ロスト近代

Lost Modernity

A New Driving Force of Capitalism


ロスト近代

資本主義の新たな駆動因


弘文堂 本体2,200円+税

2012年5月刊行

資本主義を再起動する【帯】

勤労精神の喪失(ロスト)、欲望の喪失(ロスト)。

劣化していく日本社会。

ポスト近代社会の煮詰まった停滞を破り、

3.11後の日本社会を第二の文明開化へと転換する。

気鋭の社会学者による、

渾身の書き下ろし現代社会論


日本の未来図を描くために

あいさつ


『ロスト近代』

橋本努著・弘文堂・2012515

ごあいさつ


謹啓

例年よりも寒さの厳しい冬がようやく過ぎ去り、急に初夏のような、暖かい春の日々を迎えております。皆様、いかがお過ごしでしょうか。平素は、格別のご高配を賜り、厚くお礼申し上げます。

先週、福島県で桜が開花したというニュースが伝えられました。福島県の富岡町夜の森地区には、およそ2.5キロにわたる桜並木の名所があるそうです。明治33年(1900年)以来、住民たちの手によって植えつづけられ、いまでは2,000本の桜がトンネルをなし、観光客を含めて毎年約10万人が訪れる場所となっていました。ところが、昨年311日後の原発事故によって、同地区は立ち入り禁止区域に指定され、いまはただ、桜はひっそりと咲き乱れては、散りゆくほかありません。その様子を想像するだけでも、さまざまな思いがこみ上げてきます。

 私たちの社会はいま、戦後最大の困難に直面しています。東日本大震災と原発事故は、この社会をどこへ導くのでしょうか。これまで私たちは、地球温暖化を憂慮して、二酸化炭素排出量を減らすために、原子力エネルギーに頼ることが当然であるかのように考えてきました。ところが現在、温暖化問題などは二の次となり、むしろ原子力エネルギーへの依存を克服できるかどうかが問われています。

 3.11を受けて、私たちは時代の大きな変化を見据えなければなりません。このたび上梓しました拙著『ロスト近代』は、原発事故の問題を、「ポスト近代」から「ロスト近代」への時代変容のなかで位置づけ、日本社会が抱える諸問題を、「資本主義の駆動因」という観点から検討しています。大風呂敷を広げて、私たちの社会の行く末を論じています。皆様のご高配を乞う次第です。

 いまから約5年前、小生は拙著『帝国の条件』を上梓し、同書のなかで2001911日にニューヨークで起きたテロ事件(航空機ハイジャックによる、ニューヨークのツイン・タワーの破壊)以降の世界の変容について検討しました。9.11から約10年が経ち、今度は3.11大震災と原発事故が起きました。9.113.11という、この二つの事件は、現代社会を深いところで規定しているように思われます。本書『ロスト近代』は、いわば『帝国の条件』の姉妹編であり、現代社会がかかえる問題を、とりわけ国内の文脈に則して、思想的に掘り下げています。

本書に新味があるとすれば、グローバル化の影響を受けた現代の福祉諸国家が、新自由主義の諸政策を大胆に取り入れた結果、「北欧型新自由主義」というモデルが到来していることを、指摘する点にあるでしょう。あるいはまた、「欲望消費」駆動型の資本主義に代わる「環境」駆動型の資本主義を提起した点に、新しい視角があるでしょう。そのほかの論点につきましては、本書の「はじめに」をご笑覧いただけると幸いです。

 最後になりましたが、皆様のご健康を、心よりお祈り申し上げます。

謹白

20125

橋本努


はじめに


『ロスト近代 資本主義の新たな駆動因』

橋本努著・弘文堂・2012年5月刊行

はじめに


 宴は終わり、下り坂を迎えた日本社会。私たちはこれから、どこへ向かうのだろう。

 二〇〇六年にピークを迎えた日本の人口は、五〇年後にはその三分の二まで減るのではないかと言われている。平均的な可処分所得はすでに、一九九七年を境にして下落傾向に転じている。一人当たりの実質GDPもまた、二〇〇七年から下落傾向にある。大学生(下宿生)が一か月に使える平均的な生活費(住居費を除く)は、二〇一〇年には、最大時の一九九二年に比べて、四分の三の六万三、〇〇〇円にまで下がっているという。

