意図を「自明の理」であるかのように決めてかかる。そして、つぎの第二節を「ヴェーバーによるアポリアの回避」と題し、「前述のアポリアを回避するためのヴェーバーの議論が始まるのは、“Beruf”-概念に関する注の第二段落目からである」(71)と書き出している。ある注記の意図について、著者の叙述から証拠を引いて論証することなく、「アポリア回避のため」と決め込み、この独り合点をただただ反復力説して読者を誤導している、ととれないこともない。しかし、羽入が主観的に意識してそうしている、とまで主張しようというのではない。

小括

 以上のとおり、「語形合わせ」論の平面に固執して離れられない羽入には、フランクリン父子の“Calling”がルターの“Beruf”に直接語形一致しない、あたりまえの事態が、「アポリア」と映る。羽入は、さらに彼我混濁から、自分の先入観をヴェーバーにも推しおよぼす。ヴェーバーもまた、羽入の「アポリア」を自分のアポリアとして「解決を読者に約束」するが、それができず、「アポリア回避のため」、「膨大で難解な」注3を書いたのだそうである。このあと、羽入は、この筋書きに沿い、羽入の思い込みを、つぎつぎにヴェーバーに読み込んでいく。逆にいえば、ヴェーバーの叙述から羽入に好都合な語句を抜き出してきては、この筋書き(羽入の「配置構成図」)に編入し、並べ替えていく。こうして、第二節「ヴェーバーによるアポリアの回避」で、問題の注3につき、「アポリア回避」のための(できることなら)「詐術」、(できなくともせめて)「杜撰」な「操作」を「暴こう」というわけである。羽入は、この先入観に囚われて、注3についても、全六段にわたる叙述[4]を、ヴェーバー自身の論旨の展開に内在し事柄に即して無理なく解釈することができない。自分が持ち込んだ「アポリア回避のため」の「操作」を「嗅ぎつけ」、嗅ぎつけられなければなんとか「こじつけ」て、「立証」しようと、むなしく奮闘する。その次第を、つぎに検証していくとしよう。

とまれ、羽入による以上の議論は、根拠なしに持ち込んだ「アポリア」を、論証ぬきに「自明の理」「既定の前提」として、そのうえに展開されている。この論法は、立証されるべき結論を前提として立論するpetitio principii[原理請求]ではないか。羽入は、羽入書第四章でヴェーバーに(じつは「濡れ衣」として)帰している当のpetitio principiiを、ここでみずから犯しているのではないか。(2004年9月20日記、つづく

 



[1] 羽入書第一章で、羽入は、この「古い」につき、原文の比較級älterを読み落とし、「『古い英訳聖書では』と総称的に述べた」(37)と読み誤り、カトリックの「ドゥエ聖書」(1609/10)がbusiness でなくworkeと訳している事実を挙げて、これをヴェーバーは「杜撰」にも「看過」している、と決めつけている。羽入自身の杜撰による「ヴェーバー杜撰説」捏造の一例である。

[2] 羽入書第一章で、同じ箇所を引用したさいにも、羽入は、つぎのように前置きしている。「ベンジャミン・フランクリンが『自伝』において引用した聖書の句から『倫理』論文の論証構造のキーワードとなる[!?]言葉、“Beruf”を引き出した時ヴェーバーは、ルターが当該の『箴言』22: 29の箇所を、“Beruf”でなく“Geschäft”で訳してしまっており[!?]、また英訳聖書においても当該の箇所は“calling”でなく“business”で訳されているという、自分の立論にとっていささか不都合な[!?]事態に関して、注で次のように触れざるを得ない羽目[!?]となった」(36)と。「思い込み」は恐ろしい、というほかはない。

[3] この比較級を、「倫理」論文の「全論証構造」とむすびつけ、そのコンテクストのなかで読むと、「『比較的古い』とは、ルターと同時代ないし直後、せいぜい16世紀末までのことで、『禁欲的プロテスタンティズム』の大衆宗教性において『確証問題への関心』がたかまり、たとえばバクスターが、ルタールター派における伝統主義の域を越えて『職業労働』の意義を説き、『神の道具』としての『禁欲』実践によって自分が『恩恵の地位』にあることを『確証』する場、という意味を与える、それ以前」と解されよう。

[4] この全六段の叙述にかんする筆者の解釈は、本コーナー掲載「マックス・ヴェーバーのBeruf論」で全面的に展開されている。


雀部幸隆「モムゼン教授ご逝去を悼む」

2004年9月22日(本コーナーへの寄稿)

モムゼン教授ご逝去を悼む

雀部幸隆


2004年9月22日

 本年9月6日に大分大学の嘉目克彦教授から、ヴォルフガンク・J・モムゼン教授が本年8月13日オストゼーで海水浴中に心筋梗塞で逝去されたと、のお知らせを頂いた。教授は1930年生まれであるから、誕生日を終えておられたのなら、享年74歳、終えておられなかったのなら73歳、いずれにしてもまだこれからというお年であった。筆者はモムゼン教授のウェーバー政治思想研究の基本的コンセプトを批判する巡り合わせとなったが、教授の代表的著作『マックス・ヴェーバーとドイツの政治 1890-1920年』は、多くの未公開・未知の資料の精力的な発掘収集にもとづき、修業時代から死に至るまでのウェーバーの政治思想の歩みを彼の他の学問分野における多方面な活動と突き合わせて総体的に分析した大著であって、筆者をも含むドイツ内外の後進の研究者にとっては、ウェーバー政治思想研究の大海に漕ぎ出すさいには不可欠な詳しい海図の役割を果してくれたものである。この大著がウェーバーの政治思想といえば必ず引き合いに出される標準的労作とされたことは故なきことではない。教授はその他のウェーバー研究の分野においても多くの業績を残されたが、とりわけ重要なのは、現在ドイツで刊行中の『マックス・ヴェーバー全集』の編纂において指導的役割を果されたことであろう。もちろん、そのなかにはいわゆる「経済と社会」戦前草稿刊行にあたっての教授の編集方針に対するわが国の折原浩教授の根底的な批判のあるものも含まれており、筆者もまた折原教授の批判に基本的に同意するものであるが、『マックス・ヴェーバー全集』全体の刊行に責任編集者として尽くされた教授の功績は、国際的なウェーバー研究のみならず社会科学研究の進展にとっても、多大なものがある。ここに遅ればせながら、つつしんで教授の生前の大きな学問的功績をたたえ、教授のご冥福を心からお祈りする次第である。

丸山 尚士「ハイデルベルク訪問記と拙第2論考への 若干の補遺」

2004年10月10日(本コーナーへの寄稿)

ハイデルベルク訪問記と拙第2論考への 若干の補遺

丸山 尚士

2004年10月10日


   2004年9月19日から、私的な観光目的で1週間ほどドイツを旅してきました。その旅程の中で、9月20日にハイデルベルク大学を訪問しました。その目 的は、


1. ハイデルベルク大学図書館が1900年頃どの程度の水準にあったかの調査→ヴェーバーが倫理論文を書くにあたって、どの程度の資料を参照できたか

2. ハイデルベルク大学図書館に現在ある英訳聖書の調査

3. ヴォルフガング・シュルフター教授(ハイデルベルク大学社会学研究所)への面会→折原先生に勧めていただいて、紹介いただきお会いしたもの


の3点でした。まともにドイツ語を話すのは、ほぼ大学卒業以来であって、 かなり会話力が低下しているため、図書館用と、シュルフター教授への説明用に、次の2つの資料をドイツ語で書いてもっていきました。(書く力もかなり落ち ていて、文法や綴りの間違いはたくさんあると思われますが、その点はご寛恕ください。)

(1)図書館への質問票

Die Dispute über Max Weber in Japan: Ist Max Weber ein Verbrecher oder ein Betrüger ?


Im September 2002 in Japan, ein Buch, das "Das Verbrechen von Max Weber" hieß, wurde herausgegeben. Der Autor des Buchs ist Dr. Tatsuro Hanyu, ein Doktor der Ethik an der Universität Tokyo.

Das Buch wurde dann mit einem Preis ausgezeichnet von der PHP-Stiftung, die die Firma Panasonic, eine der grßöten Firmen in Japan, finanziert.


Das Buch behauptet, dass Max Weber nicht direkt die primären Forschungs-Stoffe genug gebraucht habe, sondern hauptsächlich die zweiten Stoffe oder nur die Wörterbücher nachgeschlagen habe, wenn er den berühmten Aufsatz "Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus" geschrieben hat. Als er, z.B., über das englische Wort "calling" (= auf Deutsch "Beruf") forschte, habe er nicht die originellen englischen Bibeln wie "Geneva Bibel" nachgeschlagen, sondern habe er nur ein Wörterbuch wie "OED" (Oxford English Dictionary) benutzt.


Trotzdem seine Behauptungen voll von Unsinn und manchmal sehr komisch sind, haben manche Leute und eben einige Wissenschaftler in Japan dieses Buch sehr gelobt. Ein Japanischer Forscher des Max Webers, der Hiroshi Orihara heißt, sorgte sich darum sehr, und er hat ein Buch der Widerrede geschrieben. Er hat dann auch an einem Forum auf Internet ( http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Max%20Weber%20Dabate.htm) teilgenommen, und dort hat er manche Aufsätze ausgestellt. Weil ich an der Uni von ihm über Max Weber gelehrt wurde, teilte ich auch am Forum ein.


Mein Interesse ist:


(1) Wie war das Niveau der Bibliothek der Universität Heidelberg in der Zeit von Max Weber, d.h., am Ende des 19 Jahrhunderts ?

Wie viel Bücher hatte die damalige Bibliothek hier? War das Niveau besser oder schlechter verglichen mit z.B. dasjenige der Universität Berlin?


(2) Universität Heidelberg ist berühmt mit seiner theologischen Fakultät. Hat die theologische Forschung hier auch gut das Gebiet von englischen Bibeln gedeckt?

Die Frage ist einfach, ob Max Weber hier an der Uni Heidelberg die originellen englischen Bibeln in den 16-17 Jahrhunderten nachschlagen konnte oder nicht.


(日本語訳)

マックス・ヴェーバーに関する日本での論争:マックス・ヴェー バーは犯罪者か嘘つきか


2002年9月に日本において、「マックス・ヴェーバーの犯罪」という名前の本が出版された。著者は羽入辰郎で、東京大学倫理学の博士である。

その本は、日本でも最大の会社の一つである松下がスポンサーとなっているPHP財団によって、ある賞を授与された。

その本では、マックス・ヴェーバーが、有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の論文を書いた時に、第1次資料を直接には十分参照せず、 もっぱら2次資料やあるいは辞書の類だけを参照したと主張している。たとえば、ヴェーバーが英語の単語の"calling"(ドイツ語でBeruf)を調 べた時に、「ジュネーブ聖書」のようなオリジナルの英訳聖書を参照せずに、OEDのような辞書だけを参照したとしている。


羽入の主張はナンセンスに満ちており、多くの箇所で滑稽なのにもかかわらず、何人かの学者を含む多くの人々が、この本を非常に称賛した。日本のヴェーバー 研究者である折原浩氏は、この事態を非常に憂慮し、反論の書籍を出版した。さらに折原氏は、インターネット上のフォーラムに参加し、そこでさらに多くの論 考を発表した。私は、大学で折原氏よりヴェーバーについて教わったため、私もこのフォーラムに参加している。

私の関心は、


(1)マックス・ヴェーバーの時代、つまり19世紀末に、ハイデルベルク大学の図書館の水準はどの程度であったか。

当時の図書館の蔵書数はどのくらいであったか。その水準はたとえばベルリン大学のそれと比べて良かったのか悪かったのか。


(2)ハイデルベルク大学は神学部で有名である。その神学的研究は、英訳聖書の分野も十分カバーしていたのか。

質問は単純に言えば、マックス・ヴェーバーがここハイデルベルク大学で、16-17世紀のオリジナルの英訳聖書を参照できたのかどうかということ。

(2)シュルフター教授への説明資料

„Das Verbrechen von Max Weber“ wurde herausgegeben aus Minerva Verlag in Japan im September 2002. Der Autor hieß Tatsuro Hanyu, der in 1953 geboren ist und den Doktortitel der Ethik in 1995 an der Universität Tokyo bekam. Das Buch basiert auf seine Doktorarbeit „Quellenbehandlung Max Webers in der, ‚Protestantischen Ethik’“.


Das Buch besteht aus 4 Kapitel. Obwohl es Max Webers „Ethik“-Aufsatz behandelt, stellen die allen 4 Kapitel lediglich den ersten Teil des Ethikaufsatz als die Objekte der Forschungen. Nämlich, das erste Kapitel ist über die Quellenbehandlung für den Begriff „calling“ in den englischen Bibelübersetzungen. Das zweite Kapitel behandelt nun die Luthers übersetzungen der Bibel, besonders den „Beruf“ Begriff. Das dritte Kapitel ist über die Autobiographie von Franklin. Das letzte Kapitel handelt sich um den Geist des Kapitalismus und das Missverständnis [sic] von Hisao Otsuka (ein berühmter Weberforscher in Japan).


Der Autor zeigt kein Interesse für die hauptsächlichen Streitpunkte des Ethikaufsatzes , sondern er argumentiert nur, wie Max Weber die Quellen für seine Forschungen behandelte, oder ob er sich auf die ersten Stoffe der Forschungen in Wirklichkeit berief oder nicht. Hanyu behauptet, dass Weber in vielen Orten die ersten Stoffe nicht direkt nachgeschlagen habe, einmal weil er untreu gewesen habe, ein anderes Mal weil er die Leser betrügen möchte. Das Buch von Hanyu sei also, wie er behauptet, nicht die soziologischen, sondern die philologischen Forschungen.


Wenn wir sachlich eins nach dem anderen seine Standpunkte bestätigen, können wir fast allen Streitpunkten sehr leicht widersprechen. Also veröffentlichte Prof. Orihara einen Aufsatz für den Widerspruch im April 2003, und dann gab auch ein Buch im Dezember 2003 heraus. Trotz des richtigen Widerspruchs von Orihara, wurde das Buch von Hanyu sehr hoch gelobt von vielen Leuten, die die einigen Wissenschaftler enthalten, und auch viele „Genießmenschen“ in Japan hießen das Buch Willkommen eben als eine Art von „Krimi“. Das Buch hat schließlich eben einen Preis (Shichihei Yamamoto Preis - PHP Stiftung) bekommen. Der Hauptprüfer des Preises war Prof. Takeshi Yoro, ein sehr berühmter Anatom und der Autor des vielen Bestsellers vor kurzer Zeit in Japan.


Tsutomu Hashimoto, ein Assistenzprofessor an der Universität Hokkaido in Japan, hat eine „Homepage“ für die offenen, unparteiischen Disputationen zwischen Prof. Orihara und Hanyu, und auch für die freien Diskussionen zwischen den Forschern von Weber, im Januar 2004 vorbereitet. Dort kann man jetzt mehr als vierzig Beiträge, die circa 20 Aufsätzen von Orihara enthalten, finden. Von der Seite des Hanyus, aber, hat es bis jetzt keine Beiträge gegeben worden, ausschließlich eines Gesprächberichtes auf einer Zeitschrift „Voice“, die die PHP Stiftung auch publiziert. Der Bericht ist gar nicht wissenschaftlich, sondern sensationell und politisch.


(日本語訳)

「マックス・ヴェーバーの犯罪」は、2002年9月に日本でミネルバ書房より出版された。著者は羽入辰郎といい、1953年生まれで、1995年に東京大 学で倫理学の博士号を取得している。この本は羽入の博士号論文である"Quellenbehandlung Max Webers in der, ,Protestantischen Ethik’“に基づいている。


この本は4つの章から成っている。同書は、マックス・ヴェーバーの「倫理」論文を扱っているが、4つの章すべてが、倫理論文の前半部のみを研究の対象とし ている。つまり、第1章は、英語への聖書翻訳における、callingという概念についての資料の取り扱いについてである。第2章は、ルターの聖書翻 訳、特にBerufの概念を扱う。第3章は、フランクリンの自伝についてである。最後の章は、資本主義の精神と大塚久雄(日本の有名なヴェーバー学者)に よるその誤解[sic]を取り上げている。


この著者は、倫理論文の中心的な論点にはまったく興味を示さず、ただマックス・ヴェーバーがどのように研究のために資料を取り扱ったか、あるいはヴェー バーが研究にあたって実際に1次資料を参照したか否かだけを論じている。羽入はヴェーバーが多くの箇所で1次資料を直接参照しなかったと主張していて、そ れはある時はヴェーバーが誠実でなかったからであり、またある時はヴェーバーが読者をだまそうとしていたからだという。羽入の本はしたがって、本人が主張 するところによれば、社会学的な研究ではなく文献学的研究である。


羽入の主張する論点をザッハリヒに1つ1つ検証していくと、ほとんどすべての論点で簡単に反駁することができる。それ故、折原教授は2003年4月に反論 を発表し、さらに同年12月には書籍を公刊している。折原による正当な反論にもかかわらず、羽入本は何人かの学者を含む多くの人から非常に高く評価され、 また多くの日本の「享楽人」は、羽入書を一種の「推理小説」として歓迎した。同書はついには、ある賞(山本七平賞-PHP財団)を受賞することとなった。 その賞の選考委員代表は、有名な解剖学者で、最近たくさんのベストセラーの著者でもある養老孟司である。


北海道大学助教授の橋本努は、折原教授と羽入の間での議論のため、あるいはまたヴェーバー研究者の自由な議論の場として、公開の、中立的なホームページを 2004年1月に開設した。これまでに、40以上の論考が寄せられており、そのうち約20は折原教授からのものである。しかし、羽入の側からは、これまで に何の論考も寄せられていない。例外的に、VoiceというやはりPHP財団が主宰する雑誌の対談記事があるが、その内容はまったくもって学問的なもので はなく、扇情的で政治的なものである。


  前置きが長くなってしまいましたが、まずは、ハイデルベルク大学図書館を訪問した結果です。左の写真が大学図書館の正門ですが、ここを入った1Fの奥 にあ る情報センターで、上記(1)の質問票を見せたところ、質問の(1)には、司書の方が手元の本を見て即答してくれました。それによれば、ハイデルベルク大 学の蔵書数は、

1900年

大学図書館

約50,000冊


各研究所

不明

2004年

大学図書館

約350万冊


各研究所

約350万冊


とのことでした。(残念ながら、私のミスで、典拠資料の書名を聞き漏らしました。)

現在のハイデルベルク大学には図書館と各研究所を合計して実に700万冊もの蔵書があります。これはベルリンにあるドイツ国立図書館の500万冊を上回る 規模です。

  それに対し、1900年、つまりヴェーバーが倫理論文について研究を進めていた頃は、大学図書館だけしかわかりませんが、わずか現在の1/70の規模 の 蔵書数にすぎません。ちなみに、1999年時点でハイデルベルク大学の学生数が約28,000人であると、大 学を紹介するZDFのビデオでは言っています が、この数は、1889年にイェリネックがハイデルベルク大学に就任した時の、ハイデルベルク全体の人口と同じです。1)(現在のハイデルベルクの人口は約14万人です。)1900年頃の学生 数はわかりませんが、人口からして多くても2000~3000人程度ではないでしょうか。いずれにせよ、 ヴェーバー当時のハイデルベルク大学は、図書館の蔵書数から見て、今日に比べれば研究環境としてははるかに劣悪でした。なお、ベルリン大学との比較につい ては、ここでは情報を得ることが出来ませんでした。(比較のため、羽入氏の在籍する青森保健大学の附属図書館の蔵書数は同校のHPにある資料によると、2001年7月時点で55,000冊であり、1900年当時のハイデルベルク大学図書館よりも蔵書が多くなっています。羽入氏はどこかで、青森保健大学の図書館に資料が少ないので反論ができない、と語っていましたが、これはしてはいけない言い訳の見本でしょう。)


  2番目の質問である、ハイデルベルク大学図書館における、英訳聖書についてですが、それについては"Abteilung Handschriften und Alte Drucke"(手稿本と古い印刷本の書庫)に行け、と言われました。(こう書くと何かたらい回しされているような印象を持たれるかも知れません が、そん なことはなく、日本からわざわざやってきた物好きの部外者に、ハイデルベルクで会った方々は例外なくとても親切でした。私の古巣の東京大学図書館では、ま ずメールや電話で問い合わせ・申し込みをしてからでないと、部外者は中に入れてくれさえしないようです。なんという違い!)上記のAbteilungに行 き、そこの司書の人と話しました。即座に、英訳聖書に関しては"nur wenig"(ほとんどない)という回答でした。蔵書カタログを見た方がいいと言われ、その司書の人が、カタログコーナーまで連れて行ってくれて、該当の 巻まで出してくれました。それが右の写真です。


  そのカタログを検索した結果が以下の通りで、蔵書350万冊を誇る現在のハイデルベルク大学図書館でも、英訳聖書の蔵書カードはわずか11種しかあり ませんでした。


1. Coverdale 聖書1535年のファクシミリ版 1975年出版

2. Geneva 聖書1560年のファクシミリ版 1969年出版

3. 1599年London Christph. Bakrer版英訳聖書、四つ折り版

1659年8月、同出版社版

4. 欽定訳聖書1611年版 1903年ロンドン出版

5. 英訳聖書 ロンドン1659年John Field and Henry Hills出版

6. 聖書(たぶん欽定訳)1612年、The Book of common prayer 1611年ロンドン、Rob. Parker出版

 (たぶんRobert Barker の間違い)

7. 英訳聖書、1717年オックスフォード

8. 英訳聖書、1746年ライプチヒ

9. 英訳聖書、1804年ロンドン(ケンブリッジ1804年、ロンドン1814年)

10. 英訳聖書、欽定訳、1823年ケンブリッジ

11. 英訳聖書、1855年ニューヨーク



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(蔵書カードの写真はクリックすればより大きなサイズで表示されます。)



  上記の蔵書状況から見て、ヴェーバーの時代に、オリジナルの英訳聖書を見ることは、羽入氏が脚色気味に書いているように、研究者なら見て当然といった ものではなく、それを見ること自体が非常に困難であった、ということが窺えます。現在ではファクシミリ版(本物そっくりに複製して出版したもの)が存在し ていますが、1900年当時そんなものはありませんでした。


  ということで、当初の目的である、ヴェーバー当時の研究環境を推定するという意味では、ほぼ予想通りの結果を得ることができました。しかしながら、話 はここでは終わらず、思いがけない展開を見せます。カードの中の、3番、1599年Christph. Barker版というのが、引っかかりました。この聖書はこれまでの調査では1度もお目にかかっていないものです。しかも、1599年というのはエリザベ ス女王の治世です。筆 者の前稿では、「コリントⅠ 7.20を"vocation"と訳したもう一つの例外聖書とはどの聖書か」という問題の解決を保留としましたが、どうやらここに「導きの糸 Leitfaden」が現れたようです。


 日本に戻ってから、以前入手していた、Alfred W. Pollardの"RECORDS OF THE ENGLISH BIBLE"2)を改め て調べました。この書籍は、田川建三氏の本3)の 中で、「聖書の英語訳の歴史について標準の教科書」として紹介されているものです。それに よれば、Christph. Barker は、正確には Christopher Barker で、エリザベス女王の時代に、王室の聖書を含む各種印刷物の印刷を独占した出版商兼印刷屋です。その息子が、Robert Barkerで、欽定訳の印刷はこの息子の手によるものです。息子の方は、後に有名な「姦淫聖書」という誤植事件(モーセの十戒の「汝姦淫するなかれ」の notを落として「汝姦淫せよ」にしてしまったもの)を引き起こし、その罰金が払えず刑死します。4)このPollardの本の中に、父親のBarkerの方 が、1575年6月9日に、Juggeという別の印刷商(Barkerの前に権利を持っていた)にあてて、王室向けの印刷の独占権を得ることができたこと についての感謝状(Barker's satisfaction to Jugge)が収録されています。その一部を画像で紹介します。(Pollardの正確な没年は不明ですが、{編集}著作権=没後50年、は切れていると 判断して います。)


  


Barker(父)はここで、王室向け聖書として2種類の聖書の印刷独占権を得たと言っています。1つは、いわゆるジュネーブ聖書1560年版です。もう 一つ が、フランスの同じく印刷商である、Thomas Vautrolierが権利を持っている、「ラテン語から訳された英訳聖書」です。この1575年というタイミングでは、まだランス・ドゥエのカトリック 訳聖書は存在していません。これこそまさにヴェーバーの言う、「エリザベス朝のイギリス国教会の宮廷用聖書(複数)」でしょう。エリザベスは、 Barkerに、色々な国教会の儀式用に、大きさや装丁を変えた多種の聖書を印刷させているようです。その意味で複数になっているものと思われます。な お、ハイデルベルク大学の1599年のBarker版聖書が、ジュネーブ聖書とラテン語からの英訳のどちらなのかは、現物を見ていないのでわかりません が、タイトルから見て、ジュネーブ聖書とは異なるものである可能性が高いと判断しています。また例の箇所の訳語が"vocation"になっていること を、帰国後ハイデルベルク大学図書館にメールで再問い合わせして確認しました。


  「エリザベス朝のイギリス国教会の宮廷用聖書(複数)」がこのBarker版のラテン語からの英訳聖書である、というのをより明証性の高い仮説として 再提示します。筆者による前回のファルク本仮説は取り下げます。なお、折原論考の「「末 人」の跳梁 ――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(1-2)」で折原氏は「つまり、「エリザベス時代の英国国教会宮廷用聖書[複数]」とは、公刊された聖 書ではな く、エリザベスⅠ世が、国教会の統一公認聖書の編纂をめざしながら、数種つくらせて宮廷で使って試していた、いわば宮廷私家版の聖書ではあるまいか。」と いう仮説を提示されていますが、この仮説が正解に近かったことになります。なお、羽入氏は「……この恐るべき『ジュネーヴ聖書』を『エリザベス女王時代の 英国国教会の宮廷用聖書』と呼び、またカトリック聖書と並べて『ヴルガータにならって再び“vocation”に戻っている』などと称するのはほとんど考 えがたい錯誤なのであるが」と書いていますが、事実は、上記のBarkerの手紙にもあるように「王室御用達」の印刷商が、ジュネーブ聖書を大量に印刷し ていたのであり、おそらくはその一部は宮廷でも使用されたものと考えられます。また、ついでに言っておけば、ジュネーブ聖書自体も、1576年に、 Lawrence Tomsonによる改訂版が出版されています。5) 1557年版ジュネーブ新約聖書をジュネーブ聖書ではない別物として区別する羽入氏の立場なら、このTomson版も当然別のものとし て扱うべきであり、そうすると「エリザベス朝時代(1558-1603)には新たな聖書は三種類しか出されていない。」という羽入氏の主張はそこでも自己 矛盾を起 こしてしまいます。いずれにせよ、1次文献を十分調査していないのは、ヴェーバーでなく羽入氏の方であるのは明らかです。


 結論として、

(1) ヴェーバーは蔵書5万冊という当時のハイデルベルクの今日に比較すれば劣悪な研究環境で研究を進めており

(2) さらに当時は、英訳聖書のオリジナルを見ることは非常に困難で

(3) それにも関わらず、今日の聖書学者ですらほとんど参照していないような王室専用の聖書の類まで調査しており

(4) 当然のことながら、OED以外の英訳聖書の資料も参照している(OEDの文献表にも、本文中にもこの「Barker版のラテン語からの英訳聖書」は載って いません)

ということが言えるかと思います。我々は、この「知の巨人」にもう一度帽子を取って敬意を表すべきでしょう。


  次にシュルフター教授との面会についてです。教授は学生との面談が詰 まっているお忙しい中、1時間ほどの時間を割いてくださいました。この場を借りて改めて感謝申し上げます。

残念ながらドイツ語の聞き取り力もかなり落ちていたので、教授の話されることの半分くらいしか把握できていませんでした。そこで、帰国後、私なりに聞き 取ったことを以下のようにまとめて、再確認をお願いしました。


・研究者はすべての1次文献を参照することなど、まず不可能であり、そのことで誰もヴェーバーを非難することはできない。

・またヴェーバーの資料の扱い方は、あくまで彼の関心に沿った一面的なとらえ方であるが、そのことは彼自身がきちんと説明しているし、それを問題視するの は 間違いだ。

・羽入氏の論文は社会学雑誌に載っていたのを記憶はしている。羽入論文を採用した雑誌の編集部に問題があると思う。

・ヴェーバーが倫理論文を書いていたころは、彼は大学を休職していたし、ハイデルベルクを離れてマリアンネとイタリアを旅していたりした。したがってハイ デルベルク大学の研究環 境=倫理論文の研究環境でないことには注意すべきだろう。

・書籍による研究よりも、ヴェーバーにとっては、当時のハイデルベルク大学のE・トレルチ他との「知的サークル」のつきあいが、研究環境としては重要だっ たで あろう。

・羽入本のようなものは、こちらが騒げば騒ぐほど、かえってその本を有名にしてしまうところがあって痛し痒しですね。

・倫理論文の文献については、マックス・プランク研究所のLehmannとMattisonが詳しい。まだ公にされたものはないが、必要なら問い合わせて みるといい。

(→これは帰国後の調査で、若干シュルフター教授の勘違いがあり、1993年に、Hartmut Lehmann and Guenther Roth,ed,Weber's Protestant Ethic-Origins,Evidence, Contexts, Cambridge Univ.Press, 1993 として公刊されていました。現在取り寄せ中です。)

・折原氏がこの論争で研究を妨げられていることはお気の毒です。


それに対し、教授が改めてコメントを加え訂正していただいたのが、下記のメールです。(2004年10月9日受信)


Sehr geehrter Herr Takashi,


ich danke Ihnen für Ihre Mitteilung über das Ergebnis Ihres Besuches an der Universität Heidelberg, möchte aber zur Klarstellung unseres Gesprächs Folgendes bemerken:


1. Man muss zwischen "Betrug" und "Irrtum" unterscheiden. Betrug liegt dann vor, wenn ein Autor vorsätzlich Quellen fälscht oder seine Leser in anderer Weise bewusst hinters Licht führt. Ein Irrtum liegt dann vor, wenn ein Autor Quellen falsch interpretiert oder aber für sein Thema wichtige Quellen übersieht. Irrtümer unterlaufen allen Wissenschaftlern, deshalb ist der wissenschaftliche Fortschritt abhängig von dem Wechselspiel zwischen Vermutung und Widerlegung (conjections und refutations). Dass ein Autor eine Auffassung vertritt, die sich später als irrtümlich erweist, ist das Normalste in der Wissenschaft. Dass man zwischen Betrug und Irrtum zu unterscheiden weiß, gehört zu den elementarsten Kenntnissen eines jeden ernstzunehmenden Forschers. Dass dies der von Ihnen kritisierte Autor offenbar nicht weiß, spricht nicht gerade für ihn.


2. Weber hat gegenüber den Narrativisten in der Geschichtswissenschaft, also gegenüber jenen, die glaubten, man könne vollständige Beschreibungen in Gestalt von Erzählungen geben, in aller Schärfe betont, dass wissenschaftliche Erkenntnisse auch in der Geschichtswissenschaft nur unter speziellen einseitigen Gesichtspunkten möglich sind, die durch Wertbeziehungen konstituiert werden. In diesem Sinne verstand er seine Studie über den asketischen Protestantismus von Beginn an als einseitig. Diese Einseitigkeit schlägt sich natürlich auch in der Auswahl des Stoffes nieder. Dies nicht zu berücksichtigen zeigt, dass derjenige, der dies als Kritikpunkt ins Feld führt, die Webersche Methode nicht verstanden hat.


3. In der Zeit von 1898/99 bis zu Beginn des Jahres 1904, in der Max Weber aufgrund gesundheitlicher Probleme praktisch arbeitsunfähig war, hielt er sich immer wieder außerhalb Heidelbergs auf, u.a. nahezu ein ganzes Jahr, zusammen mit seiner Frau, in Italien. Es ist deshalb völlig unklar, wann er welche Bücher für welche Forschungsinteressen las und vor allem, wo er dies tat. Zudem liegt zwischen der Veröffentlichung des 1. Teils der Protestantismusstudie und dem 2. Teil seine Amerikareise, die er nicht zuletzt dazu benutzte, auch Literatur für den noch nicht veröffentlichten Teil in mehreren College-Bibliotheken einzusehen. Man muss also bei der Frage, welche Quellen er tatsächlich im Original benutzte, vorsichtig sein.


4. Niemand, der eine größere, zumal vergleichende Studie schreibt, ist in der Lage, nur Quellen aus erster Hand zu benutzen. Immer ist man auch auf Gesamtdarstellungen anderer angewiesen. Dies galt auch für Weber, etwa wenn er sich auf Gesamtdarstellungen von Theologen stützte. Zudem gab es in Heidelberg schon vor der Jahrhundertwende einen regen intellektuellen Austausch, z.B. zwischen Ernst Troeltsch, Georg Jellinek und Max Weber, der sich dann nach der Jahrhundertwende durch die Gründung des Eranoskreises noch verdichtete. Auch dies muss man, wenn man die Weberschen Studien richtig einschätzen will, berücksichtigen.


5. Die Historisch-kritische Max Weber-Gesamtausgabe wird demnächst die ursprüngliche Studie über die Protestantische Ethik zusammen mit den Antikritiken in einer kommentierten Ausgabe präsentieren. Dabei wird in jedem einzelnen Fall nachgewiesen, auf welche Quellen sich Max Weber stützte.

Ich bin ziemlich sicher, dass sich dann der Angriff des japanischen Kollegen auf die wissenschaftliche Seriousität Webers als völlig abwegig erweisen wird.


Ich wäre Ihnen sehr verbunden, wenn Sie Ihre Mitteilungen auf der Homepage entsprechend korrigierten.


Mit freundlichen Grüßen

Ihr Wolfgang Schluchter


P.S. Der Aufsatz von Herrn H., den Sie mir zeigten, wurde in der Zeitschrift für Soziologie veröffentlicht, nachdem er von der Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie abgelehnt worden war, Die Zeitschrift für Soziologie ist aber eine seriöse Zeitschrift, die den Aufsatz immerhin so interessant fand, dass sie sich für die Publikation entschied. Wir fanden dies nicht!


(日本語訳:文責は筆者)


親愛なるタカシ、


ハイデルベルク大学訪問の成果について連絡していただき感謝します。ただ、我々が話したことを明確にするために、次のようにコメントします。


1. 「虚偽」と「誤謬」は区別しなければいけません。「虚偽」とは、著者が故意に資料を改竄するかあるいは読者がその資料を間違って理解するように導くことで す。それに対し「誤謬」とは、著者が資料を間違って解釈するか、あるいはその著者のテーマにとって重要な資料を見逃すことです。誤謬はすべての研究者が経 験することであり、それ故に学術というのは、推論とそれに対する反駁(英語の conjection と refutations)の繰り返しによって進んでいきます。ある著者がある見解を支持し、後にそれが誤りと証明されること、これは学術の世界では日常的 なことです。虚偽と誤謬の違いを理解することは、真剣に学問に取り組む研究者の、基本的な知識の一つです。あなたが批判している著者が、このことを明らか に理解していないのであれば、なにをか言わんや、です。


2. ヴェーバーは、歴史学者の中の記述主義者、つまりある歴史個体の完全な叙述というものが可能であると信じている者に対し、次のような辛辣な批判を加えてい ます。つまり、科学的な認識というものは、歴史学においてもまた、ある特別な一面的な重み付けによってのみ可能になるのであり、その重み付けはさまざまな 価値の相互関係によって作り出されているのであると。この意味において、ヴェーバーは彼の禁欲的プロテスタンティズムについての研究を最初から一面的だと 理解していました。こういった一面性は、当然の事ながら、資料の選択においても現れてきています。ヴェーバーの方法論を理解せず、こうした批判を持ち出す 人には、これらの事情を考慮すべきことがわかっていないのです。


3.1898、99年から1904年の初めまで、つまりマックス・ヴェーバーが健康上の問題で事実上働くことができなかった時、彼は再三再四ハイデルベル クを留守にしています。特にほぼ1年近く妻のマリアンネと一緒に、イタリアに滞在しています。それ故、いつ、どんな書籍をどのような研究上の関心で彼が読ん だのかは、まったくもって不明であるし、とりわけどこでそれをしたかは全然わかりません。さらには、プロテスタンティズム研究の第1部と第2部の出版の間 に、彼はアメリカを旅しています。ヴェーバーはその旅において、まだ公刊されていなかった研究のために、多数の(アメリカの)大学図書館を訪問し、そこの 資料を調査し活用しています。これらの事情から、ヴェーバーが最初にどのような資料を利用したのかという問いに対しては、慎重であるべきです。


4.範囲の広い、とりわけ比較(文化、社会)的な研究書を書く者にとって、すべての資料を直接に利用することなど不可能です。そういった研究では、常に他 人の手による概説的な叙述に頼ってきました。このことはヴェーバーにもあてはまり、例えば、神学者による概説書に依拠したりしています。それに加えて、ハ イデルベルクでは、20世紀が始まる前に既に、エルンスト・トレルチ、ゲオルグ・イェリネックそしてマックス・ヴェーバーの間での活発な知的交流が行われ ていました。それは20世紀になってから、エラノス・サークルの創立という形でさらに発展したものとなりました。こういった事実も、ヴェーバーの研究を正 当に評価する時は、考慮すべきです。


5.歴史的な史料批判が加えられたマックス・ヴェーバーの全著作が、批判に対する反批判の注釈付きで、もうすぐ出版され、その中でプロテスタンティズムの 倫理に関しての、萌芽的な研究について明らかにされるでしょう。その中では、すべての個々の事例について、ヴェーバーがどのような資料に依拠したかが検証 されるでしょう。私は日本の研究者による、ヴェーバーの学問上の真摯さに対する攻撃が、それによって、まったく的外れなものであると証明されることを確信 しています。


上記のように、あなたのホームページ上での報告を訂正していただけると幸甚です。


敬具


ヴォルフガング・シュルフター


p.s.

あなたが教えてくれた羽入氏の(ドイツ語)論文は、「社会学雑誌」に掲載されました。彼はまず「ケルン社会学・社会心理学雑誌」に原稿を持ち込んで掲 載を断られ、その後「社会学雑誌」に持ち込んだものです。「社会学雑誌」はとはいえまともな雑誌ですが、その論文をともかくは興味深いと判断し、掲載を決定したの でしょう。我々はそうは思っていませんが。


(大学訪問時だけでなく、上記のように詳細な補足説明まで寄稿していただいたシュルフター教授に、改めてここに厚く謝意を表する次第です。)

  最後に、帰りの飛行機の中で見つけた、思いがけない「資料」について 報告して、私の論考を終わります。 PHP研究所の「山本七平賞」の審査員代表である、養老孟司氏のエッセイです。なんと、成田に着陸寸前に、偶然手に取ったJALの機内誌SKYWARDの 2004年9月号にそれは載っていました。その、「人に『教える』ということ」というエッセイによると、マックス・ヴェーバーは「学界の定説でな いことは、 教壇で話してはいけない」と説いているそうで、それについて養老氏は、昔のドイツはそうだったのか、とずいぶん引っかかったのだそうです。それでヴェー バーの考え方に反撃を加えた[sic]羽入本を読んで痛快だったのだそうです。つまり、養老氏の直感的疑問が当たっていた、ということらしいです。

  山本七平賞をもらった側ももらった側ですが、賞を出す側も出す側で、その低い知的水準を見事に暴露したエッセイでした。これをたまたまドイツ帰りの飛 行 機の中で発見するとは、まさに「天網恢々」なのかもしれません。(私もフランクリンなみに、天啓や摂理というものの存在を信じるようになってきました。 {笑})ここを読まれている方には、言うまでもないでしょうが、ヴェーバーは「学界の定説でないこ とは、教壇で話してはいけない」などとは、一度も言っていません。ヴェーバーは、当時の講壇社会主義者の連中が、大学の教授という強い立場を利用して、学 生 に自分の政治的信条を説くのを厳しく批判しました。このことを養老氏は誤解したものと思われます。(1)ヴェーバーが書いたものを自分勝手に誤解し(2) なおかつそのことでルサンチマン感情を抱き(3)その感情を羽入本のデタラメな内容で癒す、という意味で、養老氏も羽入氏とまったく同類だと思われます。 しかも、社会科学の理解、と言う意味ではさらに低レベルです。おそらく大学の一般教養の社会学で、こんな内容の期末レポートを書いても、まず単位をもら えないでしょう。ほとんど紹介する価値もないエッセイでしたが、羽入サイドからの反応として貴重は貴重なので、あえて本論考の末尾で紹介した次第です。


以上

脚注

1) F・W・グラーフ、「ハイデルベル クにおけるアングロサクソン研究の伝統」、聖学院大学出版会、深井智朗、F・W・グラーフ編著「ヴェーバー・トレルチ・イェリネック ハイデルベルクにお けるアングロサクソン研究の伝 統」、 2001年に収録を参照。

2) Alfred W. Pollard, "Records of the Englsih Bible, the documents relating to the translation and publication of the bible in English, 1525-1611",Oxford University Press, 1911

Reprint: Wipf and Stock Publishers, 2001

3) 田川建三、「書物としての新約聖書」、勁草書房、1997年

4) Barker親子については、”Robert Barker, Printer to Queen Elizabeth I”などを参照。

5) "The Geneva Bible" を参照。


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(2-3)」

2004年10月12日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(2-3)

折原 浩


2004年10月12日

(承前)「アポリア回避」の捏造

 前々稿「批判結語(2-1)」、前稿「同(2-2)」で論証したとおり、羽入書第二章第一節「“Beruf”をめぐるアポリア」では、「倫理」論文第一章「問題提起」第二節「資本主義の『精神』」第7段落に付された(『箴言』22: 29の訳語にかんする参照指示の)小注が、「倫理」論文の「全論証にとって要」をなし、そこに「アポリア」が潜み、同第一章第三節「ルターの職業観」第1段落に付された「脚注の腫瘍」(「トポス」としての“Beruf”語義史にかかわる注3)も、当の「アポリアを回避するために」書かれた、との憶説が、petitio principii[結論を前提とする]論法で、「倫理」論文テクストの読み落とし/恣意的限定/意味のすり替えなど、いくえにも過誤を重ねながら、開陳されていた。「倫理」論文の「要」が、なんと、本論にも入らない「問題提起」章の、注と注との狭間にある、というのである。羽入は、これにつづく第二節を、「ヴェーバーによるアポリアの回避」と題し、「脚注の腫瘍」に立ち入って、当の「回避」を「立証」しようとする。

 ところで、当の「アポリア」そのものが、虚構と彼我混濁の産物であってみれば、その「解決」も「回避」も、「回避」の「立証」も、虚空を彷徨う迷妄にすぎず、本来は反論に値しないといえよう。羽入書第二章への批判は、当の「アポリア」を虚構として暴露した前稿で、すでに完結し、それ以上の縷説は要らざる徒労とも思われよう。しかしここでは、念のため、虚構の「まぐれ当たり」というなおありうべき期待に止めを刺し、それと同時に、むしろ羽入が、「アポリア」を虚構のうえ、その「回避」を「立証」する「ためにする議論」で、さらに虚構を重ねいかに無理なテクスト解釈と事柄の歪曲に踏み込まざるをえないか、虚構の「果報」連鎖を最後まで見届け、羽入書をそれだけ「反面教材」として活用するとしよう。


10. 『シラ』句へのBeruf適用は、奇妙な思い違いか?――「まとめ」の形を借りたバイアスと意味変換

 羽入は、前稿でも触れたとおり、第二節を「前述のアポリアを回避するためのヴェーバーの議論が始まるのは、“Beruf”-概念に関する注の第二段落目からである」(71)と書き出し、ここでもいきなり第2段落に短絡する。問題の「脚注の腫瘍」(第1段落注3)を構成する全六段につき、段の論点と論旨の展開を、本文との関連において、まずは全体として概観[1]、そこで原著者ヴェーバーがなにを論証しようとしているのか、対象に即して具体的に見きわめようとはしない。つまり、学問として不可欠の手続きを採っていない。それはちょうど、「倫理」論文の全篇を読み解いて、その「全論証構造」を具体的に再構成することなく、主題がなんであるかを確かめることもせず、(「資本主義の精神」に「含み込まれる」)「職業義務」思想の歴史的起源を求めて、ルターひとりの(「職業思想」でなく)“Beruf”論に(「意味(因果)属」でなく、「語形合わせ」の意味で)「遡る」ことが、「全論証にとって要をなす」と決めてかかり、(『箴言』句引用注のような)微小部分に短絡したのと、まったく同様である。ここでも、「木を見て森を見ない」のでは「木も見えない」という教訓が引き出されよう。

 さて、その注3第2段落から、羽入はまず、ルターにおける語“Beruf”の用法をヴェーバーが二種に類別している箇所を抜き出し、「ヴェーバーの主張」をつぎのように「まとめて」いる。

引用⒈「ここでのヴェーバーの主張をまとめてしまえば次のようになろう。ルターは、本来は純粋に宗教的な概念』だけに用いられるはずであった“Beruf”という訳語を『ベン・シラの知恵』11: 20, 21における二つのギリシャ語ergon (……)とponos(……)とを訳す際にも、この二つのギリシャ語は純粋に世俗的な意味しか持っていなかったにもかかわらず、用いてしまった[!?]。言い換えるならばルターは、元来は『世俗的職業』という意味しか含んでいなかった二つのギリシャ語ergonとponosに対して、奇妙なことにも[!?]、純粋に宗教的な概念だけに普通は用いられるはずだった訳語“Beruf”をすっぽりとかぶせてしまった[!?]のである。『世俗的職業』の意味しか持たぬ語に純粋に宗教的概念にのみ用いられてきた訳語をかぶせてしまった[!?]こと、こうしたルターのこの言わば意訳から、宗教的な観念ばかりか『世俗的職業』という意味をも含み入れた、あのプロテスタンティズムに特有の“Beruf”という表現が生まれたのであり、そして正にこれこそがルターの創造であったのである、と。」[2](72)

 羽入は、この文章を、「ヴェーバーの主張」の「まとめ」と称し、そのつもりで書いている。しかし、ここですでに、羽入のバイアスがかけられ、ヴェーバーの叙述を構成している語群(「遺物」)が、羽入のコンテクスト(「配置構成図」)に移し入れられ、「意味変換」をとげている。すなわち、羽入はなるほど、ルターの「言わば意訳」とも表記しているが、それがどういう意味の「意訳」なのか、宗教改革者ルターのいかなる思想にもとづく、いかなる内的必然性に支えられた「意訳」なのか、とは問おうとしない。むしろルターが、なにか「奇妙な」「思い違い」あるいは「ことの弾み」で、語“Beruf”の「本来」の用法から「逸脱」し、語“Beruf”を『シラ』11: 20, 21のergonとponosにも当ててしまった(とヴェーバーが解している)かのように、語っている。ヴェーバー自身は、この「意訳」を、宗教改革思想にもとづく主体的な――内的必然性をそなえた――訳語選択と考え、だからこそ、本文では「翻訳者の精神に由来する」と表記し、第2段落以下で、当の宗教改革思想を、とくに職業観に焦点を合わせて、詳細に論じているのである。むしろ、当の第2段落以下を視野から逸している羽入が、『シラ』における「意訳」を、思想との結合関係から切り離して、「思い違い」ないし「ことの弾み」と解し、そのようないわば没意味的偶発事として貶価しようとしているのではないか。


 

11. 没意味的偶然としてのBeruf語義創造?――『シラ』句貶価への助走

 つぎに羽入は、こんどはいきなり注3第3段落の末尾に飛び、二種用法の架橋問題、すなわち「一見まったく相異なる二種の用語法を『橋渡し』しているのは、『コリントⅠ』中の章句とその翻訳die Stelle im ersten Korintherbrief und ihre Uebersetzung である」(GAzRS, I, 67, 大塚訳、104、梶山訳/安藤編、74)という論点を取り上げる。しかしここで、ヴェーバー自身は、この引用のとおり「『コリントⅠ』中の章句とその翻訳」と明記したうえ、つぎの第4段落冒頭で「現在普及している諸版ではin den üblichen modernen Ausgaben」と明示的に断りわざわざ7: 17~31のコンテクストをほとんど逐語的に引用している。ところが、羽入は、ここでもやはり、ヴェーバー自身によるコンテクストへの着目/参照指示の意味を、当のコンテクストの意味内容に立ち入って考えようとはせず、「ヴェーバーによってここで言及されている箇所とは7: 20節のことであ」ると速断する。そして、ヴェーバーが「ルター自身は、(「現在普及している諸版」では確かにBerufと訳されている)7: 20の原語klēsisを、1523年の釈義ではBeruf でなくRufと訳し、『身分Stand』と解していた」と主張している事実を、みずから認めながら、つぎのようにいう。

引用⒉「さて、ヴェーバーが“Beruf”-概念の成立史に関する自らの立論にとって決定的な主張を持ち出すのは正にこの次である。

 ルターが『コリントⅠ』7: 20の“身分”という意味を含んだ、したがって、純粋に宗教的な元来の概念からはすでにいささか逸脱していたこの“klēsis”をも、純粋に宗教的な観念しか含んでいなかったパウロ的な“klēsis”と全く同様に“Beruf”と訳してしまった[!?]というこの事態は、今度は訳した当人であるはずのルター自身に逆に影響を与えてしまい、さきほどの『コリントⅠ』7: 20における『各人は各人の現在の身分[sic]Standeに留まるべきである』という『終末論的に動機付けられた勧告』と、他方では『各人はその仕事に留まれ、という伝統主義的かつ反貨殖主義的に動機付けられた「ベン・シラの知恵」における勧告』とで、ただ[!?]双方の『勧告が事柄として似ているということだけ[!?]から』(……)、元来は『労苦Mühsal』(……)をしか意味しなかったはずの後者の『ベン・シラの知恵』11: 21における純粋に世俗的な“ponos”という表現までも、『同様に“Beruf”と訳す』(……)に至らせた、と。より端的に言うならば、ルターは『コリントⅠ』7: 20で自分が行った訳に引きずられて[!?]『ベン・シラの知恵』11: 21の“ponos”をも“Beruf”と訳してしまった[!?]のである、と。」(74)

 この晦渋な一節は、羽入のバイアスを、それなりにはっきりと示している。すなわち、羽入は、ルターが、やはりなんらかの「思い違い」ないし「ことの弾み」で、まず『コリントⅠ』7: 20の“klēsis”を“Beruf”と「訳してしまい」、これが「今度は訳した当人であるはずのルター自身に逆に影響を与えてしまった、あるいはルターが、「『コリントⅠ』7: 20で自分が行った訳に引きずられて」、たんなる「事柄としての類似」だけから、『ベン・シラの知恵』11: 21の“ponos”までも、“Beruf”と「訳してしまった」(とヴェーバーが主張している)かのように記している。いうなれば、羽入は、翻訳者(のひとりルター)の精神における語義創始を、なにかビリヤード場で、突き手ルターの気まぐれから打ち出された「Beruf玉」が、たまたま『コリントⅠ』7: 20の「klēsis玉」に当たり、跳ね返ってこんどは『シラ』11: 21の「ponos玉」にも当たったかのように、なにかそうした没意味的偶発事とヴェーバーが捉えていたかのように、解しているのである。なるほど、羽入は、終末論的勧告と伝統主義的勧告との「事柄としての類似」に言及はしている。しかし、当の「類似」の具体的意味内容を探り出し、それが『シラ』句へのBeruf適用とどういう意味関係にあるのか、――肝心のところを捉え、立ち入って論じようとはしない。むしろ、『シラ』におけるBerufの語義創造を、ルターにおける没意味的偶然に還元する方向で、先を急ぐかの風情である。

 しかし、立ち止まって考えてもみよう。まず、事柄として、宗教改革者として聖書の翻訳に心血を注いだルターともあろう者が、そういう「思い違い」ないし「ことの弾み」で、ponosにBerufを当て、“Beruf”第二種の語義を創始して「しまった」というようなことが、およそありうることであろうか。また、「意味」のカテゴリーを彫琢して歴史・社会科学に持ち込んだヴェーバーが、「翻訳者の精神における語義創始」を、なにかそうした没意味的偶然の所産と解し、注記ながらそうした解釈を公表するほど「杜撰」であった、というようなことが、これまたありえようか。そうした解釈はむしろ、ヴェーバーの方法を理解せず、「意味(因果)帰属」を「語形合わせ」にすり替えている羽入が、ヴェーバーの叙述をそうした没意味文献学の平面に無理やり移し替えようとして、いかんせん捉え損ねている実情を、はしなくも露呈しているだけではないのか。

 いまひとつ、羽入はここで、ルター自身が『コリントⅠ』7: 20の“klēsis”を“Beruf”と訳した、だから1523年釈義のRufから“Beruf”に改訳した、と(ヴェーバーが主張しているかのように)決めてかかっている。しかし、そうした判断の根拠は、いったいどこにあるのか。この点は、羽入による一連の主張を、ヴェーバー側の典拠と突き合わせて検討する後段で、改めて問題にするとしよう。


 

12. 『箴言』句は「全論証の要」、『シラ』句は「思い違い」――軽重関係の転倒?

 さて、羽入は、自分の要約した「ここまでのヴェーバーの論証」を、その「独創性」には留保を設けながらも、なぜか「巧妙で精緻」と認める。上記の「没意味的偶発事」論が、なんで「巧妙で精緻」なのか、筆者にはさっぱり分からないが。しかし、それはともかく、羽入は、「ここまでのヴェーバーの議論に関してはっきり確認しておくべきこと」(74-5)として、つぎのように述べる。いよいよここで、『箴言』句と『シラ』句との「軽重関係」が持ち出され、「アポリア回避」論も佳境に入るかのようである。

引用⒊「ここまでのヴェーバーの叙述によって明らかにされたことは、いかにして『ベン・シラの知恵』11: 20, 21(……)におけるルターによる“Beruf”という翻訳がプロテスタンティズムに特有なあの“Beruf”という語の始原となるに至ったか、ということだけに過ぎぬ[!?]、ということである。右の説明によってはいぜんとして一向に明らかにされていぬことは、『箴言』22: 29における“Geschäft”という訳語と『ベン・シラの知恵』11: 20, 21における“Beruf”という訳語との双方を前にして、一方では前者の『箴言』22: 29は『倫理』論文の全論証の構成にとって極めて重要な箇所である[!?]にもかかわらず、そして他方では、後者における“Beruf”という訳はそれに比すれば、双方の勧告が『事柄として似ていた』がためのルターの思い違い[!?]から生じた言わば、単なる誤訳[!?]、不適訳[!?]、あるいは少なくとも余りにも自由な意訳とみなすべきようなものであるに過ぎぬ[!?]にもかかわらず、なにがゆえに前者をあっさりと無視して後者を格別に重んずる[!?]ことがヴェーバーには許されるのか、ということである。」(75)

ここで、これまで引用⒈⒉の文言から否応なく生じてきた「没意味的偶発事」論という印象が、「ルターの思い違いから生じた……誤訳、不適訳、余りにも自由な[恣意的な]意訳」という羽入自身の明示的表記により、客観的に裏付けられた。それと同時に、羽入がヴェーバーの「主張」「論証」「議論」を逐語的に引用せず、むしろ羽入流の「まとめ」をもって代えようとするとき、羽入がなに抜き去り、代わりになに読み込もうとしているか、いい換えれば、「まとめ」に表明された羽入の解釈が、ヴェーバー自身の元来の主張からいかにずれてきているか、またそれはなにゆえであるか、――かれの意味変換操作とその動機が、いっそうはっきりしてきたようである。

 というのは、こうである。羽入のこの「確認」によれば、「脚注の腫瘍」は、“Beruf”の語源を『シラ』句の翻訳に遡行して説明するだけでは足りないらしい。それに加えて、というよりもむしろ、本来はもっぱら、『箴言』22: 29の翻訳に論及し、それがなぜBerufと改訳されず、Geschäftのままだったのかを説明しなければならないらしいのである。というのも、羽入には、(ルターの精神における「意味」を射程に入れて考えれば)当然の(ルターとフランクリン父子との間の)齟齬・不一致が、(「意味(因果)帰属」の「語形合わせ」へのすり替えによって)「アポリア」と感得されている。そして、彼我混濁のかれは、この「アポリア」をヴェーバーにも押しおよぼし、ヴェーバーもまた「アポリアを知悉して」、その「回避のために」こそ、この「脚注の腫瘍」を書いたと決めてかかっている。したがって、その羽入はヴェーバーもまた、そこで『箴言』22: 29の翻訳に論及せざるをえず、しかも死活を賭けて、(語形「一致」を証明して「解決」することができないからには)「詐術」ないし「狡い杜撰」の操作で「アポリア」を「回避」「隠蔽」し、それが明るみに出て「全論証の要」が崩壊する事態だけは避けようと、悪戦苦闘するにちがいない、他方、そうした「回避」「隠蔽」を暴露してヴェーバーの「詐術」ないし「狡い杜撰」を立証することこそ、自分の「使命」である、と信じて怪しまないからである。

 とすれば、そうした羽入にとっては、ヴェーバーが、『シラ』論と『箴言』論とに軽重をつけ、後者にこそ力点を置かなければならないはずなのに、逆に前者を重視し、「本末転倒」に陥っている、ということになろう。そこで羽入は、第一章ではあれほど『ベン・シラ』『ベン・シラ』と「唯『シラ』回路説」を復唱して、『シラ』句の「原発・本源」的意義を強調してやまなかったのに、ここでは一転して『シラ』句を「思い違い」の所産として貶価する。羽入にとっては、「目的のために手段を選ばず」、「相手を撃つためには自己矛盾も手段のうち」なのであろう。これもちょうど、羽入書第三章「フランクリンの『自伝』をめぐる資料操作」では、フランクリンによる「神」表記を真に受けてはならないと説きながら、第四章「『資本主義の精神』をめぐる資料操作」では、一転して「神」表記をみずから真に受けているのと、まったく同様である。羽入には、ヴェーバーがこの「脚注の腫瘍」を書いたのも、羽入の「アポリア」をヴェーバーも引き受けて「回避」するためであるから、ヴェーバーも、Geschäftのままだった『箴言』句そのものの意義をまるごと貶価して、フランクリン父子のBerufと一致しない「矛盾」「アポリア」を表に出すまいと、意義に乏しい『シラ』句を前面に押し出すことで、不一致を「隠蔽」し、「アポリア」を「回避」している、と映るのであろう。あるいは、そのように映し出そうとするのであろう。ことはすべて「アポリア」虚構の延長線上にあり、「脚注の腫瘍」が「アポリアを回避するために」書かれたから、そのためには『箴言』句の意義が貶価されなければならず、さらにそのためには『シラ』句の意義が強調されなければならない、という筋書きである。羽入は、ヴェーバーの「主張」を「まとめ」る形式を借りて、この羽入のストーリーを、ヴェーバーその人に帰そうとするのである。


13. 「軽重関係」から「時間的前後関係」へ――虚構のさらなる一展開

 こうして羽入は、プロテスタント諸民族の言語に特有のBeruf相当語の始源を、ルターの聖書翻訳に遡り、翻訳者の精神から説明するという(本文のコンテクストによって限定された)「脚注の腫瘍」の課題を、恣意的に踏み越え、もっぱら当の課題に捧げられているヴェーバーの議論を、『箴言』句と『シラ』句との軽重比較論という羽入のコンテクストに移し入れて、前者より後者を重視するヴェーバーの「論拠」を問い、つぎのように「要約」する。

引用⒋「ルターは旧約聖典に属する『箴言』の方を、外典に属する『ベン・シラの知恵』よりも『数年……』早く訳した。他方では、双方の翻訳の間に当たる期間にルターの信仰は深まっていった。こうしたルターの信仰の深まりというものは、――ヴェーバー自身の言葉で言い換えるならば、『三○年代の正に初頭に……高まってきた……秩序の神聖視』や『神の……摂理へのますます精緻化されてきた信仰』、そして『神の不変の意志によって望まれたものとして世俗の秩序を甘んじて受け入れようとする……傾向』といったものは――『ベン・シラの知恵』の翻訳において初めて[!?]現われたのであって、『箴言』を翻訳した際にはまだ[!?]現われていなかったのである。ルターが、『箴言』22: 29におけるヘブライ語のmelā’khā……を――それは『ベン・シラの知恵』11: 20のギリシャ語テキストにおける“ergon”という語の『原語に当たる』……のだが――このヘブライ語を『箴言』の翻訳の頃にはまだ[!?]“Geschäft”と訳していたのは、それゆえなのである。したがって、ルターの言葉遣いの研究に際しては、ルターの信仰の深まりがいまだ[!?]現われていぬ“Geschäft”という訳語は度外視して一向構わぬのである、と」(75-6)

 ここでも羽入は、字面では、ルターの訳語選択にかかわる思想的契機、すなわち、「秩序の神聖視/摂理観の個別精緻化/伝統主義」に言及はしている。しかし、ルターにおいてそうした思想傾向が強まるときに、『七十人訳』の原語としては同一の、『箴言』22: 29のergonと『シラ』11: 20のergonとの、双方にたいするルターの意味解釈/意味関係が、具体的にどう変わってくるか、とは問わない。したがって、『箴言』句のergon にはBerufを当てずにGeschäftで通し、『シラ』句についてはergon ばかりかponosにまでBeruf を当てるルターの内的思想的必然性が、理解できない。というよりも、およそ考えられない。羽入には、ルターは相変わらず、ビリヤード場における一「玉突き手」として措定されており、かれから繰り出された「Beruf玉」が『コリントI 』の「klēsis玉」から跳ね返って、『シラ』の「ergon玉」ばかりか「ponos玉」にも当たったからには、こんどはさらに『箴言』の「ergon玉」にも当たるはずで、それこそ「時間の問題」と感得されている。ことはすべて、没意味文献学徒の「語形合わせ」論の平面で進行するかのようである。

 しかし、じつは、原語の語形は同一のergonでも、『箴言』のコンテクストに置かれたばあいと、『シラ』のコンテクストに入れられたばあいとでは、(「玉突き手」ならぬ)特定の宗教改革者たる特定の主体ルターにとっては、けっして(羽入が暗に想定しているように)同義等価ではなく双方への意味的対応意味関係も、かれの思想変化につれて、理解説明可能な形で変遷をとげ、したがって各対応・関係の意味内容を理解説明することこそ、肝要である。ところが、没意味文献学徒の羽入は、こうした課題設定に、およそ思いいたらないし、ヴェーバーがまさにそうした課題を負って意味解明に沈潜している姿も、目に入らない。したがって、ルターが『シラ』11: 20, 21のergon/ponosにBerufを適用する経緯を、ルターの思想変化との関連において、ルターの思想的な訳語選択として(ヴェーバーが)説明しようとする文脈のなかで、ルターが同一語形のergonにBerufを適用しなかった『箴言』22: 29の用例を「数年前」つまり時間的に至近の対照例として(ヴェーバーが)引き合いに出すのはなぜか、――その方法上の意味が、羽入には理解できず、「時間的前後関係」に還元されるよりほかはないのである。

 羽入は、ルターが『箴言』を訳した1530年ころには、「秩序の神聖視/摂理観の個別精緻化/伝統主義」がまだ強く顕れなかったので『箴言』のergonにはBerufを当てなかったけれども、『シラ』を訳した1533年には、「伝統主義/摂理観の個別精緻化/伝統主義」が強まったので『シラ』のergonとponosにはBeruf を当てた――とすれば、1533年の『シラ』訳以降は同義等価の(と暗に想定されている)『箴言』22: 29にもBerufを当て、元のGeschäftからBerufへと改訳して当然である、いな、ぜひともそうしなければならない――、と信じて怪しまない。そうした想定のうえに、ルターがその後も『箴言』22: 29のergonにはBerufを当てず、Geschäftで通した事実を立証できれば、「『伝統主義/摂理観の個別精緻化/伝統主義』の強まりゆえに『シラ』のergonとponosにはBeruf を当てた」というヴェーバーの「説明」が「崩壊」する――ということは、フランクリン父子における『箴言』22: 29の訳語callingから、ルターのBerufに「遡る」(羽入流没意味文献学では「語形を合わせる」)ことができず、(18世紀のフランクリン父子と16世紀のルターについて常識があり、「倫理」論文をまっとうに読んでいさえすれば、しごく当然のことなのであるが、もっぱら語形に囚われて歴史も「倫理」論文の全内容も目に入らない羽入にとっては)「倫理」論文が「全論証の要」で「破産」することになる――、と考えられたのであろう。すべて、「『箴言』のergonと『シラ』のergon(とponos)とは、ルターにとって意味上同義等価で、時間的前後関係だけが問題である」という非現実的非歴史的想定を持ち込み、そうした虚偽前提のうえに展開される、架空の議論なのである。

さて、じっさいには、『箴言』のコンテクストでは、伝統主義的な神信頼を説く『シラ』のコンテクストとは異なり、「わざの巧みさ」が、伝統の介在制約ぬきに、フリーハンドで称揚されている。それゆえ、『箴言』句は、伝統の媒介なしにも、神から直接与えられた使命として(「神の道具」として)職業労働への専念を説く、たとえばバクスターら「禁欲的プロテスタンティズム」の徒には、それだけすんなり受け入れられ、愛好され、やがてはフランクリン父子のモットーともなっていく。しかし、同じくプロテスタンティズムといっても、「禁欲的プロテスタンティズム」とは異質で、むしろ対立する宗教性に生きたルターにとっては、『箴言』句は、それだけ「わざ誇り」を触発しやすい、なにか危うい句と感得されざるをえない。ルターは、「わざ誇り」をともなう「禁欲」を、神信頼の秘かな欠落ゆえに過度に人為に頼り、「神の無償の恩恵にたいする純一な恭順」(というルター的宗教性の中心価値)を脅かす、人為人間中心の「行為主義」として、思想的原則的に斥けてやまない。したがって、ルターは、それもかれが伝統主義に傾けば傾くほど、その『箴言』のergonにBerufを当てて宗教的意義を賦与することはできず、改訳を怠るどころか、思想的自覚的にGeschäftで通すほかはない。ただし、「わざに巧みな」を「わざに熱心な」に改めるのであれば、「わざ誇り」を撓める方向への思想的改変/語彙選定であるから、かれの宗教性の原則に悖らず、むしろ意味適合的で順当であろう。『箴言』句にかけては、こうした熟慮にもとづく意味的対応こそ、(「玉突き手」ならぬ)宗教改革者・思想家ルターの精神に相応しい。ところが、こうした意味関係とその変遷は、羽入流没意味文献学の射程を越え、羽入の顧慮には入ってこないであろう。


14. 『シラ』句改訳の状況と主体――理解社会学的再構成

  このあと羽入は、以上のいささか冗漫な「まとめ」を、さらに五つの論点に「まとめ」ている。そこで、それら五論点を、逐一、本物のヴェーバーの主張と突き合わせ、羽入の「意味変換操作」を暴いていかなければならない。しかし、そのまえに、ヴェーバー自身の関連叙述を、労を厭わず全文訳出し、引用しておきたい。というのも、この問題にかかわるヴェーバーの叙述は、一方では、事柄として重要で、ヴェーバー的方法の妙味がいかんなく発揮されている箇所ではあるが、他方では、確かに難解で、既訳では決定的な箇所に(羽入の恣意的ストーリーを誘発したと思われる)不適訳が散見されるからである。後段における参照の便宜上、に三分するが、原文ではひとつづきの五文章からなっている。

