自由原理

Principles of Freedom

Ideas on the welfare state to come

Contents in English

橋本努『自由原理 -- 来るべき福祉国家の理念』

岩波書店、2021年刊


本書は、自由の礎を新たに築く試みである。


人々の善き生を目指す福祉国家。だが、福祉を根底から規定する善き生とは何か、私たちは知らない。福祉国家の様々な思想体系の整理のもと、「ケイパビリティ」「リバタリアン・パターナリズム」「自生的な善き生」という三つの軸から、善き生を促す福祉国家へと社会を導くための、新しい「自由原理」を描きだす。

【帯表】

 

 「私たちは人生で最低限満たすべき善さについては分かる一方、人生で最高度に満たすべき善さについてはよく知らない・・・この善をめぐる非対称性は、現代の福祉国家システムを論じる際の、一つの根本的な問題を提起している」(序章より)

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序 章 問題と構成

第1章 福祉国家の根本問題

第2章 福祉国家の哲学的基礎 -- 潜勢的可能性としてのケイパビリティ

第3章 いかなる介入を正統化すべきか -- リバタリアン・パターナリズムの射程(1)

第4章 自律していない者たちの社会契約 -- リバタリアン・パターナリズムの射程(2)

第5章 幸福の経済原理 -- 自生的な善き生の理論

【帯裏】

刊行あいさつ

『自由原理』刊行あいさつ

謹啓

 二月とはいえ、温暖化とともにしだいに春が感じられるようになりましたが、一方で今冬の始まりは特別に寒く、北海道では1963年以来、三番目に寒い冬になったそうです。

皆様、いかがお過ごしでしょうか。平素は格別のご高配を賜り、厚くお礼申し上げます。

 このたび、拙著『自由原理――来るべき福祉国家の理念』を上梓いたしました。本書は、自由の新たな始原(アルケー)を探る試みであり、と同時にその始原によって、社会の新たないしずえを築く試みであります。この数年間の思索をまとめた成果ではありますが、まだ若くて青い頃、一人の独立した思想家でありたいと願った私の人生を、代表する作品になるようにも思います。皆様のご高配を乞う次第です。

 人々の善き生(ウェルビイング)を目指す福祉国家は、しかし私たちがそれぞれ自身の善き生をよく知らないという根本的な問題に直面します。この問題に応じるべく、拙著は大きく分けて三つの理念を提起しています。一つは、アマルティア・センの「できること(ableness)としてのケイパビリティ」に代わる「潜勢的可能性(ポテンシャリティ)としてのケイパビリティ」論。もう一つは、サーンスティンのリバタリアン・パターナリズムに代わる「アスリート・モデル/活動的生(ヴィタ・アクティーヴァ)モデル」とこれに基づく政府介入/社会契約の正統化論。最後に、ハイエクの自生的秩序論に代わる/あるいは幸福の経済原理としての、「自生的な善き生の理論」です。以上の諸理念を体系的に展開することによって、小生はこれまで「自生化主義」と自ら呼んできた思想の輪郭を、ようやく掴むことができたように思います。

むろん拙著の思索は、否応なく同時代に縛られています。この時代の知を一歩先に進めて、次の世代にバトンタッチすることがせめてもの小生の願いであります。皆様のご関心あるいは専門知の御立場から、ご助言を賜ることができますと幸甚です。

(なお、拙著の副題は「来るべき福祉国家の理念」としましたが、これはオーネット・コールマンに敬意を払い、The Shape of Jazz to Comeから翻案しました。)

 最後になりましたが、皆様のご健康を、心よりお祈り申し上げます。

謹白

20212

橋本努


目次

橋本努『自由原理』目次

序章 問題と構成

第1章 福祉国家の根本問題

0.はじめに

1.社会民主主義から現代へ

2.福祉国家の類型学

2-1.愛徳〔カリタス〕とボランティア

2-2.神に似た貧者たちの氾濫

2-3.規律訓練権力の動員

2-4.「生権力」を用いる国家

2-5.温情的な家父長制的配慮

2-6.共通善と自律の補完関係

2-7.討議する国家市民の要請

2-8.福祉国家を超える想像力

2-9. 人間能力の全面開花

3.まとめ:福祉国家の根本問題の九カテゴリー

第2章 福祉国家の哲学的基礎――潜勢的可能性としてのケイパビリティ

0.はじめに

1.ケイパビリティ概念をめぐる論争

1-1.厚生経済学との関係

1-2.格差原理の補完か、平等な配慮か(ロールズとの関係)