 「ポストモダン消費社会」を謳歌した日本の栄華は、もはや過去の話となってしまったのであろうか。代わって「失われた一〇年」とか「二〇年」といわれる低成長の時代が、すっかり定着してきた。ひょっとするとあと数年もすれば、日本はギリシアのような財政破綻国家になるかもしれない。あるいは日本の経済レベルは、新興諸国に追いつかれるかもしれない。そんな不安が、私たちの脳裏をよぎっている。

 先々のことを考えると気が滅入ってくる。そんな時代の在り様を、本書はひとまず「ロスト近代」と呼んでみた。「ロスト近代」とは、「ポストモダン」=「ポスト近代」の後に訪れた社会である。贅沢な記号消費に彩られた「ポスト近代」社会が終焉し、斜陽に包まれた社会が到来した結果、私たちの思考習慣はいま、根底から揺らいでいる。かかる現代の歴史的位相を、大局的に掴んでみようというのが本書の狙いである。

 日本社会はむろん、決して脆いわけではないだろう。私たちは新興諸国の勢いを目の当たりにして、相対的な「剥奪感」を感じているだけなのかもしれない。だがそんな最中に生じた出来事が、二〇一一年三月一一日の東日本大震災と原発事故であった。とりわけ原発事故は、戦後最大の危機であり、この時代の困難をさらに深刻なものにしている。日本社会を一つの身体にたとえるならば、私たちはあたかも、自らの身体から血を流すかのように、福島の原子力発電所から放射性物質を撒き散らしているのではないだろうか。このおぞましさに、私たちはどこまで耐えられるのだろう。

 大震災とその後の原発事故によって、多くの人命と生活が奪われてきた。ある人は故郷を追われ、ある人は最愛の人を失った。私たちはまた依然として、放射性物質による生命の緩やかな致死におびえている。原発行政を主導した官僚制マシーンとしての近代国家の威信も揺らいでいる。こうした諸々の喪失は、「ロスト近代」の本質を抉り出しているのではないだろうか。この時代に失われたものとは、端的に言えば「未来」である。未来を根拠として現在の否定性を受け入れるという、精神のメカニズムである。そのような喪失の感覚が広がる現代において、私たちはどんな社会構想を企てることができるのだろうか。本書ではとりわけ、ゼロ年代の社会を診断しながら、時代を導くための規範理念について考えてみたい。

 以下、本書の内容を要約しよう。

 第一章「近代・ポスト近代・ロスト近代」は本書の「理論編」であり、導入であると同時に中核をなしている。新たに「近代」「ポスト近代」「ロスト近代」という時代認識の枠組みが提示され、「ロスト近代」社会の駆動因が探究される。ごく簡単にいえば、「近代」とは人々の勤勉な労働によって駆動される社会であった。これに対して「ポスト近代」とは、人々の欲望消費の増大によって駆動される社会であった。では「ロスト近代」は、どんな駆動因をもっているのだろう。ネグリ=ハートのマルチチュード論、センのケイパビリティ論、あるいは「第五の競争軸」論などを手がかりに、「潜在的可能性」をめぐる新たな理論を示したい。

 つづく第二章から第八章までは、主としてゼロ年代の社会を対象とした「分析編」である。第二章「ロスト近代 表層から深層へ」は、「リベラリズム」と「自己愛消費」が構造的なカップリングをなしていた九〇年代から、グローバル化とともに「サヴァイヴ感」を増していったゼロ年代への転換を描きだし、「記号消費」から「価値消費」への変化、「貧困」問題のシンボリックな意義上昇、あるいは「寄与経済」の発達といった特徴から、「ロスト近代」の新しい駆動因に迫っていく。