引用⒜「ところでルターは、各自が現在の状態Standにとどまれという、終末観を動機とする勧告のばあいに、klēsis をBeruf と訳していたのであるが、その後später、旧約外典を翻訳したときには、各自がその生業にとどまるのをよしとする、『シラ』の伝統主義的な反貨殖主義にもとづく勧告についても、すでにschon両勧告が事柄として類似しているという理由からも、ponosをBerufと訳し、この訳語が[受け入れられ、普及して]現在にいたっている。(これこそが、決定的かつ特徴的な点である。先に述べたとおり、『コリントⅠ』7: 17の箇所では、klēsisはおよそ『職業Beruf』、すなわち特定された仕事の領域、という今日の意味では用いられていない。)」(GAzRS, I, 68, 大塚訳、106、梶山訳/安藤編、143)

引用⒝「その間(あるいはほぼ同時に)1530年のアウグスブルク信仰告白が、プロテスタントの教理を確定し、カトリックの――世俗内道徳を貶価し、修道院実践によって凌駕すべしと説く――教理にたいして無効を宣していたが、そのさい『各人はそれぞれのBeruf に応じて』という言い回しが用いられていた(この点については前注2を見よ)。このこと[①]と、ちょうど1530年代の初葉、生活の隅々にもおよぶ、まったく個別的な神の摂理にたいするルターの信仰が、ますます鋭く精細に規定される形態をとるにいたった結果、各人の置かれている秩序を神聖なものとして尊重するかれの捉え方が、本質的に強まってきたこと[②]、それと同時に、世俗の秩序を、神が不変と欲したもうた秩序として受け入れようとするルターの[伝統主義的]傾向がますます顕著になったこと[③]、――これらのこと[①②③]が、ここ[『シラ』11: 20, 21]で、ルターの翻訳に現われているのである。」(GAzRS, I, 68, 大塚訳、106-7、梶山訳/安藤編、143-4)。

引用⒞「»Vocatio« は、ラテン語の伝来の用語法では、神聖な生活、とくに修道院における、あるいは聖職者としての生活への神の召しという意味に用いられていたが、ルターのばあいには、上記[プロテスタントの]教理の圧力によって、世俗内の『職業』労働が、そうした色調を帯びるようになった。というのも、ルターは、『ベン・シラの知恵』に見えるponosとergonを、それまでは修道士の翻訳に由来する(ラテン語の)類似語しかなかったので、いまや»Beruf«と訳すのであるが、数年前になおeinige Jahre vorher noch、『箴言』22: 29に見えるヘブライ語のmelā’khā――すなわち、『ベン・シラの知恵』のギリシャ語テクストに見えるergonの原語で、ドイツ語の »Beruf« や北欧語のkald, kallelseとまったく同様、聖職への»Beruf«[召し]に由来する語melā’khā――には、他の箇所(『創世記』39: 11)とまったく同様、»Geschäft«を当てて訳していたからである(『七十人訳』ではergon、公認ラテン語聖書ではopus、英訳聖書ではbusiness、北欧語やその他、わたしの手元にある翻訳はすべて、これと一致している)。」(GAzRS, I, 68, 大塚訳、107、梶山訳/安藤編、144)


15.「まとめ」の「まとめ」による意味変換――斬りつけやすい藁人形の定立

さて、そこで、ヴェーバー自身のこうした主張内容と照合しながら、羽入による「まとめ」の「まとめ」五項目を、逐一検討してみよう。

ルターは『コリントⅠ』7: 20における“身分”の意味を含んだ“klēsis”を“Beruf”と訳した。」(76)

 というようなことを、ヴェーバーはどこでも主張してはいない。羽入は、少し後の箇所で、「ルター訳聖書では『コリントⅠ』7: 20は“Ein jeglicher bleibe in dem Beruf, in dem er berufen ist”(AfSS: 39; RS: 67; 大塚訳105頁、梶山訳・安藤編142頁)と訳されている」(77)と述べているが、この箇所の「ルター訳聖書」とは、ヴェーバーがわざわざ明示的に断っている「現在普及している諸版」であって、ルター自身が独訳した聖書そのものではない。ヴェーバーはそこで、読者との「トポス」としてわざわざ「普及諸版」を用い、『コリントⅠ』7: 17~31のコンテクストをほぼ逐語的に引用して、そのなかでは7: 20のklēsisが、同一のコンテクストで具体的に論及されている「割礼/包皮別」「奴隷/自由人別」「未婚/既婚別」といった「種族的」「社会的」「配偶関係上」の「諸身分 statūs, Stände」を意味することができ、後に「普及諸版」では(別人によって)Berufと訳されてもおかしくはない(「客観的に可能な」)意味連関をなしている事実を、具象的に読者に伝えようとしたのであろう。ルター自身によっては『コリントⅠ』7: 20のklēsisが、少なくとも1523年の釈義ではRufと訳され、Berufと訳されていない事実は、ヴェーバー自身が明示的に述べ(GAzRS, I, 67, 大塚訳、105、梶山訳/安藤編、142-3)、羽入も認めていた(73)はずである。ルター自身の訳と「普及諸版」との混同に陥っているのは、いったいどちらなのか。

 なお、引用⒜に見える「各自が現在の状態にとどまれという、終末観を動機とする勧告」を、『コリントⅠ』7: 20を特定して指すと解釈する向きもあろうが、それは誤りであろう。「終末の日が迫ったいま、現世における状態(→地位、→身分、→職業)に思い煩うことなく、そこにとどまり、主の再臨を待て。それもあとほんのしばらく」という趣旨の「終末論」的勧告とは、使徒書簡一般の根本性格であるから、「そのばあいには、klēsis をBerufと訳していた」というそのBerufとは、第一種用法に該当する。たとえば『エフェソ』では[3]、「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられ」(新共同訳1: 10)る、という展望のもとに、四章では、「神から招かれたのですから、その招きklēsisにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい」(4: 1-2)、キリストは「ある人を使徒に、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされた」、「こうして聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされキリストの体を造り上げていきついにはわたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまでに成長する」(4: 11-12)、「キリストにより、体全体はあらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、みずから愛によって造り上げられてゆく」(16)と述べられ、それゆえ、五章では「妻と夫」、六章では「親と子」「奴隷と主人」が、(それぞれの状態地位身分status, Stand」にあって)キリストの戒めに忠実に生きるように、と説かれている。終末への展望のもとに、現世そのものには無関心ながら、「招きから生まれた信徒団ekklēsia」としては、そのなかにも持ち込まれざるをえない現世の身分的差等を覆すのではなく、さりとてそれに思い煩うのでもなく、それぞれの「分に応じて」「招き」に忠実に生きよ、という(「伝統主義」に通じる)一種の「有機体説的社会倫理」が定立されている、といってよいであろう。ヴェーバーは、ルターが「後に」『シラ』を訳したときには、「すでにこうした事柄としての類似から」、『エフェソ』他のklēsisに当てていた第一種用法のBerufを『シラ』のergonとponosにも当てることができたと主張しているのであろう。そうした「客観的可能性」が『シラ』句において実現されるあと一歩に必要な契機は、①「神の召し」による「状態・地位・身分」を「聖職者身分」への制限から「世俗的身分」一般に解き放つ、まさしく宗教改革としての「カトリック的世界像の打破」「聖職者道徳と在俗平信徒道徳との同等視」、②「世俗的身分」のみか「世俗的職業」をも「神の召し」と見る「摂理観の個別精緻化」、③その「世俗的職業」を、「神の摂理」として神聖視される伝統的秩序に編入し、その一環として捉える「伝統主義」でなくして、なんであろう。

初期における“Ruf”から“Beruf”へのルターの用語の揺れ(AfSS: 39; RS: 66; 大塚訳103頁、梶山訳・安藤編141頁)、及び、後者へと訳語が暫時[sic. 漸次?]確定していったプロセスを『コリントⅠ7: 20そのものが証している。」(76)

 というようなことも、ヴェーバーはどこでも主張してはいない。しかも、当の「用語の揺れ」とは、「以上見てきたヴェーバーの主張を……まとめ」ただけの確定済み論点ではなく、「まとめ」の形を借りて「既定事項」と見せかけながら、ここで初めて新たに導入された問題点である。その典拠には、羽入書ではこれまでいちども触れられたためしがなく、当然、検討されても確証されてもいない。羽入は、ここでもまた、いきなり第2段落に、こんどは遡って飛ぶ。そして、ヴェーバーが、ルター以前に、BerufでなくRufが「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語義で使われたことはないか、ルターがそうした用語法の影響を被ってはいないかを、『コリントⅠでなくエフェソにかんするタウラーの説教とタウラーとルターの関係について検証しているコンテクストから、「ルターの言葉遣いは最初の内は(Werke, Erl. Ausg. 51, S. 51を見よ)Ruf とBeruf との間を揺れていた」(77)という一文のみを、ここでも例によって当のコンテクストを無視して引き抜き、したがって「揺れそのものの意味も誤解して自分に好都合な論点に仕立てあげるのである。

ヴェーバー自身の叙述を引けば、つぎのとおりである。

「わたしがこれまでに知りえたかぎり、»Beruf«でなく»Ruf«が、(klēsis の訳語として)世俗的労働の意味で使われたことはあり、最初の用例は、『エフェソ』第四章にかんするタウラーの美しい説教『「施肥に赴く」農民について』(Basler Ausg. f. 117 v)に見られる。『施肥に赴く農民が実直にみずからのRufに励むならば、自分のRufをなおざりにする聖職者よりも』しばしば万事に優る、というのである。しかし、この語[Ruf]は、この[世俗的職業労働の]意味では、世俗語のなかに入り込んでいかなかった。ルターの用語法初め、»Ruf«»Beruf«との間で揺れている(s. Werke, Erl. Ausg. 51, S. 51)にもかかわらず、タウラーによる直接の影響は、けっして確かではない――なるほど、たとえば『キリスト者の自由』には、まさしくタウラーのこの説教に共鳴するところが、しばしば見られるが――。というのも、ルターは当初、この語[Ruf]を、タウラーの上記の句のように純世俗的な意味には用いていないからである。」(GAzRS, I, 66-7, 大塚訳、104-5、梶山訳/安藤編、140-1)

なるほど、「揺れ」にかんしては、ここで『エアランゲン版著作集』51巻51ぺージの参照が指示され、そこには『コリントⅠ』7: 20における»Ruf«の用例が示されている。羽入は、ここを典拠に、この「揺れ」をⓐ『コリントⅠ』7: 20に限定したうえ、ⓑその時間的な揺れと解釈し、ヴェーバーが»Ruf«から»Beruf«への改訂を主張した証拠と決めてかかっている。しかし、ヴェーバーは、上記のとおり「ルターのⓐ用語法Sprachgebrauchは、ⓑ初めanfangs」と明記し、ⓐ「用語」、すなわち、個々の用ではなく、いくつかの用例のまとまりについて、あるいはある範囲の用例に見られれる一定のパターンについて、しかもⓑ「初め」と、時期のほうを限定して「揺れ」に言及している。したがって、この「揺れ」とは、ある聖典の特定の一箇所(たとえば『コリントⅠ』7: 20)にかぎって、そこに用例として当てられる語が、たとえば初期のRufから後期のBerufに変わるというふうに、時間的に「揺れ」る、というのではなく、時期を「初め」にかぎると、同じklēsis の訳語として、ある聖典にはRuf、他の聖典にはBerufを当てるというように、複数聖典間にまたがるいわば空間的な「揺れ」が認められる、という意味に解されなければならない。そのばあいの、他の複数の聖典とは、このコンテクストで取り上げられている『エフェソ』を含め、同じパラグラフの冒頭で列挙されている『テサロニケⅡ』、『ヘブル』、『ペテロⅡ』をおいて他にはあるまい。じっさい、初期1522年の「ルターの用語」は、『コリントⅠ』を含むこの五書簡にまたがって、『コリントⅠ』のruffとそれ以外のberuffとの間で「揺れ」を示していたのである[4]。ヴェーバーとしては、beruffの用例のほうは、この段落の冒頭で列挙してあるから、当然読者にも了解済みと見て反復は避け、稀少例で初出のruffのほうだけを挙示しておいたのであろう。したがって、“Ruf”から“Beruf”へと「訳語が暫時[漸次?]確定していったプロセスを『コリントⅠ』7: 20そのものが証している」というのは、コンテクストを無視して複数聖典間の空間的「揺れ」を『コリントⅠ』7: 20の時間的「揺れ」と取り違えた、羽入の早合点ないし思い込みではあっても、ヴェーバーの主張ではない。

『コリントⅠ』7: 20における勧告と『ベン・シラの知恵』11: 21における勧告との双方の勧告における事柄としての類似性に影響されたために、前者の勧告『コリントⅠ』7: 20においてBerufという訳語を自身が用いたことに引きずられ、ルターは後者の勧告『ベン・シラの知恵』11: 21においても、元来は宗教的観念を全く含んでいなかったギリシャ語ponosをも、『コリントⅠ』7: 20におけると同様“Beruf”と訳すに至った。それは同時に、ルター個人の『神の全く特殊な摂理へのますます精緻化されてきた信仰』に影響された結果でもあった。」(76)

ということも、羽入流の没意味的「語形合わせ」論の平面における半ば誤った議論である。ヴェーバーは、宗教改革者ルターが『ベン・シラの知恵』11: 20, 21で「使命としての職業」という語義を創始する経緯とその諸契機を、意味関係において的確に捉えている。ところが、羽入の議論は、そうしたヴェーバーの叙述にたいして「まとめ」の体をなしてはいない。

まず、ルターは、『コリントⅠ』7: 20のklēsisをBerufと訳してはいなかったのだから、それに「引きずられ」て『ベン・シラの知恵』11: 21のponosをBerufと訳すわけがない。縷々述べてきたとおり、ヴェーバーも、そんなことを主張してはいない。

つぎに、羽入は、「事柄として類似している」ふたつの勧告のうち、一方を『コリントⅠ』7: 20に限定し、繰り返し強調している。しかし、ヴェーバー自身の表記は、引用⒜に見られるとおり、「各自が現在の状態にとどまれという、終末観を動機とする勧告」であって、『コリントⅠ』7: 20ではない。したがって、ヴェーバーの一般的表記を、『コリントⅠ』7: 20に特定するには、その根拠を示さなければならない。しかし、羽入は、その根拠を示していない。

また、ルターが『ベン・シラの知恵』11: 21のponos の訳語としてBeruf を選択した根拠として、ヴェーバーは、確かに「事柄としての類似性」と「摂理観の個別精緻化」に論及している。羽入も、ここでいちおう「影響関係」として両者に言及はしている。しかし、両者がどんな意味内容をそなえ、どういう意味でルターの訳語選択を規定しているのか、という肝心要の問題点となると、(ヴェーバーはそれをこそ、上記引用⒜⒝のとおり、明快に説明しているのに)羽入は、その意味内容・意味関係にはまったく立ち入らない。

 「事柄としての類似 sachliche Aehnlichkeit」とは、一方では、前述『エフェソ』の「終末論を動機とする勧告」の具体例に明らかなとおり、そこですでに「使徒」「預言者」「福音宣教者」「牧者」「教師」などの「聖職者」が、神の「召し」による「状態→身分(職業)」と見られており、「妻と夫」「親と子」「奴隷と主人」といった世俗的「身分」も、それぞれの状態地位身分status, Stand」にあって、「おのおの……分に応じて働いて体[すなわちekklēsia]を成長させていく」ように、と説かれ、他方、『シラ』11章では、いわば「分を越える」「罪人のわざ」、たとえば「一攫千金」の「パーリア資本主義」的「暴利」に直面しても、「羨まず、妬まず」、「神信頼をかき乱されて思い煩うことなく」、心穏やかに「生業にとどまって日々の糧をえる」ように、との趣旨が、「神信頼の知恵」として説かれている事態、――こうして、双方の勧告が、各人の現にある状態を神の「召し」ないし「摂理」として受け入れ、そこで神に奉仕する「生き方」を最善の「使命」ないしは「知恵」として称揚している意味内容上の類似性を――片や終末論、片や(宗教的)伝統主義という根拠付けの相違はあっても、それはひとまず留保して――指していったものであろう。こうしてすでに「事柄としての類似性」により、『エフェソ』他の「終末論的勧告」に用いられていた第一種のBeruf(ないしRuf)が、(タウラーによっても)ルターによっても「聖職者」への制限を取り払われ、「『シラ』の「伝統主義的勧告」にも適用される「客観的可能性」が与えられる。そして、この可能性を実現する主体的契機こそ、つぎの引用⒝で取り出される三要因、すなわち、①(修道院実践による世俗内道徳の凌駕を説く)カトリックの教理を無効と宣告して、世俗内道徳をこそ重視するプロテスタントの教理が、1530年の「アウグスブルク信仰告白」で公式に表明されていたこと、そこで用いられた、強勢を付加されたBerufをRufに戻す必要は、スコラ的語形論議ならぬ熾烈な社会運動としての宗教改革の経緯からして、さらさらないこと、②ルターの摂理観が「個別精緻化」されて、「世俗的身分」のみか「世俗的職業」をも「神の召し」と見るにいたったこと、③伝統的秩序を神聖と見て、「世俗的職業」もその一環として捉える「伝統主義」が強まったこと、――この三要因の、互いに相関連し、相乗して進展する作用に求められよう。

『神の不変の意志によって望まれたものとして世俗の秩序を甘んじて受け入れようとする……彼の傾向』が、後に外典を翻訳した時期ほどにはまだ高まっていなかった『数年前』の時期に翻訳された『箴言』においては、したがってルターは訳語として“Beruf”ではなく“Geschäft”を選んだ。」(76-7)

 というようなことも、ヴェーバーの叙述の「まとめ」ではなく、論旨のすり替えにすぎない。ルターが『箴言』にGeschäftを当てたのは、「時期」の問題ではなく、『箴言』句の意味内容と、それにたいするルターの思想的意味関係の問題である。ヴェーバーは、『箴言』句と『シラ』句とが同義等価で、ただ、ルターの伝統主義が1530年から1533年にかけての「数年間急に高まり」、あるいは急に顕れ、その結果、1530年の『箴言』訳ではmelā’khā, ergonにBeruf を当てず、Geschäftと訳していたのに、1533年の『シラ』句のergon(melā’khā)にはBerufを当てるようになった、と主張しているのでは毛頭ない。上記の引用のコンテクストから明らかなとおり、ルターが、時間的に至近の「数年まえにはなお」、原文/原語からはBerufを当てやすい『箴言』22: 29のmelā’khā, ergonにBerufを当て、数年後には、Berufを当てにくい『シラ』11: 20の ergonのみか11: 21のponosにまで、原語の原意からは無理でもあえて――まさに「翻訳者(意訳者)精神」において――じっさいにBerufを当てたのはなぜかといえば、それは、ルターの「摂理観の個別精緻化」と「伝統主義」とが強まり、こうした思想思想変化が訳語の選択に表明された結果である、というのである。

 そもそもヴェーバーは、『箴言』22: 29を主軸として、ルターにおける1530年から1533年にかけての思想変化を、訳語選択について検出しようとしているのではない。そうした見地は、この第1段落注3全体が、本文から被っている限定を顧慮せず(「枝葉は見ても、木は見ず」)、「アポリア回避」のために書かれたと決めてかかっている羽入の、恣意的な想定にすぎない。むしろ、ヴェーバーは、原文原語からは無理な『シラ』11: 20, 21の意訳によるBeruf語義(「使命としての職業」)創出という(この「脚注の腫瘍」の主題として本文から注に送り込まれている)事実を、歴史的結果に見立てて、そこに表明される「翻訳者の精神」に「意味(因果)帰属するために、『箴言』22: 29を、時間的に至近の類例、しかも絶好の比較対照例として、合目的的に選択し、引き合いに出しているのである。なぜそれが「合目的的」なのかといえば、『箴言』22: 29には、ergon(melā’khā)という『シラ』11: 20のergon(melā’khā)と同一の原語が用いられながら、コンテクストからは、「わざの巧みさ」をフリーハンドで称揚し、「わざ誇り」「行為主義」を触発しやすい問題傾向を帯びており、翻訳者ルターにおける、まさに「伝統主義」が強まれば強まるほど、かれとしては原則上ますます斥けざるをえない意味関係にあるからである。したがって、ルターが、その『箴言』22: 29のergon(melā’khā)にはBerufを当てず、時間的に至近の『シラ』11: 20, 21のergonとponosにはBerufを当てたという事実は、伝統主義的な神信頼を説く『シラ』句は愛好して、これには宗教的な意義を認め、Berufを当てる、翻訳者ルターの伝統主義精神を、それだけ鮮やかに浮き彫りにし、Beruf語義の創始という結果を、当の意訳に顕れたルターの伝統主義精神という一契機に、こよなく「意味(因果)帰属」することになるわけである。羽入には、ヴェーバーが『箴言』22: 29を引き合いに出す、こうした方法上の意味が、皆目分からないのであろう。

したがって、ルターの用語法の研究に際して、『箴言』22: 29における“Geschäft”という訳語を考慮に入れる必要はないのである。」(77)

 というようなことも、ヴェーバーは主張していない。もしほんとうに「“Geschäft”という訳語を考慮に入れる必要はない」というのであれば、上述のとおり『箴言』22: 29のGeschäftを引き合いに出すにはおよばない。問題は、どういう意味で『箴言』22: 29のGeschäftを「考慮に入れる」のか、にある。ヴェーバーは、ルターが『シラ』11: 20, 21のergonとponosにはBerufを当てて語義「使命としての職業」を創始した結果事実について、それにたいする翻訳者ルターの伝統主義精神の「意味(因果)」的意義を問うコンテクストにおいて、そのかぎりで上記のとおり十二分に、『箴言』22: 29のGeschäftを考慮に入れている。したがって、そこからは、そのルターにおいては、その後伝統主義の精神が強まれば強まるほど、『箴言』22: 29のergon(melā’khā)にはそれだけますますBerufは当てられず、「わざに巧み」を「わざに熱心」に撓める改訳は順当としても、「わざ」そのものの訳語としては原則的自覚的にGeschäftで通す以外にはない、という帰結も導かれる。そうした当然の帰結を、『シラ』11: 20, 21改訳以降の『箴言』22: 29の訳語を調べて立証してみても、ヴェーバーの立論を側面的に補完しこそすれ、その「破綻」を立証することにはならない。かえって、問題を「意味(因果)帰属」から「語形合わせ」の「時間的前後関係」にすり替えている羽入の水準が、立証されるばかりであろう。

 というわけで、羽入がつぎの「第三節」で「資料による検証」に委ねるという(羽入は「ヴェーバーの主張」の「まとめ」と称している)以上の五論点は、いずれも本物のヴェーバーの主張とは縁もゆかりもない。むしろ、羽入の水準で、羽入にも「斬りつけやすい藁人形」を立てているにすぎない。


小括――「蟷螂が斧」

 以上に見てきたとおり、羽入は、ルターによる『シラ』句改訳という第1段落注3における「トポス」の主題について、一方では、Berufの(第一種を含む)用例とそれぞれのコンテクスト、改訳対象ないし素材としての『シラ』句の意味内容、媒介項(「架橋句」)としての『コリントⅠ』7: 17~31の意味内容などを、具体的に調べて与件としての状況の布置連関を再構成し、他方では、その状況に対処する改訳主体ルターの、改訳に関与する諸契機(プロテスタント教理の成立/宣言、摂理観の個別緻密化、伝統主義)をやはり具体的に調べて、ルターによる歴史的な状況内改訳の経緯と思想的必然性をみずから理解(できれば追体験)し、その内実を論証/叙述するという(上記引用で、ヴェーバーが地で行っている)学問的手続きを、みずから採っていないし、ヴェーバーの叙述を綿密にフォローして理解することさえしていない。羽入は、そういうヴェーバーの「理解社会学」的「意味(因果)帰属」の方法を理解(いわんや会得)していないし、この方法が適用され、ルターにおける歴史状況内改訳という事柄そのものが(羽入の脳裏に)再構成される基礎/素材として読みこなされるべき、ヴェーバーの叙述そのものを読み解くこともできなければ、関連のあるキリスト教聖典のコンテクストと意味内容を、みずから聖書をひもといて調べ、理解することも、していない。熟考と労苦を要するそうした地道な学問研究に代えて、ルターをいわばビリヤード場に移し入れ、安直な没意味文献学的「語形合わせ」論の水準で(そこから出発するとしても、まともな文献学の「意味(因果)帰属」論の水準にみずから到達しようと刻苦精励することなく、「末人」としてそうした向上への努力は回避したまま)、当の「意味(因果)帰属」の方法を自覚的に駆使したヴェーバーの立論/論証を、一挙に「打倒」しようと、いわば「蟷螂が斧」を振り上げ、見当違いに降り下ろしているにすぎない。ただ、彼我混濁の羽入には、そうした彼我の落差と、自分がどこでどう間違っているのか、自力では対象化できないであろうから、こうして、かれの行論に密着して親切に論駁していくことが、なお必要とされようし、後進の学生/院生諸君には、かれと同じ轍を踏むことなく、「理解社会学」的「意味(因果)帰属」の方法が的確に会得され、駆使されていくように、そのための「捨石」、その意味における「一里塚」として、役立てられもしようか。(2004年10月12日脱稿。つづく



[1] 「ルターの職業観」節第1段落とそこに付された三注とを「全体として概観」し、論旨の展開を跡づけた論稿として、本コーナーに掲載の拙稿「マックス・ヴェーバーのBeruf論――ルターによる語義創始とその波及」、参照。

[2] 以下、引用文中の著者による強調は、原文では圏点を付されているが、HPソフトの関係で太字に換える。アンダーラインは、引用文中も含め、筆者の強調。[  ]は筆者の挿入。

[3] いまひとつの類例として、同じ『コリントⅠ』でも、七章ではなく一章について論じたものとして、拙著『ヴェーバー学のすすめ』(2003、未來社)、133-4、参照。

[4] Cf. WADB 7: 90-1, 104-5, 194-5, 200-1, 252-5, 350-1, 316-7.


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(2-4)」

2004年10月28日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(2-4)

折原 浩


2004年10月28日

(承前)「アポリア回避」の捏造

 前稿「批判結語2-3」では、羽入書第二章「“Beruf”-概念をめぐる資料操作」第二節「ヴェーバーによるアポリアの回避」につき、羽入の論旨を、かれ自身の叙述に即して追跡し、かれが、「ヴェーバーの主張」を「まとめ」る形を借りながら、ヴェーバー本人とは「似ても似つかぬ」、ただ羽入にも「斬りつけやすい藁人形」をしつらえる「意味変換操作」を、逐一明らかにした。

 ヴェーバーは、「倫理」論文第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」第1段落で、「使命としての職業」という聖俗二義を併せ持つ語BerufないしBeruf相当語(callingなど)が、近世以降プロテスタントが優勢となった諸民族の言語にのみ語彙として定着している事実に注目し、その歴史的始源を、まずはルターの聖書翻訳[1]に求め、それ以降、意訳語Berufが、後代の翻訳者たちによって(拒絶されるのでも、無視されて廃れるのでもなく)広く受け入れられ、(プロテスタントの宗派ごとにさまざまなヴァリエーションをともないながらも)現在にいたっている、という事情を明らかにした。そのさい、ヴェーバーは、「なぜ、かくなって、他とはならなかったのか」(ルターにおいて、『シラ』句にはBerufが当てられ、現在にいたる語義が創始されたのに、『箴言』句にはBerufが当てられなかったのは、なぜか)といった経緯の詳細は、論点/素材配分の「価値関係的」また「合目的的」制御にもとづいて、本文ではなく、桁外れに膨大な注3に送り込み、しかし内容としては十二分に論じている[2]。そこでは、当の経緯が、ルターの直面した、先行諸与件の「布置連関」からなる歴史的状況と、この状況に対処する改訳主体ルターの意味志向(思想)およびその変遷という両面から、わたしたちにも容易に(「明証的」に)「理解」できる「意味連関」として「解明」され、再構成されて、じつに鮮やかな歴史・社会科学的「説明」が与えられている。

 筆者が思うに、ヴェーバー歴史・社会科学の方法は、「ロッシャーとクニース」「客観性論文」「理解社会学のカテゴリー」といった抽象的方法論文をなんど読んでも[3]理解できないし、いわんや、その手順を会得し、「自家薬籠中のものとして」応用することなど、思いもよらない。むしろ、方法論文から読み取った抽象命題や知見がじっさいにはなにを意味しているのかを、たとえばこういうBeruf語義の歴史的「意味(因果)帰属」といった具体的適用例について、なんども確かめ、みずから歴史的諸与件(聖典の特定箇所の意味解釈など)も調べて熟考し、しかもそうして具体的に捉えられた方法を、試みに繰り返し、自分が直面している状況の問題に適用して――抽象的な方法論と具体的な経験的モノグラフとを統合的に解読するとともに、状況内主体として応用を重ねることで――初めて的確に会得され、「身につく」のではあるまいか。そして、それがひとたび「身について」しまえば、羽入流の「文献学」を振りかざされても、それを「拷問具」として押さえ込まれても、びくともせず、かえって即座に、そうした没意味外形論議の虚妄性を見抜き、容易に論駁することができよう。

16. 「『コリントⅠ』7: 20、Beruf改訳説」への「反証」――藁人形との格闘

さて、羽入は、第二章第二節を「本章で資料に基づく検証が試みられるのは、……ヴェーバーの主張のうち、われわれによって強調を付された部分、すなわち、正にその骨格部分である」(77)[4]と結んで、第三節「資料による検証」に入っている。しかし、前稿でつぶさに立証したとおり、まさに当の「骨格部分」が、羽入の誤読か、思い込みによるすり替えで、「羽入作ヴェーバー藁人形」の「骨格」にすぎない。したがって、かれがいかに「資料による検証」に骨折っても、本物のヴェーバーには届かず、自作の「藁人形」を相手に奮闘し、かえって彼我の落差を展示するばかりであろう。

 第三節の「『コリントⅠ』7: 20における“Beruf”?」と題されたセクションで、羽入はまず、『コリントⅠ』7: 17~31のコンテクストにたいするヴェーバーの参照指示を、恣意的に7: 20に限定し、複数聖典にまたがる訳語の空間的な「揺れ」(ヴェーバーの論旨)を、『コリントⅠ』7: 20におけるRufからBerufへの時間的な「揺れ」(羽入の主張)にすり替え、そのようにして「『コリントⅠ』7: 20、Beruf改訳説」を虚構する。そのうえで、ルター自身に「時間的な揺れ」は認められず、Rufで通している事実を、「ヴェーバーの主張」への「反証」のつもりで、うやうやしく写真入りで証明する(77-81)。しかしこれでは、「ヴェーバー藁人形」は斬れても、ヴェーバーの主張そのものには届かず、むしろ側面的な補完をなすにすぎない。かりにヴェーバーが当の事実に言及したとすれば、「ついでながら、ルター自身は、この『コリントⅠ』7: 20のklēsisは、RufからBerufに改訳していない。しかし、『普及諸版』からと断ってほぼ逐語的に引用した7: 17~31では、『割礼/包皮』『奴隷/主人』『既婚/未婚』といった『種族的』『社会的』また『配偶関係上』の具体的な『諸身分』を、『神の召しを受けたときから現在にいたる状態』、『終末まで、いましばらくとどまるべき身分』として引き受けるようにと説かれ、この趣旨が7: 20と7: 24に一般命題として要約されている。したがって、ルターの宗教改革思想によって『命令』と『勧告』との区別が廃絶され、聖職と世俗的身分が等価とみなされたうえに、『摂理観の個別精緻化』が強まれば、当の身分職業にまで細分化されることは『明証的』に『理解可能』であり、その意味で『コリントⅠ』7: 17~31の翻訳が、Beruf用法の第一種と第二種とを『架橋』しうることは明らかである」と簡潔に注記して済ませたところであろう。

17. 第二次虚構「『コリントⅠ』7: 20、Beruf非改訳、隠蔽説」の捏造――「パリサイ的原典主義」の陥穽

 ところが、羽入は、「補完」では気が済まない。なんとかヴェーバーを倒そうという焦りが、制御されず(「価値不自由」)に、自分がじっさいになしえている論証を飛び越えて突出/顕示され、この「勇み足」がみずからの墓穴を掘っている。そもそも「『コリントⅠ』7: 20、Beruf改訳説」そのものが、ヴェーバー自身の主張ではなく、羽入による混同の産物にほかならない。前稿でも指摘し、先にも触れたとおり、羽入は、ヴェーバーが「現在の普及諸版ではと明示的に断りルター自身の訳とははっきり区別して『コリントⅠ』7: 17~31を引用している箇所から、7: 20だけを抜き出し、「ルター訳聖書では『コリントⅠ』7: 20は……Beruf……と訳されている」と、ヴェーバー自身が「主張」している、と早合点してしまう(第三節冒頭)。ヴェーバー自身は「ルター訳聖書」とその「現在の普及版」とをはっきり区別し、後述のとおり理由あってわざわざ後者を用い、したがって当然、「ルター訳聖書では『コリントⅠ』7: 20は……Beruf……と訳されている」と思ってはいないし、「主張」してもいないのに、羽入のほうが、両者を混同し、ヴェーバーが、「『コリントⅠ』7: 20、Beruf改訳説」を定立するのに、本来は「ルター自身が訳した原典」を用いるべきところを、それができなくて、普及版で「代替」している、と決めてかかっている。

 羽入がなぜ、そうした倒錯/速断に陥るのか、といえば、かれには「パリサイ的原典主義」ないし「原典フェティシズム(呪物崇拝的原典主義)」とも呼ぶべき習癖が顕著で、そのため規範と現実との区別がつかないからであろう。羽入は、ヴェーバーが「『コリントⅠ』7: 20、Beruf改訳説」を定立していると(自分の混同にもとづいて)思い込んだうえに、「パリサイ的原典主義」の規範を杓子定規に適用し、当該説の定立には「オリジナルなルター聖書」を用いるべきであって、そうせずに普及版を引用しているのは、そうできずに、普及版で代替せざるをえないからにちがいない、と決め込んでしまう。普及版からの引用にはなにか別の意味がありはしないか、と思慮をめぐらす余裕がない。つまり、規範と現実とを区別し、規範の拘束力はいったん相対化して、むしろ規範の意味内容を、現実を索出する「理念型」として利用する[5]、ということができず、「現実は規範どおりでなければならない」との観念論的先入観を現実に押しおよぼして、規範と現実との混淆に陥り、この混淆を押し進めてやまないのである。自分の規範的所見からただちに、ヴェーバーもまた本来は「オリジナルなルター聖書」に依拠すべきである、と自覚していたはずで、そうしなかったのは、(相応の理由があるからではなく)そうできなかったからで、やむなく普及版」で代替せざるをえなかったのだ、と決めてかかり、さらに、そうとすれば、ヴェーバーもまた、「普及版」使用を、「『コリントⅠ』7: 20、Beruf改訳説」の定立に必要で十分な「証拠の欠落」、「本来の論証からの逸脱」と「自覚」していたにちがいなく、その「不都合」を、「知的誠実性」の建前をかなぐり捨てても、なんらかの「資料操作」ないし「トリック」を用いて「隠蔽」しようとしたにちがいない、という方向に、ヴェーバーを「詐欺師」に仕立てる推論街道をひた走る。すなわち、「『コリントⅠ』7: 20、Beruf改訳説」という第一次虚構から、これを論証ぬきに前提に据えるpetitio principii論法で、さらに「『コリントⅠ』7: 20、Beruf改訳、隠蔽説」という第二次虚構を捏造し、ヴェーバーに「濡れ衣を着せ」、これを「楯にとって」糾弾しようというのである。この筋書きに凝り固まった羽入は、彼我混濁から、そうした自分の推論がはたしてヴェーバー側の確たる証拠によって裏付けられるかどうか、と問うて、慎重に検証するいとまもなく、むしろヴェーバーによる(「普及諸版」使用の)明示も「暗示」にすり替え、なにかいかがわしい「資料操作」「トリック」の「証拠」に「意味変換」しようとする。

 こうした捏造と糾弾の手順は、ある意味では巧妙で、意図してなされたとすれば、それこそ正真正銘のトリックと認定されるにふさわしい体のものである。羽入は、第三節「『コリントⅠ』7: 20における“Beruf”?」の末尾で、ルターが1523年の『コリントⅠ』7章の釈義ではRufを用いていたという(ヴェーバーも確認/明記している)事実と、『エフェソ』四章にかんする(タウラーとルターとの関係を論ずるヴェーバーの)叙述から抜いてきた「初期における用語法の揺れ」という文言とを、短絡的に[6]結びつけて、またまた「以上見てきたことをまとめれば以下のようになる」(84)と、「まとめ」の形を借りて、自分の短絡的5臆断をヴェーバーになすりつける。いわく、「⑷……ヴェーバーは、ルターは『コリントⅠ』7: 20の当該部分の訳語として初期の段階では“Ruf”を、しかしながらその後の段階ではBerufを採用するに至ったと判断した」(84)、「……時間の推移と共にこの[RufとBerufとの間の]揺れも最終的にはBerufへと収斂していったのであると論じた」、「……この……事実こそが、逆にルター自身に影響を与え、ルターをして、元来は宗教的含意など全く含んでおらず、ただ世俗的意味をしか持っていなかった『ベン・シラの知恵』11: 21の“ponos” をも、『コリントⅠ』7: 20と同様に“Beruf”と訳させるに至らしめたのであると主張した」(84-5)と。このとおり畳みかけては、羽入が混同と「パリサイ的原典主義」によって虚構した「『コリントⅠ』7: 20、Beruf改訳説」という、ありもしない「判断」「論定」「主張」に「ヴェーバー」を送り込んだうえ、「ただしヴェーバーは、ルターの用語を研究するに当たって自らが用いていたルター聖書が『現代の普通の版におけるルター聖書』であることは自覚していた」(85)とする[7]。ただ、この「論点を、どのように判断すべきかについてはここではまだ扱わぬ」(85)と留保し、後段における論難の伏線を張って、第三節「翻訳の時間的前後関係に関するヴェーバーの論点」に移っている。

 ところが、第二章を結ぶ第四節「『現代の普通の版』のルター聖書」では、つぎのとおり、羽入の「判断」を開陳して、「普及版」使用の明示を暗示にすり替える。「ここでわれわれにとって二重に残念なことは、ヴェーバー自身がそのことを、すなわち、自らが用いているルター聖書が“本物のルター聖書”ではなかったことを、承知していた節がある[!?]ことである。『倫理』論文における『(現代の普通の版における)ルター聖書では……』という表現、この言い回しは、ルターの用語法を研究するに当たって、オリジナルなルター聖書ではなく、ルターの死後すでに何度となく校訂され、1904年の当時『普通に』出回っていた『現代の普及版』のルター聖書を自分が用いていたことを、彼が知っていたことを暗示している[!?]」(104)と。

ヴェーバー自身は、「普及諸版」使用を「暗示」でなく明示して、『コリントⅠ』7: 17~31をほぼ逐語的に引用しているのであるから、そう「承知していた」のは当然で、「節がある」もなにもあったものではない。むしろ、羽入が、ヴェーバーの「普及諸版」明記とその意図を解せず、自分の生硬なパリサイ的原典主義のコンテクストに移し入れて、①「本来はオリジナルなルター聖書を用いるべきところを、そうすることができず、さりとて『オリジナルなルター聖書』であると称して読者を欺くわけにもいかず、苦し紛れに『普及版』とだけは記して、原典を参照しない怠慢を糊塗した」(「杜撰」説)、あるいは②「『オリジナルなルター聖書』を参照すると、ルター自身は『コリントⅠ』7: 20を終生Rufで通し、Berufに改訳していない事実が明るみに出て、『「コリントⅠ」7: 20、Beruf改訳説』(羽入にとっては『ヴェーバーの自説』)が破綻をきたすので、『普及版』で『代替』し、『自説』の『破綻』を隠蔽した」(「詐術ないしトリック」説)、ないしは(両者の中間を採って)③「『オリジナルなルター聖書』を参照すると、『自説』が『破綻』しそうだとの予想からわざと原典調査を怠った」(「狡い杜撰」説)という、なにかいかがわしい「資料操作」説に持ち込もうとする。その思い込みに凝り固まるあまり、羽入には、ヴェーバーの公明正大な明示も、なにか陰謀めいた「暗示」と映るほかないのであろう。

18. 実存的歴史・社会科学をスコラ的「言葉遣い研究」に意味変換

 むしろ、こうした「意味変換」は、ヴェーバーがなぜよりによって(読者も参照しやすい)「普及諸版」を用い、もとよりそう明示し、『コリントⅠ』から(7: 20のみでなく)7: 17~31をわざわざ逐語的に引用しているのか、――その意図が、「呪物崇拝的原典主義」に囚われた羽入には、皆目分からず、思ってもみない、という実情を、かえって鮮明に露呈しているのではないか。ヴェーバーは、(拙著『ヴェーバー学のすすめ』第一章で詳論したとおり)実存的関心事としての「職業義務観」について、同時代の読者と「トポス」を共有し、そこを起点として歴史的始源に遡り、その「意味」を「生まれつつある状態でstatu nascendi」捉えたうえ、翻って現在の状況に戻り、読者とともに明晰な意味-態度決定にそなえようとする。そうした、かれ一流の実存的歴史・社会科学の一環として、ここでも、そうした「トポス」として、語Berufの現在の意味から叙述を起こし、読者も容易に手にしうるルター聖書普及諸版『コリントⅠ』7: 17~31のコンテクストに見られるBerufが、(ルター自身は訳語にRufを当てていたとしても、後継の訳者たちがBerufに改訳しても奇異ではないほどに)ルター的用語法の第一種と第二種とを「架橋」できる――そこに、ルターにおける「世俗的職業と聖職との同等視」「摂理観の個別精緻化」という主体的契機が加われば、容易に「神与の職業」という現在の語義に転じうる――「神与の身分」という意味がそなわっている、という(ルターの『シラ』改訳における語義創始にたいしては)与件としての事実を、読者とともに確認しているのである。むしろ羽入のほうが、ルターにおける語義創始を、現在の実存的関心事からも、ルター自身の実存的意味志向(思想とその変遷)からも、切り離して、ただたんに『コリントⅠ』7: 20(のみ)の訳語が外形上どう変わったか、接頭辞Be-がついたかどうか、といった(羽入自身には等身大の)没意味偶発事論のスコラ談義に移し替えている。そのうえ、ここでまたしても、「『現代の普通の版』でルターの訳語の変遷をたどることは、与謝野源氏や谷崎源氏をテクストとして用いて紫式部の言葉遣いを研究することに等しい」などと、見当違いの比喩を持ち出し、(ルターに始まるさまざまな職業義務と「近代資本主義の精神」との「適合的」「意味連関」を探索する)ヴェーバーの実存的歴史・社会科学を、「ルターの言葉遣いの研究」にすり替えている。

19. 前段の「資料操作」が、「結論」では論証済みの「トリック」に変る

 ただし、この第二章第四節では、この論点にかんして、「あのヴェーバーに対して、あのヴェーバー本人に対して、直接に問い質してみたいことはいくらも出てくるが、答えはもはや返ってはこない。……ヴェーバーの資料操作[!?]の足跡を資料に基づいて確実にたどることは、それゆえ現在のわれわれには残念ながらこれ以上はできない」(105)と述べ、追及を打ち切っている。ただ、あたかも「直接に問い質してみ」れば、ヴェーバーが「オリジナルなルター聖書」を「普及版」で代替し、(『コリントⅠ』7: 20のBeruf改訳という)証明されないことの証明を装った「詐術」「トリック」を、自分の「尋問」で暴いて見せられるのに、と悔しさをにじませ、「知的誠実」を装って余韻を響かせる風情ではある。そうしておいて、羽入書末尾終章「『倫理』論文からの逃走」で同じ論点を再度取り上げるや、こんどはいきなり、こう裁断する。

「ヴェーバーによる『コリントⅠ』7: 20にかんする論証が一つのトリックであったこと[!?]に、一人の人物がすでに気づいていた可能性がある。それはヴェーバーと同時代の人物であった。そしてその人物は、それにもかかわらず、そのことに関して死に至るまで沈黙を守り続けた、と思われる。その人物とは、他でもないトレルチである」(269-70)と。

 トレルチさえ「ひた隠しにした」「トリック」を、われこそ「世界で初めて」暴いて見せた、と胸を叩きたい、羽入のはやる気持ちは、よく分かる。しかし、羽入はいったいどこで、当の「トリック」を、まさにトリックとして立証したのか。『コリントⅠ』7: 20の訳語問題を、羽入流に支離滅裂ながら、それなりに主題化して直接取り上げていた第二章でも、羽入はなんとか「詐術」「トリック」の立証にまで持ち込もうと奮闘してはいるが、当然のことながら「決め手」を欠き、けっきょくは無理と悟ってか、「尋問すれば立証できるのに」と、悔しさをにじませ、余韻を響かせるだけで、打ち切っていたではないか。それを、「終章」にきていきなり、さながら立証済みの結論であるかのように持ち出すとは、それこそ、叙述の隔たりによって読者の正確な記憶が薄れるという事情につけ込む、いうなれば「正真正銘のトリック」ではないのか[8]

20. 精妙な「意味(因果)帰属」も「奇妙」と映る「意味音痴」

 第三節「翻訳の時間的前後関係に関するヴェーバーの論点」では、この表題通りの疑似問題(羽入の「配置構成図」に移し入れられ、「意味変換」された「ヴェーバーの論点」)について、ヴェーバー自身は関知しない虚妄の議論が繰り広げられ、退屈で冗漫な「語形調べ」に紙幅が費やされている。

 ヴェーバーは、ルター自身による『コリントⅠ』7: 20の訳語が、1522/23年にBerufでなくRufであった事実を、二度にわたり――ひとつには『エフェソ』におけるタウラーとルターとの関係にかんする議論で、『エアランゲン版著作集』51巻51ぺージを参照して確認するように指示し(GAzRS, I, 66, 大塚訳、103、梶山訳/安藤編、141)、いまひとつには、「20節については、ルターは1523年になお、この章[7章]の釈義で、古いドイツ訳にならい、klēsis をRufと翻訳し(『エアランゲン版著作集』51巻51ぺージを参照)、当時はStandの意味に解していた」((GAzRS, I, 67, 大塚訳、105、梶山訳/安藤編、142-3)と明言して――見紛う余地なく提示していた。ところが、羽入は、ヴェーバーの当の所見を、たびたび、あるときにはみずから他ならぬ『エアランゲン版著作集』51巻51ぺージの写真を掲げて引用し確認していた(73, 78-9)にもかかわらず、ここでは、ヴェーバーが「ルターは1522年に『コリントⅠ』7: 20をBerufと訳した」と主張したかのように語り出し、この虚構のうえに論難を繰り広げる。しかも、そのつど「(実際には“ruff”であったが)」と括弧にくくって書き添え、あたかもヴェーバーの「錯誤」を羽入が発見し、是正しているかのように装っている。羽入は、「ヴェーバーの主張」(86)を、「1522年にコリントⅠ7: 20にBeruf、1524年に『箴言』22: 29にはGeschäft、1530年の『アウグスブルク信仰告白』では『プロテスタンティズムの教理』が確定し、“einem jeglichen nach seinem Beruf”という表現、1533年には『シラ』でBeruf」というふうに、年表風にまとめたうえ、つぎのようにいう。

「時間的順序に基づいたルターの翻訳相互の影響関係に関するヴェーバーの右[表示]の立論は、純粋に年代的な順序の見地から見た場合には、やや奇妙に響く[!?]面を持っている。というのはそれは、『コリントⅠ』7: 20においてルターが行った“klēsis”に対する“Beruf”という訳語の選択は(すでに見たように、実際には“ruff”であったが)、すぐ二年後の『箴言』のルターの翻訳には全く影響を与えず、他方、11年後の『ベン・シラの知恵』のルターの翻訳には影響を与えたということを主張しているからである」(87)と。 

ルターの気紛れから打ち出された『コリントⅠ』7: 20の「Beruf玉」が、近くにある『箴言』の「ergon玉」には当たらなかったのに、遠くにある『シラ』の「ergon玉」ばかりか「ponos玉」にまで当たったのは「奇妙」というのであろう。さらにいわく。

「またさらに奇妙なことには[!?]、『コリントⅠ』7: 20における“Beruf”という訳語は――ヴェーバーにしたがえば、ヘブライ語のmelā’ khā(仕事・務め)こそは正に、hōq(定められたもの。……)と共に古代語における独語“Beruf”の唯一の相当語であったはずである(……)にもかかわらず――『箴言』22: 29におけるmelā’khāの翻訳の際には全く影響を与えず、ところが他方『ベン・シラの知恵』11: 20, 21 における“ergon”と“ponos”の翻訳に際しては、この二つのギリシャ語がドイツ語の“Beruf”に似た色彩を全く持ってはいなかったにもかかわらず、『コリントⅠ』7: 20における“Beruf”という訳語が(実際は“ruff”であったが)この二つの語の訳語の選択に影響を与えた、と主張しているからである」(87)と。

 はて、なぜ「奇妙」なのか。原語ergon = melā’ khā の原意からすればBerufを当てやすい『箴言』22: 29にはBerufを当て、逆に当てにくい『シラ』11: 20, 21にはBerufを当てた、一見逆説的な事実を、「奇妙」と受け取る感性の持ち主は、「原語原意を規準として似たものどうしが影響しやすい」との、いうなれば「没意味文献学的法則」を暗に前提とし、じっさいに起きたことが、その法則に反するがゆえに「奇妙」と感得しているのであろう。しかし、ルターにおいて、かりにその「法則」どおりにことが起きたとすれば(羽入には「奇妙」でなく「順当」と映るかもしれないが)、そのルターはそれだけ、原語原意に忠実な祖述者でこそあれ、宗教改革者、その思想を聖典の翻訳にも貫徹する意訳者ではない、ということになる。そのばあいには、プロテスタントの優勢な諸民族の言語に固有のBeruf語義が、聖書の原文ではなく翻訳者の精神に由来するという本文の命題と、当の由来にかんする注3の詳論とが、互いに矛盾をきたし、注の論証が本文の命題を裏切っていることになろう。ところが、注3を成心なく読めば、ルターが、まさに没意味文献学的法則に逆らい、Berufを当てやすい『箴言』句にはBerufを当て、Berufを当てにくい『シラ』句にはあえてBerufを当てた、という当の事実が、妥当な論拠を添えて立証され、まさに順当な経過として力説されていることが分かる。そのように『箴言』22: 29訳を主題としてではなく、もっぱら至近の対照例として、そのかぎりで引き合いに出すことによって初めて、主題としての『シラ』11: 20, 21 訳におけるBerufの語義創始が、原文ではなく翻訳者ルターの精神――しかも、『箴言』句に潜む「わざ誇り」「行為主義」は原則的に斥け、むしろ生業における堅忍を「神信頼の知恵」として称揚する『シラ』句のほうは愛好する「伝統主義」の精神――に、的確に「意味(因果)帰属」されているのである[9]。むしろ、この明晰にして精妙な論証を、哀しいかな「奇妙」としか受け止められず、そう言明して憚らない羽入のほうが、本文との関連で注を読まず(「木を見て森を見ず」)、『箴言』句と『シラ』句との、主体ルターにとっての意味内容上の差異を顧慮せず(「意味音痴」)、このコンテクコトで『箴言』句を(至近の対照例として、そのかぎりで)引き合いに出す方法上の意味にも思いいたらない(「方法音痴」)、みずからの非力と浅学を、さればこそ「怖じず臆せず」誇示して恥じないのであろう。まさにそれゆえ、「時間的前後関係」という疑似問題に滑り落ち、「(語形合わせ)アポリア回避」の自分の筋書きに「ヴェーバーの論点」「ヴェーバーの主張」をつぎつぎに移し入れては、無理な「意味変換」に憂き身をやつし、「みずから墓穴を掘る」ことにならざるをえないのであろう。

21. 思い込みの悲喜劇――誰か、事前に目を覚まさせてやれなかったか

第三節「ルターによる改訂作業」では、ルター訳聖書の初版ばかりか、改訂作業を視野に入れても、『箴言』22: 29のGeschäftは適訳として改訂されず、『シラ』11: 20, 21のBeruf訳以降にも維持されたという(ルターにとっての双方の意味を考慮に入れれば、じつは当然の)事実を、ヴァイマール版全集に記載されている訳語/訳文の異同のみでなく、(変更がなかったので結果として)記載されていない改訂作業についても、「改訂委員会」の記録などを調べ、例によってうやうやしく写真を掲げながら、14ぺージ(89-102)の紙幅を費やして立証している。ご丁寧に、『シラ』11: 20, 21のほうも、1533年以降の改訂によって、なにかBeruf以外の訳語に変更されていないかどうか、確かめる、という念の入れようである。羽入がなぜ、こうした「ちぐはぐな」作業に、情熱を傾け、膨大な時間と労力を割けるのか、といえば、そうして「時間的前後関係」を調べて確証しさえすれば、「時間的に後に来る訳語をこそより重視すべきであるとのヴェーバーの主張」(106,267)を「反証」でき、そうできれば「アポリア回避のためのヴェーバーの立論」(106, 267-8)も崩れる、と思い込んで怪しまないからであろう。

ところが、ヴェーバーは、『箴言』22: 29と『シラ』11: 20, 21とを、意味上同義等価と想定して、ただ「時間的に後に来る訳語をこそより重視すべきである」などという荒唐無稽なことを主張したためしはないし、だいたい(「意味」のカテゴリーを彫琢して歴史・社会科学に持ち込んだ)かれが、そんな幼稚なことを考えるわけがない。そういう他愛ない憶説はもっぱら、ルターによる語義創始をなにかビリアード玉の跳ね返り衝突であるかに解し、ヴェーバーが『箴言』句を引き合いに出す方法上の意味にも思いいたらない、浅学軽薄な没意味文献学徒の脳裏にのみ宿る迷妄であり、「末人」だけが(トレルチ、ブレンターノ、ロバートソン、ホルらを凌駕して)「最高段階に上り詰めた」と思い込みたい一心から、徒労とは「知らぬが仏」で戯れられる、「疑似アポリア」――いっそう正確には、この「批判結語(その2)」全稿で論証してきたとおり、フランクリン父子のcallingがルターのGeschäftと語形一致しないという第一次「疑似アポリア」のうえに、petitio principii論法で、その「アポリアを回避するためには」とつぎつぎに虚構され、「まとめ」の形を借りてはヴェーバーに帰せられてきた派生態「疑似アポリア」群――の(羽入にのみ「世界で初めて」崇高深遠と感得されるらしい)霊気・オーラにほかならないであろう。

 なぜ、誰かが、ここにいたるまえに――こうした徒労に駆り立てられ、あげくのはて満天下に恥をさらすまえに――「君が信じているのは『鰯の頭』なのだよ」と羽入に注意してやれなかったのか。あるいは、注意しても聞かずに「突っ走った」のか。それならどうして「博士」の学位を認定はしたのか。

 そういうわけで、ここで羽入書前半にかんする批判的検証を終えるにあたり、またしても、これほどの「博士」を育て、世に送り出した旧名門研究室(東京大学大学院人文・社会系倫理学専攻)の責任を問わざるをえないことになる。

(2004年10月28日脱稿。つづく



[1] ルターが1533年、(世俗的な仕事ないし苦役を意味していた)旧約外典『シラ』11: 20, 21のergonとponosに、(世俗的職業を聖職に優るとも劣らない「神与の使命」と見る)宗教改革の思想・職業から、(それまでは「神の召し」そのもの、あるいはせいぜい「聖職への招聘」にかぎって用いてきた)語Berufを当て、そのようにして聖典原文の忠実な訳としてではなく、「翻訳者の精神において」Beruf語を創始した事績。これを羽入は、「思い違い」や「ことの弾み」による「没意味的偶発事」と取り違えて、なんとこの誤解をヴェーバーに帰するが、ヴェーバー自身は、上記のとおり内的思想的必然性を自覚した訳語選択として、明晰に「説明」している。

[2] 当該注を、全六段の各々について論点を見定め、全体として概観した論考として、本コーナー掲載の拙稿「マックス・ヴェーバーのBeruf論」を参照されたい。

[3] もとより、それらを三読四読して呻吟すること自体は、必要・不可欠なことではある。

[4] 引用につき、ノンブルのみを記すばあいは、羽入書のぺージ。羽入の強調は、圏点で示されているが、ここではHPソフトの関係で太字で記す。

[5] ちなみに、ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」群は、法とくに団体法の諸規範を、「類的理念型gattungsmässige Idealtypen」に組み換えて、現実の集団-ゲマインシャフト形成にかんする動態分析に活かそうとする構想にほかならない。

[6] 「短絡的」という意味は、こうである。すなわち、『コリントⅠ』7: 20の訳語の件につき、ヴェーバーの叙述から引き出される証拠は、ルター自身が1523年の釈義ではRufを用いた、他方、ルター以降の普及諸版ではBerufとなっている、という二事実に尽きる。したがって、一歩譲って『コリントⅠ』7: 20の「時間的な揺れ」説(羽入説)を採るとしても、訳語の帰趨には、①ルター自身が1533年までにBerufと改訳、②その後没年にかけて改訳、③ルター自身はRuf で通し、没後他の翻訳者がBeruf に改訳、という三つのケースがありうることになる。羽入は、ヴェーバーがこのうち①のケースを主張していると決めてかかるが、なぜ②③でなく①に特定できるのか、その証拠を挙げていない。つまり、決疑論的系統的な論証抜きに、ありうべき三ケースのうちのひとつに短絡している。

[7] 「自覚していた」のなら、①普及版ではルター自身の「『コリントⅠ』7: 20、Beruf改訳説」は定立できないから、ヴェーバーも当然そう考えて、普及版で「代替」しようとはしなかったろう、他方、②かりにヴェーバーが詐欺師で、ほんとうに読者を欺こうとしたのなら、「普及版」と明示するはずもなかったろう。それにもかかわらず、じっさいには③「普及諸版では」と明示して引用しているからには、その引用には、なにか別の意図があったのではないか、と考えてみるのが当然であろう。ところが、羽入は、そうした決疑論的系統的な動機解明を企てることなしに、やはり短絡的に「代替」と決めてかかり、むしろその「代替」の背後に、なにかいかがわしい「資料操作」ないし「トリック」を嗅ぎ出そうとつとめ、(嗅ぎ出せないと)捏造も厭わないのである。

[8] 羽入書以前に「マックス・ヴェーバーの『呪術』からの解放」と題して雑誌『思想』(1998年3月号、72-111ぺージ)に発表された論稿では、この(羽入書)「終章」269ぺージ以下の部分が、(論稿)「四 結論――『倫理』論文からの逃走」104ぺージ以下に配置され、直接つづいている。そのため、読者は、論稿を読んできて、末尾でいきなりこの「トリック」表記に出会い、唐突と受け止めざるをえない。ところが、『犯罪』と表題をエスカレートさせた羽入書では、この第二章と「終章」との間に第三/四章が配置され、「トリック」の暗示(第二章)と明記(終章)とが隔てられているので、唐突感は確かに薄れるほかはない。

 なお、羽入書第二章でも、注には、①「結果として彼[L.ブレンターノ]は、“『コリントⅠ』7: 20におけるルターによる訳語‘Beruf’”というヴェーバーの主張が詐術に他ならなかったことに気づくには至らなかった」(126)、②「[H. M. ロバートソンが]ヴェーバーによって論拠として用いられた『コリントⅠ』7: 20が、ルターによっては“Beruf”と訳されてはいなかったという、この余りにも基本的な部分でおこなわれていたヴェーバー側のトリックに気づくに至らなかったことは、非常に残念である」(128)、③「……ホルもまた、“『コリントⅠ』7: 20におけるルターによる“Beruf”という訳”というヴェーバーの主張が正に“虚偽”であったことには気づくには至らなかった」(137)など、論証ぬきの決めつけが散見される。著名な誰某が自分の藁人形には到達できなかったと称して、自分が「最高段階に上り詰めた」かのように思い込み、豪語する「末人」流自画自賛・自己陶酔の証左というほかはない。こういうコンテクストで、この種の不用意な決めつけが頻繁に飛び出すのも、羽入叙述に特徴的な「自己表現」であろう。

[9] 拙著『ヴェーバー学のすすめ』、71-3, 本コーナー掲載の拙稿「マックス・ヴェーバーのBeruf論」、参照。


丸山尚士「羽入論考第1章批判最終稿」

2004年11月01日(本コーナーへの寄稿)

羽入論考第1章批判最終稿

丸山 尚士

2004年11月01日



  前稿のハイデルベルク大学訪問記の脱稿後、英訳聖書についてさらに追加の調査を行っ た。Web上には、"Dr. Gene Scott Bible Collection" のような、英訳聖書の収集家のサイトがあった。そこには、"Herbert #201"のような形で、各英 訳聖書に参照番号が振られている。これを調査した結果、この番号が、A.S.Herbertの"Historical Catalogue of Printed Editions of the English Bible 1525-1961"という書籍1)に基づくものであることがわかり、これを取り寄せた。この書籍は、オリ ジナルが1903年に出版され、T.H.DarlowとH.F.Mouleの2人が当時のイギリス の大英博物館や、ケンブリッジ・オクスフォード大学の図書館などに残っていた英訳聖書を調査し、どのような原本に基づくものか、翻訳者・編集者、出版年・ 出版元などにより分類・整理したものである。A.S.Herbertがこの原版にその後発見された英訳聖書や、アメリカにある英訳聖書を追加して増補改訂 したのが1968年版であり、今回参照したものである。


  本書によれば、エリザベス1世の治世(1558年-1603年)に、出版された聖書として107番から279番まで173種が挙げられている。これを 種類と出版年でまとめ直したものが、下表である。


★Geneva Version(ジュネーブ聖書)

1560 107,109,

1562 116

1570 130

1575 141

1576 143,144,147

1577 148,149

1578 154

1579 158,159,160,161

1580 164,165,169

1581 170

1581 171

1582 173,174

1583 178,179,181

1584 182,183,184

1585 187

1586 190,191

1587 195

1588 197

1589 199,200,201

1590 206

1591 208

1592 211,212(旧約のみ)

1593 215

1594 219,220,221,222,223

1596 229

1597 234,236

1598 243

1599 247

1600 256,257

1601 263,264

1602 269,270

1603 273,276,277

★Geneva-Tomson

(ジュネーブ聖書の1576年のTomson改訂版)

1576 146

1577 152,153

1578 156

1580 166

1580? 167

1580 168

1582 175

1583 179,180

1585? 189

1586 192

1586 193

1587 196

1589 203,204

1590? 207

1592 213

1593 216,217

1596 231

1597 239,240,242

1598 246

1600 260

1601 267

1603 278,279

★Geneva Version; with Tomson's NT

(ジュネーブ聖書のうち、新約だけを

Tomson版にしたもの)

1587 194

1590 205

1592 210

1594 218

1595 225,226

1597 235

1598 244

1601 262

1602 268

★Geneva Version; with Tomson's NT,

but with Junius's Revelation

(左記のものの、ヨハネ黙示録の注釈を

Juniusが改訂したもの)

1599 248,249,250,251,252,253,254,255

1602 272

1603 274,275

★Great Bible(大聖書)

1561 110

1562 117

1566 119

1566? 120

1568 122

1569 127,128,129

★Bishop's Version(主教訳聖書)

1568? 123,124

1568 125

1569 126

1572 132

1572~ 133

1573? 134,135

1574 137

1575 139,140,142

1576 145

1577 150,151

1578 155

1578? 157

1579 163

1581 172

1582 176

1584 185,186

1585 188

1588 198

1591 209

1595 227,228

1596 232

1597 241

1598 245

1600 259

1602 271

★Tyndale' version;Jugge's revision

(ティンダル版、Jugge改訂版)

1561? 111,112,113,114,115

1566? 121

★Roman Catholic version

(ランス聖書)

1582 177

1600 258

★その他

1560? 108(典礼用書簡、福音書)

1562 118(詩篇)

1571 131(アングロサクソン語-

英語訳四福音書)

1573? 136(内容はBishop版に似るが、

章節分けされている)

1574 138(カルヴァン派用の書簡集)

1579? 162(詩篇)

1589 202(Fulke版聖書初版)

1592 214(黙示録、書簡)

1594 224(黙示録他)

1596 230(Hugh Broughton訳旧約)

1596 233(黙示録他)

1597 237(ダニエル書)

1600 261(214の再版)

1601 265,266(Fulke版聖書第2版)

注)238番は欠落している。理由は不明。




  筆者の第 3稿で、A.W.Pollardの資料集2)に ある「フランスの印刷商である、Thomas Vautrolierが権利を持っている、『ラテン語から訳された英訳聖書』」というのに注目し、これがヴェーバーの言う、「(vocationという訳 語を採用した)エリザベス朝のイギリス国教会の宮廷用聖書(複数)」ではないかという仮説を提示した。このVautrolier版を上掲書で探した結果、 141番と142番が、Vautrolierの出版によるものだった。しかしながら、141番はジュネーブ聖書、142番は主教訳聖書であり、残念ながら 仮説を裏付けるような「新たなラテン語からの英訳聖書」は発見できなかった。もちろん、このHerbert本が歴史上存在したすべての印刷聖書を網羅して いるわけではないだろうが、さすがにここに採り上げられていないものまで、ヴェーバーが参照したであろうとするのは、いわば贔屓の引き倒しであろう。


  ここに来て、再度仮説を修正する必要が出てきたようである。冷静に、上掲表を眺めていると、圧倒的に多く出版されているのは、ジュネーブ聖書とその改 訂版、および主教訳聖書であることがわかる。筆者がハイデルベルク大学の図書館カタログの中に見つけた「1599年 Chistopher Barker版聖書」も、おそらくは上掲表の248~255番あたりの、「Geneva Version; with Tomson's NT,but with Junius's Revelation」ではないかと思う。ヴェーバーが英訳聖書の訳語に言及するのに、ここまで探して見つからないようなマイナーな聖書のものに言及し、 このジュネーブ聖書のようなもっともメジャーな聖書を無視するというのは非常に考えがたい。どうやら我々は「「……この恐るべき『ジュネーヴ聖書』を『エ リザベス女王時代の英国国教会の宮廷用聖書』と呼び、またカトリック聖書と並べて『ヴルガータにならって再び“vocation”に戻っている』などと称 するのはほとんど考えがたい錯誤なのであるが」といった、羽入論文の偏見に満ちた叙述に判断を誤っていたのではないだろうか。ヴェーバーは"die hoeffischen anglikanischen Bibeln der elizabethanischen Zeit"と書いているだけである。第 3稿で述べたように、Christopher Barkerら、宮廷公認印刷商が、「宮廷の許可を受けて」(当時イギリスでの聖書の印刷・出版は許可制であり、勝手に印刷した場合は最悪死刑になった) ジュネーブ聖書に基 づく聖書を印刷・出版していたのである。これを、イギリス国教会の「教会での」正式聖書であった大聖書や主教訳と区別するために、 "hoeffischen"(宮廷の)という表現を取っただけではなかろうか。


  ちなみに、ジュネーブ聖書の「恐るべき」という性格、特に「欄外注」について、これも羽入式の誇張がかなり入っており、田川建三によれば、その「欄外 注」は「訳文だけではわかりにくい個所の意味の解説、古代のユダヤ教の習慣や思想の背景の解説、等々である。我々の目からすれば、まことに穏健で、親切な 学問的解説、というにすぎない。」というものである。3)た だ、エリザベスの次のジェームズ王については、確かにこのジュネーブ聖書の欄外注にある、「王権を否定するような表現」が気に入らず、この聖書のイギリス での印刷を禁じ、結局欽定訳をまとめあげることになるのだが、少なくともエリザベスの時代にはそこまで否定的には扱われていなかったことに注意すべきであ る。


  次に、ジュネーブ聖書の1560年版とそれに基づくその後出版された聖書で、コ リントⅠ 7.20が、ティンダル訳や、1557年ジュネーブ新約聖書で"state"であったのが、"vocation"に戻っている理由について、臆説ではある が根拠をいくつか提示してみたい。

  1. ジュネーブ聖書が翻訳された当時のジュネーブは、カルヴァン派を中心として、当時のヨーロッパの古典語研究の最先端の学者が集まっていた。た とえば、カルヴァンの後継者である、テオドール・ド・ベーズによるベザ写本の発見などを、その成果の一つとして思い起こすとよい。 ジュネーブ聖書は、カルヴァン派による、ティンダル訳のより学問的な改訂、という性格が強く、コリントⅠ7.20の訳語の選択においても、より意味の広い "state"よりも、意味の限定性が強いラテン語起源の"vocation"が改訂の結果、選ばれたのではないか。

  2. OED(CD-ROM版)によると、"vocation"のcallingに通ずる意味(1.b)"The action on the part of God (or Christ) of calling persons or mankind to a state of salvation or union with Himself; the fact or condition of being so called. (Cf. calling vbl. n. 9.)"の用例として、"1561 T. Norton Calvin's Inst. iii. 306 As by vocation and election God maketh his elect. "(強調・下線は筆者)が挙げられている。この用例は、ジュネーブ聖書とほぼ同時代のカルヴァン派の文書に登場するものであり、"vocation"とい う語が、カルヴァン派にとって非常に重要な意義を持つ"election"(神による、救いに値する人間の「選び」→預定説)と並置する形で使われている ことに注目すべきである。すなわち、"vocation"という語は、当時のカルヴァン派にとって特別な意味があり、敢えてコリントⅠ7.20の訳語とし て 選択された可能性が高い。

  3. OEDの2と同じ項目の用例で、"1526 Pilgr. Perf. (W. de W. 1531) 262b, That vnspekable mercy that thou shewed in theyr vocacyon or callynge."というのがある。すなわち、1535年のカヴァディール訳が"callynge"を採用する以前に、 すでにこの2語を等価的に見なすことが行われていた。ジュネーブ聖書の訳者が、カヴァディール訳での"callynge"、クランマー訳での "callinge"採用を確認しつつ、敢えてこれを等価な"vocation"に置き換えた可能性もある。(ちなみに、筆者第2稿で、カヴァディール訳 での"callynge"採用を、羽入の「唯一の」文献学的発見ではないか、と書いたが、その後の調査では、この例のようなカヴァディール訳以前の "callynge" 用例がOEDに登場するし、また、OEDのカヴァディール聖書からの用例引用もなんと2866個所もあるため、OEDがカヴァディール訳での "callynge"採用に気がつかなかったという可能性はほぼ0であることが判明した。所詮、羽入の自称「文献学」とOEDのそれでは、レベルにおい て雲泥の差がある、という例である。羽入のOED批判は折原が適切に例えた通り「蟷螂之斧」そのものである。)

  最後に、補足の情報として、このコリントⅠ7.20の訳語選択に重要である「ヘブライズム」について、調査結果を報告しておく。この部分が「明白なヘ ブライズム」であることは、ヴェーバー自身が、「メルクス枢密顧問官」4) に確認したこととして記述されている。ヘブライズム(より正確にはセミティズム)とは、 新約聖書のギリシア語原典に現れた、ヘブライ語(アラム語)風の言い回しの影響のことである。このヘブライズムについては、Meyers Konversationslexikonという1888年のドイツの古い辞書に説明がある。著作権は切れているので、その一部を引用すると、

formen, Perfektum und Imperfektum; dann einen Imperativ, Infinitiv und ein Partizipium,

durch welche wie auch durch Umschreibung alle Formen gebildet werden. Das Nomen (mit

zweifachem Geschlecht) ist meistens vom Verbum abzuleiten und wird durch Prafixe und

Suffixe,….

