(漢部 第2巻の冒頭)
その時、大会の中に優婆塞(うばそく)で、拘尸那城(こうしなじょう)に住む職人の子である順陀(じゅんだ)という名の者がいた。彼は十五人の同僚と共に、世の中に善果をもたらそうと願い、仏の前に進み出て、膝をつき、手を合わせて仏陀に礼拝し、悲しみの涙を流して言った。「世尊(せそん)と比丘僧(びくそう)よ、どうか我らの最後の供養をお受け入れくださり、無量の衆生を度してください。」
世尊よ!われらは今より貧困と飢えに苦しみ、助ける者なく、頼る所もありません。未来の福徳を世尊に願いたいのです。どうか哀れみをもって、わずかな供養をお受け入れください。その後、涅槃に入るつもりです。
世尊よ!例えば、貧しい者が遠い国へ行き、一生懸命に耕作して、優れた牛を手に入れ、良い土地を得て、平らで雑草のない田んぼを作ったとします。ただあとは雨が降るのを待つだけです。優れた牛は身口の七業を導き、良い田んぼは智慧を示し、雑草のない土地は煩悩を取り除くことを意味します。
世尊よ!今、私は優れた牛と良い田んぼと雑草のない土地を持っています。あとは如来の甘露の法雨を待つばかりです。貧しい者とは私自身であり、最高の宝である法宝の貧しさに苦しんでいます。どうか哀れみをもって、われらの貧困と苦難、そして無量の衆生の苦しみを取り除いてください。私の供養は小さいものですが、如来と諸比丘が十分に用いてくださることを願っています。
今日、私は頼る所なく、支える者もいません。どうか世尊よ、ラーフラのように私を哀れみ、慈悲をもってお見守りください。
世尊は、最勝の一切種智を具えた調御者として、順陀に言われた。
「よきかな、よきかな!今日、如来は汝の貧困を除き、最高の法の雨を降らせて、汝の身と心の田に法の芽を生じさせた。汝は寿命や色、力、安楽無碍、そして如来の弁才を求めるがよい。如来はこれらを汝に与えよう。」
「順陀よ、施しには二つあり、報いは同じである。一つは施しを受けた者がすぐに無上正等正覚を証得することであり、もう一つは施しを受けた者がすぐに涅槃に入ることである。今日、如来は汝の最後の供養を受け入れ、汝に三波羅蜜の布施を十分に授けよう。」
すると順陀は仏に申し上げた。
「世尊よ、先ほど仰せられた二つの施しの報いが同じというのは、私の考えでは正しくないのではないかと存じます。なぜなら、先に施しを受ける者はまだ煩悩を除ききっておらず、一切種智を証得しておらず、衆生に三波羅蜜の布施を十分に施すことができません。後に施しを受ける者は一切種智を具え、煩悩を除き、すべての衆生に三波羅蜜の布施を十分に施すことができます。」
先に施しを受ける者はまだ衆生であり、後に施しを受ける者は天の中の天子である。
先に施しを受ける者は雑食の身であり、煩悩の身であり、無常なる最後の身である。
後に施しを受ける者は金剛不壊の身であり、煩悩のない法身であり、真常無量である。
どうして二つの施しの報いが同じであろうか?
先に施しを受ける者はまだ十分な六波羅蜜の一つ、忍辱波羅蜜や般若波羅蜜を得ておらず、肉眼しか持たず、智慧の眼や仏の眼を持たない。
後に施しを受ける者は六波羅蜜を完全に具え、仏の眼を得ている。
どうして二つの施しの報いが同じであろうか?