 これを受けて第三章「格差社会論 ゼロ年代の中心」では、ゼロ年代の論壇の中心にあった「格差社会」論を正面から検討している。格差意識の増大をもたらした要因は、およそ三つあるだろう。(1)高齢化、(2)「ポスト近代」社会の成功、および、(3)経済の鈍化である。これらの原因を究明することによって、それぞれに相応しい対応策を立てることができるが、加えて本章では「可能性剥奪テーゼ」と「物質的阻害テーゼ」という論理を立て、「ロスト近代」においてはとりわけ「子どもへの支援策」が必要であることを明らかにする。

 第四章「北欧型新自由主義の到来」は、「格差社会」を克服するためのビジョンとして語られることの多い「北欧型」の社会モデルについて検討している。実はすでに、北欧諸国は新自由主義化している。するとその理想は「北欧型の新自由主義」ということになるだろうか。有名なエスピン=アンデルセンの類型論を超えて、比較制度分析の新たな地平を示しつつ、北欧型新自由主義のモデル(潜在能力促進型の福祉国家)が「ロスト近代」に対応した普遍性をもつことを示したい。加えて、イギリスで導入された「チャイルド・トラスト・ファンド(児童信託基金)」が、このモデルに接合されることも示したい。

 「北欧型新自由主義」のモデルは、福祉国家と市場経済の新たな地平融合であり、ギデンズの「第三の道」とは異なる「第四の道」であると言うこともできる。それは「ロスト近代」の駆動因を提供する点でも魅力的である。ただこのように述べると、新自由主義が宿すさまざまな問題を過小評価することになりかねない。新自由主義は、リーマン・ショックのような世界金融危機をもたらしたのではないか。

 かかる問題に応じるべく、第五章「ローマ・クラブ型恐慌への不安と希望」は、新自由主義をめぐる金融政策と財政政策、および、政府主導の資源政策と技術開発について検討している。まず、リーマン・ショック後の経済危機は、政府主導の重商主義政策に起因したものであり、必ずしも市場に内在的な危機ではないことを明らかにする。しかし資源問題に対する私たちの不安は、新たな重商主義を呼び寄せている。現代の市場経済は、内在的な不安定性を抱えないとしても、ルーマン的な意味での「残余リスク」を構造化するために、実効的な政策は重商主義にならざるを得ない。だがいったい、重商主義は、私たちをどこへ導くのだろうか。本章では、「ロスト近代」の位相を見定めつつ、ローマ・クラブ型恐慌に対する私たちの「不安」が、祝福された精神(エートス)になりうることを示したい。

 ローマ・クラブ型恐慌とは、世界的な資源問題に起因する社会変動である。実際問題として、「ロスト近代」社会は、グローバル化とともに到来している。グローバリゼーションは、私たちの生活に「遠心力」をもたらし、さまざまな潜在的可能性をもたらしてきた。ところがグローバリゼーションは、実際には私たちの可能性を奪っている。この逆説に抗して、人々の「潜在的可能性」の全面開花という理想を掲げたのが、反グローバリズム運動であった。グローバル化と反グローバリズムの弁証法は、いかなる止揚を遂げるのか。第六章「グローバル化の逆説」では、ロスト近代の駆動因という観点から過去約二〇年間の世界史を振り返り、反グローバリズム運動が果たした意義を評価したい。