(筆者による日本語訳)

語形態、完了形、未完了系、そして命令法、不定法、分詞、それらによって、また語の形態変化によってすべての(変化)形態が形成されること。

名詞(2つの性を持つ)は、多くの場合、動詞より派生し、それも前綴りや後綴りをつけることで作られ、(以下略)


ということになる。ヘブライ語では、筆者が調べた結果では5)子 音を3つ組み合わせた形を語根(ショレシュ)といって、単語の構成要素になって、次々に派生した単語が作られるということである。ヴェーバーが例に挙げて いる、lkh→melakhaがまさにそれに該当する。従って、この部分をヘブライズムを意識しながら訳す時は、まさにヴルガータ訳の"in qua vocatione vocatus est"のように、"vocare"という動詞から派生した"vocatus"という分詞形、"vocatione"という動詞より派生した名詞形が照応 するような形で訳すことが行われる。ルターのドイツ語訳において、"rufen"という動詞から、その語幹である"ruf"を取り、それをそのまま名詞化 した"Ruf"や前綴りを付けた"Beruff","Beruf"が使われているのは、まさしくヘブライズムの忠実な反映を意図してのものであろう。


  英語訳においては、おそらく英語のこのような形での造語力がヘブライ語やドイツ語より弱いという事情から、初期の翻訳では古典研究の進んだジュネーブ 訳でも、ヘブライズムを忠実に反映した訳語ではないものが選択されている。しかしながら、結局のところ、ティンダル訳から約75年を経て、"in the same callinge, wherin he was called" という、ヘブライズム的な訳に収束するのである。この場合、"callinge"という「見慣れぬ」名詞形が、この75年間の間に、「状態、身分、職業」 という形で意味の定着を見たからこその訳語定着であるともいえ、この部分の訳については、ヘブライズム的な言語学的理解と、言語ゲマインシャフト形成の社 会学的理解、の両方が必要であり、ヴェーバーはその両方をきちんと行っていると思う。


  本稿をもってして、2004年春より約半年に及んだ、筆者の羽入論考批判の最終版としたい。結論を述べれば、羽入論考というのは、未熟な研究者によ る、優れた先達へのいわれなき冤罪捏造事件であった、といえる。


以上

脚注

1) A.S.Herbert, Historical catalogue of printed editions of the english bible 1525 - 1961, revised and expanded from the edition of T.H.Darlow and H.F.Moule, 1903, LONDON The British and Foreign Bible Society, NEW YORK, The American Bible Society,1968

2) Alfred W. Pollard, "Records of the Englsih Bible, the documents relating to the translation and publication of the bible in English, 1525-1611",Oxford University Press, 1911

Reprint: Wipf and Stock Publishers, 2001

3) 田 川建三、「書物としての新約聖書」、勁草書房、1997年

4) ハ イデルベルク大学神学部の神学教授、オリエンタリストであった、Adalbert Merxのこと。Web百科事典の記事を 参照。Friedrich Wilhelm Grafの"The German Theological Sources and Protestant Church Politics"("WEBER'S PROTESTANT ETHIC Origins, Evidence, Contexts, Hartmut Lehmann and Guenther Roth編, CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS, 1993")によれば、ヴェーバーはハイデルベルク大学で、E・トレルチから全般的な神学に関する知識を得る一方で、旧約聖書関連はこのMerxから、新 約聖書関連はAdolf Deissmannから情報を得た、ということである。

5) 池田潤、「ヘブライ語のすすめ」、ミルトス、1999年など。


丸山尚士「1583年と 1599年のChristoper Barker出版聖書(京都外語大学図書館所蔵)の調査結果」

2004年11月07日(本コーナーへの寄稿)

1583年と 1599年のChristoper Barker出版聖書(京都外語大学図書館所蔵)の調査結果

丸山尚士

2004年11月07日


  最終論考を発表した後に、さらに 追加調査を発表するのも変だが、ハイデルベルク大学図書館にあったのと同じものであろうと思われる、Christpher Barker出版の聖書が、京都外国語大学の図書館にあることがわかったので、現物調査のため同館を訪れ、閲覧させてもらった。以下はその調査結果であ る。(なおできれば写真を掲載したかったが、複写・写真撮影は許可されなかった。)


1.調査した聖書


http://www.kufs.ac.jp/toshokan/coll/05-seisho.htm  にある京都外国語大学の図書館が所蔵している英訳聖書のうちの次の2つの版。


(1) Bible = The Bible. -- London : Christopher Barker, 1583.『聖書』(英語)

(2) Bible = The Bible : That is The holy scriptvers conteined in the Olde and Newe Testament...

  -- London, 1599.『旧約・新約聖書』(英語)


2.それぞれの現物調査結果


(1) The Bible 1583 Christoper Barker


・サイズ

12’X 19’(30.48cm X 48.26 cm)、いわゆるfolioサイズ。百科事典の約1.5倍程度の大きさであり、持ち運ぶのはかなり困難。


・箱

外箱(木か紙製)が付属するが、その表紙には何故か「Cranmer Bible」と書いてある。

(中身は後述する通り明らかにGeneva聖書であり、この箱は後から間違えてつけたものか?)


・表紙タイトル

THE BIBLE

Translated according to the Ebrew

and Greeke, and conferred with

the best translations in di-

vseis Languages


With most profitable Annotaitons vpon all the

hard places, and other thing of great im-

portance, as may appreare in the E-

pistle to the Reader、


IMPRINTED AT LON-

don, by Christoper Barker,

Printer to the Queens most excel-

lent Majestie

1583

Cum gratia & priuilegio


(注:中身がGeneva聖書であることがわかるようなことはまったく書いていない。注釈付きということも、この当時の英訳聖書としては珍しくないので、 これだけからGeneva聖書とは特定できない。)


・新約部分のタイトル

THE

Nevve Testament

of our Lord Iesus

Chsrit,

Conferred diligently with

the Greeke, and

best approued

translations in diuers

languages

Imprinted at London by

Christpher Barker

(中略)

1583


・活字

ゴシック体、注釈はロマン体


・内容

-エリザベス女王への献呈文

-Cranmerによる序文(→これがあるために、外箱はCranmar聖書と間違えたのかもしれない。)

-聖書関連の地図

-アダムとイヴからの系図を絵図にしたもの

-1578~1610年までのカレンダー、1月~12月のカレンダー

-聖書に関するQ&A

-旧約聖書、旧約聖書続編(外典)、新約聖書、索引他

-本文は注釈付き

などなど、非常に豪華で至れり尽くせりの内容の聖書


・分類

おそらく、Herbert#178。1560年版Geneva聖書がベースになっていることは、下記のテキスト調査の結果疑いようがない。



(2) Bible = The Bible : That is The holy scriptvers conteined in the Olde and Newe Testament...

  -- London, 1599.『旧約・新約聖書』(英語)

  

・サイズ

約17.5cm X 約22 cm (B5判と菊判の間くらいの大きさ)


・表紙タイトル

THE BIBLE

THAT IS, THE HO

LY SCRIPTVRES CONTEIN

NED IN THE OLDE AND NEWE

TESTAMENT

TRANSLATED ACCORDING

to the Ebrew and Greeke, and conferred with the

best translations in divvers languages

With most profitable Annotations vpon all the hard places

and other things of great importance.


(中略:Exodusからの聖句引用)

IMPRINTED AT LONDON

by the Deputies of Christoper Baker, Printer to the

Queenes most, excellent Majesstie,

1599 Cum priullegio


・新約部分のタイトル

THE

NEW TEST-

ment of our Loard

Christ, Translated out of

Greeke by Theod. Beza.

With briefe summaries and expositions vpon the

hard places by the said Author, Ioac Camer,

and P. Loseler, Villerius.

Englished by L. Thomson.

Together with the Annotations of Fr.Iunis vpon

the Reueletion of S. IOHN.


(この新約のタイトルには、本聖書が、{Geneva聖書の新約を}Thomsonが改訂し、さらにヨハネ黙示録の注釈をJuniusが改訂したものであ ると言うことが明記されている。)


・活字

本文、注釈ともすべてロマン体。注釈の活字サイズは非常に小さい。その部分の印刷技術は優れているが、位置合わせは未熟であり、しばしば縦横にぎりぎりま で印刷された注釈の一部が切れていたりする。


・内容

(1)と違い、旧約と新約、系図、索引程度。旧約続編(外典)は目次には出ているが、本文中には存在しない。(別に印刷されたものから旧約続編のみを除い て再出版された可能性がある。つまりある種の「海賊版」である可能性が高い。http://www.drgenescott.org/stn25.htmの "The Dr. Gene Scott Bible Collection"でも、同じ1599年版へのコメントとして、"Without the Apocrypha (which was omitted from many "pirates" )"とある。)


・分類

本書の中にタイプ打ちのメモがはさんであり(誰が書いたかは不明)、それによると、

Date & imprint false - pr. in Amsterdam or Geneva for the use of English-speaking puritans in the Low Countries, とある。(注:Low Countries=オランダ)


いずれにせよ"Geneva Version; with Tomson's NT,but with Junius's Revelation"であり、Herbertの分類番号で248~255のどれかであると思われる。Herbertの本にも、1599年という出版年と 印刷地が疑わしく、アムステルダムで印刷された可能性が示唆されている。


3. テキストの比較


1583年版と1599年版からテキストを抜き出し、Latin語訳、欽定訳、ルター訳1545年版等と比較した。コピー・写真撮影が禁止されていたた め、すべて手で書き写した。このため、活字の読み違い(特に1583年版のゴシック体活字)、写し間違いが若干含まれていることを承知した上で読んで欲し い。(一部、u-v-wなどの現在との表記の違いを、わかりやすさのため修正した場合も、そのままにした場合もある。)


以下、比較のために挿入した他の訳のうち、

LatinとKJV(欽定訳)は

http://www.sacred-texts.com/bib/#features  のもの

Luther 1545年の新約聖書部分は、レクラム文庫版、旧約は

http://bible.gospelcom.net/bible?language=german&version=LUTH&passage=all  のもの。


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Genesis 3.7

(Geneva聖書は、アダムとイヴが局部を隠すためにつづり合わせたイチジクの葉を「breeches」(半ズボン)と

訳しており、俗称で「breech bible」と呼ばれる。)


Latin

et aperti sunt oculi amborum cumque cognovissent esse se nudos consuerunt folia ficus

et fecerunt sibi perizomata.


1583 Geneva (Christopher Barker)

Then the eyes of them both were opened, and they knew that they were naked,

and they sewed figge tree leaves together, made them selues breeches.


1599 Geneva; with Tomson's NT,but with Junius's Revelation (Christopher Barker)

Then the eyes of them both were opened, and they knew that they were naked,

and they sewed figge tree leaves together, made themselues breeches.


1611 KJV

And the eyes of them both were opened, and they knew that they were naked;

and they sewed fig leaves together, and made themselves aprons.


Luther 1545

Da wurden ihrer beiden Augen aufgetan und wurden gewahr, dass sie nackend waren,

und flochten Feigenblaetter zusammen und machten ihnen Schuerze.


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Corinthians I 7.20


Latin

unusquisque in qua vocatione vocatus est in ea permaneat.


1583 Geneva (Christopher Barker)

Let every man abide in the same vocation wherein he was called.


1599 Geneva; with Tomson's NT,but with Junius's Revelation (Christopher Barker)

Let every man abide in the same vocation wherein he was called.


1611 KJV

Let every man abide in the same calling wherein he was called.


Luther 1545

Ein jglicher bleibe in dem ruff darinnen er beruffen ist.


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Sira 11.20, 11.21


1583 Geneva (Christopher Barker)

11:20 Stand thou in the state, and execise thy selfe therein, and remaine in the worke

unto thine age.

11:21 Marveile not at the works of sinners but trust in the Lord, & abide in thy labour;

for it is an easie thing in the sight of Lord, suddenly to make a poore man riche.


1599 Geneva; with Tomson's NT,but with Junius's Revelation (Christopher Barker)

(外典は目次にはあるが、実際には英訳は収録されていない。)


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Revelation 11.7 への注釈

(Geneva聖書の特徴の一つである、カトリックを攻撃する過激な注釈の典型例。)


新共同訳での本文

二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、

二人を殺してしまう。


1583 Geneva (Christopher Barker)

That is, the Pope which hath his power out of hell


1599 Geneva; with Tomson's NT,but with Junius's Revelation (Christopher Barker)

That beast is the Roman Empire, made long agoe of civille, Ecclesiasticall: the

chiefe heade where of was then Boniface the eight, as I said before: who lifted

up themselve in so great aggony ...(以下略)


http://www.reformed.org/documents/geneva/rev_chapters/revelation_11.html

にあるテキストでは、以下の通り:

(11) Of which after Chapter 13, that beast is the Roman Empire, made long ago of civil,

ecclesiastical: the chief head of which was then Boniface the eighth, as I said before:

who lifted up himself in so great arrogancy, (says the author of "Falsciculus temporum")

that he called himself, Lord of the whole world, as well in temporal causes, as in spiritual:

There is a document of that matter, written by the same Boniface most arrogantly, shall

I say, or most wickedly, "Ca. unam sanctam, extra de majoritate & obedientia." In the sixth

of the Decretals

(which is from the same author) many things are found of the same argument.


丸山注:Boniface the eight(h)→ローマ教皇ボニファティウス8世(在位:1294~1303)。

ローマ教皇の地位がもっとも強大だった時代のローマ教皇。フランス国王と諍いを起こし、後の

「アヴィニョン捕囚」のきっかけを作り、教皇の地位低下を招いた。詩人ダンテはフィレンツェと

教皇の争いによって、この教皇から永久追放の判決を受け、その恨みもあってか「神曲」の中で

この法王を地獄に堕としている。この注釈はそれと関係しているのかもしれない。


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Corinthians I 1.26


Latin

videte enim vocationem vestram fratres quia non multi sapientes secundum carnem non multi

potentes non multi nobiles


1583 Geneva (Christopher Barker)

for brethren, you see your calling, how that not many wise men after the fleth, not many

mightie, not many noble [are called].


1599 Geneva; with Tomson's NT,but with Junius's Revelation (Christopher Barker)

1583と同じ、但し最後の[]の部分がイタリック体。


1611 KJV

For ye see your calling, brethren, how that not many wise men after the flesh, not many

mighty, not many noble, are called:


Luther 1545

SEhet an lieben Bruder ewren beruff Nicht viel Weisen nach dem fleisch nicht viel Gewaltige

nicht viel Edle sind beruffen


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Ephesians


Latin

1.18

inluminatos oculos cordis vestri ut sciatis quae sit spes vocationis eius quae divitiae

gloriae hereditatis eius in sanctis

4:1

obsecro itaque vos ego vinctus in Domino ut digne ambuletis vocatione qua vocati estis

4.4

unum corpus et unus spiritus sicut vocati estis in una spe vocationis vestrae


1583 Geneva (Christopher Barker)

1.18

…what the hope is of his calling

4.1

…worthy of vocation whereunto ye are called

4.4

…as ye are called in one hope of at your vocation


1599 Geneva; with Tomson's NT,but with Junius's Revelation (Christopher Barker)

1.18

(1583年版に同じ)

4.1

…worthy of the vocation whereunto ye are called

4.4

…as ye are called in one hope of your vocation


1611 KJV

1.18

…what is the hope of his calling

4.1

…worthy of the vocation wherewith ye are called

4.4

…as ye are called in one hope of your calling


Luther 1545

1.18

…welche da sey die hoffnung ewres Beruffs

4.1

…wie sichs geburt ewrem Beruff darinnen jr beruffen seid

4.4

…Wie jr auch beruffen seid auff einerley Hoffnung eweres beruffs.


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Thessalonians II 1.11


Latin

in quo etiam oramus semper pro vobis ut dignetur vos vocatione sua Deus et impleat

omnem voluntatem bonitatis et opus fidei in virtute


1583 Geneva (Christopher Barker)

God may make you worthie of [his] calling


1599 Geneva; with Tomson's NT,but with Junius's Revelation (Christopher Barker)

God may make you worthy of this calling


1611 KJV

that our God would count you worthy of this calling


Luther 1545

Das vnser Gott euch wirdig mache des Beruffs vnd erfulle

alles wolgefallen der gute


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Hebrews 3.1


Latin

unde fratres sancti vocationis caelestis participes considerate apostolum et

pontificem confessionis nostrae Iesum


1583 Geneva (Christopher Barker)

…partakers of the heavenly vocaion


1599 Geneva; with Tomson's NT,but with Junius's Revelation (Christopher Barker)

(1583年版に同じ)


1611 KJV

…partakers of the heavenly calling


Luther 1545

…die jr mit beruffen seid durch den himlischen Beruff nemet war...


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Petro II 1.10


Latin

quapropter fratres magis satagite ut per bona opera certam vestram

vocationem et electionem faciatis haec enim facientes non peccabitis aliquando


1583 Geneva (Christopher Barker)

therefore, brethren, giure rather dilligence to make your calling and election

fure: for if ye doe these things, ye shall newer fall.


上記への注釈

Albeit it be sure in it selfe, for as much as God can not change:

yet we must confirme it in our selues, by the fruits of the spirit,

knowing that the purpose of God electeth, calleth, sanctitieth, and

iustifieth us.


1599 Geneva; with Tomson's NT,but with Junius's Revelation (Christopher Barker)

Wherefore, brethren, giure rather diligence to make your calling and election

fore: for if ye doe these things, ye shall neuer fall.


上記への注釈

The conclusion: Therefore seeing our calling and election is approved by those

fruits, and is confirmed in vs, and moreouer seeing this is is the onely way

to the euer-lasting kingdome of Christ, it remainneith that we cast our minds

wholly that way

1611 KJV

Wherefore the rather, brethren, give diligence to make your calling and election

sure: for if ye do these things, ye shall never fall


Luther 1545

DArumb lieben Bruder thut deste mehr vleis ewern Beruff vnd Erwelung fest zu machen.

Denn wo jr solchs thut werdet jr nicht straucheln


4. 考察


(1) Geneva聖書といっても、上記の2つの版を見ただけでも、外見、タイトルなど大きく異なっている。このため、Geneva聖書と一口に言うのは非常に 誤解を招きやすい。


(2)(1)と同じ理由で、非専門家にとっては、16世紀の英訳聖書の中身を現物から正しく理解するのは容易なことではない。


(3)1583年版のように、中身はジュネーブ聖書1560年版でありながら、クランマーの序文とエリザベス女王への献呈文がつき、サイズも大聖書(クラ ンマー聖書)と同じなど、非常に紛らわしいものがある。(実際に外箱は間違えている。)


(4)1599年版は、ハイデルベルク大学の図書館にもあったものと同じ系統のものではないかと推定する。これがハイデルベルク大学の多くはない英訳聖書 の中にあったのは、大陸で印刷されて主としてオランダなどで出回った海賊版であったため、イギリス本国ではなく、ハイデルベルク大学図書館が入手しやすい 大陸に残っていたのではないかと思う。現時点では、ハイデルベルク大学図書館の1599年版が、ヴェーバーの時代から既にあったものかどうか、またヴェー バーがそれを参照できたかどうかは不明である。ヴェーバーはドイツ語訳の聖書については、ルター訳以前のものをハイデルベルク大学図書館で調査していると いう記述が「倫理」論文中に出ている。(大塚訳岩波文庫、p.102)


(4)ヴェーバーの言う、"die hoeffischen anglikanischen Bibeln der elizabethanischen Zeit"とは、ここまでの調査結果によれば、やはりエリザベス1世の時代のイギリスでもっとも多く出版されたジュネーブ聖書ベースの聖書を指していると 考えるのが妥当だと思う。この場合、ヴェーバーの「エリザベス時代のイギリス国教会の宮廷用聖書」という言い方は、わかりやすくはないが、この時代の英訳 聖書の複雑な性格をある程度説明しており、最適な表現とは言い難いが、不正確であるとまでは言うことはできない。1583年版などを見れば、なるほどクラ ンマーの序文まで入っており、「イギリス国教会の」という言い方は間違いではない。また女王公認の印刷者によって印刷され、女王への献呈文もあることか ら、「宮廷用」という言い方も決して間違いではない。ただし、ヴェーバーがGeneva聖書を巡る複雑な印刷事情まで十分把握していたかどうかは、「倫 理」論文からは確認できない。もっとも、そのヴェーバーを批判する羽入の方も、ヴェーバー以上にこうした事情をきちんと把握していないので、この点で ヴェーバーを批判する資格は羽入にはない。筆者が調査した限りでは、羽入の英訳聖書の理解は、若干のファクシミリ版のオリジナル聖書を入手した以外は、ほ とんどが「永嶋大典、1988、『英訳聖書の歴史』、研究社」によっている。この研究書は労作ではあるが、何箇所かで不正確な記述が散見され、羽入がジュ ネーブ聖書の1557年版をジュネーブ聖書ではない、と勘違いしたのも、元はこの研究書の記述によるもののようである。{他の文献で裏付けを取るなど十分 調査しないで表面的な記述を鵜呑みにした羽入の責任であって、著者の永嶋氏の記述自体に責任があるわけではない。}その他、羽入は、羽入論考の文献表によ れば1611年欽定訳のA.W.Pollard監修版を入手しているので、それにつけられたPollardの50ページに及ぶ英訳聖書史概説も読むことが できた筈である。しかし、それを読んで理解した形跡は羽入論考からは窺えない。ほぼ日本人が書いた概説書にだけに頼って修士・博士論文を書き、それを糊塗 するためか、いかにも私は1次資料を調査しましたとばかり、ファクシミリ版等の写真を飾り立て、かつその程度の浅い研究調査でOEDやヴェーバーを間違っ ていると断定する、これが羽入本の実態である。


(5)1583年版と1599年版では、誤植の訂正程度ではない、語句の修正や、注釈の修正・追加が確認でき、Herbert本が正しくそうしているとお り、別の版として扱うべきである。


(6)ジュネーブ聖書の1583年版、1599年版の両方において、vocation/callingは揺れていて、一貫してどちらかの訳語に統一するこ とは行われていない。筆者の第 4論考で、"vocation and election"という表現にカルヴァン派独自の表現のこだわりがあったのでは、と書いたが、実際には、Petro II 1.10で"calling and election"という表現も出てくるので、この仮説は間違いであった。ルターが一貫してラテン語聖書では"vocation"であるところに、 ruffまたはBeruffを当てているのと対照的である。KJVにあっても、ほぼcallingに統一されてはいるが、一部"vocation"も残っ ている。ヴェーバーは倫理論文で「…≫Beruf≪「天職」という語は、最初はただルッ ター派の間にだけ限られていた。カルヴァン派は旧訳外典を聖典外のものと考えていた。彼らがルッターのBeruf(天職)概念をうけいれ、これを強調するようになったのは、事態の発展に伴っていわゆる 「救いの確証」≫Bewaehrung≪の問題が重要視されるにいたった結果だった。…」(「倫理」大塚訳岩波文庫、p.107、傍点を強調に変更)と書 いている。このことは、今回の調査でも確認でき、妥当であるように思う。


(7)ジュネーブ聖書の欄外注でもっとも辛辣な例として有名な、ヨハネ黙示録11.7への注の部分は、1599年で表現が改められている。しかし、より具 体的な法王の名前が入るなどしており、この部分へのカルヴァン派のこだわりについては、理由は現時点ではよくわからない。

なお、参考までに、ジュネーブ聖書の全注釈は、

http://www.reformed.org/documents/index_docu.html#Anchor-INDEX-47383

にて確認可能。(表記などは現代英語に改められている。)


※最後に、本稿の調査にあたり、京都外国語大学図書館および徳島県立図書館に便宜を図っていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

(ただ願わくは、閲覧手続きをもう少し簡略化し、また社会人のために土曜日の閲覧を認めていただければと思います。)



以上


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-1)」

2004年11月12日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-1)

折原 浩


2004年11月12日

はじめに

 羽入書第三章「フランクリンの『自伝』をめぐる資料操作――『理念型』への固執――」は、下記六節から構成されている。

第一節 フランクリンの功利的傾向

第二節 「神の啓示」の謎(1)

第三節 「神の啓示」の謎(2)

第四節 フランクリンの倫理の非合理的超越

第五節 『自伝』におけるコンテキスト

第六節 倫理的観点から見た「資本主義の精神」の不成立

 第一節で、羽入は、ヴェーバーが「フランクリンの功利的傾向」を「否認し」――ということはつまり「資本主義の精神」(以下「精神」)の理念型から「しりぞけ」――、その「論拠」として三点を挙示した、とする。すなわち、①『自伝』に表れたフランクリンの「正直な」性格(以下「論拠①」)、②徳の「有益性」という観念を神の「啓示」に帰している事実(「論拠②」)、③貨幣増殖を「最高善」として追求する姿勢の(現世の幸福/快楽/利益にたいする)非合理的超越(「論拠③」)の三つである。羽入は、そのうえで、論拠①は「個人の好みの問題」にすぎず、学問的な議論の対象とはならない、として棚上げし(いずれにせよ、論拠として薄弱である、として棄却し)、②と③を取り上げて反論する。第二/三節では、論拠②にかんして、ヴェーバーのいう「啓示」が『自伝』を詮索しても検出されず、ヴェーバーが「フランクリンの功利的傾向」の「否認」を焦るあまり、テクストを「読み誤った」のであろうと、例によって延々と論じる。第四節では、論拠③にかんして、フランクリンの営利追求に「非合理的超越」は認められないと主張する。第五節では、フランクリンが『自伝』中で『箴言』22: 29を引用した直後に「勤勉が富と名声を得る手段と心得た」と述べているくだりを捕らえて、「倫理性」を「否認」する言表と解し、③の「非合理的超越」説を「グロテスクなまでの暴論」と決めつける。第六節の結論では、ヴェーバーの三「論拠」をすべて「棄却」しえたとの想定のもとに、「精神」の「倫理性」とは、一方では『自伝』中の「啓示」の解釈を誤り、他方では『箴言』句引用のコンテクストを「恐らく意図的に無視し」(190)て、捏造され、固執された虚構である、と断定する。そうしたうえで、「世間では普通、こうした作業を指して『でっち上げ』と言い、そうした作業をした人物を『詐欺師』と呼ぶ」(191)と宣告している。

 そこで、以下、羽入の六節に対応させて六節(§§1~6)を設け、それぞれの論旨に内在して批判を加え、羽入の「知的誠実性」を問うとしよう。批判/反論の趣旨は、下記のとおりで、羽入書第一/二章にたいする批判(本コーナー掲載の「『末人』の跳梁――羽入『ヴェーバー詐欺師説』批判結語(その1)(その2)」)のばあいと同様である。

 そもそもヴェーバーは、同じく本コーナーに掲載の拙稿「マックス・ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム」で、「倫理」論文の論理展開に即して論定したとおり、フランクリンの説く「道徳的訓戒功利的傾向を、羽入のように「フランクリンの功利的傾向」と取り違えて「否認」したりはせず、「精神」の理念型(「歴史的個性体」としての「理念型複合」)に、いわば「第二要素」として取り入れている。しかも、この独特の「功利的傾向」を、「第一要素」として措定されたエートスの構造に根ざしながら、一人歩きしてエートス性を掘り崩しもする動的契機(いうなれば「鬼子」)として押さえ、まさにそこから、いわば「第三要素」として、(「職業義務の思想」一般ではなく、『箴言』22: 29の引用に象徴され、ルターには「わざ誇り」「行為主義」としてしりぞけられた)独特の「職業義務観」という対抗力を索出し、その「宗教的背景」を予示しつつも、まずは「精神」を、(一方に、当の職業義務観に由来するエートス性・「価値合理性」、他方に、功利的傾向・「目的合理性」という)互いに相対立する二傾向間の動的均衡として、捉え返している。こうした概念構成によって、「精神」総体から「価値合理性」が薄れ、「目的合理性」が優勢となって「純然たる功利主義」に解体する経緯を、それだけ動態的に、だが「固有法則性」に則った経過として捉え、これを規準に、中世末から現代にいたるヨーロッパ精神史の「理念型スケール」を構成しているのである。

 それにたいして、羽入には、そういう「理念型思考のダイナミズム」が把握できない。ということは、「倫理」論文を方法論文献と結びつけて正確に解読していない、ということであろう。羽入はむしろ、「暫定的例示」手段のかぎりにおけるフランクリン文書への論及を、フランクリン総体対象とする「固有の意味におけるフランクリン研究」と混同し、当のフランクリンの人物ないし人柄について「倫理的か、功利的か」の生硬な二者択一を振りかざし、「前者でな

ければ後者」と速断する形式論理に凝り固まるあまり、これを「ヴェーバー」に持ち込み、彼我の区別もつかず、ヴェーバーもまた(「倫理性」を救い出すために)功利的傾向を「否認した」と早合点する。あとは、こうした彼我混濁の独り合点のうえに、「否認の三論拠」を虚構し、それらにこれまた(以下で論証するとおり)杜撰で恣意的な「反論」を加え、独善的な「結論」を引き出し、「ヴェーバー」を「詐欺師」と断罪して「能事終われり」とするだけである。

 したがって、一方では、ヴェーバーが「功利的傾向」を「否認した三論拠」という羽入の問題設定自体を、「疑似問題」として暴露した拙著『ヴェーバー学のすすめ』第二章第11節以下と、他方では、「倫理」論文第一章第二節「資本主義の『精神』」の叙述に内在し、とくに方法論との関連を前景に取り出しながら、ヴェーバーが「功利的傾向」を「否認」せず、「歴史的個性体」としての「理念型複合」に意味深く取り入れる論理展開を追跡した前稿「マックス・ヴェーバーのフランクリン論」とによって、羽入書第三章にたいする学問的批判は、基本的/本質的にはすでに完結しているといえる。問題そのものが「疑似問題」であってみれば、羽入がそれをめぐってどんなに奮闘しても、たかだか「疑似問題」の「主」として虚構された「ヴェーバー藁人形」を撃てるにすぎず、(ヴェーバーその人を「詐欺師」「犯罪者」として打倒しようという)所期の目的が達成されるわけはない。あるいは、「功利的傾向」の論点を、ヴェーバー自身におけるコンテクストから「抜き取り」、羽入の形式論理と没意味文献学的些事詮索のコンテクストに「移し入れ」、そういう「意味変換操作」によって捏造された虚説を、いかに口をきわめて論難してみても、うわずった罵詈雑言として虚空に響くだけで、当該論点に本来そなわっている意義は微動だにせず、かえって論難者の軽挙盲動/非力浅学を映し出すばかりであろう。そういうわけで、もうこれ以上、羽入書とつきあう必要はない、といえばいえる。

 しかし、そうした内在批判をとおして否応なく明るみに出てくる羽入の執筆=虚説捏造動機を、なにか羽入個人の特異性に帰するのではなく、拙稿「虚説捏造と検証回避は考古学界だけか――『藤村事件』と『羽入事件』にかんする状況論的、半ば知識社会学的な一問題提起」(本コーナーに掲載)で試みたように、ひとつの社会現象として、現代大衆教育社会における構造的諸要因の一帰結として、捉え返していくと、「疑似問題」をめぐる学問的には無価値な「疑似論議、酔狂な徒労として笑殺するだけでは済まされない、「末人特有の問題性を露呈しており、そうした問題を具体的に研究する格好のデータとして、新たな意義を取得する。すなわち、学問的業績の達成には欠くことのできない、粒々辛苦の地道な研鑽努力に耐えられず、耳目聳動的な「スタンド・プレー」で「大向こうを唸らせ」、一挙に学界の「寵児」「チャンピオン」に躍り出ようという「末人流の動機が、「学問的批判」を装う叙述のなかに、どのように作用、浸透して、そのじつ学問性を損ね、本人には半ば意識されないままに「みずから墓穴を掘っている」か、――そうした具体相を剔抉する「反面教材データとしては、羽入書の活用も可能なのである。そのようにして、本人の知的誠実性にもとづく自己批判と立ち直りをあくまで促すと同時に、同じ構造的圧力にさらされている羽入予備軍には、同じ轍を踏むまえにみずから軌道を修正するように、警告を発し、負の教訓を提供することができよう。羽入書という「末人」跳梁のデータから、「疑似問題」の設定手順ばかりか、それをめぐる「疑似論議」「似而非論証手法も探り出して類型的に提示しておけば、よもや「二番煎じ」を演じようという物好きは、当分は現われないであろう。また、羽入書が、一方では、東京大学大学院人文・社会系研究科倫理学専攻の指導教官/論文査読委員/助手(本名はいずれ明らかにされるから、そのまえにみずから名乗り出て、応答責任を果たすがよい)から、日本倫理学会の「和辻賞」選考委員まで、他方では、越智武臣のような「歴史家」から、加藤寛/竹内靖雄/中西輝政/山折哲雄/養老孟司/江口克彦ら「山本七平賞」選考委員にいたる「大衆人評論家」までを、なぜかくも容易に「誑かす」ことができたか、――羽入書側の「手法」を明らかにし、それに「乗せられた」評者側の評価能力不備も具体的に剔出し、双方の学問的責任を明確にし、よってもって学問的業績にかかわる全社会的な評価システムの攪乱と価値規準の頽落(「下降平準化」)傾向に暫し歯止めをかけ、責任性回復へのよすがとすることもできよう。そういうわけで、一見「屋上屋を架す」「無用の縷説」と思われようし、「ヴェーバー研究者」のなかには「見てみぬふり」の弁明としてそう思い込みたがる向きもあることは重々承知したうえで、それにもかかわらず、いなむしろまさにそうであればこそ、羽入流の「疑似問題」設定そのものばかりか、そのうえに立つ「疑似論議」「似而非論証の中身にも内在批判を延長し虚説捏造の手法を徹底して暴いておくことが、避けて通れない課題となるのである。

 羽入は、第三章を、「資料の扱い方が雑であれば、いきおい、資料の読み方も雑となる。本章ではそのうちでも最も分かりやすい例示として、中学英語さえ分かれば誰にでも分かる杜撰な例を取り上げよう。ヴェーバーのフランクリンの『自伝』の読み方である」(139)と切り出している。これは面白い。杜撰なのは、羽入の主張どおりヴェーバーか、それとも「大向こうを唸らせ」ようとこうして「啖呵を切って」しまい、ブーメラン効果を満喫する「ポピュリスト(大衆迎合論者)」のほうか、とくと拝見しよう。

 

第一節「精神」の理念型と功利的傾向――後者「否認の三論拠」虚構と、「フランクリンのキャラクター」論の回避

1.「精神」の理念型と「功利的傾向」との関係をどう捉えるか

 第一節で、羽入は、ヴェーバーが、「『資本主義の精神』の理念型を定式化したそのすぐ直後[sic]の部分で」(140)、「精神」の「倫理的性格」を強調したあと、「初めて……フランクリンの『自伝』に向かい」(141)、「フランクリンの道徳的訓戒がすべてalle moralischen Vorhaltungen功利的傾向を帯びている」(GAzRS, I, 34, 大塚訳、46、梶山訳/安藤編、94)事実を認めている、と(羽入も)認める。ところが、羽入は、ここで早くも、「功利的傾向」の担い手、あるいはそうした傾向を帯びているとして特徴づけられる対象を、「道徳的訓戒のすべて」から、丸ごとのフランクリンにすり替え、「こうしたフランクリンの極めて現実主義的で露骨な功利的傾向は、先ほどヴェーバーによってエートスと呼ばれるほどまでに特有の倫理的色彩を帯びたものとして構成された『資本主義の精神』の理念型とは鋭く相反し合うものと思われる」(142)と述べたうえ、そうした印象を(羽入が受けること自体は自由としても、それを)ヴェーバーに押しかぶせ、つぎのように推断する。

「ヴェーバーの構成した『資本主義の精神』にとって厄介なのはフランクリンの非常に現実主義的な功利的傾向であった。問題はいかなる論拠を用いて、彼がフランクリンの功利的傾向を、いったん構成した『資本主義の精神』の理念型脅かすほどのものではないとしてしりぞけているかである」(143)と。

ここから羽入は、当の「論拠」として三点(「論拠①②③」)を挙げ、「反論」を加え、「論拠を奪う」ことで、ヴェーバーは「理由なく」「フランクリンの非常に現実主義的な功利的傾向」を「否認」し、(顕著に「倫理的性格」を帯びたものとして)すでに構成定式化していた「精神」の「理念型固執した」との「結論」に持ち込み、そうした「資料操作」で読者を欺く「詐欺師」「犯罪者」である、との断罪をくだそうとするのである。

 さて、上記の行論からただちに読み取れるのは、羽入が、ヴェーバーは「精神」の理念型を定式化した後で、それとは別個のものとして、「フランクリンの非常に現実主義的な功利的傾向」問題の処理に当たり、(羽入の判断では)これが「精神」の理念型を「脅かすほど」「厄介」であるにもかかわらず、(ヴェーバーは)そうでないと強弁し、それを「しりぞけようとし」て三「論拠」を挙げた、と解している事実である。しかし、はたしてそうか。では、ヴェーバーは、「精神」の「理念型」を、どこでどのようにいかなる内容のものとして構成/定式化し、「功利的傾向」問題に転じたのか。「すぐ直前[sic]の部分」とはどこか。そのばあい、「理念型」とは、いかなる概念と解されているのか。「要素的理念型の複合」としての「歴史的個性体」概念のことか、それとも、当の「複合」に編入される一「要素」を指していっているのか。

 じつは、前稿「マックス・ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム」でつぶさに論じておいたとおり、ヴェーバーは、「倫理性ないしエートス性」と「功利的傾向」とを、(それぞれを別個に取り出してみれば、形式論理上は)「相反する」性質であるとしても、双方をあえて切り離さず、「歴史的個性体」としての「精神」に内属する対抗要素として、「精神」を双方の動的均衡において捉えていたのではないか。そうしてこそ、「理念型」が、動態把握の[1]思考法として活かせるのではないか。こうした疑問がつぎつぎに浮ぶと同時に、羽入が「倫理」論文の解読にとって基本的に重要な、こうした疑問点のひとつひとつに、(かれの習癖/通則どおり、自分の主観的印象を散発的に投げつけるばかりで、かれの印象を共有しない他者にも通じる)普遍妥当性をそなえた概念規定をもって答えてはいない――つまり、羽入の論述は全体として、学問としては許されない無概念印象批評の域を出ない――という事実[2]に否応なく気づかされるのである。

2.「精神」の理念型は、どこで、どのように構成されているのか――羽入の「完了」は、じつは端緒

 ではまず、ヴェーバーによる「精神」の理念型は、どこで構成されているのか。これについて羽入は、「『倫理』論文・第一章・第二節冒頭」(139)と述べるのみで、「冒頭」とはどの範囲をいうのか、例によってその位置を正確に特定していない。しかし、その「素材として、フランクリンの『自伝』は……使われてい」ず、「使われているのは、フランクリンによる二つの文章、『若き職人への助言』(……)と『富まんとする者への私信』(……)のみである」(139)と述べていること、また、「すぐ直後[sic]で」「資本主義の精神のもつ倫理的性格を……強調している」(140)として、第5段落(第一章第二節の冒頭から数えて第5番目の段落、以下同様)中程からの改訂増補部分(内容としては、「暫定的例示」としての二文書抜粋で説かれている「道徳的訓戒」が、「処世術」ではなく、「倫理」それも「エートス」である旨を述べている箇所)を引用していることからも、羽入が、第5段落の前半で「精神」の理念型構成ないし定式化がすでになされた、と見ていることが分かる。この点はまた、羽入が、羽入書第二章で、「ヴェーバーがフランクリンの二つの文章から『資本主義の精神』の理念型を構成した時点では、まだ『職業義務の思想』は『資本主義の精神』の内には含まれてはいなかった。そこでの『資本主義の精神』の定義にしたがえば、『自分の資本』……を大きくすることへの関心」……は、確かに『自己目的』としてはみなされていたものの、いまだ『職業義務』としてはみなされてはいなかったのである」(66)と述べ、テクスト読解としては杜撰な誤りではある[3]が、当該「時点は事実上特定しているところからも、傍証されよう。

しかし、はたして羽入のいうとおり、ふたつの文章の引用(第4段落)と、(概念上「処世術」と「倫理」、「倫理」と「エートス」とを区別して)「精神」を「エートス」と規定している改訂増補文との間に挟まれた数行(第5段落前半)で、すでに「精神」の理念型が構成され、定式化されている、といえるのであろうか。むしろ、そうした捉え方にはかえって、「理念型」理解の不備が露呈されているのではあるまいか。念のため、当該箇所の原文を邦訳して引用すると、つぎのとおりである。

「以上の文章は、フェルディナント・キュルンベルガーが、才知と悪意を散りばめた『アメリカ文化の姿』のなかで、ヤンキー主義のいわば信仰告白と呼んで嘲っているのと同じものであるが、ここでわれわれに説教している主こそ、じつはベンジャミン・フランクリンなのである。ここに特徴ある語り口で語り出されているのが『資本主義の精神』であることは、たとえこの『資本主義の精神』という言葉で理解される[諸要素の]すべてが含まれているとまでは主張できないとしても、なんぴとも疑いをさし挟まないであろう。キュルンベルガーの『アメリカにうんざりした男』は、そこに語り出されている処世知を『牛からは脂をつくり、人間からは貨幣をつくる』と要約している。そこで、われわれとしてもこの箇所にいましばらくとどま[り、そこに表明されている意味内容を詮索してみ]るとしようVerweilen wir noch etwas bei dieser Stelle, deren Lebensweisheit Kürnbergers »Amerikamüder« dahin zusammenfaßt: »Aus Rindern macht man Talg, aus Menschen Geld«。とすると、この『吝嗇の哲学』に顕著な特徴が、信用の置ける紳士der kreditwürdige Ehrenmannという理想、またとくに、自分の資本を増加させることへの利害関心が各人にとって自己目的であるという前提のうえに、そうした利害関心に向けて各人を義務づけるVerpflichtung思想にある、ということが分かる。」(GAzRS, I, 32-3, 大塚訳、43、梶山訳/安藤編、91)

さて、この叙述は、二文書の趣旨をそのかぎりで要約し、概念的加工の緒につく起点をなしてはいる。しかし、理念型の「構成」、「定式化」あるいは「定義」を終え、つぎの別種の――つまり、構成ずみの理念型を翻って適用し、対象であるフランクリンの特性を記述する――方法的操作に移る「すぐ直前[sic]」といえるであろうか。むしろ、著者ヴェーバーは、「暫定的例示provisorische Veranschaulichung」のために引用した先行第4段落のフランクリン二文書抜粋を読んだ読者が、そこからたとえば「一途な金儲け根性」「がめつい金儲け心得」としてであれ、ともかくも「資本主義の精神」と呼べる意味内容を「直観的anschaulich」読み取ってくれたかどうか――「暫定的例示」が、そのかぎられた目的を達成したかどうか――と問い、ひとまず共通の確認がえられたと見て、こんどは「直観された当の意味内容の概念的加工転じ、一歩一歩「精神」の理念型を構成していこうとし、(ばあいによっては、その途上で、当初の「例示からは漏れている要素も索出し、拾い上げ、概念的に規定して、内包を「拡充」していこうとの予想のもとに)第一歩を踏み出した、というべきではあるまいか。そして、キュルンベルガーと同様、アメリカニズムに「吝嗇」「金儲け主義」(と、ゆえあって「偽善」と)を嗅ぎつけやすいドイツ人読者を主として念頭に置き、その神経を逆撫でする方向でしたがって論理的概念的にはそれだけ慎重に、当の「金儲け主義」の「金儲け」が、確かに「金儲け」にはちがいないとしても、それ自体が(ということは、「金儲け」にも携わる一個人フランクリン総体が、というのではなく)、なにか「反道徳的」な活動として卑しめられるのではなく、かえって「義務づけ」られた「道徳的営為」として、「定言的命令」によって「要請」されている(と感得され、熱っぽい説教の信条ともされている)事実――「金儲け」と「倫理」との、この驚くべき「選択親和関係」――の直視を迫り、この関係をこそ、解きほぐしにかかっているのではないか。

3. 羽入が無視する後続段落は、問題が「人物」ではなく「経済活動そのもの」の意味づけにあることを、類例比較をとおして鮮やに例証

 初版の叙述は、このあとただちに、ヤーコプ・フッガーという類例との比較に移る(第6段落)。というのも、そうした類例比較は、フランクリン文書の標語のひとつ「時は金なり」の警句どおりに「生涯を金儲けに捧げた」――その点にかぎってはフランクリン説教の信条にかない、共通の基礎のうえに比較が可能となる――ヤーコプ・フッガーが、一個人としては慈善事業に私財を投ずる「倫理性の持ち主であったにもかかわらず、「金儲けそのものは、カトリックの教えにしたがい、たとえば慈善事業への出費(資本蓄積からの逃避)によって償われるべき「反道徳的」もしくは「道徳外の」活動と心得ていた、という対照的事実を、鮮やかに浮き彫りにするからである。そのようにして、ヴェーバーは、双方の「倫理」の歴史的特性を交互の対比において鋭く把握し、古今東西の「資本主義」に普遍的なフッガー流の「冒険商人気質」にたいして、フランクリンのエートスを西洋近代に特有の「経済倫理ないし志操Gesinnung」として位置づけると同時に問題そのものが、フランクリンもしくはフッガーの人物人柄を研究対象に据え、それがなにか丸ごと「倫理的」か「功利的」かを、(かりにそうであれば最重要な)「原典」としての『自伝』に依拠して判定する、というような位相にはなく、「金儲け活動そのものの意味づけにあることを、このうえなく明瞭に例証しているのである。

 この論点は、「倫理」論文中、羽入も視野に入れて読んではいる数少ない段落と段落との間に位置を占め、上記のとおり、ヴェーバーによる問題設定の焦点の所在を明示する位置価を帯びている。ところが、羽入は、なぜかこの論点には止目せず、論及もしない。この事実も、偶然の読み落としではなく、かれの「フランクリン丸ごと功利的」の思い込みが、「価値自由」に制御されない先入主/固定観念となって、かれのテクスト読解を杜撰/皮相に流れさせている事情、また、かれが(ちょうど第二章でも、類例比較としての『箴言』22: 29引用の意味を読み取れず、「時間的前後関係」という疑似問題にのめり込んだように)ここでもフッガーとの類例比較の方法的意味に「音痴で」、当の位置価を読み取ろうにも、そのカテゴリーをそなえていない実情を、問わず語りに語り出しているのではあるまいか(異議があれば、応答/反論するがよい)。

4.改訂時増補の意味――「類的理念型」として概念的区別を導入し、エートス問題を規範学から経験科学の平面に移すと同時に、「歴史的個性体」としての「精神」概念の構成にたいしては、第一要素をいっそう明晰に規定して補完

 さて、改訂時には、第5段落の「義務づける思想」という規定のあと、つぎの第6段落でフッガーとの類例比較に入るまえに、数行が増補され、一見あたかもそこで、すでに概念的定義がくだされているかのような印象を受けないでもない。しかし、はたしてそうか。そのばあいの「概念」とは、いかなる概念なのか。

 なるほど、そこでは、キュルンベルガーのいう「処世知Lebensweisheit」につき、まずは「処世術Lebenstechnik」と「倫理Ethik」とが、概念上区別され、社会学的に定式化される。「処世術」も「倫理」も、一定の行為を推奨ないし指令するルール(準則)であることに変わりはないが、当のルールに違反したばあいに被る社会的反作用の質が、対照的に異なる。前者では、違反により(違反から自然必然的に生ずると予期されていた)不利益を被ること(たとえば「衛生上の禁止条項」を破って「病気」になること)が「愚鈍」として嘲笑されるだけであるのにたいして、後者では、違反それ自体が、「当然なすべきこと(義務)」の侵害ないし忘却として「一種独特のsui generis」非難を浴び、重大なばあいには組織的な「制裁」の対象とされる。「倫理」準則のばあい、違反者は、当の違反自体から自然必然的に不利益を被ることはないが、人為的社会的な「非難」ないし「制裁」を受け、これがかれの被る主たる「不利益」となる。こうした「類的理念型gattungsmäßige Idealtyen」としての概念規定によって、「倫理」が、「規範学Dogmatik」から「経験科学empirische Wissenschaft」の平面に移される。すなわち、「規範的倫理学」においては「当為としての妥当性」を問われる「規範Norm」が、この種の観察可能なメルクマールによって特定される行為「準則Maxime[格率]」に意味変換され、「価値自由」な経験科学的/社会学的観察と因果的説明の対象に据えられるのである。この概念標識に照らして、先の二文でフランクリンによって説かれていた意味内容が、たんなる「処世術」ではなく、まさにこの意味の「倫理」であることが、概念上いっそう明瞭に再確認され[4]、以下で、経験科学的/社会学的研究の対象として議論されることになる。

つぎに、そうした区別のうえで、こんどは「倫理」と「エートスEthos」とが区別される。すなわち、当の「倫理」が行為主体にいわば「浸透」している度合いについて、なお「規範」の性格をとどめ、行為主体を「外から」拘束する段階から、行為「準則」になりきって、「内から」無意識のうちにもじっさいに行為を規定していく段階まで、スペクトル状の流動的漸移的相互移行関係を考え、後者の極を「エートス」と名づけ、個々の行為をそのつど両対極間に位置づけるスケールにしつらえて、経験科学的/社会学的研究に活用しようというのである。こうした「類的理念型」のひとつとして、「倫理」と「エートス」との区別を適用すれば、フランクリンの二文に例示される倫理」は、そのうち「エートスに至近の位相にあるといえよう。この点は、本稿後段で、羽入の望むとおりフランクリンの自伝にも立ち入って、立証されよう。

さて、こうした概念は、それ自体確かに、規範学としての倫理学を、経験科学/倫理社会学に組み換える概念媒体として、基礎的な意義をそなえている。しかし、「倫理論文における当面の論理展開においては、初版の第5段落末尾にある「義務づけ」という規定では不十分と見ての補足にすぎない。「類的理念型」概念の援用によって「エートス」という明快な規定が与えられたからといって、それで精神の理念型構成そのものが完了するわけではない。方法上は、「歴史的個性体」としての「精神」概念を一歩一歩構成していく途上における――しかも、その第一歩を踏み出したばかりの階梯における――「類的理念型」の援用による概念規定の補完いっそうの明晰化措置、というふうに位置づけられよう。「歴史的個性体」としての「精神」という「理念型複合」としては、せいぜいその「第一要素」が把握され、(改訂稿では「類的理念型」を導入して)概念上いっそう明晰に規定されたにすぎない。

5.「精神」につき構成が目指される「理念型」は、「歴史的個性体」である

ところが、そうするとこのあたりで、いうところの「理念型」とは、いかなる概念か、それがはたして「歴史的個性体historisches Individuum」なのか、そうとすれば、それは、どういう手順を踏んで構成されるのか、といった問題が提起されよう。ヴェーバーの「理念型」が、厄介な多義性を帯びている問題で、議論が絶えないことを思えば、その規定次第では、ひょっとして羽入の「完了説」に妥当性が回復されないともかぎらない。そこで、ヴェーバーが、「倫理」論文のほかならぬこの箇所で、「理念型」をいかに捉え、どのように構成するつもりでいたかにつき、「暫定的例示」の二文に先行する、この節の文字通り冒頭(第1~3段落)に遡って、かれの方法論的覚書に当たり、その点を確認しておくとしよう。

「この研究の表題には、『資本主義の精神』というなにかいわくあり気な概念が使われている。この呼称のもとに、なにが理解されるべきなのか。これに『定義』ともいうべきものを与えようとすると、われわれはただちに、われわれの研究目的の本質に根ざすある種の困難に直面する。

およそこうした呼称がなんらかの意味をもちうるような、そうした対象が見出せるとすれば、それはもっぱら、ひとつの『歴史的個性体』であるよりほかはない。すなわち、歴史的現実のなかにある諸連関をわれわれがその文化意義という観点から概念上ひとつの全体へと組み合わせてえられるそうした諸連関の一複合体、でなければならない。

ところで、そうした歴史的概念は、内容上、個別の特性において意義のある現象にかかわるから、『直近の類、種差genus proximum, differentia specifica』の図式にしたがって定義する(ドイツ語でいえば限定するabgrenzen)というわけにはいかず、歴史的現実のなかから取り出される個々の構成諸要素を用いて漸次組み立てられなければならない。したがって、その究極の概念的把握は、研究に先立ってではなく、むしろ結末においてえられるべきものである。いいかえれば、ここでわれわれが『資本主義の『精神』として理解しているものの、

最良の――ということはつまり、ここでわれわれの関心を引く観点にもっともよく適合した――定式化は、その究明をへて初めてしかもその主要な成果として提示することができる。[ここで採用する観点が、『精神』を問題とする唯一可能な観点であるというのではなく、観点を異にすれば、また別の側面が『知るに値する』本質的な特徴として把握されよう。]……

 それにもかかわらず、ここで分析と歴史的説明の対象とされるものがなんであるか、あらかじめ確定しようとすれば、できることは、ここで資本主義の『精神』と呼ばれているものにかんする概念的定義ではなく、さしあたりはせいぜい、その暫定的例示にすぎない。そうした例示は確かに、研究の対象にかんする[事前]了解をえるためには欠かせない。そこでわれわれは、そうした目的のために、問題の『精神』を物語っている一文書を取り上げ、分析と歴史的説明の手がかりとしよう。この文書は、ここでさしあたり問題とされるものを、ほとんど古典的といえるくらい純粋に含んでいるばかりか、宗教的なものとの直接の関係をことごとく失っているために、[『精神』と宗教との関係を問う]われわれの主題にとっては『予断が入らないvoraussetzungslos』という長所をそなえている。」[5](GAzRS, I, 30-1, 大塚訳、38-40、梶山訳/安藤編、87-9)

ここに明言されているとおり、ヴェーバーはこの第一章第二節で、「暫定的例示」として引用される二文書を手がかりに、「歴史的個性体としての「精神」の理念型を、「歴史的現実のなかから取り出される個々の構成諸要素を用いて漸次組み立ててaus seinen einzelnen der geschichtlichen Wirklichkeit zu entnehmenden Bestandteilen allmählich komponieren」いこうとしている。なるほど、「その究極の概念的把握」は、「結末において、「禁欲的プロテスタンティズムの倫理」との「意味(因果)連関」が「歴史的に説明され」て初めて達成されるとしても、当の意味因果連関を問われるべき被説明項として「精神」の「歴史的個性体」概念が構成され、定義されるまでには、「暫定的例示」からの長い道のりが予想されよう。じっさい、はるか後段(第14段落末尾)、「先にベンジャミン・フランクリンの例について見たようなやり方で、正当な利潤を職業としてberufsmäßig組織的かつ合理的に追求する志操を、ここで暫定的に『(近代)資本主義の精神』と名づける」(GAzRS, I, 49, 大塚訳、72、梶山訳/安藤編、114)という定義風の定式化に出会うが、そこでは「正当な利潤の組織的かつ合理的な追求」を促し、正当化する「独特の職業観」との結合という核心が、羽入も第二章で注目していたとおり「含み込まれて」いる。ところが、羽入が「精神」の理念型がすでに構成されたとみる第5段落では、まだこの核心が欠けており、「歴史的個性体」概念の構成は、まだ途上にある、というほかはない。

 それにもかかわらず、羽入は、歴史的現実の複雑/多様性に照らして紆余曲折に富む「個々の構成要素からの漸次組み立て」の行程を、「第一歩」のところで恣意的に切断し、「倫理性」(「第一要素」)を実体化して、同じく(羽入によって)実体化された「功利的傾向」(「第二要素」)と、「あれか、これか」の形式論理的二者択一的対立関係に組み入れてしまう。そうすることによって、議論を、ヴェーバーが後者を「否認」し「しりぞけ」て前者「倫理性」に「固執」した、という羽入の筋書きに持ち込み、ヴェーバーはそれ以降の理念型構成を「断念」すべきであったのに、「固執」を正当化する「資料操作」によって読者を「欺いた」と称し、ヴェーバーを「詐欺師」「犯罪者」に仕立てようとする。羽入は、そういう(おそらくは「初めに目的ありき」の)「似而非論証」に向けて、「疑似論議」街道をひた走るのである[6]

6.道徳的訓戒の「第二要素」・功利的傾向――「精神」エートスの「鬼子」

 さて、ヴェーバーは、フッガーとの類例比較のあと、(改訂稿では)当のエートスが、近代資本主義(じつは近代文化一般)に独自の歴史的特性をなす旨を、「倫理」論文初版以降における比較宗教社会学研究の成果を集約する形で示し、そのあと第7段落で、「歴史的個性体」構成のつぎのステップに移っている。ところで、羽入は、その箇所について、「エートスと呼ばれるほどに、『倫理的色彩を帯びた生活原理……』(……)という性格を持ったものとして構成されたこの『資本主義の精神』の理念型を手にしていまや初めてヴェーバーはフランクリンの『自伝へと向か」(141)い、そこで、当の理念型「に一致しないものの中でも最も問題であると思われる」、「『偽善“Heuchelei”』(……)ともみなされかねぬまでのフランクリンの『功利的傾向』」(141)に直面し、「ヴェーバー自身そのことを次のように認める」(141)として、(羽入のコメントをさし挟みながら)第7段落の途中までを、ほぼ全文引用している。

 しかしそこで、ヴェーバー自身は、こう書き出している。「とはいえ、フランクリンの道徳的訓戒は全て功利的傾向を帯びているutilitarisch gewendet。つまり、正直は信用をもたらすから有益である、時間厳守勤勉節約も同様で、だから[有益であるから]こそ、それらは善徳なのである。――ここからはとりわけ、つぎのような帰結も生ずるであろう。すなわち、たとえば正直の外観が同一の効果を生むばあいには、外観だけで十分であって、そうした徳目を(効果には)必要ないまでに遵守するとすれば、それはフランクリンの目には、非生産的な浪費として、非難すべきものと映るにちがいない。」(141)

 羽入は、この叙述をなにか、ヴェーバーが、前段で構成された理念型を「手にして」、ここでこんどは一個人フランクリン総体対象とする『自伝』研究に転じ、「フランクリンの極めて現実主義的で露骨な功利的傾向」に直面して、ひとまずは明記せざるをえなかった、かのように解している。しかし、この引用冒頭の文章の主語は、フランクリンではなく道徳的訓戒」(複数)である。そして、引用文中でその具体例として挙示されている「正直」「几帳面」「勤勉」「節約」とは、「暫定的例示」に引用された二文書において、フランクリンが(他人の「信用」をえ、遊休金を借りて運用し、「金銭上の成功monetary success」に到達するために遵守すべき)徳目として説いていたものである。

 ここで、かの二文書をもういちど、こんどは引用者(キュルンベルガーかヴェーバー)が施したと思われる強調の圏点に注意して読み返してみると、印象が変わり、たとえば「正直」であること自体と同時に、他人から「正直」と見られること(「正直の外観」)とがふたつながら重要であると説かれていたことに気がつく。あるいは、この「二重性」に、改めて注意を惹かれる。つまり、フランクリンの説く「道徳的訓戒」においては、「事実どうであるか」といういわば「使用価値」視点と、「他人からどう見られるか」という「交換価値」視点とが、微妙に均衡を保っているのである。

そこで、ヴェーバーは、「暫定的例示」の二文書から、前段でまずは「エートス」の側面を、「第一理念型」あるいは(「歴史的個性体」としての「理念型複合」の)「第一要素」として一面的に抽出したうえで、そのさいにも留保して気遣っていたとおり、まさに意図して一面的な抽象をなしたがゆえに抽出から漏れた諸要素を、ふたたび二文書に戻って検索しなおし当の道徳的訓戒、これまた驚くべきことに、一見背反する――こちらも一面的につきつめれば「偽善」にいたって「悪徳」に反転し、「反対物」に転化する――「功利的傾向」を帯びている事実に注目し、同じく意図して一面的に鋭く定式化するのである。したがって、ヴェーバーの叙述は、羽入が自分の主観的印象に頼って無概念のまま決めてかかっているように、前第6段落までは理念型構成であったが、ここでその適用による「フランクリン研究」に転じ、人物研究にとっては最重要な『自伝』に向かったため、初めて「厄介」な「功利的傾向」に直面してうろたえ、「すでに構成されている当初の理念型に固執」して「功利的傾向」の「棄却を焦った」というような(素朴実在論と形式論理に居すわった「方法音痴」にのみ思いつかれそうな)代物ではなく、前段と同一の例示素材から(「歴史的個性体」として)「精神」の理念型を構成する、その第一ステップから第二ステップへ、当の第二要素の定式化へと、予告どおり整然と進んでいるだけである。ここでいったん二文書の「道徳的訓戒に戻り、それを吟味しなおして、前段の集約には漏れた、「精神」の他の要素を拾い出して定式化しているのである。「他の要素」といっても、互いに無関係な二要素が併存/並立しているというのではない。「正直」「几帳面」「勤勉」「節約」といった徳目が、「貨幣増殖-信用-(そのために有益な)徳目」という系列に編入されているために、効果としての(第一次的には)「信用」、(「信用」を介して最終的には)「貨幣増殖」に力点が移動し、キルケゴールのいうとおり「結果」に気を取られて「他領域(キルケゴールにとっては「倫理」)に転移[7]する傾向を免れがたい。そうなると、徳目遵守が、それ自体の「固有価値」に即した「自己目的」ではなくて、もっぱら「信用」をかちえる――「価値」ある「目的」を達成する――「手段」と見なされ、そのかぎりで等価であれば「外観」「見せかけ」「ポーズ」で代替できるばかりか、このほうがいわば「倫理的エネルギー」の支出(「価値合理的」硬直性維持の緊張)が少なくてすみ、いっそう目的合理的」である、ということにもなる。つまり、こうした「功利的傾向」は、エートスの構造そのものに根ざし、「転移につれ反転して倫理性を掘り崩して偽善を生む鬼子」ともいえよう[8]