世尊よ、先に施しを受ける者は施しを受けてすぐに食べて消化し、生き延びるための力や健康、美しさ、安らぎ、自在な弁舌を得る。
後に施しを受ける者は食べず消化せず、五つの果報を持たない。
どうして二つの施しの報いが同じであろうか?」
仏はおっしゃった。
「順陀よ、如来は無量無辺無数劫より、すでに飲食の身、煩悩の身、最後の身を離れ、真常の身、金剛の身、そして法身である。
順陀よ、まだ仏性を見ていない者は、雑食の身、煩悩の身、最後の身と呼ばれる。
その時、菩薩は食物を受けて摂取した後、金剛三昧に入って、食物が消化されたとたんに仏性を見、無上正等正覚を証する。
このゆえに、如来は二つの供養の果報が同じであると説いたのだ。
菩薩が成道したときは、四魔を破った。いま涅槃に入るときも、また四魔を破る。
ゆえに、如来は二つの果報に違いはないと説いたのである。
かつて菩薩は十二部経を広く説かなかったが、すでに通達していた。
そして今、涅槃に入るにあたり、衆生のためにそれを詳しく分別して説く。
このように、如来は二つの果報が同じであると説いたのである。
順陀よ、如来の身体は無量無数劫よりすでに飲食を受けたことがない。
声聞たちのために、かつて二人の牛飼いの娘ナンダーとナンダーバーラーから乳粥を受け、それによって無上正覚を得たと説いたが、実のところ如来はそれを食べてはいない。
今日、この大集会のために、如来は汝の最後の供養を受けたのであるが、真実には如来はそれを食していないのである。」
大衆は、世尊がこの大集会のために順陀の最後の供養を受けられたことを聞き、皆大いに喜び歓喜して、声をそろえて称賛した。
「善哉(よきかな)!善哉!稀有なるかな、順陀よ!
まことに、汝が『順陀(シュンダ)』と名づけられたことは無駄ではなかった。
というのも、『順陀』という名は『妙義を解する者』という意味である。
今、汝はこのように妙なる義を顕し立てたゆえに、その名にふさわしい。
現世において、汝は名声、財福、徳行、志願をすべて具え、
まことに不思議なことである、順陀よ!
人間の身に生まれながら、無上の福果を得るとは、極めて得難いことだ。
善き哉、順陀よ!この世において汝のような人は二人といない。
まさに、優曇華(うどんげ)のような存在である。
仏がこの世に現れることは極めて稀であり、
仏に出会い、信心を起こし、正法を聞くことはさらに稀である。
まして、仏が涅槃に入ろうとする時に、その最後の供養を奉ることなど、
なおさら得難いことである。
南無順陀!南無順陀!
今や汝は布施波羅蜜を完全に成就した。」
そのとき大衆は、次のような偈(うた)を唱えた:
あなたは人の道に生まれながらも
すでに第六天を超えた者である。
われら一切の衆と共に
今あなたに願いを申し上げる:
人中の最勝者たる仏陀が
今まさに涅槃に入られようとしている。
あなたはどうか我らを憐れみ、
速やかに仏に請うていただきたい。
世に久しくとどまりて、
無上の法を説きたまえと。
それは智者が讃歎し、
衆生に大きな利益をもたらすであろう。
もしあなたが仏を請わねば、
我らの命は保ちがたし。
どうか我らのために、
調御者たる仏陀に礼拝を捧げたまえ。
順陀は、まるで死んだ両親が突然生き返ったかのように、歓喜に満ちた。
彼は仏に礼拝し、次の偈(うた)を唱えた:
喜ばしきかな、自らの利益を得たこと!
人身を得ることの妙なるかな!
貪・瞋・痴を除き去り、
三悪道を完全に離れた。
喜ばしきかな、自らの利益を得たこと!