 つづく第七章と第八章は、三・一一大震災と原発事故の問題を検討している。第七章「3・11大震災と原発事故を考える」は、3・11大震災と原発事故が「明治維新」(一八六八年)や「敗戦」(一九四五年)と並ぶ時代の転換点になるとの認識から、その歴史的な位相を分析する。「明治維新」との比較で言えば、私たちに求められているのは「第二の文明開化」である。また「敗戦」との比較で言えば、求められているのは「無責任体制の克服」である。しかし原子力発電の体制は、「サブ政治」がはらむ問題ゆえに、責任倫理の問題を制度的に解決することができない。その理由を本章では、とりわけ原子力安全委員会委員長の斑目春樹の言動を分析しつつ、明らかにしたい。「無責任の体制」を克服するためには、私たちが「安楽の全体主義」を超える精神をもたなければならないと主張する。

 だがしかし、精神論を超えて、私たちは電力供給をめぐるどんな制度構想を掲げることができるのだろうか。この問いは「ロスト近代」の根幹に関わってくる。思想的には「リベラリズム」も「国家型コミュニタリアニズム」も明快な答えをもたない。「社会的費用論」や「競争入札理論」のような経済学説も答えにならない。第八章「グリーン・イノベーション論」は、自生化主義(ないし成長論的自由主義)の理念に基づいて、電力の中央計画経済体制を超えるための、自律分散型の人工市場システムをデザインしたい。環境税、市場プル戦略、優先接続などの政策理念を体系的に検討し、地方自治体に期待される役割についても示唆を与えたい。

 最終章となる第九章「ロスト近代の原理」では、ふたたび理論的な問題に立ち返って、この時代の駆動因を思索する。環境問題への対応、あるいはエコロジカルな生活様式の企ては、いかにして資本主義の新たな駆動因となりうるのか。「自然の本来的価値」論から出発して、自然の模倣(バイオミミクリー)論に進み、環境市民の実践思想を展開することでもって、「環境駆動型資本主義の思想的根拠」を明らかにする。環境市民は、すでに確立された第一級の文化を取り巻くよりも、もっと高貴な生き方があると考える。ポスト近代文化の煮詰まった停滞を打破するための「高貴な野生人」の理想があると考える。その理想について、最後に検討したい。


目次


『ロスト近代――資本主義の新たな駆動因』

橋本努

目次


はじめに

第一章 近代・ポスト近代・ロスト近代

0.はじめに

1.不可能性の時代?

2.「近代」の駆動因

3.「ポスト近代」の駆動因

4.「ロスト近代」の駆動因

5.自然の本来的価値を求めて

第二章 ロスト近代 表層から深層へ

0.はじめに

1.社会の新たな変動がはじまった

2.自己愛消費の終焉

3.情報無料化の時代

4.第三領域の失効

5.シンボリックに発見される「貧困」

6.象徴的「貧困」を克服するために

第三章 格差社会論 ゼロ年代の中心

0.はじめに

1.ゼロ年代の格差論を振り返る

2.論者たちのスタンスからみえてくるもの

3.高齢化ゆえの帰結

4.「ポスト近代」社会の成功ゆえの帰結

  4-a.若年労働者問題

  4-b.将来世代に希望を託す:子ども格差

5.鈍化した経済ゆえの帰結

  5-a.賃金の低下

  5-b.成果主義と競争原理の導入

  5-c.高学歴ノーリターン問題

  5-d.既得権層への不満

6.「ロスト近代」の視点で考える

  6-a.可能性剥奪テーゼと物質的阻害テーゼ

  6-b.スーパーリッチと相対的貧困率

第四章 北欧型新自由主義の到来

0.はじめに

1.新自由主義化によって成功した北欧諸国

  1-a.大きな政府でも経済成長するようになってきた

  1-b.北欧諸国の新自由主義化

  1-c.アンデルセン・モデルの収斂?

  1-d.北欧を目指すならせめてアメリカ並みに?