1-3.資源主義との比較(1)ドゥウォーキンの批判

1-4.資源主義との比較(2)ポッゲの批判

2.アリストテレス主義との比較

2-1.ケイパビリティよりも機能の重視

2-2.ヌスバウムの別の可能性

2-3.この節のまとめ

3.ケイパビリティ概念の分析

3-1.選択の自律

3-2.一次機能と二次機能

3-3.変換能力と機能的等価物

4.潜勢的可能性としてのケイパビリティ

4-1.器〔キャパシティ〕論

4-2.潜勢的可能性の自己目的化

4-3.保障モデルと潜勢力モデル

5.おわりに

第3章 いかなる介入を正統化すべきか――リバタリアン・パターナリズムの射程(1)

0.はじめに

1.範例としてのカフェテリア問題

2.リバタリアン・パターナリズムの創造的な特徴

2-1.リバタリアニズムから一歩先へ

2-2.適用範囲は限られているはずなのに創造的

2-3.合理的経済人を想定するわけではない

3.批判者たちを包摂する戦略

3-1.主体化型の自由主義〔リベラリズム〕を包摂する

3-2.熟議民主主義を包摂する

3-3.限定合理性学派を包摂する

4.どのリバタリアン・パターナリズムを支持するか

4-1.コロブキンの類型

4-2.新たな類型論の提案

5.アスリート・モデルによる政府介入擁護論

第4章 自律していない者たちの社会契約――リバタリアン・パターナリズムの射程(2)

0.はじめに

1.システム1とシステム2の連携パタン

1-1.システム1とシステム2の4区分

1-2.システム2の怠惰への支援/代行

2.いかにシステムを連携させるか

3.リベラルな啓蒙主義vs. 成長論的自由主義

3-1.システム1/システム2に対応する政府の介入

3-2.理性の怠惰傾向に対処する政府

3-3.政府レベルにおける対応の対立

4.おわりに

第5章 幸福の経済原理――自生的な善き生〔ウェルビイング〕の理論

0.はじめに:幸福論の興隆

1.選好順序としての価値

1-1.効用から選好へ

1-2.全般的な選好形成の三つの特徴

2.判断の準拠点

2-1.当事者視点の再構成

2-2.基準としてのプルーデンス:処世術と社会の繁栄

2-3.包括的目的の意義

2-4.隠された企て

3.欲求の器

3-1.十分な情報と充足されるもの

3-2.器のなかの卓越主義

3-3.潜勢的可能性とコミットメント

4.総量の最大化

4-1.普遍主義と特殊主義

4-2.総量増大の企て

4-3.欲求を考慮に入れた場合の問題

5.指標論の背後にある人間像

5-1.目指すべき媒介指標

5-2.不満足なソクラテス

5-3.富者や権力者への共感

6.自生的な善き生の理論

6-1.無知なる人間

6-2.自生的な多産性

6-3.回顧された生

6-4.もてなされた生

あとがき

文献一覧

索引


「まだ論じられたことのない、自由の三つの新しい始原」シノドスでの自著紹介エッセイ

 振り返ってみると、私は「自由」をめぐって、さまざまに書いてきました。ぐるぐると思考をめぐらせて、のたりのたりと考えてきたテーマが「自由」です。「自由」は私にとって、人生をささげるテーマの一つになりました。

 なんでそんなに自由について考えるのかというと、最初のキッカケの一つは、大学生のときに「東欧革命」(1989年)が起きたことでした。

 東欧の共産主義諸国がなだれを打つように崩壊する事態に、当時の私はうろたえました。それまではなんとなく、共産主義のほうがすぐれているのではないか、と思ったりしていました。おそらく、80年代の日本のニューアカデミズム(=ニューアカ)に影響されていたのでしょう。資本主義社会に対する「アンチ」という態度が、美しい生き方のようにみえました。

 しかし、共産主義の諸国は崩壊してしまいます。共産主義者たちは、自由の問題を甘く受け止めていたのでしょうか。私はそういった疑問から、研究の世界に入っていきました。

 もう一つには、それから約10年経って、今度はアメリカで「9.11世界同時多発テロ」(2001年)が起きました。ニューヨークでは、二機の飛行機をハイジャックしたテロリストたちが世界貿易センタービルに激突するという大惨事が起きます。私はたまたまそのときニューヨークで暮らしていたので、かなり深刻な打撃を受けました。ニューヨークでは事件後、しばらくのあいだ郵便物に炭疽菌を入れて送りつけるという、無差別テロが続きます。郵便局員を含めて、何人もの方々が亡くなりました。当時はいつ死んでもおかしくない状況だったのです。

 いったいアメリカを中心とするグローバル社会は、なぜテロリズムの標的となるのでしょうか。この問題に何とかして答えなければならない。私はいわば、お尻に火がついた状態になりました。