宝の蔵に出会えたようなもの、
導師である仏にお会いでき、
畜生道に堕ちる恐れもない。
仏は優曇華(うどんげ)のごとし、
信じて出会うことは難しい。
会えたなら善根を植え、
餓鬼の苦しみを断ち切れる。
さらにはアスラの種族をも、
減じ損なうことができる。
芥子の実を針の先に刺すごとく、
仏の出現はそれ以上に難しい。
私はすでに布施の波羅蜜を具え、
天と人を度する因縁を得た。
仏は世俗に染まらず、
まるで水中の蓮の花のよう。
三界の因縁を断ち、
生死の流れを完全に越えられた。
人として生まれることは難しく、
仏の世に出会うのもまた難しい。
それはちょうど大海の中、
盲亀が浮かぶ木の穴に遭うようなもの。
私は今、供物を捧げることができ、
無上の果報を願い求める。
煩悩の結び目を打ち砕き、
一切の不安定を断ちたい。
私はもはやここにおいて、
人天の身を求めはしない。
たとえそれを得ても、
もはや欲する心はない。
仏が供養を受けてくださったこと、
それだけで私は限りない歓喜に包まれる。
それはまるでイーラン(Y-lan)の花が、
栴檀(せんだん)の香りを放つが如く。
私の身はイーランの花、
世尊が供養を受けられたことにより、
その香りは栴檀のように薫る。
ゆえに私は歓喜する。
私は今、最上・最妙の福を現に得て、
帝釈や梵天までも、
私に供養を捧げに来る。
一切の世間は、
深い悲しみに包まれている。
それは世尊が、
大涅槃に入ろうとしていると知っているから。
皆が声をそろえて叫ぶ:
『この世に導師なくなるとは!』
どうか衆生をお見捨てにならぬように。
一人の子のように慈しんでください。
仏は僧の中におられて、
無上の法を説かれる。
それはちょうど、宝の山・須弥山が、
大海の中にそびえるようである。
仏の智慧は、
私の最も深い無明を断ち切り、
まるで虚空に雲がわき、
涼しさを与えるように。
如来は巧みにすべての煩悩を断ち、
それはまるで太陽が昇り、
雲を払い、世界を照らすようである。
ここにいる衆生たちは皆、
泣きはらし目を腫らしている。
生死の流れに押し流されて、
このうえなく苦しんでいる。
世尊よ、どうか願わくば、
衆生の善根を増し、
生死の苦を断ち切るために、
この世にとどまってください。
仏は順陀に告げられた:
「汝の言うとおりである。仏の出現は、まさに優曇華(うどんげ)の花が咲くように稀である。仏に出会い、さらに信心を起こすことは、それ以上に難しい。
仏がまさに涅槃に入ろうとするこの時に、最後の供養を捧げ、布施波羅蜜を完全に成就するということは、それにも増して甚だ難しいことである。
だからこそ、今、悲しみに沈むことなく、むしろ大いに歓喜すべきである。
なぜなら、汝は如来に最後の供養を奉るという尊き機会を得て、それにより布施波羅蜜を完成させたのだから。
汝は、仏にこの世にとどまるよう願ってはならない。
むしろ、すべての仏の境界が無常であることをよく観察すべきである。
諸行の性質も相も、すべてまた同じく無常である。」
仏はすぐに順陀のために、偈(うた)を説かれた:
この世のすべては、
生あるものは死を迎える。
たとえ寿命が無量であろうと、
必ず尽きる時が来る。
盛んなるものは必ず衰え、
集まるものは必ず別れる。
若さは長くは続かず、
健やかさも病に侵される。
死は命を飲み込み、
永遠に保たれるものはない。
たとえ自在の王者であっても、
無比の権力を持っていても、
すべては移り変わり、
命もまた例外ではない。
苦しみは限りなく巡り、
流転して止むことがない。
三界はすべて無常であり、
いかなる存在にも真の楽しみはない。
存在するあらゆる法の本性と姿は、
すべて空である。
生滅し、流転し、
苦しみと恐れ、悪しき過ちが伴う。
老い、病、死、憂い、悲しみ──
それらの苦は尽きることなく、
崩れ壊れて災いをもたらす。
煩悩に包まれた様は、
まるで繭の中の蚕のよう。
智慧ある者は、
どうしてこの世を好むだろうか?
身に集まるすべての苦しみは、
穢れており、
災難やできものなど、
苦しみの根である。
たとえ天人の身体であっても、
また同じである。
欲と愛はすべて無常、
ゆえに仏はそれに執着されない。
欲を離れ、よく思惟することで、
真実の悟りを証し、
ついには生死を断ち切り、
いま、涅槃に入らんとする。
仏はもはや彼岸に達し、
すべての苦を超えた。
ゆえに今、仏は
すべての妙なる楽を享受しておられる。
このような因縁によって、
真の悟りを成就し、
一切の束縛を断ち切り、
今日、涅槃に入られる。
仏に老いも、病も、死もなく、
寿命は限りない。
だが今、仏は涅槃に入られ、
大いなる炎が静かに消えるようである。
順陀よ、そなたは如来の意味を
思惟によって測ってはならぬ。
むしろ如来の本性を観るべきである。
それはまさに須弥山のようである。
仏はいま、涅槃に入られ、
最上の安楽に住す。
諸仏の法はこのようであり、
そなたたちは嘆き悲しんではならない。
順陀は仏に申し上げた:
「世尊よ、まことに仏の教えのとおりでございます。
私の智慧は蚊のように小さく、
どうして如来の深遠なる涅槃の義を思量できましょうか。
世尊よ、たとえば幼き者が出家したばかりで、
まだ具足戒を受けていなくとも、
すでに僧の一員として数えられるように、
私もまた、仏と菩薩の威神の力によって、
大菩薩の一員として数えられ、
すでに煩悩を断ち切った偉大なる龍象──
たとえば文殊師利(もんじゅしり)・法王子などの聖者と
同列に並ぶことを得ました。
それゆえ、今日、私は心より願うのです──
如来よ、どうかこの世にとどまり、
涅槃に入らないでください。」
文殊師利法王子(もんじゅしり・ほうおうじ)は順陀に言った:
「汝は、『如来がこの世に常に留まり、涅槃に入らないことを望む』などと申すべきではない。
汝は行(ぎょう)法の性質と相(すがた)を観察すべきである。
そのように観察することで、『空』の三昧に入ることができる。
正法を求める者は、このような観察の法を修習すべきである。」
順陀は言った:
「文殊師利さま、
如来は天上天下の中でも最も尊貴なるお方です。
その如来が、どうして行法などでありましょうか?
