(漢部 第七巻中間)
カッサパよ、「苦」と言っても、それが聖なる真理(聖諦)とは限らない。なぜか? もし「苦」がすべて聖なる真理であるならば、牛や羊、ロバ、馬、そして地獄の衆生たちも皆、聖なる真理を持っていることになってしまうであろう。
カッサパよ、もしある人が如来の非常に深遠なる境地を知らず、不変で常住する秘密の法身(ほっしん)を理解せず、真の身を法身と認めず、如来の道徳や威徳を知らないならば、それこそが「苦」であると言うべきである。
その無知ゆえに、「法」でないものを「法」と見なし、「法」であるものを「非法」と見なしてしまう。このような者は、必ずや悪趣に堕ち、生死の輪廻の中をさまよい、煩悩の業を増し、多くの苦しみと悩みを受けることになると知るべきである。
如来が常住して変化しないと知っている人がいるならば、あるいは「常住」という二文字を一度耳にかすかに聞いただけでも、天界に生まれることができる。その後、解脱を得たときに初めて、如来が常住して変化しないことを証知するのである。証知したときに自らこう言うだろう:
「以前、私はこの“常住”という意味を一度聞いたことがあるが、今ようやく解脱して本当に証知することができた。本来の根源について明らかに知ることがなかったために、生死の輪廻において果てしなく迷い続けていたが、今日になって初めて真実に証知することができた。」
もしこのことを知らない人がいれば、たとえ熱心に修行していても利益を得ることはできない。そのような場合はただ「苦」を知っているにすぎず、「苦聖諦(くしょうたい)」を知っているとは言えない。
もしこのように修行できない者がいれば、それはただの「苦」であって、「苦聖諦」とは呼ばれない。
「苦集諦(くじゅうたい)」とは、真実の法の中において真実の智慧を生じないことである。清らかでないもの(不浄のもの)を受け取り、それに執着するのはまさに奴隷のようであり、また、邪法を正法だと誤って説き、正法を断滅させて長く存続させないようにする。このような因縁によって法の本性(法性)を知ることができず、無明のために生死輪廻を繰り返して、数々の苦しみと悩みを受けるのである。そのため、天界に生まれることも、正しい解脱を得ることもできない。
しかし、もし深い智慧を持ち、正法を壊さない者があれば、この因縁によって天界に生まれ、正しい解脱を得ることができる。
もし「苦集諦」を知らず、正法は常住ではないと語る者があれば、それはすべて滅法(正法を滅ぼす行為)である。このような因縁により、無量の劫にわたって生死の流転を続け、あらゆる苦しみと悩みを受けることになる。
もし法が常に存在し、変わらないということを知ることができれば、これを「集」を知るということであり、「集聖諦(じゅうしょうたい)」と呼ばれる。だが、もしこのように修行することができない者がいれば、それは単なる「集」であり、「集聖諦」ではない。
「苦滅諦(くめつたい)」とは、
もし多くの法を学び修行している人がいても、それが「空(くう)」の法ばかりであれば、それは良くない。なぜなら、それはすべての法を断絶し、如来の真実の法蔵を壊してしまうからである。このような修行の仕方は「空の法を修する」と言う。
「苦滅諦」を正しく修行する者は、外道のすべての修行法に逆らう。
もし誰かが「空の法を修することこそが滅諦だ」と言うならば、すべての外道もまた空の法を修しているのだから、外道にも滅諦があるはずになってしまう。
もし誰かが「如来蔵(にょらいぞう)— 無我・空寂(くうじゃく)」を修行するならば、その者は無量の生死の流転の中で、ずっと苦を受け続けることになる。
逆に、もしこのような修行をしない者がいれば、たとえ煩悩があっても、それを速やかに断ち切ることができる。なぜなら、その者は如来の秘密の蔵(ひみつのぞう)を知っているからである。
さらに、もし誰かが「如来蔵が存在する」と語るならば、たとえそれを直接見たことがなくても、すべての煩悩を断ち切ることができれば、その者は証入(しょうにゅう)=悟りに入ることができる。
このような心を発せば、一瞬の縁(いちねんのいん)によって、すべての法に対して自在になることができる。
このようにして「滅諦(めつたい)」を修行する者こそが、まさに私(仏)の弟子である。
そうでない者は、単に「空の法を修している」だけであり、「滅の聖諦(しょうたい)」を修しているのではない。
**道聖諦(どうしょうたい)**とは、すなわち仏宝(ぶつほう)、法宝(ほうほう)、僧宝(そうほう)、そして正しい解脱のことである。
ある種の衆生は、顛倒した見解を持っており、「仏もなく、法もなく、僧もなく、正しい解脱もない」と考える。彼らにとって生死の流転は、まるで幻のように思われる。こうした誤った見解(けんじゃく)のために、彼らは三界を輪廻して多くの苦しみを受けるのである。
しかし、如来が常住して変わらないと一念を発して信じる者がいれば、法も、僧も、解脱もまた同様に常住であると理解できる。この一念の功徳によって、無量の生涯において自在の果報を得ることができる。
たとえば、かつての私(仏)も、かつては四つの顛倒(常・楽・我・浄を逆に見る)によって、「非法を法と執着する」という誤った見解を持ち、それによって無量の悪業果を受けてきた。しかし、今日そのような誤った見解をすべて断ち切ったことによって、私は無上正覚(むじょうしょうがく)、すなわち仏果を成就することができた。これが「道聖諦」と呼ばれるものである。
もし誰かが、「三宝は無常である」と思って修行するならば、それは虚妄の修行であって、「道聖諦」ではない。
反対に、三宝が常住であると信じて修行する者は、まさに私の弟子であり、正しく四つの聖なる真理(四聖諦)を修行している者である。
以上が「四聖諦(ししょうたい)」と呼ばれるものである。
カッサパ菩薩(Ca Diếp Bồ Tát)が仏に申し上げた:
「世尊よ、今ようやく私は、四つの聖なる真理(四聖諦)を修習することが、いかに深遠であるかを知ることができました。」
元のソース:https://thuvienhoasen.org/p16a168/10-pham-tu-de-thu-muoi
ChatGPTによる日本語訳です。
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