第22
写真は撮影者・被写体・鑑賞者が共に意味づけをするアート

笠原 美智子『ジェンダー写真論 増補版』(里山社、2022年)

概要

開催日:2022年11月
課題本:
笠原 美智子『ジェンダー写真論 増補版』(里山社、2022年)
参加者:Kimiko、midori、ノビツムリ、
azusachka
内容:ジェンダー視点で写真論を学ぶ
選書担当:Kimiko
議事録作成担当:Kimiko、azusachka
標題作成:Kimiko、azusachka、Thanks:midori

選書の理由

  • 「ジェンダー×アート」は、前々からやってみたかったテーマ。なぜなら学部時代に学芸員課程を専攻しており、歴史学だけでなくアートにも関心があったから。

  • 「芸術の秋」ということで時期的にも良いかなと思った。

  • 雑誌『芸術新潮』2019年3月号では「女たちの美術」と題して多くの女性アーティストが紹介されており、内容が面白かった。
    (余談だが本誌表紙もレンピッカでとても思い入れのある作品。大学進学を機に上京した際、東京の美術館で初めて鑑賞したのがレンピッカだったため)。

  • 本誌では、「フェミニズム・アート事件簿」という記事があり、フェミニズム史(年表)と各アーティストの作品が併せて紹介されており、興味深かった。
    (ジュディ・シカゴ、マリナ・アブラモヴィッチ等、現代アートを中心に様々なジャンルを紹介)

  • しかし、本誌は雑誌なので読書会向きではなかった。書籍で近刊、かつ読みやすい本で何かないかと探していた。そこで見つけたのが今回の書籍。

  • 買う前に立ち読みしたが、作品と作者をセットで知っている人は少なかった。
    →実はあまり女性の芸術家(写真家)を知らないと思った。併せて写真展覧会に行った機会がほぼないことに気づいた。

  • 学芸員が書いた文章に今まで触れたことがなかったため、読書会をきっかけにして読みたいと思った。
    →図録以外でキュレーターが書いた本を読むのも新鮮だと思い、選書した。

  • 前述の通り、写真の展覧会に行く機会がほとんどなかった私が、皆さんに本の感想とともに聞きたいのが、写真という分野で芸術作品に触れたことがあるか、印象に残ったアーティストがいるかどうか。

感想

  • がんを患った人の写真が特に印象に残った。

    • 「女性は美しくないといけない」という先入観がある。その上さらにがんを患った。そういう状況で撮ったのがすごい。

    • 最近、身内が乳がんになり、(治療の影響で)髪の毛が抜けてしまい外に出たがらなくなってしまった。他人の視線から逃れられない現実を目の当たりにした。治療で髪の毛を失ってしまうのは仕方ないけれど、隠したくなる。視線を受けずに生きていくのは難しい。

  • 本の中に出てきた作品はひとつも知らなかった。絵などを見に行くことはあっても、写真を見に行くことは自分の人生で今までになかった。時代によって撮られ方や流行があることなど、全然知らなかったことに気付かされた。

  • 先入観や常識が写真にも投影される。例えば裸婦像など。昔、自分の生活圏内に裸婦像があってよく近くを通っていたけど、イヤだなと感じていた。

  • 本の構成として、(アート界で主流になりがちな)欧米地域のアーティストだけではなく、(日本含め)インド、韓国といったアジア地域のアーティストも多く取り上げられていたので、それも楽しかった。

  • 選書の理由でも話したが、美術館に行く際、絵画や彫刻はよく鑑賞しに行っていたが、写真はそんなに観たことがない。
    →その理由を今回色々考えたが、(良い意味でも悪い意味でも)写真は写っている
    対象物をリアリティに写しすぎてしまい、グロテスクな印象を抱いてしまう。
    アーティストが鑑賞者に伝えたい思いがとてもストレートに出るため、こちらも
    覚悟をもって鑑賞しないといけないという緊張感がある。体の内臓を見せられて いるようなグロテスクさ、生々しさがある。