もし行法であるならば、それは生滅する法ということになります。
たとえば水面に映る影のように、
すぐに現れてすぐに消え、
回転する車輪のように生死を繰り返す──
行法とはまさにそのようなものです。
私は、天人はとても長寿だと聞いております。
それなのに、どうして天中の天である世尊が、
百年にも満たない命でいらっしゃるのですか?
行法というものは、生死に属する法です。
もし如来が滅度に入られるなら、
それは行法と同じく、生滅するということになります。
それではどうして『天中天』や『法王自在』と称することができるでしょうか?
如来は、
煩悩魔・五蘊魔・天魔・死魔をすべて降伏され、
その因縁によって、無量の真実の功徳を成就された。
それゆえ、『如来・応供・正遍知』という名号を持ち、
『三界の尊』と称えられるのです。」
「文殊師利さま、
どうか想像や分別によって、如来の法を他の行法と同一視なさらないでください。
たとえば、ある富豪が男児を授かったとします。
占い師がその子を観て、『短命の相がある』と言ったとしましょう。
その父は、その子が家業を継げぬことを知って、愛情をかけなくなるでしょう。
また、短命の者は世間からも敬われにくいものです。
もし如来が行法と同じであるならば、
出家者・婆羅門・天・人たちは、どうして心から敬い、礼拝するでしょうか?
そして如来が説かれる、真実で不変・不動なる法も、
人々は信じ受けることがないでしょう。
ですから、如来を行法と同じと見なすことは、なさらぬようにお願いいたします。
文殊師利さま、
たとえば、ある貧しい女性が妊娠中に、飢え渇き、住む家もなく、
とある家の軒下を借りて出産しようとしたとします。
けれども家の主人に追い出され、赤子を抱いたまま別の地を目指します。
途中、川を渡ろうとし、急流の真ん中で流されそうになっても、
子を手放すことができず、ついに母子ともに溺れ死んでしまった。
しかしその母の深い慈愛ゆえに、彼女は梵天界に生まれ変わったのです。
このように、もしある善男子が正法を守ろうと願うならば、
『如来は行法と同じである』とか『違う』などと言ってはなりません。
ただ、
“自分は愚かで智慧の眼(慧眼)がなく、如来の正法は計り知れない”
と反省すべきです。
如来の正法は思慮では測れず、
『如来は有為(うい)である』とか『無為(むい)である』と断定して語るべきではありません。
もし正しい見解を持つ者ならば、
『如来は決して無為である』と語るべきです。
なぜなら、如来を無為と説くことで、
衆生の中に善なる法(功徳)が生じるからです。」
正法を護る善男子は、たとえ命を失っても、
如来を「有為法(ういほう)」と同一視すべきではなく、
ただ「如来は無為法(むいほう)と同じである」と説くべきです。
正法を護るがゆえに、
如来を無為法と説くことで、
その人は無上正等覚(無上のさとり)を得ることができます。
たとえば、貧しい女性が激しい流れの中で子を抱いたまま、
決して手放すことなく溺れて死んだように、
その慈悲の力によって梵天界に生まれたのです。
このように、善男子は解脱を求めなくとも、
自然と解脱がやってくるのです。
まるで貧女が梵天を願わなくても、結果としてそこに生まれたように。
文殊師利さま、
たとえば遠くに旅して疲れた者が、道中とある家に宿を借りて眠っていたとします。
するとその家が突如として火に包まれました。
その人は飛び起き、もはや死を覚悟しながらも、
恥ずかしさのあまり裸のままで死ぬことを恐れ、
衣を身に巻いてそのまま亡くなりました。
その慎み深い行いによって、彼はすぐに忉利天(とうりてん)に生まれ、
その後、八十生にわたって大梵王となり、
さらに何万生もの間、転輪聖王となって福徳を受け続けました。
そしてついに悪道に堕ちることは一度もなかったのです。
このような因縁によって、
もし羞恥と慎み(=慚愧)の心を持つ者であれば、
決して如来を諸行と同じものと見なしてはなりません。
異教の外道たちや邪見を持つ者のみが、
如来を「有為法である」と説くのです。
戒律を守る比丘たる者が、
どうしてそのような誤った見解を持つべきでしょうか?
