このように、私は聞いた。
ある時、世尊はカジャンガラのムッケルヴァナにおられた。
そのとき、バラモンの若者ウッタラ――パサリヤの弟子――は世尊のもとへやって来た。やって来てから、世尊に挨拶し、安否をたずねた後、一方に座した。
世尊は、一方に座っているバラモンの若者ウッタラに言われた:
――「ウッタラよ、バラモンのパサリヤは弟子たちに根の修習について説いているのか?」
――「尊者ゴータマよ、バラモンのパサリヤは弟子たちに根の修習を説いております。」
――「では、ウッタラよ、パサリヤはどのように弟子たちに根の修習を説いているのか?」
――「尊者ゴータマよ、そこでは、目で色を見てはならず、耳で音を聞いてはならない、というのです。このようにして、パサリヤは弟子たちに根の修習を説いております。」
――「もしそうであるならば、ウッタラよ、パサリヤの言葉によれば、盲人は根の修習ができた者となり、聴覚障害者もまた根の修習ができた者となるであろう。ウッタラよ、盲人は目で色を見ず、聴覚障害者は耳で音を聞かないからである。」
このように言われたとき、パサリヤの弟子であるバラモンの若者ウッタラは、恥じ入り、肩をすくめ、顔を伏せ、黙して何も言わなかった。
すると、世尊は彼が沈黙し、恥じ入り、顔を伏せているのを見て、アーナンダ尊者に言われた:
――「アーナンダよ、パサリヤは弟子たちに異なる形で根の修習を説いている。しかし、聖者の戒律においては、無上の根の修習はそのようには説かれない。」
――「世尊よ、今こそその時です。善逝よ、今こそその時です。世尊が聖者の戒律における無上の根の修習をお説きになるべき時です。比丘たちは、世尊の教えを聞いて、それを受け入れましょう。」
――「では、アーナンダよ、よく聞いて、よく考えなさい。今から説こう。」
――「はい、尊き世尊。」
アーナンダ尊者は世尊に答えた。世尊は次のように説かれた:
色(目)に対する修習
「アーナンダよ、聖者の戒律において、無上の根の修習とは何か?
ここにおいて、比丘は、目で色を見たときに、好ましいもの、不快なもの、またはその両方が起こる。彼は次のように智慧をもって知る:
『この好ましいものが私に起こった。不快なものが私に起こった。好ましくも不快でもあるものが私に起こった。これらは起こったものであり、形成された(サンカーラ)ものであるがゆえに粗雑である。しかし、これこそが寂静であり、これこそが最上である。すなわち「捨(ウペッカー)」である。』
それゆえ、起こったものが好ましくあれ、不快であれ、あるいはその両方であれ、すべては(彼の中で)滅し、「捨」が存続する。
アーナンダよ、ちょうど目を持つ者が目を開けたり閉じたりする速さのように、起こった好ましいもの、不快なもの、その両方も、すべて速やかに滅し、「捨」が存続する。
聖者の戒律において、これが目によって知覚される色に対する無上の根の修習と呼ばれる。」
音(耳)に対する修習
「また次に、アーナンダよ、比丘が耳で音を聞いて、好ましいもの、不快なもの、またはその両方が起こる。彼は次のように智慧をもって知る:
『この好ましいものが私に起こった。不快なものが私に起こった。好ましくも不快でもあるものが私に起こった。これらは形成されたものであり粗雑である。しかし、これこそが寂静であり、これこそが最上である。すなわち「捨」である。』
それゆえ、どのようなものが起ころうとも、すべては滅し、「捨」が存続する。
ちょうど力ある者が指をはじく速さと容易さで、すべては速やかに滅し、「捨」が存続する。
聖者の戒律において、これが耳によって知覚される音に対する無上の根の修習と呼ばれる。」
香(鼻)に対する修習
「また次に、アーナンダよ、比丘が鼻で香りを嗅いで、好ましいもの、不快なもの、またはその両方が起こる。彼は次のように智慧をもって知る:
『この好ましいものが私に起こった。不快なものが私に起こった。好ましくも不快でもあるものが私に起こった。これらは形成されたものであり粗雑である。しかし、これこそが寂静であり、これこそが最上である。すなわち「捨」である。』
それゆえ、起こったものが何であれ、すべては滅し、「捨」が存続する。
ちょうど雨のしずくが、わずかに傾いた蓮の葉の上を滑り落ちて留まらないように、速やかに滅し、「捨」が存続する。
聖者の戒律において、これが鼻によって知覚される香りに対する無上の根の修習と呼ばれる。」
味(舌)に対する修習
「また次に、アーナンダよ、比丘が舌で味を味わって、好ましいもの、不快なもの、またはその両方が起こる。彼は次のように智慧をもって知る:
『この好ましいものが私に起こった。不快なものが私に起こった。好ましくも不快でもあるものが私に起こった。これらは形成されたものであり粗雑である。しかし、これこそが寂静であり、これこそが最上である。すなわち「捨」である。』
それゆえ、どのような味が起ころうとも、すべては滅し、「捨」が存続する。
ちょうど力ある者が舌の上の痰を簡単に吐き出せるように、速やかに滅し、「捨」が存続する。
聖者の戒律において、これが舌によって知覚される味に対する無上の根の修習と呼ばれる。」
触(身体)に対する修習
また次に、アーナンダよ、比丘が身体で触れたときに、好ましいものが起こり、不快なものが起こり、また好ましくも不快でもあるものが起こる。彼は次のように智慧をもって知る:
『この好ましいものが私に起こった。不快なものが私に起こった。好ましくも不快でもあるものが私に起こった。これらは形成されたものであり、ゆえに粗雑である。しかし、これこそが寂静であり、これこそが最上である。すなわち「捨」である。』
それゆえ、どのような触覚が起ころうとも、すべては(彼の中で)速やかに滅し、「捨」が存続する。
アーナンダよ、ちょうど熱い鉄の板に一滴の水が落ちると、すぐに蒸発して跡形もなくなるように、好ましいもの、不快なもの、またその両方もまた、速やかに滅し、「捨」が存続する。
聖者の戒律において、これが身体によって知覚される触に対する無上の根の修習と呼ばれるのである。
法(意識)に対する修習
また次に、アーナンダよ、比丘が意によって法(内的対象)を認識し、好ましいものが起こり、不快なものが起こり、また好ましくも不快でもあるものが起こる。彼は次のように智慧をもって知る:
『この好ましいものが私に起こった。不快なものが私に起こった。好ましくも不快でもあるものが私に起こった。これらは形成されたものであり粗雑である。しかし、これこそが寂静であり、これこそが最上である。すなわち「捨」である。』
それゆえ、心に生じたすべての法が――好ましいものであれ、不快なものであれ、あるいはその両方であれ――速やかに滅し、「捨」が存続する。
アーナンダよ、ちょうど熟練した鍛冶屋が溶けた鉄をすばやく冷水に沈めるとき、その熱が瞬時に消え失せるように、心に生じた好ましい・不快な・両者の法もまた、すべて速やかに滅し、「捨」が存続する。
聖者の戒律において、これが意によって知覚される法に対する無上の根の修習と呼ばれるのである。
そしてまた、アーナンダよ、**有学者の道(うがくしゃのみち)**とはいかなるものであろうか?
ここにおいて、アーナンダよ、比丘が目によって色を見て、好ましいものが起こり、不快なものが起こり、また好ましくも不快でもあるものが起こる。好ましいものが起これば、不快なものも起こり、両者が起これば、その比丘は憂い、恥じ、嫌悪を生じる。
耳で音を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わい、身体で触れ、意によって法を認識したときも同様である。彼は、好ましいものが起こり、不快なものが起こり、またその両方が起こるとき、憂い、恥じ、嫌悪を生じる。
このようにして、アーナンダよ、これが有学者の道と呼ばれるものである。
そしてまた、アーナンダよ、いかにして**聖者の、修習された根(しゅうじゅうされたこん)**があるのか?
ここにおいて、アーナンダよ、比丘は目で色を見て、好ましいものが起こり、不快なものが起こり、またその両方が起こる。
もしその比丘が次のような欲を起こすならば:
「願わくば、私は離欲すべきものに対して離欲を生じない想をもって安住したい」
そのとき、彼は離欲を生じない想をもって安住する。
またもし彼が次のように欲を起こすならば:
「願わくば、私は離欲すべきでないものに対しても離欲の想をもって安住したい」
そのとき、彼は離欲の想をもって安住する。
また、次のように欲を起こすならば:
「願わくば、私は離欲すべきものと、離欲すべきでないものの両方に対して離欲を生じない想をもって安住したい」
そのとき、彼は離欲を生じない想をもって安住する。
また、次のように欲を起こすならば:
「願わくば、私は離欲すべきでないものと離欲すべきものの両方に対して離欲の想をもって安住したい」
そのとき、彼は離欲の想をもって安住する。
さらに、もし彼が次のように欲を起こすならば:
「願わくば、私は離欲と非離欲の両者を捨て、捨・正念・正知をもって安住したい」
そのとき、彼は捨・正念・正知をもって安住する。
同様に、アーナンダよ、比丘は耳で音を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わい、身体で触れ、意によって法を認識したとき、好ましいもの、不快なもの、両方が起こる。
そして彼が以下のような欲を起こしたとき:
「離欲すべきものに対して離欲を生じない想をもって安住したい」
「離欲すべきでないものに対して離欲の想をもって安住したい」
「両者に対して離欲を生じない想をもって安住したい」
「両者に対して離欲の想をもって安住したい」
「両方を捨てて、捨・正念・正知をもって安住したい」
その欲が起これば、彼はそのように安住する。
このようにして、アーナンダよ、これが聖者における、修習された諸根である。
このようにして、アーナンダよ、
わたしはすでに、聖者の戒律における無上の根の修習を説き、
有学者の道を説き、
聖者における修習された諸根を説いたのである。
アーナンダよ、ある**道師(導師)**が、その弟子たちのために、慈悲の心から、彼らの幸福を願ってすべきことがあるならば、
それらすべてを、わたしはすでに汝らのために行ったのである。
アーナンダよ、あの樹の下に行きなさい。
あの**空地(くうち)**に行きなさい。
アーナンダよ、瞑想しなさい(禅定に入れ)。
怠惰であってはならない(放逸すべからず)。
そして、後悔することのないようにしなさい。
これは、わたしが汝らに与える**教誡の言葉(きょうかいのことば)**である。
**世尊(せそん)はこのように説かれた。
尊者アーナンダは、世尊の言葉を喜んで受け入れ、信受(しんじゅ)**した。
元のソース:https://www.budsas.org/uni/u-kinh-trungbo/trung152.htm
ChatGPTによる日本語訳です。