7.「功利的傾向」の証拠(ⓐⓑ)と反対の二証拠(ⓒⓓ)――羽入は、没意味文献学的「拷問具」の過信によってⓓをⓐと混同し、「自己否定」に大奮闘

そこで、ヴェーバーはいまや、確かに初めて『自伝』を援用して、こういう。「じっさい、フランクリンの自伝をひもといて、かれがあの[上記、正直などの]善徳の実践に『回心』した物語や、ましてやかれが、控え目の外観や、自分の功績を故意に隠しておく外観を堅持することは、社会一般に認められるのに役に立つ、と説いているくだりを読む人は、必ずやつぎの結論に達するにちがいない。すなわち、フランクリンによれば、そうした善徳やその他あらゆる善徳はもっぱら、各人にとってじっさいに有益nützlich であるかぎりにおいて、善徳であるにすぎず、たんなる外観が同一の効果を生むばあいには、当の外観で代用すれば十分ということになる。これは、厳密な意味における功利主義にとってはじっさいに避けがたい帰結である。ドイツ人が通例アメリカニズムの善徳について『偽善』と感ずるものの正体が、ここで鮮やかに看破されたともいえそうである。」(GAzRS, I, 34-5, 大塚訳、47、梶山訳/安藤編、94)

 このようにヴェーバーは、「功利的傾向」の証拠として、ⓐ善徳実践への「回心Bekehrung」物語と、ⓑ「控えめの狡智」の勧告(たとえば図書館創設などの事業を立ち上げるさい、「発起人」として表に出ようとはせず、「裏方」に止まったほうが、相棒の「妬み」を買わずに事業が円滑に進むし、やがては誰が真の功労者かも明るみに出てくるもので、いっときの自己抑制が十二分に報いられようという、確かに「功利的」な「処世知」勧告)を挙げる。

 しかし、そのうえで、「ところが、ほんとうのところは、けっしてそれほど[ドイツ人の先入観で割り切れるほど]単純ではない」と反論に転じ、こんどは「功利的傾向」に収めきれない反対側面の証拠を、やはりふたつ挙げる。すなわち、ⓒ「ベンジャミン・フランクリンの自伝に、なんといっても世にも稀なほど正直に表白されている、かれ自身のキャラクターBenjamin Franklins eigener Charakter, wie er gerade in der immerhin seltenen Ehrlichkeit seiner Selbstbiographie zutage tritt」と、ⓓかれが善徳の「有益性」に思いいたった事態そのものを、そうすることによってかれに善をなさしめようとする神の啓示に帰しているという事情der Umstand, daß er die Tatsache selbst, daß ihm die »Nützlichkeit« der Tugend aufgegangen sei, auf eine Offenbarung Gottes zurückführt, der ihn dadurch zur Tugend bestimmen wollteと、――このふたつである。そして、「ここ[ⓒⓓ]に示されているのは、なにはともあれ、ただひたすら自己[利益]中心の[功利的]準則に粉飾を凝らすこと以外のなにものかである」(GAzRS, I, 35, 大塚訳、47、梶山訳/安藤編、94)と結び、さらに、ⓔ貨幣増殖を「自己目的」とし「最高善」ともする[禁欲的]スタンスの(幸福主義や快楽主義にたいする)非合理的超越性、という議論に移っている。

 さて、ヴェーバーはこのうち、証拠ⓓの典拠を、上記のとおり、ⓐ~ⓒとは異なって、『自伝』とは特定していない。なるほど、この点は、かれのほうから、当の「事態」と「事情」をどこから読み取ったのか、その典拠を、追検証が可能なように明示しておくべきだったろう。しかし、この点をかれの手落ちと認めるとしても、学問的批判の手順としては、当の典拠を検索し、そのうえで是非を論ずるべきであろう。ところが、羽入は、ⅰ)出典をいきなり『自伝』と決めてかかり、ⅱ)当の「啓示」を、なにか「突如として『神の啓示』がくだり、それに『打たれて』180度の『回心』をとげる」といった「啓示による劇的回心体験」というふうに狭く解釈して、「キー・ワード」(146)に祀り上げたうえ、ⅲ)当の「啓示」を、字面の類似から意味上は正反対の「功利的傾向」の証拠ⓐにおける「回心」と混同している。こういう早合点による恣意的限定[ⅰ),ⅱ)]と混同[ⅲ)]のうえに、ひたすら「劇的回心体験」を表示する字句を、もっぱら『自伝』中に捜し回り、それがどこにも見当たらない、ヴェーバーはなにを「読み誤った」のかと、例によって外形上の些事詮索と杜撰で強引な推論を延々と繰り広げている。

 ところで、羽入は、そのようにして主観的にはヴェーバーを追い詰めようと奮闘しながら、そのじつ客観的には、せっかくヴェーバーも挙示してくれていた、「倫理性」への反対証拠=(羽入の形式論理にとっては)「功利的傾向」の証拠ⓐを、「倫理性」の証拠ⓓのつもりでみずから懸命に否認している。かりにヴェーバーが、羽入の主張どおり、「功利的傾向」を「否認」していたのだとしたら、羽入は、当の「功利的傾向」の一証拠をみずから否認することによって、ヴェーバーに加担し、ヴェーバーの主張をそれだけかえって補強していることになる。ところが、羽入は、こうして自分自身が陥っている論理的背反関係/自己矛盾に、自分ではまったく気がつかないらしい。さればこそ、自分の主張にみずから反証をつきつける「自己否定」「自殺行為」に、かくも躍起になり、「成果」を勝ち誇って得意になれるのであろう。

 ここには、他人を「拷問」(4)によっていわれなく「犯罪者」に仕立てようとする「検察ファッショ」流においては、ほかならぬ拷問具(羽入のばあい「文献学」じつは些事拘泥の没意味文献学)への過信が仇となって論理的思考力が鈍り、他方、そうした弱み(没意味/弱論理)の補償/過補償のために翻って拷問その他の強権手段に頼りたがるという――独裁政権下の秘密警察で頂点に達する――「悪循環」が、萌芽の形ではあれ、はっきりと姿を現している。恣意で論理を差し押さえる、「知性領域におけるファッシズム」の、こうした「氷山の一角」を、負の教訓として深刻に受け止め、全社会的に広がるまえに、萌芽のうちに、自由な言論によって摘み取るべきではないか。そうするのが、当の「悪循環」を見抜ける専門家の責任社会的責任ではないのか。ただ、本稿では、この問題そのものが、つぎの「論拠」につき、羽入が見当違いの「拷問」じつは「自己否定」に奮闘する第二/三節に属しているので、当該二節における羽入の「疑似論議」を取り上げる続篇「批判結語(3-2)」まで、しばらく留保しておきたい。

8.自伝に正直に表白された「キャラクター」が、だからそれ自体正直とはかぎらない――羽入は、この「論拠①」を「個人的な好みの問題」にすり替え、主観的評言を振りまくだけで、反対命題の対置を回避

 ここでさしあたり、第一節に属する問題として取り上げなければならないのは、「論拠」にかかわる論点ⓒである。これを羽入は、「個人的な好みのレベルでの論拠に過ぎ」ず、「蓼食う虫も好き好きの諺にもある通り、個人の好みに関して学問的に論議することはできない」(144)といって棚上げしている。

 しかし、この論点ⓒは、上記のとおり「ベンジャミン・フランクリンの自伝に、なんといっても世にも稀なほど正直に表白されている、かれ自身のキャラクターの問題である。「フランクリン自身のキャラクター」と、それが「なにはともあれ世にも稀なほど正直に自伝に表白されている」こととは、なにはともあれ別のふたつのことで、自伝への表白が「正直」になされているからといって「フランクリン自身のキャラクターそのものまでが丸ごと「正直」である、ということにはならない。ところが、邦訳では、「自伝に現われているベンジャミン・フランクリン自身の世にも稀なる誠実な性格」(大塚訳、47)、「自叙伝にあらわれているベンジャミン・フランクリンの性格が、とに角世にも稀な誠実の人であることを示している点」(梶山訳/安藤編、94)と、なにはともあれフランクリンに好意的に訳され、ヴェーバーがあたかも「フランクリンの性格そのものについて「誠実」との倫理的価値判断をくだしているかのようにも読める。羽入はといえば、「自伝における正に何といっても珍しいまでの正直さで現われているようなフランクリン自身の性格」(142、143、144)と、三度まで正しく訳出して「いい線をいっているな」と思いきや、最後には「フランクリンの『自伝』に現われているフランクリンの性格を、正直とみなすべきか、あるいは、単なる偽善が余りにも開けっ広げで図々しいまでになっているためにまるで正直であるかのように見えるだけであるとみなすべきかは、個々人の好悪であって学問的には議論できない」(144)と述べ、やはり邦訳に引きずられたのか[9]、「表現形式」と「キャラクターそのもの」との混同に陥り、ヴェーバーの命題を「倫理的価値判断」と解して、議論を打ち切っている。どうやら「単なる偽善が余りにも開けっ広げで図々しいまでになっているためにまるで正直であるかのように見えるだけである」というのが、おそらくは羽入流無概念印象批評の眼目で、そう主張したいところなのであろう。それならそれで、主観的価値判断を込めた評言を散発的に振りまくような姑息なことは止め、「そうみなすべきか」どうかではなく、「そう見なせる」のだと、正々堂々と論じればよいではないか。規範学としての倫理学の経験科学/倫理社会学への組み換えを前提に据え、ヴェーバーと同じく、『自伝』からの「暫定的例示」と「直観内容の概念的加工」によって積極的に対立命題を提起し、ヴェーバーの命題に対置し、学問的論議に委ねて、理非曲直を争うべきではないのか[10]

9.「十三徳樹立」の実践的企てにおいて「倫理とエートスとの乖離」問題に直面し、「功利的信念」の限界を悟る

 さて、この論点ⓒにかんするヴェーバーの表記自体は、確かに抽象的で、舌足らずの観を免れない。フランクリンの『自伝』が、よきにつけ(後述)悪しきにつけ[11]相対的には「開けっ広げ」で「率直」なことは、大方首肯されるところであろうが、そのように「率直」に語り出されている「キャラクター」のうち、なにが価値関係有意味な関連にあるrelevant」といえるのであろうか。この点にかぎって論旨の補足が許されるとすれば、注目されるのはやはり、1731年、フランクリン25歳のころ、「完徳moral perfection」の域に到達しようと決意し、「十三徳樹立」のため「自己審査手帳」をつくって努力したという事実(そこに現われた「フランクリン自身のキャラクター」)であろう。その動機について、かれは『自伝』で、つぎのように語っている。

「わたしは、いかなる時にも過ちを犯さずに生活し、生まれながらの性癖や習慣や交遊のために陥りがちな過ちは、ことごとく克服してしまいたいと思った。自分はなにが善でなにが悪かは分かっている。あるいは分かっていると思うから、つねに善をなし、悪を避けることができないわけはあるまいと考えたのである。しかしやがて、わたしは思ったよりずっと困難な仕事に手をつけたことに気がついた。なにかある過ちに陥らないように用心していると、思いもよらず、他の過ちを犯すことがよくあったし、うっかりしていると習慣がつけ込んでくるし、性癖のほうが強くて理性ではおさえつけられないこともちょくちょくある始末だった。そこでわたしは、とうとうつぎのような結論に達した。完全に道徳を守ることは同時に自分の利益でもあるというようなたんに理論上の信念だけではthe mere speculative conviction that it was our interest to be completely virtuous、過失を防ぐことはとうていできない。確実に、不変に、つねに正道を踏んで違わぬという自信を少しでもえるためには、まずそれに反する習慣を打破し、良い習慣を創ってこれをしっかり身につけなければならないというのである。」(The Writings of Benjamin Franklin, ed. by Smyth, Albert Henry, vol. 1, 1907, New York: Macmillan, pp. 326-7, 松本慎一/西川正身訳『フランクリン自伝』、1957、岩波書店、p. 134)

 フランクリンはこのように、自分の「生き方Lebensführung」「実践的態度Habitus」ないしは「人格Persönlichkeit」を全体として捉え、その「道徳的完成」をあたかも自己目的とするかのように、「自己審査手帳」という独自の方法を編み出し、日々個々の過失と闘って克服していくいわば積み上げ方式で、自分の「キャラクター」をみずから制御――道徳的に組織化合理化――していこうと企てた。まさにそれゆえ、規範としての「倫理」と実践としての「エートス」との乖離というこの領域に固有の困難に直面し、さればこそ「完徳が利益でもある」という功利的な理論上の信念の限界も悟って、「十三徳」を「習慣」つまり「エートス」として「しっかり身につけ」ようとしたのである。つまり、こうした企てと努力には確かに、「なにはともあれ、ただひたすら自己[利益]中心の[功利的]準則に粉飾を凝らすこと以外のなにものか」(a. a. O)が現われている、といえよう。いずれにせよ、「外観の代用で十分」とする「純然たる功利主義」からは、フランクリンのこうした「完徳の企て」は、途方もない「心的エネルギーの浪費」と見られ、捨てて顧みられなかったであろう。

10.「幸福の青い鳥は、手をさしのべると逃げる」――「目的合理的」利益追求の限界と「神のみ恵み」の要請

 もとより、フランクリンが、「完徳」を目指す「目的合理的」努力の結果、めでたく「目的」を達成し、「完徳」の域に達したというのではない。かれ自身も、「大体からいえば、わたしは自分が心から願った道徳的完成の域に達することはもちろん、その近くにいたることさえできなかった」と率直に認め、しかし「それでも努力したおかげで、そのような試みをしなかったばあいにくらべて人間もよくなり幸福にもa better and a happier manなった」、「この自伝を書いている数え年で79歳になる今日まで、わたしがたえず幸福にしてこられたのは、神のみ恵みのほかに、このささやかな工夫をなしたためであるが、わたしの子孫たる者はよくこのことをわきまえてほしい」(Op. cit., 335, 松本/西川訳、145)と述懐し、同時に勧告している。

ここでフランクリンは、かれが幸福という利益を掌中に収めえたのは、完徳をめざす「ささやかな工夫」の結果であるとともに、「神のみ恵み」による、と明記している。とはいえ、こうした言及は、いきなり持ち出されたのでは、なにか「功利的信念」のイデオロギー的な粉飾ないし正当化ではないかと疑われもしよう。しかし、必ずしもそうとばかりはいいきれない。というのも、フランクリンは、「自己審査手帳」の冒頭に、五つの祈祷文を記し、毎日それを唱えて「完徳への道」を歩む励みにしたという。そのうち、かれ自身がつくった祈祷文は、つぎのようである。「おお、全能の神よ。恵み深き父よ。慈悲深き指導者よ。わがまことの道my truest interest[まことの利益]を見出すかの知恵を増させたまえ。その知恵の指し示すことをなしとぐる決意を強めさせたまえ。われと同じく汝の子なるものにたいするわが心からのつとめを嘉したまえ。そは汝のたえざる恵みにたいしてわがなしうる唯一の報いなり。」(332, 140)

 つまり、フランクリンにとっては、なにが「わがまことの利益」であるかが、初めから分かっていて、その利益を目的として意識し、達成するために、徳目を遵守する――したがって、時には「徳目遵守の外観」で代用する――、というのではないらしい。「全能の神」が同時に恵み深き父」「慈悲深き指導者」として立ち現われ、その「神は、徳をこそ嘉しめたまわめHe must delight in virtue。しかして神の嘉したまうもの、あに幸いならざらんやAnd that which he delight in must be happy」(アディソンの『カトー』から取った題句・第一祈祷文、331, 140)と信じられている。それゆえ、徳を実践することが、神の嘉したまうところとなり、人知をもってははかりがたい「全能の神」の采配のもとに初めて(「目的合理的」な利益追求の直接性においてではなく)、「わがまことの利益」が見出され、もたらされる、と考えられている。さればこそ、徳の実践-神の嘉納と采配-「わがまことの利益」の達成、という媒介関係を洞察する「知恵を増」し、「その知恵の指し示す」徳を、かの「完全に道徳を守ることは、同時に自分の利益でもあるというような、たんに理論上の信念だけ」ではいかんともなしがたい困難にもめげずに、なんとか「なしとぐる決意を強めさせたまえ」と、当の「知恵の泉」と目されている神にひたすら祈念する、ということにもなるのであろう[12]

11. フランクリンの「宗教性」――「予定説」を抜き去った「カルヴィニストの神」、「隠れたる神」をともなわない「啓示された善意の勧善懲悪神」

 じっさい、フランクリン自身、この「十三徳樹立」にかんして、「読者も気がつくであろうが、わたしの計画は宗教とまったく無関係というわけではなかった」と明記し、ただ「ある特定の宗派に特有な教義といったものは、ぜんぜんその痕跡もなかった。わたしはわざわざこれを避けたのである」(336, 146)と付言している。そして、そうした宗教的背景についてはさらに、つぎのように詳細に語ってもいる。「わたしは長老教会の会員として敬虔な教えを受けて育った。ところで、この派の教義のなかには、たとえば『神の永遠の意思the eternal decrees of God』『神の選びelection』『定罪reprobation[捨てられた者への永罰]』など、わたしには不可解なものがあり、また信じられぬものもあったが、また日曜はわたしの勉強日だったので、日曜の集会には早くから出ないことにしていたが、だからといって、宗教上の主義をまったく持たないわけではなかった。たとえば、神の存在、神が世界を創造し、摂理にしたがってこれを治めたまうこと、神のもっとも嘉したまう奉仕は人に善をなすことであること霊魂の不滅すべての罪と徳行は現世あるいは来世においてかならず罰せられまたは報いられること、などについては、わたしはけっして疑ったことはない。これらは、あらゆる宗教の本質であると考え、そしてわが国のあらゆる宗派の宗教に見出せることなので、わたしはすべての宗教を尊敬したのである。」(324-5, 131-2)

つまり、フランクリンの神とは、カルヴィニストの「予定説の神」から肝心の「予定説を抜き去り、「隠れたる神Deus absconditus」を捨てて「啓示されている慈悲の神」のほうを採り、「人類の道徳的向上と幸福の増進」を願う「善意の勧善懲悪神」に見立てたものである[13]。かれの『自伝』には、「神義論問題」の虜になって悩んだ形跡はまったくない(したがって、「神義論問題」の首尾一貫した解決のひとつとして「予定説の神」に到達したはずはない)。かれは生来、肯定的・楽天的な気質の持ち主で、そうした気質を素地に、相対的にはもっとも首尾一貫した長老派の教義や戒律からも、それ以外の諸宗派・諸宗教からも、非宗派的な共通項を取り出し、自分の気質に適う取捨選択をおこなって、大衆的な信仰箇条と実践指針に再編成し、「神」をも、かれの人類徳性化/幸福増進運動に役立てようと、その「補強装置」の主柱に組み換えてしまった、ともいえよう。

 なるほど、かれは、「十五歳になるかならないころには、天啓そのものRevelation[語頭大文字、無冠詞に注意]itselfさえも疑い始めた」(295, 91)と語り、「人と人との交渉が真実truthと誠実sincerityと廉直integrityとをもってなされることが、人間生活の幸福the felicity of lifeにとってもっとも大切と信じ」、当の三徳を生涯実行しようと決心した時期にも、「天啓はじっさいそれ自体としてはas such[天啓が天啓であるという理由では]わたしにとってなんの意味weight[重み]ももたず、わたしはむしろ、ある種の行為は天啓によって禁じられているから悪いのではなく、あるいは命じられているから善いというのでもなく、それらの行為が、それら自体の本性においてin their own natures、どんな事情を考えてもall the circumstances of things considered、われわれにとって有害bad for us であるから禁じられ、あるいはわれわれにとって有益beneficial to usであるから命じられているのであろうという意見を抱いた」と述べ、「そうした[三徳への]信念をえたおかげで、さらにまた恵み深い神の摂理のためか、守護天使の助けのためか、あるいは偶然にも環境に恵まれたせいか、またはそれらすべてによってか、わたしは遠く父の監督と訓育のもとを離れ、他人の間にあってしばしば危い境遇に陥ったにもかかわらず、危険の多い青年期を通じて、宗教心の欠如から当然考えられる意識的な下等下劣な不道徳や非行をひとつも犯さずにすんだのである」(296-7, 92-3)と、「なにはともあれ世にも稀なほど率直に」述懐して、自分自身の徳性維持を、天啓と宗教心にではなく、(行為自体があらゆる事情を考えて「われわれ[人間]にとって」有害か有益かを究極の規準とし、「天啓」を差し置いても、いわば人間本位に善悪を定めようという)「功利的」信念に帰している。そればかりか、「十三徳樹立」を提唱する小著を『徳にいたる道』として刊行しようと思い立ったときにも、「そこでわたしが説明し強調したいと思ったのは、人間の本性だけを考えても the nature of man alone considered、もろもろの悪行は、禁じられているから有害hurtfulなのではなく、有害だから禁じられているのであり、したがって来世の幸福を望む者はもとより、現世の幸福を望む者にとっても、徳を積むことto be virtuousが有利every one’s interestなのだという教えdoctrineであった」(337, 147)と言い切っている。したがって、ヴェーバーが、この側面にかぎってはまさにこの「教え」を典拠として引用し、明示しているとおり(上記ⓐ)、フランクリンの道徳論には、かれ生来の素地に見合うと思われる「功利的」傾向が一貫して見られる。かりにこれが一人歩きしたとすれば費用最少の「外観の代用」で十分という帰結に行き着くほかはなかったろう。ところが、フランクリンは、「教えdoctrine」ではなく「実践」となると、上記のとおり「たんに理論上の信念」では不十分と認め、その限界を見据えて、「全能」であると同時に恵み深き父」「慈悲深き指導者」としての神の援助を、「当然かつ必要right and necessaryなこと」(332, 140)として要請するのである。

 そして、この側面においては、「なぜ、徳が利益に通じるのか」「完全に徳を守れなくとも、それなりに幸福になれるのはなぜか」という問題も、「恵み深き父」「慈悲深き指導者」のまさに恵み深く」「慈悲深い摂理として説明されよう。すなわち、およそ人間が、「理論上の信念」どおりに、ただそう「教え」られさえすれば善徳を固有価値」「自己目的として完遂できるほど倫理的に強靱であるならば、当の「理論上の信念」だけで十分で、「利益」「幸福」といったいわば「報酬」「釣り餌」は、キルケゴールの主張[14]どおり「報酬ばかり気にする不健全で非倫理的な欲求」を目覚めさせ、「非倫理」への「転移」を招く動因として、「あらずもがな」としりぞけられてしかるべきであろう。ところが、じっさいには人類の大多数は、キルケゴールのように飛び抜けて潔癖な「倫理エリート」(あるいは、「倫理的実存」の段階をもこえて「宗教的実存」にまで上り詰めずにはやまない「真摯さのエリート」)ではなく、それほど倫理的にも強靱ではなく、遺憾ながら「報酬」という「うま味」がなければ「頭では分かる」善徳も実行できない「倫理的弱者」にすぎない。そうした実態に見合って、フランクリンの神は、人間のそうした弱さを「裁き、永罰に定めたまう」「予定説の神」ではなく、人間の弱さを「大目に見たまい」、徳行が「利益」「幸福」に連なり、「倫理的弱者」でもそうした「報酬」に「釣られて」徳行に志を向け、最大限実践できるのであれば、それもよしと、「親切に按配/配慮したまう」「慈悲深い神」なのである。こうして、「なぜ、徳が利益に通じるのか」、「完全に徳を守れなくとも、それなりに幸福に恵まれるのはなぜか」との、「理論上の信念」では解けない難問にも、「善意の神の摂理という一種の「幸福の神義論」が、回答として与えられることになろう。

12. 「啓示Revelation」とは、「劇的降霊-回心体験」とはかぎらない

 なるほど、そうした回答は、ある日突如として、さながらパウロがイエス運動を取り締まろうとダマスコに赴く途上、イエスの霊に打たれて180度の回心をとげたように、フランクリンにもなにか劇的な啓示」「聖霊降下の形式で閃き、無信仰であったかれも突如、それほどに「善意で親切な神」ならばと欣喜雀躍してその「摂理をまさに天啓として受け入れ」、その「勧善懲悪神」への信仰に目覚め、以後敬虔な有徳生活を送るにいたった、というわけではなさそうである。少なくとも、劇画世代の羽入が好みそうな、そうした「劇的降霊-回心体験の物語は、『自伝』には明記されていない。しかし、受容形式はどうあれ、そうした意味内容における回答そのものは、フランクリン神観のコロラリー(系)として、当の神「の摂理」、すなわち「人知を越えるある天啓eine Offenbarung Gottesとして受け入れられている」、あるいは「受け入れられるに相応しいものとされている」と表記されても、けっして牽強付会とはいえまい。そうした表記は少なくとも、こうした問題にかんするレトリックの許容範囲内にあり、「ありもしないことの意図的な捏造」として非難される体のものではない。むしろ、「啓示」といえばもっぱら「劇的降霊-回心体験」と頭から決めてかかり、『自伝』表記の柔軟な意味思想解釈など「眼中にない」、生硬な字面拘泥と短絡的推断のほうが、(中学生とはいわず)「学術博士」には「誰にでも分かる」はずの「杜撰な早合点の実例」で、「木を見て森を見ない者には、木も見えない」という負の教訓の開陳ではあるまいか。

小括

 そういうわけで、かりに『自伝』以外の全言表を調べ尽くして、(「フランクリンが善徳の『有益性』に思いいたったのも、神の啓示による」という、当の)「啓示」体験をつぶさに描写するような記述には行き当たらなかったとしても、『自伝』に「なにはともあれ世にも稀なほど正直に」記録されている「十三徳樹立」の企てと実践にかぎるとしても、「なにはともあれ、ただひたすら自己[利益]中心の[功利的]準則に粉飾を凝らすこと以外のなにものか」(GAzRS, I, 35, 大塚訳、47、梶山訳/安藤編、94)が十分に表白されているといえよう。つまり、このヴェーバーの主張は、「蓼食う虫は好き好き」の「好悪の問題」ではなく、「フランクリン自身のキャラクター」にかかわる「価値自由」な経験科学/倫理社会学の命題として、上記のとおり立論/立証できると思われる。少なくとも、そのようなものとして、論議の対象となりうる。

 ということはとりもなおさず、羽入書第一節における羽入の問題設定――ヴェーバーが「倫理」論文で、フランクリンの「倫理的傾向」を「否認し」、理念型構成から「しりぞけ」た、との誤った前提のうえに立つ、その三「論拠」という問題設定――自体が、学問的応答に値しない疑似問題であるばかりか、同じく第一節の範囲内で、当の疑似問題のひとつ「論拠①」を取り上げても、「学問的論議の対象とはならない」という羽入の主張が、誤訳に引きずられた臆断で、じつは「フランクリン自身のキャラクター」自体は立派に学問的論議の対象となりえ、現に論議の末、ヴェーバーの立論の妥当性がほぼ立証された、ということであろう。こうして、第一節における羽入の主張は、学問的批判に耐えられず、疑似問題ならびに疑似論議(しかもそれ自体として誤った論議)として、すべて棄却されたことになろう。(2004年11月12日脱稿、つづく



[1] 「弁証法」という語は従来、マルクス主義者および追随者によって、ややもすれば思考の曖昧を隠蔽する「決まり文句」「マジック・ワード」として濫用されてきたので、避けたいところではあるが、「早分かり」のためには、「弁証法的」といってもよい。

[2] この事実は、羽入が、第三章の叙述をとおして、いきなり「あの楽天的なフランクリン」(143)と語り始めたり、「フランクリンの極めて現実主義的で露骨な功利的傾向」(142、143)と誇張したがったりするところからも、例証されよう。

[3] ヴェーバーは、「職業義務の思想」が「資本主義の精神」の「内に含まれ」、前者のcallingとルターのBerufとの「語形合わせ」によって、後者の「古プロテスタンティズム」への「遡行」を「搦手から」代替させられる、などと考えてはいない。羽入は、第二章でも「『精神』の理念型」に繰り返し言及するが、その意味内容を、概念上正確に規定しえていない。

[4] 拙著『ヴェーバー学のすすめ』、96-7ぺージ、参照。

[5] 正常な文献読解力の持ち主であれば、引用中最後の一文の主語が「この文書」であって、およそフランクリンが「宗教的なものとの関係」それも「間接的な」関係さえ失っている、などと主張されていないことを、よもや読み落としはしないであろう。

[6] 筆者には、生硬な「分からず屋」が、しなやかな「理念型思考のダイナミズム」範例を、さながら「届かない葡萄」を「酸っぱい」とけなしつける狐のように、悔し紛れに「手当たり次第に引っ掻き回し」、日本の人文・社会科学が理念型思考の真髄を「自家薬籠中のものとして」健やかに発展する道をかき乱し、ただ「末人」のつねとして、ひとり「世界初の発見」をなしとげ「最高段階に上り詰めた」と思い込んで「悦に入っている」図としか映らないが、読者はどう鑑賞されるであろうか。

[7] 拙著、100-1ぺージ、参照。

[8] 「精神」自体が「プロテスタンティズムの倫理」の「鬼子」かどうか、というような議論は、ピント外れのプロテスタンティズム護教論ないしは(それと同位対立の)反護教イデオロギーではあるまいか。

[9] 羽入が、第一章では「比較的古いälter英訳聖書」、第二章では「すでにschon事柄としての類似からしても」といった(羽入にとって重要な)箇所の不適訳に引きずられて、ヴェーバーの論旨を捉え損ね、自分の誤読を楯にとってヴェーバーを非難していた事実については、本コーナーに掲載の拙稿で指摘したとおりである。原書のぺージを付記するのはよいが、原文について意味を熟考するのでなければ、原ぺージ付記も衒学儀礼に堕する。

[10] ところが、羽入の退嬰的なネガティヴィズム/ニヒリズムにおいては、「ヴェーバーを倒す」こと以外は「眼中にない」らしく、フランクリンについてもルターについても、「ヴェーバー打倒の『だし』に使え」ば「能事終われり」で、かれらについても学問的になにか積極的な命題を立てようとはつゆ思わないようである。

[11] たとえば、「曖昧宿」に通って「病気」になりはしないかと心配した、というような記載。

[12] フランクリンは後年、「富にいたる道」と題する講演を結ぶにあたって、つぎのように付言している。「皆さん、この教訓は、道理にかないもし、賢くもあります。しかしながら、なんと申しましても、ご自分の勤勉、節約、慎重、これらはいずれもすぐれた美徳には相違ありませんが、あまりにそればかりを頼りになさってはいけません。なぜといって、せっかくの美徳も、神の祝福がなければ、なんの役にも立たないでしまうことがあるからです。それゆえ、心をつつましく保って神の祝福を求める一方、現在、神のみ恵みにあずかっていないと思える人にたいして、無慈悲な態度に出ることなく、これを力づけ、助けてあげるように心がけてください。ヨブがあれほど苦しい目にあいながら、しかものちには栄えたことをお忘れにならぬように。」(Benjamin Franklin, Writings selected with notes by Lemay, J. A. Leo, 1987, New York: Literary Classics of the United States, 1302, 松本/西川訳、288)

[13] このフランクリンの神を「予定説の神」と混同するとは、「倫理」論文と『自伝』のまっとうな読者にはおよそ考えられない錯誤で、「杜撰」というだけでは済まされまい。むしろ、ヴェーバーに「petitio principii」と「それを隠蔽する詐欺」とを創り出そうとはやるあまり、両者を同一視した(そうでないとpetitio principii にならないので)、半ば「ためにする牽強付会」ではあるまいか。ただ、「価値自由」なテクスト読解力と論理的思考力さえそなわっていれば、これほど途方もない錯誤と逸脱は防止されたであろうが。

[14] 拙著、第二章注52、146-7、参照。


丸山尚士「ジュネーブ聖書に関しての若干の補遺」

2004年11月14日(本コーナーへの寄稿)

ジュネーブ聖書に関しての若干の補遺

2004年11月14日

丸山尚士



  既に、羽入論考批判については、最終版を公開済みである。筆者としては、学術論文としては非常に疑問のある羽入論考への批判をこれ以上続けることに積極的な意義を見出し得ていない。 今回発表するのは、きっかけとしては羽入論考批判から発展したものであるが、筆者としては固有の英訳聖書研究、固有の「プロテスタンティズムの倫理」研究として考えている。 もとより、どちらの分野でも筆者は専門家ではないが、専門家でないゆえにむしろ虚心に取り組み、 いくばくかのこれまで指摘されてこなかった事実を明らかにすることができたとすれば、筆者の喜びとするところである。本稿ではその後の調査で明らかになった、ジュネーブ聖書を巡る若干の興味深い事実を紹介する。


  ジュネーブ聖書は、メアリ治世のイングランドから、スイスのジュネーブに亡命した、カルヴァン派によって翻訳された聖書であることは、 既に紹介済みである。亡命者が翻訳した、という点だけでも、既に十分「政治的」な色彩を帯びているとも言えるが、さらに興味深い事実が、 ジュネーブ聖書の新約部分を1576年に改訂したLaurence Tomsonについて存在する。 Tomsonは、エリザベスの国務大臣であった Sir Francis Walsinghamの私的秘書であり、またジュネーブ大学でギリシア語の講師をしていた。1) このWalsinghamは、エリザベスの元で国内および国際諜報組織を作り上げ、メアリの反逆を暴いて死刑に追い込んだり、 スペイン支配下のオランダへの独立支援を行ったり、またフランスのユグノー(カルヴァン派)を秘かに支援していたりした。 つまり、映画の007に出てくるMI5やMI6を最初に作った人になる。TomsonもWalsinghamの秘書であり、なおかつ ジュネーブという中立的な都市にいたことを考えれば、 Walsinghamの手足として、彼もまた諜報活動に従事していたのではないだろうか。当時既にジュネーブは国際金融都市であり、たとえばスペインはジュネーブの金融筋から軍資金を調達しようとした。 その金塊をスイスからスペインに輸送中にイギリスの港に立ち寄り、そこでイギリスにその金塊を強奪されたりしている。こうした活動に、Tomsonもまたからんでいたのではないかというのが筆者の想像である。

  

  ジュネーブ聖書の注に出てくる明確な「反カトリック」の姿勢も、明らかにこのような政治性の賜のように思うが、 1557-1560年版の翻訳者達がどこまで純宗教的であって、どこまでが政治的であったかは、はっきりとは区別できない。 ただ、さらに面白い事実としては、筆者の論考で再三紹介してきた印刷商Christopher Barkerも、上記のような「カルヴァン派国際政治ネットワーク」にまた深く関わっていたことが挙げられる。 Barkerがなみいる競争者を押さえて、王室から特権と独占権付きの印刷商の資格を得ることができたのは、彼がWalsinghamとの強いコネを持っていたからのようである。2) さらに、Barkerがこうした特権を得て、最初に印刷した英訳聖書が、1576年のジュネーブ聖書Tomson改訂版の最初の版なのである。 さらに付け加えていうならば、筆者の第3稿で言及したThomas Vautrolierというフランスの印刷商だが、彼もユグノーであって、それ故に迫害を受け、イングランドに亡命して来たのである。3)


  エリザベスを支えた大臣の中には、Walsingham以外にも、レスター伯など、ピューリタンの保護者が多くいたようである。 エリザベス自体がどこまでピューリタンに寛容であったかは議論が分かれるところだが、少なくともカトリック国であるスペインと戦って勝利を収める1588年頃までは、 エリザベスの政治スタッフはかなりの部分、親ピューリタン的であった、といっても言い過ぎではないと思う。


  また、直接ヴェーバーとは関係がないが、1599年にジュネーブ聖書のヨハネ黙示録の部分の脚注がFrancis Junius(これもユグノーの神学者)によって改訂されているのは、 当時の終末思想、千年王国思想と関係がありそうである。 すなわち、ヨハネ黙示録や旧約のダニエル書によって預言されたこの世の終わり、キリストの再臨を次のように計算する。ローマ教皇を反キリストと定義し、その出現をAD400年頃とした場合、 ダニエル書12.7にある「一時期、二時期、そして半時期たって」を「500+500+250=1250年」とし、合計して1656年が終末の年だとされたのである。4) この改訂自体も、その終末感と反カトリックを結びつけた政治性がこめられた注釈改訂であり、そのために具体的な法王名まで入ってきているのではないかと思う。



  以上のような事実から、ヴェーバーの言う、"die hoeffischen anglikanischen Bibeln der elizabethanischen Zeit"を再度解釈してみた場合、まず"hoeffischen"=宮廷の、という部分については、


(1) 単純に、宮廷から許可と独占権を得たBarkerのような印刷商が印刷した聖書、という意味

(2) イギリス国教会の主教達が主に使用した「主教聖書」や「大聖書」ではなく、それ以外の目的で使用されたのを「主教」との対概念で「宮廷」と呼んだ

(3) エリザベスの宮廷政治家のうちのピューリタン支援派によって「政治的に」翻訳、印刷された聖書


のどれかまたはいくつかであると理解することができると思う。(さすがに(3)の事情までヴェーバーが把握していた、とするには現時点では証拠不十分ではあるが。)


また、"anglikanischen"=イギリス国教会の、の部分については、カルヴァン派、ピューリタンに好まれた聖書を「イギリス国教会の」とすることに違和感を覚える向きもあるかもしれない。 しかしながら、「1640年以前に『ピューリタン』と『アングリカン』を分けることは、時代錯誤であると同 時にまったく道理に反している。『ピューリタン』は、 『主教派』あるいは『ロード派』など様々な名で呼ばれる人々とまったく同様に、 アングリカンであった。」5) のであり、エリザベスの時代について、ピューリタンを含めて「アングリカン」と呼んでも、まったく問題はないのである。



以上

脚注

1) http://encyclopedia.thefreedictionary.com/Laurence%20Tomson  を参照。

2) http://special.lib.gla.ac.uk/exhibns/printing/  を参照。

3) 注2と同じURLを参照。

4) 法 政大学出版局、クリストファー・ヒル著、小野功生訳、「十七世紀イギリスの宗教と政治」、p.335、クリストファー・ヒルは16-17世紀のイングランド史にもっとも定評ある歴史家。

5) ク リストファー・ヒル、上掲書、p.11


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-2)」

2004年12月4日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-2)

折原 浩


2004年12月4日

第二節 没意味と弱論理の迷走――疑似問題「論拠②」(善徳「有益性」思想の始源関係)をめぐる羽入流疑似論議の批判

はじめに

 前稿「『末人』の跳梁――羽入『ヴェーバー詐欺師説』批判結語(3-1)」

で詳論したとおり、ヴェーバーは、「資本主義の精神」につき、「歴史的個性体」としての理念型(複合)を構成する第二階梯で、フランクリンの「道徳的訓戒全体」に「功利的傾向」を認めその証拠に、『自伝』中からⓐ善徳への「改信」物語、ⓑ「控え目の狡智」勧告を挙げた。しかし、そのうえでは、「功利的傾向」を「否認するのではなく、「功利的傾向」と動的均衡を保つ対抗(第三)要素として独特の職業義務観」(とその宗教的背景)に着目する方向に論を転じ、「自己[利益]中心の[功利的]準則に粉飾を凝らすこと以外のなにものか」の証拠――そのかぎりでⓐⓑとは反対方向の証拠――を、ⓒ『自伝』に「率直に」表明されている「フランクリン自身のキャラクター」と、ⓓ善徳の「有益性」思想の始源(すなわち、「フランクリンが善徳の『有益性』に思いいたった事態そのものを、そうすることによってかれに善をなさしめようとする神の啓示に帰している事情」)とに求めた(GAzRS, I, 34-5、大塚訳、46-7、梶山訳/安藤編、94)。

 さて、本稿と次稿は、羽入書第三章第一節を批判した前稿のあとを受けて、同第二/三節を批判の対象とするが、羽入がそこで取り上げている「論拠②」は、事柄としてはこのうちのⓓに相当する。しかし、この証拠ⓓは、上記のとおり、ⓐ~ⓒとは異なり、『自伝』を典拠とする立論としては提示されていない。ところが、羽入は、ⅰ)「啓示」への直接言及が『自伝』中にあるものと決めてかかり、しかもⅱ)当の「啓示」を、その通常の語義(「神の真理ないし意思が、超自然的な仕方で[たとえば聖書によって]人間に開示されること」あるいは「そのようにして人間に開示された神の真理ないし意思」という語義[1])から逸脱して、なにか「突如として聖霊に感じ、百八十度の回心をとげる劇的な体験」というふうに狭く解釈ないし転釈し、そうして初めて接近する、ⅲ)「啓示」と「改信」との類似から、証拠ⓓの「啓示」を、(ヴェーバー自身は、ほかならぬ「功利的傾向」を裏付けるために挙示していた、ⓓとは反対方向の証拠ⓐの「改信Bekehrung」(および、そのコンテクストでその限定を受けて用いられている「啓示Offenbarung」)と混同する。そのうえで、その「改信」「啓示」が「劇的聖霊降下-回心体験」ではないとの理由で、「啓示」の証拠は『自伝』中に見当たらず、したがって「論拠②」は成り立たない、と速断する。そのようにして、「ヴェーバーは、論拠がないのに功利的傾向を『否認して』、倫理性・エートス性の理念型に『固執した』」との結論を引き出そうとするのである。

ところで、前稿で論証したとおり、そもそも「ヴェーバーが『功利的傾向』を『否認した』論拠①~③」という問題設定自体が、「倫理的か、功利的か」の形式論理・二者択一に凝り固まった羽入の脳裏にのみ宿り、居すわってしまっている虚構にすぎない。ヴェーバーは、「功利的傾向」を「否認」せず、「精神」の「歴史的個性体」概念に、「倫理性・エートス性」と対抗/拮抗関係にあって動的な均衡を保つ「第二要素」として組み入れている。したがって、「否認」してはいないのであるから、「否認の論拠」もなにもあったものではない。ⓓは、「否認証拠ではないのである。

 そのうえ、そうした疑似問題設定のひとつ「論拠②」を前提とする羽入の論議(疑似問題をめぐる疑似論議/疑似論証)も、その内容自体、上記ⅰ)「典拠は『自伝』における直接言及」との独り合点、ⅱ)「啓示」とは「劇的聖霊降下-回心体験」との恣意的転釈ⅲ)反対証拠(ⓐとⓓ)どうしの混同のうえに立ち、見当違いの「語形詮索」に粗暴な主観的印象評言を散りばめるばかりの代物である。それは、当該第二/三節で32ぺージもの紙幅を費やして延々と繰り広げられているが、さながら「没意味と弱論理の迷走」の観を呈し、「倫理」論文にかんする学問的研究としては取り上げて論ずるに値しない。しかし、そこには、ある「悪循環」が垣間見られ、これが認識価値を帯びている。すなわち、もっぱらある方法(羽入のばあい、字面/外形に拘泥して意味/思想に到達しない「文献学」つまり「没意味文献学」)に頼り、しかもそれを「拷問具」として過信し濫用する者が、その方法でも処理できる事柄(瑣末な「語形詮索」)に埋没/拘泥するあまり、いかに「木を見て森を見ない」(というよりも「葉は見ても木は見ない」)視野狭窄に陥り、没意味と弱論理の境を彷徨い、翻っては自説の脆弱な論拠を糊塗/隠蔽すべく、粗暴な主観的印象評言を弄び、振りかざすことになるか――「『強権手段』への依存が、意味感受性と論理的思考力を鈍らせ、これが翻って強権依存に拍車をかける」――という「悪循環」、あえていえば「知性領域におけるファシズムの萌芽」が看取されるのである。本稿では、この「悪循環」を明るみに引き出し、あくまで羽入の「知的誠実性」にもとづく自己批判と立ち直りを促すと同時に、羽入予備軍には、羽入書という「反面教材」から「負の教訓」を引き出して提供し、あわせて日本の歴史・社会科学、広くは学問・思想・文化の将来に思いを馳せる人々に、この「悪循環」の問題をできるかぎり鋭く提起し、「羽入事件」を氷山の一角とする現状況に、警鐘を鳴らし、注意と関心を喚起したい。

1.「早合点」から「唖然とするような世界的な盲点」を「発見」

 羽入は、第二節「『神の啓示』の謎(1)」を書き出してまもなく、証拠ⓓの「神の啓示」に当たる記述が、「フランクリンの『自伝の内には、どこを捜してもどういうわけか見当たらぬ」(145)と述べたうえ、(羽入書を読んでいると「よく出食わす事態でもある」が)自分の早合点とはつゆ知らず、論脈から逸脱して「ヴェーバー研究」一般に非を鳴らし始める。この箇所は、「倫理」論文の読解/研究にとっては無意味な挿話にすぎないが、羽入の執筆動機を窺わせるデータとしては注目に値するので、少し長くなるが引用してみよう。

「ヴェーバー自身の言い回しを借りて敢えて諧謔的に述べるならば、次のように言えよう。事実、フランクリンの『自伝』をひもといて読む者なら誰でも、必然的に次のような結論に達せざるを得ない。奇妙なことにヴェーバーの申し立てにもかかわらず、フランクリンが『徳が「有益である」という考えが自分に浮かんだという事実そのものを、そのことを通じて<AfSS:そのことを通じて> 自分を徳へと導かんと欲し給うた神の啓示に帰している』などという事柄に関するいかなる直接的言及もそこには存在しない、と」(145-6)。

 さて、謙虚でしなやかな思考の持ち主であれば、こういう事態に直面したとしても、「直接的言及」はともかく、間接的言及がありはしないか、と慎重に『自伝』を読み返し、それでも関連叙述を見出せなかったばあいには、なにか他の典拠は考えられないか、典拠がはたして『自伝』ときまっていたのかどうかと、いったん自分の出発点に戻り、自分の「早合点」「勇み足」に気がつくはずである。ところが、羽入はそうではない。羽入書第二章で、フランクリン父子のBerufとルターのGeschäftとが直接語形一致」しないといって「アポリア」と決め込んだのと同じように、ここでも『自伝』に「直接的言及」がないというだけの皮相な読みで、なにか「鬼の首でも取ったかのように」得意になり、特徴的な口吻で「ヴェーバー研究者」をなじり始める。

「読者にこんなことを伝えると、ヴェーバー学者はこの百年間一体何をしてきたのかと怒鳴られそうなのであまり大きな声では言えぬのであるが[と、ポピュリストよろしく読者に媚びながら]、誰もがただちに簡単に気づくべきであったこのことを、驚くべきことにヴェーバー研究の世界はこれまで全く気づいてこなかったのである[『自伝』における「直接的言及」と決めてかかったのが羽入ひとりしかいなかった、というだけの話ではないか!?]。驚き呆れるかもしれぬが、これがヴェーバー研究の世界の情けない実情である。基礎研究[2]ができていぬ[sic]のである。『自伝』には徳への改信を神の啓示に帰した[!?]いかなるフランクリンの記述も存在せぬ。この単純な事実を、これまで誰一人として指摘してこなかったのである。」(146)

羽入は、この機に乗じて「ヴェーバー研究者」への「怨念」を晴らそうとでもするかのように、一気にまくし立てている。しかし、そうしているうちに、羽入の「論拠②」に相当する証拠ⓓの「神の啓示」を、上記のとおり反対証拠ⓐ の「改信」物語と混同して、「徳への改信を神の啓示に帰したいかなるフランクリンの記述も存在せぬ」という当然のことを、なにか自分の「大発見」であるかのように錯覚してしまったらしい。そのうえで、こうした耳目聳動的言説で一躍脚光を浴び、「最高段階に上り詰めた」「第一人者」よろしく、ご高説を垂れる。「アカデミックな世界というものは、皆が同じ方向を向き、同じものを見、同じことをしたがる世界なので、どうしても意外な落ちが出る。しかもヴェーバー研究の世界というのはその傾向がとりわけ非常に強い。唖然とするような世界的な盲点[!?]が時として生ずるのはそのためである。もちろん、基本的盲点の発見の可能性もいまだにそれだけ豊富にある研究領域ということになるが」(146)と。

 かりに羽入が、羽入固有の価値理念に照らしてある「事実」に光を当て、ひとつの学問的業績と認定されるに足る「新発見」をなしとげたとしても、それだけで「鬼の首でも取ったかのように」得意になり、必ずしも価値理念を同じくするわけではない他の研究者が当の「事実」には光を当てず、「知るに値しない」として放置してきた当然の事態を、「唖然とするような世界的な盲点」といいつのるとすれば、有頂天になった思い上がり者にはありがちな、そういう愚かにも幼弱な神経が、いったいいつ克服されるのか、と嘆息して待つよりほかにはあるまい。しかも、羽入のばあいには、その「新発見」なるものが、独り合点の錯覚にすぎない、ときている。むしろ、「驚くべきこと」「驚き呆れる」「情けない」「唖然とするような世界的な盲点」……云々と、矢継ぎ早に御託を並べられると、かえってそれだけ、当人を駆っている屈折した衝動が透けて見えるではないか。

 確かに、学界の同調志向には根強いものがあろう。とはいえ、だからといって「なにか別のことをすればいい」ということにはならない。それでは、奇を衒い同位対立に陥るばかりで、「唖然とするような初歩的な盲点が時として生ずる」。ただ、その種の無邪気な「空威張り」は、だれの目にも「笑い種」と映るから、さして罪はない。むしろ問題は、「自分の言うことは、まだ誰も言ってはいないだろう」とほのめかして、「独創性をひけらかすような風潮一般が、「中堅」や「若手」のあいだにも広まっている事態であろう。こうした「個性」崇拝の風潮に、かつて真っ向からたちはだかり、「事柄Sacheに就け」と要求したのが、マックス・ヴェーバーその人であった。だから、問題の風潮に棹さすポピュリストが、ほかならぬヴェーバーを「目の敵」にし、真っ先に「槍玉に挙げよう」とするのには、十分に動機はあろう。また、「中堅」や「若手」が、さすがに「手垢にまみれた大言壮語」は「見苦しくも逆効果」と察知して、自分では賢明に手控えるとしても、さりとて、そうした風潮の体現者にあえて苦言を呈し、たしなめようとはせず、つまり問題の風潮に抗すること自体は厭い、「見てみぬふり」を通そうとするのも、やはり根は同一であろう。

2.没意味文献学は、キーワード検索で打ち止め、思想所見には無頓着

 閑話休題。フランクリンは、『自伝』の冒頭、執筆意図を二通りに明かしている。ひとつは、いわば「利他的」側面で、「わたしは貧しい賤しい家に生まれ育ち、のちしだいに身を起こして富裕の人となり、ある程度世間に名も知られ、かつこの歳になるまでかなり幸運に恵まれて日を過ごしてきたが、子孫の者からすれば、そうなるまでにわたしが採用し神さまのお蔭でたいそう成功した有益な手段the conducing means I made use of, which with the blessing of God so well succeededのなかには、自分の境遇にも役立ち、したがって真似したらよいと考えられるものもあろうから、その手段を知りたいものだと思うことだろう」(226, 6)と語っている。いまひとつは、「利己的」ともいうべき側面で、かれは、「好きなようにしろといわれたら、これまでの生涯を繰り返すことに異存はないが、それはできない相談なので、それに近いこととして生涯を振り返り、思い出すことを筆にして永久に記録できれば『大いに自分の自惚れvanityも満足させられよう』」との趣旨を「いさぎよく白状して」いる(227, 7)。

ところで、フランクリンは、過度におよんで形骸化すると「自惚れ」ともなる「自負心pride」につき、別の箇所で「十二徳」に「謙譲humility」をつけ加えて「十三徳」とした経緯にこと寄せて、つぎのとおりやはり「率直に表白」している。「われわれが生まれ持った感情のなかでも、自負心ほど抑えがたいものはあるまい。どんなに包み隠そうが、それと戦おうが、殴り倒し、息の根をとめ、ぐいぐい抑えつけようが、いぜんとして生きつづけて、ときどき頭をもたげ、姿を現すのである。おそらくこの物語のなかにもしばしばその自負心が姿を見せることであろう。なぜかといえば、わたしは完全にこれに打ち勝ったと思うことができるとしても、おそらく自分の謙譲を自負するであろうから」(339, 149)と。ところが、『自伝』の冒頭では、この持論につぎの見解がつけ加えられる。すなわち、「たいていの人は、自分がどんなに自惚れ屋でも、他人の自惚れは嫌うものだが、しかし、わたしは、他人の自惚れに出会うと、いつもなるべく寛大な目で見ることにしている。自惚れというものは、その当人にもまたその関係者にもしばしば利益をもたらすproductive of goodと信ずるからである。したがって、人生の他のさまざまな楽しみとともに自惚れを与えてくださったことにたいして神に感謝するto thank God for his vanity among the other comforts of lifeとしても、多くのばあい、かならずしも道理にあわぬことではあるまい」(227, 7)と。そしてここで、「神への感謝について述べたついでに」とことわり、つぎのとおり証言している。「上述のようなこれまでのわたしの幸運はまったく恵み深い神のみ心によるものでわたしは神に導かれて前にいった手段を見出しそれを有効に使うことができたのである。このことをわたしはうやうやしく言っておきたいI desire with all humility to acknowledge that I owe the mentioned happiness of my past life to His kind providence, which lead me to the means I used and gave them success。そして、このように信ずるところから、神のみ恵みが今後もわたしのうえに働いて、今までの幸福が将来もつづき、また他の人々と同様、運命の逆転に出会うことがあっても、これに堪えることができるであろうと、もとより当然であるとしてはならぬけれども、わたしは信じたいのである」(227-8, 7)と。

ここには、「自負心どころか、自惚れのような、人間には『悪徳』として嫌われる心根でさえ、神はそれをいわば善用して、当人にも関係者にも利益をもたらすように按配してくださる、とすれば、ましてや『善徳』ともなれば、かならずや利益に結びつけてくださるばかりか、『固有価値』としては善徳をまっとうできない、いわば『倫理的弱者』の(わたし他、圧倒的多数の)人間にも、『人生の他のさまざまな楽しみ』には心惹かれて善徳にも赴くように配慮してくださっている(神は、善徳を利益に結びつけることによって、倫理的弱者のわたしにも善をなさしめようとしている)」という趣旨の思想所見が、語り出されているではないか。すなわち、(「予定説」の「隠れたる神」ではなく)「啓示された慈悲の神」、「(人類に)善意を寄せる勧善懲悪の神」への信仰と感謝が、(個人的な「劇的啓示体験」に由来したかどうかではなく)神の啓示に淵源する『啓示宗教』としてのキリスト教諸宗派から共通に引き出され(フランクリン倫理における「定言命令」の側面)、人間の本性に照らしても首肯される(「功利的」側面)「道理」として、明快に表明されているではないか。なるほど、ここでの表記は、「神の啓示」への明示的に特定された直接的言及ではない。しかし少なくとも、「わたしのうえに働いて」いる「神のみ恵み」にたいするこうした感謝の言表から、『自伝』の他の箇所[3]からも推認できる上記のような神信仰の思想所見を読み取ることは、けっして無理ではなかろう。そして、その思想所見は、フランクリンの「道徳的訓戒全体」が、「なにはともあれ、ただひたすら自己[利益]中心の[功利的]準則に粉飾を凝らすこと以外のなにものか」を含んでいることへの、紛れもない証拠ⓓであろう。

 羽入も、この『自伝』冒頭には止目し、「神の恵み」や「神の親切な摂理」への言及を、原文も交えて引用してはいる。しかし、証拠ⓓに相当する「事情」、あるいは少なくとも、証拠ⓓに集約されているような思想所見が、そこに間接に語り出されているのではないか、と問うて、引用箇所の意味を熟考しようとはしない。むしろ「双方とも『徳virtue(Tugend)』に関する及ではなく、また肝心のキーワードであるところの『啓示Revelation(Offenbarung)』という言葉を含んではいない」(146)と述べて、意味探究は打ち切ってしまう。つまり、羽入にとっては、「倫理」論文のみかフランクリンの『自伝』も含めた「文献学的」研究とは、(コンピューターを使えば瞬時に完遂される)「キーワード検索」という出発点で打ち止めになり、それだけで「能事終われり」とばかり、軽率な「結論」的断定も厭わない作業のようである。羽入は、そうした「没意味文献学」の水準に止まったまま、ふたたび「ではヴェーバーは一体どこから、フランクリンを徳へと導かんと欲された神の啓示がフランクリンに下った[!?]、という“事実”への証拠を取り出したのであろうか。どうやったらわれわれは、『自伝においてヴェーバーが自らの主張の論拠として[sic]みなしていた箇所を突き止めることができるのであろうか」と問い、相変わらず「典拠は『自伝』における直接言及のみ」という制限条項の枠内で、「啓示」を「劇的聖霊降下-回心体験」の方向に狭めて解釈ないし転釈し、ひたすらそういう「キーワード」の検索に没頭する。しかも、そのようにもっぱらキーワードに力点を置くあまり、当初には半ば「邪道」「本末転倒」と意識しながらも、『自伝でなく、なんと「倫理論文に「キーワード」を捜し始めるのだ。そして、なんと意味上は正反対の功利的傾向の証拠ⓐの箇所に「改信」「啓示」という「キーワード」を見つけ出すや、語形の外面的一致に引きずられて意味上は正反対の証拠ⓓとⓐとを混同し、そのまま証拠ⓐの言表に「劇的啓示-回心体験」が読み取れるかどうか、という見当違いの些事詮索にのめり込んでいく。やがて羽入は、その途上で迷走しているうちに、自分のやっていることが本来「邪道」で「本末転倒」であることも忘れてしまう。しかも、そうした没意味と弱論理の迷走ぶりを、32ぺージにもわたって得々と開陳し、なんと「世界初の発見」に祀り上げて勝ち誇るのである。その次第をひとつひとつ追跡するとしよう。

3.「キーワード」に囚われて反対証拠どうしを混同

 羽入はいう。「これも『倫理』論文を読んでいく時にはよくあることなのであるが、[羽入にとっては]原資料であるはずの『自伝』の頁をめくって直接丹念にその箇所を捜すよりも、むしろ『倫理』論文中のそれに関係すると思われる部分を[意味上は反対証拠であっても!?]捜すほうが、手っとり早く賢明[!?]である場合が多い。本来の学問的手法としてはこれは飽くまでも邪道なのである[そのとおり!]が、もともと『自伝』には全く書かれていぬ[sic!?]ことを、ところが書かれていぬ[sic!?]はずの『自伝』の中で一体どの箇所をヴェーバーは用いたのであろうか……、と当たりを付けねばならぬ[!?]という、そもそもが本末転倒の[そのとおり!]作業をおこなわねばならぬ[!?]ので、こうした振る舞いもせざるを得ぬ[!?]ことになる」(147)と。ヴェーバーが「邪道」「本末転倒」を強いているかのように責任転嫁しているが、じつは、羽入のほうに、そうした「邪道」「本末転倒」に勇躍して乗り出すほどに、「原資料中のキーワードという思い込みが激しく、『自伝』に間接には表明されているかもしれない思想所見を、柔軟かつ慎重に探し出そうとする学問の「正道」には、戻ろうにも戻れないだけの話ではないのか。

 そこで羽入は、「すぐ直前[sic]の頁に次のような奇妙な[!?]叙述があることに気づく」(147)として、「倫理論文から、なんと「功利的傾向にかかわる証拠ⓐの叙述を引用し、つぎのようにコメントする。「もちろん、事実、フランクリンの『自伝』をひもといて実際に読んでみた者であれば誰でも、“そのような徳にフランクリンが『改信』した”というような“劇的”物語[と独り決めして!?]はどこにも書かれていないことは知っている。しかしながら、この[!?]ヴェーバー言うところの[!?]『あのような徳へのフランクリンの[劇的?]「改信」の物語』こそが、徳が有益であるという考えが浮かんだという事実そのものをフランクリンが帰しているという――やはりヴェーバー言うところの――例の『神の啓示』と何らかの関係があるに違いない[とこれまた独り合点の推断!?]のである」(147)と。ここに明言されたとおり、羽入は、「改信」を「“劇的”物語」と転釈することによって「啓示」と関連づけ、(なるほど「すぐ直前[sic]」に出ているとしても、「倫理論文自体のコンテスクトのなかでは意味上正反対の)証拠ⓐとの混同に陥ってしまった。ちなみに、羽入書を読んでいると、冗漫な同義反復とともに、「奇妙な」あるいは「奇怪な」という形容詞に頻繁に出会う。ところが、羽入によってそう形容されたヴェーバー自身の叙述をよく読んでみると、他のばあいと同様、このばあいにも、当の叙述自体は論理的に筋が通っており、むしろ読み手に当該の論脈が読み取れないために「奇妙」「奇怪」という主観的印象が生じている、という関係が明らかになる。したがって、羽入の「奇妙」「奇怪」の連発は、かれがみずから告知している解読不能標ないし誤読信号と受け取って、まず間違いない。さて、羽入は、反対証拠どうしの混同のうえに、「キーワード検索」の結果を、つぎのように報告する。

「正にこの『徳への「改信」』という表現に付けられたヴェーバーの注の内に、『啓示Offenbarung』という単語[!]が使われているのをわれわれは見出すのである。その注の内でヴェーバーは、フランクリンの『自伝』の内のある箇所をドイツ語で引用している。したがってこの部分こそがフランクリンの『徳への「改信」』に関するヴェーバーの主張の証拠[ⓐ]部分であり、また同時に[!?]恐らくは『徳が有益であるという考えが浮かんだという事実そのものをフランクリンが神の啓示に帰している』というヴェーバーの陳述の論拠[ⓓ]となる部分を指し示してくれている箇所であることになる[!?]」(147-8)と。なるほど、同一の箇所が、その意味内容の解釈いかんによっては、互いに正反対の傾向の証拠になる、ということも、ありえないことではない[4]。しかし、羽入は、そうした意味探究意味解釈には踏み込まず、ただ「『啓示』という単語が使われているかどうかだけで、ものごとを判断し、この箇所をなんと反対証拠ⓓの典拠と混同し、そのようなものとして検討しようというのである。

 そこで、羽入は、当該注記の全文を引用する。この注記は、「倫理」論文の全論証構造のうちでは、価値関係性に乏しい微小な一論点にすぎないが、ここでの議論の争点をなすという意味では重要なので、まず独訳文と英語版原文を引用し、筆者の訳を示し[5]、そのうえで、この注記について羽入が問題とする論点をひとつひとつ取り上げて検討していくとしよう。

4.徳目(真実、正直、誠実)への「改信」の意味――「神の啓示」から「人間生活の幸福」への規準転換

独訳原文:In deutscher Uebersetzung: »Ich überzeugte mich endlich, daß Wahrheit, Ehrlichkeit und Aufrichtigkeit im Verkehr zwischen Mensch und Mensch von höchster Wichtigkeit für unser Lebensglück seien, und entschloß mich von jenem Augenblick an, und schrieb auch den Entschluß in mein Tagebuch, sie mein Lebenlang zu üben. Die Offenbarung als solche hatte jedoch in der Tat kein Gewicht bei mir, sondern ich war der Meinung, daß, obschon gewisse Handlungen nicht schlecht, bloß weil die offenbarte Lehre sie verbietet, oder gut deshalb seien, weil sie selbige vorschreibt, doch—in Anbetracht aller Umstände—jene Handlungen uns wahrscheinlich nur, weil sie ihrer Natur nach schädlich sind, verboten, oder weil sie wohltätig sind, uns anbefohlen worden seien.«(GAzRS, I, 34, 大塚訳、49、梶山訳/安藤編、95-6)

英語版原文:I grew convinc’d that truth, sincerity and integrity in dealings between man and man were of the utmost importance to the felicity of life; and I form’d written resolutions, which still remain in my journal book, to practice them ever while I lived. Revelation had indeed no weight with me, as such; but I entertain’d an opinion that, though certain actions might not be bad because they were forbidden by it, or good because it commanded them, yet probably these actions might be forbidden because they were bad for us, or commanded because they were beneficial to us, in their own natures, all the circumstances of things considered. (The Writings of Benjamin Franklin, ed. by Smyth, Albert Henry, vol. 1, 1907, New York: Macmillan, p. 296)

拙訳(独訳から直訳):「わたしはとうとう、人間関係における真実、正直、および誠実が、人生の幸福のためにきわめて重要だと確信するようになった。そしてその時以来、わたしは、それらの徳を生涯実行しようと思い立ち、この決意を日記にも書きつけておいた。とはいえ、啓示そのものは、わたしにとってじっさいには重要ではなく、わたしの考えは、つぎのとおりであった。すなわち、ある行為が悪いのは、啓示された教えがその行為を禁じているからではなく、あるいは、ある行為が善いのも、啓示された教えがその行為を命じているからではなくて、――あらゆる事情に鑑みて――ある行為がわれわれに禁じられているのは、おそらくはもっぱら、それが本来有害だからであり、ある行為が命じられているのも、それが本来有益だからである、という考えである。」

 とすると、「啓示」という表記が出てくる後半は、nicht(kein)A,sondern B(AでなくてB)の構文からなり[6]、そこには「(フランクリンは真実、正直、誠実の徳目を生涯遵守しようと決意したが)それはなにも、それらの徳目が従来『啓示宗教』において『天啓』『神の啓示』として命じられてきたからではなく、むしろそれらの徳目を遵守すること自体が人生の幸福にとってきわめて重要であると確信したからだ」との趣旨が表白されている。この趣旨を突き詰めれば、「神の啓示」を中心に据える「啓示宗教性」の立場から、人間中心の功利的見地への移行、とも要約できよう。すなわち、ある内容の行為準則を、それがまさに「神の啓示」であるがゆえに遵守する、という宗教的立場(「神中心主義」)から、世俗的功利的見地――つまり、たとえ内容としては同一の行為準則であっても、それ自体が、あらゆる状況を考慮に入れても、本来ということはつまり、「神の啓示」であるかいなかにかかわりなく)人間にとって利益か不利益か、と問い、そうした「人間利益中心の」規準にしたがって評価しなおし、これに応じて遵守するかいなか、遵守するとすればどの程度厳格にか、を決めるという(「神中心主義」にたいして「人間中心主義」の)世俗的・功利的見地――への思想的立場変換をこそ、意味しているといえよう。したがって、ヴェーバーが、この箇所を、フランクリンの「道徳的訓戒全体」における「定言命令kategorischer Imperativ」の側面ではなく、それと対抗拮抗している功利的傾向」の証拠ⓐとして引き合いに出したのは、意味上まことに適切で、筋が通っているというほかはない。なにか「劇的な啓示」が「突如」フランクリンに下ったかどうか、が問題で、ヴェーバーが、そうした意味内容に着目してこの箇所を(独訳からであれ、英語版原文からであれ)引用している、というのではない。だいたい、こうした世俗的功利的見地への「改信」を、逆方向にある「神の啓示」が媒介している、というようなことが、起きようか。そんなことは、(羽入以外には)およそ考えられもしないであろう。この点は、英語版『自伝』の原文を参照しても、まったく変わらない。

 ところが、羽入はこのあと、この引用文に関連して、その意味を捉えられないための迷走を重ね、荒唐無稽な「批判」を開陳する。それらを下記の五点⑴~⑸に要約し、コメントしていこう。

