(漢訳仏典:第七巻後半より)
仏はカッサパ菩薩に告げられた:
「善き男子よ(ぜんきなんしよ)!何が『四顛倒(してんどう)』であるかを説こう。
“苦(く)でないものを苦だと誤って思うこと”――これが一つの顛倒である。
この『苦でないもの』とは、まさに如来を指す。
如来に対して『苦である』『無常である』『変化する』と思い込むことは、顛倒した見解である。
もし誰かが、如来は無常で変わりゆく存在であると言うならば、それは**非常に重い苦の罪(くのつみ)**を犯すことになる。
また、
「如来はこの身の苦を捨てて涅槃に入ったのは、まるで薪が燃え尽きて火が消えるようなものである」
――このように語るのは、
まさに「苦でないものを苦とみなす」という顛倒であり、
正しくない見解である。
もし「如来は常である」と言えば、それは我執を持つことになり、我執があるがゆえに無量の罪が生じる。だから、「如来は無常である」と言うべきであり、そう言えば私は喜びを感じる。
如来が無常であるということ自体が苦である。すでに苦であるならば、どうして喜びが生じようか。苦の中にあって、それを楽しみと錯覚するゆえに、それを「顛倒(てんどう)」と呼ぶ。
楽しみの中にあって、それを苦と錯覚するのも、また「顛倒」と呼ばれる。楽しみこそが如来であり、苦とは「無常なる如来」である。如来が無常であると言うことは、楽しみの中にあってそれを苦と見る「顛倒」である。
如来は常住であり、それを「楽」と呼ぶ。
もし「如来は常である」と言うならば、なぜ涅槃に入るのか。もし「如来は苦ではない」と言うならば、なぜ身を捨てて入滅するのか。楽の中にあってそれを苦と見るゆえに、それを「顛倒(てんどう)」と呼ぶ。このような誤った思惟を、第一の顛倒と名づける。
「無常を常と思い、常を無常と思う」、これを顛倒という。
無常であるならば、「空(くう)」の法を修しない。空の法を修しないがゆえに、寿命は短い。
もしある人が「空寂の法を修しなくても長寿を得られる」と思うならば、その考えは顛倒である。これが第二の顛倒と名づけられる。
「無我を我と思い、我を無我と思う」、これが顛倒である。
世の人々も「我(が)」があると言い、仏法においても「我」があると言う。
世の人は「我」があると言っても、仏性を知らない。これは無我のところに我があると思うことであり、これを顛倒という。
仏法において「我がある」とは、すなわち仏性を意味する。しかるに、世の人は仏法に無我しかないと言う。これこそ、我のあるところを無我と見るものであり、顛倒である。
「もし仏法が決定的に無我であるから、如来が弟子たちに無我の法を修行させたのだ」と言うならば、その言葉こそが顛倒である。これが第三の顛倒である。
清浄を不浄と思い、不浄を清浄と思う。これを顛倒(てんどう)と名づける。
清浄とは、まさに如来の常住であり、雑食の身ではなく、煩悩の身でもなく、肉の身でもなく、筋や骨に縛られた身でもない。
もし「如来は無常であり、雑食の身であり、肉体の身であり、筋骨に縛られた身である」と言い、さらに「法・僧・解脱もすべて滅尽するものだ」と考えるならば、それは清浄を不浄と見る顛倒した見解である。
不浄を清浄と見ること、これもまた顛倒である。
また、もしある人が「この自分の身体の中には不浄なる法は一つも存在しない。ゆえに不浄が無いからこそ、必ず清浄の境地に入れる」と言い、如来の説かれた「不浄観の修行」を虚妄の説だとするならば――
それもまた顛倒である。これが第四の顛倒と名づけられる。
カッサパ菩薩は仏に申し上げた:「世尊よ、今こそ私は正見を得ました。世尊よ、これまでの私はすべて邪見の者でありました。」
元のソース:https://thuvienhoasen.org/p16a169/11-pham-tu-dao-thu-muoi-mot
ChatGPTによる日本語訳です。
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