第19回
自己の特権と社会の権力関係に目を向け、変革に繋げる分析方法
自己の特権と社会の権力関係に目を向け、変革に繋げる分析方法
パトリシア・ヒル・コリンズ、スルマ・ビルゲ『インターセクショナリティ』(人文書院、2021年)
概要
開催日:2022年7月
課題本:パトリシア・ヒル・コリンズ、スルマ・ビルゲ『インターセクショナリティ』(人文書院、2021年)
参加者:Kimiko、berner、azusachka、アントニン、薪(聴講)
内容:インターセクショナリティについて学ぶ
選書担当:berner
議事録作成担当:Kimiko、azusachka
標題作成:berner
選書の理由
前回はBLMを学んだ。その中に、インターセクショナリティという分析概念が重要であると書かれていた。
近年よく耳にする言葉でもある。
BLMだけではなく、他の事象についてもこの分析がどういうふうに使えるのか知りたい
ブラックフェミニズムから生まれた概念だから気になっていた。
感想
昔からあるものではあるけど、名前がつくことの大切さ
「インターセクショナリティ」という言葉が出てくる背景の研究史(第3章)が一番勉強になった。なぜインターセクショナリティという語が出始めたのか。言葉はなくても研究実践や関心はあったけれど、それを一言で表す言葉が生まれた。
例えば「マンスプレイニング」のように、昔から存在する事象だけど近年名前がついたものがある。それと同様、インターセクショナリティの考えは昔からあったものだけど、名前がついたことに意義がある。名前があることで認識しやすくなるから。
言葉はなくても、昔から社会実践はあった。マイクロクレジット(グラミンバンク)がインターセクショナリティの実践として挙げられていて驚いた。この取り組みについては元々貧困対策として捉えていたけれど、確かにこれは女性への低利融資であり、インターセクショナリティの実践として捉えることもできる。しかも成果を上げている事例。
フェミニズムだけじゃなく多くの社会問題に取り組むヒントになる
学生時代、自分は『白人女性と黒人男性の異人種間結婚』について研究していた。ジェンダー・人種研究という2つのカテゴリーを扱っていたため、「インターセクショナリティ」の言説は自分の身にスッとはいってきた。 +α複数の視点で物事を考える大切さを改めて考えた
最も印象に残ったのは、アイデンティティ・ポリティクスへの批判(第6章・263頁~)
「アイデンティティ・ポリティクスを主張する人々は犠牲者的な立場にしがみついている」という批判がある
関西に住んでいた頃、在日外国人や被差別部落の問題が身近だった。当時聞いた、「税金や職業で優遇されている」「自分たちは何もしないでいいとこばかりとっていく」という言説を思い出した。そういう言説にはどう対応すべきなのか。様々な差別が複数のカテゴリーによって複雑に交差しているという眼差しを理解することの大切さ。
フェミニズムだけではなく、多くの社会問題・差別に取り組むヒントになる
自分は黒人研究が専門なので、ジェンダー・人種・階級でみるのは当たり前という感覚。なので新しい視点とは感じなかったが、アメリカ以外のことにインターセクショナリティを用いて考えられるかと言われるとそうではない。例えば医療行為(白人中産階級のやり方が基本になっているため有色人種が生きにくい)、日本のフェミニズムがなぜ80年代ダメだったのか(植民地主義や天皇制を批判できなかったから)、など。この本を読んで様々な視点が必要だと思った。
実践は、個人が特権に気付くこと(個人的なこと)と、どう権力と抑圧が繋がっているのか考えること(制度批判)の両輪で進めていく必要がある。インターセクショナリティは、複数のカテゴリの関係性を見ていくもの。権力や抑圧、制度批判という点で、欧米だけではなく日本やその他の国についても適用ができる。
「共生」と自分の特権性について