5.出典明示義務にかかわる「パリサイ的原典主義」の誇張と歪曲

羽入はまず、ヴェーバーが「自分の使った独訳本の版と引用頁を明らかにしなかった」のは「アカデミズムの礼儀に反して」(149)いると批判する。なるほど、そうした出典明示は、「アカデミズムの礼儀」というよりもむしろ、引用にかかわる著訳者/引用者双方の責任を明確にし、内容にかんする読者の追検証を容易にするために、遵守されるべき要請である。この点、ヴェーバーは通例、そうした要請を遵守するばかりか、内容上の着想については、たとえば「メルクスの教示によれば」とか、出所を明示すべく努めており、そうした「研究者としての基本的義務」をないがしろにしていたわけではない。ただ、引用が広い範囲におよび膨大なことと、すばやく叙述を仕上げて発表(状況に投企)しようと記憶に頼って再度の文献検索/確認を省くことがあるため、価値関係性の乏しい箇所については、出典を明示しきれない瑕疵が生じてしまっていることもいなめない。フランクリン『自伝』からのこの引用も、その一例といえよう。

 羽入が、そうした瑕疵を指摘し、出典検索を促し、みずからも一定程度検索に携わっているのは、そのかぎり学問上正しく、文献的研究への寄与ともなりえよう。ただ、かれのばあい、そうした瑕疵の指摘が、なにがなんでもヴェーバーを打倒し全否定しようという衝動と結びつき、「方法音痴」(「暫定的例示」のかぎりにおけるフランクリン論及と「固有の意味におけるフランクリン研究」との混同)ともあいまって、どんなに小さな瑕疵でも、なにか致命的な欠陥であるかのように針小棒大に描き出すばかりか、しばしばそれが、単純なミスではなく「読者を欺くために、意図して犯され、隠蔽された詐術、詐欺」であるかのようにこじつける、歪曲/曲解をともなっている。というよりもむしろ、そうした衝動に駆られ、なにがなんでも打倒しようとするあまり、どんなに矮小な「重箱の隅」の「あら捜し」――ということはつまり、そうすることの意味にも価値関係性にも無頓着な、いわば自己目的としての瑕疵暴露――にも大真面目に専念できるのであろう。そういう類稀な一面性ゆえに、平衡感覚をそなえた余人には看過されたり、大目に見られたりしている小さな瑕疵にも「目くじらを立て」て、なりふりかまわず暴きたてられるというのも、一種のメリットかもしれない。したがって、反論者としては、羽入による誇張や歪曲への論駁は当然としても、他方、そうした否定面に関心を奪われるあまり、打倒動機あればこその殊勝な文献的寄与の可能性までも、ひとしなみに否定してしまわないように、よく注意していなければならないであろう。

さて、羽入の文献調査によれば、フランクリンの『自伝』には、ロビンソン版(1793)、テンプル・フランクリン版(1818)、ビグロー版(1868)の三種があり、ヴェーバーは、「倫理」論文の執筆にあたり、当時の最新版で信憑性も高いビグロー版を用いるべきであったという。ところが、ヴェーバーは、どの版を使ったのかを記載していない。他方、ヴェーバーは、「暫定的例示」に用いた二文書(「富まんとする者への指針」と「若き実業家への助言」)については、『スパークス版全集』第二巻のページ数まで明示している。ところが、同じ『スパークス版全集』の第一巻に収録されている『自伝』については、なんの文献情報も与えていない。

 この点についても、上記のばあいと同様で、ヴェーバーは『自伝』についても文献情報を提供しておくべきだったろう。そうしていれば、「痛くもない腹を探られなくても済んだ」にちがいない。羽入はこの点につき、「調べれば調べるほど、フランクリンの『自伝』に関するヴェーバーの動きは奇怪で謎が深まっていく」(152)と、例によって「奇怪」という解読不能/誤読信号を発しながら、主観的には「詐術」をほのめかし始める。となると、羽入の文献情報提供はそのかぎりで功績と認めつつも、ヴェーバーの「動き」がはたして「奇怪」で「謎」なのかどうか、という究明に移らざるをえない。

6.迷走のはてに――独訳における“endlich”と“von jenem Augenblick an”との付加で、「啓示」が「劇的聖霊降下-回心体験」に変るという珍解釈

羽入は、ヴェーバーが『自伝』の英語版を読んだのか、独訳を読んだだけなのか、を問題とし[7]、独訳と英語版原文との対比を企てる。すると、独訳では、「とうとうendlich」と「そのとき以来von jenem Augenblick an」という副詞と副詞句が付加されているにすぎないことが分かる。ところが、羽入は、この点についてつぎのようにいう。「しかしながらこれから筆者が[東西東西!]読者諸氏にお目に掛けようとするのは、この二つの表現『ついにendlich』と『その時以来von jenem Augenblick an』という言葉のあるなしによって、『神の啓示という例の言葉の意味がいかに大きく変ってしまうかである」(154)と。ここで羽入は「『神の啓示Offenbarung eines Gottes』という例の言葉」と表記しているが、これがなにを指すのか、定かでない。「功利的傾向」の証拠ⓐには「啓示そのものdie Offenbarung als solche」、「功利的準則の粉飾には解消しきれない、それ以外のなにものか」にかんする反対証拠ⓓには「神の啓示eine Offenbarung Gottes」とある。羽入はここで、ⓐⓓ二箇所に二様に表記されたキリスト教の「神Gott(無冠詞)」以外にさまざまな宗教のもろもろの神々のなかから「一柱の神ein Gott」を引っ張ってきて、持ち込もうというのであろうか。しかし、それでは荒唐無稽にすぎようから、ここは羽入が、ⓐとⓓとの混同のうえに、ⓓの「神の啓示」を誤記したものと解するほかはなかろう。ところが、そうすると、羽入は、証拠ⓓの「啓示」の意味が、反対証拠ⓐへの独訳時の二語句付加によって「大きく変ってしまう」と主張していることになる。しかし、それは、いったいどういうことであろうか。羽入が珍しく「意味」を問うて「読者諸氏にお目に掛け」たいというのであるから、興味も惹かれよう。

「もしもフランクリンの『自伝』からヴェーバーによって引用されたこの文章の内容を、これら二つの加筆された副詞的表現を考慮に入れつつ分かりやすく明示しようと思うならば[!?]、われわれは恐らく次のように解釈することが可能であるし、またそのように解釈するしか途はないであろう[!?]。

ある日フランクリンはついに次のように確信するに至った。徳は有益であり、人と人との交渉における真実と正直と誠実さがわれわれの人生の幸福にとって最も重要なのだ、と。この確信はフランクリンにとって非常に劇的に現われた[!?]のでまるでそのことを通じて彼を徳へと導かんと欲された神の啓示であるかのように彼には思われた[!?]。彼はその時以来生涯に渡ってそうした徳を実行しようと決心し、その決心を日記にも書き込んだ。しかしながらフランクリンにとっては、それが啓示だったことが重要だったわけではない。なぜなら彼によれば、ある行為が悪いのは、ただ単にそれらが啓示によって禁じられているからではなく、それらが本来有害だからであり……云々、と。

読者は右の劇的[!?]改信”の物語の形成に当たって、『ついに』・『その時以来』という二つの表現が効果的に働いている[!?]ことに注意されたい。」(154)

はて、読者がこの陳述を「注意」して読むと、羽入が「そのように解釈するしか途はない」という当の「解釈」を、受け入れ、首肯することができるのであろうか。そもそも「“劇的改信”の物語」とはなにか。それが、英語版原文はもとより、独訳文からも、読み取れるのであろうか。独訳時に付加されたという「ついにendlich」という副詞は、「確信」にいたるまでに長い時間を要したという事情は伝えても、「確信」そのものが突如plötzlich」「劇的にdrastisch」出現したというような態様まで意味してはいない。「その時以来」とは、文字通りその時点以後の継続を指示するだけで、これまた「その時」における「確信」出現の様相がなにか「劇的」であったと修飾する語句ではあるまい。だいたい、かりにそうした「劇的な啓示体験」がじっさいにあって、そこに力点が置かれた叙述であるとすれば、すぐさま当の「フランクリンにとっては、それが啓示だったことが重要だったわけではない」と書き足して、「劇的体験」の重みをみずから打ち消すというのは、なんとも不可解/不自然ではあるまいか。

 もっとも羽入は、まさにヴェーバーがそうした不可解な解釈をやってのけている、と主張したいのではあろう。しかしそれは、彼我混濁の羽入が、自分の虚構をヴェーバーに押しかぶせようと奮闘/迷走しているうちに、このへんでもう彼我の区別がつかなくなってしまっている証左ではあるまいか。ヴェーバーは確かに、フランクリンにおける真実、正直、誠実といった徳目への功利的確信の形成を、「改信Bekehrung」と表記はした。しかし、その「改信」が、逆方向の「神の啓示」に媒介され、しかも「劇的な聖霊降下による突発的な回心体験」だった、あるいはなにかそうしたものを契機として生起した、というようなことは、語ってはいないし、(かれならずとも、まともな研究者が)そういう荒唐無稽な空想に耽るとは、まず考えられまい。じじつヴェーバーは、上記のとおり、この箇所を意味上適切に、「啓示宗教性」から離脱する方向にある「功利的傾向」の表明と解して、その証拠ⓐに採用していたのである。むしろ、羽入がご丁寧にも「読者諸氏にお目に掛けようと」している上記の一節(「迷走録」のひとこま)中、なにが「“劇的改信”の物語の形成に当たって……効果的に働いている」かといえば、それは、独訳文の二付加語句ではなく、まさに羽入が紛れ込ませている「独創的な」文章、つまり「この確信はフランクリンにとって非常に劇的に現われたのでまるでそのことを通じて彼を徳へと導かんと欲された神の啓示であるかのように彼には思われた」という(羽入の思い込みをそのまま吐露している)くだり以外にはないであろう。

 ところが、羽入は、「以上のように[!?]われわれは『倫理』論文の注における“フランクリン”の文章を、ヴェーバーにしたがってそしてヴェーバーと共に解釈することが可能である。あるいはより厳密に[!?]述べるならば、『倫理』論文におけるヴェーバーによるフランクリンの描写にしたがう限り、『倫理』論文の注で引用されているフランクリンの文章を右に示したように解釈せざるをえない[!?]のである」(155)と結論づける。つまりは、「ヴェーバーによる描写」、「ヴェーバーの解釈」の捏造を完了する。羽入がⅰ)「典拠は『自伝』における直接的言及のみ」との早合点、ⅱ)「啓示」語義の(「劇的聖霊降下-回心体験」への)恣意的狭隘解釈ないし転釈、ⅲ) ⓐⓓ反対証拠どうしの没意味文献学的混同、にもとづく以上の迷走の産物/羽入以外にはおよそ思いつきようもない荒唐無稽な空想の所産を、「死人に口なし」をいいことに、ヴェーバーにかぶせ終わり、「ヴェーバー藁人形」を立ち上げたのである。「ヴェーバーにしたがって」「ヴェーバーと共に」という、例によって冗漫な同義反復は、羽入流に即断すれば、「倫理」論文を読んでいない読者を誤導してヴェーバーに「濡れ衣を着せる」「詐術/詐欺」の類ともいえよう。しかし、それにしては稚拙にすぎる。むしろ、迷走中の彼我混濁の徒が、自分の陳述の意味を考え抜いていないために、自分でも半信半疑で自信がもてず、繰り返しによって「自分で自分を納得させなければならない」「おぼつかない足取り」の証左と解しておこう。

7.結論をなんど繰り返しても、誤りは誤り――没意味文献学の消去法が仇

羽入は、なんど反復しても自信がもてないのか、奮闘を重ね、「したがって、『倫理』論文の注におけるフランクリン『自伝』からのこの引用部分こそが、フランクリンが『徳へと「改信」』したというヴェーバーの主張[!?]の証拠箇所なのであり、またそれによってフランクリンが徳へと改信したとされる『神の啓示』の証拠箇所でもある[!?]のである」(155)と、結論をまたもや繰り返している。いささかうんざりするが、やむなく反論も繰り返せば、前半は不正確、後半は誤りである。「ヴェーバーの主張」とは、「フランクリンの道徳的訓戒全体が、功利的な傾向帯びており、それだけが一人歩きすれば、『善徳の外観が同一の効果を収めるなら、それだけで十分』という『偽善』にもいたりかねない」という趣旨である。ヴェーバーは、その功利的傾向の証拠のひとつⓐを、「人と人との交渉が真実と正直と誠実とをもってなされることが、啓示されている神の命令だからではなく人間生活の幸福のために、きわめて重要であると確信するようになった」という趣旨の「徳(真実、正直、誠実)への『改信Bekehrung』の物語」に求め、『自伝』から上記の(この趣旨の確信内容を述べた)一節を引用したのである。こうした「改信」においては、当の徳目が、「定言命令」として要請され、効果のいかんを問わずに(「価値合理的」に、「固有価値」として)遵守されるべき規範であることを止め、「人間生活の幸福」のための行為準則として、「人間生活の幸福」への役立ち効用とその度合いを問われるようになり、そうなると「同等に役立つなら外観の代用で十分」という帰結にもいたりかねないであろう。羽入は、「フランクリンが『徳へと「改信」』したというヴェーバーの主張」というが、ただそれだけならわざわざ主張するまでもないことであり、問題は、その「徳」がいかなる「徳」として把握されるにいたったのか、というその意味内容にある。ところが、没意味文献学徒の羽入は、その意味内容は(おそらくは把握できないために)捨象してしまい、もっぱら「改信」という――しかも、その語義の「劇的聖霊降下-回心体験」という狭隘な解釈ないし転釈――に力点をシフトさせ、みずからズレ込んでいく。そうすることによって、この「改信」を、字面/字義の表面上の類似から、別のコンテクストにある「神の啓示」と(これもおそらくは、コンテクストの意味上の差異を識別できないために)混同し、この羽入の混同を、持ち前の彼我混濁癖からヴェーバーに押しかぶせる。すなわち、ヴェーバー自身はすぐさま、「それにもかかわらずフランクリンの道徳的訓戒全体は、功利主義には解消しきれない」という(趣旨の)意味上は反対方向の主張に転じその証拠をこそ、ⓒ『自伝』に率直に表明されている「フランクリン自身のキャラクター」とともに、ⓓ(こんどは典拠を『自伝』、ましてや『自伝』における直接言及とは限定せずに)「フランクリンが善徳の『有益性』に思いいたった事態そのものを、そうすることによってかれに善をなさしめようとする神の啓示eine Offenbarung Gottesに帰している事情」に求めた。ところが、羽入は、上記引用のなかでも、「フランクリンが徳へと改信したとされる『神の啓示』」と記して「改信」と「啓示」とを短絡的に結びつけている。しかし、ヴェーバーのいうⓓの「神の啓示」とは、フランクリンを功利主義的な徳へと改信させるような、なにかそういう「神の啓示」ではない。だいたい、「人間生活の幸福ないし利益」中心の功利的道徳観への意味/思想転換、「人と人との交渉における真実/正直/誠実」といった徳目への功利主義的確信の形成が、逆方向にある「神の啓示」によって媒介されるはずがない。そんな空想は、「意味音痴」以外には浮かぶわけがない。

 では、羽入において、なぜ、それほど荒唐無稽な誤読/誤解が生じたのか。それはまず、没意味文献学を「万能の拷問具」であるかのように過信してやまない羽入が、そういう自分の水準に合わせて、「神の啓示」の典拠を『自伝』における直接言及と決めてかかり、『自伝』では「啓示」という語形他には使われていないとの消極的理由から――もっぱら消去法的に、つまり語の意味には無頓着に――、別の意味コンテクストにある「改信」「啓示」と混同して怪しまなかったからであろう[8]。それほどまで意味上の短絡に無頓着になれるのも、字面/語形に引きずられ、「意味/思想連関」の研究を「キーワード検索」で済ませられると勘違いしているからにちがいない。ではなぜ、それほどの勘違いに陥っても、自分では気がつかず、改める風もないのかといえば、おそらくはもともと没意味/弱論理気味だったにちがいない一学徒が、(ヴェーバー文献という恰好の教材に就いて「意味感受性」と「論理的思考力」の訓練を受け、おのれを鍛えようとするのではなく、むしろ「末人」根性の「逆恨み」から)「蟷螂が斧」を振り上げ、手近な「拷問具」として、自分にも使いこなせると見た語形文献学に頼り、その方法への過信/濫用が、翻って、以上に追跡してきた迷走をまねき、没意味/弱論理に拍車をかけ、あげくのはてに当の学徒自身に思わぬ「しっぺ返し」を食らわせているのに、ご本尊は指摘されなければ気がつかないまでに「病膏肓に達して」いる、とでもいうほかはあるまい。

8.四邦訳をひとしなみに自説の論拠に捩じ曲げる無理と傲慢――「意味音痴」と「彼我混濁」の一例証

羽入は、そのように「改信」と「啓示」とを無理やり結びつけたうえで、なお執拗に、「以上のことは我が国の従来のこの部分の邦訳においても確認することができる」(155)と主張する。そして、「啓示そのものは、しかしながら、事実、私にとっていかなる重みもなかった」という部分につき、既刊の邦訳四種の訳文を引用し、自説に好都合なように、ひとしなみに「解釈」して見せる。

梶山訳「だが私には、黙示の内容そのものが重要だったのではなく、……」、

梶山大塚訳「私には、だが、黙示そのものが重要だったのではない」。

阿部訳「だが、この黙示そのものは私にとって、実際にはそれほど重要なも     

 のではなかったのである。」

大塚訳「私にとって、それが啓示だったことが重要だったわけではない。」

 さて、先に引用した独訳文、英語版原文、および拙訳のコンテクストから明らかなとおり、この「黙示」ないし「啓示」は、なにか特定の「啓示」体験を指しているのではない。むしろ、フランクリンが重視するにいたった徳目/行為準則の根拠づけについて、その重点が、もはや「天啓」「啓示」にはなく、「人間生活の幸福」にたいする効用へと移っている関係を陳述し、啓示宗教性から世俗的功利主義への規準変換を表明しているのである。したがって、①梶山訳のように「黙示の内容そのものが重要だったのではなく」と訳出すると、「黙示の内容としての徳目行為準則そのものは、いぜんとして重要であったが、ただその根拠づけが、神の啓示から功利的評価に移されている」という趣旨に逆行しかねない。したがって、この訳文は、四つのなかでは一番ミス・リーディングで、不適訳とみなさざるをえない。他方、③阿部訳と④大塚訳とは、「この」「それ」という指示代名詞が、なにか特定の「啓示」体験を指示ないし含意しかねず、そのかぎりで不適切というほかはない。むしろ、②梶山・大塚訳が、「黙示そのものが重要だったのではない」とあえて直訳に止め、「では、重要だったのはなにかといえば、むしろ人間生活の幸福にたいする効用であった」との余韻を響かせるかぎりで、フランクリンの原意、ヴェーバーの適切な解釈、にもっとも近く、相対的にはもっとも妥当な邦訳であったといえよう。

 ところが、羽入は、つぎのように述べて、特定の「劇的聖霊降下-回心体験」という自分の解釈に、しかも、そうした解釈がもっぱら独訳から二語句の付加によって生ずるという前記の荒唐無稽な自説に、強引に誘導する。

「いずれの翻訳者達も一致して示そうと努力していることは、ここで何らかの特定の啓示がフランクリンに下った。ただし、その啓示そのものがフランクリンにとって重要であったわけではない[では、重要であったのは、いったいなんだというのか?]……という[羽入作の!?]物語である。『それが啓示だったことが……』とか、あるいは『この黙示そのものは……』といった言い回しで訳者達が苦心して[!?]表そうとしているのはそのこと、すなわち、これがある特定の日の特定の瞬間についにフランクリンに下った特定の啓示であることをである[!?]。つまり、ある日、ついに[endlich]フランクリンに神から啓示が下ったのであり、フランクリンが徳へと改信したのはその時以来[von jenem Augenblick an]であり、その決心を彼は日記にも書き込んだのである、と」(156-7)。

 かりに訳者たちが「この黙示そのものが重要であった」とか、「それが啓示だったことが重要だったのだ」と訳して、そのあと当の特定の「啓示」が下った時点、様相、内容、効果などについてこと細かに述べていく、というのであれば、かれらが「ある特定の日の特定の瞬間についにフランクリンに下った特定の啓示」を「苦心して表そうとし」た、といえないこともなかろう。しかし、邦訳者はそれぞれ、この箇所を、一方では「啓示宗教性ではなく功利的傾向の証拠というヴェーバーによる参照指示の趣旨に沿い、他方ではもとより独訳原文にしたがって(あるいは英語版原文も参照して)、フランクリンの原意を忠実に訳出しようと「苦心し」たにちがいなく、その結果、筆者から見て上記のような一長一短はあるにせよ、いずれも羽入の強引な誘導方向とはまったく逆に、「ある特定の日の特定の瞬間についにフランクリンに下った特定の啓示」というようなニュアンスは「一致して」払拭している。むしろ、四邦訳をひとしなみに自作「劇的改信物語」の「裏付け」であるかに扱い、しかも独訳時の付加語句に引きずられたかのように見せかける、これほど粗暴で傲慢不遜な文献利用を、こうして得々と公表して憚らないとは、この濫用者には、正常な意味感受性意味読解力ばかりか、正常な彼我弁別能力がそなわっているのかどうか、とも問わざるをえない。

小括――ヴェーバー研究は、「末人」の迷妄を中心に回ってはいない

 ところが、羽入は、平然とそう述べたうえ、この自作物語につぎのような主観的印象評言を対置し、「勝ち誇った」余勢を駆って、「世界のヴェーバー研究」に矛先を向ける。「しかし、あの楽天的で開けっ広げで神秘的体験などとはおよそ縁もゆかりもなさそうなフランクリンに、神からの啓示など一体いつ下ったのであろうか。人は見かけによらないとは言うものの、あのフランクリンにそんなことがあったであろうか[羽入以外の誰が、そんなことを主張したであろうか!?]。筆者は本節の冒頭で次のように述べた。フランクリンの『自伝』中には、神の啓示がフランクリンに下ったというような類の摩訶不思議で敬虔な記述など残念ながら全く見つけ出せない、遺憾にもそのことに世界のヴェーバー研究はこれまで気づいてこなかった、と」(157)。

「世界のヴェーバー研究」がいかに多岐にわたろうとも、「倫理」論文の本題と論脈から無縁に近いところにまで逸れて、浅学の徒が浅学ゆえに妄想し、「逆恨み」の彼我混濁から無理やりヴェーバーに押しつけている、「神の啓示がフランクリンに下った……摩訶不思議」などという戯言を真に受け、裏付けを『自伝』中に捜そうなどとは、誰ひとり酔興にも思ってみなかったろう。「世界のヴェーバー研究」は、「末人」の迷妄を中心に回っているのではない。「没意味と弱論理の迷走」に付き合っている暇は、本来はないのだ。 (2004年12月4日脱稿。つづく)



[1] 後注5参照。

[2] もとより、基礎研究は必要であり、重要である。しかし、基礎研究とは、羽入が想定しているような「典拠目録」、「キーワード目録」作成の類ではない。なるほど、各研究者が自分の価値理念に照らして焦点を合わせている特定の作品やその重要部分にかぎっては、そうした資料の作成が必要とされることもあろう。しかし、ヴェーバーの膨大な作品群のすべてについて、それがただヴェーバーの作品だからというだけの理由で、注記にいたるまで出典目録や術語用例目録を網羅的に作成しようとしたら、それだけで一生を費やしかねまい。羽入も、たまたま自分が取りついた「倫理」論文の微小部分のみでなく、せめてその全篇にわたってそうした目録作成を企てたとすれば、ただちに自分の主張の無理に気づき、「大言壮語」は思い止まったであろう。研究者には、「研究の経済」を考慮にいれた価値関係的また目的合理的な選択と制御が必要とされる。むしろ、ある研究者に基礎研究がそなわっているかどうかは、羽入流の「批判」に直面したとして、素早く的確に応答するスタンスと力量があるかどうか、によって測られよう。

[3] 前稿「批判結語(3-1)」、10. 節以下、参照。

[4] ただし、そうしたことは、形式論理に凝り固まった羽入には、想到されるはずもなかろう。

[5] 訳出にあたり、辞書類に記載されている語義につき、最小限のことは調べたので、ここに摘記しておこう。まずドイツ語の辞書では、Offenbarungの第一義(雅語)「それまで隠されていたこと、知られていなかったことが、打ち明けられること、告白、開示」のあと、第二義(宗教用語)として「[超自然的な仕方でおこなわれる]神の真理ないし神意の伝達 [auf übernatürlichem Wege stattfindende] Mitteilung göttlicher Wahrheiten od. eines göttlichen Willens」と定義され、「キリスト教信仰によれば、神の言葉の啓示は、聖書において人間に与えられるNach christlichem Glauben wird in der Bibel den Menschen die O. des Wortes Gottes zuteil.」という用例が挙げられている(Duden, Das große Wörterbuch der deutschen Sprache, 2. Aufl., Bd. 5, 1994, Mannheim usw.: Dudenverlag, S. 2427; この他にBrockhaus Wahrig, Deutsches Wörterbuch, Bd. 4, 1982, Stuttgart: Deutscher Verlag, S. 894, などを参照)。つぎにOEDでは、Revelation1.として「神ないし超自然の働きによって人間に知識が開示ないし伝達されること the disclosure or communication of knowledge to man by a divine or supernatural agency」との語義説明のあと、「啓示の贈り物は、新約聖書全体が啓示されたあとでは、もはや継続されなかったように見える The Gift of Revelation..seems to have been continued no longer than till the whole New Testament was revealed.」(1681-6)、「啓示された神意は、神的また超自然的な外見によって確証されなければならない Divine Revelation must be confirmed by some divine and supernatural Appearances.」(1725)、「啓示の目的は、現世における人間の行動に影響を与えることにある The object of revelation is to influence human conduct in this life.」(1794)、「自然法則と啓示との間に、われわれには同意できないような区別が、頻繁になされている A distinction has frequently been taken between the law of nature and revelation, to which we cannot assent.」(1845)、および「宇宙が永遠であると仮定すれば、科学は啓示に敵対せざるをえないOn the supposition of an eternal universe, science would necessarily antagonize Revelation.」(1892)といった用例が収録されている。2.では、a.として、「知識が人間にそのように伝達される実例; 神的ないしは超自然的な手段によって開示され、知らされる、なんらかのことan instance of such communication of knowledge to man; something disclosed or made known by divine or supernatural means」と定義され、“Magic..was not a revelation from hell, made at once to mankind.”(1727)、“Six regislators..have announced to mankind six successive revelations of various rites.”(1788)、および“His revelations destroy their credit by runnung into detail.”(1847)といった(複数ないし不定冠詞付き単数の)用例が収録されている。また、b.は、「以前には知られていなかった、あるいは理解されていなかったことがらの人目を惹く開示a striking disclosure of something previously unknown or not realized」と定義され、“Be there or be there not any other revelation, we have a veritable revelation in Science”(1862)、“The daily life of every one of us is a perpetual revelation of his inner self.”(1877)といった(a.と同じく、不定冠詞付き単数の)用例が示されている(2. ed., vol. 13, p. 813; この他に、Webster’s Third New International Dictionary of the English Language, [1961] 1986, Springfield: Merriam-Webster, p. 1942, The Random House Dictionary of the English Language, 2. ed.,[1966]1987, New York: Random House, p. 1646なども参照)。とすると、フランクリンは、直前でも「……十五歳になるかならないころには、天啓そのものRevelation itselfさえも疑い始めた」(295, 91)と述べ、文中のrevelationを無冠詞、文頭大文字で記しているところから見て、この語をOED項目 1.の(ほぼ同時代の)用例と同じように、それと同じ意味で、用いていたと思われる。

[6] 英語版原文は、形式上は一見indeed A, but Bの譲歩構文のようにもとれるが、じつはそうではない。なるほど、butのまえがカンマでなくセミコロンで区切られているために、そうした印象が生ずるかもしれないが、それは、直前のas suchがカンマで区切られているためであろう。なによりも意味上、「天啓が重要でない」というAと、「徳目の評価規準が天啓ではない」というBとは、逆接ではなく、not (no) A, but B の(butを「しかし」とは訳せない)関係にある。中学生なみの文法的知識と意味読解力がありさえすれば、誤解の生ずる余地もないところではないか。しかし、この問題はむしろ、次稿でとりあげよう。

[7] フランクリンの「功利的傾向」は、冒頭の「暫定的例示」文からも、ⓑ「控え目の狡智」例の他、『自伝』の各所(たとえば「あちこちの店で買った紙材を手押車に積んで、「これ見よがし」に往来を引いて帰った」と「率直に語っている」箇所など)からも、一様に読み取れる。したがって、「功利的傾向」のいまひとつの証拠ⓐにかぎっては、(『自伝』の英語版原文にも当たり、編纂事情も考慮して最新の信頼できる版から引用するに越したことはないにせよ)独訳だけで済ませたからといって別にどうということはない。「資本主義の精神」の「歴史的個性体」概念が、第二要素にかぎっても、それによって左右されることはないからである。羽入のこうした問題設定自体、価値関係的遠近法の自覚を欠く、「なにがなんでも原典主義」しかも「パリサイ的原典主義」の衒学癖/些事拘泥といえよう。

[8] 羽入は、羽入書第一章(42-3)でも、「エリザベスⅠ世時代に出された英訳聖書は三種のみ」という制限条項を恣意的に設定しておき、同じ消去法で「ジュネーヴ聖書」と「エリザベス女王時代の英国国教会の宮廷用聖書」との「混同」を導き出し、ヴェーバーに押しかぶせ、「英訳聖書の専門家達が腹を抱えて笑っている姿」を思い描いていた。粗野にして寒々しい心象風景というほかはない。


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-3)」

2004年12月20日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-3)

折原 浩


2004年12月20日

第三節 「没意味と弱論理の迷走」のはて「天を仰いで唾する」も気づかず

1.「改信」とは、「三徳への功利的開眼」で、「啓示による宗教的回心」ではない――「中学英語さえ分かれば誰にでも分かる」構文の取り違え

 羽入は、第三節「『神の啓示』の謎(2)」でも、さほどの価値関係性はもたない、フランクリン『自伝』中の一語「啓示Revelation」(二用例)にこだわり、ヴェーバーが「フランクリンの道徳的訓戒全体に見られる功利的傾向」の証拠ⓐに採用し、「倫理」論文の注に引用していた箇所を、同節冒頭で再度、こんどは英語版原文から引用している(158)。ところが、羽入はそこで、原文のnot(no)A, but B構文を、indeed A, but Bの譲歩構文と取り違え、原語と訳語「確かに」および「しかし」(こちらは誤訳)を、わざわざ網かけして表示している。前稿「批判結語(3-2)」注6でも触れたとおり、原文でも諸訳でも、「啓示は重みをもたなかった」というAの趣旨がそのままBで、「徳目の評価規準は、人生の幸福にとっての効用で、啓示ではなかった」と敷衍されているだけであるから、Bに前置されているbut に逆接の意味はなく、「しかし」とは訳せない。

 ところが、羽入は、なにを思ったのか、譲歩構文が一般に用いられる状況について縷々解説し、独訳もsondernを「英語原文のbut に忠実に[!?]、『しかしaber』に置き換えた」(160)ほうがよかったとまで主張する。そのうえで、Aに「呼応」する「キーワード」を検索し、「意外にも[!?]簡単に」(161)、つまり直前のパラグラフに、「十五歳になるかならぬかで……啓示そのものを疑い始めた」という箇所を「見つけ」(161)、「呼応」関係を、つぎのとおりに説明する。「フランクリンの言う『啓示』とはこの啓示のことである。『啓示は確かにそれ自体としては私にとって何らの重みも持っていなかった。しかし[!?]……』というあの文章は、『ところが、私は、十五歳になるかならぬかで、……啓示そのものを疑い始めるようになった。』というこの文章とつながっているのである。すぐ直前[sic]のパラグラフで、十五歳になるかならぬかで啓示すらも疑い始めるようになってしまった、と書いてしまっていただけに、それとは打って変わって[!?]『私は人と人との交渉において真実、正直、誠実といったものが人生における幸福にとって[!]最も重要であると確信するようになった。そして私はそれらを生涯実行するために決心を書き記したものを作り、それはいまだに私の日記に残っている。』といかにも抹香臭く[!?]道徳的に説明し始めた時、何らかの留保事項を付けておく必要をフランクリンは感じた[!?]のである。『啓示は確かにそれ自体としては――相変わらず――私にとって何らの重みももっていなかった。』と」(162-3)。

 しかし、フランクリンが「啓示を疑い始めた」ことと、「人と人との交渉において真実、正直、誠実といったものが人生における幸福にとって最も重要であると確信するようになった」こととは、どういう関係にあるのか。前者から後者への移行は、なにか「打って変わって」ともいうべき「回心」であろうか。フランクリンが、再度「神の啓示」を受け、あるいは信じなおしそれによって「真実、正直、誠実という徳目の重要性」を確信するようになった、と告知しているのなら、話は別である。しかしかれは、羽入の引用にも明記されているとおり、それらの徳目が「人生における幸福にとってもっとも重要」と確信するようになった、といっているだけである。ということは、かれがいぜんとして、「神の啓示」ではなく「人生における幸福」を評価規準とする功利主義の平面に立っていて、その枠内でただ、真実などの徳目がやはり人生の幸福にとってこそきわめて重要と確信し、その遵守を決意し、日記に書き留めた、というにすぎない。そうした徳目遵守の道徳的決意を、さらに十三徳樹立」のような「完徳の達成」へとエスカレートさせ、それをどんな方法で実現するか、といっそう実践的に問題を立てなおし、日ごとの「自己審査」という方法的実践に踏み切りまさにそれゆえ「規範としての倫理」と「実践としてのエートス」との乖離、したがってたんに理論上の確信the mere speculative conviction」の限界に直面して、(カルヴィニズムの「隠れたる神」ではなく)「啓示された勧善懲悪神」の「慈悲深い」支援を希求し、「善徳が『利益』に結びつくこと自体、(徳目を『固有価値』としては遵守しきれない『倫理的弱者』の)自分にも、なおかつ善をなさしめようとする『恵み深い神の摂理』である」と悟るのは、まだ先のことである。とすれば、「三徳の重要性への開眼」というこの第一転機では、いわば「人生における幸福」を規準とする「功利的道徳観」ないしはその「たんに理論上の確信」が成立しているにすぎず、なるほど「道徳的」ではあっても、いささかも抹香臭くはない。羽入は、フランクリン『自伝』の原文からも、「三徳の重要性への開眼」という第一転機の性格とその限界を読み誤っているのではないか。

それに、①「神の啓示への疑い」-②「三徳の重要性への開眼」-③「『神の啓示』そのものの重さの否定」-④「徳目評価規準の『人生における幸福』への変換」という意味連関を、かりに羽入のように捉えるとすれば、②の文章にindeedが入り、③-④(not A, but B)連結の冒頭に、逆接の接続詞Butが立たなければならないであろう。かりにそうであったとすれば、①「神の啓示」を疑い、放棄した、②それにもかかわらず、「打って変って」、確かに「三徳の重要性に開眼」はした、③しかし、(それはなにも、ふたたび「神の啓示」がくだったとか、聖書に啓示されている「神意」を再認識したから、というのではなく)「『神の啓示』そのものは、わたしにとってなんの重みもなく」、ということはつまり、④「内容としては同じ徳目でも、その評価規準は、『神の啓示』から『人生における幸福』に置き換えられていた」というふうに訳出され、羽入の主張どおりに解釈することができよう。

 ところが、フランクリン『自伝』のほかならぬ英語版原文において、indeedはじっさいには③に挿入されている。ここでふたたび、英語版原文と独訳とを比較してみると、独訳では、羽入が主張しているように「ついにendlich」と「そのとき以来 von jenem Augenblick an」という副詞と副詞句が付加されているだけではなく③に「とはいえjedoch」という逆接の副詞が加えられ、羽入流の解釈に近づいている。また、この箇所の「倫理」論文からの邦訳は、梶山訳/安藤編で「だが私には、啓示の内容そのものが……」(96ぺージ)、大塚・梶山訳で「私には、だが、啓示そのものが……」(48ぺージ)、阿部訳では「だがこの啓示そのものは、……」(151ぺージ)とあり、唯一(独訳を英語版原文と照合したと思われる)大塚単独訳だけが「私にとって、それが啓示だったことが重要だったわけではない」(49ぺージ)と、jedochを省いて、英語版原文どおりに訳出している。とすると、羽入の解釈は、主観的には英語版原文に厳密にしたがっているつもりでも、じつはそうではなく、例によって原文のぺージも注記してはいるものの、(英語版原文からは逸脱した)独訳と、(おそらくは独訳からの直訳で、それに応じて同じく英語版原文からは逸脱した、大塚単独訳以外の)邦訳三種とに引きずられて、②の「開眼」をあたかも「啓示による回心」であるかのように読み、この解釈をあとからフランクリンの原文に読み込み、それに合わせて副詞indeedを③から②に移し、構文まで譲歩構文と取り違えているのではあるまいか。

 ①から④にいたる大意は、(英語版原文はもとより、独訳/諸邦訳でも)当該箇所を成心なく読めば、無理なくつぎのとおりに解されよう。すなわち、「十五歳のころ、『神の啓示』を疑い始め、それまでは『神の啓示』として根拠づけられていた道徳的行為準則(徳目)までも否認するにいたったが、その後、そのためにさまざまな不都合が自他に生じてきた結果効果を、経験的に見きわめ、そういう人間生活への効用というまさしく功利的見地から、人間関係における真実、正直、誠実の三徳目が『人生の幸福にとって』きわめて重要との『理論的確信』に到達した、したがって『啓示』そのものには、その間一貫して重みはなく、たとえ徳目が内容上は『啓示』に一致するとしても、その根拠づけないし評価規準は『人生の幸福』に移されていた」と。このように読めば、論旨はまことになだらか順接的)で、趣旨一貫している。ヴェーバーは、三徳への「理論的確信」にいたるこの経過――譲歩構文で表現されなければならないような「ジグザグ」ないし一進一退はともなわず、首尾一貫して功利的な地平を越えない経過――を指して、なるほど「徳への『改信』物語die Erzählung von seiner »Bekehrung« zu jenen Tugenden」(GAzRS, I, 34, 大塚訳、47、梶山訳/安藤編、94)とは呼んだ。しかし、その「改信」とは、「天啓」「神の啓示」を疑うあまり徳目まで否認してしまったそれ以前の境地からは徳への『改信』」であっても、「啓示体験による回心」というような意味ではない。だからこそ、ヴェーバーはそれを、フランクリンの道徳的訓戒全体におけるもっぱら「功利的側面」「功利的傾向の証拠ⓐとして、的確に挙示しえたのであろう。むしろ羽入ひとりが、「改信」といえば「啓示」、「啓示」といえば「聖霊降下による百八十度の劇的回心体験」というふうに、「キーワード」の類似ないし一致に引きずられて早合点に恣意的転釈を重ね、反対証拠どうし(「功利的傾向を越えるもの」の証拠ⓓと「功利的傾向そのもの」の証拠ⓐと)を混同し、そうしているうちに(ⓓの「啓示」を『自伝』でなく「倫理」論文中に捜すという)自分の「邪道」「本末転倒」も忘れて、迷走また迷走、ついに「中学英語さえ分かれば誰にでも分かる」構文not A, but B を、譲歩構文 indeed A, but Bと取り違えるところまで、きてしまったのではあるまいか。

2.構文取り違えの深層――他人を陥れる戦略が裏目に出て、「自己否定」「自殺論法」に陥り、しかもそれに気づかず

 上記のとおり、羽入は、原文の①から④にいたる文脈から、殊更②「三徳の重要性への開眼」を取り出し、解釈上はindeedもそこに移して考え、当の「開眼」をなにか、それ以前とは「打って変って」「抹香臭い」、つまり宗教的な確信に「回心」した一齣であるかのように強調している。その点はまた、すぐあとのところで、フランクリンが「感じた」こととして(「感情移入」というよりもむしろ「感情投入」して!?)言葉を補い、「啓示そのものは相変わらず自分[フランクリン]にとっては意味を持たなかった[③]。しかしそれにもかかわらず[!?]、啓示された教えに対して[!?]自分[フランクリン]はある程度まで忠実にしたがって以前よりもずっと道徳的に生きるようになり始めた[②]」(163)と敷衍している(じつは、ご覧のとおり②と③の順序をひっくり返して、入れ替えてしまっている)ところからも、明らかであろう。羽入がさらに(「感情移入」を「深めて」、というよりもむしろ「感情投入」を「強めて」!?)いうには、それにたいしてフランクリンは、「読者に対し自分の説明が余りにも信心深そうに映りかねぬことを懸念して」(162)、あるいは「自分の説明が読者をして、彼の父が息子である自分に望んだような全く正統的な長老派教会の宗教性へと自分がその当時すでに改信していたと誤解させることを恐れ」(163)て[1]、いわばそうした宗教性の印象を払拭しようと、but(sondern、羽入によればaber)以下の「しかし[!?]私は、……の意見を抱いた[④]」というくだりを書き足したのだそうである。羽入によれば、なんとそこに、『自伝』に現われた「フランクリン自身の性格」の「正直さ」「誠実さ」が看取されるという。

 このように、②の記述から殊更「啓示された教えへの(ある程度の)忠実」「抹香臭さ」「信心深さ」「長老派教会の宗教性」を「読み取れる」――あるいは、そう「誤解」されかねないほどである――と繰り返し強調するのも、「啓示」を「聖霊降下-劇的回心体験」と転釈し、ヴェーバーによる反対証拠ⓓ(「自己[利益]中心の「功利的」準則を粉飾すること以外のなにものか」の証拠)中の「啓示」を、この③の「啓示」と(当初には「邪道」「本末転倒」と知りつつ、語形の一致に引きずられて)短絡的に結合混同し、この羽入の解釈を、彼我混濁からヴェーバーに押しかぶせて、ヴェーバーがそう「誤読」したという結論に持っていこうとする羽入の戦略と、半ば無意識裡にも連動しているのではないか。すなわち、②の「三徳の重要性への開眼」をいかにも「啓示」体験による敬虔な「回心」――その意味の「改信」――であるかに(フランクリン自身、そういう「誤解」をまねきかねないほどに、いったんは「譲歩」して記述していたと)見せ、ヴェーバーが当の記述に「引きずられて、そう誤読、誤解した」というふうに描き出そうとするあまり、フランクリンの記述自体も、そうした「誤読」「誤解」を触発しかねないほどのいわば「啓示関連性」をそなえているかのように羽入のほうで上記「啓示された教えへの(ある程度の)忠実」「抹香臭さ」「信心深さ」「長老派教会の宗教性」などの語句を補って誇張し、羽入自身の戦略に好都合に、傾向的に解釈して組み入れた結果といえよう。

 ところで、迷走がここまでくると、羽入のヴェーバー「批判」とはいったいなんだったのか、と改めて問わざるをえなくなる。ヴェーバーは、フランクリンにおけるこの「三徳の重要性への開眼」を、『自伝』のコンテクストを適切に解して、「啓示の教えへの(ある程度の)忠実」「抹香臭さ」「信心深さ」「長老派教会の宗教性」といった誤解の余地はない正反対の功利的確信形成として捉え、さればこそもっぱら、フランクリンの道徳的訓戒全体における「功利的傾向証拠ⓐとして挙示していた。この傾向が一人歩きすれば「効果が同等ならば外観の代用で十分」とする「偽善」にもいたりかねない、とまで論じていた。とすると、ヴェーバーのこの議論は、フランクリンにおける「神の啓示」への敬虔や、そうした啓示宗教性に由来する倫理性・エートス性には反対し、それを否認して、フランクリンをもっぱら「功利的」人物として捉えたいらしい[2]羽入にとっては、それだけ有利な証拠ではないか。ところが、羽入はここで、羽入自身の「英語版原文解釈」として、「開眼」のほかならぬ功利性を否認し、むしろ「啓示の教えへの(ある程度の)忠実」「抹香臭さ」「信心深さ」「長老派教会の宗教性」といった反対傾向を、少なくともそう「誤解」されることを「恐れ」てあとから「逆接の構文」で打ち消さなければならないほどのものとして描き出し、そのかぎりで承認してしまっている。ということはとりもなおさず、「開眼」について、せっかくヴェーバーが提供してくれていたもっぱら羽入に有利な功利性」の証拠を、ちょうどそれだけ減殺し不利な証拠に転釈し、自分の評言と主張をかえって弱めている、ということになろう。

 羽入は、なにがなんでもヴェーバーを撃てればよいとばかり、「キーワード」として飛びついた「啓示」をめぐって「疑似論証」にのめり込み、些事拘泥の語義詮索に没頭するあまり、大局が見えなくなり、自分がなにをやっているのかも、分からなくなってしまったのではないか。しかも、羽入は、自分がそうした論理的背反関係に陥っていることに気がつかない。自分の主張を自分でつぶす「自己否定」「自殺行為」に大童である。「没意味と弱論理の迷走のはて」という以外、なんと称すべきか。

3.引用法の類例比較――ヴェーバーが「不都合でない語句をただ引用しなかった」のが「詐欺」なら、羽入による「不都合な語句の削除」はなにか?

 さて、フランクリンは、件の一節につづけて、当の三徳の重要性にかんする功利的確信そのものの効用を、後の(『自伝執筆の時点からふりかえり、つぎのとおりに相対化して確認している。「こうした信念をえたお蔭で、さらにまた恵み深い神の摂理のためwith the kind hand of Providence守護天使の助けのためかあるいは偶然にも環境に恵まれたせいかまたはそれらすべてによってか、わたしは遠く父の監督と訓育のもとを離れ、他人の間にあってしばしば危うい境遇に陥ったにもかかわらず、危険の多い青年期を通じて、宗教心の欠如から当然考えられる意識的な下等下劣な不道徳や非行をひとつも犯さないですんだのである」(296-7, 93)と。

 ところが、羽入は、この箇所を、つぎのように引用する。「こうした『信念persuationは……[sic]』――とフランクリンは続ける――『青年期のこの危険な時期を通じて、……[sic]私が信仰心を欠いていることmy want of religionから当然予想されたような、意識的なはなはだしい不道徳や非行から私を守ってくれた』」(164)と。つまり、フランクリンが上記のとおり「恵み深い神の摂理」「守護天使の助け」「有利な環境」など「功利的確信」以外の要因を列挙している箇所を、「――とフランクリンは続ける――」という語句を挿入して塞ぎ、読者の目から遮っている。他方、「宗教心の欠如」には傍点を振り、原文まで引用して、強調している。その結果、読者は、羽入書を読むかぎりでは、フランクリンがあたかも、青年期に道徳的非行から免れたという結果を、もっぱら「自分固有の功利的信念」(164)に帰し、これにのみ「感謝の念」を「捧げている」(164)かのように、受け取らざるをえないであろう。

 ところで、羽入によるこの引用操作は、羽入がヴェーバーについて問題とし、ヴェーバーを「詐欺師」と決めつける一根拠とした「ヴェーバーの引用操作」と一見よく似ている。そこで、両操作を類例として比較してみるとしよう。まず、「ヴェーバーの引用操作」についてであるが、フランクリンは『自伝』中で、『箴言』22: 29を引用した直後に、「わたしはその時分から、勤勉を富と名声を得る手段と考え、これに励まされていた」(323, 130)と述べている。ヴェーバーは、「倫理」論文中で、フランクリンに「特有の職業義務観」とその宗教的背景を示唆するために、この箇所から『箴言』22: 29を引用した(GAzRS, I, 36, 大塚訳、48、梶山訳/安藤編、95)。ところが、羽入は、このあとの(羽入書第三章)第五節で、ヴェーバーを「好き勝手に資料を切り刻んでしまう」プロクルーステースになぞらえたうえ、ここも、「『箴言』22: 29からの引用のみで切ってしまって」「『倫理』論文だけを読む限り、読者にはフランクリンがその直後に自伝で何を述べていたか分からないような仕組みになっている」(188)と難詰する。さらに第六節では、「彼[ヴェーバー]は……『自伝』において『箴言』22: 29から引用がなされている部分のコンテキストを、今度は『啓示』の場合のように単なる不注意からの軽率さ[!?]ではなく、恐らくは意図的に無視した」(190)と推認し、そのうえに、「世間では普通、こうした作業を指して『でっち上げ』と言い、そうした作業をした人物を『詐欺師』と呼ぶ」(191)と決めつけている。

 さて、「勤勉を富と名声を得る手段と考え、これに励まされていた」というフランクリンの言表は、ヴェーバーにとって(かりにかれが、不都合な語句は隠蔽するプロクルーステースであったとしても)、なにかぜひとも隠蔽しなければならないほど不都合な、功利主義一辺倒の標語ではない。フランクリン文書によって「暫定的に例示」される「資本主義の精神」のエートスは、「貨幣増殖-信用取得-徳目遵守」という独特の構造をそなえている。そこではたとえば、「勤勉」という徳目が、もっぱら固有価値」として措定され、「価値合理的」な遵守を要請されるのではなく、(「職業における熟達」の表示であるかぎりの)「富」という「最高善」にたいして、その「富」増殖に不可欠の「信用」、あるいは(大なる「信用」をともなう)「名声」とともに、あるいは「信用」「名声」を介して、「目的手段の系列に編入される関係にある。そのためにいきおい、(たとえば「他人から『正直』『勤勉』と見られて信用』され、この『信用』を『利殖』に活かせる」といった)徳目遵守の効果に力点が移動し、それだけ功利主義へと推転をとげ、ばあいによっては「効果さえ同等であれば外観の代用で十分」という「偽善」にもいきつく――当初の倫理性・エートス性が掘り崩されて「偽善」という「悪徳」に反転する――傾向を帯びざるをえない。とすれば、「勤勉を、富と名声を得る手段と心得、これに励まされていた」というフランクリンの語句は、「資本主義の精神」エートスに固有のこの二面構造と構造的変動傾向を、的確かつ明快に表示する恰好の標語をなしているといえよう。

 そういうわけで、ヴェーバーにとって、当の語句の意味内容は、なにも読者に隠さなければならないほど不都合ではなく、かえって逆に、恰好の引用を逃して惜しまれるくらいである。したがって、当の語句がヴェーバーにとって「不都合」なので、「不作為の作為」を弄して隠蔽したにちがいない、という羽入の推認は、この一点から見ても失当で、邪推というほかはない。むしろ、羽入のほうが、「倫理的か、功利的か」の形式論理的二者択一に囚われ、「精神」のこの二面構造と構造的変動傾向(あるいは、「精神」におけるエートス性と功利性との対抗的/動的均衡)を把握できない、つまり「倫理」論文の読みが浅い、という実情を露呈する一幕といえよう。ただ、ここで問題としたいのは、羽入によるヴェーバー非難の、そうした意味内容上の当否ではない。むしろ羽入が、ヴェーバーを「不都合な(と羽入は考えている)語句を意図的に伏せて、読者を誤導し、欺いた」といって非難するのであれば、その非難は翻ってそのまま、羽入自身に当てはまるのではないか、という関係である。ヴェーバーが、ある箇所の後続部分を、好都合であれ、引用しなかったという事実を捉えて、「不作為の作為」「意図的無視」「でっち上げ」「詐欺」と決めつけるのであれは、引用文中の語句と語句との間にある(このばあいは、羽入にとって明らかに不都合な「恵み深い神の摂理」への言及)部分を削除し、読者には「分からないような仕組みに」する引用操作も、羽入がヴェーバーを「詐欺師」と決めつけたのと同一の論法で、「意図的無視」「でっち上げ」「詐欺」として断罪されるよりほかないのではないか。

 それとも、羽入は、同じことをしていても、自分は別格で、ヴェーバーであれ誰であれ、自分が攻撃対象に選んだ他人は、同じ論法で断罪できるし、断罪すべきだ、とでもいうのであろうか。そうとすれば、それは、なんという神経であろうか。他人の「知的誠実性」は、些細な点まで口を極めて問い糾しながら、自分については、同義等価以上の問題事実を指摘されても、自分の「知的誠実性」にかけて応答することは拒む、つまり「自分の恣意を絶対化し、他人は理不尽に断罪し、異議申し立てを受けても居直って、そのまま知らん顔を通す」というのであれば、これはもう「知的誠実性」を騙って恣意をゴリ押しする「知的不誠実の極」、「知性領域に姿を現したファシズム」というほかはない。ところが、羽入は、筆者の異議申し立てに、「知的誠実性」にかけて応答することを、一年以上の長きにわたって拒んでいる。ヴェーバーをいわれなく「詐欺師」と決めつけ、『マックス・ヴェーバーの犯罪』と題して公刊した羽入書を、絶版にしてもいない。とすれば、これほど紛れもない「知性領域におけるファシズム」(少なくともその萌芽)の現前に、この日本の知性人は「見てみぬふり」をしていてよいのであろうか。

 さて、羽入は、「恵み深い神の摂理」を丸ごと文面から抹消する上記のような引用操作により、客観的には明らかに、おそらく主観的にも半ばは意識して、不都合な事実を隠蔽し、読者を誤導している。もとより、そうした「引用時の恣意的削除-隠蔽操作」そのものが、上記のとおり、知的誠実性の要請に悖り、学問エートスの根幹に触れる重大問題ではある。しかし、「ことがらに即してsachlich」見ると、ある意味でそれ以上に重大なのは、こうした操作による言表抹消のために、フランクリンは明記していた「恵み深い神の摂理」をいったいどう理解すべきか、「功利的確信とこの神の摂理との関係をフランクリンがどう捉え、どう考えていったのか、この点にかんする第二の転機はいつどのようにフランクリンに訪れたのか、というような、重要で興味深い問題が、読者の視界から丸ごと消されて、問うにも問えなくなってしまうことであろう。無責任な「末人」ポピュリストにとっては、フランクリン論をいわば「だし」に使い、些事拘泥/針小棒大な耳目聳動的言辞で「大向こうを唸らせ」、いい加減で無責任な「論文査読委員」「賞選考委員」「取持ち歴史家」らを「誑かし」て「博士」になり「チャンピオン」に躍り出、いっとき脚光を浴びれば、「してやったり」、「あとは野となれ山となれ」かもしれない。しかし、研究者であれば、こういう機会に、フランクリン論としても「第二転機」問題を掘り起こし、いっそう的確な対象理解に到達しようと、前向きのスタンスをとってもいいのではないか。そう期待するとしても、あながち見当違いとはいえないであろう。

 しかし、羽入は、「第二転機」問題への議論[3]を上記「引用操作」によって阻んだあと、自分の「疑似論証」の結論だけを急いでいる。羽入の読者誤導を是正するのに必要と思われる語句を最小限[  ]に括って挿入/補足しながら、かれの結論を引用すれば、つぎのとおりである。

「フランクリンによって『自伝』において言及されている“啓示”というものが、彼が十五歳になるかならぬかで疑い始め、以前ほどは確かに極端に理神論的ではなかった青春期のより後期の時代においても、信仰心の欠如のために彼にとっては相変わらず何の重みも持っていなかったところの“この啓示”であることはもはや[!?、初めから、なにも英語版原文を参照しなくとも]明らかであろう。この時期において自分に『神の啓示』が下った[と、「啓示」を「啓示体験」に転釈する]とか、あるいはましてや、当時の自分を『意識的なはなはだしい不道徳や非行』といった思春期にありがちな危険から救ってくれたあの自分の功利的信念を[「恵み深い神の摂理」から切り離し]、ヴェーバー[について羽入]がおこなったように、『そのことを通じて自分を徳へと導かんと欲し給うた神の啓示に帰する』などという物語を作り上げ[て、ヴェーバーに帰す]ることが、もはやフランクリンにとって前後の文脈からして[また、当の文脈を的確に捉えたからこそ、『改信』を『功利的傾向』ⓐの一証拠とした、ヴェーバーの立論の趣旨に照らして]到底不可能であるということもまたすでに明らかであろう。ヴェーバーは誤読した[と論定したかったが、いかんせん早合点/転釈/混同にもとづく「没意味と弱論理の迷走」をもってしてはとうてい無理で、「天を仰いで唾する」結果に終わった]のである」(164)。

4.英語版原文とオリジナル草稿の「効用」――初めから分かりきった事実でも「世界初の発見」を装うパリサイ的衒学癖

 つぎに羽入は、「念のために検証しておくべきこと」(165)と称して、またしても「三徳の重要性への開眼」問題を蒸し返す。フランクリンにおける開眼の契機は、自分や友人の放縦傾向(という効果、結果)にたいする功利的な現実的判断で「神の啓示」ではなかった、というのである。はて、その事実は、邦訳でも独訳でも『自伝』をひもといて成心なく一読すれば、誰にでも(上記§1①~④のとおり)無理なく分かる当然のことではなかったか。ヴェーバーもまた、当の「開眼」を「功利的傾向」の証拠ⓐと位置づけたからには、それを「功利的な現実的判断」と認めこそすれ、否認するはずもなかろう。ところが、羽入ひとり、さきほどは当の「開眼」を、「啓示の教えへの(ある程度の)忠実」「抹香臭さ」「信心深さ」「長老派教会の宗教性」の表明といった「誤解」をまねきかねず、「逆接構文」で打ち消さなければならないほどのものとして描き出すのに大童で、誰にでも読み取れる当然のこととは、つゆ思わなかったようである。そこで羽入は、ここにきて初めて、その当然の事実に直面し、自分の不明を恥じるどころか、それをあたかも、英語版原文に遡って初めて到達しえた「新発見」であるかのように書き立てる。しかもそのうえ、またしてもその「新発見」を楯に取って、じつは自分が(早合点/恣意的転釈/反対証拠の混同によって)創り上げた「ヴェーバー藁人形」を、再三斬りつけるのである。いわく、開眼の契機は、「ヴェーバーが言うような[!?]神の啓示などという超自然現象ではな」(165)い、「ヴェーバーが主張したような『神の啓示』のおかげではな」(166)い、「『そのことを通じて自分を徳へと導かんと欲し給うた神の啓示に帰している』とヴェーバーのように[!?]主張することが不可能であることはもはや[!?]明らかである」(166)、と。独り合点の思い込みを、いったいなんど披露すれば、気がすむのか。「徳への『改信』物語」を、「功利性を越えるもの」の証拠ⓓとしてではなく他ならぬ功利性証拠ⓐとして挙示した、まっとうな研究者が(ヴェーバーならずとも)、そんなことを言ったり、主張したりするわけがないではないか。この当然の理を、なんど繰り返させるのか。「キーワード」と見た一語「啓示」をめぐる早合点/転釈/混同から、奇抜な妄想をふくらませ、その妄想に振り回されて「きりきり舞い」している姿、しかもそれに自分ひとり気づかずに悦に入っているさまは、人目にさらして見栄えのするものではない。自縄自縛の戯言も、繰り返すうちには読者も信じてくれよう、と思っているのであろうか。

しかも、そのあとにはさらに、「おまけ」がついている。羽入によれば、当の事実は、「実を言うと、フランクリンのオリジナルな草稿を見さえすれば、もっと明白かつ簡単に[!]説明がつくことなの」(166)である。「ただ、筆者[羽入]としてはヴェーバーに対しフェアに対するために[東西東西!]、これまで意図的にオリジナル草稿は用いてこなかった」(166)のだそうな。これは面白い。「すわ、玉手箱からなにが出るか」と胸を踊らせて「オリジナル草稿」を拝見すると、あにはからんや、Revelationがrevealed religionであったとか、as such がas a Rel[igion] であったとか、別にどうということもない、同義反復あるいはせいぜい辞書解説[4]の範囲内における語の置き替えで、一行注記しておけば済む程度のことである。ところが羽入は、例の[5]なにがなんでもオリジナル」という「価値関係性に無頓着な」衒学癖ないし「『原典』呪物崇拝」から、2ページを越える紙幅を費やし、(ここは写真入りとまではいかないにせよ)全文印字して添削跡をうやうやしく再現して見せる。お決まりの念の入れようである。というのも、羽入は羽入なりに、フランクリンがその「オリジナル草稿」をそのまま世に出していたら、「ヴェーバーは誤解をせずにすんだであろうか」(168)との(「誤解」を前提とする)「疑似問題」を立て、その責任を、フランクリン/独訳者/邦訳者でなく、もっぱらヴェーバーに帰する「疑似論証」で紙幅を稼ぎ、自分が「オリジナル草稿」まで「研究」して「ヴェーバーの誤解とその責任」を世界で初めて「立証」したという「疑似業績」を誇示するのに、「オリジナル草稿」が小道具として役立つと踏んだのであろう。「没意味と弱論理の迷走」もここまでくると、(資料の価値関係性/合目的性には無頓着で、制御を欠くという意味において野放図な)「なにがなんでも原典主義」と、(他人の「原典無視」と「それゆえの誤読」「誤読責任」をあげつらえると思うと、そのかぎりで「原典精査」を装い、Schadenfreudeに耽る)「パリサイ的原典主義」の衒学癖と、見事に合流し、「些事拘泥の滑稽劇」の領域に入ったともいえよう。

「念のための検証」をへた羽入の結論は、つぎのとおりである。 

「以上により、フランクリンの功利的傾向を否認し[!?]、エートスと呼ばれるほどに特有の倫理的色彩を帯びたものとして構成されたはずの『資本主義の精神』の理念型を保持しようとするために[!?]ヴェーバーが持ち出した論拠[!?]のうち、第二のものは成り立たぬことは証明された[!?]と考える。テキストであるフランクリンの『自伝』における『啓示』という言葉の持つ意味をそもそも誤読していた[と、羽入のほうが早合点/転釈/混同から誤解している]以上、ヴェーバーの主張は成り立たない[かどうかも、誤解にもとづく臆断の域を出ない]。」(169)

5.ミュラー訳に「誤誘導」されたヴェーバーは「原典を読まなかった」?――推測に推測を重ねて結論内容を十二分に示唆しながら、立証は回避し、「確実な論証」への「自己抑制」を装う論法

 しかし、迷走もここまでくると、止めようにも止まらない。羽入はなおも、「一体ヴェーバーは『自伝』を果たして英語できちんと[!?]読んでいたのであろうか」(169)と微笑ましい問題を立て、ヴェーバーが「功利的傾向」の証拠ⓐとして注記した独訳文と、ミュラーの独訳文との対比を企て、双方間の異同を検索する[6]。そして、例の「ついにendlich」と「その時以来von jenem Augenblick an」という副詞と副詞句が、ミュラー訳にも見られることを指摘し、この二語句の加筆で「啓示」が「劇的啓示体験」に変るという件の牽強付会の解釈[7]を、ここで再度登場させ、ヴェーバーもこれに「誤誘導」されたのではないか、と推測する。「ここで考えられるのは、ヴェーバー自身が独訳者によるこの二語の加筆のために、ある特定の瞬間にある特定の啓示がフランクリンに神から下りたと誤読させられたのでは、という可能性である。原文を読んでいれば、この部分はニュアンスが異なる[どのように!?]ので、誤誘導はさせられないであろうが、独訳のみしか読んでいない場合には、ミュラーがこの部分あまりに説明的な加筆[!?]をしてしまっているだけに、あたかも啓示がフランクリンに下りたかのように誤解させられる可能性が確かに[!?]あるかもしれぬ。」(176)

 じっさいには、「啓示」を「啓示体験」に転釈し、「ある特定の瞬間にある特定の啓示がフランクリンに神から下りたと誤読」したのは、羽入自身である。ところが、かれは、持ち前の彼我混濁から、この誤読をヴェーバーに押しかぶせたうえ、「なぜヴェーバーは誤読したのか」という「疑似問題」まで立て、独訳時の加筆による「誤誘導」という(内容上も牽強付会の)「疑似回答」を提出していた。それをここで、またもや持ち出すのである。というのも、この「疑似回答」を前提として、そのうえさらに「原文を読んでいれば誤読させられないのに、ミュラー独訳文の『誤誘導』に乗って『誤読』したとなると、ヴェーバーは英語原文を『きちんと』読んではいなかった」と推認できると踏んだからであろう。つづけて羽入はいう。「ヴェーバーがフランクリンの『自伝』を原典では読んでいなかった可能性というのが[sic]ここからうかがうことができるであろうが、しかしこれ以上は[!?]推測の世界での物言いにしかならぬので控えるべきであろう。確実に論証できる部分のみに論点は絞るべきである。」(176)

なにか「急に腰が砕けた」かのようである。しかし、推測に推測を重ね、結論内容は十二分に示唆して読者を誘導しておきながら、立証は無理と見るや、身を翻して論定は避け、むしろ「殊勝な自己抑制」を装って、他の推測内容は「確実な論証」と見せかける、狡賢くも姑息な論法ではないか。羽入書でこの種の論法に出会ったのは、これが初めてではない。第一章でも、たとえば、「エリザベスⅠ世時代に刊行された英訳聖書は三種のみ」という制限条項を独断的に設定しておき、そのうえで消去法によって「ジュネーヴ聖書」と「エリザベス女王時代の英国国教会の宮廷用聖書」との「混同」というヴェーバーの「錯誤」「非常識」を推定したり[8]、『ベン・シラの知恵』の英訳を調べなかったのも「調べると自分の立論が破綻してしまうと予感していたからだろう」と推測したり[9]しては、「専門家が腹を抱えて笑う」図を思い描いたり、「どうせ英訳聖書にかんする細かい注の部分など、誰も調べやしないと高をくくっていたろう」と(いかにも羽入が思いつきそうな)推定評言の表出で「溜飲を下げ」たりしながら、最後の詰めで「身を翻し」、論定は回避して、「踵を返して」いた姿が、想い起こされよう。

 羽入は、この第三章第三節でも、ヴェーバーの注記とミュラー訳とを対比して異同を検出する作業にとりかかるや、自分がこの章のこのコンテクストでは「ヴェーバーによる功利的傾向『否認』の論拠②」の論駁という限定された課題に取り組んでいることも忘れ、『箴言』22: 29の訳語に引きずられて脱線し、第二章のテーマとして散々論じた「十八番」の「アポリア」問題を蒸し返して、延々と論じ立てている。羽入が、自分の叙述を、自分の主題設定と分節課題に即して論理的に組み立て、極力無駄や重複を省いて論理整合的に展開することができず、このように繰り返し論脈を逸脱しては、いわれのない推測/想像上のヴェーバー非難に耽溺してやまないのも、そうすることで、羽入を駆り立てているヴェーバー憎しの「逆恨み」衝動が、たとえ虚妄であれ主観的印象評言の表出自体によって情動的に充足され、「溜飲を下げ」られるからではないか。かれの弱論理をもってしては、そうした衝動を制御して叙述を論理整合的に引き締めることは、とうてい無理なのであろう。ここに、この脱線の結論部分を引用すると、つぎのとおりである。この一節からは、「確実に論証できる部分のみに論点は絞るべき」といった「殊勝な自己抑制」の表向きなどかなぐり捨てて、一途に「衝動表出-情動充足」を求めて、妄想を広げ、野放図に推測を重ねてやまない実情が、よく読み取れるであろう。

「ヴェーバーはミュラー訳の『箴言』22: 29の部分のみを見て、ルターの“Beruf”-概念へこれで遡れる、と早とちりした[じつは、羽入がそう「早とちり」して、一気に「アポリア」を作った!?]のではあるまいか。そして『倫理』論文の前半部分の論証構造を一気に作ってしまったのではあるまいか。彼の頭の中での着想そのものとしては、『倫理』論文はあっと言う間にでき上がってしまったのであろう。そして恐らくは後になってから、全体の論証もかなりでき上がった頃になって初めて、ルター聖書がその部分を“Beruf”とは訳していなかった[当然の]ことに彼は気づいたのであろう。こうして彼は、自身が作りだしたアポリアに堕ち込む[と、羽入は、「自身が作りだしたアポリア」にヴェーバーを陥れたつもりになる!?]。