もし如来を「有為の法である」と語るならば、
それはまさに妄語(虚偽の言葉)であり、
その者は必ず地獄に堕ちることを、明確に知るべきです。
「文殊師利さま、
如来はまことに真実そのものであり、まさしく『無為法(むいほう)』であります。
決して『有為法(ういほう)』などと語るべきではありません。
これより後、
生死の輪廻の中においては、無智を捨て、正しい智慧を求めてください。
知るべきです──如来とは、まさに無為であると。
このような正しい観察(正観)によって、
やがて三十二相(さんじゅうにそう)を具え、
無上菩提(むじょうぼだい)の果を速やかに成就することができるのです。」
文殊師利菩薩は、順陀を讃えて言いました:
「善いかな、善いかな!
今、あなたは長寿を得る因縁を自ら作った。
あなたはよく知っている──
如来とは常住(じょうじゅう)の法であり、
変異することのない法であり、
無為の法であることを。
あなたは巧みに、如来における有為の相(すがた)を覆い隠した。
ゆえに、後には必ず三十二相・八十種好・十八不共法(じゅうはちふぐうほう)を具え、
無量の寿命を得て、常に安楽であり、
もはや生死の苦しみを受けることなく、
応供・正遍知(おうぐ・しょうへんち)となるであろう。
それは、まるで旅人が火事に遭い、
恥じらいの心から衣をまとって亡くなったことにより、
善心の功徳として忉利天に生まれ、
その後も幾度も梵天王や転輪聖王となり、
常に安楽を得て、悪道に堕ちることがなかったのと同じである。
だから、私もあなたも共に、
如来における有為の相を覆い隠すべきである。
この後すぐに、世尊(釈迦如来)みずから、
この意味を広く説き明かされるであろう。」
有為とか無為とか、そういった理論的なことは今は置いておきましょう。
あなたは急いで、仏さまや僧たちへの供養の食事を準備して、時間に間に合うようにしてください。
また、遠くから集まってきて疲れている四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)のために、必要なものを揃えてあげるのがよいでしょう。
そうした供養の行いこそが、布施波羅蜜(施しの完成)という修行の根本の「種」を育てることになるのです。
純陀よ。
もしこれが仏さまと僧たちに対する最後の供養になるのなら、それが多くても少なくても、十分でも足りなくても、何より時間に間に合うように早く準備することが大切です。
如来(仏さま)は、まもなく涅槃に入られます。
純陀はこう言いました:
「文殊師利(もんじゅしり)さま、どうして食べ物や飲み物の量について、多いとか少ないとか、足りているかどうかを気にされるのですか?そして私に急いで準備するようにおっしゃるのですか?
昔、如来は六年間の厳しい苦行にも耐え抜かれました。今日のほんの少しの時間を、どうして耐えられないことがあるでしょうか?
まさか如来が本当にこの食事を召し上がると思っておられるのですか?