  • 写真を見る目的として、記録として残したいから撮っていると思っていた。写真を芸術的に見ていない自分がいた。そもそも芸術作品を見ないから、「写真=そのときになにが起きているか記録として残しておきたい」という気持ちが中心に働くのだと思っていた。
    →しかし、今回紹介されていた本の作品のように、あえて自分を撮る(=セルフポートレート)をする人がいることを知った。そういった写真は、(どういった背景でその写真を撮ろうと思ったのか)、注釈といった言葉がないと分からない。作品そのものだけでなく、言葉も必要なものだと思う。絵画だと解説がなくても楽しめるけれど。

  • 写真は「撮った人は誰か?」を含んでの価値。

    • 最近、斎藤佑樹(元北海道日本ハムファイターズ)の写真展に行ってきた。彼の趣味はカメラで、北海道の風景写真や少年少女野球の写真を撮っていた。斎藤佑樹の写真だから自分は見に行った。

    • 撮影した人のことを知らないと価値がわかりにくいという意味で、写真は「一見さんお断り」的なアートなのかも。

  • 絵画展などには行くけど、写真展にはたしかにあまり行かない。ビルケナウについて描いた絵をあえて写真に換えて、同じ構図のまま写真にした作品を見たことはある。

  • やなぎみわの写真(口絵17)や沢田知子(346頁)の写真が特に印象的だった。海外編の作品では、うーん…と悩んでしまうものがあった。セルフポートレートについての章があったけれど、(自分はスマホ世代なので)自分自身のことを本格的なカメラで撮影していたのか、という点にまず驚いた。

  • 人々が思い描いている女性の「体」と、現実(リアル)世界での女性の「身体」との乖離があり、そのことを問題視して写真を撮って鑑賞者に問うているような作品が散見された。
    →社会で「イメージ」されている女性像と、そうではない自分の実在する姿を撮ったのがセルフポートレートではないだろうか。

  • 蔵真墨の「街で偶然にすれ違う普通の人たち」の写真(417頁)は嫌い。その街に暮らす人々を被写体にして、コンテンツとして消費しているのではないか。観光公害のような。

  • 読み切れるか不安だったけど、なんとか読み切った。一つ一つの話が重くて、一気に読み進められなかった。人生そのものを写す作品も多かった。大学の授業で習ったライフヒストリーの写真版みたいだと思った。

  • セルフポートレートについて;自分の世代はスマホが当たり前で自撮りする人が多い。セルフポートレートもそういう感じなのかと思っていたが全然違った。「盛る・加工する」ではなく「自分はこう」という写真。

  • 写真の暴力性

    • 学生写真コンクールの企画をテレビ番組で見たことがある。北海道のとある地域に滞在して写真を撮る、という企画だった。地元の人と交渉して撮影するシーンも放送されていたけれど、その地域を撮ることで消費するのか、それでいいのかな、と感じた。これは本大会での企画で、予選では自分の身内の写真を使っていた。それも「うーん」と思った。題材にして消費してるのかなと。

    • 自分の世代だと、自分の近くで勝手に写真を撮ってる人がいるのが日常で、自分が写り込んでしまう(勝手に写り込まされてしまう)のも日常。高校への通学時間中、道路でGoProを撮っていた人がいた。自分は制服を着ているので、写真に撮られてネット上で公開されたら困る。こういった経験もあり、写真については否定的な気持ちが自分には多かった。セルフポートレートは「自分を記録に残そう」としているものだけど、自分の世代だと「自分を記録に残す」のは当たり前で、SNSにあげることのほうがテーマ。写真の暴力性。

  • 今後写真はどうなっていくのか

    • 写真の暴力性は、カメラマン自身も自覚してはいる問題だと思う。撮る側にも葛藤がある。

    • 現代では、セルフポートレートはInstagramにたくさんある。それは他人からの評価を気にして撮っているもの。「他人からの評価から逃れて自己を見つめる、自分で自分を評価する」という戦いとは違う。大衆消費のセルフポートレートは他人ウケを狙ったもの、広告っぽいものになっていく。