 ミュラー訳はフランクリンの『自伝』の“calling”という語を訳していた以上、“Beruf”で適訳である。アポリアの責任はミュラー訳にはない。ヴェーバーを苦しめた[!?]アポリアを生み出す直接の切っ掛けを作ったのは、ミュラーではなく、フランクリンである。フランクリンが通常の英訳聖書には存在しない[が、バクスター以来のピューリタン的な]言い回し“calling”で『箴言』22: 29を引用したために、[当然ルターのGeschäftとの不一致が歴史的に生じていたのであって]全てのアポリアは[もっぱら「語形合わせ」しか眼中にない羽入の頭のなかにだけ]生じたのである。

 ルターがその部分を“Beruf”では訳していないと気づいた時、[ここから一気に妄想の翼を広げてヴェーバーを説諭するので、東西東西!]論証構造に無理が生ずることは分かったはずであるから、学問的良心からするならば『倫理』論文の構想をいったんは破棄すべきであったのである。出発点をフランクリンではなく別の人物にして再度論証し直すべきだったのである。ただ、彼はそれをしなかった。無理を押し通してしまった。出発点の無理は、後になってから修正しようとしても、もはやどうにもならない。無理[疑似「アポリア」!?]が最初に存在すれば、さらに無理を重ねることになる。無理に無理を重ねた末に、何ともいびつに歪んだグロテスクなまでに晦渋な『倫理』論文[羽入書!?]の論証構造が生まれてくることとなる。」(175)

この「論証構造」問題につき、筆者のほうからは、筆者の解釈を具体的に提示[10]しながら、羽入の「知的誠実性」にもとづく応答を求めている。羽入も、筆者の要請に答え、羽入の解する「『倫理』論文の論証構造」とは具体的にはどういうものなのか、「確実に論証して、示してほしい。そのうえで、それが「何ともいびつに歪んだ、グロテスクなまでに晦渋な」ものかどうか、読者を交えて、大いに論じ合おうではないか。(2004年12月20日脱稿。つづく



[1] しかし、「倫理」論文と『自伝』の関連記事(324-5, 131-2)だけでも正確に読んで「“正統的”な長老派教会の宗教性」とはいかなるものかを多少とも知る人であれば(したがってフランクリン本人は当然)、そういう荒唐無稽な「誤解」に陥るはずもなく、したがって「誤解を恐れる」必要もなかったろう。そういう「誤解」や「誤解への恐れ」はさしずめ、「長老派の神」と「フランクリンの神」とを混同して怪しまない「意味音痴」の空想を、フランクリンに「感情投入」し、押しかぶせた所産と見るほかはあるまい。羽入流彼我混濁の被害者は、どうやらヴェーバーだけではなさそうである。

[2] というのも、羽入は、フランクリンの『自伝』なら『自伝』から、特定の言表を、まずは「暫定的例示」として引用/挙示し、つぎにはそれによって直観される意味内容を「概念的に加工」/定式化し、反論反証が可能な命題に仕立てて討論に委ねる、という(まさにヴェーバーがフランクリン文書の取り扱いにおいて範例を示している)学問的手続きを回避し、あるいは怠り、ただ「あのフランクリン……云々」といった独り合点の主観的印象評言を、あちこちで野放図に撒き散らすだけだからである。

[3]この議論を代わって引き受けるとすれば、その骨子は、つぎのとおりとなろう。すなわち、「第二転機」とは、「十三徳樹立」をめざして道徳的実践深入りし、「たんに理論的な確信」の限界に直面し、幼少期から植えつけられた「啓示宗教」(=フランクリンのばあい「長老派」の教え)の意義を再考し、「隠れたる神」は捨て「啓示された勧善懲悪神」への信仰を核心に据えて「たんに功利的な確信」を止揚する、25歳前後の時期であろう。そうした転機をへて成立するのが、前々稿(3-1)§§10, 11と 前稿(3-2)§2で素描した、『自伝からも読み取れる思想所見にちがいない。そうした所見への到達が、なんらかの「啓示体験」によって媒介されたかどうか、されたとすればいかなる「体験」だったか、というような問題は、思想所見の意味内容を「関心の焦点」とする「倫理」論文の当面の論脈では、第二次的な意義しかもたず、筆者は手を染めるつもりはない。しかし、研究者の価値理念次第では、「フランクリン研究」の一問題として再設定され、『自伝』以外の文献も渉猟して探究されることが、もとより可能であり、望まれもしよう。

[4] 前稿(3-2)、注5、参照。

[5] 拙著『ヴェーバー学のすすめ』(2003年、未来社)、第二章第七~九節、参照。

[6] 羽入は、そうしていったん異同問題に立ち入ると、当面の論脈も忘れて『箴言』22: 29の訳語問題に脱線し、羽入書第二章の議論を延々と蒸し返す。弱論理の迷走の一齣である。後述参照。

[7] というのも、「ついにendlich」三徳に「改信」し、「その時以来von jenem Augenblick an」三徳を実践しようと決意したからといって、当の「改信」そのものが「劇的」であったという意味にはならないからである。前稿「批判結語3-2」、§6、参照。

[8] 拙稿「批判結語(その1)」、§12、参照。

[9] 同、§14、参照。

[10] 拙稿「ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」(『未来』、No. 450, 2004年3月号所収、本コーナーに転載)、同「マックス・ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム」(本コーナーに掲載)、「マックス・ヴェーバーのBeruf論――ルターにおける語義創始とその波及」(本コーナーに掲載)他、参照。


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-4)」

2005年1月2日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-4)

折原 浩


2005年1月2日

第四節 「天を仰いで唾する」もヴェーバーに届かず――「火遊びは火傷のもと」

1.フランクリン二文書抜粋に見られる経済倫理の理念型的定式化を、「人物」評と取り違え、いきなり『自伝』で検証しようとする無謀

 ヴェーバーは、「倫理」論文第一章第二節第4段落で、ベンジャミン・フランクリンの二短篇「富まんとする者への指針」と「若い商人への助言」から、かれの「経済観」「経済倫理」「経済志操」が端的に語り出され、「時は金なり」「信用は金なり」の二標語に集約されている箇所を、(フランクリン個人の「人物」ないし「人柄一般」を論ずるためにではなく)「資本主義の精神」(以下「精神」)の「暫定的例示」手段として抜粋し、引用している(以下「二文書抜粋」)。第7段落では、当の「フランクリンの道徳的訓戒 moralische Vorhaltungen Franklins」(GAzRS, I, 34, 大塚訳、46、梶山訳/安藤編、94)について、「功利的傾向」の二証拠(ⓐ善徳への「改信」物語、ⓑ「控え目の狡智」勧告)と、反対証拠すなわち「功利主義を越えるなにものか」の二証拠(ⓒ「フランクリン自身のキャラクター」、ⓓ善徳の「有用性」への開眼を「神の啓示」に帰している事情)を、それぞれ挙示したうえ、「この倫理dieser Ethik」特性を、つぎのとおり定式化する。

「この『倫理』の『最高善summum bonum』ともいうべき、人として自然な享楽をこのうえなくstrengst厳しくしりぞけて、ひたむきに貨幣を、それもいっそう多額の貨幣を追求して止まない[無制約的]努力は、それだけso完全に、幸福主義Eudämonismusや快楽主義Hedonismusといった観点[の制約]から免れていて、それだけso純然たる自己目的と考えられているために、いずれにせよ個々人の『幸福』や『利益』といったものにたいしてはまったく超越した、[その意味では]およそ非合理的ななにものか etwas gegenüber dem »Glück« oder dem »Nutzen« des einzelnen Individuums jedenfalls gänzlich Transzendentes und schlechthin Irrationalesとして立ち現れている。」(GAzRS, I, 35, 大塚訳、47-8、梶山訳/安藤編、94-5)

このとおり、ヴェーバーは、丸ごとのフランクリンないしはフランクリンの人柄一般についてではなく、かれの二文書抜粋の「道徳的訓戒」に顕示された「経済倫理」について、「功利的傾向を越える禁欲的特性を、方法自覚的に一面的に取り出し、相対的最上級としての極限にまで煮詰めて――ということはつまり、理念型的に鋭く――定式化しているのである。

 ところが、羽入は、羽入書の第三章第三節末尾でも、この箇所を、ヴェーバーが「フランクリンの功利的傾向を否認するために」「持ち出した」「三つ目の論拠」(176)と取り違える。すなわち(本コーナーに掲載の拙稿「批判結語(3-1)」で指摘したとおり、「フランクリンは功利的か、それとも倫理的か」という形式論理的二者択一に囚われて、「功利的傾向」と動的拮抗関係にある「功利的傾向を越える側面」へのヴェーバーの論及を、短絡的に「功利的傾向」を「否認する」「論拠」と決めてかかるばかりでなく)、証拠と反対証拠とがこもごも提出され、相互の関係が問われている議論の土俵そのものを、フランクリン二文書抜粋の「道徳的訓戒」に顕示された「経済倫理」から、その限定を恣意的に取り払って、「丸ごとフランクリン論」ないしは「フランクリンの人柄論」に「間口を広げ」、議論をそれだけ弛んだ大雑把sweeping一般人物評に鈍化させる一方、フランクリンしか眼中にない狭隘な視圏に閉じ籠もり、主観的な印象評言を弄ぶのである。第四節冒頭では、対象のそうした取り違えに見合って、またしても自伝いきなり(当該理念型の「経験的妥当性」を検証する資料としての当否を問うことなしに)飛びつき[1]、「『自伝における一体どの部分のフランクリンの叙述を指してヴェーバーは右のような自分の主張の論拠としたのであろうか」と、的外れの問いを発し、「ここでもわれわれは、“……『純粋に自己目的と考えられている』ような金儲けに関する叙述”などというものを『自伝の内に残念ながら見いださない」(177)と、ピンぼけの答えを出して、「ヴェーバー藁人形」に襲いかかっている。

 だが、考えてもみよう。このばあい、なぜ『自伝』なのか。「要素的理念型」としての鋭い概念的定式化に対応するような、そうした叙述を、なぜほかならぬ自伝のなかに捜さなければならないのか。どうも、羽入には、自分のやろうとしていること、あるいはやっていることにつき、その根拠を問い返しよく確かめて提示しながら、一歩一歩思考を進めていこうとする、研究者には欠かせない慎重なスタンスが、身についていないようである。いつも早合点しては、あらぬ方向に猪突猛進し、自分では気がつかないために引き返しようもなく、むしろ「勝鬨を挙げて迷走を誇示する」という奇態を演じている。ということは、このばあいにも、ヴェーバーが当該の箇所でなにをやっているのか、いかなる限定のもとにフランクリン文献を取り扱っているのか、――ここにも自覚的に適用され、駆使されているヴェーバー歴史社会科学の方法が、かれには皆目分かっていない、ということであろう。勇猛果敢に挑みかかるものの、相手を知らないために、気負って大言壮語すればするほど、自分の「方法音痴」ぶりをそれだけ鮮やかに展示することになる。ヴェーバー本人ばかりか先輩からも(262)、「気をつけろ、悪魔は老獪だぞ」、「悪魔をやっつけようと思えば、悪魔と同じくらい精神的に成熟していなければならない」、「子どもの火遊びは火傷のもと」と、あれほど諭されていたのに、おのれを顧みず、「末人」衝動の怒気に駆られては勇み立つので、そのつど「天を仰いで唾する」もヴェーバーには届かず、という羽目に陥らざるをえない。繰り返しにはなるが[2]、ここでも、羽入の地平とヴェーバーとの落差を、当面の問題について具体的に明らかにしていこう。

2.冒頭の方法論覚書と、そのプログラムを地で行く後続叙述――問題は、暫定的例示手段(フランクリン二文書抜粋)に表明されている「経済倫理」(貨幣増殖と倫理との稀有の癒着)で、フランクリンの「人柄一般」ではない

 ヴェーバーは第一章第二節の冒頭で、①当該節の主題、すなわち(後段で「禁欲的プロテスタンティズムの倫理」に「意味(因果)帰属」されるべき)「被説明項」としての「精神」を、読者とともに歴史社会科学的概念的に把握する、という課題を設定し、この課題を達成する方法について、簡潔な方法論的覚書を記している(第1~4段落)。その趣旨はこうである。すなわち、②当の概念的把握とは、(ある人には顕著に、他の人には微弱に、というふうに共有されている)「集合態Kollektivum的意味形象」として、「精神」の「理念型」概念を構成することであり、③「理念型」とはこのばあい、(「類的理念型」ではなく)「歴史的個性体」としての「理念型複合」のことで、それゆえ④一挙には構成できず、むしろ歴史的現実から取り出される素材を用いて一歩一歩(一要素ごとに)組み立てていかなければならない。したがって⑤それは、(研究が首尾よくいけば)結末において初めて十分に規定され、定義されようが、他方、なんらかの定義がなければ、なにを採り上げてよいのかも分からないので、研究に着手できず、もとより定義が可能な段階に到達すべくもない。そこで⑥このディレンマを打開するために、研究の出発にあたり、読者との間で、対象について一定の事前了解を遂げて「緒につく」必要があり、そのためには、⑦当の精神を典型的に表現していて、望むらくは読者にも熟知されている意味形象[3]を、読者とのトポス(共通の場)」に選び、「暫定的例示provisorische Veranschaulichung」手段として活用し、読者にその意味内容をまずは「直観的anschaulich」に把握してもらう。そのうえで⑧そのようにして直観された意味内容を、読者とともに、望むらくは「納得ずく、一歩一歩「概念的に加工」し、ひとつひとつを「要素的理念型」に仕立て、⑨必要とあれば、(当初の第一「要素的理念型」を仕立てるさいには、まさにそれを一面的に鋭く構成しようとすればこそ、承知のうえで捨象していた)他の関連側面ないし関連傾向[4]についても、別の意味形象素材[5]を補って、他の(第二、第三、……)「要素的理念型」を追加し、⑩順次、意味整合的に関連づけながら「理念型複合」に組み込んで、「精神「歴史的個性体」概念を構成していく、というプログラムである。

 「倫理」論文第一章第二節の後続叙述は、方法上、このプログラムに厳格にしたがって展開されている。ヴェーバーはまず、第4段落で、⑦「問題の『精神』をほとんど古典的klassischといってよいほど純粋に含み、しかも同時に宗教的なものとの直接の関係はことごとく失っているために、われわれの主題にとっては『予断が入らない』[6]という長所をそなえた」(GAzRS, I, 31, 大塚訳、40、梶山訳/安藤編、89)「暫定的例示手段として、フランクリンの『自伝』ではなく[7]、あくまでも研究主題の精神に関連するかれの「経済観」「経済倫理」「経済志操」を表明している二文書「富まんとする者への指針」、「若い商人への助言」を選び出し、そのなかからさらに、そうした「経済観」の特徴もっとも集約的に表示している箇所を、まさにそれゆえそのかぎりで意識的に選択抜粋する。しかもそのさい、「トポス」としての意義に則って、わざと、原典でも独訳でもなく、キュルンベルガーの『アメリカにうんざりした男』から孫引きしている。

では、その二文書抜粋から、一読して直観される意味内容とは、なにか。それは、「時は金なり」(生活時間をことごとく貨幣増殖に捧げよ)と「信用は金なり」(対人関係を直接自己目的的consummatory」に享受するのではなく、遊休金を借り入れて運用し利殖に活かす手段として道具的instrumental」に利用せよ)との二標語に象徴されるとおり、「貨幣増殖」を当面少なくともこの二文書抜粋のかぎりでは最高善」とするような、ともかくもきわめて特異で注目を引く「生き方Lebensführung」ないし「生活規制Lebensreglementierung」への要請である、と要約してよかろう。つぎの第5段落で(改訂稿では「類的理念型」を導入して、いっそう厳密に)規定されるとおり、貨幣増殖をめざす「勤勉」「質素」「几帳面」「正直」「思慮深さ」といった「行為規範」項目が、同時に「目」として――すなわち、違反したばあい、たんに「愚鈍として嘲笑」されるだけの「処世術」としてではなく、むしろ「義務侵害」ないし「義務忘却」として「一種独特の非難」を浴び、ばあいによっては「制裁」の対象ともされる「定言的命令kategorischer Imperativ」の様相を帯び――、その意味で「倫理的な」「行為準則」として、口を酸っぱくして一途に説かれ、「モラリストのスタイルをもって」要請されている。別言すれば、まさに「勤勉を、名声をかちえる手段とする心得!」[8]――が、たんに「処世知」としてではなく、「生き方」の信条として、「倫理的な熱情eine ethische Pathetik 」(GAzRS, I, 40, 大塚訳、59、梶山訳/安藤編、74)を込めて説かれている。この点は、「一匹の親豚を殺せkill, tötenば、それから生まれてくる子豚を1000代までも殺し尽くすdestroy, vernichtenことになる。5シリングの貨幣を殺せmurder, umbringenば、それでもって生みえたはずのいっさいの貨幣――数10ポンドの貨幣を殺しつくすdestroy, morden(!)ことになる」(GAzRS, I, 31, 大塚訳、41、梶山訳/安藤編、89; The Writings of Benjamin Franklin, ed. by Smyth, Albert Henry, vol. 2, 1907, New York: Macmilllan, p. 371)と語り出され、貨幣への注意を怠ることが、「資本の『胎児』を『殺すこと』」、つまり「倫理的罪悪」にたとえられている事実ひとつを採ってみても、一目瞭然であろう[9]

 ヴェーバーによれば、古今東西の箴言に照らして通例は「反りの合わない」貨幣増殖と倫理とが、このように「選択的親和関係」にあるという驚くべき事態――これぞまさしく「特徴的なことdas Charakteristische」(GAzRS, I, 40, 大塚訳、59、梶山訳/安藤編、91)、「事柄の本質に属するdies vor Allem gehört zum Wesen der Sache」(GAzRS, I, 33, 大塚訳、43、梶山訳/安藤編、74)「知るに値する」こと、「なぜかくなって、他とはならなかったのか、と説明するに値する」ことなのである。

3.問題として比較されるのは、「人物」「倫理一般」ではなく、経済活動そのものへの意味づけ・「経済観」・「経済倫理」――ブレンターノの誤解(「人物」論への混濁と鈍化)

この論点は、つぎの第6段落で、前期的大商人の代表ヤーコプ・フッガーを類例として引き合いに出し、歴史的パースペクティーフにリンクさせて、敷衍されている。フッガーは、「できる間は儲けよう」と引退勧告を拒んだ事跡からも窺えるとおり、外面的には「時は金なり」のモットーを地で行き、全生活時間を貨幣増殖に捧げる「生き方」をしていたと見られよう。そこで、この外面的類似を基礎としてフランクリンと比較すると、「精神相違がそれだけ鮮やかに浮き彫りにされる。「フッガーのばあいには、[そうした「時は金なり」の外面上の「生き方」にかぎっていえば]商人的な冒険心と、道徳とは無関係な個人的気質eine persönliche, sittlich indifferente, Neigungの表明であるのにたいして、フランクリンのばあいには、倫理的に彩色された生き方の準則eine ethisch gefärbte Maxime der Lebensführungという性格を帯びている」(GAzRS, I, 33, 大塚訳、45、梶山訳/安藤編、92)というのである。

 ところが、この一文を、丸ごとのフッガーが「道徳とは無関係な」あるいは「非道徳的な」「人物」であったのにたいして、丸ごとのフランクリンは、二文書抜粋に見られるような「倫理」の「持ち主」、その意味で「倫理的な」「人物」であった、あるいは、一個人フランクリンの倫理はおよそ、二文書抜粋に見られるような「精神」に尽きている、と読み誤った学者がいた。つまり、この学者は、問題を、経済活動にかんする意味づけ、「経済観」「経済倫理」「経済志操」ではなくふたりの主人公の人柄一般と取り違えたのである。そこでヴェーバーは、そうしたナイーヴな誤解は金輪際願い下げにしてもらおうと、改訂のさい、この箇所に注記を施し、自説の意味を明快に敷衍した。「いうまでもないことであるが、ここでいわんしているのは、ヤーコプ・フッガーが道徳に無関心な、あるいは無信仰な人物Mannであったとか、ベンジャミン・フランクリンの倫理一般Ethik überhauptが、上記(二文書から抜粋した)文章に尽きている、などということではない。ブレンターノは、この点でわたしが誤解しているのではないかと気遣ってくれているが、かれの引用(……)を俟たなくとも、あの有名な博愛家[フランクリン]についてはよもや誤解の心配もあるまい。問題はむしろ、かれほどの博愛家が、いかにしてまさにこうした[貨幣増殖を「最高善」とするような]信条を、モラリストのスタイルで[倫理的熱情を込めて]説くことができたのか、というところにある(ブレンターノは、フランクリンの口吻に固有なこの特徴を再現していない)。」(GAzRS, I, 33, 大塚訳、45-6、梶山訳/安藤編、93)

 じっさいフッガーは、今日の「団地」の走りをなすような大規模な救貧集合住宅Fuggereiをアウグスブルク市郊外に私財を投じて建設するほどの篤志家、その意味で「倫理的」「道徳的」な「人物」であった。しかしかれは、まさに営利追求貨幣増殖という経済活動そのものにかけては、カトリックの教えにしたがって、それを「倫理とは反りが合わない」、それだけ懲罰に値し、慈善による「埋め合わせ」を要する「反道徳的unmoralisch」、ないしは「せいぜい大目に見られる」「道徳外のaußermoralisch」活動(領域)と感得していた。さればこそ、貨幣増殖の実を挙げれば挙げるほど、「秘かに疚しさを感じ」「死後の懲罰をおそれ」、慈善事業によって「精神的保険をかけ」、屈折して活路を見いだすよりほかはなかったのである。他方、フランクリンは、なるほど「博愛家」と呼ばれるにふさわしい一面をそなえてはいた。したがって、そうした一面をこそ「知るに値する」として「関心の焦点」に据える「フランクリン研究」があっても当然で、それはそれでいっこうに差し支えないばかりか、大いに望ましいことでもあろう[10]。とはいえ、フランクリンは、そうした一面にもかかわらず別の一面としては、営利追求/貨幣増殖を「最高善」とし、「勤勉」などの徳目を遵守しつつ実現すべき「自己目的」ともみなすような、経済活動そのものの意味づけ、すなわち「経済観」「経済倫理」「経済志操」「経済エートス」を、少なくとも二文書抜粋に確信をもって表明するほどに把持していた。さればこそ、かれは、貨幣増殖の実を挙げても、「秘かに疚しさを感じ」「死後の懲罰をおそれる」どころか、開けっ広げに、なんとその徳を説き、二文書や『自伝』にも語り出しては、広く他人にも勧め、そのような「博愛家」として振る舞うこともできたのである。

4.「歴史的特性」の鋭い理念型構成は、歴史縦断的/文化領域横断的な比較のパースペクティーフに依存――百年後の「博士」は、ブレンターノの轍を踏み、しかも比較の準拠枠を欠く「井のなかの蛙」視座に跼蹐

 ヴェーバーによれば、フッガーとフランクリンとの、まさにこうした特徴的な差異にこそ、経済活動の担い手経済主体における前期的商業資本期と近代的産業資本期との歴史的種差が認められ、それと同時に、それぞれの宗教的背景の類型的な相違も垣間見られる。まさにそれゆえ、まずはこの差異を(弛んだ「人物」比較論に還元して鈍化させるのではなく、逆に)一面的に取り出して鋭角的に、つまり理念型的に、定式化しておく必要がある。ということは他面、ある研究者が、一方ではフッガー、他方ではフランクリン、それぞれの資料(たとえば『自伝』)を、無方法無手勝流に抜き出し、どんなに精細に(たとえば「キーワード顕微鏡」で覗いて)調べてみても、そうした特徴的差異を、一方では経済活動の「歴史的種差」、他方では宗派の「類型的相違」に関連する「経済倫理の類型的差異」として捉えることはできず、鋭く定式化することもできない、ということであろう。ヴェーバーの理念型的定式化は、フッガーの経済観とフランクリンのそれとを、経済活動の歴史的変遷と宗教信仰の宗派的分化展開とにかんする知見を背景に据えそういう(歴史的にも文化領域的にも)縦断的また横断的に広げられたパースペクティーフのなかでそこからそのつど取り出される準拠枠のなかに置いて観察し、まさにそうするからこそ、双方それぞれに認められる「他にはなく(あるいは微弱で)、そこにのみある(あるいは顕著な)」特性を、鋭いコントラストをつけて描き出すことに成功しているのであろう。概念的定式化のそうした鋭さと妥当性とは、類例としてどれだけの他者を射程に入れなん重の比較をとおして当の特性を絞り出せるか、つまりパースペクティーフの広がり、したがってそのつどの「準拠枠」のとり方と数とによって、左右されるにちがいない。フランクリンの「他者」として、フッガーしか知らない者と、他にも多くの類例を知っていて、いくえにも比較ができる者とでは、特殊フランクリン的経済倫理の特性把握にも、当然差異が生じてこよう。ましてや、フッガーさえ知らず、フランクリンの経済観を、もっぱら当人の『自伝』を準拠枠として見る以外にはなすすべがない、というのでは、K・マンハイムのいう「井のなかの蛙」視座Froschperspektive!に跼蹐しているようなもので、「他者に開かれた歴史的パースペクティーフも「準拠枠」もないからには、歴史的特性を同定すること自体原理的に不可能であろう。できることはといえば、主観的な印象評言を、『自伝』から抜き出した任意の「キーワード」で潤色し、闇雲に「特性」と見せかけ、他者の鋭い定式化には、いきおい「グロテスク」「暴論」といった罵言を浴びせかけ、読者の「価値自由な」認識と評価に先手を打って「つぶそう」と奮闘するのが、せいぜい「関の山」といったところではないか。

5.「世界宗教の経済倫理」への視圏拡大も、「井の中の蛙」には「大風呂敷」「広漠たる世界」への「逃走」と映るほかはない

それにたいしてヴェーバーは、個別の特性把握もパースペクティーフと「準拠枠」に依存しているというこの事情を知悉していた。そこでかれは、「倫理」論文をいわば出発点とし、方法論と概念装置をととのえて、「世界宗教の経済倫理」シリーズへと視野思考圏を拡大し、世界の主要な文化圏の「経済倫理」を、いくえにもわたる類例類型比較をとおして究明し、それぞれの特性を(「儒教」「ヒンドゥー教と仏教」「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」といった)世界宗教による被制約性に即して捉え、それと同時に(このシリーズでは)各「世界宗教」がそれぞれの文化圏の自然地理的/経済的/政治的諸条件によって制約されている「唯物論的」側面も、比較による特質づけに必要なかぎりで、捉え返していった。「倫理」論文は、『宗教社会学論集第一巻に収録され、その主題は、姉妹篇「プロテスタンティズムのゼクテと資本主義の精神」を間に挟んで、後続の「世界宗教の経済倫理」シリーズに引き継がれている。「倫理」論文では、上記のような世界史普遍史的パースペクティーフと研究課題を念頭におきながら、さしあたりは西洋文化圏にかぎり、「近代資本主義」と「前期的資本主義」との歴史的種差を、経済主体の経済観」「経済倫理」「経済志操」「経済エートス」に視点を定めそこに議論の土俵を限定してさればこそそれだけ鋭く把握し、定式化している。ヴェーバーは、そのうえで、「近代資本主義」、広く「近代資本主義文化」「近代的なるもの」の特性をそれだけ的確に、西洋のキリスト教、とりわけ「禁欲的プロテスタンティズム」の「世俗内的禁欲」、さらには中世修道院の「世俗外的禁欲」に「意味(因果)帰属」しようとしていたのである。

ところが、羽入は、「井のなかの蛙」(「蛙」とはつまり没意味文献学の囚人)にふさわしく、「倫理」論文が『宗教社会学論集』の第一巻に収録されている事実についても、巻頭の「序文Vorbemerkung」で「世界宗教の経済倫理」との関連が語られ、位置づけられている事実についても、その意味を考えようとはしない。「倫理」論文のみを、研究者としての価値理念に照らし、価値関係性に即して研究対象に据えるというのではなくて、むしろもっぱら「もっもと有名な論文」という世評に阿ね、されば破壊の耳目聳動効果にも最大値を期待できようとばかり、いきなり抜き出し、本題から逸れた末梢部分について疑似問題を立てては、見当違いの「あら捜し」に憂き身をやつしている。他方、「世界宗教の経済倫理」シリーズのほうは、「広漠たる世界」「大風呂敷」(272-3)と思い込み、ヴェーバーは「倫理」論文からそこに「逃走」したのだと決めてかかる。なるほど、「倫理」論文一篇についてみても、その「全論証構造」はおろか、直接批判対象としているフランクリン論及のコンテクストと方法論的含意さえ、上記のとおり読み取れないのであるから、「世界宗教の経済倫理」となると、とても「歯が立たない」と尻込みするのも無理はない。しかし、羽入は他方、「倫理」論文を『宗教社会学論集』の原位置に即し、「世界宗教の経済倫理との関連において読み抜かなければ、一論文としての内容と意義も十全に理解し評価することはできないと、いくらなんでも薄々とは感じていたはずである。ところが、そうした読解はとても無理で、それにもかかわらず、いなむしろまさにそれゆえに、粒々辛苦の研鑽は捨て、一躍「批判者」「寵児」「第一人者」としてデビューし、そのように装い、自分の虚像を追いかけて生きる挙に出てしまった。自縄自縛としても、気の毒な。そうなれば、「世界宗教の経済倫理」を「酸っぱい葡萄」と決めつけて顔を背ける以外、なすすべはなかろう。「広漠たる世界」「大風呂敷」「逃走」とは、自分が「有利」と感得している土俵(「井」)から相手が「逃げた」と思い込みたい、「末人」流のルサンチマン動機を、よくぞ表明したものである。

6.「包括者」としての個人と、価値観点による制約と自由――理念型的特性把握の認識論的前提

 さて、話を少しまえに戻そう。フランクリン、フッガー、カトー、アルベルティその他誰であれ、「暫定的例示」にかぎって着目され、取り上げられる特定の経済主体も、一個人総体」としては、無限の多様性をそなえた一包括者das Umgreifende」[11](K・ヤスパース)である。すなわち、どこまで研究していっても、そのつど地平線が後退して、対象として捉え尽くすことはできない存在者である。これはなにも、フランクリンのような代表的著名人ばかりではない。すべての個人が一「包括者」なのである。このことは誰でも、「自伝」を書き始め、体験事実を素材として自分一個人を「総体」として特質づけようとすれば、すぐ気がつくことである。

 ヴェーバーのばあい、この根本事態が、理念型的概念構成の認識論的前提として考え抜かれている。ある研究者が、なんらかの特定個人を研究対象として採り上げ、その特性を概念的に把握しようとするばあい、研究主体としての価値理念にもとづく価値観点からその被限定性を自覚しつつ、対象の限定された特定側面に照射を当て無限に残される他の諸側面はさしあたり不問に付さざるをえない。したがって、同一個人をとりあげるばあいにも、価値理念を異にする他の研究主体が、別の価値観点から、対象の別の側面に光を当て、別の特徴づけをなしうることは、原理上当然のこととして承認される。ヴェーバーは、そうした前提のうえに、フランクリンについても、その経済倫理」の限定された一側面のみを、ただそれを、研究主体としてのヴェーバーの価値関係的/歴史的パースペクティーフから見て「知るに値し」「説明するに値する」きわめて重要な「歴史的特性」として選び、その被限定性/一面性を十全に自覚しつつ、それだけ鋭く取り出して定式化しているのである。そこを、ブレンターノは、なにかフッガーなりフランクリンなりの「人物」ないし「人柄」自体に、それぞれの特性つくりつけにそなわっていてしたがってそれぞれを一義的に概念化できるかのような、「素朴実在論認識論的前提のうえに立って、議論をそういうsweepingな「人物」論にすり替えてしまった。そのうえで、ヴェーバーが方法自覚的に捉えているのとは異なる傾向なり、側面なりを持ち出して(くること自体はよいとしても)、それでヴェーバーの特質づけを「否認」、「棄却」できるかのように思い込み、(「概念Begriff」と「概念的に把握される現実Begriffene」との関係を考えぬかず、自分の価値理念を相対化して自覚化してはいない研究者に特有の)自己中心で彼我混濁の議論を展開したのである。

そのように方法論上/認識論上ナイーヴな、ブレンターノの誤解にたいして、ヴェーバーは、第6段落の注に、上記のとおり簡潔で明快な反論を特記していた。また、その後約百年、「倫理」論文の読解も、ヴェーバー歴史・社会科学方法論の研究も、両者を統合的に関連づけて方法そのものを捉えようとする企ても、遅々たるものとはいえ、かなりの進捗を見せている。それにもかかわらず、このたび、一見「倫理」論文の注記を隅々まで精査しているかに見せかけながら、本質上/方法論上はブレンターノの轍を踏み、しかもフッガーさえ視圏にない「博士」が、大手を振って言論の公共空間に登場し、「井の中の蛙」所見を誇示し、ルサンチマンに駆られて、ヴェーバーを「死人に口なし」とばかり「詐欺師」とまで決めつけた。しかもこれに、「山本七平賞」はともかく、日本倫理学会「和辻賞」の選考委員までが、賛辞を呈して呼応/共鳴するにいたっている。この光景には、なんともはや驚くほかはない。こうした状況を放っておいて、日本の学問は、いったいどこまで漂流し、どこに行き着くのか。「子どもの火遊び」と「たかをくくっている」と、引火物/木造建築/乾燥/強風といった条件次第では、「大火事のもと」にもなりかねない。「ぼや」のうちに消火につとめ、延焼を防ぎ、火種を絶つことが、専門家の責任/社会的責任として要請されている。

7.理念型の経験的妥当性をめぐって――ふたつの誤解との二正面作戦

ところで、ヴェーバーの理念型的概念構成にかんする上記のような議論にたいしては、おそらくつぎのような一連の疑問が投げかけられるであろう。では、「理念型」とは、研究者の主観的な価値理念に応じて、任意にいかようにも構成できる代物なのか、それでは、研究者の主観的な価値理念の数だけ、異なる理念型が林立して、無政府状態を呈することになりはしないか、そうしたものが経験科学としての歴史社会科学の概念用具たりうるのか、と。こうした疑問をめぐっては、いまなお専門家の間でも議論が絶えない[12]。ここでは、そのすべてに立ち入るわけにはいかないので、本論争にかかわる重要な一点、すなわち、理念型の「経験的妥当性」という問題についてのみ、ここで私見を述べておきたい。

この問題については、「客観性論文」の結論部分に、ヴェーバー自身による誤記と(英訳を除く)全翻訳の誤訳があって[13]、「経験的にあたえられたものが、……認識の妥当性を証明するための事実上の根拠[台脚]とはどうしてもならない――この証明は経験的にはできないのだ――」(出口勇蔵訳)、「経験的な所与にもとづいて認識の妥当性を証明することは経験的に不可能である」(徳永恂訳)という解釈がなお尾を引いており、これに見合って、認識のための概念用具としての「理念型」についても、その「経験的妥当性を、経験的所与にもとづいて検証することは、経験的に不可能である」と解される嫌いなしとしない。じつは、「認識の妥当性」と訳されている箇所は、語法上はともかく、「客観性」論文全篇の趣旨と、「倫理」論文ほか経験的モノグラフにおける当該方法の適用例とに照らして、「価値理念の妥当性」と改訳されなければならない。そうでなければ、経験科学的認識がそもそも成り立たない、という奇怪しなこと(自殺論法)になろう。当該箇所でヴェーバーがいわんとしているのは、そこまでの論理展開を追思惟してくれば明らかなことであるが、平明な一例を挙げれば、「近代的文化諸形象にたいする禁欲的プロテスタンティズムの経験科学的因果的意義がどんなに大きいと証明されても、だからといって禁欲的プロテスタンティズムの宗教的本質的価値がそれだけ高まるというわけではない。そこのところで両者の(「経験的妥当性」と「価値理念の妥当性」との)混同が起きると、護教論上の争いとなって、前者にかんする認識の『客観性』は成り立たなくなる」という趣旨にすぎない。英訳以外の大方の訳者は、まさに「経験的妥当性」と「価値理念の妥当性」とを混同していて、読者を、「社会科学と社会政策にかんする認識の『客観性』」ばかりか、経験科学そのものの自己否定へと誘って怪しまない。この一例は、抽象的な方法論文献を字面だけで読んで抽象論議に耽っていると――言い換えれば、具体的な適用例との統合的解読をとおして方法そのものを具体的に会得しみずから適用しようとする努力を怠っていると――、基本的な問題にかんする途方もない誤解に、いつまでも囚われっぱなしになる[14]という好例、その意味における警鐘、と受け取っていただきたい。

 なるほど、理念型的に構成された概念や理論に、「現実を『法則から演繹できるという意味の経験的妥当」は求められないし、求めてはならない。ヴェーバーは、理念型論を、カール・メンガーにたいする批判をとおして打ち出したのであるが、その批判の眼目は、メンガーが法則的認識と歴史的認識とを区別しながら、「精密的方針による抽象理論」の諸定理に、この(「現実を『法則』から演繹できる」という)意味の経験的妥当を要求したという一点にあった。「抽象理論」の方法的捉え返しであるヴェーバーの理念型も、この意味の経験的妥当を要求するものではない。しかし、それでは理念型が、およそいかなる意味でも経験的妥当性を問われない、あるいは討論/論争による経験的検証を受け付けない、そういう観念的構成物なのかというと、けっしてそうではない。かれ自身、「客観性」論文のある箇所で、「手工業から資本主義への発展(転形Umbildung)の理念型」について、つぎのように述べている。

「経験的-歴史的な発展の経過が、事実上この構成された経過と同一であったかどうかは、この構成を索出手段として援用することによって初めて、理念型と『事実』とを比較するというやり方で検証することができる。理念型が『正しく』構成されていて、事実上の経過がこの理念型の経過に対応entsprechenしないとすれば、よってもって、中世の社会は、まさしくある関係においては厳密に『手工業的』ではなかったという証明Beweisがなされたことになろう。……そのばあい、当の理念型は同時に、中世社会の『手工業的』でない構成部分を、その特性と歴史的意義とにおいていっそう鋭く把握する道へと、研究を導くであろう。そうであれば、理念型は、まさしくそれ自体の現実性を露呈することによって、その論理的な目的を果たしたといえる。つまり――このばあいには――、あるひとつの仮説が検証されたことになるわけである。」(GAzWL, 203, 富永/立野訳、138-9ぺージ)

厳密にいえば、ここでは、歴史・社会科学的研究の特定局面――すなわち、「中世社会」を研究対象とし、「手工業から資本主義への発展(転形)」という主題につき、すでに構成された理念型概念を、「中世社会」における現実の経過と比較しつつ検証する、という局面――が取り出されて、論じられている。そのようにして経験的妥当性を検証されるべき理念型概念そのものを、どのように構成していくのか、という手順が問われ、その局面における経験的妥当性問題が論じられているのではない。しかし、(じっさいには重要な)そうした違いはひとまずおくとして、理念型一般について、まず抽象的にいえば、「理念型」が、概念上の純粋な姿では現実のどこにも見いだされない『思想像』『(論理的)理想像』『ユートピア』であるといっても――というよりもむしろ、まさにそうであればこそ――、「個々のばあいごとにin jedem einzelnen Falle、現実がどの程度、この理想像に近いか、または遠いか」、あるいは「事実上の経過がその理念型に対応するか」どうかが、たえず問われなければならない。ヴェーバーの経験的モノグラフにおけるじっさいの適用例についてみると、この「精神」について「歴史的個性体」としての理念型概念を構成していくばあいがまさにそうであるように、かれの思考は、ある(第一要素的)理念型について、それが一面的に鋭く相対的極限にまで煮詰められればこそかえってその経験的妥当性も同様に鋭く問われ、その結果むしろ、経験的事実との(一致-不一致や遠近よりも)質的な不対応やズレが発見され、まさにそうした不対応の経験的事実にこんどはよく対応するつぎの(第二要素的)理念型を構成する道が開け、そのようにして一歩一歩、よりいっそう現実、とりわけ現実における対抗的諸要素の動的均衡、したがって変動傾向にも迫る「総合像へといわば自己止揚」を遂げていっているのであり、まさにそうしたところにこそ、(抽象的な方法論文献のどこにも定式化されてはいない)ヴェーバー的な理念型思考のダイナミズムがあり、本領が発揮されている、といってもよいであろう。ヴェーバー自身、方法論的反省よりもじっさいの具体的な研究実践に優位を認めていたのであるが、そうしたかれの研究実践における思考展開を追思惟してみれば、そのかれが、歴史・社会科学的認識したがって理念型の経験的妥当性を否認するとはとうてい考えられないし、そのようなかれが「客観性」を「断念Verzicht」した「新観念論者」であるという主張(F・H・テンブルック)も、まったく理解できない。むしろ、そうした言説がいまなお影響力を保っているのも、ヴェーバー没後、いっそう専門分化が進んで、方法論研究も経験的モノグラフ研究もそれぞれ一人歩きし、他を顧みる余裕がなくなってしまったからではないか。そうした陥穽に堕ちると、「理念型」が、経験的事実による検証を怠る独善の隠れ蓑とされたり、経験的事実を突きつけての批判をかわす遁辞として用いられたりもしよう。そこでわれわれは、理念型について語り、考えるばあいには、よく注意して二次文献よりもヴェーバー自身の著作に当たり、かれ自身の具体的適用例に即して会得し、みずから適用/応用にもつとめ、そのさい討議論争をとおして経験的妥当性を検証し、そうすることによって(ヴェーバー自身に見られたような)ダイナミックな展開を企てるように心がけなければならない。これが、この問題にかんする筆者の所見である。

 というわけで、理念型とは、「包括者」としての現実について、研究者一個人/一主体の「価値理念」にもとづく「価値観点」から照射を当て、そうして照らし出される「価値関係」的側面ないし傾向を、それぞれの一面性を自覚して抽出し、思考の上で極限化してえられる観念的構成物、その意味では「虚」である。理念型は、そのように「可能的なもの」をとおして「現実的なもの」を捉えようとする叙述手段/位置づけの手段/索出手段/(因果的妥当性の)検証手段として、研究に役立てられる。が、他方、現実の側面ないし傾向に対応しない「虚」ではないし、そうであってはならない。理念型について「経験的妥当性」を問うことは、可能であるし、必要でもある。それも、所与の理念型を「虚妄」との批判から守るという消極的な意味においてばかりでなく、「包括者」としての現実の関連諸傾向にいっそう多面的に迫っていき、諸傾向の対抗的均衡構造したがって変動傾向を探り出して、ダイナミックに展開していくためにも、その意味で積極的にも必要なのである。こうした主張にもとづいて、筆者は、Ⓐ「包括者」としての現実にかかわる概念構成の理念型的・価値関係的な被制約性を自覚せず、そうした制約にしたがうかぎりにおける価値観点の自由な選択にも無頓着で、ばあいによってはそうした自由な選択と展開の可能性に「立ちはだかり」「足を引っ張る」ばかりの論者と、逆に、Ⓑこの「自由な展開の可能性」にいわば独善的に収斂し、その「自由」を「楯にとって」「責任は執らず」、理念型的概念の「経験的妥当性」も否認し、討議・論争をとおしての相互「検証」も受け付けようとしない、といった論者との、双方にたいして、二正面作戦を展開していかなければならない、と考えている。

 では、羽入辰郎はどうか。かれは、明らかにⒶの陣営に属する。なるほど、かれは、ヴェーバーが「手工業から資本主義への転形」の理念型について、経験的検証の必要と意味を説いた、「客観性論文」中の上記の箇所には注目し、引用してもいる。しかしかれは、その箇所のみを、「価値関係性にかかわる議論から切り離して、自分の「素朴実在論」的な根基のうえに「取ってつけて」いる。ヴェーバー理念型論の一面を、まさにその一面性を自覚せずに振りかざし、「理念型つぶし」の論理に組み換えているのである。経験的妥当性にかかわる検証の要請を、ヴェーバー自身のように「価値関係的被制約性/一面性を自覚すればこその自由な価値観点選択とダイナミックな思考展開」の契機として、積極的に活かそうとするのではない。比較のパースペクティーフも「準拠枠」もなく、議論の土俵も「人物」批評にすり替えておいて、自分の価値理念/価値観点/価値関係も自覚せず、ただナイーヴな場当たり的印象を、根拠なしに偏愛している『自伝』から引き抜いてきた凡庸な素材とその見当違いの解釈で粉飾しては、「精神」にかんする鋭い理念型構成をもっぱら「鈍らせ」、「足を引っ張り」、「つぶそうとし」、なんとも否定的で退嬰的な、そうした「八つ当たり」論議の「正当化」に利用しているだけなのである。したがって、そういう羽入の「批判」にたいする筆者の反批判は、Ⓑの論者であれば主張しかなねい、「価値理念」が異なるから「理念型」も異なるので、議論の必要もない、といって「かわす」類の消極的「門前払い」ではなく、「精神」にかんするヴェーバーの理念型が、ブレンターノをさらに矮小化した羽入の「批判」にもかかわらず、あくまでも経験的妥当性をそなえ、フランクリンのしかるべき資料に就き、それ(理念型)に対応する現実の傾向を挙示することによって、十分に検証確証される、という趣旨の、「正面から受けて立つ」積極的論駁である。以下、「井のなかの蛙」の「理念型つぶし」論に一齣一齣、具体的に反論していこう。(2005年1月2日脱稿、つづく



[1] 羽入には、「なにがなんでも原典主義」の系としての「なにがなんでも『自伝』主義」のほかに、「『自伝』なら、『オリジナル草稿』も調べ(少なくとも見るには見)て、ヴェーバーよりもよく知っており、土俵として有利」との思い込みがあるのであろう。

[2] 本コーナーに掲載の拙稿「マックス・ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム」、同「批判結語(3-2)」§§3~7、参照。

[3] ここで予め注意しておけば、あくまでも「当の精神そのかぎりで典型的に表現している意味形象(たとえば、フランクリンならフランクリンの人物ではなく関連経済倫理表明した、特定文書抜粋)」であって、当の「精神」を一面では体現している「なんらかの人物』・一個人総体を表現する意味形象(たとえば、そのばあいには他に優る資料となる『自伝』)」ではない。方法論的思考制御の弛緩から、研究対象を「精神」から「人柄一般」に鈍化させ、その「人物」評、(したがって資料としては)『自伝』を特別視する、というような錯誤と混濁に陥ってはならないのである。

[4] たとえば、フランクリン「倫理」の「功利的傾向」。

[5] ここでは当然、第一「要素的理念型」構成において準拠された「二文書抜粋」以外に、たとえば『自伝』などからの抜粋含む。

[6] 「予断が入らないvoraussetzungslos」とは、ここから一歩一歩究明され、論証されるべき「われわれの主題」としての「宗教的なものとの関係」を、(丸ごとのフランクリンが、ではなくこの二文書抜粋に表明されたかぎりにおける意味内容が、直接には含んでいないから、論点先取ないし「原理請求petitio principii」にはならない、という意味である。

[7] ということはつまり、フランクリンの生涯を、(素材をみずから選び、それなりの潤色をともなうにはちがいないとしても)比較的満遍なく伝える『自伝』は、「フランクリン研究」、とくに「フランクリンの全体像」を構築しようとする「固有の意味におけるフランクリン研究」には不可欠で、相対的には最適の資料かもしれないが、まさにそれゆえ、特定の研究主題との関連においてかれの経済観」「経済志操」「経済倫理」「経済エートス」関心の焦点を絞っているこの「倫理」論文のパースペクティーフにおいては、補助資料としてならともかく、「精神にかんする鋭い理念型構成の素材としてはほとんど役に立たない、だから「暫定的例示」資料としては意識的に顧みない、という意味である。

[8] ここで、この「心得」の独特の性格に注目しておきたい。すなわち、「名声」をひとまずおくとすれば、「富」それ自体が、「勤勉という徳目の遵守をも手段として追求されるべき「目的」、(しかも当面、暗黙の裡にせよ、さらに上位の「目的」――たとえば「人として自然の」「幸福」「快楽」――が設定されて、その「手段」として「下属」する関係には置かれていない、その意味における)「自己目的」、また(この「目的-手段」関係全体倫理的に彩色されるとすれば)「最高善」として、措定されている。反面、「勤勉」が「固有価値」「自己目的」として措定され、「価値合理的」な遵守を要請されるというわけではなく、「富」という「目的」を達成する「手段」として位置づけられているために、まさにその「手段」としての効果に力点が移動し、「効果が等価であれば外観の代用で十分」という「偽善」にも反転しかねない関係にある。したがって、この「心得」は、ヴェーバーが注目する「フランクリン経済倫理の構造」を簡明に表示する恰好の標語ともいえよう。

[9] この引用文中の感嘆符号は、原文にはなく、キュルンベルガーかヴェーバーが付加して、読者の注意を促したものである。ヴェーバーは後に、「そういう『経済倫理』なら、ルネッサンス期の文人レオン・バッティスタ・アルベルティにもある」というゾンバルトの批判に答え、自分のほうから古代ローマの文筆家カトーの類例も引き合いに出しながら、「カトーはもちろん、アルベルティの所説にも、そうしたエートスが欠けている。かれらが説いたのは処世術であって、倫理ではない。フランクリンのばあいにも功利主義が見られないわけではないしかしかれの若い商人への説教には紛れもなく倫理的な熱情ethische Pathetikが見られ、その点がかれの特徴となっている。――これこそが問題なのである。――かれにとっては、貨幣への注意を怠ることは、資本の胎児を『殺すmorden』ことで、だから倫理的罪悪ein ethischer Defektなのである」(GAzRS, I, 40, 大塚訳、59、梶山訳/安藤編、74)と述べている。

[10]ここに伏在している「理念型構成の認識論的前提」問題については、後段§6以下で、まとめて論ずる。

[11] Jaspers, Karl, Vernunft und Existenz, 1949, Bremen: Johs. Storm, S. 34ff.、など参照。

[12] たとえば、本コーナーに論稿を寄せている森川剛光氏と筆者との間にも、見解の相違、したがって論争がある。拙稿「マックス・ヴェーバーにおける社会学の生成、I. 1903~07年期の学問構想と方法」、神戸大学社会学研究会篇『社会学雑誌』20号、2003, pp. 3-41, とくに、pp. 20-1, 32; マックス・ヴェーバー、富永祐治・立野保男訳/折原浩補訳解説『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、第7刷[1998]2003, 岩波書店, 「第7刷へのあとがき」, pp. 352-5, 参照。

[13] 上掲、富永・立野訳『客観性』、pp. 340-4、参照。

[14] 「因果帰属の論理」「社会の正常-病態の識別規準」といった基本的な問題にかんする誤訳-誤導の他の諸事例については、「抽象的方法論議の陥穽――専門学者による誤訳とその踏襲」、拙著『ヴェーバーとともに40年――社会科学の古典を学ぶ』、1996、弘文堂、pp. 42-54参照。


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-5)」

2005年2月16日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-5)

折原 浩


2005年2月16日

第四節 「天を仰いで唾する」もヴェーバーに届かず――「火遊びは火傷のもと」(承前)

8.理念型の経験的妥当性と、その検証資料

 ヴェーバーは、フランクリンの「人柄」ではなく「経済志操」を、(その端的な表明として方法的に選び出した)二文書資料からの抜粋に依拠し、本節1.の冒頭に引用したとおり、「貨幣増殖を、個々人の『幸福』や『利益』にたいしては超越的、その意味で非合理的な、自己目的とも『最高善』とも見なし、そのようなものとして追求せよ、と要請する『経済倫理』」として、一面的に鋭く理念型的に定式化していた。ところで、そうした定式が、資料としての二文書抜粋に表明された意味内容の特徴的傾向を、相対的極限にまで「思考の上で高め、あるいは煮詰めて」えられる「(論理的)理想像」ではなくて、その資料には表明されていない質的に異なる意味内容を「外から持ち込んで」いるとすれば、それはそのかぎりで、資料の意味内容を「歪曲する」「妥当でない」定式化として棄却されなければならない。したがって、当の資料と定式とを付き合わせて意味上の(「一致」でなく)対応関係を検出することは、必要かつ重要なことである。ところが、この(フランクリンの「経済志操」の)ばあい、「貨幣増殖を『最高善』として要請する『経済倫理』」という趣旨の定式化は、「時は金なり」「信用は金なり」の二標語に象徴される二文書抜粋の意味内容には、質的に対応しており、「(量的)極限化」ではあっても、異質の意味を持ち込む「歪曲」ではなかった。羽入といえども、この対応関係は、殊更否認していない。

 ところが、羽入は、羽入書第三章第三節末尾で、上記の定式化を引用したうえ、「しかしながら、およそ楽天的で『幸福』とか『利益』というものに対して好意的と思われるフランクリンに対して、果たしてこのような『非合理的なことが言えるのであろうか」(176-7)と反問する。つまり、問われるべき意味内容したがって議論の対象を、フランクリンの「経済志操」から「(丸ごとの)フランクリン」に、鈍化させている。そして、直後に第四節に移るや、対象の鈍化に見合って、議論の土俵、したがって理念型の検証資料を、突如自伝にすり替える。ヴェーバー自身は、この定式化にかけては、『自伝』の叙述を「自分の主張の論拠とし」(177)てはいなかったのであるが、羽入は、あたかもヴェーバーがそうしていたかのように決めてかかり、『自伝』中に(羽入のいう)「論拠」を捜し、「残念ながら見いださ[sic]ない」(177)と「判定」するのである。

 さて、この「判定」は、じつは誤りで、『自伝』中にも、歴然たる「論拠」(正確には、ヴェーバーの理念型的定式化に質的に対応する意味内容の叙述)が見いだされる。ただ、この対応関係の厳存という事実には、次稿(3-6)で立ち入ることとし、本稿ではまず、羽入が、第四節におけるヴェーバー論難を、この不当前提(議論の対象を、フランクリンの「経済志操」から「人柄一般」に鈍化させ、それに見合って議論の土俵を『自伝』にすり替えるという、ヴェーバー自身は関知せず、当該理念型の検証には不適当な前提)のうえに置いて、そこから出発させている、という事実を、確認しておかなければならない。なるほど、理念型といえども、本稿の前項で述べたとおり、あくまで経験科学の概念用具であり、その「経験的妥当性」が問われなければならない。むしろ、意図して一面的に鋭く構成された要素的理念型について、その「経験的妥当性」を検証するときにこそ、現実における対抗的要素が索出され、これと第一要素との動的均衡、したがって現実の変動傾向も、捉えられ、鮮明に定式化され、(要素的理念型複合としての)「歴史的個性体」概念のうちに包摂される[1]。とはいえ、そうした検証は、当の理念型に相応しいしかるべき資料に就いて試みられなければならない。「経済志操」に限定し、その一面性を自覚し、さればこそ鋭く構成されている理念型を、「人柄一般」に「つくりつけ」になっている「一義的」傾向(「およそ楽天的で『幸福』とか『利益』というものに対して好意的」云々)の概念的「反映」であるかに見誤り、非限定的で間口の広い(それだけ「人柄一般」については適当でもありうる)『自伝』資料に移し入れてもっぱらそこで検証しようというのでは、理念型の特質が無視され、その本領も長所も看過されざるをえまい。折角鋭く定式化された理念型も、(およそ「人柄」を構成する)多種多様な諸特徴/諸傾向のなかにいわば「呑み込まれ」、それだけ「影が薄れ」、あたかも「論拠(じつは質的対応関係)がない」かのように見紛われもしよう。羽入の論難は、理念型的方法にたいする無理解と、おそらくは「ヴェーバーの理念型的定式化をなんとしても葬り去ろう」という衝動とに鼓舞されて、無意識裡にも関説対象の鈍化と土俵のすり替えという不当前提を置き、そのうえに展開されているというほかはない。

 ただし、羽入の持ち出した『自伝』が、「経済倫理」にかんする鋭い理念型的定式化の検証資料として、全体としては「粗大」で不適当であるとしても、なおかつ、それを検証資料に見立て、当の対応関係を(羽入流「キーワード検索」の域を越えて)仔細に探索することはできる。そうすることによって、ヴェーバーの理念型的定式化に質的に対応する要素が、『自伝のなかにも(異質ないし対立する諸要素の多様な交錯ないし混沌のただなかから)発見されるかもしれない(し、じじつ次稿で詳述するとおり発見される)。そこで、筆者としては、羽入による鈍化とすり替えを暴露して「能事終われり」とするのではなく、当の不当前提のうえに展開されている議論そのものにはそれはそれとしてしばらく内在し、かれの「キーワード検索」の経緯と到達点を検討してみたい。そうすると、羽入の議論が、ここでもまた奇妙な「迂回路」を採り、すり替えと誤読を繰り返して「それとは知らず混迷の深みにはまっていく」行論に即して捉え返されると同時に、当の議論において羽入は見逃した対応要素が、羽入による論難そのものをとおしてほかならぬ自伝のなかに発見/挙示されるであろう。ヴェーバーによって構成された理念型の経験的妥当性が、一「批判者」の「反証」そのものによって、かえってそれだけ補強されることになるわけである。

9.ヴェーバーの「合理性」概念とその意義

 しかし、羽入書第三章第四/五節のそうした検討に入るまえに、羽入が上記引用文中で「非合理的」(177)という言葉を使っている事実に止目し、それを手掛かりに、かれの「合理性」理解を問題にしておきたい。周知のとおり「合理-非合理」とは、ヴェーバー歴史・社会科学の基本的な「嚮導概念(構想)generative conception」ともいえるものである。とすると、これにかんする羽入の用語法からは、「ヴェーバー通」をもって任ずる(12)かれが、はたしてそうした基本概念を的確に把握し、理解していたかどうか、が明らかにされよう。

 「倫理」論文中、羽入が引用した箇所には、確かに「非合理的」というヴェーバーの表記が見られる。羽入は、その語を抜き取って、ヴェーバーの理念型的定式化に投げ返しているのである。ところが、まさにその「非合理的」という表記の箇所には、K・レーヴィット[2]から最近の矢野善郎[3]にいたるまで、およそヴェーバーの「合理性」「合理主義」「合理化」概念に着目する論者にはきまって取り上げられ、仔細に論じられてきた、周知の注記が付されている。それはまたしても、L・ブレンターノにたいする反批判である。

「ブレンターノ……は、この表記を捕らえて、世俗内禁欲が人間のあいだに生み出した『合理化と規律』にかんする後段の叙述を批判している。そうした合理化は『非合理的生活irrationales Leben』への『合理化』になる、というのである。確かに[ある意味では]そのとおりだ。だが、問題はつねに、あることがそれ自体として『非合理的』かどうかではなく、特定の『合理的』観点から見て『非合理的』かどうか、にある。無信仰者には、宗教的な生き方がことごとく『非合理的』で、快楽主義者には、禁欲的な生き方がすべて『非合理的』であろう。ところが、宗教的また禁欲的な生き方も、それ自体の究極の価値を規準として測れば、ひとつの『合理化』でありうる。この論文になにか寄与するところがあるとすれば、『合理的なものの概念が(一義的と思えるのは、皮相な見方にとってのみで、それがじつは)多種多様であることを開示している点にあろう。[ブレンターノにとっても羽入にとっても]そうであってほしい。」(GAzRS, I, 35, 大塚訳、49-50、梶山訳/安藤編、96)

 さて、この注記は、初版(1904)にはなく、改訂時(1920)に付され、『宗教社会学論集に収録されている[4]。ヴェーバーが「この論文(単数)」の寄与と見込んでいる「合理的なもの」の多義性も、「倫理」論文一篇というよりはむしろ、(普遍史的/世界史的なパースペクティーフのなかで多種多様な「経済倫理」を類例として比較し、同じく多種多様な「宗教性」との関連を問うている)続篇「世界宗教の経済倫理」シリーズ(「儒教(と道教)」「ヒンドゥー教と仏教」「古代ユダヤ教」)の全篇を相互に対比しながら読むとき、あるいはたとえ「倫理」論文一篇でも、シリーズ全篇との関連のなかでその一環として読むときに、初めて具体的に開示されよう。しかも、そのときには、そうした多義性に着目することの方法上方法論上の意義も、的確かつ十全に把握されるはずである。そこで、「世俗的な観点からは『合理的』な『宗教的生き方』についても『合理化』を語りうる」というこの注目すべき論点について、ヴェーバーの思想展開を――ここでは「触り」の部分を、続篇「世界宗教の経済倫理」「序論Einleitung」(1915)、同「中間考察」(1915)および(『宗教社会学論集』の)「序言Vorbemerkung」(1920)から拾って解説を加える、という形で――、点描してみるとしよう[5]

 「序論」で、ヴェーバーは、本論でとりあげる「世界宗教」の各々を「きわめて複雑な性質をそなえた歴史的個性体」(GAzRS, I, 265, 大塚/生松訳、79)と断り、つぎのような「類型論的方法の適用を予示している。

「そういうわけで、以下の論述はけっして、諸宗教の体系的『類型論』eine systematische »Typologie« der Religionenではない。さりとてもとより、純然たる歴史的研究でもない。むしろ、[ある文化圏の]経済志操と[他の文化圏の]それとのあいだに見られる大きな対立との関連で典型的に重要と考えられる諸点を、宗教倫理の歴史的現実態に即して考察し、それ以外の諸点は視野の外に置くという意味で『類型論的typologisch』といってよいものである。したがって、叙述の対象として取り上げるもろもろの宗教について、欠けるところのない十全な姿を描き出そうと要求[ないし僣称]するものではない。むしろ、他の宗教との対比においてそれぞれの宗教に独自なまた同時に、われわれが問題としている関連にとって重要な諸特徴をこそ、すぐれて前景に取り出して強調せざるをえない。そのように、あるものを前景に取り出し、他のあるものは後景にしりぞける、特別のパースペクティーフを抜きにして見れば、そうした諸特徴もしばしば、以下の論文で描き出されるよりもずっと緩和された姿をとり、他方ではかならずや、もっと別の特徴が付け加えられるであろう。」(GAzRS, I, 265, 大塚/生松訳、79-80)

 ちなみに、この意味の「類型論的」方法は、一方では、諸宗教のみでなく、(同じく「歴史的個性体」として概念構成され、諸宗教との関連が問われるべき)「経済志操」にも、他方では、「世界宗教の経済倫理」シリーズのみでなく、(『宗教社会学論集』に収録され、補注を施されることによって「世界宗教の経済倫理」の方法水準にまで引き上げられている)「倫理」論文(改訂稿)にも、まったく同様に適用されている。「(近代)資本主義の精神」という(「経済志操」の一)「類型」についても、ヴェーバーは、「暫定的例示」のために選び出したフランクリン素材から、「フランクリンの経済志操」(ましてや「フランクリンの人柄一般」)の「欠けるところのない十全な姿を描き出そう」とは要求せず(そうした目標追求は「固有の意味におけるフランクリン研究」に委ね)、夥しい素材群のなかからただ、「フランクリンの経済志操」を他の(たとえばフッガーの)それと対比したばあい、フランクリンに独自で(後には、他のもろもろの文化圏に見られる「経済志操」と対比してみても稀有で)、また同時に、(資本蓄積の持続的駆動因としてはたらくという意味で)「(近代)資本主義の精神(経済志操)」として見ても重要relevant、「『貨幣増殖』を『最高善』として追求して止まない『経済倫理』」という一特徴のみを、意図して前景に取り出し、他の諸特徴は(当該節冒頭にもわざわざ「方法論的覚書」を寄せて断っていたとおり)意図して捨象するか、後景にしりぞけているのである。

 ただ羽入だけが、ヴェーバーのこの「類型論的」方法を理解せず、対比すべき他者も皆無の「井の中の蛙」視座に跼蹐したまま、(ヴェーバーにおいては)比較のパースペクティーフのなかで前景にとり出されている「独自(稀有)かつ重要な」特徴を、(不相応な資料としての)『自伝』から取り出された、(ヴェーバーにおいては方法上意図して後景にとどめられ、とどめられてしかるべき)多種多様な諸特徴と「一緒くたにして」は、ひたすら相対化/相殺し、鈍化させ、「否認」しようとする。その結果、なにか別の、注目に値する特徴づけがなされるのかといえば、そうではない。『自伝』から、「反証」のつもりで、やれ「借金を返すため」、やれ「子どもを育てるため」、やれ「立身出世のため」といった、それはそうにちがいないとしてもどこにでもあるそれゆえ、ヴェーバーの意味における「類型論的」定式化においては捨象されてしかるべき)動機を引き出してきては、「フランクリンの経済志操」に帰し、それで「反証」が成立したかのように思い込んで怪しまないのである。

 さて、当の「類型論的」方法を「世界宗教」に適用し、各々に「独自かつ重要な」諸特徴を取り出すといっても、この「重要な」諸特徴がまた無数にあるわけであるから、これについても「特定の観点から見て重要」という限定が必要とされる。このばあいヴェーバーは、(「経済倫理」一般ではなく)「経済上の合理主義」を関心の焦点とし、これとの関連にとって「重要」かいなか、という「特定の観点から」の限定を加える。したがって、ある宗教が、信徒にたいする宗教固有の「生活規制Lebensreglementierung」をとおして、当の信徒(やがては、「突破口」「第一先例」の模倣/慣習化という経過をへて、信徒の範囲を越える広汎な諸社会層)における経済活動の合理主義にも通じていくような「生き方の合理化Rationaliseirung der Lebensführung」をもたらすかどうか(もたらすとすれば、いかなる意味の「合理化」を、いかにしてどの程度までもたらすのか、逆に、もたらさないとすれば、いかにどの程度、阻止するのか)が「重要relevant」となる。ところが、この「生き方の合理化」が、もとよりまた、宗教ごとに多種多様である。

