(第三巻の漢部の中間部分)
その時、仏陀は再びカッサパ菩薩におっしゃった。
「おおカッサパよ!如来の身は常住の身であり、不壊の身であり、金剛の身である。これらは雑食の身ではない。まさしく法身である。」
カッサパ菩薩は仏に白して言った。
「世尊よ!仏のそのような身は私は見えません。私はただ無常で、破壊されやすく、微塵で、雑食の身だけを見ます。なぜなら如来はすぐに涅槃に入られようとしているからです。」
仏は言われた。
「おおカッサパよ!如来の身を凡夫の身のように壊れやすく、耐久性のないものと思ってはならない。」
「よく知るがよい。如来の身は無量億劫の間、常に堅固で壊れず、人の身でも天の身でもなく、恐怖にとらわれる身でもなく、雑食の身でもない。如来の身は身ではない身であり、生まれず、滅せず、集まらず、離れず、無量無辺で跡形もなく、知覚も形もなく、最も清らかで動揺せず、受け取りや行為にとらわれず、留まらず作らず、味もなく混ざりもせず、有為でもなく、業でもなく、果でもなく、移らず滅せず、心王や心所でもなく、考え尽くせないものであり、常に考え尽くせないものである。識もなく、心から離れもせず、離れもせず、その心は平等で無でもあり有でもあり、来去せずも来去し、壊れず断絶せず、生滅せず、主もなくして主であり、有でも無でもなく、覚りでも観察でもなく、名でもなく名でなく、定でもなく不定でもなく、見ることはできないが明らかに見え、場所がなくとも場所であり、暗くもなく明るくもなく、静寂であり静寂でなく、所有せず、受け取らず与えず、清らかで汚れず、争わず争いを断ち、不滅の場所に留まり、執着せず落ちず、法でも非法でもなく、功徳の田でもなく非功徳の田でもなく、限りなく終わりなく、すべての終わりから離れ、虚空に離れ虚空にあり、常住ではないが常住し、念念滅せず、汚れなく、名から離れ名なく、声でもなく言葉でもなく、修行でもなく、計量でもなく、一致でもなく異なりでもなく、形でもなく姿でもなく、しかしすべての良い相で荘厳され、勇ましくもなく恐れず、静寂でも非静寂でもなく、熱でも冷でもなく、形相を持たず見ることもできない。」
如来はすべての衆生を度し救うが、それは誰かが救うのではない。
如来は衆生に悟りを得させることができるが、それは誰かが悟らせるのではない。
如来は真実のままに法を説くが、二つなく、比べられず思いはかることができない。
空のように平等で形相がなく、同じ本性で生まれず、断ち切られず、常でもなく、常に唯一の乗りを行い、衆生には三に見えるが、退転せず移らず、すべての汚れを断ち、つかず触れず、本性ではないが本性にとどまり、合わず離れず、長くも短くもなく、丸くも四角くもなく、五蘊六入、十八界でもなく、蘊でも入でも界でもなく、増えず減らず、優れず劣らず。如来の身はこのように無量の功徳を成就し、知らぬ者なく知らぬ者なく、見ぬ者なく見ぬ者なく、有為でも無為でもなく、時間でも非時間でもなく、為すことでも為さぬことでもなく、依ることでも依らぬことでもなく、四大でも非四大でもなく、人でも非人でもなく、衆生でも非衆生でもなく、沙門でも婆羅門でもなく、獅子であり大獅子であり、身でも非身でもなく、ただ一つ数えきれぬ法相を除き言い表すことができず、涅槃に入るときも涅槃に入らない。如来の法身はこのようにすべて無量の功徳を成就する。
「おおカッサパよ!その相(すがた)を知るのはただ如来のみであり、声聞や縁覚が知ることはできない。如来の身はこのような功徳によって成り立っており、雑食によって養われた身ではない。
おおカッサパよ!如来の真の身にはこのような功徳があるのに、あのまだ焼き固められていない陶器のように壊れやすく脆い病気があるなどとはありえない。如来が苦しみを現わすのは衆生を調伏するためである。