最近アイヌ差別やトランス女性差別、セックスワーカー差別について考える機会が多く、自分の特権性について自覚せざるを得なかったので、個人的にタイムリーだった。この読書会の方向性として、今まで自分は被抑圧者の立場でフェミニズムを学んできたから、次はしばらく特権側の立場に自覚的になれるようなテーマをやってみるべきかなと思った。インターセクショナリティの視点に立って。部落女性差別、アイヌ女性、沖縄女性、在日朝鮮人女性、障害者女性など。
自分は、大学院では「グローバル『共生』社会分野」という専攻に所属していた。現代思想の雑誌(p.20)にも取り上げられていたように、「共生」という言葉を使うことにはもっとセンシティブになったほうがいいのかなと思った。自分たちの特権性に気が付かず共生という言葉を使うことの難しさを学んだ。
『現代思想』の対談(石原真衣・下地ローレンス吉孝)でも触れられていた内容。例えば白老のウポポイは「民族"共生"象徴空間」とされるけど…
当事者じゃなくても研究できるし、しなければいけない
日本人が外国の歴史を研究する際、「なぜその必要があるのか」と言われることがある。
でも、当事者ではないからこそ持てる視点もあるし、属性としては当事者ではなくても問題意識は当事者だったりする。例えば黒人差別問題。アメリカの研究をしていても、日本に置き換えて考えることはできる。
トレンドとして「消費」してしまいそうな自分への反省
「インターセクショナリティ」というキータームが普及しており、自分も会話(アカデミックなものに限らず)で使うようになってきた。
この「インターセクショナリティ」を考えるにあたって、研究と実践の有機的な結びつきが念頭に置かれている。自身の研究に適用できようできる理論として「インターセクショナリティ」に飛びつくのは、そのタームが本来意図するものを削ぎ落すことになりかねない。研究者がこのタームを安易に消費することへの警鐘。そして自分自身がその消費する側に陥っていないかを反省しながら読んだ。
インターセクショナリティを消費していないか どういう場面でそう思う?(質問)
自分の研究内容をうまく説明できるものとして、「インターセクショナリティ」にとびつく感じ。それを使うことで周囲の評価を高めることになるかもしれないが、実践を含めての「インターセクショナリティ」である以上、中途半端な理解で使ってはならないとも感じる。でないと骨抜きにして都合よく研究に適用してしまうという姿勢。
「インターセクショナリティ」ありきで研究するのではなく、結果として「インターセクショナリティ」の言説にたどり着いたというのもあるのでは?
結果的にそう見えればいいんだけど…よく意味も知らずにそれに飛び込んでしまうという態度を「消費」という言葉で表した
インターセクショナリティの誤用はアメリカの大学でよくある。有色の貧困学生を引っ張ってくれば大学の格が上がる、等。でもカリキュラムを考慮したりカウンセリングを準備したりしていないのに、とりあえず貧困学生を集めてキャンパスに集めて終わり、になっている。
「SDGs」・「ダイバーシティ」という言葉について 企業がウリとして使用している時があるが、取り組みについては少し表面的なものと感じることがある。
複合差別とインターセクショナリティの違い
例:黒人女性の受ける差別
複合差別:「黒人としての差別」と「女性としての差別」の両方の差別がある、と捉えられてしまいかねない概念
インターセクショナリティ:黒人女性は黒人女性としての差別の経験がある(交差性)、という考えに焦点があたる
疑問に思った点
インターセクショナリティを用いて考察する属性はマイノリティ×マイノリティ×something elseが一般的だ、とこの本から感じたけれど、マイノリティ×マジョリティ という視点もあるものなのか。
オリジナルサブタイトル
※『インターセクショナリティ』に続くサブタイトルを考えました。読書会のまとめとして、自分なりのサブタイトルを各自で考えて発表しています。詳しくはこちらをご覧ください。
「『白人性』よりまなざす視点」(Kimiko)
「理論と実践、正確な理解への基礎知識」(アントニン)
「複雑なものを複雑なまま理解するために」(azusachka)