「ところで、経済倫理との関連で重要な、諸宗教の特徴といっても、このばあいわれわれが関心を向けるのは、本質的に、ある特定の観点からである。すなわち、当の特徴が、経済上の合理主義ökonomischer Rationalismus――それも(この『合理主義』という語の意味も、まだ一義的に確定されてはいないので、いっそう詳しく規定すれば)、16/17世紀以降、ここ西洋を支配し始め、市民的な生活合理化の部分現象としてここ西洋には根を下ろした、そういう類型の『経済上の合理主義』――と、いかなる関連にあるのか、という特定の観点からである。こんなことをいうのも、『合理主義』という語にはきわめて多種多様な意味があるということを、ここでもういちどnoch einmal[改訂時追加]、思い起こしておいてほしいからである。……[中略:「理論的合理主義」と「実践的合理主義」、前者の二下位類型、の例示]……。われわれが以下の諸論文[「世界宗教の経済倫理」シリーズ]で取り上げる生き方の合理化もまた、おそろしく多種多様な形態をとりうる。儒教は、いっさいの形而上学を欠き、宗教的な根基の残滓もほとんど痕跡をとどめていないという意味で、およそ『宗教』倫理と呼びうるものの極限に達しており、きわめて合理主義的rationalistischであると同時に、功利性の規準以外の規準をまったく知らないか、ことごとく貶価するという意味では、きわめて醒めていて、この点で儒教と比肩しうる倫理体系といえば、J・ベンサムのそれ以外にはあるまいと思われるほどである。ところが儒教は、じつのところ、……実践的合理主義のベンサム的類型とも、西洋におけるそれ以外の全類型とも、おそろしく異なるものである。[つぎに]ルネッサンスの最高の芸術理想は、ある妥当な『美的比例Kanon』を信ずるという意味で『合理的rational』であったし、その人生観も、プラトン流神秘主義の混入成分を除けば、伝統的な束縛を拒否し、自然的理性naturalis ratioの力を信ずるという意味において合理主義的rationalistischであった。[さらに]禁断苦行ないしは呪術における禁欲Askeseや瞑想Kontemplationの技法も、たとえばヨーガとか、後期仏教の転輪蔵を用いる祈祷のように、徹底した形態をとるばあいには、これまたまったく別の意味、つまり『計画性Planmäßigkeit』という意味で、『合理的』であった。また[最後には]、一般に組織的かつ一義的に不変の救済目標をめざす、あらゆる種類の実践倫理は、片や形式的方法性という[計画性と]同じ意味で、片や、規範的に『妥当するもの』と経験的に与えられたものとを区別するという意味で、『合理的』であった。ところで、われわれが以下で関心を向けるのは、この最後に挙げた種類の合理化過程にほかならない。」(GAzRS, I, 265-6, 大塚/生松訳、80-2)

 このようにヴェーバーは、「合理主義」につき、まず「理論的合理主義」と「実践的合理主義」とを区別し、後者すなわち「生き方の合理化」にかぎって、儒教、ベンサム的功利主義、ルネッサンス(といった、世俗的で現世肯定的な形態)から、禁断苦行や呪術における禁欲と瞑想の徹底形態をへて、「救済宗教」における組織的な救済追求道(「救済」のために現世を拒否する宗教形態)にいたる「合理主義」の多義性/「合理化」の多種多様性を、つぎつぎに例示している。そのうえで、この「世界宗教の経済倫理」シリーズでは、「最後に挙げた」組織的救済追求の「合理化過程」を取り上げるといって、とりあえず課題を限定し、そのあとすぐ、「ここで、そうした合理化過程の決疑論[ありうべき諸事例を網羅するカタログ]をまえもって構成する」という企図に言及はする。しかし、「これら諸論文の叙述自体が、まさしくそうした決疑論への一寄与たらんとするものであるから、まえもって決疑論を提示するのは無意味であろう」として、「合理化」概念の決疑論的な開示と(その意味における体系的な)定式化(「合理主義」の類型論/社会学)は、ここでは断念している(未完に終わる)。

しかし、この箇所だけでもですでに、(禁欲はともかく)呪術や瞑想についてまで「合理化」を語りうるとほかならぬヴェーバーが明言している事実に出会って、わが目を疑う人も少なくないのではないか。というのも、当のヴェーバーが「西洋文化圏においてのみ『合理化』が進展し、他の文化圏では停滞した」という趣旨の(西洋中心主義的/排他的)「合理化論」ないし「合理化史観」を唱えたかのように教えられ、そのまま信ずるか、あるいは逆に、そうした「西洋中心主義」に反発するあまり「同位対立「自文化中心主義Ethnozentrismus」(ないしは、これと「同位対立性を共有する「反西洋主義 Anti-Okzidentalismus」の諸形態[6])に追い込まれるか、いずれにせよ「合理化」を、ある文化圏の歴史総体ないし総体的過程に「つくりつけ」になっている一義的傾向を表示する概念、しかも価値概念であるかに解する向きが、まだあとを絶たないと思われるからである。

 ところが、そうした解釈はじつは、ヴェーバー自身の「合理化」論ないしは巨視的比較宗教文化社会学の視座と方法にかんする(これ以上は考えようもないほど)粗野な誤解曲解である。この比較文化社会学はむしろ、「合理化」の多義性をいわば逆手にとって「嚮導概念(構想)」とし、ある文化圏では、どんな領域が、いかなる方向に「合理化」されたのか、と問い、さまざまな「合理化」の極限/遡行極限にさまざまの「非合理的なものを索出しながら、さまざまな「合理-非合理」関係の領域別の組み合わせを究明して、各文化圏の文化史上の特質を概念的理論的に把握していこうとする。たとえば、インド文化圏について、「中間考察」の冒頭には、つぎのような叙述がある。「われわれがこれから考察しようとするインドの宗教は、中国とは顕著な対照をなして、かつてこの地上に出現した宗教倫理のうちで理論的にも実践的にももっとも徹底した現世否定の諸形態を生み出したばかりではない。そこでは、それに照応する『技術』も、最高度に発展をとげた。修行(修道)生活や、禁欲と瞑想の典型的な技法は、ここインドの宗教のなかに、もっとも早く姿を現わしただけではなく、そこで首尾一貫した形にまで仕上げられた。そして歴史的にも、こうした合理化は、ここを起点として全世界に広まっていったと見てよい。」(GAzRS, I, 536, 大塚/生松訳、99)

 ヴェーバーはこのように、インド文化圏については基本的に、「宗教という領域が、現世否定と瞑想(副次的/異端的には禁欲)の方向に『合理化』され、この点がこの文化圏の(文化史上の)『類型的特徴』をなしている」と見る。そして、この「中間考察」につづく「ヒンドゥー教と仏教」本論では、「歴史上、インド文化圏ではなぜ、かくなって、他とはならなかったのか」、また「そうなったことが、この文化圏の歴史的運命を、どのように規定してきたのか」を、(西洋文化圏の類型的特徴と歴史的運命との比較において)究明するのである。とすれば、他の文化圏についても、これと同じように問いかけ、探究の方針とすることができるのではあるまいか。

「この『合理主義』という語は、……きわめてさまざまな意味に解することができる。たとえば神秘主義的瞑想というような、他の生活領域からみればすぐれて『非合理的』な営みも、経済/技術/学問研究/教育/戦争/司法および行政の合理化とまったく同様に『合理化』されうるのである。さらに、こうした生活領域のひとつひとつもすべて、それぞれきわめて多種多様な究極の観点ないしは目標のもとに『合理化』されうるのであり、しかも、あるひとつの観点ないし目標から見て『合理的』なものは、別の観点ないし目標から見ると『非合理的』でありうる。したがって、すべての文化圏では、さまざまな生活領域が、きわめてさまざまな仕方で合理化された。すべての文化圏の、文化史上における差異を特徴づけているのは、なによりもまず、いかなる領域が、いかなる方向に向かって合理化されたのか、ということである。」(GAzRS, I, 11-2, 大塚/生松訳、22-3)

 このとおりヴェーバー自身においては、「合理化」とは、ある文化圏に「つくりつけの」一義的傾向を表示する一義的概念といったものではなかった。いわんや、なんらかの「合理化」を、自分の属する文化圏の排他的特徴として、他文化圏にまさる価値増大の過程として誇示しようとする「自文化中心主義」(「粉飾を凝らしたお国自慢」)の指標/指数ではなかった。まったく逆に、自文化圏の現状と将来にたいする危機感と憂慮に発し、普遍史/世界史における人間の運命の多様性に大いなる共感を寄せながら、自文化圏を、まずはありうべき文化形態のひとつとして相対化し、多様な文化発展のなかに位置づけつつ、その来し方/行く末を見定めようとする、開かれた知的学問的営為の「嚮導概念(構想)」であった。

 ちなみに、そのばあいなぜ、他の概念ではなく「合理化」が選ばれ、「嚮導概念(構想)」に据えられるのかといえば、「理ratio」は「明証性」が高く、それを手掛かりとすれば、他の異質な文化圏にも入りやすく、「明証性」をそなえた「解明」を極限まで貫徹させることができる。また、どの文化圏のどの領域も、もとより、そのように「解明」していけば「合理的に割り切れる」というものではなく、さまざまな「非合理性」を(おそらくは核心部分に)包蔵しているにちがいないけれども、そうした「非合理的なもの」は、直観的に把握され、直接的に叙述されるよりもむしろ、「合理的なものを媒介として、「合理化」の極限また遡行極限として、知的かつ(最大限に)客観的に把握され、叙述されるであろう。少なくとも学問としては、そうした方針を採用して進む以外にはない。およそこうした思念が、さきほどからの点描をとおしても明らかなとおり、ヴェーバー自身のオリジナルな構想であった。

 ところが、こうした構想は、(それ自体として未完成であったことを別としても)そのままの志向方向性スタンス形姿体温においては継承されなかった。継承者のおかれている文化史的社会的状況に応じて、主として政治の影響を被り、誤解され、曲解された。そうした誤解/曲解がいまなお根強く生き残っている事実にも、それはそれとして相応の根拠があろう。

10. ヴェーバーの学問的業績にたいする「戦後近代主義」の誤解/曲解

 ここで、試みにパラダイムを変え、管見を述べよう。

 ここ二/三世紀間に、西洋近代文明/文化の影響にさらされてそれぞれの伝統を揺るがされた非西洋諸地域、すなわち(イギリスの植民地支配を受けてカースト秩序が揺らぎ始めて以来のインド、ピョートル改革以後のロシア、阿片戦争以降の中国、幕末このかたの日本など)西洋近代文明の外縁マージナルエリアには、「(圧倒的に優勢な)異文明の電流を導入するために電圧を下げるトランス」の役割を担う「連絡将校」として、西洋的教養を取得した「インテリゲンツィア」(A・J・トインビー)が養成され、一階層に形成された。そして、「マージナル・マン」(パーク/ストーンクィスト)として多少とも「根無し草 déracinés」(自国の社会構造に堅固な根はおろさない「自由浮動」層)となるかれらは、第一次的には、西洋近代文明/文化にたいして「過同調」の「西洋派」「西洋主義」のスタンスをとるか、それとも逆に、「反動形成」によって「自文化中心主義」に立て籠もる――あるいは(「西洋派」にたいする「同位対立としては等価の)なんらかの「反西洋主義」に反転する――か、の態度決定を迫られ、いずれにせよ双方の「同位対立」関係(たとえばロシアや日本における「西欧派」と「スラヴ派」「国粋派」との対立)に陥る。ここでは、西洋から移入される観念形象のすべてが、こうした同位対立の磁場に吸い寄せられて相応の変容を被ることにならざるをえない。

 戦後日本の「近代主義」も、太平洋戦争の開始と敗北を、一方では生産力における劣位、他方では民主主義(と民主主義を担うべき自立的「個人」)の欠如に帰し、双方を再度「西洋近代」をモデルに見立てて学び直し、補強しよう(相手の武器を逆手にとって対抗しよう)という「ヘロデ主義」戦略の戦後版であった(たとえば「大塚近代化論」は「ヘロデ主義的生産力説」として特徴づけられよう)。表向きはともかく、深層では、そうした側面を色濃く帯びていた。しかも、論者の多くは、大塚を初め、マルクス主義の単線的進歩(発展段階)図式(世俗化されたキリスト教的終末論)を、折衷的にせよ受け入れていた(し、いまなお「尻尾を引きずっている」人もいる)。したがって、「西洋近代」と戦後日本の「現状」とを時間軸上に並べ、前者を「比較の準拠枠」として後者の「遅れ」ないし「(跛行性という含意における)特殊性」を剔抉するという発想に引き寄せられ、これにたいする反動としても「後進国における思想の優位」が唱えられる始末であった。一方では「西洋文化圏」(とくに「西洋近代」)と「日本」(とくに「幕末このかたの日本」)とを、ひとまず相異なる文化類型として措定し、比較によって双方の異同を問い、相互に特質づけると同時に、他方ではむしろ、後者を上記(「西洋近代」の)外縁「マージナル・エリア」群のひとつに見立て、「西洋近代」にたいする群に共通の「文化葛藤」の諸相を類例として比較し、そうした二重の比較をとおして辺境革命」「(文明中心の)辺境移動の可能性を探索し、翻っては「西洋近代」にたいする(「文化類型」として独自かつ普遍的な)対応の可能性を探り出していこうとする発想[7]には、なかなか到達できなかった(し、到達しても、それをパラダイムとして活かし、発想を転換するまでにはいたらなかった)。ところが、ヴェーバーが「倫理」論文以降の思想展開をへて到達した地平は、まさにこうした発想に連なり、かれの巨視的比較文化社会学の視座と方法は、(それ自体としては未完ながら)この発想を学問的に展開していくのに打って付けの質と内実をそなえている。かりにヴェーバーが戦後日本に生きていたとすれば、かならずやこうした発想にもとづいて、いちはやく独自の内容ある巨視的比較文化社会学を構築していたにちがいない、と思えるくらいである。

 しかし、「戦後第一世代」に属する筆者は、そうした地平に到達するのに、戦後政治および(政治的色彩の濃厚な)「島国日本の学界/ジャーナリズム複合体制(コンプレクス)」に制約された「戦後近代主義」のヴェーバー解釈、とりわけ上記の誤解/曲解を、もっぱら学問的に批判し、そうした先入観を排してヴェーバーの言説そのものを文献学的に厳密に解読する地道な学問的基礎研究を重ねなければならなかった。「戦後近代主義」のヴェーバー解釈は、近代(資本主義)的生産力の担い手としての勤労意欲の高い自立的個人と、そうした個人間の契約関係として自発的に創出され制御される(べき)近代市民社会また近代国家の「理念(型)」を、主として倫理論文に依拠して、西洋における歴史的発展過程から抽出し、観念/思想上で「剥離」させ、それを同時に価値理念として固定化理想化し、この価値理念/理想に照らして、日本人と日本社会との「近代的」ならざる側面を批判し、批判的に乗り越えようとした。こうした思想的ヘロデ主義のパースペクティーフでは、「合理化」は「合理的生産力と合理的市民社会また合理的国家への合理化」として実体化また狭隘化される。他方、そうした立場決定からは、ヴェーバーの膨大な学問的業績/著作中、もっぱら倫理論文が、いわば「戦後近代主義の『聖典』」として偏重されざるをえない。ヴェーバー自身においては、「倫理」論文は、それ以降の巨視的比較宗教社会学研究総体へのいわば「問題提起的序章にすぎないとさえいえる。ところが、「戦後近代主義」のパースペクティーフでは、その関係が逆転され、序章が前景に取り出されて偏重されるあまり、本論総体が顧みられないばかりか、序章が本論から翻って再解釈されることもない。したがって、「倫理」論文それ自体の読解も、その意味では深められなかった。政治が(たとえ政治価値自体としては肯定的なものでも、政治であるかぎり、むしろ肯定的であればあるほどかえって)学問を制約して学問の価値自由な発展を妨げいかにその停滞を招くか、を鮮やかに示している生々しい実例といえよう。

 ところで、「戦後近代主義」のパースペクティーフでは、「倫理」論文が偏重されるあまり、その読解自体が深められないばかりではない。そのうえ、その読み方も相応の偏向を被り、皮相に流れざるをえない。テクストから読み取った意味内容を政治目的に利用しようという想念に凝り固まった「政治人間」は、先を急いで「テクストの上っ面をかすめ」、「結果を出そう」と焦るものである。そういう人は、著者ヴェーバーがなぜ「倫理」論文を執筆するにいたったのか、その原問題設定と生活史的/根源的動機に遡り、そこから全篇を再解釈し、結果として書き上げられた章節の細部や行間にも「人間ドキュメント」としての息吹を感得し、その陰影を読み取ろうなどとは、つゆ思わない。ヴェーバーが西洋近代の「職業義務観」を、その深みにまで穿ち入って問題とすることができたのは、かれがそれに実存として苦しみぬいたからである[8]が、「戦後近代主義」の解釈では、そんなことはどうでもよい。むしろ近代的「経営Betrieb」の「職業的」分業-協業体制が、近代(資本主義のみでなく、文化諸形象)一般の高い生産力/生産性を保障する基幹編制であったという一面の認識から、「まさにそれゆえ、ヴェーバーは、そうした編制とそれを支えるエートスの歴史的淵源を探究しようとしたのだ」というふうに、自分たちの意義づけ(自体は自由であるが、それをその限界内にはとどめておかず、むしろそれ)を、好都合にもヴェーバーの執筆動機にまで読み込んで、捩じ曲げてしまう。すべてこの調子で、政治的評価に彩られた事後解釈がまかり通る。そうした二次所見を排しヴェーバー自身のテクストに沈潜してかれの人と学問そのものに迫ろうとする研究者はごくわずかしかいない。むしろさながら、政治空間で、二次文献の「空中戦」が演じられているようだ。そういう皮相な読解水準では、ヴェーバーにとっての苦悩の種がバラ色に描き出され、かれは問題にしたことが反対に規範化/理想化され、相対化したことが逆に実体化/絶対化される。粗野な誤解/曲解も怪しむに足りない。そうした誤解/曲解にたいして華々しい「批判」が打ち上げられても、所詮は「同じ穴のむじな」で、価値符号を逆転させた政治主義的「同位対立」の域を出ない。ところが、この「島国日本の学界/ジャーナリズム複合体制(コンプレクス)」のなかでは、その種の政治主義的論策が、「たんなる『ヴェーバー研究』ではない」などと評され、称揚されるのである。

 1960年代には、アメリカの研究者による日本「近代化」の研究、たとえばロバート・ベラーの『徳川宗教』が輸入され、翻訳され、一時期流行をみた。しかしそれは、ヴェーバー歴史・社会科学の方法(すなわち、「現実(歴史)科学」と「法則科学」との緊張のうえに成り立つ)「類型論的」方法を継承することなく、「倫理」論文に書き上げられた結果だけを(T・パーソンズの流儀にならって)「法則科学」的な図式に組み換え、ピューリタニズムの「機能的等価物」を江戸期の石門心学に探るという代物であった。したがって当然、「倫理」論文しか顧慮せず、「ヒンドゥー教と仏教」の第三章に収録されているヴェーバーの日本論さえ射程に入れていない。しかも、ベラーのパースペクティーフは、「近代化」の頂点にアメリカ社会を据え、そこから歴史を俯瞰して「成功物語success story」として単線的「進化」を組み立て、他地域における「逸脱」「偏向」を問題にするという発想で、(当人は意識していないと思うが、そのじつ)救いがたい「自文化中心主義」というほかはなかった。文化史的/知識社会学的に穿っていえば、この観念形態は、「冷戦体制」下に(西欧文明圏の)「世界国家」「世国帝国」(トインビー)にのし上がった「(西欧の)新興国」アメリカの(「成り上がりparvenu」の「過補償」動機と入り交じった)「思い上がり/倨傲hubris 」から、そのヘゲモニーと世界政策を文化史的に「正当化」しようとし、そうした政治的観点から、ヴェーバーの学問的業績のごく一部分を手っとり早く利用した産物にすぎない。

 ヨーロッパにおけるR・アロン以来のヴェーバー解釈も、形式的には考察範囲を「世界宗教の経済倫理」にまで拡大はしたものの、実質的には、「世界宗教」を「プロテスタンティズム・テーゼの比較史的追検証としてしか取り扱えなかった。という意味は、こうである。その解釈によれば、「世界宗教」論文とは、「(一方の)禁欲的プロテスタンティズムないしはその機能的等価物(「世俗内禁欲」類型の宗教/宗教倫理)を欠く(『対照群』としての、非西洋)諸文化圏では、(他方の)資本主義の『精神』も自生的endogenには発生/発展しなかったのかどうか」と問い、裏側から「西洋文化圏では、前者があったからこそ、後者も発生した」との因果命題を導こうとする「比較対照試験」に相当する。つまり、前者と後者との関係につき、「倫理」論文かぎりでは「明証的」に「解明」された「意味連関」にとどまる「プロテスタンティズム・テーゼ」を、この「比較対照試験」によって、「明証的」であるとともに「経験的に妥当」でもある「意味・因果連関」にまで、方法(自覚)的に練り上げていこうとする作業である、というのである。この解釈は、一面では正しい。というよりも、その提出が1930年代であったことを思えば、ヴェーバー歴史・社会科学方法論の要にある「(経験科学としての)因果帰属の論理」を(「実験」「比較対照試験」の論理の、非実験的対象群への適用として)的確に捉え、これと「世界宗教」論文の内容とを結びつけて、ヴェーバーの研究成果をかれの方法論によってよくぞ説明したものと評価されよう。しかし他面、この解釈では、ヴェーバーの思想内容の発展は、かれが当の「プロテスタンティズム・テーゼ」に到達した1904/05年段階で金輪際停止し、その後の15年間はその形式的方法的補強にのみ費やされた、ということにならざるをえない。とすると、この解釈もまた、「倫理論文中心の狭隘化を免れてはいないことになる。それ以降に書き継がれた「世界宗教の経済倫理」に独自の内容上の寄与を、いっさい捨象し、その意義を方法的操作に還元してしまっているからである。

しかしながら、ヴェーバーほどの独創的な思想家が、15年間も思索の成果を論文として発表しつづけながら、内容上の前進や深化はとげず、ただ方法上足踏みをしていただけ、というようなことが、およそありえようか。むしろ「世界宗教」には、方法上の大掛かりな「迂回路」には還元できない、固有の意義をもつ内容上の寄与が、開示されているのではあるまいか。とすれば、この問いにたいする解答のうち、もっとも重要と思われるひとつこそ、「合理化」の多義性への(その方法上の意義への)着眼、したがって当の多義性を逆手にとる「合理-非合理」関係具体的究明、および、そうした多義的合理化嚮導概念(構想)」とする巨視的比較文化社会学への学問的な視座と方法の再編制と整備、これである。

 さて、前世紀の「ヴェーバー研究」は、1950年代の後半から、ヴェーバーの作品/業績にかんする「全体像構築を、意図し顕示してめざす時代に入った。しかし、その先駆けとなった金子栄一『マックス・ウェーバー研究――比較の学としての社会学』(1957、創文社)も、R・ベンディクス『マックス・ウェーバー――その学問の包括的一肖像』(1960, 2. ed. 1962, New York、拙訳、1966、中央公論社、改訳、上下、1987/88、三一書房)も、ともに優れた労作ではあったが、肝心のこの問題にかけては、アロンに追随し、「世界宗教の経済倫理」と(その方法水準に「倫理」論文も引き上げている)『宗教社会学論集』全体の意義については、新解釈/新展開を示さなかった。かれらの「全体像」にたいしては、ヴェーバー自身の思想展開に沿ってテクストを再読しての再構築が、求められようし、求められなければならない。

 この点にかんして、ひとつの画期をなしたのが、「マックス・ヴェーバーの業績」(1975)、「『経済と社会』との訣別」(1977)と題する、F・H・テンブルックの挑戦的な二論文であった。テンブルックは、「倫理」論文から「世界宗教」にかけての視圏の飛躍的拡大とその主題的意義という、ヴェーバーの学問的業績の核心に触れる問題を、正面から取り上げると同時に、解釈の空転を戒めて厳密にテクストに就くことを要請し、「外から」なんらかの立場を持ち込んではヴェーバーの学問的業績を断片的/政治的に利用しようとする(飽くことなく繰り返される)企てに終止符を打とうとした。テンブルックのこの挑戦には、ただちにその意義を認めて、W・シュルフターと筆者が応戦した。才気煥発なテンブルックの業績は、確かにテクストへの徹底した内在をくぐり抜け、かれならではの鋭い主張として提示されている。しかし、筆者から見ると、しばしばあまりにも思い入れが激しく、賛同の域を通り越してしまうばあいがある。「『経済と社会』との訣別」の主張にしても、画期的ながら一面的にすぎ、筆者はテンブルックの「訣別とも訣別」して「再構成」に進み、かれにたいする批判を展開すると同時に、(同じくテンブルックにたいして一面では批判的な)シュルフターとも論争関係に入っている。ただ、そうするなかで筆者は、少なくとも故テンブルックとシュルフターに代表される現代ドイツ、ならびに(それと対抗的に提携できるまでになった)現代日本のヴェーバー研究は、テクストそれも(ヴェーバーの膨大な著作のすべてとはいわないまでも、『宗教社会学論集』と『経済と社会』などの)主要著作に内在して周到に立論する手堅い学問的研究水準にまで到達し[9]もう後戻りはできない、との感触をえている。

 今後の課題は、その水準で、(ヴェーバーにおける「法則科学」としての社会学の主著)『経済と社会』を、かれ自身の構想に即して再構成し、『全集』版の再編纂(したがって全世界のヴェーバー研究にたいする信憑性ある基本テクストの提供)に寄与すると同時に、『宗教社会学論集』を、「現実(歴史)科学」と「法則科学」との緊張のうえに成り立つ「類型論的」方法の適用/展開例として(完結した「第三巻」までを)厳密に読解し、加えては、未完の「原始キリスト教」「イスラム教」「ローマ・カトリック教会と東方教会のキリスト教」などの欠落をつとめて埋め、出発点「プロテスタンティズム」に立ち帰って、ヴェーバーにおける普遍史的/世界史的探究の「円環を閉じる」と同時に、われわれ自身によるその創造的展開の方途を探ることにあろう。

そこでわれわれは、「西洋近代」と「幕末このかたの日本」という対比はしばらくおき、試みに上掲のパラダイム変換を踏まえ、前者の外縁「マージナル・エリア」群のうちでももっとも豊穣な展開をとげそれゆえもっとも示唆に富む(と思われる)19世紀ロシアを、類例としての対照項に選び、そこにおける思想の展開と到達点をとして、「日本の思想状況を照らし返してみることにしよう。

 19世紀ロシアでは、「西欧」と「ロシア」が時間軸上に並べられ、「先進-後進」との位置づけのもとに優劣が論じられ、後者が「遅れた地域」「停滞した文化」として貶価されるばかりではなかった。外縁「マージナル・エリア」群に共通の「西欧派zapadnik」と「スラヴ派slavyanaphil」との対立が、(後者が「心情」の域を脱して「思想」形成力を取得したこともあって)論争として繰り広げられまさにそれゆえ対極の狭間にある自由が活かされ相互補完的なふたつの発想が生まれた。ひとつは、「西欧」と「ロシア」を、ひとまず対等な「文化類型」とみなし、他の諸類型も射程に入れ、類型間の比較をとおして、類型に共通の発生/発展/没落のパターンを突き止めようとしたり、あるいは類型に固有の特質を探り出そうとする発想である。この発想は、1860年代に、いちはやくN・ダニレフスキーの比較文明論に結実し、第一次世界大戦後になってから、ドイツのO・シュペングラーやアルフレート・ヴェーバー(ら「ドイツ文化社会学」)、イギリスのトインビーに引き継がれた(「西欧文化圏」の「新興国」アメリカでは、ハーバード大学でP・ソーロキンが孤軍奮闘していたが、パーソンズの「行為の一般理論」「社会体系論」に凌駕された。まことに象徴的である)。

他方、当時のロシアでは、およそ地表上に存立したもろもろの文化のありように関心が広がるのと並行して、(歴史のなかでは類型ごとの多様な個性に分化して現われてくるのは当然としても)どの類型にも共通の普遍的な根拠と、その根拠が「発展と没落のパターン」とどう関連しているのか、いわば諸文明の興亡を規定してきた、人間文化人間存在の究極の根拠根基Radixを問うという関心の深まりも生じた。これは、トルストイとドストエフスキーの文学作品にこよなく形象化されるとともに、ソロヴィヨフの哲学に最深最奥の表現を見いだし、前世紀には亡命者N・ベルジャエフの思想に引き継がれている。しかし、こうした思想発展も、1917年10月革命とその後のレーニン/スターリン独裁体制において、政治への従属を余儀なくされ、萌芽のうちに圧殺され、歴史の一齣の(ただし、それ自体として、殊にわれわれにとって大いに「知るに値する」)エピソードに終わった。

このエピソードを「鏡」に(類例比較の一項として)、「幕末このかたの日本」を照射し返す研究課題は、それ自体、ヴェーバー巨視的比較文化社会学の応用問題に属し、その内容的展開は今後の世代に期待するよりほかはない。ただ視角提供者として、仮説というよりはむしろ予先観念を一言述べて「議論の誘い水」にすることを許されるとすれば、単刀直入にいって、「日本」では、「ロシア」における「西欧派」と「スラヴ派」の対立に比肩すべき、「欧米派」と「国粋派」との対立が、論争を嫌う島国の文化風土に全般的に影響されて双方(とりわけ「国粋派」)思想形成力が脆弱なため、「思想のレヴェルにおける公然たる対決の形をとらず、むしろ「思想心情の暗闘として燻りつづけ、つねに、機をみては政治勢力と結託してヘゲモニーを握ろうとする(フェアならざる)傾向が幅を利かしているのではなかろうか。ということは、なかなか「思想」上の「対極間関係」が確立されず、「マージナル・マン」として「対極の狭間にある自由」を活かそうにも、出発点/初期条件が形成されないということであろう。したがって、19世紀ロシアで、「西欧派」と「スラヴ派」という両対極間に生じた関心の広がりが、ダニレフスキー型の(あるいは、それとの間に「哲学的同時代性philosophical contemporaneousness」が認められるような)比較文明論を独自に生み出すとか、それを引き継いで独自に展開するといった動きにまではいたらなかった。ただ、関心の深まりのほうは、なぜか(むしろ「西欧「日本」の両「対極の狭間」で自由な思索が刺激されたためか)顕著に進展し、西田哲学を引き継いだ滝沢克己が、K・バルトのキリスト教神学を内在的に越え、キリスト教にも仏教にも通底する人間存在の究極の原点として、「神と人間の不可分・不可同・不可逆の原関係」を突き止めるにいたった。その普遍神学は、(「不可逆」の把握に弱く、神秘主義に傾いている)ソロヴィヨフに比しても、徹底している。西洋近代文明/文化の外縁「マージナル・エリア」の一隅で、そこに固有の「文化葛藤」の「苦悩に学び」(トインビー)、19世紀ロシアにおける思想展開に対応する並走の頂点到達点として(この関係は、滝沢自身には意識されていなかったと思うが)、西洋近代文明の「辺境」から「人類文明」の世代を担うべき「高等宗教」(トインビー)の思想的基礎が据えられた、といえるのではあるまいか。

 科学者は一般に、こうした関心の深まり根源志向には疎く、人間存在の外的諸条件にかかわる現象と現象の推移に関心を奪われがちである。他方、哲学者/神学者は、「肝要なひとこと」に集中/没頭して、現象を顧みない。しかし、両者は本来、相互媒介の関係を保つべきではないのか。そうでなければ、たとえば社会科学者は、なにを究極の拠り所として、「西洋近代」への「過同調」(ないしはその「偶像化」)と、「同位対立」の「自文化」または(なんらかの)「非西洋文化」への「過同調」(ないしはその「偶像化」)を、ともに克服し、あの(「同位対立」を強いる)「磁場から脱却して、「価値自由」に思考していくべきか、皆目分からず、あたかも「糸の端を止めずに闇雲に縫い針を動かす」ような仕儀となって、われ知らず徒労に耽りつづけるほかはあるまい。

19世紀ロシア思想においては、関心の拡大と深化とが、相即的に進展し、ただその双極として、ダニレフスキー型の比較文明論とソロヴィヨフの思想とが成立したように思われる。ヴェーバーにおいては、書き残された作品から見るかぎり、明らかに関心の拡大のほうが前景に現われ、ダニレフスキー型の比較文化類型学、しかも(全類型に共通の普遍的パターンや根拠よりも)各類型ごとの特質を類例比較によって探り出す方向に研究が進められた。さればこそ、その成果は、われわれが(その「潜在的可能性Potenz」も含めて)継受し、そうすることによって同時に、外縁「マージナル・エリア」におけるわれわれの並走の「(ダニレフスキー型比較文明論の独自の展開がないという)欠落」を埋め、「東西文明の狭間」という独特の「位置価」を活かして、いっそう普遍的な巨視的比較文化社会学ないし比較文明論を構築していく学問的媒体ともなりえよう。

とはいえ、ヴェーバー自身において、そうした関心の拡大に、関心の深まりのほうは追いつかなかったのか、前者に圧倒され、圧殺されてしまったのか、というと、けっしてそうとは思えない。ただかれは、「自分は、(経験科学の自己反省として必要な認識論/方法論ではなくて)人生の意義を思弁によって説く哲学者(もしくは神学者)ではない」という自己規定/自己規制から、その種の教説を直接開陳することはなく、「そっと胸にしまっておいた」(GAzRS, I, 14, 大塚/生松訳、26-7)のであろう。しかし、「人類の運命の歩みは、その断片を垣間見る者の胸に感動の荒波を掻き立てて止まない」(同、26)とふと漏らしたかれが、「人類の運命」への関心の広がりと相即する関心の深まりは経験せず、間接にも説き明かさなかったとは、とうてい考えられない[10]

いずれにせよ、われわれとしては、滝沢における普遍神学生成の意義を、十分に踏まえて、そのうえに、ヴェーバーの(未完の)巨視的比較文化社会学を継受していっそうよく研究し、それを「学問的媒体」として自前の比較文明論を構築していくと同時に、折角の滝沢普遍神学を、経験科学への展開と相互媒介から切り離して「動脈硬化」に陥れかねない(滝沢も警告していた、ありうべき)「哲学者の驕り」からは、絶えず解放していかなければならない。滝沢の普遍神学とヴェーバーの巨視的比較文化社会学、このふたつこそ、今後、西洋近代文明/文化の外縁「マージナル・エリア」にして「東西文化の狭間」という「位置価」に恵まれた日本の国民文化を、独善に陥らずに健やかに形成していく学問的媒体となるであろうし、ぜひともそうしていきたいものと思う。

 さて、一語「非合理的」の(羽入書第三章第三節末尾に見られる)用例から、ヴェーバーの「合理化」概念の多義性、その方法上/方法論上の意義、この「合理化」概念にかんする(あるいは広くヴェーバーの学問的業績一般にかんする)「戦後近代主義」の誤解/曲解、これにたいする積極的批判、そして今後のヴェーバー研究/巨視的比較文化社会学研究の課題とこれに寄せられる期待へと、「補説Exkurs」を重ねて、ずいぶん遠くまで歩いてきてしまった。問題は、ヴェーバーが、「合理的なるもの」の多義性を前提に、「貨幣増殖を『最高善』として禁欲的に追求する(独自かつ重要な)『経済倫理』」を、近代資本主義における合理的営利追求の観点からはもとより、特定の禁欲的宗教性における究極的価値観点からも『合理的』という含意のもとに、さればこそ「快楽主義や幸福主義という別の価値観点からは合理的』」と限定的に特徴づけていたところを、羽入が、そこから「非合理的」という言葉だけを抜き取って、その前提には無頓着に、フランクリンの経済倫理にかんするヴェーバーの理念型的特徴づけに投げつけ、「見当外れ」「理に合わない」「ナンセンス」といった否定的価値評価を籠めて、まるごと非合理的」と決めつけたところにあった。つまり羽入は、フランクリンの「経済志操」ではなく「人柄」を、「楽天的で『幸福』とか『利益』というものに対して好意的」(176)という一面において、つまり「幸福主義」ないし「快楽主義」という特定の価値観点からは「合理的」な「人柄」として特徴づけようとする(それはそれで結構である)が、当の特徴づけを、羽入の価値観点からする一面的な特徴づけとして相対化して捉え返すことができず、「およそ楽天的で『幸福』とか『利益』というものに対して好意的」と、なにかフランクリンその人につくりつけになっている」特徴であるかのように実体化絶対化している。そのために、フランクリンが、確かに「楽天的で『幸福』とか『利益』というものに対して好意的」であったにもかかわらず、「経済志操」を語り出すや、「時は金なり」「信用は金なり」と口を酸っぱくして説き、幸福主義や快楽主義の観点からは非合理的(と同時に、まさにそれだけ近代資本主義的貨幣増殖/資本蓄積にとっては「合理的」な)「禁欲」を要請する一面をもそなえていた事実と、この側面にかんするヴェーバーの正確な(「合理的」「非合理的」という語を、それぞれの観点被制約性に即して限定して使っている)理念型的定式化とを、捉えようにも捉えきれないのである。

 すなわち、羽入は(羽入書第一/二章で見たとおり「犯行現場」と思い込むや、あれほど微小な注記にこだわって止まないのに)、この箇所の(ヴェーバー研究史上看過すべからざる)重要な注記は、見落としたのか、読んでいても意味が分からなかったのか、ヴェーバーの警告にもかかわらず、ブレンターノ流の「皮相な見方」に後退しており、そこから一歩も出ていない。当然、K・レーヴィットから矢野善郎にいたる全問題展開もフォローせず、「戦後近代主義」の誤解/曲解にたいする苦闘史にも「われ関せず縁」であろう。それでいて「ヴェーバー通」として「専門家」の門を叩き、「ヴェーバーの誤謬」を暴いて回る(もしほんとうに、学問的にそうして問題提起してくれるのなら、たいへん有り難い話であるが)とうそぶくのであるから、恐れ入る。

 羽入が「戦後近代主義」のパースペクティーフを乗り越えていないばかりか、その「縮小再生産」の体もなしていないことは、すでに明らかであろう。羽入は、「倫理」論文についても、その主題にさえ無頓着に、「問題提起」章冒頭の二/三の箇所に視野を狭め、ましてや「世界宗教の経済倫理」シリーズとなると「『倫理』論文からの逃走」と決めてかかって一顧だにしない。こういう極端な視野狭窄は、それ自体としては、たんなる不勉強の糊塗しがたい露顕にすぎないであろうが、それだけに「戦後近代主義」におけるパースペクティーフの狭隘化を無自覚に引き継いでおり、当の狭隘化が先細りしていきついた極ともいえよう。

 しかし他面、羽入は、ポピュリストとしてもっぱら政治的な耳目聳動と「寵児」願望の充足をめざし、学問上は「ヴェーバー打倒/否定」以外、なんの目標ももっていない。こうした観念形態の持ち主が、学問の正道に立ち帰れずに、(西洋近代文明の外縁「マージナル・エリア」に固有の)あの磁場に引き寄せられるとき、あの「同位対立」から一足先に「自己中心主義」「自文化中心主義」に行き着き、「戦後近代主義」を「大塚久雄信仰というかたくなな日本の学界(空気)」(『Voice』、2004年1月号、196ぺージ)と捉えて、これにたいする反感をつのらせ、あらわにもしている政治的イデオローグたちから、「寵児」願望を刺激/操作され、そうした方向の組織化に編入されて、容易に「同位対立」の「自文化中心主義」ないし「反西洋主義」に走り、そのイデオローグとして立ち現れることも、「ありそうなこと」「客観的に可能なこと」として予測の範囲に入れておかなければならない。

つづく。前回の「理念型」論につづき、今回は、「非合理的」という語の一用例から、「合理化」の多義性問題をめぐり「戦後日本のヴェーバー研究――回顧と展望」風のExkursに入り込んで、ずいぶん遠くまできてしまいました。批判は批判でも、羽入書の叙述にたいするnegativな詰め寄りばかりがつづくと、いいかげんうんざりもしてくるので、ときにはpositivなExkurs でヴェーバー研究の広い裾野と周辺を展望してみるのも、いいのではないでしょうか。次稿で「批判結語(その3)」は締め括る予定です。)



[1] この点が、フランクリン文献の取り扱いをめぐる羽入書との対決から明らかにされた「理念型思考のダイナミズム」、ヴェーバーによってじっさいに駆使されている理念型的方法のひとつの再解釈、と見なされよう。

[2] 柴田/脇/安藤訳『ウェーバーとマルクス』、1949、弘文堂、39ぺージ。

[3] 矢野善郎『マックス・ヴェーバーの方法論的合理主義』2003、創文社、3-4ぺージ。

[4] ちなみに、「倫理」論文の初稿(1904-5)と改訂稿(1920)との関係については、さまざまな観点からさまざまな捉え返しがなされえよう。安藤英治の手堅い研究は、そうした問題提起と基礎資料の提供にかぎられていた。ところが、その後むしろ、初版で「原型」が確立し、改訂時には「枝葉末節」が付加されただけ、といわんばかりの「初版還元主義」が、(「初版の原文も参照している」という「衒学誇示」と秘かに結びついて)出回ってはいないか。初版では「純歴史的叙述」と規定されていた「倫理」論文が、改訂にいたる間の方法論的反省の深化と定式化を踏まえ、「類型論的方法の一適用例として捉え返され、「世界宗教の経済倫理の方法水準に引き上げられて相応の補注を施され、『宗教社会学論集』に収録される(確かに一面の)意義が、そうした流行の陰で看過されてはいないか。

[5] 本項の以下の叙述は、羽入書批判のかぎりでは、たった一語を捉えての論脈逸脱とも見られよう。しかし、批判の徹底をとおしてヴェーバー歴史・社会科学の関連側面に迫り、再解釈していく試みとしては、こちらのほうがむしろ重要で、ここで気軽に跳び越えるわけにはいかない。

[6] たとえば、加地伸行『儒教とは何か』、1990、中央公論社、41-2ぺージ、参照。

[7] 拙稿「マックス・ヴェーバーと『辺境革命』の問題」(『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌』、1969、未來社、291-323)他、参照。

[8] 拙著『ヴェーバー学のすすめ』、2003、未來社、第一章、参照。

[9] ちなみに、たとえば前注2と3に掲げたレーヴィットの古典的論文と矢野善郎の最近作とを、対照して読み比べられたい。

[10] この「間接的言及」問題には、1993年「ミュンヘン会議」の報告で、あえて論及し、ドイツ人学者の反響を期待したが、「エミール・デュルケームとマックス・ヴェーバー」という与えられた表題の影に隠れてしまったのか、関心を引かなかったようで残念である。Cf. Mommsen, Wolfgang/Schwentker, Wolfgang (Hg.), Max Weber und das moderne Japan, 1999, Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, S. 344-8. 邦訳は『ヴェーバーとともに40年――社会科学の古典を学ぶ』、1996、弘文堂、144-7。


九鬼一人「現象学的理想型解釈の理路――羽入による問題提起を受けて」

2005年2月22日(本コーナーへの寄稿)

「現象学的理想型解釈の理路――羽入による問題提起を受けて」

九鬼 一人


2005年2月22日

 私は折原浩によるヴェーバー擁護論に共鳴しえないことをあらかじめ断っておく ([1])。折原が批判する羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』ミネルヴァ書房、2002年(以下、略号、羽入)の問題提起を受けた本稿の要旨は以下の通りである。

 折原/橋本努によるフランクリンをめぐる理想型解釈は全面的に誤りではないが、本質直観される歴史的に重畳した相互作用を「間接的影響関係」と僭称することによって不当な扱いを選んでいるように考える。しかも資本主義精神の理想型をバージョン・アップする橋本による試みは事態をよりいっそう悪くしている。それらは見るところ、目的合理性概念の設定の仕方が問題を含んでいる所に因由している。つまり折原の目的合理性解釈が、主観的意識に定位するという問題性を孕んでいることに拠って来るものではないか。

 本稿はもとより文献学的研究を主旨としていないから、コリントⅠ七・ニ○の釈義については判断を保留する([2])。もっぱら理想型論の方法論的意義の見地から、折原のスタンダードな目的合理性解釈とは異なる立場を打ち出すものである。すなわち目的合理性のメルクマールを意識的自覚性ではなく、①「帰結主義的な意図性」において、②「本質直観される」、「現象学的意味連関」に求めることを提案する([3])。そうすることにより理想型を、現象学的イデアリテートに即して歴史的資料の内に看取する立場に立ちたい。約せば、「ヴェーバーが使った文献」に関する羽入の精査を通じ、ヴェーバーの主張が文献にザッハリッヒに即したものではないことが、問題提起されたと考える。

一 橋本による評定の不当性

 羽入書第二章の論述において、羽入はヴェーバーが以下の難所を切り抜けるべく苦労したと指摘する。すなわち、ヴェーバーの論証は、フランクリンが『自伝』における 英訳聖書としては正統的でない “calling”という語によって聖書の句を引用したこと、そして聖書解釈には見当たらない表現Geshäftを足掛かりとしてヴェーバーが宗教改革の父まで遡ろうとしたことから無理が生じたのである、と (「ヴェーバーの論証のもつ問題点」†) 。

 羽入によるともちろんヴェーバーはその点を自覚しており、補足的な論証を用意していたが、以下のように成功していない。

(イ) Wヴェーバーは一方で純粋に宗教的と考えるBerufに「klēsis」(身分)を対応せしめている。「パウロの用いているklēsisで、神によって永遠の救いに召される意である。」 (コリントⅠ一・二六、エペソ一・一八、四・一及び四・四、テサロニケⅡ一・一一、へブル三・一、ペテロⅡ一・一○) (Max,Weber, Die protestantische Ethik und der“Geist”des Kapitalismus, in: Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Bd.20, Heft1, S.1-54, Bd. 21,Heft1, S.1-110.@, S.38)  他方でヴェーバーは「ベン・シラの知恵」において元来は「世俗的職業」という意味しか持たないギリシア語「ergon」 (働き・仕事) 「ponos」 (労苦・仕事) に、この宗教的な概念のはずだったBerufをすっぽりかぶせてしまった。

 Anti-Wここに、「世俗的職業」の意味をしかもっていなかった語に純粋に宗教的な概念に用いられてきたBerufという訳語をかぶせる意訳によって、プロテスタンティズム特有のBeruf概念が成立したという問題点を、羽入は抉り出した。

(ロ)Wこの「ルターにおけるBerufという語の一見全く異なる二つの用法に橋渡しをしてくれるのは、『コリント人への手紙』の中にある箇所とその翻訳である」(Weber、loc.cit., S.39)とする。すなわち「おのおのの召された身分にとどまっていなさい」(新共同訳)「コリントⅠ」七・二〇である。

 Anti-Wところが羽入によるとBeruf概念の翻訳に関して最終的な論拠となる「コリントⅠ」七・二〇でルターは1522年にBerufと訳さずruffと訳している。後に信仰が深まるにつれてBerufという表現を使うようになったというのがヴェーバーの主張であるが、この二つのBeruf 概念の架橋部でルターがBerufとRuf (ruff)の間で揺れていて、Berufに落ち着いたのだということはない。ルターの聖書翻訳における用語法の研究において「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で用いたのはルターの死後改訂された聖書翻訳であったことを示唆している。つまりヴェーバーは、源氏物語を論じるに当たって定本に当たらず、谷崎訳源氏・与謝野源氏で事足りようとすることなのである。

 本来的には宗教的であった今日のBeruf概念が今日の世俗的な意味において初めて現れたのは、「ルターの聖書翻訳においてであった」ということは何ら文献的に検証されていない点からもヴェーバーは不十分であると羽入は言う。

 橋本努によれば、これに対する折原による反論は次の五点にまとめられている(以下引用、橋本努HPより

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Japanese%20Home%20 Index.

htm)。第一に「倫理」の論証構造全体は揺らいでいない。第二にヴェーバーは知的に不誠実な人間ではない。第三にルターはイギリスのプロテスタント諸派に間接的な影響を与えた。第四にヴェーバー論証における「コリントⅠ」七・ニ○の軽重を羽入は評価することに成功していない。第五にヴェーバーはフランクリンの資料を使った「資本主義の精神」の理想型構成に成功している。

 第一の折原の反論によると、プロテスタンティズムの倫理が、「意図せざる結果として、中産階級の勤勉精神や、徹底した利潤追求と簡素な生活に基づく資本蓄積をもたらした」という中心テーゼを羽入の論証が揺るがしていない。高々羽入の批判したヴェーバーの論証箇所は補助的なものに過ぎない、というのである。

 これに対して羽入が指摘したとされる「ヴェーバーの論証のもつ問題点」†は十分明晰であると考える。そもそも「意図せざる結果として資本蓄積をもたらした」という、橋本による単純な因果帰属の図式化には、カントからヘーゲルに至る因果概念から相互作用概念への代替という、ヴェーバー前史の了解めぐって意見を異にする。資本蓄積からの精神への影響という相互作用関係にまで配視しなければ、按配の感覚に欠けるであろう。

 第二にヴェーバーは知的に不誠実な人間なのではないか、という羽入の問いかけに対して折原は、一次的資料の裏付けがなくて次善の策として認められるとしている。橋本もこれを承けて、「これは健全な判断であるだろう」としている。

 だが一次的資料の裏付けがある方がベターだろう。たとえ(一次資料の取り扱いに関連して)「観念(思想内容)が訳語の選択の仕方に表れうることは確かだが、訳語の不在が観念の不在を証明することにはならない」([4])にしても、訳語の不在は経験的に観念の存在の蓋然性を低める。もしヴェーバーの論証の本線が文献的論証にあるとしたならば、一次資料は当然扱われるべきである。そもそも知的誠実性の問題は「倫理」全体の論証構造をどこに見定めるか、という点と関係している。ヴェーバーの学問的所業に対する総体的評価に関わるこの知的誠実性に関して、個別の論点として扱うこと自体、問題があると思う。すなわちヴェーバー論証の骨格の最終的値踏みと独立の論点にするのは無意味ではないか。

 第三にルターはイギリスのプロテスタンティズム諸派に直接の影響を与えたのかに対して羽入が否定的評価を与えたのに対し、折原は、ヴェーバーが英訳に対して直接の影響を与えたとはヴェーバーは述べていない、と反論する。ルターは言わば間接的影響([5])を与えたのに過ぎない、と折原はいうのである。

 この精神文化の「間接的影響」だからこそ、直接的に資料によって論証できないという反論は、それ自体曖昧さが付きまとっており、第二の論点、ヴェーバーは然るべき論証を怠ったのではないか、という疑念に誘う。この文脈でヴェーバーによる二つの職業概念の架橋部=「コリントⅠ」七・ニ○の解釈の妥当性に相当の力点を置かざるを得ない。

 つまり第四の論点、「コリントⅠ」七・ニ○をどう評価するかに繋がる。橋本が言うように、この問題は「ヴェーバー研究を超えて、ルター研究にまでその判断を仰がなければならない」。

 私のよく論じ得るところではないとはいえ外野からの発言が許されるなら、ルター本人の思想的展開が、ルター内在的に訳語の変遷と具体的にどうリンクしているのか、折原が代わりに具体的な実証を与えたとしても、ヴェーバー自身の文献考証の欠如が類推されるのみであり、擁護として説得力はない。つまりヴェーバーが原典を踏まえて〔ルター研究として提出すべき〕そうした実証研究を行なっていないのだから、ヴェーバー論文の思想史的意義は問題提起に留まっている、とするのが妥当であろう。

 第五にフランクリンを使った理想型構成に関して羽入が行なった問題提起にも注視しなければならない。第五の反論として折原は、「資本主義の精神」を「近代市民的「職業観」」と呼び換え、理想型の構成と適用の目的がフランクリンの人格総体を捉えるものでないことを強調する。

 橋本の第一の査閲で挙げられたこの第五の論点を詳しく見てみよう。ここには理想型論と関係する陥穽が潜んでいると思われるので、より詳しく橋本の第二のサーヴェイが言う所と合わせて検討したい。折原を擁護する橋本は四つの点を挙げて羽入を批判する。(うち外野から応答可能な三点のみを掲げる。) 

 第一に理想型は「ある一面を鋭く構成すること」に意義がある以上「デフォルメされた抽象絵画のようなもの」である、と橋本は指摘する。これはヴェーバーが祖型とした美的理想型にあてはまる命題である ([6])。ここから理想型とは果たして何であったのかという問題を抽出できる。

 第二に「資本主義の精神」という理想型がフランクリンの言説によってヴェーバー論証を検証するために必要としても、「フランクリンの神の啓示」以外の意義を否定する論拠を挙げていない、と橋本は指摘する。つまり幸福主義や快楽主義などの観点を全く帯びていない非合理的「資本主義の精神」の理想型が構成しうることを否定する論拠を羽入は挙げていない、と橋本は言う(大塚訳47-48ページ)。

 もちろん神の啓示に殊更の意義を置かない宗教的契機を考えることはできる。しかし紹介者橋本の意見は別にして、はたして如何にして「宗教の間接的な影響」が証明されるうるか、折原に教えを請いたい。

 第三にこうした契機を忍ばせるために、橋本はヴェーバーの議論に両義的な改釈を与えることで解決の途を探っている。この点のヴェーバー自身の議論は、「フランクリンの神の啓示」を「功利的な傾向」であると同時に「反功利的な傾向」として言及している矛盾を抱え込んでおり、その代替案として橋本が提出しているにすぎない。

 橋本の代替案とは三つの功利主義を区別しようとするものである。すなわち(1)善悪の行為の外観を重視して、有用性や快楽のために役立つ限りで道徳的に振舞う功利主義。⑵善悪の実践を規範的に内面化した功利主義。⑶幸福主義や快楽主義の観点をまったく持たない功利主義。この三つである。

 この点に関しては目的合理性をどう捌くのか、という根本的論件が待ち構えている。そこで項を改め、目的合理性を①「帰結主義的な意図性」において捉えるための、補強を与えておこう。

ニ 折原浩の目的合理性が孕む恣意性/「社会学の基礎概念」期の目的合理性

 さてヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」から「社会学の基礎概念」への方法論的シフトにおける西南ドイツ学派の展開に最小限の配視をしながら、目的合理性概念に関する論件を提示しておこう。この二つの文献の間には以下のような相違が見られる。目的合理性を規定するにあたり、「主観的」という限定は後書において取り除かれてしまった。それと歩を合わせる如くに、客観的可能性への言及から、可能性についての言及へと変化する。それは整合合理性の目的合理性への回収と歩を同じくしていた。

 宇都宮京子によれば、かかる事態は、以下のように解説されている。

 主観的に意味されたものと実際に存在するものとの関係を問う厳密な態度がこの〔客観

 的可能性という〕範疇への言及を必要させていたということである。もしも、それらが

 峻別される必要がなくなれば、この範疇への言及も必要なくなる([7])。

 コメントを挟めばヴァーグナー/ツィップリアン([8])によって既に指摘された「歴史における可能性の問題」をなぞる形で、宇都宮は歴史における「理解社会学のカテゴリー」の客観的可能性のカテゴリーに跡付け、ラートブルッフ、ラスクの現象学的諸論考にヴェーバーの客観的可能性の原型を見出そうとする。そのように考えると、「研究者が適合性を判断しつつ理解されていくという視点と、客観的に妥当なものは厳密にいえば違うという視点」がもはや追求されなくなった「社会学の根本概念」では、「現象学的な明証性」が厳密に区別されなくなったために、客観的可能性概念の棄却が正当化されると解している([9])。

 私はこの件に関わる直接的な資料を充分持ち合わせていない。しかしながら、後期西南ドイツ学派が現象学的流れに棹差し、可能性の範疇を客観的なものとして、敢えてその限定をつけるまでもなく使用するに至ったという経緯については承知している心算である。例えば1923年に公刊されたブルーノ・バウフの『真理・価値・現実』([10])は、可能なものを客観的として見なすライプニッツに依拠した西南ドイツ学派の独自の展開([11])の傍証と考えることができる。

 そのように可能性を客観性に繰り込む流れにおいて、主観的に意味されたものといえども、ハーシェル/ヒューウェルの仮説演繹法の単なる仮説であってはならい。そうならば、新カント学派的な理想型に対して、時代錯誤的遺構を構想しているにすぎないことになる。この構成説について方法論上の洗練化と共に「社会の基礎概念」では、可能性の範疇は客観的と言うことが(原理的次元では争う必要がない大前提であり)言わずもがな、のことと対自化されたのであろう。つまり先に挙げたヴェーバー方法論のシフトは、客観的可能性を現象学に触発された思想史の文脈で考えなくてはならない。

 もしこの文脈の中で考えるならば、主体が構成する個別的主観(財は人格となったり物件となったりするがこの場合は人格財)に帰属する意味に、便宜上「主観的」という形容で妥協することは許される([12])。つまり主体が措定する、個別的主観の〈意味〉と〈財〉の言及にのみ便宜上論点を絞ることが出来る。こうした図式に「仮託」する西南ドイツ学派の独自の展開([13])にヴェーバーが棹差していることは次の二点に現れていると思う。

 第一に整合合理性が棄却されたのは、客観的連関がそれによって特徴付けるべきでない、という結論に至ったからである、と私は考える。そのことは「理解社会学のカテゴリー」おいて理解一般にとって整合的合理性という概念が方法論的端緒となっていたに過ぎないことに現れている。

 第二に整合合理性が「社会学の基礎概念」において主として回収されるに至った、目的合理性による理想型構成([14])における目的の問題がある。そもそも目的合理性の定義において行為の結果に対する予想([15])は、合理的な思考において計算される固有の目的のための条件とならねばならない、とされていた。したがって考量において、主観が前提している価値と選択肢は(客観的に)意味適合的であるべきである。「主観的に目的合理的に行なわれる行為」の存在は「客観的に目的合理的に行なわれる行為」の存在を排除するものではない。換言すれば純粋に個人特有な趣味的価値観に委ねられているわけではない。

 たしかにかつて池田昭と折原の間で行なわれた論争におけるように、目的合理性と整合合理性が別個の問題として設定されていることは諾う。しかし前者が主観的であるのに対し後者が客観的という問題設定の違いを言っているのだろうか。整合性Richtigkeitは価値と主観的意味の適合という形式的関係を論じているのではないか (GAzWL,S.432,S.433) 。それに対して目的合理性は目的と行為の客観的な帰結主義的関係(=実質的関係)を論じているのではないか。

 約すると、目的合理性のメルクマールを、先の折原の自覚性に代えて提案したように、まず①「帰結主義的な意図性」において捉える理路が、思想史的流れから見えてくる。

目的合理的行為を、主観に対する意識性([16])に限定するのとは、異なる目的合理性解釈がありうるのではないか。ちなみに折原は次のように述べている。

 本稿の二つの基礎概念〈没意味化〉ならびに〈覚醒予言〉のうち、前者については、別

 稿「マックス・ウェーバーにおける〈没意味化〉の概念」において論じた。そこでわた

 くしは、ウェーバーの論文「理解社会学の若干のカテゴリーについて」(一九一三年)を

 とりあげ、「客観的整合合理性」(行為の経過が、観察者から見て、「客観的に妥当なもの」

 としての「整合型」に合致していること)と「主観的目的合理性」(行為主体が、自分の

 行為の目的と意味を明晰に意識し、その目的にたいして適合的と主観的に明晰に意識さ

 れた―したがって客観的にみて適合的であるかいなかを問わない―手段に志向して行為

 すること)との矛盾に注目し、客観的整合合理化がかならずしも主観的目的合理化をも

 たらさず、目的合理的行為の客観的諸条件は増大しながら、諸個人がかえって自分の行

 為の〈意味〉を明晰に意識しえなくなり、そこから明晰に目的を設定し、明晰に適合的

 と意識された手段を選択して目的合理的に行為することもできなくなる、という〈没意

 味化〉の問題を探りあてた([17])。

 折原は一方で目的合理性を行為当事者の意識的明晰性によって特徴付け「没意味化」の問題を定式化する。他方、整合合理性を観察者にとって「客観的に妥当なもの」として特徴付けようとする。この特徴付けによって折原は主観的目的合理性と客観的整合合理性の緊張を想定している。「このばあい、この言葉の背後には、諸個人が整合型に同調して行動しているにもかかわらず、つまり、客観的には「整合合理的」に行動しているにもかかわらず、いな、そのためにかえって、行為の主観的「目的合理性」が低下する(=〈没意味化〉!)という矛盾関係が想定され、考えられているのではなかろうか」([18])と示唆する。

 しかしながら〈没意味化〉に、物件の価値に準拠して人格の価値が捉えられること以上のどれだけの生産的内容を盛り込むことが出来るか([19])。社会科学の概念構成として、意識に土俵を据えることの限界は、例えば次の思考実験から判る。誠実な振舞いが嘘をつかないで善行を施すことを目的とする。他方、誠実な振舞いが社会的公正の実現されることを目的とする。この義務ならざる二つの目的は意識の埒において反転しうることが思考実験できる(目的⇔目的の反転)。

 こうした意識を目的合理性のメルクマールとすることに対する恣意性を排除するためには、目的となる「意識されない価値」を前提として要請しなくてはならない。すなわち意識されない次元で価値、フッサールのタームでは意味を、客観的に想定することの方が現象学的に馴染んでいる。たとえどんなに自覚的表象を伴った克明な過程があっても、それと別個の合理的な価値をもちうる。例えばピアノの演奏をしているとき、当事行為者=ピアニストが音符をどのようなフォルテシモの強さを持ちアレグロの速さで奏でるかに細々とした注意が行き渡っているとしても、意味とは、音色のレアールな表象ではなく、芸術的価値の下で解明される体のものである。このことは客観的価値、もしくは意味が意図されているという事態を指している。

 善い行いをしているときその人は善い行為を意図しているのである。ちょうど嘘をついて利益を詐取しようとする場合と同じく自己利益的価値の実現を意図している(目的合理性)。もしくは社会的公正という義務によって制約されることが行為者に相関的に現れるケースであっても、価値に制約されることを意図している。ちょうどピアニストが音を奏でているとき名演奏者たるべしと意図しているように(価値合理性)([20])。

 このように意識的自覚とは別個の意図性という次元を設定し、目的合理性を帰結主義的に、価値合理性を非帰結主義的に了解するとどうなるだろうか。

三プロテスタンティズムの倫理の理想型/目的連関の本質直観

 ようやく折原の第五の反論に関連する橋本の代替案を議論の俎上に置くことが出来る。そこでは先に指摘したように三つの功利主義が区別されていた。社会学的問題に先行すべき功利主義の定義に共通の認識を得ておきたいのであえて問題にする。

 橋本は功利主義(1)を「規範的に内面化していない功利主義」と呼び、普通の功利主義を割り振るがこれは現代の標準的厚生経済学の規定に反する。ヴェーバーは「正直」、「時間の正確、勤勉、質素等」の美徳を「功利的な傾向」に数え、そうした善行の実践に「改心」した物語を、特徴付けているが、ここでの功利性が―規範的に内面化していないと規定される限り―自己目的的に、価値合理性において把握されていることを、橋本は見逃している([21])。現代の功利主義の理解によると、それは「厚生主義」・「総和主義」・「帰結主義」をメルクマールとするはずであり、目的合理性を基軸とするヴェーバーの問題関心から言っても、非帰結主義的なこれらの美徳は通常の意味での功利主義に数えるべきではない。そもそも規範的に内面化されていない功利主義は、「エトス」以前の問題であり、額面通り受け取るなら、⑵の「規範的に内面化した功利主義」つまり〈ミル的に有用性の基準に従ったことを望ましいとする立場〉が勝義の功利主義と呼ばれるべきである。それは帰結主義/目的合理的に定位している。

 ところがこのミル的な⑵「功利主義」が第一に(1)「規範的に内面化していない功利主義」と⑶「幸福主義や快楽主義の観点をまったく持たない功利主義」の中間型と見なされる隘路に陥っている。まず橋本が自ら⑶を「「反功利主義」と言ってもよいだろう」と述べていることは、この間の混同を露呈したものである。なぜなら常識的に言って「幸福主義や快楽主義などの外衣」を帯びない以上、効用を持たず「厚生主義」でないから、功利主義と呼ぶことを拒む方が価値理論的に見てナチュラルだからである。したがって(1)非帰結主義的美徳と⑶非厚生主義的反功利主義を対比しても、「功利主義」⑵を中間的に位置付けるなど無理筋と考える。

 次に第二に帰結主義的に特徴付けられた⑵「功利主義」は目的合理性を貫こうとするから、俗物的功利精神の卓越の可能性 (=羽入によって疑問符が付せられた「フランクリンの神の啓示」の問題)を含意する。しかるにあろうことか橋本は⑵の「規範的に内面化した功利主義」を「神の啓示」の論点と結合させる。このことは帰結主義的な目的合理性と齟齬をきたすと思われる。

 まとめるとヴェーバーはプロテスタンティズム的なBeruf概念を「資本主義の精神」の中心にあるものと位置付けながらも、他方で脱魔術化されたエトスとして「すでに宗教的基盤が死滅したもの」として構成する必要があった。この二つの側面は、資本主義精神の方がプロテスタンティズムとの概念的履歴を抹消されていれば資本主義への影響は説けず、逆に宗教的なものの「資本主義の精神」にとって「本質的」であれば資本主義のエトスの離陸を説けないという緊張関係を内包しているのである。言わば前者が宗教的超越に通じる契機であり、後者が現世の営利が目的を構成する契機である。故に現世の営利の手段とすること=目的合理性と同様に、他方手段の目的となる価値属性を否定することもできない。世俗内的労働を現世の営利を目的とするものとして帰結主義的に捉えるとき目的合理的であるが、価値合理的観点から見ればプロテスタンティズム=宗教的超越という客観的精神形象の義務論的属性の発露と見なすことも許される。この二つの文脈を分けない限り、「自然の享楽をしりぞけてひたすら貨幣を獲得しようとする」帰結主義と「快楽や幸福を目的とする功利主義からは「非合理的」と見られる」義務論的制約を両立させることはできない。むしろヴェーバーを改訂しようとするのなら目的合理性・価値合理性を支える非意識的連関と〈価値属性説〉([22])に相応の配慮をし、両合理性の概念的分析の更新を図るべきである([23])。

  以上のように帰結主義的意図性において客観的価値、もしくは意味を捉えることは、②「本質直観」される「現象学的意味連関」を想定することと繋がっている。

まず(α)現象学的意味の概念を押さえておこう。周知のように「社会学の基礎概念」の中で意図を意味の相で捉え「思念された意味」を⒜事実的歴史的に個別のケースかまたは平均的近似的に一般のケースで思念されている意味か⒝概念的な理想型において行為者により思念されている意味と規定し、行為に関する経験諸科学が問う意味は、教義的諸科学(法学・論理学・倫理学・美学)が追求する「正当な」「妥当な」意味とは異なると捉えている([24])。このことは「思念された意味」が価値と無関係であることを含意しているのではない。この「思念された意味」は、規範的教義科学とは違った仕方で、客観的な価値の下に留まる。したがって目的合理性が主体に焦点を結ぶからといって、主観的な個人特有の趣味的価値観のみ([25])を、想定しているとは考えにくい。フッサールへのヴェーバーの言及(「理解社会学のカテゴリー」冒頭注GAzWL,S.427,fn.1,usw.)などに端的に示されているように、現象学の範疇的直観・(フッサールのタームでは)意味 ([26])の客観的存立を管制高地に設えてヴェーバーを解する必要がある。

 このように合理性の背後に客観的なリッカート的価値/フッサール的意味を想定することは強ち無謀ではない([27])。その例として、次のような考察が引用出来る。理解社会学から因果的解明のプロセスを捉え返してみれば

 自己にとって大なり小なり透過的な直接的動機のうえに重畳するようにして、従来明確

 に自覚していなかった新しい意味が発見され「外側から」意味受胎がはかられる過程で

 あるといえよう。受胎される新しい「意味」は決して行為者の直接的動機を離れて飛翔

 するものではないが、行為者の「心理」に還元されえず、通常は意識化・自覚化されて

 いない([28])。

 ここまでで論じたように価値連関/合理的な適合性が意識されないとしたら、現象学的意味によって裏打ちされていると考える方が自然である。このような目的合理性解釈の下では、従来の理想型解釈は現象学的本質直観(β)を踏まえていない故に、不十分なものと言わざるを得ない。これらから以下の考察を得ることが出来る。

 理想型とは「純然たる理想上の限界概念であることに意義のあるものであり、われわれは、この限界概念を規準として、実在を測定し比較し、よって以って、実在の経験内容のうち、特定の意義のある構成部分を明瞭に浮き彫りにするのである。こうした概念は、現実に準拠して訓練されたわれわれの想像力が適合的と判定する、客観的可能性の範疇を用いて、われわれが連関として構成する形象にほかならない」 (GAzWL,S.194)というものであった。

 ちなみに、これに関連して向井守は「客観性論文」に依拠した「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」について、以下のように述べている。例えば「プロテスタンティズムの倫理」の理想型の要素と、「資本主義の精神」の要素とが、せいぜい因果適合性をもつに過ぎない ([29])。すなわち向井は現実の模写不可能性から、因果帰属の捨象に解き及ぶのである。「彼〔ヴェーバー〕は、具体的個性的因果関係といっても、現実の因果関係をあったがままの全体性において認識するなどとは決して考えていなかった。そのようなことは不可能であり、また無意味である」([30])。

そこで今まで論じてきた図式に「仮託」することが許されるのならば([31])、理想型の本質部分、例えば宗教的基盤という来歴は、実際に資本主義精神の本質的要素と相互作用的な連関を持たなければならない。つまり模写不可能ということは、現実からの抽象から帰結するとしても、理論において現実の本質が直観されねばならないはずである。「実在の経験内容のうち、特定の意義或る構成部分を明瞭に浮き彫り」されるといっても、概念の埋め込みを介した資料の本質看取が枢要となることに変りはない。

 振り返ると橋本の第一の査閲で挙げられたこの第五の論点とも関わってくる。以上の考察でヴェーバー/リッカートは価値の彼我の同一性によって、文化科学的認識の基礎を説けるようになったという論点を私は得た。例えばヴェーバーの「倫理」で言えば、フランクリンを典型とするプロテスタントは歴史家と同じ宗教的価値に態度を採った、という具合に理解されるはずである。つまりヴェーバーが抽象したフランクリンの人格は、「資本主義の精神」という契機を限界概念として具えていなければならない。橋本にいみじくも語っているように「正確に言えば、ウェーバーはフランクリンという人物の生き方を素材にして、単なる処世訓に還元されないような、資本主義の精神」という理想型を構成しているはずだからである。

 そもそもヴェーバーは美的理想型とは異なる形で、新カント学派から理解社会学を構想したのであった。リッカートが『文化科学と自然科学』で頷じ得なかったように科学的概念構成と美的概念構成の間には懸隔がある。そもそも理想の概念とは、カントにおいて―客観的実在性と程遠い完全性を有つ―神の概念とダブりつつも、実在性を成り立たしめる限界概念であった。その点では現象学的イデア的本質が数学的形象の認識において、範疇的に直観されなければならなかったのと通底している。言うまでもなく、数学的直線は経験世界において、レアールな対象として見出されないが、黒板の上に描いた直線の限界概念として働く。(曲がっている黒板の直線はイデアールな直線という了解の下に立つものであるし、幅がある黒板の直線も、直線の際に幅のない境界に直線を思念する、という了解に拠って来るものである。) 実際知覚の風景には直線の概念が埋め込まれている。だからレアールな対象として理想型が資料に見出されないことを、デフォルメされた抽象絵画とのアナロジーで説くのは、解説として誤解を招く。こうした新カント学派/現象学派のイデアリテートを汲んだ発想がヴェーバーと無縁であるとは考えにくい。

〔結び〕 以上のように、現象学の流れを汲んだ目的合理性解釈に与し、理想型をそれに即して考えることを促す。そこから、資料内在的な理想型を要求する羽入の指し手のように、「資本主義の理想型をフランクリンの資料の行間に読み込むべし」という規範的共通了解が生れよう。

 総じて「倫理」論文の基層には、資本主義精神よりもヴェーバー自身の非実証的問題意識が先行しているのではないか。例えば安藤英治の考察に拠ると、「倫理」論文における近代資本主義論は「本文、註ともに殆んどすべてが加筆分であり、しかもヴェーバーの行なった厖大な加筆の主体をなしているのはこの部分であ」([32])り、「原論文の主題は資本主義をめぐる「禁欲」論であ」った ([33])。つまり「倫理」論文は禁欲という「世俗的な価値」が基軸を成しているのである([34])。

 ヴェーバーが結果的に素描出来たのは古プロテスタンティズムではなく、むしろ近代後期の資本主義の経済倫理という世俗的イデオロギーにすぎないのではないか。そうした現世の肯定のイデオロギーは、ヴェーバーが神の死というニーチェ的な状況判断を共通に受け容れていたことを示唆する。そのことは、例えば『道徳の系譜』と「世界宗教の経済倫理」に対応関係を見出すことによっても裏付けられる([35])。この意味で、神なきヴェーバーにとっても資本主義精神の理想型は―逆説的な言い方をすれば―超越 ([36])の契機をなすという言い方も出来る。したがって、ヴェーバーにおける経済倫理は、言わば宗教と比肩するイデオロギーとしての位置を持つかを問うべきなのではないか。〔文中敬称略〕

文献略号

Heinrich Rickert

Gr : Die Grenzen der naturwissenshaftlichen Begriffsbildung, J.C.B.Mohr, 1Aufl., 1902.