今より汝は、如来の身は金剛の身であると知るべきである。今日からその意味を心に専念して考え、雑食の身であると思ってはならない。また衆生のために如来の身はすなわち法身であると説くがよい。」
カッサパ菩薩は仏に白して言った。
「世尊よ!如来はこのように功徳を成就しているのに、どうして如来の身に病み苦しみ、無常で壊れることがあるのでしょうか。
今日より、私は常に如来の身を法身の常住の身、安楽の身として思い続けます。私もまた、その意味を広く人々に説き知らせましょう。」
「世尊よ!如来の金剛不壊の法身について、私はまだその理由を明らかに知りません。」
仏は言われた。
「おおカッサパよ!因縁によって正法を護持するために、この金剛の身が成就されたのである。
おおカッサパよ!かつて如来が正法を護持されたために、今日この常住不壊の金剛の身を得たのである。
おおカッサパよ!正法を護持する者は五戒を受けず、威儀を修めず、兵器を持って比丘の清浄な戒律を守らねばならない。」
カッサパ菩薩は仏に白して言った。
「世尊よ!もし比丘が護持の務めを離れて、ひとり静かな所、丘の上や木の下にいるならば、その者を真の比丘と呼ぶべきでしょうか。もし誰かがその者に従い守っているならば、その者は**俗居士(ぞくこじ)**であると知るべきでしょう。」
仏はカッサパ菩薩に言われた。
「汝は俗居士と言ってはならぬ。もし比丘がどこにいても、身を養うだけにとどまり、経典を読誦し、思惟し坐禅をするならば、誰かが道理を尋ねに来たときに、福徳、戒律の持守、布施、少欲知足について説法することができる。たとえそのように説法しても、大乗の法を説くことはできず、大乗の弟子を持たず、悪を服従させることもできない。この比丘は自分自身にも衆生にも利益をもたらすことができない。怠惰で遅滞していると知るべきである。たとえ清浄な戒を守っていても、何の功徳も成し遂げることはできない。」
もし比丘が身を十分に養い、受けた戒を守り、九部の経典にある微妙な大乗の教えを広く説いて、さまざまな衆生の利益と安楽をもたらすことができるならば、
涅槃経に説かれているように、仏は比丘に牛、馬、山羊、豚などの不法な家畜を飼ってはならないと告げられている。もしそのような不浄なものを飼う比丘がいれば戒めなければならない。
また別の経典では、不法なものを飼った比丘は国王によって法に基づき罰せられ、還俗させられたとも述べられている。
もし比丘がこのような言葉を説くとき、戒を破る者たちがそれを聞いて激しく怒り、その法師を害そうとすることがある。たとえ殺されても、その法師は戒を守り自他の利益をもたらす者として称えられる。
このため如来は王や居士に法を護持させ、説法者を守らせることを許された。正法を護持したい者はこのように学ぶべきである。
おおカッサパよ!戒を破る者は正法を護持せず、俗居士と呼ばれる。戒を守る者はその名で呼ばれるべきではない。
おおカッサパよ!遥か過去、無量無辺の無数の劫の間に、コーシナ城に歓喜増益如来という名の仏が出現し、十種の徳をすべて備えていた。
その時、その国は広大で美しく豊かに栄え、人々は安楽世界の菩薩のように多く、満ち足りていた。
歓喜増益如来は長く世にあり、因縁が尽きて、沙羅双樹の林で涅槃に入られた。
歓喜増益如来が涅槃に入られた後も、正法は無量億年存続し、最後の四十年に、覚徳という戒律を厳守する比丘が多くの弟子を率いていた。
比丘覚徳は九部の経典をよく説き、比丘たちに奴婢や牛・馬・豚・山羊などの不浄・非法のものを飼ってはならないと厳しく禁じていた。
しかし、戒を破る比丘たちは覚徳を憎み、危害を加えようとした。
そのことを聞いた有徳国王は、正法を護るため、すぐにその破戒の者たちと戦い、覚徳法師を救った。
国王自身は大きな傷を負ったが、覚徳法師は国王を讃えて言った:
「善きかな、善きかな。今こそ汝は真の護法者である。来世において、汝の身は無量の法器となろう。」