私は確信しています。如来の身体は“法身”(真理そのものの身体)であって、物質的な身体ではありません。」
仏さまは文殊師利にこう言われました:
「純陀の言葉はまさにその通りだ。
よく言った、純陀よ。
あなたはすでに偉大な智慧を得ていて、大乗の教えを深く理解しているのだ。」
文殊師利は純陀に言いました:
「あなたは、如来は無為(作られたものではない存在)であり、そのお身体は永遠であると理解しているのですね。そのように理解していることに対して、仏さまはとても喜ばれるでしょう。」
純陀は言いました:
「如来は、私だけに対して喜ばれるのではありません。すべての衆生に対しても、同じように喜ばれているのです。」
文殊師利は言いました:
「その通りです。如来は、あなたに対しても、私に対しても、すべての衆生に対しても、同じように喜ばれているのです。」
純陀は答えました:
「でも、“喜ばれる”という言葉を使うべきではありません。“喜ぶ”というのは、実は妄想にすぎないからです。妄想があるということは、生死(輪廻)があるということ。生死があるということは、それは“有為”の法(作られたもの)です。ですから、如来を“有為”だと考えてはいけません。
もし、如来が“有為”だと言うのなら、あなたも私も、ともに妄想に陥っていることになります。」
「文殊師利さま、如来には“愛着”というような心はありません。
たとえば、母牛が自分の子を思う気持ち──空腹でも喉が渇いていても、草や水を求めていても、ふと子を思い出すと、すぐに戻ってくる──そういう“愛念”は、仏さまには一切ありません。
仏さまは、すべての衆生を、ラーフラ(羅睺羅/ラーフラ:仏の実子)と同じように平等に見ておられます。
このように差別のない慈しみの心こそ、仏たちの智慧の境地なのです。」
「文殊師利さま、たとえるならば、王が四頭立ての馬車に乗って走っているとします。
そこに、誰かが牛車で追いつこうとしても、それは決して無理なことです。
同じように、あなたや私が、如来の深く微妙な悟りの境地を完全に理解しようとしても、それは不可能なのです。」
「また、たとえば金翅鳥(こんじちょう/ガルダ鳥)が、はるか高空を何千万ヨージャナも飛んで、海を見下ろしたとき、海の中の魚や竜の姿、さらにはその影までも見通すことができます。
しかし、知恵の浅い凡人には、その金翅鳥の視野を想像することすらできません。
同じように、あなたも私も、如来の智慧の深さをはかることなどできないのです。」
文殊師利菩薩は、純陀に言いました:
「その通りです。あなたの言うことは正しい。
実は、私が理解していなかったわけではありません。
ただ、菩薩の修行において、あなたの智慧を試そうと思っただけなのです。」
そのとき、世尊(仏さま)はお顔からまばゆい光を何本も放ち、それが文殊師利菩薩の身を照らしました。
それを見た文殊師利は、純陀に言いました:
「今、如来がこのようにお顔から多くの光を放たれているのは、理由のないことではありません。これは、如来がまもなく涅槃に入られるという前兆なのです。
ですから、あなたは急いで、仏さまと僧たちへの供養を準備し、時間に遅れないようにしなければなりません。」
そのとき、仏さまは純陀にこう告げられました:
「今こそ、あなたが食事を仏と大衆(比丘たち)に供養する時である。
如来は、まもなく涅槃に入る。」
そして仏さまは、同じことを三度、繰り返しておっしゃいました。
純陀は、仏さまのこのお言葉を聞くと、思わず声を上げて泣き始めました。胸が詰まり、涙が止まりませんでした。
「なんと悲しいことだ…なんとつらいことだ…!