  1-e.フィンランドの教育に学ぶ

2.新自由主義の諸相

  2-a.新自由主義の誤解を解く

  2-b.新自由主義の諸類型

  2-c.論争の収斂としての北欧型新自由主義

3.ロスト近代の社会秩序

  3-a.社会的包摂の変容

  3-b.子供信託基金

第五章 ローマ・クラブ型恐慌への不安と希望

0.はじめに

1.サブプライムは問題の本質ではない

  1-a.「100年に一度」の嘘

  1-b.サブプライム問題がなくてもバブルは生じた

2.新自由主義と新重商主義

  2-a.パニックは不均衡の累積化ではない

  2-b.金融規制を求めるリバタリアニズム

  2-c.新自由主義批判の虚実

3.社会構造の理論

  3-a.ミンスキーの金融理論

  3-b.ルーマンのリスク論

4.ローマ・クラブ型恐慌

  4-a.ローマ・クラブの報告

  4-b.地球温暖化問題との比較

  4-c.祝福を受けた不安

第六章 グローバル化の逆説

0.はじめに

1.グローバリズムの歴史――過去二〇年間を振り返る

  1-a.経済

  1-b.社会運動

  1-c.政治

2.新自由主義の変容

第七章 311大震災と原発事故を考える

0.はじめに

1.文明の視点で考える

  1-a.明治維新と文明開化

  1-b.第二の敗戦

  1-c.関東大震災

  1-d.水俣病

2.無責任の体制としての福島第一原発事故

  2-a.原発事故の責任は誰にあるのか

  2-b.「サブ政治」の落とし穴

  2-c.原子力安全委員会の場合

3.安楽の全体主義を超えて

  3-a.原発のコストをめぐって

  3-b.鉄腕アトム問題と現代の「悪」

第八章 グリーン・イノベーション論

0.はじめに

1.原子力エネルギーからの脱却

  1-a.長期的な成長の理念

  1-b.電力供給をめぐる思想的問題

2.自然エネルギー導入をめぐる思想理念

  2-a.第三次産業革命

  2-b.自律分散型の技術編成

  2-c.コミュニティ(地方自治体)主導の必要性

  2-d.自律分散型社会のシナリオ

3.自然エネルギー促進のための制度理念

  3-a.税制の理念

  3-b.補助金の考え方

4.国と地方の役割分担

  4-a.いくつかの先駆的事例

  4-b.政府と地方自治体の課題

  4-c.自然エネルギー導入の問題点

第九章 ロスト近代の原理

0.はじめに

1.アリストテレス主義の拡張

2.バイオミミクリー

3.環境市民:新たなロマン主義の誕生

4.高貴な野生人としての環境市民

あとがき

文献

索引


「近代」とはなにか 事典項目


「近代(主義)」

[] modern, modernism

『現代倫理学事典』弘文堂、2006年、所収

橋本努(執筆)


 英語のモダンは「近代(的)」とも「現代(的)」とも訳される。「近代」とは、封建社会から脱皮した資本主義社会(あるいは市民社会)、とりわけその商業-工業段階(産業社会)を指す言葉であり、また同時に、その社会の理想となる諸価値(科学・進歩・啓蒙・普遍など)が流布していく過程を意味する。これに対して「現代」とは、時代現象として捉えた場合の現在を意味すると同時に、現在の社会関係のなかに未来へ向かう進歩の一契機を見出して、それを時代の特徴とするものである。近代の諸価値を体現するものは「近代的」と呼ばれ、また評価の定まらない新しい社会現象は「現代的」と呼ばれる。

 「近代主義(モダニズム)」は、元々18世紀の主観主義哲学や神学において、カトリックの教理(天啓など)を科学的な見地から批判する運動として生じた。19世紀になると、カトリック教会はとりわけ第一回バチカン公会議(1870)において教義の一本化と制度の集権化を計り、近代科学の知見を無神論・不可知論であるとして拒絶する。しかし近代主義はこれに反対して、歴史学的方法による聖書批判などを行った。このころからカトリック教会の影響力は次第に薄れはじめ、ニーチェ(Friedrich Nietzsche)やウェーバー(Max Weber)は、近代化された無神論社会において、人間の精神が危機的な状況にあることを問題化している。

