(大般涅槃経 巻第三の後半より)
そのとき、世尊は再びカッサパ菩薩に告げられた。
「カッサパよ、今そなたはこの経の名称・章句およびその功徳をよく受持すべきである。もし誰かがこの経の名を聞くならば、その者はもはや四悪趣に生まれることはないであろう。なぜなら、この経は無量無辺の諸仏の修行の所であるからである。今、如来はこの経により得られる功徳について説こうとする。」
カッサパ菩薩が仏に申し上げた。
「世尊よ、この経の名称は何と申しますか? 大菩薩はどのようにしてそれを奉持すべきでしょうか?」
仏はおっしゃった。
「この経の名は『大般涅槃経』である。すべての言葉は、上・中・下のいずれであっても皆すぐれている。その意味は深遠であり、経の文もまたすぐれている。清らかにして純粋、清浄なる梵行を具え、宝蔵の如く金剛の徳を備えて欠けることがない。今、そなたはよく聞くがよい。如来はこれより説こう。」
カッサパよ、「大」とは「常」の意味である。八つの大河がすべて大海に注ぐように、この経もまた、あらゆる煩悩の結び目(結使)や魔の性を調伏し、ついには大般涅槃の境地においてその身命をも捨て去るべきものである。ゆえに「大般涅槃経」と名づけられるのである。
また、医師が一つの秘薬を持っていて、それがすべての薬効を統合するようなものにたとえられる。これと同じく、数多くの深遠かつ奥妙な秘密の法門も、すべて「大般涅槃」に帰する。だからこそ「大般涅槃経」と呼ばれるのである。
また、春の時期に種をまく農夫は、収穫を希望するが、収穫が終わればもはや望みを持たないようなものにたとえられる。
それと同様に、すべての衆生が他の経典を学び修行する時には、何らかの味わいや利益を希望するが、この「大般涅槃経」を聞くことができたならば、それまでの他の経典に対する希望の心はすべて断ち切られるのである。
この大般涅槃は、衆生を三界の有漏の流れから救い出すことができるものである。
カッサパよ、すべての足跡の中で、象の足跡が最もすぐれているように、この経はすべての三昧に関する経典の中で第一である。
また、田を耕すには秋の耕しが最もよいように、多くの経典の中でこの経が最もすぐれているのである。
すべての薬の中で、ダイホ(提胡・đề-hồ)は最上であり、衆生の熱病や精神の乱れを治すことができる。それと同じく、この大般涅槃経は最上である。
また、甘いバターが八つの味をすべて具えているように、この経もまた八つの味を完全に備えている。それら八つとは何か?
一に「常(じょう/thường)」、
二に「恒(ごん/hằng)」、
三に「安(あん/an)」、
四に「清涼(しょうりょう/thanh lương)」、
五に「不老(ふろう/chẳng già)」、
六に「不死(ふし/chẳng chết)」、
七に「無垢(むく/không nhơ)」、
八に「快楽(けらく/khoái lạc)」である。
この八つの味を具えているがゆえに「大般涅槃経」と名づけられるのである。
もし諸々の大菩薩がこの教えに安住するならば、さまざまな場所において涅槃を示現することができる。ゆえにこれを「大般涅槃」と呼ぶのである。
カッサパよ、もし誰かがこの大般涅槃において真に涅槃を得ようと望むならば、このように学ばなければならない。すなわち——
「如来は常住なり。法もまた常住なり。僧もまた常住なり。」
するとカッサパ菩薩が仏に申し上げた。
「世尊よ、如来の功徳はまさに不可思議であります。法と僧の功徳もまた不可思議であります。この大涅槃もまたまさに不可思議でございます。
もしこの経典を修学する者あらば、まさに正しい法門を得ることができ、良医となることができましょう。
しかし、もし未だこの経を学ばない者あらば、その人はまさに智慧の眼を持たず、無明に覆われた盲人と知るべきであります。」
元のソース:https://thuvienhoasen.org/p16a164/06-pham-danh-tu-cong-duc-thu-sau
ChatGPTによる日本語訳です。
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