この世は、仏さまがいなくなってしまえば、まるで空っぽになってしまう……」
そう言ってから、彼は大衆(集まっていた僧たちと信者たち)に向かって叫びました:
「今日、私たちは皆、心をひとつにして、誠心誠意、仏さまにお祈りし、どうか涅槃に入らないようにお願いしなければなりません!」
世尊は再び純陀に言われました:
「純陀よ、そのように悲しみに沈み、嘆き悲しんではいけない。
あなたは、この身体というものをよく観察しなさい。それはまるで──
バナナの木のように中身が空で、
陽の光のように一瞬で消え、
水面の泡のように儚く、
幻のように実体がなく、
乾闥婆(けんだつば/幻の城)のように非現実で、
まだ焼かれていない陶器のようにもろく、
稲妻のように一瞬、
水に描いた絵のように消えやすく、
刑を受ける直前の囚人のように定められており、
熟した果実のようにすぐ落ち、
ただの肉の塊のようで、
織り終えた布のように終わりがあり、
杵で上下に搗かれる米のように打たれる存在──
このように観なさい。
そして、すべての行(こう=形成されるもの/諸行)は、
まるで毒が混じった食べ物のようなものだと理解しなさい。
有為(うい=条件によって成り立つ)なるものには多くの害があるのです。」
純陀は仏さまに申し上げました:
「世尊がこの世にとどまりたくないと仰るなら、
どうして私は泣かずにいられましょうか。
ああ、なんという悲しみでしょう……
この世は空っぽになってしまいます。
どうか、世尊よ、私たちやすべての衆生を憐れみ、
どうかこの世にとどまって、涅槃に入らないでください!」
すると仏さまは、純陀にこう答えられました:
「純陀よ、“私たちを憐れんで、この世にとどまってください”と
あなたは言うが、
実は、あなた方を憐れんでいるからこそ、
如来は今日、涅槃に入ろうとしているのだ。
なぜなら──
すべての仏は、そのようにあるべきもの(法爾/ほうに)として、
涅槃へと向かうのだ。
有為なるもの(作られた存在)もまた、同じように滅びる運命にある。
だから、諸仏はこのような偈(詩)を説いている:
諸行は無常なり、
その本性は変わりゆく。
生まれたものは、いつか必ず滅びる。
静寂(=涅槃)こそが真の安らぎである。
純陀よ、
あなたは行(すべての条件づけられた存在)を、毒が混じったものとして見なさい。
有為なる法は、無我であり、無常であり、永遠にとどまるものではない。
この身体もまた、多くの危うさを抱えており、
まるで水面に映る影のようなものだ。
だから、泣くことはないのです。」
純陀は仏さまに申し上げました:
「世尊のお言葉は、まったくそのとおりでございます。
私はもともと、如来が方便(ほうべん)として涅槃に入られることを知っておりました。
それでも、どうしてもこの悲しみを抑えることができなかったのです。
しかし今、自らを振り返り、心を静かに観察してみると、
むしろ喜びの心が生まれてまいりました。」
仏さまは純陀を讃えて言われました:
「よきかな、よきかな、純陀よ!
あなたは、如来が衆生と共にこの世に現れ、方便として涅槃に入られることを、
正しく理解している。これは実に素晴らしいことである。」
そして仏さまは続けて言われました:
「純陀よ、よく聞きなさい。
たとえば春になると、タラタラ鳥たちはみなアヌプタダ池(A-Dậu-Đạt)に集まる。
それと同じように、諸仏もまた、必ずその場に集まり現れるのである。
だから、あなたは『諸仏は永く生きるのか、それとも短命なのか』などと
思い悩んではならない。
すべての法は、まるで幻術(まぼろし)のようなものである。
如来はその中にありながら、方便の力によって生きておられ、
何ひとつ執着することがない。
なぜなら、諸仏のあり方(=法爾/ほうに)は、そのようなものなのだ。」
「純陀よ、今、如来があなたの供養を受け入れたのは、
あなたが三界(欲界・色界・無色界)の生死の流れから解放されるためである。
この最後の供養にあずかることができた天人や人々も、
やがて不動の果報を得て、永遠の安らぎを得るであろう。
なぜかと言えば、如来こそが衆生にとって最上の“福田”(功徳を植える田)であるからだ。
もしあなたが衆生のために福田を作りたいと願うのであれば、
今すぐ供養の品を準備して、遅れてはならない。」
そのとき、純陀は、すべての衆生が救われることを願い、
涙を拭いながら頭を下げて仏さまに申し上げました:
「尊い世尊よ、
もし私が、ほんの少しでも“福田”(功徳を積む場)となる資格があるのであれば、
その時には、如来が本当に涅槃に入られるのか、あるいは方便でそう示されているのか、
その真意を見極めることができるでしょう。
けれど、今の私たちの智慧──
私も、声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)も──
その知恵は、まるで蟻や蚊のように小さくて取るに足らず、
如来が本当に涅槃に入られるのかどうかなど、到底はかり知ることはできません。」
こう申し上げた後、
純陀は一族の者たちと共に、悲しみに沈み、涙を流しながら、
香を焚き、花をまき、心から仏さまに礼拝しました。
そしてその後、文殊師利菩薩と共に、
仏さまと僧たちへの供養のための食事の準備に向かいました。
元のソース:https://thuvienhoasen.org/p16a160/02-pham-thuan-da-thu-hai
ChatGPTによる日本語訳です。
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