 近代主義という言葉は他方で、19世紀から20世紀中頃にかけて、資本主義社会の発展を主導する時代精神そのものを意味するようになった。すなわち、進歩主義、科学的啓蒙、業績主義と実力主義、大量生産・大量消費型の産業化、禁欲=勤勉の労働倫理、画一化された個性、などのイデオロギー的総称である。近代主義は、伝統や束縛から自由な主体を理想として、政治的には「市民社会」と民主化の運動を導いた。しかし19世紀の社会は依然としてブルジョア階級による支配体制であり、労働者の社会的・政治的権利は十分に保証されていなかった。それゆえ当時の社会主義運動家たちにとって、近代主義とは支配体制に順応的なブルジョア意識と同義であるとされ、超克すべき対象とみなされた。現実的な政策を探る社会民主主義者たちは、近代主義の徹底による市民社会の充実を訴えたが、同時に近代主義の徹底は、近代社会における制度や道徳や知性のあり方を根源的に問い直すという懐疑主義を生み出し、そしてその懐疑から、政治的アナキズムを目指す急進主義が生じた。これに対して急進主義の背徳性や頽廃化を批判しつつ、近代の諸悪を超える近代社会の理想を掲げたのが全体主義であった。

1920年代には、芸術における前衛派が近代主義と呼ばれた。未来派、キュビズム、構成派、ダダイズムなどの諸派は、停滞するブルジョア社会の文化を超えて、来るべき社会主義社会の徴候となる文化表現を模索した。それらは同時に、都会的で享楽的な文芸・文学の運動でもあった。

第二次世界大戦後、全体主義の反省から、再び近代主義の意義が上昇する。資本主義社会を乗り越えるためには、個を滅した有機的な社会結合ではなく、まず近代主義を徹底して、主体性と個体性を確立することが重要な課題であるとみなされた。また戦争の勝利国であるアメリカとイギリスは、近代化がもっとも進んだ国であるとみなされ、これら二つの国の理想的な側面をもって「近代的」と呼び、後進諸国はこれを模範として、英米化を計ることが「近代化」政策の目標とされた。日本では、英米のみならず独仏を含めて、日本社会の欧米化を計ることが戦後の目標となった。「日本的」と呼ばれる封建的な文化様式を捨てて、真の自我を確立した欧米社会を見習うこと、そのために、欧米滞在経験と横文字テキストの読解力を重視することが、近代主義の文化的特徴とされた。いわば、すでに近代化を遂げたとみなされる諸国の文化水準に追いつくことが近代主義の態度であり、その態度は、日本経済が高度成長を達成する1980年代前半まで支配階級の規範となった。

 高度経済成長期の社会体制は、19世紀の時代精神である近代主義を継承したが、これに対する批判は、マルクス主義と実存主義によってなされた。この二つを結合したサルトル(Jean Paul Sartre)の思想は、来るべき社会主義社会を無限遠方に目標として掲げながら、近代主義の最も先鋭的な部分に身を投じていく、という考え方を示している。しかし1980年代以降になると、高度情報化社会の到来とともに、ポストモダニズムの思想が台頭する。科学主義よりも文芸主義、進歩主義よりも保守主義、画一的消費よりも差異の消費、禁欲精神よりも異文化感応的な漂流の精神、西欧中心主義よりも多文化主義、などの重視によって、近代の終焉が語られるようになる。現在、ポストモダンの思想はさらに相対化され、グローバル化とネオリベラル化が進行する社会を、民主社会と市場経済の普遍化を特徴とする「近代化の新たなプロジェクト」として理解する動きがある。

【関連項目】

【主要文献】アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?:モダニティの帰結』松尾精文/小幡正敏訳、而立書房1993年、佐藤俊樹『近代・組織・資本主義:日本と西欧における近代の地平』ミネルヴァ書房1993.