国王はその言葉に大いに喜び、やがて命尽きて、阿閦如来の仏国土に往生し、その第一弟子となった。
国王の兵士・民衆、また戦いに従った者や喜び随喜した者も、皆退転することなく菩提心を保ち、命終して同じく阿閦如来の国に生まれ変わった。
覚徳法師も寿命を終えて、その仏国に生まれ、阿閦如来の声聞衆の中で第二の弟子となった。
おおカッサパよ!かつてのその有徳国王は今の如来(釈迦牟尼)の前世であり、覚徳法師こそ迦葉仏の前世である。
もし正法が滅びようとする時には、このようにして正法を護持すべきである。法を護る者は無量の果報を得る。
この因縁により、今、如来は多くの勝れた相を具えて自らを荘厳し、不壊の法身を成就したのである。
カッサパ菩薩が再び仏に申し上げた:
「世尊よ、如来の真常なる御身は、まさに岩に刻まれた彫像のように堅固であります。」
仏はカッサパ菩薩に告げた:
「カッサパよ、このような因縁によって、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷は皆、正法を熱心に護持しなければならない。法を護る者は、広大無量なる果報を得るであろう。
カッサパよ、これらの理由によって、優婆塞たちもまた、かつての覚徳のような法を説く比丘を守護するために、武器を持って護衛すべきである。
ただ五戒を受け持つだけでは、大乗の人とは呼ばれない。正法を護持する者は、武器を手にして法を説く者を支えなければならない。」
カッサパ菩薩が仏に申し上げた:
「世尊よ、もし比丘たちが、武器を持っている優婆塞と交わるならば、彼らは師を持つ者でしょうか、持たざる者でしょうか?それは戒を守る者でしょうか、それとも破戒の者でしょうか?」
仏は言われた:
「汝よ、そのような者たちを破戒と呼んではならない。
カッサパよ、我が涅槃の後、五濁悪世となり、国土は混乱し、互いに奪い合い、人民は飢え苦しむであろう。
その時、ある者は飢餓のために出家の心を起こすが、そのような者は“濁”と名づけられる。
その濁なる者は、清らかに戒律と威儀を具え、正法を護る比丘を見て、これを追い払うか、あるいは害しようとするのである。」
カッサパ菩薩が仏に申し上げた:
「世尊よ、もしそうであるならば、戒を持ち正法を護る比丘は、いかにして村や城邑に入って教化を行うべきでしょうか?」
仏は言われた:
「ゆえに、如来は戒を守る比丘が、武器を持つ居士たちと交わり、共にあることを許すのである。
このような状況においては、諸国王・大臣・長者・優婆塞などが、正法を護るために兵器を執る。
如来はこのような者たちを持戒の者と呼ぶ。
たとえ武器を携えていても、人を殺してはならない。
もしそのようにして殺生せずに法を護るならば、まさに第一の持戒者と称すべきである。」
カッサパよ、
正見を備えた者は、大乗の経典を広く説くことができ、王族の華蓋(けがい)や、油の瓶、米や穀物、瓜や果物などをすべて手にすることがあっても、利益や供養を目的として王侯・大臣・長者に近づくことはない。
すべての檀越に対して心を正しく保ち、威儀を具え、破戒する悪人を制し、これを正法の敵より救う。
このような者こそ「戒を持ち法を護る師」と称すべきであり、衆生にとって真の善知識となるべき人である。
その心の広さはまさに大海のごとし。
カッサパよ、
もしある比丘が、利益を求めて人々のために法を説くならば、その比丘の弟子や眷属もまた、それに倣って利を求めるようになる。
そのような比丘は、自ら僧伽(僧団)を破壊する者である。
カッサパよ、
僧伽には三種の者がある。第一は破戒雑僧(はかいざっそう)、第二は愚癡僧(ぐちそう)、第三は**清浄僧(しょうじょうそう)**である。
破戒雑僧は、僧伽を破壊する者であり、
清浄な戒を持つ僧は、たとえ名声や利益が近づこうとも、それによって損なわれることはない。
では、何をもって破戒雑僧というのか?