    • 自分のアイデンティティとは違う他者を撮影するとき、撮影者が唯一できることとして、「他者との距離を常に明確にしながら、他者に向ける批判的な眼差しを、そのまま同様に自分にも向ける」(本書224頁)という言葉は印象に残った。
      →これは、写真を撮る者だけに言える話ではなく、読書会に参加している自分にも関係のある話題だと思う。なぜなら、当事者ではない側として問題に望む身として大切な視点。自分もアメリカの黒人史をやっていたけれど、当事者(黒人)ではない。日本人である自分が、当事者ではない黒人史と向き合う時、トリミワ氏が言っていた、「自己参照的な批判関係」の気概をもって臨む必要があると感じる。

  • E.J.べロックがセックスワーカーを撮影していた話。「水頭症の小人のような異形の体つきをしていた」(106頁)ベロックは、セックスワーカーたちにとって「性的に驚異的な存在ではなかったのだろう」(109頁)という部分。これはうーん、と思った。逆にセックスワーカーの側が彼を差別していたということなのでは。また、障害者を「天使」化する言説は差別的ではないのか。

    • ロートレックを思い出した。娼婦や当時有名だった女優、ムーランルージュの女性たちと交流しながらパリのポスター画家として名を残した人。彼自身も身体障害を持ちつつ、当時の娼婦や市井の女性たちと交流を持ち、描いた。上流階級の人たちをモデルにした絵画も多いが、ロートレックは娼婦の女性たちを描くほうがやりやすかったのか??

読書会中に紹介された本やサイト

  • https://www.shinchosha.co.jp/geishin/backnumber/20190225/
    新潮社HP(芸術新潮バックナンバー一覧より:2019年3月号)

  • https://www.youtube.com/watch?v=xTBkbseXfOQ

    • パフォーマンス作品「リズム0」の動画について、マリナ・アブラモヴィッチ本人が当時のことを語っている動画。

    • 本作では会場にアブラモヴィッチ本人が立ち、彼女の脇に花、羽、剃刀、銃など様々な道具が置かれている。アブラモヴィッチは「道具を自由に使用して良い、自分は物体である」旨のプレートを掲げた。

    • 最初は遠巻きに見ていた鑑賞者も、道具を使い、彼女の服を破る、剃刀で彼女の首を切ってその血を飲む者などが現れる。人はどれだけ暴力的になれるかを体現しているパフォーマンス作品。

オリジナルサブタイトル

※『ジェンダー写真論』に続くサブタイトルを考えました。読書会のまとめとして、自分なりのサブタイトルを各自で考えて発表しています。詳しくはこちらをご覧ください。

  • 「写真家・被写体・第三者が共に意味づけをしていく作品たち」(midori)

    • 最も印象に残った写真は、がんになった女性の写真。自分が30代になり、がんを患う人が周囲にいるようになった。より自分と近いものに関心を持つ。自分が高校生だったら高校生の写真が気になったかも。

    • 写真には、意味付けをしてくれる第三者が必要。被写体、写真家、に続く第三者としての自分。

  • 「私の身体は誰のもの?―社会が求める「身体」から「私」を取り戻す―」(Kimiko)

    • 今回は『ジェンダー写真論』なので、女性だけでなく性的マイノリティー(エイズをめぐる表象)も含まれていたけど、良い意味で男性の想像する女性像を打ち砕くものが印象的だった。家父長制から脱却できない日本だけど、改めて考える機会にしたいと思った。

  • 「写真と私のライフヒストリー」(ノビツムリ)

    • 写真には、被写体になった人の人生だけでなく、写真家の側の経験や生い立ちが表れている。俯瞰した形のライフヒストリーとして写真ができあがっている。誰かの命(Life)がないと写真は作れない。写真史の本でもある。

  • 「ミソジニックな視点に抵抗する東京都現代美術館学芸員の記録」(azusachka)

    • 東京都現代美術館の展示に関連する文章をまとめたものだというのがタイトルからはわからなかったので入れてみた。