(第八巻漢部中間)
仏はカッサパ菩薩に言われた。「いかなる異論、呪術、言語、文字も、すべて仏の説くものであり、外道の説くものではない。」
カッサパ菩薩は仏に白した。「世尊よ、如来は文字の根本をどのように説かれましたか?」
仏は言われた。「善男子よ、初めに半字をもって根本とし、真実の法を記録するためである。たとえば記論、呪術、文章、五蘊などである。凡夫はこの半字の根本を学んで、初めてこれらの法が非法であることを知るのである。」
カッサパ菩薩が仏に申し上げた:「世尊よ、仏がおっしゃる『半字』とはどのような意味でしょうか?」
「善男子よ、『半字』の意味には十四の音がある。
ここでの『字』とは涅槃を意味する。涅槃は常であるがゆえに流転しない。流転しないということは、すなわち無尽である。無尽とはすなわち如来の金剛の身体である。
十四の音は字の根本である。
『ア』(短音)は、破壊されないことを意味し、破壊されないこととは三宝を指す。たとえば金剛のようなものである。また『ア』は漏れ出さないことを意味し、漏れ出さないことはすなわち如来である。如来には九つの孔(九竅)から流れ出るものがないため、漏れ出さないのである。また、九竅が存在しないがゆえに漏れ出さない。漏れ出さないことは常であり、常とはすなわち如来である。したがって、如来は作為をなさず、漏れ出すことがない。また『ア』は功徳を意味し、功徳とは三宝である。よって『ア』と呼ばれるのである。
『アー』(長音)はアチャリヤ(阿闍梨)を意味する。アチャリヤとは何か? それはこの世で聖者と称される者のことである。聖者とは執着せず、欲少なく、知足で、清浄であり、衆生を三界の生死という大海から救い出すことができる者である。」
また「ア」は戒律を意味する。清らかな戒を修持し、威儀に随順することを指す。さらに「ア」とは、聖者に依って、立ち方・歩き方・ふるまい・供養・恭敬・三宝への礼拝、また父母への孝養を学ぶことである。また、善男子および善女人が大乗を学び、すべての戒律を受持し、大菩薩たちと共に修行すること、これを聖者と呼ぶ。
また「ア」は教誨(きょうけ)を意味する。たとえば「汝らはこのように行じなければならない」「かようには行じてはならない」と説くように、不適切な行動や威儀に反することを制止することができる者を聖者と呼ぶ。ゆえに「ア」と名づけるのである。
「イ」(短音)は仏法を意味する。清らかにして広大なる行、満月のように汚れなき清浄さを持つ。「汝らはこのように行じなさい」「このように行じてはならぬ」「この義は正しく」「この義は正しくない」「これは仏の言葉」「これは魔の言葉」と分別する。ゆえに「イ」と名づける。
「イー」(長音)は、甚深微妙なる仏法を指す。たとえば、大自在天、大梵天王のように「自在」と称される者がある。もし仏法を受持することができれば、その者は「護法」と呼ばれる。
また、「自在」とは**四種の護世者(四大天王)**を意味する。この四種の自在なる者たちは、大涅槃経を護持し、また自在に説法し広めることができる。
さらに「イ」は、衆生のために自在に法を説くことができることを意味する。
また「イ」とは、自在を得ることにより法を説く、すなわち大乗・方等の経典を修習することを指す。
また「イ」は、嫉妬(嫉妬心)を断つことを意味する。草や塵芥を掃き清めるように、すべてを善きものと成すことができる。ゆえに「イ」と名づけるのである。
「ウ」(短音)は、最上・最勝を意味し、あらゆる経の中で最も優れたもの、すなわち『大涅槃経』を指す。
また「ウ」とは**如来の性(如来蔵・仏性)**を意味し、声聞や縁覚の者たちは、いまだかつて聞いたことも知ったこともない。如、北倶盧洲が四大洲の中で最も勝れているように、もし菩薩がこの経を聞いて受持すれば、その者はすべての大衆の中で最勝・最上となる。ゆえに「ウ」と名づける。
「ウーウー」(長音)は、牛乳がすべての食物の中で最も勝れているように、**如来の性(仏性)**もまた、すべての経の中で最も尊く、最も勝れたものである。
もし、如来の性を誹謗・非難する者がいれば、その者は牛と異ならないと知るべきである。
また「ウーウー」は、上記のような者を指し、智慧と正念を持たない者であり、如来蔵・如来の秘密なる法門を誹謗する者である。このような者は極めて哀れむべき存在であり、如来の秘密の蔵を離れ、「無我」「無法」などと説く。ゆえに「ウーウー」と名づけるのである。
「エン」は、仏性・涅槃を意味する。
「ヤ」は、如来の義を表す。また「ヤ」は、如来が立ち、歩き、動くすべての行為が、もれなく衆生に利益をもたらすことを意味する。ゆえに「ヤ」と名づける。