 それからさらに約10年が過ぎて、今度は東日本大震災と福島での原発事故(2011年)が起きます。この事件は、私を含めてすべての日本人にとって深刻な影響を与えたように思います。日本社会はこれからどうなってしまうのでしょう。そもそも原子力発電とは、国家による計画経済システムではなかったでしょうか。この出来事をきっかけにして、私は原子力発電と環境倫理の問題に、真剣に向き合うことになりました。

 私が「自由」について考えるとき、以上の三つの出来事は、決定的な影響力をもちました。こうした大きな難題を乗り越えるために、私たちは何をすべきなのでしょうか。社会はどうあるべきなのでしょうか。その理念を示すことこそ、私は自分が目指すべき社会哲学の課題であると受け止めました。拙著『自由の論法』、『帝国の条件』、『ロスト近代』の三冊は、それぞれの出来事を受けて、経済思想や国際政治や社会学などの諸領域での研究をまとめたものです。

 そして今回、拙著『自由原理――来るべき福祉国家の理念』では、これらの本で展開した思想のアイディアを熟成して、哲学的な次元で体系的に展開しています。拙著『自由原理』は、この数年間の思索をまとめたものではありますが、私の人生を代表する作品になるようにも思います。タイトルを自由の「原理」と名づける以上、私は本書で、この言葉に恥じない内容を展開したつもりです。ここで「原理」というのは、信念や行動や思考を体系的に展開する際に、その基礎となる根本的な真理や命題のことです。

 では自由の根本原理とは何でしょうか。歴代の自由の思想家たちは、「政府からの自由」とか、「人格の完成」とか、「自律」とか、いろいろな理念を掲げて、自由の原理的な考察を展開してきました。けれども私は拙著『自由原理』で、まだ論じられたことのない、自由の新しい原理(始原=アルケー)があると主張しています。

 私の考えでは、三つの新しい原理があります。一つは、アマルティア・センの「できること(ableness)としてのケイパビリティ」に代わる「潜勢的可能性(ポテンシャリティ)としてのケイパビリティ」です。もう一つは、サーンスティンのリバタリアン・パターナリズムに代わる「アスリート・モデル」、言い換えれば、あこがれを媒介にした活動的生(ヴィタ・アクティーヴァ)です。またこれと関連して、自律していない者たちが社会契約して社会を作る場合の原理です。第三は、ハイエクのいう自生的秩序に代わる「自生的な善き生」です。この「自生的な善き生」という言葉は私の造語であり、これを説明するには時間を要するでしょう。詳しくは拙著に譲りますが、簡単に言うと、私たちは自分がどんな「善き生(ウェルビイング)」を求めているのか、どんな幸福を求めているのか、実はあまりよく分かっていないにもかかわらず、善く生きることができる。ではそれはどのようにして可能なのか。この問題に答える原理であります。

 以上の三つの自由原理は、自由の新しい始原として提出されています。私はそれぞれの原理を、アマルティア・セン批判、キャス・サーンスティン批判、フリードリッヒ・ハイエク批判という、思想的な対峙と超克のなかで明らかにしています。そしてこれら三つの原理は、互いに結びついて一つの思想体系をなしています。それを一言で表すと、「自生化主義」という言葉になるでしょう。ただしこれも私の造語であります。

 自由論といえば、バーリンの「積極的自由(~への自由)/消極的自由(~からの自由)」の区別が有名です。しかしこの区別を用いると、なかなか深く考察することができない。自由はもっと、実質的なものとして考察する必要がある。自由の問題を突き詰めて考えて、人間の福祉(ウェルビイング)全般を増大させるための国家の新しいビジョンを提起しようというのが、拙著の狙いです。

 これは言い換えれば、天下国家を論じる、ということであります。批判もたくさんあるにちがいません。ただこうした思想研究の醍醐味は、他人の意見に納得することではなく、私たちがコミュニケーションを通じて、互いに自分の意見を掘り起こすことにあります。拙著が国家百年の計を論じる公論のための、一つの捨て石となれば幸甚です。

https://synodos.jp/library/26989/


書評『毎日新聞』2021年6月19日、橋爪大三郎評

橋本努「自由主義についてのフランスと日本の対話

(フランス語同時通訳のための読み上げ原稿、『自由原理』の簡単な紹介)

橋本努『自由原理』「序章」の英訳 | 目次の英訳

【対談】橋本努×若森みどり「自律を超える善き生(ウェルビイング)の理想を探る――橋本努『自由原理――来るべき福祉国家の理念』をめぐる対談

シノドス 2022.04.20.掲載 https://synodos.jp/opinion/society/27929/