GE2 : Gegenstand der Erkenntnis, Einführung in die Transzendentalphilosophie, J.C.B.Mohr, 2Aufl., 1904

Max Weber

GAzWL: Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, J.C.B.Mohr, 4Aufl., 1973.



[1]折原浩、『ヴェーバー学のすすめ』未来社、2003年、以下略号、折原。九鬼の目下の研究課題は経済倫理の再考であり、本稿はヴェーバー合理性論のバージョン・アップの副産物にすぎない。

[2] 当該箇所「コリントⅠ」七・ニ○を挿入部分と見なす宇都宮京子の読解Weber,1920,S.67は一定の説得性をもつことを認める。しかしながらWeber,1920,S.68の「各自は、その現在の状態Standに留まるとの、終末観によって動機づけられた勧告」が「コリントⅠ」七・ニ○を含んでいることをいくら強調しても強調しすぎることはない。もし1523年のルターの翻訳の流儀、すなわちklēsisにRufを割り当てる仕方が妥当なものであるならば、「コリントⅠ」七・ニ○をRufと訳す1533年まで(折原、133ページ)、終末観に基づく勧告による「召名観一」(折原、68ページ)が保持されたことにはならないのか。

 「ⓓルターが、1523年の釈義では、20節のklēsisを、"Stand"の意味には解しながらも、「旧いドイツ語訳に倣って」まだ"Ruf"と訳出している事実を指摘し、ⓔこのklēsisがEhestand, Stand des Knechtesなどの「身分status, Stand」には相当しても、まだ今日の»Beruf«を意味してはいなかったことを(ブレンタノとの応酬から)強調し」たと言う折原氏にこの点を問いたい。折原浩「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答3」2004年3月23日より。

[3] 以下関係する限りで、現象学に触発された西南ドイツ学派の独自の発展に触れる。

[4]折原浩「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答2」2004年3月15日より。

[5]「ルターの宗教改革事業が、聖書独訳以外の著作その他の活動を経由して、他言語圏の宗教改革者達に影響を与え、後者が自国語聖典を翻訳/改訳するさい、もとより進行途上のルター訳を参照しながらも、それぞれ熟慮の末、聖典の関連各所にBeruf相当語を採用していった、というごく自然な間接の経路」(折原、61ページ)が経験的モノグラフとして検証されているかどうかは、今も完結していない一つの係争点と見なせるだろう。

[6] 茨木竹二「「文化科学方法論」の再検討にむけて」『思想』1992年5月、No.815、152-223ページ。

[7]宇都宮京子「ヴェーバー社会学の構成―リッケルトとヴェーバー」『社会学理論の〈可能性〉を読む』情況出版2001年、69ページ。

[8] Von Gerhard Wagner/Heinz Zipprian,“Max Weber und die neukantianische Epistemology” Zeitschrift für Soziologie,Jg.14, Heft2, 1985.

[9] 宇都宮京子「M.ウェーバーにおける現象学の意義とその影響について―シュッツ、パーソンズのウェーバー解釈と「客観的可能性の範疇」をめぐって―」『社会学評論』167、1991年。宇都宮の二つの意味の区別は歴史主義論争の流れに位置付けられているが、むしろフッサールの『論研』第一研究の文脈に即して理解されるべきであると考える。特に宇都宮によるラスクの「意義」理解には、西南ドイツ学派の範疇/意味の体系に関する配視を欠いている。このことについては、別の機会に譲る。

[10]Bruno Bauch, Wahrheit, Wert und Wirklichkeit, F. Meiner, 1923.宇都宮の指摘 (宇都宮京子「マックス・ヴェーバーの行為論」『情況、ニ○世紀社会学の知を問う』1999年4月号別冊45ページ。) に反して、バウフは「妥当性」に「正当性」の意味を籠めている。

[11]整合合理性が換骨奪胎され理想型の形成に組込まれたことに関しては、折原浩・林道義・池田昭の間で論争が繰広げられた。それに沿う形で関係史を押さえておきたい。

折原・池田の間で目的合理性を主観的なものと捉え、客観的な整合合理性との対照において捉えようとする共通の志向がある。折原は主観的目的合理性と客観的整合合理性との間に論理的に相容れないものを見たのに対し、池田は主観的目的合理性が客観的整合合理性によって測り得る可能性を説く。

 その結果として両合理性を共約可能と解する池田と立場を異にし、折原は最終的に異質な両合理性のうち、「社会学の基礎概念」においては、整合合理性が目的合理性に繰り入れられるとする立場を取った。つまり目的合理性の内包自体、「社会学の基礎概念」と、整合合理性を説いていた「理解社会学のカテゴリー」とにおいて違っているとされる。

 整合合理性を考えるにあたり、示唆を与えてくれるのはリッカートの「歴史的中心」(historisches Centrium vgl.Gr,S.561 usw.)の発想である。リッカートが文化科学的認識を扱っている『自然科学的概念構成の限界』では、「歴史的中心」論が重要な位置を占めており、それによって次の認識論的連関が考えられている。―歴史家は 価値に対して態度を採ることを通じて研究対象に価値を関係づける。この研究対象、つまり人間事象の主体は価値に態度を採り、そのことによって価値を附帯した人格という財をなす。そうした研究対象たる「精神的存在」をリッカートは「歴史的中心」と呼ぶ。この「精神的存在」すなわち心が関わりながら生成していくものが、文化科学の研究対象である。ただし「リッカートによって極めて強調された〈他人の心的生への原理的な接近不可能性〉(GAzWL,S.12,fn.1)」のくだりには、留保が必要である。たしかに自然科学的手続きを取る心理学者は、他人の心に近づきえない(vgl.Gr,S.533)。しかし困難を伴うものの、「歴史家は他者の心的生を正にその個性的特徴の観点から記述する」ことが不可能でない。ヴェーバー/リッカートが属する1900-1910代の新カント学派はヘーゲルの影響下にあり、-デュルタイと並行的に-ヘーゲルの「客観精神論」を継承するという意義をもっていた。(ちなみにディルタイが「対象的になった心的生」を研究する手引きをヘーゲルに求めて、「ヘーゲルは人間が何であるかを、自己についての沈思や心理学的な実験によってではなく、歴史を通じて経験する」(Wilhelm Dilthy, Gesammelte Schriften, Bd.5, Vandenhoeck & Ruprecht,5Aufl., 1957,S.180)と述べたように。) 研究対象たる「精神的存在」とはまさにこの点において、研究の与件=財 (精神科学の対象の場合、学的省察にとって人格財となる) として客体化して現れるものである。当事者に内在化しているという点では「主観的」意味が、他方精神存在が学知的省察にとっての研究与件となり、客観的精神化して扱いうる限りでは、〈客観的価値〉を有ちうる。つまり歴史家と研究対象とが対峙する価値が共通なものへと帰一すると考えられるから、客観的に整合的な連関を支えることが出来る(Gr,S.533-534)とリッカートは説く。(これはヴェーバーの「整合型」の着想と一致する。ただし例外的ケースがある。リッカートは、研究者の関係づける価値と異なるケースを認めないわけではない。つまり研究者の関係づける価値が「歴史的中心」である他者自身が採る価値と異なるケースを例外的に許す。そのようなとき、研究者は当の他者、すなわち「精神的存在に、没入して生きる」(hineinleben Gr,S.566)結果、研究者の側の価値と「歴史的中心」の価値と共通になると言う。つまり、リッカートはその他者の生にテクスト媒介的に入り込み、相手の立場に身を置いて考えて、解釈学的に地平が溶融することを要請する。それは方法論的に見てみれば、異種のままの価値を出発点としながら、〈相手の立場に立ち〉解明行為の前提に関しては同一の価値に帰着すべしと考えたのである。)例えばこの点に関してはヴェーバーも「〈シーザーを理解するには、自分がシーザーである必要はない。〉完全な〈追体験の可能性〉は、理解の明証性にとっては重要であるが、意味解釈の絶対的条件ではない」と留保を付けている。

 この点を向井は見逃し(向井守『マックス・ウェーバーの科学論』ミネルヴァ書房、1997年、189ページ)、ヴェーバーとリッカートの相違の証左としていることは不適切である。誤解の根底には、リッカートが認識の対象における「第三の主客関係」を採ったことに引きずられて、内在主義を一般的に採用したというところに由来する(GE2,S.26を見よ。九鬼一人『新カント学派の価値哲学』弘文堂、1989年、52-62ページ)。

[12]この方法論的妥協を許す認識論的下支えとなったものが、前期リッカートの方法論的形式を受けて、現象学の流れを汲んだ中期リッカートの意想であったことはすでに論じたことがある。ヴェーバーがフッサールの範疇的直観に対して肯定的であったことは、前期リッカートの先験的心理学と好対照を見せている。九鬼前掲書、第一章第三節⑴、第二章第二節⑵。

[13] その独自の展開として私は、以下のような事柄を想定している。

 人は「1足す1は2」のような客観的な「理論的命題」の意味と「思念された意味」がおよそ趣を異にすることを指摘するだろう。たしかに一ドルの商品と一ドルの商品を買えば二ドル消費する行為の「思念された意味」は「理論的命題」を前提としてのみ解明( deuten )される。しかしここで言う「理論的命題」は算術等式を指示するのではなく、経済価値の換算等式なかんずくドル換算の営利的価値を指示していると解釈すべきである。したがって仮に文化人類学的価値を前提にすれば、その等価交換行為は贈与という「思念された意味」を有つ。

 ヴェーバーの例を援用すれば、斧振りは経済的価値の理解を前提にしてのみ「営利的伐採」という「思念された意味」を解明できるし、宗教的価値を前提にしてのみ「雨乞い」という、その「思念された意味」を解明できるのである。こうして見れば純粋数学命題の領域に留まらず、実践的領域に価値前提を認めることが出来る。広義の価値前提は具体的に何が意図されたか、という「思念された意味」の解明にとって不可欠な契機を成す(九鬼、前掲書、53-62ページ)。そもそも理解社会学は、具体的行為の正しい因果的解明を含意する;つまり外的過程や動機を的確に認識するに留まらず、それを含む行為連関の意味を理解されるように認識する(GAzWL,S.551)、という作業も包含したものであった。

[14] 中野敏男『マックス・ウェーバーと現代』三一書房、1983年、209-217ページ。

[15]池田は要するに「主観的に合理的と思い込んでいる」だけでよいとし、実際予想が目的に対して整合的に合理的である必要はない、というのである。たしかに予想は主体の見込みであるから、事実最善の選択肢を予料しているとはかぎらない。しかし、どんな価値領域の意味を籠めているかは当の主体の解釈学的地平の先取に委ねられている。

[16] そもそもカントにおける人格概念が自覚性に定位していなかったように、合理性の昂進を意識の自覚性と結びつけることは無理筋である。批判哲学的観点から見て心理主義的誤解の危険を孕んでいる。Heinz Heimsoeth、須田朗・宮武昭訳『カント哲学の形成と形而上学的基礎』未来社、1981年、214ページを参照せよ。「…「我思う」の核心に位置する自己意識はけっして《感性的》に受容される意識ではなくて、《純粋に知的》であることが明らかになった。そしてこの自己意識は、その意識の内容となるあらゆる所与に先立っているがゆえに、いわば《空虚》であるにしても、やはり有限な意識の出発点であった」。

[17] 折原浩『危機における人間と学問―マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌―』未来社、1969年、427ページ。

[18]折原浩、同書、397ページ。

[19] 「われわれが、帳簿を「正しく〔整合的に〕 (“richtig”)つけたり、九九表を「正しく」適用したり、市街電車やエレヴェーターやマッチを「正しく」利用したりするためには、それらが成り立っている合理的な原理をかならずしも知っている必要はない。むしろわれわれは、多くのばあい、なぜそうした利用が可能なのかなどと問うことなく、その「客観的に整合合理的」な利用方法を(たいてい子供のころから)「教え込まれ」(「指令」ないし「授与」され)、いったんそれに習熟すると、以後はその利用を、自明のこととして習慣として繰り返してゆくわけである(「事実上の客観的、整合合理的行為」) 」(折原同書、408-409ページ)。中野敏男もこの解釈のラインを受け継ぐ。「この把握から、〈客観的整合合理性-主観的目的合理性〉の対概念は、〈折原没意味化論〉の鍵を握ることになる」(中野敏男『マックス・ウェーバーと現代』三一書房、1983年、210ページ。)。中野はこうした折原的視角をウェーバーの〈物象化〉の構図に収めて、一書を纏めている(中野同書、序章、第二章第五節、第六節、第七節参照)。

 ところで廣松渉によれば初期マルクスにおける物象化=物化とは以下のようなものであった (廣松渉『唯物史観の原像』三一書房、1971年、62-63ページ)。 ⑴人間そのものの物化。たとえば、人間が奴隷(商品)として売買されるとか、単なる機械の附属品になってしまっているとかいうような状態。…… ⑵人間の行動様態の物化。たとえば、駅の構内での人の流れや満員電車のなかで人びとの在り方など。自分たちの行動を各人がコントロールできないような惰性態になっているという意味で「人間の行動でありながら物的な存在になってしまっている」とされる。⑶人間の心身的力能の物化。たとえば、彫刻とか絵画とかいった芸術作品や、俗流投下労働価値説的に考えられた商品価値など。……

 ヴェーバー行為論で問題となる物象化は客観的整合性=合法則性の累進に伴う―高々⑵の位相で考えられた―行動様態の初期マルクス流の物化にすぎない。人間主体のコントロール可能性が逓減するだけであって、「駅の構内での人の流れ」という意味が没化するということは当たらない。もとより後期マルクスの物象化論をヴェーバーに読み込む冒険を頭から否定するものではない。しかし後期マルクスは「社会というものが自存的な法則性をもって固有の実在であるかのように現象するのは、諸個人の協働的営為が物象化されて形象化されることに因るものである」(同書、85ページ。) としていたのに対し、それが折原の理解する限りでのヴェーバーの物象化論と趣を異にすることは容易く見て取れる。「帳簿を「正しく〔整合的に〕 (“richtig”)つけたり、九九表を「正しく」適用したり、市街電車やエレヴェーターやマッチを「正しく」利用したりする」ことが哲学的に極めて素朴なレヴェルで述べられていることに疑念を呈せざるを得ない。(なお廣松渉『現象学的社会学の祖型』青土社、1991年、第八章第四節参照。)

[20] もとより本稿の本線から脱線するが、私は意識性と区別された意図性として以下の事態を考えている。  この意図性という土俵に踏み込むや否や人は、〈利益性〉に対して正の負荷しかかけられない。その意味で人は、非合理的な場合を別にして須らくエゴイストであるべきなのである。目的合理性や価値合理性に適合しているとき、―整合合理性に適合的である場合は言うまでもなく、自覚の有無に関係なく―、合理的に振舞うことを意図しているのである。目的合理性を利益との手段において捉えるヴェーバーは、合理的行為を共約する地平として、行為が意図されている点に注目する。すなわち目的合理的行為においても、価値合理的行為においても行為の過程そのものが意図として重視され、意図された行為の理解を主眼とする。「思念された意味」が籠められた行為の記述には意識性ではなく、意図性が充溢していると解すべきである。

[21] 「「勤勉」「質素」「几帳面」「正直」「思慮深さ」といった徳目が掲げられるが、」そうした徳目を折原が「手段系列に編入する」(折原、97ページ)というとき、同様の錯誤、つまり価値合理性の見落としが為されている。これに対してここでの功利主義は自己目的的な利害関心であるばかりか、「各人に義務として命じられている」と折原は答えるかもしれない(折原、98ページ)。しかしながら義務論的な倫理を功利主義とは呼ばない。倫理の基本に属するこの撞着について、折原は如何に考えるのか。「「価値合理性」(すなわち、このばあい「倫理的価値」としての「固有価値」への意識的なこだわり)」を、いわば「目的合理的」な「価値硬直化」としてしりぞける厳密な功利主義と、これらの徳目は両立しがたい。(折原浩「マックス・ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム」2004年6月5日も参照のこと。)

[22] 惜しむらくは、ヴェーバーが価値論の発展を見ずに価値対象説のレヴェルに留まっていたことである。価値属性説によれば、基体に価値判断の対象となりうる一切を含め、定在的な物体・精神、相在的な事象を包括せしめる。同時に価値を実体として「対象に内在するもの」とする価値の定義(アドラーのタイプB)にも反対される。

 なおかつ価値比較は、リンゴや冷蔵庫それ自体を比較できず、せいぜいその重さや体積なりの属性しか比較し得ないように、基体の属性に即して行われる。デューイが強調するように、価値それ自体は実体的な概念ではない。それはちょうど「重さ」のように「重いもの」「しかじかの重さをもつもの」は存在するが、「重さ」それ自体は実在しない。それは基体の「重さ」のように属性である。とはいえ主体の手元にzuhanden存在することには変わりはない。その財態は、だれかがそれに関わるという、主観の情念の応対を予想する。ヴェーバー理論の改訂となるので、本文中では省略したが、価値が財の属性となるという構図に転化しよう。この価値客観説→価値属性説の移行を西南ドイツ学派のパラダイムチェンジに訴えて正当化することも可能であると考える。

[23]この点失敗に終わっているとはいえ、橋本努の労はヴェーバー合理性論のアポリアを浮き上がらせる貴重な捨石になっている。

[24] Max Weber, Wirtschaft und Gesellschaft, Ⅰ,5Aufl.,S.1f.

[25] Heinrich Rickert, System der Philosophie, ⅠTeil, J.C.B.Mohr, 1921, S.132.

[26]ちなみに機会因的表現において意味は受肉する。Edmund Husserl, Logische Untersuchungen, Zweiter Band.Ⅰ.Teil, 1.Aufl., 1901, 2.ungearbeitete Aufl., Max Niemeyer, 1913, S.80.

[27]廣松渉『現象学的社会学の祖型』、第二章第一節参照。

[28] 厚東洋輔「ヴェーバーと意味の社会学」『現代思想』Vol.3-2、1975年、162ページ。ただし意味の客観性が強調されるあまり、フッサールの機会因的な表現に配視が及んでないことは悔やまれる。(ヴェーバーの意味が自覚・無自覚の如何を問わないものであったことについては、GAzWL,S.331f.)

[29] 「フランクリンの論述で「資本主義の精神」と呼んだ精神的態度の本質的諸要素が、われわれが先にピュウリタンの職業的禁欲の内容として確定したものと同じである。ただフランクリンの場合には宗教的基礎付けがすでに生命を失って欠如しているにすぎない」(Max Weber, Gesammelte Aufsätze zur Religions

-soziologie, BdⅠ, J.C.B.Mohr, 6Aufl., S, 202f.) 。

[30] 向井、前掲書、257ページ。

[31]もとよりここでの議論は方法論的次元で個人主義に妥協した話であり、存在論的/認識論的には、現基的反省が必要である。本稿ではそこまでの言及は控える。

[32]安藤英治『ウェーバー歴史社会学の出立』未来社、214ページ。

[33]同書 216ページ。

[34]同書 224ページ。

[35]デートレフ・ポイカート著、雀部幸隆/小野清美訳『ウェーバー 近代への診断』名古屋大学出版会、1994年。Ⅲ/Ⅰ参照。

[36]憶断を憚らずに言えば、(普遍史規模における合理化論は宗教の対極にあるように思われるかもしれないが、)ヴェーバーにとって合理化のプロセス言わばヘーゲル的客観精神が自己展開する過程であり、彼の経済倫理は信仰の一形態ではないか。左右田学派、なかんずく杉村広臓の経済倫理の諸論稿を踏まえ、新カント学派の衣鉢を継ぐことが今後の課題である


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-6)」

2005年2月26日(本コーナーへの寄稿)

「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-6)

折原 浩


2005年2月26日

第四節「天を仰いで唾する」もヴェーバーに届かず――「火遊びは火傷の元」(承前)

 

11.「夢よ、もう一度」――「大迂回」による「謎解き」、ふたたび成るか

 さて、羽入は、「貨幣増殖を『最高善』とする(個々人の『幸福』や『利益』には超越的で非合理な)経済倫理」というヴェーバーの理念型的定式化につき、その「論拠となる」叙述が『自伝』中には見当たらない、と決めてかかったあと、つぎのように述べて、「迂回路」に乗り入れる。「したがって今回もまたわれわれの取るべき戦略としては、該当すると思われる箇所を直接に――そして恐らくは無駄に――『自伝』の中に捜し回るよりは、むしろ迂回路を取って、『倫理』論文中のヴェーバー自身の叙述の中から手掛かりとなるような箇所をまず探し当て、次にそこでのコンテキストからしても、また論理的に見てもこの箇所をヴェーバーは自分の主張の論拠としたに違いないという部分を『自伝』の内に見つけ出す、という方法を取ることがやはり得策であろう」(177)。

羽入がここで、「今回もまた」とか、「やはり」とか、記しているのは、つぎの事情があるからである。ヴェーバーは、「倫理」論文第一章第二節第7段落で、フランクリンの経済観における「自己中心的(功利主義)原理の粉飾を越える」側面に注目し、その証拠として、「[フランクリンに]善徳が『有益』と分かったのは神の啓示によるもので、それによって神は自分に善をなさしめようとしていると[かれは]考えている」(GAzRS, I, 35, 大塚訳、47、梶山訳/安藤編、94)と述べていた。羽入は、羽入書第三章第二節「『神の啓示』の謎(1)」で、この箇所に見える「啓示Revelation, Offenbarung」という一語を抜き出し、その語義を、(ヴェーバーは、辞書にも記載されている普通の語義どおり「天啓一般」「啓示宗教」という意味で用いていたと解され、「謎」でもなんでもないのであるが、羽入はそれを)「啓示体験」「劇的な回心をもたらす聖霊降下の体験」というふうに「独り合点」で転釈し、羽入の脳裏に宿り居座ったその意味の「啓示(体験)」を「キーワード」に見立て、検証資料もやはり『自伝』と決めてかかって、十八番の「キーワード検索」にとりかかる。そして、その意味の「啓示(体験)」に対応する叙述が『自伝』中に見当たらないという(「独り合点」が「まぐれ当たり」するのでなければ、それも当然の)事実を、「謎」「唖然とするような世界的な盲点」(146)と称したうえ、(『自伝』ではなく)「倫理」論文から、(ヴェーバーは、反対証拠、つまりフランクリンにおける功利的傾向の証拠として挙示していた)「徳への改信」物語を引いてきて、これと混同し(つまり、証拠と反対証拠とを「一緒くた」「ごちゃ混ぜ」にし)、この改信に対応する叙述を『自伝』中に捜し、これについては「啓示」という語が見つかるが、この「啓示」は「天啓」「啓示宗教」「(非宗派的)キリスト教」の意味で「啓示体験」ではないという(これまた「早とちり」しなければ初めから分かりきった、当然の)事実に行き当たる。ただそれを、羽入だけは(あるいは、加藤寛/竹内靖雄/中西輝政/山折哲雄/養老孟司らだけは、以前から燻っていた反「大塚久雄信仰」、反「戦後近代主義」の「同位対立」的反感に誘導されたのか)、「大迂回」によって初めて達成された「謎解き」と信じ込み、ヴェーバーがフランクリン『自伝』の信憑性ある英語版、ましてやオリジナル版を参照しなかったばかりか、「中学生にも分かる英文法をわきまえなかった」「杜撰」の証拠と称し、「学者にあるまじき軽率」と息巻いて、「世界初の大発見」に酔い、凱歌を挙げた。羽入は、こうした奇妙な「大迂回」、独り合点の妄想による「自縄自縛」を、首尾よく「大発見」にいたった手順と勘違いし、ここ第四節で「夢よ、もういちど」とばかり繰り返そうとする。ただ、第二節ではまだ、そうした「迂回路」が「本来の学問的手法としては……あくまでも邪道」「そもそもが本末転倒の作業」(147)と自覚されていたが、ここ第四節では、直前の「大成功」に気をよくしたのか、その自覚も失せて、「戦略」に格上げされたようである。では、その「戦略」にしばらく付き合うとしよう。

12. 人生と営利との「倒錯」――「自然主義」への誘い水

 ヴェーバーは、「貨幣増殖を『最高善』として『禁欲的』に追求せよ」と説く倫理的要請を、フランクリン経済倫理の類型論的特徴と見、第一要素的理念型として鋭く定式化したあと、そうした事態を、人生と営利との主客転倒(本来は、人生が目的で、営利はその人生の物質的要求を充たす手段にすぎないはずなのに、その目的-手段関係が逆転して現われている倒錯/本末転倒)、「囚われない感じ方das unbefangene Empfindenからすれば、いうなればwie wir sagen würden『自然のnatürlich』事態をひっくり返したおよそ無意味sinnlosなこと」(GAzRS, I, 36, 大塚訳、48、梶山訳/安藤編、74)といってのける。つまり、かりに「『自然(ないし自然主義観点に立てばそのかぎりで、その事態を『合理的』で『無意味な倒錯』といってもよい」と、当の言い回しを容認している。

 とはいえ、ヴェーバーはここで、(この点よく注意してほしいが)そうした「自然主義」にみずから加担しているわけではない。なるほど、かれは、そうした「自然主義」が、近いところではフォイエルバッハ、マルクス(とくに『経哲草稿』のかれ)、ニーチェから、(ヴェーバー没後には)K・レーヴィットらに引き継がれ、喧しく主張されている[1]ところからも明らかなとおり、可能な価値観点のひとつとしてそのかぎりで成り立つことを(確認ないし先取りして)認識してはいた。しかも、その口吻を借りれば、問題の事態を特徴づけしやすく読者にも納得されやすいであろうというので、上記のとおりやはり一種の「トポス」(共通の場)として活用するにはした。しかし、それではかれ自身も、当の価値観点に与するのかといえば、けっしてそうではない[2]。ヴェーバーは、そうした認識のうえに、なおかつみずからはそうした「自然主義」に与することなく、「囚われない感じ方」にも囚われることなく、それを「合理主義」の一類型として相対化する。そのようにして、むしろ「合理主義」「合理化」の多義性を見据え、これを逆手にとることで飛躍的に拡大する地平に歩み出てそこからやはり、当の「自然主義」ないし「自然主義」的「合理主義」を問題とし、「トポスを揺さぶり読者にも馴染まれた自然主義を問題にしていくように促しているのである。

 この地平に立って見れば、「自然主義」の価値観点からすれば「非合理的」で「無意味な倒錯」も、他の観点からは「合理的」で「有意味な」事態として捉え返される。というのも、そうした「倒錯」は、「(近代)資本主義のひとつの基調ein Leitmotiv des Kapitalismus」をなし、「当の[「資本主義文化」の]雰囲気に触れたことのない人間には、まったく疎遠fremd」(GAzRS, I, 36, 大塚訳、48、梶山訳/安藤編、95)な代物である。したがって、その事態に編入され、「当の雰囲気に触れ」た人間は、当然「疎遠」感から「反感」を触発され、「同位対立(近代)資本主義」(というよりも、人生との「主客転倒」に陥り、「自然主義」的「反感」の対象となるのは、「近代経済/近代資本主義」的営利追求のみではなく、「近代科学」的真理追求、「近代政治」的権力追求、「近代芸術」的美追求など、「近代的文化諸形象」の「(持続的目的追求行為としての)経営Betrieb」にかかわる、それぞれの観点から見て合理的「職業」活動一般であるからには、それらの全般にたいする「自然主義」的「反感」にもとづく)「近代合理主義」「近代主義」に赴くであろう。そのなかからは、「近代的文化諸形象」の「経営」のなかで(実態的また外見上)「抑圧」されてきた「自然」の「復権」「解放」を唱える思想家も現われよう。ところが、そうした動きには、「機械的反定立」を好む人間精神の脆弱さから、「非合理」で「無意味な倒錯」をとおしてこそ発展をとげ、維持されてきた「近代」の生産力/学問的研究水準/法治国家的(相対的)安定/芸術的達成と享受……総じて「近代」の生活水準を、いかにして維持制御再編制していくのか、「変革」を唱えるとすれば、少なくとも過渡期的には「近代」期よりもいっそう強められなければならないであろう「規律」「禁欲」を、いかに創り出し、耐えていくのか、といった諸困難に対処する確たる構想も見通しもなしに、ただバラ色に「自然」を対置し、「近代」的「経営」を破壊しさえすれば、「抑圧」されてきた「自然/人間的自然」がおのずと「解放」され、「無垢の白紙状態」から「自然に伸長して全面開花する」かのように見紛う「ロマンチシズム」「ロマン主義的反動」が、ともなわざるをえないであろう(し、現にともなっている)。ヴェーバーが好んで用いた比喩では、「老獪な悪魔の手口を見抜かずに、悪魔に立ち向かう」ような(本人自身は大真面目の)軽挙盲動である。とりわけ、西洋近代文明/文化の外縁「マージナル・エリア」に生をえた「インテリゲンツィア」(A・J・トインビー)は、やがて「近代」的「経営」体制に編入され、(「戦後近代主義」のような)「ヘロデ主義」的「西洋派」「西洋近代主義」ないしはその亜種にいったんコミットして、「その雰囲気に触れ」、それがじつは「非合理」で「無意味な倒錯」であったと気がつくと、かれらのばあいにはその「疎遠」感と「反感」に異文化への違和感(たとえば反ピューリタニズム、キリスト教嫌い)も重なり、それだけ反転して「同位対立」の「自然主義」に引き寄せられやすいであろう。

 ところが、そうした(根底において反動的/退嬰的で、闘うべき相手の手強さも知らない)「自然主義」では、とうてい近代資本主義ばかりか、近代科学、近代政治、近代芸術など、近代的文化諸形象の日常的経営の現実に耐えそこに日々生じてくる問題を現実に責任倫理的に解決していく[3]ことはできない。そうした「自然主義」では、現実に「自然」「人間的自然」を奪回していくことも、とうてい無理であろう。歴史に「救済」(地上に「楽園」)を求める無責任な「ロマン主義的反動」に走り、有害無益な「随伴結果」をともなわなければ(まかりまちがって――たとえば敗戦時の「どさくさ」に紛れて――政治権力を握り、長く禍根を残すようなことがなければ)「もって瞑すべし」の荷厄介にとどまるであろう。というわけで、近代資本主義ほか近代的文化諸形象の「合理主義」を、これまたひとつの可能的価値観点として採用し、そこから「自然主義」ないし「ロマン主義」をまったく同様に合理的」で「無意味な反動」と見ることができる。しかも、「自然主義」ないし「ロマン主義的反動」は、「囚われない感じ方」に「受けがよい」が、「近代合理主義」のほうはそれに逆らうから、これを正面から見据えその手口を見抜き、「来し方行く末を見とどけるのには、それだけ特別の(「囚われない感じ方」を越える)努力、それだけ周到な学問的/科学的研究を要する。そこで、ヴェーバーは、「自然主義」はもとより「近代合理主義」をも(かれ固有の生活史的・実存的契機から)相対化しおおせた地平[4]に立ち、そこから多義的な「合理化」を「嚮導概念(構想)」として逆利用しながら、「近代合理主義」の「来し方」を探り、その「手口」を見抜こうとするのである。

13. 「合理化」の極限/遡行極限に索出される「非合理的なもの」――フランクリン経済倫理の帰結ならびに背景

 さて、「合理化」を「嚮導概念」に据えると、その極限および遡行極限に非合理的なものを索出していくことができる。ヴェーバーは、このフランクリン経済倫理のばあいにも、「貨幣増殖を『最高善』とする『禁欲的』――その意味で『合理的』な――営利追求」への「生き方の合理化」を、要素的第一理念型に定式化し終えたところで、そうした遡行と索出をくわだて、順次二要素を加え、ダイナミックに「資本主義の精神」の「歴史的個性体」概念を組み立てている。なんども同じ箇所を取り出して解説を繰り返すようであるが、こんどは「合理化」概念による「非合理」の索出という方法的意義に焦点を合わせ、(最晩年に定式化された)「目的合理(-非合理)性」と「価値合理(-非合理)性」の対概念を導入して、ヴェーバー自身の思考展開を解釈してみよう。

 かれはまず、二文書抜粋から、「時は金なり」「信用は金なり」の二標語に象徴されるフランクリン経済倫理の一面を、「貨幣増殖を人生の自己目的とみなし、生活時間と対他者関係を、したがって正直/規律/勤勉/節約/謙譲などの徳目遵守さえも、当の目的を達成する手段に繰り込み、ひたすら貨幣増殖に捧げよ」と「命令口調で」要請する(そういいたければ「倒錯」を命ずる)倫理――そういう独自かつ稀有な「生き方の合理化」をもたらす「実践的合理主義」の一「類型」――として、鋭く定式化した(第一要素的理念型)。そこでは、「貨幣増殖」が、いったいなぜ、「自己目的」たりうるのか、とは問われ――すなわち、その背後にまで遡っていっそう高次のなんらかの目的からその手段として演繹されるか、あるいは、いっそう高次の究極価値から、下位価値として意味づけられるか、することなく――、とにもかくにも「自己目的」として、いわば「天下りに」設定されていた。「貨幣増殖」が、(一定の「倫理的」ないし「法的」「規範」を「固有価値」とする「価値合理的」な制限には服するとしても)すぐれて目的合理的」な手段を採用して常時追求されるべき究極目的」として、(個々人の「幸福」や「安楽」にたいしては)「超越的」「非合理的、「問答無用」のかたちで、措定され、要請されていた。別言すれば、そうした「生き方」合理的な根拠は、まだ問われてはいなかった。ただ、当の「生き方」が一面的に鋭く極限まで煮詰められることによって、「なぜそうまでして(貨幣増殖に専念しなければならないのか)」との問いが触発される直前まで(叙述においても)きていたのである。

 つぎにはむしろ、そうした「合理化」(「根拠」「遡行極限」ではなく)「帰結」「展開極限」のほうが、「そうした生き方を突き詰めていくといったいどうなるかなにがもたらされるのか」という問いをもって問われた。この問いには、一般的には、貨幣増殖が「自己目的」としてもっぱら強調されればされるほど、手段系列にたいするもっぱら目的合理的」な(自己)制御が強まり、(「倫理的」ないし「法的」「規範」を「固有価値」として意識的に遵守しようとする)「価値合理的」制約が排除されて、(R・K・マートンのいう)「刷新innovation」類型の(「目的のためには手段を選ばない」)「逸脱行動」が発生してくるであろう、との答えが、(同じく理念型的な一極限として)予想されよう[5]。ところが、そこに行き着く手前で、手段(行為)にかんする「目的合理的」考量から、手段(行為)にたいする「価値合理的」制約を全面的に排除するのではなく外形上は規範遵守を装うことによって「目的合理的」に(貨幣増殖のための)「信用」は確保しながら(それでも確保できるとして)、内面的にまで「規範」を遵守して「価値合理性」を維持する(「目的合理性」の観点からは無用無益という意味で「合理的」な)心的負担は軽減し、公然たる「規範」侵害にたいしては予期される負の「制裁」も避けるほうが「賢明」「得策」である、との中間的解答が引き出されよう。外形だけで(「目的合理的」に等価の効果さえ達成できれば、外形だけの代用で十分で、それ以上の「価値合理的」「規範」遵守の努力は無用無益(「目的合理的」)である、としてしりぞける「功利主義」的な解答である。ヴェーバーも、この解答は明示的に引き出して「功利主義には避けられない帰結」と呼んだ。とすると、フランクリンには確かに、「目的合理的」考量を重視し、「価値合理的」な「規範」遵守をも、その効果を「目的合理性」の観点から評価して「目的合理的」手段系列に編入しようとする(ただし、しきれない)、そういう「功利主義」への傾向が、顕著に認められる。そうした「目的合理性」が「ひとり歩き」して「価値合理性」による制約を排除していけば、つまり「目的合理性」という意味における「生き方の合理化」が一面的に徹底されていけば[6]、その極限には、「外形のみの規範遵守」「善」という「価値非合理性」が待機していよう。

 ところで、フランクリンの「経済観」が帯びているもろもろの傾向のなかから、「功利主義」ひとつを取り出し、このように「思考のうえで高め、極限にまで煮詰めて」、一面的に鋭い要素的理念型(第二要素的理念型)を構成し、この合理化尺度をフランクリンの現実の生き方に当ててみるとじっさいにはどうであろうか。かれはもとより、そうした「功利主義」の帰結に行き着いて、「偽善」を顕示的に説いているわけではない(かれは、もし問われれば、「うわべだけの徳目遵守では、やがて見破られて、信用を保つことはできない」と答えたのではなかろうか)。そればかりか、かれの「説教」が、黙示的なつまり粉飾を凝らした「功利主義」であるともいいきれない。それにしては、フランクリンは、「貨幣増殖-信用取得-徳目遵守」という系列の第三段目に、「目的合理的」ともいえるほどに力点を置き、正直/規律/勤勉/節約/謙譲といった徳目を、(当面の目的にたいする手段としての効果とは別に)「固有価値」に見立て、そういう「十三徳の樹立」をそれこそ「自己目的」「固有価値」として定立し、身につけ、習慣とし、「エートス」化しようとした。ただ、そうした「十三徳の樹立」という「価値合理的目的にたいしては、日毎の自己審査手帳という「目的合理的」(であると同時に、「信仰日誌」の系譜に連なる「価値合理的」)手段を採用して、異例にして稀有つまり「類型論的に特徴的な並々ならぬ努力を(少なくとも一定期間)持続したのである。

 ところで、かれは、こうした「手段採用によって首尾よく「十三徳の樹立」という「目的を達成し、「完徳の域に達した」と、すべてを目的合理性のカテゴリーで考えていたのであろうか。いな。けっしてそうではない。かれはただ、「そういう『目的』を立てて、それをめざして努力しなかったばあいにくらべていくらかはまし」で、それだけ徳性を高めることはできた、とする。そして、この徳性向上が、「神の摂理によって、つまりすべての(非宗派的)「啓示宗教」に知られている「勧善懲悪神のはからいによって、だから、もっぱら自分の目的合理的な意図どおりにではなくそのときどきにおける自分の個別の意図にたいしては思わざる結果」「思った以上の結果」として、「信用」の獲得と(長期的)確保から「貨幣増殖」にいたる効果にも連なったその意味で自分の人生は「幸運」「幸福」に恵まれていた(「利益」「幸福」を自力で目的合理的」に創り出してきたとはいえない)と感得し、「神の恩恵」への感謝を衷心から表明するのである。

 要するに、フランクリンの経済倫理は、「生き方の目的合理化」という意味では、なお「価値合理性」の(「目的合理性」にたいしては)「合理的」な制約に服しているという意味で、また、個々人の「利益」ましてや「幸福」を「人間としての目的合理的考量や処理能力を越えたもの」と受け止めているかぎりで、不徹底であり、「(純然たる)功利主義」というには足りない。この確認によって初めて、そうした「目的合理化」の一面的徹底を背後から引き止めている対抗拮抗要素としての「価値合理性」は、いったいどこからくるのか、という遡行極限への問いが発せられよう。この問いはここで、第一要素的理念型から導かれた、「なぜ、そうまでして」との問いと、合流するであろう。こうして、(第一/第二)要素的理念型から、それぞれが一面的に鋭く構成されればこそ、翻ってそれぞれを現実と対比して「経験的妥当性」を検証しようとするとき、「貨幣増殖を『自己目的』/『最高善』として要請しながら、同時に、その目的を追求する『目的合理的』手段系列の行為には、なお一定の『価値合理的』制約を課して、『功利主義』的『偽善』への転態を引き止めている、(幸福主義や快楽主義にとっては)『合理的』な対抗拮抗要因とは、いったいなになのか」、 「それはまた、貨幣増殖をまさに『最高善』たらしめている背後の一段上の最高善と、どういう関係にあるのか」という問題が提起される。ここでいよいよ、この問いにたいする可能な解答が求められ、まずは、「職業における熟達/有能さ」を称揚し、義務づける、独特の「職業義務観」が索出される。そのうえで、こんどは当の「職業義務観」を根拠づけ、「職業における熟達/有能さ」を「最高善」たらしめる、さらに背後の究極価値(要因)を求めて、(世俗的貨幣増殖/営利追求、総じて世俗的「職業」活動からみると)「合理的」な「宗教性の領域に(ここでは)一瞥が投じられることになる。

14.「職業における熟達/有能さ」を「最高善」とする「職業義務観」――「近代」的文化諸形象一般の「経営」構成原理

 さて、問題がこのように明確に設定されると、その答えを『自伝』のなかに求めて、フランクリン自身に答えてもらうこともできる。あるとき、フランクリンは、「なぜそうまでして貨幣増殖に専念するのか」という問いを向けられて、(若いころカルヴィニストの父から繰り返し叩き込まれたという)『箴言』22: 29の聖句「あなたはそのわざ(Beruf)巧みな人を見るか、そのような人は王のまえに立つ」(GAzRS, I, 36, 大塚訳、48、梶山訳/安藤編、95)を引いて答えた、と記載されている。ヴェーバーによれば、この聖句はじつは、ピューリタンの説教師にして道徳神学者のR・バクスター(1615-91)が、「直接神に礼拝している時間以外は、自分の合法的職業lawful callingの仕事businessに、勤勉diligentにいそしみなさい」と説教するさいに、聖書からの典拠として繰り返し引き合いに出し、職業労働への精励を(「予定説の神」によって「選ばれているのか、それとも捨てられているのか」という不安から逃れる手段として)宗派宗教的に根拠づけていた箇所である[7](GAzRS, I, 169, 171、大塚訳、300-1, 304、梶山訳/安藤編、303-4, 306)。

 ただし、このように聖書からの引用がなされたからといって、「倫理論文の叙述がここですでに貨幣増殖と宗教性との関連という論点に移行した、と解するのは早計である。ヴェーバーはなるほど、そうして宗教的背景示唆してはいる。しかし、その背景に立ち入ることは、それこそ「倫理」論文そのものの主題で、第一章第三節の予備考察(「ルターの職業観」)のあと、第二章の本論に委ねられている。ここではむしろ、上記の問いにさしあたりつぎのような答えが与えられる。すなわち、なぜ「貨幣増殖」が「最高善」として称揚されるのかといえば、それは「近代の経済システムのなかでは、貨幣利得が、合法的におこなわれるかぎり、職業における熟達/有能さTüchtigkeit im Beruf 結果Resultatであり表示Ausdruckであって、この熟達/有能さこそが、……フランクリン道徳のアルファにしてオメガ」だからである、というのである。こうして、第一要素的理念型においては「究極価値」「最高善」とされていた「貨幣増殖」の背後に、それを「結果」「表示」「指標」として意味づける高次の「倫理的価値」「(一段上の)最高善」として「職業における熟達/有能さ」が索出された。たとえ「宝くじ」に当たって、あるいはたまたま(遺産として相続した)資産を売却して、莫大な貨幣が転がり込んだとしても、そういう「職業外の貨幣獲得」には価値がない。他方、「職業における熟達/有能さ」は、かならずしも経済の領域で貨幣増殖という「結果」に「表示」されるとはかぎらない。むしろたとえば(近代)知性/学問の領域で「業績(蓄積)」に、(近代)政治の領域で「権力の合法的制御/法秩序の安定(増進)」に、(近代)芸術の領域で「制作活動/作品(豊饒化)」に、「専業的集中化」と「主知化Intellektualisierung」(領域ごとの「固有法則性」を知性的に認識して知性的に制御する「合理化」)の「結果」として「表示」されもしよう。

 こうして、ヴェーバーは、近代的文化諸形象(これをかれは、「資本主義文化」というふうにも呼ぶ)に汎通的で、近代経済の領域に現われては「貨幣増殖」を「最高善」たらしめる、高次の(さしあたりは)究極的な倫理的価値として、「職業における熟達/有能さ」を措定し、これを奨励し、義務として命じ、さまざまな領域で「結果」に「表示」されるべきことを説く、独特の「職業観」「職業義務観」を突き止めるにいたった。「突き止めた」といっても、もとよりそれは、「倫理」論文という一著作における方法的叙述の段取りとして、そのかぎりでのことにすぎない。著者ヴェーバーにおいては、むしろこの「職業義務観」のほうが、かれの実存史/生活史において、「近代科学」の領域における職業活動の蹉跌とこれにたいする近親者の対応から、当初痛苦をもって受け止められ、苦しみながら考えぬかれてきた問題であり、「倫理」論文に先行し、その主題設定と構成を導いてきた動因であった。ただ、「倫理」論文の構成においては、ここで、「資本主義の精神」の第三特徴として、「職業における熟達/有能さ」を(さしあたりは)「究極の倫理的価値」とする「職業義務観」が索出され、「精神」とはその経済領域への発現形態である、と定式化されたのである(第三要素的理念型)。  

 ところが、そうするとこんどは、ではなぜ、「職業における熟達/有能さ」が、(どの領域に発現しようとも)「究極の倫理的価値」とされるのか、との問いが発せられよう。そこで、思考をまた一段、第三特徴の背後にまで遡行させ、「職業における熟達/有能さ」を「究極の倫理的価値」たらしめる、さらに高次の究極価値」を突き止めることが課題とされる。そうした「究極価値」はおそらく、『箴言』句の引用によっても示唆され、予想はされるとおり、「宗教性」「宗教的価値(観念)」の領域に立ち入り、そのなかから探し出されるであろう。そして、それが索出された暁には、翻って、その「宗教的価値(観念)」と、問題の「職業義務観」とがどういう関連/「意味連関」にあるのか、「職業における熟達/有能さ」が称揚され、義務づけられる「宗教的根拠」はなにか、が明らかにされよう。こうした一連の問題が、内容上はここ(フランクリン文献による「暫定的例示」の終点からも、「倫理」論文の本論(第二章「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」)に連なり、そこで主題として究明され、極限遡行が続行される、と見ることもできよう。

 しかし、ヴェーバーは、この第一章第二節「資本主義の精神」冒頭では、「精神」の核心にある「職業義務観」を取り出し、この第三要素を「歴史的個性体」概念に組み入れたところで、極限遡行は打ち切り翻ってその歴史的文化意義Kulturbedeutung」の探究に移っている。すなわち、フランクリンからの引証は、第7段落で、(行論を少し下ったところに明記されているとおり)「先にベンジャミンフランクリンの例について見たようなやり方で、正当な利潤を職業としてberufsmäßig組織的かつ合理的に追求する志操」(GAzRS, I, 49, 大塚訳、72、梶山訳/安藤編、114)という「精神」の「暫定的定義」をえたところで、まさしく暫定的例示としての役割を完了する。そして、つぎの第8段落からは、ではそうした志操が、一般に近代資本主義ないし「資本主義文化」にたいして、どのようにはたらき、どんな意義を持ったのかを、そこでいったんフランクリンから離れ、むしろ(それ以前の経済の「基調」である)「伝統主義」と対比して、(また、これを忘れてはならないが、そうした志操の「精神」性/「エートス」性/「価値合理性」が影を潜め、「目的合理性」が「一人歩き」して、前面に進出してきた)「現状」との対比を念頭に置いて、浮き彫りにする、という課題に転進する。そのようにして歴史的「文化意義」(とその限界)を十全に把握された「精神」ないしは(その「迂回路」「搦手」でなく核心にある)「職業義務観」について、(まだ第一章「問題提起の枠内に置かれている)つぎの第三節「ルターの職業観」では、文字どおり「ルターの職業観」に(「語形合わせ」でなく)「意味因果遡行」をくわだて、フランクリン父子のcallingがルターのBerufに(語形ばかりか語義/思想においても)直結しない、まさにその齟齬不一致をこそ(「アポリア」でなく、順当な事実として)確かめ、それゆえ「ルターの職業観」の(「精神」の歴史的生成にたいする、そのかぎりにおける)「限界」を論じ、その「限界」を越えて両項がどこでどうつながるのか、という歴史問題を設定し、これを本論の第二章「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」に引き渡す段取りとなるわけである。

15. テクストを読むとは「鋏と糊で切り貼り」することではない――またしても混同のうえに「論拠」の所在を理由なく推定

 以上、筆者は、「倫理」論文の関連叙述に表明されているヴェーバーの理念型的思考の筋道を、「合理化」の多義性を「嚮導概念」とするヴェーバー最晩年の方法的思考の適用例として、「目的合理(-非合理)性」「価値合理(-非合理)性」の二概念を導入して解釈し、多少ともメリハリをつけて現してみた。同じところを、羽入も、かれ流に再定式化しようと腐心している(177-9)が、かれの記述は、著者ヴェーバーの思考展開に穿ち入ることなく、字面を撫でるように「すぐ続けて……」、「そして次に……」、「そして次に……」と「鋏と糊で切り貼り」の引用を連ねるばかりである。その途上では、案の定、「とらわれぬ感じ方からするならば無意味としか映らぬ」(178)、「『自然な』事態のまるっきり無意味な倒錯」(179)、「資本主義のライト・モチーフであるところの無意味な倒錯」(179)と、ヴェーバーの誘い水に繰り返し溺れ、「自然主義」の虜になっている。その結果、なるほど叙述の順序からしては当然「職業義務の思想」に行き当たる。しかし、それが、「精神」にたいしてどんな関係にあるのか、「理念型複合」として「歴史的個性体」概念を構成して途上で、いかなる位置を占めるか、どんな意味で「合理化」の遡行極限としての「合理的価値」をなすのか、といった方法上の問題にはまったく無頓着である。

 この箇所は、ヴェーバーの理念型的思考展開のコンテクストでは、前項で詳述したとおり、羽入が問題としている「(貨幣増殖を『最高善』とする)個々人の『幸福』や『利益』にたいしては『非合理的』な要請」(第一要素的理念型)そのものの「論拠」ではなくその背後に遡行して初めて突き止められた「貨幣増殖をまさに『最高善』たらしめている(さしあたり)究極の倫理的価値『職業における熟達/有能さ』」(第三要素的理念型)の論拠である。ヴェーバーの思考は、前者から後者へと、「(営利追求の実践的)合理化」の遡行極限を探り出す方向で一段進展しているのである。ところが、羽入は、ヴェーバーの思考展開には穿ち入れず、字面だけで冗漫な引用を連ねてきただけなので、この重要な進展をそれとして捉えることができない。ここでまたしても、前者の論拠と後者のそれとを混同/同一視(「一緒くた」「ごちゃ混ぜ」に)する。そしてすぐさま、「ヴェーバーは一体どこから、……この『職業義務の思想』というものを取り出してきたのであろうか」と問い、典拠を問うべき論点は確定しないまま論点がずれてきていることには気がつかないまま、典拠への問いに転じてしまう。そしてその問いに、やはり叙述の順序から、「もちろん言うまでもなく、『自伝』でフランクリンが引用した聖書の言葉からである」(179)と答えている。

 さて、「この『今日のわれわれにはよく知られた、しかし本当のところは少しも自明でない職業義務という独特な思想』[8]の歴史的由来の探究こそが、『倫理論文の主題であった」(178)とは、羽入とともに認めることができよう(ここは、「倫理」論文の主題とはなにか、と問うべきところではなく、問われてもいないのではあるが)。しかし、たとえそうでも、著者ヴェーバーが、その主題を設定して研究に着手するまえに、当の「職業義務の思想」を「どこから取り出してき」て、どのように問題とし、(やがて構想が成って)研究主題に据えるにいたったのかは、著者の思想形成史展開史さらには生活史とその背景にまで遡って究明されるべき問題であり、それ自体ひとつの研究テーマであろう[9]。そうした広い視野で、事柄に即して見たばあい、「職業義務の思想」の出所が、当の主題を取り上げて論じ、発表した論稿における初出の箇所と一致するかどうかは、「少しも自明で[は]ない」。そこを羽入は、「もちろん、言うまでもなく」と力み返り、さながら自明のことでもあるかのように語っている。ということは、かれが、問題を、著者における思想展開のコンテクストのなかで取り上げるのではなく、書き上げられ、発表された「倫理」論文、それも第一章第二/三節冒頭の字面に視野をかぎって見ており、しかも、そうした「井の中の蛙」視座の自覚がない、という実情を問わず語りに語り出しているといえよう。

 さて、羽入は、そのようにして、フランクリンの『自伝』から『箴言』句引用の箇所を抜き出してはきた。しかし、引用される『箴言』句は、「個々人の『幸福』や『利益』にたいして『非合理的』な要請」の背後にある「職業義務観」そのものの論拠として、さしあたり「職業における熟達/有能さ」を称揚していれば十分であって、それ自体が「個々人の『幸福』や『利益』にたいして『非合理的』な要請」そのものないしはその「論拠」をなしているかどうかは(一段前後段の問題で、ここではさしあたり)問うところではない。羽入もそれを、「立身出世主義的な上昇指向を目指した……その限りでは『幸福主義的な』忠告と……すらみなすことが許されるであろう」(180)と述べている。ところがかれは、そこからつぎのとおり、短絡的な推論を開陳する。

「しかしだとすると、ヴェーバーは『自伝[と決めてかかって]一体どこから“フランクリンの倫理[の一面でなく、まるごとのそれ!?]は個々人の『幸福』や『利益』をおよそ[!?]超越している”などという自分の[羽入の!?]主張の論拠となる部分を見出してきたのであろうか。フランクリンによって引用された聖書の言葉自体にはそうした類の言及は含まれていぬ以上、そして、他方ではヴェーバーは『倫理』論文の叙述の流れ[!?]から見てみる限りやはり[!?]この『箴言』からのフランクリンによる聖書の言葉の引用部分を自分の主張の論拠部分と考えているらしい[!?]以上、調べてみるべきはフランクリンが『自伝』の中で一体どういう文脈の内で[!?]この聖書の言葉を引用したのか、ということになろう。」

ここで、「“フランクリンの倫理は個々人の『幸福』や『利益』をおよそ超越している”」というが、それは、これまで詳細に論じてきたヴェーバー本人の主張とはいささかも関係のない、羽入の誤解(意図的に一面的に鋭く定式化された要素的理念型の鈍化/実体化)というほかはない。それはともかく、「手掛かりとなるような箇所」(177)を探すのに、ただたんに「叙述の流れ」をなぞっただけで、ヴェーバーが「聖書の言葉の引用部分を自分の主張の論拠部分と考えているらしい」と(そう特定する根拠も明示せずに)推論できるとすれば、およそどんなところでも「論拠部分」に仕立てられるであろう。しかも、羽入は、「叙述の流れ」をたどっているうちに、第一要素的理念型(「貨幣増殖」を、確かに個々人の「幸福」や「利益」に超越する「最高善」として要請する、「精神」の一面)と第三要素的理念型(貨幣増殖をまさに「最高善」たらしめるものが、結果として貨幣増殖にも表示される「職業における熟達/有能さ」であり、これが「精神」の核心をなすという、もとより関連はあるが別次元の一面)とを混同してしまっていた。さらには、ここで、その「論拠」が当の「聖書の言葉の引用部分」に見つからないとしても、その「文脈の内には見つかるはずだという、なんの理由も保証もない推断を下している。そこを羽入は、「ヴェーバー好みの言い回しで」と気をきかして、つぎのように語る。

「したがって、もしもフランクリンの『自伝』の内に[と決めてかかって]フランクリンの倫理[一般!?]が個々人の『幸福』や『利益』を超越しているという[羽入作]ヴェーバー[藁人形]の主張の論拠となる部分が見出されるべきである[!?]とするならば、われわれは嫌が応でも[東西東西!]、それを引用された聖書の言葉そのものの内にではなく、その聖書の言葉の前後に[!?]、すなわち、それが引用されている『自伝のコンテキストの内に[!?]求めるより他はない[!?]のだ、と」(180)。

 玉突き主ルターの気紛れから打ち出された「Beruf玉」が、遠くにある『ベン・シラ』の「ergon 玉」と「ponos玉」に当たったからには、近くにある『箴言』の「ergon玉」にも当たるはずではないか」という前章の論法が思い出されよう。とまれ、羽入書第三章第四節末尾で上記のように前置きされ、第五節「『自伝』におけるコンテクスト」冒頭にうやうやしく引用される、頼みの「聖書の言葉の前後」には、はて、なんとしたことか、「フランクリンの倫理(の一面)」が個々人の「幸福」や「利益」に超越する『非合理』性を帯びているという事実の、歴然たる証拠が見いだされる。

(2005年2月26日脱稿、つづく。前3-5稿の結びでは、この3-6稿で、羽入書第三章への批判を締め括る旨、予告いたしました。ところが、「多義的『合理化』概念の方法的意義」という3-5稿の論旨を、当面の「フランクリンの経済倫理」論に適用/展開して、「倫理」論文の当該箇所を再解釈するとどうなるか、という問題に深入りし、それだけでひとまとまりの分量になってしまいました。そこで、今回はいちおうここで区切り、残りの羽入書第三章第五節批判は、つぎの3-7稿に送りたいと思います。予定変更、悪しからずご了承ください。)



[1] 「戦後近代主義」に折衷的に取り込まれていたマルクス主義からは、「世界史像」の破産を直視せず、『経哲草稿』に戻ってフォイエルバハに遡り、他方、K・レーヴィットからニーチェにも遡って両系譜をつなげる、という軽業により、この「自然主義」を蘇らせ、余命を保とうという企てが生まれている。この見地は、「戦後近代主義同位対立として価値符号を逆転させる一種の祖型回帰」であるが、ヴェーバー著作の内在的解読を深めるのでなく、都合のよい断片を引き抜き、誘い水に乗って「自然主義」的観点に引き寄せては、「ヴェーバー研究」と称している。レーヴィット自身も、折角ヴェーバーの注記に止目しながら、「非合理への合理化」という一例示(「自然主義」という可能的一観点からする相対的一評価)にコミットしてしまい、「合理化」の多義性とその意義という注記の主旨は汲み出せなかった。かれの論文が発表された1930年代当時には、「世界宗教の経済倫理」シリーズはほとんど読まれていなかったので、それもまたやむをえなかったろう。

[2] ヴェーバーは、この「自然」のばあいもそうであるが、しばしば引用符をつけて「人間的」「非人間的」と表記したりもする。そうした誘い水の引用符には、「特定の『人間』規準から見れば『人間的』ないし『非人間的』と評価されようが、その規準自体が問題」という留保のニュアンスが籠められ、かれ自身はそうした評価に距離をとって問題視しているばあいが多い。そういう箇所を引用しては、当の「規準」がかれ自身の規準であるかのように速断する文献も、まま見受けられるが、皮相な読解による短絡的解釈というべきである。

[3] そのさい責任規準のひとつに、「自然環境」と「人間的自然」の尊重が掲げられのは当然であるし、個別問題の現実的解決をめざす運動体が、そういうスローガンのもとに相互に交流をもち、「ゲマインシャフト形成」さらに「ゲゼルシャフト結成」を遂げるのも、もっともである。そういう思想ならびに社会運動は、社会科学の重要な研究テーマとされてしかるべきであるし、現に「環境社会学」、「社会運動の社会学」といった諸部門で活況を呈している。ただそうした思想や運動の当事者および研究者には、「ヴェーバーは近代主義者か反近代主義者か、近代擁護者か近代批判者か」といった生硬な二者択一(書生風/「火事場泥棒」風の「スコラ論議」)に耽っている暇はないであろうし、なくて当然であろう。

[4] ヴェーバーは、精神神経疾患の一時的緩解期に妻宛てにしたためた手紙でも、「仕事の重荷のもとにうちひしがれたような気持ちでいたいという欲求はなくなった」と書き、「人間的な生活を十分に味わい、そうしている自分を可能なかぎり幸福な気持ちで見つめていたい」と、感性的また美的な生活価値に心眼を開きながら、「だからといって、精神の苦しい作業が以前のようにはできなくなる、ということはないと思う」(『ヴェーバー学のすすめ』、12ぺージ)と結んでいた。かれは、自分の病気を距離化/対象化しえた瞬間に、「職業主義か反職業主義か」、「近代主義か反近代主義か」といった生硬な二者択一から解放されたのである。

[5] こうした理念型的思考展開からは、その後の「近代資本主義」的営利追求の変動傾向とその実態病態にたいする一連の仮説が導き出されようが、それはまた別の問題圏に属し、ここでは立ち入らない。

[6] 逆に「価値合理性」を徹底させ、「目的合理性」を排除していけば、キルケゴール流の「志操倫理Gesinnungsethik」にいきつく。拙著『ヴェーバー学のすすめ』、100-1ぺージ参照。

[7] ヴェーバーは、この問題に、「倫理」論文の本論(第二章)第二節「禁欲と資本主義精神」で論及し、その一節への注記で、『箴言』22: 29を「フランクリン以来われわれによく知られている箇所」(GAzRS, I, 171, 大塚訳、304、梶山訳/安藤編、306)として挙示し、同じく『箴言』31: 16以下にみえる「労働の賛美」と併置していた。羽入が、「倫理」論文一篇でも通読してこの箇所を読んで考えていれば、(他方では、「プロテスタンティズム」をルターひとりと読み誤らなかったとすれば)、18世紀フランクリン父子のcallingを16世紀ルターのBerufに直結しようというような無謀な挙には、出ないですんだであろうか。なお、『箴言』22: 29は、新共同訳では「技に熟練している人を観察せよ。彼は王侯に仕え、怪しげな者に仕えることはない」と訳出されている。ちなみに、「巧みな」「熟練して」と訳されているdiligent, rüstigのヘブライ語原語は、māhiyr(quick, skillful)である。

[8] たとえば「なんであれ少しでもやる価値のあることは、立派にやり遂げる価値があるWhatever is worth doing a little, is worth doing well」という周知の英語の諺も、この「職業義務思想」の「抽象的なこだま」であろう。

[9] 筆者による解答の粗筋は、拙著『ヴェーバー学のすすめ』第一章に提示した。


折原浩「「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3-7)」[本連載の最終回]

2005年3月7日(本コーナーへの寄稿)

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羽入-折原論争の展開  [1] [2] [3]