「オ」は、煩悩を意味する。煩悩とは「有漏(うろ)」とも呼ばれる。如来は、すべての煩悩を断じ尽くされたがゆえに、「オ」と名づける。
「ファオ(パオ)」は、大乗の義であり、十四音の中で究竟の意味を表す。大乗の経典もまた、すべての経論の中で最も究竟である。ゆえに「ファオ(パオ)」と名づける。
「アム(AM)」は、不浄を遮断することを意味する。仏法の中においては、金銀・宝玉などすべての財宝を捨て去ることができる。ゆえに「アム」と名づける。
「ア」は、勝乗(しょうじょう)=最上の乗を意味する。この大乗・大涅槃の経典は、あらゆる経典の中で最も勝れている。ゆえに「ア」と名づける。
「カ」は、衆生に対する大慈悲の心を意味する。ラーフラ(羅睺羅)のように、自分の子を思うがごとく、善行・義行を行ずること。ゆえに「カ」と名づける。
「ク」は、悪友(あくゆう)=悪しき友人を意味する。悪友とは、不浄であり、如来の秘密蔵を信じない者である。ゆえに「ク」と名づける。
「ヤー(ダ)」は、**蔵(ぞう)**を意味する。すなわち、如来の秘密蔵である。すべての衆生には仏性が具わっているがゆえに、「ヤー」と名づける。
「ラン」は、**如来の常恒の音韻(おんいん)**を意味する。すなわち、如来が常住不変であるということを表す。ゆえに「ラン」と名づける。
「ガ」は、一切の行法(ぎょうほう)を破壊する相を意味する。
「ジャ(ガー)」は、**修行(しゅぎょう)**の義である。すべての衆生を調伏(じょうぶく)すること、これを「修」と名づける。ゆえに「ジャ」と名づける。
「シャ」は、如来がすべての衆生を覆い護ることを意味する。大きな傘(からかさ)のように覆い護る。ゆえに「シャ」と名づける。
「シャー」は、**正しい解脱(げだつ)**を意味し、老いの相(そう)を持たない。ゆえに「シャー」と名づける。
「ター(タ)」は、煩悩が鬱蒼(うっそう)と茂る様子を表し、まるで林や森のようである。ゆえに「ター」と名づける。
「ニャー(ニャ)」は、智慧の義であり、法性(ほっしょう)の真実を知ることを意味する。ゆえに「ニャー」と名づける。
「チャー(チャ)」は、閻浮提(えんぶだい)の世界において半身を現し、法を説くことを意味する。それは半月のようである。ゆえに「チャー」と名づける。
「チャク(チャク)」は、法身が円満であることを意味し、満月のように円満である。ゆえに「チャク」と名づける。
「チャー(チャ)」は、**愚かな僧(ぐちなお坊さん)**を意味する。「常」と「無常」の区別を知らず、まるで子供のように未熟である。ゆえに「チャー」と名づける。
「ソー(ソ)」は、師の恩を知らぬ者を意味する。例えて言えば、牡山羊(おすやぎ)のようである。ゆえに「ソー」と名づける。
「ナァ(ノア)」は、聖者ではない者の義である。たとえば外道のような存在。ゆえに「ナァ」と名づける。
「ダー(ダ)」は、昔、如来がある時比丘たちに告げられた言葉を表す──「汝らは恐怖を離れよ。そなたたちのために、これより微妙なる法を説こう」と。如来のこの慈悲の表れにより、「ダー」と名づける。
「ター(タ)」は、無明・愚痴の義である。衆生が生死の流転に迷い、蚕が繭を作るように、またカマキリが巣を作るように、自らを縛っている様を表す。ゆえに「ター」と名づける。
「ダー(ダ)」は、**大いなる布施(大施)の義である。すなわち大乗(Mahāyāna)**を指す。ゆえに「ダー」と名づける。
「ダン(ダン)」は、功徳を讃えることを意味する。それは三宝のことであり、須弥山(しゅみせん)のように高く大きく、まったく傾きも揺れもない。ゆえに「ダン」と名づける。
「ナー(ナ)」は、三宝が安住して動かざることを意味する。門の閾(しきい)のように、しっかりと据わっている。ゆえに「ナー」と名づける。
「バ」は、顛倒(てんどう)=真理を逆に見ることの義である。「三宝はすでに滅して存在しない」と言う者がいるが、そのような者は、自ら疑い、顛倒していると知るべきである。ゆえに「バ」と名づける。
「ファ(ファー)」は、**世間の災難(さいなん)**を意味する。もし「世の中に災難が起これば、三宝も共に滅する」と言う者があれば、その人は愚かで智慧のない者であり、聖者の教えに背く者であると知るべきである。ゆえに「ファ」と名づける。
「バ」は、**仏の十力(じゅうりき)**を意味する。
「バン(ファン/バーム)」は、重荷(じゅうか)=任を担うことの義であり、無上の正法を担うことができる者を指す。そのような者こそが大菩薩である。ゆえに「バン」と名づける。
「マ」は、菩薩の律儀・厳粛なる修行を意味する。すなわち、大乗・大涅槃を表す。ゆえに「マ」と名づける。
「ガ」は、諸菩薩があらゆる場所において、衆生のために大乗の法を説くことを意味する。ゆえに「ガ」と名づける。