ある比丘が、たとえ自身は戒を保っているとしても、利を求める心によって破戒者と共に住み、共に座し、共に行動し、同じ事業を行うならば――この者もまた破戒であり、「雑僧」と名づけられる。
では、何をもって愚癡僧というのか?
ある比丘が、阿蘭若(アランニャ)に住し、心暗く愚かで、少欲知足の行をしていても、布薩(ふさつ)や自恣(じし)の日において、清らかな弟子たちには懺悔を勧めるが、弟子でない者が戒を破っていても、これを咎めず、そのまま共に布薩・自恣を行う――これは愚癡僧と名づけられる。
では、何をもって清浄僧というのか?
ある比丘僧は、百千の魔の妨げを受けることなく、大衆の菩薩たちは本性清浄にして、前述の二種の僧をも調伏し、皆をして清浄な僧伽に安住せしめることができる。
このような者こそ、無上の護法の大師と称すべきである。
律をよく持つ者は、衆生を調伏し利益することを志しており、戒の軽重の相(あい)を明らかに知っている。
律に属さぬものは証知せず、律にかなうものはすぐに証知する。
では「衆生を調伏し利益する」とはどういうことであるか?
たとえば、ある菩薩が衆生を教化するために、常に村や町に出入りし、時節を選ばず、あるいは寡婦や淫女の家に長年にわたって共に住むこともある。
これこそ「衆生を調伏し利益する」と名づけられる。
しかしながら、声聞(しょうもん)の者においては、そのような行いをしてはならない。
では、何をもって**重い戒(重戒)**というのか?
もし如来がある因縁により戒を制定されたのを見聞きしたならば、汝は今日より後、慎んで再び犯してはならない。
たとえば、出家者において犯してはならない四つの重戒を、故意に犯すならば、その者はもはや沙門ではなく、**釈子(しゃくし)**でもない。
これを「重」と名づける。
では、何をもって**軽い戒(軽戒)**というのか?
もし軽い戒を犯しても、三度諫めてなおそれを改めることができるならば、これを「軽」と名づける。
律にかなわぬものは証知されず、
たとえばある者が、不浄なる物を賞賛し、それを受けて用いるように勧めるならば、
そのような者とは共に住してはならない。
まさに律であるならば、これを証知すべし。
これは戒律を巧みに学ぶ者であり、破戒の人に近づくことなく、
戒律に順じて実践している者を見ては、心より歓喜し、
仏法の実践とは何であるかを巧みに説き明かすことができる。
これを「律師(りっし)」と名づける。
一字をもよく解し、契経をよく護る者もまた、かくの如し。
カッサパよ、仏法は無量にして、思議すべからず。
如来もまた、思議すべからず。
カッサパ菩薩が仏に申し上げた:
「世尊よ、まことに仏のお説きのとおり、仏法は無量にして思議すべからず。
如来もまた、思議すべからず。
ゆえに知るべし、如来は常住にして、変わらず、壊れることもありません。
今、私はこの義をよく学び、また他人にも広く説き明かすことでしょう。」
仏はカッサパ菩薩を讃えて言われた:
「善哉(ぜんざい)、善哉!
如来の身は、**金剛不壊の身(こんごうふえのみ)**である。
菩薩はまさにかくの如く巧みに学び、かくの如く正しく見、正しく知るべきである。
もしこのように明らかに見、明らかに知ることができれば、
まさに不壊の金剛身を見たるに等しく、
明鏡にその形を映すがごとく、仏の身を見たるに等しいのである。」
元のソース:https://thuvienhoasen.org/p16a163/05-pham-kim-cang-than-thu-nam
ChatGPTによる日本語訳です。
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