「ラ」は、貪欲・瞋恚・愚痴を破壊し、真実の法を説くことを意味する。ゆえに「ラ」と名づける。
「ラー」は、声聞乗は動転して止まらず、大乗は堅固にして動じないことを意味する。声聞乗を離れ、無上大乗を精進して修行すること。ゆえに「ラー」と名づける。
「ワ(ホア/ホー)」は、如来・世尊が衆生のために大法の雨を降らせることを意味する。それは世間の呪術や書物のように、巧みで効果のある教えである。ゆえに「ワ」と名づける。
「シャ」は、三つの毒矢(三毒:貪・瞋・痴)を遠ざけることを意味する。ゆえに「シャ」と名づける。
「サー(サ)」は、円満(えんまん)・充実の義である。もしこの『大涅槃経』を聞き、受持することができれば、すなわちすべての大乗経典を聞き受け持ったことと等しい。ゆえに「サー」と名づける。
「タ」は、衆生のために正法を説いて、その心を歓喜させることを意味する。ゆえに「タ」と名づける。
「ハ」は、歓喜の心を意味する。「ああ、なんと尊いことか、世尊はすべての行を離れ給う。ああ、なんと尊いことか、如来は涅槃に入られた」と讃嘆する。ゆえに「ハ」と名づける。
「ラ」は、魔(ま)の義である。無量の魔たちも、如来の秘密蔵を破壊することはできない。ゆえに「ラ」と名づける。また、「ラ」は、如来が世間に随順して現れ、父母・妻子を持つかのように見せることをも意味する。ゆえに「ラ」と名づける。
「ロ」「ル」「ルー」「ロウ」(LỖ, LƯU, LƯ, LÂU)は、四つの音で四つの意味を表す。すなわち、**仏・法・僧・対法(たいほう)**である。
「対法」とは、世間に随順する行いを指す。たとえば、提婆達多(デーヴァダッタ)が現れて僧を破るように見せ、多様な形や像を化現して、仏が戒を制定する縁とする。このような事象に対して、智慧ある者は驚いたり恐れたりすべきではない。これらはすべて世間に随順する方便の行為であり、ゆえに「ロ」「ル」「ルー」「ロウ」と名づける。
呼吸し、舌を巻き、鼻音をともない、音の長短・高低・抑揚を調えて、言葉によって義を表す。そのすべては舌と歯の作用によって異なるものである。
これらの音と義は、衆生の口業(こうごう)を清浄にすることができる。
衆生の仏性は、文字や言葉によって後から清浄になるのではない。仏性はもともと清浄である。ゆえに、五蘊(ごうん)、六入(ろくにゅう)、十八界(じゅうはっかい)の中にあっても、それらと同一ではない。だからこそ、衆生は皆、帰依すべきなのである。
菩薩たちは、仏性によって衆生を平等に見なし、差別しない。
このため、半字(はんじ)はすべての経典、論書、文章の根本となる。
また、半字の意味はすべて、煩悩の言説の根本である。
満字(まんじ)の意味は、すべての善法の言説の根本である。
たとえば世間において、悪をなす者を「半人(はんにん)」と呼び、修行する者を「満人(まんにん)」と呼ぶのと同じである。すべての経典や論書も半字を根本としている。
もし「如来は正しい解脱である」と言って、半字の範囲に入れるなら、それは正しくない。なぜなら、如来と正解脱は名称(言葉)から離れているからである。
したがって、如来はすべての法に対して妨げも執着もなく、真実の解脱を得ているのである。
文字の意味を正しく理解するとはどういうことか。ある者は、如来がこの世に現れて半字を断ち切ることができると知っているので、これを文字の意味を正しく理解するという。
もし誰かが半字の意味に追随するなら、その者は如来の性を知らないのである。
では、無字の意味とは何か。善くない法を近く修行する者を無字と呼ぶ。また、無字の者は善い法を修行していても、如来が常であり無常であること、常であったり常でなかったりすることを知らず、法や僧、律や非律、経典や非経典、魔の言葉や仏の言葉を知らない。もしそのように明確に区別できなければ、無字の意味に追随するという。
今、我は述べた。無字の意味に追随すること、ならびに半字と満字の意味に従うことはやめ、汝らは半字を離れて満字を巧みに理解すべきである。
カッサパ菩薩は仏に白して言った。「世尊よ、我らは自性の数を巧みに学ぶべきであります。今、私はまさに無上の師に会い、如来の親切な教えを受けました。」
仏はカッサパ菩薩を褒め讃えた。「よいことである、よいことである。正法を好む者はこのように学ぶべきである。」
元のソース:https://thuvienhoasen.org/p16a171/13-pham-van-tu-thu-muoi-ba
ChatGPTによる日本語訳です。
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